嵐
島崎藤村
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子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。
茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人ずつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしてはずるいと言い出すものがありもっと頭を平らにしてなどと言うものがあって、家じゅうのものがみんなで大騒ぎしながら、だれが何分延びたというしるしを鉛筆で柱の上に記しつけて置いた。だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。
「だれだい、この線は。」
と聞いてみると、末子のがあり、下女のお徳のがある。いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚の女の子の背丈までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九文の足袋をはいた。
四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がいちばんおくれた。ひところの三郎は妹の末子よりも低かった。日ごろ、次郎びいきの下女は、何かにつけて「次郎ちゃん、次郎ちゃん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかうと、そのたびに三郎はくやしがって、
「悲観しちまうなあ──背はもうあきらめた。」
と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同じほどの高さだ。私は春先の筍のような勢いでずんずん成長して来た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさえもある。
私たち親子のものは、遠からず今の住居を見捨てようとしている時であった。こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋ずつを要求するほど一人前に近い心持ちを抱くようになってみると、何かにつけて今の住居は狭苦しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟は二人ともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居では湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。
今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細なことから、私は今の家を住み憂く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
ある日も私は次郎と連れだって、麻布笄町から高樹町あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人でその新しい歩道を踏んで、鮨屋の店の前あたりからある病院のトタン塀に添うて歩いて行った。植木坂は勾配の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀、そこにある蔦の蔓、すべて身にしみるように思われてきた。
下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥った笑顔を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。
「次郎ちゃん、いい家があって?」
「だめ。」
次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽をかけた。私も冬の外套を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。
私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛りの少年であった。私は愛宕下のある宿屋にいた。二部屋あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提げながら、母屋の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のようなものもめずらしいと言われた。
外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳んだ。
この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。
「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」
私はよくそれを言った。少年の時分にはありがちなことながら、とかく兄のほうは「泣き」やすかったから、夜中に一度ずつは自分で目をさまして、そこに眠っている太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅めさせるでもあるまいと思ったから。
次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴り、めんこ、剣玉、べい独楽というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で、根気よくて、目をパチクリさせるような癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の甥を思い出させるような人なつこいところと気象の鋭さとがあった。この弟のほうの子供は、宿屋の亭主でもだれでもやりこめるほどの理屈屋だった。
盆が来て、みそ萩や酸漿で精霊棚を飾るころには、私は子供らの母親の位牌を旅の鞄の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口に出て、宿の人たちと一緒に麻幹を焚いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前で、
「どれ三ちゃんや末ちゃんの分をもまたいで──」
と言って、二度も三度も焼け残った麻幹の上を飛んだ。
「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」
と、宿屋の亭主は快活に笑った。
ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制えて、何を言われても黙って順っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづけた。その心づかいは、子供から目を離させなかった。町の空で、子供の泣き声やけんかする声でも聞きつけると、私はすぐに座をたった。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。
私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い出せなかった、」と、人に語ったという。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引っ込んでばかりはいられなかった。世間に出て友だち仲間に交わりたいような夕方でも来ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着づきで出かけた。
そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎えるようになった。私は額に汗する思いで、末子を迎えた。
「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」
と、私も考え直した。長いこと親戚のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色の小娘らしい袴に学校用の鞄で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。
私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居に引き移って来たのである。
今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌を拾う雄鶏の役目と、羽翅をひろげて雛を隠す母鶏の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段を駆け降りるように二階から降りて行った。
私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心を起こしやすくしている新参者の末子がそこに泣いているのを見た。
次郎は妹のほうを鋭く見た。そして言った。
「女のくせに、いばっていやがらあ。」
この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。
兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそうに、
「とうさんが来たと思って、いい気になって泣くない。」
「けんかはよせ。末ちゃんを打つなら、さあとうさんを打て。」
と、私は箪笥の前に立って、ややもすれば妹をめがけて打ちかかろうとする次郎をさえぎった。私は身をもって末子をかばうようにした。
「とうさんが見ていないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言った。「どうしてそうわからないんだろうなあ。末ちゃんはお前たちとは違うじゃないか。他からとうさんの家へ帰って来た人じゃないか。」
「末ちゃんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」
その時、次郎は子供らしい大声を揚げて泣き出してしまった。
私は家の内を見回した。ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物すごく響けて来ていた。
「家の内も、外も、嵐だ。」
と、私は自分に言った。
私が二階の部屋を太郎や次郎にあてがい、自分は階下へ降りて来て、玄関側の四畳半にすわるようになったのも、その時からであった。そのうちに、私は三郎をも今の住居のほうに迎えるようになった。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎えた。
「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」
と、末子を迎えた時と同じようなことを言った。それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。
こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公していた婆やにも、それから今のお徳にも、串談半分によくそう言って聞かせた。もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。
私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居もすくないものだった。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人ともひどく気に入ったと言っていた。青山五丁目まで電車で、それから数町ばかり歩いて行ったところを左へ折れ曲がったような位置にあった。部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと。よっぽど私も心が動いて帰って来たが、一晩寝て考えた上に、自分の住居には過ぎたものとあきらめた。
適当な借家の見当たり次第に移って行こうとしていた私の家では、障子も破れたまま、かまわずに置いてあった。それが気になるほど目について来た。せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。
「とうさん、障子なんか張るのかい。」
次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。
「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」
「だって、七年も雨露をしのいで来た屋根の下じゃないか。」
と私は言ってみせた。
煤けた障子の膏薬張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、
「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋だけが立派だ。ああいう家を借りて住む人もあるかなあ。そこへ行くと、二度目に見て来た借家のほうがどのくらいいいかしれないよ。いかに言っても、とうさんの家には大き過ぎるね。」
「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思ったが──」
この次郎は私の話を聞いているのかと思ったら、何かもじもじしていたあとで、私の前に手をひろげて見せた。
「とうさん、月給は?」
この「月給」が私を笑わせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を払うことにしていた。月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小遣を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。
「今月はまだ出さなかったかねえ。」
「とうさん、きょうは二日だよ。三月の二日だよ。」
それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯の間から蝦蟇口を取り出した。その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。
「へえ、末ちゃんにも月給。」
と、私は言って、茶の間の廊下の外で古い風琴を静かに鳴らしている娘のところへも分けに行った。その時、銀貨二つを風琴の上に載せた戻りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分串談の調子で、
「天麩羅の立食なんか、ごめんだぜ。」
「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。
楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人囃子なぞをしるしばかりに飾ってあった。それも子供らの母親がまだ達者な時代からの形見として残ったものばかりだった。私が自分の部屋に戻って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。
見ると、次郎は雛壇の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
「オイ、とうさんが見てるよ。」
と言って、三郎はそこへ笑いころげた。
私たちの心はすでに半分今の住居を去っていた。
私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋を歩いてみた。わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋さんの高い塀と樫の樹とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。私はどっと床についた。その時の私は再び起つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一時沈まり返ってしまった。
どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
それからの私はこの部屋に臥たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提げ回った古い鞄──その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
「子供でも大きくなったら。」
私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋めた。
しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。
そうは言っても、私が自分のすぐそばにいるものの友だちになれたわけではない。私は今の住居に移ってから、三年も子供の大きくなるのを待った。そのころは太郎もまだ中学へ通い、婆やも家に奉公していた。釣りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。いったい、次郎はおもしろい子供で、一人で家の内をにぎやかしていた。夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子をたしなめようと思ったばかりでなく、一つには婆やと子供らの間を調節したいと思ったからで。太郎びいきの婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。
この次郎がいつになく顔色を変えて、私のところへやって来たことがある。
「わがままだ、わがままだって、どこが、わがままだ。」
見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、
「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」
「だれが言った──」
「弥生町の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」
「知りもしないくせに──」
次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する気にもなったし、言葉の上の争いになってもつまらないと思って、それぎり口をつぐんでしまった。
次郎がぷいと表へ出て行ったあとで、太郎は二階の梯子段を降りて来た。その時、私は太郎をつかまえて、
「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんじゃないか。次郎ちゃんに言って聞かせるのも、お前の役じゃないか。」
太郎はこの側杖をくうと、持ち前のように口をとがらしたぎり、物も言わないで引き下がってしまった。そういう場合に、私のところへ来て太郎を弁護するのは、いつでも婆やだった。
しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ提げに出る母をも兼ねなければならなかった。ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。
「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」
すると、次郎はしぶしぶそれを食って、やがてきげんを直すのであった。
私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがい、次郎とは一つちがいの兄弟にあたる。三郎は次郎のあばれ屋ともちがい、また別の意味で、よく私のほうへ突きかかって来た。何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。
「三ちゃん、人をつねっちゃいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」
「なんだ。なんにもしやしないじゃないか。ちょっとさわったばかりじゃないか──」
お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合いが絶えなかった。
「とうさんはお前たちを悪くするつもりでいるんじゃないよ。お前たちをよくするつもりで育てているんだよ。かあさんでも生きててごらん、どうして言うことをきかないような子供は、よっぽどひどい目にあうんだぜ──あのかあさんは気が短かかったからね。」
それを私は子供らに言い聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思い切り打ち懲らそうと考えたこともあった。ところが、ちいさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年他に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかった。ある日、私は自分の忿りを制えきれないことがあって、今の住居の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
「十年他へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣と板塀とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯のなき声のまねを試みた。
「うまいもんだなあ。とても鶯の名人だ。」
三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
「とうさん、僕の鶯をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
「かあさんさえ達者でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
と、私も考えずにはいられなかった。
私が地下室にたとえてみた自分の部屋の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀を境に、ある邸つづきの抜け道に接していて、小高い石垣の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏を持ち出して、よく延びやすい自分の爪を切った。
どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか──そんな嘆息が、時には自分を憂鬱にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護ろうとする心に帰って行った。
安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地はなかった。しかし子供はそんな私に頓着していなかったように見える。
七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂を浴びに、鼠坂から森元町の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟二人とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川賢というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸が暗い井戸の中に見いだされたという驚くべきうわさが伝わった。
「あゝ──早川賢もついに死んでしまったか。」
この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。
震災以来、しばらく休みの姿であった洋画の研究所へも、またポツポツ研究生の集まって行くころであった。そこから三郎が目を光らせて帰って来るたびにいつでも同じ人のうわさをした。
「僕らの研究所にはおもしろい人がいるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかったねえ』──だとサ。」
無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。私は屋外からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれながら帰って来る自分の子供を見る気がした。
私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。またかと思うような号外売りがこの町の界隈へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。あいにくと、世にもまれに見る可憐な少年の写真が、ある日の紙面の一隅に大きく掲げてあった。評判の一太だ。美しい少年の生前の面影はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。
末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
「あ──一太。」
三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう──」
その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
「オヤ──三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下繁、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬の的となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに──早川賢にしても、木下繁にしても──彼らがみんな新しい人であるからであった。
「とうさんは知らないんだ──僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛かせたい──それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
末子も目に見えてちがって来た、堅肥りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。上は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
今の住居の庭は狭くて、私が猫の額にたとえるほどしかないが、それでも薔薇や山茶花は毎年のように花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂があって、それが一昨年も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着に襟のところだけ紫の刺繍のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足を脛のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座まで買いにお徳を娘につけてやった。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
「串談じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
日ごろ父一人をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地小劇場をおごる。」
と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
「なんでも『赤襟のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想ってみた。時には私は用達のついでに、坂の上の電車路を六本木まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点に群がり集まっていた。
私たち親子のものが今の住居を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち──ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
「とうさん、今度来たビッシェールの画はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く──確かに、頭がいいんだろうね。」
この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
私の話相手──三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄さん顔の次郎なぞは、五分刈りであった髪を長めに延ばして、紺飛白の筒袖を袂に改めた──それもすこしきまりの悪そうに。顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁の着物を着て、女らしい長い裾をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した。
「子供でも大きくなったら。」
長いこと待ちに待ったその日が、ようやく私のところへやって来るようになった。しかしその日が来るころには、私はもう動けないような人になってしまうかと思うほど、そんなに長くすわり続けた自分を子供らのそばに見いだした。
「強い嵐が来たものだ。」
と、私は考えた。
「とうさん──家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人ですっかりさがして見た。この麻布から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。
めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋の障子をあけて、とかく気になる自分の爪を切っていた。そこへ次郎が来て、
「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」
と、さも心配するように、それを顔にあらわして言った。
「どうしてとうさんの爪はこう延びるんだろう。こないだ切ったばかりなのに、もうこんなに延びちゃった。」
と、私は次郎に言ってみせた。貝爪というやつで、切っても、切っても、延びてしかたがない。こんなことはずっと以前には私も気づかなかったことだ。
「とうさんも弱くなったなあ。」
と言わぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしゃがんで、私のすることを見ていた。ちょうど三郎も作画に疲れたような顔をして、油絵の筆でも洗いに二階の梯子段を降りて来た。
「御覧、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの脛はこんなに細くなっちゃった。」
私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩せ、ずっと以前には信州の山の上から上州下仁田まで日に二十里の道を歩いたこともある脛とは自分ながら思われなかった。
「脛かじりと来たよ。」
次郎は弟のほうを見て笑った。
「太郎さんを入れると、四人もいてかじるんだから、たまらないや。」
と、三郎も半分他人の事のように言って笑った。そこへ茶の間の唐紙のあいたところから、ちょいと笑顔を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人いると言うかのように。
その時まで、三郎は何かもじもじして、言いたいことも言わずにいるというふうであったが、
「とうさん──ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買ってくれない? 絵の具が足りなくなった。」
こう切り出した。
「こないだ買ったばかりじゃないか。」
「だって、足りないものは足りないんだもの。絵の具がなけりゃ、何も描けやしない。」
と、三郎は不平顔である。すると、次郎はさっそく弟の言葉をつかまえて、
「あ──またかじるよ。」
この次郎の串談が、みんなを吹き出させた。
私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。いまいましいことばかりが胸に浮かんで来た。私はこの四畳半の天井からたくさんな蛆の落ちたことを思い出した。それが私の机のそばへも落ち、畳の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて来る音のしたことを思い出した。何が腐り爛れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋から床板を引きへがして見ると、鼠の死骸が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見せつけるようなものが、しかもそれまで知らずにいた自分のすぐ頭の上にあったことを思い出した。
その時になって見ると、過ぐる七年を私は嵐の中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕もとに煙草盆を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年取った人たちの世界というものをのぞいて見たように思ったことを覚えているが、ちょうど今の私がそれと同じ姿勢で。
私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。
「自分の手のひらはまだ紅い。」
と、ひとり思い直した。
午後のいい時を見て、私たちは茶の間の外にある縁側に集まった。そこには私の意匠した縁台が、縁側と同じ高さに、三尺ばかりも庭のほうへ造り足してあって、蘭、山査子などの植木鉢を片すみのほうに置けるだけのゆとりはある。石垣に近い縁側の突き当たりは、壁によせて末子の小さい風琴も置いてあるところで、その上には時々の用事なぞを書きつける黒板も掛けてある。そこは私たちが古い籐椅子を置き、簡単な腰掛け椅子を置いて、互いに話を持ち寄ったり、庭をながめたりして来た場所だ。毎年夏の夕方には、私たちが茶の間のチャブ台を持ち出して、よく簡単な食事に集まったのもそこだ。
庭にあるおそ咲きの乙女椿の蕾もようやくふくらんで来た。それが目につくようになって来た。三郎は縁台のはなに立って、庭の植木をながめながら、
「次郎ちゃん、ここの植木はどうなるんだい。」
この弟の言葉を聞くと、それまで妹と一緒に黒板の前に立って何かいたずら書きをしていた次郎が、白墨をそこに置いて三郎のいるほうへ行った。
「そりゃ、引っこ抜いて持って行ったって、かまうもんか──もとからここの庭にあった植木でさえなければ。」
「八つ手も大きくなりやがったなあ。」
「あれだって、とうさんが植えたんだよ。」
「知ってるよ。山茶花だって、薔薇だって、そうだろう。あの乙女椿だって、そうだろう。」
気の早い子供らは、八つ手や山茶花を車に積んで今にも引っ越して行くような調子に話し合った。
「そんなにお前たちは無造作に考えているのか。」と、私はそこにある籐椅子を引きよせて、話の仲間にはいった。「とうさんぐらいの年齢になってごらん、家というものはそうむやみに動かせるものでもないに。」
「どこかにいい家はないかなあ。」
と言い出すのは三郎だ。すると次郎は私と三郎の間に腰掛けて、
「そう、そう、あの青山の墓地の裏手のところが、まだすこし残ってる。この次ぎにはあそこを歩いて見るんだナ。」
「なにしろ、日あたりがよくて、部屋の都合がよくて、庭もあって、それで安い家と来るんだから、むずかしいや。」と、三郎は混ぜ返すように笑い出した。
「もっと大きい家ならある。」と次郎も私に言ってみせた。「五間か六間というちょうどいいところがない。これはと思うような家があっても、そういうところはみんな人が住んでいてネ。」
「とうさん、五間で四十円なんて、こんな安い家をさがそうたって無理だよ。」
「そりゃ、ここの家は例外サ。」と、私は言った。「まあ、ゆっくりさがすんだナ。」
「なにも追い立てをくってるわけじゃないんだから──ここにいたって、いられないことはないんだから。」
こう次郎も兄さんらしいところを見せた。
やがて自分らの移って行く日が来るとしたら、どんな知らない人たちがこの家に移り住むことか。そんなことがしきりに思われた。庭にある山茶花でも、つつじでも、なんど私が植え替えて手入れをしたものかしれない。暇さえあれば箒を手にして、自分の友だちのようにそれらの木を見に行ったり、落ち葉を掃いたりした。過ぐる七年の間のことは、そこの土にもここの石にもいろいろな痕跡を残していた。
いつのまにか末子は黒板の前を離れて、霜どけのしている庭へ降りて行った。
「次郎ちゃん、芍薬の芽が延びてよ。」
末子は庭にいながら呼んだ。
「蔦の芽も出て来たわ。」
と、また石垣の近くで末子の呼ぶ声も起こった。
遠い山地のほうにできかけている新しい家が、別にこの私たちに見えて来た。こんな落ちつかない気持ちで今の住居に暮らしているうちにも、そのうわさが私たちの間に出ない日はなかった。私は郷里のほうに売り物に出た一軒の農家を太郎のために買い取ったからである。それを峠の上から村の中央にある私たちの旧家の跡に移し、前の年あたりから大工を入れ、新しい工事を始めさせていた。太郎もすでに四年の耕作の見習いを終わり、雇い入れた一人の婆やを相手にまだ工事中の新しい家のほうに移ったと知らせて来た。彼もどうやら若い農夫として立って行けそうに見えて来た。
いったい、私が太郎を田舎に送ったのは、もっとあの子を強くしたいと考えたからで。土に親しむようになってからの太郎は、だんだん自分の思うような人になって行った。それでも私は遠く離れている子の上を案じ暮らして、自分が病気している間にも一日もあの山地のほうに働いている太郎のことを忘れなかった。郷里のほうから来るたよりはどれほどこの私を励ましたろう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを読むのを楽しみにしたろう。そういう私はいまだに都会の借家ずまいで、四畳半の書斎でも事は足りると思いながら、自分の子のために永住の家を建てようとすることは、われながら矛盾した行為だと考えたこともある。けれども、これから新規に百姓生活にはいって行こうとする子には、寝る場所、物食う炉ばた、土を耕す農具の類からして求めてあてがわねばならなかった。
私の四畳半に置く机の抽斗の中には、太郎から来た手紙やはがきがしまってある。その中には、もう麦を蒔いたとしたのもある。工事中の家に移って障子を張り唐紙を入れしてみたら、まるで別の家のように見えて来たとしたのもある。これが自分の家かと思うと、なんだか恐ろしいようなうれしいような気がして来たとしたのもある。だれに気兼ねもなく、新しい木の香のする炉ばたにあぐらをかいて、飯をやっているところだとしたのもある。
ふとしたことから、私は手にしたある雑誌の中に、この遠く離れている子の心を見つけた。それには父を思う心が寄せてあって、いろいろなことがこまごまと書きつけてあった。四人の兄妹の中での長男として、自分はいちばん長く父のそばにいて見たから、それだけ親しみを感ずる心も深いとしたところがあり、それからまた、父の勧農によって自分もその気になり、今では鍬を手にして田園の自然を楽しむ身であるが、四年の月日もむなしく過ぎて行った、これからの自分は新しい家にいて新しい生活を始めねばならない、時には自分は土を相手に戦いながら父のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるように消えて行くとしてあったのを覚えている。
最近に、また私は太郎からのはがきを受け取っていた。それによって私はあの山地のほうにできかけている農家の工事が風呂場を造るほどはかどったことを知った。なんとなく鑿や槌の音の聞こえて来るような気もした。こんなに私にも気分のいい日が続いて行くようであったら、おりを見て、あの新しい家を見に行きたいと思う心が動いた。
長いこと私は友だちも訪ねない。日がな一日寂寞に閉ざされる思いをして部屋の黄色い壁も慰みの一つにながめ暮らすようなことは、私に取ってきょうに始まったことでもない。母親のない幼い子供らをひかえるようになってから、三年もたつうちに、私はすでに同じ思いに行き詰まってしまった。しかし、そのころの私はまだ四十二の男の厄年を迎えたばかりだった。重い病も、老年の孤独というものも知らなかった。このまますわってしまうのかと思うような、そんな恐ろしさはもとより知らなかった。「みんな、そうですよ。子供が大きくなる時分には、わがからだがきかなくなりますよ。」と、私に言ってみせたある婆さんもある。あんな言葉を思い出して見るのも堪えがたかった。
「とうさん、どこへ行くの。」
ちょっと私が屋外へ出るにも、そう言って声を掛けるのが次郎の癖だ。植木坂の下あたりには、きまりでそのへんの門のわきに立ち話する次郎の旧い遊び友だちを見いだす。ある若者は青山師範へ。ある若者は海軍兵学校へ。七年の月日は私の子供を変えたばかりでなく、子供の友だちをも変えた。
居住者として町をながめるのもその春かぎりだろうか、そんな心持ちで私は鼠坂のほうへと歩いた。毎年のように椿の花をつける静かな坂道がそこにある。そこにはもう春がやって来ているようにも見える。
私の足はあまり遠くへ向かわなかった。病気以来、ことにそうなった。何か特別の用事でもないかぎり、私は樹木の多いこの町の界隈を歩き回るだけに満足した。そして、散歩の途中でも家のことが気にかかって来るのが私の癖のようになってしまった。「とうさん、僕たちが留守居するよ。」と、次郎なぞが言ってくれる日を迎えても、ただただ私の足は家の周囲を回りに回った。あらゆる嵐から自分の子供を護ろうとした七年前と同じように。
「旦那さん。もうお帰りですか。」
と言って、下女のお徳がこの私を玄関のところに迎えた。お徳の白い割烹着も、見慣れるうちにそうおかしくなくなった。
「次郎ちゃんは?」
「お二階で御勉強でしょう。」
それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。
「きょうはみんなの三時にと思って、林檎を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」
「旦那さんのように、いろいろなものを買って提げていらっしゃるかたもない。」
「そう言えば、鼠坂の椿が咲いていたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやって来るよ。」
そんな話をして置いて、私は自分の部屋へ行った。
私の心はなんとなく静かでなかった。実は私は次郎の将来を考えたあげく、太郎に勧めたとは別の意味で郷里に帰ることを次郎にも勧めたいと思いついたからで。長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを言い出してみるまでは落ちつかなかった。
ちょうど、三郎は研究所へ、末子は学校へ、二人とも出かけて行ってまだ帰らなかった時だった。次郎はもはや毎日の研究所通いでもあるまいというふうで、しばらく家にこもっていて描き上げた一枚の油絵を手にしながら、それを私に見せに二階から降りて来た。いつでも次郎が私のところへ習作を持って来て見せるのは弟のいない時で、三郎がまた見せに来るのは兄のいない時だった。
「どうも光っていけない。」
と言いながら、その時次郎は私の四畳半の壁のそばにたてかけた画を本棚の前に置き替えて見せた。兄の描いた妹の半身像だ。
「へえ、末ちゃんだね。」
と、私も言って、しばらく次郎と二人してその習作に見入っていた。
「あの三ちゃんが見たら、なんと言うだろう。」
その考えが苦しく私の胸へ来た。二人の兄弟の子供が決して互いの画を見せ合わないことを私はもうちゃんとよく知っていた。二人はこんな出発点のそもそもから全く別のものを持って生まれて来た画家の卵のようにも見えた。
次郎は画作に苦しみ疲れたような顔つきで、癖のように爪をかみながら、
「どうも、糞正直にばかりやってもいけないと思って来た。」
「お前のはあんまり物を見つめ過ぎるんだろう。」
「どうだろう、この手はすこし堅過ぎるかね。」
「そんなことをとうさんに相談したって困るよ。とうさんは、お前、素人じゃないか。」
その日は私はわざと素気ない返事をした。これが平素なら、私は子供と一緒になって、なんとか言ってみるところだ。それほど実は私も画が好きだ。しかし私は自分の畠にもない素人評が実際子供の励ましになるのかどうか、それにすら迷った。ともあれ、次郎の言うことには、たよろうとするあわれさがあった。
次郎の作った画を前に置いて、私は自分の内に深く突き入った。そこにわが子を見た。なんとなく次郎の求めているような素朴さは、私自身の求めているものでもある。最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描いたものをきょうは旧いとするほどの変わり方だが、あの子のように新しいものを求めて熱狂するような心もまた私自身の内に潜んでいないでもない。父の矛盾は覿面に子に来た。兄弟であって、同時に競争者──それは二人の子供に取って避けがたいことのように見えた。なるべく思い思いの道を取らせたい。その意味から言っても、私は二人の子供を引き離したかった。
「次郎ちゃん、おもしろい話があるんだが、お前はそれを聞いてくれるか。」
そんなことから切り出して、私はそれまで言い出さずにいた田舎行きの話を次郎の前に持ち出してみた。
「半農半画家の生活もおもしろいじゃないか。」と、私は言った。「午前は自分の画をかいて、午後から太郎さんの仕事を助けたってもいいじゃないか。田舎で教員しながら画をかくなんて人もあるが、ほんとうに百姓しながらやるという画家は少ない。そこまで腰を据えてかかってごらん、一家を成せるかもしれない。まあ、二三年は旅だと思って出かけて行ってみてはどうだね。」
日ごろ田舎の好きな次郎ででもなかったら、私もこんなことを勧めはしなかった。
「できるだけとうさんも、お前を助けるよ。」と、また私は言った。「そのかわり、太郎さんと二人で働くんだぜ。」
「僕もよく考えてみよう。こうして東京にぐずぐずしていたってもしかたがない。」
と、次郎は沈思するように答えて、ややしばらく物も言わずに、私のそばを離れずにいた。
四月にはいって、私は郷里のほうに太郎の新しい家を見に行く心じたくを始めていた。いよいよ次郎も私の勧めをいれ、都会を去ろうとする決心がついたので、この子を郷里へ送る前に、私は一足先に出かけて行って来たいと思った。留守中のことは次郎に預けて行きたいと思う心もあった。日ごろ家にばかり引きこもりがちの私が、こんな気分のいい日を迎えたことは、家のものをよろこばせた。
「ちょっと三人で、じゃんけんしてみておくれ。」
と、私は自分の部屋から声を掛けた。気候はまだ春の寒さを繰り返していたころなので、子供らは茶の間の火鉢の周囲に集まっていた。
「オイ、じゃんけんだとよ。」
何かよい事でも期待するように、次郎は弟や妹を催促した。火鉢の周囲には三人の笑い声が起こった。
「だれだい、負けた人は。」
「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」
「さあ、負けた人は、郵便箱を見て来て。」と、私が言った。「もう太郎さんからなんとか言って来てもいいころだ。」
「なあんだ、郵便か。」
と、三郎は頭をかきかき、古い時計のかかった柱から鍵をはずして路地の石段の上まで見に出かけた。
郷里のほうからのたよりがそれほど待たれる時であった。この旅には私は末子を連れて行こうとしていたばかりでなく、青山の親戚が嫂に姪に姪の子供に三人までも同行したいという相談を受けていたので、いろいろ打ち合わせをして置く必要もあったからで。待ち受けた太郎からのはがきを受け取って見ると、四月の十五日ごろに来てくれるのがいちばん都合がいい、それより早過ぎてもおそ過ぎてもいけない、まだ壁の上塗りもすっかりできていないし、月の末になるとまた農家はいそがしくなるからとしてあった。
「次郎ちゃん、とうさんが行って太郎さんともよく相談して来るよ。それまでお前は東京に待っておいで。」
「太郎さんのところからも賛成だと言って来ている。ほんとに僕がその気なら、一緒にやりたいと言って来ている。」
「そうサ。お前が行けば太郎さんも心強かろうからナ。」
私は次郎とこんな言葉をかわした。
久しぶりで郷里を見に行く私は、みやげ物をあつめに銀座へんを歩き回って来るだけでも、額から汗の出る思いをした。暮れからずっと続けている薬を旅の鞄に納めることも忘れてはならなかった。私は同伴する人たちのことを思い、ようやく回復したばかりのような自分の健康のことも気づかわれて、途中下諏訪の宿屋あたりで疲れを休めて行こうと考えた。やがて、四月の十三日という日が来た。いざ旅となれば、私も遠い外国を遍歴して来たことのある気軽な自分に帰った。古い鞄も、古い洋服も、まだそのまま役に立った。連れて行く娘のしたくもできた。そこで出かけた。
この旅には私はいろいろな望みを掛けて行った。長いしたくと親子の協力とからできたような新しい農家を見る事もその一つであった。七年の月日の間に数えるほどしか離れられてなかった今の住居から離れ、あの恵那山の見えるような静かな田舎に身を置いて、深いため息でも吐いて来たいと思う事もその一つであった。私のそばには、三十年ぶりで郷里を見に行くという年老いた嫂もいた。姪が連れていたのはまだ乳離れもしないほどの男の子であったが、すぐに末子に慣れて、汽車の中で抱かれたりその膝に乗ったりした。それほど私の娘も子供好きだ。その子は時々末子のそばを離れて、母のふところをさぐりに行った。
「叔父さん、ごめんなさいよ。」
と言って、姪は幾人もの子供を生んだことのある乳房を小さなものにふくませながら話した。そんなにこの人は気の置けない道づれだ。
「そう言えば、太郎さんの家でも、屋号をつけたよ。」と、私は姪に言ってみせた。「みんなで相談して田舎風に『よもぎや』とつけた。それを『蓬屋』と書いたものか、『四方木屋』と書いたものかと言うんで、いろいろな説が出たよ。」
「そりゃ、『蓬屋』と書くよりも、『四方木屋』と書いたほうがおもしろいでしょう。いかにも山家らしくて。」
こんな話も旅らしかった。
甲府まで乗り、富士見まで乗って行くうちに、私たちは山の上に残っている激しい冬を感じて来た。下諏訪の宿へ行って日が暮れた時は、私は連れのために真綿を取り寄せて着せ、またあくる日の旅を続けようと思うほど寒かった。──それを嫂にも着せ、姪にも着せ、末子にも着せて。
中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待っていた。木曾路に残った冬も三留野あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた。そこまで行くと次郎たちの留守居する東京のほうの空も遠かった。
「ようやく来た。」
と、私はそれを太郎にも末子にも言ってみせた。
年とった嫂だけは山駕籠、その他のものは皆徒歩で、それから一里ばかりある静かな山路を登った。路傍に咲く山つつじでも、菫でも、都会育ちの末子を楽しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空気が私たちの身に感じられて来た。旧い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森さんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。
郷里に帰るものの習いで、私は村の人たちや子供たちの物見高い目を避けたかった。今だに古い駅路のなごりを見せているような坂の上のほうからは、片側に続く家々の前に添うて、細い水の流れが走って来ている。勝手を知った私はある抜け道を取って、ちょうどその村の裏側へ出た。太郎は私のすぐあとから、すこしおくれて姪や末子もついて来た。私は太郎の耕しに行く畠がどっちの方角に当たるかを尋ねることすら楽しみに思いながら歩いた。私の行く先にあるものは幼い日の記憶をよび起こすようなものばかりだ。暗い竹藪のかげの細道について、左手に小高い石垣の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、
「太郎さん、お前の家かい。」
「これが僕の家サ。」
やがて私はその石垣を曲がって、太郎自身の筆で屋号を書いた農家風の入り口の押し戸の前に行って立った。
太郎には私は自身に作れるだけの田と、畑と、薪材を取りに行くために要るだけの林と、それに家とをあてがった。自作農として出発させたい考えで、余分なものはいっさいあてがわない方針を執った。
都会の借家ずまいに慣れた目で、この太郎の家を見ると、新規に造った炉ばたからしてめずらしく、表から裏口へ通り抜けられる農家風の土間もめずらしかった。奥もかなり広くて、青山の親戚を泊めるには充分であったが、おとなから子供まで入れて五人もの客が一時にそこへ着いた時は、いかにもまだ新世帯らしい思いをさせた。
「きのうまで左官屋さんがはいっていた。庭なぞはまだちっとも手がつけてない。」
と、太郎は私に言ってみせた。
何もかも新規だ。まだ柱時計一つかかっていない炉ばたには、太郎の家で雇っているお霜婆さんのほかに、近くに住むお菊婆さんも手伝いに来てくれ、森さんの母さんまで来てわが子の世話でもするように働いていてくれた。
私は太郎と二人で部屋部屋を見て回るような時を見つけようとした。それが容易に見当たらなかった。
「この家は気に入った。思ったよりいい家だ。よっぽど森さんにはお礼を言ってもいいね。」
わずかにこんな話をしたかと思うと、また太郎はいそがしそうに私のそばから離れて行った。そこいらには、まだかわき切らない壁へよせて、私たちの荷物が取り散らしてある。末子は姪の子供を連れながら部屋部屋をあちこちとめずらしそうに歩き回っている。嫂も三十年ぶりでの帰省とあって、旧なじみの人たちが出たりはいったりするだけでも、かなりごたごたした。
人を避けて、私は眺望のいい二階へ上がって見た。石を載せた板屋根、ところどころに咲きみだれた花の梢、その向こうには春深く霞んだ美濃の平野が遠く見渡される。天気のいい日には近江の伊吹山までかすかに見えるということを私は幼年のころに自分の父からよく聞かされたものだが、かつてその父の旧い家から望んだ山々を今は自分の新しい家から望んだ。
私はその二階へ上がって来た森さんとも一緒に、しばらく窓のそばに立って、久しぶりで自分を迎えてくれるような恵那山にもながめ入った。あそこに深い谷がある、あそこに遠い高原がある、とその窓から指して言うことができた。
「おかげで、いい家ができました。太郎さんにくれるのは惜しいような気がして来ました。これまでに世話してくださるのも、なかなか容易じゃありません。私もまた、時々本でも読みに帰ります。」
と、私は森さんに話したが、礼の心は言葉にも尽くせなかった。
翌日になっても、私は太郎と二人ぎりでゆっくり話すような機会を見いださなかった。嫂の墓参に。そのお供に。入れかわり立ちかわり訪ねて来る村の人たちの応接に。午後に、また私は人を避けて、炉ばたつづきの六畳ばかりの部屋に太郎を見つけた。
「とうさん、みやげはこれっきり?」
「なんだい、これっきりとは。」
私は約束の柱時計を太郎のところへ提げて来られなかった。それを太郎が催促したのだ。
「次郎ちゃんが来る時に、時計は持たしてよこす。」と言ったあとで、ようやく私は次郎のことをそこへ持ち出した。「どうだろう、次郎ちゃんは来たいと言ってるが、お前の迷惑になるようなことはなかろうか。」
「そんなことはない。あのとおり二階はあいているし、次郎ちゃんの部屋はあるし、僕はもうそのつもりにして待っているところだ。」
「半日お前の手伝いをさせる、半日画をかかせる──そんなふうにしてやらしてみるか。何も試みだ。」
「まあ、最初の一年ぐらいは、僕から言えばかえって邪魔になるくらいなものだろうけれど──そのうちには次郎ちゃんも慣れるだろう。なかなか百姓もむずかしいからね。」
そういう太郎の手は、指の骨のふしぶしが強くあらわれていて、どんな荒仕事にも耐えられそうに見えた。その手はもはやいっぱしの若い百姓の手だった。この子の机のそばには、本箱なぞも置いてあって、農民と農村に関する書籍の入れてあるのも私の目についた。
その日は私は新しい木の香のする風呂桶に身を浸して、わずかに旅の疲れを忘れた。私は山家らしい炉ばたで婆さんたちの話も聞いてみたかった。で、その晩はあかあかとした焚火のほてりが自分の顔へ来るところへ行って、くつろいだ。
「ほんとに、おらのようなものの造るものでも、太郎さんはうまいうまいと言って食べさっせる。そう思うと、おらはオヤゲナイような気がする。」
と、私に言ってみせるのは、肥って丈夫そうなお霜婆さんだ。私の郷里では、このお霜婆さんの話すように、女でも「おら」だ。
「どうだなし、こんないい家ができたら、お前さまもうれしからず。」
と、今度はお菊婆さんが言い出した。無口なお霜婆さんに比べると、この人はよく話した。
「今度帰って見て、私も安心しました。」と、私は言った。「私はあの太郎さんを旦那衆にするつもりはありません。要るだけの道具はあてがう、あとは自分で働け──そのつもりです。」
「えゝ、太郎さんもその気だで。」と、お菊婆さんは炉の火のほうに気をくばりながら言った。「この焚木でもなんでも、みんな自分で山から背負っておいでるぞなし。そりゃ、お前さま、ここの家を建てるだけでも、どのくらいよく働いたかしれずか。」
炉ばたでの話は尽きなかった。
三日目には私は嫂のために旧いなじみの人を四方木屋の二階に集めて、森さんのお母さんやお菊婆さんの手料理で、みんなと一緒に久しぶりの酒でもくみかわしたいと思った。三年前に兄を見送ってからの嫂は、にわかに老けて見える人であった。おそらくこれが嫂に取っての郷里の見納めであろうとも思われたからで。
私たちは炉ばたにいて順にそこへ集まって来る客を待った。嫂が旧いなじみの人々で、三十年の昔を語り合おうとするような男の老人はもはやこの村にはいなかった。そういう老人という老人はほとんど死に絶えた。招かれて来るお客はお婆さんばかりで、腰を曲めながらはいって来る人のあとには、すこし耳も遠くなったという人の顔も見えた。隣村からわざわざ嫂や姪や私の娘を見にやって来てくれた人もあったが、私と同年ですでに幾人かの孫のあるという未亡人が、その日の客の中での年少者であった。
しかし、一同が二階に集まって見ると、このお婆さんたちの元気のいい話し声がまた私をびっくりさせた。その中でも、一番の高齢者で、いちばん元気よく見えるのは隣家のお婆さんであった。この人は酒の盃を前に置いて、
「どうか、まあ太郎さんにもよいおよめさんを見つけてあげたいもんだ。とうさんの御心配で、こうして家もできたし。この次ぎは、およめさんだ。そのおりには私もまたきょうのように呼んでいただきたい──私は私だけのお祝いを申し上げに来たい。」
八十歳あまりになる人の顔にはまだみずみずしい光沢があった。私はこの隣家のお婆さんの孫にあたる子息や、森さんなぞと一緒に同じ食卓についていて、日ごろはめったにやらない酒をすこしばかりやった。太郎はまたこの新築した二階の部屋で初めての客をするという顔つきで、冷めた徳利を集めたり、それを熱燗に取り替えて来たりして、二階と階下の間を往ったり来たりした。
「太郎さんも、そこへおすわり。」と、私は言った。「森さんのおかあさんが丹精してくだすったごちそうもある──下諏訪の宿屋からとうさんの提げて来た若鷺もある──」
「こういう田舎にいますと、酒をやるようになります。」と、森さんが、私に言ってみせた。「どうしても、周囲がそうだもんですから。」
「太郎さんもすこしは飲めるように、なりましたろうか。」と、私は半分串談のように。
「えゝ、太郎さんは強い。」それが森さんの返事だった。「いくら飲んでも太郎さんの酔ったところを見た事がない。」
その時、私は森さんから返った盃を太郎の前に置いて、
「今から酒はすこし早過ぎるぜ。しかし、きょうは特別だ。まあ、一杯やれ。」
わが子の労苦をねぎらおうとする心から、思わず私は自分で徳利を持ち添えて勧めた。若者、万歳──口にこそそれを出さなかったが、青春を祝する私の心はその盃にあふれた。私は自分の年とったことも忘れて、いろいろと皆を款待顔な太郎の酒をしばらくそこにながめていた。
七日の後には私は青山の親戚や末子と共にこの山を降りた。
落合川の駅からもと来た道を汽車で帰ると、下諏訪へ行って日が暮れた。私は太郎の作っている桑畑や麦畑を見ることもかなわなかったほど、いそがしい日を郷里のほうで送り続けて来た。察しのすくない郷里の人たちは思うように私を休ませてくれなかった。この帰りには、いったん下諏訪で下車して次の汽車の来るのを待ち、また夜行の旅を続けたが、嫂でも姪でも言葉すくなに乗って行った。末子なぞは汽車の窓のところにハンケチを載せて、ただうとうとと眠りつづけて行った。
東京の朝も見直すような心持ちで、私は娘と一緒に家に帰りついた。私も激しい疲れの出るのを覚えて、部屋の畳の上にごろごろしながら寝てばかりいるような自分を留守居するもののそばに見つけた。
「旦那さん、あちらはいかがでした。」
と、お徳が熱い茶なぞを持って来てくれると、私は太郎が山から背負って来たという木で焚いた炉にもあたり、それで沸かした風呂にもはいって来た話なぞをして、そこへ横になった。
「とうさん、どうだった。」
「思ったより太郎さんの家はいい家だったよ。しっかりとできていたよ。でも、ぜいたくな感じはすこしもなかった。森さんの寄付してくれた古い小屋なぞも裏のほうに造り足してあったよ。」
私は次郎や三郎にもこんな話を聞かせて置いて、またそこに横になった。
二日も三日も私は寝てばかりいた。まだ半分あの山の上に身を置くような気もしていた。旅の印象は疲れた頭に残って、容易に私から離れなかった。私の目には明るい静かな部屋がある。新しい障子のそばには火鉢が置いてある。客が来てそこで話し込んでいる。村の校長さんという人も見えていて「太郎さんの百姓姿をまだ御覧になりませんか、なかなかようござんすよ。」と、私に言ってみせたことを思い出した。「おもしろい話もあります。太郎さんがまだ笹刈りにも慣れない時分のことです。笹刈りと言えばこの土地でも骨の折れる仕事ですからね。あの笹刈りがあるために、他からこの土地へおよめに来手がないと言われるくらい骨の折れる仕事ですからね。太郎さんもみんなと一緒に、威勢よくその笹刈りに出かけて行ったはよかったが、腰をさがして見ると、鎌を忘れた。大笑いしましたよ。それでも村の若い者がみんなで寄って、太郎さんに刈ってあげたそうですがね。どうして、この節の太郎さんはもうそんなことはありません。」と、その校長さんの言ったことを思い出した。そう言えば、あの村の二三の家の軒先に刈り乾してあった笹の葉はまだ私の目にある。あれを刈りに行くものは、腰に火縄を提げ、それを蚊遣りの代わりとし、襲い来る無数の藪蚊と戦いながら、高い崖の上に生えているのを下から刈り取って来るという。あれは熊笹というやつか。見たばかりでも恐ろしげに、幅広で鋭くとがったあの笹の葉は忘れ難い。私はまた、水に乏しいあの山の上で、遠いわが家の先祖ののこした古い井戸の水が太郎の家に活き返っていたことを思い出した。新しい木の香のする風呂桶に身を浸した時の楽しさを思い出した。ほんとうに自分の子の家に帰ったような気のしたのも、そういう時であったことを思い出した。
しかし、こういう旅疲れも自然とぬけて行った。そして、そこから私が身を起こしたころには、過ぐる七年の間続きに続いて来たような寂しい嵐の跡を見直そうとする心を起こした。こんな心持ちは、あの太郎の家を見るまでは私に起こらなかったことだ。
留守宅には種々な用事が私を待っていた。その中でも、さしあたり次郎たちと相談しなければならない事が二つあった。一つは見つかったという借家の事だ。さっそく私は次郎と三郎の二人を連れて青山方面まで見に行って来た。今少しで約束するところまで行った。見合わせた。帰って来て、そんな家を無理して借りるよりも、まだしも今の住居のほうがましだということにおもい当たった。いったんは私の心も今の住居を捨てたものである。しかし、もう一度この屋根の下に辛抱してみようと思う心はすでにその時に私のうちにきざして来た。
今一つは、次郎の事だ。私は太郎から聞いて来た返事を次郎に伝えて、いよいよ郷里のほうへ出発するように、そのしたくに取り掛からせることにした。
「次郎ちゃん、番町の先生のところへも暇乞いに行って来るがいいぜ。」
「そうだよ。」
私たちはこんな言葉をかわすようになった。「番町の先生」とは、私より年下の友だちで、日ごろ次郎のような未熟なものでも末たのもしく思って見ていてくれる美術家である。
「今ある展覧会も、できるだけ見て行くがいいぜ。」
「そうだよ。」
と、また次郎が答えた。
五月にはいって、次郎は半分引っ越しのような騒ぎを始めた。何かごとごと言わせて戸棚を片づける音、画架や額縁を荷造りする音、二階の部屋を歩き回る音なぞが、毎日のように私の頭の上でした。私も階下の四畳半にいてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかった。仕事の上手なお徳は次郎のために、郷里のほうへ行ってから着るものなぞを縫った。裁縫の材料、材料で次ぎから次ぎへと追われている末子が学校でのけいこに縫った太郎の袷羽織もそこへでき上がった。それを柳行李につめさせてなどと家のものが語り合うのも、なんとなく若者の旅立ちの前らしかった。
次郎の田舎行きは、よく三郎の話にも上った。三郎は研究所から帰って来るたびに、その話を私にして、
「次郎ちゃんのことは、研究所でもみんな知ってるよ。僕の友だちが聞いて『それだけの決心がついたのは、えらい』──とサ。しかし僕は田舎へ行く気にならないなあ。」
「お前はお前、次郎ちゃんは次郎ちゃんでいい。広い芸術の世界だもの──みんながみんな、そう同じような道を踏まなくてもいい。」
と、私は答えた。
子供の変わって行くにも驚く。三郎も私に向かって、以前のようには感情を隠さなくなった。めまぐるしく動いてやまないような三郎にも、なんとなく落ちついたところが見えて来た。子供の変わるのはおとなの移り気とは違う、子供は常に新しい──そう私に思わせるのもこの三郎だ。
やがて次郎は番町の先生の家へも暇乞いに寄ったと言って、改まった顔つきで帰って来た。餞別のしるしに贈られたという二枚の書をも私の前に取り出して見せた。それはみごとな筆で大きく書いてあって、あの四方木屋の壁にでも掛けてながめ楽しむにふさわしいものだった。
「とうさん、番町の先生はそう言ったよ。いろいろな人の例を僕に引いてみせてね、田舎へ引っ込んでしまうと画がかけなくなるとサ。」
と、次郎はやや不安らしく言ったあとで、さらに言葉を継いで、
「それから、こういうものをくれてよこした。田舎へ行ったら読んでごらんなさいと言って僕にくれてよこした。何かと思ったら、『扶桑陰逸伝』サ。画の本でもくれればいいのに、こんな仙人の本サ。」
「仙人の本はよかった。」と、私も吹き出した。
「これはとうさんでも読むにちょうどいい。」
「とうさんだって、まだ仙人には早いよ。」
「しかしお餞別と思えばありがたい。きょうは番町でいろいろな話が出たよ。ヴィルドラックという人の持って来たマチスの画の話も出たよ。きょうの話はみんなよかった。それから先生の奥さんも、御飯を一緒に食べて行けと言ってしきりに勧めてくだすったが、僕は帰って来た。」
先輩の一言一行も忘れられないかのように、次郎はそれを私に語ってみせた。
いよいよ次郎の家を離れて行く日も近づいた。次郎はその日を茶の間の縁先にある黒板の上に記しつけて見て、なんとなくなごりが惜しまるるというふうであった。やがて、荷造りまでもできた。この都会から田舎へ帰って行く子を送る前の一日だけが残った。
「どっこいしょ。」
私がそれをやるのに不思議はないが、まだ若いさかりのお徳がそれをやった。お徳も私の家に長く奉公しているうちに、そんなことが自然と口に出るほど、いつのまにか私の癖に染まったと見える。
このお徳は茶の間と台所の間を往ったり来たりして、次郎の「送別会」のしたくを始めた。そういうお徳自身も遠からず暇を取って、代わりの女中のあり次第に国もとのほうへ帰ろうとしていた。
「旦那さん、お肴屋さんがまいりました。旦那さんの分だけ何か取りましょうか。次郎ちゃんたちはライス・カレエがいいそうですよ。」
「ライス・カレエの送別会か。どうしてあんなものがそう好きなんだろうなあ。」
「だって、皆さんがそうおっしゃるんですもの。──三ちゃんでも、末子さんでも。」
私はお徳の前に立って、肴屋の持って来た付木にいそがしく目を通した。それには河岸から買って来た魚の名が並べ記してある。長い月日の間、私はこんな主婦の役をも兼ねて来て、好ききらいの多い子供らのために毎日の総菜を考えることも日課の一つのようになっていた。
「待てよ。おれはどうでもいいが、送別会のおつきあいに鮎の一尾ももらって置くか。」
と、私はお徳に話した。
「末ちゃん、おまいか。」
と、私はまた小さな娘にでも注意するように末子に言って、白の前掛けをかけさせ、その日の台所を手伝わせることも忘れなかった。
「ほんとに、太郎さんのようなおとなしい人のおよめさんになるものは仕合わせだ。わたしもこれでもっと年でも取ってると──もっとお婆さんだと──台所の手伝いにでも行ってあげるんだけれど。」
それが茶の間に来てのお徳の述懐だ。
茶の間には古い柱時計のほかに、次郎が銀座まで行って買って来た新しいのも壁の上に掛けてあった。太郎への約束の柱時計だ。今度次郎が提げて行こうとするものだ。それが古い時計と並んで一緒に動きはじめていた。
「すごい時計だ。」
と、見に来て言うものがある。そろそろ夕飯のしたくができるころには、私たちは茶の間に集まって新しい時計の形をいろいろに言ってみたり、それを古いほうに比べたりした。私の四人の子供がまだ生まれない前からあるのも、その古いほうの時計だ。
やがて私たちは一緒に食卓についた。次郎は三郎とむかい合い、私は末子とむかい合った。
「送別会」とは名ばかりのような粗末な食事でも、こうして三人の兄妹の顔がそろうのはまたいつのことかと思わせた。
「いよいよ明日は次郎ちゃんも出かけるかね。」と、私は古い柱時計を見ながら言った。「かあさんが亡くなってから、ことしでもう十七年にもなるよ。あのおかあさんが生きていて、お前たちの話す言葉を聞いたら驚くだろうなあ。わざと乱暴な言葉を使う。『時計を買いやがった──動いていやがらあ』──お前たちのはその調子だもの。」
「いけねえ、いけねえ。」と、次郎は頭をかきながら食った。
「とうさんがそんなことを言ったって、みんながそうだからしかたがない。」と、三郎も笑いながら食った。
「そう言えば、次郎ちゃんも一年に二度ぐらいずつは東京へ出ておいでよ。なにも田舎に引っ込みきりと考えなくてもいいよ。二三年は旅だと思ってごらんな。とうさんなぞも旅をするたびに自分の道が開けて来た。田舎へ行くと、友だちはすくなかろうなあ。ことに画のほうの友だちが──それだけがとうさんの気がかりだ。」
こう私が言うと、今まで子供の友だちのようにして暮らして来たお徳も長い奉公を思い出し顔に、
「次郎ちゃんが行ってしまうと、急にさびしくなりましょうねえ。人を送るのもいいが、わたしはあとがいやです。」
と、給仕しながら言った。
「あゝ、食った。食った。」
間もなくその声が子供らの間に起こった。三郎は口をふいて、そこにある箪笥を背に足を投げ出した。次郎は床柱のほうへ寄って、自分で装置したラジオの受話器を耳にあてがった。細いアンテナの線を通して伝わって来る都会の声も、その音楽も、当分は耳にすることのできないかのように。
その晩は、お徳もなごりを惜しむというふうで、台所を片づけてから子供らの相手になった。お徳はにぎやかなことの好きな女で、戯れに子供らから腕押しでも所望されると、いやだとは言わなかった。肥って丈夫そうなお徳と、やせぎすで力のある次郎とは、おもしろい取り組みを見せた。さかんな笑い声が茶の間で起こるのを聞くと、私も自分の部屋にじっとしていられなかった。
「次郎ちゃんと姉やとは互角だ。」
そんなことを言って見ている三郎たちのそばで、また二人は勝負を争った。健康そのものとも言いたいお徳が肥った膝を乗り出して、腕に力を入れた時は、次郎もそれをどうすることもできなかった。若々しい血潮は見る見る次郎の顔に上った。堅く組んだ手も震えた。私はまたハラハラしながらそれを見ていた。
「オヽ、痛い。御覧なさいな、私の手はこんなに紅くなっちゃったこと。」
と、お徳は血でもにじむかと見えるほど紅く熱した腕をさすった。
「三ちゃんも姉やとやってごらんなさいな。」
と、末子がそばから勧めたが、三郎は応じなかった。
「僕はよす。左ならやってみてもいいけれど。」
そういう三郎は左を得意としていた。腕押しに、骨牌に、その晩は笑い声が尽きなかった。
翌日はもはや新しい柱時計が私たちの家の茶の間にかかっていなかった。次郎はそれを厚い紙箱に入れて、旅に提げて行かれるように荷造りした。
その時になってみると、太郎はあの山地のほうですでに田植えを始めている。次郎はこれから出かけようとしている。お徳もやがては国をさして帰ろうとしている。次郎のいないあとは、にわかに家も寂しかろうけれど、日ごろせせこましく窮屈にのみ暮らして来た私たちの前途には、いくらかのゆとりのある日も来そうになった。私は私で、もう一度自分の書斎を二階の四畳半に移し、この次ぎは客としての次郎をわが家に迎えようと思うなら、それもできない相談ではないように見えて来た。どうせ今の住居はあの愛宕下の宿屋からの延長である。残る二人の子供に不自由さえなくば、そう想ってみた。五十円や六十円の家賃で、そう思わしい借家のないこともわかった。次郎の出発を機会に、ようやく私も今の住居に居座りと観念するようになった。
私はひとりで、例の地下室のような四畳半の窓へ近く行った。そこいらはもうすっかり青葉の世界だった。私は両方の拳を堅く握りしめ、それをうんと高く延ばし、大きなあくびを一つした。
「大都市は墓地です。人間はそこには生活していないのです。」
これは日ごろ私の胸を往ったり来たりする、あるすぐれた芸術家の言葉だ。あの子供らのよく遊びに行った島津山の上から、芝麻布方面に連なり続く人家の屋根を望んだ時のかつての自分の心持ちをも思い合わせ、私はそういう自分自身の立つ位置さえもが──あの芸術家の言い草ではないが、いつのまにか墓地のような気のして来たことを胸に浮かべてみた。過ぐる七年のさびしい嵐は、それほど私の生活を行き詰まったものとした。
私が見直そうと思って来たのも、その墓地だ。そして、その墓地から起き上がる時が、どうやら、自分のようなものにもやって来たかのように思われた。その時になって見ると、「父は父、子は子」でなく、「自分は自分、子供は子供ら」でもなく、ほんとうに「私たち」への道が見えはじめた。
夕日が二階の部屋に満ちて来た。階下にある四畳半や茶の間はもう薄暗い。次郎の出発にはまだ間があったが、まとめた荷物は二階から玄関のところへ運んであった。
「さあ、これだ、これが僕の持って行く一番のおみやげだ。」
と、次郎は言って、すっかり荷ごしらえのできた時計をあちこちと持ち回った。
「どれ、わたしにも持たせてみて。」
と、末子は兄のそばへ寄って言った。
遠い山地も、にわかに私たちには近くなった。この新しい柱時計が四方木屋の炉ばたにかかって音のする日を想いみるだけでも、楽しかった。日ごろ私が矛盾のように自分の行為を考えたことも、今はその矛盾が矛盾でないような時も来た。子のために建てたあの永住の家と、旅にも等しい自分の仮の借家ずまいの間には、虹のような橋がかかったように思われて来た。
「次郎ちゃん、停車場まで送りましょう。末子さんもわたしと一緒にいらっしゃいね。」
と、お徳が言い出した。
「僕も送って行くよ。」
と、三郎も言った。すると、次郎は首を振って、
「だれも来ちゃいけない。今度はだれにも送ってもらわない。」
それが次郎の望みらしかった。私は末子やお徳を思いとまらせたが、せめ三郎だけをやって、飯田橋の停車場まで見送らせることにした。
やがて、そこいらはすっかり暗くなった。まだ宵の口から、家の周囲はひっそりとしてきて、坂の下を通る人の足音もすくない。都会に住むとも思えないほどの静かさだ。気の早い次郎は出発の時を待ちかねて、住み慣れた家の周囲を一回りして帰って来たくらいだ。
「行ってまいります。」
茶の間の古い時計が九時を打つころに、私たちはその声を聞いた。植木坂の上には次郎の荷物を積んだ車が先に動いて行った。いつのまにか次郎も家の外の路地を踏む靴の音をさせて、静かに私たちから離れて行った。
底本:「嵐 他二編」岩波文庫、岩波書店
1956(昭和31)年3月26日第1刷発行
1969(昭和44)年9月16日第13刷改版発行
1974(昭和49)年12月20日第18刷発行
入力:紅邪鬼
校正:林幸雄
2001年1月15日公開
2005年11月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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