古事記物語
鈴木三重吉



女神めがみ



 世界ができたそもそものはじめ。まず天と地とができあがりますと、それといっしょにわれわれ日本人のいちばんご先祖の、天御中主神あめのみなかぬしのかみとおっしゃる神さまが、天の上の高天原たかまのはらというところへお生まれになりました。そのつぎには高皇産霊神たかみむすびのかみ神産霊神かみむすびのかみのお二方ふたかたがお生まれになりました。

 そのときには、天も地もまだしっかりかたまりきらないで、両方とも、ただ油をかしたように、とろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんでおりました。その中へ、ちょうどあしのがはえ出るように、二人の神さまがお生まれになりました。

 それからまたお二人、そのつぎには男神おがみ女神めがみとお二人ずつ、八人の神さまが、つぎつぎにお生まれになった後に、伊弉諾神いざなぎのかみ伊弉冉神いざなみのかみとおっしゃる男神女神がお生まれになりました。

 天御中主神あめのみなかぬしのかみはこのお二方の神さまをおしになって、

「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」

 とおっしゃって、りっぱなほこを一ふりおさずけになりました。

 それでお二人は、さっそく、あめ浮橋うきはしという、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいたほこでもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先はさきについた潮水しおみずが、ぽたぽたと下へおちて、それがかたまって一つの小さな島になりました。

 お二人はその島へおりていらしって、そこへ御殿ごてんをたててお住まいになりました。そして、まずいちばんさきに淡路島あわじしまをおこしらえになり、それから伊予いよ讃岐さぬき阿波あわ土佐とさとつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐おきの島、それから、そのじぶん筑紫つくしといった今の九州と、壱岐いき対島つしま佐渡さどの三つの島をお作りになりました。そして、いちばんしまいに、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、それに大日本豊秋津島おおやまととよあきつしまというお名まえをおつけになりました。

 これで、淡路の島からかぞえて、すっかりで八つの島ができました。ですからいちばんはじめには、日本のことを、大八島国おおやしまぐにび、またの名を豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにともとなえていました。

 こうして、いよいよ国ができあがったので、お二人は、こんどはおおぜいの神さまをお生みになりました。それといっしょに、風の神や、海の神や、山の神や、野の神、川の神、火の神をもお生みになりました。ところがおいたわしいことには、伊弉冉神いざなみのかみは、そのおしまいの火の神をお生みになるときに、おからだにおやけどをなすって、そのためにとうとうおかくれになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、

「ああ、わが妻の神よ、あの一人の子ゆえに、大事なおまえをなくするとは」とおっしゃって、それはそれはたいそうおなげきになりました。そして、おなみだのうちに、やっと、女神のおなきがらを、出雲いずもの国と伯耆ほうきの国とのさかいにある比婆ひばの山におほうむりになりました。

 女神は、そこから、黄泉よみの国という、死んだ人の行くまっくらな国へたっておしまいになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、そのあとで、さっそく十拳とつかつるぎという長い剣を引きぬいて、女神のわざわいのもとになった火の神を、一うちにり殺してしまいになりました。

 しかし、神のおくやしみは、そんなことではおえになるはずもありませんでした。神は、どうかしてもう一度、女神に会いたくおぼしめして、とうとうそのあとを追って、まっくらな黄泉よみの国までお出かけになりました。



 女神めがみはむろん、もうとっくに、黄泉よみの神の御殿ごてんに着いていらっしゃいました。

 すると、そこへ、夫の神が、はるばるたずねておいでになったので、女神は急いで戸口へお出迎えになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、まっくらな中から、女神をおびかけになって、

「いとしきわが妻の女神よ。おまえといっしょに作る国が、まだできあがらないでいる。どうぞもう一度帰ってくれ」とおっしゃいました。すると女神は、残念そうに、

「それならば、もっと早く迎えにいらしってくださいませばよいものを。私はもはや、この国のけがれた火でいたものを食べましたから、もう二度とあちらへ帰ることはできますまい。しかし、せっかくおいでくださいましたのですから、ともかくいちおう黄泉よみの神たちに相談をしてみましょう。どうぞその間は、どんなことがありましても、けっして私の姿すがたをごらんにならないでくださいましな。後生ごしょうでございますから」と、女神はかたくそう申しあげておいて、御殿ごてんおくへおはいりになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみながい間戸口にじっと待っていらっしゃいました。しかし、女神は、それなり、いつまでたっても出ていらっしゃいません。伊弉諾神いざなぎのかみはしまいには、もう待ちどおしくてたまらなくなって、とうとう、左のびんのくしをおぬきになり、そのかたはしの、大歯おおはを一本き取って、それへ火をともして、わずかにやみの中をてらしながら、足さぐりに、御殿の中深くはいっておいでになりました。

 そうすると、御殿のいちばん奥に、女神は寝ていらっしゃいました。そのお姿をあかりでご覧になりますと、おからだじゅうは、もうすっかりべとべとにくさりくずれていて、くさい臭いいやなにおいが、ぷんぷん鼻へきました。そして、そのべとべとに腐ったからだじゅうには、うじがうようよとたかっておりました。それから、頭と、胸と、おなかと、両ももと、両手両足のところには、そのけがれから生まれた雷神らいじんが一人ずつ、すべてで八人で、おそろしい顔をしてうずくまっておりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、そのありさまをご覧になると、びっくりなすって、怖ろしさのあまりに、急いでげ出しておしまいになりました。

 女神はむっくりと起きあがって、

「おや、あれほどお止め申しておいたのに、とうとう私のこの姿すがたをご覧になりましたね。まあ、なんというにくいおかたでしょう。人にひどいはじをおかかせになった。ああ、くやしい」と、それはそれはひどくお怒りになって、さっそく女の悪鬼わるおにたちをんで、

「さあ、早く、あの神をつかまえておいで」と歯がみをしながらお言いつけになりました。

 女の悪鬼たちは、

「おのれ、待て」と言いながら、どんどん追っかけて行きました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、その鬼どもにつかまってはたいへんだとおぼしめして、走りながらかみかざりにさしてある黒いかつらの葉をき取っては、どんどんうしろへお投げつけになりました。

 そうすると、見る見るうちに、そのかつらの葉の落ちたところへ、ぶどうの実がふさふさとなりました。女鬼どもは、いきなりそのぶどうを取って食べはじめました。

 神はその間に、いっしょうけんめいにかけだして、やっと少しばかりげのびたとお思いになりますと、女鬼どもは、まもなく、またじきうしろまで追いつめて来ました。

 神は、

「おや、これはいけない」とお思いになって、こんどは、右のびんのくしをぬいて、その歯をひっ欠いては投げつけ、ひっ欠いては投げつけなさいました。そうすると、そのくしの歯がかたはしからたけのこになってゆきました。

 女鬼おんなおにたちは、そのたけのこを見ると、またさっそく引き抜いて、もぐもぐ食べだしました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、そのすきをねらって、こんどこそは、だいぶ向こうまでおげになりました。そしてもうこれならだいじょうぶだろうとおぼしめして、ひょいとうしろをふりむいてご覧になりますと、意外にも、こんどはさっきの女神のまわりにいた八人の雷人らいじんどもが、千五百人の鬼の軍勢をひきつれて、死にものぐるいでおっかけて来るではありませんか。

 神はそれをご覧になると、あわてて十拳とつかつるぎを抜きはなして、それでもってうしろをぐんぐん切りまわしながら、それこそいっしょうけんめいにお遁げになりました。そして、ようよう、この世界と黄泉よみの国とのさかいになっている、黄泉比良坂よもつひらざかという坂の下まで遁げのびていらっしゃいました。



 すると、その坂の下には、ももの木が一本ありました。

 神はそのももの実を三つ取って、鬼どもが近づいて来るのを待ち受けていらしって、その三つのももを力いっぱいお投げつけになりました。そうすると、雷神たちはびっくりして、みんなちりぢりばらばらにげてしまいました。

 神はそのももに向かって、

「おまえは、これから先も、日本じゅうの者がだれでも苦しい目に会っているときには、今わしを助けてくれたとおりに、みんな助けてやってくれ」とおっしゃって、わざわざ大神実命おおかんつみのみことというお名まえをおやりになりました。

 そこへ、女神は、とうとうじれったくおぼしめして、こんどはご自分で追っかけていらっしゃいました。神はそれをご覧になると、急いでそこにあった大きな大岩をひっかかえていらしって、それをしつけて、坂の口をふさいでおしまいになりました。

 女神は、その岩にさえぎられて、それより先へは一足もみ出すことができないものですから、うらめしそうに岩をにらみつけながら、

「わが夫の神よ、それではこのしかえしに、日本じゅうの人を一日に千人ずつめ殺してゆきますから、そう思っていらっしゃいまし」とおっしゃいました。神は、

「わが妻の神よ、おまえがそんなひどいことをするなら、わしは日本じゅうに一日に千五百人の子供を生ませるから、いっこうかまわない」とおっしゃって、そのまま、どんどんこちらへお帰りになりました。

 神は、

「ああ、きたないところへ行った。急いでからだを洗ってけがれをはらおう」とおっしゃって、日向ひゅうがの国の阿波岐原あわきはらというところへお出かけになりました。

 そこにはきれいな川が流れていました。

 神はその川の岸へつえをお投げすてになり、それからお帯やお下ばかまや、お上衣うわぎや、おかんむりや、右左のおうでにはまった腕輪うでわなどを、すっかりお取りはずしになりました。そうすると、それだけの物を一つ一つお取りになるたんびに、ひょいひょいと一人ずつ、すべてで十二人の神さまがお生まれになりました。

 神は、川の流れをご覧になりながら、


かみは瀬が早い、

しもの瀬は瀬が弱い。


とおっしゃって、ちょうどいいころあいの、中ほどの瀬におおりになり、水をかぶって、おからだじゅうをお洗いになりました。すると、おからだについたけがれのために、二人のわざわいの神が生まれました。それで伊弉諾神いざなぎのかみは、その神がつくりだす禍をおとりになるために、こんどは三人のよい神さまをお生みになりました。

 それから水の底へもぐって、おからだをお清めになるときに、また二人の神さまがお生まれになり、そのつぎに、水の中にこごんでお洗いになるときにもお二人、それから水の上へ出ておすすぎになるときにもお二人の神さまがお生まれになりました。そしてしまいに、左の目をお洗いになると、それといっしょに、それはそれは美しい、とうと女神めがみがお生まれになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみは、この女神さまに天照大神あまてらすおおかみというお名前をおつけになりました。そのつぎに右のお目をお洗いになりますと、月読命つきよみのみことという神さまがお生まれになり、いちばんしまいにお鼻をお洗いになるときに、建速須佐之男命たけはやすさのおのみことという神さまがお生まれになりました。

 伊弉諾神いざなぎのかみはこのお三方さんかたをご覧になって、

「わしもこれまでいくたりも子供を生んだが、とうとうしまいに、一等よい子供を生んだ」と、それはそれは大喜びををなさいまして、さっそく玉の首飾くびかざりをおはずしになって、それをさらさらとゆり鳴らしながら、天照大神あまてらすおおかみにおあげになりました。そして、

「おまえは天へのぼって高天原たかまのはらを治めよ」とおっしゃいました。それから月読命つきよみのみことには、

「おまえは夜の国を治めよ」とお言いつけになり、三ばんめの須佐之男命すさのおのみことには、

「おまえは大海おおうみの上を治めよ」とお言いわたしになりました。



あめ岩屋いわや



 天照大神あまてらすおおかみと、二番目の弟さまの月読命つきよみのみこととは、おとうさまのご命令に従って、それぞれ大空と夜の国とをお治めになりました。

 ところが末のお子さまの須佐之男命すさのおのみことだけは、おとうさまのお言いつけをお聞きにならないで、いつまでたっても大海おおうみを治めようとなさらないばかりか、りっぱな長いおひげがむねの上までたれさがるほどの、大きなおとなにおなりになっても、やっぱり、赤んぼうのように、絶えまもなくわんわんわんわんおき狂いになって、どうにもこうにも手のつけようがありませんでした。そのひどいお泣き方といったら、それこそ、青い山々の草木も、やかましい泣き声で泣きらされてしまい、川や海の水も、その火のつくような泣き声のために、すっかりあがったほどでした。

 すると、いろんな悪い神々たちが、そのさわぎにつけこんで、わいわいとうるさくさわぎまわりました。そのおかげで、地の上にはありとあらゆるわざわいが一どきに起こってきました。

 伊弉諾命いざなぎのみことは、それをごらんになると、びっくりなすって、さっそく須佐之男命すさのおのみことをおびになって、

「いったい、おまえは、わしの言うことも聞かないで、何をそんなに泣き狂ってばかりいるのか」ときびしくおとがめになりました。

 すると須佐之男命すさのおのみことはむきになって、

わたしはおかあさまのおそばへ行きたいからくのです」とおっしゃいました。

 伊弉諾命いざなぎのみことはそれをお聞きになると、たいそうお腹立はらだちになって、

「そんなかってな子は、この国へおくわけにゆかない。どこへなりと出て行け」とおっしゃいました。

 みことは平気で、

「それでは、お姉上さまにおいとまいをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原たかまのはらをめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。

 すると、力の強い、大男のみことですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴らんぼうにお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしとふるい動きました。

 天照大神あまてらすおおかみは、そのひびきにびっくりなすって、

「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっとわたしの国をうばい取ろうと思って出て来たに相違そういない」

 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いでかみをといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方のうでとに、八尺やさか曲玉まがたまというりっぱな玉のかざりをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をおいになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足をみならして待ちかまえていらっしゃいました。そのきついお力ぶみで、お庭のかたい土が、まるで粉雪こなゆきのようにもうもうと飛びちりました。



 まもなく須佐之男命すさのおのみことは大空へお着きになりました。

 女神はそのお姿すがたをごらんになると、声を張りあげて、

みこと、そちは何をしに来た」と、いきなりおしかりつけになりました。すると命は、

「いえ、私はけっして悪いことをしにまいったのではございません。おとうさまが、私の泣いているのをごらんになって、なぜ泣くかとおとがめになったので、お母上のいらっしゃるところへ行きたいからですと申しあげると、たいそうおおこりになって、いきなり、出て行ってしまえとおっしゃるので、あなたにお別れをしにまいったのです」とお言いわけをなさいました。

 でも女神はすぐにはご信用にならないで、

「それではおまえに悪い心のない証拠しょうこを見せよ」とおっしゃいました。みことは、

「ではおたがいに子を生んであかしを立てましょう。生まれた子によって、二人の心のよしあしがわかります」とおっしゃいました。

 そこでごきょうだいは、天安河あめのやすのかわというかわの両方の岸に分かれてお立ちになりました。そしてまず女神めがみが、いちばん先に、みこと十拳とつかつるぎをお取りになって、それを三つに折って、天真名井あめのまないという井戸で洗って、がりがりとおかみになり、ふっときりをお吹きになりますと、そのお息の中から、三人の女神がお生まれになりました。

 そのつぎにはみことが、女神の左のびんにおかけになっている、八尺やさか曲玉まがたまかざりをいただいて、玉の音をからからいわせながら、天真名井あめのまないという井戸で洗いすすいで、それをがりがりかんで霧をお吹き出しになりますと、それといっしょに一人の男の神さまがお生まれになりました。その神さまが、天忍穂耳命あめのおしほみみのみことです。

 それからつぎには、女神の右のびんの玉飾たまかざりをお取りになって、せんと同じようにして息をお吹きになりますと、その中からまた男の神が一人お生まれになりました。

 つづいてこんどは、おかずらの玉飾りを受け取って、やはり真名井まないで洗って、がりがりかんで息をお吹きになりますと、その中から、また男の神が一人お生まれになり、いちばんしまいに、女神の右と左のおうでの玉飾りをかんで、息をお吹きになりますと、そのたんびに、同じ男神が一人ずつ──これですべてで五人の男神がお生まれになりました。

 天照大神あまてらすおおかみは、

「はじめに生まれた三人の女神は、おまえのつるぎからできたのだから、おまえの子だ。あとの五人の男神はわたしの玉飾りからできたのだから、私の子だ」とおっしゃいました。

 命は、

「そうら、私が勝った。私になんの悪心あくしんもないしるしには、私の子は、みんなおとなしい女神ではありませんか。どうです、それでも私は悪人ですか」と、それはそれは大いばりにおいばりになりました。そして、その勢いに乗っておあばれだしになって、女神がお作らせになっている田のあぜをこわしたり、みぞをめたり、しまいには女神がお初穂はつほしあがる御殿ごてんへ、うんこをひりちらすというような、ひどい乱暴らんぼうをなさいました。

 ほかの神々は、それを見てあきれてしまって、女神に言いつけにまいりました。

 しかし女神はちっともおおこりにならないで、

「何、ほっておけ。けっして悪い気でするのではない。きたないものは、ったまぎれにいたのであろう。あぜやみぞをこわしたのは、せっかくの地面を、そんなみぞなぞにしておくのがしいからであろう」

 こうおっしゃって、かえってみことをかばっておあげになりました。

 すると命は、ますますに乗って、しまいには、女たちが女神のお召物めしものを織っている、機織場はたおりばの屋根を破って、そのあなから、ぶちのうまの皮をはいで、血まぶれにしたのを、どしんと投げこんだりなさいました。機織女はたおりおんなは、びっくりしてまどうはずみに、おさで下腹したはらいて死んでしまいました。

 女神は、命のあまりの乱暴さにとうとういたたまれなくおなりになって、あめ岩屋いわやという石室いしむろの中へおかくれになりました。そして入口の岩の戸をぴっしりとおしめになったきり、そのままひきこもっていらっしゃいました。

 すると女神は日の神さまでいらっしゃるので、そのお方がお姿すがたをおかくしになるといっしょに、高天原たかまのはらも下界の地の上も、一度にみんなまっくらがりになって、それこそ、昼と夜との区別もない、長い長いやみの世界になってしまいました。

 そうすると、いろいろの悪い神たちが、その暗がりにつけこんで、わいわいとさわぎだしました。そのために、世界じゅうにはありとあらゆるわざわいが、一度にわきあがって来ました。

 そんなわけで、大空の神々たちは、たいそうおこまりになりまして、みんなで安河原やすのかわらという、空の上の河原かわらに集まって、どうかして、天照大神に岩屋からお出ましになっていただく方法はあるまいかといっしょうけんめいに、相談をなさいました。

 そうすると、思金神おもいかねのかみという、いちばんかしこい神さまが、いいことをお考えつきになりました。

 みんなはその神のさしずで、さっそく、にわとりをどっさり集めて来て、岩屋の前で、ひっきりなしに鳴かせました。

 それから一方では、安河やすのかわの河上からかたい岩をはこんで来て、それを鉄床てつどこにして、八咫やたかがみというりっぱな鏡を作らせ、八尺やさか曲玉まがたまというりっぱな玉で胸飾むなかざりを作らせました。そして、天香具山あめのかぐやまという山からさかきを根きにして来て、その上の方のえだへ、八尺やさか曲玉まがたまをつけ、中ほどの枝へ八咫やたかがみをかけ、下の枝へは、白や青のきれをつりさげました。そしてある一人の神さまが、そのさかきを持って天の岩屋に立ち、ほかの一人の神さまが、そのそばでのりとをあげました。

 それからやはり岩屋の前へ、あきだるをせて、天宇受女命あめのうずめのみことという女神に、天香具山あめのかぐやまのかつらのつるをたすきにかけさせ、かつらの葉を髪飾かみかざりにさせて、そのおけの上へあがって踊りを踊らせました。

 宇受女命うずめのみことは、おちちもおなかも、もももまるだしにして、足をとんとんみならしながら、まるでつきものでもしたように、くるくるくるくるとおどくるいました。

 するとそのようすがいかにもおかしいので、何千人という神たちが、一度にどっとふきだして、みんなでころがりまわって笑いました。そこへにわとりは声をそろえて、コッケコー、コッケコーと鳴きたてるので、そのさわぎといったら、まったく耳もつぶれるほどでした。

 天照大神は、そのたいそうなさわぎの声をお聞きになると、何ごとが起こったのかとおぼしめして、岩屋の戸を細めにあけて、そっとのぞいてごらんになりました。そして宇受女命うずめのみことに向かって、

「これこれわたしがここに、隠れていれば、空の上もまっくらなはずだのに、おまえはなにをおもしろがって踊っているのか。ほかの神々たちも、なんであんなに笑いくずれているのか」とおたずねになりました。

 すると宇受女命は、

「それは、あなたよりも、もっととうとい神さまが出ていらっしゃいましたので、みんなが喜んでさわいでおりますのでございます」と申しあげました。

 それと同時に一人の神さまは、例の、八咫やたかがみをつけたさかきを、ふいに大神の前へ突き出しました。鏡には、さっと、大神のお顔がうつりました。大神はそのうつった顔をご覧になると、

「おや、これはだれであろう」とおっしゃりながら、もっとよく見ようとおぼしめして、少しばかり戸の外へお出ましになりました。

 すると、さっきから、岩屋のそばにかくれて待ちかまえていた、手力男命たぢからおのみことという大力の神さまが、いきなり、女神のお手を取って、すっかり外へお引き出し申しました。それといっしょに、一人の神さまは、女神のおうしろへまわって、

「どうぞ、もうこれからうちへはおはいりくださいませんように」と申しあげて、そこへしめなわを張りわたしてしまいました。

 それで世界じゅうは、やっと長い夜があけて、再び明るい昼が来ました。

 神々たちは、それでようやく安心なさいました。そこでさっそく、みんなで相談して、須佐之男命すさのおのみことには、あんなひどい乱暴らんぼうをなすったばつとして、ご身代をすっかりさし出させ、そのうえに、りっぱなおひげも切りとり、手足のつめまではぎとって、下界へ追いくだしてしまいました。

 そのとき須佐之男命すさのおのみことは、大気都比売命おおけつひめのみことという女神に、何か物を食べさせよとおおせになりました。大気都比売命おおけつひめのみことは、おことばに従って、さっそく、鼻のあなや口の中からいろいろの食べものを出して、それをいろいろにお料理してさしあげました。

 すると須佐之男命すさのおのみこと大気都比売命おおけつひめのみことのすることを見ていらしって、

「こら、そんな、お前の口や鼻から出したものがおれに食えるか。無礼なやつだ」と、たいそうお腹立はらだちになって、いきなり剣をいて、大気都比売命おおけつひめのみことを一うちに切り殺しておしまいになりました。

 そうすると、その死がいの頭から、かいこが生まれ、両方の目にいねがなり、二つの耳にあわがなりました。それから鼻にはあずきがなり、おなかに、むぎとだいずがなりました。

 それを神産霊神かみむすびのかみがお取り集めになって、日本じゅうの穀物こくもつの種になさいました。

 須佐之男命すさのおのみことは、そのまま下界へおりておいでになりました。



八俣やまた大蛇おろち



 須佐之男命すさのおのみことは、大空から追いおろされて、出雲いずもの国の、かわ河上かわかみの、鳥髪とりかみというところへおくだりになりました。

 すると、そのかわの中にはしが流れて来ました。みことは、それをごらんになって、

「では、この河の上の方には人が住んでいるな」とお察しになり、さっそくそちらの方へ向かってさがし探しおいでになりました。そうすると、あるおじいさんとおばあさんとが、まん中に一人のむすめをすわらせて三人でおんおんいておりました。

 命は、おまえたちは何者かとおたずねになりました。

 おじいさんは、

「私は、この国の大山津見おおやまつみと申します神の子で、足名椎あしなずちと申します者でございます。妻の名は手名椎てなずち、この娘の名は櫛名田媛くしなだひめと申します」とお答えいたしました。

 命は、

「それで三人ともどうして泣いているのか」と、かさねてお聞きになりました。

 おじいさんは涙をふいて、

「私たち二人には、もとは八人のむすめがおりましたのでございますが、その娘たちを、八俣やまた大蛇おろちと申しますおそろしい大じゃが、毎年出てきて、一人ずつ食べて行ってしまいまして、とうとうこの子一人だけになりました。そういうこの子も、今にその大じゃが食べにまいりますのでございます」

 こう言って、みんなが泣いているわけをお話しいたしました。

「いったいその大じゃはどんな形をしている」と、みことはお聞きになりました。

「その大じゃと申しますのは、からだは一つでございますが、頭とは八つにわかれておりまして、その八つの頭には、赤ほおずきのようなまっかな目が、燃えるように光っております。それからからだじゅうには、こけや、ひのきやすぎの木などがはえしげっております。そのからだのすっかりの長さが、八つの谷と八つの山のすそをとりまくほどの、大きな大きな大じゃでございます。そのはらはいつも血にただれてまっかになっております」と怖ろしそうにお話しいたしました。命は、

「ふん、よしよし」とおうなずきになりました。そして改めておじいさんに向かって、

「その娘はおまえの子ならば、わしのおよめにくれないか」とおっしゃいました。

「おことばではございますが、あなたさまはどこのどなただか存じませんので」とおじいさんはあやぶんで怖る怖るこう申しました。命は、

「じつはおれは天照大神あまてらすおおかみの同じはらの弟で、たった今、大空からおりて来たばかりだ」と、うちあけてお名まえをおっしゃいました。すると、足名椎あしなずち手名椎てなずちも、

「さようでございますか。これはこれはおそれおおい。それでは、おおせのままさしあげますでございます」と、両手をついて申しあげました。

 命は、櫛名田媛くしなだひめをおもらいになると、たちまち媛をくしに化けさせておしまいになりました。そして、そのくしをすぐにご自分のびんの巻髪まきがみにおさしになって、足名椎あしなずち手名椎てなずちに向かっておっしゃいました。

「おまえたちは、これからこめをかんで、よい酒をどっさり作れ。それから、ここへぐるりとかきをこしらえて、そのかきへ、ところに門をあけよ。そしてその門のうちへ、一つずつさじきをこしらえて、そのさじきの上に、大おけを一つずつおいて、その中へ、二人でこしらえたよい酒を一ぱい入れて待っておれ」とお言いつけになりました。

 二人は、おおせのとおりに、すっかり準備をととのえて、待っておりました。そのうちに、そろそろ大じゃの出て来る時間が近づいて来ました。

 命は、それを聞いて、じっと待ちかまえていらっしゃいますと、まもなく、二人が言ったように、大きな大きな八俣やまた大蛇おろちが、大きなまっかな目をぎらぎら光らして、のそのそと出て来ました。

 大じゃは、目の前に八つのさかおけがならんでいるのを見ると、いきなり八つの頭を一つずつその中へつっこんで、そのたいそうなお酒を、がぶがぶがぶがぶとまたたくまに飲みしてしまいました。そうするとまもなくからだじゅうによいがまわって、その場へ倒れたなり、ぐうぐういってしまいました。

 須佐之男命すさのおのみことは、そっとその寝息ねいきをうかがっていらっしゃいましたが、やがて、さあ今だとお思いになって、十拳とつかつるぎを引きくが早いか、おのれ、おのれと、つづけさまにお切りつけになりました。そのうちに八つのの中の、中ほどの尾をお切りつけになりますと、その尾の中に何かかたい物があって、剣の刃先はさきが、少しばかりほろりと欠けました。

 みことは、

「おや、変だな」とおぼしめして、そのところを切りいてご覧になりますと、中から、それはそれは刃の鋭い、りっぱな剣が出て来ました。命は、これはふしぎなものが手にはいったとお思いになりました。その剣はのちに天照大神あまてらすおおかみへご献上けんじょうになりました。

 命はとうとう、大きな大きな大じゃの胴体をずたずたに切りきざんでおしまいになりました。そして、

足名椎あしなずち手名椎てなずち、来て見よ。このとおりだ」とおびになりました。

 二人はがたがたふるえながら出て来ますと、そこいら一面は、きれぎれになった大じゃの胴体から吹き出る血でいっぱいになっておりました。その血がどんどんかわへ流れこんで、河の水もまっかになって落ちて行きました。

 命はそれから、櫛名田媛くしなだひめとお二人で、そのまま出雲いずもの国にお住まいになるおつもりで、御殿ごてんをおたてになるところを、そちこちと、さがしてお歩きになりました。そして、しまいに、須加すかというところまでおいでになると、

「ああ、ここへ来たら、心持がせいせいしてきた。これはよいところだ」とおっしゃって、そこへ御殿をおたてになりました。そして、足名椎神あしなずちのかみをそのお宮の役人のかしらになさいました。

 命にはつぎつぎにお子さまお孫さまがどんどんおできになりました。その八代目のお孫さまのお子さまに、大国主神おおくにぬしのかみ、またの名を大穴牟遅神おおなむちのかみとおっしゃるりっぱな神さまがお生まれになりました。



むかでのむろ、へびのむろ



 この大国主神おおくにぬしのかみには、八十神やそがみといって、何十人というほどの、おおぜいのごきょうだいがおありになりました。

 その八十神やそがみたちは、因幡いなばの国に、八上媛やがみひめという美しい女の人がいると聞き、みんなてんでんに、自分のおよめにもらおうと思って、一同でつれだって、はるばる因幡へ出かけて行きました。

 みんなは、大国主神が、おとなしいかたなのをよいことにして、このかたをおともの代わりに使って、ふくろを背おわせてついて来させました。そして、因幡の気多けたという海岸まで来ますと、そこに毛のないあかはだかのうさぎが、地べたにころがって、苦しそうにからだじゅうで息をしておりました。

 八十神やそがみたちはそれを見ると、

「おいうさぎよ。おまえからだに毛がはやしたければ、この海のしおにつかって、高い山の上で風に吹かれてておれ。そうすれば、すぐに毛がいっぱいはえるよ」とからかいました。うさぎはそれをほんとうにして、さっそく海につかって、ずぶぬれになって、よちよちと山へのぼって、そのまま寝ころんでおりました。

 するとその潮水しおみずがかわくにつれて、からだじゅうの皮がひきつれて、びりびりけ破れました。うさぎはそのひりひりする、ひどいいたみにたまりかねて、おんおん泣きしておりました。そうすると、いちばんあとからお通りかかりになった、お供の大国主神がそれをごらんになって、

「おいおいうさぎさん、どうしてそんなに泣いているの」とやさしく聞いてくださいました。

 うさぎは泣き泣き、

「私は、もと隠岐おきの島におりましたうさぎでございますが、この本土へわたろうと思いましても、渡るてだてがございませんものですから、海の中のわにをだまして、いったい、おまえとわしとどっちがみうちが多いだろう、ひとつくらべてみようじゃないか、おまえはいるだけのけん族をすっかりつれて来て、ここから、あの向こうのはての、気多けたのみさきまでずっとならんでみよ、そうすればおれがその中の上をつたわって、かぞえてやろうと申しました。

 すると、わにはすっかりだまされまして、出てまいりますもまいりますも、それはそれは、うようよと、まっくろに集まってまいりました。そして、私の申しましたとおりに、この海ばたまでずらりと一列に並びました。

 私は五十八十と数をよみながら、その背なかの上をどんどん渡って、もう一足でこの海ばたへ上がろうといたしますときに、やあいまぬけのわにめ、うまくおれにだまされたァいとはやしたてますと、いちばんしまいにおりましたわにが、むっとおこって、いきなり私をつかまえまして、このとおりにすっかりきものをひっぺがしてしまいました。

 そこであすこのところへしころんでいておりましたら、さきほどここをお通りになりました八十神やそがみたちが、いいことを教えてやろう、これこれこうしてみろとおっしゃいましたので、そのとおりに潮水しおみずを浴びて風に吹かれておりますと、からだじゅうの皮がこわばって、こんなにびりびりけてしまいました」

 こう言って、うさぎはおんおん泣きだしました。

 大国主神おおくにぬしのかみは、話を聞いてかわいそうだとおぼしめして、

「それでは早くあすこの川口へ行って、ま水でからだじゅうをよく洗って、そこいらにあるかばの花をむしって、それを下に敷いてころんでいてごらん。そうすれば、ちゃんともとのとおりになおるから」

 こう言って、教えておやりになりました。うさぎはそれを聞くとたいそう喜んでお礼を申しました。そしてそのあとで言いました。

「あんなお人の悪い八十神やそがみたちは、けっして八上媛やがみひめをご自分のものになさることはできません。あなたはふくろなどをおしょいになって、おともについていらっしゃいますけれど、八上媛はきっと、あなたのおよめさまになると申します。みていてごらんなさいまし」と申しました。

 まもなく、八十神たちは八上媛のところへ着きました。そして、代わる代わる、自分のお嫁になれなれと言いましたが、ひめはそれをいちいちはねつけて、

「いえいえ、いくらお言いになりましても、あなたがたのご自由にはなりません。私は、あそこにいらっしゃる大国主神のお嫁にしていただくのです」と申しました。

 八十神たちはそれを聞くとたいそうおこって、みんなで大国主神を殺してしまおうという相談をきめました。

 みんなは、大国主神を、伯耆ほうきの国の手間てまの山という山の下へつれて行って、

「この山には赤いいのししがいる。これからわしたちが山の上からそのいのししを追いおろすから、おまえは下にいてつかまえろ。へたをしてがしたらおまえを殺してしまうぞ」と、言いわたしました。そして急いで、山の上へかけあがって、さかんにたき火をこしらえて、その火の中で、いのししのようなかっこうをしている大きな石をまっかに焼いて、

「そうら、つかまえろ」と言いながら、どしんと、ころがし落としました。

 ふもとで待ち受けていらしった大国主神は、それをご覧になるなり、大急ぎでかけ寄って、力まかせにお組みつきになったと思いますと、からだはたちまちそのあか焼けの石のはだにこびりついて、

「あッ」とお言いになったきり、そのままただれ死にに死んでおしまいになりました。



 大国主神の生みのおかあさまは、それをお聞きになると、たいそうおなげきになって、き泣き大空へかけのぼって、高天原たかまのはらにおいでになる、高皇産霊神たかみむすびのかみにお助けをお願いになりました。

 すると、高皇産霊神たかみむすびのかみは、蚶貝媛きさがいひめ蛤貝媛うむがいひめと名のついた、あかがいとはまぐりの二人の貝を、すぐに下界へおくだしになりました。

 二人は大急ぎでおりて見ますと、大国主神おおくにぬしのかみはまっくろこげになって、山のすそにたおれていらっしゃいました。あかがいはさっそく自分のからをけずって、それを焼いて黒い粉をこしらえました。はまぐりは急いで水を出して、その黒い粉をこねて、おちちのようにどろどろにして、二人で大国主神のからだじゅうへりつけました。

 そうすると大国主神は、それほどの大やけどもたちまちなおって、もとのとおりの、きれいな若い神になってお起きあがりになりました。そしてどんどん歩いておうちへ帰っていらっしゃいました。

 八十神やそがみたちは、それを見ると、びっくりして、もう一度みんなでひそひそ相談をはじめました。そしてまたじょうずに大国主神をだまして、こんどは別の山の中へつれこみました。そしてみんなで寄ってたかって、ある大きなたち木を根もとから切りまげて、その切れ目へくさびをうちこんで、その間へ大国主神をはいらせました。そうしておいて、ふいにポンとくさびを打ちはなして、はさみ殺しに殺してしまいました。

 大国主神のおかあさまは、若い子の神がまたいなくなったので、おどろいて方々さがしておまわりになりました。そして、しまいにまた殺されていらっしゃるところをおみつけになると、大急ぎで木の幹を切り開いて、子の神のお死がいをお引き出しになりました。そしていっしょうけんめいに介抱かいほうして、ようようのことで再びお生きかえらせになりました。おかあさまは、

「もうおまえはうかうかこの土地においてはおかれない。どうぞこれからすぐに、須佐之男命すさのおのみことのおいでになる、根堅国ねのかたすくにげておくれ、そうすればみことが必ずいいようにはからってくださるから」

 こう言って、わかい子の神を、そのままそちらへ立ってお行かせになりました。

 大国主神は、言われたとおりに、命のおいでになるところへお着きになりました。すると、命のおむすめごの須勢理媛すぜりひめがお取次をなすって、

「お父上さま、きれいな神がいらっしゃいました」とお言いになりました。

 お父上の大神おおかみは、それをお聞きになると、急いでご自分で出てご覧になって、

「ああ、あれは、大国主という神だ」とおっしゃいました。そして、さっそくおびいれになりました。

 ひめは大国主神のことをほんとに美しいよい方だとすぐに大すきにお思いになりました。大神には、第一それがお気にめしませんでした。それで、ひとつこの若い神をこまらせてやろうとお思いになって、その晩、大国主神を、へびのむろといって、大へび小へびがいっぱいたかっているきみの悪いおへやへおかせになりました。

 そうすると、やさしい須勢理媛すぜりひめは、たいそう気の毒にお思いになりました。それでご自分の、比礼ひれといって、かたかけのように使うきれを、そっと大国主神におわたしになって、

「もしへびがくいつきにまいりましたら、このきれを三度って追いのけておしまいなさい」とおっしゃいました。

 まもなく、へびはみんなでかま首を立ててぞろぞろとむかって来ました。大国主神おおくにぬしのかみはさっそく言われたとおりに、かざりのきれを三度おりになりました。するとふしぎにも、へびはひとりでにひきかえして、そのままじっとかたまったなり、一晩じゅう、なんにも害をしませんでした。わかい神はおかげで、気らくにぐっすりおよって、朝になると、あたりまえの顔をして、大神おおかみの前に出ていらっしゃいました。

 すると大神は、その晩はむかでとはちのいっぱいはいっているおへやへおかせになりました。しかしひめが、またこっそりと、ほかの首飾りのきれをわたしてくだすったので、大国主神は、その晩もそれでむかでやはちを追いはらって、また一晩じゅうらくらくとおやすみになりました。

 大神は、大国主神がふた晩とも、平気で切りぬけてきたので、よし、それではこんどこそは見ておれと、心の中でおっしゃりながら、かぶらと言って、矢じりにあながあいていて、るとびゅんびゅんと鳴る、こわい大きな矢を、草のぼうぼうとはえのびた、広い野原のまん中にお射こみになりました。そして、大国主神に向かって、

「さあ、今飛んだ矢を拾って来い」とおおせつけになりました。

 若い神は、正直しょうじきにご命令を聞いて、すぐに草をかき分けてどんどんはいっておいでになりました。大神はそれを見すまして、ふいに、その野のまわりへぐるりと火をつけて、どんどんお焼きたてになりました。大国主神は、おやと思うまに、たちまち四方から火の手におかこまれになって、すっかり遁げ場を失っておしまいになりました。それで、どうしたらいいかとびっくりして、とまどいをしていらっしゃいますと、そこへ一ぴきのねずみが出て来まして、

「うちはほらほら、そとはすぶすぶ」と言いました。それは、中は、がらんどうで、外はすぼまっている、という意味でした。

 若い神は、すぐそのわけをおさとりになって、足の下を、とんときつくんでごらんになりますと、そこは、ちゃんと下が大きな穴になっていたので、からだごとすっぽりとその中へ落ちこみました。それで、じっとそのままこごまって隠れていらっしゃいますと、やがてま近まで燃えて来た火の手は、その穴の上を走って、向こうへ遠のいてしまいました。

 そのうちに、さっきのねずみが大神のお射になったかぶら矢をちゃんとさがし出して、口にくわえて持って来てくれました。見るとその矢の羽根のところは、いつのまにかねずみの子供たちがかじってすっかり食べてしまっておりました。



 須勢理媛すぜりひめは、そんなことはちっともご存じないものですから、美しい若い神は、きっと焼け死んだものとお思いになって、ひとりでなげき悲しんでいらっしゃいました。そして火が消えるとすぐに、急いでおとむらいの道具を持って、きさがしにいらっしゃいました。

 お父上の大神の、こんどこそはだいじょうぶ死んだろうとお思いになって、媛のあとからいらしってごらんになりました。

 すると大国主神おおくにぬしのかみは、もとのお姿すがたのままで、焼けあとのなかから出ていらっしゃいました。そしてさっきのかぶら矢をちゃんとお手におわたしになりました。

 大神おおかみもこれには内々ないないびっくりしておしまいになりまして、しかたなくいっしょに御殿ごてんへおかえりになりました。そして大きな広間へつれておはいりになって、そこへごろりと横におなりになったと思うと、

「おい、おれの頭のしらみを取れ」と、いきなりおっしゃいました。

 大国主神はかしこまって、その長い長いおぐしの毛をかき分けてご覧になりますと、その中には、しらみでなくて、たくさんなむかでが、うようよたかっておりました。

 すると、須勢理媛すぜりひめがそばへ来て、こっそりとむくの実と赤土とをわたしてお行きになりました。

 大国主神は、そのむくの実を一粒ひとつぶずつかみくだき、赤土を少しずつかみとかしては、いっしょにぷいぷいおき出しになりました。大神はそれをご覧になると、

「ほほう、むかでをいちいちかみつぶしているな。これは感心なやつだ」とお思いになりながら、安心して、すやすやと寝いっておしまいになりました。

 大国主神は、この上ここにぐずぐずしていると、まだまだどんなめに会うかわからないとお思いになって、みことがちょうどぐうぐうおやすみになっているのをさいわいに、その長いおぐしをいくたばにも分けて、それを四方のたる木というたる木へ一束ずつしばりつけておいたうえ、五百人もかからねば動かせないような、大きな大きな大岩を、そっと戸口に立てかけて、中から出られないようにしておいて、大神おおかみ太刀たち弓矢ゆみやと、玉の飾りのついたとうとこととをひっかかえるなり、急いで須勢理媛すぜりひめを背なかにおぶって、そっと御殿をおげ出しになりました。

 するとまの悪いことに、抱えていらっしゃる琴が、の幹にぶつかって、じゃらじゃらじゃらんとたいそうなひびきを立てて鳴りました。

 大神はその音におどろいて、むっくりとお立ちあがりになりました。すると、おぐしがたる木じゅうへ縛りつけてあったのですから、大力おおぢからのある大神がふいにお立ちになるといっしょに、そのおへやはいきなりめりめりとたおれつぶれてしまいました。

 大神は、

「おのれ、あの小僧こぞうッ神め」と、それはそれはおいかりになって、かみの毛をひと束ずつ、もどかしく解きはなしていらっしゃるまに、こちらの大国主神はいっしょうけんめいにかけつづけて、すばやく遠くまで逃げのびていらっしゃいました。

 すると大神は、まもなくそのあとを追っかけて、とうとう黄泉比良坂よもつひらざかという坂の上までかけつけていらっしゃいました。そしてそこから、はるかに大国主神を呼びかけて、大声をしぼってこうおっしゃいました。

「おおいおおい、小僧ッ神。その太刀と弓矢をもって、そちのきょうだいの八十神やそがみどもを、山の下、川の中と、逃げるところへ追いつめ切りはらい、そちが国の神のかしらになって、宇迦うかの山のふもとに御殿を立てて住め。わしのそのむすめはおまえのおよめにくれてやる。わかったか」とおどなりになりました。

 大国主神おおくにぬしのかみはおおせのとおりに、改めていただいた、大神おおかみ太刀たち弓矢ゆみやを持って、八十神やそがみたちをちにいらっしゃいました。そして、みんながちりぢりにげまわるのを追っかけて、そこいらじゅうの坂の下や川の中へ、切りたおき落として、とうとう一人ももらさずほろぼしておしまいになりました。そして、国の神のかしらになって、宇迦うかの山の下に御殿ごてんをおたてになり、須勢理媛すぜりひめと二人で楽しくおくらしになりました。



 そのうちに例の八上媛やがみひめは、大国主神をしたって、はるばるたずねて来ましたが、その大国主神には、もう須勢理媛すぜりひめというりっぱなおよめさまができていたので、しおしおと、またおうちへ帰って行きました。

 大国主神はそれからなお順々に四方を平らげて、だんだんと国を広げておゆきになりました。そうしているうちに、ある日、出雲いずもの国の御大みおさきという海ばたにいっていらっしゃいますと、はるか向こうの海の上から、一人の小さな小さな神が、お供の者たちといっしょに、どんどんこちらへ向かって船をこぎよせて来ました。その乗っている船は、ががいもという、小さな草の実で、着ている着物は、ひとりむしの皮を丸はぎにしたものでした。

 大国主神は、その神に向かって、

「あなたはどなたですか」とおたずねになりました。しかし、その神は口をじたまま名まえをあかしてくれませんでした。大国主神はご自分のお供の神たちに聞いてご覧になりましたが、みんなその神がだれだかけんとうがつきませんでした。

 するとそこへひきがえるがのこのこ出て来まして、

「あの神のことは久延彦くえびこならきっと存じておりますでしょう」と言いました。久延彦というのは山の田に立っているかかしでした。久延彦くえびこは足がきかないので、ひと足も歩くことはできませんでしたけれど、それでいて、この下界のことはなんでもすっかり知っておりました。

 それで大国主神は急いでその久延彦くえびこにお聞きになりますと、

「ああ、あの神は大空においでになる神産霊神かみむすびのかみのお子さまで、少名毘古那神すくなびこなのかみとおっしゃる方でございます」と答えました。大国主神はそれでさっそく、神産霊神かみむすびのかみにおうかがいになりますと、神も、

「あれはたしかにわしの子だ」とおっしゃいました。そして改めて少名毘古那神に向かって、

「おまえは大国主神ときょうだいになって二人で国々を開きかためて行け」とおおせつけになりました。

 大国主神は、そのお言葉に従って、少名毘古那神すくなびこなのかみとお二人で、だんだんに国を作り開いておゆきになりました。ところが、少名毘古那神すくなびこなのかみは、あとになると、急に常世国とこよのくにという、海の向こうの遠い国へ行っておしまいになりました。

 大国主神おおくにぬしのかみはがっかりなすって、わたし一人では、とても思いどおりに国を開いてゆくことはできない、だれか力をえてくれる神はいないものかと言って、たいそうしおれていらっしゃいました。

 するとちょうどそのとき、一人の神さまが、海の上一面にきらきらと光をはなちながら、こちらへ向かって近づいていらっしゃいました。それは須佐之男命すさのおのみことのお子の大年神おおとしのかみというお方でした。その神が、大国主神に向かって、

「私をよく大事にまつっておくれなら、いっしょになって国を作りかためてあげよう。おまえさん一人ではとてもできはしない」と、こう言ってくださいました。

「それではどんなふうにおまつり申せばいいのでございますか」とお聞きになりますと、

大和やまと御諸みもろの山の上にまつってくれればよい」とおっしゃいました。

 大国主神はお言葉ことばのとおりに、そこへおまつりして、その神さまと二人でまただんだんに国を広げておゆきになりました。



きじのお使つか



 そのうちに大空の天照大神あまてらすおおかみは、お子さまの天忍穂耳命あめのおしほみみのみことに向かって、

「下界に見える、あの豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくには、おまえが治めるべき国である」とおっしゃって、すぐにくだって行くように、お言いつけになりました。みことはかしこまっておりていらっしゃいました。しかしあめ浮橋うきはしの上までおいでになって、そこからお見おろしになりますと、下では勢いの強い神たちが、てんでんにあばれまわって、大さわぎをしているのが見えました。命は急いでひきかえしていらしって、そのことを大神にお話しになりました。

 それで大神と高皇産霊神たかみむすびのかみとは、さっそく天安河あめのやすのかわの河原に、おおぜいの神々をすっかりおし集めになって、

「あの水穂国みずほのくには、私たちの子孫しそんが治めるはずの国であるのに、今あすこには、悪強い神たちが勢い鋭く荒れまわっている。あの神たちを、おとなしくこちらの言うとおりにさせるには、いったいだれを使いにやったものであろう」とこうおっしゃって、みんなにご相談をなさいました。

 すると例のいちばん考え深い思金神おもいかねのかみが、みんなと会議をして、

「それには天菩比神あめのほひのかみをおつかわしになりますがよろしゅうございましょう」と申しあげました。そこで大神は、さっそくその菩比神ほひのかみをおくだしになりました。

 ところが菩比神ほひのかみは、下界へつくと、それなり大国主神おおくにぬしのかみの手下になってしまって、三年たっても、大空へはなんのご返事もいたしませんでした。

 それで大神と高皇産霊神たかみむすびのかみとは、またおおぜいの神々をおしになって、

菩比神ほひのかみがまだ帰ってこないが、こんどはだれをやったらよいであろう」と、おたずねになりました。

 思金神おもいかねのかみは、

「それでは、天津国玉神あまつくにたまのかみの子の、天若日子あめのわかひこがよろしゅうございましょう」と、お答え申しました。

 大神はその言葉ことばに従って、天若日子あめのわかひこにりっぱなゆみをお授けになって、それを持たせて下界へおくだしになりました。

 するとその若日子は大空にちゃんとほんとうのおよめがあるのに、下へおり着くといっしょに、大国主神おおくにぬしのかみむすめ下照比売したてるひめをまたお嫁にもらったばかりか、ゆくゆくは水穂国みずほのくにを自分が取ってしまおうというはらで、とうとう八年たっても大神の方へはてんでご返事にも帰りませんでした。

 大神と高皇産霊神たかみむすびのかみとは、また神々をお集めになって、

「二度めにつかわした天若日子もまたとうとう帰ってこない。いったいどうしてこんなにいつまでも下界にいるのか、それをめただしてこさせたいと思うが、だれをやったものであろう」とお聞きになりました。

 思金神おもいかねのかみは、

「それでは名鳴女ななきめというきじがよろしゅうございましょう」と申しあげました。大神たちお二人はそのきじをおしになって、

「おまえはこれから行って天若日子あめのわかひこを責めてこい。そちを水穂国みずほのくにへおくりだしになったのは、この国の神どもを説き伏せるためではないか、それだのに、なぜ八年たってもご返事をしないのか、と言って、そのわけを聞きただしてこい」とお言いつけになりました。

 名鳴女は、はるばると大空からおりて、天若日子のうちの門のそばの、かえでの木の上にとまって、大神からおおせつかったとおりをすっかり言いました。

 すると若日子のところに使われている、天佐具売あめのさくめという女が、その言葉を聞いて、

「あすこに、いやな鳴き声を出す鳥がおります。早くておしまいなさいまし」と若日子にすすめました。

 若日子は、

「ようし」と言いながら、かねて大神からいただいて来たゆみを取り出して、いきなりそのきじを射殺してしまいました。すると、その当たった矢が名鳴女のむねき通して、さかさまに大空の上まではねあがって、天安河あめのやすのかわ河原かわらにおいでになる、天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみとのおそばへ落ちました。

 高皇産霊神たかみむすびのかみはその矢を手に取ってごらんになりますと、矢の羽根に血がついておりました。

 高皇産霊神は、

「この矢は天若日子あめのわかひこにつかわした矢だが」とおっしゃって、みんなの神々にお見せになった後、

「もしこの矢が、若日子が悪い神たちを射たのが飛んで来たのならば、若日子にはあたるな。もし若日子が悪い心をいだいているなら、かれを射殺せよ」とおっしゃりながら、さきほどの矢が通って来た空のあなから、力いっぱいにお突きおろしになりました。

 そうするとその矢は、若日子がちょうど下界であおむきにていた胸のまん中を、ぷすりと突きして一ぺんで殺してしまいました。

 若日子のおよめ下照比売したてるひめは、びっくりして、大声をあげてきさわぎました。

 その泣く声が風にはこばれて、大空まで聞こえて来ますと、若日子の父の天津国玉神あまつくにたまのかみと、若日子のほんとうのお嫁と子供たちがそれを聞きつけて、びっくりして、下界へおりて来ました、そして泣き泣きそこへ喪屋もやといって、死人を寝かせておく小屋をこしらえて、がんを供物くもつをささげる役に、さぎをほうき持ちに、かわせみをおそなえのさかな取りにやとい、すずめをお供えのこめつきにび、きじを泣き役につれて来て、八日ようか八晩よばんの間、若日子の死がいのそばで楽器をならして、死んだたましいなぐさめておりました。

 そうしているところへ、大国主神おおくにぬしのかみの子で、下照比売したてるひめのおあにいさまの高日子根神たかひこねのかみがおくやみに来ました。そうすると若日子わかひこの父と妻子つまこたちは、

「おや」とびっくりして、その神の手足にとりすがりながら、

「まあまあおまえは生きていたのか」

「まあ、あなたは死なないでいてくださいましたか」と言って、みんなでおんおんとうれきに泣きだしました。それは高日子根神たかひこねのかみの顔や姿すがた天若日子あめのわかひこにそっくりだったので、みんなは一も二もなく若日子だとばかり思ってしまったのでした。

 すると高日子根神は、

「何をふざけるのだ」とまっかになっておこりだして、

「人がわざわざくやみに来たのに、それをきたない死人などといっしょにするやつがどこにある」とどなりつけながら、長いつるぎきはなすといっしょに、その喪屋もやをめちゃめちゃに切り倒し、足でぽんぽんけりちらかして、ぷんぷん怒って行ってしまいました。

 そのとき妹の下照比売したてるひめは、あの美しい若い神は私のおあにいさまの、これこれこういう方だということを、歌に歌って、ほこりがおに若日子の父や妻子に知らせました。



 天照大神あまてらすおおかみは、そんなわけで、また神々に向かって、こんどというこんどはだれをつかわしたらよいかとご相談をなさいました。

 思金神おもいかねのかみとすべての神々は、

「それではいよいよ、天安河あめのやすのかわ河上かわかみの、あめ岩屋いわやにおります尾羽張神おはばりのかみか、それでなければ、その神の子の建御雷神たけみかずちのかみか、二人のうちどちらかをおつかわしになるほかはございません。しかし尾羽張神は、天安河の水をせきあげて、道を通れないようにしておりますから、めったな神では、ちょっとびにもまいれません。これはひとつ天迦久神あめのかくのかみをおさしむけになりまして、尾羽張神がなんと申しますか聞かせてご覧になるがようございましょう」と申しあげました。

 大神はそれをお聞きになると、急いで天迦久神あめのかくのかみをおやりになってお聞かせになりました。

 そうすると尾羽張神おはばりのかみは、

「これは、わざわざもったいない。その使いには私でもすぐにまいりますが、それよりも、こんなことにかけましては、私の子の建御雷神たけみかずちのかみがいっとうお役に立ちますかと存じます」

 こう言って、さっそくその神を大神のごぜんへうかがわせました。

 大神はその建御雷神に、天鳥船神あめのとりふねのかみという神をつけておくだしになりました。

 二人の神はまもなく出雲国いずものくに伊那佐いなさという浜にくだりつきました。そしておたがいに長いつるぎをずらりとはなして、それを海の上にあおむけにき立てて、そのきっさきの上にあぐらをかきながら、大国主神おおくにぬしのかみに談判をしました。

「わしたちは天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみとのご命令で、わざわざお使いにまいったのである。大神はおまえが治めているこの葦原あしはらなかくには、大神のお子さまのお治めになる国だとおっしゃっている。そのおおせに従って大神のお子さまにこの国をすっかりおゆずりなさるか。それともいやだとお言いか」と聞きますと、大国主神おおくにぬしのかみは、

「これは私からはなんともお答え申しかねます。私よりも、むすこの八重事代主神やえことしろぬしのかみが、とかくのご返事を申しあげますでございましょうが、あいにくただいま御大みおさきへりょうにまいっておりますので」とおっしゃいました。

 建御雷神たけみかずちのかみはそれを聞くと、すぐに天鳥船神あめのとりふねのかみ御大みおさきへやって、事代主神ことしろぬしのかみんで来させました。そして大国主神に言ったとおりのことを話しました。

 すると事代主神は、父の神に向かって、

「まことにもったいないおおせです。お言葉ことばのとおり、この国は大空の神さまのお子さまにおあげなさいまし」と言いながら、自分の乗って帰った船をかたむけて、おまじないの手打ちをしますと、その船はたちまち、青いいけがきに変わってしまいました。事代主神はそのいけがきの中へ急いでからだをかくしてしまいました。

 建御雷神たけみかずちのかみは大国主神に向かって、

「ただ今事代主神はあのとおりに申したが、このほかには、もうちがった意見を持っている子はいないか」とたずねました。

 大国主神は、

「私の子は事代主神のほかに、もう一人、建御名方神たけみなかたのかみというものがおります。もうそれきりでございます」とお答えになりました。

 そうしているところへ、ちょうどこの建御名方神たけみなかたのかみが、千人もかからねば動かせないような大きな大きな大岩を両手でさしあげて出て来まして、

「やい、おれの国へ来て、そんなひそひそ話をしているのはだれだ。さあ来い、力くらべをしよう。まずおれがおまえの手をつかんでみよう」と言いながら、大岩を投げだしてそばへ来て、いきなり建御雷神たけみかずちのかみの手をひっつかみますと、御雷神みかずちのかみの手は、たちまち氷の柱になってしまいました。御名方神みなかたのかみがおやとおどろいているまに、その手はまたひょいとつるぎになってしまいました。

 御名方神はすっかりこわくなっておずおずとしりごみをしかけますと、御雷神みかずちのかみは、

「さあ、こんどはおれの番だ」と言いながら、御名方神の手くびをぐいとひっつかむが早いか、まるではえたてのあしをでも扱うように、たちまち一にぎりに握りつぶして、ちぎれ取れた手先を、ぽうんと向こうへ投げつけました。

 御名方神は、まっさおになって、いっしょうけんめいにげだしました。御雷神みかずちのかみは、

「こら待て」と言いながら、どこまでもどんどんどんどん追っかけて行きました。そしてとうとう信濃しなの諏訪湖すわこのそばで追いつめて、いきなり、一ひねりにひねり殺そうとしますと、建御名方神たけみなかたのかみはぶるぶるふるえながら、

「もういよいよおそれいりました。どうぞ命ばかりはお助けくださいまし。私はこれなりこの信濃しなのより外へはひと足もみ出しはいたしません。また、父や兄の申しあげましたとおりに、この葦原あしはらの中つ国は、大空の神のお子さまにさしあげますでございます」と、平たくなっておわびしました。

 そこで建御雷神たけみかずちのかみはまた出雲いずもへ帰って来て、大国主神おおくにぬしのかみに問いつめました。

「おまえの子は二人とも、大神のおおせにはそむかないと申したが、おまえもこれでいよいよ言うことはあるまいな、どうだ」と言いますと、大国主神は、

「私にはもう何も異存はございません。この中つ国はおおせのとおり、すっかり、大神のお子さまにさしあげます。その上でただ一つのおねがいは、どうぞ私のやしろとして、大空の神の御殿ごてんのような、りっぱな、しっかりした御殿をたてていただきとうございます。そうしてくださいませば私は遠い世界から、いつまでも大神のご子孫にお仕え申します。じつは私の子は、ほかに、まだまだいくたりもありますが、しかし、事代主神ことしろぬしのかみさえ神妙にご奉公いたします上は、あとの子たちは一人も不平を申しはいたしません」

 こう言って、いさぎよくその場で死んでおしまいになりました。

 それで建御雷神たけみかずちのかみは、さっそく、出雲国いずものくに多芸志たぎしという浜にりっぱな大きなおやしろをたてて、ちゃんと望みのとおりにまつりました。そして櫛八玉神くしやたまのかみという神を、おそなえものを料理する料理人にしてつけえました。

 すると八玉神やたまのかみは、になって、海のそこの土をくわえて来て、それで、いろんなお供えものをあげるかわらけをこしらえました。

 それからある海草のくき火切臼ひきりうす火切杵ひきりぎねという物をこしらえて、それをすり合わせて火を切り出して、建御雷神たけみかずちのかみに向かってこう言いました。

「私が切ったこの火で、そこいらが、大空の神の御殿のお料理場のように、すすでいっぱいになるまで欠かさず火をたき、かまどの下が地の底の岩のようにかたくなるまで絶えず火をもやして、りょうしたちの取って来る大すずきをたくさんに料理して、大空の神の召しあがるようなりっぱなごちそうを、いつもいつもお供えいたします」と言いました。

 建御雷神たけみかずちのかみはそれでひとまず安心して、大空へ帰りのぼりました。そして天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみに、すっかりこのことを、くわしく奏上そうじょういたしました。



笠沙かささのお宮



 天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみとは、あれほどみだれさわいでいた下界を、建御雷神たけみかずちのかみたちが、ちゃんとこちらのものにして帰りましたので、さっそく天忍穂耳命あめのおしほみみのみことをおしになって、

葦原あしはらの中つ国はもはやすっかりたいらいだ。おまえはこれからすぐにくだって、さいしょ申しつけたように、あの国を治めてゆけ」とおっしゃいました。

 みことはおおせに従って、すぐに出発の用意におとりかかりになりました。するとちょうどそのときに、おきさき秋津師毘売命あきつしひめのみことが男のお子さまをお生みになりました。

 忍穂耳命おしほみみのみことは大神のごぜんへおいでになって、

「私たち二人に、世嗣よつぎの子供が生まれました。名前は日子番能邇邇芸命ひこほのににぎのみこととつけました。中つ国へくだしますには、この子がいちばんよいかと存じます」とおっしゃいました。

 それで大神は、そのお孫さまのみことが大きくおなりになりますと、改めておそばへ召して、

「下界に見えるあの中つ国は、おまえの治める国であるぞ」とおっしゃいました。命は、かしこまって、

「それでは、これからすぐにくだってまいります」とおっしゃって、急いでそのお手はずをなさいました。そしてまもなく、いよいよお立ちになろうとなさいますと、ちょうど、大空のお通り道のある四つじに、だれだか一人の神が立ちはだかって、まぶしい光をきらきらと放ちながら、上は高天原たかまのはらまでもあかあかと照らし、下は中つ国までいちめんに照りかがやかせておりました。

 天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみとはそれをご覧になりますと、急いで天宇受女命あめのうずめのみことをお呼びになって、

「そちは女でこそあれ、どんなあらくれた神に向かいあっても、びくともしない神だから、だれをもおいておまえをつかわすのである。あの、道をふさいでいる神のところへ行ってそう言って来い。大空の神のお子がおくだりになろうとするのに、そのお通り道をさまたげているおまえは何者かと、しっかりめただして来い」とお言いつけになりました。

 宇受女命うずめのみことはさっそくかけつけて、きびしくとがめたてました。すると、その神は言葉ことばをひくくして、

「私は下界の神で名は猿田彦神さるたひこのかみと申します者でございます。ただいまここまで出てまいりましたのは、大空の神のお子さまがまもなくおくだりになると承りましたので、およばずながら私がお道すじをご案内申しあげたいと存じまして、お迎えにまいりましたのでございます」とお答え申しました。

 大神はそれをお聞きになりましてご安心なさいました。そして天児屋根命あめのこやねのみこと太玉命ふとだまのみこと天宇受女命あめのうずめのみこと石許理度売命いしこりどめのみこと玉祖命たまのおやのみことの五人を、お孫さまのみことのお供のかしらとしておつけえになりました。そしておしまいにお別れになるときに、八尺やさか曲玉まがたまという、それはそれはごりっぱなお首飾くびかざりの玉と、八咫やたかがみという神々こうごうしいお鏡と、かねて須佐之男命すさのおのみことが大じゃの尾の中からお拾いになった、鋭い御剣みつるぎと、この三つのとうといご自分のお持物を、お手ずからみことにお授けになって、

「この鏡は私のたましいだと思って、これまで私に仕えてきたとおりに、たいせつにあがまつるがよい」とおっしゃいました。それから大空の神々の中でいちばんちえの深い思金神おもいかねのかみと、いちばんすぐれて力の強い手力男神たぢからおのかみとをさらにおつけえになったうえ、

思金神おもいかねのかみよ、そちはあの鏡のまつりをひき受けて、よくとり行なえよ」とおおせつけになりました。

 邇邇芸命ににぎのみことはそれらの神々をはじめ、おおぜいのお供の神をひきつれて、いよいよ大空のお住まいをおたちになり、いくともなくはるばるとわき重なっている、深い雲のみねをどんどんおし分けて、ご威光いこうりりしくお進みになり、やがて天浮橋あめのうきはしをもおしわたって、どうどうと下界に向かってくだっておいでになりました。そのまっさきには、天忍日命あめのおしひのみことと、天津久米命あまつくめのみことという、よりすぐった二人の強い神さまが、大きなつるぎをつるし、大きな弓と強い矢とをかかえて、勇ましくお先払いをして行きました。

 命たちはしまいに、日向ひゅうがの国の高千穂たかちほの山の、串触嶽くしふるだけというけわしい峰の上にお着きになりました。そしてさらに韓国嶽からくにだけという峰へおわたりになり、そこからだんだんと、ひら地へおくだりになって、お住まいをお定めになる場所を探し探し、海の方へ向かって出ておいでになりました。

 そのうちに同じ日向ひゅうが笠沙かささみさきへお着きになりました。

 邇邇芸命ににぎのみことは、

「ここは朝日もま向きにし、夕日もよく照って、じつにすがすがしいよいところだ」とおっしゃって、すっかりお気にめしました。それでとうとう最後にそこへお住まいになることにおきめになりました。そしてさっそく、地面のしっかりしたところへ、大きな広い御殿ごてんをおたてになりました。

 みことは、それから例の宇受女命うずめのみことをおしになって、

「そちは、われわれの道案内をしてくれた、あの猿田彦神さるたひこのかみとは、さいしょからの知り合いである。それでそちがつき添って、あの神が帰るところまで送って行っておくれ。それから、あの神のてがらを記念してやる印に、猿田彦さるたひこという名まえをおまえがいで、あの神と二人のつもりでわたしに仕えよ」とおっしゃいました。宇受女命うずめのみことはかしこまって、猿田彦神を送ってまいりました。

 猿田彦神は、その後、伊勢いせ阿坂あざかというところに住んでいましたが、あるときりょうに出て、ひらふがいという大きな貝に手をはさまれ、とうとうそれなり海の中へ引き入れられて、おぼれ死にに死んでしまいました。

 宇受女命うずめのみことはその神を送りとどけて帰って来ますと、笠沙かささの海ばたへ、大小さまざまのさかなをすっかり追い集めて、

「おまえたちは大空の神のお子さまにお仕え申すか」と聞きました。そうすると、どの魚も一ぴき残らず、

「はいはい、ちゃんとご奉公申しあげます」とご返事をしましたが、中でなまこがたった一人、お答えをしないでだまっておりました。

 すると宇受女命うずめのみことは怒って、

「こゥれ、返事をしない口はその口か」と言いざま、手早く懐剣かいけんきはなって、そのなまこの口をぐいとひとえぐり切りきました。ですからなまこの口はいまだに裂けております。



 そのうちに邇邇芸命ににぎのみことは、ある日、同じみさきできれいな若い女の人にお出会いになりました。

「おまえはだれのむすめか」とおたずねになりますと、その女の人は、

「私は大山津見神おおやまつみのかみの娘の木色咲耶媛このはなさくやひめと申す者でございます」とお答え申しました。

「そちにはきょうだいがあるか」とかさねてお聞きになりますと、

「私には石長媛いわながひめと申します一人の姉がございます」と申しました。みことは、

「わたしはおまえをおよめにもらいたいと思うが、来るか」とお聞きになりました。すると咲耶媛さくやひめは、

「それは私からはなんとも申しあげかねます。どうぞ父の大山津見神おおやまつみのかみにおたずねくださいまし」と申しあげました。

 みことはさっそくお使いをお出しになって、大山津見神おおやまつみのかみ咲耶媛さくやひめをお嫁にもらいたいとお申しこみになりました。

 大山津見神おおやまつみのかみはたいそう喜んで、すぐにその咲耶媛さくやひめに、姉の石長媛いわながひめをつきいにつけて、いろいろのお祝いの品をどっさり持たせてさしあげました。

 みことは非常にお喜びになって、すぐ咲耶媛とご婚礼をなさいました。しかし姉の石長媛は、それはそれはひどい顔をした、みにくい女でしたので、同じ御殿ごてんでいっしょにおくらしになるのがおいやだものですから、そのまますぐに、父の神の方へお送りかえしになりました。

 大山津見おおやまつみじ入って、使いをもってこう申しあげました。

「私が木色咲耶媛このはなさくやひめに、わざわざ石長媛いわながひめをつき添いにつけましたわけは、あなたが咲耶媛さくやひめをお嫁になすって、その名のとおり、花がほこるように、いつまでもお栄えになりますばかりでなく、石長媛いわながひめを同じ御殿にお使いになりませば、あの子の名まえについておりますとおり、岩が雨に打たれ風にさらされても、ちっとも変わらずにがっしりしているのと同じように、あなたのおからだもいつまでもお変わりなくいらっしゃいますようにと、それをお祈り申してつけ添えたのでございます。それだのに、咲耶媛さくやひめだけをおとめになつて、石長媛いわながひめをおかえしになったうえは、あなたも、あなたのご子孫のつぎつぎのご寿命じゅみょうも、ちょうど咲いた花がいくほどもなく散りはてるのと同じで、けっしてながくは続きませんよ」と、こんなことを申し送りました。

 そのうちに咲耶媛さくやひめは、まもなくお子さまが生まれそうになりました。

 それで命にそのことをお話しになりますと、命はあんまり早く生まれるので変だとおぼしめして、

「それはわしたち二人の子であろうか」とお聞きになりました。咲耶媛さくやひめは、そうおっしゃられて、

「どうしてこれが二人よりほかの者の子でございましょう。もし私たち二人の子でございませんでしたら、けっして無事にお産はできますまい。ほんとうに二人の子であるしるしには、どんなことをして生みましても、必ず無事に生まれるに相違ございません」

 こう言ってわざと出入口のないお家をこしらえて、その中におはいりになり、すきまというすきまをぴっしり土でりつぶしておしまいになりました。そしていざお産をなさるというときに、そのお家へ火をつけておやしになりました。

 しかしそんな乱暴らんぼうな生み方をなすっても、お子さまは、ちゃんとご無事に三人もお生まれになりました。ひめは、はじめ、うちじゅうに火が燃え広がって、どんどんほのおをあげているときにお生まれになった方を火照命ほてりのみことというお名まえになさいました。それから、つぎつぎに、火須勢理命ほすせりのみこと火遠理命ほおりのみことというお二方ふたかたがお生まれになりました。火遠理命ほおりのみことはまたの名を日子穂穂出見命ひこほほでみのみことともおび申しました。



満潮みちしおの玉、干潮ひしおの玉



 三人のごきょうだいは、まもなく大きなわかい人におなりになりました。その中でおあにいさまの火照命ほてりのみことは、海でりょうをなさるのがたいへんおじょうずで、いつもいろんな大きなさかなや小さな魚をたくさんつってお帰りになりました。末の弟さまの火遠理命ほおりのみことは、これはまた、山でりょうをなさるのがそれはそれはお得意で、しじゅういろんな鳥や獣をどっさりとってお帰りになりました。

 あるとき弟のみことは、おあにいさまに向かって、

「ひとつためしに二人で道具を取りかえて、たがいに持ち場をかえて、りょうをしてみようではありませんか」とおっしゃいました。

 おあにいさまは、弟さまがそう言って三度もおたのみになっても、そのたんびにいやだと言ってお聞き入れになりませんでした。しかし弟さまが、あんまりうるさくおっしゃるものですから、とうとうしまいに、いやいやながらお取りかえになりました。

 弟さまは、さっそくつり道具を持って海ばたへお出かけになりました。しかし、つりのほうはまるでおかってがちがうので、いくらおあせりになっても一ぴきもおつれになれないばかりか、しまいにはつりばりを海の中へなくしておしまいになりました。

 おあにいさまのみことも、山のりょうにはおなれにならないものですから、いっこうに獲物えものがないので、がっかりなすって、弟さまに向かって、

「わしのつり道具を返してくれ、海のりょうも山のりょうも、おたがいになれたものでなくてはだめだ。さあこの弓矢を返そう」とおっしゃいました。

 弟さまは、

「私はとんだことをいたしました。とうとう魚を一ぴきもつらないうちに、針を海へ落としてしまいました」とおっしゃいました。するとおあにいさまはたいへんにおおこりになって、無理にもその針をさがして来いとおっしゃいました。弟さまはしかたなしに、身につるしておいでになる長いつるぎを打ちこわして、それでつり針を五百本こしらえて、それを代わりにおさしあげになりました。

 しかし、おあにいさまは、もとの針でなければいやだとおっしゃって、どうしてもお聞きいれになりませんでした。それで弟さまはまた千本の針をこしらえて、どうぞこれでかんべんしてくださいましと、お頼みになりましたが、おあにいさまは、どこまでも、もとの針でなければいやだとお言いはりになりました。

 ですから弟さまは、こまっておしまいになりまして、ひとりで海ばたに立って、おいおいいておいでになりました。そうすると、そこへ塩椎神しおつちのかみという神が出てまいりました。

「もしもし、あなたはどうしてそんなに泣いておいでになるのでございます」と聞いてくれました。弟さまは、

わたしはおあにいさまのつり針を借りてりょうをして、その針を海の中へなくしてしまったのです。だから代わりの針をたくさんこしらえて、それをお返しすると、おあにいさまは、どうしてももとの針を返せとおっしゃってお聞きにならないのです」

 こう言って、わけをお話しになりました。

 塩椎神しおつちのかみはそれを聞くと、たいそうお気の毒に思いまして、

「それでは私がちゃんとよくしてさしあげましょう」と言いながら、大急ぎで、水あかが少しもはいらないように、かたく編んだ、かごの小船こぶねをこしらえて、その中へ火遠理命ほおりのみことをお乗せ申しました。

「それでは私がし出しておあげ申しますから、そのままどんどん海のまんなかへ出ていらっしゃいまし。そしてしばらくお行きになりますと、向こうの波の間によい道がついておりますから、それについてどこもでも流れておいでになると、しまいにたくさんのむねが魚のうろこのように立ちならんだ、大きな大きなお宮へお着きになります。それは綿津見わたつみの神という海の神の御殿ごてんでございます。そのお宮の門のわきに井戸いどがあります。井戸の上にかつらの木がおいかぶさっておりますから、その木の上にのぼって待っていらっしゃいまし。そうすると海の神のむすめが見つけて、ちゃんといいようにとりはからってくれますから」と言って、力いっぱいその船を押し出してくれました。



 みことはそのままずんずん流れてお行きになりました。そうするとまったく塩椎神しおつちのかみが言ったように、しばらくして大きな大きなお宮へお着きになりました。

 命はさっそくその門のそばのかつらの木にのぼって待っておいでになりました。そうすると、まもなく、綿津見神わたつみのかみむすめ豊玉媛とよたまひめのおつきの女が、玉のうつわを持って、かつらの木の下の井戸いどへ水をくみに来ました。

 女は井戸の中を見ますと、人の姿すがたがうつっているので、ふしぎに思って上を向いて見ますと、かつらの木にきれいな男の方がいらっしゃいました。

 命は、その女に水をくれとお言いになりました。女は急いで玉の器にくみ入れてさしあげました。

 しかし命はその水をお飲みにならないで、首にかけておいでになるかざりの玉をおほどきになって、それを口にふくんで、その玉の器の中へき入れて、女にお渡しになりました。女は器を受け取って、その玉をとり出そうとしますと、玉は器の底にかたくくっついてしまって、どんなにしてもはなれませんでした。それで、そのままうちの中へ持ってはいって、豊玉媛にその器ごとさし出しました。

 豊玉媛とよたまひめは、その玉を見て、

門口かどぐちにだれかおいでになっているのか」と聞きました。

 女は、

「井戸のそばのかつらの木の上にきれいな男の方がおいでになっています。それこそは、こちらの王さまにもまさって、それはそれはけだかいとうとい方でございます。その方が水をくれとおっしゃいましたから、すぐに、この器へくんでさしあげますと、水はおあがりにならないで、お首飾りの玉を中へお吐き入れになりました。そういたしますと、その玉が、ごらんのように、どうしても底から離れないのでございます」と言いました。

 ひめみことのお姿を見ますと、すぐにおとうさまの海の神のところへ行って、

「門口にきれいな方がいらしっています」と言いました。

 海の神は、わざわざ自分で出て見て、

「おや、あのお方は、大空からおくだりになった、貴い神さまのお子さまだ」と言いながら、急いでお宮へお通し申しました。そしてあしかの毛皮を八まいかさねてき、その上へまた絹のたたみを八枚重ねて、それへすわっていただいて、いろいろごちそうをどっさりならべて、それはそれはていねいにおもてなしをしました。そして豊玉媛をおよめにさしあげました。

 それでみことはそのままひめといっしょにそこにお住まいになりました。そのうちに、いつのまにか三年という月日がたちました。

 すると命はある晩、ふと例のはりのことをお思い出しになって、深いため息をなさいました。

 豊玉媛とよたまひめはあくる朝、そっと父の神のそばへ行って、

「おとうさま、みことはこのお宮に三年もお住まいになっていても、これまでただの一度もめいったお顔をなさったことがないのに、ゆうべにかぎって深いため息をなさいました。なにか急にご心配なことがおできになったのでしょうか」と言いました。

 海の神はそれを聞くと、あとで命に向かって、

「さきほどむすめが申しますには、あなたは三年の間こんなところにおいでになりましても、ふだんはただの一度も、ものをおなげきになったことがないのに、ゆうべはじめてため息をなさいましたと申します。何かわけがおありになるのでございますか。いったいいちばんはじめ、どうしてこの海の中なぞへおいでになったのでございます」こう言っておたずね申しました。

 命はこれこれこういうわけで、つりばりをさがしに来たのですとおっしゃいました。

 海の神はそれを聞くと、すぐに海じゅうの大きなさかなや小さな魚を一ぴき残さずび集めて、

「この中にだれか命の針をお取り申した者はいないか」と聞きました。すると魚たちは、

「こないだからだいがのどにとげを立てて物が食べられないでこまっておりますが、ではきっとお話のつり針をのんでいるに相違ございません」と言いました。

 海の神はさっそくそのたいを呼んで、のどの中をさぐって見ますと、なるほど、大きなつり針を一本のんでおりました。

 海の神はそれを取り出して、きれいに洗って命にさしあげました。すると、それがまさしく命のおなくしになったあの針でした。海の神は、

「それではお帰りになって、おあにいさまにお返しになりますときには、


いやなつり針、

わるいつり針、

ばかなつり針。


とおっしゃりながら、必ずうしろ向きになってお渡しなさいまし。それから、こんどからはおあにいさまが高いところへ田をお作りになりましたら、あなたは低いところへお作りなさいまし。そのあべこべに、おあにいさまが低いところへお作りになりましたら、あなたは高いところへお作りになることです。すべて世の中の水という水は私が自由に出し入れするのでございます。おあにいさまは針のことでずいぶんあなたをおいじめになりましたから、これからはおあにいさまの田へはちっとも水をあげないで、あなたの田にばかりどっさり入れておあげ申します。ですから、おあにいさまは三年のうちに必ず貧乏びんぼうになっておしまいになります。そうすると、きっとあなたをねたんで殺しにおいでになるに相違ございません。そのときには、この満潮みちしおの玉を取り出して、おぼらしておあげなさい。この中から水がいくらでもわいて出ます。しかし、おあにいさまが助けてくれとおっしゃられておわびをなさるなら、こちらのこの干潮ひしおの玉を出して、水をひかせておあげなさいまし。ともかく、そうして少しこらしめておあげになるがようございます」

 こう言って、そのたいせつな二つの玉をみことにさしあげました。それからけらいのわにをすっかりび集めて、

「これから大空の神のお子さまが陸の世界へお帰りになるのだが、おまえたちはいく日あったら命をお送りして帰ってくるか」と聞きました。

 わにたちは、お互いにからだの大きさにつれてそれぞれかんじょうして、めいめいにお返事をしました。その中で六しゃくばかりある大わには、

「私は一日あれば行ってまいります」と言いました。海の神は、

「それではおまえお送り申してくれ。しかし海を渡るときに、けっしてこわい思いをおさせ申してはならないぞ」とよく言い聞かせた上、その首のところへ命をお乗せ申して、はるばるとお送り申して行かせました。すると、わにはうけあったとおりに、一日のうちに命をもとの浜までおつれ申しました。

 命はご自分のつるしておいでになる小さな刀をおほどきになって、それをごほうびにわにの首へくくりつけておかえしになりました。

 命はそれからすぐに、おあにいさまのところへいらしって、海の神が教えてくれたとおりに、


いやなつりばり

悪いつり針、

ばかなつり針。


と言い言い、例のつり針を、うしろ向きになってお返しになりました。それから田を作るにも海の神が言ったとおりになさいました。

 そうすると、命の田からは、毎年どんどんおこめが取れるのに、おあにいさまの田には、水がちっとも来ないものですから、おあにいさまは、三年の間にすっかり貧乏びんぼうになっておしまいになりました。

 するとおあにいさまは、あんのじょう、命のことをねたんで、いくどとなく殺しにおいでになりました。命はそのときにはさっそく満潮みちしおの玉を出して、大水をわかせてお防ぎになりました。おあにいさまは、たんびにおぼれそうになって、助けてくれ、助けてくれ、とおっしゃいました。命はそのときには干潮ひしおの玉を出してたちまち水をおひかせになりました。そんなわけで、おあにいさまも、しまいには弟さまの命にはとてもかなわないとお思いになり、とうとう頭をさげて、

「どうかこれまでのことは許しておくれ。私はこれからしょうがい、夜昼おまえのうちの番をして、おまえに奉公するから」と、かたくおちかいになりました。

 ですから、このおあにいさまの命のご子孫は、後のまで、命が水におぼれかけてお苦しみになったときの身振みぶりをまねた、さまざまなおかしなおどりを踊るのが、代々きまりになっておりました。



 そのうちに、火遠理命ほおりのみことが海のお宮へ残しておかえりになった、およめさまの豊玉媛とよたまひめが、ある日ふいに海の中から出ていらしって、

「私はかねて身重みおもになっておりましたが、もうお産をいたしますときがまいりました。しかし大空の神さまのお子さまを海の中へお生み申してはおそれ多いと存じまして、はるばるこちらまで出てまいりました」とおっしゃいました。

 それでみことは急いで、うぶやという、お産をするおうちを、海ばたへおたてになりました。その屋根はかやの代わりに、うの羽根を集めておふかせになりました。

 するとその屋根がまだできあがらないうちに、豊玉媛は、もう産けがおつきになって、急いでそのうちへおはいりになりました。

 そのときひめは命に向かって、

「すべての人がお産をいたしますには、みんな自分の国のならわしがありまして、それぞれへんなかっこうをして生みますものでございます。それですから、どうぞ私がお産をいたしますところも、けっしてごらんにならないでくださいましな」と、かたくお願いしておきました。命はひめがわざわざそんなことをおっしゃるので、かえって変だとおぼしめして、あとでそっと行ってのぞいてご覧になりました。

 そうすると、たった今まで美しい女であった豊玉媛が、いつのまにか八ひろもあるような恐ろしい大わにになって、うんうんうなりながらはいまわっていました。命はびっくりして、どんどんげ出しておしまいになりました。

 豊玉媛はそれを感づいて、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないものですから、お子さまをお生み申すと、命に向かって、

「私はこれから、しじゅう海を往来して、お目にかかりにまいりますつもりでおりましたが、あんな、私の姿をご覧になりましたので、ほんとうにお恥ずかしくて、もうこれきりおうかがいもできません」こう言って、そのお子さまをあとにお残し申したまま、海の中の通り道をすっかりふさいでしまって、どんどん海の底へ帰っておしまいになりました。そしてそれなりとうとう一生、二度と出ていらっしゃいませんでした。

 お二人の中のお子さまは、うの羽根の屋根がふきおえないうちにお生まれになったので、それから取って、鵜茅草葺不合命うがやふきあえずのみこととおびになりました。

 ひめは海のお宮にいらしっても、このお子さまのことが心配でならないものですから、お妹さまの玉依媛たまよりひめをこちらへよこして、その方の手で育てておもらいになりました。媛は夫の命が自分のひどい姿をおのぞきになったことは、いつまでたってもうらめしくてたまりませんでしたけれど、それでも命のことはやっぱり恋しくおしたわしくて、かたときもおわすれになることができませんでした。それで玉依媛にことづけて、


赤玉は、

さえ光れど、

白玉しらたまの、

君がよそおし、

とうとくありけり。


という歌をお送りになりました。これは、

「赤い玉はたいへんにりっぱなもので、それをひもに通してかざりにすると、そのひもまで光って見えるくらいですが、その赤玉にもまさった、白玉のようにうるわしいあなたの貴いお姿すがたを、私はしじゅうおしたわしく思っております」という意味でした。

 みことはたいそうあわれにおぼしめして、私もおまえのことはけっしてわすれはしないという意味の、お情けのこもったお歌をお返しになりました。

 命は高千穂たかちほの宮というお宮に、とうとう五百八十のお年までお住まいになりました。



八咫烏やたがらす



 鵜茅草葺不合命うがやふきあえずのみことは、ご成人の後、玉依媛たまよりひめを改めておきさきにお立てになって、四人の男のお子をおもうけになりました。

 この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命いなひのみことは、海をこえてはるばると、常世国とこよのくにという遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命わかみけぬのみことも、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命かんやまといわれひこのみことが、高千穂たかちほの宮にいらしって、天下をお治めになりました。しかし、日向ひゅうがはたいへんにへんぴで、まつりごとをお聞きめすのにひどくご不便でしたので、みことはいちばん上のおあにいさまの五瀬命いつせのみこととお二人でご相談のうえ、

「これは、もっと東の方へ移ったほうがよいであろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国ちくぜんのくにに向かっておたちになりました。その途中、豊前ぶぜん宇佐うさにお着きになりますと、その土地の宇佐都比古うさつひこ宇佐都比売うさつひめという二人の者が、御殿ごてんをつくってお迎え申し、てあつくおもてなしをしました。

 命はそこから筑前ちくぜんへおはいりになりました。そして岡田宮おかだのみやというお宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸あきの国へおのぼりになって、多家理宮たけりのみやに七年間おとどまりになり、ついで備前びぜんへお進みになって、八年の間高島宮たかしまのみやにお住まいになりました。そしてそこからお船をつらねて、波の上を東に向かっておのぼりになりました。

 そのうちに速吸門はやすいのかどというところまでおいでになりますと、向こうから一人の者が、かめの背なかに乗って、さかなをつりながら出て来まして、みことのお船を見るなり、両手をあげてしきりに手招てまねきをいたしました。命はその者をびよせて、

「おまえは何者か」とお聞きになりますと、

「私はこの地方の神で宇豆彦うずひこと申します」とお答えいたしました。

「そちはそのへんの海路を存じているか」とおたずねになりますと、

「よく存じております」と申しました。

「それではおれのお供につくか」とおっしゃいますと、

「かしこまりました。ご奉公申しあげます」とお答え申しましたので、命はすぐにおそばの者に命じて、さおをさし出させてお船へ引きあげておやりになりました。

 みんなは、そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津せっつ浪速なみはやの海を乗り切って、河内国かわちのくにの、青雲あをぐも白肩津しらかたのつという浜へ着きました。

 するとそこには、大和やまと鳥見とみというところの長髄彦ながすねひこという者が、兵をひきつれて待ちかまえておりました。命は、いざ船からおおりになろうとしますと、かれらが急にどっと矢を向けて来ましたので、お船の中からたてを取り出して、ひゅうひゅう飛んで来る矢の中をくぐりながらご上陸なさいました。そしてすぐにどんどんいくさをなさいました。

 そのうちに五瀬命いつせのみことが、長髄彦ながすねひこの鋭い矢のために大きずをお受けになりました。みことはその傷をおおさえになりながら、

「おれたちは日の神の子孫でありながら、お日さまの方に向かって攻めかかったのがまちがいである。だからかれらの矢にあたったのだ。これから東の方へ遠まわりをして、お日さまを背なかに受けて戦おう」とおっしゃって、みんなをめし集めて、弟さまの命といっしょにもう一度お船におめしになり、大急ぎで海のまん中へお出ましになりました。

 その途中で、命はお手についた傷の血をお洗いになりました。

 しかしそこから南の方へまわって、紀伊国きいのくに水門みなとまでおいでになりますと、お傷のいたみがいよいよ激しくなりました。命は、

「ああ、くやしい。かれらから負わされた手傷で死ぬるのか」と残念そうなお声でお叫びになりながら、とうとうそれなりおかくれになりました。



 神倭伊波礼毘古命かんやまといわれひこのみことは、そこからぐるりとおまわりになり、同じ紀伊きい熊野くまのという村にお着きになりました。するとふいに大きな大ぐまが現われて、あっというまにまたすぐ消えさってしまいました。ところが、みこともお供の軍勢もこの大ぐまの毒気にあたって、たちまちぐらぐらと目がくらみ、一人のこらず、その場に気絶してしまいました。

 そうすると、そこへ熊野くまの高倉下たかくらじという者が、一ふりの太刀たちを持って出て来まして、たおれておいでになる伊波礼毘古命いわれひこのみことに、その太刀をさしだしました。命はそれといっしょに、ふと正気しょうきにおかえりになって、

「おや、おれはずいぶん長寝ながねをしたね」とおっしゃりながら、高倉下たかくらじがささげた太刀たちをお受けとりになりますと、その太刀に備わっている威光でもって、さっきのくまをさし向けた熊野の山の荒くれた悪神わるがみどもは、ひとりでにばたばたとたおれて死にました。それといっしょに命の軍勢は、まわった毒から一度にさめて、むくむくと元気よく起きあがりました。

 命はふしぎにおぼしめして、高倉下たかくらじに向かって、このとうとつるぎのいわれをおたずねになりました。

 高倉下たかくらじは、うやうやしく、

「実はゆうべふと夢を見ましたのでございます。その夢の中で、天照大神あまてらすおおかみ高皇産霊神たかみむすびのかみのお二方ふたかたが、建御雷神たけみかずちのかみをおめしになりまして、葦原中国あしはらのなかつくには、今しきりにみださわいでいる。われわれの子孫たちはそれを平らげようとして、悪神わるがみどもから苦しめられている。あの国は、いちばんはじめそちが従えて来た国だから、おまえもう一度くだって平らげてまいれとおっしゃいますと、建御雷神たけみかずちのかみは、それならば、私がまいりませんでも、ここにこの前あすこを平らげてまいりましたときの太刀たちがございますから、この太刀をくだしましょう。それには、高倉下たかくらじくらのむねを突きやぶって落としましょうと、こうお答えになりました。

 それからその建御雷神たけみかずちのかみは、私に向かって、おまえのくらのむねを突きとおしてこの刀を落とすから、あすの朝すぐに、大空の神のご子孫にさしあげよとお教えくださいました。目がさめまして、倉へまいって見ますと、おおせのとおりに、ちゃんとただいまのその太刀たちがございましたので、急いでさしあげにまいりましたのでございます」

 こう言って、わけをお話し申しました。

 そのうちに、高皇産霊神たかみむすびのかみは、雲の上から伊波礼毘古命いわれひこのみことに向かって、

「大空の神のお子よ、ここからおくへはけっしてはいってはいけませんよ。この向こうにはらくれた神たちがどっさりいます。今これから私が八咫烏やたがらすをさしくだすから、そのからすの飛んで行く方へついておいでなさい」とおさとしになりました。

 まもなくおおせのとおり、そのからすがおりて来ました。みことはそのからすがつれて行くとおりに、あとについてお進みになりますと、やがて大和やまと吉野河よしのがわ河口かわぐちへお着きになりました。そうするとそこにやなをかけてさかなをとっているものがおりました。

「おまえはだれだ」とおたずねになりますと、

「私はこの国の神で、名は贄持にえもちの子と申します」とお答え申しました。

 それから、なお進んでおいでになりますと、今度はおしりにしっぽのついている人間が、井戸いどの中から出て来ました。そしてその井戸がぴかぴか光りました。

「おまえは何者か」とおたずねになりますと、

「私はこの国の神で井冰鹿いひかと申すものでございます」とお答えいたしました。

 みことはそれらの者を、いちいちおともにおつれになって、そこから山の中を分けていらっしゃいますと、またしっぽのある人にお会いになりました。この者は岩をおし分けて出て来たのでした。

「おまえはだれか」とお聞きになりますと、

「わたしはこの国の神で、名は石押分いわおしわけの子と申します、ただいま、大空の神のご子孫がおいでになると承りまして、お供に加えていただきにあがりましたのでございます」と申しあげました。命は、そこから、いよいよけわしい深い山をみ分けて、大和やまと宇陀うだというところへおでましになりました。

 この宇陀には、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしというきょうだいのあらくれ者がおりました。命はその二人のところへ八咫烏やたがらすを使いにお出しになって、

「今、大空の神のご子孫がおこしになった。おまえたちはご奉公申しあげるか」とお聞かせになりました。

 すると、兄の兄宇迦斯えうかしはいきなりかぶら矢をかけて、お使いのからすを追いかえしてしまいました。兄宇迦斯えうかしは命がおいでになるのを待ち受けてってかかろうと思いまして、急いで兵たいを集めにかかりましたが、とうとう人数にんずうがそろわなかったものですから、いっそのこと、命をだまし討ちにしようと思いまして、うわべではご奉公申しあげますと言いこしらえて、命をお迎え申すために、大きな御殿ごてんをたてました。そして、その中に、つり天じょうをしかけて、待ち受けておりました。

 すると弟の弟宇迦斯おとうかしが、こっそりとみことのところへ出て来まして、命をし拝みながら、

「私の兄の兄宇迦斯えうかしは、あなたさまをほろぼそうとたくらみまして、兵を集めにかかりましたが、思うように集まらないものですから、とうとう御殿の中につり天じょうをこしらえて待ち受けております。それで急いでおしらせ申しにあがりました」と申しました。そこで道臣命みちおみのみこと大久米命おおくめのみことの二人の大将が、兄宇迦斯えうかしびよせて、

「こりゃ兄宇迦斯えうかし、おのれの作った御殿にはおのれがまずはいって、こちらのみことをおもてなしする、そのもてなしのしかたを見せろ」とどなりつけながら、太刀たちのえをつかみ、矢をつがえて、無理やりにその御殿の中へ追いこみました。兄宇迦斯えうかしは追いまくられて逃げこむはずみに、自分のしかけたつり天じょうがどしんと落ちて、たちまちし殺されてしまいました。

 二人の大将は、その死がいを引き出して、ずたずたに切りきざんで投げてました。

 命は弟宇迦斯おとうかし献上けんじょうしたごちそうを、けらい一同におくだしになって、お祝いの大宴会えんかいをお開きになりました。命はそのとき、

宇陀うだしろにしぎなわをかけて待っていたら、しぎはかからないで大くじらがかかり、わなはめちゃめちゃにこわれた。ははは、おかしや」という意味を、歌にお歌いになって、兄宇迦斯えうかしのはかりごとの破れたことを、喜びおわらいになりました。

 それからまたその宇陀うだをおたちになって、忍坂おざかというところにお着きになりますと、そこには八十建やそたけるといって、あなの中に住んでいる、しっぽのはえた、おおぜいのあらくれた悪者どもが、みことの軍勢をち破ろうとして、大きな岩屋の中に待ち受けておりました。

 命はごちそうをして、その悪者たちをお呼びになりました。そして前もって、相手の一人に一人ずつ、お給仕につくものをきめておき、その一人一人に太刀たちかくしもたせて、合い図の歌を聞いたら一度に切ってかかれと言いふくめておおきになりました。

 みんなは、命が、

「さあ、今だ、うて」とお歌いになると、たちまち一度に太刀をき放って、たけるどもをひとり残さず切り殺してしまいました。

 しかし命は、それらの賊たちよりも、もっともっとにくいのはおあにいさまのみことのお命をうばった、あの鳥見とみ長髄彦ながすねひこでした。命はかれらに対しては、ちょうどしょうがを食べたあと、口がひりひりするように、いつまでもうらみをおわすれになることができませんでした。命は、畑のにらを、根ももいっしょに引き抜くように、かれらを根こそぎに討ち亡ぼしてしまいたい、海の中の大きな石に、きしゃごがまっくろに取りついているように、かれらをひしひしと取りまいて、一人残さず討ち取らなければおかないという意味を、勇ましい歌にしてお歌いになりました。そして、とうとうかれらを攻め亡ぼしておしまいになりました。

 そのとき、長髄彦ながすねひこの方に、やはり大空の神のお血すじの、邇芸速日命にぎはやひのみことという神がいました。

 その神がみことのほうへまいって、

「私は大空の神の御子がおいでになったと承りまして、ご奉公に出ましてございます」と申しあげました。そして大空の神の血筋ちすじだというしるしの宝物を、命に献上けんじょうしました。

 命はそれから兄師木えしき弟師木おとしきというきょうだいのものをご征伐になりました。そのいくさで、命の軍勢は伊那佐いなさという山の林の中にたてならべて戦っているうちに、中途でひょうろうがなくなって、少し弱りかけて来ました。命はそのとき、

「おお、わしつかれた。このあたりのうを使う者たちよ。早くたべ物を持って助けに来い」という意味のお歌をお歌いになりました。

 みことはなおひきつづいて、そのほかさまざまのあらびる神どもをなつけて従わせ、向かうものをどんどんほろぼして、とうとう天下をお平らげになりました。それでいよいよ大和やまと橿原宮かしはらのみやで、われわれの一番最初の天皇のお位におつきになりました。神武天皇じんむてんのうとはすなわち、このとうと伊波礼毘古命いわれひこのみことのことを申しあげるのです。



 天皇は、はじめ日向ひゅうがにおいでになりますときに、阿比良媛あひらひめという方をおきさきして、多芸志耳命たぎしみみのみことと、もう一方ひとかた男のお子をおもうけになっていましたが、お位におつきになってから、改めて、皇后としてお立てになる、美しい方をおもとめになりました。

 すると大久米命おおくめのみことが、

「それには、やはり、大空の神のお血をお分けになった、伊須気依媛いすけよりひめと申す美しい方がおいでになります。これは三輪みわやしろ大物主神おおものぬしのかみが、勢夜陀多良媛せやだたらひめという女の方のおそばへ、朱塗しゅぬりの矢に化けておいでになり、ひめがその矢を持っておへやにおはいりになりますと、矢はたちまちもとのりっぱな男の神さまになって、媛のお婿むこさまにおなりになりました。伊須気依媛いすけよりひめはそのお二人の中にお生まれになったお媛さまでございます」と申しあげました。

 そこで天皇は、大久米命をおつれになって、その伊須気依媛いすけよりひめを見においでになりました。すると同じ大和やまとの、高佐士野たかさじのという野で、七人の若い女の人が野遊びをしているのにお出会いになりました。するとちょうど伊須気依媛いすけよりひめがその七人の中にいらっしゃいました。

 大久米命はそれを見つけて、天皇に、このなかのどの方をおもらいになりますかということを、歌に歌ってお聞き申しますと、天皇はいちばん前にいる方を伊須気依媛いすけよりひめだとすぐにおさとりになりまして、

「あのいちばん前にいる人をもらおう」と、やはり歌でお答えになりました。大久米命は、その方のおそばへ行って、天皇のおおせをお伝えしようとしますと、媛は、大久米命が大きな目をぎろぎろさせながら来たので、変だとおぼしめして、


あめ、つつ、

ちどり、ましとと、

などける利目とめ


とお歌いになりました。それは、

あめという鳥、つつという鳥、ましととという鳥やちどりの目のように、どうしてあんな大きな、鋭い目を光らせているのであろう」という意味でした。

 大久米命は、すぐに、

「それはあなたを見つけ出そうとして、さがしていた目でございます」と歌いました。

 ひめのおうちは、狹井川さいがわという川のそばにありました。そこの川原かわらには、やまゆりがどっさり咲いていました。天皇は、媛のおうちへいらしって、ひと晩とまってお帰りになりました。媛はまもなく宮中におあがりになって、とうとい皇后におなりになりました。お二人の中には、日子八井命ひこやいのみこと神八井耳命かんやいみみのみこと神沼河耳命かんぬかわみみのみことと申す三人の男のお子がお生まれになりました。

 天皇は、後におん年百三十七でおかくれになりました。おなきがらは畝火山うねびやまにおほうむり申しあげました。

 するとまもなく、さきに日向ひゅうがでお生まれになった多芸志耳命たぎしみみのみことが、おはらちがいの弟さまの日子八井命ひこやいのみことたち三人をお殺し申して、自分ひとりがかってなことをしようとおくわだてになりました。

 お母上の皇后はそのはかりごとをお見ぬきになって、

畝火山うねびやまに昼はただの雲らしく、静かに雲がかかっているけれど、夕方になればれが来て、ひどい風が吹き出すらしい。木の葉がそのさきぶれのように、ざわざわさわいでいる」という意味の歌をお歌いになり、多芸志耳命たぎしみみのみことが、いまに、おまえたちを殺しにかかるぞということを、それとなくおさとしになりました。

 三人のお子たちは、それを聞いてびっくりなさいまして、それでは、こっちから先にみことを殺してしまおうとご相談なさいました。

 そのときいちばん下の神沼河耳命かんぬかわみみのみことは、中のおあにいさまの神八井耳命かんやいみみのみことに向かって、

「では、あなた、みことのところへしいって、お殺しなさい」とおっしゃいました。

 それで神八井耳命かんやいみみのみことかたなを持ってお出かけになりましたが、いざとなるとぶるぶるふるえ出して、どうしても手出しをなさることができませんでした。そこで弟さまの神沼河耳命かんぬかわみみのみことがその刀をとってお進みになり、ひといきに命を殺しておしまいになりました。

 神八井耳命かんやいみみのみことはあとで弟さまに向かって、

「私はあのかたきを殺せなかったけれど、そなたはみごとに殺してしまった。だから、私は兄だけれど、人のかみに立つことはできない。どうぞそなたが天皇の位について天下を治めてくれ、私は神々をまつる役目をひき受けて、そなたに奉公をしよう」とおっしゃいました。それで、弟の命はお二人のおあにいさまをおいてお位におつきになり、大和やまと葛城宮かつらぎのみやにお移りになって、天下をお治めになりました。すなわち第二代、綏靖天皇すいぜいてんのうさまでいらっしゃいます。

 天皇はご短命で、おん年四十五でおかくれになりました。



赤いたて、黒いたて



 綏靖天皇すいぜいてんのうからおん七代をへだてて、第十代目に崇神天皇すじんてんのうがお位におつきになりました。

 天皇にはお子さまが十二人おありになりました。その中で皇女、豊鉏入媛とよすきいりひめが、はじめて伊勢いせ天照大神あまてらすおおかみのおやしろに仕えて、そのお祭りをおつかさどりになりました。また、皇子おうじ倭日子命やまとひこのみことがおなくなりになったときに、人がきといって、お墓のまわりへ人を生きながらめておともをさせるならわしがはじまりました。

 この天皇の御代みよには、はやりやまいがひどくはびこって、人民という人民はほとんど死に絶えそうになりました。

 天皇は非常におなげきになって、どうしたらよいか、神のお告げをいただこうとおぼしめして、御身おんみきよめて、つつしんでお寝床ねどこの上にすわっておいでになりました。そうするとその夜のお夢に、三輪みわやしろ大物主神おおものぬしのかみが現われていらしって、

「こんどのやく病はこのわしがはやらせたのである。これをすっかりほろぼしたいと思うならば、大多根子おおたねこというものにわしのやしろまつらせよ」とお告げになりました。天皇はすぐに四方へはやうまのお使いをお出しになって、そういう名まえの人をおさがしになりますと、一人の使いが、河内かわち美努村みぬむらというところでその人を見つけてつれてまいりました。

 天皇はさっそくご前におしになって、

「そちはだれの子か」とおたずねになりました。

 すると大多根子おおたねこは、

「私は大物主神おおものぬしのかみのお血筋ちすじをひいた、建甕槌命たけみかづちのみことと申します者の子でございます」とお答えいたしました。

 それというわけは、大多根子おおたねこから五だいもまえの世に、陶都耳命すえつみみのみことという人のむすめ活玉依媛いくたまよりひめというたいそう美しい人がおりました。

 この依媛よりひめがあるとき、一人の若い人をお婿むこさまにしました。その人は、顔かたちから、いずまいの美しいけだかいことといったら、世の中にくらべるものもないくらい、りっぱな、りりしい人でした。

 ひめはまもなく子供が生まれそうになりました。しかしそのお婿さんは、はじめから、ただ夜だけ媛のそばにいるきりで、あけがたになると、いつのまにかどこかへ行ってしまって、けっしてだれにも顔を見せませんし、お嫁さんの媛にさえ、どこのだれかということすらも、うちあけませんでした。

 媛のおとうさまとおかあさまとは、どうかして、そのお婿さんを、どこの何びとか突きとめたいと思いまして、ある日、ひめに向かって、

「今夜は、おへやへ赤土をまいておおき、それからあさ糸のまりをはりにとおして用意しておいて、お婿むこさんが出て来たら、そっと着物のすそにその針をさしておおき」と言いました。

 媛はその晩、言われたとおりに、お婿さんの着物のすそへあさ糸をつけた針をつきさしておきました。

 あくる朝になって見ますと、針についているあさ糸は、戸のかぎあなから外へ伝わっていました。そして糸のたまは、すっかり繰りほどけて、おへやの中には、わずか三まわりに巻けた長さしか残っておりませんでした。

 それで、ともかくお婿さんは、戸のかぎ穴から出はいりしていたことがわかりました。媛はその糸の伝わっている方へずんずん行って見ますと、糸はしまいに、三輪山みわやまのおやしろにはいって止まっていました。それで、はじめて、お婿さんは大物主神おおものぬしのかみでいらしったことがわかりました。

 大多根子おおたねこはこのお二人の間に生まれた子の四代目の孫でした。

 天皇は、さっそくこの大多根子を三輪の社の神主かんぬしにして、大物主神のお祭りをおさせになりました。それといっしょに、お供えものを入れるかわらけをどっさり作らせて、大空の神々や下界の多くの神々をおまつりになりました。その中のある神さまには、とくに赤色のたて黒塗くろぬりの盾をおあげになりました。

 そのほか、山の神さまや川のの神さまにいたるまで、いちいちもれなくお供えものをおあげになって、ていちょうにお祭りをなさいました。そのために、やく病はやがてすっかりとまって、天下はやっと安らかになりました。



 天皇はついで大毘古命おおひこのみこと北陸道ほくろくどうへ、その子の建沼河別命たけぬかわわけのみこと東山道とうさんどうへ、そのほか強い人を方々へおつかわしになって、ご命令に従わない、多くの悪者どもをご征伐になりました。

 大毘古命おおひこのみことはおおせをかしこまって出て行きましたが、途中で、山城やましろ幣羅坂へらざかというところへさしかかりますと、その坂の上にこしぬのばかりを身につけた小娘こむすめが立っていて、


これこれ申し天子さま、

あなたをお殺し申そうと、

前の戸に、

うらの戸に、

行ったり来たり、

すきをねらっている者が、

そこにいるとも知らないで、

これこれ申し天子さま。


と、こんなことを歌いました。

 大毘古命おおひこのみことは変だと思いまして、わざわざうまをひきかえして、

「今言ったのはなんのことだ」とたずねました。

 すると小娘こむすめは、

「私はなんにも言いはいたしません。ただ歌を歌っただけでございます」と答えるなり、もうどこへ行ったのか、ふいに姿すがたが見えなくなってしまいました。

 大毘古命おおひこのみことは、その歌の言葉ことばがしきりに気になってならないものですから、とうとうそこからひきかえしてきて、天皇にそのことを申しあげました。すると天皇は、

「それは、きっと、山城やましろにいる、わしはらちがいの兄、建波邇安王たけはにやすのみこが、悪だくみをしている知らせに相違あるまい。そなたはこれから軍勢をひきつれて、すぐにちとりに行ってくれ」とおっしゃって、彦国夫玖命ひこくにぶくのみことという方をえて、いっしょにおつかわしになりました。

 二人は、神々のお祭りをして、勝利を祈って出かけました。そして、山城やましろ木津川きつがわまで行きますと、建波邇安王たけはにやすのみこは案のじょう、天皇におそむき申して、兵を集めて待ち受けていらっしゃいました。両方の軍勢は川をはさんで向かい合いに陣取じんどりました、彦国夫玖命ひこくにぶくのみことは、敵に向かって、

「おおい、そちらのやつ、まずかわきりに一てみよ」とどなりました。敵の大将の建波邇安王たけはにやすのみこは、すぐにそれに応じて、大きな矢をひゅうッと射放しましたが、その矢はだれにもあたらないで、わきへそれてしまいました。それでこんどはこちらから国夫玖命くにぶくのみことが射かけますと、その矢はねらいたがわず建波邇安王たけはにやすのみこし殺してしまいました。

 敵の軍勢は、みこが倒れておしまいになると、たちまち総くずれになって、どんどんげだしてしまいました。国夫玖命くにぶくのみことの兵はどんどんそれを追っかけて、河内かわちの国のある川の渡しのところまで追いつめて行きました。

 すると賊兵のあるものは、苦しまぎれにうんこが出て下ばかまをよごしました。

 こちらの軍勢はそいつらの逃げ道をくいとめて、かたっぱしからどんどん切り殺してしまいました。そのたいそうな死がいが川に浮かんで、ちょうど、うのように流れくだって行きました。

 大毘古命おおひこのみことは天皇にそのしだいをすっかり申しあげて、改めて北陸道ほくろくどうへ出発しました。

 そのうちに大毘古命おおひこのみことの親子をはじめ、そのほか方々へおつかわしになった人々が、みんなおおせつかった地方を平らげて帰りました。そんなわけで、もういよいよどこにも天皇におさからいする者がなくなって、天下は平らかに治まり、人民もどんどん裕福ゆうふくになりました。それで天皇ははじめて人民たちから、男から弓端ゆはず調みつぎといって、弓矢でとった獲物えものの中のいくぶんを、女からは手末たなすえ調みつぎといって、つむいだり、織ったりして得たもののいくぶんを、それぞれ貢物みつぎものとしておめしになりました。

 天皇はまた、人民のために方々へ耕作用の池をお作りになりました。天皇の高いお徳は、後のからも、いついつまでもながくおほめ申しあげました。



おしの皇子おうじ



 崇神天皇すじんてんのうのおあとには、お子さまの垂仁天皇すいにんてんのうがお位をおぎになりました。天皇は、沙本毘古王さほひこのみこという方のお妹さまで沙本媛さほひめとおっしゃる方を皇后におしになって、大和やまと玉垣たまがきの宮にお移りになりました。

 その沙本毘古王さほひこのみこが、あるとき皇后に向かって、

「あなたは夫と兄とはどちらがかわいいか」と聞きました。皇后は、

「それはおあにいさまのほうがかわゆうございます」とお答えになりました。するとみこは、用意していた鋭い短刀をそっと皇后にわたして、

「もしおまえが、ほんとうにわしをかわいいと思うなら、どうぞ、この刀で天皇がおよっていらっしゃるところをし殺しておくれ。そして二人でいつまでも天下を治めようではないか」と言って、無理やりに皇后を説きせてしまいました。

 天皇は二人がそんなおそろしいたくらみをしているとはご存じないものですから、ある晩、なんのお気もなく、皇后のおひざをまくらにしておねむりになりました。

 皇后はこのときだとお思いになって、いきなり短刀をき放して、天皇のお首をま下にねらって、三度までおりかざしになりましたが、いよいよとなると、さすがにおいたわしくて、どうしてもお手をおくだしになることができませんでした。そしてとうとう悲しさにえきれないで、おんおんおきだしになりました。

 そのなみだが天皇のお顔にかかって流れ落ちました。天皇はそれといっしょに、ひょいとお目ざめになって、

「おれは今きたいな夢を見た。沙本さほの村の方からにわかに大雨が降って来て、おれの顔にぬれかかった。それから、にしき色の小さなへびがおれの首へ巻きついた。いったいこんな夢はなんのしるしであろう」と、皇后に向かっておたずねになりました。皇后はそうおっしゃられると、ぎくりとなすって、これはとてもかくしきれないとお思いになったので、おあにいさまとお二人のおそれ多いたくらみをすっかり白状しておしまいになりました。

 天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、

「いやそれは危くばかな目を見るところであった」とおっしゃりながら、すぐに軍勢をお集めになって、沙本毘古さほひこちとりにおつかわしになりました。

 すると沙本毘古さほひこのほうでは、いねたばをぐるりと積みあげて、それでとりでをこしらえて、ちゃんと待ち受けておりました。天皇の軍勢はそれをめがけて撃ってかかりました。

 皇后はそうなると、こんどはまたおあにいさまのことがおいたわしくおなりになって、じっとしておいでになることができなくなりました。それで、とうとうこっそり裏口うらぐちのご門からけ出して、沙本毘古さほひこのとりでの中へかけつけておしまいになりました。

 皇后はそのときちょうど、おなかにお子さまをお持ちになっていらっしゃいました。

 天皇は、もはや三年もごちょう愛になっていた皇后でおありになるうえに、たまたまお身持ちでいらっしゃるものですから、いっそうおかわいそうにおぼしめして、どうか皇后のお身におけががないようにと、それからは、とりでもただ遠まきにして、むやみに攻め落とさないように、とくにご命令をおくだしになりました。



 そんなことで、かれこれいくさも長びくうちに、皇后はおあにいさまのとりでの中で皇子をお生みおとしになりました。

 皇后はそのお子さまをとりでのそとへ出させて、天皇の軍勢の者にお見せになり、

「この御子みこをあなたのお子さまとおぼしめしてくださるならば、どうぞひきとってご養育なすってくださいまし」と、天皇にお伝えさせになりました。

 天皇はそのことをお聞きになりますと、ついでにどうかして皇后をもいっしょに取りかえしたいとお思いになりました。それは、兄の沙本毘古さほひこに対しては、きざみ殺してもたりないくらい、おいきどおりになっておりますが、皇后のことだけは、どこまでもおいたわしくおぼしめしていらっしゃるからでした。

 それで味方の兵士の中で、いちばん力の強い、そしていちばんすばしっこい者をいく人かお選びになって、

「そちたちはあの皇子を受け取るときに、必ず母のきさきをもひきさらってかえれ。髪でも手でも、つかまりしだいに取りつかまえて、無理にもつれ出して来い」とお言いつけになりました。

 しかし皇后のほうでも、天皇がきっとそんなおくわだてをなさるに違いないと、ちゃんとお感づきになっていましたので、そのときの用意に、前もっておぐしをすっかりおそり落としになって、そのお毛をそのままそっとおかぶりになり、それからお腕先うでさきのお玉飾たまかざりも、わざと、つなぎのひもくさらして、お腕へ三重みえにお巻きつけになり、お召物めしものもわざわざ酒で腐らしたのをおめしになって、それともなげに皇子をかかえて、とりでの外へお出ましになりました。

 待ちかまえていた勇士たちは、そのお子さまをお受け取り申すといっしょに、皇后をも奪い取ろうとして、すばやく飛びかかっておぐしをひっつかみますと、髪はたちまちすらりとぬげ落ちてしまいました。

「おや、しまった」と、こんどはお手をつかみますと、そのお手の玉飾りのひももぷつりと切れたので、なんなくお手をすりいておげになりました。こちらはまたあわてて追いすがりながら、ぐいとお召物をつかまえました。すると、それもたちまちぼろりとちぎれてしまいました。その間に皇后は、さっと中へ逃げこんでおしまいになりました。

 勇士どもはしかたなしに、皇子一人をおかかえ申して、しおしおと帰ってまいりました。

 天皇はそれらの者たちから、

「おぐしをつかめばお髪がはなれ、玉のひももお召物めしものも、みんなぷすぷす切れて、とうとうおとりにがし申しました」とお聞きになりますと、それはそれはたいそうおくやみになりました。

 天皇はそのために、宮中の玉飾りの細工人さいくにんたちまでおにくみになって、それらの人々が知行ちぎょうにいただいていた土地を、いきなり残らず取りあげておしまいになりました。

 それから改めて皇后の方へお使いをお出しになって、

「すべて子供の名は母がつけるものときまっているが、あの皇子は、なんという名前にしようか」とお聞きかせになりました。

 皇后はそれに答えて、

「あの御子みこは、ちょうどとりでが火をかけられて焼けるさいちゅうに、その火の中でお生まれになったのでございますから、本牟智別王ほむちわけのみことお呼び申したらよろしゅうございましょう」とおっしゃいました。そのほむちというのは火のことでした。

 天皇はそのつぎには、

「あの子には母がないが、これからどうして育てたらいいか」とおたずねになりますと、

「ではうばをおかかえになり、お湯をおつかわせ申す女たちをもおおきになって、それらの者におまかせになればよろしゅうございます」とお答えになりました。

 天皇は最後に、

「そちがいなくなっては、おれの世話はだれがするのだ」とお聞きになりました。すると皇后は、

「それには、丹波たんば道能宇斯王みちのうしのみこの子に、兄媛えひめ弟媛おとひめというきょうだいのむすめがございます。これならば家柄いえがらも正しい女たちでございますから、どうかその二人をおしなさいまし」とおっしゃいました。

 天皇はもういよいよしかたなしに、一気にとりでを攻め落として、沙本毘古さほひこを殺させておしまいになりました。

 皇后も、それといっしょに、えんえんと燃えあがる火の中に飛びこんでおしまいになりました。



 お母上のない本牟智別王ほむちわけのみこは、それでもおしあわせに、ずんずんじょうぶにご成長になりました。

 天皇はこの皇子のために、わざわざ尾張おわり相津あいずというところにある、二またになった大きなすぎの木をお切らせになって、それをそのままくって二またの丸木船まるきぶねをお作らせになりました。そして、はるばると大和やまとまで運ばせて、市師いちしの池という池におかべになり、その中へごいっしょにお乗りになって、皇子をお遊ばせになりました。

 しかしこの皇子は、後にすっかりご成人せいじんになって、長いお下ひげがお胸先むねさきにたれかかるほどにおなりになっても、お口がちっともおきけになりませんでした。

 ところがあるとき、こうの鳥が、空を鳴いて飛んで行くのをごらんになって、お生まれになってからはじめて、

「あわわ、あわわ」とおおせになりました。

 天皇は、さっそく、山辺大鷹やまべのおおたかという者に、

「あの鳥をとって来てみよ」とおいいつけになりました。

 大鷹おおたかはかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国きいのくに播磨国はりまのくにへとくだって行き、そこから因幡いなば丹波たんば但馬たじまをかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江おうみから美濃みの尾張おわりをかけぬけて信濃しなのにはいり、とうとう越後えちごのあたりまでつけて行きました。そして、やっとのことで和那美わなみという港でわなあみを張って、ようやく、そのこうの鳥をつかまえました。そして大急ぎでみやこへ帰って、天皇におさし出し申しました。

 天皇は、その鳥を皇子にお見せになったら、おものがおっしゃれるようにおなりになりはしないかとおぼしめして、わざわざとりにおつかわしになったのでした。しかし皇子は、やはりそのまま一言ひとこともおものをおっしゃいませんでした。

 天皇はそのために、いつもどんなにお心をおいためになっていたかしれませんでした。

 そのうちに、ある晩、ふと夢の中で、

わしのおやしろを天皇のお宮のとおりにりっぱに作り直して下さるならみこは必ず口がきけるようにおなりになる」と、こういうお告げをお聞きになりました。

 天皇は、どの神さまのお告げであろうかと急いでうらないの役人に言いつけて占わせてごらんになりますと、それは出雲いずも大神おおかみのお告げで、皇子はその神のおたたりでおしにお生まれになったのだとわかりました。

 それで天皇は、すぐに皇子を出雲へおまいりにお出しになることになさいました。

 それにはだれをつけてやったらよかろうと、また占わせてごらんになりますと、曙立王けたつのみこという方が占いにおあたりになりました。

 天皇は、その曙立王けたつのみこにお言いつけになって、なお念のために、うかがいのお祈りを立てさせてごらんになりました。

 みこはおおせによって、さぎのの池のそばへ行って、

「あの夢のお告げのとおり、出雲の大神をおがんでおしるしがあるならば、その証拠しょうこにこの池のさぎどもを死なせて見せてくださるように」とお祈りをしますと、そのまわりの木の上にとまっていた池じゅうのさぎが、いっせいにぱたぱたと池に落ちて死んでしまいました。そこでこんどは祈りを返して、

「あのさぎがことごとく生きかえりますように」と言いますと、いったん死んだそれらのさぎが、またたちまちもとのとおりに生きかえりました。そのつぎには古樫ふるがしおかという岡の上にしげっている、葉の大きなかしの木も、曙立王けたつのみこの祈りによって、同じようにれたりまた生きかえったりしました。

 そんなわけで、お夢のこともまったく出雲の大神おおかみのお告げだということがいよいよたしかになりました。

 天皇はすぐに曙立王けたつのみこ兎上王うがみのみことの二人を本牟智別王ほむちわけのみこにつけて、出雲へおつかわしになりました。

 そのご出立しゅったつのときにも、どちらの道を選べばよいかとおうらなわせになりました。すると、奈良街道ならかいどうからでは、途中でいざりやめくらに会うし、大阪口おおさかぐちから行っても、やはりめくらやいざりに会うので、どちらとも旅立ちには不吉ふきつである、脇道わきみち紀井街道きいかいどうをとおって行けば、必ずさいさきがよいと、こう占いに出ました。一同はそのとおりにして立っておいでになりました。

 天皇は皇子のお名前をながく後の世までお伝えになるために、その途中のいたるところに、本牟智部ほむちべという部族をおこしらえさせになりました。

 皇子は、いよいよ出雲にお着きになって、大神おおかみのおやしろにおまいりになりました。

 そしてまたみやこへお帰りになろうとなさいますと、その出雲の国をおあずかりしている、国造くにのみやつこという、いちばん上の役人が、かわの中へかりのお宮をつくり、それへ、細木ほそきんだ橋を渡して、その宮で、皇子を、ごちそうしておもてなし申しあげました。

 そのとき川下の方には、皇子のお目をなぐさめるために、青葉で、作りものの山がこしらえてありました。

 皇子はそれをごらんになって、

「あの川下に、山のように見えている青葉は、あれはほんとうの山ではないだろう。神主かんぬしたちが大国主神おおくにぬしのかみのお祭りをする場所ででもあるのか」と突然こうお聞きになりました。

 お供の曙立王けたつのみこ兎上王うがみのみこたちは、皇子がふいにおものをおっしゃれるようになったので、びっくりして喜んで、すぐに早うまのお使いを立てて、そのことを天皇にお知らせ申しました。

 皇子はそれからほかのお宮へお移りになって、肥長媛ひながひめという人をおきさきにおもらいになりました。

 ところがあとでごらんになりますと、それはへびが女になって出て来たのだとわかりました。皇子はびっくりなすって、みんなとごいっしょに船に乗っておげになりました。

 するとへびのひめは、皇子のおあとをしたって、急いで別の船をしたてて、海の上をきらきらと照らしながら、どんどん追っかけて来ました。皇子はいよいよ気味きみが悪くおなりになって、あわてて船をひきあげさせて、それをひっぱらせて山の間をおえになり、またその船をおろして海をおわたりになったりなすって、やっと無事にみやこへ逃げておかえりになりました。

 曙立王けたつのみこは天皇におめみえをして、

「おおせのとおりに大神をおおがみになりますと、まもなく、急にお口がおきけになるようになりましたので、一同でお供をして帰ってまいりました」と申しあげました。

 天皇は、それはそれは言うに言われないほどお喜びになりました。そしてすぐに兎上王うがみのみこをまたふたた出雲いずもへおくだしになって、大神のおやしろをりっぱにご造営ぞうえいになりました。



 天皇はそれですっかりご安心になったので、こんどはご不自由がちな、おそばのご用をおいいつけになるために、かねて皇后がおっしゃってお置きになったように、丹波たんばから兄媛えひめたちのきょうだい四人をおめしよせになりました。

 しかし下の二人はたいそうみにくい子でしたので、天皇は兄媛えひめとそのつぎの弟媛おとひめとだけをおかかえになって、あとの二人はそのまま家へかえしておしまいになりました。

 すると、いちばん下の円野媛まどのひめは、四人がいっしょにおめしに会ってうかがいながら、二人だけは顔がきたないためにご奉公ができないでかえされたと言えば、近所の村々への聞こえも恥ずかしく、とても生きてはいられないと言って、途中の山城やましろ乙訓おとくにというところまでかえりますと、あわれにも、そこの深いふちに身を投げて死んでしまいました。

 それから天皇はある年、多遅摩毛理たじまもりという者に、常世国とこよのくにへ行って、かおりの高いたちばなのを取って来いとおおせつけになりました。

 多遅摩毛理たじまもりはかしこまって、長い年月としつきの間いっしょうけんめいに苦心して、はてしもない大海おおうみの向こうの、遠い遠いその国へやっとたどり着きました。そしておおせのたちばなの実の、枝葉えだはのままついたのを八つ、実ばかりのを八つもぎ取って、また長い間かかって、ようよう都へ帰って来ました。しかし天皇はその前に、もうとっくにおかくれになっていました。

 多遅摩毛理たじまもりはそのことを承ると、それはそれはがっかりして、葉つきの実を四つと、葉のないのを四つとを、天皇のおそばにお仕え申していた兄媛えひめにさしあげたうえ、あとの四つずつを天皇のお墓にお供え申しました。そしてき泣き大声を張りあげて、

「ごらんくださいまし。このとおりおおせの実を取ってまいりました。どうぞご覧くださいまし」とそのたちばなを両手にさしあげて、りかえし繰りかえし、いつまでもそのお墓の前で叫び続けて、とうとうそれなり叫び死にに死んでしまいました。



白い鳥



 第十二代景行天皇けいこうてんのうは、お身のたけが一じょうすん、おひざから下が四しゃく一寸もおありになるほどの、偉大なお体格でいらっしゃいました。それからお子さまも、すべてで八十人もお生まれになりました。

 天皇はその中で、後におあとをおぎになった若帯日子命わかたらしひこのみことと、小碓命おうすのみこととおっしゃる皇子おうじと、ほかにもう一方ひとかたとだけをおそばにお止めになり、あとの七十七人の方々かたがたをことごとく、地方地方の国造くにのみやつこ別稲置わけいなぎ県主あがたぬしという、それぞれの役におつけになりました。

 あるとき天皇は、美濃みのの、神大根王かんおおねのみこという方のむすめで、兄媛えひめ弟媛おとひめという姉妹きょうだいが、二人ともたいそうきりょうがよい子だという評判をお聞きになって、それをじっさいにおたしかめになったうえ、さっそく御殿ごてんにお召使めしつかいになるおつもりで、皇子の大碓命おおうすのみことにお言いつけになって、二人をしのぼせにおつかわしになりました。

 すると、大碓命おおうすのみことは、その二人の者をご自分のお召使いに取っておしまいになり、別に二人の姉妹きょうだいの女をさがし出して、それを兄媛えひめ弟媛おとひめだといつわって、天皇にお目通りをおさせになりました。

 天皇はそれがほかの女であるということを、ちゃんとお見抜きになりました。しかしうわべでは、あくまでだまされていらっしゃるようにお見せかけになって、二人をそのまま御殿ごてんにお置きになりました。その代わりお手近てぢかのご用は、わざとほかの者にお言いつけになって、それとなく二人をおこらしめになりました。

 大碓命おおうすのみことはそんな悪いことをなすってからは、天皇の御前ごぜんへお出ましになるのをうしろぐらくおぼしめして、さっぱりお顔をお見せになりませんでした。

 天皇はある日、弟さまの皇子おうじ小碓命おうすのみことに向かって、

「そちが兄は、どういうわけで、このせつ朝夕の食事のときにも出て来ないのであろう。おまえ行って、よく申し聞かせよ」とおっしゃいました。

 しかし、それから五日もたっても、大碓命おおうすのみことは、やっぱりそのままお顔出しをなさらないものですから、天皇は小碓命おうすのみことして、

「兄はどうして、いつまでも食事しょくじに出て来ないのか。おまえはまだ言わないのではないか」とお聞きになりました。

「いいえ、申し聞かせました」とみことはお答えになりました。

「では、どういうふうに話したのか」

「ただ朝早く、おあにいさまがかわやにはいりますところを待ち受けて、つかみくじき、手足をむしりとって、死体をこもにくるんでうッちゃりました」と、みことはまるでむぞうさにこう言って、すましていらっしゃいました。

 天皇はそれ以来、小碓命おうすのみことのきついあらいご気性きしょうおそろしくおぼしめして、どうかしてそれとなく命をおそばから遠ざけようとお考えになりました。それでまもなく命をして、

「実は西の方に熊襲建くまそたけるという者のきょうだいがいる。二人とも私の命令に従わない無礼なやつである。そちはこれから行って、かれらを打ちとってまいれ」とおおせになりました。それで命は、急いで伊勢いせにおくだりになって、大神宮だいじんぐうにお仕えになっている、おんおば上の倭媛やまとひめにお別れをなさいました。

 するとおば上からは、ごりょうのお上着うわぎと、おはかまと、懐剣かいけんとを、お別れのおしるしにおくだしになりました。

 命はそれからすぐに、今の日向ひゅうが大隅おおすみ薩摩さつまの地方へ向かっておくだりになりました。そのとき命は、まだおぐしをおひたいにおいになっている、ただほんの一少年でいらっしゃいました。



 命は、その土地にお着きになり、熊襲建くまそたけるのうちへ近づいて、ようすをおうかがいになりますと、たけるらは、うちのまわりへ軍勢をぐるりと三じゅうに立てかこわせて、その中に住まっておりました。そして、たまたまちょうどその家ができあがったばかりで、近々にそのお祝いの宴会えんかいをするというので、大さわぎでしたくをしているところでした。

 みことはそのあたりをぶらぶら歩きまわって、その宴会えんかいの日が来るのを待ちかまえていらっしゃいました。そして、いよいよその日になりますと、今までおいになっていたおぐしを、少女のようにすきさげになさり、おんおば上からおさずかりになったご衣裳いしょうして、すっかり小女こおんな姿すがたにおなりになりました。そして、ほかの女たちの中にまじって、たけるどもの宴会えんかいのへやへはいっておいでになりました。

 すると熊襲建くまそたけるきょうだいは、命をほんとうの女だとばかり思いこんでしまいまして、その姿のきれいなのがたいそう気にいったので、とくに自分たち二人の間にすわらせて、大喜びで飲みさわぎました。

 命は、みんながすっかりきょうに入ったころを見はからって、そっとふところからつるぎをお取り出しになったと思いますと、いきなり片手で兄のたけるのえり首をつかんで、むねのところをひときに突き通しておしまいになりました。

 弟のたけるはそれを見ると、あわててへやの外へ逃げ出そうとしました。

 みことは、それをもすかさず、階段かいだんの下に追いつめて、手早く背中せなかをひっつかみ、ずぶりとおしりをお突きしになりました。

 たけるはそれなりじたばたしようともしないで、

「どうぞその刀をしばらく動かさないでくださいまし。一言ひとこと申しあげたいことがございます」と、言いました。それでみことは刀をおしになったなり、しばらくせたままにしていらっしゃいますと、たけるは、

「いったいあなたはどなたでございます」と聞きました。

「おれは、大和やまと日代ひしろみや天下てんかを治めておいでになる、大帯日子天皇おおたらしひこてんのう皇子おうじ、名は倭童男王やまとおぐなのみこという者だ。なんじら二人とも天皇のおおせに従わず、無礼なふるまいばかりしているので、勅命ちょくめいによって、ちゅうばつにまいったのだ」と、みことはおおしくお名乗りになりました。

 たけるはそれを聞いて、

「なるほど、そういうお方に相違ございますまい。この西の国じゅうには、私ども二人より強い者は一人もおりません。それにひきかえ大和やまとには、われわれにもまして、すばらしいお方がいられたものだ。おそれながら私がお名まえをさしあげます。これからあなたのお名まえは倭建命やまとたけるのみこととおび申したい」と言いました。

 命はたけるがそう言いおわるといっしょに、そのあらくれ者を、まるでじゅくしたまくわうりを切るように、ずぶずぶと切りほうっておしまいになりました。

 それ以来、だれもかれも命のご武勇をおほめ申して、お名まえを倭建命やまとたけるのみことと申しあげるようになりました。

 命は、それから大和やまとへおひきかえしになる途中で、いろんな山の神や川の神や、穴戸あなどの神ととなえて、方々の険阻けんそなところにたてこもっている悪神わるがみどもを、かたはしからお従えになった後、出雲いずもの国へおまわりになって、そのあたりではばをきかせている、出雲建いずもたけるという悪者をお退治たいじになりました。

 みことはまずそのたけるの家へたずねておいでになって、その悪者とごこうさいをお結びになりました。そして、そのあとで、こっそりとあかひのきという木を刀のようにおけずりになり、それをりっぱな太刀たちのようにかざりをつけておつるしになって、たけるをさそい出して、二人でかわの水を浴びにいらっしゃいました。そして、いいかげんなころを見はからって、ご自分の方が先におあがりになり、ごじょうだんのようにたけるの太刀をお身におつけになりながら、

「どうだ、二人でこの刀のとりかえっこをしようか」とおっしゃいました。たけるはあとからのそのそあがって来て、

「よろしい取りかえよう」と言いながら、うまくだまされて命のにせの刀をつるしました。命は、

「さあ、ひとつ二人で試合をしよう」とお言いになりました。そして二人とも刀をき放すだんになりますと、たけるのはにせの刀ですから、いくら力を入れても抜けようはずがありません。命はたけるがそれでまごまごしているうちに、すばやくほんものの刀を引き抜いて、たちまちその悪者を切り殺しておしまいになりました。そして、そのあとで、たけるが抜けない刀を抜こうとして、まごまごとあわてたおかしさを、歌につくっておわらいになりました。



 みことはこんなにして、お道筋みちすじぞくどもをすっかりたいらげて、大和やまとへおかえりになり、天皇にすべてをご奏上そうじょうなさいました。

 すると天皇は、またすぐにひき続いて、命に、東の方の十二か国の悪い神々や、おおせに従わない悪者どもをき従えてまいれとおおせになって、ひいらぎのほこをおさずけになり、御鉏友耳建日子みすきともみみたけひこという者をおつけえになりました。

 命はお言いつけを奉じて、またすぐにおでかけになりました。そして途中で伊勢いせのお宮におまいりになって、おんおば上の倭媛やまとひめ再度さいどのお別れをなさいました。そのとき命はおんおば上に向かっておっしゃいました。

「天皇は私を早くなくならせようとでもおぼしめすのでしょう。でも、こないだまで西の方の賊をちにまいっておりまして、やっと、たった今かえったと思いますと、またすぐに、こんどは東の方の悪者どもを討ちとりにお出しになるのはどういうわけでございましょう。それもほとんど軍勢ぐんぜいというほどのものもくださらないのです。こんなことからおして考えてみますと、どうしても私を早く死なせようというお心持としか思われません」命はこうおっしゃってなみだながらにお立ちになろうとしました。

 おんおば上は、命のそのおうらみをおやさしくおなだめになったうえ、もと神代かみよのときに、須佐之男命すさのおのみことだいじゃの尾の中からお拾いになった、あのとうといお宝物たからもの御剣みつるぎと、ほかにふくろを一つお授けになり、まん一、急なことが起こったら、このふくろの口をおきなさい、とおおせになりました。

 命はそれから尾張おわりへおはいりになって、そこの国造くにのみやつこむすめ美夜受媛みやずひめのおうちにおとまりになりました。そして、かえりにはまたかならず立ちるからとお言いのこしになって、さらに東の国へお進みになり、山や川に住んでいる、あらくれ神や、そのほか天皇にお仕えしない悪者どもをいちいちおき従えになりました。そしてまもなく相模さがみの国へお着きになりました。

 するとそこの国造くにのみやつこが、命をお殺し申そうとたくらんで、

「あすこの野中に大きなぬまがございます。その沼の中に住んでおります神が、まことに乱暴らんぼうなやつで、みんなこまっております」と、おだまし申しました。

 命はそれをまにお受けになって、その野原の中へはいっておいでになりますと、国造くにのみやつこは、ふいにその野へ火をつけて、どんどん四方から焼きたてました。

 命ははじめて、あいつにだまされたかとお気づきになりました。そのにも火はどんどんま近にせまって来て、お身があやうくなりました。

 命はおんおば上のおおせを思い出して、急いで、例の袋のひもをといてごらんになりますと、中には火打ひうちがはいっておりました。

 命はそれで、急いでお宝物たからもの御剣みつるぎいて、あたりの草をどんどんおなぎ払いになり、今の火打ひうちでもって、その草へ向かい火をつけて、あべこべに向こうへ向かってお焼きたてになりました。命はそれでようやく、その野原からのがれ出ていらっしゃいました。そしていきなり、その悪い国造くにのみやつこと、手下てしたの者どもを、ことごとく切り殺して、火をつけて焼いておしまいになりました。

 それ以来そのところを焼津やいずと呼びました。それから、みことが草をお切りはらいになった御剣みつるぎ草薙くさなぎつるぎと申しあげるようになりました。

 命はその相模さがみ半島はんとうをおたちになって、お船で上総かずさへ向かっておわたりになろうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大波おおなみきあげて、海一面を大荒おおあれに荒れさせました。命の船はたちまちくるくるまわり流されて、それこそ進むこともひきかえすこともできなくなってしまいました。

 そのとき命がおつれになっていたお召使めしつかい弟橘媛おとたちばなひめは、

「これはきっと海の神のたたりに相違ございません。私があなたのお身代わりになりまして、海の神をなだめましょう。あなたはどうぞ天皇のお言いつけをおしとげくださいまして、めでたくあちらへおかえりくださいまし」と言いながら、すげのたたみを八まい皮畳かわだたみを六枚に、絹畳きぬだたみを八枚かさねて、波の上に投げおろさせるやいなや、身をひるがえして、その上へ飛びおりました。

 大波おおなみは見るまに、たちまちひめきこんでしまいました。するとそれといっしょに、今まで荒れ狂っていた海が、ふいにぱったりと静まって、急におだやかななぎになってきました。

 命はそのおかげでようやく船を進めて、上総かずさの岸へ無事にお着きになることができました。

 それから七日目に、橘媛たちばなひめのくしがこちらの浜へうちあげられました。命はそのくしを拾わせて、あわれなひめのためにお墓をお作らせになりました。

 橘媛たちばなひめが生前に歌った歌に、


さねさし、

さがむの小野おぬに、

もゆる火の、

火中ほなかに立ちて、

問いしきみはも。


 これは、相模さがみの野原で火攻めにお会いになったときに、その燃える火の中にお立ちになっていた、あの危急なときにも、みことは私のことをご心配くだすって、いろいろになぐさめ問うてくだすった、ほんとに、お情け深い方よと、そのもったいないお心持をわすれないしるしに歌ったのでした。

 命はそこから、なおどんどんお進みになって、いたるところで手におえない悪者どもをご平定へいていになり、山や川のあらくれ神をもお従えになりました。

 それでいよいよ、ふたた大和やまとへおかえりになることになりました。

 そのお途中で、足柄山あしがらやまの坂の下で、お食事をなすっておいでになりますと、その坂の神が、白いしかに姿をかえて現われて、命を見つめてつっ立っておりました。

 みことは、それをごらんになると、お食べ残しのにらのきれはしをお取りになって、そのしかをめがけてお投げつけになりました。すると、それがちょうど目にあたって、しかはばたりとたおれてしまいました。

 命はそれから坂の頂上へおあがりになり、そこから東の海をおながめになって、あのあわれな橘媛たちばなひめのことを、つくづくとお思いかえしになりながら、

「あずまはや」(ああ、わが女よ)とおなげきになりました。それ以来そのあたりの国々をあずまぶようになりました。



 命は、そこから甲斐かいの国へおえになりました。そして酒折宮さかおりのみやという御殿ごてんにおとまりになったときに、


にいばり、つくばを過ぎて、

いくつる。


とお歌いになりますと、あかりのたき火についていた一人の老人が、すぐにそのおあとを受けて、


かかなべて、

には九夜ここのよ

日には十日とおかを。


と歌いました。それは、

蝦夷えびすどもをたいらげながら、常陸ひたち新治にいばり筑波つくばを通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃるのに対して、

「かぞえて見ますと、九夜ここのよ寝て十日目とおかめを迎えましたのでございます」という意味でした。

 命はその答えの歌をおほめになって、そのごほうびに、老人を東国造あずまのくにのみやつこという役におつけになりました。

 それから信濃しなのへおはいりになり、そこの国境くにざかいの地の神をち従えて、ひとまずもとの尾張おわりまでお帰りになりました。

 命はお行きがけにお約束をなすったとおり、美夜受媛みやずひめのおうちへおとまりになりました。そして草薙くさなぎ宝剣ほうけんひめにおあずけになって近江おうみ伊吹山いぶきやまの、山の神を征伐せいばつにおいでになりました。

 命はこの山の神ぐらいは、す手でも殺すとおっしゃって、どんどんのぼっておいでになりました。すると途中で、うしほどもあるような、大きな白いいのししが現われました。命は、

「このいのししにけて出たのは、まさか山の神ではあるまい。神の召使めしつかいの者であろう。こんなやつは今殺さなくとも、かえりにしとめてやればたくさんである」とおいばりになって、そのままのぼっておいでになりました。

 そうすると、ふいに大きなひょうがどッと降りだしました。みことはそのひょうにおおそわれになるといっしょに、ふらふらとお目まいがして、ちょうどものにおいになったように、お気分が遠くおなりになりました。

 それというのは、さきほどの白いいのししは、山の神の召使ではなくて、山の神自身が化けて出たのでした。それを命があんなにけいべつして広言こうげんをおきになったので、山の神はひどくおこって、たちまち毒気どくきふくんだひょうを降らして、命をおいじめ申したのでした。

 命は、ほとんどとほうにくれておしまいになりましたが、ともかく、ようやくのことで山をおくだりになって、玉倉部たまくらべというところにわき出ている清水しみずのそばでご休息をなさいました。そして、そのときはじめて、いくらかご気分がたしかにおなりになりました。しかし命はとうとうその毒気のために、すっかりおからだをこわしておしまいになりました。

 やがて、そこをお立ちになって、美濃みの当芸野たぎのという野中までおいでになりますと、

「ああ、おれは、いつもは空でも飛んで行けそうに思っていたのに、今はもう歩くこともできなくなった。足はちょうど船のかじのように曲がってしまった」とおっしゃって、おなげきになりました。そしてそのまままた少しお歩きになりましたが、まもなくひどくつかれておしまいになったので、とうとうつえにすがって一足ひとあし一足ひとあしお進みになりました。

 そんなにして、やっと伊勢いせ尾津おつさきという海ばたの、一本まつのところまでおかえりになりますと、この前お行きがけのときに、そのまつの下でお食事をお取りになって、ついわすれていらしった太刀たちが、そのままなくならないで、ちゃんと残っておりました。

 みことは、

「おお一つまつよ、よくわしのこの太刀たちの番をしていてくれた。おまえが人間であったら、ほうびに太刀をさげてやり、着物を着せてやるのだけれど」と、こういう意味の歌を歌ってお喜びになりました。それからなおお歩きになって、ある村までいらっしゃいました。

 命は、そのとき、

「わしの足はこんなに三重みえに曲がってしまった。どうもひどくつかれて歩けない」とおっしゃいました。しかしそれでも無理にお歩きになって、能褒野のぼのという野へお着きになりました。

 命は、その野の中でつくづくと、おうちのことをお思いになり、


あの青山あおやまにとりかこまれた、

美しい大和やまとが恋しい。

しかし、ああわたしは、

その恋しい土地へも、

帰りつくことはできない。

いのちあるものは、

これからがいせんして、

あの平群へぐりの山の、

くまがしの葉を、

かみかざって祝い楽しめよ。


という意味をお歌いになり、


はしけやし、

わぎへのかたよ、

雲いたちも。

 (おおなつかしや、

  わがのある、

  はるかな大和やまとの方から、

  雲が出て来るよ。)


と、お歌いになりました。

 そして、それといっしょにご病勢びょうせいもどっとご危篤きとくになってきました。

 みことは、ついに、


おとめの、

とこのべに、

わがおきし、

つるき太刀たち

その太刀はや。


と、あの美夜受媛みやずひめのおうちにおいていらしった宝剣ほうけんも、とうとうふたたび手にとることもできないかとお歌いになり、そのお歌の終わるのとともに、この世をお去りになりました。

 早うまのお使いは、このことを天皇に申しあげにかけつけました。

 大和やまとからは、命のおきさきやお子さまたちが、びっくりしてくだっておいでになりました。そして、命のごりょうをお作りになって、そのぐるりの田の中にしまろんで、おんおんおんおんと泣いていらっしゃいました。

 するとおなくなりになった命は、大きな白い鳥になって、お墓の中からお出ましになり、空へ高くかけのぼって、浜辺はまべの方へ向かって飛んでおいでになりました。

 おきさきやお子さまたちは、それをごらんになると、すぐに泣き泣きそのあとを追いしたって、ささの切りかぶにお足を傷つけて血だらけにおなりになっても、いたさをわすれて、いっしょうけんめいにかけておいでになりました。

 そしてしまいには、海の中にまではいって、ざぶざぶと追っかけていらっしゃいました。

 白い鳥はその人々をあとにおいて、海の中のいそからいそにと伝わって飛んで行きました。

 おきさきしおの中を歩きなやみながら、おんおんお泣きになりました。

 その鳥は、とうとう伊勢いせから河内かわち志紀しきというところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を作って、いったんそこへおしずめ申しましたが、しかし鳥は、あとにまた飛び出して、どんどん空をかけて、どこへともなくげ去ってしまいました。



 みことには、お子さまが男のお子ばかり六人おいでになりました。その中の、帯中津日子命たらしなかつひこのみこととおっしゃる方は、後にお祖父上そふうえの天皇のおつぎの成務天皇せいむてんのうのおあとをおぎになりました。すなわち仲哀天皇ちゅうあいてんのうでいらっしゃいます。

 命が諸方を征伐せいばつしておまわりになる間は、七拳脛ななつかはぎという者が、いつもご料理番としてお供について行きました。

 御父上おんちちうえ景行天皇けいこうてんのうは、おん年百三十七でおかくれになりました。



朝鮮征伐ちょうせんせいばつ



 仲哀天皇ちゅうあいてんのうは、ある年、ご自身で熊襲くまそをお征伐せいばつにおくだりになり、筑前ちくぜん香椎かしいの宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。

 そのとき天皇は、ある夜、いくさのお手だてについて、神さまのお告げをいただこうとおぼしめして、大臣の武内宿禰たけのうちのすくねをお祭場まつりばへおすわらせになり、御自分はおことをおひきになりながら、お二人でおいのりをなさいました。そうすると、どなたか一人の神さまが、皇后の息長帯媛おきながたらしひめのおからだにお乗りうつりになり、皇后のお口をお借りになって、

「これから西の方にあるひとつの国がある、そこには金銀をはじめ、目もまぶしいばかりの、さまざまのめずらしいたからがどっさりある。つまらぬ熊襲くまその土地よりも、まずその国をあなたのものにしてあげよう」とおっしゃいました。

「しかし、高いところへ登って西の方を見ましても、そちらの方はどこまでも大海おおうみばかりで、国などはちっとも見えないではありませんか」と、天皇はお答えになりました。そしてお心のうちでは、

「これはほんとうの神さまではあるまい。きっといつわりを言う神が乗りうつったにちがいない」とおぼしめして、それなりおことをおしのけて、だまっておすわりになっていました。

 すると神さまはたいそうおいかりになって、

「そんな、わしの言葉ことばをうたぐったりするものには、この国もまかせてはおかれない。あなたはもう、さっさと死んでおしまいなさるがよい」と、おおせになりました。

 宿禰すくねはその言葉を聞くと、びっくりして、

「これはたいへんでございます。陛下よ、どうぞもっとお琴をおひきあそばしませ」と、あわててご注意申しあげました。

 天皇は仕方なしに、しぶしぶお琴をおひき寄せになって、しばらくの間、申しわけばかりにぽつぽつひいておいでになりましたが、そのうちにまもなく、ふッつりとお琴のがとだえてしまいました。

 宿禰すくねはへんだと思って、をさし上げて見ますと、天皇はもはやいつのまにかお息が絶えて、その場におたおれになっていらっしゃいました。

 皇后も宿禰すくねも、神さまのおばつおどろおそれて、急いでそのお空骸なきがらを仮のお宮へお移し申しました。そしてまず第一番に、神さまのお怒りをおなだめ申すために、そのあたりの国じゅうで生きたけものの皮をいだり、獣をさかはぎにしたものをはじめとして、田のくろをこわしたもの、みぞをうめたもの、きたないものをひりちらしたもの、そのほか言うもけがらわしいような、さまざまの汚ない罪を犯したものたちをいちいちさがし出させて、御幣ごへいをとって、はらい清めて、国じゅうのけがれをすっかりなくしておしまいになりました。そして、宿禰すくねふたたびお祭場にすわって、改めて神さまのお告げをお祈り申しました。

 すると神さまからは、この前おっしゃった西の国のことについて、同じようなおおせがありました。

「それからこの日本の国は、今、皇后のおなかにいらっしゃるお子がお治めになるべきものだ」とおっしゃいました。

 皇后は、そのときちょうどお身重みおもでいらっしゃいました。宿禰すくねはそのおおせを聞いて、

「では、おそれながら、今、皇后のお腹においでになりますお子さまは、男のお子さまと女のお子さまと、どちらでいらっしゃりましょう」とうかがいますと、

「お子はご男子なんしである」とお告げになりました。

 宿禰すくねはなお、すべてのことをうかがっておこうと思いまして、

「まことにおそれいりますが、かようにいちいちお告げを下さいますあなたさまは、どなたさまでいらっしゃいますか。どうぞお名まえをおあかしくださいまし」と申しあげました。神さまは、やはり皇后のお口を通して、

「これはすべて天照大神あまてらすおおかみのおぼしめしである。また、底筒男命そこつつおのみこと中筒男命なかつつおのみこと上筒男命うわつつおのみことの三人の神も、いっしょに申しくだしているのだ」と、そこではじめてお名まえをお告げになりました。

 神さまはなお改めて、

「もしそなたたちが、ほんとうにあの西の国を得ようと思うならば、まず大空の神々、地上の神々、また、山の神、海の神、海とかわとの神々にことごとくお供えをたてまつり、それから私たち三人の神の御魂みたまを船のうえにまつったうえ、まきはいひさごに入れ、またはしぼんとをたくさんこしらえてそれらのものを、みんな海の上に散らし浮かべて、その中をわたって行くがよい」とおっしゃって、くわしく征伐せいばつ手順てじゅんをおしえてくださいました。

 それで、皇后はすぐ軍勢をお集めになり、神々のお言葉ことばのとおりに、すべてご用意をおととのえになって、仰山ぎょうさんなお船をめしつらねて、勇ましく大海のまん中へお乗り出でになりました.

 そうすると海じゅうの、あらゆる大小の魚が、のこらずけよって来て、すっかりのお船をみんなで背中せなかにおかつぎ申しあげて、わッしょいわッしょいと、威勢いせいよくしはこんで行きました。そこへ、ちょうどつごうよく、追い手の風がどんどん吹きつのって来ました。ですから、それだけのお船がみんな、かけ飛ぶように走って行きました。

 そのうちに、そのたいそうな大船に押しまくられた大浪おおなみが、しまいには大きな、すさまじい大海嘯おおつなみとなって、これから皇后がご征伐になろうとする、今の朝鮮ちょうせんの一部分の新羅しらぎの国へ、ふいにどどんとち上げました。そして、あっというに、国じゅうを半分までもんでしまいました。

 皇后の軍勢は、その大海嘯と入れちがいに、息もつかせずうわあッとめこみました。すると新羅しらぎの王はすっかりおそれちぢこまって、すぐに降参こうさんしてしまいました。

 国王は、

「私どもはこれからいついつまでも、天皇のおおせのままに、おうまかい下郎げろうとなりまして、いっしょうけんめいにご奉公申しあげます。そして毎年まいとし船をどっさり仕立てまして、その船底ふなぞこかわくときもなく、さおかいの乾くまもなもないほどおうかがわせ申しまして、絶えず貢物みつぎものたてまつり天地がほろびますまで無久むきゅうにお仕え申しあげます」と、平蜘蛛ひらぐものようになっておちかいをいたしました。

 それで皇后はさつそくお聞きとどけになりまして、新羅しらぎの王をおうまかいということにおきめになり、そのとなり百済くだらをもご領地りょうちにお定めになりました。そしてそのおしるしに、おつえを、新羅しらぎ王宮おうきゅうの門のところにしておきになりました。

 それから最後に、おやしろをお作りになって、今度のご征伐せいばつについていちいちお指図さしずをしてくださった、底筒男命そこつつおのみこと以下三人の神さまを、この国の氏神うじがみさまにおまつりになった後、ご威風いふう堂々と新羅しらぎをおひき上げになりました。



 おん母上の皇后はその前に、まだご征伐のお途中でおなかのお子さまがお生まれになろうとしました。それで、どうぞ今しばらくの間はご出産にならないようにとお祈りになって、そのおまじないに、お下着のおこしのところへ石ころをおつるしになり、それでもって当分お腹をしずめておおきになりました。

 するとお子さまは、ちゃんと筑紫つくしへお凱旋がいせんになってからご無事にお生まれになりました。それはかねて神さまのお告げのとおりりっぱな男のお子さまでいらっしゃいました。この小さな天皇には、ご誕生たんじょうのときに、ちょうど、ともといってゆみるときに左のひじにつける革具かわぐのとおりの形をしたお盛肉もりにくが、おうでに盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命おおとものみこととお名づけになりました。すなわち後におび申す応神天皇おうじんてんのうさまです。そのとものお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のおなかのうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんなおそれ入りました。

 また、皇后はご出征のまえに、肥前ひぜん玉島たましまというところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。

 それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴したばかまの糸をぬいて釣糸つりいとになされ、お食事のおあとのごはんつぶえさにして、ただでも決してることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。

 ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴したばかまの糸をぬいて、飯粒めしつぶを餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえるしるしにしておりました。



 おん母上の皇后は、ついで熊襲くまそをも難なくご平定になって、いよいよ大和やまとにおかえりになることになりました。

 しかし、大和には、香坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみことおっしゃる、お二人のおはらちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をおたくらみになるかわからないとお気づかいになりました。

 それで皇后は、ちゃんとお策略さくりゃくをお立てになって、喪船もふねを一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。

 そして天皇はもはやとくにおくなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸なきがらをつれておかえりになるていにして、筑紫つくしをお立ちになりました。

 こちらは香坂かごさか忍熊おしくまの二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけてほろぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津せっつ斗賀野とがのというところまでご進軍になりました。

 皇子たちは、その野原でためしにりょうをして、その獲物えものによって、さいさきをうらなってみようとなさいました。

 香坂皇子かごさかのおうじは、くぬぎの木に上って、その猟の有様ありさまを見ていらっしゃいました。すると、ふいにそこへ、手傷てきずった大きないのししがあらわれて、そのくぬぎの木の根もとをどんどんりにかかりました。そしてまもなくすとんと掘りたおしたと思いますと、いきなり香坂皇子かごさかのおうじに飛びかかって、がつがつ皇子を食べてしまいました。

 しかし、弟さまの忍熊皇子おしくまのおうじは、そんな悪い前兆ぜんちょうにもとんじゃくなしに、そのまま軍勢をおひきつれになり、海ばたまで押しかけて、待ちかまえていらっしゃいました。

 そのうちに、皇后がたのお船が見えて来ました。忍熊王おしくまのみこは、その中の喪船もふねには、兵たいたちが乗っていないはずなので、まずまっ先にその船を目がけておちかからせになりました。

 ところがその船の中には、前もってちゃんとよりすぐりの兵がしのばせてありました。その兵士たちは船がつくなり、ふいに、うわッと飛び下りて、たちまち、はげしいいくさをはじめました。

 そのとき忍熊王おしくまのみこ軍勢ぐんぜいには、伊佐比宿禰いさひのすくねというものが総大将そうたいしょうになっていました。それに対して皇后方からは建振熊命たけふるくまのみことという強い人が将軍となってめかけました。

 建振熊命たけふるくまのみことは見る見るうちに宿禰すくねの軍勢を負かしくずして、ぐんぐんと、どこまでも追っかけて行きました。すると敵は山城やましろでふみとどまって、頑固がんこふせいくさをしだしました。

 建振熊命たけふるくまのみことは、何をと言いながら、死にものぐるいで攻めかけ攻めかけしました。しかし、どんなにあせっても敵はそれなりひと足も退こうとはしませんでした。

 建振熊命たけふるくまのみことは、しまいには、これではてしがないと思い直して、急に味方の兵をひきまとめるといっしょに、向こうの軍勢に向かって、

「実は皇后が急におなくなりになったので、われわれはもういくさをする気はない」と申し入れながら、その目の前で全軍ぜんぐん兵士へいしたちにゆみつるをことごとくらせて、さもほんとうのように、伊佐比宿禰いさひのすくね降参こうさんをしました。

 すると伊佐比宿禰いさひのすくねはそれですっかり気をゆるして、自分のほうもひとまずみんなに弓のつるをはずさせ、いっさいのいくさ道具をもかたづけさせてしまいました。

 建振熊命たけふるくまのみことはそれを見すまして、

「それッ」と合い図をしますと、部下の兵たちは、かみの中にかくしていた、かけがえの弦を取り出してまたたくまに弓を張って、

「うわッ」と、ときを上げて攻めかかりました。

 敵はまんまと不意をたれて、総くずれになってにげ出しました。建振熊命たけふるくまのみことは勝に乗じてどんどんと追いまくって行きました。

 すると敵勢てきぜい近江おうみ逢坂おうさかというところまでにげのびて、そこでいったんとどまって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。

 建振熊命たけふるくまのみことは、とうとうそれを同じ近江おうみ篠波ささなみというところで追いつめて、敵の兵たいという兵たいを一人ものこさずり殺してしまいました。

 そのとき忍熊王おしくまのみこ伊佐比宿禰いさひのすくねとは、あやうく船に飛び乗って、湖水の中へにげ出しました。

 しかしぐずぐずしていると今につかまってしまうのが目に見えていましたので、皇子おうじ宿禰すくねに向かって、


さあ、おまえ、

振熊ふるくまに殺されるよりも、

鳰鳥かいつぶりのように、

この湖水にもぐってしまおうよ。


とお歌いになり、二人でざんぶと飛びんで、それなりおぼれ死にに死んでおしまいになりました。



 皇后はそれでいよいよめでたく大和やまとへおかえりになりました。

 しかし武内宿禰たけのうちのすくねだけは、お小さな天皇をおつれ申して、けがはらいのみそぎということをしに、近江おうみ若狹わかさをまわって、越前えちぜん鹿角つぬがというところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在たいざいしておりました。

 するとその土地にまつられておいでになる伊奢沙和気大神いささわけのおおかみという神さまが、あるばん宿禰すくねの夢に現われていらしって、

「わしの名を、お小さい天皇のお名と取りかえてくれぬか」とおっしゃいました。

 宿禰すくねは、

「それはもったいないおおせでございます。どうもありがとう存じます」とお答え申しました。大神おおかみは、「それでは、明日あすお供をして海ばたへ来るがよい。名を取りかえてくださったお礼を上げようから」とおっしゃいました。

 それであくる朝早く、天皇をおつれ申して海岸へ出て見ますと、みんな鼻の先にきずをうけた、それはそれはたいそうな海豚いるかが、浜じゅうへいっぱいうち上げられておりました。

 宿禰すくねはさっそくおやしろへお使いをたてて、

「食べ料のおさかなをどっさりありがとう存じます」とお礼を申しあげました。

 天皇はそれから大和やまとへおかえりになりました。

 お待ち受けになっていたお母上の皇后は、それはそれは大喜びをなすって、さっそくご用意のお酒を出させて、お祝いのおさかもりをなさいました。

 皇后は、


このお酒は、わたしがかもした酒ではない。

薬の神の少名彦名神すくなひこなのかみがあなたのご運をお祝いして、

喜びさわいでつくってくだされたお酒だから、

のこさず、すっかりめし上がってください。

さあさあどうぞ。


という意味をお歌いになりました。

 宿禰すくねは天皇に代わって、


このお酒をつくった人は、

つづみうすの上に立てて、

歌いながら、いながら、

喜び喜びつくったせいでございますか、

それはそれはたいそうよいお酒で、

いただきますとひとりでに歌いたく、

舞いたくなってまいります。

ああ楽しや。


とお答えの歌を歌いながら、ともどもお喜び申しました。

 後の世の人は、この母上の皇后の、いろんなしい大きなお手柄てがらをおほめ申しあげて、お名まえを特に神功皇后じんぐうこうごうとおよび申しております。



赤い玉



 神功皇后じんぐうこうごうのお母方ははかたのご先祖については、こういうお話が伝わっています。

 それは、この時分からも、もっともっとむかし新羅しらぎの国の阿具沼あぐぬまというぬまのほとりで、ある日一人の女が昼寝ひるねをしておりました。すると、ふしぎなことには、日の光がにじのようになって、さっと、その女のおなかしました。

 それをちょうど通りかかった一人の農夫が見て、へんなこともあるものだと思いながら、それからは、いつもその女のそぶりに目をつけていますと、女はまもなくお腹が大きくなって、一つの赤い玉を生み落としました。農夫はその玉を女からもらって、物につつんで、いつもこしにつけていました。

 この農夫は谷間たにまに田を作っておりました。ある日農夫は、その田で働いている人たちのたべ物を、うしに負わせて運んで行きますと、その谷間で、天日矛あめのひほこという、この国の王子に出会いました。

 王子は農夫がへんなところへうしを引いて行くのを見て、

「これこれ、そちはどうしてそのうしへたべ物などを乗せてこんなところへはいって来たのだ。きっと人にかくれてそのうしも殺して食おうというのであろう」と言いながら、いきなり農夫をつかまえてろうやへつれて行こうとしました。農夫は、

「いえいえ私はけっしてこのうしを殺そうなどとするのではございません。ただこうして百姓ひゃくしょうたちのたべ物を運んでまいりますだけでございます」と、ほんとうのままを話しました。それでも王子は、

「いやいや、うそだ」と言って、なかなかゆるしてくれないので、農夫はこしにつけている例の赤い玉を出して、それを王子にあげて、やっとのことで放してもらいました。

 王子はその玉をおうちへ持って帰って、とこの間に置いておきました。すると赤い玉が、ふいに一人の美しい娘になりました。王子はその娘を自分のおよめにもらいました。

 そのお嫁は、いつもいろいろのめずらしいお料理をこしらえて、王子に食べさせていましたが、王子はだんだんにわがままを出して、しまいにはお嫁をひどくののしりとばすようになりました。

 するとお嫁のほうではとうとうたまりかねて、

わたしはもうこれぎり親たちの国へ帰ってしまいます。もともと私は、あなたのような方のお嫁になってばかにされるような女ではありません」と言いながら、そのうちをけ出して、小船に乗って、はるばると摂津せっつ難波なにわまで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流媛あかるひめという神さまとしてその土地にまつられました。

 王子の天日矛あめのひほこは、そのお嫁のあとを追っかけて、とうとう難波なにわの海まで出て来ましたが、そこの海の神がさえぎって、どうしても入れてくれないものですから、しかたなしにひきかえして、但馬たじまの方へまわって、そこへ上陸しました。そして、しばらくそこに暮らしているうちに、後にはとうとうその土地の人をお嫁にもらって、そのままそこへいつくことにしました。

 この天日矛あめのひほこの七代目の孫にあたる高額媛たかぬひめという人がお生み申したのが、すなわち神功皇后じんぐうこうごうのお母上でいらっしゃいました。例の垂仁天皇すいにんてんのうのお言いつけによって、常世国とこよのくにへたちばなの実を取りに行ったあの多遅摩毛理たじまもりは、日矛ひほこの五代目の孫の一人でした。

 日矛ひほこはこちらへわたって来るときに、りっぱな玉や鏡なぞの宝物ほうもつ八品やしな持って来ました。その宝物は、伊豆志いずし大神おおかみという名まえの神さまにしてまつられることになりました。



 この宝物をまつった神さまに、伊豆志乙女いずしおとめという女神めがみが生まれました。この女神を、いろんな神々たちがお嫁にもらおうとなさいましたが、女神はいやがって、だれのところへも行こうとはしませんでした。

 その神たちの中に、秋山の下冰男したびおとこという神がいました。その神が弟の春山はるやま霞男かすみおとこという神に向かって、

わたしはあの女神をお嫁にしようと思っても、どうしても来てくれない。どうだ、おまえならもらってみせるか」と聞きました。

わたしならわけなくもらって来ます」と弟の神は言いました。

「ふふん、きっとか。よし、それではおまえがりっぱにあの女神めがみをもらって見せたら、そのお祝いに、わしの着物をやろう。それからわしの身のたけほどの大がめに酒をって、海山のめずらしいごちそうをそろえてんでやろう、しかし、もしもらいそこねたら、あんな広言こうげんいたばつに、今わしがしてやろうと言ったとおりをわしにしてくれるか」と言いました。

 弟の神は、おお、よろしい、それではかけをしようとちかいました。そして、おうちへ帰って、そのことをおかあさまにお話しますと、おかあさまの女神は、一晩ひとばんのうちに、ふじのつるで、着物からはかまから、くつからくつ下まで織ったり、こしらえたりした上に、やはり同じふじのつるでゆみをこしらえてくれました。

 弟の神はその着物やくつをすっかり身につけて、その弓矢ゆみやを持って、例の女神のおうちへ出かけて行きました。すると、たちまち、その着物やくつや弓矢にまで、残らず、一度にぱっとふじの花がきそろいました。

 弟の神はその弓矢を便所のところへかけておきますと、女神はそれを見つけて、ふしぎに思いながら取りはずして持って行きました。弟の神は、すかさず、そのあとについて女神のへやにはいって、どうぞわたしのお嫁になってくださいと言いました。そして、とうとうその女神をもらってしまいました。

 二人の間には一人子供までできました。

 弟の神は、それで兄の神に向かって、

わたしはあのとおり、ちゃんと女神めがみをもらいました。だから約束のとおり、あなたの着物をください。それからごちそうもどっさりしてください」と言いました。すると兄の神は、弟の神のことをたいそうねたんで、てんで着物もやらないし、ごちそうもしませんでした。

 弟の神は、そのことを母上の女神に言いつけました。すると女神は、兄の神をんで、

「おまえはなぜそんなに人をだますのです。この世の中に住んでいる間は、すべてりっぱな神々のなさるとおりをしなければいけません。おまえのように、いやしい人間のまねをする者はそのままにしてはおかれない」と、ひどくおこりつけました。それから、そこいらの川の中の島にはえているたけをって来て、それで目のあらいあらかごを作り、その中へ、川の石に塩をふりかけて、それをたけの葉につつんだのを入れて、

「この兄の神のようなうそつきは、このたけの葉がしおれるようにしおれてしまえ。この塩がひるようにひからびてしまえ。そして、この石がしずむように沈みたおれてしまえ」とのろって、そのかごをかまどの上に置かせました。

 すると兄の神は、そのたたりで、まる八年の間、ひからびしおれ、みつかれて、それはそれは苦しい目を見ました。それでとうとう弱りててく泣く母上の女神におわびをしました。

 女神はそのときやっとのろいをといてやりました。そのおかげで兄の神は、またもとのとおりのじょうぶなからだにかえりました。



宇治うじわた



 お小さな応仁天皇おうじんてんのうも、そのうちにすっかりご成人になって、大和やまとあきらの宮で、ご自身にまつりごとをお聞きになりました。

 あるとき、天皇は近江おうみへご巡幸じゅんこうになりました。そのお途中で、山城やましろ宇治野うじのにお立ちになって、葛野かづのの方をごらんになりますと、そちらには家々も多く見え、よい土地もどっさりあるのがお目にとまりました。

 天皇はそのながめを歌にお歌いになりながら、まもなく木幡こばたというところまでおいでになりますと、その村のお道筋で、それはそれは美しい一人の少女にお出会いになりました。

 天皇は、

「そちはだれのむすめか」とおたずねになりました。

「私は比布礼能意富美ひふれのおおみと申します者の子で、宮主矢河枝媛みやぬしやかわえひめと申します者でございます」と、その娘はお答え申しました。

 すると、天皇は

「ではあす帰りにそちのうちへ行くぞ」とおっしゃいました。

 ひめはおうちへ帰って、すべてのことをくわしくおとうさまに話しました。

 おとうさまの意富美おおみは、

「それではそのお方は天子さまだ。これはこれはもったいない。そちも十分気をつけて失礼のないようによくおもてなし申しあげよ」と言いきかせました。そしてさっそくうちじゅうを、すみずみまですっかりかざりつけて、ちゃんとお待ち申しておりました。


 天皇のおおせのとおり、あくる日お立ちよりになりました。意富美おおみらはおそれかしこみながら、ごちそうを運んでおもてなしをしました。

 天皇は矢河枝媛やかわえひめたてまつるさかずきをお取りになって、


この料理のかには、

越前えちぜん敦賀つるがのかにが、

横ざまにはって、

近江おうみえて来たものか。

わしもその近江おうみから来て、

木幡こばたの村でおまえに会った。

おまえの後姿うしろすがたは、

たてのようにすらりとしている。

おまえのきれいな歯並はなみは、

しいののように白く光っている。

顔には九邇坂わにざかの土を、

そこの土は、

上土うわつちは赤く、

底土そこつちは赤黒いけれど、

中土なかつちの、

ちょうど色のよいのを

眉墨まゆずみにして、

まゆをかいている。

おまえはほんとうにきれいな子だ。


とこういう意味のお歌を歌っておほめになりました。

 天皇は、この美しい矢河枝媛やかわえひめを、後におきさきにおしになりました。このお妃から、宇治若郎子うじのわかいらつことおっしゃる皇子がお生まれになりました。

 天皇には、すべてで、皇子が十一人、皇女が十五人おありになりました。

 その中で、天皇は、矢河枝媛やかわえひめのお生み申した若郎子皇子わかいらつこおうじを、いちばんかわいくおぼしめしていらっしゃいました。

 あるとき天皇は、その若郎子皇子わかいらつこおうじとはそれぞれおはらちがいのお兄上でいらっしゃる大山守命おおやまもりのみこと大雀命おおささぎのみことのお二人をおしになって、

「おまえたちは、子供は兄と弟とどちらがかわいいものと思うか」とお聞きになりました。

 大山守命おおやまもりのみことは、

「それはだれでも兄のほうをかわいくおもいます」と、ぞうさもなくお答えになりました。

 しかしお年下の大雀命おおささぎのみことは、お父上がこんなお問いをおかけになるのは、わたしたち二人をおいて、弟の若郎子わかいらつこにお位をおゆずりになりたいというおぼしめしに相違そういないと、ちゃんと、天皇のお心持をおさとりになりました。それでそのおぼしめしにうように、

「私は弟のほうがかわいいだろうと思います。兄のほうは、もはや成人しておりますので、何の心配もございませんが、弟となりますと、まだ子供でございますから、かわいそうでございます」とお答えになりました。

 天皇は、

「それはささぎの言うとおりである。わしもそう思っている」とおおせになり、なお改めて、

「ではこれから、そちら二人と若郎子わかいらつこと三人のうち、大山守おおやまもりは海と山とのことをつかさどれ、ささぎはわしを助けて、そのほかのすべてのまつりごとをとり行なえよ。それから若郎子わかいらつこには、後にわしのあとをいで天皇の位につかせることにしよう」と、こうおっしゃって、ちゃんと、お三人のお役わりをお定めになりました。

 大山守命おおやまもりのみことは、後に、このお言いつけにおそむきになって、若郎子皇子わかいらつこおうじを殺そうとさえなさいましたが、ひとり大雀命おおささぎのみことだけは、しまいまで天皇のご命令のとおりにおつくしになりました。



 天皇は日向ひゅうが諸県君もろあがたぎみという者の子に、髪長媛かみながひめという、たいそうきりょうのよいむすめがあるとお聞きになりまして、それを御殿ごてんへおし使いになるつもりで、はるばるとお召しのぼせになりました。

 皇子おうじ大雀命おおささぎのみことは、その髪長媛かみながひめが船で難波なにわへ着いたところをごらんになり、その美しいのに感心しておしまいになりました。それで武内宿禰たけのうちのすくねに向かって、

「こんど日向ひゅうがからお召しよせになったあの髪長媛かみながひめを、お父上にお願いして、わたしのおよめにもらってくれないか」とおたのみになりました。

 宿禰すくねはかしこまって、すぐにそのことを天皇に申しあげました。

 すると天皇は、まもなくお酒盛さかもりのお席へ大雀命おおささぎのみことをお召しになりました。そして、美しい髪長媛かみながひめにお酒をつぐかしわの葉をお持たせになって、そのままみことにおくだしになりました。

 天皇はそれといっしょに、


わしが、子どもたちをつれて、

のびるをつみに通り通りする、

あの道ばたのたちばなの木は、

上の枝々えだえだは鳥にあらされ、

下の枝々は人にむしられて、

中の枝にばかり花がさいている。

そのひそかな花の中に、

小さくかくれている実のような、

しとやかなこの乙女おとめなら、

ちょうどおまえにあっている。

さあつれて行け。


という意味をお歌に歌ってお祝いになりました。

 皇子おうじはとうから評判にも聞いていた、このきれいな人を、天皇のお許しでおきさきにおもらいになったおうれしさを、同じく歌にお歌いになって、大喜びで御前ごぜんをおさがりになりました。



 この天皇の御代みよには、新羅しらぎの国の人がどっさりわたって来ました。武内宿禰たけのうちのすくねはその人々を使って、方々に田へ水を取る池などをりました。

 それから百済くだらの国の王からは、おうま一とう、めうま一頭に阿知吉師あちきしという者をつけて献上けんじょうし、また刀や大きな鏡なぞをもけんじました。

 天皇は百済くだらの王に向かって、おまえのところにかしこい人があるならばよこすようにとおおせになりました。王はそれでさっそく和邇吉師わにきしという学者をよこしてまいりました。

 そのとき和邇わには、十かん論語ろんごという本と、千字文せんじもんという一巻の本とを持って来て献上しました。また、いろいろの職工や、かじ屋の卓素たくそという者や、機織はたおり西素さいそという者や、そのほか、酒を造ることのじょうずな仁番にほという者もいっしょに渡って来ました。

 天皇はその仁番にほ、またの名、須須許理すずこりのこしらえたお酒をめしあがりました。そして、

「ああった、須須許理すずこりがかもした酒に心持よく酔った。おもしろく酔った」

という意味の歌をお歌いになりながら、お宮の外へおでましになって、河内かわちの方へ行く道のまん中にあった大きな石を、おつえをあげてお打ちになりますと、その石がびっくりして飛びのきました。



 天皇てんのうは後にとうとうおん年百三十でおかくれになりました。

 それで大雀命おおささぎのみことは、かねておおせつかっていらっしゃるとおり、若郎子わかいらつこをお位におつけしようとなさいました。

 ところがお兄上の大山守命おおやまもりのみことは、天皇のおおせ残しにそむいて、若郎子わかいらつこを殺して自分で天下を取ろうとおかかりになり、ひそかに兵をお集めになりだしました。

 大雀命おおささぎのみことは、そのことを早くもお聞きつけになったので、すぐに使いを出して、若郎子わかいらつこにお知らせになりました。

 若郎子わかいらつこはそれを聞くとびっくりなすって、大急ぎでいろいろの手はずをなさいました。

 皇子おうじはまず第一に、宇治川うじがわのほとりへ、こっそりと兵をしのばせておおきになりました。それから、宇治うじの山の上に絹の幕を張り、とばりを立てまわして、一人のご家来けらいを、りっぱな皇子のようにしたてて、その姿すがたが山の下からよく見えるように、とばりの一方をあけて、その中のいすにかけさせておおきになりました。そして、そこへいろいろの家来たちを、うやうやしく出たりはいったりおさせになりました。

 ですから、遠くから見ると、だれの目にも、そこには若郎子わかいらつこご自身がお出むきになっているように見えました。

 皇子はそれといっしょに、大山守命おおやまもりのみことが下の川をおわたりになるときに、うまくお乗せするように、船をわざとたった一そうおそなえつけになり、その船の中のすのこには、さなかつらというつる草をついてべとべとのしるにしたものをいちめんに塗りつけて、人が足をみこむとたちまちすべりころぶようなしかけをさせてお置きになりました。

 そしてご自分自身は、粗末そまつなぬのの着物をめし、いやしい船頭のようにじょうずにお姿すがたをお変えになって、かじをにぎって、その船の中に待ち受けておいでになりました。

 すると大山守命おおやまもりのみことは、おひきつれになった兵士を、こっそりそこいらへかくれさせておおきになり、ご自分は、よろいの上へ、さりげなく、ただのお召物めしものをめして、お一人で川の岸へ出ておいでになりました。

 するとそちらの山の上にりっぱな絹のとばりなどが張りつらねてあるのがすぐにお目にとまりました。

 みことはそのとばりの中にいかめしくいすにかけている人を、若郎子わかいらつこだと思いこんでおしまいになりました。それでさっそくその船にお乗りになって、向こうへおわたりになりかけました。

 命は船頭に向かって、

「おい、あすこの山に大きなておいじしがいるという話だが、ひとつそのししをとりたいものだね。どうだ、おまえとってくれぬか」とお言いになりました。

 船頭の皇子は、

「いえ、それはとてもだめでございます」とお答えになりました。

「なぜだめだ」

「あのししは、これまでいろんな人がとろうとしましたが、どうしてもとれません。ですから、いくらあなたがしいとおぼしめしても、とてもだめでございます」

 こうお答えになるうちに、船はもはやちょうど川のまん中あたりへ来ました。すると皇子おうじはいきなり、そこでどしんと船をかたむけて、みことをざんぶと川の中へ落としこんでおしまいになりました。

 命はまもなく水の上へ浮き出て、顔だけ出して流され流されなさりながら、


ああわしはし流される。

だれかすばやく船を出して、

助けに来てくれよ。


という意味をお歌いになりました。

 するとそれといっしょに、さきに若郎子わかいらつこかくしておおきになった兵士たちが、わあッと一度に、そちこちからかけだして来て、命を岸へ取りつかせないように、みんなでをつがえかまえて、追い流し追い流ししました。

 ですから命はどうすることもおできにならないで、そのまま訶和羅前かわらのさきというところまで流れていらしって、とうとうそこでおぼれ死にに死んでおしまいになりました。

 若郎子わかいらつこの兵士たちは、ぶくぶくとしずんだみことのお死がいを、かぎでさぐりあててひきあげました。

 若郎子わかいらつこはそれをご覧になりながら、

「わしはぜいの兵たちに、もう矢をはなさせようか、もう射殺させようかと、いくども思い思いしたけれど、一つにはお父上のことを思いかえし、つぎには妹たちのことを思い出して、同じお一人のお父上の子、同じあの妹たちの兄でありながら、それをむざむざ殺すのはいたわしいので、とうとう矢一本射放すこともできないでしまった」

という意味をお歌いになり、そのまま大和やまとへおひきあげになりました。

 そしてお兄上のお死がいを奈良ならの山におほうむりになりました。



 大雀命おおささぎのみことは、それでいよいよお父上のおおせのとおりに、若郎子皇子わかいらつこおうじにお位におつきになることをおすすめになりました。

 しかし皇子は、お父上のおあとはおあにいさまがおぎになるのがほんとうです。おあにいさまをさしおいてお位にのぼるなぞということは、私にはとてもできません。どうぞお許しくださいとおっしゃって、どこまでもお兄上のみことのお顔をお立てになろうとなさいました。

 しかし命は命で、いかなることがあっても、お父上のお言いつけにそむくことはできないとお言いとおしになり、長い間お二人でおたがいにゆずり合っていらっしゃいました。

 そのときある海人あまが、天皇へ献上けんじょうする物を持ってのぼって来ました。

 その海人が、大雀命おおささぎのみことのところへうかがいますと、みことは、それは若郎子皇子わかいらつこおうじたてまつれ、あの方が天皇でいらっしゃるとおっしゃって、お受けつけになりませんし、それではと言って皇子の方へうかがえば、それはお兄上の方へけんぜよとおおせになりました。

 海人あまはあっちへ行ったり、こっちへ来たり、それが二度や三度ではなかったので、とうとう行ったり来たりにくたびれて、しまいにはおんおんきだしてしまいました。そのために、「海人ではないが、自分のものをもてあまして泣く」ということわざさえできました。

 お二人はそれほどまでになすって、ごめいめいにお義理をつくしていらっしゃいましたが、そのうちに、若郎子皇子わかいらつこおうじがふいにお若死わかじにをなすったので、大雀命おおささぎのみこともやむをえず、ついにお位におつきになりました。後の代から仁徳天皇にんとくてんのうとおび申すのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。



難波なにわのお宮



 仁徳天皇にんとくてんのうはお位におのぼりになりますと、難波なにわ高津たかつみやを皇居にお定めになり、葛城かつらぎ曽都彦そつひこという人のむすめ岩野媛いわのひめという方を改めて皇后にお立てになりました。

 天皇がまだ皇子おうじ大雀命おおささぎのみことでいらっしゃるとき、ある年摂津せっつ日女島ひめじまという島へおいでになって、そこでお酒盛さかもりをなすったことがありました。すると、たまたまその島にがんがたまごをうんでおりました。皇子は、日本でがんが卵をうんだということは、これまで一度もお聞きになったことがないものですから、たいそうふしぎにおぼしめして、あとで武内宿禰たけのうちのすくねして、

「そちは世の中にまれな長命の人であるが、いったい日本でがんが卵をうんだという話を聞いたことがあるか」とこういう意味を歌に歌っておたずねになりました。

 宿禰すくねは、

「なるほど、それはごもっとものおたずねでございます。私もこれほど長生きをいたしておりますが、今日まで、かつてそういうためしを聞きましたことがございません」と、同じように歌に歌って、こうお答え申しあげた後、おそばにあったおことをお借り申して、

「これはきっと、あなたさまがついに天下をお治めになるというめでたい先ぶれに相違そういございません」と、こういう意味の歌をおことをひいて歌いました。皇子おうじはそのとおり、十五人もいらしったごきょうだいの中から、しまいにお父上の天皇のおあとをおぎになりました。

 ご即位そくいになった後、天皇は、あるとき、高い山におのぼりになって四方の村々をお見しらべになりました。そしてうちしおれておおせになりました。

「見わたすところ、どの村々もただひっそりして、家々からちっとも煙があがっていない。これではいたるところ、人民たちがいて食べる物がないほど貧窮ひんきゅうしているらしい。どうかこれから三年の間は、しもじもから、いっさい租税そぜいをとるな。またすべての働きに使うのを許してやれ」とおおせになりました。

 それでそのまる三年の間というものは、宮中きゅうちゅうへはどこからも何一つお納物おさめものをしないので、天皇もそれはそれはひどいご不自由をなさいました。たとえばお宮が破れこわれても、お手もとにはそれをおつくろいになるご費用もおありになりませんでした。しかし天皇はそれでも寸分すんぶんもおいといにならないで、雨がひどく降るたんびには、おへやの中へおけをひき入れて、ざあざあとり入るあまもれをお受けになり、ご自分自身はしずくのおちないところをお見つけになって、御座所ござしょを移し移ししておしのぎになりました。

 それから三年の後に、再び山にのぼってごらんになりますと、こんどはせんとはすっかりうって変わって、お目のおよかぎり、どの村々にも煙がいっぱい、勢いよく立ちのぼっておりました。天皇はそれをご覧になって、みなの者も、もうすっかりゆたかになったとおっしゃって、ようやくご安心なさいました。そして、そこではじめて租税そぜい夫役ふえきをおおせつけになりました。

 すると人民は、もう十分にたくわえもできていましたので、お納物おさめものをするにも、使い働きにあがるのにも、それこそ楽々とご用をうけたまわることができました。

 天皇はしもじもに対して、これほどまでに思いやりの深い方でいらっしゃいました。ですから後のからもながくおしたい申しあげてそのご一代いちだい聖帝せいてい御代みよとおび申しております。



 この天皇の皇后でいらしった岩野媛いわのひめは、それはそれは、たいへんにごしっとのはげしいお方で、ちょっとのことにも、じきに足ずりをして、火がついたようにお騒ぎたてになりました。それですから、宮中きゅうちゅうし使われている婦人たちは、天皇のおへやなぞへは、うっかりはいることもできませんでした。

 あるとき天皇はそのころ吉備きびといっていた、今の備前びぜん備中びっちゅう地方ちほうの、黒崎くろさきというところに、海部直あまのあたえという者の子で、黒媛くろひめというたいそうきりょうのよいむすめがいるとお聞きになり、すぐにしのぼせて宮中でお召し使いになりました。

 ところが皇后がことごとにつけて、あまりにねたみおいじめになるものですから、黒媛くろひめはたまりかねてとうとうお宮をげ出しておうちへ帰ってしまいました。

 そのとき天皇は、高殿たかどのにお上りになって、その黒媛くろひめの乗っている船が難波なにわの港を出て行くのをごらんになりながら、


かわいそうに、あそこに黒媛くろひめがかえって行く。

あのおきに、たくさんの小船こぶねにまじって、あの女の船が出て行くよ。


とこういう意味のお歌をお歌いになりました。

 すると皇后は、そのことをお聞きになって、ひどくおこっておしまいになり、すぐに人をやって、黒媛くろひめをむりやりに船からひきおろさせて、はるかな吉備きびの国まで、わざと歩いておかえしになりました。

 天皇はその後も、黒媛くろひめのことをしじゅうあわれに思い思いお暮らしになっていました。そんなわけで、天皇はついにある日、淡路島あわじしまを見に行くとおっしゃって皇后のお手前をおつくろいになり、いったんその島へいらしったうえ、そこから、黒媛くろひめをたずねて、こっそり吉備きびまで、おくだりになりました。

 黒媛くろひめは天皇を山方やまかたというところへおつれ申しました。そして、し上がり物にあつものをこしらえてさしあげようと思いまして、あおなをつみに出ました。すると天皇もいっしょに出てご覧になり、たいそうおきょう深くおぼしめして、そのお心持をお歌にお歌いになりました。

 天皇がいよいよお立ちになるときには、黒媛くろひめもお別れの歌を歌いました。ひめは天皇がわざわざそんなになすって、かくれ隠れてまでおたずねくだすったもったいなさを、一生おわすれ申すことができませんでした。



 皇后はその後、ある宴会えんかいをおもよおしになるについて、そのお酒をおつぎになる御綱柏みつながしわというかしわの葉をとりに、わざわざ紀伊国きいのくにまでお出かけになったことがありました。

 そのおるすの間、天皇のおそばには八田若郎女やたのわかいらつめという女官じょかんがお仕え申しておりました。

 皇后はまもなく御綱柏みつながしわの葉をお船につんで、難波なにわへ向かって帰っていらっしゃいました。そのお途中で、お供の中のある女たちの乗っている船が、皇后のお船におくれて行き行きするうちに、難波なにわ大渡おおわたりという海まで来ますと、向こうから一そうの船が来かかりました。その中には、高津たかつのお宮のお飲み水を取る役所で働いていた、吉備きびの生まれの、ある身分みぶんの低い仕丁よぼろで、おいとまをいただいておうちへ帰るのが、乗り合わせておりました。その者が船のすれちがいに、

「天皇さまは、このごろ八田若郎女やたのわかいらつめがすっかりお気に入りで、それはそれはたいそうごちょう愛になっているよ」としゃべって行きました。それを聞いた女どもはわざわざ大急ぎで皇后のお船に追いついて、そのことを皇后のお耳に入れました。

 そうすると、例のご気性きしょうの皇后は、たちまちじりじりなすって、せっかくそこまで持っておかえりになった御綱柏みつながしわの葉を、すっかり海へ投げすてておしまいになりました。それからまもなく船はこちらへ帰りつきましたが、皇后は若郎女わかいらつめのことをお考えになればなるほどおくやしくて、そのお腹立はらだちまぎれに、港へおつけにならないで、ずんずん船を堀江ほりえへお入れになり、そこから淀川よどがわをのぼって山城やましろまで行っておしまいになりました。

 その時皇后は、

「私はあんまりにくらしくてたまらないので、こんなにあてもなく山城やましろの川をのぼって来たものの、思えばやっぱり天皇のおそばがなつかしい。今この目の前の川べりには、鳥葉樹さしぶのきがはえている。その木の下には、しげった、広葉ひろはのつばきがてかてかとまっかにいている。ああ、あの花のようにかがやきにち、あの広葉のようにお心広く、おやさしくいらっしゃる天皇を、どうして私はおしたわしく思わないでいられよう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。

 しかしそれかといってこのまま急にお宮へお帰りになるのも少しいまいましくおぼしめすので、とうとう船からおあがりになって、大和やまとの方へおまわりになりました。

 そのときにも皇后は、

わたしはとうとう山城川やましろがわをのぼり、奈良なら小楯おだてをも通りすぎて、こんなにあちこちさまよってはいるけれど、それもどこをひとつ見たいのでもない。見たいのは高津たかつのお宮よりほかにはなんにもない」という意味をお歌いになりました。

 それからまた山城やましろへひきかえして、筒木つつきというところへおいでになり、そこに住まっている朝鮮ちょうせん帰化人きかじん奴里能美ぬりのみという者のおうちへおとどまりになりました。

 天皇はすべてのことをお聞きになりますと、鳥山とりやまという舎人とねりに向かって、

「おまえ早く行って会ってこい」という意味をお歌でおっしゃって、皇后のところへおつかわしになりました。そのつぎには、丸邇臣口子わにのおみくちこという者をおしになって、

「皇后はあんなにいつまでもすねて、お宮へもかえって来ないけれど、しかし心の中ではわしのことを思っているに相違そういない。二人の間であるものを、そんなに意地いじを張らないでもよいであろうに」という意味を二つのお歌にお歌いになって、また改めて口子くちこをお迎えにおやりになりました。

 お使いの口子くちこは、奴里能美ぬりのみのおうちへ着きますと、天皇のそのお歌をかたときも早く皇后に申しあげようと思いまして、御座所ござしょのお庭先にわさきへうかがいました。

 そのときにちょうどひどい大雨がざあざあ降っておりました。口子くちこはその雨の中をもいとわず、皇后のおへやの前のびたへ平伏へいふくしますと、皇后は、つんとして、いきなり後ろの戸口の方へ立って行っておしまいになりました。口子くちこおそる怖るそちらがわにまわって平伏しました。そうすると皇后はまたついと前の方の戸口へ来ておしまいになりました。口子くちこはあっちへ行ったりこっちへ来たりして土の上にひざまずいているうちに、雨はいよいよどしゃぶりに降りつのって、そのたまり水がこしまでひたすほどになりました。口子くちこは赤いひものついた、あいめの上着うわぎを着ておりましたが、そのひもがびしょびしょになって赤い色がすっかり流れ出したので、しまいには青い着物もまっかに染まってしまいました。

 そのとき皇后のおそばには、口子くちこの妹の口媛くちひめという者がおつかえ申しておりました。口媛くちひめはおにいさまのそのありさまを見て、

「まあおかわいそうに、あんなにまでしておものを申しあげようとしているのに、見ている私にはなみだがこぼれてくる」

という意味を歌に歌いました。

 皇后はそれをお聞きになって、

「兄とはだれのことか」とおたずねになりました。

「さっきから、あすこに、水の中にひれしておりますのが私の兄の口子くちこでございます」と、口媛くちひめは涙をおさえてお答え申しました。

 口子くちこはそのあとで、口媛くちひめ奴里能美ぬりのみの二人に相談して、これはどうしても天皇にこちらへいらしっていただくよりほかには手だてがあるまいと、こう話を決めました。そこで口子くちこは急いでお宮へかえって申しあげました。

「まいりまして、すっかりわけをお聞き申しますと、皇后さまがあちらへお出向きになりましたのは、奴里能美ぬりのみのうちにめずらしい虫をっておりますので、ただそれをごらんになるためにおでかけになりましたのでございます。そのほかにはけっしてなんのわけもおありにはなりません。その虫と申しますのは、はじめははう虫でいますのが、つぎにはたまごになり、またそのつぎには飛ぶ虫になりまして、順々に三度姿すがたをかえる、きたいな虫だそうでございます」と、口子くちこは子供でも心得ているかいこのことを、わざとめずらしそうに、じょうずにこう申しあげました。

 すると天皇は、

「そうか、そんなおもしろい虫がいるなら、わしも見に行こう」とおっしゃって、すぐにお宮をお出ましになり、奴里能美ぬりのみのおうちへ行幸ぎょうこうになりました。

 奴里能美ぬりのみは、口子くちこが申しあげたとおりのとおりの虫を、前もって皇后に献上けんじょうしておきました。

 天皇は皇后のおへやの戸の前にお立ちになって、

「そなたがいつまでもおこったりしているので、とうとうみんながここまで出て来なければならなくなった。もうたいていにしてお帰りなさい」とお歌いになり、まもなくおともどもに難波なにわのお宮へご還幸かんこうになりました。

 天皇はそれといっしょに、八田若郎女やたのわかいらつめにおいとまをおつかわしになりました。しかしそのかわりには、郎女いらつめの名まえをいつまでも伝え残すために、八田部やたべという部族をおこしらえになりました。



 それからあるとき天皇は、女鳥王めとりのみこという、あるお血筋ちすじの近い方を宮中きゅうちゅうにおしかかえになろうとして、弟さまの速総別王はやぶさわけのみこをお使いにお立てになりました。

 みこはさっそくいらしって、そのおぼしめしをお伝えになりますと、女鳥王めとりのみこはかぶりをふって、

「いえいえ私は宮中きゅうちゅうへはお仕え申したくございません。皇后さまがあんなにごしっと深くいらっしゃるので、八田若郎女やたのわかいらつめだってご奉公ができないでさがってしまいましたではございませんか。それよりもこんな私でございますが、どうぞあなたのおよめにしてくださいまし」とおたのみになりました。

 それでみこはその女鳥王めとりのみこをお嫁になさいました。そして天皇に対しては、いつまでもご返事を申しあげないままでいらっしゃいました。

 すると天皇は、しまいにご自分で女鳥王めとりのみこのおうちへお出かけになり、戸口のしきいの上にお立ちになってのぞいてご覧になりますと、みこはちょうど中でおはたを織っていらっしゃいました。

 天皇は、

「それはだれの着物を織っているのか」とお歌に歌ってお聞きになりました。すると女鳥王めとりのみこもやはりお歌で、

「これは速総別王はやぶさわけのみこにお着せ申しますのでございます」とお答えになりました。

 天皇はそれをお聞きになって、二人のことをすっかりおさとりになり、そのままお宮へおかえりになりました。

 女鳥王めとりのみこはそのあとで、まもなく速総別王はやぶさわけのみこが出ていらっしゃいますと、

「もし。あなたさまよ。ひばりでさえもどんどん大空へかけのぼるではございませんか。あなたはお名まえもたかの中のはやぶさと同じでいらっしゃるのに、さあ早くささぎをとり殺しておしまいなさい」とこういう意味をお歌いになりました。それはいうまでもなく、天皇のお名が大雀命おおささぎのみことなので、それをささぎにかよわせて、一ときも早く天皇をお殺し申してご自分でお位におつきになるようにと、おそろしい入れぢえをなすったのでした。

 そうすると、そのお歌のことが、いつのまにか天皇のお耳にはいりました。天皇はすぐに兵をあつめて速総別王はやぶさわけのみこを殺しにおつかわしになりました。

 速総別王はやぶさわけのみこはそれと感づくと、びっくりして、女鳥王めとりのみこといっしょにすばやく大和やまとへ逃げ出しておしまいになりました。そのお途中、倉橋山くらはしやまというけわしい山をおえになるときに、かよわい女鳥王めとりのみこはたいそうご難渋なんじゅうをなすって、夫のみこのお手にすがりすがりして、やっと上までお上りになりました。

 お二人はそこからさらに同じ大和やまと曾爾そにというところまでいらっしゃいますと、天皇の兵がそこまで追いついて、お二人をし殺してしまいました。

 そのとき軍勢をひきいて来たのは山辺大楯連やまべのおおだてのむらじというつわものでした。むらじ女鳥王めとりのみこのお死がいのお手首に、りっぱなお腕飾うでかざりがついているのを見て、さっそくそれをはぎ取って、自分の家内かないに持ってかえってやりました。

 そのうちに宮中にあるご宴会えんかいがあって、臣下の者の妻女たちが、おおぜいおしにあずかりました。すると大楯連おおだてのむらじの妻は、女鳥王めとりのみこのお腕飾りを得意とくいらしく手首にかざってまいりました。皇后はそれらの女たちへ、お手ずから、お酒をるかしわの葉をおくだしになりました。みんなはかわるがわる御前ごぜんへ出て、それをいただいてさがりました。

 皇后はそのときに、ふと、むらじの妻の腕飾りにお目がとまりました。するとそれはかねてお見覚みおぼえのある女鳥王めとりのみこのお持物もちものでしたので皇后はにわかにお顔色をお変えになり、この女にばかりはかしわの葉をおくだしにならないで、そのまますぐにご宴席えんせきから追い出しておしまいになりました。そしてさっそく夫のむらじをおびつけになって、

「そちは人の腕飾りをぬすんで来て家内にやったろう。あの速総別はやぶさわけ女鳥めとりの二人は、天皇に対しておそろしい大罪を犯そうとしたのだから、かれたちが殺されたのはもとよりあたりまえである。しかしそちなぞからいえば、二人とも目上のみこたちではないか。その人が身につけている物を、死んでまだはだのあたたかいうちにはぎとって、それをおのれの妻にあたえるなぞと、まあ、よくもそんなひどいことができたね」とおっしゃって、ぐんぐんおいじめつけになったうえ、ようしゃなくすぐ死刑しけいに行なわせておしまいになりました。



 この天皇の御代みよに、兎寸川とさがわというある川の西に、大きな大きな大木が一本立っておりました。いつも朝日がさすたんびに、その木のかげ淡路あわじの島までとどき、夕日ゆうひが当たると、河内かわち高安山たかやすやまよりももっと上まで影がさしました。

 土地の者はその木を切って船をこしらえました。するとそれはそれはたいそう早く走れる船ができました。みんなその船に「枯野からぬ」という名前をつけました。そして朝晩それに乗って、淡路島あわじしまのわき出るきれいな水をくんで来ては、それを宮中きゅうちゅうのおし料にさしあげておりました。

 後にみんなは、その船が古びこわれたのを燃やして塩を焼き、その焼け残った木でことを作りました。その琴をひきますと、音が遠く七つの村々までひびいたということです。

 天皇はついにおん年八十三でおかくれになりました。



大鈴おおすず小鈴こすず



 仁徳天皇にんとくてんのうには皇子おうじが五人、皇女おうじょが一人おありになりました。その中で伊邪本別いざほわけ水歯別みずはわけ若子宿禰わくごのすくねのお三方さんかたがつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。

 いちばんのお兄上の伊邪本別皇子いざほわけのおうじは、お父上のきおあとをおつぎになって、同じ難波なにわのお宮で、履仲天皇りちゅうてんのうとしてお位におつきになりました。

 そのご即位そくいのお祝いのときに、天皇はお酒をどっさりしあがって、ひどくおいになったままおやすみになりました。

 すると、じき下の弟さまの中津王なかつのみこが、それをしおに天皇をお殺し申してお位を取ろうとおぼしめして、いきなりお宮へ火をおつけになりました。火の手は、たちまちぼうぼうと四方へ燃え広がりました。お宮じゅうの者はふいをくって大あわてにあわてさわぎました。

 天皇は、それでもまだ前後もなくおよっていらっしゃいました。それを阿知直あちのあたえという者が、すばやくおかかえ申しあげ、むりやりにうまにお乗せ申して、大和やまとへ向かってげ出して行きました。

 お酔いつぶれになっていた天皇は、河内かわち多遅比野たじひのというところまでいらしったとき、やっとおうまの上でお目ざめになり、

「ここはどこか」とおたずねになりました。阿知直あちのあたえは、

中津王なかつのみこがお宮へ火をお放ちになりましたので、ひとまず大和やまとの方へおともをしてまいりますところでございます」とお答え申しました。

 天皇はそれをお聞きになって、はじめてびっくりなさり、

「ああ、こんな多遅比たじひの野の中にるのだとわかっていたら、夜風よかぜを防ぐたてごもなりと持って来ようものを」

と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。

 それから埴生坂はにうざかという坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波なにわの方をふりかえってごらんになりますと、お宮の火はまだ炎々えんえんとまっかに燃え立っておりました。天皇は、

「ああ、あんなに多くの家が燃えている。わがきさきのいるお宮も、あの中に焼けているのか」という意味をお歌いになりました。

 それから同じ河内かわち大坂おおさかという山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女が通りかかりました。その女に道をおたずねになりますと、女は、

「この山の上には、戦道具いくさどうぐを持った人たちがおおぜいで道をふさいでおります。大和やまとの方へおいでになりますのなら、当麻道たじまじからおまわりになりましたほうがよろしゅうございましょう」と申しあげました。

 天皇はその女の言うとおりになすって、ご無事に大和やまとへおはいりになり、石上いそのかみ神宮じんぐうへお着きになって、仮にそこへおとどまりになりました。

 すると二ばんめの弟さまの水歯別王みずはわけのみこが、その神宮へおうかがいになって、天皇におめみえをしようとなさいました。天皇はおそばの者をもって、

「そちもきっと中津王なかつのみこはらを合わせているのであろう。目どおりは許されない」とおおせになりました。みこは、

「いえいえ私はそんなまちがった心は持っておりません。けっして中津王なかつのみこなぞと同腹どうふくではございません」とお言いになりました。天皇は、

「それならば、これから難波なにわへかえって、中津王なかつのみこちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。



 水歯別王みずはわけのみこは、大急ぎでこちらへおかえりになりました。そして中津王なかつのみこのおそばに仕えている、曾婆加里そばかりというつわものをおしになって、

「もしそちがわしの言うことを聞いてくれるなら、わしはまもなく天皇になって、そちを大臣にひきあげてやる。どうだ、そうして二人で天下を治めようではないか」とじょうずにおだましかけになりました。すると曾婆加里そばかりは大喜びで、

「あなたのおおせなら、どんなことでもいたします」

 と申しあげました。皇子おうじはその曾婆加里そばかりにさまざまのお品物をおくだしになったうえ、

「それでは、そちが仕えているあの中津王なかつのみこを殺してまいれ」とお言いつけになりました。曾婆加里そばかりは、

「かしこまりました」と、ぞうさもなくおひき受けして飛んでかえり、みこがかわやにおはいりになろうとするところを待ち受けて、一刺ひとさしにし殺してしまいました。

 水歯別王みずはわけのみこは、曾婆加里そばかりとごいっしょに、すぐに大和やまとへ向かってお立ちになりました。その途中、例の大坂おおさかの山の下までおいでになったとき、みことはつくづくお考えになりました。

「この曾婆加里そばかりめは、わしのためには大きな手柄てがらを立てたやつではあるが、かれ一人からいえば、主人を殺した大悪人である。こんなやつをこのままおくと、さきざきどんなおそろしいことをしだすかわからない。今のうちに手早くかたづけてしまってやろう。しかし、手柄てがらだけはどこまでもめておいてやらないと、これから後、人がわしを信じてくれなくなる」

 こうお思いになって急にその手だてをお考えさだめになりました。それで曾婆加里そばかりに向かって、

今晩こんばんはこの村へとまることにしよう。そしてそちに大臣の位をさずけたうえ、あすあちらへおうかがいをしよう」とおっしゃって、にわかにそこへ仮のお宮をおつくりになりました。そしてさかんなご宴会えんかいをお開きになって、そのお席で曾婆加里そばかりを大臣の位におつけになり、すべての役人たちに言いつけて礼拝をおさせになりました。

 曾婆加里そばかりはこれでいよいよ思いがかなったと言って大得意だいとくいになって喜びました。水歯別王みずはわけのみこは、

「それでは改めて、大臣のおまえと同じさかずきで飲み合おう」とおっしゃりながら、わざと人の顔よりも大きなさかずきへなみなみとおつがせになりました。そして、まずご自分で一口めしあがった後、曾婆加里そばかりにおくだしになりました。曾婆加里そばかりはそれをいただいて、がぶがぶと飲みはじめました。

 みこ曾婆加里そばかり目顔めがおがそのさかずきでかくれるといっしょに、かねてむしろの下にかくしておおきになったつるぎき放して、あッというまに曾婆加里そばかりの首を切り落としておしまいになりました。

 それからあくる日そこをお立ちになり、大和やまと遠飛鳥とおあすかという村までおいでになって、そこへまた一ばんおとまりになったうえ、けがればらいのお祈りをなすって、そのあくる日石上いそのかみの神宮へおうかがいになりました。そしておおせつけのとおり、中津王なかつのみこたいらげてまいりましたとご奏上そうじょうになりました。

 天皇はそれではじめてみこ御前ごぜんへお通しになりました。それから阿知直あちのあたえに対しても、ごほうびにくらつかさという役におつけになり、たいそうな田地でんぢをもおくだしになりました。



 天皇は後に大和やまと若桜宮わかざくらのみやにお移りになり、しまいにおん年六十四でおかくれになりました。そのおあとは、弟さまの水歯別王みずはわけのみこがおぎになりました。後に反正天皇はんしょうてんのうとおび申すのがこの天皇のおんことです。

 天皇はお身のたけが九しゃく二寸五、お歯のながさが一すんはばが二おありになりました。そのお歯は上下とも同じようによくおそろいになって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内かわち多遅比たじひ柴垣宮しばがきのみやで、まつりごとをおとりになり、おん年六十でおかくれになりました。



 反正天皇はんしょうてんのうのおあとには、弟さまの若子宿禰王わくごのすくねのみこ允恭天皇いんきょうてんのうとしてお位におつきになり、大和やまと遠飛鳥宮とおあすかのみやへお移りになりました。

 天皇は、もとからある不治のご病気がおありになりましたので、このからだでは位にのぼることはできないとおっしゃって、はじめにはかたくご辞退じたいになりました。しかし、皇后やすべての役人がしいておねがい申すので、やむなくご即位そくいになったのでした。

 するとまもなく新羅国しらぎのくにから、八十一そうの船で貢物みつぎものけんじて来ました。そのお使いにわたって来た金波鎮こんばちん漢起武かんきむという二人の者が、どちらともたいそう医薬のことに通じておりまして、天皇のながい間のご病気を、たちまちおなおし申しあげました。そのために天皇はついにおん年七十八までお生きのびになりました。

 天皇は日本じゅうの多くの部族の中で、めいめいいいかげんなかってなせいを名のっているものが多いのをおなげきになり、大和やまとのある村へ玖訂瓮くかえといって、にえ湯のたぎっているかまをおすえになって、日本じゅうのすべての氏姓しせいを正しくお定めになりました。そのにえ湯の中へ一人一人手を入れさせますと、正直しょうじきにほんとうのせいを名のっている者は、その手がどうにもなりませんが、いつわりを申し立てているものは、たちまち手が焼けただれてしまうので、いちいちうそとほんとうとを見わけることができました。



 天皇がおかくれになったあとにはいちばん上の皇子おうじの、木梨軽皇子きなしのかるのおうじがお位におつきになることにきまっておりました。ところが皇子はご即位そくいになるまえに、お身持ちの上について、ある言うに言われないまちがいごとをなすったので、朝廷ちょうていのすべての役人やしもじもの人民たちがみんな皇子をおいとい申して、弟さまの穴穂王あなほのみこのほうへついてしまいました。

 軽皇子かるのおうじはこれでは、うっかりしていると、穴穂王あなほのみこがたからどんなことをしむけるかもわからないとおおそれになり、大前宿禰おおまえのすくね小前宿禰こまえのすくねという、きょうだい二人の大臣のうちへおげこみになりました。そしてさっそくいくさ道具をおととのえになり、軽矢かるやといって、の根を銅でこしらえた矢などをも、どっさりこしらえて、待ちかまえていらっしゃいました。

 それに対して、穴穂王あなほのみこのほうでもぬからずいくさ手配てくばりをなさいました。こちらでも穴穂矢あなほやといって、後のの矢と同じように鉄の矢じりのついた矢を、どんどんおこしらえになりました。そしてまもなくみこご自身が軍務をおひきつれになって、大前おおまえ小前こまえの家をおかこみになりました。

 みこはちょうどそのとき急に降り出したひょうの中を、まっ先に突進とっしんして、門前へしよせていらっしゃいました。

「さあ、みんなもわしのとおり進んで来い。ひょうの雨は今にやむ。そのひょうのやむように、すべてを片づけてしまうのだ。さあ来い来い」という意味をお歌いになって、味方の兵をお招きになりました。

 すると大前おおまえ小前こまえ宿禰すくねは、手をあげひざをたたいて、歌いおどりながら出て来ました。

「何をそんなにおさわぎになる。宮人みやびとのはかまのすそのひもについた小さなすず、たとえばその鈴が落ちたほどの小さなことに、宮人も村の人も、そんなに騒ぐにはおよびますまい」

 こういう意味の歌を歌いながら穴穂王あなほのみこのごぜんに出て来て、

「もしあなたさま、軽皇子かるのおうじさまならわざわざお攻めになりますには及びません。ご同腹どうふくのお兄上をお攻めになっては人がわらいます。皇子さまは私がめしとってさし出します」と申しあげました。

 それで穴穂王あなほのみこは囲みをいて、ひきあげて待っておいでになりますと、二人の宿禰すくねは、ちゃんと軽皇子かるのおうじをおひきたて申してまいりました。



 軽皇子かるのおうじには、軽大郎女かるのおおいらつめとおっしゃるたいそうなかのよいご同腹どうふくのお妹さまがおありになりました。大郎女おおいらつめにまれなお美しい方で、そのきれいなおからだの光がお召物めしものまでも通して光っていたほどでしたので、またの名を衣通郎女そとおしのいらつめばれていらっしゃいました。

 穴穂王あなほのみこにおわたされになった軽皇子かるのおうじは、その仲のよい大郎女おおいらつめのおなげきを思いやって、

「ああ郎女いらつめよ。ひどくくと人が聞いてわらいそしる。羽狹はさの山のやまばとのように、こっそりとしのび泣きに泣くがよい」という意味の歌をお歌いになりました。

 穴穂王あなほのみこは、軽皇子かるのおうじを、そのまま伊予いよへ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女おおいらつめは、

「どうぞ浜べをお通りになっても、かきがらをおみになって、けがをなさらないように、よく気をつけてお歩きくださいまし」という意味の歌を、泣き泣きお兄上におささげになりました。

 大郎女おおいらつめはそのおあとでも、お兄上のことばかり案じつづけていらっしゃいましたが、ついにたまりかねてはるばる伊予いよまでおあとを追っていらっしゃいました。

 軽皇子かるのおうじはそれはそれはお喜びになって、大郎女おおいらつめのお手をとりながら、

「ほんとうによく来てくれた。鏡のように輝き、玉のように光っている、きれいなおまえがいればこそ、大和やまとへも帰りたいともだえていたけれど、おまえがここにいてくれれば、大和やまともうちもなんであろう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。

 まもなくお二人は、その土地で自殺しておしまいになりました。



しかのむれ、ししのむれ



 穴穂王あなほのみこは、おあにいさまの軽皇子かるのおうじを島流しにおしになった後、第二十代の安康天皇あんこうてんのうとしてお立ちになり、大和やまと石上いそのかみ穴穂宮あなほのみやへおひき移りになりました。

 天皇は弟さまの大長谷皇子おおはつせのおうじのために、仁徳天皇にんとくてんのう皇子おうじで、ちょうど大おじさまにおあたりになる大日下王おおくさかのみことおっしゃる方のお妹さまの、若日下王わかくさかのみこという方を、およめにもらおうとお思いになりました。

 それで根臣ねのおみという者を大日下王おおくさかのみこのところへおつかわしになって、そのおぼしめしをお伝えになりました。大日下王おおくさかのみこはそれをお聞きになりますと、四たび礼拝をなすったうえ、

「実は私も、万一そういうご大命たいめいがくだるかもわからないと思いましたので、妹は、ふだん、外へも出さないようにしていました。まことにおそれ多いことながら、それではおおせのままにさしあげますでございましょう」とたいそう喜んでお受けをなさいました。しかしただ言葉ことばだけでご返事を申しあげたのでは失礼だとお考えになって、天皇へお礼のおしるしに、押木おしぎの玉かずらというりっぱな髪飾かみかざりを、若日下王わかくさかのみこから献上品けんじょうひんとしておことづけになりました。

 するとお使いの根臣ねのおみは、乱暴らんぼうにも、その玉かずらを途中で自分がぬすみ取ったうえ、天皇に向かっては、

「おおせをお伝えいたしましたが、みこはお聞き入れがございません。おれの妹ともあるものを、あんなやつの敷物しきものにやれるかとおっしゃって、それはそれは、刀のつかに手をかけてご立腹になりました」

 こう言って、まるで根のないことをこしらえて、ひどいざんげんをしました。

 天皇は非常においかりになって、すぐに人をせて大日下王おおくさかのみこを殺しておしまいになりました。そしてみこのおきさき長田大郎女ながたのおおいらつめをめしいれて自分の皇后になさいました。

 あるとき天皇は、お昼寝ひるねをなさろうとして、お寝床ねどこにおよこたわりになりながら、おそばにいらしった皇后に、

「そちはなにか心の中に思っていることはないか」とおたずねになりました。皇后は、

「いいえけっしてそんなはずはございません。これほどおてあついお情けをいただいておりますのに、このうえ何を思いましょう」とお答えになりました。

 そのとき、ちょうど御殿ごてんの下には、皇后が先の大日下王おおくさかのみことの間におもうけになった、目弱王まよわのみことおっしゃる、七つにおなりになるお子さまが、ひとりで遊んでおいでになりました。

 天皇はそれとはご存じないものですから、ついうっかりと、

「わしはただ一つ、いつも気になってならないことがある。それは目弱まよわが大きくなった後に、あれの父はわしが殺したのだと聞くと、わしに復しゅうをしはしないだろうかと、それが心配である」とこうおおせになりました。

 目弱王まよわのみこは下でそれをお聞きになって、それではお父上を殺したのは天皇であったのかとびっくりなさいました。

 そのうちに、まもなく天皇はぐっすりおねむりになりました。目弱王まよわのみこはそこをねらってそっと御殿ごてんへおあがりになり、おまくらもとにあった太刀たちき放して、いきなり天皇のお首をお切りになりました。そしてすぐにお宮を抜け出して、都夫良意富美つぶらおおみという者のうちへげこんでおしまいになりました。

 天皇はそのままお息がお絶えになりました。お年は五十六歳でいらっしゃいました。

 そのときには、弟さまの大長谷皇子おおはつせのおうじは、まだ童髪どうはつをおゆいになっている一少年でおいでになりましたが、目弱王まよわのみこが天皇をお殺し申したとお聞きになりますと、それはそれはおいきどおりになって、すぐにお兄上の黒日子王くろひこのみこのところへかけつけておいでになり、

「おあにいさま、たいへんです。天皇をお殺し申したやつがいます。どういたしましょう」とご相談をなさいました。すると、黒日子王くろひこのみこは天皇のご同腹どうふくのおあにいさまでおありになりながら、てんで、びっくりなさらないで平気にかまえていらっしゃいました。大長谷皇子おおはつせのおうじはそれをごらんになりますと、くわッとおいかりになり、

「あなたはなんというたのもしげもない人でしょう。われわれの天皇がお殺されになったのじゃありませんか。そして、それは、またあなたのおあにいさまじゃありませんか。それを平気で聞いているとは何ごとです」とおっしゃりながら、いきなりえりもとをひッつかんでひきずり出し、刀を抜くなり、一打ひとうちに打ち殺しておしまいになりました。

 皇子おうじはそれからまたつぎのおあにいさまの白日子王しらひこのみこのところへおいでになって、同じように、天皇がお殺されになったことをお告げになりました。白日子王しろひこのみこは天皇のご同腹どうふくの弟さまでいらっしゃいました。それだのに、この方も同じく平気な顔をして、すましておいでになりました。皇子はまたそのおあにいさまのえり首をつかんでひきずり出して、小治田おはりだという村まで引っぱっていらっしゃいました。そしてそこへあなって、その中へまっすぐに立たせたまま、生きめにめておしまいになりました。

 みこはどんどん土をかけられて、こしまでお埋められになったとき両方りょうほうのお目の玉が飛び出して、それなり死んでおしまいになりました。



 大長谷皇子おおはつせのおうじはそれから軍勢をひきつれて、目弱王まよわのみこをかくまっている都夫良意富美つぶらおおみやしきをおとり囲みになりました。すると、こちらでもちゃんと手くばりをして待ちかまえておりまして、それッというなり、ちょうどあしの花が飛びるように、もうもうとしました。

 大長谷皇子おおはつせのおうじは、その前から、この都夫良つぶらむすめ訶良媛からひめという人をおよめにおもらいになることにしていらっしゃいました。皇子おうじは今どんどん向ける矢の中に、ほこいてお突ッ立ちになりながら、

都夫良つぶらよ、訶良媛からひめはこのうちにいるか」と大声でおどなりになりました。

 都夫良つぶらはそれを聞くと、急いで武器を投げすてて、皇子おうじ御前ごぜんへ出て来ました。そして八度やたびおがんで申しあげました。

むすめ訶良媛からひめはお約束のとおりかならずあなたにさしあげます。また五かそんの私の領地も、娘にえて献上けんじょういたします。ただどうぞ、今しばらくお待ちくださいまし。私がただ今すぐに娘をさしあげかねますわけは、むかしから臣下の者が皇子さま方のお宮へげかくれたことは聞いておりますが、とうとい皇子さまがしもじもの者のところへおのがれになったためしはかつて聞きません。私はいかに力いっぱい戦いましても、あなたにお勝ち申すことができないのは十分わきまえております。しかし、目弱王まよわのみこは、私ごとき者をもたよりにしてくださって、いやしい私のうちへおはいりくださっているのでございますから、私といたしましては、たとえ死んでもお見捨みすて申すことはできません。娘はどうぞ私がにをいたしましたあとで、おめしつれくださいまし」

 こう申しあげて御前をさがり、再びいくさ道具を取ってやしきにはいって、いっしょうけんめいにいくさをいたしました。

 そのうちに都夫良つぶらはとうとうひどい手傷てきずを負いました。みんなも矢だねがすっかりきてしまいました。それで都夫良つぶら目弱王まよわのみこに向かって、

「私もこのとおりで、もはやいくさを続けることができません。いかがいたしましょう」と申しあげました。

 お小さな目弱王まよわのみこは、

「それではもうしかたがない。早くわたしを殺してくれ」とおっしゃいました。都夫良つぶらはおおせに従ってすぐにみこをおし申した上、その刀で自分の首を切って死んでしまいました。



 このさわぎがかたづくとまもなく、ある日、大長谷皇子おおはつせのおうじのところへ、近江おうみ韓袋からぶくろという者が、そちらの蚊屋野かやのというところに、ししやしかがひじょうにたくさんおりますと申し出ました。

「そのどっさりおりますことと申しますと、群がり集まった足はちょうどすすきの原のすすきのようでございますし、群がったつのは、ちょうど枯木かれきの林のようでございます」と韓袋からぶくろは申しあげました。

 皇子おうじは、ようし、とおっしゃって、履仲天皇りちゅうてんのうの皇子で、ちょうどおいとこにおあたりになる、忍歯王おしはのみことおっしゃるお方とお二人で、すぐに近江おうみへおくだりになりました。お二人は蚊屋野かやのにお着きになりますと、ごめいめいに別々の仮屋かりやをお立てになって、その中へおとまりになりました。

 そのあくる朝、忍歯王おしはのみこは、まだ日も上らないうちにお目ざめになりました。それでまったくなんのお気もなく、すぐにおうまにめして、大長谷皇子おおはつせのおうじのお仮屋へ出かけておいでになりました。こちらでは、皇子おうじはまだよくおよっていらっしゃいました。みこは、皇子のおつきの者に向かって、

「まだお目ざめでないようだね。もうも明けたのだから、早くお出かけになるように申しあげよ」とおっしゃって、そのままおうまをすすめて、りょう場へお出かけになりました。

 皇子のおつきの者は、皇子に向かって、

「ただ今忍歯王おしはのみこがおいでになりまして、これこれとおっしゃいました。なんだかおっしゃることが変ではございませんか。けっしてごゆだんをなさいますな。お身かためも十分になすってお出かけなさいますように」と悪くうたがってこう申しあげました。それで皇子も、わざわざお召物めしものの下へよろいをお着こみになりました。そして弓矢ゆみやを取っておうまをすなり、大急ぎでみこのあとを追ってお出かけになりました。

 皇子はまもなく王に追いついて、お二人でうまをならべてお進みになりました。そのうちに皇子はすきまをねらって、さっと矢をおつがえになり、罪もない忍歯王おしはのみこを、だしぬけに落としておしまいになりました。そして、なおらずに、そのおからだをずたずたに切りきざんで、それをうまの飼葉かいばを入れるおけの中へ投げ入れて、土の中へめておしまいになりました。



 忍歯王おしはのみこには意富祁王おおけのみこ袁祁王おけのみこというお二人のお子さまがいらっしゃいました。

 お二人はお父上がお殺されになったとお聞きになりまして、それでは自分たちも、うかうかしてはいられないとおぼしめして、急いで大和やまとをおげになりました。

 そのお途中でお二人が、山城やましろ苅羽井かりはいというところでおべんとうをめしあがっておりますと、そこへ、ちょうえきあがりのしるしに、かお入墨いれずみをされている、一人の老人ろうじんが出て来て、お二人が食べかけていらっしゃるおべんとうをうばい取りました。お二人は、

「そんなものはしくもないけれど、いったいおまえは何者だ」とおたしなめになりました。

「おれは山城やましろでおかみのししをっているししかいだ」とその悪者わるものの老人は言いました。

 お二人は、それから河内かわち玖須婆川くすばがわという川をおわたりになり、とうとう播磨はりままで逃げのびていらっしゃいました。そして固くご身分をかくして、志自牟しじむという者のうちへ下男におやとわれになり、いやしいうし飼、うま飼の仕事しごとをして、お命をつないでいらっしゃいました。



とんぼのお歌



 大長谷皇子おおはつせのおうじは、まもなく雄略天皇ゆうりゃくてんのうとしてご即位そくいになり、大和やまと朝倉宮あさくらのみやにおうつりになりました。皇后には、れい大日下王おおくさかのみこのお妹さまの若日下王わかくさかのみこをお立てになりました。

 その若日下王わかくさかのみこが、まだ河内かわち日下くさかというところにいらしったときに、ある日天皇は、大和やまとからお近道ちかみちをおとりになり、日下くさか直越ただごえというとうげをおえになって、みこのところへおいでになったことがありました。

 そのとき天皇は、山の上から四方の村々をお見わたしになりますと、向こうの方に、一けん、むねにかつお木をとりつけているうちがありました。かつお木というのは、天皇のお宮か、神さまのおやしろかでなければつけないはずの、かつおのような形をした、むねのかざりです。

 天皇はそれをごらんになって、

「あの家はだれの家か」とおたずねになりました。

「あれは志幾しき大県主おおあがたぬしのうちでございます」と、お供の者がお答え申しました。天皇は、

「無礼なやつめ。おのれが家をわしのお宮にせて作っている」とおいかりになり、

「行ってあの家を焼きはらって来い」とおっしゃって、すぐに人をおつかわしになりました。

 すると大県主おおあがたぬしはすっかりおそれいってしまいました。

「実は、おろかな私どものことでございますので、ついなんにも存じませんで、うっかりこしらえましたものでございます」と言って、ちじみあがってお申しわけをしました。そして、そのおわびのしるしに、一ぴきの白いぬにぬのを着せ、すずかざりをつけて、それを身内みうちの者の一人の、腰佩こしはきという者につなで引かせて、天皇に献上けんじょういたしました。

 それで天皇も、そのうちをお焼きはらいになることだけは許しておやりになり、そのまま若日下王わかくさかのみこのおうちへお着きになりました。

 天皇はおともの者をもって、

「これはただいま途中で手に入れたいぬだ。めずらしいものだから進物しんもつにする」とおっしゃって、さっきの白いぬを若日下王わかくさかのみこにおくだしになりました。しかしみこは、

「きょう天皇は、お日さまをお背中せなかになすっておこしになりました。これではお日さまに対しておそれおおうございますので、きょうはお目にかかりません。そのうち、私のほうからすぐにまかり出まして、お宮へお仕え申しあげます」

 こう言って、おことわりをなさいました。

 天皇はお帰りのお途中、山の上にお立ちになって、若日下王わかくさかのみこのことをおしたいになるお歌をおよみになり、それをみこへお送りになりました。みこはそれからまもなくお宮へおあがりになりました。



 天皇はあるとき、大和やまと美和川みわがわのほとりへお出ましになりました。そうすると、一人のむすめが、その川で着物を洗っておりました。それはほんとうに美しい、かわいらしい娘でした。天皇は、

「そちはだれの子か」とおたずねになりました。

わたくし引田郎ひけたべ赤猪子あかいのこと申します者でございます」と娘はお答え申しました。天皇は、

「それでは、いずれわしのお宮へし使ってやるから待っていよ」とおっしゃって、そのままお通りすぎになりました。

 赤猪子あかいのこはたいそう喜んで、それなりおよめにも行かないで、一心にご奉公ほうこうを待っておりました。しかし宮中きゅうちゅうからは、何十年たっても、とうとうおしがありませんでした。そのうちに、もうひどいおばあさんになってしまいました。赤猪子あかいのこは、

「これではいよいよお宮へご奉公にあがることはできなくなった。しかしこんなになるまで、いっしょうけんめいにおめしを待っていたことだけは、いちおう申しあげて来たい」こう思って、ある日、いろいろの鳥やおさかなや野菜ものをおみやげに持って、お宮へおうかがいいたしました。すると天皇は、

「そちはなんという老婆ろうばだ。どういうことでまいったのか」とおたずねになりました。赤猪子あかいのこは、

「私は、いついつの年のこれこれの月に、これこれこういうおおせをこうむりましたものでございます。こんにちまでおしをお待ち申してとうとう何十年という年をごしました。もはやこんな老婆ろうばになりましたので、もとよりご奉公ほうこうにはえられませんが、ただ私がどこまでもおおせをまもっておりましたことだけを申しあげたいと存じましてわざわざおうかがいいたしました」と申しあげました。天皇てんのうはそれをお聞きになって、びっくりなさいました。

わしはそのことは、もうとっくにわすれてしまっていた。これはこれはすまないことをした。かわいそうに」とおっしゃって、二つのお歌をお歌いになり、それでもって、赤猪子あかいのこのどこまでも正直しょうじき心根こころねをおほめになり、ご自分のために、とうとう一生およめにも行かないで過ごしたことをしみじみおあわれみになりました。赤猪子あかいのこは、そのお歌を聞いて、たまりかねてきだしました。そのなみだで、赤色にすりそめた着物のそでがじとじとにぬれました。そして泣き泣き歌って、

「ああああ、これから先はだれにすがって生きて行こう。わかい女の人たちは、ちょうど日下くさか入江いりえのはすの花のようにかがやほこっている。わたしもそのとおりの若さでいたら、すぐにもお宮でし使っていただけようものを」と、こういう意味をお答え申しあげました。

 天皇はかずかずのお品物をおくだしになり、そのままおうちへおかえしになりました。



 またあるとき天皇は、大和やまと阿岐豆野あきつのという野へごりょうにおいでになりました。そして猟場りょうばでおいすにおかけになっておりますと、一ぴきのあぶがんで来て、おうでにくいつきました。すると一ぴきのとんぼが出て来て、たちまちそのあぶをころしてんで行きました。

 天皇はこれをごらんになって、たいそうお喜びになり、

「なるほどこんなふうに天皇のことを思う虫だから、それでこの日本のことをあきつ島というのであろう」という意味をお歌に歌っておほめになりました。とんぼのことをむかし言葉ことばではあきつとんでおりました。

 そのつぎにはまた別のときに、大和やまと葛城山かつらぎやまへお上りになりました。そうすると、ふいに大きな大いのししが飛び出して来ました。天皇はすぐにかぶらをおつがえになって、ねらいをたがえず、ぴゅうとおあてになりました。すると、ししはおそろしくいかくるって、ううううとうなりながら飛びかかって来ました。それには、さすがの天皇もこわくおなりになって、おそばに立っていたはんのきへ、大急ぎでおげのぼりになり、それでもって、やっとあぶないところをお助かりになりました。

 天皇はそのはんのきの上で、

「ああ、この木のおかげで命びろいをした。ありがたいありがたい」とおっしゃる意味を、お歌にお歌いになりました。



 天皇はその後、また葛城山かつらぎやまにおのぼりになりました。そのときお供の人々は、みんな、赤いひものついた、青ずりのしょうぞくをいただいて着ておりました。

 すると、向こうの山を、一人のりっぱな人がのぼって行くのがお目にとまりました。その人のお供の者たちも、やはりみんな、赤ひものついた、青ずりの着物を着ていまして、だれが見ても天皇のお行列と寸分すんぶんちがいませんでした。

 天皇はおどろいて、すぐに人をおつかわしになり、

「日本にはわしを除いて二人の天皇はいないはずだ。それだのに、わしと同じお供を従えて行くそちは、いったい何者だ」と、きびしくお問いつめになりました。すると向こうからも、そのおたずねと同じようなことを問いかえしました。

 天皇はくわッとおいかりになり、まっ先に矢をぬいておつがえになりました。お供の者も残らず一度に矢をつがえました。そうすると、向こうでも負けていないで、みんなそろって矢をつがえました。天皇は、

「さあ、それでは名を名乗れ。おたがいに名乗り合ったうえで矢を放とう」とお言い送りになりました。向こうからは、

「それではこちらの名まえもあかそう。わたしは悪いことにもただ一言ひとこと、いいことにも一言だけお告げをくだす、葛城山かつらぎやま一言主神ひとことぬしのかみだ」とお答えがありました。天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、

「これはこれはおそれおおい、大神おおかみがご神体をお現わしになったとは思いもかけなかった」とおっしゃって、大急ぎで太刀たち弓矢ゆみやをはじめ、おともの者一同の青ずりの着物をもすっかりおぬがせになり、それをみんな、おがんで、大神おおかみへご献上けんじょうになりました。

 すると大神おおかみは手を打ってお喜びになり、その献上物けんじょうものをすっかりお受けいれになりました。それから天皇がご還幸かんこうになるときには、大神おおかみはわざわざ山をおりて、遠く長谷はつせの山の口までお見送りになりました。



 天皇はつぎにはまたあるとき、その長谷はつせにあるももえつきという大きな、大けやきの木の下でお酒宴さかもりをおもよおしになりました。

 そのとき伊勢いせの生まれの三重采女みえのうねめという女官じょかんが、天皇におさかずきをささげて、お酒をおつぎ申しました。すると、あいにく、けやきの葉が一つ、そのさかずきの中へ落ちこみました。采女うねめはそれとも気がつかないで、なおどんどんおつぎ申しました。天皇はふと、その木の葉をごらんになりますと、たちまちむッとおいかりになって、いきなり采女うねめをつかみせておしまいになり、お刀をおぬきになって、首を切ろうとなさいました。采女うねめは、

「あッ」とおそれちぢかんで、

「どうぞいのちだけはお許しくださいまし。申しあげたいことがございます」と言いながら、つぎのような意味の、長い歌を歌いました。

「このお宮は、朝日も夕日もよくさし入る、はればれとしたよいお宮である。かた地伏ぢふくの上に立てられた、がっしりした大きなお宮である。お宮のそとには大きなけやきの木がそびえたっている。その大木たいぼくの上のえだは天をおおっている。中ほどの枝は東の国においかぶさり、下の枝はそのあとの地方をすっかりおおっている。上の枝のこずえの葉は、落ちて中の枝にかかり、中の枝の落ちた葉は下の枝にふりかかる。下の枝の葉は采女うねめささげたおさかずきの中へ落ちかんだ。

 それを見ると、大昔おおむかし、天地がはじめてできたときに、この世界が浮き油のように浮かんでいたときのありさまが思い出される。また、神さまが、大海たいかいのまん中へこの日本の島を作りお浮かべになった、そのときのありさまにもよくている。ほんとはとうとくもめでたいことである。これはきっと、後の世までも話し伝えるに相違そういない」

 采女うねめはこう言って、むかしからの言い伝えを引いておもしろく歌いあげました。天皇はこの歌にめんじて、采女うねめの罪を許しておやりになりました。すると皇后もたいそうお喜びになって、

「この大和やまと高市郡たかいちごおりの高いところに、大きくしげった広葉ひろはのつばきがいている。今、天皇は、そのつばきの葉と同じように、大きなおひろい、そして、その花と同じように美しくおやさしいお心で、采女うねめをお許しくだすった。さあ、このとうとい天皇にお酒をおつぎ申しあげよ。このありがたいお情けは、みんなが後の世までながく語り伝えるであろう」と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。

 それについで天皇も楽しくお歌をお歌いになり、みんなでにぎやかにお酒盛さかもりをなさいました。

 采女うねめは罪を許されたばかりでなく、そのうえに、さまざまのおくだし物をいただいて、大喜びに喜びました。

 天皇はしまいに、おん年百二十四歳でおかくれになりました。



うしかい、うまかい



 雄略天皇ゆうりゃくてんのうのおあとには、お子さまの清寧天皇せいねいてんのうがお立ちになりました。天皇はしまいまで皇后をお迎えにならず、お子さまもお一人もいらっしゃいませんでした。

 ですから天皇がおかくれになると、おあとをおぎになるお方がいらっしゃらないので、みんなはたいそう当惑とうわくして、これまでのどの天皇かのお血筋ちすじの方をいっしょうけんめいにおさがし申しました。すると、さきに大長谷皇子おおはつせのおうじにお殺されになった、忍歯王おしはのみこのお妹さまで忍海郎女おしぬみのいらつめ、またのお名まえを飯豊王いいとよのみことおっしゃる方が、大和やまと葛城かつらぎ角刺宮つのさしのみやというお宮においでになりました。それで、このお方にともかく一まつりごとをおとりになっていただきました。みんなは、例の忍歯王おしはのみこのお子さまの意富祁おおけ袁祁おけのお二人が、播磨はりまの国でうしかい、うまかいになって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。

 その後まもなく、その播磨はりまの国へ、山部連小楯やまべのむらじおだてという人が国造くにのみやつこになって行きました。するとその地方の志自牟しじむという者が新築しんちくしたおうちでお酒盛さかもりをしました。そのとき小楯おだてをはじめ、よばれた人たちも、お酒がまわるにつれて、みんなで代わる代わる立ってまいを舞いました。しまいにはかまどのそばで火をたいていたきょうだい二人の火たきの子供にも舞えと言いました。

 すると弟のほうの子は、兄の子に向かって、おまえさきにお舞いと言いました。兄は弟に向かって、おまえから舞えと言いました。みんなは、そんないやしい小やっこどもが、人なみに、もっともらしくゆずり合うのをおもしろがって、やんやとわらいました。

 そのうちに、とうとう兄のほうがさきに舞いました。弟はそのあとに舞い出そうとするときに、まず大声でつぎのような歌を歌って自分たちきょうだいの身の上をうちあけました。

「男らしい大きな男が、太刀たちのつかに赤いかざりをつけ、太刀のおには赤いきれをつけて、いかにも人目を引く姿すがたをしていても、深くおいしげったたけやぶの後ろにはいれば、かくれて目にも見えない」と、こう歌いだして、たけやぶという言葉ことばを引き出した後、

「そんなたけやぶの大きなたけを割って、それをならべてこしらえた、八絃琴はちげんきんは、それはそれは調子がよくととのって申し分がない。今から五だいまえ履仲天皇りちゅうてんのうは、ちょうどそのことのしらべと同じように、どこまでもりっぱに天下をお治めになったお方である。その皇子おうじ忍歯王おしはのみことおっしゃる方がいらしった。みんなの人々よ、われわれ二人は、その忍歯王おしはのみこの子であるぞ」と歌いました。

 小楯おだてはそれを聞くとびっくりして、ゆかからころがり落ちてしまいました。そして大あわてにあわてて、さっそくみんなを残らず追い出したうえ、意外なところでお見出し申した、意富祁おおけ袁祁おけのお二人を左右のおひざにおかかえ申しながら、お二人の今日こんにちまでのご辛苦しんくをお察し申しあげて、ほろほろとなみだを流してきました。

 小楯おだてはそれから急いでみんなを集めて、仮のお宮をつくり、お二人をその中にお移し申しました。そして、すぐに大和やまとへ早うまの使いを立てて、おんおば上の飯豊王いいとよのみこにご注進ちゅうしん申しあげました。飯豊王いいとよのみこはそれをお聞きになると、大喜びにお喜びになり、すぐにお二人をおびのぼせになりました。



 お二人は、角刺つのさしのお宮でだんだんにご成人せいじんになりました。

 あるとき袁祁王おけのみこは、歌がきといって、男や女がおおぜいいっしょに集まって、歌を歌いかわすもよおしへおでかけになりました。

 そのとき菟田首うたのおびとという人のむすめで、みこがかねがねおよめにもらおうと思っておいでになる、大魚おうおという美しい女の人も来あわせておりました。するとそのころ、臣下の中でおそろしくはばをきかせていた志毘臣しびのおみというものが、その大魚おうおの手を取りながら、袁祁王おけのみこにあてつけて、

「ああ、おかしやおかしや、お宮の屋根がゆがんでしまった」と歌いだし、そのあとの歌のむすびをみこにさし向けました。みこは、すぐにそれをお受けになって、

「それは大工だいくがへただからゆがんだのだ」とお歌いになりました。すると志毘しびかさねて、

「いや、どんなにみこがあせられても、わしがゆいめぐらした、八重やえのしばがきの中へははいれまい。大魚おうおとわしとのなかをじゃますることはできまい」と歌いかけました。みこはすかさず、

しおの流れの上の、波のあらいところにしびが泳いでいる。しびのそばにはしびの妻がついている。ばかなしびよ」とお歌いになりました。

 そうすると志毘しびはむっとおこって、

みこのゆったしばがきなぞは、いかに堅固けんごにゆいまわしてあろうとも、おれがたちまち切り破って見せる。焼きはらって見せてやる」と歌いました。みこはどこまでも負けないで、

「あはは、しびよ。そちはさかなだ。いかにいばっても、そちをきに来る海人あまにはかなうまい。そんなにこわいものがいては悲しかろう」とお歌いになりました。

 みこは、そんなにして、とうとう夜があけるまで歌い争っておひきあげになりました。そして、お宮へお帰りになるとすぐに、お兄上の意富祁王おおけのみことご相談なさいました。志毘しびはひとりでつけあがって、われわれをもまるでみつけている。われわれのお宮に仕えている者も、朝はお宮へ来るけれど、それからさきは昼じゅう志毘しびの家に集まってこびいっている。あんなやつは後々のために早くほろぼしてしまわなければいけない。志毘しびは今ごろはつかれて寝入ねいっているにちがいない。門には番人もいまい、おそうのは今だとお二人でご決心になりました。そしてすぐに軍勢を集めて志毘しびの家をお取り囲みになり、目あての志毘しびを難なく切り殺しておしまいになりました。



 お二人はもはや、お年の上でも十分おひとり立ちで天下をお治めになることがおできになるので、順序じゅんじょからいって、お兄上の意富祁王おおけのみこが、まず第一にご即位そくいになるのがほんとうでした。しかし、みことは弟さまに向かって、

「二人が志自牟しじむのうちにいたときに、もしそなたが名まえを名乗らなかったら、二人ともあのままあそこにうずもれていなければならなかったはずであった。おたがいにこんなになったのもみんなそなたのお手柄てがらである。それで、私は兄に生まれてはいるけれど、どうかそなたからさきに天下を治めておくれ」とおっしゃいました。袁祁王おけのみこはそのことだけはどこまでもご辞退じたいになりましたが、お兄上がどうしてもお聞きいれにならないので、とうとうしかたなしに、第一にお位におつきになりました。後に顕宗天皇けんそうてんのうと申しあげるのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。

 天皇はそれといっしょに大和やまと近飛鳥宮ちかあすかのみやへお移りになり、石木王いしきのみこという方のお子さまの難波王なにわのみことおっしゃる方を、皇后にお迎えになりました。

 天皇は、お父上の忍歯王おしはのみこのご遺骨いこつをおさがし申そうとおぼしめして、いろいろ、ご苦心をなさいました。すると、近江おうみから一人のいやしい老婆ろうばがのぼって来て、

みこのおこつをおめ申したところは私がちゃんと存じております。おそれながら、みこには、ゆりの根のようにおかさなりになったお歯がおありになりました。そのお歯をごらんになりませば、みこのおこつということはすぐにお見分けがつきます」と申しあげました。天皇はさっそく近江おうみ蚊屋野かやのへおくだりになって、土地の人民におおせつけになって、老婆ろうばす場所をおらせになり、たしかにお父上のご遺骨をお見出しになりました。それで蚊屋野かやのの東の山にみささぎを作っておほうむりになり、さきに、お父上たちに猟をおすすめ申しあげた、あの韓袋からぶくろの子孫をお墓守はかもりにご任命になりました。

 天皇はそれからご還御かんぎょの後、さきの老婆ろうばをおめしのぼせになりまして、

「そちは大事な場所をよく見届みとどけておいてくれた」とおほめになり、置目老媼おきめのおみなという名をおくだしになりました。そして、とうぶんそのまま宮中きゅうちゅうへおとどめになって、おてあつくおもてなしになった後、改めてお宮の近くの村へお住ませになり、毎日一度はかならずおそばへめして、やさしくお言葉ことばをかけておやりになりました。天皇はそのためにわざわざお宮の戸のところへ大きなすずをおかけになり、置目おきめをおめしになるときは、その鈴をお鳴らしになりました。

 後には置目おきめは、

「私もたいそう年をとりましたので、生まれた村へ帰りたくなりました」と申しあげました。

 天皇は置目おきめのおねがいをお許しになり、それではもうあすからそなたを見ることもできないのかとおっしゃる意味の、お別れの歌をお歌いになりながら、わざわざ見送りまでしておやりになりました。

 つぎに天皇は、むかしお兄上とお二人で大和やまとからおげになる途中で、おべんとうをうばい取った、あのししかいの老人をおさがし出しになって大和やまと飛鳥川あすかがわ川原かわら死刑しけいにお行ないになりました。その悪者の老人は志米須しめすというところに住んでおりました。天皇はなおその上の刑罰けいばつとして、その老人の一族の者たちのひざのすじち切らせておしまいになりました。これらの者たちは、その後大和やまとへのぼるのに、いつもびっこを引いて出て来ました。



 天皇は、お父上をお殺しになった雄略天皇ゆうりゃくてんのうを、深くおうらみになりまして、せめてそのみたまに向かって復しゅうをしようというおぼしめしから、人をやって、河内かわち多治比たじひというところにある、天皇のみささぎをこわさせようとなさいました。

 するとお兄上の意富祁王おおけのみこが、

「天皇のみささぎをこわすためなら、ほかのものをやってはいけません。わたしが自分で行っておぼしめしどおりこわして来ます」とご奏上そうじょうになりました。天皇は、

「それではあなたがおいでになるがよい」とお許しになりました。意富祁王おおけのみこは急いでお出かけになりました。そしてまもなくお帰りになって、

「ちゃんとこわしてまいりました」とおっしゃいました。

 しかし、そのお帰りがあんまりお早いので、天皇は変だとおぼしめし、

「いったいどんなふうにおこわしになったのです」とおたずねになりました。するとお兄上は、

「実はみささぎの土を少しだけりかえしてまいりました」とお答えになりました。天皇は、それをお聞きになって、

「それはまたどういうわけでしょう。お父上の復しゅうをするのに、土を少し掘って帰られただけではきたりないではありませんか。なぜみささぎをすっかりこわして来てくださらないのです」とおっしゃいました。お兄上は、

「そのおおせはいちおうごもっともです。しかし、相手の方はいくら父上のかたきとはいえ、一方はわれわれのおじであり、またわれわれの天皇のお一人でいらっしゃるお方です。私たちがただ父上のかたきということだけ考えて天皇ともある方のみささぎをこわしたとなりますと、後の世の人から必ずそしりを受けます。ただかたきはどこまでも報いねばならないので、そのしるしに土を少しって来たのです。このくらいのはじを与えたのならば、後世こうせいだれにもはばかることはありますまいから」

 こう言って、そのわけをお話しになりました。すると天皇も、

「なるほどそれは道理である。あなたのなさったとおりでよろしい」とおっしゃってご満足になりました。

 天皇は八年の間天下をお治めになった後、おん年三十八歳でおかくれになりました。天皇はお子さまが一人もおありになりませんでした。それでおあとにはお兄上の意富祁王おおけのみこ仁賢天皇にんけんてんのうとしてご即位そくいになりました。

 天皇は大和やまと石上いそのかみ広高宮ひろたかのみやへお移りになり、皇后には雄略天皇ゆうりゃくてんのうのお子さまの春日大郎女かすがのおおいらつめとおっしゃる方をお立てになりました。

 天皇のおつぎには、皇子おうじ小長谷若雀命こはつせのわかささぎのみこと武烈天皇ぶれつてんのうとしてお位におつきになりました。そのおあとには、継体けいたい安閑あんかん宣化せんか欽明きんめい敏達びたつ用明ようめい崇峻すしゅん推古すいこ諸天皇しょてんのうがつぎつぎにお位におのぼりになりました。

底本:「古事記物語」角川文庫、角川書店

   1955(昭和30)年120日初版発行

   1968(昭和43)年81031版発行

   1980(昭和55)年930日改版19

初出:女神の死「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年7

   天の岩屋「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年8

   八俣の大蛇「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年9

   むかでの室、へびの室「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年10

   きじのお使い「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年11

   笠沙のお宮「赤い鳥」赤い鳥社

   1919(大正8)年12

   満潮の玉、干潮の玉「古事記物語上卷」赤い鳥社

   1920(大正9)年12

   八咫烏「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年1

   赤い盾、黒い盾「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年2

   おしの皇子「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年3

   白い鳥「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年4

   朝鮮征伐「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年5

   赤い玉「古事記物語下卷」赤い鳥社

   1920(大正9)年12

   宇治の渡し「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年6

   難波のお宮「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年7

   大鈴小鈴「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年8

   しかの群、ししの群「赤い鳥」赤い鳥社

   1920(大正9)年9

   とんぼのお歌「古事記物語下卷」赤い鳥社

   1920(大正9)年12

   うし飼、うま飼「古事記物語下卷」赤い鳥社

   1920(大正9)年12

※「八俣の大蛇」の初出時の表題は「赤い猪 」です。

※「八咫烏」の初出時の表題は「毒の大熊」です。

※「朝鮮征伐」の初出時の表題は「神功皇后」です。

※「白日子王」に対するルビの「しろひこのみこ」と「しらひこのみこ」の混在は、底本通りです。

入力:jupiter

校正:鈴木厚司

2001年1119日公開

2014年82日修正

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。