錦木
宮本百合子
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(一)
京でなうても御はなは咲いた
恋の使の春の小雨が
たよりもて来てそとさゝやけば
花は恥らふてポト笑んだ
京でなうても御はなはさいた。
にわかのあたたかさ、夢から現にかえったように、今更事々しく人の口葉にのぼる花見の宴をはる東の御館と云うのは、この里の東の方を一帯にのこって居るみどりの築土あるのがそれ、東の御館と呼んでも、この人とぼしい山里に対して呼ぶべき西の館もなく、其の名はただ、里の東方に有るからのわけで有る。館の殿と云うのは二十の声をおととしきいたばかりの若人、ともにすむ母君と弟君、二人ながらこの世の中に又とかけがえのない大切な一人きりの方達で有る。有って都合の悪いものと云えば誰でも知る居候、大家のならいこの御館にも男二人女二人のかかり人。
二人の男君は三代前の何とか彼とかの面倒なかかり合から、働くのもつらし、これ幸と一人前の大男が二人までのやっかいもの。
二人の女君は後室の妹君の娘達、二親に分れてからはこの年老いた伯母君を杖より柱よりたよって来て居られるもの、姉君を常盤の君、若やいだ名にもにず、見にくい姿で年は二十ほど、「『誘う水あらば』って云うのはあの方だ」とは口さがない召使のかげ口半分はあう□□□□半分はうそのようなはなしで有る。妹の君は紫の君と云って今年ようやっと十六、もの事のよくわかった、姿のきれいなしっかりした情深い姫君で有る、「瓜を三角にきってもこうはちがいますまいものをネー」かげ口で有る。
「先代をくわしく知るものはないがなんでも都の歌人でござったそうじゃが歌枕とかをさぐりにこのちに御出なさってから、この景色のよさにうち込んで、ここに己の骨を埋めるのだと一人できめて御しまいなされ京からあととりの若君、──今の殿が許婚の姫君と、母君と弟君をつれて御出なされて間もなく先代は御さられ、今の殿が寝殿に御うつりになったと云うはなしでござりまするが」京から来る旅商人などにきかれてこの土地の一番年よりかぶの爺はこうこたえるのがつねで有った。
二人の女君もうとしごろ弟君も、比まれに姿も心も美くしく生い立ったので「よいよめ良いむこなりともさがさねばならず……」あとにのこった若い殿の後見をしながら段々年頃になって行く大切の三人の片はつけずばならず、末の長い弟君にも出来るだけ出世をさせたしと年をとってよけいに苦労性になった後室はそのことばっかりを苦にやんで居る。
「いっそ一思いに三人を京にのぼせようか」
とも思って見られたけれども「久しい間こんなところに暮して居て時にもおくれただろうから若ものに恥かしい思をさせるのも可哀そうだし」と思って心の内では「弟君には彼の紫の君でもめあわせて居候の兄弟には常盤の君と自分の見て置いた若くて、美くしい女房を、そして子でも出来たらこの子を京の身よりにたのんで育ててもらえば」と心にきめて、たるんだような心持で居ながらも、その淋しさを忘れようために花、紅葉、などの宴は、いつも晴々と行って居られるので有る。
祭にも出られず、出仕も出来ない若い男や女房はこの折々をそれにかえて衣服の見せっこ、きりょうのくらべっこ、をしてよろこんで居るので有る。
(二)
片山里に住むとは云え風流ごのみは流石京の公卿、広やかな邸の内、燈台の影のないのはおぼろおぼろの春の夜の月の風情をそこなってはと遠くしりぞけられて居るためで、散りもそめず、さきものこらず、雲かとまがう万朶の桜、下には若草のみどりのしとね、上には紅の花の雲、花の香にようてかすむ月かげは欄干近くその姿をなげる。
一刻千金も高ならぬその有様をまともに見る広間はあけはなされてしきつめられた繧繝べりの上をはすにあやどる女君達の小机帳は常にもまして美くしい。
正坐にかまえて都人の華奢な風を偲ばせて居るのは殿、その下坐に弟君、かかり人までこの宴にもれず、仮面もかぶらずにひかえて居る、それからは年の順、役の順に長年忠義劣りない家の子、家臣の一番上坐に、殿のみどり子の時からつかえて今に尚、この頃めずらかな業物を腰にうちこんで領地の見まわり、年貢のとりたてと心をくばる御主大切に自分の命を忘れて居る老人、さっきまでの苦労を夢のように、しわの深いかおに笑をあふれるほどたたえて成人した殿兄弟をながめて笑つぼに入って居る、この老人もこの席の中では目出つ人の一人で有るが明星の前の太陽のようにまばゆいほど目出つ二人の君が居る、一人は弟君、一人は紫の君で有る。家族の中の男どころか世の中すべての男よりも勝った美くしさとやさしい思をこの胸にたたんで居る弟君は誰もその名親のつけた名を云うものはなくてこの頃噂にたかい物語の主人公の名をそのまま呼んで「光君」、二十を一つ前の花ざかりの年で有る。
殿の左かわには後室北の方、二人の姫、女房達花をきそって並んで居る、いずれも今日をはれときかざって念入りの化粧に額の出たのをかくしたのもあれば頬の赤さをきわ立たせた女も少くなくない。
なまめいたそらだきの末坐になみ居る若人の直衣の袖を掠めると乱れもしない鬢をきにするのも女房達が扇でかおをかくしながら目だけ半分のぞかせては、陰から陰へ、
「マア御らんなさいませ、あの弟君を! マア何と云うネエ、……」
と目引き袖ひきするのもあるのを上からのぞく御月さま、「ても笑止な」と思うで有ろう。数多の女達の中であざみの中の撫子かそれよりもまだ立ちまさって美しく見えて居る紫の君は扇で深くかおをかくして居ながらもその美くしさをしのばする、うなじの白さ、頬の豊けさ、うす紅にすきとおるような耳たぼ、丈にあまる黒かみをなだらかにゆるがせておぼろ月のかげを斜にうけ桜の色の□□を匂わせて居るようすは何と云ったらこの美くしさは云いつくされるかと思われるほどで有る。男達はまぼしいものを見るように曲の多い管絃をはなれた心と目とをこの女君にむけて居た、けれどもまともに見ることは出来なかった。弟君、いくら美くしいと云っても人なみの心地と、若さにその若さをほてる様にドキンドキンと波うつあつい血しおを持って居た。一目見て「得がたい美しい方じゃあないか」若君の心の片いっ方にひそむ何し知れない虫はささやいた。その小さい虫は光君の目に糸をつけて時々紫の君の方にひっぱる、見る毎にそのかがやかしさはますますます、花の精が管絃の声にさそい出されて現れたのではあるまいかそれとも又春の月姫が天下ったのでは? と讚美する口葉の、丁度したののみつからない光君の心は人の世、この世の中にないものにまでそのめでたさをたとえて居たが若い頭の中を一っぱいに占領してはげしい形容詞をもとめて居る、美くしいと云う感情を満足させる事は出来なかった。紫の君の何も思わぬげなおっとりした目を見たせつなに「今に私の人になる人なんだ」
と思った光君の瞳はもえるようにかがやき初めた、その光のあるその目の前には美くしい、可愛い、忘れられない紫の君の姿をやわらかく包んでかげろうがもえて居る。そのかげろうの戦といっしょに光君の心もかるくうれしさにおののいて居る。夢のように、いつの間にか今日の名残の春鶯囀も終って、各々の前には料紙、硯石箱が置かれた、題は「花の宴」
頭を深くたれて考え込むものもあれば色紙の泣きそうな手で遠慮もなくのたらせるものもある。書かれる可は三十一文字だか四文字だか分らないがその勢は目立ったもので有る。若君はあふれた水を流すよりもたやすくそのみちみちた心のたったほんの一寸したところを墨の香をこめてかきながした、やさしい手でこす□□□□色紙を形よくあやなして居る。
〔二行分空白〕
と云う歌を見つめながらうれしい心をしみじみと味わって居た。
後室の披露ははじまった、男君は誰よりも一番女君の歌のよいようにと祈って居た。自ぼれの強い女がこれならと自信をもって居た歌が一も二もなくとりすてられたのをふくれてわきを向いて額がみをやけにゆらがす女もあるし意外のまぐれあたりに相合をくずすものもあるなどいずれもつみのない御笑嬌で有る。この人達の中で月と日とのようなかがやきをもった二人の歌はよまれた。女は男君の歌の一番よいようにと男は紫の君の一番立派に出来るようにとのぞんで居た通り女君、男君の哥は美くしさの目立つと同じほどの力をもって居た。
〔二行分空白〕
と云うやさしい女性らしい哥の句をくりかえしながら人々は二人の仲をいろいろに想像しながら又、この栄の有る二人をねたく思いうらやましく思いながら一寸は賞讚の声を止めなかった。沢山のうたはその出来の順に下枝から段々上枝へとさげられた、一番高い花の梢に若い男がその女君の色紙をそうともちながらほうばいに抱かれてつるすのをうらやましく、あの手の指に身をそえたいと光君は思った、今日の宴も終となった。
人達は舞の手ぶり哥のよみぶりを批評しながらなごりおしげに桜の梢をふりかえりふりかえり女達は沢山かたまって薬玉のようになって細殿の暗い方に消えて行く、一番しんがりの一群の男のささきげんでつみもなく美くしい直衣の袖を胡蝶のように舞の引く手、さす手もあやしげにやがてその影も小さくなった時月の影の一人さまよう階をおりて桜の梢をうっとりと女君の色紙の墨の香に魂をうばわれること小半時、やがて夢さめたようにそのうたをくりかえしながらとつかわくきびすを返す人をと見ればその美くしい姿はまがいもない光君であった。
(三)
「此の間の宴の時に五番目に居た女君は、よく噂に出る紫の君って云う人なのかしら」
くつろいだ様子をして絵巻物を見て居た光君は、はばかるようにおもはゆげに誰にともなく云うと、わきに居た髪の美くしい年まがうけとって、
「エエ、そうでございます、大奥様の御妹子の御子で御両親に御分れなさってからこちらに御出になって居るんでございますよ。今年の始めに雪のある中を御出になりましたのですもの。女達は御いとしいと云ってねー、ほんとうに泣いたのでございますよ。ほんとうにいくら御姉妹が御有りだと云って彼の姉様なんかはまるで何なかたで却って妹様ばかり御苦労なさって居らっしゃるんでございますからねー、空は晴れてもまだ雪の消えなくて空と土面との境はうす紅とうす紫にかすんで、残った雪の銀のようにかがやく月に奥床しいかざりの女車に召して御出になったのでございます。そしてこれから御そばに召えようとする女達一人一人にかずけるものを遊ばして、
『これから又、いろいろ御世話になる事でしょう、二人でね──御気の毒ですけれど、どうぞね──』
とおだやかなうるんだ声でおっしゃったって女達は、
『どうしてあんなに御気が御つきなのでしょう、御姉さまは何もあそばさないのに一人でね──、どうでも私達は姫様によく御つかえしなくてはもったいないわけですワ』
と云ってあちらからついて来た人達ともよく折合て御つかえして居るんでございますよ」
「随分度々、母様などの噂にきいて居るけれ共そんなことは誰も今まで云って居なかった。そいでは随分苦労もして来た人なんだネー」
「エエエエもう、まだようやっと御十六に御なりなんでございますが、御考も御有りになり学問も身にしみてあそばして御いでですから御姉さまより御苦労が多くていらっしゃるんでございますよ。御歌なり、御手なり、音楽なり、御手のものでございますよ。この間中の女君の中で一番かけのない御方でございましょう、そんなことを申しては何でございますが若奥様よりもよっぽど何でございますよ」
女はまじめな熱心な様子ではなしをつづけて、
「ネ、若様、あの方なら貴方様の御方様に遊ばしても御立派でございますよ、御よろしければ……」
からかうように女は云って光君のかおをのぞき込んだ。
「マア、そんな事は云っこなしに御し、困るもの」
小さい声で云ってぽっと頬を赤くした。まわたにくるまって育った処女のように心の中で、
「私の心をしって居るんじゃあないかしら」
と見すかされたような心地がしてその視線をさけるように又巻物の上に目を落した。此の頃光君は、何となく淋しい悲しい心のどこかにすきの有るような心持の日がつづいた。光君は、美くしい色の巻物をしげしげと見ながらしずかに自分の心にきいて見た、「何故こんなに淋しいんだろう、もとと同じに暮して居るのに」
そう思って心の中に住んで居る小さいものにきこうとしてフト何か思いあたったようにそのほほをポッと赤くしてひそんで居るものを見出して居るようにあたりを見まわした。
「ネー若様、この頃貴方様はどうか遊ばしましてすネー。私達にはもうちゃんとわかって居ります。もうちゃんとおっしゃったらようございましょうものをネー」
ほほ笑みながらさっきの女は若い小さいものをいたわるように云う。
「変だって、何にも自分には変な事はないんだけれ共、わかってるって何が分って居るの、おしえて御呉れ」
「御自分の御心に御きき遊ばせ、世の中の若いまだ世間を知らない方なんと云うものは、とっくに人の知って居ることをなおかくそうかくそうと骨折りをしてその骨折がいのないのを今更のようにびっくりするかたが多いもんでございます。貴方さまも其の中の御一人でいらっしゃいましょう」
「そんなことはきっとない、だけれ共ネ……マア好い、もうそんな事は云いっこなしさ」
光君は居たたまれないようにクルクルと巻物を巻いてわざと、机のわきにすわって、思い出したように墨をすって手習をはじめた。女はそうと立って行って光君の肩越しにのぞくとこの間の宴の時に紫の君の詠んだうたを幾通りにも幾通りにも書きながして居たので、何か見出したようにかるくほほ笑んでかげに行ってしまった。こんなにえきれない、うつらうつらとした日を光君は毎日送って居る。
毎日きまった事はちゃんちゃんとして行ってもあとは柱にもたれてボンヤリして居たり何かもうどうしても忘られない事をしいてまぎらそうとするように、涙の出るような声で、歌をうたったり、琴をひいて居たりして段々何となく物思わしげな病んで居るような様子になって、三度のものなどもあんまりはかばかしく進まなくなった。女達はもうすっかり察して居るので、
「御かわいそうにネー、もう皆知って居るんですもの、そうおっしゃりさえすれば大奥様に御相談してどうにでもなるものをネー、又そこが御可愛いいんだけれ共」
「何だか物語りにでも有りそうじゃあありませんか、ネーそして夕方なんか、あの姿でうす暗いなかにうなだれて居らっしゃるところなんかはまるで絵のようです」
なんかと云い合って居る。
「ネー若様、ほんとうに大奥様に申し上げてもよろしいでございましょう、そうすればどうにでもなるんでございますもの」
と乳母はそれに違いないと思ったので云って見たがやっぱり、
「そんなことを幾度くりかえして云って居るんだろう。本人がそうでないって云ったら一番たしかだのに、ネ」
といかにもいやそうに云うのでそれもならずに、どうしたら好かろうと迷って居る。この頃、気分がはっきりしないと云って朝から、被衣をかぶってねていられるので乳母はとうとう大奥様──光君の母上のところに云ってやった。
「私からじかに文なんかをさし上げましてまことに失礼でございますが若様は何だか少し御様子が常と御変りになっていらっしゃります。彼の花の御宴の時からと申し上げましたら大抵御心あたりの御有りあそばす事と存じます。私もいろいろ申し上げて見ましたが何でもないとおっしゃるばかりで……
どうぞ大奥さまから御文でも若様に下さいますように、この頃のうちしめった御天気の中で心配を持ってくらして居ります私の心も御察し下さいまして」
とこんなことを云ってやったんで母君のところから、家中で一番可愛いと云われて居る童が見事な果物にそえて文をもって来た。面倒くさそうによんで見ると、
「乳母のとこからの手紙に貴方の気分がすぐれないようだと云って来ましたが、もし体がわるければ典医を上げても好い──気に入った僧に御いのりをしてもろうてもいいでしょう。若い人にあり勝のことでなやんで居るのなら親身の私だけにおしえて下さってもいいでしょう。出来るだけの事なら力もそえましょうしネエ、どうぞ私にかくしたことをそう沢山持たないようにしてこの老とった私に心配させないで下さい」
と書いてあった。光君は、あんな枯木のようになった、血もなんにも流れていないような母君にどうして私の思って居る事を私の満足するようにすることが出来るはずがないと思いながらそのつやのない墨色を見て居ると、
「御返事をなさらないんでございますか、何とか申し上げましょうか」
ときいて居るのに、
「有難うってネ、云ってお上げ」
と云ったきりでまただまりかえって居たけれ共夜が更けると一緒に段々目がさえてこまったと云って当直の女をあつめていろいろな世間ばなしをさせたり物語りの本をよませてなど居たけれ共中々ねむられそうにもなかった。
いろいろのはなしの末に一番まだ年若なつみのない女が、
「この頃ネー、西の対の紫の君さまのところへ」
と云い出したのを一人の女がおさえつけて、
「ほんとうに紫の君は珍らしい御方でございますことネー」
と云い消そうとして云ったのを光君はすぐきいてしまったのでだまって衣のはじをひっぱって居た手をとめて、
「もう皆に知られてしまったからかくすのはやめにした、だけどいろいろな事を云ったり笑ったりしちゃ私が困ると思って居たんだから」
と云ってよこを向いてしまう。女達は皆目を見合って急に荷散るように笑い出したら光君までまっかなかおをして笑い出してしまった。
「若様、大丈夫でございますよ、そんなこと」
と云ってまだオッホホホホと笑って居る。彼の年まは一番笑いこけながら、
「ネーやっぱり私が目が有ったでございましょう、でもよく今までもちこたえて居らっしゃったこと」
なんかと云ってひやかして居た。光君は気が狂ったように笑ったりふさぎ込んだりして夜を明してしまった。
翌日はまた春に有りがちなしとしと雨が銀線を匂やかな黒土の上におちて居た。落ちた桜の花弁はその雨にポタポタとよごされて居る。
光君は椽に坐って肩まで髪をたれた童達が着物のよごれるのを忘れてこまかい雨の中を散った花びらをひろっては並べならべてはひろって細い絹の五色の糸でこれをつないで環をつくって首にかけたり、かざして見たりして居るのを何も彼も忘れたように見とれて居た。気のきいた子が一番念入りに作ってあげた環を光君は、はなされないように自分の前にならべて置いていろいろのことを書きつけてそれにむすびつけて居た。その中には、
花散ればまぢりて飛びぬ我心 得も忘れ得ぬ君のかたへに
悲しめる心と目とをとぢながら なほうらがなし花の散る中
かなしめばかなしむまゝにくれて行く 春の日長のうらめしきかな
などと細い筆でこまかい紙にかいては白銀のような針でつけて居る姿を女達は、「ほんとうにまるで絵のようです事」と云い合って居た。
灯のついてから西の対の童が、
「貝合せをするからいらっしゃってはいかが兄君も二人の娘も見える筈です」
と云う文をもって来たので早速衣をととのえてよろこびに戦く心をおさえながら母君の部屋の明障子の外から、
「ごめん下さい私です」
と声をかけると声のやさしい女は細目にあけて黛を一寸のぞかせて、
「ようこそ、どうぞ御入りあそばして」
と云ってすぐ几帳を引いてしまった。
「よく来て下さったこと、今に兄君も常盤の君も紫の君も見えるでしょうからね」
とうれしそうに云いながら女に自分の几帳の中に方坐をもって来させてその上にすわらせて一年毎に美くしさのましてかがやかしくなって来る子のかおを見ながらいろいろのはなしの末こんなことを云い出した。
「貴方この頃どうしたの、かくさずと教えて下さいナ、大抵は私だって察して居るんだもの」
「別にどうもいたしません、何を察していらっしゃるの?」
「だからかくして居ると云うんですよ、貴方は思ってる人が有るんでしょう」
「有ったってなくったってそんなこと……いくら貴女が心配して下さっても人の心は思うようになりませんもの」
「だって、そんなに云うのがいやなら、何だけれ共──どうにかなるかと思ったものでネー」
光君は母君の自分をいかにも子供あつかいに何でもかんでも自分で世話しようとするのがいやなような心持になった。
「こんなことで段々私達母子ははなれるんじゃああるまいか」
こんなことも思って見た。
「何でもかんでも母にきかせてよろこんで居られない自分は不幸なのかも知れない」
こんな思いもあとからわき上った。いろいろな思いはわかい柔い心の前をはやてのようにすぎて行く。光君はだまって目をつぶって心をしずめようとして居るところへ兄君が入って来た。
「オヤ、マア、珍らしい方が見える。貴方はこの頃大変風流な御病気だそうだけれ共まだ死んでは割が悪そうですよ」
坐りもしない内からこんなことを云う。
「そんなことをおっしゃるもんじゃあありませんよ、私は何でもなくってもはたでそうきめてしまうんですもの」
幼心な光君はまがおになって云いわけをするとそれを又からかって笑いながらからかって居る。
「貴方の姿が美くしいと云って沢山の女達が思って居ると云うことですネー。私なんかはどうかして思われようとつとめてさえどうしたものかたれも思ってくれない、たまに思ってくれる人が有ると思えば下の下のうずめの命よりなお愛嬌のある人なんかなんだもの、貴方はよっぽどまわりあわせの好い日に生れたに違いないネーそうでしょう」
「まわりあわせが好いんだかわるいんだかわかるんですか、人の思うよう思わせておきましょう」
「大変さとったことだ事、でもさとりをひらいたようでさとれないのが人間の好いところだもの」
こんなことをいい気になってしゃべり立てて居る。
「一体女なんて云うものはいろいろ男に察しのつかないところばかり沢山有ってね」
いきなりとってつけたようにこんなことを云い出す。
「そうでしょうか」
光君は幼子のようにびっくりしたかおをして話をきいて居る。
「だけれども又そこが好いとこかもしれない。やたらにものをかくしたがったり、下らないことに泣いたり笑ったりほんとうに不思議なものだ、貴方はそう思わない?」
「思う思わないって、そんなことがわかるまで女の人につきあったことはないんですもの」
「つきあったことがないって、マア随分うまいことを云っていらっしゃること、あんまりつきあいすぎて何が何やら盲になっちゃった方らしいくせに」
兄君はこんな皮肉を云ってその女のようななでがたをつっつく。
「おやめなさいよ。そんなこと、母様が何と思っていらっしゃるか」
おじたように母の方をぬすみみるようにする。
母君はだまってほほ笑みながら仲の好い兄弟をうれしそうに見て居る。
「ネー母様、ほんとうにそうですネー。云っちゃあ悪いんでしょうか此の人はどこまでもしらっとぼけて居るきなんだから」
「マアマア、そんなに云うのは御やめにしてネ。少しはこのごろの様子でもはなして下さいよ。私年とってからはあんまりほかの人の部屋にもゆかないんでネ」
「また母さんの年よった年とったが初まった。人って云うものは妙なもので死ぬ死ぬと云う人は死なないもんで年とったと自分で云う人は案外年をとらないもんでネー」
兄君は達手にこんなことをしゃべって笑い興じて居たけれ共二人とも別に何とも云いかえしてもくれず只柳のようにうけながして居るので張合がぬけて二人のわきにぴったりとすわりながら同じように美くしい形容をもちながらまるであべこべの心地をもって居る自分達二人の身の上を思って居た。
そこへそとからやさしい声で、
「ごめん下さいませ」
と云って入って来たのは声に似げない姿をした常盤の君で有る。
なさけないほど肉つきの好いかおに泥水のようなほほ笑みをいっぱいにたたえて片ひざをつきながら、
「只今はどうも、わざわざ恐れ入りましてす」
声は前にかわらずやさしいけれ共「その様子では可愛いどころか一寸好いなんかと思う人が有ったら天地がさかさになってしまうだろう」兄君はその美くしい眼にかるい冷笑をうかべながらこんな人のわるいことを思って居た。
常盤の君はわきに居る人をはばかる様子もなく兄君ばかりを相手にしてしゃべっては高笑いして居る。「人もなげな様子をして居る人だ。人にすかれない人にかぎって斯うだから、世の中は不思議だ」まだ年若なくせに光君はもう年よったようにこんな世間なれたようなことを思って居た。まるであくどいにしき絵をおしつけて見せられる様な心持でたまらなくむねが悪くなる。早く紫の君のあのかがやく様な姿が見えれば好いのにとはだれでもが思って居ることで有った。
「紫の君はどうしたんでしょうね。貴方は存じない?」
母上が口をきった。光君は千万の味方を得たようにその方を向いた。
「どうしたんでございましょうね、あんまり御またせ申して居りますこと。ほんとに持って居る自分のねうちよりもよく見せようと思うには仲々手間の入ることでございましょうから」
常盤の君は自分の妹の美くしさをねたんでこんなことを云う。
「それでもやっぱり女なんて云うものは、出来るだけみにくいところはかくした方がよいと思われますネー。どんなにかくしてもかくしきれないほどみにくい人はそりゃ別としてね」
自分の思ってる人をごとごと云われた口惜しさに光君はこんなぶっつけたようなことを云った、女君は自分のことを云われたときがついて一寸むっとしたが又いやな笑がおにかえって、
「何だか私の御蔵に火がつきそうになりましたワホホホホホ」
とっつけ笑いをしてこんなことを云った。
光君の、どっちかと云えば幼心な世間知らずの心には、このとりすましたような女の口ぶりや姿がそのみにくいよりもいやでたまらないのでその本性をあらわしてくるりとうしろむきになって半分ねそべったような形してよっぽど古い、所々虫のくったあとの有る本をよんで居る。
女は、
「御ねむりあそばしたの。御気にさわりましたらどうぞね」
こんなことを云って兄君と又しきりにはなし出す。
そのはなしのところどころにきこえる、
「紫の君」
と云うのに妙に気をひかれて目は本の上に有りながら心はそっぷにとんで居る。話はなんでも紫の君の噂にきまって居る、どんなことを云うかしら、又どんな噂をされるほどの人かと光君の心はあてどもないことにおどる。
「ホホホホ、もう御やめあそばせ。実の親よりあの方のことを案じていらっしゃるかたが有るって云うはなしでございますよ」
「ほんとうに、うっかりして居ましたね。壁に耳有り障子に目あり、油断のならない世の中だのにネハハハハ。でもいいじゃあありませんか、別に悪口を云ったわけではなし、只まるで石か木のような人だと云ったばかりですものネ、そんなにうらまれもしますまいよ」
光君は急に鉾先が自分の方に向ったのでびっくりして今更のように赤い頬をすると急に障子の外から、
「御免あそばして、……紫の君のところから御使にまいりましたが」
まだにごりをおびない澄んだ童の声で有る。やがてとりつぎに女が出た様子で小さい声で何か云いあって居たが、
「それではよろしく御つたえ下さいますように」
と云って童はかえって行った。
やがてとりつぎをした女は皆の前に出て丁寧に手をつかえたままでやさしいこえを出して、
「只今紫の君さまのところから御人でございまして斯う御言つけがございました。
御まねきはまことに有難く、とんでもよりたい心でございますがあやにく少々気分が悪いのでふせっておりますし又ほんの少しではございますが熱が有るようでございますからまことに何でございますが今は失礼致しますから。
斯う云う仰でございました」
と云って首を上げるのを見るとさっき光君の時障子をあけた女で有る。立とうとすると物ずきな兄君は、
「どうもごくろう、よくわかりました。さて御前は大層やさしい声を御もちだが、どこの御生れかな」
わざとこえをかえてしかつめらしくきくと若い女はたまらなそうに笑いこけながら、
「マア殿さまハ、何を仰せあそばすかと思えば、私なんかはもうもうお山のおくのおく、山猿といっしょに産湯をつかったのでございますもの」
割合にはっきりした言葉で返事をする。
「するとその可愛らしい声も山猿の御伝授をうけたと云わるるわけだな。さだめし月のある谷川で叫ばれただろうし日のてる木の枝でもなかれただろうな」
又前と同じ調子で有る。
「さようでございますとも仰のとおりに暮しましたので色はこの通りまっくろかおはこのようにみにくうなったのでございます。もうごめんあそばして」
女は口がるにこんなことを云って几帳のかげに行ってからおされるように笑って居る。光君はそれどころのさわぎではない。つきとばされたような心持でじっと自分の着物のあやを見て居られる。はしゃぎきった兄君は光君の背をポンと一つ叩いて、
「どうなすった? この御人形のような御方、今の女は可愛い声と姿をしながら貴方には悪いしらせをしましたね、御きのどくな」
「でも死んだわけでもなしハハハハハ、マア、御あきらめあそばせ」
なぐさめるように、また馬鹿にするように云う。
光君はだまったまま只頭をふって居る。かおはまっかになって目はうるんで居る。兄君は又そうっと手をはなして女君とかおを見合わして押出したように笑って居る。
「もう来ないときまった人をまって居ても甲斐のないことだから始めようじゃあありませんか」
光君は人が口をきいて居るような心地で云った。
女は今更のようにどよめきたって、居ないと思った女達まで出て来て笑いどよめきながら貝合せをはじめる。光君は他人の手のうごくように夢中で面白味もなくやるのでつづけさまにまける、つづけてまけることはよけい光君の心をいらいらさせるばかりである。女達や兄君は興にのっていつまでもいつまでもつづけて居る。遊びのおわったのはもう灯のついてからよっぽどたってからで有った。
遊びがすんでもまだ光君はどうも居どころがないように思われてしかたがないんで母君の几帳のかげで方坐の上によこになったまま、女の白粉のかおりや、衣ずれの音に夢のように紫の君のことを思って居た、ただ思って居ると云うだけでそれを深く研究するでもなく、自分の心をかいぼうして見るでもなく只思って居るばかりで有った。見た夢をまたくり返して居るような心地で、──
兄君がかえってしまってからは常盤の君はまだ居のこって母君と一生懸命に碁をうって居た。そして几帳のかげの光君に時々声をかけては、
「いらしって御加勢なすって下さいナ、何だか雲行があやしくなってしまいましたもの」
なんかと久しい、なれたつき合いのようにたまに口を交したことほかない光君にしゃべりかける。わきに居る母君等はもうとうとうに目の中に入れてしまって居る。
しいるようないやみな女の様子を一寸でも見たくない光君は幾度声をかけられても身じろぎもしない。自分を孔雀のように美くしい孔雀のようなおごりのある女だと思って居る常盤の君は、
「ほんとうに皆さま私達によくして下さるのに、彼の方ばかりはネーほんとうにどうあそばしたんでしょう」
なんかと母君に云いかける。
「どうしたもんでしょうかね、──このごろそれに何だか考え込んで居るようですからね」
「でも案外なところにほんとうの悪い人がひそんで居るもんでございますもの」
こんないかにも母がそそのかして居るんだろうと云うようなことを云うんで気の小さい母君は居たたまれないような心持になって、
「私は一寸、御めん下さい」
と云って立ってしまわれる。常盤の君は自分のもくろんだことがあたったので気味のわるい笑をのぼせて居る。
几帳のかげの光君はこれをきいていよいよいやみな女だと思ってかおを見たら云ってやることばまで考えて居た。いきなり几帳に手をかけた女は小声ではばかりながら、
「御ゆるし下さいませ、常盤の君の御云いつけでございますから……、御用心あそばせ」
と云いながら几帳をどけてしまった。その前には常盤の君が笑をいっぱいにたたえてすわって居る。
「何と云う人を見下げたことをする人だろう」
と思った光君の心は、男と云う名をきずつけられたような大きな□じをいだかせら□□□男の□□□は光君の口のはたに氷のような冷笑をうかべさせた。そしてとりつけた人形のようにわきを向いたまんまで居る。その様子にほほ笑んでひろげた口をすぼめて妙な目をした女は、
「マア何故そんなによそよそしい風をあそばしますの。同じ屋根の下に暮して居りますものを……どうぞも少し御うちとけなさって下さいな」
あまったるい声で云う。光君は心の中で、
「何か云えば云うほどいやさがますばかりだ」
と思ってなんとも返事もしない。わきを向いたままである。
「ほんとうに、どうぞも少し御うちとけなさっても御そんは御有りになるまいに。私はこうしてたった二人きりになる時をどんなに前から待って居りましたろう」
「…………」
「まだ御だまり……
じゃあ、私が申しましょう。私はね……私はね前から、どうかしてしみじみと御はなしをして私の心を知っていただきたいと思って居りましたの。どうぞ御きき下さいませ」
「そうですか」光君はポツンと落ちたような返事をした。
「ネー、私なんかは両親ともないもんでございますもの、いくら年は大きくなりましてもほんとに心細いことばかりあるんでございますよ。それでね、明けても暮れても思うのはたった一人でもたよりになる人がほしいとねーそればかり思って居りますの。貴方無理だと御思になりますか」
「無理も無理でないも、そんなこと貴方の御勝手ですもの」
「そうではございましても、ネーそれじゃあ不□でなくしておいていただいて、そう思うんでございますの、どうか貴方になんでも私の心の内に有ることをうちあけて御相談出来るかたになっていただきたいとねー。ほんとうに心から御ねがい申すんでございますよ」
「女のかたは女相志が好いでしょう」
「そりゃあ女もようございますが悲しくて涙の出るときにはいっしょに泣いて呉れるばかりでそれについて力づよいことを云ってくれるでもなければ力にもなってくれませんもの」
「もうめんどうくさい前おきはやめて早く中みをお云い下さい」
光君の声は恐ろしいまでにハッキリとキリキリした言葉であった。
「それじゃ申します、私は、──ほんとに御恥しいことですけれ共、貴方を、……御したい申して居りますの」
一寸赤いかおをして女は云いきった。光君はだまって女のかおを今更のように見た。
女はその小さい目に獣のような閃を見せながら、
「私達のような年になってする恋は仲々発しないかわりに命がけだと人は申しますもの」
男さえも云いにくいと思うことをこの女は平気でたった二十ばかりでこんなことを云った。
「向日葵ハ太陽の光ならどんなささいなのにでもその方に向きますが、月のどんなによくてる晩でもうなだれてしおれて居るのが向日葵です」
女は何の意味か分らないんで只だまって光君のかおを見つめて居た。
いきなりおこりの起ったように立った光君は、
「御免下さい」
と云ったまんまその怒と、はずかしさと悲しさの三つの思の乱れにふるえながら東の対にかえってしまった。くらい灯のかげに坐った光君は、
「まるで獣のような女だ! だれがたのまれたってあんな女を、
人を馬鹿にして居る、私は自分の胸の中に保って居る彼の美くしい貴い人まで馬鹿にされたような気がする」
などとげきして居たが心がしずまるとともに、今日の行っても紫の君のこなかったこと又いくら文をやっても錦木をたてても何のかえしさえして呉れない美くしい人のことを思ってかぐわしい香の香にひたりながらふるえるようなさみしさとかなしさに涙をながして居た。くらい灯にそむいて白い頬になみだをながして居る光君の姿は常にもまして美くしいあわれなもので有った。
かゝる夜をなく虫あらば情なき 君も見さめて物思やせん
かなしみのはてに□□しみおぼろげの 死てふ言葉にほゝ笑みぬ我
こんなことを小声に云いながらたえられないように自分の胸をしっかりとだいて香の煙の消えて行く方に心をうばわれて居る。
(四)
此頃の光君の様子はまるで病んで居るようで朝から晩まで被衣をかぶって居られる。どうかして気をまぎらせたいと僧を呼んでお経をよませたり自分でよんだりして居られたけれ共有難い御経の文句も若君の心はなぐさめる事が出来なかった。さっきまでお経をよんで居た声がパッタリ止んでから今までよっぽど立つけれ共身じろぎする様子さえもないので年かさの女はそうとそばにすりよって様子をうかがって居たがやがて衣ずれの音を気にしながら元の座に帰って来ていかにも心配そうにうつむいたままで居るので女達は、
「どんな御様子でした、御寝になってるんでしょうか」と云うと只女は、
「御可哀そうな事です」と云ったきりで涙を流して居る。外の女達も人にかくして思いなやんで居る心根をいじらしがって化粧のはげるのも忘れて居た。ことに久しい間ついて居る女達なぞは、
「ほんとうにあの紫の君は憎い方だ、あの方さえやさしい心を持って居らっしゃれば君様を始めこんな悲しい思をしないものを。あんな美くしい御顔であんな強いお心を持って居らっしゃるとはほんとうに」と悪口を云って居ると、
「そんなに悪く云うものではない、その強い所が彼の人の何よりも尊いところだと私はよろこんで居る。だれかの様な女は私はすきでない」
と思いがけない光君の声がしたので女達は悪いことを云ったと思って穴にでも入りたいような気持になった。それから間もなく光君の泣いて居るらしい気合がするのでさっきの事でよけいに思いがましたのだろうと思って若い女達は「お可哀そうに」と重なり合って泣いて居ると、
「世の中に私ほどはかない事をたよりに生きて居る人はないだろう。私はもうじき死んででも仕舞う」
と云う言葉の末は涙にききとれないほどであった。日の落ちるまで光君は淋しさ、悲しさにたえられないと云うようにして居られたが夜に入ってから只一人うつむき勝に病上りのようにフラフラしながら細殿をあてどもなくさまよって居るといきなり女らしいなまめいた香に頭を上げて見ると光君の躰は目に見えない何物かに引かれて西の対へ来て居た。光君は去りにくい心持になって若しや彼の人の声はしないかしら、童にでも合えばなどとあてどもないことをたよりにしずまった細殿を行ったり来たりして居ると傍の部屋ではしゃいだ女の声で高らかに人の噂をして居るのがハッキリ聞える。
「この間の宴の時に弟君の下に居た方をお知りかえ、何と云う妙な方だったろう」常盤の君の声である。
「誰だって気がついて居りましたでしょう」
「中びらな御かおで」
「お歯がらんぐいで」
「出目で」
「毛がおうすくて」
「お色がくろくて」
と別々な声で云って崩れる様に笑って居る。此の間の晩の事を思い浮べて又今の話をきいて身ぶるいの出るほどいやな心持になった光君はそこをはなれてしずかに更けて行く庭の夜景色を欄干によって見て居られたがさとくなった耳にフト何とも云われなく美くしい琴の音がひびいて来た。かすかにごくかすかに夜の空気の中をふるえてつたわって来るその音。──白金の矢の様に光君の心をいた。光君の足は自と動く。耳をすまして体は少し前かがみ、足をつまさき立ててかるくはかどる。一足──一足、一足毎に近づく音はますますさえる。魂は飛んでもぬけのから、もぬけのからのその体を無形のものは益々誘う。飛んだ魂は、夜闇の中に、音に添うてはパッとはなれ、はなれてはまた添い、共にもつれてクルクルクル見えないところで舞の振事、魂がその音か、その音が魂か、音に巻かれて魂はますますとんで行く。とんでとんでとびぬいてやがてもどった魂をもとにおさめてハッときづけば、無残、しとみ戸はとざされてその中から琴の音、ぞっとするような、うっとりするような、抱えたような、投げたような、海の中に柳が有ったらお月様のかげの中に身をなげてしにたいような、立って動かぬしとみ戸に影うすくよって聞く人は声なくて只阿古屋の小玉が頬に散る。余韻を引いて音はやんだ、人はまだ動かぬ。
(五)
身じまいをしてかがやく様に美くしくなった姿を几帳の陰になつかしいうつり香をただよわせて居るのは此の部屋の主わずか十六の紫の君である。たきしめた白い紙に象牙細工のきゃしゃな手を上品に手習をして居る女君の様子はたとえられない様な美くしさである。まわりに居るものは乳母とその娘と外に四五人みな身ぎれいにして居ながら常盤の君の部屋の女のようにはでな所はみじんなくじみにしっかりした風の見えるのはかよわい女主人をもりたてなくてはと思う心づかいの結果であろう。女達は傍に女君の居るのもかまわずに此の頃の光君の様子等をいろいろと話し合って居る。少しでも云ったら女君の心は動くだろうと思っての事。
「御両親さえおいでになったら今頃は女御でいらっしゃったかも知れないのに御定命とは云えあんまり何でした」と一人の女が云う。乳母の娘は、
「ほんとうに、もう御年頃でもあるし私達が御つき申して居ながら姫様御一人どうすることも出来ないと云っては御亡くなりになった方にも相すまないし、又こんなところのことですから光君を置いては他に似合わしい方もいらっしゃらないし」
と几帳の影を見ながら云うと他の女達もが、
「ほんとうに私達はそればかりが心配で」
と云うあとをひきうけて、
「だれでも思って居る事です、まして先の短い私は命のうちに姫様の御婚礼の式のある様にとどれだけ祈って居るか知れません。何ぼ何と云っても姫様の様ではほんとうに困りますけれ共また常盤の君の様でもネ」
と遠慮のない乳母はあんまりずけずけした事を云うので娘は袖を引いて、
「マアそんな事を云うものではありませんよ。上様(兄君)だって『この方は近頃の女に似合わないかたい心を持っていらっしゃるたのもしい人だ。私の奥さんにしても恥しくない方だ』なんておっしゃったほどですもの誰だって姫様を悪く思ってやしません」
などと云うのを几帳の陰できいて居た姫は馬鹿にされたようないやな気持で居た。それから女達の話は急に変って常盤の君の噂になった。
忍び合って通っていらっしゃるかかりうどの御兄弟が弟君の来て居らっしゃるところへ又兄君が知らないでしのんでおいでになって大騒をしたの何のと面白がって云って居るのをきいて女君は浅間しい事だと悲くて、
「どうぞその話はここだけでよその人に話すような事はしないでお呉、私の恥にもなることだから」
と云ってすすり泣きをして居られるので女達は申しわけのない様に一人立ち二人立ちしてあとには乳母とその娘ばかりが残った。乳母は今の中にと思って女君のそばによって几帳をすっかり立てまわして声をひそめて、
「姫様貴方御考えになりましたか」
と生真面目な様子できく。女君はまぶたがうす紅になって、艷な顔をそむけるようにして、
「幾度云っても同じ事」
と絶え入るように云って扇で顔をかくしてしまわれる。その様子が又なく可愛いので強いことも云えず、ぐちっぽく一つことを二度も三度もくり返してはたから見て居る自分達の心もとなさや、後のためにもなどと久しく話していたが結局は光君によい返事をするようにとすすめるのでだまってきいて居た女君は眉の間に決心の色をひらめかせながら、
「御前は私に心にもない事を筆の先だけで云えと教えるの、御両親は私にそんな事を教えるようにと御前をつけておおきになったのだろうか」
いつにないするどい調子なので乳母はまごつきながらわびる様な声で、
「どうぞ御怒り遊ばないで下さいまし、自分の先が短いので息のある中に御身もきめてしまいたし私どもあんまり心配なのでつい申し上げたのでございますから。そんなに立派な御心とこんなにお美くしい御姿とを御二人に御見せ申す手だてがあったら」
と泣き伏してしまったので紫の君も、
「そんな悲しい事は云わないでお呉れ、私はたよりない身なのだからも少し立ったら、黒い着物でも着ようと思って居るんだから」
と泣きながらも取り乱した風のないのを乳母は又「何と云うけなげな方だろう」と思った。女君は額髪をぬらしたまま被衣をかけて身じろぎもしないでいらっしゃるので乳母は今更のように悪い事をしたと思ってそっと几帳の間から中をのぞいてはホッと吐息をついて居た。日暮方、明障子を細めに小さい手がのぞいてパタリとかるくたおれたもの音にそれと察した。女達は美くしい錦木の主とつれない紫の君の上を思って自分がその人だったらなどと思う女もないではなかった。送られた女君はそれを一目細い目を開いて見ただけで童のおもちゃにと何にも知らない小供の手にゆずられるのであった。
(六)
長い間うつらうつらとして寝て許り居た光君は熱の高い時などにはききとれないような声で、
「紫の君、紫の君」
とうわごとを云うほどなので女達はみんな、
「何の因果のこんなうきめを見るのだろう」
とその声のきこえる毎にうつむいて額髪をぬらして居た。乳母などはその声をきくと一所にふるえた声で、
「何と云う方だろう、何と云う方だろう」
と云って西の対をにらんで居た。熱はなかなか下らないでうわごと許り云って居るので母君は心配して、
「この里の東の海辺の家は大変景色がよいそうだから
そこへ行くようにすすめてお呉れ」
と云ってよこしたので乳母は、
「『この里の東の海辺の家は大変よい景色だそうだから行って見たら』と西の対から云っておよこしになりましたから行って御覧になりませんか」
と云ってすすめると光君は青ざめて凄いまで美くしさのました顔を上げて、
「そんなむごい事は云わないでお呉れ。どうせ死ぬ命ならせめてあの人の居る家で死にたいのだから。私はどんなにそれをのぞんで居るだろう」
と云って目を閉じて涙を流して居るので、
「じょうだんにもそんな事をおっしゃってはいけません。どうぞ貴方の御身御案じ申し上げて居る多数の家の人のためにとお思になっていらっしゃって下さいませ、キット私はあとから彼の方もすすめてあちらの家にあげる様にいたしますから」
と二日も四日もかかってすすめたので、
「それではキットそうしてお呉れ私は行きたくもないところへそれ許りをたのしみにして行くのだ。若し約束が違えば目を開いて二度お前の顔を見ることはないだろう。じょうだんだと思ってきいてお呉れでない」
とさんざん物悲しい事をならべたあげくとうとう行くことに返事されたのでにわかに一所に行く供人をえらんだり何かかにか用意するのに一週間許りは夢のように立っていよいよその日になった。美くしく化粧した光君の姿が車の中に入った時あとにのこる女達は急になさけない気持に、
「お大切に遊ばす様に」
「あんまり御歎きにならない様に」
「ここに残って御身の上を御案じ申しあげて居るものを御忘れなく」
などと云うことばは車のそばに来て見送りをして居る女達の口から出たことである。女達は衣の裾が汚れるのも忘れて立って居る。
「ここに居てなまじ悲しい思いをするよりは」
などと袖で顔を覆うて挨拶もしないでかけ込んでしまう人達もあった。旅をしなれない女達は彼の世にでも行くように思って歌をやったりとったり笑ったり泣いたりして居る。車簾の中からそのそわそわした様子を見て居た光君は自分の事でないように落ついた心持であの家に行ってからの楽しさを思って居た。
「さあもういいでしょう。夜中まで歩かなくてはならない様になると上様の御体にさわりますから」
と徒歩で行く男達は口先では急ぎ立てては居るが自分達許りの都を只の一月でも半年でもはなれると云うのが悲しいようであんまり大きな声は出せなかった。
車の動き出したのは日の高く上った時である。
一番先に徒歩の男、まん中に光君の車、車簾の間から美くしい五衣を蝶のまうように見せた女達の車、衣裳道具をのせた車はそのあとから美くしいしずかな行列であった。路の両かわに立って見て居た里の女達は女達の乗って居る車を見て、
「マア、何と云う御美くしい事だろう。マア、あの衣の色の好い事と云ったら、どんなに美くしい方達が乗っていらっしゃるんだろう」
などと話し合って居る。しずかな足音に交ってかるいやさしい調子の話声がきこえたりゆれる毎に美くしい香を送って来ることなどは京に出たがって居る若い女の心をそそるに十分であった。
供の男がならんで歩いて居る男に、
「ホラ御覧、あの柳のかげに居る女を、今一寸見た時は一寸悪くないと思ったが女の人達の車が通った時衣のはじをのぞいた顔を見たらうんざりしてしまった」
「それは御愁しょうさまなことで、よくねて居る時と、ねばつくものをたべて居る時と自分より背の高い人の背越しに物を見て居る時のかおの好い女はほんとうに好い女だと私の長年の経験ではそう思って間違いはない」
などと下らない事を云って強いて笑って居るような声をきくにつけても自分のまわりにはそんな事を云うことほかしらないもの許りになったのだと急に淋しさが身にしみて来たけれ共景色の好い風情のある住居に気の合った人達許りで住んで紫の君も自分のものとなって朝夕あのかがやく様な美くしい顔を見て彼の人の衣のうつり香に自分の身まで香わして居る時はマアどんなに楽しい事だろう。そんな時には却って淋しいほどのところがいいそうでもあるからなどと夢の様のはかないたのしさを思いながらゆられて居た。
女車の中の人達も、久々で野辺の景色や、里の女達に賞められたりうらやまれたりするので祭りに出た時のような気持になってうれしさにまぎれて居たが段々日影も斜になって来るしあう人もまれになると淋しさが身にしみて高く話して居た声もいつかしめってはばかる人もないのに御互に身をよせ合って何か話し合っては洇ぶ声が車の外まできこえるので男達までのこして来た妻の事などを思い出して足の運びのおそくなるのを年取った旅なれた男がいろいろに世話をやいて力をつけるのであった。光君は始終紫の君の事を思って居るので退屈はしないかわり時々溜息をついたり涙を流したりして居た。目的の町に入った時はもう日の落ちかける時であった。町に入ったと云うのをきいた女達は急に顔をなおしたり着物をととのえたりして今までの事は忘れた様に美くしい声で話し合ってはかるいさざめきを車のそとにもらして居た。男達も同じ事である。夕焼けのかがやきと相まってより以上に美くしく見える女達の衣の色は前よりも一層はげしく賞め言葉を受けた。海辺の家についた時はもうすっかり日が落ちて居た。
(七)
今まで見たこともない様な大きな波の朝夕寄せたり引いたりして居る海辺のわびしい住居に昨日落ついた許りの光君やその他のものは世の中が変った様な別世界に来た様な気持で居る。歌と絵にほか見もしききもしなかった藻塩やく煙も朝夕軒の先に棚引いて居ては歌によむほどなつかしいものでもなかったし毎日藻塩木をひろいに来る海士の女も絵のように脛の白い黒い髪のしなやかな風をしたものは一人もなかった。ここの生活は空想と現実の差をしみじみと人々に思わせるのであった。
さっぱりと美くしく出来ては居てもまだ木の香も新らしくてなつかしい部屋の主のうつり香もなく見覚をつける様にして家の中も歩いて居る位なので若い女達や小さい童などは夜になると各々の部屋に引き込んで呼ばれなければ出ない様にして居た。光君は目の前に海の見える浅い部屋で暮して居た。前栽は自然のままをとったので大きな苔のむした岩や磯馴の面白い形をした松などが入れられて引水も塩水を引き込んであるので泉水の中には水の流れにつり込まれて赤い小さい魚などが出るのを忘れていつまでも居ると、そんな様なかん単の調子で暮して居たけれ共そこに住む人の心はそんなかんたんなものではなかった。一目見た時に、
「マア何と云う淋しい所だろう。私はこんなところに一日も居られないだろう」
と云って居られた光君が一日立つと誰よりも此の家が好きになって女達を集めては、
「アノマアまっさおにはてしなく続いて居る海を御覧、何と云う大きな美くしさだろう。それから此の真白い銀の様な砂を御覧、その間に光って居る赤い貝や青い石をアアほんとうに私はその美くしい貝や石をつないで彼の人の体いっぱいにかざって上げたい。彼の人が早く来れば好い」
などと何かにつけて紫の君の事を云い暮して居た。一日立っても二日立っても女君は来ないのでイライラした光君はわきに居る乳母にいきなり、
「返事は何と云って来た」
と云うと何の事やら分らないでマゴマゴしながら、
「返事、何の返事でございます。お文でもお上げになったのでございますか、私は一向存じませんが」
と云うと斜に座って居た光君はクルリと向きなおってけわしいかおをして、
「私はもう今すぐここを出て山の家に行って仕舞うから好い、すぐ仕度をたのんでおくれ。私はお前にだまされるとは思わなかった」
と云ってジッと顔を見つめて居るので乳母はウッカリ口をきいてはとだまって頭を下げて居たがやがて思いだしたように、
「分りました。年をとったのでついどう忘れをしてしまって。私が来る時にくれぐれもたのんで彼の方の乳母はどんなにもしてよこす様にするからとうけ合ったのでございますからもう二三日したら行らっしゃるに違いありませんですから」
と云うので、
「それなら好いけれ共どうぞ私の心も少しは察してお呉れ。こんなたよりない心をどうせ察しは出来まいけれ共」
などとそれからは乳母を相手にいろいろな悲しい事を云って沈みきって居た。夜になっても寝られなかった光君は当直の女の中で一番若い京の人の母親をもって居てこっちで生れた紅と云う女を呼んで自分はあかりの方に背を向けて真白に人形の様に美くしい女のかおをしげしげと見ながら、
「ネーお前どうぞ私のきくことに返事をしてお呉れナ」
とやさしい声で云われると女はうつむいて少し頬を赤くしながら、
「私に分りますことなら」と云う。光君は、
「それではきく、どうぞ正直に教えてお呉れ、思い上った心強い女を恋して自分のものにしようとつとめる男と、男の命をとるまでに心強い女とお前はどっちが悪いと思う」
と云うのは自分と紫の君の事を云うのだと女にはよく分って居るので何と答えてよいかと思い迷ってだまったまんま袴のひもをいじって居ると光君は涙声で、
「お前は女だから女の味方をして『それは恋する男の方が悪いのだ』と思いながら口には出しかねてだまって居るんじゃあないかい」
女は其れには答えないで、
「私はお察し申して居ります。私は貴方がお悪いとは決して思って居りませんけれども紫の君もお心のたしかなたのもしい方だとこの頃になって余計に思う様になりました」
光君はよろこびにはずんだ様な声で、
「お前もそうお思いかい、どう云うわけで」
「申し上げましょう。けれ共女のあさい考えで若し間違えて居りましたらどうぞ御許し遊ばして。
私は此の頃の姫様方があんまり音なしすぎて何でも云うことを御ききになりすぎるのをいやに思って居ります。それにあの方許りはしっかりときまった御心でいらっしゃいます。御自分には御両親がないから今にも少し立ったら黒い衣でも着ようと思って居らっしゃいますし又、御自分は人の家にかかり人になっていらっしゃる方でございますからその自分のために関係の多い方に苦労をかけたり又、そうたいした後見の方もない自分にかかり合って居らっしゃる方だなどと云わせたりしてはすまないと云う御心なんでございますってよく乳母の人が云って居ることでございます。私はよけい御いとしい、たのもしい方だと思って居ります」
と云うと弟君も大層よろこんで、
「御前は若いからよく私の心も察して呉れる。彼の人の心はたのもしいとは思ってもつれない様子は恨まれる、若しお前が彼の人だったらどうする」
と云うと女は夜目にも分るほど赤いかおをして、
「存じません」
と云ってわきを向いてしまう。
「あんまり下らない事を云って仕舞ったゆるして御呉れ」
と云った光君は心の中で自分よりももっとはかない恋をした人が世の中にまたと有ろうかと思いながら、
「お前は私よりはかない恋をした人の話を知って居るかえ」
ときくと女は口ごもりながら、
「絵の中の人に恋した話や、夢に見た面影の忘れられなかった人などは世の中に多いときいたことがございます」
と云ってそっと若君のかおを見ると淋しい悲しそうな面持で、
「恋する人の心はこんなに悲しいものだろうか。私は紫の君に合うことをよろこびながら恐れて居る」
そう云ったまんま光君は静に目をつぶって居て身動きもしないので女はもうお寝になったのかとそうと立とうとすると、
「もう行ってしまうの、もうねむくなったのかえ」
と思いがけなく若君が云ったので女は中腰になりながら、
「イイエ、左様じゃあございません一寸」
と云ってまた座りなおした。女も光君もだまったままややしばらく立ったが、
「もう行っても好い。そのかわり呼んだら来て御呉れ」
と云うので女は次の間に立った。光君はその夜一晩中イライラした何か強い刺げきを望む様な心持で夜をあかしてしまった。若君には紫の君も立派な御心だし、貴方の御悶えになるのも無理はないと云った女の答がこの上なくうれしく思われて居た。
(八)
家の宝の様に思って居る美くしい人達を送り出した山の手の家では火の消えた様に急にヒッソリして噂はいつも海辺の家に行った人達の上にかかって居た。東の対の光君の部屋では残った女達がひまな体をもてあましたようにいつもより倍も念入りに化粧してあっちに一かたまりこっちに一かたまりと集って海に行った人の噂をして居る。
「私はあの海辺に行った人達がうらやましくて、あんなに美くしい景色のところで美くしい方と一所に暮して居たら、マア、どんなにたのしい事だろうと思うとネ」
髪の短い女が云うと、
「私は行かなくってよかったと思ってますの、なぜって云えば、
『人里には遠く前にははてしなく大海原がつづいて夜になれば松風の音許りになってしまう、風のひどい時は枕元まで浪が来る様で』
とこの間の文にありましたもの」
と云う女はおとなしそうなあんまり小才のききそうもない女である。
ひまな女達はあけくれ人の品定めや化粧のしかたの工夫やらで日を暮して居る。西の対の紫の君の部屋では急に母君のところから「海辺の見はらしのよい家が出来たから少し気散じに行っていらっしゃい」
と云われたので女達は大さわぎをして居る。乳母は女君がいやだと云って大変こまるので、
「ネー、モシ、貴女はどう御思になりますか。私はきっと光君があんまり何なので少しの間ほとぼりをさますようにとお思いになってなのでのことだろうと思いますから御出で遊ばした方がようございますよ」と云ったので、
初めは首を横にふって居た女君もそれではとうなずいたので急に仕度にとりかかっていよいよいつでも出られると云う様にそろったのは四日の後であった。
五日目の日、日柄も好しお天気も定まったからと云うのでいよいよ出ることになった。仰山な別れの言葉などをかわして車に乗った女達は尚残りおしげに時々車簾を上げては段々小さくなって行く館を見て居た、やがてそれも見えなくなった時には急につまみ出された様な気持で誰も話もしないので一人一人違った思を持って居た。しずかなあたりの景色や人の足音にいろいろの思の湧く女君は懐硯を出して三つ折の紙に歌や短い文などを細く書きつけて居た。女達もまねをするように紙を出したり筆をしめしたりして居たけれ共あんまり才のない女達は車のゆれる毎に心が動いてとうていものにならないのであきてしまって筆を持ちながら髪をさわって見たり、思い出した人の名を片っぱしから書きつけなどして居たので女君が、
「どんなのが出来たの、見せて御覧」
と云った時に、
「出来ませんけれ共」
と云いながら紙を出した女はたった一人か二人ほかなかった。
女達はしずかにおだやかな旅をつづけて海辺の家についた。
女君は海辺の家に行ってから二日立つまで弟君の居ることを知らなかった。
部屋も大変はなれて居るし女達もだまって居たのでしずかにして居る女君には一寸もわからなかったのである。
二日目の夕方、女君は縁側に出てしずかな夕暮の空気の中に灰色によせては返して居る波音をいかにもおごそかな心持を以てきいて居られた。段々波の底まで引き込まれる様な重い気分になって早く他界した二親の事から、この頃の事などを思い合わせて段々迫って来る夜の色の様に女房の心には悲しみが迫って来た。ジーッと海を見つめて居ると目にうつる万のものがくもって来た、冷たいものが頬を流れた。女君はたえられない様にうつぷせになってしまわれた。傍の木かげで男君が見て居様などとは夢にも思わなかった姫ははばかる人もなく心のままに悲しむことの出来るのを悲しい中にもよろこんで居られた。まだ木の香の新らしい縁に柳の五重を着て長い美くしい髪をふるわせながら橘の香の中につかって居らっしゃる女君の姿は絵よりも尚多いものであった。始はつつましく声を立てなかった紫の君も心の中にあまる悲しみは口の外に細い細いすすりなきの声となってもれた。わきに見て居る男君はたえられなくなってかくれて居るのも忘れて、
「オオ美くしい、まるで絵の様な、私はその涙を私のためにそそいで下さる様にとどれだけねがって居るかは貴女も知って居らっしゃるだろうに」
とうらめしい様に云いながらそのそばによると、思いがけなく声をかけられしかもそれが光君だと云うことを知った女君はにげるにも逃げられず声を立てるにもたてられず前より以上に深くつっぷしてしまわれる美くしさはなおます許りで夕暮のさびた色の中に五色の光を放つかの様に見えた。男君は女君の大きな衣の下から細工物の様な手をさぐり出してそっとこわれない様にと云うふうに握りながら、
「何故そんなになさるの、私はどんなに貴女のそのかがやく様なかおを扇なしで見たいと思って居たことでしょう、ネ、どうぞこっちを向いて下さい」
女君のすき通る様に白い耳たぼはポーと紅さしてとられた手を放そうともしないで只小さくふるえていらっしゃる様子に光君は、
「どうしたら好いだろう、こんなに可愛い人を」とまで思いながら自分も小さいふるえた声で、
「私は何からさきに云ってよいやらわからない。私はほんとうにもう死んでも好い、貴女のかおを扇なしで見たから、貴女は自分のために命をなげうってまで辛い恋をして居る男を哀れとお思いにならないのエ」
女君は恐れる様に身をふるわせて居る。
「そんなに貴女は私を恐れてそんなにいやがっていらっしゃるの、私はマア──そんな人間になったのだろうか。私は、それだのに、それだのに私はどうしても貴女のことが忘られない、心をこめた錦木も童のおもちゃにされるほどだのに」
「…………」
「何とも云って下さらない、どうぞ何とか云って下さい、『馬鹿者』とでも『おろか物』とでも。私は気が狂いそうだ、私の心はどうしても貴女に通じない、サ、どうぞ何とか云って下さい」
若君の声ははずんで絶々に女君の耳にささやかれる。女君のかおは青ざめてふるえもいつか止まって小鬢の毛一本もゆれて居ない。口は封じられた様にかたくとざされて人形の様になった女君に、気のぼうとなって体の熱さばかりのまして行く男君は尚熱心に云う。
「貴女は知って居らっしゃるでしょう、恋しい人の門に立てる錦木の千束にあまっても女の心が動かない時には男はいつでも苦しい悲しい思をのがれるためにまだ末長い命をちぢめると云うことを。私の立てた錦木はもう千束にとうにあまって居ます、それだのに貴女は、貴女は」
女君の目からは涙が流れた。恐れてでも、若者の心を察してでもなかった。女君の心はこんなことを云われる自分はどこかたりないところがあるからだと云う思でみちみちて居た。涙は口惜しい意味の涙であった。
「涙! 誰への涙何が悲しくって。
貴女は私が貴女の二親のないので馬鹿にした恋を仕掛けて居ると思って居らっしゃるんではないの、そうじゃあないの。私の此の命にかえてまでの恋は貴女にはそんなに思われているのか知ら、そんなにまで下らないものに思われて居るのか知ら、それほどまで」
男君の頬には涙が流れた。
「私はもう何も云いますまい、けれどどうぞこれだけは返事をして下さい。貴女の私にこんなにつれなくするのは御自分の心からなの、それとも人に教えられて、どうぞ教えて下さい」
女君はだまって居る。
「何故返事して下さらない、貴女の心から、それとも」
女君の唇はまだ動かない。
「貴女の心から、それとも教えられて」
若君の心はふるえにふるえおののきにおののいて居る。
「心から」
低いながらもハッキリした声は人形の様な女君の口からもれた。男君の顔の筋肉は一時は非常にきんちょうしそして又ゆるんだ、と同時に、
「貴女の心から心から、貴女の、おお貴女の心から、どうぞどうぞ貴女のその口から死ねと云って下さい、死ねと……云って下さい。私のこの真心はあなたの心の中に皆悪い形に変ってうつって居た、もう二度と貴女に会いますまい、けれ共死んでも貴女を忘れませんよ、死んでも忘れませんよ、それだけは覚えて居て下さい。おお、氷の様な美しさの方、忘られない方、紫の君」
光君のかおは死んだ様に青ざめて息ははずみ声はうわずってあらぬかたを見つめ、もえる様な言葉はふるえる唇からもれる。だまって毛を一つゆるがせなかった女君はソーと立ち上った。一足一足段々遠くなるけれ共、若君はまだよそを見つめて居る。女君の姿はも少しで物かげにかくれようとしたその時急に夢からさめた様に、しなやかにうなだれて行く女君の後姿を見て居たが両手でしっかり胸を抱いて、
「おお、あの姿──」
つっぷしてかたまった様になった男君の姿は、淋しい潮なりと夕暮のつめたい色につつまれながらいつまでもそこを動かなかった。
(九)
その後一日二日と立つにつれて光君の頬のやつれは目立って来た。前の様に苦情も云わず悲しいことも云わないでだまったままでだんだん衰えて行く若君の様子を心配しないものとては家の中に庭の立木位のものであった。
「どう遊ばしたのでしょう又御悪いのか知ら」
「よく伺ってお祈りをしてもらうかお薬を差し上げるかしなくては大変な事になるかも知れませんヨ」
などと云う不安心な言葉はよるとさわると女達の口からもれた、乳母は日に何度となく、
「どうぞおっしゃって下さいませ、私の命にかえてもと思って居る君様がこんなでいらっしゃっては──少しは私の苦労や悲しみをお察し下さいませ」
と涙を流して拝む様にしてたずねても只、
「何ともない、時候の変り目で着衣もうすくなったし、又私のいつもの夏やせだから心配しないで御呉れ」
と云う許りで日許り立って行った。山の手の家から時々来る使はいつも必ず母君と常盤の君の手紙を持って来るのであった。三日目の今日来た男は例の手紙を取り次の女に渡しながら、
「お前さんはここに居る事だから知りなさるまいがこの頃常盤の君はお腹の工合が変でネ、そのこんど生れる嬰児をおっつけられると困るのであの御兄弟もこのごろはいたちの道切りと云うわけなので、おっつける人を今から一生懸命にあさっておいでになると云うことだ、いやはや恐ろしいことだ、桑原桑原」
と云って居るのが部屋が浅いので光君の耳まできこえた。持って来た手紙はいつもの様にいや味たっぷりなものであった。光君はそれをポイとわきになげて再び見ようとは一寸も思われなかった。この間の夕にあの美くしい女君の口から、
「心から」
と云う言葉をきいてから光君は悲しみのあまり驚きのあまり、この頃は魂のぬけた様に何を考えて云おうとしても思は満ち満ちて居ながら順序を立てて言葉に云うことは出来ないほどになってしまった、それで居て、
「心から」
と云った其の声と姿の忘られないのをどんなに若君は悲しがったろう。七日、十日と立つと気の狂う許りにたかぶった神経も段々しずまると一所に前よりもはげしい悲しみが光君をおそって来た。明けても暮れても光君の耳には、「心から心から」とささやかれて居た。或時女達に向ってきいた。
「つらいこの上なく辛い思いをして生きて居るのと死んで仕舞うのとどっちが好いだろう」
女達はお互に顔を見合せながら、
「私は最後に少しでも望みがあれば生きて居りますが、それでなくては死んでしまいます」
と答えた女が多かった。
「誰でもそうだネー、私が今急に死んだらお前達はどうするだろう、お墓の中からのぞいて居たら面白いだろう」
とじょうだんの様に云った光君の言葉をきいた女達は心の中で、こんなにやつれていらっしゃるのだから何とも云われないとたよりなく思いながら、
「そうしたら女達はみんな黒い着物を着て髪を下してしまいますでしょう」
と年かさの女は答えた。
「お前方のなった尼さんは黒い着物の下に赤の小袿をかくして髪を巻き込んでおく位のものだろう。私が死んでしまった時にほんとうの真心から黒い着物を着て呉れる人はこの広い世界に一人も居ないのだ」
そんな事を話した夜から光君は大変熱が上った。うわごとは絶えまなくもれた、その思って居ることを正直に云ううわごとは一言でも半言でも皆紫の君のつれなさを嘆いて居るのであった。乳母は悲しみと怒りにふるえながら、
「まだ彼の人は意地をはっていらっしゃると見える。何と云うにくらしい方だろう、きっと化性のものにちがいない」
とまで罵った。子供の様にたえられない様にすすり泣きをすることもあれば、いかにもうれしげに肩をすぼめて笑うこともある。女達はきっと光君はもうもとの心にはかえるまいと思ってどんなに悲しがっただろう。うわごとを云って熱の高かった日は三日だけであった。四日目に熱はうそのように下って夢からさめた様に青ざめてつかれはてたように乳母によりながら、
「何と云う因果な事だろう、私はあの人に、『心から貴方につれなくする』とまで云われても、私はあの人の事が忘られない。お願だ、どうぞ忘れさせて御呉れ、あの気高い姿とあのかがやく様な顔を」
と云って三つ子の様に乳母の肩にかおをうずめて泣いて居る。乳母はもう胸が一杯になって何と云ってよいやらわけがわからず只その背をさすって、
「お察し申します、お察し申します。私ももう死んでしまいそうに悲しゅうございます」
と一所になって泣いて居る。
「何故私は忘られないのだろう、彼の人はなぜするどい剣で私を殺して呉れないのだろう、何故殺して呉れないのだろう。誰もなぐさめても呉れず、只一人で泣いて悶えて苦しんでそうしてたった一人で死んで行くのが私の運命なんだ」
ひからびた様になった年とった乳母の肩をしっかり抱いて泣いて、身をふるわせて悲しい思をうったえて居る光君の哀れな様子に女達は居たたまれなくなって顔をおさえながら出て行ってしまった。その□もう一度もうわごとを云う様なことはなかったけれ共悲しさはますますひどくなりまさって行く許りであった、かくして居ようと思った乳母も、心配で心配でたまらなくなったのでとうとう山の手の家に知らせた。母君などはもうとっくに紫の君はなびいて居て帰ったらすぐ御婚礼の式が出来るのだろうと思って居たので驚き様は一通りのものではなかった。その日の内に返事が来た、それは何はともあれ早速こっちの家につれて来る様にと云うのであった。乳母は早速男君にかえる様にとすすめた。光君はだまって頭を横に振って居た。乳母は幾度も幾度も口をすくしてすすめると、
「私はどんなことがあってもこの家は動かない。私は死ぬ時にはあそこの此の上なく悲しくこの上なくなさけない思出をのこした椽に臥れて死ぬのだ、私は早くその時の来ることをねがって居る」
これだけ云ったきりあと幾度すすめても幾度さとしても同じであった。乳母はしかたなしにそのことを山の手の家に云ってやった。母君は「それでは気の向いた時に帰る様に」と云って来たので少し安心して光君が自分から帰ろうと云い出す日を待って居た。その月も末になった頃、女君が山の手の家に帰ったと云うのをきいて急に里心のついた光君はその翌日すぐ車を仕たててあわてた様に山の手の家に帰って仕舞われた。一時に美くしい二人の主を失った家は元の様にあけても暮れても戸は占められて留守の老夫婦がその大きな家の主であった。
(十)
山の手の家に帰った光君は気抜けのした様にだまって人に顔を見られるのをいとって居た。たびたび西の対の母君のところから見舞の手紙が来ても見たきりで三度に一度ほか返事はしなかった。紅や乳母以外の人には一言も身の淋しさや悲しさを云わなかった。時々女達には、
「彼の人はどうして居るのだろう、私は心配で仕ようがない」
などと云う位のものであったので女達はもうきっと御あきらめになったのだろう位に云い合って居たけれども中々それどころのさわぎではなかった。光君はどうせ沢山の人に云ったところで自分の満足する様になぐさめて呉れるではなし又それについて身分相当に力をつくして呉れると云うのでもないから甲斐のない事だと思って居られるので、胸ははりさける様になっても乳母だけにほか心の中は打ち合ける事をしなかった。思いに思い考えに考え抜いて我慢の出来ない様になった弟君は、
「どうぞあの人の部屋につれて行ってお呉れ、只あの人の部屋に行った丈で満足するのだから」
と云われたが乳母はどうしたものかと考え込んで一寸には返事をしないで居ると、
「それもいやなのか、御前は思ったよりたよりにならない人だった。私はけっして彼の人を苦しめる様なことはしない、私はあの人を死ぬほど思ってるんじゃないか」
乳母はまだだまって居る。
「お前はまだだまって居るのカエ。私は自分の命のもう長くない事を知って居る、思い出にどうせ死ぬ命ならと望んで居るのにそれさえお前は許して呉れないのか、私は自分の生の母よりも御前をたよりにして居るのに」
光君の目には涙が出て唇はかすかにふるえて居る。
「私はあの方の乳母に対してあの御方の部屋に御つれ申すことは出来ませんが、道導べに柱に赤い糸を結びつけて置きますからそれをたよって御出になれる様にいたして置きましょう」
乳母はようやっと答えた。
「それでは夕方から行こう」
弟君は嬉しそうに目を輝して居る。フックリと形よく肥えていつもさくら色した頬や、若々しく輝く両の瞳が生れつき形の好いかお立ちをたすけてその美くしさは若々しい力のこもったものであったのが、この頃は頬は青くこけて瞳は怪しい曇りを帯びてにごって香う様な鬢の毛許りがますますその色をまして居る、物凄い、さむい様な美くしさである。
光君は、朝夕鏡を見る毎に日ましにつやをます鬢の毛、日ましにこけて行く両の頬を見て淋しい微笑をうかべて居た、その衰えてますます美くしさのました体をかかえて光君はどんなに日影の斜くのを待ちあぐんで居ただろう。ボンヤリと脇息によってあてどもないところを見つめながら小さい吐息をついて自分の不幸な身の上を思って居られた、その様子を見た女達はこんなにお美くしい方をどんな方でもいやにお思いになるはずはないのに彼の方はほんとうに妙な御方と云い合って居た。夕方になった、待ちあぐんだ光君は幾日ぶりかにその身を部屋のそとに見せた。光君は長い廊を角々の柱に結びつけた赤の糸をたよりにたどって行かれた。道しるべの紅の細糸は親切に光君を迷わすことなく紫の君の部屋の前まで導いて来た。その人の部屋の前に立った時、光君は今更の様に胸をとどろかせてぬり骨の美くしい明障子の立った様子を見た、何の音もなくしずかな部屋の中には時々柔い衣ずれの音がきこえたりかるいさざめきがもれたりして居た。白い手はかすかにふるえながら障子に掛った、細目にソーと引いて中をのぞくと美くしい几帳が沢山立ててあってそのわきから美くしい色の衣の端がチラチラとのぞいて居る。光君の心は浦島子が玉手箱を開ける時の様に震えた、彼の衣のどれが彼の人だろう、とすぐに入ってその人のかおを見たい様にも思ったけれ共中はまだ燈火もつかず、人のかおもハッキリ見える明るさである。小胆の光君は思い切って中に身を入れる事は出来なかった。せめて燈火の灯ってからとソーと障子をたてて誰か自分を見ようとして居なかったかとかるい恐を持ちながらその前の階から葉桜のしげる庭へ下りた。夕暮のしめった色は木の葉の間々庭草の間々からわいて種々の思いを持った人の身のまわりを包む、光君は頭を深くたれていかにも考えあまった様にだんだん冷たく暗くなりまさる庭を歩きまわった。いろいろの思はしずかな空気と結び合ってわき出る様に歌になった。その美くしい立派な歌は惜し気もなく光君の口からもれて桜の梢に消えて行く、沢山の歌が空に飛んだ時対いの屋にポッと一つ生絹の障子をぼかして燈火がついた。光君の眼は嬉しさにかがやいた、歌の声を止めて一つ一つふえて行く燈火の光を見つめて居た。自分の目ざす部屋には中々燈火の光が見えなかった。
「マア何と云う察しのない事だろう、私は彼の人の部屋には一番先に燈火の光が見える様にと祈って居るのに彼の可愛ゆらしい童も私の心は知らない」
誰にもはばからず云った一人ごとも歌声と同じように桜の梢に消えた。小供の様に待ち遠しがる光君は目でも瞑って居たら一寸でも早くなった様に感じるかも知れないと、かるく目をつぶってうす墨でぼかした様に立って居る桜の梢に身をよせた。廊を歩るくかるい足音や小さい童の女達にからかわれて高い声を出してかけて行く音などがともすれば流れ出しそうになる光君の涙を止めて居た。時々そうと目を開いて彼の人の部屋の障子を見たけれ共なかなかなつかしい様な燈火のかげは見えなかった、その度に光君の悲しさはまして行った。三度目に目を開いた時美くしい灯かげは障子を美くしくそめて居た、光君は嬉しさに満ち満ちた身をおこして元降りた階を昇った。そして又もとの様にそうっと明障子を引いて見た。沢山の女達は湯殿に行ったと見えて二三人の女が居るらしいなつかしい衣のうつり香と白粉のかおりと衣ずれの音は仄赤い灯の色と交って魂の遠くなる様に光君の身のまわり心のまわりを包んだ、戸をあけた人はまだ思い切って几帳の中に入ることは出来なかった。いきなりサヤサヤと云うかるい衣ずれが耳のきわでひびいた、夢中でつと身を引いた光君は障子をしめてそとに立って居た。
「夜になってから」
光君はそう思って光君は西の対へ自分の部屋に歩をうつした、歩きながら、
「こんなに思って居ながら自分は何故彼の人の部屋に入り込むことが出来ないのだろう」
と不思議にふがいない様に思いながら自分の部屋の戸を開けた。そこには乳母と女達が四五人丸くなって世間話をして居た。いきなり光君が入って来たので女達はきゅうにバっと開いて、
「マアどう遊ばしたのでございますか」
「彼の方はどう遊ばしました」
と云う言葉はつづけ様に女達の口から出た。光君は恥しそうに、
「私は──笑っておくれでない、私は何んだか恐ろしい様で中に入れなかった、夜になってからでも行こう」
と云ってくるりと身をかえして几帳のかげにかくれてしまわれた。
女達は目を見合わせながら、
「まアなんと云う幼心な御方なんでしょう、お可愛いいこと」
などと云い合って居た。夜になった、光君はそうと几帳のかげから出て、
「又行って来る、また只かえって来るかも知れない、私見たいなおく病ものは又とないだろうネー」
などとかるい口振で云って微笑を浮べながら出て行った。後を見送った女達は、
「今日はまア何と云う好い元気で居らっしゃるんでしょう、いつもこんなでいらっしゃるといいんですけれ共ネー」
「ほんとうにですよ、今度いらっしゃって又無情くされていらっしゃると又どんなにお歎きになるかそれを思うと私はたとえ様もないほど悲しいんです」
と乳母などは云って居た。
光君は障子の前に立った。ソーと引いて思いきった様に身を入れて几帳の中へ身を入れた。女君は後向になって机によって何か余念なく書いて居る。手のうごく度に美くしい衣ずれの音のなつかしいうつり香を送る。光君はとどろく胸を幾重もの衣につつんでしのび足に紫の君の後に近づいた。そしてソーとそのすぐうしろに立った、まわりに一人も女が居ない。男君は女君は自分の居るのを知らないのだと思って居た、けれ共からだのすみずみまで鋭い神経の行きわたって居る女君はその高い衣の香と衣ずれの音とで光君の後に居ることは知って居たけれ共、知らないように髪一条もうごかさなかったことは恋に盲いたようになった光君にはわからなかった。光君はソーと女君のわきに座った。女君はまだ下を見たまま手を動かして居る。男君はおちつききった女君の様子におどろきと悲しみを一時に感じながら、
「紫の君、私をお忘れにならないでしょう、どうぞその顔を上げて下さい」
女君の手はまだ動いて目はまだ下を見て居る。
「私はあなたに『心から』とまで云われました。それでもそれでも私は忘られなくて、忘られなくて、しょうこりもなく又来たんです、こりのないいくじのない男だと貴女は思って居らっしゃるでしょう、けれ共、恋する男の因果ですもの」
女君の手はとまって目は油断ないようにかがやいて居る。
「貴女はまただまって居らっしゃる、だれがその美くしい唇を封じた様にしました、誰が貴方、何故そんなに無情なくなさるの。私は今なこうにも涙はかれ悲しもうにも心が乱れて私はもう死ぬばかりになったんです、今、私は死ぬ事をどんなによろこんで居ましょう、私はよろこんでるんです、貴女のために死ぬことを」
涙を一杯ためて心のままを女君に云った光君は恐れる様に机の上に出た女君の手をとろうとした。だまってしずかに人形の様にして居た女君は光君の手をふりはなすと一時に卯の花の栢をスルリとぬいで生絹のまま袴を歩みしだいて唐びつの間をすりぬけて几帳のかげに見えなくなってしまった。取りのこされて気の遠くなった様にその行末を見まもって青ざめてふるえて居る男君はどんなに悲しかったのだろう。
「私の最後の望も絶えた、私の死ぬ時が来た、もう彼の人を再び見る時はないだろう」
主のない文机にぬけがらの様になった体をよせると目の前には白いかみに美くしく手習がされてわきには歌も沢山綴じられて居る、それをじーと見て居た光君の目からは今更の様に涙が止度もなく流れ出した。涙にぬれたかおを白い紙の上にふせて気の遠くなるほど泣いて泣いて泣きぬいた男君は、
「こんなにないても自分の涙の泉はなぜかれてしまわないだろう」と不思議に思われた。
心は段々と落ついて来た。それと一所に泣くよりも強い悲しみが胸をおそって来た。もう涙も出ない、光君の心は悲しみのかたまりになってしまった。
「私はもう二度とこの部屋に来ることはないだろう」
「オオなつかしいこの文机、なつかしいこの衣こう、左様なら、若しお前に心があるならそう云って御呉れ、『私は彼の人のうつり香のする部屋で死にたいけれ共それはどうせゆるして下さるまい。私はこの貴女の残して行った衣を貴女と思って抱いて死ぬ、せめての心やりに』とね。そう云って居たと云って御呉れ、さらば──とこしえに」
若者の姿は障子のそとにきえて机の前の女君の衣もなかった。
(十一)
随分歩いた、随分久しい間歩きつづけた。それでもまだ光君の部屋へはつかない。それに路は大変ひどくて急な坂や、深い淵がある。光君は急な流の水に女君の衣の裾をぬらすまいとし、多く出た木の枝では美くしい衣にほころびを作らない様にして歩いた。大変つかれてもう歩くことが出来ない程に思われた、下は大変にかたい岩であるけれども我慢が出来なくてその岩の上に腰を下ろした。大変につめたいのでビックリするといっしょに光君の心は夢からさめた様にハッキリした、妙だと思ってあたりを見ると深い山でも恐ろしい川辺でもない、自分は西の対の廊に腰を下ろして居る。女君の衣を持って居たのも幻かと見れば夜の中に卯の花の衣は香って居る、これは幻ではなかった。男君の心は乱れてどれがほんとうでどれがまぼろしとも分目がつかなくなってしまった。考えるでもなく涙をこぼすでもなくボンヤリと木の間にチラチラと見える灯の光を見て居た。遠くの方から足音が段々近づいて来る、そしてパタッと光君のわきで止った、そしてそっとすかし見る様にして、
「オヤ、マア、誰かと思ったら貴方だったのか、私はまた物化でもあるかと思った。私はこれから常盤の君の部屋に行くから貴方もおつき合いをなさいよ」
と云う声は兄君である。
「エエ」
気のぬけた様にそっぽを見ながら云う。兄君は傍にしゃがみながら、
「オヤ貴方は女の着物を持って居ますネ。誰の、紫の君んでしょう、だから私は貴方はまわり合せの好い日に生まれた人だと云うんです。たまにはじょうだんも云うものですよ、サ行きましょう」
片手ではしっかり衣をかかえ、片手を兄君に引かれて障子に入った。
「アラお珍らしい方が御そろいで行らっしゃいました、君様光君と御兄様と」
几帳のすぐわきで本を見て居た女がとんきょうな声で云う。
「オヤどうぞお入り遊ばしてとり乱して居りますが御許し遊ばして」
几帳のかげで常盤の君の声がする、沢山の女達は急に鏡を見たり袴の紐を結びなおしたりしてどよめき出す。光君は衣をかかえたまま兄君に手を引かれて女の前に行った。
「ほんとうにようこそ御出で下さいました。あんまり淋しゅうございますから誰方か来て下さればと思って居った所でございます、ほんとうにようこそ」
といかにも嬉しそうにじょさいない口調で云う。
「私の来たのよりこの人の来た方がどれだけ嬉しいのだか知れたものでない」
女は微笑みながら光君の方をチョイチョイ流目に見る。
「貴方は何故そんなにぼんやりして居るの、しっかりなさい」
ぽんと光君の背を叩いて紫の君の衣を指さして女と目を合せて笑う。女は表では快く笑いながら心の中にはヤキモキして大変飛びかかりたいほどである、あんなに自分をきらった人がどうして来たのかとうすきみわるく妙にも思った。女達は三人を取り巻いていろいろの話をしてはしゃいで居る、しばらく話してから兄君は何と思ってか光君を一人のこしてかえってしまわれた。女達は遠慮した様にみんな次の間に立って行ってしまった、加なり広い部屋の几帳の中には立った二人きりになってしまった。
「どう遊ばしましたの、大変ぼんやり遊ばして」
女はお腹の大きくなって形のわるくなりまさったのを恥かしいとも思わない様子でしゃべって居る。
「エエ」
光君はまだぼんやりして居る。
「エエじゃあございませんよ、どう遊ばしたんでしょう」
「…………」
「アラどなたの御めし、お美しいんですこと。どなたのかあてて見ましょうか紫の君の、そうでございましょう」
手を出してその着衣を取ろうとする、光君はだまったまましっかりおさえてはなさない。女はいまいましい様なかおをしてそれから手をはなして、
「貴方、あちらはさぞ面白くっていらっしゃったでございましょう、お二人でネ。私の上げた御手紙なんかはどうなりました事やら」
「面白くて悲しくて情のうございましたよ、貴方の手紙なんかあんな手紙私は見あきてしまった」
「上げない方がよろしゅうございました、貴方は一寸も私の心を察して下さらない」
女はいかにも恨しいと云う様に鼻声で云う。
「私は貴女のなまやさしい手紙を見る毎に身ぶるいが出た。私はチラとききましたよ、貴女のお腹の大きくなった事生れるややさんのおっつけ主をさがして居る事からあの兄弟のいたちの道切りの事までもネ」
いつもにない早口のよそを見ながら云う調子の妙なのに女は妙なかおをしながら、
「アラそんな事はございませんよ、誰が申しました。私は一人で淋しくなきながら貴方の御かえりを待って居りましたのに」
「ほんとにさぞ淋しくかなしかったことでしょう、いたちの道切りをされた時には」
「貴方今日どう遊ばしたんですの、紫の君の着物を御もらいになったのでどうか遊ばしたんでしょう」
「…………」
「私はどんなに貴方を思って居るか、御わかりになりませんの。
ほんとうに私はどれほど貴方を思って居りましょうか、どうぞ哀れとお思いになって下さいませ」
「…………」
「私はあなたのそのまぼしい様にお美くしい御かおを見て身にしみる様に、そのうつり香をかぐ時私は私はマアほんとうに」
女は青筋の沢山出た手で光君の手をとった。光君はだまって手をとられて居たが、いきなり女君をつきとばすようにして立ちあがり、
「よろしく、御腹の赤さんに」
と云って戸のそとに走り出てしまわれた。廊を走って行く足音がどこまでもつづく。
(十二)
フラフラしながら部屋にかえって来た男君は集って居る女達に一言も云わないで、几帳のかげに入ってしまった、身じろぎの音もしない。女達は眉をひそめて、
「どう遊ばしたんでしょう」
「又、何じゃあないんでしょうか」
「妙な御様子ですこと」
などと云い合って居た。乳母は気が気ではなく若しや気でも変になったのではないかと時々いろいろのことをたずねる。
「紫の君はどう遊ばしました」
「また無情くされた」
「又、又でございますかマア何という」
乳母のかおは前にもまして曇った。
「もう私の死ぬのは目の前に迫って居る。私の十八の生命は長くて短かかったネーお前にもいろいろ御世話になった」
話をすれば間違ったことは云わなかった、けれ共夜はすることもなしにボンヤリとおきて坐って居て昼は他わいもなく寝入って居た。そんな日が一週間も綴いた、八日目の日男君はわきに居る女に、
「母君のところから大きな雛を一つかりておいで、女びなを」
せいた調子で云いつける。
女は不思議なかおをして、
「おひな様でございますか、何に遊ばすんでございます」
「何故もって来て呉れないのか、私は死んでしまうから」
こわいきびしい調子で云ったので女は気味をわるがって西の対へ使に行って間もなく美くしいひなを持って来た。女はそれを光君の前に置いて、
「どうあそばします、御手伝いいたしましょう」
「あっちにおいで」
若者はそう云ったまま人形を抱いてつっぷしてしまわれた。女は見かえり勝に几帳のそとに出た。女はそのことを乳母に耳うちをした、乳母の目は急にひかってぬき足をして光君のわきに行って見た。急に身を引いて女達の居るところにかえって来た、乳母はそこになきたおれてしまった。女達は口々に、
「どう遊ばしました」
ときき乳母は涙にむせびながら、
「とんだことになってしまった、光君様はとうとう気が変になっておしまいになった」
漸くこれだけ云った乳母は前よりも甚く泣いて居る、女達はかわるがわるのぞいては泣いて居る。
「マア何という御いとしいことだろう、息もかよわない人形に紫の君の衣をきせて生きて居る人のようにしっかり抱えて何かしきりに云っていらっしゃる」
若い女達はもう自分の気も狂いそうに悲しがって居る。悲しい重い空気はこの美くしい部屋に満ち満ちてしまった、その事はすぐ西の対へも東の対へも知らされた。母君と兄君は目を泣きはらしながらすぐに馳けつけて来た。几帳はどけられて女達は何を云われても返事をするものがない、気のよわい母君はその姿を一目見た許りでそこに気を遠くしてたおれてしまった。兄君は美くしいしかし物狂おしい光君の手を取って、
「浅ましい姿になってしまった、私は貴方自身よりも悲しい思がする。たった一人しかないこの兄のかおが貴方に分るの」
かおをのぞき込んできくと光君は声をふるわせて遠くを見ながら、
「紫の君ほか私にやさしい言葉をかけて呉れる人はない。オヤ紫の君、彼の人がそこに居るじゃあないか、誰がいじめたのだ、そんなによわった様な姿をして居るじゃあないか、どこも痛くないの」
と自分の持って居る人形の手をにぎって肩をやわらかくさすって居る。そのいじらしい様子を男の兄君さえ見て居ることが出来なかった。母君は言葉もかけないですぐ女達にたすけられながら西の対へかえってしまわれた。兄君はしばらく女達にいろいろの意得なんかを云って居られたけれ共、
「出来るだけ早くもとの様になって下さい、私の一人しかない美くしい弟の人よ」
と云ってそのつめたい手をそうとにぎって涙をこぼしながらかえってしまわれた。女達はだれでもこの光君を大切に親切にあつかったけれ共その中でも目立ったのは先の夜に種々のことを問われそれに正しい公平な答をした年若な美くしい女と乳母とであった。物狂わしくなった光君はけっしてらんぼうをするようなことはなかったけれ共あけくれ彼の人の着物を着せた人形を抱いてその人の前に居る時の様に話して笑ったり泣いたりして居られた。女達がどんなに親切にして上げても光君は彼の美くしい年若な女と乳母の云うことほかきかなかった。朝夕の化粧、衣更のことなどは皆二人の手にされて常に物凄い様な美くしさを持って居た。光君は夜昼のけじめなく美くしいことばでかなしいことを口走って居た。
「ア、大変だ誰か早く来てお呉れ、彼の人を誰かがつれて行ってしまう、オヤもう見えなくなった。マア、このしゃれ頭はどうしたのだろう、きっとこの中に彼の人も居るに違いないけれ共、アア私は生きて居られないほど悲しい」
身をもんで人形をしっかり抱いて泣き伏して居られるト急に身をおこして、
「マア何と云ううれしいことだろう、あんなにつれなかった人がまアどうしてこんなにおとなしくやさしくして下さるの。私の生が新らしく又吹き込まれたほど嬉しい、オヤいなくなった、どこへ? 早くさがしておくれ、あああのおおきな川に身を投げようとして居る、ア、もう入ってしまった。あああたしのよろこびは一時の夢であった」
こんな様なことは日に幾度となくくり返されることであった。朝の化粧の時など、光君は自分の髪をかく前に人形のかみをかき、自分のべにをつける先に人形の唇にべにさし指できようにつけてやって自分の胸にしっかり抱いて、
「ア、彼の人の唇のべにが私の胸にうつった、貴女はこんなに音なしく私の云うことをきいて化粧までさして下さる」
そんな事を云いながら髪を梳いて居る若い女の手を取って、
「マア、何と云う美くしい手だろう、この手を私はもうもらってしまった」
こまかくふるえて居る女の手をしっかりにぎって自分の頬にあてたり眺めて見たりするのを女はさからおうともしないでなすままにされて居る。紅は、この美くしくて物狂おしい人を思って居る、光君が紫の君を思って居た位、けれ共主従の関係をふかく頭にきざみ込まれた女は胸のさけそうな苦しさをしのんでかお色にもそぶりにもあらわさないで紫の君との恋の成功するようにとかげながら思って力をそえて居た。恋に敗れた光君は気が狂ってしまった。女は悲しみながらも自分一手でこの美くしい人の世話の出来るのをよろこび、又自分でなくては朝の化粧もしないほどの光君の心を、物狂わしい人の心とは知りながらもこの上なく嬉しく思って居た。人なみ以上の心を持って居る人はその世話のしぶりにも人並以上のところが多かった。年とって世なれた乳母さえもその細く親切に気のつくところ、しずかな様子でよくききわけさせることなどはこの上なく感心して涙を流しては女の手を取ってよろこんで居るのであった。人々の人望はこの女二人の身のまわりに集って光君の話の出る毎に紅のことが賞えられた。
けれ共女は若し光君がなおってしまった時に自分のつくした真心を思い出して呉れるかどうかと云うことが女の心をはなれることのない心配でもありかなしみでもあった。
(十三)
この世の中に効の有ると云われる祈り、まじないは金目をおしまずに行われた。広いむな木を一まわりしてやがて向うの山かげに消えて行くような読経の声や天井裏の年経たいたこの耳をふさいで身ぶるいする魔のものばらいの絃の音、そうしたしめった、重々しい声や音ばかりがこの館にみちてしまった。日に幾人となくみこや僧はその白かべの館を訪う、その度に人々は下にも置かぬようにもてなしてその祈りやねがいの甲斐があろうがなかろうがかえりのひきでものには銀と絹、これも一つは物狂おしい光君への供養(まだ死にはしないが)と母君達が思ったのである。いくら仏の道に入っても物食いでは生きていられぬ人間の僧、まして近頃は生きて居るかてよりも多くかがやくものをのぞむ僧も一人や二人ではない。その引出ものを目的に、もらったあとは野となれ山となれ、仏を金の道具につかって「私は諸国修業の僧でござります。若君の御不吉をききまして親御の御かなしみも察せられ出来るかぎりは仏にもねがって見ようと存じまして」
殊勝げなかおをして人に通じれば、すぐに持仏堂、経をよみながら胸の中では引出ものの胸算よう、思わず気をとられて経文を一回間違いびっくりきづいてせきばらいにごまかしてモニャモニャモニャそれでも傍の人は知らぬかおをして居る。やがて一時間よむところは三十分にちぢめて珠数をつまぐって今更のように仏にいのるのは、
「なにとぞ引出物の沢山ございますように」
と云うことばかりで有る。うやうやしく女のもち出した引出ものを一度はとびかかりたいのをがまんしての辞退、心の中でひっこめるきづかいなしと思ってなのである。こんな犬のような僧も少なくはなかったが、心から、その若君の上をねがったものは必ずしも一人や二人ではなかった。
馬鹿な子ほど可愛い親心、まして心も見めも美くしい我子が急に物狂おしくなったのを見て居る母君の心は却って自分の気が狂いそう、またたく燭の灯にその枯れたようなかおをてらしながら、
「ほんとうにどうしたらよかろう、神さまもわりあいにはまもって下さらず……彼の人もなまじ姿や心が美くしいからそんなかなしいことになったんだろう、──もうまにあわない、何と云ってもなってしまったことだから」
こんなことを母君は云って居た。そばの女達は、「ほんとうにあさましいことになってしまいましてす、まるで私達の園の美くしい花が一夜の嵐にみんな散らされてしまったあとのような心地に──」若い女はかおを赤めながらこんなことを云って居た。
「どうにかしてなおせないかしら、まるで私の気が狂ってしまいそうだ。もうじき五月雨にもなるものを、マア、あのじめじめした雨の降る日に一日中一晩中、魔神の手なぐさみにされて居るように狂うあの人のことをきいたり見たりして居ることを思うと……」
しずんだいんきな声でこんなことを云いながら涙をこぼして居た。女は何も云われないほど気がふさいでしまって居るので皆てんでに溜息をついたりかなしいうたをうたったりして居る、只どうしようどうしようと思うばかりでそれをなおす手段などと云うものは思われないもので有った。
東の対では女達がいくら沢山居ても光君は紅と乳母にほか世話をさせないので只手をあけて淋しいかおをして御経をよんだりいのり文を書いたりして暮して居る。光君はあかりをハッキリさせることはこの頃大変きらいになったので明障子も生絹にかえたので昼中でも部屋の中はうすぐらい、その中に香はめ入るようなかおりを立てて居る。紅の姿や乳母はすっかりおとろえた形になってしまった。やせてつかれた紅はその姿がますます美くしくなった。
「夢の国へ──、夢の国へ、私はあこがれて居るのに」
人形を抱いたまま美しく化粧した光君は云って居る。
「あの衣をしたててそして着せて御上げ、それから髪も結ってネー、マア、あんな可愛い声で笑って居る、うれしいから? 何だか分らないネー、桐の葉がしげって、夏が来て──、うれしい? かなしい? なつかしい方」
わきに居る紅と乳母はソッとかおを見合せた。
「白い鳥がとんで居る、□ラ、ネ、あんな立派に、その背にのって居る私達は、うれしい、まるで、ネエ」
紅はそっと目をふいた。乳母は目をつぶって珠数をつまぐって居る。
光君は手をのばしていきなり紅の手をとった。
「この手と彼の人の手と同じ形をして居る、不思議なもんだこと。あんなきれいなかわいい人もやっぱり人間だと見えて、同じ手をもって居るらしかったけれど、アラ、彼の人が怒り出してしまった。かんにんして下さい、美くしい方。青い雲がながれて、虫がないて、私が笑って、貴方が笑って、人が笑って……、アラアラ、鳥が飛ぶ、私達の心のようにネエ」
手をいきなりはなして、人形をしっかりだいて、コロリとよこになったきり光君はもうねてしまって居る。
「私達も気が違って死んでしまった方がましですワ。ほんとうにこんな御うつくしい御方がネエ、これから先にも、これからあとにも、こんなことは又と有りますまいものを」
紅はそのみやびやかなね姿を見ながら、しずんだ、おっとりした声で云う、目はうるんで居る。
「エエ悪い神の御もちゃになって御しまいになったんです、あんまりねたましいほど御美くしいのがたたって。ネエ、それに違いありません。美くしさを司る神がそのあんまりの美くしさをねたんであんなに御させしたんです。大奥様もそう云っていらっしゃいましたワ。神にねたまれるほどかがやかしい子を生んだ私もわるいのかも知れないとネ」
紅は斯う云いながらしずかに乳のみ子のようにね入って居る光君の上に被衣をきせかけながら云う。ねて居たと思った光君は着せ終ってそうとひこうとする紅の裾をしっかりとにぎってほほ笑みながら、
「つれない人、そんなにしずと、マアしずかにして居て、私はこんなに泣いて居るのに」
なおぎゅっとにぎりながら急に淋しいかおになって、
「私の命は段々と花のしもに合うようにネー貴方も一緒に行って下さる? 美しい国に……、青い波につつまれて……やわらかい若草がもえたって小川の源の杜に赤い鳥が──アアアア悲しい! 何故、アア二人きりで、ネエ」
紅は──若い紅は、あこがれの多いような光君の言葉をものぐるおしい人の言葉とは思えなかった。きをかねるように乳母は、と見るとねに行ったのか影はない、頬をポッと赤くしながら絵の中の人になったようにそこにそうっと座った。ほのぐらい中に二つの白いやさしいかおがういたようにならんで見えて居る。紅はこころの中によし光君はなおったあとに忘られることで有っても一寸でもこの時間の永いことがのぞまれた。
「どうぞこっちを向いてね。せめてやさしい声だけでも、オヤ、アラ、笑ってる、忘れてくれる悲しいことを皆んな──世の中、世の中、何故! 妙なものだ」
紅の手は光君の手の中に小さく、柔らかくふるえて居る。
「若さま、御存じでございますか、私を? 誰だか──」
小さい女らしい声できいた。
「誰だってきくの、私が知らないと思って居るの? 私は知って居るとも、美くしくて私につらくあたる人、思わせぶりな罪な人って云うことを」
「違います、私は、私は、貴方の御召つかいでございますの」
「ホラきれいじゃあない、この着物は、この模様、何だと思う──アアいやだいやだ、どこに行ったらたのしいところがあるの──美くしいほんとうに私は死ぬほど思って居るのにこの人は」
片手で人形をゆすりながらいたいほど紅の手を引く、かおがぶつかるほど近よせて、
「オヤ、アラ、お前はお前は目が三つも有って、アアきっと彼の人を呪って居るんじゃないかしら、そうじゃあない? まあいい、美くしい可愛い、私の死んだ時にネエ、雨が降って花が散って、人は笑ってましょう」
何だか正気のようだと紅は思ってそっとそのかおをのぞいた。目はいつものように上ずって居る、かがやきもなく、只あやしくくもって居る、口元にはさみしいほほ笑みとかなしげなといきがもれる、手はふるえて居る。女は自分の事を云われて居るのかと思えばそうでもなし、そうでないと思えばいつの間にか自分のことを云われて居る、つきとばされたりなでられたりして暮して居るこのごろを、死んでしまいたいと思うほどつらく情なく、又はなれにくいほどのしゅう着をもって居た。紅はこんなことも思って見た。
「若様は正気がなくっていらっしゃる。思いきって、思いきって、思ってるたけを申し上げてしまったって、御なおりになってからは御存じないんだから」
けれ共今までながい間の年月包んでけにもさとらせなかった辛抱を今ここにすっかりぶちまけてしまうことはあんまりあっけなく残念にも思って居た。
気の狂った光君、この人をそうっと思って居る紅、只乳母と云う名のために心配して居るもの、朝から晩までつききりについて居る紅をうらやむ女達、斯うしたいろいろの人達をつつんだ西の対は読経の声と絃の音と溜息の声につつまれて一日一日とたって行くので有った。とうとう悲しみの中に五月雨は来てしまった。じくじくと雨の人々の涙のように降る日も、きまぐれにカラットしたお天気になった時も、光君はうす明りの部屋の中に美くしい日化粧の姿をよこたえたりして、紫の君の人形をしっかりとかかえて美くしいうわことを云いながら只淋しい秋の来るのをまって居るばかりで有った。
(十四)
五月雨が晴れると急に夏めいてようやく北にあるこの館にもむしあつい風は吹くようになった。人々の夏やせはいつもの年よりは、目立って見えた、蝉もないた。日ぐらしも。草むらにほたるは人だまのようにとんで、朝がおは朝早くさいて日の上らない内にしぼんでしまった。こんなことを毎日くりかえしてものうい夏にそぐわぬ力のない日を送って居る内に、もう、桐の葉の一葉又一葉凋落の秋をさとすように落ちはじめた。
「もう秋ですものネー、春の御宴の時からもう冬をこせば一年になりますもの」
人達は今更のようにこんなことを云い合った。
薄の穂に桐の梢に秋は更けた。庭のやり水がかれて白い、洗われた石がみにくく姿をさらして居るのを人達は何か知れないものをさとされるような気がしてそれをじっと見ては居られないようで有った。
「この秋、若君は御なおりなされなければ悲しいことは有るに違いない」
こんなたよりのない、あきらめたようなことばも誰云うとなく口々にのぼった。
「なまじ生きて居て悲しいつらい目に合わせるよりはね」
涙も枯れたようになった母君は救の言葉を見つけたようにこんなことを云って居た。紅や乳母はこのことをきいて、
「一体だれがそんなことを云いだしたんでしょう」
「誰だか知らないけれ共、あんまりじゃありませんかネエ、私達はいじにも御なおし申さなくっては」
怒りながらこんなことを云い合って居た。
どことなくしずんだことさら秋の悲しさの身にしみるような日の夕方、九月はもう二十日になって居た時の夕、紅は乳母にかわってもらって昨夜のてつ夜に疲れた体を几帳のかげにそのまま横えてねるともなし、おきるともなしにかおにかんばしいかおりの額髪をかぶせたまんま居ると、そろっと足音をたてて近よった人はその額がみをよけて横になって居る体を子供をするようにだきおこした。夢と現のさかえに居た人はびっくりして目をあけると、美くしいかおにほのかな紅を染めて自分の体をしっかりかかえて居る。身をひいてどけようとしたけれども、その手をゆるめないでしっかりかかえたまんまで、
「御免、ほんとうに長い間いろいろ世話をやかせて」
声ははっきりとして目はおだやかになって居る。
紅はハッとした。「若しか若しか、今まで変で有ったのは、わざとして居たのではあるまいか」おどろきとよろこびにふるえながら、
「若様、御わかりあそばしますか、御気はたしかでございますか」
「わかりますかって? わかってるとも、美くしくてつれなくて──私は気がたしかときくの? たしかともたしかとも只私はかなしさに、なさけなさに……きれいなところは有るものをネエ」
やっぱり正気にかえったのではなかった。
「ほんとうにネエ、私はまぼしいようなかがやきのある藻の林の中に身をしずめてじっとして居たくなってしまった。そしたら、ネエ、こんな悲しいことや辛いことは有るまいもの」
しみじみと正気の人の云うように云って女をだいたままたおれてしまった。女はあわてて身をもがきながら、
「御はなし下さいませ、御はなしはどんなにでもうかがいましょうから」
おだやかに光君は手をはなした。
「ネ、どうぞ私のことはいつまでも忘れないで御呉れ、ソラ、鳥がとぶ、雲がとぶ、心も──」
光君のいつになくおっとりした口のききぶりや、しみじみとした口つきに紅はもしや何か変ったことはないだろうかとそう思われた。
「忘れはいたしませんとも、死にましても、どんなことがあっても忘れなんかいたしますもんか」
光君はこのことをきいて安心したように立つと、又人形をだいてはなされないようにじっとそれをだきしめたまま、日は暮れてしまった。灯のかげに光君と二人の女は何も云わずに、何かに見込まれたように、またたく灯かげを見つめて居た。
「ネー若し、今日は若様はいつになくしみじみとね、涙の出るようなことばかりおっしゃって御いででしたの、もうほんとうにネー」
「マアそうでしたか、どうなさったんでしょうねエ。ほんとに御なおりになって下されば、私達もほんとうにどんなにうれしいか知れないのにネエ、やっぱり悪い神様がいたずらをなさっていらっしゃるんでしょうよ」
乳母はこんなことをそぷを向きながら云って居る。紅は何となく眠気がさして来た。頭ばかり用って眠る時間の少いために、うつむいたまま形をくずさないでしずかに眠って居る。光君は人形を抱いたままだまって目をつぶって居る。乳母はだまって光君の様子を見つめて居る。
夜は段々更けて行く、いつまで立っても光君は動こうともしない。乳母もいつの間にか眠りたくなった、ついうとうととなってハッと気がついて又首をもたげる、又うとうととなる、又ハッときづく。……
夜明にメッキリ涼しくなった、一番さきに紅はおどろいて目をさました。紅におこされて乳母も、
「有難う、ねまいと思ってもついつかれて居るとほんとうに年甲斐もないことをしてしまって」
乳母は目をさましてから年若な紅におこされたことを大変恥かしいと思ってこんなことを云って髪をかきながら、
「オヤ、いらっしゃいませんよ、若様が。一寸、アラ、大変だ、どうなすったんでしょう」
「エ? 何ですって、若様が──いらっしゃらないんですって?」
「エエ」
「そんなことはないでしょう、だって宵の中にいらっしゃったんですもの」
「ほらごらんなさい、ネ、被衣がぬいであるでしょう。そらもうよっぽど前に御出になったと見えてもうひやっこくなってるんですもの」
「マア、どうしましょう、私が居ねむりをしたばっかりに、ほんとうに相すまないことになってしまって」
「ほんとにネー、どうしましょう。とにかくきいて見ましょう、御きのどくですけれ共ほかのかたの御部屋を、まさか家のそとにはいらっしゃらないでしょうからネー」
「ほんとにそうだといいんですけれ共ネー」
「貴方紫の君さまのところへ、私は大奥様と殿様のところへ行って来ますから、どうぞ」
二人の女は女特有の重い音を立てて右と左に分れて走って行った。
「一寸、どなたかお目ざめでございますか、光君のとこの紅でございます」
うわずった声で大きくよんだので年とった女が、
「オヤ、マアどうなすったんでございます、光君がどうか……?」
「あの若しやここに御邪魔致しては居りませんか、御見えにならないんでございますが──」
「アラ、一寸御待ち下さって──『一寸一寸さっきここの前で何だか悲しいうたをうたっていらっしゃったのは光君だったでしょう』やっぱり。もうずっと前三時ほど前にここの前で細い御声で何か歌を御うたいでございましたが、やがて高い御声で御笑いなさりながらどちらへか御いでになったのでございますよ、マア、それからどちらへ御こしになったかはわかりませんですが」
「そうでございましたか、オオ、どこへいらっしゃったのでございましょう。実はさきほどから一寸二人ともとろりといたしましたらもうどこへか御出になってしまったのでございますもの」
紅は礼を云うのも忘れて東の対にかけもどると、殿も母君も外の人達も御おきになってくらやみの中におどろきとかなしみとにとらわれて立って居る。
「わかりましてす」
紅はたったそれだけ云ったきりで座ってしまって何も云えない。
「どうなすったの、早くおっしゃいよ」
外の女達はすすめるけれ共息ははずむ、自分の罪はせめられる。
「只今紫の君様の御部屋にうかがいましたらもう三時も前にあの御部屋の前で悲しいうたを御うたいでしたが、高笑いを急にあそばしてどこへか行って御しまいあそばしたと云うことで……」
紅はうっつぷしたまんま斯う答えた。
「エ? 紫の君の部屋に行ったって? どうしたんだろう」
母君はふるえた、でもあきらめたような声で云う。人々の頭には雷のように、
「死んでしまった」
と云うことがひらめいた。けれ共各々はなるたけそうでないようにといのって居るけれ共どうしてもそれが思われてならなかった。
いきなり向うの細殿を小供の足音でかけて来るものが有る。うすい着物の上に片っ方だけ袿をひきかけて走ってきた童は、人々のかおを見ると急にポロポロと涙をこぼして幼いもののだれでもがするようにしゃくり上げてどもってばっかり居る。
「どうおしだ、何があるの、云って御呉れ」
殿はやさしい声でその手を背におく。
「申し上げます、わ……わかさまが……彼の奥の池に紫の君様……の……御お、衣がう、ういて居りますと只今申して来たものがございます……」
「エー? 奥の池に──紫の君の衣が……」
殿のかお色はにわかに変って唇はワナワナとふるえて居る。女の人達はもうそのわけを察してもう声を立ててなきくずおれて居る。
「私達の心で思って居て口に出さないで居た結果がとうとう来た。彼の骨をけずるような悲しみはまだ年の若い情のかったあの人にはしのべなかった、だからまずもののわきまえのないように気が狂ったのだ、それでもまだ苦しいつらいことが有ったと見えて永久に苦しみのない静かな水の底に柔い藻に抱かれてしまったのだろう、秋のつめたい水の中も情ない人の世よりはあたたかいと思ったと見える……人なみよりも勝れて美くしい人は命が短いと云う昔からの定規に彼の人ももれなかった」
殿はさとすようにまた人の世の定まった情ない事をさとすように云い終ってそっと目をとじる、耳のそばでは形のないものが、
「来るべき筈の運命ときまって居たことを今更歎くことは、あんまりおろかすぎる事じゃあないか?」
斯う云うようにきこえた。涙は目からポロポロ頬をつたわって落ちる。散った花のように身をなげ出して声をおしまず女達の泣いて居る間に紅一人は目をとじてうつむきもしずそのはっきりしたかおを蝋のように青くなって気を失ったように身うごきもしない。母君はふるえた声で、
「みんな私の心弱いためにね──ほんとうに大変なことになってしまった。そうわかった時に私が口をきいて早くまとめてしまえばよかったものを、ほんとうに……かんにんして御呉れ」
こんなことを云って母君は今更のように涙をながした。
殿は、みどりの髪をながく水底にわだかまらせて、白いかお、白い手をやわらかい娘のような藻はそっと包んでその間を赤い小老蝦はものめずらしそうに外の世界からフイに来たこの美くしい御客様のまわりをまわる。始め体の上にしんなりと被った紫の君の衣は藻のなびきにういてみどりの藻の上をうす紅の衣がただよって居る、その絵のような又とないものあわれな様子を想像しながら、
「美くしい人にふさわしい涙の多いは果ない最後であった、けれ共今更その骸をさらすのはあんまりむごいことで有る。あのままにしていつまでもそのしずかさをさまさないようにしてあげよう」
涙の中に殿はこれ丈考えたけれ共、母君は只泣くばかりでどうにもしようがなかった。只
「ほんとうにすまないことになった、私のために……乳母も紅もあんなに世話をして呉れたのに、どうぞこの生る甲斐のない母をうらんで御呉れ」
こんなことばかり云っていた。
「□業でございましょう、私の御世話をいたしましたのも若様の御なつき下さいましたのも生れる前から神の定めて御置きになったことでございましょう。私は誰も恨むはずの人はございません、只……只私の呪われた運命を思うのでございます……つくづくと……」
紅は斯う云ってはじめて涙をながした。
「御前行ってね、そう云って御呉れ、池は何にもかまって御呉れでない、するようには私自分で行ってするからとね……あんなに美くしくてやさしかった人をどうして……」
殿は泣きじゃくって居る童に云いつけて向うにやらせた。
涙の止まって気の狂いそうになった母君は何も云わず何とも考えることも出来ないで、ぼんやりとしたかおをして、泣きたおれて居る沢山の美くしい衣の色を見て居る。女達のかおは涙に白粉がはげていたいたしく見えている。
「そんなにおなきでない……あんなに美くしい人をなくしてしまったのは皆私達が悪かったばかりなんだから、ネー、そうお思いじゃあないかい。お前達の涙であの美くしい人の色をあせさせるといけないから──どうぞ」
そう云いながら自分も涙にぬれたかおを袖でかくしながら、
「母様、西の御殿にかえっておやすみあそばせ、あとは私がいい様にとりはからいますからネー」
わきに居る女に目くばせして、
「つれて行ってお上げ」
と云ったので、地味な色とはでな色の二つの着物はさびしいなにかの影を追う様に西の御殿へ細殿をつたって行く、西の御殿の女達は夢からさめた様にそのあとにつづいた。光君の部屋に居た女達は今更とりみだした様を気がついたように入ってしまった。あとにはだまってかなしみのためと絶望のために青白いすごいほど美くしくなった紅が、だまって胸を抱く様にして坐って居る。殿も、そのわきに他の女よりも強いかなしみにとらわれて物狂おしい様な紅の様子を、前からの事に引きくらべてよけいかあいそうにおもわれたのでなぐさめるつもりで、
「気をしっかり持って御呉れ、紅、人の命がはかないものだと云う事、人間と云うものは弱いものだと云うことは御前も前から知って御いでだろう……悲しい事つらい事は人を玉にするみがきだと御思い。御前はまだ若いんだもの、末にどんなに楽しいうれしい時もあるんだからネー、私は口ばかりでなく、心から御前の心のかなしさを同情して居る人の一人なんだからネー」
やさしい思いやりのある声でさとして、殿はマーブルのようにかたくしまった女のかおをのぞき込んだ。
「私はあの人の可愛らしい霊がしずかにやすまって居られる様にしなくてはならないのだからネ、私はこれから池に行って見るから……」
悲しい心にさわる事を気づかう様に云う。
「まことに恐入りますが……私もお連れ下さいませ。御心配には及びませんでございます、もう落つきましてすから」
はっきりとした口調で落ついて云ったので殿は少しおどろきながら、
「行きたいのなら御いで……だけれ共私にこれ以上かなしい目にはあわせないで御呉れ」
紅は殿の今いった言葉がその意味以上にようわかった。
「大丈夫でございます」
シャンとした気丈な様子をしてそのあとにつづいて池に降りた。
向う岸にならんで居る木の小さく見えるほどの大きさ、まわりの草は此の頃の時候に思い思いの花を開いてみどり色にすんだ水と木々のみどり、うすき、うす紅とまじって桔梗の紫、女郎花の黄、撫子はこの池の底の人をしのばすようにうす紅にほんのりと、夜露にしっとりとぬれてうつむいて居る。
かおの白い衣の美くしい人達はその中に足元をかくして立った。池の面は人々のかなしみも何にも知らぬがおにしずかにみちて居る。すくい上げられた紫の君の着物はその裾からつゆをしたたらしながらわきの柳の枝にかけられて居る。人達は一まわりズーッと見まわしてから目をつぶった、□□□の口からはかすかな祈りのこえがもれて居る。紅は□にぴったりとすわって、深く人よりも大きなことを祈るように目をねむったまま動かなかった。
「このままにして置いて御呉れ、一寸でもの水をさわがせない様にネ……」
殿はまわりのしずけさをやぶってわきに居る男に云いつけた。
いつまで立ちつくしても思いはつきないと云うように人達は立ちつくして居る。
「もういったらいいでしょう、きりがないから」
去りがたい思いをしのびながら殿は云った。
ことばに二人たち三人立ちして、たいていの人は家に入ったが、紅はまだ坐って居た。殿はこの様子をいぶかって、
「紅は大変かなしんで居て、御らん、あんなにして居る。私はもう去らなければならないけれ共、あとが少し気がかりで居るからものかげから見て居て御呉れ」
わきに居るまだ若い男に云いつけて、しずかに池の方に会しゃくをして家の中に入った。
だまって坐って居た紅は足元もあやういように立ち上った。
「ああなんでももうおしまいになってしまった、……私の望も、よろこびも、たのしみも、命までも……」
しずかにかげのようにあるき出した。物かげの男は池に身を投げはしまいかとそればかりを気にして一足うごくごとに自身も一足ずつうごいて居る。やがて足元を定めて紅はキチンとしまったかおをして家の方にあるき去った。物かげの小男はなんとなくあっけないような心持でそのあとにつづいた。
前にもました、重くるしいかなしい心持は家の中にみなぎって東の対の女達が光君のものために同じような黒い衣物を着て居るのはよけいにいたいたしかった。
その日の晩、東の対の光君の御部屋からと云って童が一つしっかりと封じた文をもって来た。何かといぶかりながら上包をとると、
「私からうちつけに文などをさしあげましてまことに恐入りますが、私の心に同情下さいますなら御開き下さいませ、もしそうでございませんならこのまま御すて下さいませ」
と紅の手でこまかくうす墨でかいてあった。殿は好奇心にかられて中を開いた。細かく長く書いて有る、はじから順々によんで行くとこんなことが書いてあった。
「どうぞ御ゆるし下さいませこんな失礼をいたします事を。私は今までどう云う心持で暮して居ったかと申す事を御はなしいたそうと思いたちましたので……何故と云うわけは御きき下さいませんように。私はどんな身分で今までどんなかなしい事に出合ったかと申すことも御存じでいらっしゃいます。私は……まことに何な事でございますが、光君様を御したい申して居りました。けれ共、私は、その事を表にあらわしてよい事かわるい事かと申すことは、幸父からうけついだ理性ではんだんする事が出来ましてす。それで私達は今まで一寸でもそんな事を気をつけられる事もございませんでしたし又気取られるような事もいたしませんでした。その内光君様が西の対の君さまのところへ御通いあそばす様に御なりになりましてからも、その始っから私は光君の御望の叶わないと申すことは存じて居りましたけれ共、私は自分の心にひきくらべてその御苦しさを御察し申上げて二人の中をどうにでもしてと存じて西の対へもいろいろと云ってやりました。私は気の狂いそうにかなしい中に人よりも一寸でもまさった事をすると申すのがなぐさめで居りました。紫の君さまの御心づよさは光君の御心を狂わせてしまいました、私は自分の貴い玉にきずがついたように感じました。
毎日、毎日、私は自分の命にかえてもと思って御世話申しました。光君はよく私の云う事を御きき下さいまして何でも私の手でなければ御気にめさないほどでございました。それが又どんなにうれしかったでございましょう、光君様の御体が御なおりあそばしたならこんなに御世話申しあげた事も御忘れあそばすだろうと存じますと……それもかなしみの一つでございました。
いつまでたっても光君様は御なおりになりませんでした。春がすぎ夏となって又秋をむかえても、……随分長い久しい間でございましたが、その間、私は幾度か正気のなくっていらっしゃる光君に思ってる事をうちあけて申しあげて仕舞おうかと存じましたが、それもわるい事と思う心がおさえつけてしまって居りました。私は只生れながらに一生光君さまの召使として理性の力で悲しいつらい事をたえて暮して行かなければならないものに定まって居たのだと思いきめて居りました。そしたら、今日、この悲しい、はかない事に出来わしました。私はこれも運命と存じて居ります。私の今まで思って居りました事は光君さまの御かくれと一緒に弔むられてしまった事でございますが、私は思った事がございますので、明らさまに恥かしさをしのんで申しあげます。女としてあまり大胆すぎる事で又あまり露骨すぎて居りましょうけれ共私は今日となって心にわだかまるかくし事のあるのは、と存じましたので……、私は、この愚な女らしくない女を人より以上に御いたわり下さいますのにすがって御心のひろい殿に申しあげたのでございます。どうぞ御ゆるし下さいまして……いつかは御わびをする時もあろうかと存じます」
斯んな風にはっきりと書いてあった。殿はなんとも云うことは出来なかった。今時の女、それにまだ二十にもならない女が大胆に自分の思って居ることを人に告げる、その事も主人の弟を思って居た事を主に告げる、あまり大胆な仕業であるが──
殿は斯う思って迷った、けれ共常からどこか毛色の変った学問の深い考のある女の事だから何か感じた事だろうと思って居た。けれ共最終の、
「いつかは御わびをする事もあろうかと存じます」
と云うのがきにかかってもしかすると書おきででもありぁしないかとさえ思った。けれ共、あの位考のある女が今死んでどう云うわけがあるかと云う事がわかって居るであろうと思って幾分かの安心は持って居た。
其の晩はもとより寝床に入ったものはなかった。外の女達はしずんだかおをして居ながら──又経をくりかえしながら退屈しのぎに時々は低い声でしゃべって居たけれ共、紅一人は持仏の室に入ったきり夜一夜かねをならし、通る細いしおらしい声で経をよんで居た。経の切れ目切れ目にはかすかに啜泣きするらしい様子が女達の心を引きしめてだらしなく居ねぶるものなどは一人もなかった。
夜が明けて各々のかおがはっきり見えるようになると又かなしみも明るみにハッキリかおをだしてきのうの今頃と云う感じがたれの頭にでもあった。化粧もうっすり黒い衣をきなくちゃならないのがまだこの部屋に来てまもない女等は辛いように思われた。早い内に殿も身に喪服を着て、
「どんな様子だい、いくら悲しいと云ってもあんまり力をおとさないでおくれ」
斯う云われると今更のように涙が流れ出して云い合せに女は泣き伏した。
持仏の間の中では相変らず鐘の声と経の声がきこえる。
「誰だいあすこに入って居るのは?」
「紅でございましょう、昨夜は夜中入って居ったのでございます」
と云ったので戸を細目にあけて中に入ると香の香りのもやの様にただよう中に水晶の珠数をつまぐりキチンと坐って経をあげて居る横がおは紅にちがいない、貴いほど、気味のわるいほどひきしまった、すごい美くしい様子で有った。足音はしずかに衣ずれは立てわきに坐ると、殿はおどろいたように「オヤ」と云った。
無理ではない今まで丈にあまって居たかみは思いきりよく根元からきられてそのしとやかななで肩の上に、ぞっくりそろった末をゆるがして居る、そのつや、その香りはもと通り紫とかがやき紫の香りを立てて居るのがしおらしかった。
経は紅の口からまだほとばしって出る、まるでわきに人の居ないように……殿はその姿を絵像を見るような人間ばなれをした気持で見て居た。経の切れ目になった時、紅はつと坐を下って手を支えた。
「昨日はまことに……妙なものを御目にかけまして相すみませんでした、どうぞ御ゆるし下さいまして。御覧の通りになりますのに人にかくした、ことに殿様のようにいろいろ御恩になって居ります御方にかくした事が有ってはと存じましたので……」
ひくいけれども落ついた立派な態度と声でいった。乳母も髪をおろしてしまった。母君もおろしてしまいたいと云って居られる。こんな事を思った殿は、冷い風の吹いて来るような心持で、
「私は、御前のたれよりもまことの心をもって居て呉れたのを有難く思う、今まで有った事、私はその事についてしたお前の行がいかにも立派であったと思う。私は死んだ人にかわって御前のつくして呉れる心地を感謝するのだから──」
紅はだまってきいて居た。
「有難うございます」いかにもさとったようなひややかな声はしばらく立ってからその口をもれた。
紅はこれから乳母と共に別に一むねをもらってそこにほんとうの尼の生活をする事にきまった。光君の部屋は兄君即ち殿の持ち部屋になったけれ共、もとのまま光君の美くしい色の衣は衣桁に几帳も褥子も置いて有ったところに置いたままになって居た。
人達の頭の中からは中々いつまで立ってもこの悲しみはぬけそうにもなかった。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
※(十一)~(十四)は、底本では、縦に並んだ漢数字を、横向きの丸括弧で挟むように組まれています。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年5月12日作成
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