つぼみ
宮本百合子
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処女の死と赤い提灯
まだ二十を二つ越したばかりの若い処女が死んだ、弱い体で長い間肺が悪かっただけその短い生涯も清いものだった。「お気の毒様な──この間はおくさんを今度は御嬢さんを──ほんとうに旦那様も御可哀そうな、さぞ御力おとしでいらっしゃるでしょう」人は皆んなこんな事を云って居る。家の中はそう云う時に有り勝な一種何とも云い様のない寂しさがみちて居るけれ共そのしずかな部屋のまどの外はもう気の狂った様なにぎやかさである。根津さんと白山さまの御祭り、この二つの人気をうきうきさせる事が重なった時に──若い男の頬が酒でうす赤くなり娘の頸が白くなった時にこの処女は死んで行った。冷たい気高い様な様子でねて居る処女の体の囲りにはいろんな下らない、いかにも人間の出しそうな音がみちて居る。部屋のすぐ後には馬鹿ばやしの舞台が立って居る。たるんだブロブロ声で笑いながら紙のあおる音の様なテカテカテカをやって居る男や、万燈をかついで走り廻って居る男やはそんな事は一寸も知らずに──又知って居てもすっかり忘れて狂いまわって居る。家並につるしてある赤い提灯の光、ひっきりなしにつづく下駄の音、笑い声かけ声がしずかな部屋の中におしよせて来るのを、中に居る人達は大変におそれる様に、どうにかしてふせぎたい様な気持でかたくなって頭っからおさえつけられて居る様な気のして居た。まどもしめ、戸もとじ処女の床のまわりには屏風も立ててなるたけその音の入り込まない様にとして居ても目に見えないすき間から入って来る。音や光りは今にもしずかにして居る処女の体をうごかせて目をつぶったまんま浮れ出させやしまいかと思われた。誰の頭の中にも斯うした思は満ちて居た、人達は時々のぞく様にその着物のはじをのぞいて、して置いたまんま一寸も動いて居ないのを見ては小さな溜息をつきながら安心して居た。テカテカテカテカ……処女がうす青い唇をふるわせる音の様に思われた。フラフラゆれまたたいて居る赤い灯、恋を知らずに逝った霊の色の様に見られた。
人間の力ではかり知る事の出来ない何かが目の前におっこちて来るんじゃああるまいかと思われて人達の目は屏風の中を見つめながらふるえて光って居る。いろんな事は段々はげしくすべり込んで来る。赤黄いローソクの灯の上で白い着物の人間が青いかおを半分だけ赤くして狂って居る様子、白粉をぬった娘や若い男の間を音もなくすりぬけすりぬけ歩いて居る青白く光る霊、いくら目をつぶっても話をしても思い出された。人達は気の狂ったあばれ様をするものを引きとめる様にひやりと引しまったかおをして処女の床のわきにいざりよった。意志悪くさわぎはますます沢山すべり込んで来る。処女の体をおさえて居なくっちゃあ安心が出来ないほど不安心になって来た人達はお互に顔を見合わせてはその目の中にうかんで居る何と云っていいか分らないほどの恐ろしそうな苦しそうな色をお互に見あっておどろいて居た。いくつもいくつもの霊はその持主の体からにげ出して動かない処女の頭の上におどって居る。
赤い灯はまたたき、テカテカの音はひびいて──処女の体はかたく死んで居る。
私と彼の人
お互にどんな事があってもまるで知らんぷりをして離れ離れの生活をする事が出来ないと云う事は、私達二人が知って居るばかりでなく囲りの人も知っている。
一年にたった三度しか会わなかったり、一月中毎日毎日行ききして居たり、気まぐれなはたから見ると、かっちまりのないつきあいをして居ながら一度もいやなかおもした事なく、腹を立てた事なく、おだやかに五年の年月は二人の頭の上を走りすぎて行った。
「そんなに長い間会いもしないで…… 忘れてるんだろう」
こんな事を私の母はお互に顔も合わせなければ手紙も出さないで居るのを見て云った。
「私は彼の人をよく知ってますもの……一年や二年顔を見ないったって忘れちまう様な──すれちがった気持になる様な人ならもうとっくにさようならをしてます」
不安心もなく何と云われても斯う云い切る事の出来るほど私は彼の人を信じて居るし又彼の人も私と同じ位──又より以上に信じて居て呉れると云う事を私は知って居た。
伯父さんは絵書きで──自分でも絵や、本や、文学のすきなあの人は、口ぐせの様に、「私がするんなら、役者か、絵かきか文学者になるんだ」と云って居た。私はどれに御なんなさいとも云わなかったし、又おきめなさいとも云わなかった。
そして、私の方はいつもの気まぐれで去年の暮ごろから一寸も会う時がなかった。
三月頃に一寸電話をかけてよこして「この頃、私大事業を起したんだから」なんて云って居たっきり、別に私も気にかけなかったし、自分の用事がたまって居たんで苦しい事をして会おうとは思って居なかった。
それから、時々、美術学校へ行く伯父さんに会ったりして、ただたっしゃで居ると云う事だけは知って居た。
こないだ、雨の降る日に茶色のたまらなく私のすきな壺を借りて来ようと思って行った時に「今どこに居らっしゃるんでしょう」ってきいたら、
「神戸に行ってるんです。貴方にだまって行くって気にしてましたっけが急で用事ばっかり沢山あったんで自分でも思う様に出あるけなかったもんですから……」
こんな返事をした。
帰ってからも丈夫でさえ居るんならどこに居たってかまわないとは思うけれ共何となく不安心なあの人の身の上に変った事が起ったんじゃああるまいかと思われた、思い出すとやたらに気になって翌日も翌日も幾日頃帰りますって伯父さんのところへききに行った。そのたんび私ははっきりしない返事に業をにやしては帰って来た。私の心の中には彼の人の事がいっぱいになってしまった。いつもの癖だとは思っても、どうしてもまぎらす事が出来なかった。
それでも学校にはたしかに行って居た。二十二日の日に四時頃私は黒い包を抱いて縞の着物を着て学校の前から電車にのった。
こんで居たんで私は一番車掌台のそばにおっこちそうになってのって居た。人と人との袂の間からのぞいて居る、女の手が妙に私の目を引っぱる力をもって居た。うす青の傘の柄を小指だけ一本ぴょんとはなして居る形がどうしてもあの人らしい。わり合に色が黒くって指の先の一寸内に曲ったところなんかが間違いなくそうらしく思われた。一寸も動かない片手では何かにぎって居るらしい。私は今の袂の下から首を出した。──そうだ──私は、そうっとかくれる様にすりぬけてあの人の目の前に立った。「マア、……」一寸腰をうかせて長い袂をひざの上に組みなおして左の手にもって居た巻いたものをもちなおした。
「ほんとにしばらく、──いつあっちからかえっていらっしゃった、……」
「おととい、……思いがけなかった事ほんとに、これから東片町に行くから一緒にネ、そこまで……」
ほっぺたを赤くして彼の人は云った。
「今どこにいらっしゃるの、林町と東片町には居ないって云ってらしてたから、……」
「あとで……晩に上りましょう」
「晩まで御楽しみにして置いて……」
それから、私達は、だれでも、あいたいと思ってる人にフイに思いがけない様な時に会った時にする様な、あとでキットくやしくなるとりとめもない話をして笑いながら牛肉屋の角で分れてそれから私は走る様にして家に帰った。マアほんとうに夜になるのが待ち遠しかった事、私は、夕飯をしまうとすぐ門のところへ出て丈の高いあの人の姿の夕やみの中にうくのをまちあぐんで居た。長い矢がすりの袂をヒラヒラさせてしなやかな足つきをしてあの人は私の目の前に立った。二人は、笑いながら敷石をかたかた云わせて私の部屋に入った。先にあの人がここに来た時よりもって居る私の本は倍ほどにふえて居た。
「マア、随分、あつめた事、……私なんかこの頃いそがしい思をしてばっかり居るんだから……」
こんな事をあの人は云ってこの頃少しふとった肩を両手でおさえた。
「御楽しみを早く教えて──」
「云いましょうか、でも何だか、一寸云いにくい事なんだけれ共……私今嘉久子の家に居るの、弟子の様になって……」
斯う云ってあの人は私がどんな事を云い出すかと思うて居るらしく、うす笑いをしながら私の目を見て居る。
「とうとう……でもいいでしょう、自分の望んで居た事なんだしいろんな事が都合よく行って居るんなら……私だってきらいな事じゃなし……」
私は、こんな事を云った。
「外の人が聞いたらキット何とか云いましょうネ、でももう、何んて云われたってかまわないけれ共……貴方さえ気にしなけりゃあかまいやしない……」
「それで……今あっちの田町の家に居るの……」
「ええ、随分はでな暮し方です、我ままでネー──」
あの人はまるで自分に関係のない家の事をはなす様な口調で云った。
あの人の様子は一寸も変って居なかった。それでどこにも、そんな事をする人らしいういたいやみなところはなかった。私はそれをうれしく思いながらいろんな事を話し合った。芝居──脚本そう云うはなしになると今までとはまるで違った真面目さと熱心で私の云うのをきいて居た。あしたの朝十時位までには帰らなくっちゃあならない事、また二十□日には大阪まで行くんだからいそがしい、なんかと、おちつかない、それでうれしそうなかおをして云って居た、「もう今私はそりゃあ真面目に勉強して居る」
あの人は、はっきりした口調でこんな事も云った。あの人の、口元、目の底、手の先、にほんとうにみちみちた力づよい、希望に光りかがやいて居るあの人を見つけた。爪の先、指、小耳、そんなところは前よりも娘らしい美くしさになって肩つきも丸くなって居た。今夜はどうせ明日は学校もないしするからって私達は卓子の上にいっぱい本を積んでお互に袴をはいて居る時の様な気持でかおをほてらして話し合った。十時頃、あの人は帰った方が好いと云うので私は、脚本を沢山と『女と赤い鳥』を貸しておじさんの家まで送って行った。六時から十時まで──私達にはあんまり短っかすぎた。それでも私はあきらめた様にしてだまってまっさおに光る路を歩いた。私の気持もうす青く光って涙ぐんで居た。
伯父さんの家の門の前で大阪に手紙を出す事、ひまがあったら送って行く事を約束して別れた。たった一人、うす明るい町を歩いて居る私はほんとうにみじめな涙のにじみ出るほど悲しい気持で居た。私の気はもうこの上なしと云うまで亢奮してしまった。思いがけなくあった嬉しさ、あの人が女優の弟子になったと云う事、又大阪に行って暮までは会えない。
そんな事が私の心臓の鼓動を頭の頂上でうたせて居る。一時頃まで私はあの人のかつら下地に結ったかお、引眉毛の目つき、を思って居た。
ウトウトとして目をさましたら七時頃だった。すぐとびおきて私は、退紅色と紅の古い紙に包んだ鏡と、歌と、髪の毛をもってあの人の家にかけて行った。あの人はよそに出て居た。それを縁側に置いて、
「身を大切にする様に、
自分を大切なものに思う様に、
勉強する様に」
と伯父さんに口伝して私は又家に戻って帰ったら翌日の晩、
「先達ってはどうも……あした朝九時で立ちます。前の家で借りてるんですから……さようなら」
これだけを、あの人は細い金属を通して私に云ったきりで行ってしまった。
私とあの人、──もとより知らない人になる事はどんなに長い間時がたってもあろう筈がない。「二人の中どっちが死んだ時でものこった方が死んだ人にお化粧のしっこをしましょう、──私とあの人はこんな事まで云った。私は、あの人がどんな事をしても信じて居る事は出来る、私はあの人を信じる事が出来る──」斯うささやく心のどこかにほんのちょっぴり今までにない不安さがある。
私はあの人を女優とは云わせたくなく、又自分からも云いたくない。
女優──斯う云う言葉の中に何とはなしに私にはいやにひびく音がまじって居る。
女役者と云う方が私はすきに思われる。
女役者のあの人と私、そう思うと何故とはなしに涙がこぼれる。
あの人は今大阪に居る。私は東京に居る。
あの人は女役者で、私は──
私とあの人──はなれられないものだと云う事だけを私はハッキリ知って居る。
夜の町
下町のどよめきをかすかに聞いて夜店のにぎやかさ、それをうめて居る軽い浮いた気分、──そうしたものを高台に育った私はなつかしがって居る。屋敷町の単純な色と空気の中で人いきれと灯影でポーッとはにかんで居る様な向うの空を見てその下に居る人達の風、町の様子を想像して居る。あの、夜あるくにふさわしい様な──どこまでこのまんま歩いて行ってもその先々にキットたのしい事が待ちかまえて居る様な気のする銀座通りを私は毎日歩いて居たいと思う。何となし斯う、熱い気持のする柳の下に細々とかんテラがともって色のあせかかった緋毛氈の上に、古のかおりのほんのりある様な螺鈿の盆や小箱や糸のほつれた刀袋やそんなものは夜店あきんどが自分の生活のためにこうやって居るとは思われない。うす黒い柳の幹に、しみのある哥麿の絵や豊国の、若い私達の心をそそる様な曲線の絵が女達の袂のゆれに動く空気にふるえて居る──その絵のにせものなんかを見る余裕もないほどに私の心にせまって来る。目のとどかないほど高い建物のわきに、──まぼしい電燈のかげに──緋毛氈とカンテラの別の世界が□よせて哥まろの女のほほ笑みかくれた天才の刀のあとが光る、──斯う思うだけでも私は細く目をつむってほほ笑みながら小さい溜息をつきたくなる。
行って見たい──私は田舎の娘の都を思うと同じ調子にこの色も空気も気分もまるで違った銀座の通りをあこがれて居る。
なろう事なら一晩あの通りにうれてもうれないでもどうでもかまわないからあの古道具屋になって座って見たい斯んな事も思って居る。鹿の角の刀かけの上に光って居るカタナと云うものを珍らしげな又こわらしげな様子をしてのぞき込む裾のせまい着物を着た異国の女、すべてが活き活きした若い人達の心にふさわしい様な夜の様子を思うと体の中の方からかるい震えが起って来るほど──銀座の夜は私になつかしい。気のあった若い人とだまって居ながら同じ事を考えながらあの道をスベッて行きたい、心の底に小さい又すてがたい詩の湧いて居る気持で──
唐人まげに濃化粧の町娘にも会うだろうし、すっきりしたなりの女にも会うだろうし──
銀座の夜の町に私が行ったらキッと誰かが私を知って居て待って呉れるんじゃああるまいか──
夜の時、銀座、私は斯う云って豊国の絵の女の頬のまるみを思う。
静けさとうれしさ
夢よりも淡い静けさ、──小雨は音もなく降って居る。黒土は娘の肌の様に。枝もたわわに熟れた梨の実はあの甘い汁の皮の外にしみ出したように輝いて居る。萩はしおらしくうなだれてビワのうす緑の若芽のビロードの様な上に一つ、二つ、真珠の飾りをつけた様に露をためて──マア、私は斯う、小さい、ふるえたため息をもらさなくては居られないほど嬉しさにみちて居る。泣きぬれた瞳の様な、斯う思って私は椿の葉を見て居る。頬ずりをして見たい様な、斯う思っていかにも柔かそうな青い苔を見る。木の葉の茂み、その肌からうれしさがしみ出して私の心の中に通うような苦しいほどの嬉しさに私の目には涙がにじみ出して来る。私の心はどうにも斯うにもしようのないほど波立って来る。ジット目をつぶると、静けさ、嬉しさは、ソット忍足に私の心の中にしみ込んで行く。かるいほほ笑みのくすぐる様にうかぶかおを両手でおさえて私はつっぷした。モウ何とも云われないしずかなおだやかなふるえるほどいい気持に細い細い雨の一条一条のすれ合う音が私の体のまわりを包む。
たまらないしずけさ、うれしさ、──私の頬にはとめどもなく涙が流れる。涙に雨のささやきがひびいて又私の体をおそう。気が狂いはしまいか気が遠くなりはしまいかと思うまで私の心はふるえにふるえて居る。「体をなげつけて、こんなに美くしい柔い雨にうたれたい」私はこう思いながら笑った。涙は流れる、けれども口元には笑いがただよって居る。自分に分らないこんざつした気持を希臘時代の絵のような不思議なこころもちでソーッとのぞいて居る。しずけさ、──私の頬にはまだ涙が流れて居る。限りないこのうれしさ、しずけさの中に私はマア、……。ほんとにうれしい!
低気圧の強い時
鏡ん中には片っ方は妙に曲ってふくれた、も一方は青い色にしなびて居る私の頬をうつして居る。「にくいむしばめが……」形のない、又目にも見えないものを私は斯うしかりつけた。
たまらないほどイライラする気持で鏡の前を飛びさった。そして、私のかおのうつるものとては一つもない部屋──私の本ばかりある部屋に入った。机の前に腰をかけて何心なく頬杖をつくと片方の違いが又ハッと思うほどわかる。「いやんなっちまう」こんな事を云ってしまつの悪い二本の不細工な手を卓子の上にパタッとなげつけた。まぎらそうとして本箱の本を見ては一々その中の事を思い出して居る。順々に見て居ると私のすきなのが二冊見えない。又あれがもってんだと思うと、すぐだらしのない、ウジウジした袴をいつでもおしりっこけにはいて居る男の様子が目の前にうかぶ「よりによって私のすきなのをもってかずといいに──たった一度見たけりゃあもってってもいいって云ったら、いい気んなってどれでもとってって仕舞う」
まさか面と向っては云えないこんな事もかんしゃくまぎれに云った。何を見てもいやにこん性わるく弱々しく、そしてしゅうねん深くこびりついて居る痛みに気をひかれる。ソーッと義歯をかみ合せて見る時みたいにやって見るとすぐつまさきから頭のつむじのてっぺんまでズキン──すぐ涙がスーッとにじみ出て来る。お正月にこの歯が悪くって血脇さんに行ったんだけれ共あの色の生っちろい男がむしずが走るほど気に食わなかったで十日ほどでやめたばちだと云えば云われるが──そうなんでしょうって云われればまけおしみのつよい私は違うんですよって云うにきまって居る。
理屈はとにかく痛い事は痛い、たださえ骨套的に出来上って居るかおを左頬をプクンとふくらませて八の字をよせて居る顔はさぞマアと思うとあいそがつきるほど腹が立ってしまう。ろくでもないげんこを作ってトントンと卓子の上を叩く、そのいやに人馬鹿にした様な響までが気にさわる、何かうたでもうたって見せろと、一声出すとろくに口が廻らない気がさしてフッとやめてしまう。ほっぺたを押えて見たり、かみ合わせて見たり、ああしこうしして見ても痛いのはなおらない。家の人から宝丹をもらってやけに口一っぱいぬりつけてしまう。口もあつみがふえた様にボテボテして感じがにぶくなってしまった。痛みは少しいい。泣きつらに蜂はこの事だと思われた。笑う人の気がしれないって一人でプリプリして居る。笑いたいと思ったって、かんしゃくが起って笑えやしない。
頭の半分までが御しょうばんをしていたくなって来た。弟があの人を人とも思わない様な図々しい鼻をびくつかせて私の顔を見ちゃあ笑って行く。ポヤッとした様な形が私の気にますますさわる。めんどうくさい、ちょんぎってしまえばいいに、とこんな没義道な事まで考える。頭を抱え込んでまるで学者が考え事して居る時みたいに家中をあるきまわる。床がギシギシ云う、天井にすすがぶらさがって居る。女中達が考えのいかにも無さそうなゲラゲラ声をたてて笑って居る──そんな事はよけいに私を怒らせて、まるで今日だけ特別に私をからかうために出来て居るかと思われるほど並んで、揃いに揃って私の心を勝手におこらせたり、イライラさせたりして居る。まるで男と同じ足つき調子に又元の部屋にかえる。涙がも一寸でこぼれそうなほどかんしゃくが起って居る。胸がドキドキ云い、頭はがんがんするし耳まではやす様に鳴って居る。
ぶっつける様につっぷした。宝丹香いがプーンと鼻をおそう。目の前にきたならしい体をさらけ出して居る壁を見ると自分の体をぶっつけてこわしてしまいたいほど重っくるしいさえぎられた様な感じがする。
目をつぶって顔を抱えて……段々心がしずかになって来ると一緒にやたらむしょうにかんしゃくを起したあとの淋しさがたまらないほど迫って来る。口の中で、
トウレの君のかたり草
誠かはらで身を終へし
愛人がいまはにのこしたる
黄金のさかづきまもりつゝ
こんな事をうたって居た。おだやかな気持にかえってあの帝劇で見た時のグレートヘンの着物、声、口元そんな事を思い出して居た。そうすると又小っぽけな小供達がけんかをはじめた。あの泣き声、叱る声、わめく声、又それをきくとかんしゃくの虫がうごめき出すと一緒に痛みが歯の間に生れる。こんな一寸した下らない事で又私の頭はごっちゃごっちゃにかきまわされてしまった。居ても立っても居られない。
私は柱にドスンドスンと体をぶっつけながら涙をこぼして居る。
「又一日ねころんで居なくっちゃあなるまい、子供なんて……、どうしたってすきになれるものか……」と天井をにらんで云った。いたいのも、涙の出るのも分らないで、只クシャクシャばかり感じるほど私の心の中にはひどい低気圧がおそって居るのだ。
猿芝居
舞台の下からつまだてて
そっとのぞいた猿芝居
釣枝山台 緋毛せん
灯かげはチラチラかがやいて
ほんにきれいじゃないかいナ
シャナリシャナリとねって行く
赤いおべべの御猿さん
かつらはしっくりはまっても
まっかな御かおと毛だらけの
御手々をなんとしようぞいの
それでも名だけは清姫さん ほんとにおかしじゃないかいナ
土間に坐った見物の
御重の間につややかな
ながしめくれてまいのふり
泣く筈のとこまちがって
妙なしなして笑い出す
ほんに笑止じゃないかいナ
つまたてて
ソッとのぞいた猿芝居……
火取虫
ブーンととんで来るきまぐれものよ
御前の名前は何と云う
丸いからだで短い足で
それでたっしゃにとぶ事ネ
私は前からそう思う
ころがる方がうまかろと
むぎわらざいくのそのような
青いせなもつ火取虫
ガスのまわりをブンブンと
羽根のたっしゃをほこるよう
小供がうちわでおっかけた
小さい火取は斯う云った
「何んて云うおなまな御子だろう
貴方に羽根はありますか
これが私しのにげどこで
天のかみさまなんてまあ
細工のうまいこってしょうね」
小さい火取はなおブンブン
ガスのまわりをとびまわる
なんぼたっしゃな火取でも
よっぴてとんではいられない
羽根をやすみょとて床の上
ジューたんの上におっこった
するといきなり骨ばった
でっかい指がニュッと出で
体を宙にもちあげた
そしてその手のもちぬしは
ズーズー声でこう云った
「なああんた、おらが先ごろ飼うて居た
七面鳥が大すきで
くれればきりがあるまいネエ、……」
棚のだるま棚下し
ひげのおじさん貴方はマア
何と云うどえらい御方だろう
朝でも晩でも欲の皮
つっぱりきったねがいごと
それかなわぬとあたりつけ
わしに湯水も下さらぬ……
片っぽ目玉のそめられた
棚のだるまさんの口こごと
何と云うばった御方じゃあろう
千両箱がふえます様
倉が沢山たちますよう
着物が沢山出来ますよう
とくいが段々ましますよう
おじさんのねがいはこればかり
何と云うばった御方だろう
めっかちだるまさんの口小言
棚の上から
棚下し
女房もらえば子が出来る
子供が出来れば金が入る
金が入っては大変だ
女房のきりょうがわるければ
店のかんばんにもならず
ただくうてねて金が入る
それでは事がめんどうと
ひげのおじさんは一人ずみ
御念の入ったばり方と
びっくりおどろくだるまさん
月に一度は大師さん
参るたびごと買うて来る
だるまのかずはサテサテまあ
このでっかいたなでさい
あふれるまでにのってある
丈の二尺もあるのから
五分ちょっきりのものまでも
ずらっとならんでのって居る、
いずれもそろってめっかちで……
ひげのおじさんはおねがいの
叶ってしまうそれまでは
眼玉は入れてやらぬと云う……
それじゃあおじさんが死ぬるまで
わしらはやっぱりめっかちだ、
師走の晦日におじさんは
古参の順に降させて
「この性わるなだるまめは
一寸も利益がないのみか
朝晩湯水をくらい居る」
ひとあしポーンとけってから
丁稚のおもちゃにやっちまう
さんざんけられてでこぼこに
なって中味の出た時に
かまどの地獄に
なげられる、……
だるまと生れたかなしさに
逃げ出そうにも足はなし
むざむざひどい目に合って
死んで行くのをまって居る
かなしい心をなんとしよう、
ひげの御じさんあんたはあ
何と云うどえらい御方じゃろう
新らしい内はちやほやと
どうぞ利益の有るようと
かってなことをいのり上げ
古くなったら三年目
かまどで地獄の目を見せる
何の利益がそれであろう
家がやけるか金玉が
倉から逃げるがい□□なら
ひげのおじさんあんたはまあ
何と云うどえらい御方だろう……
棚のだるまのたなおろし
かしの木
このはてしない世の中の
わかいさかんな御方でも
おとしをとった御人でも
春のめぐみにかがやいて
黄金のよになるかしの木の
この木のような勢と
望をもって御いでなさい
夏に青葉と変っても
夏がだんだんふけていて
秋のめぐみがこの枝に
宿ると一所にかしの木は
又黄金色にかがやいて
澄んだ御空にそびえます
みんな木の葉が散りました、
けど御らんなさいかしの木は
キリキリシャンと立ってます
骨が目立って岩畳な
幹と枝とをむきだして
男々しくそびえて立ってます。
八つ手葉裏のテントームシ
手をひろげたよな葉のうらに
チョロンととまるテントームシヨ、
うすい緑の葉の髄に
模様のようにとまってる
チョッとつまんでおいたよな……
黒いところに赤の点、
チョンチョンと散って居る……
「髪のかざりによかろうか
それとも指につけようか
浴衣のがらにゃわるかない」
ふとっちょでせびくであかっけな
十五の娘はこう云った
虫のかわいさにさそわれて……
テントムシ ダマシ
青々細くなよなよと
萌え出た菜の葉のその上に
のっかって居るテントムシ 黒と赤とのせなもった……
そっとつまんで手にのせた
「お前── かわいいテントームシヨ
どうしてそんなにふとってる?
まるでだれかさんとおんなじに……」
ころがしながらこう云った
小虫はなんとも云わないでやっぱりコロコロころんでる
それでも前のよにかわいらしい……
白い着物のたもとの上に
そっとのっけて垣づたい
となりのおばさに見せにいた。
「おばさん、一寸マア御らんなさい
何て云うかわいい虫なんでしょう。そいでほんとにキレイでネ
糸でつないでまるくして
はだかの首にかけてても
たあれも笑いやしますまい」
私しゃ おばさにこう云った
可愛くてたまらない声でネー……
おばさは大きい鉄ふちの
めがねをチャンとかけなおし
ガラガラ声でこう云った、西のなまりでこう云った
「違いますぞナ、こりゃあんた
テントムシダマシヤ ないかいな」
私は目玉をクルクルと
三つまわしたばっかりで
だまって家ににげ込んだ……
見たまま
空色に 水色に
かがやいて居る紫陽花に
悪魔の使か黒蝶が
謎のとぶよにとんで居る、
ヒーラ、ヒーラ、ヒーラ
わきにくもめが白銀の
糸でとり手を作ってる
ヒーラヒーラ黒蝶が
紫陽花にとぶ夏の夕
〔無題〕
カガヤケ かがやけ可愛い御星
あなたは一体どんな人
そんなにたのしくキラキラと
天のダイヤモンド そのように……
偉いお日さんが落ちたあと
しない内気な若草が
夜つゆにしめる其の時に
貴方の小さいしとやかな
光が小さく見えてます
かがやけかがやけ 小さい御星
夜中かがやけ
御空の御星
芽生え
おととしは三つ咲き去年は一つ咲いて枯れた朝がおは今年はいつも、あのよわよわした体をもたせかけて居る垣根にその姿を見せなかった。
「今年は出ないんかもしれないぞ──あんな弱々しいんだったんだもの」
「そんな事はないでしょう。目に見えないところに生えてるんですよキット。あんな草なんて云うものは思えない、人間の想像のつかないほど生活力の強いものなんだから」
こんな事を云い合い今日までたった。ほかの家のかきねなんかにもあの可愛いようなかわいくないような花が見え出して居るのにと気が気でないながらも私は、
「あのいつものが咲くまで私はほかのを植えずにまってよう、若しも出た時にすまないような気がするから」
こんな事を思いながら一日に一度は垣根のわきの柔な黒土のこまかなきめを見て居た。まっくらな土の香の高い水気の多い土面の下の中に一寸出て居る乳色の芽生えを想像して私は土上に出た芽生えに向けるような喜のみちた希望のあるほほ笑みを黒土の上になげて居た。
私は若しやあの暗い中で乳色の糸のような芽生がそのまま朽ちてるんじゃあないかとも、だれかうっかりものが掃除の時にするどいくわのさきでスッパリと思いきりよく殺してしまったんじゃないかとも思いまわして不安心な日を垣根の黒土を見ては送って居た。
今日、ほんとうに今日私は思いがけなくいつもの黒土の上にみどりの水々しい朝顔の二葉がうれしそうに若々しく勇ましく生えて居た。
「オヤ」
初めて見つけた時私はうれしさとおどろきのまざった小さなふるえ声で叫んだ。
「よくまア」
その二葉を地面にひざまずいて頬ずりしかねないほどのなつかしみをもってしげしげと見つめながらそう云った。心の中で私が先に云った「人間には想像もおよばないほどの偉い生活力が有るんですっから」と云ったことの目の前にあらわれて来たと云う事もうれしいと云う事の一部を占めて居た。
「マア一寸、あのあれが出たんですよ、一寸ほんとうに」
統一のつかない言葉をつづけざまに口から吐いた私は又ひっかえして黒土の前にしゃがんだ。
「よくマア、ほんとうによくマア出て御呉れだったネー、まってたんだもの、御前だって分るだろう、さかりの今日になってさえ別のを買わずに御前一人をまってたんだものネー、ほんとうにうれしい心から」
人間の言葉の通じるものに云うように私はこう小さいしおらしげな声で云った。
私はそのやさしい芽生えの返事をききたいといつまでもそこに坐ってたけど何とも云って呉れなかった。ただ、そのしなやかな細かい細胞をながれてうるおして居る色のない血液のそのくっくっと云って居る鼓動と私の赤い、あったかい同じような細胞全体をうるおしてる血液の鼓動とがピッタリと一つもののようにしずかにドキンドキンと波うって居るのを感じた。
初めてもった財布
生れて始めて財布と云うものをあずけられた新吉はやっとかぞえ年で六つになったばかりである。着物の上からも小さくふくれて居る黄色の大黒さまのついた袋をソーッとなでた。目の前には少し黒味のかかった十銭丸二つと其よりも一寸大きい二十銭一つがかわりばんこにおどりをおどって居る。人に会うたんびにそのふところをはり出して「おれは財布をもってるんだ、偉かろう?」と云って見たかった。
「無駄づかいしなさんなよ」と銭を渡す時に云った母親の声を思い出してとまりかけたおもチャ屋の前を早足にすぎた。それと一緒に「何を買ったら無駄づかいじゃあないのかしら」と云う事が大学ノ入学試験よりもむずかしかろうと思われるまでに考えられて来た。
「本にしようかお菓子にしようかそれともおもちゃにしてしまおうか」
これだけの事がごっちゃになってその小っぽけな毛のうすい頭を行ききした。
新吉はこう思った。
「おれは今まで洋かんを一さおたべた事がないんだからそうしよう」
安心したように菓子屋の前で歩いた、そこには大人のしかも年とったお客さんが来て居た。
「ヨーカン一さおなんて……『おいやしな子だ』って云やしないかしら」
斯う思うとその人達が自分のふところに入って居るものを知って居て十銭玉の黒いのまでが見えてるんじゃあないかと思われて来た。そこを又居たたまれないように歩き出した。おもちゃも何を買っていいかわからなくなってしまった。本も店先からのぞいた所では自分にわかりそうなものがない。
「己はいったい何を買うんだろう」
新吉は泣き出しそうな声でそうつぶやいた。落っことしそうでたまらなくなったんでふところを両手でかかえた。どうにも斯うにもしようのないようになってかけ出した新吉は人につきあたるのもかまわずひた走りに走って家にかけあがった。真赤なかおをしてハアハア云って居る様子を見て、
「マアどうしたんだい、またけんかをしてまけたんかい」いくじなしだネーって云うように母親は云った。新吉は首をふって、
「違わア何かっていいんかわからなくってにげて来たんだい」
けんか口調で母親をどなりつけて大声あげてなき出してしまった。
母親が笑うたんびに「何かっていいんかわからなかったんだ」とどなりながらふところをおさえていつまでもいつまでもないて居た。
名無草と茶色の羽虫
いつまいたとも知れない種が芽を出した。そして花を持った。
草っぱらのすみっこにおしつけられたようになって……
それで居て勢よく二十本ばかりはスックとそろって出た。
いつだったか掃除の時に抜こうとしたのだけれども一寸ほんとに一寸出て居る葉が青びろうどのようにフックリと厚く可愛気の有る葉だったもんでそのまんまのこして置いたのが花をもった草なのである。その花は白粉の花に似て女らしいしおらしい花である。色は白紅淡紅でさし渡しは五分位、白い花のまん中に一寸と茶色の紋があるのなんかはものずきな御嬢さんが見つけたらキッとつまないではおかないほど人なつっこい花である。
「どうして生えたんだろう。誰がまいたとも分らないのに……」
「一人手にたねがとんで来たんでしょうキット……」
「そんな筈は有るもんですか。とんで来たんならあんなにチャンとならんで生えてなんて居るもんですか貴方」
こんな事を云い合って分らないに知れきったことで頭をなやまして居る内に花はみんな咲ききって七日ばかり立った。
誰云うとなく、その内に、あの花の蕊には昼でも夜でもキット一匹小さい茶色の羽虫が棲んで居る、どの花にでも……
と云うものが出来た。大事件のもち上ったようにさわぎ立てた。
年とった人なんかは、
「まかないものが生えるなんて、それでさえ一寸妙だのに……
それに違いないきっと魔がさしたんだ」
なんかと云ってその日は常よりも読経の時を長くし御線香も倍ほどあげたりして居た。
夜から私達は庭に出る度にキットこの花の中をのぞいてばかり居た。その中に小さい子供が風流熱にかかったりしたんでだれもかれも申し合わせたように花の事なんかは忘れて居た。ひょっと何と云う事なしにきづいて今日花を見るとその小さい可愛い花はみんなしぼんでしまって居た。
「オヤもうしぼんでしまった……そうそうあの虫はどうしたろうかしらん」
こんな事を云ってはじから御丁寧にようじのさきでしぼんだ花の中を一つ一つのぞいて見たけれども一つでおしまいになると云うまで虫は入って居なかった。
「とうとう居ないのかもしれない」
こんな事を思いながら御土産のつづらをあけるようにそっとようじのさきでひらいて見ると思いがけなく茶色の小虫はころっとなって入って居た。
私はみ入られたようにいつまでもこれを見て居た。
イキなり、ほんとにいきなり小虫はからだに似合わない強い力のこもった羽音をたてて人を馬鹿にしたように青空にとんでってしまった。
私は生きながら花にとらわれて居た羽虫ときっと一匹ずつの羽虫の御宿をして居た花とは前の世からキッシリと何かの糸で結いつけられて居たんじゃあないかと思われた。
埋立地にて
私は、私の見たがらないいろんなきたないまわりのものをなるたけ目に入れないようにと両手で頬をおさえて左と右に見えるほしもの台やそこにかかって居る着物の色なんかを見えなくした。
そして、ひろく、はてしもなくある内海の青い色と御台場の草のみどりと白い山のような雲と、そうした気持の好いものばかりを一生県命に見つめて居る。私の目の力がいつにもまして強くなったように、向ーに、ちょっピリとうかんで居る白帆から御台場の端に人間が立って居るのまで見える。涼しい風は夕暮の色をはらんで沖から流れる潮にのって来る。「何ていいきもちなんだろう」私は大きい声で云ったら、このおだやかさとしずかさのいい気持がとんで行っちまわないかと思われた。それで小さい自分にだけきこえる声で云った。
まっさおの海の中に謎のようにある御台場のあの青草の中には蕾をもってるのも有るだろうし小っぽけな花のあるのも有るんだろう、キット。行って見たい事、前にもやしてある小舟を見てそう思いながらあのはじっこに坐って波のささやきと草の香りにつつまれて歌でもうたったらまあどんなに。
私の頭ん中にはいろんなとりとめもない空想やうれしさがわき上った。白帆が一分動いたと見ると御台場の草の色がちがって半分は黒っぽく半分は前よりもみどりになって雲の山はくずれて帯を渡したよう。帯が又きれぎれに人の形になった時には、白帆はもう見えずに汽船の煙が御婆さんの帯の色をして棚引き御台場はすっかり青く、私の居るところにはうすいかげが出来る……
こんな変りの多い、大きい、とりすましたような又不邪気な海の中に自分もとけ込んだように波が一つゆれれば自分も一つ、あっちが二つうごけば自分も二ついろんな事がみんな私と一緒に動いて居るように思われた。
私はいつにない、華な水色のような心持で越後獅子のうたをうたった。長い振の着物を着て黒い髪を桃割にでも結って居る娘のような気持で……
見ている内にいかにも夕暮らしい日光になって来た。いつの間にか前の川、鉄道の線一つを海からはなれて居る川に年とった船頭の舟が入った。入日の光をあびて赤鬼のようになった爺は舟の底から掃除の道具をとり出した。大きなブラッシのようなもの、それを水につけてはともからみよしまで丁寧に自分の可愛がっててやる馬に水をあびせる時のように、かるい心地のいい音を立てて水のしぶきをかがやかせながら洗い始めた。黄金の川面からブラッシについて落ちるしたたりは黄金のしずくのようで舟も又それと同じにかがやいて居る。黄金の舟に、黄金の水、はだかんぼうな赤鬼はその上を走り廻って居る。……まるで草紙の中の插絵のような有様を、海の色も空の様子も忘れはてて見入った。赤鬼はしばらくしてから船に腰をかけて煙草をのみながら歌をうたい出した。
「御ひょろたかアしまア、まこものーなアかでエ
あやーめさくとはー しおらしーい」
歌も古いし人も古いけれども、その歌だけは新しい力のある、いきな声である。川の面をすべって線路を越えて海のあっちの方ーへとんで行ってしまった。
その声にひきつられて自分の心もあっちの方へ行ってしまったが声の消えたと一緒になげかえされたようにはっきりした私は今更らしく、その美しい声を出した口のあんまりしわくちゃでつっぱいものをたべた時みたいにキューッとして居るのをびっくりした気持で見た。
御じいさんに見とれて居る内にすっかり日が落ちて、細いその上を指で一なでしたら消えてしまいそうな御月が、
「わたしゃ、もさっきっからここに居るのに」
と云ったようにものほしのわきにちゃんと見えて居た。
御台場はぼんやりかすみはじめて雲の山はうす紫に青い海は前よりもあおく、みちしお力づよさと、気持とがその一うねりの波間にもこもって遠い遠い沖の方から段々こっちにこっちにうねって来る。
芸人の子
「何んだ、高が芸人の子じゃあないか」
斯う云うひややかな情ない声が、まだ十二にほかならない長次の体をつつんで居た。学校に行っても二こと目には「芸人の子」が出かけていじめられて居てもたれ一人味方になって呉れる人もない中でまっさおなかおをして唇をかんでポロリポロリと涙をこぼして居るのを意地悪の子供達はまわりにたかってヤンヤとはやして居る事がたびたびあった。学校がひけてあとも見ずに大河端にある家の格子の内に入ってからそう云う時にかぎって「只今」もしないで二階に上ってピッシャリと障子をしめてしまう。それから思い出したようにいかにもくやしそうに肩をふるわして泣いて居る。なきじゃくりながら、
「何故生んで呉れたんだ、何故生んで呉れたんだ」
親をうらむようなことを度々云って居た。散々ないたあげく母親が弟子に稽古をつけて居る三味の音に気をとられて小声で合わせたりなんかして悲しさを忘れては、
「又あした」
こんな事を思うと急に暗いかげがさしてだまり込んで淋しいかおをして居るのがふだんであった。
其の日も下駄を格子の外と内にぬいで稽古をつけて居る母親なんかには目もくれずに二階に上ってしまった。
「又いじめられたんだ」
と思った母親は自分の子の不甲斐なさにはらは立ち又、そう云われてもしかたがない今の身の上を思うと不便でもあり、こんなこんがらかった気持にすぐ撥をなげ出してしまいたいほど気が立って来た。
いいかげんに稽古をしまって母親はしのび足に二階にのぼってすきまから目だけでのぞくと筋がぬけたようなかたちをして手すりに頭をおっつけて午後のキラキラした川面をとんで居る都鳥の姿をなつかしそうに見て居た。
「キットなきつかれたんだよかわいそうに」
母親は一人ごとを云いながら障子をあけた。
長次はふりむきもしないで見入って居る。
「長ちゃん、どうおしだエ、何んか合わせてでも見ないかい」
何にもしらないようにこんな事を云った。
「母あちゃん」
長次はいかにもなさけなそうなしっとりとした声で云った。
「何だエ」
「アノネ、何故僕は芸人の子なんだろう」
「マア、何故って……妙な事をきく子だヨ、芸人の子なら芸人の子なんじゃあないか」
「古っから芸人の子って馬鹿にされるにきまってたんだろうか」
「そんな事がどこに有るもんかネ、正しい事ならどんな事をしたって馬鹿にされるっテエ事があるもんじゃあないノサ」
不雑作に云いのけてもこの上つっこんできかれたらと母親は気が気でなかった。
「でも明治の前までは乞食と同んなじだったって云うもん」
「そんなに御まえくどくど云ってるもんじゃあないのさ。古は昔、今は今、サネ、わかるだろう。もうこないだ御なくなりになった天皇様が御偉くって、偉くさえ有れば平民だろうが何だろうが立派にして下さるのさ、芸人だってそうさ、天皇様の御前であの福助と団十郎が安宅ヲシテ御目にかけた事だってあるじゃあないか、だもの……」
「僕になれるんかしら」
「なれるともネなれるともネ、一生懸命にさえすればどんなにでも偉くなれるもんだもの」
「母ちゃん、気やすめ云うんじゃあないんかい」
年にませたことをフイに云ったんで母親はハッとしたようにそのかおをしげしげと見て云った。
「気やすめ? そんなまわし気をするもんじゃあないよ。御前のかなしい事は私も同じほどかなしいんだから、サ、もうそんな事は云わずに何か合わせようネ、いい子だから」
長次はまだわだかまりのあるようなかおをしてだまって居たが、
「ウン合わせよう」
はっきりとした声で云ったので母親は身も心もかるくなったようにかけ下りて黄色いふくろに入った三味線を二梃もって来た。
「何にしよう」
母親は指をなめながら云った。
長次はしきりと撥を持ちかえて居たけど、
「はでなもん、なんか」
「越後獅子がいいよ、それじゃあ」
長次と母親の手がサッとひらめくと「シャン」しまったさえた音は川面をかすめて向う岸の倉の屋根をかすめる、都鳥の白い翼にものる。母親は目をつぶってはぎれのいい手ぶりでスラスラといい音を出す。まだ小さい自分の子のたのもしい様子を見て五年前になくなったつれあいの事を思い出してどうしてもあの位にはしあげなくっては、と思って撥をにぎって居る小さい白い手を見つめた。
二人は永い間何も彼も忘れたように弾いて居た。
その日から長次はめっきり強くなった。けれども学校では同じ位にいじめられて居たけれども、
「何んだい、天子様の御前で弾いて見せるぞ」
涙をこぼしながらそう云って居た。
家にかえるとすぐ誰が居ても斯う云って居た。
「ネエ母ちゃん、芸人だって偉いんだネー、天子様の前でだって弾けるんだもの……」
京の御人
「ついでがあんまっさかえ久しぶりで御邪魔しようと思ってます、先に御出やった時ややさんでおしたいとはんはさぞ大きゅう御なりやったろうなも、そいがたのしみやさかえ」
こんなうちとけた手紙をよこした御まきさんと云う人は京は嵐山の傍は春の夢のように美くしいところに今年十六の一人娘とおだやかに不自由なく暮している人だ。生れは雪深い越後、雪国に美人が多いと云うためしにもれず若い時は何小町と云われたほどその美しさがかもしたいろいろの悲しいことや美しい話は今はきりさげの被衣姿の人の口からひとごとのようにはなされる事もたまにはある。娘も京の川水に産湯をつかっただけ有って牡丹のようなはでやかな姿とまあるいなめらかな声をもって育った人で理くつもこねず女学校にも上らず御かざりのようにしてある箱入娘だと云うことである。
そんな事を思い合わせながら私達はまだ見たこともない人種が来でもするように、
「御めんやす」
と云う声をまって居た。
一週間ほど立って久方ききなれない言葉に下女が目をまるくさせながら私達のまちもうけて居た御客さんが来た。すぐに茶の間に入って、
「はんまに久しぶりやなあ」
と相拶よりさきに云った。御まきさんのうしろに中振袖の絽の着物に厚板の白茶の帯を千鳥にむすんで唐人まげのあたまにつまみ細工の花ぐしを一っぱいさしてまっしろな御化粧に紅までさした御ムスメがだまって私のかわった不ぞうさのあたまを一生懸命に見て居た。その目つきと口元を見て、悪いとは思いながら「あんまり目から鼻にぬけるような人じゃあない」とまるで六十か七十の人のような気持でこんな事を思った。
母とおまきさんとはだれでもがするようにこめつきばったをやって居る。
「ほんまに年ばかり大きゅうてからややさまやさかえ」
こんな事をつけたしにして母にその娘をひき合わせた。重そうな頭をそうっとさげてまっかなかおをした様子を私はつくづくと見て居た。
「サ、百合ちゃんおぼえておいでかい、もう忘れてしまったんだろうけれど、この方が御まきさん、あなたは──御仙さんて御っしゃいましたっけか?」
娘さんにきくと合点をしたんで、
「ほんとうにうちのは御てんで困るんですよ、何も出来ないくせに理くつばかりこねて」
私のあんまりうれしくない前おきをされてからあわてて御じぎをした、もうこれで五度か六度した。
私はしたしい人のうちに来て口もきかず合点をしたりイヤイヤをしたりばかりして居るお仙さんをあやつり人形を見るような生きたのでないような気持で見て居た。それで一寸もうれしいとかなつかしいとか云う気はおこらずにめずらしい大きな人形を見る通りにただその大きく結った髪や千鳥の帯や長い袖を見て居た。
「何ぞあそばしちゃってちょうだい、あねさまごとも千世がみをきるのも大すきやさかえ」
御まきさんは母のはなしの間にこんなことを云った。
「エエ」そう云ってあとはつっかえてしまった。
私はもう五六年さきにあねさまごとも千世がみきりもしてしまって今はその御なごりもなくなってしまった。
「母様、どうしてあそびましょうネー千代がみもままごとの道具も御ひなさまのよりほかもってないんですもの」
小さい声で母に相談した。
「何でもしておあそびよ」
すてるように斯う云って二人は又若かった時のはなしをして居る。なめらかな京言葉とパキパキの江戸弁が快くもつれてひびいて来る。御仙さんは御母さんのうしろで振の色をそろえたりはなしたりして居る。
「いらっしゃいな何かして遊びましょう。何にももってないけれど」
御仙さんは合点したまんまでウジウジして居るんでおっかさんが、
「いってな、あそんで来なはれ。そないにはれがましゅう思わんでもいいわな」
背中を押すようにして云ったんで、
「いらっしゃいよ、ネ、私知らない事はおしえてちょうだい、そいであそびましょうよ。そんなにすましていらっしゃるもんじゃあないわ」
私も笑いながらこんなことを云って手をひっぱってようやっと自分の部屋までつれて来た。本ばこで四方をとりまかれて古っくさい本のわきに目のさめるようなのがならんで居たり、文庫ん中から原稿紙がのぞいたりして居る部屋の様子を御仙さんは気をのまれたように立って見て居る。
そして、小さい声で、
「何故薬玉さげて御おきゃはらないの」
ってきいたんで、
「あなたさげていらっしゃるの?」
私はあべこべにききかえした。
「エ、母さんがやかましゅう云うてさげておきゃはるの、かおりをつめてなも」
御仙さんはこれだけ云ってまただまってしまった。二人は机の前にならんで坐って私の御秘蔵の本の差画や錦絵を見せた。ほそい細工もののような指さきでそれを一枚一枚まくって居る御仙さんはまるで人形のようなこのまんま年を取らせずに世間を知らせずにかざっておきたいほど美くしく見えて居た。私はそのうしろにならんだ、古い物語りやくさ草紙と一緒に毎日見て居たいほどに思われた。そしてかえってあんまりきのきかないものを沢山知らないで安心して居ると云う事がうれしかった。
私はなるたけわかりそうなはなしをえらんで自分からさきに口をきいた。口を一こときくごとに御仙さんは私になじんで来た。私は自分が年下のくせに十六の人を妹のように思ったりもてなしたりして居るのがふき出したいほどおかしかった。
私は東京のさわがしいことから人の様子から言葉つきから御丁寧にその人達のだれにでも有りがちなくせまではなした。
「せわしそうなところやなあ、京都はほんまにしずかどっせ、ほんまに」
もう東京のせわしさにつかれたように小さい声でこんな事を云った。
「京都ではふだんでも日傘をさしてますか。あの紙でつくった」
「さしまっせ。私なんか御師匠はんとけいくにいつでもさしてますワ、模様をたんとかいてナ」
「貴女何ならってらっしゃるの」
「鼓と琴と茶の湯と花と」
「マア、そんなにならって一日の内にみんななさるの」
私は自分にくらべて随分いろんな事をするもんだと思ったんでこんな事をきいた。
「そうやなも、気の向かんときは行かんけど……」
「皆すきなものばっかりなの」
「すききらい云うて云わねんと母さんが云いやはるさかえ」
御仙さんと私はこんな事を云って居た。段々夕方の暗さが深くなって来て部屋に電気がついた時、
「家にかえりとうなってしもうた」
やんちゃのようなはな声で御仙さんはこんな事を云って私の方に身をすりよせて来た。
「何うして?」
「何んやらこわらしゅうて」
子供のようなことを云う人だと思いながら私は手をそっと御もちゃにしながら、
「そいじゃ、あっちに行きましょう皆の居るところへネ」
私は仙さんの手をひいてうすくらい廊下をつたわって茶の間に行った。御せんさんはそこをあるくんでもすりあしをしてあるいた。
「あんた夜電燈もたずにおあるきやはるの?」
「うちんなかを」
「エエ、私なんかどけいこにもぼんぼりもって行きまっせ」
「マア、随分、御つぼちゃんだ事」
私はこんな事を云いながら大きな笑で笑った。御仙さんもかるくはにかんだように笑いながら私の手にしっかりつかまってすかすようにしてあるいて居る。
「おせわさまどした」
おまきさんは煙草をつめながら障子をあけた私達のかおを見て云った。
それから四人丸く坐って祇園のまつりのはなしや、加茂の夕涼やまだ見た事のない京都の様子を御まきさんにはなしてもらった。
その間御せんさんはおっかさんの体にもたれかかってその眉のあたりを見ながらはなしをきいて居る。
御はんの時も御せんさんは御つぼ口をしてたべた。
御まきさんはもうどんな時にも御仙さんが可愛くて可愛くてたまらないと云うように見えるし又御仙さんも御母さんがよくってよくってたまらないと云うようなかおつきや口つきをして居た。
御はんがすんでから、わきを向いて御仙さんはふところから懐中かがみを出して一寸紅を唇にさしなおして小さいはけで口のまわりをはたいたりして居た。
私は世間の事も知らずほんとうにややさんのような人のくせにどうしてああ身のまわりの事には気をつけるんだろうと妙に思われた。そしてまだ一度も紅をさした事のない唇をそっとしめした。
間もなく御仙さんが帰ろうと云い出して御まきさんも、
「えらい御やかましゅう。牛込の姉はんのとこに居まっさかえ、貴方も御いでやす。まってまっせ」
中腰をしてこんなことを云いはじめた。
「マア、ようござんしょう、も一寸いらっしゃいよ。まだ早いじゃあありませんか」
御仙さんは母の斯う云うのをきいて心もとなそうに御まきさんの袖をひっぱって居る。
「せっかくどすけど……ここなややさんがききませんさかえ。
ナア、そうやろ、ほんまに大きに御邪魔、御めんやす」
御まきさんは御仙さんに御辞ぎをさせてそそくさと玄関に行ってしまった、
「西の人はゆっくりだってのにあなたは随分せっかちだ事」
母はこんな事を云いながら送った、私も御仙さんのふんだ足あとをボカすようにしてあるいた。
「あすは歌舞伎や」
御仙さんが車にのる時チョッとこんな事を云った。
「さようなら、御仙さん、近い内」
私が斯う云った時車の上の御仙さんは、
「上りまっせ、こんどは人形はんか何かもってなも」
こんな事を云った。私と母は、かおを見合せて笑んだ。
「御めんやす」
御まきさんが斯う云うと車は段々くらい方に入ってしまった。
「京都で育った娘なんて随分ぼんやりなもんだ事、けれども御化粧だけは随分気がつくもんだ事」
「厚い御化粧で長い袂と着物であんなあたまで御かざりにはいいけれど」
母と二人でこんな事を云いあった。
御仙さんの云ったことばやそぶりなんかでいつまでも忘られないほどのとこは一つもなかった。ただいつまでもあの唇の紅と千鳥むすびと花ぐしとすり足ばかりが目の前にちらついて居た。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本では会話文の多くが1字下げで組まれていますが、注記は省略しました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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