春の枯葉
───一幕三場
太宰治
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人物。
野中弥一 国民学校教師、三十六歳。
節子 その妻、三十一歳。
しづ 節子の生母、五十四歳。
奥田義雄 国民学校教師、野中の宅に同居す、二十八歳。
菊代 義雄の妹、二十三歳。
その他 学童数名。
所。
津軽半島、海岸の僻村。
時。
昭和二十一年、四月。
第一場
舞台は、村の国民学校の一教室。放課後、午後四時頃。正面は教壇、その前方に生徒の机、椅子二、三十。下手のガラス戸から、斜陽がさし込んでいる。上手も、ガラス戸。それから、出入口。その外は廊下。廊下のガラス戸から海が見える。
全校生徒、百五十人くらいの学校の気持。
正面の黒板には、次のような文字が乱雑に、秩序無く書き散らされ、ぐいと消したところなどもあるが、だいたい読める。授業中に教師野中が書いて、そのままになっているという気持。
その文字とは、
「四等国。北海道、本州、四国、九州。四島国。春が来た。滅亡か独立か。光は東北から。東北の保守性。保守と封建。インフレーション。政治と経済。闇。国民相互の信頼。道徳。文化。デモクラシー。議会。選挙権。愛。師弟。ヨイコ。良心。学問。勉強と農耕。海の幸。」
等である。
幕あく。
舞台しばらく空虚。
突然、荒い足音がして、「叱るんじゃない。聞きたい事があるんだ。泣かなくてもいい。」などという声と共に、上手のドアをあけ、国民学校教師、野中弥一が、ひとりの泣きじゃくっている学童を引きずり、登場。
(野中)(蒼ざめた顔に無理に微笑を浮べ)何も、叱るんじゃないのだ。なんだいお前は、もう高等科二年にもなったくせに、そんなに泣いて、みっともないぞ。さあ、ちゃんと、涙を拭け。(野中自身の腰にさげてあるタオルを、学童に手渡す)
(学童)(素直にタオルで涙を拭く)
(野中)(そのタオルを学童から取って、また自分の腰にさげ)よし、さあ歌ってごらん。叱りやしない。決して叱らないから、いまお前たちが、あの、外のグランドで一緒に歌っていた唱歌を、ここで歌ってごらん。低い声でかまわないから、歌ってごらん。叱るんじゃないんだよ。先生は、あの歌を、ところどころ忘れたのでね、お前からいま教えてもらおうと思っているのだ。それだけなんだから、安心して、さあ、ひとつ男らしく、歌って聞かせてくれ。(言いながら、最前列の学童用の椅子に腰をおろす。つまり観客に対しては、うしろ向きになる)
学童は、観客に対して正面を向き、気を附けの姿勢を執り、眼をつぶって、低く歌う。
はる、こうろうの花のえん、
めぐるさかずき、影さして、
ちよの松がえ、わけいでし、
むかしの光、いまいずこ。
(学童)(歌い終ってうつむく)
(野中)(机に頬杖をつき)ありがとう。いや、先生はね、お前たちも知っているように、唱歌はあまり得意でないのでね、その歌も、うろ覚えでね、おかげで、やっといまはっきりと思い出した。悲しい歌だね。ちかごろお前たちは、よくその唱歌ばかり歌っているようだが、誰か先生が教えてくれたの?
(学童)(首を振る)
(野中) 誰も教えてくれなくても、自然に覚えたの?
(学童)(だまっている)
(野中) この歌の意味が、よくわかって歌っているの? いや、この歌が、お前たちのいまの気持に一ばんぴったりするから、それだから歌っているの?
(学童)(うなだれたまま、だまっている)
(野中) 決して叱りやしないから、思っている事をそのまま言ってごらん。先生もね、いまいろいろ考えているんだ。さっきもあんな工合に、(と、ちょっと正面の黒板を指差し)さまざま黒板に書いて、新しい日本の姿というものをお前たちに教えたつもりだが、しかし、どうも、教えたあとで何だか、たまらなく不安で、淋しくなるのだ。僕には何もわかっていないんじゃないか、という気さえして来るのだ。かえって、お前たちに教えてもらわなければならぬことがあるんじゃないかとも考えられてな。それで、どうなんだい? お前たちは、あの歌を、どんな気持で歌っているのか、それをまず正直に、先生に教えてくれないか? やっぱり、淋しくてたまらないから、あんな歌をうたいたくなるのかね? それとも、何か、いたずらの気持で歌っているのかね? どうなんだい?
(学童)(だまっている)
(野中) なんとか一言でいいから、言ってくれよ。まさか、お前たちは、腹の中で先生を笑っているのじゃあるまいな。(ひとりで低く笑い、立ち上り)もういい。帰ってよろしい。しかし、気持を暗くするような歌は、あまり歌わんほうがいいな。他の生徒たちにも、そう言ってやるように。とにかく、いま僕たちは、少しでも気持を明るく持つように努めなければいけないのだから。もう、よし。お帰り。
学童、無言で野中教師にお辞儀をし、上手の出入口から退場。野中は、それを見送り、しばらくぼんやりしている。やがて、ゆっくり教壇の方に歩いて、教壇に上り、黒板拭きをとって、黒板の文字を一つ一つ念入りに消す。
消しながら、やがて小声で、はる、こうろうの花のえん、めぐるさかずき、影さして、と歌う。
舞台すこし暗くなる。斜陽が薄れて来たのである。
くすくす忍び笑いして、奥田菊代、上手の出入口より登場。
(菊代) なかなかお上手ね、先生。
(野中)(おどろき、振りかえって菊代を見つけ、苦笑して)なんだ、あなたか。(黒板を拭き終って正面を向き)ひやかしちゃいけません。
(菊代) あら、本当よ。本当に、お上手よ。すばらしいバリトン。
(野中)(いよいよ口をゆがめて苦笑し)よして下さい、ばかばかしい。僕んところは親の代から音痴なんです。(語調をかえて)何か御用? 奥田先生なら、ついさっき帰ったようですよ。
(菊代) いいえ、兄さんに逢いに来たんじゃないんです。(たわむれに、わざと取り澄ました態度で)本日は、野中弥一先生にお目にかかりたくてまいりました。
(野中) なあんだ、うちで毎日、お目にかかってるじゃないか。
(菊代) ええ、でも、同じうちにいても、なかなか二人きりで話す機会は無いものだわ。あら、ごめん。誘惑するんじゃないわよ。
(野中) かまいませんよ。いや、よそう。兄さんに怒られる。あなたの兄さんは、まじめじゃからのう。
(菊代) あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう。
二人、笑う。野中教師ゆっくり教壇から降り、下手のガラス戸に寄り添って外を眺める。菊代は学童の机の上に腰をかける。華美な和服の着流し。
(野中)(菊代のほうに背を向け、外の景色を眺めながら)もう、すっかり春だ。津軽の春は、ドカンと一時にやって来るね。
(菊代)(しんみり)ほんとうに。ホップ、ステップ、エンド、ジャンプなんて飛び方でなくて、ほんのワンステップで、からりと春になってしまうのねえ。あんなに深く積っていた雪も、あっと思うまもなく消えてしまって、ほんとうに不思議で、おそろしいくらいだったわ。あたしは、もう十年も津軽から離れていたので、津軽の春はワンステップでやって来るという事を、すっかり忘れていて、あんなに野山一めんに深く積っている雪がみんな消えてしまうのには、五月いっぱいかかるのじゃないかしらと思っていたの。それが、まあ、ねえ、消えはじめたと思ったら、十日と経たないうちに、綺麗に消えてしまったじゃないの。四月のはじめに、こんな、春の青草を見る事が出来るなんて、思いも寄らなかったわ。
(野中)(相変らず外の景色を眺めながら)青草? しかし、雪の下から現われたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現われて来た。意味ないね、この落葉は。(ひくく笑う)永い冬の間、昼も夜も、雪の下積になって我慢して、いったい何を待っていたのだろう。ぞっとするね。雪が消えて、こんなきたならしい姿を現わしたところで、生きかえるわけはないんだし、これはこのまま腐って行くだけなんだ。(菊代のほうに向き直り、ガラス戸に背をもたせかけ、笑いながら冗談みたいな口調で)めぐり来れる春も、このくたびれ切った枯葉たちには、無意味だ。なんのために雪の下で永い間、辛抱していたのだろう。雪が消えたところで、この枯葉たちは、どうにもなりやしないんだ。ナンセンス、というものだ。
菊代、声立てて笑う。
(野中)(わざとまじめな顔になって)いや、笑いごとじゃありませんよ。僕たちだって、こんなナンセンスの春の枯葉かも知れないさ。十年間も、それ以上も、こらえて、辛抱して、どうやら虫のように、わずかに生きて来たような気がしているけれども、しかし、いつのまにやら、枯れて落ちて死んでしまっているのかも知れない。これからは、ただ腐って行くだけで、春が来ても夏が来ても、永遠によみがえる事がないのに、それに気がつかず、人並に春の来るのを待っていたりして、まるでもう意味の無い身の上になってしまっているんじゃないのかな。
(菊代)(あっさり)案外、センチメンタルね、先生は。しっかりなさいよ。先生はまだお若いわ。これからじゃないの。
(野中)(ちょっと本気に怒ったみたいに顔をしかめ)くだらん事を言っちゃいけない。僕はもう三十六です。都会の人たちと違って、田舎者の三十六と言えば、もう孫が出来ている年頃だ。からかっちゃいけません。
(菊代) でも、先生にはまだお子さんがおひとりも無いじゃないの。だから、どこかお若く見えるわ。奥さんだって、あんなにお綺麗で、あたしより若いくらい。いくつ違うのかしら。
(野中) 誰とですか?
(菊代) あたしと、よ。
(野中)(興味無さそうに)女房は、三十一です。
(菊代) じゃあ、あたしと八つも違うのね。ずいぶん若く見えるわ。家附き娘だけあって、貫禄はあるし、どこから見たって立派な奥さんだわ。先生は果報者ね。あんな奥さんだったら、養子もまんざらでないでしょう?
(野中)(いよいよ、不機嫌そうに)なぜ、あなたは、そんなつまらない事ばかり言うのです。よしましょう、もう、そんな話は。何かきょう僕に用事でもあって来たのですか?
(菊代)(平然と)お金を持って来たのよ。
(野中) お金を?
(菊代) そうよ。(帯の間から、白い角封筒を出し、歩いて野中教師の傍に寄り)先生、黙って、ね、何もおっしゃらずに、黙って、受け取って頂戴!
(野中)(無意識の如く払いのけ)なに、なんですか?
(菊代) いいのよ、先生。平気な顔して受け取ってよ。そうして、おすきなように使って頂戴。誰にも言っちゃ、いやよ。
(野中)(腕組みして苦笑する)わかりました。しかし、僕も、落ちたものだな。菊代さん、まあいいから、その封筒はそちらへ引込めて下さい。
菊代、封筒を持てあまして、それを、傍の学童の机の上にそっと置く。
(野中) 御承知のように、僕のところは貧乏です。ひどく貧乏です。どんな人でも、僕の家に間借りして、同じ屋根の下に住んでみたら、田舎教師という者のケチ臭いみじめな日常生活には、あいそが尽きるに違いないんだ。殊につい最近、東京から疎開して来たばかりの若い娘さんの眼には、もうとても我慢の出来ない地獄絵のように見えるかも知れない。しかし、御心配無用なんだ。あなたたちの御同情は、ありがたいけれども、しかし、僕たちの家庭にはまた僕たちの家庭のプライドがあるんだ。かえって僕たちは、あなたたちに同情しているくらいなんだ。そんな、お金なんか、そんな、そんな心配は今後は絶対にしないで下さい。僕たちはあなたたちから毎月もらっている部屋代だって、高すぎると思っているんです。気の毒に思っているんだ。さあ、もう、わかったから、そんなお金なんか、ひっこめて下さい。一緒に家へ帰りましょう。菊代さん! でも、あなたは、(しげしげと菊代の顔を見つめて)いいひとですね。御好意だけは、身にしみて有難く頂戴しました。(軽く笑って)握手しましょう。
野中教師、右手を差し出す。ぴしゃと小さい音が聞えるほど強く菊代はその野中の掌を撃つ。
(菊代)(嘲笑の表情で)ああ、きざだ。思いちがいしないでね。間が抜けて見えるわよ。あたしは何でも知っている。みんな知っている。そんな事をおっしゃっても、あなたたちは、本当はお金がほしいんです。気取らなくたっていいわよ。あなたも、それからあなたの奥さんも、それからお母さんも、みんなお金がほしいのよ。ほしくてほしくて仕様が無いのよ。そのくせ、あなたたちは貧乏じゃない。貧乏だ、貧乏だとおっしゃっているけれども、貧乏じゃない。ちゃんとしたお家もあれば土地もあるし、着物だって洋服だってたくさんたくさん持っている。それでも、お金がほしいんだ。慾が深いのよ。ケチなのよ。お金よりも、よいものがこの世の中に無いと思い込んでしまっているんだ。それにくらべて、まあ、あたしたちの生活は、どうでしょう。兄は、前からずっとこの土地にいたのだから、あのひとは、べつだけれども、あたしは父とふたりで東京へ出て、大戦がはじまる前だってちっとも楽じゃ無かったし、いよいよ大戦がはじまって、あたしも父の工場に出て職工さんたちと一緒に働くようになった頃から、もう、あたしたちは生きているのだか死んでいるのだか、何が何やら、無我夢中でその日その日を送り迎えして、そのうちに綺麗に焼かれて、いまはあたしたちのものと言ったら、以前こちらに疎開させてあった行李五つだけ、本当にもうそれだけなのよ。父がひとり東京に踏みとどまって頑張って、あたしだけ、兄のところへやっかいになりに来たのだけれども、本当にあたしには何も無いのよ。何も無いから仕方なくこんないやらしい派手な着物なんかを行李の底から引っぱり出して着ているのだけど、田舎の人たちの眼から見ると、あたしたちがおそろしくぜいたくなお洒落の衣裳道楽をしているみたいに見えているんじゃないかしら。ところが、それはあべこべで、地味な普段着も何も焼いてしまって、こんな十六、七の頃に着た着物しか残っていないので、仕方なく着ているのだわ。お金だって、そのとおり、同じことよ。あたしたちには、もう何も無いのよ。いいえ、兄はあんな真面目くさった性質だから或いはお金をいくらかためているかも知れないけど、あたしたちにはもう何も無いのよ。手にはいったお金は、もうその場でみんな使ってしまうし、父もあたしも十年間、東京でそんな暮しをして来たのだわ。でも、あたしは、そのあいだ一度だって、お金をほしいと思った事は無かったわ。無ければ無いで、またどんなにかして切り抜けてやって行けたのだもの。だけど、田舎では、そうはいかないのね。田舎では人間の価値を、現金があるか無いかできめてしまうのね。それだけが標準なのだわ。もう冗談も何も無く、つめたく落ちついてそう信じ切ってしまっているのだから、おそろしいわ。ぞっとする事があるわ。どんなにお上品に取りすましていたって、心の中では、やっぱりそうなのだから、いやになるわ。もしあたしにいま一文もお金が無いという事がわかったら、あなたの奥さんも、お母さんも、それから、あなただって、どんなにいやな顔をするでしょう。いいえ、それにきまっているわ。しんそこから、あたしという女を軽蔑し、薄きたない気味の悪いものに思うにきまっていますよ。あたしは、うっかり、自分の貧乏を口にすることも出来やしない。あなたたちは違うのよ。あなたたちは、ご自分のことを貧乏だの何だのと言っても、そりゃもうちゃんとした財産のあることが誰にもわかっているのだから、物価が高くて困るとか、このさきどうしようなんておっしゃっても、それはご愛嬌にもなるけれど、それをもし、あたしたちが言ったらどうでしょう。冗談にもご愛嬌にもなりやしない。ただもう浅間しい、みじめな下等な人種として警戒されるくらいのものなのだわ。ばかばかしい。だからあたしたちは、お金のありったけを気前よくぱっぱっと使って見せなければならなくなるのよ。そうするとあなたたちはまた、東京で暮して来た奴等は、むだ使いしてだらしがないと言うし、それかと言って、あなたたちと同様にケチな暮し方をするともう、本物の貧乏人の、みじめな、まるでもう毛虫か乞食みたいなあしらいを頂戴するし、いったい、あなたの奥さんなんて、どこが偉くてあんなに気取っているの? 何か、あたしたちと人種が違うの? ひどく取り澄まして、あたしが冗談を言っても笑わず、いつでもあたしたちより一段と高いところにいるひとみたいに振舞っているけど、あれはいったい何さ。美人だって? 笑わせやがる。東京の三流の下宿屋の薄暗い帳場に、あんなヘチマの粕漬みたいな振わない顔をしたおかみさんがいますよ。あたしには、わかっている。あんなひとこそ、誰よりも一ばんお金をほしがっているんだ。慾張っているんだ。ケチなんだ。亭主よりも親よりも、お金だけを尊敬しているんだ。あたしには、わかる。先生、そのお金は、どうぞ奥さんに渡してやって下さい。先生、あたしの味方になってね! あたしは復讐したいんです。先生、その封筒の中には、あなたの奥さんの一ばん喜ぶものがはいっているんです。全部、新円です。あたしが自分でもうけたお金ですから、誰にも遠慮は要らないんです。
二、三の学童の口笛が聞える。はる、こうろうの花のえん、の曲の合奏である。
(菊代)(その口笛に聞耳を立て)おや、あたしのお友だちが迎えに来た。行かなくちゃいけない。それじゃあ、お願いしてよ。いいでしょう? 奥さんにね、あたしからだって言わないで、先生から何とか上手に嘘ついて奥さんにあげてよ。あのお澄ましの奥さんが、どんな顔をするか、ああ愉快だ。
菊代、上手の出入口に向って走り去る。野中教師、はっと気を取り直して呼びとめる。
(野中) お待ちなさい、菊代さん。どこへ行くのです。
菊代、戸口のところに立ち上り、野中教師のほうにくるりと向き直る。口笛は、なお聞えている。
(菊代)(ほがらかに)お友だちのところへ。
(野中) それじゃあの歌は、あなたが教えてやったのですね?
(菊代)(むしろ得意そうに)そうよ。あたしたちは音楽会をひらくのよ。音楽会をひらいてもうけるのよ。新円をかせぐのよ。はる、こうろう、も、それから、唐人お吉も、それから青い目をした異人さんという歌も、みんなあたしが教えたのよ。きょうはこれからみんなでお寺に集ってお稽古。うちへ帰るのがおそくなるでしょうから、兄さんにそう言ってね、日本の文化のためですからってね。
菊代、くすくす笑いながら退場。口笛はなお続く。舞台また少し暗くなる。
野中教師、菊代を二、三歩追いかけ、それから立ちどまり、引返して机の上の角封筒を取り上げ、上衣のポケットに入れて、少し考え、また取り出して封筒の中をしらべる。大型の紙幣、一枚二枚と黙って数える。十枚。あたりを見まわす。また数え直す。
第二場
舞台は、国民学校教師、野中弥一宅の奥の六畳間。ここは、奥田義雄、同菊代の兄妹が借りている。
部屋の前方は砂地の庭。草も花もなし。きたなげの所謂「春の枯葉」のみ、そちこちに散らばっている。
舞台とまる。
弥一の義母しづ、庭の物干竿より、たくさんの洗濯物を取り込みのさいちゅう。
菊代の兄、奥田義雄は、六畳間の縁側にしゃがんで七輪をばたばた煽ぎ煮物をしながら、傍に何やら書籍を置いて読んでいる。
斜陽は既に薄れ、暮靄の気配。
第一場と同じ日。
(しづ)(洗濯物を取り込み、それを両腕に一ぱいかかえ、上手に立ち去りかけて、ふと縁側のほうを見て立ちどまり)あら、奥田先生、お鍋が吹きこぼれていますよ。
(奥田)(あわてて鍋の蓋を取り、しづの方を見て苦笑し)妹がまたきょうも、どこかへ飛び出して、帰らないものだから、どうも。
(しづ) おや、おや。それでは、お兄さんもたいへんですね。(笑いながら縁側に近寄り)何を煮ていらっしゃるの?
(奥田)(いそいでまた鍋の蓋をして)いや、これは見せられません。何でもかんでもぶち込んで煮て、そうして眼をつぶって呑み込んでしまうつもりなんです。
(しづ)(声を立てて笑って)本当に、男の方の炊事はお気の毒で、見て居られませんわ。あとで、おしんこか何か持って来てあげましょう。
(奥田)(まじめに)いいえ、何も要りません。学生の頃から十何年間、こんな生活ばかりして来たので、かえって妹と一緒にいて妹のへんに気取った料理などを食べるのは、不愉快なくらいなんです。(書籍を持って立ち上り、部屋へはいって、電燈をつける。それから縁側に面した机に向ってあぐらをかき、つまり、観客に正面を向いて坐って、書籍を机の上に置き、無意識の如くパラパラ書籍のペエジをもてあそびながら、ぶっきらぼうに)女のこさえた料理なんて、僕はいちどもおいしいと思ったことが無いんです。
(しづ)(洗濯物を縁側にそっと置いて、自身も浅く縁側に腰をかけ)それはまあ。(鷹揚に笑って、それからしんみり)お母さんが亡くなって、もう何年になりますかしら。
(奥田)(べつに何の感慨も無げに)僕がここの小学校にはいったとしの夏に死んだのですから、もう二十年にもなります。
(しづ) もう、そんなになりますかねえ。わたくしどもも、お母さんのお葬式の時の事は、よく覚えていますよ。(洗濯物を一枚一枚畳みながら)いまの、あの、妹さんがお父さんに手をひかれて、よちよち歩いてお焼香した時の姿が、まだどうしても忘れられません。あれを見てわたくしどもは、ああ、母親というものは、小さい子供を残しては、死んでも死にきれないと思いました。
(奥田)(冷静に)しかし、母は、自殺したのです。
(しづ)(顔を挙げて)まあ、そんな、あなた、決してそんな。
(奥田) 野中先生から聞きました。おもてむきは、心臓麻痺という事になっているけれども、たしかに自殺だ。うちで使っていた色の黒い料理人と通じて、外聞が悪くなって自殺したのだ。だから、妹の菊代の本当の父は、どっちだかわからない。それで僕のうちでは、旅館をやめて、この土地を引払い青森へ行き、僕が青森の師範学校へはいるようになったら、こんどは、父は僕ひとりを残して妹と二人で東京へ行ってしまった。よっぽど父は、この津軽地方には、いたくなかったらしい、と野中先生に聞かせていただきました。
(しづ) まあ、あのひとは、なんというおそろしい事を言うんでしょう。みんな、もう、根も葉も無い事です。だいいち、あなたのお母さんが亡くなった頃には、あの人はまだ、この村に来てやしません。あのひとが、わたくしどものうちへ養子に来てから、まだ十年も経っていないのですよ。その前は、あの人の生れた黒石のうちにいて、黒石の小学校の先生をしていたのですし、この村のそんな、二十年も昔の事など知っているわけはないじゃありませんか。ばかばかしい。
(奥田)(軽く)いいえ、でも、土地に新しく来た人というものは、へんにその土地の秘密に敏感なものですよ。
(しづ)(さびしく笑って)でたらめですよ。そんな馬鹿らしい事ってあるものですか。(ふと語調を変えて)あの人はその時、お酒を飲んでいませんでしたか? あなたにそれを言った時に。
(奥田)(ぼんやり)ええ、酔っていました。
(しづ) そうでしょう? (意気込んで)それにきまっています。あの人は若い時に、哲学だか文学だかをやった事があるんだそうで、そのためにひどい神経衰弱になって、それがまだすっかりなおっていないんでしょうね、いまでもお酒を飲むと、まるでもう気違いみたいなへんな事を口走って、ご自分が夢で見た事を、そのままげんざい在った事みたいに、それはもう、しつっこく言い張ったりして、いつもわたくしどもは泣かされていますのです。そんなまあ、料理人と、どうのこうのなんて、よくもまあ。
(奥田)(苦笑しながら)でも、その、色の黒い料理人というのは、たしかにうちにいましたね。函館の男だとかいって、ちょっとこう一曲ありそうな、……子供心にも覚えています。
(しづ)(やや鋭く)およしなさい、ばからしい。ご人格にかかわりますよ。
(奥田) 僕は平気です。過去の事なんか、どうだっていいんです。
(しづ) よかあ、ありませんよ。だいいち、あの人も、失礼じゃありませんか。げんざい、奥田家のご総領に向って、そんなおそろしい事を言うなんて、まるで、鬼です。
(奥田) 鬼は、ひどい。(快活に笑う)
(しづ)(急きこんで)鬼ですとも。鬼以上かも知れない。あなたには、あの人の真のおそろしさが、まだわかっていらっしゃらないのです。お酒を飲むと、もう、まるで気違いですし、意地くねが悪いというのか、陰険というのか、よそのひとには、ひどくあいそがいいようですけど、内の者にはそりゃもう、冷酷というのでしょうか、残忍というのでしょうか、いいえ、ほんとう、本当でございますよ。げんにあなた、こないだだって、……。
(奥田)(さえぎるように)でも、野中先生は、正直ないいお方ですよ。(微笑して)僕なんかが、こんな事を言うのは、それこそ失礼かも知れませんが、これは、お母さんも、また奥さんも、一つ考え直さなければならないところがあるんじゃありませんか。
(しづ) まあ! (洗濯物を押しのけて、奥田のほうにからだをねじ向け)たとえば? たとえば、それは、どんなところでしょうか。
(奥田) たとえば、……さあ、……(口ごもる)
(しづ)(勢い込んで)わたくしは、もう、これだからいやなんです。誰ひとり、わたくしどもの、ひと知れぬ苦労をわかってくれやしないんですものねえ。養子を迎えた家の者たちのこまかい心遣いったら、そりゃもうたいへんなものなんです。殊にもあんな、まあ一口に言うと、働きの無い、万事に劣った人間を養子に迎えて、この野中の家を継がせ、世間のもの笑いにならないよう、何とかしてわたくしどもの力で、あのひとのボロを隠してあげたいと思って、よそさまへは、あのひとの悪いところは一言も言わず、かえって嘘ついてあの人をほめて聞かせたりして来ましたのに、あの人はまあ何と思っているのやら、剛情、とでもいうんでしょうかねえ、素直なところが一つも無くて、あれで内心は、ご自分の出た黒石の山本の家が自慢で自慢でならないらしく、それはまあ黒石の山本の家は、お城下まちの地主さんで、こんな田舎の漁師まちの貧乏な家とは、くらべものにならないくらい大きい立派なお屋敷に違いございませんけれど、なあに地主さんだって、今では内証はみんな火の車だそうじゃありませんか。昔からあの家は、お仲人の振れ込みほどのことも無く、ケチくさいというのか、不人情というのか、わたくしどもの考えとは、まるで違った考えをお持ちのようで、あのひとがこちらへ来てからまる八年間、一枚の着換えも、一銭の小遣いもあのひとに送って来た事が無いんですよ。そんなにむごくされても、あの人は、やっぱり生れた家に未練があるのか、いつだったか、あの黒石の兄さんが、何とか議員に当選した時の、まあ、あの人の喜びようったら、あさましくて、あいそが尽きました。議員なんて、何もそんなに偉いものではないと思いますがねえ。わたくしどもの野中家は、それはもうこんな田舎の貧乏な家ですけれども、それでも、よそさまから、うしろ指一本さされた事も無く、先祖代々この村のために尽して、殊にも、わたくしの連れ合いは、御承知のように、この津軽地方の模範教員として、勲章までいただいて居りますし、それに、わたくしどもの死んだ長男は、東京帝大の医科にはいって、もう十年もそれ以上も、昔の話でございますけど、あれが卒業間際に死んだ時には、帝大の先生やら学生さんやら、たくさんの人からおくやみ状をいただき、また、こんな片田舎にまで、わざわざご自身でお墓まいりに来て下さった先生さえあったのです。本当にもう、あれが生きていたら、あれさえ生きていてくれたら。(泣く)いまごろはもうあれも、立派なお医者になって、わたくしどもも、いまのような、こんな苦労をしなくても、……(くどくどと、涙まじりの愚痴になる)
(奥田)(もてあまし気味で)しかし、そんな事をおっしゃったって、……。お母さん。僕の、考え直さなければいけないところというのも、つまり、そんなところなんです。ここの、野中のお宅のご主人は、いまは、あの野中先生なんでしょう? 過ぎ去った事よりも、現在が大事じゃありませんか。僕には、養子というものは本来どんな姿のものであるべきか、その道徳上の本質がよくわからないんですけれども、しかし、あなたたちのように、客間の正面に、あんな大きなお父さんのお写真と、それからお兄さんのお写真を、これ見よがしに掲げたりなんかして置いては、野中先生もあれで気の弱いお方ですから、何だか落ちつかない気持になるんじゃないでしょうか。
(しづ)(顔を挙げて)それは、あの人が劣っているせいです。いたらないせいです。わたくしどもが、あの写真を二つ並べて飾ってあるのは、あの人にも、死んだ父や兄に負けないくらいの人物になってもらいたいという、つまり、あの人をはげます意味で、それで、……。
(奥田) だから、それが、(笑い出して)いや、きりがないですね、こんな事を言い合っていても。(立ち上り、縁側に出て、鍋を七輪からおろし、かわりに鉄瓶をかける。この動作の間に、ひとりごとのように)これからも一生、野中家だ、山本家だ、と互いに意地を張りとおして、そうして、どういう事になるのかな? 僕には、わからん。わからん。
(しづ)(興覚めた様子で)あなたも、いまにお嫁さんをおもらいになったら、おわかりでしょう。(立ち上り、襟元を掻き合せ)おお、寒い。雪が消えても、やっぱり夕方になると、冷えますね。(そそくさと洗濯物をかかえ込んで)お邪魔しました。
風吹き起り、砂ほこりが立つ。春の枯葉も庭の隅で舞う。
しづ、上手より退場。
(奥田)(縁側に立って、それを見送り)おしんこか何かとどけてくれると言ったが、あの工合いじゃあてにならん。(ひとりで笑って)さあ、めしにしようか。
奥田、鍋を部屋のなかに持ち運び、障子をしめる。障子に、奥田の、立って動いて、何やら食事の仕度をしている影法師が写る。ぼんやり、その奥田の影法師のうしろに、女の影法師が浮ぶ。
その女の影法師は、じっと立ったまま動かぬ。外は夕闇。
国民学校教師、野中弥一、酔歩蹣跚の姿で、下手より、庭へ登場。右手に一升瓶、すでに半分飲んで、残りの半分を持参という形。左手には、大きい平目二まい縄でくくってぶらさげている。
(野中) 奥田せんせい。やあ、いるいる。おう、菊代さんもいるな。こいつあ、いい。大いにやろう。酒もあり、さかなもある。
障子の女の影法師、ふっと掻き消すようにいなくなる。
同時に、障子があいて、奥田が笑いながら顔を出す。
(奥田) ああ、お帰り。(縁側に出る)いいご機嫌ですね。きょうは、どこか、ご招待でもあったんですか?
(野中) ご招待? ご招待とは情ない。(縁側にどかりと腰をおろし)いかに我等国民学校教員が常に赤貧洗うが如しと雖も、だ、あに必ずしも有力者どもの残肴余滴にあずからんや、だ。ねえ、菊代さん、そうじゃありませんか。(腕をのばして障子を左右一ぱいにあけ放つ)菊代さん! おや、いないのか。
(奥田) 妹は、まだ帰って来ないんです。また、れいの文化会でしょう。
(野中)(少し落ちつき)そう。それは僕も知っているんだが、……しかし、いま、たしかに、……。
(奥田)(静かに)きょうは、ずいぶんお酔いになっていらっしゃるようですね。まあ、お上りなさいませんか。
(野中)(急にまた元気づいて)ああ、上らせてもらおう。(サンダルのようなものを脱いで縁側に上り、よろめき)きょうは、ひとつ、盛大にやろうじゃないか。このたびの教員大異動に於いて、君も僕も、クビにならず、まず以て無事であった。これを祝する意味に於いて、だ、(一升瓶とさかなを両手にぶらさげ部屋にはいり、部屋の上手の襖をあけ)おうい、おうい。節子! (と母屋に呼びかける)
野中の妻、節子、登場。しかし、襖の外にしゃがんでいる形なので観客からは見えぬ。
(野中)(その襖の外の節子に平目を手渡しながら)たったいま、浜からあがった平目だ。刺身にしてくれ。奥田先生と今夜は、ここで宴会だ。いいかい、刺身をすぐに、どっさり持って来てくれ。どっさりだよ。待て、待て。一まいは刺身に、一まいは焼く、という事にしたらいい。もの惜しみをしちゃいけねえ。お前たちも、食べろ。いいかい、お母さんにも、イヤというほど食べさせろ。
節子、無言で静かに襖をしめる。
(野中)(にやにや笑いながら一升瓶を持ったまま奥田の机の傍に坐り)どうも、ねえ、漁師まちの先生をしていながら、さかなが食えねえとは、あまりにみじめすぎるよ。
(奥田)(部屋の中央に持ち運んだ鍋やら茶碗やらを、また部屋の隅に片づけながら)さかなは、どうです、いま。新円になってから、すこしは安くなりましたか。
(野中)(苦笑して)安くならねえ。漁師の鼻息ったら、たいしたものさ。平目一まいの値段が、僕たちの一箇月分の給料とほぼ相似たるものだからな。このごろの漁師はもう、子供にお小遣いをねだられると百円札なんかを平気でくれてやっているのだからね。
(奥田) そう、そうらしいですね。(部屋の中央に据えた小さな食卓も部屋の隅に取片づけ)子供たちにあんな大金を持たせるのは、いい事じゃないと思いますがね。子供たちの間で、このごろ、ばくちがはやっているそうじゃありませんか。
(野中) そうらしい。何もかも、滅茶苦茶さ。(語調をかえて)君、その食卓は、そこに置いといたほうがいいよ。金の話なんか、つまらない。飲もう。茶呑茶碗を二つ貸してくれ。
奥田、またその小さい食卓を部屋の中央に据えて、それから、茶呑茶碗を取りに縁側へ出る。
(野中)(その間に、ふと、傍の机の上にある奥田の読みかけの書籍を取り上げて)フランス革命史、なんだ、こんなものを読んでいるのか。よせ、よせ。歴史は繰り返しやしねえ。(軽く書籍を畳の上にほうり出す)歴史は繰り返すなんて、どだい、あれは、君、弁証法を知らんよ、なんてね、僕もこれは一つ、社会党へでもはいって出世をしようかな。つまらない。飲もう! 飲んで鬱を晴らそう。汝、無力なる国民学校教師よ。
二人、小さい食卓をはさんであぐらを掻き、野中は、二つの茶呑茶碗に一升瓶の酒をつぐ。
(野中) 乾盃! (ぐっと飲む)
(奥田)(飲みかけて、よす)なんですか? これは。ガソリンのようなにおいがしますね。(そのまま茶碗を食卓の上に置く)
(野中) サントリイ。
(奥田) え?
(野中) サントリイウイスキイ。(と言いながら一升瓶を目の高さまで持ち上げ、電燈の光にすかして見て)無色透明なるサントリイウイスキイ。一升百五十円。
(奥田) 冗談じゃない。
(野中) いや、そこが面白いところさ。僕だって知ってるよ、これは薬用アルコールに水を割っただけのものさ。しかしだね、僕にこれをサントリイウイスキイだと言って百五十円でゆずってくれた人は、だ、いいかね、そのひとは、この村の酒飲みのさる漁師だが、このひと自身も、これをサントリイウイスキイという名前の、まことに高級なる飲み物であると信じ切っているんだから愉快じゃないか。つまり、その漁師は、青森あたりにさかなを売りに行って、そうして帰りに青森の闇屋にだまされて、三升、いや、四升かも知れん、サントリイウイスキイなる高級品を仕入れて来て、そうしてきょう朝っぱらから近所の飲み仲間を集めて酒盛りをひらいていた、そこへ僕が、さかなをゆずってもらいに顔を出したというわけだ。たちまち彼等は僕をつかまえ、あなたならばたしかに知っているに違いないが、これはサントリイといってわれらの口には少しもったいなすぎる酒だ、ぜひとも先生に一ぱい飲んでいただきたい、と言って大きい茶碗になみなみとついで突きつける。見ると、かくのごとく無色透明、しかも、この匂い。僕もさすがに躊躇したよ。れいの、あの、メチルかも知れないしねえ。しかし、僕は、あの漁師たちの、一点疑うところ無き実に誇らしげな表情を見て、たまらなくなり、死を決した。うむ、死を決した。この愚かで無邪気な、そうして哀しい漁師たちと一緒に死のうと覚悟した。僕は飲んだよ。そんなに味がわるくない。しかも、気持よく、ぽっと酔う。そこでだ、僕は、彼等から一升をわけてもらって、彼等と共に大いに飲んだ。やはり、サントリイに限る、サントリイを飲むと、他の酒はまずくて飲まれん、なんて僕はお世辞を言ってね、そうして妙に悲しかったよ。(言いながら、自分で注いで自分で飲む)あ、そうだ、煙草もあるんだ。吸い給え。たくさんあるんだ。(上衣のポケットから、バラの紙巻煙草を一つかみ取り出し、食卓の上に置く)やっぱり、あの漁師たちから、わけてもらって来たんだ。まったく、あいつらのところには、何でもあるなあ。
(奥田)(ほとんど無表情で煙草を一本とり)いただきます。(ズボンのポケットから、マッチを取り出し煙草に点火する)
(野中) みんなあげる。みんなあげるよ。僕には、まだまだたくさんあるんだ。(さらに酒をひとりで注いで飲んで)
あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない
という歌を知っているかね。これはね、「ドアをひらけば」というこの頃の流行歌だがね、知らんのか、君は。聞いた事が無いのかね。これは意外だ。怠慢の二字に尽きる。フランス革命史なんかよりは、現代の流行歌のほうが、少くとも我々にとっては重大ではないか。いやしくも君、国民学校の教師でありながら、君、(言いながら、また酒を注いで飲んで)現代の流行歌一つご存じないとは、君。
(奥田) 大丈夫ですか? そんなに飲んで。
(野中) 大丈夫、だいじょうぶ。これは君、サントリイウイスキイという高級品じゃないか。馬鹿にするな。君もそんなに気取ってないで一口まあ、こころみてごらん。
あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない
ちょっといいね、これは。失恋の歌だそうだよ。あわれじゃないか。まあ一つ飲め。(一升瓶を持ち上げる)
(奥田)(それを制して)いや、僕のはまだここに一ぱいあります。(苦笑しながら、申しわけみたいにちょっと自分の茶碗に口をつけ、すぐまたそれを卓の上に置き)どうも、これは。
(野中) いのちが惜しいか。(笑う)
上手の襖しずかにあく。
野中の妻、節子、大きいお皿二つを捧げてはいって来る。一つのお皿には刺身、一つのお皿には焼き肴。
(野中) やあ、来た、来た。おう、こりゃまた豪華だね。多すぎるぞ、これあ。
(節子)(にこりともせず、食卓の上を片づけて、その二つの皿を置き)これで、全部でございます。
(野中) 全部? (顔を挙げて、節子の顔を見る)お母さんは? 食べないのか?
(節子)(まじめに)あの、わたくしどもは、ごはんはもう、すみました。
(野中)(憤然と)そうか。(矢庭に食卓をひっくりかえす)久しぶりの平目じゃないか。お母さんにも、お前にも、みんなに食べてもらいたくて買って来たんだ。それを、なんだ。きたないものみたいにして、気味のわるいものみたいにして、一口も食べてくれないとは、あまり、あんまり、ひどいじゃないか。(泣き声になる)
節子、無言で、その辺に散らばった肴を皿の上に拾い集める。
(野中) やめろ! 拾うのは、やめてくれ。それは皆、捨てちまえ! 拾い集めてもらって、また食べるなんて、あまり惨めだ。惨めすぎる。少しは、こっちの気持も察してくれよ。(上衣の内ポケットから、白い角封筒を出し、節子の手もとにほうってやって)まだ、七、八百円は残っている筈だ。新円だぞ。それで肴を買って来い。たったいま買って来い。ケチケチするな。鯛でも鮪でも、漁師の家にあるものを全部を買って来い。ついでに甚兵衛のところへ寄って、このサントリイウイスキイがまだ残っていたら、もう一升ゆずってもらって来い。これからまた僕は飲み直すんだ。そうして、ぜひとも、お母さんとお前に、肴を食べてもらうんだ。
(節子)(角封筒のほうには目もくれず、黙ってうなだれている。やがて静かに面を挙げて)あの、お伺いしたい事がございます。
(野中)(たじろぎ)何だ。何か文句があるのか。
(節子)(緊張した声で)あなたは、いったい、……。
この時、舞台下手より庭先へ、学童二名駈け込み、「先生! 奥田先生!」と叫ぶ。
奥田教師、縁側に出る。学童二名、息せき切って何やら奥田教師に囁く。
(奥田)(それを聞いて)そうか、よし。すぐ行く。(部屋へはいって、壁にかけてある自身の上衣をとって着ながら野中に)妹が警察に挙げられました。ばくちです。麻雀賭博を学校の子供たちに教えてやっていたのです。たぶん、そんな事じゃないかと思っていました。ちょっと警察に行って来ます。(会釈して、縁側に出て、はきものを捜す)
(野中)(蹌踉と立ち上り)僕も行く。
(奥田)(靴をはきながら)だめ、だめ。あなたはもう、どだい、歩けやしませんよ。(学童たちに向い)さ、行こう。
奥田教師、学童二名と共に舞台下手に走り去る。
(野中)(夢遊病者の如くほとんど無表情で歩き、縁側から足袋はだしで降りて)僕も行く。
野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。
節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふと、膝元の白い角封筒に眼をとめ、取りあげて立ち、縁側に出てはきものを捜し、野中のサンダルをつっかけ、無言で皆のあとを追う。
第三場
舞台は、月下の海浜。砂浜に漁船が三艘あげられている。そのあたりに、一むらがりの枯れた葦が立っている。
背景は、青森湾。
舞台とまる。
一陣の風が吹いて、漁船のあたりからおびただしく春の枯葉舞い立つ。
いつのまにやら、前場の姿のままの野中教師、音も無く花道より登場。
すこし離れて、その影の如く、妻節子、うなだれてつき従う。
(野中)(舞台中央まで来て、疲れ果てたる者の如く、かたわらの漁師に倒れるように寄りかかり)ああ、頭が痛い。これあ、ひどい。
節子、無言で野中に寄り添い、あたりを見廻し、それから白い角封筒をそっと野中に差し出す。角封筒は月光を受けて、鋭く光る。
(野中)(力弱くそれを片手で払いのけるようにして)それは、お前から、菊代さんにやってくれ。
節子、そのままの形で、黙って野中の顔を見つめている。
(野中) いやなら、いい。(節子の手から封筒をひったくり、自身の上衣のポケットにねじ込み)僕から、返してやる。(急にまた、ぐたりとなって)しかし、お前は、強いなあ。……負けた、負けた。僕は、負けたよ。お前たちのこんな強さは、いったい、何から来ているのだろうなあ。男女同権どころじゃない。これじゃ、あべこべに男のほうからお助けを乞わなくちゃいけねえ。いったい、なんだい? お前たちのその強さの本質は、さ。封建、といったってはじまらねえ。保守、といってみたってばかげている。どだいそんな、歴史的なものじゃあ無えような気がする。有史以前から、お前たちには、そんな強さがあったんだ。そうしてまた、これから、この地球に人類の存在するかぎり、いや、動物の存続する限り、お前たちは、永久に強いんだ。
(節子)(落ちついて)あなたは、はずかしくないのですか?
(野中)(呻く)ううむ、ちえっ、ちくしょう! (顔を挙げて)全人類を代表してお前に言う。お前は、悪魔だ!
(節子)(冷く)なぜですか!
(野中) わからんのか? 人が死ぬほど恥かしがっているその現場に平気で乗り込んで来て、恥かしくありませんかと聞ける奴あ悪魔だ。
(節子) あなたは、はずかしがっていません。
(野中) どうしてわかる? どうして、それがわかるんだ。
(節子)(無言)
(野中) イエス答をなし給わず、か。お前のその、何も物を言わぬという武器は、強いねえ。あんまり、いじめないでくれよ。ああ、頭が痛い。
(節子) これから、どうなさるのですか?
(野中) 死ぬんだ。死にゃあいいんだろう? どうせ僕は、野中家の面よごしなんだから、死んで申しわけを致しますですよ。(崩れるように、砂の上にあぐらを掻き)ああ、頭が痛い。切腹だ。切腹をして死んでしまうんだ。
(節子) ふざけている時ではございません。菊代さんを、あなたは、どうなさるおつもりです。
(野中) どうもこうも出来やしねえ。ああ、頭が痛い。(頭をかかえ込んで、砂の上に寝ころび)負けたんだよ、僕たちは。僕と菊代さんは、お前たちに叛逆をたくらんだが、お前たちは意外に強くて、僕たちは惨敗を喫したんだ。押せども、引けども、お前たちは、びくともしねえ。
(節子) だって、あなたたちは、間違った事をしているのですもの。
(野中) 聖書にこれあり。赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。この意味がわかるか。間違いをした事がないという自信を持っている奴に限って薄情だという事さ。罪多き者は、その愛深し。
(節子) 詭弁ですわ。それでは、人間は、努めてたくさんの悪い事をしたほうがいいのですか?
(野中) そこだ! 問題は。(笑う)何が、そこだ! だ。僕はいま罪人なんだ。人を教える資格なんか無いのに、どうも、永く教員なんかしていると、教壇意識がつきまとっていけねえ。いったい、この国民学校の教員というものの正体は何だ。だいいち、どだい、学問が無い。外国語を自由に読める先生が、この津軽地方には、ひとりもいない。外国語どころか、源氏物語だって読めやしない。なんにも知らねえ癖に、それでも、教壇に立って、自信ありげに何か教えていやがる。学問が無くても、人格が立派とでもいうんならまだしも、毎日の自分の食べものに追われて走り廻っている有様で、人格もクソもあるもんか。学童を愛する点に於いては、学童たちの父母に及びもつかぬし、子供の遊び相手、として見ても、幼稚園の保姆にはるかに劣る。校舎の番人としては、小使いのほうが先生よりも、ずっと役に立つし、そもそもこの、先生という言葉には、全然何も意味が無い。むしろ、軽蔑感を含んでいる言葉だ。どうせからかうつもりなら、いっそもう、閣下とでも呼んでもらいたい。僕たちの社会的の地位たるや、ほとんどまるで乞食坊主と同じくらいのものなんだ。国民学校の先生になるという事はもう、世の中の廃残者、失敗者、落伍者、変人、無能力者、そんなものでしか無い証拠だという事になっているんだ。僕たちは、乞食だ。先生という綽名を附けられて、からかわれている乞食だ。おい、奥田先生だって、やっぱり同じ事なんだぜ。あきらめろ、あきらめろ。
(節子)(鋭く)なんですの? (幽かに笑い)へんな事をおっしゃいますわね。
(野中) 知ってるよ。お前のあこがれのひとは、誰だか。
(節子) まあ! そんな。よして下さい! 下劣ですわ。
(野中) なんでも無いじゃないか。人間は皆、あこがれのひとを二人や三人持っているものだ。で、どうなんだい? その後の進行状態は。
(節子) わたくしには、あなたのおっしゃる事が、ちっともわかりません。
(野中) よし、それじゃ、わかるように言ってやろう。お前は、きょう僕の帰る前に、奥田先生の部屋に行っていたね。
(節子)(はっきり)ええ、まいりました。奥田先生がおひとりで晩ごはんのお仕度をしていらっしゃるという事を母から聞いて、何かお手伝いでもしようかと思ってお部屋をのぞいてみました。
(野中) それは、ご親切な事だ。お前にもそれだけの愛情があるとは妙だ。いいことだ。美談だ。しかし、僕が外から声をかけたとたんに、お前はふっと姿をかき消したが、あれは、どういうご親切からなんだい?
(節子) いやだったからです。
(野中) へんだね。
(節子)(泣き声になり)いったい、なんとお答えしたらいいのです。
(野中) まあ、いいや。よそう。つまらん。どうせお前には、かないっこないんだ。ああ、あ。世は滔々として民主革命の行われつつあり、同胞ひとしく祖国再建のため、新しいスタートラインに並んで立って勇んでいるのに、僕ひとりは、なんという事だ。相も変らず酔いどれて、女房に焼きもちを焼いて、破廉恥の口争いをしたりして、まるで地獄だ。しかし、これもまた僕の現実。ああ、眠い。このまま眠って、永遠に眼が覚めなかったら、僕もたすかるのだがなあ。(眠った様子)
(節子)(野中の肩に手をかけて)もし、もし。(肩をゆすぶる)
(野中)(なかば、うわごとの如く)殺せ! うるさい! あっちへ行け!
奥田教師、上手より、うろうろ登場。
(奥田) あ、おくさん! (寝ている野中を見ていよいよ驚き)どうしたんです、これあ。
(節子) あなたの後を追ってここまで来て、寝てしまいました。それよりも、菊代さんは? いかがでしたの?
(奥田) いや、それがね、あの子供たちを途中で見失ってしまいましてね。とにかく、僕ひとり警察の前まで行って、それとなく中の様子をうかがって見たんですが、ばかに静かで、べつに変った事も無いようなんです。へたに騒ぎ立てて恥をかいてもつまりませんし、さっきの生徒たちを捜して、もういちどよく聞きただそうと思って、引返して来たところなんです。ことによったら、あいつ、……。
(節子) え?
(奥田) いや、べつに、……。
(節子) 奥田先生! わたくしどもは、菊代さんに何か悪い事でもしたのでしょうか。
(奥田)(あらたまって)なぜですか?
(節子) ばくちで警察に挙げられたなんて、嘘です。わたくしには、もうみな、わかりました。(急に泣き出す)あんまりですわ。あんまりですわ。なぜ、わたくしどもはこんなに、菊代さんにからかわれなければならないのです。
(奥田) すみません。実は、僕も、警察の前まで行って、すぐこれあ菊代に一ぱい食わされたなと思ったのですが、しかし、もしそうだとしても、なんのために、子供たちまで使って、こんな、ばからしい狂言を、……。
(節子) それは、わかっています。菊代さんは、野中をけしかけて酒や肴を買わせて、そうしてわたくしや母にまでごちそうさせて、それから、そのお金は実は菊代さんがばくちでもうけたお金だという事を知らせて、いい気持でごちそうになっている母やわたくしがみっともなく狼狽するさまを、かげでごらんになってあざ笑うつもりだったのでしょうけれど、でも、それにしても、策略があくどすぎます。あんまり、意地がわるすぎます。
(奥田) すると? あの金は?
(節子) ご存じじゃなかったのですか? 菊代さんのお金です。
(奥田) そうですか。いや、いかにも、あいつのやりそうないたずらだ。(笑う)
(節子) まだあります。野中にたきつけて、わたくしとあなたと、……。
(奥田)(まじめになり)しかし、おくさん。妹はばかな奴ですが、そんな、くだらない事は言わない筈です。
(節子) でも、野中はさっき、わたくしを疑っているような、いやな事を言いました。
(奥田) それじゃあ、それは野中先生ひとりの空想です。野中先生は少しロマンチストですからね。いつか僕と議論した事がありました。野中先生のおっしゃるには、この世の中にいかにおびただしく裏切りが行われているか、おそらくは想像を絶するものだ、いかに近い肉親でも友人でも、かげでは必ず裏切って悪口や何かを言っているものだ、人間がもし自分の周囲に絶えず行われている自分に対する裏切りの実相を一つ残らず全部知ったならば、その人間は発狂するだろう、という事でした。しかし僕はそれに反対して、人間は現実よりも、その現実にからまる空想のために悩まされているものだ。空想は限りなくひろがるけれども、しかし、現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎないのだ。この世の中は、決して美しいところではないけれども、しかし、そんな無限に醜悪なところではない。おそろしいのは、空想の世界だ、とまあ言ったのですが、どうも、野中先生の空想には困ります。
(節子)(変った声で)でも、それが本当だったら?
(奥田)(どぎまぎして)え? 何がですか?
(節子) 野中のその空想が。
(奥田) おくさん! (怒ったように)何をおっしゃるのです。
(節子)(声を挙げて泣き)わたくしは今まで何一つ悪い事をした覚えがありません。それなのに、なぜみなさんがわたくしをこんなにいじめるのでしょう。わたくしは自身の楽しみは一つもせずに、野中の家のために努めて来ました。家の名誉を大事に守るというのは悪い事ですか? 教えて下さい。あすの生活の不安の無いように、辛抱してむだ遣いをつつしむというのは悪い事ですか? 田舎女は田舎女らしく、音楽会や映画にも行かず家の中で黙って針仕事をしている事は、わるい事ですか? 小説も読まず酒も飲まず行儀をよくして男のひとと間違いを起さないというのは、悪い事ですか? 野中が先刻、間違いをしない人間は薄情だと言いましたが、そんなら人間は間違いをしたほうが正しいのですか? 先生、わたくしは田舎くさくて頭の悪い女です。何もわかりません。教えて下さい。わたくしが先生を好きだったとしたら、かりにそうだったとしたら、かえってわたくしが正しいのですか? わたくしは口が下手です。よく言えないんです。わたくしは、言葉を知らないのです。ただ、わたくしは、こらえて来ました。辛抱して来ました。自分で自分のすきな事を言ったりおこなったりするのは悪い事だと思って来ました。先生、教えて下さい。わたくしはもう、何がどうなのか、わからなくなって来たのです。わたくしのどこがいけなくて、みんながわたくしをこんなにいじめるのですか。
(奥田) おくさん。善悪の彼岸という言葉がありますね。善と悪との向う岸です。倫理には、正しい事と正しくない事と、それからもう一つ何かあるんじゃないでしょうかね。おくさんのように、ただもう、物事を正、不正と二つにわけようとしても、わけ切れるものではないんじゃないですか?
(節子) よくわかりませんけれど、それでは、わたくしが何か間違いを起しても?
(奥田)(笑って)それあいけません。どだい、不自然ですよ。それこそ、おくさんの空想の領域です。おくさんは、野中先生をずいぶん大事にしていらっしゃる。それがまた、おくさんの生き甲斐なのでしょう? ばかばかしい空想はやめましょう。おくさん、今夜は、どうかしていますね。現実の問題にかえりましょう。(語調をあらためて)僕たちは、お宅から引越します。問題は、それだけです。僕は学校の宿直室へ行きますし、妹は、あれは、東京へまた帰ったほうがいいだろうと思います。
遠くから、はる、こうろうの花のえん、の合唱が聞える。学童たちの声にまじって、菊代らしき女の声もまじる。
間。
(節子)(冷静になり、顔を挙げて、はっきり)そうお願い致します。
(奥田)(かえってまごつき)なんですか?
(節子)(それにかまわず、遠くの歌声に耳を傾け)ああやって歌をうたって遊ぶのが、都会ふうで、そうして文化的とかいうもので、日本はこれから、男も女もみんな、菊代さんのようにならなければならないのでしょうか。わたくしのような、旧式な田舎女は、もう、だめなのでしょうか。わたくしには、やっぱりどうしても、わかりませんわ。なぜ、人間は、都会ふうでなければいけないのです。なぜ、田舎くさいのは、だめなんです。
(奥田) 人間がだめになったんですよ。張り合いが無くなったんですよ。大理想も大思潮も、タカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕は、いまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。菊代の事は、菊代自身が処理するでしょう。僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人かも知れません。自己に就いての空想は、少しも持っていません。
(節子)(しずかに)それは、どんな意味ですの?
(奥田) 妹は妹、僕は僕、という事です。いや、人は人、僕は僕、と言ってもいいかも知れない。おくさん、あんまり他人の事は気にしないほうがいいですよ。
(節子) でも、菊代さんは、わたくしどもをいじめます。野中をそそのかして、わたくしどもの家庭を、……。
(奥田)(笑って)引越しますよ、すぐに。
(節子)(にくしみを含めて)たすかりますわ。
歌声すこしずつ近くなる。
風吹く。枯葉舞う。
(奥田) 寒くなりましたね。(寝ている野中のほうを顎でしゃくって)どうしますか? ずいぶん今夜は飲んだからなあ。
(節子) 悪いお酒じゃないんですか? 頭が痛い痛いと言っていましたけど。
(奥田) だいじょうぶでしょう。あれと同じ酒を、漁師たちが朝から飲んでいて、それでなんとも無いようですから。
(節子) でも、あの人たちと野中とでは、からだがまるで違いますもの。
(奥田) 試験台にはなりませんか。(笑う)どれ、僕が背負って行ってやろうかな?
(節子)(それをさえぎって、鋭く)いいえ。わたくしが致します。もう、お手数はかけません。
(奥田) 他人は他人、旦那は旦那ですか。(いや味なく笑う)そのほうがいいんです。それじゃ僕はちょっと、あの(と歌声のほうを指さし)チンピラの音楽団のほうへ行って、妹をつかまえて、事の真相を問いただしてみましょう。つまらない悪戯をしやがって。(言いながら気軽に上手より退場)
風さらに強く吹く。
歌声いよいよ近づく。
(節子)(奥田を見送り、それから、しゃがんで野中の肩をゆすぶる)もし、もし。風邪をひきますよ。さ、一緒に帰りましょうね。(野中の手をとり)まあ、こんなに冷くなって。すみませんでしたわね。わたくしが悪かったのよ。あなた、どうなさったの? (顔を近寄せる)あなた! (狂乱の如く野中の顔、胸、脚など撫でまわし)もし、あなた! (突然立ち上って上手に走り)奥田先生! 奥田せんせい! (また馳せかえり、野中の死体に武者振りついて泣く)すみません、すみません。あなた、もういちど眼をあいて。わたくしは、心をいれかえたのよ。これからはお酒のお相手でも何でもしようと思っていましたのに、あなた! (号泣する)
風。枯葉。歌声。
底本:「太宰治全集8」ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2005年1月15日作成
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