古事記物語
鈴木三重吉
|
世界ができたそもそものはじめ。まず天と地とができあがりますと、それといっしょにわれわれ日本人のいちばんご先祖の、天御中主神とおっしゃる神さまが、天の上の高天原というところへお生まれになりました。そのつぎには高皇産霊神、神産霊神のお二方がお生まれになりました。
そのときには、天も地もまだしっかり固まりきらないで、両方とも、ただ油を浮かしたように、とろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんでおりました。その中へ、ちょうどあしの芽がはえ出るように、二人の神さまがお生まれになりました。
それからまたお二人、そのつぎには男神女神とお二人ずつ、八人の神さまが、つぎつぎにお生まれになった後に、伊弉諾神と伊弉冉神とおっしゃる男神女神がお生まれになりました。
天御中主神はこのお二方の神さまをお召しになって、
「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」
とおっしゃって、りっぱな矛を一ふりお授けになりました。
それでお二人は、さっそく、天の浮橋という、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいた矛でもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先についた潮水が、ぽたぽたと下へおちて、それが固まって一つの小さな島になりました。
お二人はその島へおりていらしって、そこへ御殿をたててお住まいになりました。そして、まずいちばんさきに淡路島をおこしらえになり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐の島、それから、そのじぶん筑紫といった今の九州と、壱岐、対島、佐渡の三つの島をお作りになりました。そして、いちばんしまいに、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、それに大日本豊秋津島というお名まえをおつけになりました。
これで、淡路の島からかぞえて、すっかりで八つの島ができました。ですからいちばんはじめには、日本のことを、大八島国と呼び、またの名を豊葦原水穂国とも称えていました。
こうして、いよいよ国ができあがったので、お二人は、こんどはおおぜいの神さまをお生みになりました。それといっしょに、風の神や、海の神や、山の神や、野の神、川の神、火の神をもお生みになりました。ところがおいたわしいことには、伊弉冉神は、そのおしまいの火の神をお生みになるときに、おからだにおやけどをなすって、そのためにとうとうおかくれになりました。
伊弉諾神は、
「ああ、わが妻の神よ、あの一人の子ゆえに、大事なおまえをなくするとは」とおっしゃって、それはそれはたいそうお嘆きになりました。そして、お涙のうちに、やっと、女神のおなきがらを、出雲の国と伯耆の国とのさかいにある比婆の山にお葬りになりました。
女神は、そこから、黄泉の国という、死んだ人の行くまっくらな国へたっておしまいになりました。
伊弉諾神は、そのあとで、さっそく十拳の剣という長い剣を引きぬいて、女神の災のもとになった火の神を、一うちに斬り殺してしまいになりました。
しかし、神のおくやしみは、そんなことではお癒えになるはずもありませんでした。神は、どうかしてもう一度、女神に会いたくおぼしめして、とうとうそのあとを追って、まっくらな黄泉の国までお出かけになりました。
女神はむろん、もうとっくに、黄泉の神の御殿に着いていらっしゃいました。
すると、そこへ、夫の神が、はるばるたずねておいでになったので、女神は急いで戸口へお出迎えになりました。
伊弉諾神は、まっくらな中から、女神をお呼びかけになって、
「いとしきわが妻の女神よ。おまえといっしょに作る国が、まだできあがらないでいる。どうぞもう一度帰ってくれ」とおっしゃいました。すると女神は、残念そうに、
「それならば、もっと早く迎えにいらしってくださいませばよいものを。私はもはや、この国のけがれた火で炊いたものを食べましたから、もう二度とあちらへ帰ることはできますまい。しかし、せっかくおいでくださいましたのですから、ともかくいちおう黄泉の神たちに相談をしてみましょう。どうぞその間は、どんなことがありましても、けっして私の姿をご覧にならないでくださいましな。後生でございますから」と、女神はかたくそう申しあげておいて、御殿の奥へおはいりになりました。
伊弉諾神は永い間戸口にじっと待っていらっしゃいました。しかし、女神は、それなり、いつまでたっても出ていらっしゃいません。伊弉諾神はしまいには、もう待ちどおしくてたまらなくなって、とうとう、左のびんのくしをおぬきになり、その片はしの、大歯を一本欠き取って、それへ火をともして、わずかにやみの中をてらしながら、足さぐりに、御殿の中深くはいっておいでになりました。
そうすると、御殿のいちばん奥に、女神は寝ていらっしゃいました。そのお姿をあかりでご覧になりますと、おからだじゅうは、もうすっかりべとべとに腐りくずれていて、臭い臭いいやなにおいが、ぷんぷん鼻へきました。そして、そのべとべとに腐ったからだじゅうには、うじがうようよとたかっておりました。それから、頭と、胸と、お腹と、両ももと、両手両足のところには、そのけがれから生まれた雷神が一人ずつ、すべてで八人で、怖ろしい顔をしてうずくまっておりました。
伊弉諾神は、そのありさまをご覧になると、びっくりなすって、怖ろしさのあまりに、急いで遁げ出しておしまいになりました。
女神はむっくりと起きあがって、
「おや、あれほどお止め申しておいたのに、とうとう私のこの姿をご覧になりましたね。まあ、なんという憎いお方でしょう。人にひどい恥をおかかせになった。ああ、くやしい」と、それはそれはひどくお怒りになって、さっそく女の悪鬼たちを呼んで、
「さあ、早く、あの神をつかまえておいで」と歯がみをしながらお言いつけになりました。
女の悪鬼たちは、
「おのれ、待て」と言いながら、どんどん追っかけて行きました。
伊弉諾神は、その鬼どもにつかまってはたいへんだとおぼしめして、走りながら髪の飾りにさしてある黒いかつらの葉を抜き取っては、どんどんうしろへお投げつけになりました。
そうすると、見る見るうちに、そのかつらの葉の落ちたところへ、ぶどうの実がふさふさとなりました。女鬼どもは、いきなりそのぶどうを取って食べはじめました。
神はその間に、いっしょうけんめいにかけだして、やっと少しばかり遁げのびたとお思いになりますと、女鬼どもは、まもなく、またじきうしろまで追いつめて来ました。
神は、
「おや、これはいけない」とお思いになって、こんどは、右のびんのくしをぬいて、その歯をひっ欠いては投げつけ、ひっ欠いては投げつけなさいました。そうすると、そのくしの歯が片はしからたけのこになってゆきました。
女鬼たちは、そのたけのこを見ると、またさっそく引き抜いて、もぐもぐ食べだしました。
伊弉諾神は、そのすきをねらって、こんどこそは、だいぶ向こうまでお遁げになりました。そしてもうこれならだいじょうぶだろうとおぼしめして、ひょいとうしろをふりむいてご覧になりますと、意外にも、こんどはさっきの女神のまわりにいた八人の雷人どもが、千五百人の鬼の軍勢をひきつれて、死にものぐるいでおっかけて来るではありませんか。
神はそれをご覧になると、あわてて十拳の剣を抜きはなして、それでもってうしろをぐんぐん切りまわしながら、それこそいっしょうけんめいにお遁げになりました。そして、ようよう、この世界と黄泉の国との境になっている、黄泉比良坂という坂の下まで遁げのびていらっしゃいました。
すると、その坂の下には、ももの木が一本ありました。
神はそのももの実を三つ取って、鬼どもが近づいて来るのを待ち受けていらしって、その三つのももを力いっぱいお投げつけになりました。そうすると、雷神たちはびっくりして、みんなちりぢりばらばらに遁げてしまいました。
神はそのももに向かって、
「おまえは、これから先も、日本じゅうの者がだれでも苦しい目に会っているときには、今わしを助けてくれたとおりに、みんな助けてやってくれ」とおっしゃって、わざわざ大神実命というお名まえをおやりになりました。
そこへ、女神は、とうとうじれったくおぼしめして、こんどはご自分で追っかけていらっしゃいました。神はそれをご覧になると、急いでそこにあった大きな大岩をひっかかえていらしって、それを押しつけて、坂の口をふさいでおしまいになりました。
女神は、その岩にさえぎられて、それより先へは一足も踏み出すことができないものですから、恨めしそうに岩をにらみつけながら、
「わが夫の神よ、それではこのしかえしに、日本じゅうの人を一日に千人ずつ絞め殺してゆきますから、そう思っていらっしゃいまし」とおっしゃいました。神は、
「わが妻の神よ、おまえがそんなひどいことをするなら、わしは日本じゅうに一日に千五百人の子供を生ませるから、いっこうかまわない」とおっしゃって、そのまま、どんどんこちらへお帰りになりました。
神は、
「ああ、きたないところへ行った。急いでからだを洗ってけがれを払おう」とおっしゃって、日向の国の阿波岐原というところへお出かけになりました。
そこにはきれいな川が流れていました。
神はその川の岸へつえをお投げすてになり、それからお帯やお下ばかまや、お上衣や、お冠や、右左のお腕にはまった腕輪などを、すっかりお取りはずしになりました。そうすると、それだけの物を一つ一つお取りになるたんびに、ひょいひょいと一人ずつ、すべてで十二人の神さまがお生まれになりました。
神は、川の流れをご覧になりながら、
上の瀬は瀬が早い、
下の瀬は瀬が弱い。
とおっしゃって、ちょうどいいころあいの、中ほどの瀬におおりになり、水をかぶって、おからだじゅうをお洗いになりました。すると、おからだについたけがれのために、二人の禍の神が生まれました。それで伊弉諾神は、その神がつくりだす禍をおとりになるために、こんどは三人のよい神さまをお生みになりました。
それから水の底へもぐって、おからだをお清めになるときに、また二人の神さまがお生まれになり、そのつぎに、水の中にこごんでお洗いになるときにもお二人、それから水の上へ出ておすすぎになるときにもお二人の神さまがお生まれになりました。そしてしまいに、左の目をお洗いになると、それといっしょに、それはそれは美しい、貴い女神がお生まれになりました。
伊弉諾神は、この女神さまに天照大神というお名前をおつけになりました。そのつぎに右のお目をお洗いになりますと、月読命という神さまがお生まれになり、いちばんしまいにお鼻をお洗いになるときに、建速須佐之男命という神さまがお生まれになりました。
伊弉諾神はこのお三方をご覧になって、
「わしもこれまでいくたりも子供を生んだが、とうとうしまいに、一等よい子供を生んだ」と、それはそれは大喜びををなさいまして、さっそく玉の首飾りをおはずしになって、それをさらさらとゆり鳴らしながら、天照大神におあげになりました。そして、
「おまえは天へのぼって高天原を治めよ」とおっしゃいました。それから月読命には、
「おまえは夜の国を治めよ」とお言いつけになり、三ばんめの須佐之男命には、
「おまえは大海の上を治めよ」とお言いわたしになりました。
天照大神と、二番目の弟さまの月読命とは、おとうさまのご命令に従って、それぞれ大空と夜の国とをお治めになりました。
ところが末のお子さまの須佐之男命だけは、おとうさまのお言いつけをお聞きにならないで、いつまでたっても大海を治めようとなさらないばかりか、りっぱな長いおひげが胸の上までたれさがるほどの、大きなおとなにおなりになっても、やっぱり、赤んぼうのように、絶えまもなくわんわんわんわんお泣き狂いになって、どうにもこうにも手のつけようがありませんでした。そのひどいお泣き方といったら、それこそ、青い山々の草木も、やかましい泣き声で泣き枯らされてしまい、川や海の水も、その火のつくような泣き声のために、すっかり干あがったほどでした。
すると、いろんな悪い神々たちが、そのさわぎにつけこんで、わいわいとうるさくさわぎまわりました。そのおかげで、地の上にはありとあらゆる災が一どきに起こってきました。
伊弉諾命は、それをご覧になると、びっくりなすって、さっそく須佐之男命をお呼びになって、
「いったい、おまえは、わしの言うことも聞かないで、何をそんなに泣き狂ってばかりいるのか」ときびしくおとがめになりました。
すると須佐之男命はむきになって、
「私はおかあさまのおそばへ行きたいから泣くのです」とおっしゃいました。
伊弉諾命はそれをお聞きになると、たいそうお腹立ちになって、
「そんなかってな子は、この国へおくわけにゆかない。どこへなりと出て行け」とおっしゃいました。
命は平気で、
「それでは、お姉上さまにおいとま乞いをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原をめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。
すると、力の強い、大男の命ですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴にお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしと震い動きました。
天照大神は、その響きにびっくりなすって、
「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私の国を奪い取ろうと思って出て来たに相違ない」
こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕とに、八尺の曲玉というりっぱな玉の飾りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏みならして待ちかまえていらっしゃいました。そのきついお力ぶみで、お庭の堅い土が、まるで粉雪のようにもうもうと飛びちりました。
まもなく須佐之男命は大空へお着きになりました。
女神はそのお姿をご覧になると、声を張りあげて、
「命、そちは何をしに来た」と、いきなりおしかりつけになりました。すると命は、
「いえ、私はけっして悪いことをしにまいったのではございません。おとうさまが、私の泣いているのをご覧になって、なぜ泣くかとおとがめになったので、お母上のいらっしゃるところへ行きたいからですと申しあげると、たいそうお怒りになって、いきなり、出て行ってしまえとおっしゃるので、あなたにお別れをしにまいったのです」とお言いわけをなさいました。
でも女神はすぐにはご信用にならないで、
「それではおまえに悪い心のない証拠を見せよ」とおっしゃいました。命は、
「ではお互いに子を生んであかしを立てましょう。生まれた子によって、二人の心のよしあしがわかります」とおっしゃいました。
そこでごきょうだいは、天安河という河の両方の岸に分かれてお立ちになりました。そしてまず女神が、いちばん先に、命の十拳の剣をお取りになって、それを三つに折って、天真名井という井戸で洗って、がりがりとおかみになり、ふっと霧をお吹きになりますと、そのお息の中から、三人の女神がお生まれになりました。
そのつぎには命が、女神の左のびんにおかけになっている、八尺の曲玉の飾りをいただいて、玉の音をからからいわせながら、天真名井という井戸で洗いすすいで、それをがりがりかんで霧をお吹き出しになりますと、それといっしょに一人の男の神さまがお生まれになりました。その神さまが、天忍穂耳命です。
それからつぎには、女神の右のびんの玉飾りをお取りになって、先と同じようにして息をお吹きになりますと、その中からまた男の神が一人お生まれになりました。
つづいてこんどは、おかずらの玉飾りを受け取って、やはり真名井で洗って、がりがりかんで息をお吹きになりますと、その中から、また男の神が一人お生まれになり、いちばんしまいに、女神の右と左のお腕の玉飾りをかんで、息をお吹きになりますと、そのたんびに、同じ男神が一人ずつ──これですべてで五人の男神がお生まれになりました。
天照大神は、
「はじめに生まれた三人の女神は、おまえの剣からできたのだから、おまえの子だ。あとの五人の男神は私の玉飾りからできたのだから、私の子だ」とおっしゃいました。
命は、
「そうら、私が勝った。私になんの悪心もない印には、私の子は、みんなおとなしい女神ではありませんか。どうです、それでも私は悪人ですか」と、それはそれは大いばりにおいばりになりました。そして、その勢いに乗ってお暴れだしになって、女神がお作らせになっている田の畔をこわしたり、みぞを埋めたり、しまいには女神がお初穂を召しあがる御殿へ、うんこをひりちらすというような、ひどい乱暴をなさいました。
ほかの神々は、それを見てあきれてしまって、女神に言いつけにまいりました。
しかし女神はちっともお怒りにならないで、
「何、ほっておけ。けっして悪い気でするのではない。きたないものは、酔ったまぎれに吐いたのであろう。畔やみぞをこわしたのは、せっかくの地面を、そんなみぞなぞにしておくのが惜しいからであろう」
こうおっしゃって、かえって命をかばっておあげになりました。
すると命は、ますます図に乗って、しまいには、女たちが女神のお召物を織っている、機織場の屋根を破って、その穴から、ぶちのうまの皮をはいで、血まぶれにしたのを、どしんと投げこんだりなさいました。機織女は、びっくりして遁げ惑うはずみに、おさで下腹を突いて死んでしまいました。
女神は、命のあまりの乱暴さにとうとういたたまれなくおなりになって、天の岩屋という石室の中へお隠れになりました。そして入口の岩の戸をぴっしりとおしめになったきり、そのままひきこもっていらっしゃいました。
すると女神は日の神さまでいらっしゃるので、そのお方がお姿をお隠しになるといっしょに、高天原も下界の地の上も、一度にみんなまっ暗がりになって、それこそ、昼と夜との区別もない、長い長いやみの世界になってしまいました。
そうすると、いろいろの悪い神たちが、その暗がりにつけこんで、わいわいとさわぎだしました。そのために、世界じゅうにはありとあらゆる禍が、一度にわきあがって来ました。
そんなわけで、大空の神々たちは、たいそうお困りになりまして、みんなで安河原という、空の上の河原に集まって、どうかして、天照大神に岩屋からお出ましになっていただく方法はあるまいかといっしょうけんめいに、相談をなさいました。
そうすると、思金神という、いちばんかしこい神さまが、いいことをお考えつきになりました。
みんなはその神のさしずで、さっそく、にわとりをどっさり集めて来て、岩屋の前で、ひっきりなしに鳴かせました。
それから一方では、安河の河上から固い岩をはこんで来て、それを鉄床にして、八咫の鏡というりっぱな鏡を作らせ、八尺の曲玉というりっぱな玉で胸飾りを作らせました。そして、天香具山という山からさかきを根抜きにして来て、その上の方の枝へ、八尺の曲玉をつけ、中ほどの枝へ八咫の鏡をかけ、下の枝へは、白や青のきれをつりさげました。そしてある一人の神さまが、そのさかきを持って天の岩屋に立ち、ほかの一人の神さまが、そのそばでのりとをあげました。
それからやはり岩屋の前へ、あきだるを伏せて、天宇受女命という女神に、天香具山のかつらのつるをたすきにかけさせ、かつらの葉を髪飾りにさせて、そのおけの上へあがって踊りを踊らせました。
宇受女命は、お乳もお腹も、もももまるだしにして、足をとんとん踏みならしながら、まるでつきものでもしたように、くるくるくるくると踊り狂いました。
するとそのようすがいかにもおかしいので、何千人という神たちが、一度にどっとふきだして、みんなでころがりまわって笑いました。そこへにわとりは声をそろえて、コッケコー、コッケコーと鳴きたてるので、そのさわぎといったら、まったく耳もつぶれるほどでした。
天照大神は、そのたいそうなさわぎの声をお聞きになると、何ごとが起こったのかとおぼしめして、岩屋の戸を細めにあけて、そっとのぞいてご覧になりました。そして宇受女命に向かって、
「これこれ私がここに、隠れていれば、空の上もまっくらなはずだのに、おまえはなにをおもしろがって踊っているのか。ほかの神々たちも、なんであんなに笑いくずれているのか」とおたずねになりました。
すると宇受女命は、
「それは、あなたよりも、もっと貴い神さまが出ていらっしゃいましたので、みんなが喜んでさわいでおりますのでございます」と申しあげました。
それと同時に一人の神さまは、例の、八咫の鏡をつけたさかきを、ふいに大神の前へ突き出しました。鏡には、さっと、大神のお顔がうつりました。大神はそのうつった顔をご覧になると、
「おや、これはだれであろう」とおっしゃりながら、もっとよく見ようとおぼしめして、少しばかり戸の外へお出ましになりました。
すると、さっきから、岩屋のそばに隠れて待ちかまえていた、手力男命という大力の神さまが、いきなり、女神のお手を取って、すっかり外へお引き出し申しました。それといっしょに、一人の神さまは、女神のおうしろへまわって、
「どうぞ、もうこれからうちへはおはいりくださいませんように」と申しあげて、そこへしめなわを張りわたしてしまいました。
それで世界じゅうは、やっと長い夜があけて、再び明るい昼が来ました。
神々たちは、それでようやく安心なさいました。そこでさっそく、みんなで相談して、須佐之男命には、あんなひどい乱暴をなすった罰として、ご身代をすっかりさし出させ、そのうえに、りっぱなおひげも切りとり、手足の爪まではぎとって、下界へ追いくだしてしまいました。
そのとき須佐之男命は、大気都比売命という女神に、何か物を食べさせよとおおせになりました。大気都比売命は、おことばに従って、さっそく、鼻の穴や口の中からいろいろの食べものを出して、それをいろいろにお料理してさしあげました。
すると須佐之男命は大気都比売命のすることを見ていらしって、
「こら、そんな、お前の口や鼻から出したものがおれに食えるか。無礼なやつだ」と、たいそうお腹立ちになって、いきなり剣を抜いて、大気都比売命を一うちに切り殺しておしまいになりました。
そうすると、その死がいの頭から、かいこが生まれ、両方の目にいねがなり、二つの耳にあわがなりました。それから鼻にはあずきがなり、おなかに、むぎとだいずがなりました。
それを神産霊神がお取り集めになって、日本じゅうの穀物の種になさいました。
須佐之男命は、そのまま下界へおりておいでになりました。
須佐之男命は、大空から追いおろされて、出雲の国の、肥の河の河上の、鳥髪というところへおくだりになりました。
すると、その河の中にはしが流れて来ました。命は、それをご覧になって、
「では、この河の上の方には人が住んでいるな」とお察しになり、さっそくそちらの方へ向かって探し探しおいでになりました。そうすると、あるおじいさんとおばあさんとが、まん中に一人の娘をすわらせて三人でおんおん泣いておりました。
命は、おまえたちは何者かとおたずねになりました。
おじいさんは、
「私は、この国の大山津見と申します神の子で、足名椎と申します者でございます。妻の名は手名椎、この娘の名は櫛名田媛と申します」とお答えいたしました。
命は、
「それで三人ともどうして泣いているのか」と、かさねてお聞きになりました。
おじいさんは涙をふいて、
「私たち二人には、もとは八人の娘がおりましたのでございますが、その娘たちを、八俣の大蛇と申します怖ろしい大じゃが、毎年出てきて、一人ずつ食べて行ってしまいまして、とうとうこの子一人だけになりました。そういうこの子も、今にその大じゃが食べにまいりますのでございます」
こう言って、みんなが泣いているわけをお話しいたしました。
「いったいその大じゃはどんな形をしている」と、命はお聞きになりました。
「その大じゃと申しますのは、からだは一つでございますが、頭と尾は八つにわかれておりまして、その八つの頭には、赤ほおずきのようなまっかな目が、燃えるように光っております。それからからだじゅうには、こけや、ひのきやすぎの木などがはえ茂っております。そのからだのすっかりの長さが、八つの谷と八つの山のすそをとりまくほどの、大きな大きな大じゃでございます。その腹はいつも血にただれてまっかになっております」と怖ろしそうにお話しいたしました。命は、
「ふん、よしよし」とおうなずきになりました。そして改めておじいさんに向かって、
「その娘はおまえの子ならば、わしのお嫁にくれないか」とおっしゃいました。
「おことばではございますが、あなたさまはどこのどなただか存じませんので」とおじいさんは危ぶんで怖る怖るこう申しました。命は、
「じつはおれは天照大神の同じ腹の弟で、たった今、大空からおりて来たばかりだ」と、うちあけてお名まえをおっしゃいました。すると、足名椎も手名椎も、
「さようでございますか。これはこれはおそれおおい。それでは、おおせのままさしあげますでございます」と、両手をついて申しあげました。
命は、櫛名田媛をおもらいになると、たちまち媛をくしに化けさせておしまいになりました。そして、そのくしをすぐにご自分のびんの巻髪におさしになって、足名椎と手名椎に向かっておっしゃいました。
「おまえたちは、これからこめをかんで、よい酒をどっさり作れ。それから、ここへぐるりとかきをこしらえて、そのかきへ、八ところに門をあけよ。そしてその門のうちへ、一つずつさじきをこしらえて、そのさじきの上に、大おけを一つずつおいて、その中へ、二人でこしらえたよい酒を一ぱい入れて待っておれ」とお言いつけになりました。
二人は、おおせのとおりに、すっかり準備をととのえて、待っておりました。そのうちに、そろそろ大じゃの出て来る時間が近づいて来ました。
命は、それを聞いて、じっと待ちかまえていらっしゃいますと、まもなく、二人が言ったように、大きな大きな八俣の大蛇が、大きなまっかな目をぎらぎら光らして、のそのそと出て来ました。
大じゃは、目の前に八つの酒おけが並んでいるのを見ると、いきなり八つの頭を一つずつその中へつっこんで、そのたいそうなお酒を、がぶがぶがぶがぶとまたたくまに飲み干してしまいました。そうするとまもなくからだじゅうによいがまわって、その場へ倒れたなり、ぐうぐう寝いってしまいました。
須佐之男命は、そっとその寝息をうかがっていらっしゃいましたが、やがて、さあ今だとお思いになって、十拳の剣を引き抜くが早いか、おのれ、おのれと、つづけさまにお切りつけになりました。そのうちに八つの尾の中の、中ほどの尾をお切りつけになりますと、その尾の中に何か固い物があって、剣の刃先が、少しばかりほろりと欠けました。
命は、
「おや、変だな」とおぼしめして、そのところを切り裂いてご覧になりますと、中から、それはそれは刃の鋭い、りっぱな剣が出て来ました。命は、これはふしぎなものが手にはいったとお思いになりました。その剣はのちに天照大神へご献上になりました。
命はとうとう、大きな大きな大じゃの胴体をずたずたに切り刻んでおしまいになりました。そして、
「足名椎、手名椎、来て見よ。このとおりだ」とお呼びになりました。
二人はがたがたふるえながら出て来ますと、そこいら一面は、きれぎれになった大じゃの胴体から吹き出る血でいっぱいになっておりました。その血がどんどん肥の河へ流れこんで、河の水もまっかになって落ちて行きました。
命はそれから、櫛名田媛とお二人で、そのまま出雲の国にお住まいになるおつもりで、御殿をおたてになるところを、そちこちと、探してお歩きになりました。そして、しまいに、須加というところまでおいでになると、
「ああ、ここへ来たら、心持がせいせいしてきた。これはよいところだ」とおっしゃって、そこへ御殿をおたてになりました。そして、足名椎神をそのお宮の役人の頭になさいました。
命にはつぎつぎにお子さまお孫さまがどんどんおできになりました。その八代目のお孫さまのお子さまに、大国主神、またの名を大穴牟遅神とおっしゃるりっぱな神さまがお生まれになりました。
この大国主神には、八十神といって、何十人というほどの、おおぜいのごきょうだいがおありになりました。
その八十神たちは、因幡の国に、八上媛という美しい女の人がいると聞き、みんなてんでんに、自分のお嫁にもらおうと思って、一同でつれだって、はるばる因幡へ出かけて行きました。
みんなは、大国主神が、おとなしいかたなのをよいことにして、このかたをお供の代わりに使って、袋を背おわせてついて来させました。そして、因幡の気多という海岸まで来ますと、そこに毛のないあか裸のうさぎが、地べたにころがって、苦しそうにからだじゅうで息をしておりました。
八十神たちはそれを見ると、
「おいうさぎよ。おまえからだに毛がはやしたければ、この海の潮につかって、高い山の上で風に吹かれて寝ておれ。そうすれば、すぐに毛がいっぱいはえるよ」とからかいました。うさぎはそれをほんとうにして、さっそく海につかって、ずぶぬれになって、よちよちと山へのぼって、そのまま寝ころんでおりました。
するとその潮水がかわくにつれて、からだじゅうの皮がひきつれて、びりびり裂け破れました。うさぎはそのひりひりする、ひどい痛みにたまりかねて、おんおん泣き伏しておりました。そうすると、いちばんあとからお通りかかりになった、お供の大国主神がそれをご覧になって、
「おいおいうさぎさん、どうしてそんなに泣いているの」とやさしく聞いてくださいました。
うさぎは泣き泣き、
「私は、もと隠岐の島におりましたうさぎでございますが、この本土へ渡ろうと思いましても、渡るてだてがございませんものですから、海の中のわにをだまして、いったい、おまえとわしとどっちがみうちが多いだろう、ひとつくらべてみようじゃないか、おまえはいるだけのけん族をすっかりつれて来て、ここから、あの向こうのはての、気多のみさきまでずっと並んでみよ、そうすればおれがその背中の上をつたわって、かぞえてやろうと申しました。
すると、わにはすっかりだまされまして、出てまいりますもまいりますも、それはそれは、うようよと、まっくろに集まってまいりました。そして、私の申しましたとおりに、この海ばたまでずらりと一列に並びました。
私は五十八十と数をよみながら、その背なかの上をどんどん渡って、もう一足でこの海ばたへ上がろうといたしますときに、やあいまぬけのわにめ、うまくおれにだまされたァいとはやしたてますと、いちばんしまいにおりましたわにが、むっと怒って、いきなり私をつかまえまして、このとおりにすっかりきものをひっぺがしてしまいました。
そこであすこのところへ伏しころんで泣いておりましたら、さきほどここをお通りになりました八十神たちが、いいことを教えてやろう、これこれこうしてみろとおっしゃいましたので、そのとおりに潮水を浴びて風に吹かれておりますと、からだじゅうの皮がこわばって、こんなにびりびり裂けてしまいました」
こう言って、うさぎはおんおん泣きだしました。
大国主神は、話を聞いてかわいそうだとおぼしめして、
「それでは早くあすこの川口へ行って、ま水でからだじゅうをよく洗って、そこいらにあるかばの花をむしって、それを下に敷いて寝ころんでいてごらん。そうすれば、ちゃんともとのとおりになおるから」
こう言って、教えておやりになりました。うさぎはそれを聞くとたいそう喜んでお礼を申しました。そしてそのあとで言いました。
「あんなお人の悪い八十神たちは、けっして八上媛をご自分のものになさることはできません。あなたは袋などをおしょいになって、お供についていらっしゃいますけれど、八上媛はきっと、あなたのお嫁さまになると申します。みていてごらんなさいまし」と申しました。
まもなく、八十神たちは八上媛のところへ着きました。そして、代わる代わる、自分のお嫁になれなれと言いましたが、媛はそれをいちいちはねつけて、
「いえいえ、いくらお言いになりましても、あなたがたのご自由にはなりません。私は、あそこにいらっしゃる大国主神のお嫁にしていただくのです」と申しました。
八十神たちはそれを聞くとたいそう怒って、みんなで大国主神を殺してしまおうという相談をきめました。
みんなは、大国主神を、伯耆の国の手間の山という山の下へつれて行って、
「この山には赤いいのししがいる。これからわしたちが山の上からそのいのししを追いおろすから、おまえは下にいてつかまえろ。へたをして遁がしたらおまえを殺してしまうぞ」と、言いわたしました。そして急いで、山の上へかけあがって、さかんにたき火をこしらえて、その火の中で、いのししのようなかっこうをしている大きな石をまっかに焼いて、
「そうら、つかまえろ」と言いながら、どしんと、転がし落としました。
ふもとで待ち受けていらしった大国主神は、それをご覧になるなり、大急ぎでかけ寄って、力まかせにお組みつきになったと思いますと、からだはたちまちそのあか焼けの石の膚にこびりついて、
「あッ」とお言いになったきり、そのままただれ死にに死んでおしまいになりました。
大国主神の生みのおかあさまは、それをお聞きになると、たいそうお嘆きになって、泣き泣き大空へかけのぼって、高天原においでになる、高皇産霊神にお助けをお願いになりました。
すると、高皇産霊神は、蚶貝媛、蛤貝媛と名のついた、あかがいとはまぐりの二人の貝を、すぐに下界へおくだしになりました。
二人は大急ぎでおりて見ますと、大国主神はまっくろこげになって、山のすそに倒れていらっしゃいました。あかがいはさっそく自分のからを削って、それを焼いて黒い粉をこしらえました。はまぐりは急いで水を出して、その黒い粉をこねて、おちちのようにどろどろにして、二人で大国主神のからだじゅうへ塗りつけました。
そうすると大国主神は、それほどの大やけどもたちまちなおって、もとのとおりの、きれいな若い神になってお起きあがりになりました。そしてどんどん歩いてお家へ帰っていらっしゃいました。
八十神たちは、それを見ると、びっくりして、もう一度みんなでひそひそ相談をはじめました。そしてまたじょうずに大国主神をだまして、こんどは別の山の中へつれこみました。そしてみんなで寄ってたかって、ある大きなたち木を根もとから切りまげて、その切れ目へくさびをうちこんで、その間へ大国主神をはいらせました。そうしておいて、ふいにポンとくさびを打ちはなして、はさみ殺しに殺してしまいました。
大国主神のおかあさまは、若い子の神がまたいなくなったので、おどろいて方々さがしておまわりになりました。そして、しまいにまた殺されていらっしゃるところをおみつけになると、大急ぎで木の幹を切り開いて、子の神のお死がいをお引き出しになりました。そしていっしょうけんめいに介抱して、ようようのことで再びお生きかえらせになりました。おかあさまは、
「もうおまえはうかうかこの土地においてはおかれない。どうぞこれからすぐに、須佐之男命のおいでになる、根堅国へ遁げておくれ、そうすれば命が必ずいいようにはからってくださるから」
こう言って、若い子の神を、そのままそちらへ立ってお行かせになりました。
大国主神は、言われたとおりに、命のおいでになるところへお着きになりました。すると、命のお娘ごの須勢理媛がお取次をなすって、
「お父上さま、きれいな神がいらっしゃいました」とお言いになりました。
お父上の大神は、それをお聞きになると、急いでご自分で出てご覧になって、
「ああ、あれは、大国主という神だ」とおっしゃいました。そして、さっそくお呼びいれになりました。
媛は大国主神のことをほんとに美しいよい方だとすぐに大すきにお思いになりました。大神には、第一それがお気にめしませんでした。それで、ひとつこの若い神を困らせてやろうとお思いになって、その晩、大国主神を、へびの室といって、大へび小へびがいっぱいたかっているきみの悪いおへやへお寝かせになりました。
そうすると、やさしい須勢理媛は、たいそう気の毒にお思いになりました。それでご自分の、比礼といって、肩かけのように使うきれを、そっと大国主神におわたしになって、
「もしへびがくいつきにまいりましたら、このきれを三度振って追いのけておしまいなさい」とおっしゃいました。
まもなく、へびはみんなでかま首を立ててぞろぞろとむかって来ました。大国主神はさっそく言われたとおりに、飾りのきれを三度お振りになりました。するとふしぎにも、へびはひとりでにひきかえして、そのままじっとかたまったなり、一晩じゅう、なんにも害をしませんでした。若い神はおかげで、気らくにぐっすりおよって、朝になると、あたりまえの顔をして、大神の前に出ていらっしゃいました。
すると大神は、その晩はむかでとはちのいっぱいはいっているおへやへお寝かせになりました。しかし媛が、またこっそりと、ほかの首飾りのきれをわたしてくだすったので、大国主神は、その晩もそれでむかでやはちを追いはらって、また一晩じゅうらくらくとおやすみになりました。
大神は、大国主神がふた晩とも、平気で切りぬけてきたので、よし、それではこんどこそは見ておれと、心の中でおっしゃりながら、かぶら矢と言って、矢じりに穴があいていて、射るとびゅんびゅんと鳴る、こわい大きな矢を、草のぼうぼうとはえのびた、広い野原のまん中にお射こみになりました。そして、大国主神に向かって、
「さあ、今飛んだ矢を拾って来い」とおおせつけになりました。
若い神は、正直にご命令を聞いて、すぐに草をかき分けてどんどんはいっておいでになりました。大神はそれを見すまして、ふいに、その野のまわりへぐるりと火をつけて、どんどんお焼きたてになりました。大国主神は、おやと思うまに、たちまち四方から火の手におかこまれになって、すっかり遁げ場を失っておしまいになりました。それで、どうしたらいいかとびっくりして、とまどいをしていらっしゃいますと、そこへ一ぴきのねずみが出て来まして、
「うちはほらほら、そとはすぶすぶ」と言いました。それは、中は、がらんどうで、外はすぼまっている、という意味でした。
若い神は、すぐそのわけをおさとりになって、足の下を、とんときつく踏んでごらんになりますと、そこは、ちゃんと下が大きな穴になっていたので、からだごとすっぽりとその中へ落ちこみました。それで、じっとそのままこごまって隠れていらっしゃいますと、やがてま近まで燃えて来た火の手は、その穴の上を走って、向こうへ遠のいてしまいました。
そのうちに、さっきのねずみが大神のお射になったかぶら矢をちゃんとさがし出して、口にくわえて持って来てくれました。見るとその矢の羽根のところは、いつのまにかねずみの子供たちがかじってすっかり食べてしまっておりました。
須勢理媛は、そんなことはちっともご存じないものですから、美しい若い神は、きっと焼け死んだものとお思いになって、ひとりで嘆き悲しんでいらっしゃいました。そして火が消えるとすぐに、急いでお弔いの道具を持って、泣き泣きさがしにいらっしゃいました。
お父上の大神の、こんどこそはだいじょうぶ死んだろうとお思いになって、媛のあとからいらしってごらんになりました。
すると大国主神は、もとのお姿のままで、焼けあとのなかから出ていらっしゃいました。そしてさっきのかぶら矢をちゃんとお手におわたしになりました。
大神もこれには内々びっくりしておしまいになりまして、しかたなくいっしょに御殿へおかえりになりました。そして大きな広間へつれておはいりになって、そこへごろりと横におなりになったと思うと、
「おい、おれの頭のしらみを取れ」と、いきなりおっしゃいました。
大国主神はかしこまって、その長い長いお髪の毛をかき分けてご覧になりますと、その中には、しらみでなくて、たくさんなむかでが、うようよたかっておりました。
すると、須勢理媛がそばへ来て、こっそりとむくの実と赤土とをわたしてお行きになりました。
大国主神は、そのむくの実を一粒ずつかみくだき、赤土を少しずつかみとかしては、いっしょにぷいぷいお吐き出しになりました。大神はそれをご覧になると、
「ほほう、むかでをいちいちかみつぶしているな。これは感心なやつだ」とお思いになりながら、安心して、すやすやと寝いっておしまいになりました。
大国主神は、この上ここにぐずぐずしていると、まだまだどんなめに会うかわからないとお思いになって、命がちょうどぐうぐうおやすみになっているのをさいわいに、その長いお髪をいく束にも分けて、それを四方のたる木というたる木へ一束ずつ縛りつけておいたうえ、五百人もかからねば動かせないような、大きな大きな大岩を、そっと戸口に立てかけて、中から出られないようにしておいて、大神の太刀と弓矢と、玉の飾りのついた貴い琴とをひっ抱えるなり、急いで須勢理媛を背なかにおぶって、そっと御殿をお逃げ出しになりました。
するとまの悪いことに、抱えていらっしゃる琴が、樹の幹にぶつかって、じゃらじゃらじゃらんとたいそうなひびきを立てて鳴りました。
大神はその音におどろいて、むっくりとお立ちあがりになりました。すると、おぐしがたる木じゅうへ縛りつけてあったのですから、大力のある大神がふいにお立ちになるといっしょに、そのおへやはいきなりめりめりと倒れつぶれてしまいました。
大神は、
「おのれ、あの小僧ッ神め」と、それはそれはお怒りになって、髪の毛をひと束ずつ、もどかしく解きはなしていらっしゃるまに、こちらの大国主神はいっしょうけんめいにかけつづけて、すばやく遠くまで逃げのびていらっしゃいました。
すると大神は、まもなくそのあとを追っかけて、とうとう黄泉比良坂という坂の上までかけつけていらっしゃいました。そしてそこから、はるかに大国主神を呼びかけて、大声をしぼってこうおっしゃいました。
「おおいおおい、小僧ッ神。その太刀と弓矢をもって、そちのきょうだいの八十神どもを、山の下、川の中と、逃げるところへ追いつめ切り払い、そちが国の神の頭になって、宇迦の山のふもとに御殿を立てて住め。わしのその娘はおまえのお嫁にくれてやる。わかったか」とおどなりになりました。
大国主神はおおせのとおりに、改めていただいた、大神の太刀と弓矢を持って、八十神たちを討ちにいらっしゃいました。そして、みんながちりぢりに逃げまわるのを追っかけて、そこいらじゅうの坂の下や川の中へ、切り倒し突き落として、とうとう一人ももらさず亡ぼしておしまいになりました。そして、国の神の頭になって、宇迦の山の下に御殿をおたてになり、須勢理媛と二人で楽しくおくらしになりました。
そのうちに例の八上媛は、大国主神をしたって、はるばるたずねて来ましたが、その大国主神には、もう須勢理媛というりっぱなお嫁さまができていたので、しおしおと、またおうちへ帰って行きました。
大国主神はそれからなお順々に四方を平らげて、だんだんと国を広げておゆきになりました。そうしているうちに、ある日、出雲の国の御大の崎という海ばたにいっていらっしゃいますと、はるか向こうの海の上から、一人の小さな小さな神が、お供の者たちといっしょに、どんどんこちらへ向かって船をこぎよせて来ました。その乗っている船は、ががいもという、小さな草の実で、着ている着物は、ひとりむしの皮を丸はぎにしたものでした。
大国主神は、その神に向かって、
「あなたはどなたですか」とおたずねになりました。しかし、その神は口を閉じたまま名まえをあかしてくれませんでした。大国主神はご自分のお供の神たちに聞いてご覧になりましたが、みんなその神がだれだかけんとうがつきませんでした。
するとそこへひきがえるがのこのこ出て来まして、
「あの神のことは久延彦ならきっと存じておりますでしょう」と言いました。久延彦というのは山の田に立っているかかしでした。久延彦は足がきかないので、ひと足も歩くことはできませんでしたけれど、それでいて、この下界のことはなんでもすっかり知っておりました。
それで大国主神は急いでその久延彦にお聞きになりますと、
「ああ、あの神は大空においでになる神産霊神のお子さまで、少名毘古那神とおっしゃる方でございます」と答えました。大国主神はそれでさっそく、神産霊神にお伺いになりますと、神も、
「あれはたしかにわしの子だ」とおっしゃいました。そして改めて少名毘古那神に向かって、
「おまえは大国主神ときょうだいになって二人で国々を開き固めて行け」とおおせつけになりました。
大国主神は、そのお言葉に従って、少名毘古那神とお二人で、だんだんに国を作り開いておゆきになりました。ところが、少名毘古那神は、あとになると、急に常世国という、海の向こうの遠い国へ行っておしまいになりました。
大国主神はがっかりなすって、私一人では、とても思いどおりに国を開いてゆくことはできない、だれか力を添えてくれる神はいないものかと言って、たいそうしおれていらっしゃいました。
するとちょうどそのとき、一人の神さまが、海の上一面にきらきらと光を放ちながら、こちらへ向かって近づいていらっしゃいました。それは須佐之男命のお子の大年神というお方でした。その神が、大国主神に向かって、
「私をよく大事にまつっておくれなら、いっしょになって国を作りかためてあげよう。おまえさん一人ではとてもできはしない」と、こう言ってくださいました。
「それではどんなふうにおまつり申せばいいのでございますか」とお聞きになりますと、
「大和の御諸の山の上にまつってくれればよい」とおっしゃいました。
大国主神はお言葉のとおりに、そこへおまつりして、その神さまと二人でまただんだんに国を広げておゆきになりました。
そのうちに大空の天照大神は、お子さまの天忍穂耳命に向かって、
「下界に見える、あの豊葦原水穂国は、おまえが治めるべき国である」とおっしゃって、すぐにくだって行くように、お言いつけになりました。命はかしこまっておりていらっしゃいました。しかし天の浮橋の上までおいでになって、そこからお見おろしになりますと、下では勢いの強い神たちが、てんでんに暴れまわって、大さわぎをしているのが見えました。命は急いでひきかえしていらしって、そのことを大神にお話しになりました。
それで大神と高皇産霊神とは、さっそく天安河の河原に、おおぜいの神々をすっかりお召し集めになって、
「あの水穂国は、私たちの子孫が治めるはずの国であるのに、今あすこには、悪強い神たちが勢い鋭く荒れまわっている。あの神たちを、おとなしくこちらの言うとおりにさせるには、いったいだれを使いにやったものであろう」とこうおっしゃって、みんなにご相談をなさいました。
すると例のいちばん考え深い思金神が、みんなと会議をして、
「それには天菩比神をおつかわしになりますがよろしゅうございましょう」と申しあげました。そこで大神は、さっそくその菩比神をおくだしになりました。
ところが菩比神は、下界へつくと、それなり大国主神の手下になってしまって、三年たっても、大空へはなんのご返事もいたしませんでした。
それで大神と高皇産霊神とは、またおおぜいの神々をお召しになって、
「菩比神がまだ帰ってこないが、こんどはだれをやったらよいであろう」と、おたずねになりました。
思金神は、
「それでは、天津国玉神の子の、天若日子がよろしゅうございましょう」と、お答え申しました。
大神はその言葉に従って、天若日子にりっぱな弓と矢をお授けになって、それを持たせて下界へおくだしになりました。
するとその若日子は大空にちゃんとほんとうのお嫁があるのに、下へおり着くといっしょに、大国主神の娘の下照比売をまたお嫁にもらったばかりか、ゆくゆくは水穂国を自分が取ってしまおうという腹で、とうとう八年たっても大神の方へはてんでご返事にも帰りませんでした。
大神と高皇産霊神とは、また神々をお集めになって、
「二度めにつかわした天若日子もまたとうとう帰ってこない。いったいどうしてこんなにいつまでも下界にいるのか、それを責めただしてこさせたいと思うが、だれをやったものであろう」とお聞きになりました。
思金神は、
「それでは名鳴女というきじがよろしゅうございましょう」と申しあげました。大神たちお二人はそのきじをお召しになって、
「おまえはこれから行って天若日子を責めてこい。そちを水穂国へおくりだしになったのは、この国の神どもを説き伏せるためではないか、それだのに、なぜ八年たってもご返事をしないのか、と言って、そのわけを聞きただしてこい」とお言いつけになりました。
名鳴女は、はるばると大空からおりて、天若日子のうちの門のそばの、かえでの木の上にとまって、大神からおおせつかったとおりをすっかり言いました。
すると若日子のところに使われている、天佐具売という女が、その言葉を聞いて、
「あすこに、いやな鳴き声を出す鳥がおります。早く射ておしまいなさいまし」と若日子にすすめました。
若日子は、
「ようし」と言いながら、かねて大神からいただいて来た弓と矢を取り出して、いきなりそのきじを射殺してしまいました。すると、その当たった矢が名鳴女の胸を突き通して、さかさまに大空の上まではねあがって、天安河の河原においでになる、天照大神と高皇産霊神とのおそばへ落ちました。
高皇産霊神はその矢を手に取ってご覧になりますと、矢の羽根に血がついておりました。
高皇産霊神は、
「この矢は天若日子につかわした矢だが」とおっしゃって、みんなの神々にお見せになった後、
「もしこの矢が、若日子が悪い神たちを射たのが飛んで来たのならば、若日子にはあたるな。もし若日子が悪い心をいだいているなら、かれを射殺せよ」とおっしゃりながら、さきほどの矢が通って来た空の穴から、力いっぱいにお突きおろしになりました。
そうするとその矢は、若日子がちょうど下界であおむきに寝ていた胸のまん中を、ぷすりと突き刺して一ぺんで殺してしまいました。
若日子のお嫁の下照比売は、びっくりして、大声をあげて泣きさわぎました。
その泣く声が風にはこばれて、大空まで聞こえて来ますと、若日子の父の天津国玉神と、若日子のほんとうのお嫁と子供たちがそれを聞きつけて、びっくりして、下界へおりて来ました、そして泣き泣きそこへ喪屋といって、死人を寝かせておく小屋をこしらえて、がんを供物をささげる役に、さぎをほうき持ちに、かわせみをお供えの魚取りにやとい、すずめをお供えのこめつきに呼び、きじを泣き役につれて来て、八日八晩の間、若日子の死がいのそばで楽器をならして、死んだ魂を慰めておりました。
そうしているところへ、大国主神の子で、下照比売のおあにいさまの高日子根神がお悔みに来ました。そうすると若日子の父と妻子たちは、
「おや」とびっくりして、その神の手足にとりすがりながら、
「まあまあおまえは生きていたのか」
「まあ、あなたは死なないでいてくださいましたか」と言って、みんなでおんおんと嬉し泣きに泣きだしました。それは高日子根神の顔や姿が天若日子にそっくりだったので、みんなは一も二もなく若日子だとばかり思ってしまったのでした。
すると高日子根神は、
「何をふざけるのだ」とまっかになって怒りだして、
「人がわざわざ悔みに来たのに、それをきたない死人などといっしょにするやつがどこにある」とどなりつけながら、長い剣を抜きはなすといっしょに、その喪屋をめちゃめちゃに切り倒し、足でぽんぽんけりちらかして、ぷんぷん怒って行ってしまいました。
そのとき妹の下照比売は、あの美しい若い神は私のおあにいさまの、これこれこういう方だということを、歌に歌って、誇りがおに若日子の父や妻子に知らせました。
天照大神は、そんなわけで、また神々に向かって、こんどというこんどはだれを遣わしたらよいかとご相談をなさいました。
思金神とすべての神々は、
「それではいよいよ、天安河の河上の、天の岩屋におります尾羽張神か、それでなければ、その神の子の建御雷神か、二人のうちどちらかをお遣しになるほかはございません。しかし尾羽張神は、天安河の水をせきあげて、道を通れないようにしておりますから、めったな神では、ちょっと呼びにもまいれません。これはひとつ天迦久神をおさしむけになりまして、尾羽張神がなんと申しますか聞かせてご覧になるがようございましょう」と申しあげました。
大神はそれをお聞きになると、急いで天迦久神をおやりになってお聞かせになりました。
そうすると尾羽張神は、
「これは、わざわざもったいない。その使いには私でもすぐにまいりますが、それよりも、こんなことにかけましては、私の子の建御雷神がいっとうお役に立ちますかと存じます」
こう言って、さっそくその神を大神のご前へうかがわせました。
大神はその建御雷神に、天鳥船神という神をつけておくだしになりました。
二人の神はまもなく出雲国の伊那佐という浜にくだりつきました。そしてお互いに長い剣をずらりと抜き放して、それを海の上にあおむけに突き立てて、そのきっさきの上にあぐらをかきながら、大国主神に談判をしました。
「わしたちは天照大神と高皇産霊神とのご命令で、わざわざお使いにまいったのである。大神はおまえが治めているこの葦原の中つ国は、大神のお子さまのお治めになる国だとおっしゃっている。そのおおせに従って大神のお子さまにこの国をすっかりお譲りなさるか。それともいやだとお言いか」と聞きますと、大国主神は、
「これは私からはなんともお答え申しかねます。私よりも、むすこの八重事代主神が、とかくのご返事を申しあげますでございましょうが、あいにくただいま御大の崎へりょうにまいっておりますので」とおっしゃいました。
建御雷神はそれを聞くと、すぐに天鳥船神を御大の崎へやって、事代主神を呼んで来させました。そして大国主神に言ったとおりのことを話しました。
すると事代主神は、父の神に向かって、
「まことにもったいないおおせです。お言葉のとおり、この国は大空の神さまのお子さまにおあげなさいまし」と言いながら、自分の乗って帰った船を踏み傾けて、おまじないの手打ちをしますと、その船はたちまち、青いいけがきに変わってしまいました。事代主神はそのいけがきの中へ急いでからだをかくしてしまいました。
建御雷神は大国主神に向かって、
「ただ今事代主神はあのとおりに申したが、このほかには、もうちがった意見を持っている子はいないか」とたずねました。
大国主神は、
「私の子は事代主神のほかに、もう一人、建御名方神というものがおります。もうそれきりでございます」とお答えになりました。
そうしているところへ、ちょうどこの建御名方神が、千人もかからねば動かせないような大きな大きな大岩を両手でさしあげて出て来まして、
「やい、おれの国へ来て、そんなひそひそ話をしているのはだれだ。さあ来い、力くらべをしよう。まずおれがおまえの手をつかんでみよう」と言いながら、大岩を投げだしてそばへ来て、いきなり建御雷神の手をひっつかみますと、御雷神の手は、たちまち氷の柱になってしまいました。御名方神がおやとおどろいているまに、その手はまたひょいと剣の刃になってしまいました。
御名方神はすっかりこわくなっておずおずとしりごみをしかけますと、御雷神は、
「さあ、こんどはおれの番だ」と言いながら、御名方神の手くびをぐいとひっつかむが早いか、まるではえたてのあしをでも扱うように、たちまち一握りに握りつぶして、ちぎれ取れた手先を、ぽうんと向こうへ投げつけました。
御名方神は、まっさおになって、いっしょうけんめいに逃げだしました。御雷神は、
「こら待て」と言いながら、どこまでもどんどんどんどん追っかけて行きました。そしてとうとう信濃の諏訪湖のそばで追いつめて、いきなり、一ひねりにひねり殺そうとしますと、建御名方神はぶるぶるふるえながら、
「もういよいよおそれいりました。どうぞ命ばかりはお助けくださいまし。私はこれなりこの信濃より外へはひと足も踏み出しはいたしません。また、父や兄の申しあげましたとおりに、この葦原の中つ国は、大空の神のお子さまにさしあげますでございます」と、平たくなっておわびしました。
そこで建御雷神はまた出雲へ帰って来て、大国主神に問いつめました。
「おまえの子は二人とも、大神のおおせにはそむかないと申したが、おまえもこれでいよいよ言うことはあるまいな、どうだ」と言いますと、大国主神は、
「私にはもう何も異存はございません。この中つ国はおおせのとおり、すっかり、大神のお子さまにさしあげます。その上でただ一つのおねがいは、どうぞ私の社として、大空の神の御殿のような、りっぱな、しっかりした御殿をたてていただきとうございます。そうしてくださいませば私は遠い世界から、いつまでも大神のご子孫にお仕え申します。じつは私の子は、ほかに、まだまだいくたりもありますが、しかし、事代主神さえ神妙にご奉公いたします上は、あとの子たちは一人も不平を申しはいたしません」
こう言って、いさぎよくその場で死んでおしまいになりました。
それで建御雷神は、さっそく、出雲国の多芸志という浜にりっぱな大きなお社をたてて、ちゃんと望みのとおりにまつりました。そして櫛八玉神という神を、お供えものを料理する料理人にしてつけ添えました。
すると八玉神は、うになって、海の底の土をくわえて来て、それで、いろんなお供えものをあげるかわらけをこしらえました。
それからある海草の茎で火切臼と火切杵という物をこしらえて、それをすり合わせて火を切り出して、建御雷神に向かってこう言いました。
「私が切ったこの火で、そこいらが、大空の神の御殿のお料理場のように、すすでいっぱいになるまで欠かさず火をたき、かまどの下が地の底の岩のように固くなるまで絶えず火をもやして、りょうしたちの取って来る大すずきをたくさんに料理して、大空の神の召しあがるようなりっぱなごちそうを、いつもいつもお供えいたします」と言いました。
建御雷神はそれでひとまず安心して、大空へ帰りのぼりました。そして天照大神と高皇産霊神に、すっかりこのことを、くわしく奏上いたしました。
天照大神と高皇産霊神とは、あれほど乱れさわいでいた下界を、建御雷神たちが、ちゃんとこちらのものにして帰りましたので、さっそく天忍穂耳命をお召しになって、
「葦原の中つ国はもはやすっかり平らいだ。おまえはこれからすぐにくだって、さいしょ申しつけたように、あの国を治めてゆけ」とおっしゃいました。
命はおおせに従って、すぐに出発の用意におとりかかりになりました。するとちょうどそのときに、お妃の秋津師毘売命が男のお子さまをお生みになりました。
忍穂耳命は大神のご前へおいでになって、
「私たち二人に、世嗣の子供が生まれました。名前は日子番能邇邇芸命とつけました。中つ国へくだしますには、この子がいちばんよいかと存じます」とおっしゃいました。
それで大神は、そのお孫さまの命が大きくおなりになりますと、改めておそばへ召して、
「下界に見えるあの中つ国は、おまえの治める国であるぞ」とおっしゃいました。命は、かしこまって、
「それでは、これからすぐにくだってまいります」とおっしゃって、急いでそのお手はずをなさいました。そしてまもなく、いよいよお立ちになろうとなさいますと、ちょうど、大空のお通り道のある四つじに、だれだか一人の神が立ちはだかって、まぶしい光をきらきらと放ちながら、上は高天原までもあかあかと照らし、下は中つ国までいちめんに照り輝かせておりました。
天照大神と高皇産霊神とはそれをご覧になりますと、急いで天宇受女命をお呼びになって、
「そちは女でこそあれ、どんな荒くれた神に向かいあっても、びくともしない神だから、だれをもおいておまえを遣すのである。あの、道をふさいでいる神のところへ行ってそう言って来い。大空の神のお子がおくだりになろうとするのに、そのお通り道を妨げているおまえは何者かと、しっかり責めただして来い」とお言いつけになりました。
宇受女命はさっそくかけつけて、きびしくとがめたてました。すると、その神は言葉をひくくして、
「私は下界の神で名は猿田彦神と申します者でございます。ただいまここまで出てまいりましたのは、大空の神のお子さまがまもなくおくだりになると承りましたので、及ばずながら私がお道筋をご案内申しあげたいと存じまして、お迎えにまいりましたのでございます」とお答え申しました。
大神はそれをお聞きになりましてご安心なさいました。そして天児屋根命、太玉命、天宇受女命、石許理度売命、玉祖命の五人を、お孫さまの命のお供の頭としておつけ添えになりました。そしておしまいにお別れになるときに、八尺の曲玉という、それはそれはごりっぱなお首飾りの玉と、八咫の鏡という神々しいお鏡と、かねて須佐之男命が大じゃの尾の中からお拾いになった、鋭い御剣と、この三つの貴いご自分のお持物を、お手ずから命にお授けになって、
「この鏡は私の魂だと思って、これまで私に仕えてきたとおりに、たいせつに崇め祀るがよい」とおっしゃいました。それから大空の神々の中でいちばんちえの深い思金神と、いちばんすぐれて力の強い手力男神とをさらにおつけ添えになったうえ、
「思金神よ、そちはあの鏡の祀りをひき受けて、よくとり行なえよ」とおおせつけになりました。
邇邇芸命はそれらの神々をはじめ、おおぜいのお供の神をひきつれて、いよいよ大空のお住まいをおたちになり、いく重ともなくはるばるとわき重なっている、深い雲の峰をどんどんおし分けて、ご威光りりしくお進みになり、やがて天浮橋をもおし渡って、どうどうと下界に向かってくだっておいでになりました。そのまっさきには、天忍日命と、天津久米命という、よりすぐった二人の強い神さまが、大きな剣をつるし、大きな弓と強い矢とを負い抱えて、勇ましくお先払いをして行きました。
命たちはしまいに、日向の国の高千穂の山の、串触嶽という険しい峰の上にお着きになりました。そしてさらに韓国嶽という峰へおわたりになり、そこからだんだんと、ひら地へおくだりになって、お住まいをお定めになる場所を探し探し、海の方へ向かって出ておいでになりました。
そのうちに同じ日向の笠沙の岬へお着きになりました。
邇邇芸命は、
「ここは朝日もま向きに射し、夕日もよく照って、じつにすがすがしいよいところだ」とおっしゃって、すっかりお気にめしました。それでとうとう最後にそこへお住まいになることにおきめになりました。そしてさっそく、地面のしっかりしたところへ、大きな広い御殿をおたてになりました。
命は、それから例の宇受女命をお召しになって、
「そちは、われわれの道案内をしてくれた、あの猿田彦神とは、さいしょからの知り合いである。それでそちがつき添って、あの神が帰るところまで送って行っておくれ。それから、あの神のてがらを記念してやる印に、猿田彦という名まえをおまえが継いで、あの神と二人のつもりで私に仕えよ」とおっしゃいました。宇受女命はかしこまって、猿田彦神を送ってまいりました。
猿田彦神は、その後、伊勢の阿坂というところに住んでいましたが、あるときりょうに出て、ひらふがいという大きな貝に手をはさまれ、とうとうそれなり海の中へ引き入れられて、おぼれ死にに死んでしまいました。
宇受女命はその神を送り届けて帰って来ますと、笠沙の海ばたへ、大小さまざまの魚をすっかり追い集めて、
「おまえたちは大空の神のお子さまにお仕え申すか」と聞きました。そうすると、どの魚も一ぴき残らず、
「はいはい、ちゃんとご奉公申しあげます」とご返事をしましたが、中でなまこがたった一人、お答えをしないで黙っておりました。
すると宇受女命は怒って、
「こゥれ、返事をしない口はその口か」と言いざま、手早く懐剣を抜きはなって、そのなまこの口をぐいとひとえぐり切り裂きました。ですからなまこの口はいまだに裂けております。
そのうちに邇邇芸命は、ある日、同じみさきできれいな若い女の人にお出会いになりました。
「おまえはだれの娘か」とおたずねになりますと、その女の人は、
「私は大山津見神の娘の木色咲耶媛と申す者でございます」とお答え申しました。
「そちにはきょうだいがあるか」とかさねてお聞きになりますと、
「私には石長媛と申します一人の姉がございます」と申しました。命は、
「わたしはおまえをお嫁にもらいたいと思うが、来るか」とお聞きになりました。すると咲耶媛は、
「それは私からはなんとも申しあげかねます。どうぞ父の大山津見神におたずねくださいまし」と申しあげました。
命はさっそくお使いをお出しになって、大山津見神に咲耶媛をお嫁にもらいたいとお申しこみになりました。
大山津見神はたいそう喜んで、すぐにその咲耶媛に、姉の石長媛をつき添いにつけて、いろいろのお祝いの品をどっさり持たせてさしあげました。
命は非常にお喜びになって、すぐ咲耶媛とご婚礼をなさいました。しかし姉の石長媛は、それはそれはひどい顔をした、みにくい女でしたので、同じ御殿でいっしょにおくらしになるのがおいやだものですから、そのまますぐに、父の神の方へお送りかえしになりました。
大山津見は恥じ入って、使いをもってこう申しあげました。
「私が木色咲耶媛に、わざわざ石長媛をつき添いにつけましたわけは、あなたが咲耶媛をお嫁になすって、その名のとおり、花が咲き誇るように、いつまでもお栄えになりますばかりでなく、石長媛を同じ御殿にお使いになりませば、あの子の名まえについておりますとおり、岩が雨に打たれ風にさらされても、ちっとも変わらずにがっしりしているのと同じように、あなたのおからだもいつまでもお変わりなくいらっしゃいますようにと、それをお祈り申してつけ添えたのでございます。それだのに、咲耶媛だけをおとめになつて、石長媛をおかえしになったうえは、あなたも、あなたのご子孫のつぎつぎのご寿命も、ちょうど咲いた花がいくほどもなく散りはてるのと同じで、けっして永くは続きませんよ」と、こんなことを申し送りました。
そのうちに咲耶媛は、まもなくお子さまが生まれそうになりました。
それで命にそのことをお話しになりますと、命はあんまり早く生まれるので変だとおぼしめして、
「それはわしたち二人の子であろうか」とお聞きになりました。咲耶媛は、そうおっしゃられて、
「どうしてこれが二人よりほかの者の子でございましょう。もし私たち二人の子でございませんでしたら、けっして無事にお産はできますまい。ほんとうに二人の子である印には、どんなことをして生みましても、必ず無事に生まれるに相違ございません」
こう言ってわざと出入口のないお家をこしらえて、その中におはいりになり、すきまというすきまをぴっしり土で塗りつぶしておしまいになりました。そしていざお産をなさるというときに、そのお家へ火をつけてお燃やしになりました。
しかしそんな乱暴な生み方をなすっても、お子さまは、ちゃんとご無事に三人もお生まれになりました。媛は、はじめ、うちじゅうに火が燃え広がって、どんどん炎をあげているときにお生まれになった方を火照命というお名まえになさいました。それから、つぎつぎに、火須勢理命、火遠理命というお二方がお生まれになりました。火遠理命はまたの名を日子穂穂出見命ともお呼び申しました。
三人のごきょうだいは、まもなく大きな若い人におなりになりました。その中でおあにいさまの火照命は、海でりょうをなさるのがたいへんおじょうずで、いつもいろんな大きな魚や小さな魚をたくさんつってお帰りになりました。末の弟さまの火遠理命は、これはまた、山でりょうをなさるのがそれはそれはお得意で、しじゅういろんな鳥や獣をどっさりとってお帰りになりました。
あるとき弟の命は、おあにいさまに向かって、
「ひとつためしに二人で道具を取りかえて、互いに持ち場をかえて、りょうをしてみようではありませんか」とおっしゃいました。
おあにいさまは、弟さまがそう言って三度もお頼みになっても、そのたんびにいやだと言ってお聞き入れになりませんでした。しかし弟さまが、あんまりうるさくおっしゃるものですから、とうとうしまいに、いやいやながらお取りかえになりました。
弟さまは、さっそくつり道具を持って海ばたへお出かけになりました。しかし、つりのほうはまるでおかってがちがうので、いくらおあせりになっても一ぴきもおつれになれないばかりか、しまいにはつり針を海の中へなくしておしまいになりました。
おあにいさまの命も、山のりょうにはおなれにならないものですから、いっこうに獲物がないので、がっかりなすって、弟さまに向かって、
「わしのつり道具を返してくれ、海のりょうも山のりょうも、お互いになれたものでなくてはだめだ。さあこの弓矢を返そう」とおっしゃいました。
弟さまは、
「私はとんだことをいたしました。とうとう魚を一ぴきもつらないうちに、針を海へ落としてしまいました」とおっしゃいました。するとおあにいさまはたいへんにお怒りになって、無理にもその針をさがして来いとおっしゃいました。弟さまはしかたなしに、身につるしておいでになる長い剣を打ちこわして、それでつり針を五百本こしらえて、それを代わりにおさしあげになりました。
しかし、おあにいさまは、もとの針でなければいやだとおっしゃって、どうしてもお聞きいれになりませんでした。それで弟さまはまた千本の針をこしらえて、どうぞこれでかんべんしてくださいましと、お頼みになりましたが、おあにいさまは、どこまでも、もとの針でなければいやだとお言いはりになりました。
ですから弟さまは、困っておしまいになりまして、ひとりで海ばたに立って、おいおい泣いておいでになりました。そうすると、そこへ塩椎神という神が出てまいりました。
「もしもし、あなたはどうしてそんなに泣いておいでになるのでございます」と聞いてくれました。弟さまは、
「私はおあにいさまのつり針を借りてりょうをして、その針を海の中へなくしてしまったのです。だから代わりの針をたくさんこしらえて、それをお返しすると、おあにいさまは、どうしてももとの針を返せとおっしゃってお聞きにならないのです」
こう言って、わけをお話しになりました。
塩椎神はそれを聞くと、たいそうお気の毒に思いまして、
「それでは私がちゃんとよくしてさしあげましょう」と言いながら、大急ぎで、水あかが少しもはいらないように、かたく編んだ、かごの小船をこしらえて、その中へ火遠理命をお乗せ申しました。
「それでは私が押し出しておあげ申しますから、そのままどんどん海のまんなかへ出ていらっしゃいまし。そしてしばらくお行きになりますと、向こうの波の間によい道がついておりますから、それについてどこもでも流れておいでになると、しまいにたくさんのむねが魚のうろこのように立ち並んだ、大きな大きなお宮へお着きになります。それは綿津見の神という海の神の御殿でございます。そのお宮の門のわきに井戸があります。井戸の上にかつらの木がおいかぶさっておりますから、その木の上にのぼって待っていらっしゃいまし。そうすると海の神の娘が見つけて、ちゃんといいようにとりはからってくれますから」と言って、力いっぱいその船を押し出してくれました。
命はそのままずんずん流れてお行きになりました。そうするとまったく塩椎神が言ったように、しばらくして大きな大きなお宮へお着きになりました。
命はさっそくその門のそばのかつらの木にのぼって待っておいでになりました。そうすると、まもなく、綿津見神の娘の豊玉媛のおつきの女が、玉の器を持って、かつらの木の下の井戸へ水をくみに来ました。
女は井戸の中を見ますと、人の姿がうつっているので、ふしぎに思って上を向いて見ますと、かつらの木にきれいな男の方がいらっしゃいました。
命は、その女に水をくれとお言いになりました。女は急いで玉の器にくみ入れてさしあげました。
しかし命はその水をお飲みにならないで、首にかけておいでになる飾りの玉をおほどきになって、それを口にふくんで、その玉の器の中へ吐き入れて、女にお渡しになりました。女は器を受け取って、その玉をとり出そうとしますと、玉は器の底に固くくっついてしまって、どんなにしても離れませんでした。それで、そのままうちの中へ持ってはいって、豊玉媛にその器ごとさし出しました。
豊玉媛は、その玉を見て、
「門口にだれかおいでになっているのか」と聞きました。
女は、
「井戸のそばのかつらの木の上にきれいな男の方がおいでになっています。それこそは、こちらの王さまにもまさって、それはそれはけだかい貴い方でございます。その方が水をくれとおっしゃいましたから、すぐに、この器へくんでさしあげますと、水はおあがりにならないで、お首飾りの玉を中へお吐き入れになりました。そういたしますと、その玉が、ご覧のように、どうしても底から離れないのでございます」と言いました。
媛は命のお姿を見ますと、すぐにおとうさまの海の神のところへ行って、
「門口にきれいな方がいらしっています」と言いました。
海の神は、わざわざ自分で出て見て、
「おや、あのお方は、大空からおくだりになった、貴い神さまのお子さまだ」と言いながら、急いでお宮へお通し申しました。そしてあしかの毛皮を八枚重ねて敷き、その上へまた絹の畳を八枚重ねて、それへすわっていただいて、いろいろごちそうをどっさり並べて、それはそれはていねいにおもてなしをしました。そして豊玉媛をお嫁にさしあげました。
それで命はそのまま媛といっしょにそこにお住まいになりました。そのうちに、いつのまにか三年という月日がたちました。
すると命はある晩、ふと例の針のことをお思い出しになって、深いため息をなさいました。
豊玉媛はあくる朝、そっと父の神のそばへ行って、
「おとうさま、命はこのお宮に三年もお住まいになっていても、これまでただの一度もめいったお顔をなさったことがないのに、ゆうべにかぎって深いため息をなさいました。なにか急にご心配なことがおできになったのでしょうか」と言いました。
海の神はそれを聞くと、あとで命に向かって、
「さきほど娘が申しますには、あなたは三年の間こんなところにおいでになりましても、ふだんはただの一度も、ものをお嘆きになったことがないのに、ゆうべはじめてため息をなさいましたと申します。何かわけがおありになるのでございますか。いったいいちばんはじめ、どうしてこの海の中なぞへおいでになったのでございます」こう言っておたずね申しました。
命はこれこれこういうわけで、つり針をさがしに来たのですとおっしゃいました。
海の神はそれを聞くと、すぐに海じゅうの大きな魚や小さな魚を一ぴき残さず呼び集めて、
「この中にだれか命の針をお取り申した者はいないか」と聞きました。すると魚たちは、
「こないだから雌だいがのどにとげを立てて物が食べられないで困っておりますが、ではきっとお話のつり針をのんでいるに相違ございません」と言いました。
海の神はさっそくそのたいを呼んで、のどの中をさぐって見ますと、なるほど、大きなつり針を一本のんでおりました。
海の神はそれを取り出して、きれいに洗って命にさしあげました。すると、それがまさしく命のおなくしになったあの針でした。海の神は、
「それではお帰りになって、おあにいさまにお返しになりますときには、
いやなつり針、
わるいつり針、
ばかなつり針。
とおっしゃりながら、必ずうしろ向きになってお渡しなさいまし。それから、こんどからはおあにいさまが高いところへ田をお作りになりましたら、あなたは低いところへお作りなさいまし。そのあべこべに、おあにいさまが低いところへお作りになりましたら、あなたは高いところへお作りになることです。すべて世の中の水という水は私が自由に出し入れするのでございます。おあにいさまは針のことでずいぶんあなたをおいじめになりましたから、これからはおあにいさまの田へはちっとも水をあげないで、あなたの田にばかりどっさり入れておあげ申します。ですから、おあにいさまは三年のうちに必ず貧乏になっておしまいになります。そうすると、きっとあなたをねたんで殺しにおいでになるに相違ございません。そのときには、この満潮の玉を取り出して、おぼらしておあげなさい。この中から水がいくらでもわいて出ます。しかし、おあにいさまが助けてくれとおっしゃられておわびをなさるなら、こちらのこの干潮の玉を出して、水をひかせておあげなさいまし。ともかく、そうして少しこらしめておあげになるがようございます」
こう言って、そのたいせつな二つの玉を命にさしあげました。それからけらいのわにをすっかり呼び集めて、
「これから大空の神のお子さまが陸の世界へお帰りになるのだが、おまえたちはいく日あったら命をお送りして帰ってくるか」と聞きました。
わにたちは、お互いにからだの大きさにつれてそれぞれかんじょうして、めいめいにお返事をしました。その中で六尺ばかりある大わには、
「私は一日あれば行ってまいります」と言いました。海の神は、
「それではおまえお送り申してくれ。しかし海を渡るときに、けっしてこわい思いをおさせ申してはならないぞ」とよく言い聞かせた上、その首のところへ命をお乗せ申して、はるばるとお送り申して行かせました。すると、わにはうけあったとおりに、一日のうちに命をもとの浜までおつれ申しました。
命はご自分のつるしておいでになる小さな刀をおほどきになって、それをごほうびにわにの首へくくりつけておかえしになりました。
命はそれからすぐに、おあにいさまのところへいらしって、海の神が教えてくれたとおりに、
いやなつり針、
悪いつり針、
ばかなつり針。
と言い言い、例のつり針を、うしろ向きになってお返しになりました。それから田を作るにも海の神が言ったとおりになさいました。
そうすると、命の田からは、毎年どんどんおこめが取れるのに、おあにいさまの田には、水がちっとも来ないものですから、おあにいさまは、三年の間にすっかり貧乏になっておしまいになりました。
するとおあにいさまは、あんのじょう、命のことをねたんで、いくどとなく殺しにおいでになりました。命はそのときにはさっそく満潮の玉を出して、大水をわかせてお防ぎになりました。おあにいさまは、たんびにおぼれそうになって、助けてくれ、助けてくれ、とおっしゃいました。命はそのときには干潮の玉を出してたちまち水をおひかせになりました。そんなわけで、おあにいさまも、しまいには弟さまの命にはとてもかなわないとお思いになり、とうとう頭をさげて、
「どうかこれまでのことは許しておくれ。私はこれからしょうがい、夜昼おまえのうちの番をして、おまえに奉公するから」と、かたくお誓いになりました。
ですから、このおあにいさまの命のご子孫は、後の代まで、命が水におぼれかけてお苦しみになったときの身振りをまねた、さまざまなおかしな踊りを踊るのが、代々きまりになっておりました。
そのうちに、火遠理命が海のお宮へ残しておかえりになった、お嫁さまの豊玉媛が、ある日ふいに海の中から出ていらしって、
「私はかねて身重になっておりましたが、もうお産をいたしますときがまいりました。しかし大空の神さまのお子さまを海の中へお生み申してはおそれ多いと存じまして、はるばるこちらまで出てまいりました」とおっしゃいました。
それで命は急いで、うぶやという、お産をするおうちを、海ばたへおたてになりました。その屋根はかやの代わりに、うの羽根を集めておふかせになりました。
するとその屋根がまだできあがらないうちに、豊玉媛は、もう産けがおつきになって、急いでそのうちへおはいりになりました。
そのとき媛は命に向かって、
「すべての人がお産をいたしますには、みんな自分の国のならわしがありまして、それぞれへんなかっこうをして生みますものでございます。それですから、どうぞ私がお産をいたしますところも、けっしてご覧にならないでくださいましな」と、かたくお願いしておきました。命は媛がわざわざそんなことをおっしゃるので、かえって変だとおぼしめして、あとでそっと行ってのぞいてご覧になりました。
そうすると、たった今まで美しい女であった豊玉媛が、いつのまにか八ひろもあるような恐ろしい大わにになって、うんうんうなりながらはいまわっていました。命はびっくりして、どんどん逃げ出しておしまいになりました。
豊玉媛はそれを感づいて、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないものですから、お子さまをお生み申すと、命に向かって、
「私はこれから、しじゅう海を往来して、お目にかかりにまいりますつもりでおりましたが、あんな、私の姿をご覧になりましたので、ほんとうにお恥ずかしくて、もうこれきりおうかがいもできません」こう言って、そのお子さまをあとにお残し申したまま、海の中の通り道をすっかりふさいでしまって、どんどん海の底へ帰っておしまいになりました。そしてそれなりとうとう一生、二度と出ていらっしゃいませんでした。
お二人の中のお子さまは、うの羽根の屋根がふきおえないうちにお生まれになったので、それから取って、鵜茅草葺不合命とお呼びになりました。
媛は海のお宮にいらしっても、このお子さまのことが心配でならないものですから、お妹さまの玉依媛をこちらへよこして、その方の手で育てておもらいになりました。媛は夫の命が自分のひどい姿をおのぞきになったことは、いつまでたっても恨めしくてたまりませんでしたけれど、それでも命のことはやっぱり恋しくおしたわしくて、かたときもお忘れになることができませんでした。それで玉依媛にことづけて、
赤玉は、
緒さえ光れど、
白玉の、
君が装し、
貴くありけり。
という歌をお送りになりました。これは、
「赤い玉はたいへんにりっぱなもので、それをひもに通して飾りにすると、そのひもまで光って見えるくらいですが、その赤玉にもまさった、白玉のようにうるわしいあなたの貴いお姿を、私はしじゅうお慕わしく思っております」という意味でした。
命はたいそうあわれにおぼしめして、私もおまえのことはけっして忘れはしないという意味の、お情けのこもったお歌をお返しになりました。
命は高千穂の宮というお宮に、とうとう五百八十のお年までお住まいになりました。
鵜茅草葺不合命は、ご成人の後、玉依媛を改めてお妃にお立てになって、四人の男のお子をおもうけになりました。
この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命は、海をこえてはるばると、常世国という遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命も、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命が、高千穂の宮にいらしって、天下をお治めになりました。しかし、日向はたいへんにへんぴで、政をお聞きめすのにひどくご不便でしたので、命はいちばん上のおあにいさまの五瀬命とお二人でご相談のうえ、
「これは、もっと東の方へ移ったほうがよいであろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国に向かっておたちになりました。その途中、豊前の宇佐にお着きになりますと、その土地の宇佐都比古、宇佐都比売という二人の者が、御殿をつくってお迎え申し、てあつくおもてなしをしました。
命はそこから筑前へおはいりになりました。そして岡田宮というお宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸の国へおのぼりになって、多家理宮に七年間おとどまりになり、ついで備前へお進みになって、八年の間高島宮にお住まいになりました。そしてそこからお船をつらねて、波の上を東に向かっておのぼりになりました。
そのうちに速吸門というところまでおいでになりますと、向こうから一人の者が、かめの背なかに乗って、魚をつりながら出て来まして、命のお船を見るなり、両手をあげてしきりに手招きをいたしました。命はその者を呼びよせて、
「おまえは何者か」とお聞きになりますと、
「私はこの地方の神で宇豆彦と申します」とお答えいたしました。
「そちはそのへんの海路を存じているか」とおたずねになりますと、
「よく存じております」と申しました。
「それではおれのお供につくか」とおっしゃいますと、
「かしこまりました。ご奉公申しあげます」とお答え申しましたので、命はすぐにおそばの者に命じて、さおをさし出させてお船へ引きあげておやりになりました。
みんなは、そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津の浪速の海を乗り切って、河内国の、青雲の白肩津という浜へ着きました。
するとそこには、大和の鳥見というところの長髄彦という者が、兵をひきつれて待ちかまえておりました。命は、いざ船からおおりになろうとしますと、かれらが急にどっと矢を射向けて来ましたので、お船の中から盾を取り出して、ひゅうひゅう飛んで来る矢の中をくぐりながらご上陸なさいました。そしてすぐにどんどん戦をなさいました。
そのうちに五瀬命が、長髄彦の鋭い矢のために大きずをお受けになりました。命はその傷をおおさえになりながら、
「おれたちは日の神の子孫でありながら、お日さまの方に向かって攻めかかったのがまちがいである。だからかれらの矢にあたったのだ。これから東の方へ遠まわりをして、お日さまを背なかに受けて戦おう」とおっしゃって、みんなをめし集めて、弟さまの命といっしょにもう一度お船におめしになり、大急ぎで海のまん中へお出ましになりました。
その途中で、命はお手についた傷の血をお洗いになりました。
しかしそこから南の方へまわって、紀伊国の男の水門までおいでになりますと、お傷の痛みがいよいよ激しくなりました。命は、
「ああ、くやしい。かれらから負わされた手傷で死ぬるのか」と残念そうなお声でお叫びになりながら、とうとうそれなりおかくれになりました。
神倭伊波礼毘古命は、そこからぐるりとおまわりになり、同じ紀伊の熊野という村にお着きになりました。するとふいに大きな大ぐまが現われて、あっというまにまたすぐ消えさってしまいました。ところが、命もお供の軍勢もこの大ぐまの毒気にあたって、たちまちぐらぐらと目がくらみ、一人のこらず、その場に気絶してしまいました。
そうすると、そこへ熊野の高倉下という者が、一ふりの太刀を持って出て来まして、伏し倒れておいでになる伊波礼毘古命に、その太刀をさしだしました。命はそれといっしょに、ふと正気におかえりになって、
「おや、おれはずいぶん長寝をしたね」とおっしゃりながら、高倉下がささげた太刀をお受けとりになりますと、その太刀に備わっている威光でもって、さっきのくまをさし向けた熊野の山の荒くれた悪神どもは、ひとりでにばたばたと倒れて死にました。それといっしょに命の軍勢は、まわった毒から一度にさめて、むくむくと元気よく起きあがりました。
命はふしぎにおぼしめして、高倉下に向かって、この貴い剣のいわれをおたずねになりました。
高倉下は、うやうやしく、
「実はゆうべふと夢を見ましたのでございます。その夢の中で、天照大神と高皇産霊神のお二方が、建御雷神をおめしになりまして、葦原中国は、今しきりに乱れ騒いでいる。われわれの子孫たちはそれを平らげようとして、悪神どもから苦しめられている。あの国は、いちばんはじめそちが従えて来た国だから、おまえもう一度くだって平らげてまいれとおっしゃいますと、建御雷神は、それならば、私がまいりませんでも、ここにこの前あすこを平らげてまいりましたときの太刀がございますから、この太刀をくだしましょう。それには、高倉下の倉のむねを突きやぶって落としましょうと、こうお答えになりました。
それからその建御雷神は、私に向かって、おまえの倉のむねを突きとおしてこの刀を落とすから、あすの朝すぐに、大空の神のご子孫にさしあげよとお教えくださいました。目がさめまして、倉へまいって見ますと、おおせのとおりに、ちゃんとただいまのその太刀がございましたので、急いでさしあげにまいりましたのでございます」
こう言って、わけをお話し申しました。
そのうちに、高皇産霊神は、雲の上から伊波礼毘古命に向かって、
「大空の神のお子よ、ここから奥へはけっしてはいってはいけませんよ。この向こうには荒らくれた神たちがどっさりいます。今これから私が八咫烏をさしくだすから、そのからすの飛んで行く方へついておいでなさい」とおさとしになりました。
まもなくおおせのとおり、そのからすがおりて来ました。命はそのからすがつれて行くとおりに、あとについてお進みになりますと、やがて大和の吉野河の河口へお着きになりました。そうするとそこにやなをかけて魚をとっているものがおりました。
「おまえはだれだ」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で、名は贄持の子と申します」とお答え申しました。
それから、なお進んでおいでになりますと、今度はおしりにしっぽのついている人間が、井戸の中から出て来ました。そしてその井戸がぴかぴか光りました。
「おまえは何者か」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で井冰鹿と申すものでございます」とお答えいたしました。
命はそれらの者を、いちいちお供におつれになって、そこから山の中を分けていらっしゃいますと、またしっぽのある人にお会いになりました。この者は岩をおし分けて出て来たのでした。
「おまえはだれか」とお聞きになりますと、
「わたしはこの国の神で、名は石押分の子と申します、ただいま、大空の神のご子孫がおいでになると承りまして、お供に加えていただきにあがりましたのでございます」と申しあげました。命は、そこから、いよいよ険しい深い山を踏み分けて、大和の宇陀というところへおでましになりました。
この宇陀には、兄宇迦斯、弟宇迦斯というきょうだいの荒くれ者がおりました。命はその二人のところへ八咫烏を使いにお出しになって、
「今、大空の神のご子孫がおこしになった。おまえたちはご奉公申しあげるか」とお聞かせになりました。
すると、兄の兄宇迦斯はいきなりかぶら矢を射かけて、お使いのからすを追いかえしてしまいました。兄宇迦斯は命がおいでになるのを待ち受けて討ってかかろうと思いまして、急いで兵たいを集めにかかりましたが、とうとう人数がそろわなかったものですから、いっそのこと、命をだまし討ちにしようと思いまして、うわべではご奉公申しあげますと言いこしらえて、命をお迎え申すために、大きな御殿をたてました。そして、その中に、つり天じょうをしかけて、待ち受けておりました。
すると弟の弟宇迦斯が、こっそりと命のところへ出て来まして、命を伏し拝みながら、
「私の兄の兄宇迦斯は、あなたさまを攻め亡ぼそうとたくらみまして、兵を集めにかかりましたが、思うように集まらないものですから、とうとう御殿の中につり天じょうをこしらえて待ち受けております。それで急いでおしらせ申しにあがりました」と申しました。そこで道臣命と大久米命の二人の大将が、兄宇迦斯を呼びよせて、
「こりゃ兄宇迦斯、おのれの作った御殿にはおのれがまずはいって、こちらの命をおもてなしする、そのもてなしのしかたを見せろ」とどなりつけながら、太刀のえをつかみ、矢をつがえて、無理やりにその御殿の中へ追いこみました。兄宇迦斯は追いまくられて逃げこむはずみに、自分のしかけたつり天じょうがどしんと落ちて、たちまち押し殺されてしまいました。
二人の大将は、その死がいを引き出して、ずたずたに切り刻んで投げ捨てました。
命は弟宇迦斯が献上したごちそうを、けらい一同におくだしになって、お祝いの大宴会をお開きになりました。命はそのとき、
「宇陀の城にしぎなわをかけて待っていたら、しぎはかからないで大くじらがかかり、わなはめちゃめちゃにこわれた。ははは、おかしや」という意味を、歌にお歌いになって、兄宇迦斯のはかりごとの破れたことを、喜びお笑いになりました。
それからまたその宇陀をおたちになって、忍坂というところにお着きになりますと、そこには八十建といって、穴の中に住んでいる、しっぽのはえた、おおぜいの荒くれた悪者どもが、命の軍勢を討ち破ろうとして、大きな岩屋の中に待ち受けておりました。
命はごちそうをして、その悪者たちをお呼びになりました。そして前もって、相手の一人に一人ずつ、お給仕につくものをきめておき、その一人一人に太刀を隠しもたせて、合い図の歌を聞いたら一度に切ってかかれと言い含めておおきになりました。
みんなは、命が、
「さあ、今だ、うて」とお歌いになると、たちまち一度に太刀を抜き放って、建どもをひとり残さず切り殺してしまいました。
しかし命は、それらの賊たちよりも、もっともっとにくいのはおあにいさまの命のお命を奪った、あの鳥見の長髄彦でした。命はかれらに対しては、ちょうどしょうがを食べたあと、口がひりひりするように、いつまでも恨みをお忘れになることができませんでした。命は、畑のにらを、根も芽もいっしょに引き抜くように、かれらを根こそぎに討ち亡ぼしてしまいたい、海の中の大きな石に、きしゃごがまっくろに取りついているように、かれらをひしひしと取りまいて、一人残さず討ち取らなければおかないという意味を、勇ましい歌にしてお歌いになりました。そして、とうとうかれらを攻め亡ぼしておしまいになりました。
そのとき、長髄彦の方に、やはり大空の神のお血すじの、邇芸速日命という神がいました。
その神が命のほうへまいって、
「私は大空の神の御子がおいでになったと承りまして、ご奉公に出ましてございます」と申しあげました。そして大空の神の血筋だという印の宝物を、命に献上しました。
命はそれから兄師木、弟師木というきょうだいのものをご征伐になりました。その戦で、命の軍勢は伊那佐という山の林の中に盾を並べて戦っているうちに、中途でひょうろうがなくなって、少し弱りかけて来ました。命はそのとき、
「おお、私も飢え疲れた。このあたりのうを使う者たちよ。早くたべ物を持って助けに来い」という意味のお歌をお歌いになりました。
命はなおひきつづいて、そのほかさまざまの荒びる神どもをなつけて従わせ、刃向かうものをどんどん攻め亡ぼして、とうとう天下をお平らげになりました。それでいよいよ大和の橿原宮で、われわれの一番最初の天皇のお位におつきになりました。神武天皇とはすなわち、この貴い伊波礼毘古命のことを申しあげるのです。
天皇は、はじめ日向においでになりますときに、阿比良媛という方をお妃に召して、多芸志耳命と、もう一方男のお子をおもうけになっていましたが、お位におつきになってから、改めて、皇后としてお立てになる、美しい方をおもとめになりました。
すると大久米命が、
「それには、やはり、大空の神のお血をお分けになった、伊須気依媛と申す美しい方がおいでになります。これは三輪の社の大物主神が、勢夜陀多良媛という女の方のおそばへ、朱塗りの矢に化けておいでになり、媛がその矢を持っておへやにおはいりになりますと、矢はたちまちもとのりっぱな男の神さまになって、媛のお婿さまにおなりになりました。伊須気依媛はそのお二人の中にお生まれになったお媛さまでございます」と申しあげました。
そこで天皇は、大久米命をおつれになって、その伊須気依媛を見においでになりました。すると同じ大和の、高佐士野という野で、七人の若い女の人が野遊びをしているのにお出会いになりました。するとちょうど伊須気依媛がその七人の中にいらっしゃいました。
大久米命はそれを見つけて、天皇に、このなかのどの方をおもらいになりますかということを、歌に歌ってお聞き申しますと、天皇はいちばん前にいる方を伊須気依媛だとすぐにおさとりになりまして、
「あのいちばん前にいる人をもらおう」と、やはり歌でお答えになりました。大久米命は、その方のおそばへ行って、天皇のおおせをお伝えしようとしますと、媛は、大久米命が大きな目をぎろぎろさせながら来たので、変だとおぼしめして、
あめ、つつ、
ちどり、ましとと、
など裂ける利目。
とお歌いになりました。それは、
「あめという鳥、つつという鳥、ましととという鳥やちどりの目のように、どうしてあんな大きな、鋭い目を光らせているのであろう」という意味でした。
大久米命は、すぐに、
「それはあなたを見つけ出そうとして、さがしていた目でございます」と歌いました。
媛のおうちは、狹井川という川のそばにありました。そこの川原には、やまゆりがどっさり咲いていました。天皇は、媛のおうちへいらしって、ひと晩とまってお帰りになりました。媛はまもなく宮中におあがりになって、貴い皇后におなりになりました。お二人の中には、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命と申す三人の男のお子がお生まれになりました。
天皇は、後におん年百三十七でおかくれになりました。おなきがらは畝火山にお葬り申しあげました。
するとまもなく、さきに日向でお生まれになった多芸志耳命が、お腹ちがいの弟さまの日子八井命たち三人をお殺し申して、自分ひとりがかってなことをしようとお企てになりました。
お母上の皇后はそのはかりごとをお見ぬきになって、
「畝火山に昼はただの雲らしく、静かに雲がかかっているけれど、夕方になれば荒れが来て、ひどい風が吹き出すらしい。木の葉がそのさきぶれのように、ざわざわさわいでいる」という意味の歌をお歌いになり、多芸志耳命が、いまに、おまえたちを殺しにかかるぞということを、それとなくおさとしになりました。
三人のお子たちは、それを聞いてびっくりなさいまして、それでは、こっちから先に命を殺してしまおうとご相談なさいました。
そのときいちばん下の神沼河耳命は、中のおあにいさまの神八井耳命に向かって、
「では、あなた、命のところへ押しいって、お殺しなさい」とおっしゃいました。
それで神八井耳命は刀を持ってお出かけになりましたが、いざとなるとぶるぶるふるえ出して、どうしても手出しをなさることができませんでした。そこで弟さまの神沼河耳命がその刀をとってお進みになり、ひといきに命を殺しておしまいになりました。
神八井耳命はあとで弟さまに向かって、
「私はあのかたきを殺せなかったけれど、そなたはみごとに殺してしまった。だから、私は兄だけれど、人のかみに立つことはできない。どうぞそなたが天皇の位について天下を治めてくれ、私は神々をまつる役目をひき受けて、そなたに奉公をしよう」とおっしゃいました。それで、弟の命はお二人のおあにいさまをおいてお位におつきになり、大和の葛城宮にお移りになって、天下をお治めになりました。すなわち第二代、綏靖天皇さまでいらっしゃいます。
天皇はご短命で、おん年四十五でお隠れになりました。
綏靖天皇から御七代をへだてて、第十代目に崇神天皇がお位におつきになりました。
天皇にはお子さまが十二人おありになりました。その中で皇女、豊鉏入媛が、はじめて伊勢の天照大神のお社に仕えて、そのお祭りをお司りになりました。また、皇子倭日子命がおなくなりになったときに、人がきといって、お墓のまわりへ人を生きながら埋めてお供をさせるならわしがはじまりました。
この天皇の御代には、はやり病がひどくはびこって、人民という人民はほとんど死に絶えそうになりました。
天皇は非常にお嘆きになって、どうしたらよいか、神のお告げをいただこうとおぼしめして、御身を潔めて、慎んでお寝床の上にすわっておいでになりました。そうするとその夜のお夢に、三輪の社の大物主神が現われていらしって、
「こんどのやく病はこのわしがはやらせたのである。これをすっかり亡ぼしたいと思うならば、大多根子というものにわしの社を祀らせよ」とお告げになりました。天皇はすぐに四方へはやうまのお使いをお出しになって、そういう名まえの人をおさがしになりますと、一人の使いが、河内の美努村というところでその人を見つけてつれてまいりました。
天皇はさっそくご前にお召しになって、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
すると大多根子は、
「私は大物主神のお血筋をひいた、建甕槌命と申します者の子でございます」とお答えいたしました。
それというわけは、大多根子から五代もまえの世に、陶都耳命という人の娘で活玉依媛というたいそう美しい人がおりました。
この依媛があるとき、一人の若い人をお婿さまにしました。その人は、顔かたちから、いずまいの美しいけだかいことといったら、世の中にくらべるものもないくらい、りっぱな、りりしい人でした。
媛はまもなく子供が生まれそうになりました。しかしそのお婿さんは、はじめから、ただ夜だけ媛のそばにいるきりで、あけがたになると、いつのまにかどこかへ行ってしまって、けっしてだれにも顔を見せませんし、お嫁さんの媛にさえ、どこのだれかということすらも、うちあけませんでした。
媛のおとうさまとおかあさまとは、どうかして、そのお婿さんを、どこの何びとか突きとめたいと思いまして、ある日、媛に向かって、
「今夜は、おへやへ赤土をまいておおき、それからあさ糸のまりを針にとおして用意しておいて、お婿さんが出て来たら、そっと着物のすそにその針をさしておおき」と言いました。
媛はその晩、言われたとおりに、お婿さんの着物のすそへあさ糸をつけた針をつきさしておきました。
あくる朝になって見ますと、針についているあさ糸は、戸のかぎ穴から外へ伝わっていました。そして糸のたまは、すっかり繰りほどけて、おへやの中には、わずか三まわり輪に巻けた長さしか残っておりませんでした。
それで、ともかくお婿さんは、戸のかぎ穴から出はいりしていたことがわかりました。媛はその糸の伝わっている方へずんずん行って見ますと、糸はしまいに、三輪山のお社にはいって止まっていました。それで、はじめて、お婿さんは大物主神でいらしったことがわかりました。
大多根子はこのお二人の間に生まれた子の四代目の孫でした。
天皇は、さっそくこの大多根子を三輪の社の神主にして、大物主神のお祭りをおさせになりました。それといっしょに、お供えものを入れるかわらけをどっさり作らせて、大空の神々や下界の多くの神々をおまつりになりました。その中のある神さまには、とくに赤色の盾や黒塗の盾をおあげになりました。
そのほか、山の神さまや川の瀬の神さまにいたるまで、いちいちもれなくお供えものをおあげになって、ていちょうにお祭りをなさいました。そのために、やく病はやがてすっかりとまって、天下はやっと安らかになりました。
天皇はついで大毘古命を北陸道へ、その子の建沼河別命を東山道へ、そのほか強い人を方々へお遣しになって、ご命令に従わない、多くの悪者どもをご征伐になりました。
大毘古命はおおせをかしこまって出て行きましたが、途中で、山城の幣羅坂というところへさしかかりますと、その坂の上に腰ぬのばかりを身につけた小娘が立っていて、
これこれ申し天子さま、
あなたをお殺し申そうと、
前の戸に、
裏の戸に、
行ったり来たり、
すきを狙っている者が、
そこにいるとも知らないで、
これこれ申し天子さま。
と、こんなことを歌いました。
大毘古命は変だと思いまして、わざわざうまをひきかえして、
「今言ったのはなんのことだ」とたずねました。
すると小娘は、
「私はなんにも言いはいたしません。ただ歌を歌っただけでございます」と答えるなり、もうどこへ行ったのか、ふいに姿が見えなくなってしまいました。
大毘古命は、その歌の言葉がしきりに気になってならないものですから、とうとうそこからひきかえしてきて、天皇にそのことを申しあげました。すると天皇は、
「それは、きっと、山城にいる、私の腹ちがいの兄、建波邇安王が、悪だくみをしている知らせに相違あるまい。そなたはこれから軍勢をひきつれて、すぐに討ちとりに行ってくれ」とおっしゃって、彦国夫玖命という方を添えて、いっしょにお遣しになりました。
二人は、神々のお祭りをして、勝利を祈って出かけました。そして、山城の木津川まで行きますと、建波邇安王は案のじょう、天皇におそむき申して、兵を集めて待ち受けていらっしゃいました。両方の軍勢は川を挟んで向かい合いに陣取りました、彦国夫玖命は、敵に向かって、
「おおい、そちらのやつ、まずかわきりに一矢射てみよ」とどなりました。敵の大将の建波邇安王は、すぐにそれに応じて、大きな矢をひゅうッと射放しましたが、その矢はだれにもあたらないで、わきへそれてしまいました。それでこんどはこちらから国夫玖命が射かけますと、その矢はねらいたがわず建波邇安王を刺し殺してしまいました。
敵の軍勢は、王が倒れておしまいになると、たちまち総くずれになって、どんどん逃げだしてしまいました。国夫玖命の兵はどんどんそれを追っかけて、河内の国のある川の渡しのところまで追いつめて行きました。
すると賊兵のあるものは、苦しまぎれにうんこが出て下ばかまを汚しました。
こちらの軍勢はそいつらの逃げ道をくいとめて、かたっぱしからどんどん切り殺してしまいました。そのたいそうな死がいが川に浮かんで、ちょうど、うのように流れくだって行きました。
大毘古命は天皇にそのしだいをすっかり申しあげて、改めて北陸道へ出発しました。
そのうちに大毘古命の親子をはじめ、そのほか方々へお遣しになった人々が、みんなおおせつかった地方を平らげて帰りました。そんなわけで、もういよいよどこにも天皇におさからいする者がなくなって、天下は平らかに治まり、人民もどんどん裕福になりました。それで天皇ははじめて人民たちから、男から弓端の調といって、弓矢でとった獲物の中のいくぶんを、女からは手末の調といって、紡いだり、織ったりして得たもののいくぶんを、それぞれ貢物としておめしになりました。
天皇はまた、人民のために方々へ耕作用の池をお作りになりました。天皇の高いお徳は、後の代からも、いついつまでも永くおほめ申しあげました。
崇神天皇のおあとには、お子さまの垂仁天皇がお位をお継ぎになりました。天皇は、沙本毘古王という方のお妹さまで沙本媛とおっしゃる方を皇后にお召しになって、大和の玉垣の宮にお移りになりました。
その沙本毘古王が、あるとき皇后に向かって、
「あなたは夫と兄とはどちらがかわいいか」と聞きました。皇后は、
「それはおあにいさまのほうがかわゆうございます」とお答えになりました。すると王は、用意していた鋭い短刀をそっと皇后にわたして、
「もしおまえが、ほんとうに私をかわいいと思うなら、どうぞ、この刀で天皇がおよっていらっしゃるところを刺し殺しておくれ。そして二人でいつまでも天下を治めようではないか」と言って、無理やりに皇后を説き伏せてしまいました。
天皇は二人がそんな怖ろしいたくらみをしているとはご存じないものですから、ある晩、なんのお気もなく、皇后のおひざをまくらにしてお眠りになりました。
皇后はこのときだとお思いになって、いきなり短刀を抜き放して、天皇のお首をま下にねらって、三度までお振りかざしになりましたが、いよいよとなると、さすがにおいたわしくて、どうしてもお手をおくだしになることができませんでした。そしてとうとう悲しさに堪えきれないで、おんおんお泣きだしになりました。
その涙が天皇のお顔にかかって流れ落ちました。天皇はそれといっしょに、ひょいとお目ざめになって、
「おれは今きたいな夢を見た。沙本の村の方からにわかに大雨が降って来て、おれの顔にぬれかかった。それから、にしき色の小さなへびがおれの首へ巻きついた。いったいこんな夢はなんの兆であろう」と、皇后に向かっておたずねになりました。皇后はそうおっしゃられると、ぎくりとなすって、これはとても隠しきれないとお思いになったので、おあにいさまとお二人のおそれ多いたくらみをすっかり白状しておしまいになりました。
天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、
「いやそれは危くばかな目を見るところであった」とおっしゃりながら、すぐに軍勢をお集めになって、沙本毘古を討ちとりにおつかわしになりました。
すると沙本毘古のほうでは、いねたばをぐるりと積みあげて、それでとりでをこしらえて、ちゃんと待ち受けておりました。天皇の軍勢はそれをめがけて撃ってかかりました。
皇后はそうなると、こんどはまたおあにいさまのことがおいたわしくおなりになって、じっとしておいでになることができなくなりました。それで、とうとうこっそり裏口のご門から抜け出して、沙本毘古のとりでの中へかけつけておしまいになりました。
皇后はそのときちょうど、お腹にお子さまをお持ちになっていらっしゃいました。
天皇は、もはや三年もごちょう愛になっていた皇后でおありになるうえに、たまたまお身持ちでいらっしゃるものですから、いっそうおかわいそうにおぼしめして、どうか皇后のお身におけががないようにと、それからは、とりでもただ遠まきにして、むやみに攻め落とさないように、とくにご命令をおくだしになりました。
そんなことで、かれこれ戦も長びくうちに、皇后はおあにいさまのとりでの中で皇子をお生みおとしになりました。
皇后はそのお子さまをとりでのそとへ出させて、天皇の軍勢の者にお見せになり、
「この御子をあなたのお子さまとおぼしめしてくださるならば、どうぞひきとってご養育なすってくださいまし」と、天皇にお伝えさせになりました。
天皇はそのことをお聞きになりますと、ついでにどうかして皇后をもいっしょに取りかえしたいとお思いになりました。それは、兄の沙本毘古に対しては、刻み殺してもたりないくらい、お憤りになっておりますが、皇后のことだけは、どこまでもおいたわしくおぼしめしていらっしゃるからでした。
それで味方の兵士の中で、いちばん力の強い、そしていちばんすばしっこい者をいく人かお選びになって、
「そちたちはあの皇子を受け取るときに、必ず母の后をもひきさらってかえれ。髪でも手でも、つかまりしだいに取りつかまえて、無理にもつれ出して来い」とお言いつけになりました。
しかし皇后のほうでも、天皇がきっとそんなお企をなさるに違いないと、ちゃんとお感づきになっていましたので、そのときの用意に、前もってお髪をすっかりおそり落としになって、そのお毛をそのままそっとお被りになり、それからお腕先のお玉飾りも、わざと、つなぎの緒を腐らして、お腕へ三重にお巻きつけになり、お召物もわざわざ酒で腐らしたのをおめしになって、それともなげに皇子を抱えて、とりでの外へお出ましになりました。
待ちかまえていた勇士たちは、そのお子さまをお受け取り申すといっしょに、皇后をも奪い取ろうとして、すばやく飛びかかってお髪をひっつかみますと、髪はたちまちすらりとぬげ落ちてしまいました。
「おや、しまった」と、こんどはお手をつかみますと、そのお手の玉飾りの緒もぷつりと切れたので、難なくお手をすり抜いてお逃げになりました。こちらはまたあわてて追いすがりながら、ぐいとお召物をつかまえました。すると、それもたちまちぼろりとちぎれてしまいました。その間に皇后は、さっと中へ逃げこんでおしまいになりました。
勇士どもはしかたなしに、皇子一人をお抱え申して、しおしおと帰ってまいりました。
天皇はそれらの者たちから、
「お髪をつかめばお髪がはなれ、玉の緒もお召物も、みんなぷすぷす切れて、とうとうおとりにがし申しました」とお聞きになりますと、それはそれはたいそうお悔みになりました。
天皇はそのために、宮中の玉飾りの細工人たちまでお憎みになって、それらの人々が知行にいただいていた土地を、いきなり残らず取りあげておしまいになりました。
それから改めて皇后の方へお使いをお出しになって、
「すべて子供の名は母がつけるものときまっているが、あの皇子は、なんという名前にしようか」とお聞きかせになりました。
皇后はそれに答えて、
「あの御子は、ちょうどとりでが火をかけられて焼けるさいちゅうに、その火の中でお生まれになったのでございますから、本牟智別王とお呼び申したらよろしゅうございましょう」とおっしゃいました。そのほむちというのは火のことでした。
天皇はそのつぎには、
「あの子には母がないが、これからどうして育てたらいいか」とおたずねになりますと、
「ではうばをお召し抱えになり、お湯をおつかわせ申す女たちをもおおきになって、それらの者にお任せになればよろしゅうございます」とお答えになりました。
天皇は最後に、
「そちがいなくなっては、おれの世話はだれがするのだ」とお聞きになりました。すると皇后は、
「それには、丹波の道能宇斯王の子に、兄媛、弟媛というきょうだいの娘がございます。これならば家柄も正しい女たちでございますから、どうかその二人をお召しなさいまし」とおっしゃいました。
天皇はもういよいよしかたなしに、一気にとりでを攻め落として、沙本毘古を殺させておしまいになりました。
皇后も、それといっしょに、えんえんと燃えあがる火の中に飛びこんでおしまいになりました。
お母上のない本牟智別王は、それでもおしあわせに、ずんずんじょうぶにご成長になりました。
天皇はこの皇子のために、わざわざ尾張の相津というところにある、二またになった大きなすぎの木をお切らせになって、それをそのままくって二またの丸木船をお作らせになりました。そして、はるばると大和まで運ばせて、市師の池という池にお浮かべになり、その中へごいっしょにお乗りになって、皇子をお遊ばせになりました。
しかしこの皇子は、後にすっかりご成人になって、長いお下ひげがお胸先にたれかかるほどにおなりになっても、お口がちっともおきけになりませんでした。
ところがあるとき、こうの鳥が、空を鳴いて飛んで行くのをご覧になって、お生まれになってからはじめて、
「あわわ、あわわ」とおおせになりました。
天皇は、さっそく、山辺大鷹という者に、
「あの鳥をとって来てみよ」とおいいつけになりました。
大鷹はかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国、播磨国へとくだって行き、そこから因幡、丹波、但馬をかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江から美濃、尾張をかけぬけて信濃にはいり、とうとう越後のあたりまでつけて行きました。そして、やっとのことで和那美という港でわな網を張って、ようやく、そのこうの鳥をつかまえました。そして大急ぎで都へ帰って、天皇におさし出し申しました。
天皇は、その鳥を皇子にお見せになったら、おものがおっしゃれるようにおなりになりはしないかとおぼしめして、わざわざとりにおつかわしになったのでした。しかし皇子は、やはりそのまま一言もおものをおっしゃいませんでした。
天皇はそのために、いつもどんなにお心をおいためになっていたかしれませんでした。
そのうちに、ある晩、ふと夢の中で、
「私のお社を天皇のお宮のとおりにりっぱに作り直して下さるなら王は必ず口がきけるようにおなりになる」と、こういうお告げをお聞きになりました。
天皇は、どの神さまのお告げであろうかと急いで占いの役人に言いつけて占わせてごらんになりますと、それは出雲の大神のお告げで、皇子はその神のおたたりでおしにお生まれになったのだとわかりました。
それで天皇は、すぐに皇子を出雲へおまいりにお出しになることになさいました。
それにはだれをつけてやったらよかろうと、また占わせてごらんになりますと、曙立王という方が占いにおあたりになりました。
天皇は、その曙立王にお言いつけになって、なお念のために、うかがいのお祈りを立てさせてごらんになりました。
王はおおせによって、さぎの巣の池のそばへ行って、
「あの夢のお告げのとおり、出雲の大神を拝んでおしるしがあるならば、その証拠にこの池のさぎどもを死なせて見せてくださるように」とお祈りをしますと、そのまわりの木の上にとまっていた池じゅうのさぎが、いっせいにぱたぱたと池に落ちて死んでしまいました。そこでこんどは祈りを返して、
「あのさぎがことごとく生きかえりますように」と言いますと、いったん死んだそれらのさぎが、またたちまちもとのとおりに生きかえりました。そのつぎには古樫の岡という岡の上に茂っている、葉の大きなかしの木も、曙立王の祈りによって、同じように枯れたりまた生きかえったりしました。
そんなわけで、お夢のこともまったく出雲の大神のお告げだということがいよいよたしかになりました。
天皇はすぐに曙立王と兎上王との二人を本牟智別王につけて、出雲へおつかわしになりました。
そのご出立のときにも、どちらの道を選べばよいかとお占わせになりました。すると、奈良街道からでは、途中でいざりやめくらに会うし、大阪口から行っても、やはりめくらやいざりに会うので、どちらとも旅立ちには不吉である、脇道の紀井街道をとおって行けば、必ずさい先がよいと、こう占いに出ました。一同はそのとおりにして立っておいでになりました。
天皇は皇子のお名前を永く後の世までお伝えになるために、その途中のいたるところに、本牟智部という部族をおこしらえさせになりました。
皇子は、いよいよ出雲にお着きになって、大神のお社におまいりになりました。
そしてまた都へお帰りになろうとなさいますと、その出雲の国をおあずかりしている、国造という、いちばん上の役人が、肥の河の中へ仮のお宮をつくり、それへ、細木を編んだ橋を渡して、その宮で、皇子を、ごちそうしておもてなし申しあげました。
そのとき川下の方には、皇子のお目を慰めるために、青葉で、作りものの山がこしらえてありました。
皇子はそれをご覧になって、
「あの川下に、山のように見えている青葉は、あれはほんとうの山ではないだろう。神主たちが大国主神のお祭りをする場所ででもあるのか」と突然こうお聞きになりました。
お供の曙立王や兎上王たちは、皇子がふいにおものをおっしゃれるようになったので、びっくりして喜んで、すぐに早うまのお使いを立てて、そのことを天皇にお知らせ申しました。
皇子はそれからほかのお宮へお移りになって、肥長媛という人をお妃におもらいになりました。
ところがあとでご覧になりますと、それはへびが女になって出て来たのだとわかりました。皇子はびっくりなすって、みんなとごいっしょに船に乗ってお逃げになりました。
するとへびの媛は、皇子のおあとを慕って、急いで別の船をしたてて、海の上をきらきらと照らしながら、どんどん追っかけて来ました。皇子はいよいよ気味が悪くおなりになって、あわてて船をひきあげさせて、それをひっぱらせて山の間をお越えになり、またその船をおろして海をお渡りになったりなすって、やっと無事に都へ逃げておかえりになりました。
曙立王は天皇におめみえをして、
「おおせのとおりに大神をお拝みになりますと、まもなく、急にお口がおきけになるようになりましたので、一同でお供をして帰ってまいりました」と申しあげました。
天皇は、それはそれは言うに言われないほどお喜びになりました。そしてすぐに兎上王をまた再び出雲へおくだしになって、大神のお社をりっぱにご造営になりました。
天皇はそれですっかりご安心になったので、こんどはご不自由がちな、おそばのご用をおいいつけになるために、かねて皇后がおっしゃってお置きになったように、丹波から兄媛たちのきょうだい四人をおめしよせになりました。
しかし下の二人はたいそうみにくい子でしたので、天皇は兄媛とそのつぎの弟媛とだけをお抱えになって、あとの二人はそのまま家へかえしておしまいになりました。
すると、いちばん下の円野媛は、四人がいっしょにおめしに会って伺いながら、二人だけは顔が汚ないためにご奉公ができないでかえされたと言えば、近所の村々への聞こえも恥ずかしく、とても生きてはいられないと言って、途中の山城の乙訓というところまでかえりますと、あわれにも、そこの深いふちに身を投げて死んでしまいました。
それから天皇はある年、多遅摩毛理という者に、常世国へ行って、香の高いたちばなの実を取って来いとおおせつけになりました。
多遅摩毛理はかしこまって、長い年月の間いっしょうけんめいに苦心して、はてしもない大海の向こうの、遠い遠いその国へやっとたどり着きました。そしておおせのたちばなの実の、枝葉のままついたのを八つ、実ばかりのを八つもぎ取って、また長い間かかって、ようよう都へ帰って来ました。しかし天皇はその前に、もうとっくにおかくれになっていました。
多遅摩毛理はそのことを承ると、それはそれはがっかりして、葉つきの実を四つと、葉のないのを四つとを、天皇のおそばにお仕え申していた兄媛にさしあげたうえ、あとの四つずつを天皇のお墓にお供え申しました。そして泣き泣き大声を張りあげて、
「ご覧くださいまし。このとおりおおせの実を取ってまいりました。どうぞご覧くださいまし」とそのたちばなを両手にさしあげて、繰りかえし繰りかえし、いつまでもそのお墓の前で叫び続けて、とうとうそれなり叫び死にに死んでしまいました。
第十二代景行天皇は、お身の丈が一丈二寸、おひざから下が四尺一寸もおありになるほどの、偉大なお体格でいらっしゃいました。それからお子さまも、すべてで八十人もお生まれになりました。
天皇はその中で、後におあとをお継ぎになった若帯日子命と、小碓命とおっしゃる皇子と、ほかにもう一方とだけをおそばにお止めになり、あとの七十七人の方々をことごとく、地方地方の国造、別稲置、県主という、それぞれの役におつけになりました。
あるとき天皇は、美濃の、神大根王という方の娘で、兄媛弟媛という姉妹が、二人ともたいそうきりょうがよい子だという評判をお聞きになって、それをじっさいにお確かめになったうえ、さっそく御殿にお召使いになるおつもりで、皇子の大碓命にお言いつけになって、二人を召しのぼせにお遣わしになりました。
すると、大碓命は、その二人の者をご自分のお召使いに取っておしまいになり、別に二人の姉妹の女を探し出して、それを兄媛、弟媛だといつわって、天皇にお目通りをおさせになりました。
天皇はそれがほかの女であるということを、ちゃんとお見抜きになりました。しかしうわべでは、あくまでだまされていらっしゃるようにお見せかけになって、二人をそのまま御殿にお置きになりました。その代わりお手近のご用は、わざとほかの者にお言いつけになって、それとなく二人をおこらしめになりました。
大碓命はそんな悪いことをなすってからは、天皇の御前へお出ましになるのをうしろぐらくおぼしめして、さっぱりお顔をお見せになりませんでした。
天皇はある日、弟さまの皇子の小碓命に向かって、
「そちが兄は、どういうわけで、このせつ朝夕の食事のときにも出て来ないのであろう。おまえ行って、よく申し聞かせよ」とおっしゃいました。
しかし、それから五日もたっても、大碓命は、やっぱりそのままお顔出しをなさらないものですから、天皇は小碓命を召して、
「兄はどうして、いつまでも食事に出て来ないのか。おまえはまだ言わないのではないか」とお聞きになりました。
「いいえ、申し聞かせました」と命はお答えになりました。
「では、どういうふうに話したのか」
「ただ朝早く、おあにいさまがかわやにはいりますところを待ち受けて、つかみくじき、手足をむしりとって、死体をこもにくるんでうッちゃりました」と、命はまるでむぞうさにこう言って、すましていらっしゃいました。
天皇はそれ以来、小碓命のきつい荒いご気性を怖ろしくおぼしめして、どうかしてそれとなく命をおそばから遠ざけようとお考えになりました。それでまもなく命を召して、
「実は西の方に熊襲建という者のきょうだいがいる。二人とも私の命令に従わない無礼なやつである。そちはこれから行って、かれらを打ちとってまいれ」とおおせになりました。それで命は、急いで伊勢におくだりになって、大神宮にお仕えになっている、おんおば上の倭媛にお別れをなさいました。
するとおば上からは、ご料のお上着と、おはかま着と、懐剣とを、お別れのお印におくだしになりました。
命はそれからすぐに、今の日向、大隅、薩摩の地方へ向かっておくだりになりました。そのとき命は、まだお髪をお額にお結いになっている、ただほんの一少年でいらっしゃいました。
命は、その土地にお着きになり、熊襲建のうちへ近づいて、ようすをおうかがいになりますと、建らは、うちのまわりへ軍勢をぐるりと三重に立て囲わせて、その中に住まっておりました。そして、たまたまちょうどその家ができあがったばかりで、近々にそのお祝いの宴会をするというので、大さわぎでしたくをしているところでした。
命はそのあたりをぶらぶら歩きまわって、その宴会の日が来るのを待ちかまえていらっしゃいました。そして、いよいよその日になりますと、今までお結いになっていたお髪を、少女のようにすきさげになさり、おんおば上からおさずかりになったご衣裳を召して、すっかり小女の姿におなりになりました。そして、ほかの女たちの中にまじって、建どもの宴会のへやへはいっておいでになりました。
すると熊襲建きょうだいは、命をほんとうの女だとばかり思いこんでしまいまして、その姿のきれいなのがたいそう気にいったので、とくに自分たち二人の間にすわらせて、大喜びで飲みさわぎました。
命は、みんながすっかり興に入ったころを見はからって、そっと懐から剣をお取り出しになったと思いますと、いきなり片手で兄の建のえり首をつかんで、胸のところをひと突きに突き通しておしまいになりました。
弟の建はそれを見ると、あわててへやの外へ逃げ出そうとしました。
命は、それをもすかさず、階段の下に追いつめて、手早く背中をひっつかみ、ずぶりとおしりをお突き刺しになりました。
建はそれなりじたばたしようともしないで、
「どうぞその刀をしばらく動かさないでくださいまし。一言申しあげたいことがございます」と、言いました。それで命は刀をお刺しになったなり、しばらく押し伏せたままにしていらっしゃいますと、建は、
「いったいあなたはどなたでございます」と聞きました。
「おれは、大和の日代の宮に天下を治めておいでになる、大帯日子天皇の皇子、名は倭童男王という者だ。なんじら二人とも天皇のおおせに従わず、無礼なふるまいばかりしているので、勅命によって、ちゅう伐にまいったのだ」と、命はおおしくお名乗りになりました。
建はそれを聞いて、
「なるほど、そういうお方に相違ございますまい。この西の国じゅうには、私ども二人より強い者は一人もおりません。それにひきかえ大和には、われわれにもまして、すばらしいお方がいられたものだ。おそれながら私がお名まえをさしあげます。これからあなたのお名まえは倭建命とお呼び申したい」と言いました。
命は建がそう言いおわるといっしょに、その荒くれ者を、まるで熟したまくわうりを切るように、ずぶずぶと切りほうっておしまいになりました。
それ以来、だれもかれも命のご武勇をおほめ申して、お名まえを倭建命と申しあげるようになりました。
命は、それから大和へおひきかえしになる途中で、いろんな山の神や川の神や、穴戸の神と称えて、方々の険阻なところにたてこもっている悪神どもを、片はしからお従えになった後、出雲の国へおまわりになって、そのあたりで幅をきかせている、出雲建という悪者をお退治になりました。
命はまずその建の家へたずねておいでになって、その悪者とごこうさいをお結びになりました。そして、そのあとで、こっそりとあかひのきという木を刀のようにお削りになり、それをりっぱな太刀のように飾りをつけておつるしになって、建をさそい出して、二人で肥の河の水を浴びにいらっしゃいました。そして、いいかげんなころを見はからって、ご自分の方が先におあがりになり、ごじょうだんのように建の太刀をお身におつけになりながら、
「どうだ、二人でこの刀のとりかえっこをしようか」とおっしゃいました。建はあとからのそのそあがって来て、
「よろしい取りかえよう」と言いながら、うまくだまされて命のにせの刀をつるしました。命は、
「さあ、ひとつ二人で試合をしよう」とお言いになりました。そして二人とも刀を抜き放すだんになりますと、建のはにせの刀ですから、いくら力を入れても抜けようはずがありません。命は建がそれでまごまごしているうちに、すばやくほんものの刀を引き抜いて、たちまちその悪者を切り殺しておしまいになりました。そして、そのあとで、建が抜けない刀を抜こうとして、まごまごとあわてたおかしさを、歌につくってお笑いになりました。
命はこんなにして、お道筋の賊どもをすっかり平らげて、大和へおかえりになり、天皇にすべてをご奏上なさいました。
すると天皇は、またすぐにひき続いて、命に、東の方の十二か国の悪い神々や、おおせに従わない悪者どもを説き従えてまいれとおおせになって、ひいらぎの矛をお授けになり、御鉏友耳建日子という者をおつけ添えになりました。
命はお言いつけを奉じて、またすぐにおでかけになりました。そして途中で伊勢のお宮におまいりになって、おんおば上の倭媛に再度のお別れをなさいました。そのとき命はおんおば上に向かっておっしゃいました。
「天皇は私を早くなくならせようとでもおぼしめすのでしょう。でも、こないだまで西の方の賊を討ちにまいっておりまして、やっと、たった今かえったと思いますと、またすぐに、こんどは東の方の悪者どもを討ちとりにお出しになるのはどういうわけでございましょう。それもほとんど軍勢というほどのものもくださらないのです。こんなことからおして考えてみますと、どうしても私を早く死なせようというお心持としか思われません」命はこうおっしゃって涙ながらにお立ちになろうとしました。
おんおば上は、命のそのお恨みをおやさしくおなだめになったうえ、もと神代のときに、須佐之男命が大じゃの尾の中からお拾いになった、あの貴いお宝物の御剣と、ほかに袋を一つお授けになり、まん一、急なことが起こったら、この袋の口をお解きなさい、とおおせになりました。
命はそれから尾張へおはいりになって、そこの国造の娘の美夜受媛のおうちにおとまりになりました。そして、かえりにはまた必ず立ち寄るからとお言いのこしになって、さらに東の国へお進みになり、山や川に住んでいる、荒くれ神や、そのほか天皇にお仕えしない悪者どもをいちいちお説き従えになりました。そしてまもなく相模の国へお着きになりました。
するとそこの国造が、命をお殺し申そうとたくらんで、
「あすこの野中に大きな沼がございます。その沼の中に住んでおります神が、まことに乱暴なやつで、みんな困っております」と、おだまし申しました。
命はそれをまにお受けになって、その野原の中へはいっておいでになりますと、国造は、ふいにその野へ火をつけて、どんどん四方から焼きたてました。
命ははじめて、あいつにだまされたかとお気づきになりました。その間にも火はどんどんま近に迫って来て、お身が危くなりました。
命はおんおば上のおおせを思い出して、急いで、例の袋のひもをといてご覧になりますと、中には火打がはいっておりました。
命はそれで、急いでお宝物の御剣を抜いて、あたりの草をどんどんおなぎ払いになり、今の火打でもって、その草へ向かい火をつけて、あべこべに向こうへ向かってお焼きたてになりました。命はそれでようやく、その野原からのがれ出ていらっしゃいました。そしていきなり、その悪い国造と、手下の者どもを、ことごとく切り殺して、火をつけて焼いておしまいになりました。
それ以来そのところを焼津と呼びました。それから、命が草をお切りはらいになった御剣を草薙の剣と申しあげるようになりました。
命はその相模の半島をおたちになって、お船で上総へ向かってお渡りになろうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大波を巻きあげて、海一面を大荒れに荒れさせました。命の船はたちまちくるくるまわり流されて、それこそ進むこともひきかえすこともできなくなってしまいました。
そのとき命がおつれになっていたお召使の弟橘媛は、
「これはきっと海の神のたたりに相違ございません。私があなたのお身代わりになりまして、海の神をなだめましょう。あなたはどうぞ天皇のお言いつけをおしとげくださいまして、めでたくあちらへおかえりくださいまし」と言いながら、すげの畳を八枚、皮畳を六枚に、絹畳を八枚重ねて、波の上に投げおろさせるやいなや、身をひるがえして、その上へ飛びおりました。
大波は見るまに、たちまち媛を巻きこんでしまいました。するとそれといっしょに、今まで荒れ狂っていた海が、ふいにぱったりと静まって、急に穏かななぎになってきました。
命はそのおかげでようやく船を進めて、上総の岸へ無事にお着きになることができました。
それから七日目に、橘媛のくしがこちらの浜へうちあげられました。命はそのくしを拾わせて、あわれな媛のためにお墓をお作らせになりました。
橘媛が生前に歌った歌に、
さねさし、
さがむの小野に、
もゆる火の、
火中に立ちて、
問いしきみはも。
これは、相模の野原で火攻めにお会いになったときに、その燃える火の中にお立ちになっていた、あの危急なときにも、命は私のことをご心配くだすって、いろいろに慰め問うてくだすった、ほんとに、お情け深い方よと、そのもったいないお心持を忘れない印に歌ったのでした。
命はそこから、なおどんどんお進みになって、いたるところで手におえない悪者どもをご平定になり、山や川の荒くれ神をもお従えになりました。
それでいよいよ、再び大和へおかえりになることになりました。
そのお途中で、足柄山の坂の下で、お食事をなすっておいでになりますと、その坂の神が、白いしかに姿をかえて現われて、命を見つめてつっ立っておりました。
命は、それをご覧になると、お食べ残しのにらの切はしをお取りになって、そのしかをめがけてお投げつけになりました。すると、それがちょうど目にあたって、しかはばたりと倒れてしまいました。
命はそれから坂の頂上へおあがりになり、そこから東の海をおながめになって、あの哀れな橘媛のことを、つくづくとお思いかえしになりながら、
「あずまはや」(ああ、わが女よ)とお嘆きになりました。それ以来そのあたりの国々をあずまと呼ぶようになりました。
命は、そこから甲斐の国へお越えになりました。そして酒折宮という御殿におとまりになったときに、
にいばり、つくばを過ぎて、
いく夜か寝つる。
とお歌いになりますと、あかりのたき火についていた一人の老人が、すぐにそのおあとを受けて、
かかなべて、
夜には九夜、
日には十日を。
と歌いました。それは、
「蝦夷どもをたいらげながら、常陸の新治や筑波を通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃるのに対して、
「かぞえて見ますと、九夜寝て十日目を迎えましたのでございます」という意味でした。
命はその答えの歌をおほめになって、そのごほうびに、老人を東国造という役におつけになりました。
それから信濃へおはいりになり、そこの国境の地の神を討ち従えて、ひとまずもとの尾張までお帰りになりました。
命はお行きがけにお約束をなすったとおり、美夜受媛のおうちへおとまりになりました。そして草薙の宝剣を媛におあずけになって近江の伊吹山の、山の神を征伐においでになりました。
命はこの山の神ぐらいは、す手でも殺すとおっしゃって、どんどんのぼっておいでになりました。すると途中で、うしほどもあるような、大きな白いいのししが現われました。命は、
「このいのししに化けて出たのは、まさか山の神ではあるまい。神の召使の者であろう。こんなやつは今殺さなくとも、かえりにしとめてやればたくさんである」とおいばりになって、そのままのぼっておいでになりました。
そうすると、ふいに大きなひょうがどッと降りだしました。命はそのひょうにお襲われになるといっしょに、ふらふらとお目まいがして、ちょうどものにお酔いになったように、お気分が遠くおなりになりました。
それというのは、さきほどの白いいのししは、山の神の召使ではなくて、山の神自身が化けて出たのでした。それを命があんなにけいべつして広言をお吐きになったので、山の神はひどく怒って、たちまち毒気を含んだひょうを降らして、命をおいじめ申したのでした。
命は、ほとんどとほうにくれておしまいになりましたが、ともかく、ようやくのことで山をおくだりになって、玉倉部というところにわき出ている清水のそばでご休息をなさいました。そして、そのときはじめて、いくらかご気分がたしかにおなりになりました。しかし命はとうとうその毒気のために、すっかりおからだをこわしておしまいになりました。
やがて、そこをお立ちになって、美濃の当芸野という野中までおいでになりますと、
「ああ、おれは、いつもは空でも飛んで行けそうに思っていたのに、今はもう歩くこともできなくなった。足はちょうど船のかじのように曲がってしまった」とおっしゃって、お嘆きになりました。そしてそのまままた少しお歩きになりましたが、まもなくひどく疲れておしまいになったので、とうとうつえにすがって一足一足お進みになりました。
そんなにして、やっと伊勢の尾津の崎という海ばたの、一本まつのところまでおかえりになりますと、この前お行きがけのときに、そのまつの下でお食事をお取りになって、つい置き忘れていらしった太刀が、そのままなくならないで、ちゃんと残っておりました。
命は、
「おお一つまつよ、よくわしのこの太刀の番をしていてくれた。おまえが人間であったら、ほうびに太刀をさげてやり、着物を着せてやるのだけれど」と、こういう意味の歌を歌ってお喜びになりました。それからなおお歩きになって、ある村までいらっしゃいました。
命は、そのとき、
「わしの足はこんなに三重に曲がってしまった。どうもひどく疲れて歩けない」とおっしゃいました。しかしそれでも無理にお歩きになって、能褒野という野へお着きになりました。
命は、その野の中でつくづくと、おうちのことをお思いになり、
あの青山にとりかこまれた、
美しい大和が恋しい。
しかし、ああ私は、
その恋しい土地へも、
帰りつくことはできない。
命あるものは、
これからがいせんして、
あの平群の山の、
くまがしの葉を、
髪に飾って祝い楽しめよ。
という意味をお歌いになり、
はしけやし、
わぎへの方よ、
雲いたち来も。
(おおなつかしや、
わが家のある、
はるかな大和の方から、
雲が出て来るよ。)
と、お歌いになりました。
そして、それといっしょにご病勢もどっとご危篤になってきました。
命は、ついに、
おとめの、
床のべに、
わがおきし、
剣の太刀。
その太刀はや。
と、あの美夜受媛のおうちにおいていらしった宝剣も、とうとう再び手にとることもできないかとお歌いになり、そのお歌の終わるのとともに、この世をお去りになりました。
早うまのお使いは、このことを天皇に申しあげにかけつけました。
大和からは、命のお妃やお子さまたちが、びっくりしてくだっておいでになりました。そして、命のご陵をお作りになって、そのぐるりの田の中に伏しまろんで、おんおんおんおんと泣いていらっしゃいました。
するとおなくなりになった命は、大きな白い鳥になって、お墓の中からお出ましになり、空へ高くかけのぼって、浜辺の方へ向かって飛んでおいでになりました。
お妃やお子さまたちは、それをご覧になると、すぐに泣き泣きそのあとを追いしたって、ささの切り株にお足を傷つけて血だらけにおなりになっても、痛さを忘れて、いっしょうけんめいにかけておいでになりました。
そしてしまいには、海の中にまではいって、ざぶざぶと追っかけていらっしゃいました。
白い鳥はその人々をあとにおいて、海の中のいそからいそにと伝わって飛んで行きました。
お妃は潮の中を歩きなやみながら、おんおんお泣きになりました。
その鳥は、とうとう伊勢から河内の志紀というところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を作って、いったんそこへお鎮め申しましたが、しかし鳥は、あとにまた飛び出して、どんどん空をかけて、どこへともなく逃げ去ってしまいました。
命には、お子さまが男のお子ばかり六人おいでになりました。その中の、帯中津日子命とおっしゃる方は、後にお祖父上の天皇のおつぎの成務天皇のおあとをお継ぎになりました。すなわち仲哀天皇でいらっしゃいます。
命が諸方を征伐しておまわりになる間は、七拳脛という者が、いつもご料理番としてお供について行きました。
御父上の景行天皇は、おん年百三十七でおかくれになりました。
仲哀天皇は、ある年、ご自身で熊襲をお征伐におくだりになり、筑前の香椎の宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。
そのとき天皇は、ある夜、戦のお手だてについて、神さまのお告げをいただこうとおぼしめして、大臣の武内宿禰をお祭場へお坐らせになり、御自分はお琴をおひきになりながら、お二人でお祈りをなさいました。そうすると、どなたか一人の神さまが、皇后の息長帯媛のおからだにお乗りうつりになり、皇后のお口をお借りになって、
「これから西の方にあるひとつの国がある、そこには金銀をはじめ、目もまぶしいばかりの、さまざまの珍しい宝がどっさりある。つまらぬ熊襲の土地よりも、まずその国をあなたのものにしてあげよう」とおっしゃいました。
「しかし、高いところへ登って西の方を見ましても、そちらの方はどこまでも大海ばかりで、国などはちっとも見えないではありませんか」と、天皇はお答えになりました。そしてお心のうちでは、
「これはほんとうの神さまではあるまい。きっといつわりを言う神が乗りうつったにちがいない」とおぼしめして、それなりお琴をおしのけて、だまっておすわりになっていました。
すると神さまはたいそうお怒りになって、
「そんな、わしの言葉をうたぐったりするものには、この国も任せてはおかれない。あなたはもう、さっさと死んでおしまいなさるがよい」と、おおせになりました。
宿禰はその言葉を聞くと、びっくりして、
「これはたいへんでございます。陛下よ、どうぞもっとお琴をおひきあそばしませ」と、あわててご注意申しあげました。
天皇は仕方なしに、しぶしぶお琴をおひき寄せになって、しばらくの間、申しわけばかりにぽつぽつひいておいでになりましたが、そのうちにまもなく、ふッつりとお琴の音がとだえてしまいました。
宿禰はへんだと思って、灯をさし上げて見ますと、天皇はもはやいつのまにかお息が絶えて、その場にお倒れになっていらっしゃいました。
皇后も宿禰も、神さまのお罰に驚き怖れて、急いでそのお空骸を仮のお宮へお移し申しました。そしてまず第一番に、神さまのお怒りをおなだめ申すために、そのあたりの国じゅうで生きた獣の皮を剥いだり、獣を逆はぎにしたものをはじめとして、田の畔をこわしたもの、溝をうめたもの、汚ないものをひりちらしたもの、そのほか言うも穢らわしいような、さまざまの汚ない罪を犯したものたちをいちいちさがし出させて、御幣をとって、はらい清めて、国じゅうのけがれをすっかりなくしておしまいになりました。そして、宿禰が再びお祭場に坐って、改めて神さまのお告げをお祈り申しました。
すると神さまからは、この前おっしゃった西の国のことについて、同じようなおおせがありました。
「それからこの日本の国は、今、皇后のお腹にいらっしゃるお子がお治めになるべきものだ」とおっしゃいました。
皇后は、そのときちょうどお身重でいらっしゃいました。宿禰はそのおおせを聞いて、
「では、恐れながら、今、皇后のお腹においでになりますお子さまは、男のお子さまと女のお子さまと、どちらでいらっしゃりましょう」とうかがいますと、
「お子はご男子である」とお告げになりました。
宿禰はなお、すべてのことをうかがっておこうと思いまして、
「まことにおそれいりますが、かようにいちいちお告げを下さいますあなたさまは、どなたさまでいらっしゃいますか。どうぞお名まえをおあかしくださいまし」と申しあげました。神さまは、やはり皇后のお口を通して、
「これはすべて天照大神のおぼしめしである。また、底筒男命、中筒男命、上筒男命の三人の神も、いっしょに申し下しているのだ」と、そこではじめてお名まえをお告げになりました。
神さまはなお改めて、
「もしそなたたちが、ほんとうにあの西の国を得ようと思うならば、まず大空の神々、地上の神々、また、山の神、海の神、海と河との神々にことごとくお供えを奉り、それから私たち三人の神の御魂を船のうえに祀ったうえ、まきの灰を瓠に入れ、また箸と盆とをたくさんこしらえてそれらのものを、みんな海の上に散らし浮かべて、その中を渡って行くがよい」とおっしゃって、くわしく征伐の手順をおしえてくださいました。
それで、皇后はすぐ軍勢をお集めになり、神々のお言葉のとおりに、すべてご用意をお整えになって、仰山なお船をめしつらねて、勇ましく大海のまん中へお乗り出でになりました.
そうすると海じゅうの、あらゆる大小の魚が、のこらず駈けよって来て、すっかりのお船をみんなで背中にお担ぎ申しあげて、わッしょいわッしょいと、威勢よく押しはこんで行きました。そこへ、ちょうどつごうよく、追い手の風がどんどん吹き募って来ました。ですから、それだけのお船がみんな、かけ飛ぶように走って行きました。
そのうちに、そのたいそうな大船に押しまくられた大浪が、しまいには大きな、すさまじい大海嘯となって、これから皇后がご征伐になろうとする、今の朝鮮の一部分の新羅の国へ、ふいにどどんと打ち上げました。そして、あっという間に、国じゅうを半分までも巻き込んでしまいました。
皇后の軍勢は、その大海嘯と入れちがいに、息もつかせずうわあッと攻めこみました。すると新羅の王はすっかり怖れちぢこまって、すぐに降参してしまいました。
国王は、
「私どもはこれからいついつまでも、天皇のおおせのままに、おうま飼の下郎となりまして、いっしょうけんめいにご奉公申しあげます。そして毎年船をどっさり仕立てまして、その船底の乾くときもなく、棹や櫂の乾くまもなもないほどおうかがわせ申しまして、絶えず貢物を奉り天地が亡びますまで無久にお仕え申しあげます」と、平蜘蛛のようになっておちかいをいたしました。
それで皇后はさつそくお聞き届けになりまして、新羅の王をおうま飼ということにおきめになり、その隣の百済をもご領地にお定めになりました。そしてそのお印に、お杖を、新羅の王宮の門のところに突き刺してお置きになりました。
それから最後に、お社をお作りになって、今度のご征伐についていちいちお指図をしてくださった、底筒男命以下三人の神さまを、この国の氏神さまにお祀りになった後、ご威風堂々と新羅をおひき上げになりました。
おん母上の皇后はその前に、まだご征伐のお途中でお腹のお子さまがお生まれになろうとしました。それで、どうぞ今しばらくの間はご出産にならないようにとお祈りになって、そのお呪いに、お下着のお腰のところへ石ころをおつるしになり、それでもって当分お腹をしずめておおきになりました。
するとお子さまは、ちゃんと筑紫へお凱旋になってからご無事にお生まれになりました。それはかねて神さまのお告げのとおりりっぱな男のお子さまでいらっしゃいました。この小さな天皇には、ご誕生のときに、ちょうど、鞆といって弓を射るときに左の臂につける革具のとおりの形をしたお盛肉が、お腕に盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命とお名づけになりました。すなわち後にお呼び申す応神天皇さまです。その鞆のお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のお腹のうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんな畏れ入りました。
また、皇后はご出征のまえに、肥前の玉島というところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。
それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴の糸をぬいて釣糸になされ、お食事のおあとのご飯粒を餌にして、ただでも決して釣ることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。
ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴の糸をぬいて、飯粒を餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえる印にしておりました。
おん母上の皇后は、ついで熊襲をも難なくご平定になって、いよいよ大和におかえりになることになりました。
しかし、大和には、香坂王、忍熊王とおっしゃる、お二人のお腹ちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をお企みになるかわからないとお気づかいになりました。
それで皇后は、ちゃんとお策略をお立てになって、喪船を一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。
そして天皇はもはやとくにお亡くなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸をつれておかえりになるていにして、筑紫をお立ちになりました。
こちらは香坂、忍熊の二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけて討ち亡ぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津の斗賀野というところまでご進軍になりました。
皇子たちは、その野原でためしに猟をして、その獲物によって、さいさきを占ってみようとなさいました。
香坂皇子は、くぬぎの木に上って、その猟の有様を見ていらっしゃいました。すると、ふいにそこへ、手傷を負った大きないのししがあらわれて、そのくぬぎの木の根もとをどんどん掘りにかかりました。そしてまもなくすとんと掘り倒したと思いますと、いきなり香坂皇子に飛びかかって、がつがつ皇子を食べてしまいました。
しかし、弟さまの忍熊皇子は、そんな悪い前兆にもとんじゃくなしに、そのまま軍勢をおひきつれになり、海ばたまで押しかけて、待ちかまえていらっしゃいました。
そのうちに、皇后がたのお船が見えて来ました。忍熊王は、その中の喪船には、兵たいたちが乗っていないはずなので、まずまっ先にその船を目がけてお討ちかからせになりました。
ところがその船の中には、前もってちゃんとよりすぐりの兵が忍ばせてありました。その兵士たちは船がつくなり、ふいに、うわッと飛び下りて、たちまち、はげしい戦をはじめました。
そのとき忍熊王の軍勢には、伊佐比宿禰というものが総大将になっていました。それに対して皇后方からは建振熊命という強い人が将軍となって攻めかけました。
建振熊命は見る見るうちに宿禰の軍勢を負かし崩して、ぐんぐんと、どこまでも追っかけて行きました。すると敵は山城でふみ止まって、頑固に防ぎ戦をしだしました。
建振熊命は、何をと言いながら、死にもの狂いで攻めかけ攻めかけしました。しかし、どんなにあせっても敵はそれなりひと足も退こうとはしませんでした。
建振熊命は、しまいには、これでは果てしがないと思い直して、急に味方の兵をひきまとめるといっしょに、向こうの軍勢に向かって、
「実は皇后が急におなくなりになったので、われわれはもう戦をする気はない」と申し入れながら、その目の前で全軍の兵士たちに弓の弦をことごとく断ち切らせて、さもほんとうのように、伊佐比宿禰に降参をしました。
すると伊佐比宿禰はそれですっかり気をゆるして、自分のほうもひとまずみんなに弓の弦をはずさせ、いっさいの戦道具をも片づけさせてしまいました。
建振熊命はそれを見すまして、
「それッ」と合い図をしますと、部下の兵たちは、髪の中に隠していた、かけがえの弦を取り出して瞬くまに弓を張って、
「うわッ」と、哄を上げて攻めかかりました。
敵はまんまと不意を討たれて、総くずれになってにげ出しました。建振熊命は勝に乗じてどんどんと追いまくって行きました。
すると敵勢は近江の逢坂というところまでにげのびて、そこでいったん踏み止まって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。
建振熊命は、とうとうそれを同じ近江の篠波というところで追いつめて、敵の兵たいという兵たいを一人ものこさず斬り殺してしまいました。
そのとき忍熊王と伊佐比宿禰とは、危く船に飛び乗って、湖水の中へにげ出しました。
しかしぐずぐずしていると今につかまってしまうのが目に見えていましたので、皇子は宿禰に向かって、
さあ、おまえ、
振熊に殺されるよりも、
鳰鳥のように、
この湖水にもぐってしまおうよ。
とお歌いになり、二人でざんぶと飛び込んで、それなり溺れ死にに死んでおしまいになりました。
皇后はそれでいよいよめでたく大和へおかえりになりました。
しかし武内宿禰だけは、お小さな天皇をおつれ申して、穢れ払いの禊ということをしに、近江や若狹をまわって、越前の鹿角というところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在しておりました。
するとその土地に祀られておいでになる伊奢沙和気大神という神さまが、あるばん宿禰の夢に現われていらしって、
「わしの名を、お小さい天皇のお名と取りかえてくれぬか」とおっしゃいました。
宿禰は、
「それはもったいないおおせでございます。どうもありがとう存じます」とお答え申しました。大神は、「それでは、明日お供をして海ばたへ来るがよい。名を取りかえてくださったお礼を上げようから」とおっしゃいました。
それであくる朝早く、天皇をおつれ申して海岸へ出て見ますと、みんな鼻の先に傷をうけた、それはそれはたいそうな海豚が、浜じゅうへいっぱいうち上げられておりました。
宿禰はさっそくお社へお使いをたてて、
「食べ料のお魚をどっさりありがとう存じます」とお礼を申しあげました。
天皇はそれから大和へおかえりになりました。
お待ち受けになっていたお母上の皇后は、それはそれは大喜びをなすって、さっそくご用意のお酒を出させて、お祝いのおさかもりをなさいました。
皇后は、
このお酒は、私がかもした酒ではない。
薬の神の少名彦名神があなたのご運をお祝いして、
喜びさわいでつくってくだされたお酒だから、
のこさず、すっかりめし上がってください。
さあさあどうぞ。
という意味をお歌いになりました。
宿禰は天皇に代わって、
このお酒をつくった人は、
鼓を臼の上に立てて、
歌いながら、舞いながら、
喜び喜びつくったせいでございますか、
それはそれはたいそうよいお酒で、
いただきますとひとりでに歌いたく、
舞いたくなってまいります。
ああ楽しや。
とお答えの歌を歌いながら、ともどもお喜び申しました。
後の世の人は、この母上の皇后の、いろんな雄々しい大きなお手柄をおほめ申しあげて、お名まえを特に神功皇后とおよび申しております。
神功皇后のお母方のご先祖については、こういうお話が伝わっています。
それは、この時分からも、もっともっと昔、新羅の国の阿具沼という沼のほとりで、ある日一人の女が昼寝をしておりました。すると、ふしぎなことには、日の光がにじのようになって、さっと、その女のお腹へ射しました。
それをちょうど通りかかった一人の農夫が見て、へんなこともあるものだと思いながら、それからは、いつもその女のそぶりに目をつけていますと、女はまもなくお腹が大きくなって、一つの赤い玉を生み落としました。農夫はその玉を女からもらって、物につつんで、いつも腰につけていました。
この農夫は谷間に田を作っておりました。ある日農夫は、その田で働いている人たちのたべ物を、うしに負わせて運んで行きますと、その谷間で、天日矛という、この国の王子に出会いました。
王子は農夫がへんなところへうしを引いて行くのを見て、
「これこれ、そちはどうしてそのうしへたべ物などを乗せてこんなところへはいって来たのだ。きっと人に隠れてそのうしも殺して食おうというのであろう」と言いながら、いきなり農夫をつかまえてろうやへつれて行こうとしました。農夫は、
「いえいえ私はけっしてこのうしを殺そうなどとするのではございません。ただこうして百姓たちのたべ物を運んでまいりますだけでございます」と、ほんとうのままを話しました。それでも王子は、
「いやいや、うそだ」と言って、なかなかゆるしてくれないので、農夫は腰につけている例の赤い玉を出して、それを王子にあげて、やっとのことで放してもらいました。
王子はその玉をおうちへ持って帰って、床の間に置いておきました。すると赤い玉が、ふいに一人の美しい娘になりました。王子はその娘を自分のお嫁にもらいました。
そのお嫁は、いつもいろいろの珍しいお料理をこしらえて、王子に食べさせていましたが、王子はだんだんにわがままを出して、しまいにはお嫁をひどくののしりとばすようになりました。
するとお嫁のほうではとうとうたまりかねて、
「私はもうこれぎり親たちの国へ帰ってしまいます。もともと私は、あなたのような方のお嫁になってばかにされるような女ではありません」と言いながら、そのうちを抜け出して、小船に乗って、はるばると摂津の難波の津まで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流媛という神さまとしてその土地にまつられました。
王子の天日矛は、そのお嫁のあとを追っかけて、とうとう難波の海まで出て来ましたが、そこの海の神がさえぎって、どうしても入れてくれないものですから、しかたなしにひきかえして、但馬の方へまわって、そこへ上陸しました。そして、しばらくそこに暮らしているうちに、後にはとうとうその土地の人をお嫁にもらって、そのままそこへいつくことにしました。
この天日矛の七代目の孫にあたる高額媛という人がお生み申したのが、すなわち神功皇后のお母上でいらっしゃいました。例の垂仁天皇のお言いつけによって、常世国へたちばなの実を取りに行ったあの多遅摩毛理は、日矛の五代目の孫の一人でした。
日矛はこちらへ渡って来るときに、りっぱな玉や鏡なぞの宝物を八品持って来ました。その宝物は、伊豆志の大神という名まえの神さまにしてまつられることになりました。
この宝物をまつった神さまに、伊豆志乙女という女神が生まれました。この女神を、いろんな神々たちがお嫁にもらおうとなさいましたが、女神はいやがって、だれのところへも行こうとはしませんでした。
その神たちの中に、秋山の下冰男という神がいました。その神が弟の春山の霞男という神に向かって、
「私はあの女神をお嫁にしようと思っても、どうしても来てくれない。どうだ、おまえならもらってみせるか」と聞きました。
「私ならわけなくもらって来ます」と弟の神は言いました。
「ふふん、きっとか。よし、それではおまえがりっぱにあの女神をもらって見せたら、そのお祝いに、わしの着物をやろう。それからわしの身の丈ほどの大がめに酒を盛って、海山の珍しいごちそうをそろえて呼んでやろう、しかし、もしもらいそこねたら、あんな広言を吐いた罰に、今わしがしてやろうと言ったとおりをわしにしてくれるか」と言いました。
弟の神は、おお、よろしい、それではかけをしようと誓いました。そして、おうちへ帰って、そのことをおかあさまにお話しますと、おかあさまの女神は、一晩のうちに、ふじのつるで、着物からはかまから、くつからくつ下まで織ったり、こしらえたりした上に、やはり同じふじのつるで弓をこしらえてくれました。
弟の神はその着物やくつをすっかり身につけて、その弓矢を持って、例の女神のおうちへ出かけて行きました。すると、たちまち、その着物やくつや弓矢にまで、残らず、一度にぱっとふじの花が咲きそろいました。
弟の神はその弓矢を便所のところへかけておきますと、女神はそれを見つけて、ふしぎに思いながら取りはずして持って行きました。弟の神は、すかさず、そのあとについて女神のへやにはいって、どうぞ私のお嫁になってくださいと言いました。そして、とうとうその女神をもらってしまいました。
二人の間には一人子供までできました。
弟の神は、それで兄の神に向かって、
「私はあのとおり、ちゃんと女神をもらいました。だから約束のとおり、あなたの着物をください。それからごちそうもどっさりしてください」と言いました。すると兄の神は、弟の神のことをたいそうねたんで、てんで着物もやらないし、ごちそうもしませんでした。
弟の神は、そのことを母上の女神に言いつけました。すると女神は、兄の神を呼んで、
「おまえはなぜそんなに人をだますのです。この世の中に住んでいる間は、すべてりっぱな神々のなさるとおりをしなければいけません。おまえのように、いやしい人間のまねをする者はそのままにしてはおかれない」と、ひどく怒りつけました。それから、そこいらの川の中の島にはえているたけを伐って来て、それで目の荒いあらかごを作り、その中へ、川の石に塩をふりかけて、それをたけの葉につつんだのを入れて、
「この兄の神のようなうそつきは、このたけの葉がしおれるようにしおれてしまえ。この塩がひるようにひからびてしまえ。そして、この石が沈むように沈み倒れてしまえ」とのろって、そのかごをかまどの上に置かせました。
すると兄の神は、そのたたりで、まる八年の間、ひからびしおれ、病みつかれて、それはそれは苦しい目を見ました。それでとうとう弱り果てて泣く泣く母上の女神におわびをしました。
女神はそのときやっとのろいをといてやりました。そのおかげで兄の神は、またもとのとおりのじょうぶなからだにかえりました。
お小さな応仁天皇も、そのうちにすっかりご成人になって、大和の明の宮で、ご自身に政をお聞きになりました。
あるとき、天皇は近江へご巡幸になりました。そのお途中で、山城の宇治野にお立ちになって、葛野の方をご覧になりますと、そちらには家々も多く見え、よい土地もどっさりあるのがお目にとまりました。
天皇はそのながめを歌にお歌いになりながら、まもなく木幡というところまでおいでになりますと、その村のお道筋で、それはそれは美しい一人の少女にお出会いになりました。
天皇は、
「そちはだれの娘か」とおたずねになりました。
「私は比布礼能意富美と申します者の子で、宮主矢河枝媛と申します者でございます」と、その娘はお答え申しました。
すると、天皇は
「ではあす帰りにそちのうちへ行くぞ」とおっしゃいました。
媛はおうちへ帰って、すべてのことをくわしくおとうさまに話しました。
おとうさまの意富美は、
「それではそのお方は天子さまだ。これはこれはもったいない。そちも十分気をつけて失礼のないようによくおもてなし申しあげよ」と言いきかせました。そしてさっそくうちじゅうを、すみずみまですっかり飾りつけて、ちゃんとお待ち申しておりました。
天皇のおおせのとおり、あくる日お立ちよりになりました。意富美らは怖れかしこみながら、ごちそうを運んでおもてなしをしました。
天皇は矢河枝媛が奉るさかずきをお取りになって、
この料理のかには、
越前敦賀のかにが、
横ざまにはって、
近江を越えて来たものか。
わしもその近江から来て、
木幡の村でおまえに会った。
おまえの後姿は、
盾のようにすらりとしている。
おまえのきれいな歯並は、
しいの実のように白く光っている。
顔には九邇坂の土を、
そこの土は、
上土は赤く、
底土は赤黒いけれど、
中土の、
ちょうど色のよいのを
眉墨にして、
色濃く眉をかいている。
おまえはほんとうにきれいな子だ。
とこういう意味のお歌を歌っておほめになりました。
天皇は、この美しい矢河枝媛を、後にお妃にお召しになりました。このお妃から、宇治若郎子とおっしゃる皇子がお生まれになりました。
天皇には、すべてで、皇子が十一人、皇女が十五人おありになりました。
その中で、天皇は、矢河枝媛のお生み申した若郎子皇子を、いちばんかわいくおぼしめしていらっしゃいました。
あるとき天皇は、その若郎子皇子とはそれぞれお腹ちがいのお兄上でいらっしゃる大山守命と大雀命のお二人をお召しになって、
「おまえたちは、子供は兄と弟とどちらがかわいいものと思うか」とお聞きになりました。
大山守命は、
「それはだれでも兄のほうをかわいくおもいます」と、ぞうさもなくお答えになりました。
しかしお年下の大雀命は、お父上がこんなお問いをおかけになるのは、わたしたち二人をおいて、弟の若郎子にお位をお譲りになりたいというおぼしめしに相違ないと、ちゃんと、天皇のお心持をおさとりになりました。それでそのおぼしめしに添うように、
「私は弟のほうがかわいいだろうと思います。兄のほうは、もはや成人しておりますので、何の心配もございませんが、弟となりますと、まだ子供でございますから、かわいそうでございます」とお答えになりました。
天皇は、
「それは雀の言うとおりである。わしもそう思っている」とおおせになり、なお改めて、
「ではこれから、そちら二人と若郎子と三人のうち、大山守は海と山とのことを司れ、雀はわしを助けて、そのほかのすべての政をとり行なえよ。それから若郎子には、後にわしのあとを継いで天皇の位につかせることにしよう」と、こうおっしゃって、ちゃんと、お三人のお役わりをお定めになりました。
大山守命は、後に、このお言いつけにおそむきになって、若郎子皇子を殺そうとさえなさいましたが、ひとり大雀命だけは、しまいまで天皇のご命令のとおりにおつくしになりました。
天皇は日向の諸県君という者の子に、髪長媛という、たいそうきりょうのよい娘があるとお聞きになりまして、それを御殿へお召し使いになるつもりで、はるばるとお召しのぼせになりました。
皇子の大雀命は、その髪長媛が船で難波の津へ着いたところをご覧になり、その美しいのに感心しておしまいになりました。それで武内宿禰に向かって、
「こんど日向からお召しよせになったあの髪長媛を、お父上にお願いして、私のお嫁にもらってくれないか」とお頼みになりました。
宿禰はかしこまって、すぐにそのことを天皇に申しあげました。
すると天皇は、まもなくお酒盛のお席へ大雀命をお召しになりました。そして、美しい髪長媛にお酒をつぐかしわの葉をお持たせになって、そのまま命におくだしになりました。
天皇はそれといっしょに、
わしが、子どもたちをつれて、
のびるをつみに通り通りする、
あの道ばたのたちばなの木は、
上の枝々は鳥に荒され、
下の枝々は人にむしられて、
中の枝にばかり花がさいている。
そのひそかな花の中に、
小さくかくれている実のような、
しとやかなこの乙女なら、
ちょうどおまえに似あっている。
さあつれて行け。
という意味をお歌に歌ってお祝いになりました。
皇子はとうから評判にも聞いていた、このきれいな人を、天皇のお許しでお妃におもらいになったお嬉しさを、同じく歌にお歌いになって、大喜びで御前をおさがりになりました。
この天皇の御代には、新羅の国の人がどっさり渡って来ました。武内宿禰はその人々を使って、方々に田へ水を取る池などを掘りました。
それから百済の国の王からは、おうま一頭、めうま一頭に阿知吉師という者をつけて献上し、また刀や大きな鏡なぞをも献じました。
天皇は百済の王に向かって、おまえのところに賢い人があるならばよこすようにとおおせになりました。王はそれでさっそく和邇吉師という学者をよこしてまいりました。
そのとき和邇は、十巻の論語という本と、千字文という一巻の本とを持って来て献上しました。また、いろいろの職工や、かじ屋の卓素という者や、機織の西素という者や、そのほか、酒を造ることのじょうずな仁番という者もいっしょに渡って来ました。
天皇はその仁番、またの名、須須許理のこしらえたお酒をめしあがりました。そして、
「ああ酔った、須須許理がかもした酒に心持よく酔った。おもしろく酔った」
という意味の歌をお歌いになりながら、お宮の外へおでましになって、河内の方へ行く道のまん中にあった大きな石を、おつえをあげてお打ちになりますと、その石がびっくりして飛びのきました。
天皇は後にとうとうおん年百三十でおかくれになりました。
それで大雀命は、かねておおせつかっていらっしゃるとおり、若郎子をお位におつけしようとなさいました。
ところがお兄上の大山守命は、天皇のおおせ残しにそむいて、若郎子を殺して自分で天下を取ろうとおかかりになり、ひそかに兵をお集めになりだしました。
大雀命は、そのことを早くもお聞きつけになったので、すぐに使いを出して、若郎子にお知らせになりました。
若郎子はそれを聞くとびっくりなすって、大急ぎでいろいろの手はずをなさいました。
皇子はまず第一に、宇治川のほとりへ、こっそりと兵をしのばせておおきになりました。それから、宇治の山の上に絹の幕を張り、とばりを立てまわして、一人のご家来を、りっぱな皇子のようにしたてて、その姿が山の下からよく見えるように、とばりの一方をあけて、その中のいすにかけさせておおきになりました。そして、そこへいろいろの家来たちを、うやうやしく出たりはいったりおさせになりました。
ですから、遠くから見ると、だれの目にも、そこには若郎子ご自身がお出むきになっているように見えました。
皇子はそれといっしょに、大山守命が下の川をおわたりになるときに、うまくお乗せするように、船をわざとたった一そうおそなえつけになり、その船の中のすのこには、さなかつらというつる草をついてべとべとの汁にしたものをいちめんに塗りつけて、人が足を踏みこむとたちまち滑りころぶようなしかけをさせてお置きになりました。
そしてご自分自身は、粗末なぬのの着物をめし、いやしい船頭のようにじょうずにお姿をお変えになって、かじを握って、その船の中に待ち受けておいでになりました。
すると大山守命は、おひきつれになった兵士を、こっそりそこいらへ隠れさせておおきになり、ご自分は、よろいの上へ、さりげなく、ただのお召物をめして、お一人で川の岸へ出ておいでになりました。
するとそちらの山の上にりっぱな絹のとばりなどが張りつらねてあるのがすぐにお目にとまりました。
命はそのとばりの中にいかめしくいすにかけている人を、若郎子だと思いこんでおしまいになりました。それでさっそくその船にお乗りになって、向こうへおわたりになりかけました。
命は船頭に向かって、
「おい、あすこの山に大きなておいじしがいるという話だが、ひとつそのししをとりたいものだね。どうだ、おまえとってくれぬか」とお言いになりました。
船頭の皇子は、
「いえ、それはとてもだめでございます」とお答えになりました。
「なぜだめだ」
「あのししは、これまでいろんな人がとろうとしましたが、どうしてもとれません。ですから、いくらあなたが欲しいとおぼしめしても、とてもだめでございます」
こうお答えになるうちに、船はもはやちょうど川のまん中あたりへ来ました。すると皇子はいきなり、そこでどしんと船を傾けて、命をざんぶと川の中へ落としこんでおしまいになりました。
命はまもなく水の上へ浮き出て、顔だけ出して流され流されなさりながら、
ああわしは押し流される。
だれかすばやく船を出して、
助けに来てくれよ。
という意味をお歌いになりました。
するとそれといっしょに、さきに若郎子が隠しておおきになった兵士たちが、わあッと一度に、そちこちからかけだして来て、命を岸へ取りつかせないように、みんなで矢をつがえ構えて、追い流し追い流ししました。
ですから命はどうすることもおできにならないで、そのまま訶和羅前というところまで流れていらしって、とうとうそこでおぼれ死にに死んでおしまいになりました。
若郎子の兵士たちは、ぶくぶくと沈んだ命のお死がいを、かぎで探りあててひきあげました。
若郎子はそれをご覧になりながら、
「わしは伏せ勢の兵たちに、もう矢を射放させようか、もう射殺させようかと、いくども思い思いしたけれど、一つにはお父上のことを思いかえし、つぎには妹たちのことを思い出して、同じお一人のお父上の子、同じあの妹たちの兄でありながら、それをむざむざ殺すのはいたわしいので、とうとう矢一本射放すこともできないでしまった」
という意味をお歌いになり、そのまま大和へおひきあげになりました。
そしてお兄上のお死がいを奈良の山にお葬りになりました。
大雀命は、それでいよいよお父上のおおせのとおりに、若郎子皇子にお位におつきになることをおすすめになりました。
しかし皇子は、お父上のおあとはおあにいさまがお継ぎになるのがほんとうです。おあにいさまをさしおいてお位にのぼるなぞということは、私にはとてもできません。どうぞお許しくださいとおっしゃって、どこまでもお兄上の命のお顔をお立てになろうとなさいました。
しかし命は命で、いかなることがあっても、お父上のお言いつけにそむくことはできないとお言いとおしになり、長い間お二人でお互いに譲り合っていらっしゃいました。
そのときある海人が、天皇へ献上する物を持ってのぼって来ました。
その海人が、大雀命のところへ伺いますと、命は、それは若郎子皇子に奉れ、あの方が天皇でいらっしゃるとおっしゃって、お受けつけになりませんし、それではと言って皇子の方へうかがえば、それはお兄上の方へ献ぜよとおおせになりました。
海人はあっちへ行ったり、こっちへ来たり、それが二度や三度ではなかったので、とうとう行ったり来たりにくたびれて、しまいにはおんおん泣きだしてしまいました。そのために、「海人ではないが、自分のものをもてあまして泣く」ということわざさえできました。
お二人はそれほどまでになすって、ごめいめいにお義理をつくしていらっしゃいましたが、そのうちに、若郎子皇子がふいにお若死にをなすったので、大雀命もやむをえず、ついにお位におつきになりました。後の代から仁徳天皇とお呼び申すのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。
仁徳天皇はお位におのぼりになりますと、難波の高津の宮を皇居にお定めになり、葛城の曽都彦という人の娘の岩野媛という方を改めて皇后にお立てになりました。
天皇がまだ皇子大雀命でいらっしゃるとき、ある年摂津の日女島という島へおいでになって、そこでお酒盛をなすったことがありました。すると、たまたまその島にがんが卵をうんでおりました。皇子は、日本でがんが卵をうんだということは、これまで一度もお聞きになったことがないものですから、たいそうふしぎにおぼしめして、あとで武内宿禰を召して、
「そちは世の中にまれな長命の人であるが、いったい日本でがんが卵をうんだという話を聞いたことがあるか」とこういう意味を歌に歌っておたずねになりました。
宿禰は、
「なるほど、それはごもっとものおたずねでございます。私もこれほど長生きをいたしておりますが、今日まで、かつてそういうためしを聞きましたことがございません」と、同じように歌に歌って、こうお答え申しあげた後、おそばにあったお琴をお借り申して、
「これはきっと、あなたさまがついに天下をお治めになるというめでたい先ぶれに相違ございません」と、こういう意味の歌をお琴をひいて歌いました。皇子はそのとおり、十五人もいらしったごきょうだいの中から、しまいにお父上の天皇のおあとをお継ぎになりました。
ご即位になった後、天皇は、あるとき、高い山におのぼりになって四方の村々をお見しらべになりました。そしてうちしおれておおせになりました。
「見わたすところ、どの村々もただひっそりして、家々からちっとも煙があがっていない。これではいたるところ、人民たちが炊いて食べる物がないほど貧窮しているらしい。どうかこれから三年の間は、しもじもから、いっさい租税をとるな。またすべての働きに使うのを許してやれ」とおおせになりました。
それでそのまる三年の間というものは、宮中へはどこからも何一つお納物をしないので、天皇もそれはそれはひどいご不自由をなさいました。たとえばお宮が破れこわれても、お手もとにはそれをおつくろいになるご費用もおありになりませんでした。しかし天皇はそれでも寸分もおいといにならないで、雨がひどく降るたんびには、おへやの中へおけをひき入れて、ざあざあと漏り入る雨もれをお受けになり、ご自分自身はしずくのおちないところをお見つけになって、御座所を移し移ししておしのぎになりました。
それから三年の後に、再び山にのぼってご覧になりますと、こんどはせんとはすっかりうって変わって、お目の及ぶ限り、どの村々にも煙がいっぱい、勢いよく立ちのぼっておりました。天皇はそれをご覧になって、みなの者も、もうすっかりゆたかになったとおっしゃって、ようやくご安心なさいました。そして、そこではじめて租税や夫役をおおせつけになりました。
すると人民は、もう十分にたくわえもできていましたので、お納物をするにも、使い働きにあがるのにも、それこそ楽々とご用を承ることができました。
天皇はしもじもに対して、これほどまでに思いやりの深い方でいらっしゃいました。ですから後の代からも永くお慕い申しあげてそのご一代を聖帝の御代とお呼び申しております。
この天皇の皇后でいらしった岩野媛は、それはそれは、たいへんにごしっとのはげしいお方で、ちょっとのことにも、じきに足ずりをして、火がついたようにお騒ぎたてになりました。それですから、宮中に召し使われている婦人たちは、天皇のおへやなぞへは、うっかりはいることもできませんでした。
あるとき天皇はそのころ吉備といっていた、今の備前、備中地方の、黒崎というところに、海部直という者の子で、黒媛というたいそうきりょうのよい娘がいるとお聞きになり、すぐに召しのぼせて宮中でお召し使いになりました。
ところが皇后がことごとにつけて、あまりにねたみおいじめになるものですから、黒媛はたまりかねてとうとうお宮を逃げ出しておうちへ帰ってしまいました。
そのとき天皇は、高殿にお上りになって、その黒媛の乗っている船が難波の港を出て行くのをご覧になりながら、
かわいそうに、あそこに黒媛がかえって行く。
あの沖に、たくさんの小船にまじって、あの女の船が出て行くよ。
とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
すると皇后は、そのことをお聞きになって、ひどく怒っておしまいになり、すぐに人をやって、黒媛をむりやりに船からひきおろさせて、はるかな吉備の国まで、わざと歩いておかえしになりました。
天皇はその後も、黒媛のことをしじゅうあわれに思い思いお暮らしになっていました。そんなわけで、天皇はついにある日、淡路島を見に行くとおっしゃって皇后のお手前をおつくろいになり、いったんその島へいらしったうえ、そこから、黒媛をたずねて、こっそり吉備まで、おくだりになりました。
黒媛は天皇を山方というところへおつれ申しました。そして、召し上がり物にあつものをこしらえてさしあげようと思いまして、あおなをつみに出ました。すると天皇もいっしょに出てご覧になり、たいそうお興深くおぼしめして、そのお心持をお歌にお歌いになりました。
天皇がいよいよお立ちになるときには、黒媛もお別れの歌を歌いました。媛は天皇がわざわざそんなになすって、隠れ隠れてまでおたずねくだすったもったいなさを、一生お忘れ申すことができませんでした。
皇后はその後、ある宴会をおもよおしになるについて、そのお酒をおつぎになる御綱柏というかしわの葉をとりに、わざわざ紀伊国までお出かけになったことがありました。
そのおるすの間、天皇のおそばには八田若郎女という女官がお仕え申しておりました。
皇后はまもなく御綱柏の葉をお船につんで、難波へ向かって帰っていらっしゃいました。そのお途中で、お供の中のある女たちの乗っている船が、皇后のお船におくれて行き行きするうちに、難波の大渡という海まで来ますと、向こうから一そうの船が来かかりました。その中には、高津のお宮のお飲み水を取る役所で働いていた、吉備の生まれの、ある身分の低い仕丁で、おいとまをいただいておうちへ帰るのが、乗り合わせておりました。その者が船のすれちがいに、
「天皇さまは、このごろ八田若郎女がすっかりお気に入りで、それはそれはたいそうごちょう愛になっているよ」としゃべって行きました。それを聞いた女どもはわざわざ大急ぎで皇后のお船に追いついて、そのことを皇后のお耳に入れました。
そうすると、例のご気性の皇后は、たちまちじりじりなすって、せっかくそこまで持っておかえりになった御綱柏の葉を、すっかり海へ投げすてておしまいになりました。それからまもなく船はこちらへ帰りつきましたが、皇后は若郎女のことをお考えになればなるほどおくやしくて、そのお腹立ちまぎれに、港へおつけにならないで、ずんずん船を堀江へお入れになり、そこから淀川をのぼって山城まで行っておしまいになりました。
その時皇后は、
「私はあんまりにくらしくてたまらないので、こんなにあてもなく山城の川をのぼって来たものの、思えばやっぱり天皇のおそばがなつかしい。今この目の前の川べりには、鳥葉樹がはえている。その木の下には、茂った、広葉のつばきがてかてかとまっかに咲いている。ああ、あの花のように輝きに充ち、あの広葉のようにお心広く、おやさしくいらっしゃる天皇を、どうして私はおしたわしく思わないでいられよう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
しかしそれかといってこのまま急にお宮へお帰りになるのも少しいまいましくおぼしめすので、とうとう船からおあがりになって、大和の方へおまわりになりました。
そのときにも皇后は、
「私はとうとう山城川をのぼり、奈良や小楯をも通りすぎて、こんなにあちこちさまよってはいるけれど、それもどこをひとつ見たいのでもない。見たいのは高津のお宮よりほかにはなんにもない」という意味をお歌いになりました。
それからまた山城へひきかえして、筒木というところへおいでになり、そこに住まっている朝鮮の帰化人の奴里能美という者のおうちへおとどまりになりました。
天皇はすべてのことをお聞きになりますと、鳥山という舎人に向かって、
「おまえ早く行って会ってこい」という意味をお歌でおっしゃって、皇后のところへおつかわしになりました。そのつぎには、丸邇臣口子という者をお召しになって、
「皇后はあんなにいつまでもすねて、お宮へもかえって来ないけれど、しかし心の中ではわしのことを思っているに相違ない。二人の間であるものを、そんなに意地を張らないでもよいであろうに」という意味を二つのお歌にお歌いになって、また改めて口子をお迎えにおやりになりました。
お使いの口子は、奴里能美のおうちへ着きますと、天皇のそのお歌をかたときも早く皇后に申しあげようと思いまして、御座所のお庭先へうかがいました。
そのときにちょうどひどい大雨がざあざあ降っておりました。口子はその雨の中をもいとわず、皇后のおへやの前の地びたへ平伏しますと、皇后は、つんとして、いきなり後ろの戸口の方へ立って行っておしまいになりました。口子は怖る怖るそちらがわにまわって平伏しました。そうすると皇后はまたついと前の方の戸口へ来ておしまいになりました。口子はあっちへ行ったりこっちへ来たりして土の上にひざまずいているうちに、雨はいよいよどしゃぶりに降りつのって、そのたまり水が腰まで浸すほどになりました。口子は赤いひものついた、あい染めの上着を着ておりましたが、そのひもがびしょびしょになって赤い色がすっかり流れ出したので、しまいには青い着物もまっかに染まってしまいました。
そのとき皇后のおそばには、口子の妹の口媛という者がお仕え申しておりました。口媛はおにいさまのそのありさまを見て、
「まあおかわいそうに、あんなにまでしておものを申しあげようとしているのに、見ている私には涙がこぼれてくる」
という意味を歌に歌いました。
皇后はそれをお聞きになって、
「兄とはだれのことか」とおたずねになりました。
「さっきから、あすこに、水の中にひれ伏しておりますのが私の兄の口子でございます」と、口媛は涙をおさえてお答え申しました。
口子はそのあとで、口媛と奴里能美の二人に相談して、これはどうしても天皇にこちらへいらしっていただくよりほかには手だてがあるまいと、こう話を決めました。そこで口子は急いでお宮へかえって申しあげました。
「まいりまして、すっかりわけをお聞き申しますと、皇后さまがあちらへお出向きになりましたのは、奴里能美のうちに珍しい虫を飼っておりますので、ただそれをご覧になるためにおでかけになりましたのでございます。そのほかにはけっしてなんのわけもおありにはなりません。その虫と申しますのは、はじめははう虫でいますのが、つぎには卵になり、またそのつぎには飛ぶ虫になりまして、順々に三度姿をかえる、きたいな虫だそうでございます」と、口子は子供でも心得ているかいこのことを、わざと珍しそうに、じょうずにこう申しあげました。
すると天皇は、
「そうか、そんなおもしろい虫がいるなら、わしも見に行こう」とおっしゃって、すぐにお宮をお出ましになり、奴里能美のおうちへ行幸になりました。
奴里能美は、口子が申しあげたとおりの三とおりの虫を、前もって皇后に献上しておきました。
天皇は皇后のおへやの戸の前にお立ちになって、
「そなたがいつまでも怒ったりしているので、とうとうみんながここまで出て来なければならなくなった。もうたいていにしてお帰りなさい」とお歌いになり、まもなくおともどもに難波のお宮へご還幸になりました。
天皇はそれといっしょに、八田若郎女においとまをおつかわしになりました。しかしそのかわりには、郎女の名まえをいつまでも伝え残すために、八田部という部族をおこしらえになりました。
それからあるとき天皇は、女鳥王という、あるお血筋の近い方を宮中にお召しかかえになろうとして、弟さまの速総別王をお使いにお立てになりました。
王はさっそくいらしって、そのおぼしめしをお伝えになりますと、女鳥王はかぶりをふって、
「いえいえ私は宮中へはお仕え申したくございません。皇后さまがあんなにごしっと深くいらっしゃるので、八田若郎女だってご奉公ができないでさがってしまいましたではございませんか。それよりもこんな私でございますが、どうぞあなたのお嫁にしてくださいまし」とお頼みになりました。
それで王はその女鳥王をお嫁になさいました。そして天皇に対しては、いつまでもご返事を申しあげないままでいらっしゃいました。
すると天皇は、しまいにご自分で女鳥王のおうちへお出かけになり、戸口のしきいの上にお立ちになってのぞいてご覧になりますと、王はちょうど中でお機を織っていらっしゃいました。
天皇は、
「それはだれの着物を織っているのか」とお歌に歌ってお聞きになりました。すると女鳥王もやはりお歌で、
「これは速総別王にお着せ申しますのでございます」とお答えになりました。
天皇はそれをお聞きになって、二人のことをすっかりおさとりになり、そのままお宮へおかえりになりました。
女鳥王はそのあとで、まもなく速総別王が出ていらっしゃいますと、
「もし。あなたさまよ。ひばりでさえもどんどん大空へかけのぼるではございませんか。あなたはお名まえもたかの中のはやぶさと同じでいらっしゃるのに、さあ早くささぎをとり殺しておしまいなさい」とこういう意味をお歌いになりました。それはいうまでもなく、天皇のお名が大雀命なので、それをささぎにかよわせて、一ときも早く天皇をお殺し申してご自分でお位におつきになるようにと、怖ろしい入れぢえをなすったのでした。
そうすると、そのお歌のことが、いつのまにか天皇のお耳にはいりました。天皇はすぐに兵をあつめて速総別王を殺しにおつかわしになりました。
速総別王はそれと感づくと、びっくりして、女鳥王といっしょにすばやく大和へ逃げ出しておしまいになりました。そのお途中、倉橋山という険しい山をお越えになるときに、かよわい女鳥王はたいそうご難渋をなすって、夫の王のお手にすがりすがりして、やっと上までお上りになりました。
お二人はそこからさらに同じ大和の曾爾というところまでいらっしゃいますと、天皇の兵がそこまで追いついて、お二人を刺し殺してしまいました。
そのとき軍勢を率いて来たのは山辺大楯連というつわものでした。連は女鳥王のお死がいのお手首に、りっぱなお腕飾りがついているのを見て、さっそくそれをはぎ取って、自分の家内に持ってかえってやりました。
そのうちに宮中にあるご宴会があって、臣下の者の妻女たちが、おおぜいお召しにあずかりました。すると大楯連の妻は、女鳥王のお腕飾りを得意らしく手首に飾ってまいりました。皇后はそれらの女たちへ、お手ずから、お酒を盛るかしわの葉をおくだしになりました。みんなはかわるがわる御前へ出て、それをいただいてさがりました。
皇后はそのときに、ふと、連の妻の腕飾りにお目がとまりました。するとそれはかねてお見覚えのある女鳥王のお持物でしたので皇后はにわかにお顔色をお変えになり、この女にばかりはかしわの葉をおくだしにならないで、そのまますぐにご宴席から追い出しておしまいになりました。そしてさっそく夫の連をお呼びつけになって、
「そちは人の腕飾りをぬすんで来て家内にやったろう。あの速総別と女鳥の二人は、天皇に対して怖ろしい大罪を犯そうとしたのだから、かれたちが殺されたのはもとよりあたりまえである。しかしそちなぞからいえば、二人とも目上の王たちではないか。その人が身につけている物を、死んでまだ膚のあたたかいうちにはぎとって、それをおのれの妻に与えるなぞと、まあ、よくもそんなひどいことができたね」とおっしゃって、ぐんぐんおいじめつけになったうえ、ようしゃなくすぐ死刑に行なわせておしまいになりました。
この天皇の御代に、兎寸川というある川の西に、大きな大きな大木が一本立っておりました。いつも朝日がさすたんびに、その木の影が淡路の島までとどき、夕日が当たると、河内の高安山よりももっと上まで影がさしました。
土地の者はその木を切って船をこしらえました。するとそれはそれはたいそう早く走れる船ができました。みんなその船に「枯野」という名前をつけました。そして朝晩それに乗って、淡路島のわき出るきれいな水をくんで来ては、それを宮中のお召し料にさしあげておりました。
後にみんなは、その船が古びこわれたのを燃やして塩を焼き、その焼け残った木で琴を作りました。その琴をひきますと、音が遠く七つの村々まで響いたということです。
天皇はついにおん年八十三でおかくれになりました。
仁徳天皇には皇子が五人、皇女が一人おありになりました。その中で伊邪本別、水歯別、若子宿禰のお三方がつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。
いちばんのお兄上の伊邪本別皇子は、お父上の亡きおあとをおつぎになって、同じ難波のお宮で、履仲天皇としてお位におつきになりました。
そのご即位のお祝いのときに、天皇はお酒をどっさり召しあがって、ひどくお酔いになったままおやすみになりました。
すると、じき下の弟さまの中津王が、それをしおに天皇をお殺し申してお位を取ろうとおぼしめして、いきなりお宮へ火をおつけになりました。火の手は、たちまちぼうぼうと四方へ燃え広がりました。お宮じゅうの者はふいをくって大あわてにあわて騒ぎました。
天皇は、それでもまだ前後もなくおよっていらっしゃいました。それを阿知直という者が、すばやくお抱え申しあげ、むりやりにうまにお乗せ申して、大和へ向かって逃げ出して行きました。
お酔いつぶれになっていた天皇は、河内の多遅比野というところまでいらしったとき、やっとおうまの上でお目ざめになり、
「ここはどこか」とおたずねになりました。阿知直は、
「中津王がお宮へ火をお放ちになりましたので、ひとまず大和の方へお供をしてまいりますところでございます」とお答え申しました。
天皇はそれをお聞きになって、はじめてびっくりなさり、
「ああ、こんな多遅比の野の中に寝るのだとわかっていたら、夜風を防ぐたてごもなりと持って来ようものを」
と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。
それから埴生坂という坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波の方をふりかえってご覧になりますと、お宮の火はまだ炎々とまっかに燃え立っておりました。天皇は、
「ああ、あんなに多くの家が燃えている。わが妃のいるお宮も、あの中に焼けているのか」という意味をお歌いになりました。
それから同じ河内の大坂という山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女が通りかかりました。その女に道をおたずねになりますと、女は、
「この山の上には、戦道具を持った人たちがおおぜいで道をふさいでおります。大和の方へおいでになりますのなら、当麻道からおまわりになりましたほうがよろしゅうございましょう」と申しあげました。
天皇はその女の言うとおりになすって、ご無事に大和へおはいりになり、石上の神宮へお着きになって、仮にそこへおとどまりになりました。
すると二ばんめの弟さまの水歯別王が、その神宮へおうかがいになって、天皇におめみえをしようとなさいました。天皇はおそばの者をもって、
「そちもきっと中津王と腹を合わせているのであろう。目どおりは許されない」とおおせになりました。王は、
「いえいえ私はそんなまちがった心は持っておりません。けっして中津王なぞと同腹ではございません」とお言いになりました。天皇は、
「それならば、これから難波へかえって、中津王を討ちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。
水歯別王は、大急ぎでこちらへおかえりになりました。そして中津王のおそばに仕えている、曾婆加里というつわものをお召しになって、
「もしそちがわしの言うことを聞いてくれるなら、わしはまもなく天皇になって、そちを大臣にひきあげてやる。どうだ、そうして二人で天下を治めようではないか」とじょうずにおだましかけになりました。すると曾婆加里は大喜びで、
「あなたのおおせなら、どんなことでもいたします」
と申しあげました。皇子はその曾婆加里にさまざまのお品物をおくだしになったうえ、
「それでは、そちが仕えているあの中津王を殺してまいれ」とお言いつけになりました。曾婆加里は、
「かしこまりました」と、ぞうさもなくおひき受けして飛んでかえり、王がかわやにおはいりになろうとするところを待ち受けて、一刺しに刺し殺してしまいました。
水歯別王は、曾婆加里とごいっしょに、すぐに大和へ向かってお立ちになりました。その途中、例の大坂の山の下までおいでになったとき、命はつくづくお考えになりました。
「この曾婆加里めは、私のためには大きな手柄を立てたやつではあるが、かれ一人からいえば、主人を殺した大悪人である。こんなやつをこのままおくと、さきざきどんな怖ろしいことをしだすかわからない。今のうちに手早くかたづけてしまってやろう。しかし、手柄だけはどこまでも賞めておいてやらないと、これから後、人が私を信じてくれなくなる」
こうお思いになって急にその手だてをお考えさだめになりました。それで曾婆加里に向かって、
「今晩はこの村へとまることにしよう。そしてそちに大臣の位をさずけたうえ、あすあちらへおうかがいをしよう」とおっしゃって、にわかにそこへ仮のお宮をおつくりになりました。そしてさかんなご宴会をお開きになって、そのお席で曾婆加里を大臣の位におつけになり、すべての役人たちに言いつけて礼拝をおさせになりました。
曾婆加里はこれでいよいよ思いがかなったと言って大得意になって喜びました。水歯別王は、
「それでは改めて、大臣のおまえと同じさかずきで飲み合おう」とおっしゃりながら、わざと人の顔よりも大きなさかずきへなみなみとおつがせになりました。そして、まずご自分で一口めしあがった後、曾婆加里におくだしになりました。曾婆加里はそれをいただいて、がぶがぶと飲みはじめました。
王は曾婆加里の目顔がそのさかずきで隠れるといっしょに、かねてむしろの下にかくしておおきになった剣を抜き放して、あッというまに曾婆加里の首を切り落としておしまいになりました。
それからあくる日そこをお立ちになり、大和の遠飛鳥という村までおいでになって、そこへまた一晩おとまりになったうえ、けがれ払いのお祈りをなすって、そのあくる日石上の神宮へおうかがいになりました。そしておおせつけのとおり、中津王を平らげてまいりましたとご奏上になりました。
天皇はそれではじめて王を御前へお通しになりました。それから阿知直に対しても、ごほうびに蔵の司という役におつけになり、たいそうな田地をもおくだしになりました。
天皇は後に大和の若桜宮にお移りになり、しまいにおん年六十四でおかくれになりました。そのおあとは、弟さまの水歯別王がお継ぎになりました。後に反正天皇とお呼び申すのがこの天皇のおんことです。
天皇はお身のたけが九尺二寸五分、お歯の長さが一寸、幅が二分おありになりました。そのお歯は上下とも同じようによくおそろいになって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内の多遅比の柴垣宮で、政をおとりになり、おん年六十でおかくれになりました。
反正天皇のおあとには、弟さまの若子宿禰王が允恭天皇としてお位におつきになり、大和の遠飛鳥宮へお移りになりました。
天皇は、もとからある不治のご病気がおありになりましたので、このからだでは位にのぼることはできないとおっしゃって、はじめには固くご辞退になりました。しかし、皇后やすべての役人がしいておねがい申すので、やむなくご即位になったのでした。
するとまもなく新羅国から、八十一そうの船で貢物を献じて来ました。そのお使いにわたって来た金波鎮、漢起武という二人の者が、どちらともたいそう医薬のことに通じておりまして、天皇の永い間のご病気を、たちまちおなおし申しあげました。そのために天皇はついにおん年七十八までお生きのびになりました。
天皇は日本じゅうの多くの部族の中で、めいめいいいかげんなかってな姓を名のっているものが多いのをお嘆きになり、大和のある村へ玖訂瓮といって、にえ湯のたぎっているかまをおすえになって、日本じゅうのすべての氏姓を正しくお定めになりました。そのにえ湯の中へ一人一人手を入れさせますと、正直にほんとうの姓を名のっている者は、その手がどうにもなりませんが、偽りを申し立てているものは、たちまち手が焼けただれてしまうので、いちいちうそとほんとうとを見わけることができました。
天皇がおかくれになったあとにはいちばん上の皇子の、木梨軽皇子がお位におつきになることにきまっておりました。ところが皇子はご即位になるまえに、お身持ちの上について、ある言うに言われないまちがいごとをなすったので、朝廷のすべての役人やしもじもの人民たちがみんな皇子をおいとい申して、弟さまの穴穂王のほうへついてしまいました。
軽皇子はこれでは、うっかりしていると、穴穂王方からどんなことをしむけるかもわからないとお怖れになり、大前宿禰、小前宿禰という、きょうだい二人の大臣のうちへお逃げこみになりました。そしてさっそくいくさ道具をおととのえになり、軽矢といって、矢の根を銅でこしらえた矢などをも、どっさりこしらえて、待ちかまえていらっしゃいました。
それに対して、穴穂王のほうでもぬからず戦の手配りをなさいました。こちらでも穴穂矢といって、後の代の矢と同じように鉄の矢じりのついた矢を、どんどんおこしらえになりました。そしてまもなく王ご自身が軍務をおひきつれになって、大前、小前の家をお攻め囲みになりました。
王はちょうどそのとき急に降り出したひょうの中を、まっ先に突進して、門前へ押しよせていらっしゃいました。
「さあ、みんなもわしのとおり進んで来い。ひょうの雨は今にやむ。そのひょうのやむように、すべてを片づけてしまうのだ。さあ来い来い」という意味をお歌いになって、味方の兵をお招きになりました。
すると大前、小前の宿禰は、手をあげひざをたたいて、歌い踊りながら出て来ました。
「何をそんなにお騒ぎになる。宮人のはかまのすそのひもについた小さな鈴、たとえばその鈴が落ちたほどの小さなことに、宮人も村の人も、そんなに騒ぐにはおよびますまい」
こういう意味の歌を歌いながら穴穂王のご前に出て来て、
「もしあなたさま、軽皇子さまならわざわざお攻めになりますには及びません。ご同腹のお兄上をお攻めになっては人が笑います。皇子さまは私がめしとってさし出します」と申しあげました。
それで穴穂王は囲みを解いて、ひきあげて待っておいでになりますと、二人の宿禰は、ちゃんと軽皇子をおひきたて申してまいりました。
軽皇子には、軽大郎女とおっしゃるたいそう仲のよいご同腹のお妹さまがおありになりました。大郎女は世にまれなお美しい方で、そのきれいなおからだの光がお召物までも通して光っていたほどでしたので、またの名を衣通郎女と呼ばれていらっしゃいました。
穴穂王の手にお渡されになった軽皇子は、その仲のよい大郎女のお嘆きを思いやって、
「ああ郎女よ。ひどく泣くと人が聞いて笑いそしる。羽狹の山のやまばとのように、こっそりと忍び泣きに泣くがよい」という意味の歌をお歌いになりました。
穴穂王は、軽皇子を、そのまま伊予へ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女は、
「どうぞ浜べをお通りになっても、かきがらをお踏みになって、けがをなさらないように、よく気をつけてお歩きくださいまし」という意味の歌を、泣き泣きお兄上にお捧げになりました。
大郎女はそのおあとでも、お兄上のことばかり案じつづけていらっしゃいましたが、ついにたまりかねてはるばる伊予までおあとを追っていらっしゃいました。
軽皇子はそれはそれはお喜びになって、大郎女のお手をとりながら、
「ほんとうによく来てくれた。鏡のように輝き、玉のように光っている、きれいなおまえがいればこそ、大和へも帰りたいともだえていたけれど、おまえがここにいてくれれば、大和もうちもなんであろう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
まもなくお二人は、その土地で自殺しておしまいになりました。
穴穂王は、おあにいさまの軽皇子を島流しにおしになった後、第二十代の安康天皇としてお立ちになり、大和の石上の穴穂宮へおひき移りになりました。
天皇は弟さまの大長谷皇子のために、仁徳天皇の皇子で、ちょうど大おじさまにおあたりになる大日下王とおっしゃる方のお妹さまの、若日下王という方を、お嫁にもらおうとお思いになりました。
それで根臣という者を大日下王のところへおつかわしになって、そのおぼしめしをお伝えになりました。大日下王はそれをお聞きになりますと、四たび礼拝をなすったうえ、
「実は私も、万一そういうご大命がくだるかもわからないと思いましたので、妹は、ふだん、外へも出さないようにしていました。まことにおそれ多いことながら、それではおおせのままにさしあげますでございましょう」とたいそう喜んでお受けをなさいました。しかしただ言葉だけでご返事を申しあげたのでは失礼だとお考えになって、天皇へお礼のお印に、押木の玉かずらというりっぱな髪飾りを、若日下王から献上品としておことづけになりました。
するとお使いの根臣は、乱暴にも、その玉かずらを途中で自分が盗み取ったうえ、天皇に向かっては、
「おおせをお伝えいたしましたが、王はお聞き入れがございません。おれの妹ともあるものを、あんなやつの敷物にやれるかとおっしゃって、それはそれは、刀の柄に手をかけてご立腹になりました」
こう言って、まるで根のないことをこしらえて、ひどいざん言をしました。
天皇は非常にお怒りになって、すぐに人を派せて大日下王を殺しておしまいになりました。そして王のお妃の長田大郎女をめしいれて自分の皇后になさいました。
あるとき天皇は、お昼寝をなさろうとして、お寝床におよこたわりになりながら、おそばにいらしった皇后に、
「そちはなにか心の中に思っていることはないか」とおたずねになりました。皇后は、
「いいえけっしてそんなはずはございません。これほどおてあついお情けをいただいておりますのに、このうえ何を思いましょう」とお答えになりました。
そのとき、ちょうど御殿の下には、皇后が先の大日下王との間におもうけになった、目弱王とおっしゃる、七つにおなりになるお子さまが、ひとりで遊んでおいでになりました。
天皇はそれとはご存じないものですから、ついうっかりと、
「わしはただ一つ、いつも気になってならないことがある。それは目弱が大きくなった後に、あれの父はわしが殺したのだと聞くと、わしに復しゅうをしはしないだろうかと、それが心配である」とこうおおせになりました。
目弱王は下でそれをお聞きになって、それではお父上を殺したのは天皇であったのかとびっくりなさいました。
そのうちに、まもなく天皇はぐっすりお眠りになりました。目弱王はそこをねらってそっと御殿へおあがりになり、おまくらもとにあった太刀を抜き放して、いきなり天皇のお首をお切りになりました。そしてすぐにお宮を抜け出して、都夫良意富美という者のうちへ逃げこんでおしまいになりました。
天皇はそのままお息がお絶えになりました。お年は五十六歳でいらっしゃいました。
そのときには、弟さまの大長谷皇子は、まだ童髪をおゆいになっている一少年でおいでになりましたが、目弱王が天皇をお殺し申したとお聞きになりますと、それはそれはお憤りになって、すぐにお兄上の黒日子王のところへかけつけておいでになり、
「おあにいさま、たいへんです。天皇をお殺し申したやつがいます。どういたしましょう」とご相談をなさいました。すると、黒日子王は天皇のご同腹のおあにいさまでおありになりながら、てんで、びっくりなさらないで平気にかまえていらっしゃいました。大長谷皇子はそれをご覧になりますと、くわッとお怒りになり、
「あなたはなんという頼もしげもない人でしょう。われわれの天皇がお殺されになったのじゃありませんか。そして、それは、またあなたのおあにいさまじゃありませんか。それを平気で聞いているとは何ごとです」とおっしゃりながら、いきなりえりもとをひッつかんでひきずり出し、刀を抜くなり、一打ちに打ち殺しておしまいになりました。
皇子はそれからまたつぎのおあにいさまの白日子王のところへおいでになって、同じように、天皇がお殺されになったことをお告げになりました。白日子王は天皇のご同腹の弟さまでいらっしゃいました。それだのに、この方も同じく平気な顔をして、すましておいでになりました。皇子はまたそのおあにいさまのえり首をつかんでひきずり出して、小治田という村まで引っぱっていらっしゃいました。そしてそこへ穴を掘って、その中へまっすぐに立たせたまま、生き埋めに埋めておしまいになりました。
王はどんどん土をかけられて、腰までお埋められになったとき両方のお目の玉が飛び出して、それなり死んでおしまいになりました。
大長谷皇子はそれから軍勢をひきつれて、目弱王をかくまっている都夫良意富美の邸をおとり囲みになりました。すると、こちらでもちゃんと手くばりをして待ちかまえておりまして、それッというなり、ちょうどあしの花が飛び散るように、もうもうと矢を射出しました。
大長谷皇子は、その前から、この都夫良の娘の訶良媛という人をお嫁におもらいになることにしていらっしゃいました。皇子は今どんどん射向ける矢の中に、矛を突いてお突ッ立ちになりながら、
「都夫良よ、訶良媛はこのうちにいるか」と大声でおどなりになりました。
都夫良はそれを聞くと、急いで武器を投げすてて、皇子の御前へ出て来ました。そして八度伏し拝んで申しあげました。
「娘の訶良媛はお約束のとおり必ずあなたにさしあげます。また五か村の私の領地も、娘に添えて献上いたします。ただどうぞ、今しばらくお待ちくださいまし。私がただ今すぐに娘をさしあげかねますわけは、昔から臣下の者が皇子さま方のお宮へ逃げかくれたことは聞いておりますが、貴い皇子さまがしもじもの者のところへお逃れになったためしはかつて聞きません。私はいかに力いっぱい戦いましても、あなたにお勝ち申すことができないのは十分わきまえております。しかし、目弱王は、私ごとき者をも頼りにしてくださって、いやしい私のうちへおはいりくださっているのでございますから、私といたしましては、たとえ死んでもお見捨て申すことはできません。娘はどうぞ私が討ち死にをいたしましたあとで、おめしつれくださいまし」
こう申しあげて御前をさがり、再び戦道具を取って邸にはいって、いっしょうけんめいに戦をいたしました。
そのうちに都夫良はとうとうひどい手傷を負いました。みんなも矢だねがすっかり尽きてしまいました。それで都夫良は目弱王に向かって、
「私もこのとおりで、もはや戦を続けることができません。いかがいたしましょう」と申しあげました。
お小さな目弱王は、
「それではもうしかたがない。早く私を殺してくれ」とおっしゃいました。都夫良はおおせに従ってすぐに王をお刺し申した上、その刀で自分の首を切って死んでしまいました。
このさわぎが片づくとまもなく、ある日、大長谷皇子のところへ、近江の韓袋という者が、そちらの蚊屋野というところに、ししやしかがひじょうにたくさんおりますと申し出ました。
「そのどっさりおりますことと申しますと、群がり集まった足はちょうどすすきの原のすすきのようでございますし、群がった角は、ちょうど枯木の林のようでございます」と韓袋は申しあげました。
皇子は、ようし、とおっしゃって、履仲天皇の皇子で、ちょうどおいとこにおあたりになる、忍歯王とおっしゃるお方とお二人で、すぐに近江へおくだりになりました。お二人は蚊屋野にお着きになりますと、ごめいめいに別々の仮屋をお立てになって、その中へおとまりになりました。
そのあくる朝、忍歯王は、まだ日も上らないうちにお目ざめになりました。それでまったくなんのお気もなく、すぐにおうまにめして、大長谷皇子のお仮屋へ出かけておいでになりました。こちらでは、皇子はまだよくおよっていらっしゃいました。王は、皇子のおつきの者に向かって、
「まだお目ざめでないようだね。もう夜も明けたのだから、早くお出かけになるように申しあげよ」とおっしゃって、そのままおうまをすすめて、りょう場へお出かけになりました。
皇子のおつきの者は、皇子に向かって、
「ただ今忍歯王がおいでになりまして、これこれとおっしゃいました。なんだかおっしゃることが変ではございませんか。けっしてごゆだんをなさいますな。お身固めも十分になすってお出かけなさいますように」と悪く疑ってこう申しあげました。それで皇子も、わざわざお召物の下へよろいをお着こみになりました。そして弓矢を取っておうまを召すなり、大急ぎで王のあとを追ってお出かけになりました。
皇子はまもなく王に追いついて、お二人でうまを並べてお進みになりました。そのうちに皇子はすきまをねらって、さっと矢をおつがえになり、罪もない忍歯王を、だしぬけに射落としておしまいになりました。そして、なお飽き足らずに、そのおからだをずたずたに切り刻んで、それをうまの飼葉を入れるおけの中へ投げ入れて、土の中へ埋めておしまいになりました。
忍歯王には意富祁王、袁祁王というお二人のお子さまがいらっしゃいました。
お二人はお父上がお殺されになったとお聞きになりまして、それでは自分たちも、うかうかしてはいられないとおぼしめして、急いで大和をお逃げになりました。
そのお途中でお二人が、山城の苅羽井というところでおべんとうをめしあがっておりますと、そこへ、ちょう役あがりの印に、顔へ入墨をされている、一人の老人が出て来て、お二人が食べかけていらっしゃるおべんとうを奪い取りました。お二人は、
「そんなものは惜しくもないけれど、いったいおまえは何者だ」とおたしなめになりました。
「おれは山城でお上のししを飼っているしし飼だ」とその悪者の老人は言いました。
お二人は、それから河内の玖須婆川という川をお渡りになり、とうとう播磨まで逃げのびていらっしゃいました。そして固くご身分をかくして、志自牟という者のうちへ下男におやとわれになり、いやしいうし飼、うま飼の仕事をして、お命をつないでいらっしゃいました。
大長谷皇子は、まもなく雄略天皇としてご即位になり、大和の朝倉宮にお移りになりました。皇后には、例の大日下王のお妹さまの若日下王をお立てになりました。
その若日下王が、まだ河内の日下というところにいらしったときに、ある日天皇は、大和からお近道をおとりになり、日下の直越という峠をお越えになって、王のところへおいでになったことがありました。
そのとき天皇は、山の上から四方の村々をお見わたしになりますと、向こうの方に、一軒、むねにかつお木をとりつけているうちがありました。かつお木というのは、天皇のお宮か、神さまのお社かでなければつけないはずの、かつおのような形をした、むねの飾りです。
天皇はそれをご覧になって、
「あの家はだれの家か」とおたずねになりました。
「あれは志幾の大県主のうちでございます」と、お供の者がお答え申しました。天皇は、
「無礼なやつめ。おのれが家をわしのお宮に似せて作っている」とお怒りになり、
「行ってあの家を焼きはらって来い」とおっしゃって、すぐに人をおつかわしになりました。
すると大県主はすっかりおそれいってしまいました。
「実は、おろかな私どものことでございますので、ついなんにも存じませんで、うっかりこしらえましたものでございます」と言って、縮みあがってお申しわけをしました。そして、そのおわびの印に、一ぴきの白いぬにぬのを着せ、鈴の飾りをつけて、それを身内の者の一人の、腰佩という者に綱で引かせて、天皇に献上いたしました。
それで天皇も、そのうちをお焼きはらいになることだけは許しておやりになり、そのまま若日下王のおうちへお着きになりました。
天皇はお供の者をもって、
「これはただいま途中で手に入れたいぬだ。珍しいものだから進物にする」とおっしゃって、さっきの白いぬを若日下王におくだしになりました。しかし王は、
「きょう天皇は、お日さまをお背中になすっておこしになりました。これではお日さまに対しておそれおおうございますので、きょうはお目にかかりません。そのうち、私のほうからすぐにまかり出まして、お宮へお仕え申しあげます」
こう言って、おことわりをなさいました。
天皇はお帰りのお途中、山の上にお立ちになって、若日下王のことをお慕いになるお歌をおよみになり、それを王へお送りになりました。王はそれからまもなくお宮へおあがりになりました。
天皇はあるとき、大和の美和川のほとりへお出ましになりました。そうすると、一人の娘が、その川で着物を洗っておりました。それはほんとうに美しい、かわいらしい娘でした。天皇は、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
「私は引田郎の赤猪子と申します者でございます」と娘はお答え申しました。天皇は、
「それでは、いずれわしのお宮へ召し使ってやるから待っていよ」とおっしゃって、そのままお通りすぎになりました。
赤猪子はたいそう喜んで、それなりお嫁にも行かないで、一心にご奉公を待っておりました。しかし宮中からは、何十年たっても、とうとうお召しがありませんでした。そのうちに、もうひどいおばあさんになってしまいました。赤猪子は、
「これではいよいよお宮へご奉公にあがることはできなくなった。しかしこんなになるまで、いっしょうけんめいにおめしを待っていたことだけは、いちおう申しあげて来たい」こう思って、ある日、いろいろの鳥やお魚や野菜ものをおみやげに持って、お宮へおうかがいいたしました。すると天皇は、
「そちはなんという老婆だ。どういうことでまいったのか」とおたずねになりました。赤猪子は、
「私は、いついつの年のこれこれの月に、これこれこういうおおせをこうむりましたものでございます。こんにちまでお召しをお待ち申してとうとう何十年という年を過ごしました。もはやこんな老婆になりましたので、もとよりご奉公には堪えられませんが、ただ私がどこまでもおおせを守っておりましたことだけを申しあげたいと存じましてわざわざおうかがいいたしました」と申しあげました。天皇はそれをお聞きになって、びっくりなさいました。
「私はそのことは、もうとっくに忘れてしまっていた。これはこれはすまないことをした。かわいそうに」とおっしゃって、二つのお歌をお歌いになり、それでもって、赤猪子のどこまでも正直な心根をおほめになり、ご自分のために、とうとう一生お嫁にも行かないで過ごしたことをしみじみおあわれみになりました。赤猪子は、そのお歌を聞いて、たまりかねて泣きだしました。その涙で、赤色にすりそめた着物の袖がじとじとにぬれました。そして泣き泣き歌って、
「ああああ、これから先はだれにすがって生きて行こう。若い女の人たちは、ちょうど日下の入江のはすの花のように輝き誇っている。私もそのとおりの若さでいたら、すぐにもお宮で召し使っていただけようものを」と、こういう意味をお答え申しあげました。
天皇はかずかずのお品物をおくだしになり、そのままおうちへおかえしになりました。
またあるとき天皇は、大和の阿岐豆野という野へご猟においでになりました。そして猟場でおいすにおかけになっておりますと、一ぴきのあぶが飛んで来て、お腕にくいつきました。すると一ぴきのとんぼが出て来て、たちまちそのあぶを食い殺して飛んで行きました。
天皇はこれをご覧になって、たいそうお喜びになり、
「なるほどこんなふうに天皇のことを思う虫だから、それでこの日本のことをあきつ島というのであろう」という意味をお歌に歌っておほめになりました。とんぼのことを昔の言葉ではあきつと呼んでおりました。
そのつぎにはまた別のときに、大和の葛城山へお上りになりました。そうすると、ふいに大きな大いのししが飛び出して来ました。天皇はすぐにかぶら矢をおつがえになって、ねらいをたがえず、ぴゅうとお射あてになりました。すると、ししはおそろしく怒り狂って、ううううとうなりながら飛びかかって来ました。それには、さすがの天皇もこわくおなりになって、おそばに立っていたはんのきへ、大急ぎでお逃げのぼりになり、それでもって、やっと危いところをお助かりになりました。
天皇はそのはんのきの上で、
「ああ、この木のおかげで命びろいをした。ありがたいありがたい」とおっしゃる意味を、お歌にお歌いになりました。
天皇はその後、また葛城山におのぼりになりました。そのときお供の人々は、みんな、赤いひものついた、青ずりのしょうぞくをいただいて着ておりました。
すると、向こうの山を、一人のりっぱな人がのぼって行くのがお目にとまりました。その人のお供の者たちも、やはりみんな、赤ひものついた、青ずりの着物を着ていまして、だれが見ても天皇のお行列と寸分も違いませんでした。
天皇はおどろいて、すぐに人をおつかわしになり、
「日本にはわしを除いて二人の天皇はいないはずだ。それだのに、わしと同じお供を従えて行くそちは、いったい何者だ」と、きびしくお問いつめになりました。すると向こうからも、そのおたずねと同じようなことを問いかえしました。
天皇はくわッとお怒りになり、まっ先に矢をぬいておつがえになりました。お供の者も残らず一度に矢をつがえました。そうすると、向こうでも負けていないで、みんなそろって矢をつがえました。天皇は、
「さあ、それでは名を名乗れ。お互いに名乗り合ったうえで矢を放とう」とお言い送りになりました。向こうからは、
「それではこちらの名まえもあかそう。私は悪いことにもただ一言、いいことにも一言だけお告げをくだす、葛城山の一言主神だ」とお答えがありました。天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、
「これはこれはおそれおおい、大神がご神体をお現わしになったとは思いもかけなかった」とおっしゃって、大急ぎで太刀や弓矢をはじめ、お供の者一同の青ずりの着物をもすっかりおぬがせになり、それをみんな、伏し拝んで、大神へご献上になりました。
すると大神は手を打ってお喜びになり、その献上物をすっかりお受けいれになりました。それから天皇がご還幸になるときには、大神はわざわざ山をおりて、遠く長谷の山の口までお見送りになりました。
天皇はつぎにはまたあるとき、その長谷にあるももえつきという大きな、大けやきの木の下でお酒宴をお催しになりました。
そのとき伊勢の生まれの三重采女という女官が、天皇におさかずきを捧げて、お酒をおつぎ申しました。すると、あいにく、けやきの葉が一つ、そのさかずきの中へ落ちこみました。采女はそれとも気がつかないで、なおどんどんおつぎ申しました。天皇はふと、その木の葉をご覧になりますと、たちまちむッとお怒りになって、いきなり采女をつかみ伏せておしまいになり、お刀をおぬきになって、首を切ろうとなさいました。采女は、
「あッ」と怖れちぢかんで、
「どうぞ命だけはお許しくださいまし。申しあげたいことがございます」と言いながら、つぎのような意味の、長い歌を歌いました。
「このお宮は、朝日も夕日もよくさし入る、はればれとしたよいお宮である。堅い地伏の上に立てられた、がっしりした大きなお宮である。お宮のそとには大きなけやきの木がそびえたっている。その大木の上の枝は天をおおっている。中ほどの枝は東の国においかぶさり、下の枝はそのあとの地方をすっかりおおっている。上の枝のこずえの葉は、落ちて中の枝にかかり、中の枝の落ちた葉は下の枝にふりかかる。下の枝の葉は采女が捧げたおさかずきの中へ落ち浮かんだ。
それを見ると、大昔、天地がはじめてできたときに、この世界が浮き油のように浮かんでいたときのありさまが思い出される。また、神さまが、大海のまん中へこの日本の島を作りお浮かべになった、そのときのありさまにもよく似ている。ほんとは尊くもめでたいことである。これはきっと、後の世までも話し伝えるに相違ない」
采女はこう言って、昔からの言い伝えを引いておもしろく歌いあげました。天皇はこの歌に免じて、采女の罪を許しておやりになりました。すると皇后もたいそうお喜びになって、
「この大和の高市郡の高いところに、大きく茂った広葉のつばきが咲いている。今、天皇は、そのつばきの葉と同じように、大きなお寛い、そして、その花と同じように美しくおやさしいお心で、采女をお許しくだすった。さあ、この貴い天皇にお酒をおつぎ申しあげよ。このありがたいお情けは、みんなが後の世まで永く語り伝えるであろう」と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。
それについで天皇も楽しくお歌をお歌いになり、みんなでにぎやかにお酒盛をなさいました。
采女は罪を許されたばかりでなく、そのうえに、さまざまのおくだし物をいただいて、大喜びに喜びました。
天皇はしまいに、おん年百二十四歳でおかくれになりました。
雄略天皇のおあとには、お子さまの清寧天皇がお立ちになりました。天皇はしまいまで皇后をお迎えにならず、お子さまもお一人もいらっしゃいませんでした。
ですから天皇がおかくれになると、おあとをお継ぎになるお方がいらっしゃらないので、みんなはたいそう当惑して、これまでのどの天皇かのお血筋の方をいっしょうけんめいにお探し申しました。すると、さきに大長谷皇子にお殺されになった、忍歯王のお妹さまで忍海郎女、またのお名まえを飯豊王とおっしゃる方が、大和の葛城の角刺宮というお宮においでになりました。それで、このお方にともかく一時政をおとりになっていただきました。みんなは、例の忍歯王のお子さまの意富祁、袁祁のお二人が、播磨の国でうし飼、うま飼になって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。
その後まもなく、その播磨の国へ、山部連小楯という人が国造になって行きました。するとその地方の志自牟という者が新築したおうちでお酒盛をしました。そのとき小楯をはじめ、よばれた人たちも、お酒がまわるにつれて、みんなで代わる代わる立って舞を舞いました。しまいにはかまどのそばで火をたいていたきょうだい二人の火たきの子供にも舞えと言いました。
すると弟のほうの子は、兄の子に向かって、おまえさきにお舞いと言いました。兄は弟に向かって、おまえから舞えと言いました。みんなは、そんないやしい小やっこどもが、人なみに、もっともらしくゆずり合うのをおもしろがって、やんやと笑いました。
そのうちに、とうとう兄のほうがさきに舞いました。弟はそのあとに舞い出そうとするときに、まず大声でつぎのような歌を歌って自分たちきょうだいの身の上をうちあけました。
「男らしい大きな男が、太刀のつかに赤い飾りをつけ、太刀のおには赤いきれをつけて、いかにも人目を引く姿をしていても、深くおい茂ったたけやぶの後ろにはいれば、隠れて目にも見えない」と、こう歌いだして、たけやぶという言葉を引き出した後、
「そんなたけやぶの大きなたけを割って、それを並べてこしらえた、八絃琴は、それはそれは調子がよく整って申し分がない。今から五代前の履仲天皇は、ちょうどその琴のしらべと同じように、どこまでもりっぱに天下をお治めになったお方である。その皇子に忍歯王とおっしゃる方がいらしった。みんなの人々よ、われわれ二人は、その忍歯王の子であるぞ」と歌いました。
小楯はそれを聞くとびっくりして、床からころがり落ちてしまいました。そして大あわてにあわてて、さっそくみんなを残らず追い出したうえ、意外なところでお見出し申した、意富祁、袁祁のお二人を左右のおひざにお抱え申しながら、お二人の今日までのご辛苦をお察し申しあげて、ほろほろと涙を流して泣きました。
小楯はそれから急いでみんなを集めて、仮のお宮をつくり、お二人をその中にお移し申しました。そして、すぐに大和へ早うまの使いを立てて、おんおば上の飯豊王にご注進申しあげました。飯豊王はそれをお聞きになると、大喜びにお喜びになり、すぐにお二人をお呼びのぼせになりました。
お二人は、角刺のお宮でだんだんにご成人になりました。
あるとき袁祁王は、歌がきといって、男や女がおおぜいいっしょに集まって、歌を歌いかわす催しへおでかけになりました。
そのとき菟田首という人の娘で、王がかねがねお嫁にもらおうと思っておいでになる、大魚という美しい女の人も来あわせておりました。するとそのころ、臣下の中でおそろしく幅をきかせていた志毘臣というものが、その大魚の手を取りながら、袁祁王にあてつけて、
「ああ、おかしやおかしや、お宮の屋根がゆがんでしまった」と歌いだし、そのあとの歌のむすびを王にさし向けました。王は、すぐにそれをお受けになって、
「それは大工がへただからゆがんだのだ」とお歌いになりました。すると志毘は重ねて、
「いや、どんなに王があせられても、わしがゆいめぐらした、八重のしばがきの中へははいれまい。大魚とわしとの仲をじゃますることはできまい」と歌いかけました。王はすかさず、
「潮の流れの上の、波の荒いところにしびが泳いでいる。しびのそばにはしびの妻がついている。ばかなしびよ」とお歌いになりました。
そうすると志毘はむっと怒って、
「王のゆったしばがきなぞは、いかに堅固にゆいまわしてあろうとも、おれがたちまち切り破って見せる。焼き払って見せてやる」と歌いました。王はどこまでも負けないで、
「あはは、しびよ。そちは魚だ。いかにいばっても、そちを突きに来る海人にはかなうまい。そんなにこわいものがいては悲しかろう」とお歌いになりました。
王は、そんなにして、とうとう夜があけるまで歌い争っておひきあげになりました。そして、お宮へお帰りになるとすぐに、お兄上の意富祁王とご相談なさいました。志毘はひとりでつけあがって、われわれをもまるで踏みつけている。われわれのお宮に仕えている者も、朝はお宮へ来るけれど、それからさきは昼じゅう志毘の家に集まってこびいっている。あんなやつは後々のために早く討ち亡してしまわなければいけない。志毘は今ごろは疲れて寝入っているにちがいない。門には番人もいまい、襲うのは今だとお二人でご決心になりました。そしてすぐに軍勢を集めて志毘の家をお取り囲みになり、目あての志毘を難なく切り殺しておしまいになりました。
お二人はもはや、お年の上でも十分おひとり立ちで天下をお治めになることがおできになるので、順序からいって、お兄上の意富祁王が、まず第一にご即位になるのがほんとうでした。しかし、命は弟さまに向かって、
「二人が志自牟のうちにいたときに、もしそなたが名まえを名乗らなかったら、二人ともあのままあそこに埋もれていなければならなかったはずであった。お互いにこんなになったのもみんなそなたのお手柄である。それで、私は兄に生まれてはいるけれど、どうかそなたからさきに天下を治めておくれ」とおっしゃいました。袁祁王はそのことだけはどこまでもご辞退になりましたが、お兄上がどうしてもお聞きいれにならないので、とうとうしかたなしに、第一にお位におつきになりました。後に顕宗天皇と申しあげるのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。
天皇はそれといっしょに大和の近飛鳥宮へお移りになり、石木王という方のお子さまの難波王とおっしゃる方を、皇后にお迎えになりました。
天皇は、お父上の忍歯王のご遺骨をおさがし申そうとおぼしめして、いろいろ、ご苦心をなさいました。すると、近江から一人の卑しい老婆がのぼって来て、
「王のお骨をお埋め申したところは私がちゃんと存じております。おそれながら、王には、ゆりの根のようにお重なりになったお歯がおありになりました。そのお歯をご覧になりませば、王のお骨ということはすぐにお見分けがつきます」と申しあげました。天皇はさっそく近江の蚊屋野へおくだりになって、土地の人民におおせつけになって、老婆の指す場所をお掘らせになり、たしかにお父上のご遺骨をお見出しになりました。それで蚊屋野の東の山にみささぎを作ってお葬りになり、さきに、お父上たちに猟をおすすめ申しあげた、あの韓袋の子孫をお墓守りにご任命になりました。
天皇はそれからご還御の後、さきの老婆をおめしのぼせになりまして、
「そちは大事な場所をよく見届けておいてくれた」とおほめになり、置目老媼という名をおくだしになりました。そして、とうぶんそのまま宮中へおとどめになって、おてあつくおもてなしになった後、改めてお宮の近くの村へお住ませになり、毎日一度はかならずおそばへめして、やさしくお言葉をかけておやりになりました。天皇はそのためにわざわざお宮の戸のところへ大きな鈴をおかけになり、置目をおめしになるときは、その鈴をお鳴らしになりました。
後には置目は、
「私もたいそう年をとりましたので、生まれた村へ帰りたくなりました」と申しあげました。
天皇は置目のおねがいをお許しになり、それではもうあすからそなたを見ることもできないのかとおっしゃる意味の、お別れの歌をお歌いになりながら、わざわざ見送りまでしておやりになりました。
つぎに天皇は、昔お兄上とお二人で大和からお逃げになる途中で、おべんとうを奪い取った、あのしし飼の老人をおさがし出しになって大和の飛鳥川の川原で死刑にお行ないになりました。その悪者の老人は志米須というところに住んでおりました。天皇はなおその上の刑罰として、その老人の一族の者たちのひざの筋を断ち切らせておしまいになりました。これらの者たちは、その後大和へのぼるのに、いつもびっこを引いて出て来ました。
天皇は、お父上をお殺しになった雄略天皇を、深くお恨みになりまして、せめてそのみ霊に向かって復しゅうをしようというおぼしめしから、人をやって、河内の多治比というところにある、天皇のみささぎをこわさせようとなさいました。
するとお兄上の意富祁王が、
「天皇のみささぎをこわすためなら、ほかのものをやってはいけません。私が自分で行っておぼしめしどおりこわして来ます」とご奏上になりました。天皇は、
「それではあなたがおいでになるがよい」とお許しになりました。意富祁王は急いでお出かけになりました。そしてまもなくお帰りになって、
「ちゃんとこわしてまいりました」とおっしゃいました。
しかし、そのお帰りがあんまりお早いので、天皇は変だとおぼしめし、
「いったいどんなふうにおこわしになったのです」とおたずねになりました。するとお兄上は、
「実はみささぎの土を少しだけ掘りかえしてまいりました」とお答えになりました。天皇は、それをお聞きになって、
「それはまたどういうわけでしょう。お父上の復しゅうをするのに、土を少し掘って帰られただけでは飽きたりないではありませんか。なぜみささぎをすっかりこわして来てくださらないのです」とおっしゃいました。お兄上は、
「そのおおせはいちおうごもっともです。しかし、相手の方はいくら父上のかたきとはいえ、一方はわれわれのおじであり、またわれわれの天皇のお一人でいらっしゃるお方です。私たちがただ父上のかたきということだけ考えて天皇ともある方のみささぎをこわしたとなりますと、後の世の人から必ずそしりを受けます。ただかたきはどこまでも報いねばならないので、その印に土を少し掘って来たのです。このくらいの恥を与えたのならば、後世だれにもはばかることはありますまいから」
こう言って、そのわけをお話しになりました。すると天皇も、
「なるほどそれは道理である。あなたのなさったとおりでよろしい」とおっしゃってご満足になりました。
天皇は八年の間天下をお治めになった後、おん年三十八歳でおかくれになりました。天皇はお子さまが一人もおありになりませんでした。それでおあとにはお兄上の意富祁王が仁賢天皇としてご即位になりました。
天皇は大和の石上の広高宮へお移りになり、皇后には雄略天皇のお子さまの春日大郎女とおっしゃる方をお立てになりました。
天皇のおつぎには、皇子小長谷若雀命が武烈天皇としてお位におつきになりました。そのおあとには、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古の諸天皇がつぎつぎにお位におのぼりになりました。
底本:「古事記物語」角川文庫、角川書店
1955(昭和30)年1月20日初版発行
1968(昭和43)年8月10日31版発行
1980(昭和55)年9月30日改版19刷
初出:女神の死「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年7月
天の岩屋「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年8月
八俣の大蛇「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年9月
むかでの室、へびの室「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年10月
きじのお使い「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年11月
笠沙のお宮「赤い鳥」赤い鳥社
1919(大正8)年12月
満潮の玉、干潮の玉「古事記物語上卷」赤い鳥社
1920(大正9)年12月
八咫烏「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年1月
赤い盾、黒い盾「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年2月
おしの皇子「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年3月
白い鳥「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年4月
朝鮮征伐「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年5月
赤い玉「古事記物語下卷」赤い鳥社
1920(大正9)年12月
宇治の渡し「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年6月
難波のお宮「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年7月
大鈴小鈴「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年8月
しかの群、ししの群「赤い鳥」赤い鳥社
1920(大正9)年9月
とんぼのお歌「古事記物語下卷」赤い鳥社
1920(大正9)年12月
うし飼、うま飼「古事記物語下卷」赤い鳥社
1920(大正9)年12月
※「八俣の大蛇」の初出時の表題は「赤い猪 」です。
※「八咫烏」の初出時の表題は「毒の大熊」です。
※「朝鮮征伐」の初出時の表題は「神功皇后」です。
※「白日子王」に対するルビの「しろひこのみこ」と「しらひこのみこ」の混在は、底本通りです。
入力:jupiter
校正:鈴木厚司
2001年11月19日公開
2014年8月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。