分配
島崎藤村
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四人もある私の子供の中で、亡くなった母さんを覚えているものは一人もない。ただいちばん上の子供だけが、わずかに母さんを覚えている。それもほんの子供心に。ようやくあの太郎が六歳ぐらいの時分の幼い記憶で。
母さんを記念するものも、だんだんすくなくなって、今は形見の着物一枚残っていない。古い鏡台古い箪笥、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子が髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。
あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずである。太郎や次郎はもとより、三郎までもめきめきとおとなびて来て、縞の荒い飛白の筒袖なぞは着せて置かれなくなったくらいであるから。
目に見えて四人の子供には金もかかるようになった。
「お前たちはもらうことばかり知っていて、くれることを知ってるのかい。」
私はよくこんな冗談を言って、子供らを困らせることがある。子供、子供と私は言うが、太郎や次郎はすでに郷里の農村のほうで思い思いに働いているし、三郎はまた三郎で、新しい友だち仲間の結びつきができて、思う道へと踏み出そうとしていた。それには友だちの一人と十五円ずつも出し合い、三十円ばかりの家を郊外のほうに借りて、自炊生活を始めたいと言い出した。敷金だけでも六十円はかかる。最初その相談が三郎からあった時に、私にはそれがお伽噺のようにしか思われなかった。
私は言った。
「とうさんも若い時分に自炊をした経験がある。しまいには三度三度煮豆で飯を食うようになった。自炊もめんどうなものだぞ。お前たちにそれが続けられるかしら。」
私としては、もっとこの子を自分の手もとに置いて、できるだけしたくを長くさせ、窮屈な思いを忍んでもらいたかったが、しかしこういう日のいつかやって来るだろうとは自分の予期していたことでもある。それがすこし早くやって来たというまでだ。それに気質の合わないことが次第によくわかって来た兄妹をこんな狭い巣のようなところに無理に一緒に置くことの弊害をも考えた。何も試みだ、とそう考えた。私は三郎ぐらいの年ごろに小さな生活を始めようとした自分の若かった日のことを思い出して現に私から離れて行こうとしている三郎の心をいじらしくも思った。
この三郎を郊外のほうへ送り出すために、私たちの家では半分引っ越しのような騒ぎをした。三郎の好みで、二枚の座ぶとんの更紗模様も明るい色のを造らせた。役に立つか立たないかしれないような古い椅子や古い時計の家にあったのも分けた。持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯したふとんから何からでは、おりから白く町々を埋めた春先の雪の路を一台の自動車で運ぶほどであった。
その時になって見ると、三人の兄弟の子供は順に私から離れて行って、末子一人だけが私のそばに残った。三郎を送り出してからは、にわかに私たちの家もひっそりとして、食卓もさびしかった。私は娘と婆やを相手に日を暮らすようになったが、次第に私の生活は変わって行くように見えた。巣から分かれる蜂のように、いずれ末子も兄たちのあとを追って、私から離れて行く日が来る。これはもはや、時の問題であるように見えた。私は年老いて孤独な自分の姿を想像で胸に浮かべるようになった。
しかし、これはむしろ私の望むところであった。私か、私は三十年一日のような著作生活を送って来たものに過ぎない。世には七十いくつの晩年になって、まだ生活を単純にすることを考え、家からも妻子からもいっさいの財産からものがれ、全くの一人となろうとした人もあったと聞くが、早く妻を先立てた私はそれと反対に、自分は家にとどまりながら成長する子供を順に送り出して、だんだん一人になるような道を歩いて来た。
私の周囲へはすでに幾度か死が訪れて来た。最近にもまた本郷の若い甥の一人がにわかに腎臓炎で亡くなったという通知を受けた。ちょうど、私の家では次郎が徴兵適齢に当たって、本籍地の東京で検査を受けるために郷里のほうから出て来ていた時であった。次郎も兄の農家を助けながら描いたという幾枚かの習作の油絵を提げて出て来たが、元気も相変わらずだ。亡くなった本郷の甥とは同い年齢にも当たるし、それに幼い時分の遊び友だちでもあったので、その告別式には次郎が出かけて行くことになった。
「若くて死ぬのはいちばんかわいそうだね。」
と、私は言って、新しい仏への菓子折りなぞを取り寄せた。私はまた、次郎や末子の見ているところでこころざしばかりの金を包み、黒い水引きを掛けながら、
「いくら不景気の世の中でも、二円の香奠は包めなくなった。お前たちのかあさんが達者でいた時分には、二円も包めばそれでよかったものだよ。」
と言ってみせた。
次郎はもはや父の代理もできるという改まった顔つきで出かけて行った。日ごろ人なつこく物に感じやすい次郎がその告別式から引き返して来た時は、本郷の親戚の家のほうに集まっていた知る知らぬ人々、青山からだれとだれ、新宿からだれというふうに、旧知のものが並んですわっているところで、ある見知らぬ婦人から思いがけなく声を掛けられたという話を持って帰って来た。
「どなたでございますか。」
「いやな次郎ちゃん、わたしを忘れちまったの?」
これは二人の人の挨拶のように聞こえるが、次郎は一人でそれを私たちにやって見せた。
「いやな次郎ちゃん──だとサ。」
と、また次郎が妹に、その婦人の口まねをして見せた。それを聞くと、末子はからだもろとも投げ出すような娘らしい声を出して、そこへ笑いころげた。
どうしてその婦人のことが、こんなに私たちの間にうわさに上ったかというに、十八年も前に亡くなった私の甥の一人の配偶で、私の子供たちから言えば母さんの友だちであったからで。かつみさんといって、あの甥の達者な時分には親しくした人だ。あの甥は土屋という家に嫁いだ私の実の姉の一人息子にあたっていて、年も私とは三つしか違わなかった。甥というよりは、弟に近かった。それに、次郎や末子の生まれた家と、土屋の甥のしばらく住んでいた家とは、歩いて通えるほど近い同じ隅田川のほとりにあったから、そんな関係から言っても以前にはよく往来した間がらである。次郎のちいさな時分には、かつみさんも母さんのところへよく遊びに来て、長火鉢のそばで話し込んだものである。この母さんの友だちですら、次郎が今あって見てはわからないくらいになってしまった。
間もなくかつみさんは青山の姪と連れだって、私の家へ訪ねて来た。私がこの旧知の女の客を迎えるのは十七年ぶりにもなる。あまりに久しぶりでの対面で、私はかつみさんの顔を見つめるともなく見つめて、言葉も容易には口に出せなかった。私たちは互いに顔の形からして変わっていた。
かつみさんも今では土屋でなしに、他の姓を名乗っている人だ。結婚は二度とも不幸に終わって、今は三度目の家庭に落ちついていると聞く人だ。この薄命な、しかしねばり強い人が、どれほどのこの世の辛酸を経たあとで、今の静かな生活にはいったか、私もそうくわしいことを知らない。かつみさんは、私の子供たちを見に来たいと思いながら今までそのおりもなかったこと、ようやく青山の姪に連れられて来たことなぞを私に話した。
「次郎ちゃんたちのかあさんが今まで達者でいたら、幾つになっていましょう。」
私がこんなことを言い出したのは、あの母さんとかつみさんといくつも年の違わなかったことを覚えているからで。
「叔母さんですか。ことしで、ちょうどにおなりのはずですよ。」
かつみさんの口から出て来る話は、昔ながらの「叔父さん、叔母さん」だ。その時、青山の姪はかつみさんの「ちょうど」を聞きとがめて、
「ちょうどと言いますと──」
「五十ですよ。」
この「五十」が私を驚かした。私は自分の年とったことも忘れて、あの母さんがきょうまでぴんぴんしているとしたら、もうそんな婆さんか、と想ってみた。
母さんの旧い友だちが十七年ぶりで私たちの家へ訪ねて来たというは、次郎に取っても心の驚きであったらしい。次郎は今さらのように、亡くなった母さんをさがすかの面持で、しきりに私たちの話に耳を傾けていた。私が自分の部屋を片づけ、狭い四畳半のまん中に小さな机を持ち出し、平素めったに取り出したことのないフランスみやげの茶卓掛けなぞをその上にかけ、その水色の織り模様だけでも部屋の内を楽しくして珍客をもてなそうとしたころは、末子も学校のほうから帰って来た。末子は女学生風の校服のまま青山の姪のうしろへ来て静かにすわった。いくらかきまりわるげに、初めてあう客に挨拶した。
「これが末ちゃんですか。」と、かつみさんは涙ぐまないばかりのなつかしそうな調子で言った。「まあ、叔母さんにそっくりですこと。」
「どうです、私の子供も大きくなりましたろう。」
「ほんとに。あの叔母さんがお達者でいらしって、今の末ちゃんたちを御覧なすったら、どんなでしょう。」
土屋の甥の亡くなったは、私の子供らの母さんが亡くなったのと同じ年にあたる。あの母さんが三十三、甥が三十七で没した。かつみさんの前ではあったが、つい私は甥のことなぞを言い出した。
「妙なものですね。三十台で亡くなった人は、いつまでも三十台でいるような気がしますね。その人が五十いくつになるとは、どうしても思われませんね。」
「でも、叔父さん、早く亡くなったものがいちばんつまりませんよ。長く生きていれば、こうしてまた叔父さんにお目にかかれるような日もまいりますもの。」
その日はこんな話が尽きなかった。
私の五十六という年もむなしく過ぎて行きかけていた。かつみさんのような人が訪ねて来てくれてもあの土屋の甥や子供らの母さんが達者でいたころのようには話せなかった。ただただ私たちはそういう昔もあったことを考えて、互いに遠く来たことも思った。
不景気、不景気と言いながら、諸物価はそう下がりそうにもないころで、私の住む谷間のような町には毎日のように太鼓の音が起こった。何々教とやらの分社のような家から起こって来るもので、冷たい不景気の風が吹き回せば回すほど、その音は高く響けて来た。欲と、迷信と、生活難とから、拝んでもらいに行く人たちも多いという。その太鼓の音は窪い谷間の町の空気に響けて、私の部屋の障子にまで伝わって来ていた。
私たちの家の入り口へ来て立つような貧困者も多くなった。きのうは一人来た。きょうは二人来たというふうに、困って来る人がどれほどあるかしれない。震災後は働きたいにも仕事がないと言って救いを求めるもの、私たちの家へ来るまでに二日も食わなかったというもの、そういう人たちを見るたびに私は自分の腰に巻きつけた帯の間から蝦蟇口を取り出して金を分けることもあり、自分の部屋の押入れから古本を取り出して来て持たせてやることもある。中にはそういう物乞いに慣れ、逆に社会の不合理を訴え、やる瀬のない憤りを残して置いて行くような人々も少なくない。私は自分に都合のできるだけの金をそういう人々の前に置き、
「まっこと困ったら、来たまえ。」
と、よく言い添えた。そして、それらの人々が帰って行ったあとで、年も若く見たところも丈夫そうな若者が、私ごとき病弱な、しかも年とったもののところへ救いを求めに来るような、その社会の矛盾に苦しんだ。正義が顕れて、大きな盗賊やみじめな物乞いが出た。
私たちの家の婆やは、そういう時の私の態度を見ると、いつでも憤慨した。毎月働いても十八円の給金にしかならないと言いたげなこの婆やは、見ず知らずの若者が私のところから持って行く一円、二円の金を見のがさなかった。
そういう私たちの家では、明日の米もないような日がこれまでなかったというまでで、そう余裕のある生活を送って来たわけではない。子供らが大きくなればなるほど金がかかって来て、まだ太郎の家のほうは毎月三十円ずつ助けているし、太郎の家で使っている婆さんの給金も私のほうから払っているし、三郎が郊外に自炊生活を始めてからは、そちらのほうにも毎月六十円はかかった。次郎や末子というものも控えていた。私も骨が折れる。でも、私は子供らと一緒に働くことを楽しみにして、どんなに離れて暮らしていても、その考えだけは一日も私の念頭を去らなかった。
思いもよらない収入のある話が、この私の前に提供されるようになった。
私たちの著作を叢書の形に集めて、予約でそれを出版することは、これまでとても書肆によって企てられないではなかった。ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかとうというのであった。私たちはその特筆大書した定価の文字を新聞紙上の広告欄にも、書籍小売店の軒先にも、市中を練り歩く広告夫の背中にまで見つけた。この思い切った宣伝が廉価出版の気勢を添えて、最初の計画ではせいぜい二三万のものだろうと言われていたのが、いよいよ蓋をあけて見るとその十倍もの意外に多数な読者がつくことになった。
思いもよらない収入のある話と私が言ったのは、この大量生産の結果で、各著作者の所得をなるべく平均にするために、一割二分の約束の印税の中から社預かりの分を差し引いても、およそ二万円あまりの金が私の手にはいるはずであった。細い筆を力に四人の子供らを養って来た私に取って、今までそんなにまとまって持ってみたこともない金である。
まだ私は受け取りもしないうちから、その金のことを考えるようになった。私たちの家では人を頼んで検印を押すだけに十日もかかった。今度の出版の計画が次第に実現されて行くことを私の子供らもよく知っていた。しかしそんなまとまった金がふところにはいるということを、私は次郎にも末子にも知らせずに置いた。
私は、「財は盗みである」というあの古い言葉を思い出しながら、庭にむいた自分の部屋の障子に近く行った。四月も半ばを過ぎたころで、狭い庭へも春が来ていた。
私は自分で自分に尋ねてみた。
「これは盗みだろうか。」
それには私は、否と答えたかった。過ぐる三十年が二度と私の生涯に来ないように、あの叢書に入れるはずの私の著作も二つとは私にないものである。長い労苦と努力とから生まれて来たものとして、髪も白さを増すばかりのような私の年ごろに、受けてやましい報酬であるとは思われなかった。
しかし、私も年をとったものだ。少年の時分から私は割合に金銭に淡白なほうで、余分なものをたくわえようとするような、そういう考えをきょうまで起こした覚えもない。今度という今度は、それが私に起こって来た。私もやっぱり、金でもたくわえて置いて、余生を安く送ろうとするような年ごろに達したのかもしれない。日あたりも悪く、風通しも悪く、午後の四時というと階下にある冬の障子はもう薄暗くなって、夏はまた二階に照りつける西日も耐えがたいこんな谷の中の借家にくすぶっているよりか、自分の好きな家でも建て、静かに病後の身を養いたいと考えるような、そういう年ごろに達したのかもしれない。
今でこそあまり往来もしなくなって、年始状のやり取りぐらいな交際に過ぎないが、私の旧い知人の中に一人の美術家がある。私はその美術家の苦しい骨の折れた時代をよく知っているが、いつのまにか人もうらやむような大きな邸を構え住むようになった。昔を知る私にはそれが不思議なくらいに思えて、あのわびしさを友としていたような人はどこへ行ったろう、とそれを長い間の疑問として残していた。年をとってみて、私も他人の心を読むようになった。あれはただ裕福な人の邸ではなくて、若い時分に人一倍貧苦をなめ尽くした人の住む家だと気がついた。
次郎や、末子をそばに置いて、私は若いさかりの子供らが知らない貯蓄の誘惑に気を腐らした。あるところにはあり過ぎるような金から見たら、おそらく二万円ぐらいはなんでもないかもしれない。しかし、ないところにはなさ過ぎる金から見たら、それだけまとまった高でも大きい。でも、私は、土の中へでも埋めて置くように、死に金をしまって置く気はなかった。どうそれを使ったものかと思った。
どの時代を思い出してみても、私にはそう楽なという日もない。ずっと以前に、私は著作のしたくをするつもりで、三年ばかり山の上に全く黙って暮らしたこともある。私もすでに結婚してから三年目で、家のものなぞはそろそろ単調な田舎生活に飽いて来て、こんなことでいつ芽が出るかという顔つきであったし、それに私たちの家ではあの山の上だからやって行けたと思うほどの切り詰めた暮らしをしていたから、そういう不自由さとも戦わねばならなかったし、毎年十一月から翌年の三月へかけて五か月もの長い冬とも戦わねばならなかった。一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋で、寒さのために凍み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、とにもかくにも出版業者がそれぞれの店を構え、店員を使って、相応な生計を営んで行くのにその原料を提供する著作者が──少数の例外はあるにもせよ──食うや食わずにいる法はないと考えた。私が全くの著作生活に移ろうとしたのも、そのころからであった。
私の目にはまだ、六畳に二畳の二階が残っている。壁がある。障子がある。ごちゃごちゃとした町中の往来を隔てて、魚を並べた肴屋の店がその障子の外に見おろされる。向かい隣には、白い障子のはまった下町風の窓も見える。そこは私があの山の上から二度目に越して行った家の二階で、都会の空気も濃いところだ。かつみさん夫婦がかわるがわる訪ねて来て、よく登って来たのもその二階だ。そこに私は机を置いて、また著作にふけったが、そのころに私の書いたものが子供らの母さんの女学校時代の友だちのうわさにも上ったかして、そういう昔なじみの家庭を見に行って帰って来るたびに、いろいろ友だちから冷やかされたことだの、「お富さん(子供らの母さん)もずいぶん人がいい、あんなことを書かれて、黙っている細君があるものか。」と言われたことだの、それをあの母さんが私に話してみせた。でも、そういう人は私の書いたものが旧い友だちのうわさに上るというだけにも満足して、にわかに自分の夫を見直すような顔つきであったには、私も苦笑せずにはいられなかった。そのころの私が自分の周囲に見いだす著作者たちはと言えば、そのいずれもが新聞社に関係するとか、学校に教鞭を執るとか、あるいは雑誌の編集にたずさわるとかして、私のように著作一方で立とうとしているのもめずらしいと言われた。私はよくそう思った。これはまだ著作で家族を養えるような時代ではないのだと。私もやせ我慢にやせ我慢を重ねていたが、親子四人に女中を一人置いて、毎月六七十円の生活費を産み出すにすら骨が折れた。そのころの私たちは十六円の家賃の家で辛抱したが、それすら高過ぎると思ったくらいだ。
三年の外国の旅も、私の生涯の中でのさびしい時であったような気がする。もっとも、その間には、これまで踏んだことのない土を踏み、交わったことのない人にも交わってみ、陰もあり日向もあるのだからその複雑な気持ちはちょっと言葉には尽くせない。実に無造作に、私はあの旅に上って行った。その無造作は、自分の書斎を外国の町に移すぐらいの考えでいた。全く知らない土地に身を置いて見ると、とかく旅の心は落ちつかず、思うように筆も取れない。著作をしても旅を続けられるつもりの私は、かねての約束もその十が一をも果たし得なかった。「これまで外国に来て、著作をしたという人のためしがない。」と言って、ある旅行者に笑われたこともある。でも私は国を出るころから思い立っていた著作の一つだけは、どうにかしてそれを書きあげたいと思ったが、とうとう草稿の半ばで筆を投げてしまった。国への通信を送るぐらいが精いっぱいの仕事であった。それに国との手紙の往復にも多くの日数がかかり世界大戦争の始まってからはことに事情も通じがたいもどかしさに加えて、三年の月日の間には国のほうで起こった不慮な出来事とか種々の故障とかがいっそう旅を困難にした。私も、外国生活の不便はかねて覚悟して行ったようなものの、旅費のことなぞでそう不自由はしないつもりであった。時には前途の思いに胸がふさがって、さびしさのあまり寝るよりほかの分別もなかったことを覚えている。
過去を振り返って見ると、今の私がどうにか不自由もせずに子供らを養って行けるというだけでも、不思議なくらいである。あの子供らの母さんの時代のことを思うと、今の借家ずまいでも私には過ぎたものだ。
「富とは、生命よりほかの何物でもない。」
この言葉が私を励ました。
私は旅人のような心で、今までどおりのごくあたりまえな生活を続けたかった。家は私の宿屋で、子供らは私の道づれだ。その日、その日に不自由さえなくば、それでこの世の旅は足りる。私に肝要なものは、余生を保障するような金よりも強い足腰の骨であった。
大きくなった子供らと一緒に働くことの新しいよろこび、その考えはどうにか男親の手一つで四人のちいさなものを育てて来た私にふさわしく思われた。私は自分の身につけるよりも、今度の思いがけない収入を延び行く時代のもののほうに向けようと考えるようになった。
私は自分に言った。
「いっそ、あの金は子供に分けよう。」
二階はひっそりとしていた。私が階下の四畳半にいて聞くと、時々次郎の話し声がする。末子の笑う声も聞こえて来る。美術書生を兄に持った末子は、肖像の手本としてよくそういうふうに頼まれる。次郎の画作に余念のなかった時だ。
やがて末子は二階から降りて来た。梯子段の下のところで、ちょっと私に笑って見せた。
「きょうは眠くなっちゃった。」
「春先だからね。」
と、私も笑って、手本で疲れたらしい娘を慰めようとした。
間もなく次郎も一枚の習作を手にして降りて来た。次郎は描いたばかりの妹の肖像を私の部屋に持って来て、見やすいところに置いて見せた。
「とうさん。これは、どう。」
「おそろしく鼻の高い娘ができたね。」
「そんなにこの鼻は高く見えるかなあ。」
「冗談だよ。とうさんがふざけて言ったんだよ。そんなことは、どうでもいいじゃないか。どんなものを造り出そうと、お前たちの勝手だからね。」
画布はまだかわかない。新しい絵の具はぬれたように光る。そこから発散する油の香いも私には楽しかった。次郎は私のそばにいて、しばらくほかの事を忘れたように、じっと自分の画に見入っていた。
「ほら、お前が田舎から持って来た画さ。」と、私は言った。「とうさんなら、あのほうを取るね。やっぱし田舎のほうにいて、さびしい思いをしながらかいた画は違うね。」
「そうばかりでもない。」
「でも、あの画には、なんとなく迫って来るものがあるよ。」
私たちが次郎を郷里のほうへ送り出したのは、過ぐる年の秋にあたる。あの恵那山の見える山地のほうから、次郎はかなり土くさい画を提げて出て来た。この次郎は、上京したついでに、今しばらく私たちと一緒にいて、春の展覧会を訪ねたり、旧い友だちを見に行ったりして、田舎の方で新鮮にして来た自分を都会の濃い刺激に試みようとしていた。
まだ私は金を分けることなぞを何も子供らに話してない。匂わしてもない。しかし、私としては、そんな心持ちが自分の内に動いて来たというだけでも、子供らによろこんでもらえるように思った。目を円くしてそれを私から受け取る時の子供らの顔が見えるようにも思った。私は子に甘いと言われることも忘れ、自分が一人ぼっちになって行くことも忘れて、子供らをよろこばせたかった。
それほど私もきげんのよかった時だ。私は四畳半から茶の間のほうへ行って、口さみしい時につまむほどしか残っていない菓子を取り出した。遠く満州の果てから帰国した親戚のものの置いて行ったみやげの残りだ。ロシアあたりの子供でもよろこびそうなボンボンだ。茶の間には末子が婆やを相手に、針仕事をひろげていた。私はその一つ一つ紙にひねってあるボンボンを娘に分け、婆やに分け、次郎のいるところへも戻って来て分けた。
「次郎ちゃん、おもしろい言葉があるよ。」と、私は言った。「田舎へ引っ込むのはね、社会から遠くなるのじゃなくて、自分らの虚栄から遠くなるのだ。という言葉があるよ。勉強のできるのは田舎だね。お前のように田舎にいて、さびしさと戦うのもいい修業じゃないか。」
「しかし、僕はそれに耐えられるほど、まだほんとうに頭ができていない。」
「だから、ときどき出て来るさ。番町の先生の話なぞもききに来るさ。」
「そうだよ。」
「読めるだけはいろいろなものを読んで見るさ。」
「そうだよ。」
その時になって見ると、太郎はすでに郷里のほうの新しい農家に落ちついて、その年の耕作のしたくを始めかけていたし、次郎はゆっくり構えながら、持って生まれた画家の気質を延ばそうとしていた。三郎はまた三郎で、出足の早い友だち仲間と一緒に、新派の美術の方面から、都会のプロレタリアの道を踏もうとしていた。三人が三人、思い思いの方向を執って、同じ時代を歩もうとしていた。末子は、と見ると、これもすでに学校の第三学年を終わりかけて、日ごろ好きな裁縫や手芸なぞに残る一学年の生い先を競おうとしていた。この四人の兄妹に、どう金を分けたものかということになると、私はその分け方に迷った。
月の三十日までには約束のものを届ける。特製何部。並製何部。この印税一割二分。そのうち社預かり第五回配本の分まで三分。こうした報告が社の会計から、すでに私の手もとへ届くようになった。
私も実は、次郎と三郎とに等分に金を分けることには、すでに腹をきめていた。ただ太郎と末子との分け方をどうしたものか。娘のほうにはいくらか薄くしても、長男に厚くしたものか。それとも四人の兄妹に同じように分けてくれたものか。そこまでの腹はまだきまらなかった。
娘のしたくのことを世間普通の親のように考えると、第一に金のかかるのは着物だ。そういうしたくに際限はなかろうが、「娘一人を結婚させるとなると、どうしても千円の金はかかるよ。」と、かつて旧友の一人が私にその話をして聞かせたこともある。そこに私はおおよその見当をつけて、そんなに余分な金までも娘のために用意する必要はあるまいかと思った。太郎は違う。かずかずの心に懸ることがあの子にはある。年若い農夫としての太郎は、過ぐる年の秋の最初の経験では一人で十八俵の米を作った。自作農として一軒の農家をささえるには、さらに五六俵ほども多く作らせ、麦をも蒔かせ、高い米を売って麦をも食うような方針を執らせなければならない。私は太郎の労力を省かせるために、あの子に馬を一匹あてがった。副業としての養蚕も将来にはあの子を待っていた。それにしても太郎はまだ年も若し、結婚するまでにも至っていない。すくなくも二人もしくは二人半の働き手を要するのが普通の農家である。それを思うと、いかに言っても太郎の家では手が足りなかった。私が妹に薄くしてもと考えるのは、その金で兄の手不足を補い、どうかしてあの新しい農家を独立させたかったからで。
言い忘れたが、最初私は太郎に二反七畝ほどの田をあてがった。そこから十八俵の米が取れた。もっとも、太郎から手紙で書いてよこしたように、これは特別な農作の場合で、毎年の収穫の例にはならない。二度目は、一反九畝九歩ほどの田をあてがった。そうそうは太郎一人の力にも及ぶまいから、このほうはあの子の村の友だちと二人の共同経営とした。地租、肥料、籾などの代を差し引き、労力も二人で持ち寄れば、収穫も二人で分けさせることにしてあった。
いつのまにか私たちの家の狭い庭には、薔薇が最初の黄色い蕾をつけた。馬酔木もさかんな香気を放つようになった。この花が庭に咲くようになってから、私の部屋の障子の外へは毎日のように蜂が訪れて来た。
あかるい光線が部屋の畳の上までさして来ているところで、私はいろいろと思い出してみた。六人ある姉妹の中で、私の子供らの母さんはその三番目にあたるが、まだそのほかにあの母さんの一番上の兄さんという人もあった。函館のお爺さんがこの七人の兄弟の実父にあたる。お爺さんは一代のうちに蔵をいくつも建てたような手堅い商人であったが、総領の子息にはいちばん重きを置いたと見えて、長いことかかって自分で経営した網問屋から、店の品物から、取引先の得意までつけてそっくり子息にくれた。ところが子息は、お爺さんからもらったものをすっかりなくしてしまった。あの子息の家が倒れて行くのを見た時は、お爺さんは半分狂気のようであったと言われている。しまいには、その家屋敷も人手に渡り、子息は勘当も同様になって、みじめな死を死んで行った。私はあのお爺さんが姉娘に迎えた養子の家のほうに移って、紙問屋の二階に暮らした時代を知っている。あのお爺さんが、子息の人手に渡した建物を二階の窓の外にながめながら、商人らしいあきらめをもって晩年を送っていたことを覚えている。
この総領子息に比べたら、三番目の妹娘なぞはいくらも分けてもらわない。あの子供らの母さんも、お爺さんのこころざしで一生着る物に不自由はしなかった。そればかりでなく、どうかするとお爺さんのこころざしは幼い時分の太郎や次郎や三郎のような孫の着る物にまで及んだ。しかし、あの母さんが金で分けてもらって来た話は聞かない。ただ一度、私の前に百円の金を出したことがある。私もまだ山の上のわびしい暮らしをしていた時代で、かなり骨の折れる日を送っていたところへ、今の青山の姪の父親にあたる私の兄貴から、電報で百円の金の無心を受けた。当時兄貴は台湾のほうで、よくよく旅で困りもしたろうが、しかもそれが二度目の無心で、私としてはずいぶん無理な立場に立たせられた。その時、あの母さんが私の心配しているのを見るに見かねて、日ごろだいじにしていた金をそこへ取り出した。これはよくよく夫の困った場合でなければ出すなと言って、お爺さんがくれてよこしたものとかで、母さんが後にその話を私にしてみせたこともある。あの母さんは六人の姉妹の中で、いちばんお爺さんの秘蔵娘であったという。その人ですらそうだ。ああいう場合を想ってみると、娘に薄くしても総領子息に厚くとは、やはり函館のお爺さんなぞの考えたことであったらしい。あの母さんのように、困った夫の前へ、ありったけの金を取り出すような場合は別としても、もっと女の生活が経済的にも保障されていたなら、と今になって私も思い当たることがいろいろある。
「娘のしたくは、こんなことでいいのか。」
私も、そこへ気づいた。やはり男の兄弟に分けられるだけのものは、あの末子にも同じように分けようと思い直した。私も二万とまとまったものを持ったことのない証拠には、こんなに金のことを考えてしまった。やがて、一枚の小切手が約束の三十日より二日も早く私の手もとへ届いた。私はそれを適当に始末してしまうまでは安心しなかった。
「次郎ちゃん、きょうはお前と末ちゃんを下町のほうへ連れて行く。自動車を一台頼んで来ておくれ。」
「とうさん、どこへ行くのさ。」
「まあ、とうさんについて来て見ればわかる。きょうはお前たちに分けてくれるものがある。」
次郎は、私がめずらしいことを言い出したという顔つきをした。いよいよ私の待っていた日が来た。私は娘にも言った。
「早昼で出かけるぜ。お前もしたくをするがいいぜ。」
次郎が町のほうへ自動車を約束しに行って帰って来たころに、私も末子も茶の間にいて着物をかえるところであった。出かける時間の都合もあったので、私は昼飯をいつもより早く済ました上で、と思った。
「末ちゃん、羽織でも着かえればそれでたくさんなんだよ。きょうは用達に行くんだからね。」
「じゃ、わたしは袴にしましょう。」
私と末子とがしたくをしていると、次郎は朝から仕事着兼帯のような背広服で、自分で着かえる世話もなかったものだから、そこに足を投げ出しながらいろいろなことを言った。
「おい、末ちゃんはそんな袴で行くのかい。」
「そうよ。」
そう答える末子は婆やにまで手伝ってもらわないと、まだ自分ひとりでは幅の広い帯が堅くしめられなかったからで。末子は母さんののこした古い鏡台の前あたりに立って、黒い袴の紐を結んだが、それが背丈の延びた彼女に似合って見えた。
次郎は私のほうをもながめながら、
「こうして見ると、とうさんの肩の幅はずいぶん広いな。」
「そりゃ、そうさ。」と私は言った。「ここまでしのいで来たのも、この肩だもの。」
「僕らを四人も背負って来たか。」
次郎は笑った。
間もなく飯のしたくができた。私たちは婆やのつくってくれた簡単な食事についた。
「きょうは下町のほうへ行って洋食でもおごってもらえるのかと思った。」
そういう次郎はあてがはずれたように、「なあんだ」と、言わないばかりの顔つきであった。
「用達に行くんじゃないか。そんな遊びに行くんじゃあるまいし。まあとうさんについて来てごらんよ。へたな洋食などより、もっといい事があるから。」
その時になって、私は初めて分配のことを簡単に二人の子供に話したが、次郎も末子も半信半疑の顔つきであった。
自動車は坂の上に待っていた。私たちは、家の前の石段から坂の下の通りへ出、崖のように勾配の急な路についてその細い坂を上った。砂利が敷いてあってよけいに歩きにくい。私は坂の途中であとから登って来る娘のほうを振り返って見て、また路を踏んで行った。こうして親子三人のものが一緒にそろって出かけるというは、それだけでも私には楽しかった。
「新橋の手前までやってください。」
と、私は坂の上に待つ運転手に声をかけて、やがて車の上の人となった。肥った末子は私の隣に、やせぎすな次郎は私と差し向かいに腰掛けた。
「きょうは用達だぜ。次郎ちゃんにも手伝ってもらうぜ。」
「わかってるよ。」
動いて行く車の上で、私たちは大体の手はずをきめた。
「末ちゃんは風呂敷を忘れて来やしないか。」
と、私が言うと、末子は車の窓のそばから黒い風呂敷を取り出して見せた。
私たちを載せた車は、震災の当時に焼け残った岡の地勢を降りて、まだバラック建ての家屋の多い、ごちゃごちゃとした広い町のほうへ、一息に走って行った。町の曲がり角で、急に車が停まるとか、また動き出すとか、何か私たちの乗り心地を刺激するものがあると、そのたびに次郎と末子とは、兄妹らしい軽い笑みをかわしていた。次郎が毎日はく靴を買ったという店の前あたりを通り過ぎると、そこはもう新橋の手前だ。ある銀行の前で、私は車を停めさせた。
しばらく私たちは、大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の中に時を送った。
「現金でお持ちになりますか。それとも御便利なように、何かほかの形にして差し上げるようにしましょうか。」
と、そこの銀行員が尋ねるので、私は例の小切手を現金に換えてもらうことにした。私が支払い口の窓のところで受け取った紙幣は、風呂敷包みにして、次郎と二人でそれを分けて提げた。
「こうして見ると、ずいぶん重いね。」
待たせて置いた自動車に移ってから、次郎はそれを妹に言った。
「どれ。」
と、妹も手を出して見せた。
私たちの乗る車はさらに日本橋手前の方角を取って、繁華な町の中を走って行った。私は風呂敷包みを解いて、はじめて手にするほどの紙幣の束の中から、あの太郎あてに送金する分だけを別にしようとした。不慣れな私には、五千円の札を車の上で数えるだけでもちょっと容易でない。その私を見ると、次郎も末子も笑った。やがて次郎は何か思いついたように、やや中腰の姿勢をして、車のゆききや人通りの激しい外の町からこの私をおおい隠すようにした。
私たちはある町を通り過ぎようとした。祭礼かと見まごうばかりにぎやかに飾り立てたある書店の前の広告塔が目につく。私は次郎や末子にそれを指して見せた。
「御覧、競争が始まってるんだよ。」
紅い旗、紅い暖簾は、車の窓のガラスに映ったり消えたりした。大量生産の機運に促されて、廉価な叢書の出版計画がそこにも競うように起こって来たかと思いながら、日本橋手前のある地方銀行の支店へと急いだ。郷里の山地のほうにいる太郎あてに送金するには、その支店から為替を組んでもらうのが、いちばん簡単でもあり、便利でもあったからで。日本橋の通りにあるバラック風な建物の中でも、また私たちはしばらく時を送った。その建物の前にある石の階段をおりたところで、私は連れの次郎や末子を見て言った。
「さあ、太郎さんへはお金を送った。これからは次郎ちゃんや三ちゃんの番だ。」
自動車が動くたびに私の子供に話したことがほんとうになって行った。「へたな洋食よりいい事がある」と私が誘い出した意味は、その時になって次郎にもわかって来た。私は京橋へんまで車を引き返させて、そこの町にある銀行の支店で、次郎と三郎との二人のために五千円ずつの金を預けた。兄は兄、弟は弟の名前で。
私は次郎に言った。
「これはいつでも引き出せるというわけには行かない。半年に一度しかそういう時期は回って来ない。」
「そこはとうさんに任せるよ。」
私は時計を見た。どこの銀行でも店を閉じるという午後の三時までには、まだ時の余裕があった。私はその日のうちに四人の兄妹に分けるだけのものは分け、受け取った金の始末をしてしまいたいと思った。そこは人通りの多い町中で、買い物にも都合がいい。末子は家へのみやげにと言って、町で求めた菓子パンなどを風呂敷包みにしながら、自動車の中に私たちを待っていた。
「末ちゃん、今度はお前の番だよ。」
そう言って、私は家路に近い町のほうへとまた車をいそがせた。
かなりくたぶれて私は家に帰り着いた。ほとんど一日がかりでその日の用達に奔走し、受け取った金の始末もつけ、ようやく自分の部屋にくつろいで見ると、肩の荷物をおろしたような疲れが出た。
私は、一緒に帰って来た次郎と末子を、自分のそばへ呼んだ。銀行へ預けた金の証書を、そこへ取り出して見せた。
「次郎ちゃん、御覧。これはもうお前たちのものだ。どうこれを役に立てようと、お前たちの勝手だ。これだけあったら、ちょっとフランスあたりへ行って見て来ることもできようぜ。まあ、一度は世界を見てくるがいい。このお金はそういうことに使うがいい。それまではとうさんのほうに預かって置いてあげる。」
子供を育てるには、寒く、ひもじく、とある人がかつて私に言ってみせたが、あれは忘れられない言葉として私の記憶に残っている。あまり多くを与え過ぎないように、そうかと言ってなるべく子供らが手足を延ばせるように。私も艱難に艱難の続いたような自分の若かった日のことを思い出して、これくらいのしたくは子供らのためにして置きたいと考えた。父としての私が生活の基調を働くことに置いたのはかなり旧いことであること、それはあの山の上へ行って七年も百姓の中に暮らして見たころからであること、金の利息で楽に暮らそうと考えるようなことは到底自分ら親子の願いでないこと、そういう話までも私は二人の子供の前に言い添えた。
その時、末子は兄のそばに静かにいて、例のうつむきがちに私たちの話に耳を傾けたが、自分の証書を開いて見ようとはしなかった。私はそれを娘の遠慮だとして、
「末ちゃん、お前も御覧。もっと、よく御覧。お前の名前もちゃんとそこに書いてあるよ。」
と言って、その分け前を確かめさせた。
私たちの間には楽しい笑い声が起こった。次郎は、両手を振りながら、四畳半と茶の間のさかいにある廊下のところを幾度となく往ったり来たりした。
「さあ、おれも成金だぞ。」
その次郎のふざけた言葉を聞くと、私はあわてて、
「ばか。それだからお前たちはだめだ。」
としかった。
もはや、私の前には、太郎あてに銀行でつくって来た為替を送ることと、三郎にもこれを知らせることとが残った。私も、著作に従事するものの癖で、筆執ることが仕事のようになっていて、手紙となるとひどくおっくうに思われてならない。でも、ほかの手紙でもなかった。私は太郎あてのものをその翌日になって書いた。
送金。
金五千円。
これは思いがけない収入があって、お前と、次郎と、三郎と、末ちゃんに父さんの分ける金です。お前の家でも手の足りないことは、父さんもよく承知しています。父さんはほかに手伝いのしようもないから、お前の耕作を助ける代わりとしてこれを送ります。この金を預けたら毎年三百円ほどの余裕ができましょう。それでお前の農家の経済を補って行くことにしてください。
これはただ金で父さんからもらったと考えずに、父さんがお前と一緒に働いているしるしと考えてください。くれぐれもこの金をお前の農家に送る父さんの心を忘れないでください。
くわしいことは、いずれ次郎が帰村の日に。
ちょうど、そこへ三郎が郊外のほうの話をもって訪ねて来た。
「おう、三ちゃんもちょうどいいとこへ来た。お前にも見せるものがある。」
と、私は言って、この子のためにも同じように用意して置いた証書を取り出して見せたあとで、
「お前も一度は世界を見て来るがいいよ。」
と言い添えた。
「そうしてもらえば、僕もうれしい。」
それが三郎の返事であった。
何か私は三人の男の子に餞別でも出したような気がして、自分のしたことを笑いたくもあった。時には、末子が茶の間の外のあたたかい縁側に出て、風に前髪をなぶらせていることもある。白足袋はいた娘らしい足をそこへ投げ出していることがある。それが私の部屋からも見える。私は自分の考えることをこの子にも言って置きたいと思って、一生他人に依るようなこれまでの女の生涯のはかないことなどを話し聞かせた。
それにしても、筆執るものとしての私たちに関係の深い出版界が、あの世界の大戦以来順調な道をたどって来ているとは、私には思えなかった。その前途も心に懸った。どうかすると私の家では、次郎も留守、末子も留守、婆やまでも留守で、住み慣れた屋根の下はまるでからっぽのようになることもある。そういう時にかぎって、私はいるかいないかわからないほどひっそりと暮らした。私の前には、まだいくらものぞいて見ない老年の世界が待っていた。私はここまで連れて来た四人の子供らのため、何かそれぞれ役に立つ日も来ようと考えて、長い旅の途中の道ばたに、思いがけない収入をそっと残して置いて行こうとした。
底本:「嵐 他二編」岩波文庫、岩波書店
1956(昭和31)年3月26日第1刷発行
1969(昭和44)年9月16日第13刷改版発行
1974(昭和49)年12月20日第18刷発行
入力:紅邪鬼
校正:ちはる
2001年2月6日公開
2005年12月26日修正
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