素戔嗚尊
芥川龍之介
|
高天原の国も春になった。
今は四方の山々を見渡しても、雪の残っている峰は一つもなかった。牛馬の遊んでいる草原は一面に仄かな緑をなすって、その裾を流れて行く天の安河の水の光も、いつか何となく人懐しい暖みを湛えているようであった。ましてその河下にある部落には、もう燕も帰って来れば、女たちが瓶を頭に載せて、水を汲みに行く噴き井の椿も、とうに点々と白い花を濡れ石の上に落していた。──
そう云う長閑な春の日の午後、天の安河の河原には大勢の若者が集まって、余念もなく力競べに耽っていた。
始、彼等は手ん手に弓矢を執って、頭上の大空へ矢を飛ばせた。彼等の弓の林の中からは、勇ましい弦の鳴る音が風のように起ったり止んだりした。そうしてその音の起る度に、矢は無数の蝗のごとく、日の光に羽根を光らせながら、折から空に懸っている霞の中へ飛んで行った。が、その中でも白い隼の羽根の矢ばかりは、必ずほかの矢よりも高く──ほとんど影も見えなくなるほど高く揚った。それは黒と白と市松模様の倭衣を着た、容貌の醜い一人の若者が、太い白檀木の弓を握って、時々切って放す利り矢であった。
その白羽の矢が舞い上る度に、ほかの若者たちは空を仰いで、口々に彼の技倆を褒めそやした。が、その矢がいつも彼等のより高く揚る事を知ると、彼等は次第に彼の征矢に冷淡な態度を装い出した。のみならず彼等の中の何者かが、彼には到底及ばなくとも、かなり高い所まで矢を飛ばすと、反ってその方へ賛辞を与えたりした。
容貌の醜い若者は、それでも快活に矢を飛ばせ続けた。するとほかの若者たちは、誰からともなく弓を引かなくなった。だから今まで紛々と乱れ飛んでいた矢の雨も、見る見る数が少くなって来た。そうしてとうとうしまいには、彼の射る白羽の矢ばかりが、まるで昼見える流星のように、たった一筋空へ上るようになった。
その内に彼も弓を止めて、得意らしい色を浮べながら、仲間の若者たちの方を振返った。が、彼の近所にはその満足を共にすべく、一人の若者も見当らなかった。彼等はもうその時には、みんな河原の水際により集まって、美しい天の安河の流れを飛び越えるのに熱中していた。
彼等は互に競い合って、同じ河の流れにしても、幅の広い所を飛び越えようとした。時によると不運な若者は、焼太刀のように日を照り返した河の中へ転げ落ちて、眩ゆい水煙を揚げる事もあった。が、大抵は向うの汀へ、ちょうど谷を渡る鹿のように、ひらりひらりと飛び移って行った。そうして今まで立っていたこちらの汀を振返っては声々に笑ったり話したりしていた。
容貌の醜い若者はこの新しい遊戯を見ると、すぐに弓矢を砂の上に捨てて、身軽く河の流れを躍り越えた。そこは彼等が飛んだ中でも、最も幅の広い所であった。けれどもほかの若者たちはさらに彼には頓着しなかった。彼等には彼の後で飛んだ──彼よりも幅の狭い所を彼よりも楽に飛び越えた、背の高い美貌の若者の方が、遥に人気があるらしかった。その若者は彼と同じ市松の倭衣を着ていたが、頸に懸けた勾玉や腕に嵌めた釧などは、誰よりも精巧な物であった。彼は腕を組んだまま、ちょいと羨しそうな眼を挙げて、その若者を眺めたが、やがて彼等の群を離れて、たった一人陽炎の中を河下の方へ歩き出した。
河下の方へ歩き出した彼は、やがて誰一人飛んだ事のない、三丈ほども幅のある流れの汀へ足を止めた。そこは一旦湍った水が今までの勢いを失いながら、両岸の石と砂との間に青々と澱んでいる所であった。彼はしばらくその水面を目測しているらしかったが、急に二三歩汀を去ると、まるで石投げを離れた石のように、勢いよくそこを飛び越えようとした。が、今度はとうとう飛び損じて、凄じい水煙を立てながら、まっさかさまに深みへ落ちこんでしまった。
彼の河へ落ちた所は、ほかの若者たちがいる所と大して離れていなかった。だから彼の失敗はすぐに彼等の目にもはいった。彼等のある者はこれを見ると、「ざまを見ろ」と云うように腹を抱えて笑い出した。と同時にまたある者は、やはり囃し立てながらも、以前よりは遥に同情のある声援の言葉を与えたりした。そう云う好意のある連中の中には、あの精巧な勾玉や釧の美しさを誇っている若者なども交っていた。彼等は彼の失敗のために、世間一般の弱者のごとく、始めて彼に幾分の親しみを持つ事が出来たのであった。が、彼等も一瞬の後には、また以前の沈黙に──敵意を蔵した沈黙に還らなければならない事が出来た。
と云うのは河に落ちた彼が、濡れ鼠のようになったまま、向うの汀へ這い上ったと思うと、執念深くもう一度その幅の広い流れの上を飛び越えようとしたからであった。いや、飛び越えようとしたばかりではない。彼は足を縮めながら、明礬色の水の上へ踊り上ったと思う内に、難なくそこを飛び越えた。そうしてこちらの水際へ、雲のような砂煙を舞い上げながら、どさりと大きな尻餅をついた。それは彼等の笑を買うべく、余りに壮厳すぎる滑稽であった。勿論彼等の間からは、喝采も歓呼も起らなかった。
彼は手足の砂を払うと、やっとずぶ濡れになった体を起して、仲間の若者たちの方を眺めやった。が、彼等はもうその時には、流れを飛び越えるのにも飽きたと見えて、また何か新しい力競べを試むべく、面白そうに笑い興じながら、河上の方へ急ぐ所であった。それでもまだ容貌の醜い若者は、快活な心もちを失わなかった。と云うよりも失う筈がなかった。何故と云えば彼等の不快は未に彼には通じなかった。彼はこう云う点になると、実際どこまでも御目出度く出来上った人間の一人であった。しかしまたその御目出度さがあらゆる強者に特有な烙印である事も事実であった。だから仲間の若者たちが河上の方へ行くのを見ると、彼はまだ滴を垂らしたまま、麗らかな春の日に目かげをして、のそのそ砂の上を歩き出した。
その間にほかの若者たちは、河原に散在する巌石を持上げ合う遊戯を始めていた。岩は牛ほどの大きさのも、羊ほどの小ささのも、いろいろ陽炎の中に転がっていた。彼等はみんな腕まくりをして、なるべく大きい岩を抱き起そうとした。が、手ごろな巌石のほかは、中でも膂力の逞しい五六人の若者たちでないと、容易に砂から離れなかった。そこでこの力競べは、自然と彼等五六人の独占する遊戯に変ってしまった。彼等はいずれも大きな岩を軽々と擡げたり投げたりした。殊に赤と白と三角模様の倭衣の袖をまくり上げた、顔中鬚に埋まっている、背の低い猪首の若者は、誰も持ち上げない巌石を自由に動かして見せた。周囲に佇んだ若者たちは、彼の非凡な力業に賞讃の声を惜まなかった。彼もまたその賞讃の声に報ゆべく、次第に大きな巌石に力を試みようとするらしかった。
あの容貌の醜い若者は、ちょうどこの五六人の力競の真最中へ来合せたのであった。
あの容貌の醜い若者は、両腕を胸に組んだまま、しばらくは力自慢の五六人が勝負を争うのを眺めていた。が、やがて技癢に堪え兼ねたのか、自分も水だらけな袖をまくると、幅の広い肩を聳かせて、まるで洞穴を出る熊のように、のそのそとその連中の中へはいって行った。そうしてまだ誰も持ち上げない巌石の一つを抱くが早いか、何の苦もなくその岩を肩の上までさし上げて見せた。
しかし大勢の若者たちは、依然として彼には冷淡であった。ただ、その中でもさっきから賞讃の声を浴びていた、背の低い猪首の若者だけは、容易ならない競争者が現れた事を知ったと見えて、さすがに妬ましそうな流し眼をじろじろ彼の方へ注いでいた。その内に彼は担いだ岩を肩の上で一揺り揺ってから、人のいない向うの砂の上へ勢いよくどうと投げ落した。するとあの猪首の若者はちょうど餌に饑えた虎のように、猛然と身を躍らせながら、その巌石へ飛びかかったと思うと、咄嗟の間に抱え上げて、彼にも劣らず楽々と肩よりも高くかざして見せた。
それはこの二人の腕力が、ほかの力自慢の連中よりも数段上にあると云う事を雄弁に語っている証拠であった。そこで今まで臆面も無く力競べをしていた若者たちはいずれも興のさめた顔を見合せながら、周囲に佇んでいる見物仲間へ嫌でも加わらずにはいられなかった。その代りまた後に残った二人は、本来さほど敵意のある間柄でもなかったが、騎虎の勢いで已むを得ず、どちらか一方が降参するまで雌雄を争わずにはいられなくなった。この形勢を見た多勢の若者たちは、あの猪首の若者がさし上げた岩を投げると同時に、これまでよりは一層熱心にどっとどよみを作りながら、今度はずぶ濡れになった彼の方へいつになく一斉に眼を注いだ。が、彼等がただ勝負にのみ興味を持っていると云う事は、──彼自身に対してはやはり好意を持っていないと云う事は、彼等の意地悪るそうな眼の中にも、明かによめる事実であった。
それでも彼は相不変悠々と手に唾など吐きながら、さっきのよりさらに一嵩大きい巌石の側へ歩み寄った。それから両手に岩を抑えて、しばらく呼吸を計っていたが、たちまちうんと力を入れると、一気に腹まで抱え上げた。最後にその手をさし換えてから、見る見る内にまた肩まで物も見事に担いで見せた。が、今度は投げ出さずに、眼で猪首の若者を招くと、人の好さそうな微笑を浮べながら、
「さあ、受取るのだ。」と声をかけた。
猪首の若者は数歩を隔てて、時々髭を噛みながら、嘲るように彼を眺めていたが、
「よし。」と一言答えると、つかつかと彼の側へ進み寄って、すぐにその巌石を小山のような肩へ抱き取った。そうして二三歩歩いてから、一度眼の上までさし上げて置いて、力の限り向うへ抛り投げた。岩は凄じい地響きをさせながら、見物の若者たちの近くへ落ちて、銀粉のような砂煙を揚げた。
大勢の若者たちはまた以前のようにどよめき立った。が、その声がまだ消えない内に、もうあの猪首の若者は、さらに勝敗を争うべく、前にも増して大きい岩を水際の砂から抱き起していた。
二人はこう云う力競べを何回となく闘わせた。その内に追い追い二人とも、疲労の気色を現して来た。彼等の顔や手足には、玉のような汗が滴っていた。のみならず彼等の着ている倭衣は、模様の赤黒も見えないほど、一面に砂にまみれていた。それでも彼等は息を切らせながら、必死に巌石を擡げ合って、最後の勝敗が決するまでは容易に止めそうな容子もなかった。
彼等を取り巻いた若者たちの興味は、二人の疲労が加わるのにつれて、益々強くなるらしかった。この点ではこの若者たちも闘鶏や闘犬の見物同様、残忍でもあれば冷酷でもあった。彼等はもう猪首の若者に特別な好意を持たなかった。それにはすでに勝負の興味が、余りに強く彼等の心を興奮の網に捉えていた。だから彼等は二人の力者に、代る代る声援を与えた。古来そのために無数の鶏、無数の犬、無数の人間が徒らに尊い血を流した、──宿命的にあらゆる物を狂気にさせる声援を与えた。
勿論この声援は二人の若者にも作用した。彼等は互に血走った眼の中に、恐るべき憎悪を感じ合った。殊に背の低い猪首の若者は、露骨にその憎悪を示して憚らなかった。彼の投げ捨てる巌石は、しばしば偶然とは解釈し難いほど、あの容貌の醜い若者の足もとに近く転げ落ちた。が、彼はそう云う危険に全然無頓着でいるらしかった。あるいは無頓着に見えるくらい、刻々近づいて来る勝敗に心を奪われているのかも知れなかった。
彼は今も相手の投げた巌石を危く躱しながら、とうとうしまいには勇を鼓して、これも水際に横わっている牛ほどの岩を引起しにかかった。岩は斜に流れを裂いて、淙々とたぎる春の水に千年の苔を洗わせていた。この大岩を擡げる事は、高天原第一の強力と云われた手力雄命でさえ、たやすく出来ようとは思われなかった。が、彼はそれを両手に抱くと、片膝砂へついたまま、渾身の力を揮い起して、ともかくも岩の根を埋めた砂の中からは抱え上げた。
この人間以上の膂力は、周囲に佇んだ若者たちから、ほとんど声援を与うべき余裕さえ奪った観があった。彼等は皆息を呑んで千曳の大岩を抱えながら、砂に片膝ついた彼の姿を眼も離さずに眺めていた。彼はしばらくの間動かなかった。しかし彼が懸命の力を尽している事だけは、その手足から滴り落ちる汗の絶えないのにも明かであった。それがやや久しく続いた後、声をひそめていた若者たちは、誰からともなくまたどよみを挙げた。ただそのどよみは前のような、勢いの好い声援の叫びではなく、思わず彼等の口を洩れた驚歎の呻きにほかならなかった。何故と云えばこの時彼は、大岩の下に肩を入れて、今までついていた片膝を少しずつ擡げ出したからであった。岩は彼が身を起すと共に、一寸ずつ、一分ずつ、じりじり砂を離れて行った。そうして再び彼等の間から一種のどよみが起った時には、彼はすでに突兀たる巌石を肩に支えながら、みずらの髪を額に乱して、あたかも大地を裂いて出た土雷の神のごとく、河原に横わる乱石の中に雄々しくも立ち上っていた。
千曳の大岩を担いだ彼は、二足三足蹌踉と流れの汀から歩みを運ぶと、必死と食いしばった歯の間から、ほとんど呻吟する様な声で、「好いか渡すぞ。」と相手を呼んだ。
猪首の若者は逡巡した。少くとも一瞬間は、凄壮そのもののような彼の姿に一種の威圧を感じたらしかった。が、これもすぐにまた絶望的な勇気を振い起して、
「よし。」と噛みつくように答えたと思うと、奮然と大手を拡げながら、やにわにあの大岩を抱き取ろうとした。
岩はほどなく彼の肩から、猪首の若者の肩へ移り出した。それはあたかも雲の堰が押し移るがごとく緩漫であった。と同時にまた雲の峰が堰き止め難いごとく刻薄であった。猪首の若者はまっ赤になって、狼のように牙を噛みながら、次第にのしかかって来る千曳の岩を逞しい肩に支えようとした。しかし岩が相手の肩から全く彼の肩へ移った時、彼の体は刹那の間、大風の中の旗竿のごとく揺れ動いたように思われた。するとたちまち彼の顔も半面を埋めた鬚を除いて、見る見る色を失い出した。そうしてその青ざめた額から、足もとの眩い砂の上へ頻に汗の玉が落ち始めた。──と思う間もなく今度は肩の岩が、ちょうどさっきとは反対に一寸ずつ、一分ずつ、じりじり彼を圧して行った。彼はそれでも死力を尽して、両手に岩を支えながら、最後まで悪闘を続けようとしたが、岩は依然として運命のごとく下って来た。彼の体は曲り出した。彼の頭も垂れるようになった。今の彼はどこから見ても、石塊の下にもがいている蟹とさらに変りはなかった。
周囲に集まった若者たちは、余りの事に気を奪われて、茫然とこの悲劇を見守っていた。また実際彼等の手では、到底千曳の大岩の下から彼を救い出す事はむずかしかった。いや、あの容貌の醜い若者でさえ、今となっては相手の背からさっき擡げた大盤石を取りのける事が出来るかどうか、疑わしいのは勿論であった。だから彼もしばらくの間は、恐怖と驚愕とを代る代る醜い顔に表しながら、ただ、漫然と自失した眼を相手に注ぐよりほかはなかった。
その内に猪首の若者は、とうとう大岩に背を圧されて、崩折れるように砂へ膝をついた。その拍子に彼の口からは、叫ぶとも呻くとも形容出来ない、苦しそうな声が一声溢れて来た。あの容貌の醜い若者は、その声が耳にはいるが早いか、急に悪夢から覚めたごとく、猛然と身を飜して、相手の上に蔽いかぶさった大岩を向うへ押しのけようとした。が、彼がまだ手さえかけない内に、猪首の若者は多愛もなく砂の上にのめりながら、岩にひしがれる骨の音と共に、眼からも口からも夥しく鮮な血を迸らせた。それがこの憐むべき強力の若者の最期であった。
あの容貌の醜い若者は、ぼんやり手を束ねたまま、陽炎の中に倒れている相手の屍骸を見下した。それから苦しそうな視線を挙げて、無言の答を求めるように、おずおず周囲に立っている若者たちを見廻した。が、大勢の若者たちは麗らかな日の光を浴びて、いずれも黙念と眼を伏せながら、一人も彼の醜い顔を仰ぎ見ようとするものはなかった。
高天原の国の若者たちは、それ以来この容貌の醜い若者に冷淡を装う事が出来なくなった。彼等のある一団は彼の非凡な腕力に露骨な嫉妬を示し出した。他の一団はまた犬のごとく盲目的に彼を崇拝した。さらにまた他の一団は彼の野性と御目出度さとに残酷な嘲笑を浴せかけた。最後に数人の若者たちは心から彼に信服した。が、敵味方の差別なく彼等がいずれも彼に対して、一種の威圧を感じ始めた事は、打ち消しようのない事実であった。
こう云う彼等の感情の変化は、勿論彼自身も見逃さなかった。が、彼のために悲惨な死を招いた、あの猪首の若者の記憶は、未だに彼の心の底に傷ましい痕跡を残していた。この記憶を抱いている彼は、彼等の好意と反感との前に、いずれも当惑に似た感じを味わないではいられなかった。殊に彼を尊敬する一団の若者たちに接する時は、ほとんど童女にでも似つかわしい羞恥の情さえ感じ勝ちであった。これが彼の味方には、今までよりまた一層、彼に好意の目なざしを向けさせることになるらしかった。と同時に彼の敵には、それだけ彼に反感を加えさせる事にもなるらしかった。
彼はなるべく人を避けた。そうして多くはたった一人、その部落を繞る山間の自然の中に時を過ごした。自然は彼に優しかった。森は木の芽を煙らせながら、孤独に苦しんでいる彼の耳へも、人懐しい山鳩の声を送って来る事を忘れなかった。沢も芽ぐんだ蘆と共に、彼の寂寥を慰むべく、仄かに暖い春の雲を物静な水に映していた。藪木の交る針金雀花、熊笹の中から飛び立つ雉子、それから深い谷川の水光りを乱す鮎の群、──彼はほとんど至る所に、仲間の若者たちの間には感じられない、安息と平和とを見出した。そこには愛憎の差別はなかった、すべて平等に日の光と微風との幸福に浴していた。しかし──しかし彼は人間であった。
時々彼が谷川の石の上に、水を掠めて去来する岩燕を眺めていると、あるいは山峡の辛夷の下に、蜜に酔って飛びも出来ない虻の羽音を聞いていると、何とも云いようのない寂しさが突然彼を襲う事があった。彼はその寂しさが、どこから来るのだかわからなかった。ただ、それが何年か前に、母を失った時の悲しみと似ているような気もちだけがした。彼はその当座どこへ行っても、当然そこにいるべき母のいない事を見せられると、必ず落莫たる空虚の感じに圧倒されるのが常であった。その悲しみに比べると、今の彼の寂しさが、より強いものとは思われなかった。が、一人の母を恋い歎くより、より大きいと云う心もちはあった。だから彼は山間の春の中に、鳥や獣のごとくさまよいながら、幸福と共に不可解な不幸をも味わずにはいられなかった。
彼はこの寂しさに悩まされると、しばしば山腹に枝を張った、高い柏の梢に上って、遥か目の下の谷間の景色にぼんやりと眺め入る事があった。谷間にはいつも彼の部落が、天の安河の河原に近く、碁石のように点々と茅葺き屋根を並べていた。どうかするとまたその屋根の上には、火食の煙が幾すじもかすかに立ち昇っている様も見えた。彼は太い柏の枝へ馬乗りに跨がりながら、長い間その部落の空を渡って来る風に吹かれていた。風は柏の小枝を揺って、折々枝頭の若芽の匀を日の光の中に煽り立てた。が、彼にはその風が、彼の耳元を流れる度に、こう云う言葉を細々と囁いて行くように思われた。
「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、あの部落の中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」
しかし素戔嗚は風と一しょに、さまよって歩こうとは思わなかった。では何が孤独な彼を高天原の国に繋いでいたか。──彼は自らそう尋ねると、必ず恥かしさに顔が赤くなった。それはこの容貌の醜い若者にも、私かに彼が愛している部落の娘がいたからであった。そうしてその娘に彼のような野人が恋をすると云う事は、彼自身にも何となく不似合の感じがしたからであった。
彼が始めてこの娘に遇ったのは、やはりあの山腹の柏の梢に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天の安河を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟の間に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻に何か笑い興じていた。
彼等は皆竹籠を臂にかけている所を見ると、花か木の芽か山独活を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑しいものの娘でない事は、彼等の肩に懸っている、美しい領巾を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。
素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨っていた太枝を掴んで、だらりと宙に吊り下った。と思うと一つ弾みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子に足を辷らせて、呆気にとられた女たちの中へ、仰向けさまに転がってしまった。
女たちは一瞬間、唖のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然と、女たちの顔を睨めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。
「あなたは一体どこにいらしったの?」
やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑しさが残っているようであった。
「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」
素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。
女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故に彼等を脅すべく、一層不機嫌らしい眼つきを見せた。
「何が可笑しい?」
が、彼等には彼の威嚇も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾を弄びながら、
「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。
「鳩を助けてやろうと思ったのだ。」
「私たちだって助けてやる心算でしたわ。」
三番目の娘は笑いながら、活き活きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子もすぐれて溌溂としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故と云う事もなく狼狽した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌て方を見せたくないと云う心もちもあった。
「嘘をつけ。」
彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算でしたわ。」
彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。
「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛いのじゃございません。」
彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊された蜜蜂のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒しそうな擬勢を示しながら、雷のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、──」
女たちはさすがに驚いたらしく、慌てて彼の側を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜の花を摘み取っては、一斉に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの匀の好い雨を浴びたまま、呆気にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯な女たちの方へ、二足三足突進した。
彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止ったなり、次第に遠くなる領巾の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故か薄笑いが、自然と唇に上って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後にはただ草木の栄を孕んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
何分か後、あの羽根を傷けた山鳩は、怯ず怯ずまたそこへ還って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。──
その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅ぎつけるには、余りに平生の素戔嗚が、恋愛とは遥に縁の遠い、野蛮な生活を送り過ぎていた。
彼は相不変人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲んでいる大鷲を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗、その非凡な膂力を尽すべき、手強い相手を見出さなかった。山の向うに穴居している、慓悍の名を得た侏儒でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀み合う事を憚らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。──
現に一度はこう云うことがあった。
ある麗かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山を独り下って来た。その時の彼の心の中には、さっき射損じた一頭の牡鹿が、まだ折々は未練がましく、鮮かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平になって、一本の楡の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕のごとく彼に仕えるために、反って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。
彼は彼等の姿を見ると、咄嗟に何事か起りそうな、忌わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ。」と声をかけた。
その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽な事を滔々と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷けたり虐めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨みつけて、
「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄な文句を並べたりした。
素戔嗚は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那に彼の崇拝者は、よくよく口惜しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴みかかった。
「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」
こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔らせながら、今度は彼へ獅噛みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度を失った素戔嗚へ、紛々と拳を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭に下った時、彼は理非も忘れるほど真底から一時に腹が立った。
たちまち彼等は入り乱れて、互に打ったり打たれたりし出した。あたりに草を食んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方に気をとめる容子は見えなかった。
が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地なく草山を逃げ下って行った。
素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好いのだ。」
若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴られた事は、一面に地腫のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑しさがこみ上げて来た。
「どうした? 怪我はしなかったか?」
「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。──それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」
「うん、瘤が一つ出来ただけだった。」
素戔嗚はこう云う一言に忌々しさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡の根本に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘が、夢のような気さえしないではなかった。
二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。
「どうです。瘤は痛みますか。」
「大して痛まない。」
「米を噛んでつけて置くと好いそうですよ。」
「そうか。それは好い事を聞いた。」
ちょうどこの喧嘩と同じように、素戔嗚は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊だの手力雄尊だのと云う年長者に敬意を払っていた。しかしそれらの尊たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木の幹へ腰を下して、思いのほか打融けた世間話などをし始めた。
尊はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力が、大分評判のようじゃありませんか。」
しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬に笑を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐があるのですから。」
素戔嗚にはこの答が、一向腑に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも──」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬わなくっても、砂金は始から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら──」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗の薹の匀を嗅ぎ始めた。
素戔嗚はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊が彼の非凡な腕力へ途切れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競べがあった時、あなたと岩を擡げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日がさした古沼の上へ漂わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽ぐんだ春の木々をひっそりと仄明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦げていますよ。第一私に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚の骨頂じゃありませんか。」
「しかし私は何となく気が咎めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反って憎まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
その時尊は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目が一尾、溌溂と銀のように躍っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目な調子になって、白い顎髯を捻りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹くものが潜んでいたのであった。
「鉤が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には──」
思兼尊の皺だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠が、時々水を掠めながら、礫を打つように飛んで行った。
その間もあの快活な娘の姿は、絶えず素戔嗚の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏の下で、始めて彼女と遇った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子も見せなかった。──
ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴き井の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕へ水を汲んでいるのに遇った。噴き井の上には白椿が、まだ疎に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫は、その花と葉とを洩れる日の光に、かすかな虹を描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸した井筒に溢れる水を素焼の甕へ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲み了えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交う燕の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端に、彼女は品良く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶の点頭を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後を追って、やはり釘を撒くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井の側へ歩み寄って、大きな掌へ掬った水に、二口三口喉を沾した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己自身を嘲りたいような気もしないではなかった。
その間に女たちはそよ風に領巾を飜しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴き井から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。
噴き井の水を飲んでいた彼は、幸その視線に煩わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟に覚束ない影を落した。素戔嗚は慌てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添えにした、あの牛飼の崇拝者であった。
「お早うございます。」
若者は愛想笑いを見せながら、恭しく彼に会釈をした。
「お早う。」
彼はこの若者にまで、狼狽した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。
が、若者はさり気ない調子で、噴き井の上に枝垂れかかった白椿の花を毮りながら、
「もう瘤は御癒りですか。」
「うん、とうに癒った。」
彼は真面目にこんな返事をした。
「生米を御つけになりましたか。」
「つけた。あれは思ったより利き目があるらしかった。」
若者は毮った椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、
「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」
「何だ。その好い事と云うのは。」
彼が不審そうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな笑を頬に浮べたまま、
「あなたの頸にかけて御出でになる、勾玉を一つ頂かせて下さい。」と云った。
「勾玉をくれ? くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ?」
「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」
「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」
素戔嗚はそろそろ焦れ出しながら、突慳貪に若者の請を却けた。すると相手は狡猾そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、
「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」
彼は苦い顔をして、相手の眉の間を睨みつけた。が、内心は少からず、狼狽に狼狽を重ねていた。
「御好きじゃありませんか、あの思兼尊の姪を。」
「そうか。あれは思兼尊の姪か。」
彼は際どい声を出した。若者はその容子を見ると、凱歌を挙げるように笑い出した。
「そら、御覧なさい。隠したってすぐに露われます。」
彼はまた口を噤んで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫を浴びた石の間には、疎に羊歯の葉が芽ぐんでいた。
「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」
若者は鞭を弄びながら、透かさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち鮮に浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら──彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、
「そうして勾玉をどうするのだ?」と云った。
しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。
若者の答えは無造作であった。
「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」
素戔嗚はちょいとためらった。この男の弁舌を弄する事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に躊躇の色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を継いだ。
「御嫌なら仕方はありませんが。」
二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は頸に懸けた勾玉の中から、美しい琅玕の玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿くなった母の遺物であった。
若者はその琅玕に物欲しそうな眼を落しながら、
「これは立派な勾玉ですね、こんな性の好い琅玕は、そう沢山はありますまい。」
「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造が、七日七晩磨いたと云う玉だ。」
彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に背を向けて、大股に噴き井から歩み去った。若者はしかし勾玉を掌の上に載せながら、慌てて後を追いかけて来た。
「待っていて下さい。必ず二三日中には、吉左右を御聞かせしますから。」
「うん、急がなくって好いが。」
彼等は倭衣の肩を並べて、絶え間なく飛び交う燕の中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、中高になった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。
その日の暮方、若者は例の草山の楡の根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑竹の笛を帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧の所有者として知られている、背の高い美貌の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも無愛想に、
「何か御用ですか。」と返事をした。
「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」
若者は苦い顔をしながら、琅玕を相手の手に渡した。
「君の玉かい。」
「いいえ、素戔嗚尊の玉です。」
今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。
「じゃいつもあの男が、自慢そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石塊同様の玉ばかりだが。」
若者は毒口を利きながら、しばらくその勾玉を弄んでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、
「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。
牛飼いの若者は否と返事をする代りに、頬を脹らせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、
「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、──」
「駄目ですよ。その勾玉は素戔嗚尊が、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」
「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」
相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。
「女でも男でも好いじゃありませんか。」
若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた気色もなく、反って薄気昧が悪いほど、優しい微笑を漏らしながら、
「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した差支はなさそうじゃないか。」
若者はまた口を噤んで、草の上へ眼を反らせていた。
「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、鎧なり、乃至はまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が──」
「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」
「受け取らないと云ったら?」
相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、
「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな琅玕は、若い女には似合わないよ。だから反ってこの代りに、もっと派手な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」
若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。
「それからだね──」
相手は唇を舐めながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。
「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、反って素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」
若者の心の中には、両方に刃のついた剣やら、水晶を削った勾玉やら、逞ましい月毛の馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。
「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら──まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も鎧もちょうど君に御誂えなのがある筈だ。厩には馬も五六匹いる。」
相手は飽くまでも滑な舌を弄しながら気軽く楡の根がたを立ち上った。若者はやはり黙念と、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその後から、重そうな足を運び始めた。──
彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂わせた。
何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。
素戔嗚は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。
その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴き井の前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく素焼の甕を頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど白椿の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を歪めて、蔑むような表情を水々しい眼に浮べたまま、昂然と一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは莫迦だ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」──そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと私かに決心した。
ところが彼はある日の日暮、天の安河の河原を歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が利き悪い気もちになって、しばらくは入日の光に煙った河原蓬の中へ佇みながら、艶々と水をかぶっている黒馬の毛並を眺めていた。が、追い追いその沈黙が、妙に苦しくなり始めたので、とり敢えず話題を開拓すべく、目前の馬を指さしながら、
「好い馬だな。持主は誰だい。」と、まず声をかけた。すると意外にも若者は得意らしい眼を挙げて、
「私です。」と返事をした。
「そうか。そりゃ──」
彼は感嘆の言葉を呑みこむと、また元の通り口を噤んでしまった。が、さすがに若者は素知らぬ顔も出来ないと見えて、
「先達あの勾玉を御預りしましたが──」と、ためらい勝ちに切り出した。
「うん、渡してくれたかい。」
彼の眼は子供のように、純粋な感情を湛えていた、若者は彼と眼を合わすと、慌ててその視線を避けながら、故に馬の足掻くのを叱って、
「ええ、渡しました。」
「そうか。それでおれも安心した。」
「ですが──」
「ですが? 何だい。」
「急には御返事が出来ないと云う事でした。」
「何、急がなくっても好い。」
彼は元気よくこう答えると、もう若者には用がないと云ったように、夕霞のたなびいた春の河原を元来た方へ歩き出した。彼の心の中には、今までにない幸福の意識が波立っていた。河原蓬も、空も、その空に一羽啼いている雲雀も、ことごとく彼には嬉しそうであった。彼は頭を挙げて歩きながら、危く霞に紛れそうな雲雀と時々話をした。
「おい、雲雀。お前はおれが羨ましそうだな。羨ましくないと? 嘘をつけ。それなら何故そんなに啼き立てるのだ。雲雀。おい、雲雀。返事をしないか。雲雀。……」
素戔嗚はそれから五六日の間、幸福そのもののような日を送った。ところがその頃から部落には、作者は誰とも判然しない、新しい歌が流行り出した。それは醜い山鴉が美しい白鳥に恋をして、ありとあらゆる空の鳥の哂い物になったと云う歌であった。彼はその歌が唱われるのを聞くと、今まで照していた幸福の太陽に、雲が懸ったような心もちがした。
しかし彼は多少の不安を感じながら、まだ幸福の夢から覚めずにいた。すでに美しい白鳥は、醜い山鴉の恋を容れてくれた。ありとあらゆる空の鳥は、愚な彼を哂うのではなく、反って仕合せな彼を羨んだり妬んだりしているのであった。──そう彼は信じていた。少くともそう信ぜずにはいられないような気がしていた。
だから彼はその後また、あの牛飼の若者に遇った時も、ただ同じ答を聞きたいばかりに、
「あの勾玉は確かに渡してくれたのだろうな。」と、軽く念を押しただけであった。若者はやはり間の悪るそうな顔をしながら、
「ええ、確かに渡しました。しかし御返事の所は──」とか何とか、曖昧に言葉を濁していた。それでも彼は渡したと云う言葉に満足して、その上立ち入った事情なぞは尋ねようとも思わなかった。
すると三四日経ったある夜の事、彼が山へ寝鳥でも捕えに行こうと思って、月明りを幸、部落の往来を独りぶらぶら歩いていると、誰か笛を吹きすさびながら、薄い靄の下りた中を、これも悠々と来かかるものがあった。野蛮な彼は幼い時から、歌とか音楽とか云うものにはさらに興味を感じなかった。が、藪木の花の匀のする春の月夜に包まれながら、だんだんこちらへやって来る笛の声に耳を傾けるのは、彼にとっても何となく、心憎い気のするものであった。
その内に彼とその男とは、顔を合せるばかりに近くなって来た。しかし相手は鼻の先へ来ても、相不変笛を吹き止めなかった。彼は路を譲りながら、天心に近い月を負って、相手の顔を透かして見た。美しい顔、燦びやかな勾玉、それから口に当てた斑竹の笛──相手はあの背の高い、風流な若者に違いなかった。彼は勿論この若者が、彼の野性を軽蔑する敵の一人だと云うことを承知していた。そこで始は昂然と肩を挙げて、挨拶もせずに通り過ぎようとした。が、いよいよ二人がすれ違おうとした時、何かがもう一度彼の眼を若者の体へ惹きつけた。と、相手の胸の上には、彼の母が遺物に残した、あの琅玕の勾玉が、曇りない月の光に濡れて、水々しく輝いていたではないか。
「待て。」
彼は咄嗟に腕を伸ばすと、若者の襟をしっかり掴んだ。
「何をする。」
若者は思わずよろめきながら、さすがに懸命の力を絞って、とられた襟を振り離そうとした。が、彼の手はさながら万力にかけたごとく、いくらもがいても離れなかった。
「貴様はこの勾玉を誰に貰った?」
素戔嗚は相手の喉をしめ上げながら噛みつくようにこう尋ねた。
「離せ。こら、何をする。離さないか。」
「貴様が白状するまでは離さない。」
「離さないと──」
若者は襟を取られたまま、斑竹の笛をふり上げて、横払いに相手を打とうとした。が、素戔嗚は手もとを緩めるまでもなく、遊んでいた片手を動かして、苦もなくその笛を扭じ取ってしまった。
「さあ、白状しろ。さもないと、貴様を絞殺すぞ。」
実際素戔嗚の心の中には、狂暴な怒が燃え立っていた。
「この勾玉は──おれが──おれが馬と取換えたのだ。」
「嘘をつけ。これはおれが──」
「あの娘に」と云う言葉が、何故か素戔嗚の舌を硬ばらせた。彼は相手の蒼ざめた顔に熱い息を吹きかけながら、もう一度唸るような声を出した。
「嘘をつけ。」
「離さないか。貴様こそ、──ああ、喉が絞まる。──あれほど離すと云った癖に、貴様こそ嘘をつく奴だ。」
「証拠があるか、証拠が。」
すると若者はまだ必死に、もがきながら、
「あいつに聞いて見るが好い。」と、吐き出すような、一言を洩らした。「あいつ」があの牛飼いの若者であると云う事は、怒り狂った素戔嗚にさえ、問うまでもなく明かであった。
「よし。じゃ、あいつに聞いて見よう。」
素戔嗚は言下に意を決すると、いきなり相手を引っ立てながら、あの牛飼いの若者がたった一人住んでいる、そこを余り離れていない小家の方へ歩き出した。その途中も時々相手は、襟にかかった素戔嗚の手を一生懸命に振り離そうとした。しかし彼の手は相不変、鉄のようにしっかり相手を捉えて、打っても、叩いても離れなかった。
空には依然として、春の月があった。往来にも藪木の花の匀が、やはりうす甘く立ち罩めていた。が、素戔嗚の心の中には、まるで大暴風雨の天のように、渦巻く疑惑の雲を裂いて、憤怒と嫉妬との稲妻が、絶え間なく閃き飛んでいた。彼を欺いたのはあの娘であろうか。それとも牛飼いの若者であろうか。それともまたこの相手が何か狡猾な手段を弄して、娘から勾玉を巻き上げたのであろうか。……
彼はずるずる若者を引きずりながら、とうとう目ざす小家まで来た。見ると幸小家の主人は、まだ眠らずにいると見えて、仄かな一盞の燈火の光が、戸口に下げた簾の隙から、軒先の月明と鬩いでいた。襟をつかまれた若者は、ちょうどこの戸口の前へ来た時、始めて彼の手から自由になろうとする、最後の努力に成功した、と思うと時ならない風が、さっと若者の顔を払って、足さえ宙に浮くが早いか、あたりが俄に暗くなって、ただ一しきり火花のような物が、四方へ散乱するような心もちがした。──彼は戸口へ来ると同時に、犬の子よりも造作なく、月の光を堰いた簾の内へ、まっさかさまに投げこまれたのであった。
家の中にはあの牛飼の若者が、土器にともした油火の下に、夜なべの藁沓を造っていた。彼は戸口に思いがけない人のけはいが聞えた時、一瞬間忙しい手を止めて、用心深く耳を澄ませたが、その途端に軒の簾が、大きく夜を煽ったと思うと、突然一人の若者が、取り乱した藁のまん中へ、仰向けざまに転げ落ちた。
彼はさすがに胆を消して、うっかりあぐらを組んだまま、半ば引きちぎられた簾の外へ、思わず狼狽の視線を飛ばせた。するとそこには素戔嗚が、油火の光を全身に浴びて、顔中に怒りを漲らせながら、小山のごとく戸口を塞いでいた。若者はその姿を見るや否や、死人のような色になって、しばらくただ狭い家の中をきょろきょろ見廻すよりほかはなかった。素戔嗚は荒々しく若者の前へ歩み寄ると、じっと彼の顔を睨み据えて、
「おい、貴様は確かにあの娘へ、おれの勾玉を渡したと云ったな。」と忌々しそうな声をかけた。
若者は答えなかった。
「それがこの男の頸に懸っているのは一体どうした始末なのだ?」
素戔嗚はあの美貌の若者へ、燃えるような瞳を移した。が、彼はやはり藁の中に、気を失ったのか、仮死か、眼を閉じたまま倒れていた。
「渡したと云うのは嘘か?」
「いえ、嘘じゃありません。ほんとうです。ほんとうです。」
牛飼いの若者は、始めて必死の声を出した。
「ほんとうですが、──ですが、実はあの琅玕の代りに、珊瑚の──その管玉を……」
「どうしてまたそんな真似をしたのだ?」
素戔嗚の声は雷のごとく、度を失った若者の心を一言毎に打ち砕いた。彼はとうとうしどろもどろに、美貌の若者が勧める通り、琅玕と珊瑚と取り換えた上、礼には黒馬を貰った事まで残りなく白状してしまった。その話を聞いている内に、刻々素戔嗚の心の中には、泣きたいような、叫びたいような息苦しい羞憤の念が、大風のごとく昂まって来た。
「そうしてその玉は渡したのだな。」
「渡しました。渡しましたが──」
若者は逡巡した。
「渡しましたが──あの娘は──何しろああ云う娘ですし、──白鳥は山鴉になどと──、失礼な口上ですが、──受け取らないと申し──」
若者は皆まで云わない内に、仰向けにどうと蹴倒された。蹴倒されたと思うと、大きな拳がしたたか彼の頭を打った。その拍子に燈火の盞が落ちて、あたりの床に乱れた藁は、たちまち、一面の炎になった。牛飼いの若者はその火に毛脛を焼かれながら、悲鳴を挙げて飛び起きると、無我夢中に高這いをして、裏手の方へ逃げ出そうとした。
怒り狂った素戔嗚は、まるで傷いた猪のように、猛然とその後から飛びかかった。いや、将に飛びかかろうとした時、今度は足もとに倒れていた、美貌の若者が身を起すと、これも死物狂に剣を抜いて、火の中に片膝ついたまま、いきなり彼の足を払おうとした。
その剣の光を見ると、突然素戔嗚の心の中には、長い間眠っていた、流血に憧れる野性が目ざめた。彼は素早く足を縮めて、相手の武器を飛び越えると、咄嗟に腰の剣を抜いて、牛の吼えるような声を挙げた。そうしてその声を挙げるが早いか、無二無三に相手へ斬ってかかった。彼等の剣は凄じい音を立てて、濛々と渦巻く煙の中に、二三度眼に痛い火花を飛ばせた。
しかし美貌の若者は、勿論彼の敵ではなかった。彼の振り廻す幅広の剣は、一太刀毎にこの若者を容赦なく死地へ追いこんで行った。いや、彼は数合の内に、ほとんど一気に相手の頭を斬り割る所まで肉薄していた。するとその途端に甕が一つ、どこからか彼の頭を目がけて、勢い好く宙を飛んで来た。が、幸それは狙いが外れて、彼の足もとへ落ちると共に、粉微塵に砕けてしまった。彼は太刀打を続けながら、猛り立った眼を挙げて、忙わしく家の中を見廻した。見廻すと、裏手の蓆戸の前には、さっき彼に後を見せた、あの牛飼いの若者が、これも眼を血走らせたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶を一つ、持ち上げている所であった。
彼は再び牛のような叫び声を挙げながら、若者が桶を投げるより先に、渾身の力を剣にこめて、相手の脳天へ打ち下そうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎の空に風を切って、がんと彼の頭に中った。彼はさすがに眼が眩んだのか、大風に吹かれた旗竿のように思わずよろよろ足を乱して、危くそこへ倒れようとした。その暇に相手の若者は、奮然と身を躍らせると、──もう火の移った簾を衝いて、片手に剣を提げながら、静な外の春の月夜へ、一目散に逃げて行った。
彼は歯を喰いしばったまま、ようやく足を踏み固めた。しかし眼を開いて見ると、火と煙とに溢れた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。
「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」
彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の簾を切り払って、蹌踉と家の外へ出た。月明に照らされた往来は、屋根を燃え抜いた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ。」と呼び交す声が、たちまち高くなり始めた。彼はそう云う声を浴びて、しばらくはぼんやり佇んで居た。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心の中には、気も狂いそうな混乱が、益々烈しくなって居たのであった。
その内に往来の人影は、見る見る数を加え出した。と同時に騒がしい叫び声も、いつか憎悪を孕んで居る険悪な調子を帯び始めた。
「火つけを殺せ。」
「盗人を殺せ。」
「素戔嗚を殺せ。」
この時部落の後にある、草山の楡の木の下には、髯の長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の夜は、藪木の花のかすかな匀を柔かく靄に包んだまま、ここでもただ梟の声が、ちょうど山その物の吐息のように、一天の疎な星の光を時々曇らせているばかりであった。
が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の断えた中空へ一すじまっ直に上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい気色も見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで蜂の巣を壊したような人どよめきの音が聞えて来た。のみならずその音は次第に高くざわめき立って、とうとう戦でも起ったかと思う、烈しい喊声さえ伝わり出した。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたと見えて、白い眉をひそめながら、おもむろに腰を擡げると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒動をじっと聞き澄まそうとするらしかった。
「はてな。剣の音なぞもするようだが。」
老人はこう呟きながら、しばらくはそこに伸び上って、絶えず金粉を煽っている火事の煙に見入っていた。
するとほどなく部落から、逃げて来たらしい七八人の男女が、喘ぎ喘ぎ草山へ上って来た。彼等のある者は髪を垂れた、十には足りない童児であった。ある者は肌も見えるくらい、襟や裳紐を取り乱した、寝起きらしい娘であった。そうしてまたある者は弓よりも猶腰の曲った、立居さえ苦しそうな老婆であった。彼等は草山の上まで来ると、云い合せたように皆足を止めて、月夜の空を焦している部落の火事へ眼を返した。が、やがてその中の一人が、楡の根がたに佇んだ老人の姿を見るや否や、気づかわしそうに寄り添った。この足弱の一群からは、「思兼尊、思兼尊。」と云う言葉が、ため息と一しょに溢れて来た。と同時に胸も露わな、夜目にも美しい娘が一人、「伯父様。」と声をかけながら、こちらを振り向いた老人の方へ、小鳥のように身軽く走り寄った。
「どうしたのだ、あの騒ぎは。」
思兼尊はまだ眉をひそめながら、取りすがった娘を片手に抱いて、誰にともなくこう尋ねた。
「素戔嗚尊がどうした事か、急に乱暴を始めたとか申す事でございますよ。」
答えたのはあの快活な娘でなくて、彼等の中に交っていた、眼鼻も見えないような老婆であった。
「何、素戔嗚尊が乱暴を始めた?」
「はい、それ故大勢の若者たちが、尊を搦めようと致しますと、平生尊の味方をする若者たちが承知致しませんで、とうとうあのように何年にもない、大騒動が始まったそうでございますよ。」
思兼尊は考え深い目つきをして、部落に上っている火事の煙と、尊の胸にすがっている娘の顔とを見比べた。娘は月に照らされたせいか、鬢の乱れた頬の色が、透き徹るかと思うほど青ざめていた。
「火を弄ぶものは、気をつけないと、──素戔嗚尊ばかりではない。火を弄ぶものは、気をつけないと──」
尊は皺だらけな顔に苦笑を浮べて、今はさらに拡がったらしい火の手を遥に眺めながら、黙って震えている姪の髪を劬るように撫でてやった。
部落の戦いは翌朝まで続いた。が、寡はついに衆の敵ではなかった。素戔嗚は味方の若者たちと共に、とうとう敵の手に生捉られた。日頃彼に悪意を抱いていた若者たちは、鞠のように彼を縛めた上、いろいろ乱暴な凌辱を加えた。彼は打たれたり蹴られたりする度毎に、ごろごろ地上を転がりまわって、牛の吼えるような怒声を挙げた。
部落の老若はことごとく、律通り彼を殺して、騒動の罪を贖わせようとした。が、思兼尊と手力雄尊と、この二人の勢力家だけは、容易に賛同の意を示さなかった。手力雄尊は素戔嗚の罪を憎みながらも、彼の非凡な膂力には愛惜の情を感じていた。これは同時にまた思兼尊が、むざむざ彼ほどの若者を殺したくない理由でもあった。のみならず尊は彼ばかりでなく、すべて人間を殺すと云う事に、極端な嫌悪を抱いていた。──
部落の老若は彼の罪を定めるために、三日の間議論を重ねた。が、二人の尊たちはどうしても意見を改めなかった。彼等はそこで死刑の代りに、彼を追放に処する事にした。しかしこのまま、彼の縄を解いて、彼に広い国外の自由の天地を与えるのは、到底彼等の忍び難い、寛大に過ぎた処置であった。彼等はまず彼の鬚を、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪を、まるで貝でも剥がすように、未練未釈なく抜いてしまった。その上彼の縄を解くと、ほとんど手足も利かない彼へ、手ん手に石を投げつけたり、慓悍な狩犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど高這いをしないばかりに、蹌踉と部落を逃れて行った。
彼が高天原の国をめぐる山々の峰を越えたのは、ちょうどその後二日経った、空模様の怪しい午後であった。彼は山の頂きへ来た時、嶮しい岩むらの上へ登って、住み慣れた部落の横わっている、盆地の方を眺めて見た。が、彼の眼の下には、ただうす白い霧の海が、それらしい平地をぼんやりと、透かして見せるばかりであった。彼はしかし岩の上に、朝焼の空を負いながら、長い間じっと坐っていた。すると谷間から吹き上げる風が、昔の通り彼の耳へ、聞き慣れた囁きを送って来た。「素戔嗚よ。お前は何をさがしているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。素戔嗚よ。……」
彼はようやく立ち上った。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を下り出した。
その内に朝焼の火照りが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の衣のほかに、何もまとってはいなかった。頸珠や剣は云うまでもなく、生捉りになった時に奪われていた。雨はこの追放人の上に、おいおい烈しくなり始めた。風も横なぐりに落して来ては、時々ずぶ濡れになった衣の裾を裸の脚へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。
実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧が、山や谷を封じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、凄じくざっと遠近に煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらに凄じく、寂しい怒が荒れ狂っていた。
やがて足もとの岩は、湿った苔になった。苔はまた間もなく、深い羊歯の茂みになった。それから丈の高い熊笹に、──いつの間にか素戔嗚は、山の中腹を埋めている森林の中へはいったのであった。
森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には樅や栂の枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を遮るべく、生きて動いているようであった。
彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変鬱勃として怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿を腕一ぱいに掻きのけながら、時々大きな声を出して、吼って行く風雨に答えたりした。
午もやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、削ったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓を編んだ桟橋が、水煙と雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。
桟橋を隔てた絶壁には、火食の煙が靡いている、大きな洞穴が幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つを覗いて見た。穴の中には二人の女が、炉の火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、描いたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造作もなく、老婆をそこへ扭じ伏せてしまった。
若い女は壁に懸けた刀子へ手をかけるや否や、素早く彼の胸を刺そうとした。が、彼は片手を揮って、一打にその刀子を打ち落した。女はさらに剣を抜いて、執念く彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり鏘然と床に落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切先を歯に啣えながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いを挑むように女を見た。
女はすでに斧を執って、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼の憐に訴うべく、床の上にひれ伏してしまった。
「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」
彼は捉えていた手を緩めて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。
洞穴の中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。床にはまた鹿や熊の皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い匀が快く暖な空気に漂っていた。
その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森の木の実、干した貝、──そう云う物が盤や坏に堆く盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は瓶を執って、彼に酒を勧むべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近に坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌のある女であった。
彼は獣のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空になった。女は健啖な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子を加えようとした、以前の慓悍な気色などは、どこを探しても見えなかった。
「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」
彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸をした。女は洞穴の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎の剣を一振とって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻いた。
「何かまだ御用がございますか。」
しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。
「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」
「待って、──どうなさるのでございますか。」
「太刀打をしようと思うのだ。おれは女を劫して、盗人を働いたなどとは云われたくない。」
女は顔にかかる髪を掻き上げながら、鮮な微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」
素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。
「男は一人もいないのか。」
「一人も居りません。」
「この近くの洞穴には?」
「皆私の妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」
彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、床の毛皮、それから壁上の太刀や剣、──すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠や剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後この危害の惧のない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。
「妹たちは大勢いるのか。」
「十六人居ります。──ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」
成程そう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
素戔嗚は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、
「あの──御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫と申しますが。」と云った。
「おれは素戔嗚だ。」
彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。
「では今まではあの山の向うの、高天原の国にいらしったのでございますか。」
彼は黙って頷いた。
「高天原の国は、好い所だと申すではございませんか。」
この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭の怒火が、また彼の眼の中に燃えあがった。
「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪よりも強い所だ。」
大気都姫は微笑した。その拍子に美しい歯が、鮮に火の光に映って見えた。
「ここは何と云う所だ?」
彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立たしい眉を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴るような媚を眼に浮べて、
「ここでございますか。ここは──ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。
その時俄に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色もなく、ぞろぞろ洞穴の中へはいって来た。彼等は皆頬に紅をさして、高々と黒髪を束ねていた。それが順々に大気都姫と、親しそうな挨拶を交換すると、呆気にとられた彼のまわりへ、馴れ馴れしく手ん手に席を占めた。頸珠の色、耳環の光、それから着物の絹ずれの音、──洞穴の内はそう云う物が、榾明りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。
十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛を開き始めた。彼は始は唖のように、ただ勧められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、酔がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を弾いた。またある者は、盃を控えて、艶かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。
その内に夜になった。老婆は炉に焚き木を加えると共に、幾つも油火の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように酔い痴れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に中った彼を壟断していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原の国も忘れて、洞穴を罩めた脂粉の気の中に、全く沈湎しているようであった。ただその大騒ぎの最中にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に蹲って、十六人の女たちの、人目を憚らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。
夜は次第に更けて行った。空になった盤や瓶は、時々けたたましい音を立てて、床の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴る酒に、いつかぐっしょり濡らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息の音ばかりであった。
やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉に消えかかった、煤臭い榾の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐まれている、小山のような彼の姿を朦朧といつまでも照していた。……
翌日彼は眼をさますと、洞穴の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳を延べる代りに、堆く桃の花が敷いてあった。昨日から洞中に溢れていた、あのうす甘い、不思議な匀は、この桃の花の匀に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。
「畜生。」
素戔嗚はこう呻きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽ったように空へ舞い上った。
洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴を穿いて、頭椎の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。
微風は彼の頭から、すぐさま宿酔を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦いでいる、さわやかな森林の梢を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄の上に、巑岏たる肌を曝していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜の狂態を嘲笑っているように見えるのであった。
この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴の空気が、嘔吐を催すほど不快になった。今は炉の火も、瓶の酒も、乃至寝床の桃の花も、ことごとく忌わしい腐敗の匀に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢を隠すために、巧な紅粉を装っている、屍骨のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然と頭を低れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓の橋を渡ろうとした。
が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺しながら、活き活きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通っている、細い岨路の向うから、十五人の妹をつれた、昨日よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩い絹の裳を飜しながら、こちらへ急いで来る所であった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」
彼等は小鳥の囀るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾させた。彼は彼自身の腑甲斐なさに驚きながら、いつか顔中に笑を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。
それ以来素戔嗚は、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦な生活を送るようになった。
一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。
彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には瀑があって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの瀑壺へ行って、桃花の匀を浸した水に肌を洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分け上る事も稀ではなかった。
その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は朝夕静寂な谷間の空気を呼吸しても、寸毫の感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。
しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原の国を眺めやった。高天原の国には日が当って、天の安河の大きな水が焼太刀のごとく光っていた。彼は勁い風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに漲って来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の煩に、冷たい痕を止めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明りに照らされた、洞穴の中を見廻した。彼と同じ桃花の寝床には、酒の匀のする大気都姫が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目の形こそ変らないが、垂死の老婆と同じ事であった。
彼は恐怖と嫌悪とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖い寝床を辷り脱けた。そうして素早く身仕度をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。
外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓の橋を渡るが早いか、獣のように熊笹を潜って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔の匀、梟の眼──すべてが彼には今までにない、爽かな力に溢れているようであった。
彼は後も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂や樅の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢の山鳩を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木の実は、どこにでも沢山あった。
日の暮は瞼しい崖の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣や斧を思いやった。すると何故か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦ごうとした。が、あの洞穴の榾火の思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心を捉えて行った。
素戔嗚は一日の後、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を装っているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。
この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、反って彼はそのために、前よりも猶安々と、いつまでも醒めない酔のような、怪しい幸福に浸る事が出来た。
一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。
するとある日女たちは、どこから洞穴へつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、犢ほどもある牡であった。彼等は、殊に大気都姫は、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、盤の魚や獣の肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の戯れに、相撲をとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、酔い痴れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地のない彼を嘲り合った。
ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ盤や瓶を、犬の前にも並べるようになった。彼は苦い顔をして、一度は犬を逐い払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を咎め立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗しようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも盤を舐め廻しながら、彼の方へ牙を剥いて見せた。
しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り瀑を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹を押し分けながら、桃の落花を湛えている、すぐ下の瀑壺へ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い獣が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の剣を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を揮わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。
それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中りながら、洞穴の奥に蹲って、一夜中酔泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬で一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間しさなどは、寸毫も念頭には上らなかった。
ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を抱きながら艶めかしい言葉を囁いた。彼は意外な眼を挙げて、油火には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を透かして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく床に倒れて、苦しそうな呻吟の声を洩らした。──それはあの腰も碌に立たない、猿のような老婆の声であった。
老婆を投げ倒した素戔嗚は、涙に濡れた顔をしかめたまま、虎のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒と屈辱との煮え返っている坩堝であった。彼は眼前に犬と戯れている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎の太刀を引き抜きながら、この女たちの群った中へ、我を忘れて突進した。
犬は咄嗟に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、哮り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下りにもう一度狂いまわる犬を刺そうとした。
しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫の胸を刺した。彼女は苦痛の声を洩らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから盤だの瓶だのが粉微塵に砕ける音、──今まで笑い声に満ちていた洞穴の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。
彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那は茫然と佇んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな呻き声を発して、弦を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。
空には暈のかかった月が、無気味なくらいぼんやり蒼ざめていた。森の木々もその空に、暗枝をさし交せて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を埋めようとするごとく、どこまで行っても浪を立てていた。時々夜鳥がその中から、翼に薄い燐光を帯びて、風もない梢へ昇って行った。……
明け方彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下して、寂しい水面へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵のすべてであった。──彼は両手に顔を埋めて、長い間大声に泣いていた。
その間に空模様が変った。対岸を塞いだ山の空には、二三度鍵の手の稲妻が飛んだ。続いて殷々と雷が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
雷が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端に天を傾けて、瀑のような大雨が、沛然と彼を襲って来た。
対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち罩めた雲煙の中に、ややともすると紛れそうであった。ただ、稲妻の閃く度に、波の逆立った水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと雷の音が、必ず空を掻きむしるように、続けさまに轟々と爆発した。
素戔嗚はずぶ濡れになりながら、未に汀の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛の底へ沈んでいた。そこには穢れ果てた自己に対する、憤懣よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣に洩らす力さえ、──大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然と坐っているよりほかはなかった。
天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして──突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫になった。山が、雲が、湖が皆半空に浮んで見えた。同時に地軸も砕けたような、落雷の音が耳を裂いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏せになった彼の上へ未練未釈なく降り濺いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋めたまま、身動きをする気色も見えなかった。……
何時間か過ぎた後、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより鮮かな黄ばんだ緑に仄めいていた。
彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫に溢れていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」──彼はそう思いながら、貪るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿って見ても、容易に彼には思い出せなかった。
その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷のように轟いて来た。
彼は喜びに戦いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途はなかった。
湖は日に輝きながら、溌溂とその言葉に応じた。彼は──その汀にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲って来た。
素戔嗚はその湖の水を浴びて、全身の穢れを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな樅の木の陰へ行って、久しぶりに健な眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い下って来た。──
夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を伸していた。
そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄に竜の飾のある高麗剣を佩いている事は、その竜の首が朦朧と金色に光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。
大男は腰の剣を抜くと、無造作にそれを鍔元まで、大木の根本へ突き通した。
素戔嗚はその非凡な膂力に、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
「あれは火雷命だ。」と、囁いてくれるものがあった。 大男は静に手を挙げて、彼に何か相図をした。それが彼には何となく、その高麗剣を抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。
彼は茫然と身を起した。微風に動いている樅の梢には、すでに星が撒かれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹の戦ぎや苔の匀が、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ何気なく、懶い視線を漂わせた。
と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考える暇もなく、その枯木の側へ足を運んだ。
枯木はさっきの落雷に、裂かれたものに違いなかった。だから根元には何かの針葉が、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。──枯木の根本には一振の高麗剣が竜の飾のある柄を上にほとんど鍔も見えないほど、深く突き立っていたのであった。
彼は両手に柄を掴んで、渾身の力をこめながら、一気にその剣を引き抜いた。剣は今し方磨いだように鍔元から切先まで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」──そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下に跪いて天上の神々に祈りを捧げた。
その後彼はまた樅の木陰へ帰って、しっかり剣を抱きながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。
眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖の汀へ下りて行った。風の凪ぎ尽した湖は、小波さえ砂を揺すらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは高天原の国にいた時の通り、心も体も逞しい、醜い神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋の皺が、いつの間にか一年間の悲しみの痕を刻んでいた。
それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗て彼の足を止めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は──高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」
彼は風が囁くままに、あの湖を後にしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊を続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲の簸の川を遡って行く、一艘の独木舟の帆の下に、蘆の深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。
蘆の向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に鬩ぎ合った上には、夏霞に煙っている、陰鬱な山々の頂があった。そうしてそのまた山々の空には、時々鷺が両三羽、眩く翼を閃かせながら、斜に渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人を脅すような、明い寂寞が支配していた。
彼は舷に身を凭せて、日に蒸された松脂の匀を胸一ぱいに吸いこみながら、長い間独木舟を風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険に慣れた素戔嗚には、まるで高天原の八衢のように、今では寸分の刺戟さえない、平凡な往来に過ぎないのであった。
夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸には蘆が稀になって、節くれ立った松の根ばかりが、水と泥との交る所を、荒涼と絡っているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を配って行った。松は水の上まで枝垂れた枝を、鉄網のように纏め合せて、林の奥の神秘な世界を、執念く人目から隠していた。それでも時たまその松が、鹿でも水を飲みに来るせいか、疎に透いている所には不気味なほど赤い大茸が、薄暗い中に簇々と群っている朽木も見えた。
益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然人煙の挙っている容子は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣の柄にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。
その内に舟は水脈を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳に立ち上った。舟はその間も帆に微風を孕んで、小暗く空に蔓った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。
舟はとうとう一枚岩の前へ来た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂れていた。素戔嗚は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角の苔をかすって、たちまちそこへ横づけになった。
女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端に、片手に岩角を掴んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後へ引き残した女の裳を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏らした。が、それぎり身を起す気色もなく、また前のように泣き入ってしまった。
彼は纜を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、
「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。
女はやっと顔を挙げて、水の上を罩めた暮色の中に、怯ず怯ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明りのような、どことなくもの悲しい美しさに溢れている事を知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚われたのですか。」
女は黙って、首を振った。その拍子に頸珠の琅玕が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾んだ眼を、もう一度膝へ落してしまった。
「では、──ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」
彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上の部落の長をしている、足名椎と云うものであった。ところが近頃部落の男女が、続々と疫病に仆れるため、足名椎は早速巫女に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫と云う一人娘を、高志の大蛇の犠にしなければ、部落全体が一月の内に、死に絶えるであろうと云う託宣があった。そこで足名椎は已むを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。
櫛名田姫の話を聞き終ると、素戔嗚は項を反らせながら、愉快そうに黄昏の川を見廻した。
「その高志の大蛇と云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の噂を聞きますと、頭と尾とが八つある、八つの谷にも亘るくらい、大きな蛇だとか申す事でございます。」
「そうですか。それは好い事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤の動くような気がします。」
櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。
「こう申す内にもいつ何時、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは──」
「大蛇を退治する心算です。」
彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。
「退治すると仰有っても、大蛇は只今申し上げた通り、一方ならない神でございますから──」
「そうです。」
「万一あなたがそのために、御怪我をなさらないとも限りませんし、──」
「そうです。」
「どうせ私は犠になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、──」
「御待ちなさい。」
彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。
「私はあなたをおめおめと大蛇の犠にはしたくないのです。」
「それでも大蛇が強ければ──」
「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」
櫛名田姫はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。
「私が大蛇の犠になるのは、神々の思召しでございます。」
「そうかも知れません。しかし犠になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠にするより、反って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」
彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳な権威の閃きが彼の醜い眉目の間に磅礴したように思われた。
「けれども巫女が申しますには──」
櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。
「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」
この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白んだ川の中へ、水煙を立てて跳りこんだ。そうして角を並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。
「あの鹿の慌てようは──もしや来るのではございますまいか。あれが、──あの恐ろしい神が、──」
櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ縋りついた。
「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」
彼は対岸に眼を配りながら、おもむろに高麗剣の柄へ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨の襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に疎な星を撒いた、山々の空へ上り出した。
底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
初出:「大阪毎日新聞 夕刊」
1920(大正9)年3月~6月
入力:j.utiyama
校正:湯地光弘
1999年8月27日公開
2012年3月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。