家
(下)
島崎藤村
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橋本の正太は、叔父を訪ねようとして、両側に樹木の多い郊外の道路へ出た。
叔父の家は広い植木屋の地内で、金目垣一つ隔てて、直にその道路へ接したような位置にある。垣根の側には、細い乾いた溝がある。人通りの少い、真空のように静かな初夏の昼過で、荷車の音もしなかった。垣根に近い窓のところからは、叔母のお雪が顔を出して、格子に取縋りながら屋外の方を眺めていた。
正太は窓の下に立った。丁度その家の前に、五歳ばかりに成る児が余念もなく遊んでいた。
「叔母さん、菊ちゃんのお友達?」
心易い調子で、正太はそこに立ったままお雪に尋ねてみた。子供は、知らない大人に見られることを羞じるという風であったが、馳出そうともしなかった。
短い着物に細帯を巻付けたこの娘の様子は、同じ年頃のお菊のことを思出させた。
お雪が夫と一緒に、三人の娘を引連れ、遠く山の上から都会の方へ移った時は、新しい家の楽みを想像して来たものであった。引越の混雑の後で、三番目のお繁──まだ誕生を済ましたばかりのが亡くなった。丁度それから一年過ぎた。復た二番目のお菊が亡くなった。あのお菊が小さな下駄を穿いて、好きな唱歌を歌って歩くような姿は、最早家の周囲に見られなかった。
姉のお房とは違い、お菊の方は遊友達も少なかった。「菊ちゃん、お遊びなさいな」と言って、よく誘いに来たのはこの近所の娘である。
道路には日があたっていた。新緑の反射は人の頭脳の内部までも入って来た。明るい光と、悲哀とで、お雪はすこし逆上るような眼付をした。
「まあ、正太さん、お上んなすって下さい」
こう叔母に言われて、正太は垣根越しに家の内を覗いて見た。
「叔父さんは?」
「一寸歩いて来るなんて、大屋さんの裏の方へ出て行きました」
「じゃ、私も、お裏の方から廻って参りましょう」
正太はその足で、植木屋の庭の方へ叔父を見つけに行くことにした。
この地内には、叔父が借りて住むと同じ型の平屋がまだ外にも二軒あって、その板屋根が庭の樹木を隔てて、高い草葺の母屋と相対していた。植木屋の人達は新茶を造るに忙しい時であった。縁日向の花を仕立てる畠の尽きたところまで行くと、そこに木戸がある。その木戸の外に、茶畠、野菜畠などが続いている。畠の間の小径のところで正太は叔父の三吉と一緒に成った。
新開地らしい光景は二人の眼前に展けていた。ところどころの樹木の間には、新しい家屋が光って見える。青々とした煙も立ち登りつつある。
三吉は眺め入って、
「どうです、正太さん、一年ばかりの間に、随分この辺は変りましたろう」
と弟か友達にでも話すような調子で言って、茶畠の横手に養鶏所の出来たことなどまで正太に話し聞せた。
何となく正太は元気が無かった。彼の上京は、叔父が長い仕事を持って山を下りたよりも早かった。一頃は本所辺に小さな家を借りて、細君の豊世と一緒に仮の世帯を持ったが、間もなくそこも畳んで了い、細君は郷里へ帰し、それから単独に成って事業の手蔓を探した。彼の気質は普通の平坦な道を歩かせなかった。乏しい旅費を懐にしながら、彼は遠く北海道から樺太まで渡り、空しくコルサコフを引揚げて来て、青森の旅舎で酷く煩ったこともあった。もとより資本あっての商法では無い。磐城炭の売込を計劃したことも有ったし、南清地方へ出掛けようとして、会話の稽古までしてみたことも有った。未だ彼はこれという事業に取付かなかった。唯、焦心った。
そればかりでは無い。叔父という叔父は、いずれも東京へ集って来ている。長いこと家に居なかった実叔父は壮健で帰って来ている。森彦叔父は山林事件の始末をつけて、更に別方面へ動こうとしている。三吉叔父も、漸く山から持って来た仕事を纏めた。早く東京で家を持つように成ろう、この考えは正太の胸の中を往来していた。
動き光る若葉のかげで、三吉、正太の二人はしばらく時を移した。やがて庭の方へ引返して行った。荵を仕立てる場所について、植木室の側を折れ曲ると、そこには盆栽棚が造り並べてある。香の無い、とは言え誘惑するように美しい弁の花が盛んに咲乱れている。植木屋の娘達は、いずれも素足に尻端折で、威勢よく井戸の水を汲んでいるのもあれば、如露で花に灑いでいるのもあった。三吉は自分の子供に逢った。
「房ちゃん」
と正太も見つけて呼んだ。
お房は、耳のあたりへ垂下る厚い髪の毛を煩さそうにして、うっとりとした眼付で二人の方を見た。何処か気分のすぐれないこの子供の様子は、余計にその容貌を娘らしく見せた。
「叔父さん、まだ房ちゃんは全然快くなりませんかネ」
「どうも、君、熱が出たり退いたりして困る。二人ばかり医者にも診て貰いましたがネ。大して悪くもなさそうですが、快くも成らない─なんでも医者の言うには腸から来ている熱なんだそうです。」
こんな話をしながら、二人はお房を連れて、庭づたいに井戸のある方へ廻った。
「でも、房ちゃんは余程姉さんらしく成りましたネ」
と正太は木犀の樹の側を通る時に言った。
この木犀は可成の古い幹で、細長い枝が四方へ延びていた。それを境に、疎な竹の垣を繞らして、三吉の家の庭が形ばかりに区別してある。
「お雪、房ちゃんに薬を服ましたかい」
と三吉は庭から尋ねてみた。正太も縁側のところへ腰掛けた。
「どういうものか、房ちゃんはあんな風なんですよ」とお雪はそこへ来て、娘の方を眺めながら言った。「すこし屋外へ遊びに出たかと思うと、直に帰って来て、ゴロゴロしてます。今も、父さん達のところへ行って見ていらっしゃいッて、私が無理に勧めて遣ったんですよ」
長い労作の後で、三吉も疲れていた。不思議にも彼は休息することが出来なかった。唯疲労に抵抗するような眼付をしながら、甥と一緒に庭へ向いた部屋へ上った。
「正太さん、大屋さんから新茶を貰いました──一つ召上ってみて下さい」
こう言ってお雪が持運んで来た。三吉は、その若葉の香を嗅ぐようなやつを、甥にも勧め、自分でも啜って、仕事の上の話を始めた。彼の話はある露西亜人のことに移って行った。その人のことを書いた本の中に、細君が酸乳というものを製えて、著作で労れた夫に飲ませたというところが有った。それを言出した。
「ああいう強壮な体格を具えた異人ですらもそうかナア、と思いましたよ。なにしろ、僕なぞは随分無理な道を通って来ましたからネ。仕事が済んで、いよいよそこへ筆を投出した時は──その心地は、君、何とも言えませんでした。部屋中ゴロゴロ転がって歩きたいような気がしました」
正太は笑わずにいられなかった。
三吉は言葉を継いで、「自分の行けるところまで行ってみよう──それより外に僕は何事も考えていなかったんですネ。一方へ向いては艱難とも戦わねばならずサ。それに子供は多いと来てましょう。ホラ、あのお繁の亡くなった時には、山から書籍を詰めて持って来た茶箱を削り直して貰って、それを子供の棺にして、大屋さんと二人で寺まで持って行きました。そういう勢でしたサ。お繁が死んでくれて、反って難有かったなんて、串談半分にも僕はそんなことをお雪に話しましたよ……ところが君、今度は家のやつが鳥目などに成るサ……」
「そうそう」と正太も思出したように、「あの時はエラかった。私も新宿まで鶏肉を買いに行ったことが有りました」
「そんな思をして骨を折って、漸くまあ何か一つ為た、と思ったらどうでしょう。復たお菊が亡くなった。僕は君、悲しいなんていうところを通越して、呆気に取られて了いました──まるで暴風にでも、自分の子供を浚って持って行かれたような──」
思わず三吉はこんなことを言出した。この郊外へ引移ってから、彼の家では初めての男の児が生れていた。種夫と言った。その乳呑児を年若な下婢に渡して置いて、やがてお雪も二人の話を聞きに来た。
「どんなにか叔母さんも御力落しでしょう」と正太はお雪の方へ向いて、慰め顔に、「郷里の母からも、その事を手紙に書いて寄しました」
「菊ちゃんが死んじゃったんでは、真実にツマリません」とお雪が答える。
「此頃は君、大変な婦人が僕の家へ舞込んで来ました」と三吉が言ってみた。「──切下げ髪にして、黒い袴を穿いてネ。突然入って来たかと思うと、説教を始めました。恐しい権幕でお雪を責めて行きましたッけ」
「大屋さんの御親類」とお雪も引取って、「その人が言うには、なんでも私の信心が足りないんですッて──ですから私の家には、こんなに不幸ばかり続くんですッて──この辺は、貴方、それは信心深い処なんですよ」こう正太に話し聞かせた。
不安な眼付をしながら、三吉は家の中を眺め廻した。中の部屋の柱のところには、お房がリボンの箱などを取出して、遊びに紛れていた。三吉は思付いたように、お房の方へ立って行った。一寸、子供の額へ手を宛ててみて、復た正太の前に戻った。
その時、表の格子戸の外へ来て、何かゴトゴト言わせているものが有った。
「菊ちゃんのお友達が来た」
と言って、お雪は玄関の方へ行ってみた。しばらく彼女は上り端の障子のところから離れなかった。
「オイ、菓子でもくれて遣りナ」
と夫に言われて、お雪は中の部屋にある仏壇の扉を開けた。そして、新しい位牌に供えてあった物を取出した。近所の子供が礼を言って、馳出して行った後でも、まだお雪は耳を澄まして、小さな下駄の音に聞入った。
女学生風の袴を着けた娘がそこへ帰って来た。お延と言って、郷里から修行に出て来た森彦の総領──三吉が二番目の兄の娘である。この娘は叔父の家から電車で学校へ通っていた。
「兄さん、被入しゃい」
とお延は正太に挨拶した。従兄妹同志の間ではあるが日頃正太のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいた。
毎日のようにお雪は子供の墓の方へ出掛けるので──尤も、寺も近かったから──その日もお延を連れて行くことにした。後に残った三吉と正太とは、互に足を投出したり、寝転んだりして話した。
その時まで、正太は父の達雄のことに就いて、何事も話さなかった。遽かに、彼は坐り直した。
「まだ叔父さんにも御話しませんでしたが、漸く吾家の阿父の行衛も分りました」
こんなことを言出した。久しく居所さえも不明であった達雄のことを聞いて、三吉も身を起した。
「先日、Uさんが神戸の方から出て来まして、私に逢いたいということですから──」と言って、正太は声を低くして、「その時Uさんの話にも、阿父も彼方で教員してるそうです。まあ食うだけのことには困らん……それにしても、あんなに家を滅茶滅茶にして出て行った位ですから、もうすこし阿父も何か為るかと思いましたよ」
「あの若い芸者はどうしましたろう──達雄さんが身受をして連れて行ったという少婦が有るじゃありませんか」
「あんなものは、最早疾にどうか成って了いましたあね」
「そうかナア」
「で、叔父さん、Uさんが言うには、考えて見れば橋本さんも御気の毒ですし、ああして唯孤独で置いてもどうかと思うからして、せめて家族の人と手紙の遣取位はさせて進げたいものですッて」
「では、何かネ、君は父親さんと通信を始める積りかネ」と三吉が尋ねた。
「否」正太の眼は輝いた。「勿論──私が書くべき場合でもなし、阿父にしたところが書けもしなかろうと思います。そりゃあもう、阿父が店のものに対しては、面向の出来ないようなことをして行きましたからネ。唯、母が可哀そうです……それを思うと、母だけには内証でも通信させて遣りたい。Uさんが間に立ってくれるとも言いますから」
こういう甥の話は、三吉の心を木曾川の音のする方へ連れて行った。旧い橋本の家は、曾遊の時のままで、未だ彼の眼にあった。
「変れば変るものさネ。君の家の姉さんのことも、豊世さんのことも、君のことも──何事も達雄さんは知るまいが。ホラ、僕が君の家へ遊びに行った時分は、達雄さんも非常に勤勉な人で、君のことなぞを酷く心配していたものですがナア。あの広い表座敷で、君と僕と、よく種々な話をしましたッけ。あの時分、君が言ったことを、僕はまだ覚えていますよ」
「あの時分は、全然私は夢中でした」と正太は打消すように笑って、「しかし、叔父さん、私の家を御覧なさい──不思議なことには、代々若い時に家を飛出していますよ。第一、祖父さんがそうですし──阿父がそうです──」
「へえ、君の父親さんの若い時も、やはり許諾を得ないで修業に飛出した方かねえ」
「私だってもそうでしょう──放縦な血が流れているんですネ」
と正太は言ってみたが、祖父の変死、父の行衛などに想い到った時は、妙に笑えなかった。
やがて庭にある木犀の若葉が輝き初めた。お雪は姪と連立って、急いで帰って来た。彼女の袂の中には、娘の好きそうなものが入れてあった。買物のついでに、ある雑貨店から求めて来た毛糸だ。それをお房にくれた。
「今し方まで菊ちゃんのお墓に居たものですから、こんなに遅くなりました──延ちゃんと二人でさんざん泣いて来ました」
こうお雪は夫に言って、いそいそと台所の方へ行って働いた。
正太がこの郊外へ訪ねて来る度に、いつも叔父は仕事々々でいそがしがっていて、その日のようにユックリ相手に成ったことはめずらしかった。夕飯の仕度が出来るまで、二人は表の方の小さな部屋へ行ってみた。畠から鍬を舁いで来た農夫、町から戻って来た植木屋の職人──そういう人達は、いずれも一日の労働を終って窓の外を通過ぎる。
三吉は窓のところに立って、ションボリと往来の方を眺めながら、
「どうかすると、こういう夕方には寂しくて堪えられないようなことが有るネ──それが、君、何の理由も無しに」
「私の今日の境涯では猶更そうです──しかし、叔父さん、そういう感じのする時が、一番心は軟かですネ」
こう正太が答えた。次第に暮れかかって来た。その部屋の隅には、薄暗い壁の上に、別に小窓が切ってあって、そこから空気を導くようになっている。青白い、疲れた光線は、人知れずその小障子のところへ映っていた。正太はそれを夢のように眺めた。
夕飯はお雪の手づくりのもので、客と主人とだけ先に済ました。未だ正太は言いたいことがあって、それを言い得ないでいるという風であったが、到頭三吉に向ってこう切出した。
「実は──今日は叔父さんに御願いが有って参りました」
他事でも無かった。すこし金を用立ててくれろというので有った。これまでもよく叔父のところへ、五円貸せ、十円貸せ、と言って来て、樺太行の旅費まで心配させたものであった。
「そんなに君は困るんですか」と三吉は正太の顔を見た。「郷里の方からでも、すこし兵糧を取寄せたら可いじゃ有りませんか」
「そこです」と正太は切ないという容子をして、「なるべく郷里へは言って遣りたくない……ああして、店は店で、若い者が堅めていてくれるんですからネ」
萎れた正太を見ると、何とかして三吉の方ではこの甥の銷沈した意気を引立たせたく思った。彼はいくらかを正太の前に置いた。それがどういう遣い道の金であるとも、深く鑿って聞かなかった。
やがて正太は自分の下宿を指して帰って行った。後で、お雪は台所の方を済まして出て来て、夫と一緒に釣洋燈の前に立った。
「正太さんは、未だ、何事も為すっていらッしゃらないんでしょうか」
「どうも思わしい仕事が無さそうだ。石炭をやってみたいとか、何とか、来る度に話が変ってる。何卒して早く手足を延ばすようにして遣りたいものだネ──あの人も、橋本の若旦那として置けば、立派なものだが──」
こういう言葉を交換して置いて、夫婦は同じようにお房の様子を見に行った。
お房の発熱は幾日となく続いた。庭に向いた部屋へ子供の寝床を敷いて、その枕頭へお雪は薬の罎を運んだ。鞠だの、キシャゴだの、毛糸の巾着だの、それから娘の好きな人形なぞも、運んで行った。お房は静止していなかった。臥たり起きたりした。
ある日、三吉は町から買物して、子供の方へ戻って来た。父の帰りと聞いて、お房は寝衣のまま、床の上に起直った。そして、家の周囲に元気よく遊んでいる近所の娘達を羨むような様子して、子供らしい眼付で父の方を見た。
「房ちゃん、御土産が有るぜ」
と三吉は美しい色のリボンをそこへ取出した。彼は、食のすすまない子供の為にと思って、ミルク・フッドなども買求めて来た。
「へえ、こんな好いのをお父さんに買って頂いたの」
とお雪もそこへ来て言って、そのリボンを子供に結んでみせた。
「房ちゃんは何か食べたかネ」と三吉は妻に尋ねた。
「お昼飯に、お粥をホンのぽっちり──牛乳は厭だって飲みませんし──真実に、何物も食べたがらないのが一番心配です」
「ねえ、房ちゃん、御医者様の言うことを聞いて、早く快く成ろうねえ。そうすると、父さんが房ちゃんに好く似合うような袴を買ってくれるよ」
こう父に言われて、お房は唯黙頭いた。やがて復た横に成った。
「ああ、父さんも疲れた」と三吉は子供の側へ身体を投出すようにした。「菊ちゃんが居なくなって、急に家の内が寂しく成ったネ。ホラ、父さんが仕事をしてる時、机の前に二人並べて置いて、『父さんが好きか、母さんが好きか』と聞くと、房ちゃんは直に『父さん』と言うし──菊ちゃんの方は暫時考えていて、『父さんと母さんと両方』だトサ──あれで、菊ちゃんも、ナカナカ外交家だったネ」
「何方が外交家だか知れやしない」とお雪は軽く笑った。
病児を慰めようとして、三吉は種々なことを持出した。山に居る頃はお房もよく歌った兎の歌のことや、それからあの山の上の家で、居睡してはよく叱られた下婢が蛙の話をしたことなぞを言出した。七年の長い田舎生活の間、あの石垣の多い傾斜の方で、毎年のように旅の思をさせた蛙の声は、まだ三吉の耳にあった。それを子供に真似て聞かせた。
「ヒョイヒョイヒョイヒョイヒョイ……グッグッ……グッグッ……」
「いやあな父さん」
とお房は寝ながら父の方を見て言った。自然と出て来た微笑は僅かにその口唇に上った。
「房ちゃん、母さんが好い物を造えて来ましたよ──すこし飲んでみておくれな」
とお雪は夫が買って来たミルク・フッドを茶碗に溶かして、匙を添えて持って来た。子供は香ばしそうな飲料を一寸味ったばかりで、余は口を着けようともしなかった。その晩から、お房は一層激しい発熱の状態に陥った。何となくこの児の身体には異状が起って来た。
「真実に、串談じゃ無いぜ」
と三吉は物に襲われるような眼付をして、いかにしてもお房ばかりは救いたいということを妻に話した。不思議な恐怖は三吉の身体を通過ぎた。お雪も碌に眠られなかった。
翌々日、お房は病院の方へ送られることに成った。病み震えている娘を抱起すようにして、母は汚れた寝衣を脱がせた。そして、山を下りる時に着せて連れて来たヨソイキの着物の筒袖へ、お房の手を通させた。
「まあ、こんなに熱いんですよ」
とお雪が言うので、三吉はコワゴワ子供に触ってみた。お房の身体は火のように熱かった。
「病院へ行って御医者様に診て頂くんだよ──シッカリしておいでよ」と三吉は娘を励ました。
「母さん……前髪をとって頂戴な」
熱があっても、お房はこんなことを願って、リボンで髪を束ねて貰った。
頼んで置いた車が来た。先ずお雪が乗った。娘は、父に抱かれながら門の外へ出て、母の手に渡された。下婢は乳呑児の種夫を連れて、これも車でその後に随った。
「延、叔父さんもこれから行って見て来るからネ、お前に留守居を頼むよ」
こう三吉は姪に言い置いて、電車で病院の方へ廻ることにした。慌しそうに彼は家を出て行った。
留守には、親類の人達、近く郊外に住む友人などが、かわるがわる見舞に来た。「延ちゃん、お淋しいでしょうねえ」と庭伝いに来て言って、娘を慰める小学校の女教師もあった。子供の病が重いと聞いて、お雪は言うに及ばず、三吉まで病院を離れないように成ってからは、二番目の兄の森彦が泊りに来た。森彦は夕方に来て、朝自分の旅舎へ帰った。
相変らず家の内はシンカンとしていた。道路を隔てて、向側の農家の方で鳴く鶏の声は、午後の空気に響き渡った。強い、充実した、肥った体躯に羽織袴を着け、紳士風の帽子を冠った人が、門の前に立った。この人が森彦だ──お延の父だ。その日は、お房が入院してから一週間余に成るので、森彦も病院へ見舞に寄って、例刻よりは早く自分の娘の方へ来た。
「阿父さん」
とお延は出て迎えた。
郷里を出て長いこと旅舎生活をする森彦の身には、こうして娘と一緒に成るのがめずらしくも有った。傍へ呼んで、病院の方の噂などをする娘の話振を聞いてみた。田舎から来てまだ間も無いお延が、都会の娘のように話せないのも無理はない、などと思った。
「どうだね、お前の頭脳の具合は──此頃もここの叔父さんが、どうも延は具合が悪いようだから、暫時学校を休ませてみるなんて言った──そんな勇気の無いこっちゃ、ダチカン」
思わず森彦は郷里の方の言葉を出した。そして、旧家の家長らしい威厳を帯びた調子で、博愛、忍耐、節倹などの人としての美徳であることを語り聞かせた。久しく森彦の傍に居なかったお延は、何となく父を憚るという風で、唯黙って聞いていた。
「や、菓子をくれるのを忘れた」
と森彦は思付いたように笑って、袂の内から紙の包を取出した。やがて、家の内を眺め廻しながら、
「どうもここの家は空気の流通が好くない。此頃から俺はそう思っていた。それに、ここの叔父さんのようにああ煙草をポカポカ燻したんじゃ……俺なぞは、毎晩休む時に、旅舎の二階を一度明けて、すっかり悪い空気を追出してから寝る。すこしでも煙草の煙が籠っていようものなら、もう俺は寝られんよ」
こうお延に話した。彼は娘から小刀を借りて、部屋々々の障子の上の部分をすこしずつ切り透した。
「延──それじゃ俺はこれで帰るがねえ」
「あれ、阿父さんは最早御帰りに成るかなし」
「今日は叔父さんも一寸帰って来るそうだし──そうすれば俺は居なくても済む。丁度好い都合だった。これからもう一軒寄って行くところが有る。復た泊りに来ます」
家の方を案じて、三吉は夕方に病院から戻った。留守中、訪ねて来てくれた人達のことを姪から聞取った。
「只今」
と三吉は縁側のところへ出て呼んだ。
「オヤ、小泉さん、お帰りで御座いましたか」
庭を隔てて対い合っている裏の家からは、女教師の答える声が聞えた。
女教師は自分の家の格子戸をガタガタ言わせて出た。井戸の側から、竹の垣を廻って、庭伝いに三吉の居る方へやって来た。中学へ通う位の子息のある年配で、ハッキリハッキリと丁寧に物なぞも言う人である。
「房子さんは奈何でいらっしゃいますか。先日一寸御見舞に伺いました時も、大層御悪いような御様子でしたが──真実に、私は御気の毒で、房子さんの苦しむところを見ていられませんでしたよ」
こう女教師は庭に立って、何処か国訛のある調子で言った。その時三吉は、簡単にお房の病気の経過を話して、到底助かる見込は無いらしいと歎息した。お延も縁側に出て、二人の話に耳を傾けた。
「もし万一のことでも有りそうでしたら、病院から電報を打つ……医者がそう言ってくれるものですから、私もよく頼んで置いて、一寸用達にやって参りました」と三吉は附添した。
「まあ、貴方のところでは、どうしてこんなに御子さん達が……必と御越に成る方角でも悪かったんでしょうッて、大屋さんの祖母さんがそう申しますんですよ。そんなことも御座いますまいけれど……でも、僅か一年ばかりの間に、皆さんが皆さん──どう考えましても私なぞには解りません」と言って、女教師は思いやるように、「あのまあ房子さんが、病院中へ響けるような声を御出しなすって、『母さん──母さん──』と呼んでいらッしゃいましたが、母さんの身に成ったらどんなで御座いましょう……そう申して、御噂をしておりますんですよ」
「一週間、ああして呼び続けに呼んでいました─最早あの声も弱って来ました」と三吉は答えた。
女教師が帰って行く頃は、植木屋の草屋根と暗い松の葉との間を通して、遠く黄に輝く空が映った。三吉は庭に出た。子供のことを案じながら、あちこちと歩いてみた。
夕飯の後、三吉は姪に向って、
「延、叔父さんはこの一週間ばかり碌に眠らないんだからネ……今夜は叔父さんを休ませておくれ。お前も、頭脳の具合が悪いようなら、早く御休み」
こう言って置いて、その晩は早く寝床に就いた。
何時電報が掛って来るか知れないという心配は、容易に三吉を眠らせなかった。身体に附いて離れないような病院特別な匂いが、プーンと彼の鼻の先へ香って来た。その匂いは、何時の間にか、彼の心をお房の方へ連れて行った。電燈がある。寝台がある。子供の枕頭へは黒い布を掛けて、光の刺激を避けるようにしてある。その側には、妻が居る。附添の女が居る。種夫や下婢も居る。白い制服を着た看護婦は病室を出たり入ったりしている。未だお房は、子供ながらに出せるだけの精力を出して、小さな頭脳の内部が破壊れ尽すまでは休めないかのように叫んでいる──思い疲れているうちに、三吉は深いところへ陥入るように眠った。
翌日は、午前に三吉が留守居をして、午後からお延が留守居をした。
「叔母さん達のように、ああして子供の側に附いていられると可いけれど──叔父さんは、お前、お金の心配もしなけりゃ成らん」
こんなことを言って出て行った三吉は、やがて用達から戻って来て、復た部屋に倒れた。何時の間にか、彼は死んだ人のように成った。
「母さん──」
こういう呼声に気が付いて、三吉が我に返った頃は、遅かった。彼は夕飯後、しばらく姪と病院の方の噂をして、その晩も早く寝床に入ったが、自分で何時間ほど眠ったかということは知らなかった。次の部屋には、姪がよく寝入っている。身体を動かさずにいると、可恐しい子供の呼声が耳の底の方で聞える。「母さん、母さん、母さん──母さんちゃん──ちゃん──ちゃん──ちゃん」宛然、気が狂ったような声だ……それは三吉の耳について了って、何処に居ても頭脳へ響けるように聞えた。
夢のように、門を叩く音がした。
「小泉さん、電報!」
むっくと三吉は跳起きた。表の戸を開けて、受取って見ると、病院から打って寄したもので、「ミヤクハゲシ、スグコイ」とある。お延を起す為に、三吉は姪の寝ている方へ行った。この娘は一度「ハイ」と返事をして、復た寝て了った。
「オイ、オイ、病院から電報が来たよ」
「あれ、真実かなし」とお延は田舎訛で言って、床の上に起直った。「私は夢でも見たかと思った」
「叔父さんは直に仕度をして出掛る。気の毒だが、お前、車屋まで行って来ておくれ」
と叔父に言われて、お延は眼を擦り擦り出て行った。
三吉が家の外に出て、車を待つ頃は、まだ電車は有るらしかった。稲荷祭の晩で、新宿の方の空は明るい。遠く犬の吠える声も聞える。そのうちに車が来た。三吉は新宿まで乗って、それから電車で行くことにした。
「延、お前は独りで大丈夫かネ」
と三吉は留守を頼んで置いて出掛けた。お延は戸を閉めて入った。冷い寝床へ潜り込んでからも、種々なことを小さな胸に想像してみた時は、この娘もぶるぶる震えた。叔父が新宿あたりへ行き着いたかと思われる頃には、ポツポツ板屋根の上へ雨の来る音がした。
復た家の内は寂寞に返った。
車が門の前で停った。正太はそれから飛降りて、閉めてあった扉を押した。「延ちゃん、皆な帰って来ましたよ」正太が入口の格子戸を開けて呼んだ。それを聞きつけて、お延は周章てて出た。丁度森彦も来合せていて、そこへ顔を顕わした。
「到頭房もいけなかったかい」
「ええ、今朝……払暁に息を引取ったそうです……皆な、今、そこへ来ます」
森彦と正太とは、こう言合って、互に顔を見合せた。
間もなく三台の車が停った。お雪は乳呑児を抱いて二週間目で自分の家へ帰って来た。下婢も荷物と一緒に車を降りた。つづいて、三吉が一番年長の兄の娘、お俊も、降りた。
三吉の車は一番後に成った。日の映った往来には、お房の遊友達が立留って、ささやき合ったり、眺めたりしていた。黒い幌を掛けて静かに引いて来た車は、その娘達の見ている前で停った。
「叔父さん、手伝いましょうか」
と正太が車の側へ寄った。
お房は茶色の肩掛に包まれたまま、父の手に抱かれて来た。グタリとした子供の死体を、三吉は車から抱下して、門の内へ運んだ。
仏壇のある中の部屋の隅には、人々が集って、お房の為に床を用意した。そこへ冷くなった子供を寝かした。顔は白い布で掩うた。
「ホウ、こうして見ると、思いの外大きなものだ……どうだネ、膝は曲げて遣らなくても好かろうか」と森彦が注意した。
「子供のことですから、このままで棺に納まりましょう」と正太を眺めた。
「でも、すこし曲げて置いた方が好いかも知れません」
こう三吉は言ってみて、娘の膝を立てるようにさせた。氷のようなお房の足は最早自由に成らなかった。それを無理に折曲げた。お俊やお延は、水だの花だのを枕頭へ運んだ。丁度、お雪が二番目の妹のお愛も、学校の寄宿舎から訪ねて来た。この娘は姉の傍へ寄って、一緒に成って泣いた。
午後には、裏の女教師が勝手口から上って、子供の死顔を見に来た。
「真実に、何とも申上げようが御座いません……小泉さんは、まだそれでも男だから宜う御座んすが、こちらの叔母さんが可哀そうです」と女教師は言った。
お房が病んだ熱は、腸から来たもので無くて、実際は脳膜炎の為であった。それをお雪は女教師に話し聞かせた。白痴児として生き残るよりは、あるいはこの方が勝かも知れない、と人々は言合った。
黄色く日中に燃る蝋燭の火を眺めながら、三吉は窓に近い壁のところに倚凭っていた。
「叔父さん、お疲れでしょう」と正太は三吉の前に立った。
「なにしろ、君、初の一週間は助けたい助けたいで夜も碌に眠らないでしょう。後の一週間は、子供の側に居るのもこれぎりか、なんと思って復た起きてる……終には、半分眠りながら看護をしていましたよ。すこし身体を横にしようものなら、直にもう死んだように成って了って……」
「私なぞも、どうかすると豊世に子供でも有ったら、とそう思うことも有りますが、しかし叔父さんや叔母さんの苦むところを見ていますと、無い方が好いかとも思いますネ」
「正太さん、煙草を持ちませんか。有るなら一本くれ給えな」
正太は袂を探った。三吉は甥がくれた巻煙草に火を点けて、それをウマそうに燻してみた。葬式の準備やら、弔辞を言いに来る人が有るやらで、家の内は混雑した。三吉は器械のように起ったり坐ったりした。
葬式の日は、親類一同、小さな棺の周囲に集った。三吉が往時書生をしていた家の直樹も来た。この子息は疾に中学を卒業して、最早少壮な会社員であった。
お俊も来た。
「叔父さん、今日は吾家の阿父さんも伺う筈なんですが……伺いませんからッて、私が名代に参りました」とお俊は三吉に向って、父の実が謹慎中の身の上であることを、それとなく言った。
その日は、お愛も長い紫の袴を着けて来た。こうして東京に居る近い親類を見渡したところ、実を除いての年長者は、さしあたり森彦だ。森彦は、若い人達の発達に驚くという風で、今では学校の高等科に居るお俊や、優美な服装をしたお愛などに、自分の娘を見比べた。
正太は花を買い集めて来た。眠るようなお房の顔の周囲はその花で飾られた。「お雪、房ちゃんの玩具は一緒に入れて遣ろうじゃないか」と三吉が言えば、「そうです、有ると反って思出して不可」と正太も言って、毬だの巾着だのを棺の隅々へ入れた。
「余程毛糸が気に入ったものと見えて、眼が見えなく成っても、未だ毛糸のことを言っていました」とお雪は、病院に居る間、子供に買ってくれた物を取出した。
「それも入れて遣れ」
一切が葬られた。やがてお房は二人の妹の墓の方へ送られた。お雪は門の外へ出て、小さな棺の分らなくなるまでも見送った。「最早お房は居ない」こう思って、若葉の延びた金目垣の側に立った時は、母らしい涙が流れて来た。お雪は家の内へ入って、泣いた。
山から持って来た三吉の仕事は意外な反響を世間に伝えた。彼の家では、急に客が殖えた。訪ねて来る友達も多かった。しかし、主人は居るか居ないか分らないほどヒッソリとして、どうかすると表の門まで閉めたままにして置くことも有った。
三吉は最早、子供なぞはどうでも可いと言うことの出来ない人であった。多くの困難を排しても進もうとした努力が、どうしてこんな悲哀の種に成るだろう、と彼の眼が言うように見えた。「彼処に子供が三人居るんだ」──この思想に導かれて、幾度か彼の足は小さな墓の方へ向いた。家から墓地へ通う平坦な道路の両側には、すでに新緑も深かった。到る処の郊外の日あたりに、彼は自分の心によく似た憂鬱な色を見つけた。しかし彼は、寺の周囲を彷徨って来るだけで、三つ並んだ小さな墓を見るに堪えなかった。それを無理にも行こうとすれば、頭脳がカッと逆上せて、急に倒れかかりそうな激しい眩暈を感じた。いつでも寺の前まで行きかけては、途中から引返した。
「父さんは薄情だ。子供の墓へ御参りもしないで……」
とお雪はよくそれを言った。
寄ると触ると、家では子供の話が出た。何時の間にか三吉の心も、家のものの話の方へ行った。
お雪は姪をつかまえて、夫の傍で種夫に乳を呑ませながら、
「繁ちゃんの亡くなった時は、まだ房ちゃんは何事も知りませんでしたよ。でも、菊ちゃんの時には最早よく解っていましたッけ──あの時は皆な一緒に泣きましたもの」
「なアし」とお延も思出したように、「あれを思うと、房ちゃんが眼に見えるようだ」
「真実に、繁ちゃんの時は皆な夢中でしたよ──私が、『御覧なさいな、繁ちゃんはノノサンに成ったんじゃ有りませんか』と言えば、房ちゃんと菊ちゃんとも平気な顔して、『死んじゃったのよ、死んじゃったのよ』と言いながら、棺の周囲を踊って歩きましたよ。そして、死んだ子供の側へ行って、噴飯すんですもの」
「まあ」
「しかし、二人とも達者でいる時分には、よく繁ちゃんの御墓へ連れて行って、桑の実を摘って遣りましたッけ。繁ちゃんの桑の実だからッて教えて置いたもんですから、行くと──繁ちゃん桑の実頂戴ッて断るんですよ。そうしちゃあ、二人で頂くんです……あの御墓の後方にある桑の樹は、背が高いでしょう。だもんですから、母さん摘って下さいッて言っちゃあ……」
「オイ、何か他の話にしようじゃないか」
と三吉が遮った。子供の話が出ると、必と終には三吉がこう言出した。
「種ちゃん」お延はアヤすように呼んだ。
「この子は又、どうしてこんなに弱いんでしょう」とお雪は種夫の顔を熟視りながら言った。
蹂躙られるような目付をして、三吉も種夫の方を見た。その時、夫婦は顔を見合せた。「ひょッとかすると、この児も?」この無言の恐怖が互の胸に伝わった。三人の娘達を見た目で弱い種夫を眺めると、十分な発育さえも気遣われた。
急に日が強く映って来た。すこし湿った庭土は、熱い、黄ばんだ色を帯びた。木犀の葉影もハッキリと地にあった。三吉は帽子を手にして、そこいらを散歩して来ると言って、出て行った。
「そう言えば、繁ちゃんの肉体は最早腐って了ったんでしょうねえ」
とお雪は姪に言って、歎息した。彼女は乳呑児を抱きながら縁側のところへ出て眺めた。日光は輝いたり、薄れたりするような日であった。お延は庭へ下りた。菫の唱歌を歌い出した。それはお房やお菊が未だピンピンしている時分に、二人して家の周囲をよく歌って歩いたものである。お雪は、死んだ娘の声を探すような眼付して、一緒に低い声で歌って見た。勝手口の方でも調子を合せる声が起った。
夕方に三吉はボンヤリ帰って来た。
「何だか俺は気でも狂いそうに成って来た。一寸磯辺まで行って来る」
こう家のものに話した。その晩、急に彼は旅行を思い立った。そして、そこそこに仕度を始めた。山にある友人の牧野からは休みに来い来いと言って寄すが、その時は唯一人で、世間を忘れるようなところへ行きたかった。翌朝早く、彼は磯辺の温泉宿を指して発って行った。
「あれ、叔父さんは最早帰って御出たそうな」
とお延は入口の庭に立って言った。
お雪が生家の方で老祖母の死去したという報知は、旅にある三吉を驚かした。二三日しか彼は磯辺に逗留しなかった。電報を受取ると直ぐ急いで家の方へ引返して来た。
「種ちゃん、父さんの御帰りだよ」とお雪も乳呑児を抱きながら、夫を迎えた。
「よく、こんなに早く帰られましたネ、皆な貴方のことを心配しましたよ」
「道理で、森彦さんからも見舞の電報を寄した。どうも変だと思った──俺は又、お前の方を案じていた」
ホッと溜息を吐いて三吉は老祖母の話に移った。
この老祖母の死は、今更のように名倉の大きな家族のことを思わせた。別に竈を持った孫娘だけでも二人ある。まだ修業中の孫から、多勢の曾孫を加えたら、余程の人数に成る。お雪ばかりは、その中でも、遠く嫁いて来た方であるが、この葬式は是非とも見送りたかった。三吉は又、種夫に下婢を附けて一緒に遣るつもりで帰って来た。
「さあ、今度はお前が出掛ける番だ」と三吉が言った。「でも、俺の仕事が済んだ後で好かった……買う物があったら買ったら可かろう。何か土産も用意して行かんけりゃ成るまい」
「土産なんか要りません。一々持って行った日にゃ大変です」
お雪は妹だの、姪だのを数えてみた。
久し振で生家へ帰る妻の為にと思って、三吉は名倉の娘達の許へ何か荷物に成らない物を見立てようとした。旅費を用意したり、買物したりして、夫が町から戻って来る頃は、妻は旅仕度に忙しかった。
あわただしい中にも、種々なことがお雪の胸の中を往来した。長い年月の間、夫と艱難を共にした後で、彼女は自分の生家を見に行く人である。今まで殆んど出なかった家を出、遠く夫を離れて、両親や姉妹やそれから友達などと一緒に成りに行く人である。光る帆、動揺する波、鴎の鳴声……可懐しいものは故郷の海ばかりでは無かった。曾て、彼女が心を許した勉──その人を自分の妹の夫としても見に行く人である。
「叔母さん、御郷里へ御帰り?……御取込のところですネ」
こう言って、翌朝正太が訪ねて来た頃は、手荷物だの、子供の着物だのが、部屋中ごちゃごちゃ散乱してあった。
「正太さん、御免なさいまし」とお雪は帯を締めながら挨拶した。
「どれ、子供をここへ連れて来て見ナ」
と三吉に言われて、下婢はそこに寝かしてあった種夫を抱いて来た。
「余程気をつけて連れて行かないと、不可ぜ」
「よくああして温順しく寝ていたものだ」と正太も言った。
「まだ、君、毎日浣腸してますよ。そうしなけりゃ通じが無い……玩具でも宛行って置こうものなら、半日でも黙って寝ています。房ちゃん達から見ると、ずっとこの児は弱い」
「これで御郷里の方へでも連れていらしッたら、また壮健に成るかも知れません」
「まあ、一夏も向に居て来るんです」
「真実に叔母さんも御苦労様──女の旅は容易じゃ有りませんネ」
お雪は二人の話を聞きながら、白足袋を穿いた。「私が留守に成ったら、父さんも困るでしょうから、お俊ちゃんにでも来ていて頂くつもりです」と彼女は言った。そのうちに仕度が出来た。お雪は夫や正太と一緒に旅立の茶を飲んだ。
「種ちゃんにも、一ぱい飲まして」
とお雪は懐をひろげて、暗い色の乳首を子供の口へ宛行った。お延は車宿を指して走って行った。
甥に留守を頼んで置いて、一寸三吉は新宿の停車場まで妻子を送りに行った。帰って見ると、正太は用事ありげに叔父を待受けていた。
「正太さん、君はまだ朝飯前じゃなかったんですか。僕は言うのを忘れた」
「いえ、早く済まして来ました」
「めずらしいネ」
「私のような寝坊ですけれど、めずらしく早く起きました。下宿の膳に対って、つくづく今朝は考えました……なにしろ一年の余にも成るのに、未だこうしてブラブラしているんですからネ……」
正太は激昂するように笑った。暗い前途にいくらかの明りを見つけたと言出した。その時彼は叔父の思惑を憚るという風であったが、やや躊躇した後で、自分の行くべき道は兜町の方角より外に無い──尤も、これは再三再四熟考した上のことで、いよいよ相場師として立とうと決心した、と言出した。
何か冒険談でも聞くように、しばらく三吉は正太の話に耳を傾けていたが、やがて甥の顔を眺めて、
「しかし君、──実さんにせよ、森彦さんにせよ、皆な儲けようという人達でしょう。そういう人達が揃っていても、容易に儲からない世の中じゃ有りませんか。兜町へ入ったからッて、必ず儲かるとは限りませんぜ」
「実叔父さん達と、私とは、時代が違います」と正太は力を入れた。
「まあ僕のような門外漢から見ると、商売なり何なりに重きを置いてサ、それから儲けて出るというのが、実際の順序かと思うネ。名倉の阿爺を見給え。あの人は事業をした。そして、儲けた。どうも君等のは儲けることばかり先に考えて掛ってるようだ……だから相場なんて方に思想が向いて行くんじゃ有りませんか」
「そこです。私は相場を事業として行ります。一寸手を出してみて、直ぐまた止めて了うなんて、そんな行き方をする位なら、初から私は関係しません……先ず店員にでも成って、それから出発するんです……私は兜町に骨を埋める覚悟です……」
「それほどの決心があるなら、君の思うように行って見るサ。僕は君、何でも行りたか行れという流儀だ」
「そう叔父さんに言って頂くと、私も難有い──森彦叔父さんなぞは何と言うか知らないが……」
森彦の方へ行けば森彦のように考え、三吉の許へ来れば三吉のように考えるのが、正太の癖であった。丁度、この植木屋の地内に住む女教師の夫というは、兜町方面に明るい人である。で、正太は話を進めて叔父からその人に口を利いて貰うように、こう頼んだ。
何となく不安な空気を残して置いて、甥は帰って行った。「正太さんも本気で行る積りかナア」と三吉は言ってみて、とにかく甥のために、頼めるだけのことは頼もうと思った。その日の午後、三吉は庭伝いに女教師の家の横を廻って、沢山盆栽鉢の置並べてあるところへ出た。植木屋の庭の一部は、やがて女教師の家の庭であった。子息の中学生は三脚椅子に腰掛けて、何かしきりと写生していた。
女教師の旦那というは、官吏生活もしたことの有るらしい人で、今では兜町に隠れて、手堅くある店を勤めていた。三吉は一ぱい物の散乱してある縁側のところへ行って、この阿爺さんとも言いたい年配の人の前に立った。
「アアそうですか。宜しい。承知しました」と女教師の旦那は、心易い調子で、三吉から種々聞取った後で言った。「橋本さんなら、私も御見掛申して知っています。御年齢は何歳位かナ」
「私より三つ年少です」
「むむ、未だ御若い。これから働き盛りというところだ。御気質はどんな方ですか──そこも伺って置きたい」
「そうですナア。ああして今では浪人していますが、一体華美なことの好きな方です」
「それでなくッちゃ不可──相場師にでも成ろうという者は、人間が派手でなくちゃ駄目です。では、私の許まで簡単な履歴書をよこして下さい。宜しい。一つ心当りを問合せてみましょう」
女教師の旦那は引受けてくれた。
甥のことを頼んで置いて、自分の家へ引返してから、三吉は不取敢正太へ宛てて書いた。その時は姪のお延と二人ぎりであった。
「叔母さん達も、最早余程行ったわなアし」とお延は、叔父の傍へ来て、旅の人達の噂をした。
「こんな機会でもなければ、叔母さんだって置いて行かれるもんじゃない──今度出掛けたのは、叔母さんの為にも好い」
こう三吉は姪に言い聞かせた。彼は、自分でも、何卒して子を失った悲哀を忘れたいと思った。
諸方の学校が夏休に成る頃、お俊は叔父の家を指して急いで来た。妹のお鶴も姉に随いて来た。叔父が家の向側には、農家の垣根のところに、高く枝を垂れた百日紅の樹があった。熱い、紅い、寂しい花は往来の方へ向って咲いていた。
お俊は妹と一緒に格子戸を開けて入った。
「あら、お俊姉さま──」
とお延は飛立つように喜んで迎えた。お俊姉妹と聞いて、三吉も奥の方から出て来た。
「叔父さん。もっと早く御手伝いに伺う筈でしたが、つい学校の方がいそがしかったもんですから──」とお俊が言った。「延ちゃん一人で、さぞ御困りでしたろう」
「真実に、鶴ちゃんもよく来て下すった」とお延は嬉しそうに。
「今日は一緒に連れて参りました、学校が御休だもんですから」
「へえ、鶴ちゃんの方は未だ有るのかい」と三吉が聞いた。
「この娘の学校は御休が短いんです……あの、吾家の阿父さんからも叔父さんに宜しく……」
「お俊姉さまが来て下すったんで、真実に私は嬉しい」とお延はそれを繰返し言った。
長い長い留守居の後で、お俊姉妹は漸く父の実と一緒に成れたのである。この二人の娘は叔父達の力と、母お倉の遣繰とで、僅かに保護されて来たようなものであった。三吉がはじめて家を持つ時分は、まだお俊は小学校を卒業したばかりの年頃であった。それがこうして手伝いなぞに来るように成った。お俊は幾年振かで叔父の側に一夏を送りに来た。
「鶴ちゃん、お裏の方へ行って見ていらっしゃい」とお俊が言った。
「鶴ちゃんも大きく成ったネ」
「あんなに着物が短く成っちゃって──もうズンズン成長るんですもの」
お鶴はキマリ悪そうにして、笑いながら庭の方へ下りて行った。
「俊、お前のとこの阿父さんは何してるかい」
「まだ何事もしていません……でも、朝なぞは、それは早いんですよ。今まで家のものにサンザン苦労させたから、今度は乃公が勤めるんだなんて、阿父さんが暗いうちから起きてお釜の下を焚付けて下さるんです……習慣に成っちゃって、どうしても寝ていられないんですッて……阿母さんが起出す時分には、御味噌汁までちゃんと出来てます……」
「それを思うと気の毒でもあるナ」
「阿母さん一人の時分には、家の内だってそう関わなかったんですけれど、阿父さんが帰っていらしッたら、何時の間にか綺麗に片付いちまいました──妙なものねえ」
庭の方で笑い叫ぶ声がした。お鶴は滑って転んだ。お延は駈出して行った。お俊も笑いながら、妹の着物に附いた泥を落してやりに行った。
その晩、三吉の家では、めずらしく賑かな唱歌が起った。娘達は楽しい夏の夜を送る為に集った。暗い庭の方へ向いた部屋には、叔父が冷しい夜風の吹入るところを選んで、独り横に成っていた。叔父は別に燈火も要らないと言うので、三人の姪の居るところだけ明るい。一つにして隅の方に置いた洋燈の光は、お鶴が白い単衣だの、お俊が薄紅い帯だのに映った。
「鶴ちゃん、叔父さんに遊戯をしてお見せなさいよ」とお俊がすすめた。
「何にしましょう……」とお鶴は考えて、「もしもし亀よにしましょうか」
「浦島が好いわ」
旧い小泉の家──その頽廃と零落との中から、若草のように成長した娘達は、叔父に聞かせようとして一緒に唱歌を歌い出した。お鶴は編み下げた髪のリボンを直して、短い着物の皺を延しながら起立った。姉や従姉妹が歌う種々な唱歌につれて、この娘は部屋の内を踊って遊んだ。
三吉は縁側の方から眺めながら、
「ウマい、ウマい──何か、御褒美を出さんけりゃ成るまい」
「鶴ちゃん、もう沢山よ」
と姉に言われても、妹は遊戯に夢中に成った。一つや二つでは聞入れなかった。
一晩泊ってお鶴は帰って行った。翌日から勝手の方では、若々しい笑声が絶えなかった。四五日降ったり晴れたりした後で、烈しい朝日が射して来た。暑く成らないうちに、と思って、お俊は井戸端へ盥を持出した。お延も手桶を提げて、竹の垣を廻った。長い袖をまくって、洗濯物を始めたお俊の側には、お延が立って井戸の水を汲んだ。
「ああ、今日は朝から身体が菎蒻のように成っちゃった。牛蒡のようにピンとして歩けん──」
こんなことをお延が言って、年長の従姉妹を笑わせた。お俊は釣瓶の水を分けて貰って復たジャブジャブ洗った。
庭には物を乾す余地が可成広くあった。やがてお俊は洗濯した着物を長い竿に通して、それを高く揚げた。
「うれしい!」
思わず彼女は叫んだ。お延は立って眺めていた。
「学校の先生が、夏休の間に考えていらッしゃいという問題を、ひょいと思出してよ」
こうお俊が話し聞かせて、お延と一緒に勝手口から上った。二人は意味もなく起って来る微笑を交換した。互に、濡れた、あらわな手を拭いた。
空は青い海のように光った。イヤというほど照りつけて来た日光は、白い干物に反射して、家の内に満ち溢れた。午後から、娘達は思い思いの場所を選んで足を投出したり、柱に倚凭ったりした。三吉は、南の窓に近く、ハンモックを釣った。そこへ蒸されるような体躯を載せた。熱い地の息と、冷しい風とが妙に混り合って、窓を通して入って来る。単調な蝉の歌は何時の間にか彼の耳を疲れさせた。
憂鬱な眼付をして、三吉が昼寝から覚めた時は、虻にでも刺されたらしい疼痛を覚えた。お俊は髪に塗る油を持って来て、それを叔父に勧めた。
「延ちゃん──まあ、来て御覧なさいよ」とお俊が笑いながら呼んだ。「三吉叔父さんはこんなに白髪が生えてよ」
お延は勝手の方から手を振ってやって来た。
「オイ、オイ」と三吉は自分の子供にでも戯れるように言った。「そうお前達のように馬鹿にしちゃ困るぜ……これでも叔父さんは金鵄勲章の積りだ」
「あんな負惜みを言って」とお延は訳も無しに笑った。
「ねえ、延ちゃん、有れば仕方が無いわ」と言って、お俊は叔父の傍へ寄って、「叔父さん、ジッとしていらッしゃい──抜いて進げましょうネ。前の方はそんなでも無いけれど、鬢のところなぞは、一ぱい……こりゃ大変だ……容易に取尽せやしないわ」
お俊は叔父の髪に触れて、一本々々択り分けた。凋落を思わせるような、白い、光ったやつが、どうかすると黒い毛と一緒に成って抜けて来た。
「叔父さん、どうしてこんなに髪がこわれるんでしょう」
勝手の方から来たお俊は、叔父の傍へ寄って、親しげな調子で言った。この姪は三吉を頼りにするという風で、子が親に言うようなことまで話して聞かせようとした。
「どうして夏はこんなに──」
と復たお俊は言って、うしろむきに身を斜にして見せた。彼女は、乾きくずれた束髪の根を掴んで、それを叔父に動かして見せたりなぞした。
庭の洗濯物も乾いた。二人の姪は屋外に出て着物や襦袢を取込みながら、互に唱歌を歌った。この半分夢中で合唱しているような、何となく生気のある、浮々とした声は、叔父の心を誘った。三吉は縁側のところに立って、乾いた着物を畳んでいる娘達の無心な動作を眺めた。そして、お雪や正太の細君なぞに比べると、もっとずっと嫩い芽が、最早彼の周囲に頭を持ち上げて来たことを、めずらしく思った。
蘇生るような空気が軒へ通って来た。夕方から三吉は姪を集めて、遠く生家の方に居るお雪の噂を始めた。表の方の農家でも往来へ涼台を持出して、夏の夜風を楽しむらしかった。ジャン拳で負けて氷を買いに行ったお延は、やがて戻って来た。お俊はコップだの、砂糖の壺だのを運んだ。
「皆なに御馳走するかナ」
と三吉は、赤い葡萄酒の残りを捜出して、それを砕いた氷にそそいだ。
お俊の娘らしい話は、手紙のことに移って行った。切手を故意に倒まに貼るのは敵意をあらわすとか、すこし横に貼るのは恋を意味するとか、そんなことを言出す。敵意のあるものなら、手紙を遣取するのも少し変ではないか、こう叔父が混返したのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「叔父さんなんか、そういうことはよく知っていらッしゃるくせに」
と軽く笑って、それからお俊は彼女が学校生活を叔父に語り始めた。三吉は時々、手にしたコップを夜の燈火に透かして見ながら、「そうかナア」という眼付をして、耳を傾けていた。
「私は涅槃という言葉が大好よ」とお俊は冷そうに氷を噛んで言った。
「あら、いやだ」とお延はコップの中を掻廻して、「それじゃ、お俊姉さまのことを、これから涅槃と……」
「涅槃ッて、何だか音からして好いわ」
こんなことからお俊の話は解けて、よく学校の裏手にある墓地へ遊びに行くことを言出した。そこの古い石に腰掛け、落葉の焼けるにおいを嗅ぎながら、読書するのが彼女の楽みであると言出した。
「学校の先生が──小泉さん、貴方は誰にも悪まれないが、そのかわり人に愛される性質で反って不可──貴方は余程シッカリしていないといけません、その為に苦労することが有るからッて……」
こう言いかけて、お俊は癖のように着物の襟を掻合せて、
「叔父さんやなんかのことは、自分の身に近い人ですから解りませんがネ……私の知ってる人で、一人も心から敬服するという人は無いのよ。あの人はエライ人だとか、何だとか言われる人でも、私は直にその人の裏面を見ちゃってよ──妙に、私には解るの──解るように成って来るの」
お延は叔父と従姉妹の顔を見比べた。
「私は二十五に成ったら、叔父さんに自分の通過して来たことを話しましょう。よく小説にいろいろなことが書いてあるけれど、自分の一生を考えると、あんなことは何でも無いわ。私の遭遇って来たことは、小説よりも、もっともっと種々なことが有る」
「そんなら、今ここで承りましょう」と三吉は半分串談のように。
「いいえ」
「二十五に成って話すも、今話すも、同じことじゃないか」
「もっと心が動かないように成ったら、その時は話します……今はまだ、心が動いてて駄目よ」
しばらくお俊の話は途切れた。暗い、静かな往来の方では、農家の人達が団扇をバタバタ言わせる音がした。
「しかし、叔父さんが私を御覧なすッたら、さぞ馬鹿なことを言ってると御思いなさるでしょうねえ」
「どういたして」
「必とそうよ」
「しかし」と三吉は姪の方を眺めながら、「お前がそんなオシャベリをする人だとは、今まで思わなかった──今夜、初めて知った」
「私はオシャベリよ──ねえ、延ちゃん」と言って、お俊はすこし羞じらった顔を袖で掩うた。
両国の花火のあるという前の日は、森彦からも葉書が来て、お俊やお延は川開に行くことを楽みに暮した。
翌日の新聞は、隅田川の満潮と、川開の延期とを伝えた。水嵩が増して危いという記事は、折角翹望けた娘達をガッカリさせた。そうでなくても、朝から冷しい夏の雨が降って、出掛けられそうな空模様には見えなかった。
「延は?」と三吉がお俊に聞いた。
「裏の叔母さんのとこでしょう」
女教師の通う小学校も休に成ってからは、「叔母さん、叔母さん」と言って、毎日のようにお延は遊びに行った。
庭の草木も濡れて復活った。毎日々々の暑で、柔軟い鳳仙花なぞは竹の垣のもとに長い葉を垂れて、紅く咲いた花も死んだように成っていたが、これも雨が来て力を得た。三吉は縁側に出て、ションボリと立っていた。
「叔父さん──何故私が墓場が好きですか、それを御話しましょうか」
こうお俊が言出した。三吉は部屋へ戻って、心地の好い雨を眺めながら、姪の話を聞いた。
お俊の言おうとすることは、彼女の若い、悲しい生涯を思わせるようなものであった。十六の年に親しい友に死別れて、それから墓畔のさまよいを楽むように成ったことや、ある時はこの世をあまり浅猿しく思って、死ということまで考えたが、母と妹のある為に思い直したこと、自分は苦労というものに逢いにこの世へ生れて来たのであろう、というようなことなぞが、この娘の口からきれぎれに出て来た。
「私は、どんなことがあっても、自分の性質だけは曲げたくないと思いますわ……でも、ヒネクレて了やしないか、とそればかり心配しているんですけれど……」
と言って、ややしばらく沈思した後で、
「しかし、私が今まで遭遇って来たことの中で、唯一つだけ叔父さんに話しましょうか」
こんなことを言出した。
お俊は、附添して、母より外にこの事件を知るものがないと言った。その口振で、三吉には、親戚の間に隠れた男女の関係ということだけ読めた。誰がこの娘に言い寄ろうとしたか、そんな心当りは少しも無かった。
「大抵叔父さんには解りましたろうネ」
「解らない」三吉は首を振った。「何か又、お前が誤解したんだろう──雲を烟と間違えたんじゃないか」
お俊の眼からは涙が流れて来た。彼女は手で顔を掩うて、自分の生涯を思い出しては半ば啜泣くという風であった。一寸縁側へ出て見て、復た叔父の方へ来た。
「叔父さんは……正太兄さんをどういう人だとお思いなすって……兄さんは叔父さんが信じていらッしゃるような人でしょうか」
三吉は姪の顔を熟視った。「──お前の言うのは正太さんのことかい」
「私が二十五に成ったら、叔父さんに御話しましょうって言いましたろう。それよ。その一つよ。豊世姉さんがこんな話を御聞きなすったら、どんな顔を成さるでしょう……可厭だ、可厭だ……私は一生かかって憎んでも足りない……」
「ああ、なんだか変な気分に成って来た。何だって、そんな可厭な話をするんだ」
「だって、叔父さんが鑿って聞くんですもの」
三吉は「そうかナア」という眼付をして、黙って了った。
「ね、もっと他の好い話をしましょう」
とお俊は微笑んで見せて、窓のある部屋の方へ立って行った。そこから手紙を持って来た。
「多分叔父さんはこの手紙を書いた人を御存じでしょう」
姪が出して来て見せたものは、手紙と言っても、純白な紙の片にペンで細く書いた僅かな奥床しい文句であった。「君のように香の高い人に遭遇ったことは無い、これから君のことを白い百合の花と言おう」唯それだけの意味が認めてある。サッパリしたものだ。別に名前も書いて無いが、直樹の手だ。
「今までも兄さんでしたから、だから真実の兄さんになって頂いたの──それでおしまい」とお俊は言葉を添えた。
この「それでおしまい」が三吉を笑わせた。
正太でも、直樹でも娘達は同じように「兄さん」と呼んでいた。一方は従兄弟。一方は三吉が恩人の子息というだけで、親戚同様にしていたが、血統の関係は無かった。区別する為に正太兄さんとか、直樹兄さんとか言った。三吉も、その時に成って、いろいろ知らなかったことを知った。
実──お俊の父は、三吉とお雪とが夫婦に成ってから、始めて弟の家に来て見た。旧い小泉を相続したこの一番年長の兄が、暗い悲酸な月日を送ったのも、久しいものだ。彼が境涯の変り果てたことは、同じ地方の親しい「旦那衆」を見ても知れる。一緒に種々な事業を経営した直樹の父は、彼の留守中に亡くなった。意気相投じた達雄は、最早拓落失路の人と成った。
とは言え、留守中彼の妻子が心配したほど、実は衰えて見えなかった。彼は兄弟中で一番背の高い人で、体格の強壮なことは父の忠寛に似ていた。小泉の家に伝って、遠い祖先の慾望を見せるような、特色のある大きな鼻の形は、彼の容貌にもよく表れていた。顔の色なぞはまだ艶々としていた。
この兄が三吉の部屋へ通った。丁度、娘達は家に居なかった。三吉は長火鉢の置いてあるところへ行って、自分で茶を入れた。それを兄の前へ持って来た。
一生の身の蹉跌から、実は弟達に逢うことを遠慮するような人である。未だ森彦には一度も逢わずにいる。三吉に逢うのは漸く二度目である。
「俊は?」と実が自分の娘のことを聞いた。
「一寸新宿まで──延と二人で買物に行きました」
「御留守居がウマク出来るかナ」
「ええ、好く遣ってくれます。今日は二人に、浴衣を一枚ズツ奢ってやることにしました」
「それは大悦びだろう。お前のとこでも、子が幾人も死んで、随分不幸つづきだったナ。しかし世の中のことは、何でも深く考えては不可。淡泊に限る。乃公はその主義サ──家内のことでも──子供のことでも──自分のことでも」
こんな調子で、あだかも繁華な街衢を歩く人が、右に往き、左に往きして、他を避けようとするように、実はなるべく弟に触るまい触るまいとしていた。彼は弟の手を執って過去の辛酸を語ろうともしなければ、留守中何程の迷惑を掛けたろうと、深くその事を詫びるでもなかった。唯、旧家の家長が目下の者に対するような風で、冷飯の三吉と向い合っていた。
金の話は余計に兄の矜持を傷けた。病身な宗蔵──三吉などが「宗さん、宗さん」と言っている兄──この人は今だに他所へ預けられていて、実が世話すべき家族の一人ではあるが、その方へも三吉には金を出させていた。種々余分な工面もさせた上に、復た兄は金策を命じに来た。
「実はNさんのところから、四十円ばかり借りた。いずれ三吉の方で返しますから、と言って、時に借りて来た。これは是非お前に造って貰わにゃ成らん」
当惑顔な弟が何か言おうとしたのを実は遮った。彼は細く書いた物を取出した。これだけの家具を四十円で引取ると思ってくれ、と言出した。それには、箪笥、膳、敷物、巻煙草入、その他徳利、盃洗などとしてあった。
「頼む」
と兄は無理にも承諾させて、そこそこに弟の家を出た。
「留守中は御苦労だったとか、何とか……それでも一言ぐらい挨拶が有りそうなものだナア」
こう三吉は、独語のように言って、嘆息した。尤も、兄が言えないことは、三吉も承知していた。
お俊はお延と一緒に、風呂敷包を小脇に擁えながら帰った。包の中には、ある呉服屋から求めて来た反物が有った。
「叔父さんに買って頂いたのを、お目に懸けましょう」
と娘達は言い合って、流行の浴衣地を叔父の前に置いた。目うつりのする中から、思い思いに見立てて来た涼しそうな中形を、叔父に褒めて貰う積りであった。
「何だって、こんな華美なものを買って来るんだね」
と叔父は気に入らなかった。
「豊世姉さんだって随分華美なものを着るわねえ」
こうお俊が従姉妹に言った。三吉はそれを聞いて、何故小泉の家が今日のように貧乏に成ったろうとか、何故娘達がそれを思わないだろうとか、何故旧い足袋を穿いていても流行を競うような量見に成るだろうとか、種々なヤカマしいことを言出した。
「でも、こういうもので無ければ、私に似合わないんですもの」
とお俊は萎れた。
やがて三吉は機嫌を直して、お俊の父が金策の為に訪ねて来たことを話し聞かせた。その時お俊は自分の家の方の噂をした。丁度彼女が帰って行った日は、公売処分の当日であったこと、ある知人に頼んで必要な家具は買戻して貰ったこと──執達吏──高利貸──古道具屋──その他生活のみじめさを思わせるような言葉がこの娘の口から出た。
三吉は家の内をあちこちと歩いた。最後の波に洗われて行く小泉の家が彼の眼に浮んだ。破産又た破産。幾度も同じ事を繰返して、その度に実の集めた道具は言うに及ばず、母が丹精して田舎で織った形見の衣類まで、次第に人手に渡って了った。実の家では、長い差押の仕末をつけた上で、もっと屋賃の廉いところへ引移る都合である。
話が両親のことに移ると、お俊は眼の縁を紅くした。彼女は涙なしに語れなかった。
「──母親さんには、どうしても詫びることが出来ない。『母親さん、御免なさいよ』と口にはあっても……首は下げても……どうしても言葉には出て来ない」
こんなことまで叔父に打開けて、済まないとは思いつつ、耳を塞いで、試験の仕度したことなどをも語った。話せば話すほど、お俊は涙が流れて来た。そして、娘らしい、涙に濡れた眼で、数奇な運命を訴えるように、叔父の顔を見た。
その晩、遅くなって、お俊は独りで屋外へ出て行った。
「叔父さん、お俊姉さまは?」お延が聞いた。
「葉書でも出しに行ったんだろう」
と三吉が答えていると、お俊はブラリと戻って来て、表の戸を閉めて入った。
「お俊姉さまは屋外で泣いてた」
「あら、泣きやしないわ」
「叔父さんは?」
「今まで縁側に腰掛けていらしってよ」
こう娘達は言い合って、洋燈のもとで針仕事をひろげていた。翌る晩のことである。
お俊はお延の着物を縫っていた。お延は又、時々従姉妹の方を眺めて、自分の着物がいくらかずつ形を成して行くことを嬉しそうにしていた。来る花火の晩には、この新しい浴衣を着て、涼しい大川の方へ行って遊ぼう、その時は一緒に森彦の旅舎へ寄ろう、それから直樹の家を訪ねよう──それからそれへと娘達は楽みにして話した。
曇った空ながら、月の光は地に満ちていた。三吉は養鶏所の横手から、雑木林の間を通って、ずっと岡の下の方まで、歩きに行って来た。明るいようで暗い樹木の影は、郊外の道路にもあった。植木屋の庭にもあった。自分の家の縁側の外にもあった。帰って来て、復た眺めていると、姪達はそろそろ寝る仕度を始めた。
「叔父さん、お先へお休み」
と言いに来て、二人とも蚊帳の内へ入った。叔父は独りで起きていた。
楽しい夜の空気はすべての物を包んだ。何もかも沈まり返っていた。樹木ですら葉を垂れて眠るように見えた。妙に、彼は眠られなかった。一旦蚊帳の内へ入って見たが、復た這出した。夜中過と思われる頃まで、一枚ばかり開けた戸に倚凭っていた。
短い夏の夜が明けると、最早立秋という日が来た。生家に居るお雪からは手紙で、酷しい暑さの見舞を書いて寄した。別に二人の姪へ宛てて、留守中のことはくれぐれも宜しく頼む、と認めてあった。
その日、お俊はすこし心地が悪いと言って、風通しの好い処へ横に成った。物も敷かずに枕をして、心臓のあたりを氷で冷した。お延は、これも鉢巻で、頭痛を苦にしていた。
三吉は子供でも可傷るように、
「叔父さんは、病人が有ると心配で仕様が無い」
「御免なさいよ」
とお俊は半ば身を起して、詫びるように言った。
死んだ子供の墓の方へは、未だ三吉は行く気に成らないような心の状態にあった。時々彼は空な懐をひろげて、この世に居ない自分の娘を捜した……彼の虚しい手の中には、何物も抱締めてみるようなものが無かった……朝に晩に傍へ来る娘達が、もし自分の真実の子供ででもあったら……この考えはすこし彼を呆れさせた。死んだお房のかわりに抱くとしては、お俊なぞは大き過ぎたからである。
近所の人達は屋外へ出た。互に家の周囲へ水を撒いた。叔父が跣足で庭へ下りた頃は、お俊も気分が好く成ったと言って、台所の方へ行って働いた。夕飯過に、三吉は町から大きな水瓜を買って戻って来た。思いの外お俊も元気なので、叔父は安心して、勉めてくれる娘達を慰めようとした。燈火を遠くした縁側のところには、お俊やお延が団扇を持って来て、叔父と一緒に水瓜を食いながら、涼んだ。
女教師の家へも水瓜を分けて持って行ったお延は、やがて庭伝いに帰って来た。
「裏の叔父さんがなし、面白いことを言ったデ──『ああ、ああ、峯公(女教師の子息)も独りで富士登山が出来るように成ったか、して見ると私が年の寄るのも……』どうだとか、こうだとか──笑って了ったに」
お延の無邪気な調子を聞くと、お俊は笑った。
何時の間にか、月の光が、庭先まで射し込んで来ていた。お延は早く休みたいと言って、独りで蚊帳の内へ入った。夜の景色が好さそうなので、三吉は前の晩と同じように歩きに出た。お俊も叔父に随いて行った。
朝の膳の用意が出来た。お延は台所から熱いうつしたての飯櫃を運んだ。お俊は自分の手で塩漬にした茄子を切って、それを各自の小皿につけて持って来た。
三吉は直ぐ箸を執らなかった。例になく、彼は自分で自分を責めるようなことを言出した。「実に、自分は馬鹿らしい性質だ」とか、何だとか、種々なことを言った。
「これから叔父さんも、もっとどうかいう人間に成ります」
こう三吉はすこし改まった調子で言って、二人の姪の前に頭を下げた。
お俊やお延は笑った。そして、叔父の方へ向いて、意味もなく御辞儀をした。
漸く三吉は箸を執り上げた。ウマそうな味噌汁の香を嗅いだ。その朝は、よく可笑しな顔付をして姪達を笑わせる平素の叔父とは別の人のように成った。死んだ子供等のことを思えば、こうして飯を食うのも難有いことの──実の家族が今日あるは、主に森彦の力である、お俊なぞはそれを忘れては成らないことの──朝飯の済んだ後に成っても、まだ叔父は娘達に説き聞かせた。
こういう尤もらしいことを言っている中にも、三吉が狼狽てた容子は隠せなかった。彼は窓の方へ行って、往来に遊んでいる子供等の友達、餌を猟り歩く農家の鶏などを眺めながら、前の晩のことを思ってみた。草木も青白く煙るような夜であった。お俊を連れて、養鶏所の横手から彼の好きな雑木林の道へ出た。月光を浴びながら、それを楽んで歩いていると、何処で鳴くともなく幽かな虫の歌が聞えた。その道は、お房やお菊が生きている時分に、よく随いて来て、一緒に花を摘ったり、手を引いたりして歩いたところである。不思議な力は、不図、姪の手を執らせた。それを彼はどうすることも出来なかった。「こんな風にして歩いちゃ可笑しいだろうか」と彼が串談のように言うと、お俊は何処までも頼りにするという風で、「叔父さんのことですもの」と平素の調子で答えた。この「こんな風にして歩いちゃ可笑しいだろうか」が、彼を呆れさせた。
「馬鹿!」
三吉は窓のところに立って、自分を嘲った。
お俊やお延は中の部屋に机を持出した。「お雪叔母さん」のところへ手紙を書くと言って、互に紙を展げた。別に、お俊は男や女の友達へ宛てて送るつもりで、自分で画いた絵葉書を取出した。それをお延に見せた。
お延はその絵葉書を机の上に並べて見て、
「お俊姉さま、私にも一枚画いておくんなんしょや」
と従姉妹の技術を羨むように言った。
お俊に絵画を学ぶことを勧めたのは、もと三吉の発議であった。彼女の母親は、貧しい中にも娘の行末を楽みにして、画の先生へ通うことを廃めさせなかった。幾年か彼女は花鳥の模倣を習った。三吉の家に来てから、叔父は種々な絵画の話をして聞かせて、直接に自然に見ることを教えようとした。次第に叔父はそういう話をしなく成った。
庭の垣根のところには、鳳仙花が長く咲いていた。やがてお俊はそれを折取って来た。萎れた花の形は、美しい模様のように葉書の裏へ写された。その色彩がお延の眼を喜ばせた。
「叔父さん、見ちゃ厭よ」
とお俊は、傍へ来た叔父の方を見て、自分の画いた絵葉書を両手で掩うた。
学校の友達の噂から、復たお俊の話は引出されて行った。彼女は日頃崇拝する教師のことを叔父に話した。学校の先生に言わせると、この世には十の理想がある、それを合せると一つの大きな理想に成る──七つまでは彼女も考えたが、後の三つはどうしても未だ思い付かない、この夏休はそれで頭脳を悩している。こんなことを言出した。お俊は附添して、丁度先生は「吾家の祖父さん」のような人だと言った。先生と忠寛とは大分違うようだ、と三吉が相手に成ったのが始まりで、お俊は負けずに言い争った。
「へえ、お前達はそんな夢を見てるのかい」
と叔父は言おうとしたが、それを口には出さなかった。彼は幅の広い肩を動って、黙って自分の部屋の方へ行って了った。
夜が来た。
屋外は昼間のように明るい。燐のような光に誘われて、復た三吉は雑木林の方まで歩きに行きたく成った。お俊は叔父に連れられて行った。
やがて、三吉達が散歩から戻って来た頃は、最早遅かった。表の農家では戸を閉めて了った。往来には、大きな犬が幾つも寝そべって頭を持上げたり、耳を立てたりしていた。中には月あかりの中を馳出して行くのもあった。三吉は姪を庇護うようにして、その側を盗むように通った。表の門から入って、金目垣と窓との狭い間を庭の方へ抜けると、裏の女教師の家でも寝た。三吉の家の方へ向いた暗い窓は、眼のように閉じられていた。
深い静かな晩だ。射し入る月の光は、縁側のところへ腰掛けた三吉の膝を照らした。お俊は、従姉妹の側へ寝に行ったが、眼が冴えて了って眠られないと言って、白い寝衣のままで復た叔父の側へ来た。
急に犬の群が竹の垣を潜って、庭の中へ突進して来た。互に囓合ったり、尻尾を振ったりして、植木の周囲を馳けずり廻って戯れた。ふと、往来の方で仲間の吠える声が起った。それを聞いて、一匹の犬が馳出して行った。他の犬も後を追って、復た一緒に馳出して行った。互に鳴き合う声が夜更けた空に聞えた。
「真実に──寝て了うのは可惜いような晩ねえ」
と言って、考え沈んだ姪の側には、叔父が腰掛けて、犬の鳴声を聞いていた。叔父は犬のように震えた。
「まだ叔父さんは起きていらしッて?」とそのうちにお俊が尋ねた。
「アア叔父さんに関わずサッサと休んどくれ」
と言われて、お俊は従姉妹の方へ行った。三吉は独りで自分の身体の戦慄を見ていた。
翌朝になると、復た三吉は同じようなことを二人の姪の前で言った。「叔父さんも心を入替えます」とか、「俺もこんな人間では無かった積りだ」とか、言った。
「どうしたと言うんだ──一体、俺はどうしたと言うんだ」
と彼は自分で自分に言って見て、前の晩もお俊と一緒に歩いたことを悔いた。
容易に三吉が精神の動揺は静まらなかった。彼は井戸端へ出て、冷い水の中へ手足を突浸したり、乾いた髪を湿したりして来た。
「オイ、叔父さんの背中を打って見ておくれ」
こう言ったので、娘達は笑いながら叔父の背後へ廻った。
「どんなに強くても宜う御座んすか」とお俊が聞いた。
「可いとも。お前達の力なら……背中の骨が折れても関わない」
「後で怒られても困る」とお延は笑った。
叔父は娘達に吩咐けて、「もうすこし上」とか、「もうすこし下」とか言いながら、骨を噛まれるような身体の底の痛みを打たせた。
日延に成った両国の川開があるという日に当った。お俊やお延は、森彦の旅舎へも寄ると言って、午後の三時頃から出掛る仕度をした。そこへお俊の母お倉が訪ねて来た。お倉は、夫が頼んで置いた金を受取りに来たのであった。
「母親さん、御免なさいよ──着物を着ちまいますから」
とお俊は母に挨拶した。お延も従姉妹の側で新しい浴衣に着更えた。
お倉は三吉の前に坐って、娘の方を眺めながら、
「三吉叔父さんに好いのを買って頂いたネ。叔母さんの御留守居がよく出来るかしらん、そう言って毎日家で噂をしてる……学校の御休の間に、叔父さんの側に居て、種々教えて頂くが好い……」
三吉は嫂と姪の顔を見比べた。
「真実に、御役にも立ちますまい。黙って見ていないで、ズンズン世話を焼いて下さい」
「母親さん、鶴ちゃんはどうしていて?」とお俊が立って身仕度をしながら尋ねた。
「アア、鶴ちゃんも毎日勉強してる」
こうお倉は答えながら、娘の方へ行って、帯を締る手伝いをしたり、台所の方まで見廻りに行ったりした。
「叔父さん、リボンを見ておくんなんしょ」とお延が三吉の傍へ来た。
「私のも、似合いまして?」とお俊も来て、うしろむきに身を斜にして見せた。
三吉は約束の金を嫂の前に置いた。お倉はそれを受取って、帯の間へ仕舞いながら、宗蔵の世話料をも頼むということや、正太がちょいちょい遊ぶということや、それから自分の夫が今度こそは好く行って貰わなければ成らないということなどを話し込んだ。
娘達は最早花火の音が聞えるという眼付をした。そこまでお倉を送って行こう、と催促した。
「母親さんは煙草を忘れて来た。一寸叔父さんに一服頂いて」
お倉は弟が出した巻煙草に火を点けて、橋本の姉もどうしているかとか、大番頭の嘉助も死んだそうだとか、豊世を早く呼寄せるようにしなければ、正太の為にも成らないとか、それからそれへと話した。
「母親さん、早く行きましょうよ」とお俊はジレッタそうに。
「アア、今行く」と言って、お倉は弟の方を見て、「今度という今度は、それでも吾夫も懲りましたよ。私がツケツケ言うもんですからネ、『お前はイケナい奴に成った、今まではもっと優しい奴だと思っていた』なんて、吾夫がそう言って笑うんですよ……でも、貴方、今までのような大きな量見でいられると、失敗するのは眼に見えています。どの位私達が苦労をしたか分りませんからネ──真実に、三吉さんなぞは堅くて好い」
三吉は額へ手を当てた。
間もなくお倉は、種々と娘の世話を焼きながら、連立って出て行った。
両国橋辺の混雑を思わせるような夕方が来た。三吉は燈火も点けずに、薄暗い部屋の内に震えながら坐っていた。何となく可恐しいところへ引摺込まれて行くような、自分の位置を考えた。今のうちに踏留まらなければ成らない、と思った。しばらく忘れていた妻のことも彼の胸に浮んだ。次第に家の内は暗く成った。遠く花火の上る音がした。
「残暑きびしく候ところ、御地皆々さまには御機嫌よく御暮し遊ばされ候由、目出度ぞんじあげまいらせ候。ばば死去の節は、早速雪子御遣わし下され、ありがたく存じ候。御蔭さまにて法事も無事に相済み、その節は多勢の客などいたし申し候。それもこれも亡き親の御蔭と存じまいらせ候。さて雪子あまり長く引留め申し、おん許様には何角御不自由のことと御察し申しあげ候。俊子様、延子様にも御苦労相掛け、まことに御気の毒とは存じ候えども、何分にも斯のお暑さ、それに種夫さん同道とありては帰りの旅も案じられ候につき、今すこしく冷しく相成り候まで当地に逗留いたさせたく、私より御願い申上げ〓(まいらせそろ)。何卒々々悪しからず御思召下されたく候──」
三吉が名倉の母から手紙を受取った頃は、何となく空気も湿って秋めいて来た。お俊は叔父の側へ来て、余計に忸々しく言葉を掛けた。
「叔父さん、今何事も用が有りませんが、肩が凝るなら、按摩さんでもして進げましょうか」
「沢山」
「すこし白髪を取って進げましょうネ」
「沢山」
「叔父さんは今日はどうかなすって?」
「どうもしない──叔父さんを関わずに置いておくれ──お前達はお前達の為ることを為ておくれ──」
例になく厭い避けるような調子で言って、叔父が机に対っていたので、お俊はまた何か機嫌を損ねたかと思った。手持不沙汰に、勝手の方へ引返して行った。
「お俊姉様──兄様が御出たぞなし」
とお延が呼んだ。
直樹が来た。相変らず温厚で、勤勉なのは、この少壮な会社員だ。シッカリとした老祖母が附いているだけに、親譲りの夏羽織などを着て、一寸訪ねて来るにも服装を崩さなかった。三吉のことを「兄さん、兄さん」と呼んでいるこの青年は年寄にも子供にも好かれた。
叔父は娘達を直樹と遊ばせようとしていた。こうして郊外に住む三吉は、自分で直樹の相手に成って、この弟のように思う青年の口から、下町の変遷を聞こうと思うばかりでは無かった。彼は二人の姪を直樹の傍へ呼んだ。黒い土蔵の反射、紺の暖簾の香──そういうものの漂う町々の空気がいかに改まりつつあるか、高い甍を並べた商家の繁昌がいかに昔の夢と変りつつあるか、曾て三吉が直樹の家に書生をしている時分には、名高い大店の御隠居と唄われて、一代の栄華を極め尽したような婦人も、いかに寄る年波と共に、下町の空気の中へ沈みつつあるか──こういう話を娘達にも聞かせた。
「俊、大屋さんの庭の方へ、直樹さんを御案内したら可かろう」
と叔父に言われて、お俊は花の絶えない盆栽棚の方へ、植木好な直樹を誘った。お延も一緒に随いて行った。
若々しい笑声が庭の樹木の間から起った。三吉は縁側に出て聞いた。無垢な心で直樹や娘達の遊んでいる方を、楽しそうに眺めた。彼は、自分の羞恥と悲哀とを忘れようとしていた。
やがて娘達は、庭の鳳仙花を摘って、縁側のところへ戻って来た。白いハンケチをひろげて、花や葉の液を染めて遊んだ。鳳仙花は水分が多くて成功しなかった。直樹は軒の釣荵の葉を摘って与えた。お俊は鋏の尻でトントン叩いた。お延の新しいハンケチの上には、荵の葉の形が鮮明に印された。
暮れてから直樹は帰って行った。三吉は二人の姪に吩咐けて、新宿近くまで送らせた。
「俊は?」
ある日の夕方、三吉は台所の方へ行って尋ねた。お延は茄子の皮を剥いていた。
「姉様かなし、未だ帰って来ないぞなし」とお延は流許に腰掛けながら答えた。
一寸お俊は自分の家まで行って来ると言って、出た。帰りが遅かった。
「何とかお前に云ったかい」と叔父が心配そうに聞いた。
お延は首を振って、復た庖丁を執り上げた。茄子の皮は爼板の上へ落ちた。
待っても待ってもお俊は帰らなかった。夕飯が済んで、燈火が点いても帰らなかった。八時、九時に成っても、未だ帰らなかった。
「必と今夜は泊って来る積りだ」
と言って見て、三吉は表の門を閉めに行った。掛金だけは掛けずに置いた。十時過ぎまで待った。到頭お俊は帰らなかった。
次第に三吉は恐怖を抱くように成った。いつもお俊が風呂敷包の置いてあるところへ行ってみると、着物だの、書籍だのは、そのままに成っているらしい。三吉はすこし安心した。自分の部屋へ戻った。
「俊は最早帰って来ないんじゃないか」
夜が更けるに随って、こんなことまで考えるように成った。
壁には、お房の引延した写真が額にして掛けてある。洋燈の光がその玻璃に映った、三吉は火の影を熟と視つめて、何をお俊が母親に語りつつあるか、と想像してみた。近づいて見れば、叔父の三吉も、従兄弟の正太とそう大した変りが無い……低い鋭い声で、こう語り聞かせているだろうか。それは唯考えてみたばかりでも、暗い、遣瀬ない心を三吉に起させた。
「俊はまた、何を間違えたんだ。俺はそんな積りじゃ無いんだ」
臆病な三吉は、こうすべてを串談のようにして、笑おうと試みた。「叔父さん、叔父さん」と頼みにして来て、足の裏を踏んでくれるとか、耳の垢を取ってくれるとか、その心易だてを彼はどうすることも出来なかったのである。「結婚しない前は、俺もこんなことは無かった」こう嘆息して、三吉は寝床に就いた。
翌朝、お俊は帰って来た。彼女は別に変った様子も見えなかった。
「どうしたい」
と叔父はお延の居るところで聞いた。彼は心の中で、よく帰って来てくれたと思った。
「なんだか急に父親さんや母親さんの顔が見たく成ったもんですから……突然に家へ帰ったら、皆な驚いちゃって……」
こう答えるお俊の手を、お延は娘らしく握った。お俊は皆なに心配させて気の毒だったという眼付をした。
漸く三吉も力を得た。日頃義理ある叔父と思えばこそ、こうして働きに来てくれると、お俊の心をあわれにも思った。
その日から、三吉はなるべく姪を避けようとした。避けようとすればするほど、余計に巻込まれ、蹂躙られて行くような気もした。彼は最早、苦痛なしに姪の眼を見ることが出来なかった。どうかすると、若い女の髪が蒸されるとも、身体が燃えるともつかないような、今まで気のつかなかった、極く極く幽かな臭気が、彼の鼻の先へ匂って来る。それを嗅ぐと、我知らず罪もないものの方へ引寄せられるような心地がした。この勢で押進んで行ったら、自分は畢竟どうなる……と彼は思って見た。
「俺は、もう逃げるより他に仕方が無い」
到頭、三吉はこんな狂人じみた声を出すように成った。
二人の前垂を持った商人らしい男が、威勢よく格子戸を開けて入って来た。一人は正太だ。今一人は正太が連れて来た榊という客だ。
「今日は」
と正太はお俊やお延に挨拶して置いて、連と一緒に叔父の部屋へ通った。
お俊は茶戸棚の前に居た。客の方へ煙草盆を運んで行った従姉妹は、やがて彼女の側へ来た。
「延ちゃん、貴方持って行って下さいな──私が入れますからネ」
と言って、お俊は茶を入れた。
客の榊というは、三島の方にある大きな醤油屋の若主人であった。不図したことから三吉は懇意に成って、この人の家へ行って泊ったことも有った。十年も前の話。榊なら、それから忘れずにいる旧い相識の間柄である。唯、正太と一緒に来たのが、不思議に三吉には思えた。そればかりではない、醤油蔵の白壁が幾つも並んで日に光る程の大きな家の若主人が、東京に出て仮に水菓子屋を始めているとは。加に、若い細君が水菓子を売ると聞いた時は、榊が戯れて言うとしか三吉には思われなかった。
「現に、私が買いに行きました」と正太が言出した。「私もネ、しばらく気分が悪くて、伏枕っていましたから、何か水気のある物を食べたいと思って買わせに遣るうちに……どうも話の様子では、普通の水菓子を売る家の内儀さんでは無い。聞いてみると、御名前が榊さんだ。小泉の叔父の話に、よく榊さんということを聞くが……もしや……と思って、私が自分で買いに行ってみました。果して叔父さんの御馴染の方だ。それから最早こんなに御懇意にするように成っちゃったんです」
「橋本君とはスッカリお話が合って了って」と言って、榊は精悍な眼付をして、「先生──何処でどういう人に逢うか、全く解りませんネ」
榊の「先生」は口癖である。
正太は時々お俊の方を見た。「叔父さん、種々御心配下さいましたが、裏の叔父さんから頼んで頂いた方はウマく行きませんでした。そのかわり、他の店に口がありそうです。実は榊君も私と同じように兜町を狙っているんです」
その日の正太は元気で、夏羽織なぞも新しい瀟洒としたものを着ていた。「今にウンと一つ働いて見せるぞ」と彼の男らしい、どこか苦味を帯びた眼付が言った。彼は勃々とした心を制えかねるという風に見えた。
話の最中、三吉はこの甥の顔を眺めていると、
「あれ、兄さんがいけません」
と鋭く呼ぶ姪の声を耳の底の方で聞くような気がした。
「丁度ここに同じような人間が二人揃ったというものです」と榊は三吉と正太の顔を見比べた。「そう言っちゃ失敬ですが、橋本君だっても……御国の方で大きくやっていらしッたんでしょう……僕も、まあ、言って見れば、似たような境遇なんです」
正太は良家に育った人らしい手で、膝の前垂を直して見た。
「ねえ、橋本君、そうじゃ有りませんか」と榊は言葉を継いで、「これから二人で手を携えて大に行ろうじゃ有りませんか。僕もネ、今の水菓子屋なぞはホンの腰掛ですから、あの店は畳みます。いずれ家内は郷里の方へ帰します」
「多分、榊君の方が、私よりは先にある店へ入ることに成りましょう」と正太は叔父に話した。
三島にある城のような家、三吉が寝た二階、入った風呂、上って見た土蔵、それから醤油を醸す大きな桶が幾つも並んでいた深い倉──そういうものはどう成ったか。榊はそれを語ろうともしなかった。唯、前途を語った。やがて、若々しい、爽快な笑声を残して、正太と一緒に席を立った。
玄関のところで、正太はお俊から帽子を受取りながら、
「延ちゃん、頭脳の具合は?」
「ええ、もうスッカリ癒った」とお延は無邪気に笑った。
「お医者様が病気でも何でも無いッて、そう仰ったら、延ちゃんは薬を服むのもキマリが悪く成ったなんて」とお俊は笑って、正太の方を見ずに、お延の方を見た。
「静かな田舎から、こういう刺激の多い都会へ出て来るとネ」と正太も庭へ下りてから言った。
叔父、甥、姪などの交換した笑声は、客の耳にも睦まじそうに聞えた。お延は自分が笑われたと思ったかして、袖で顔を隠した。お俊は着物の襟を堅く掻合せていた。
郊外の道路には百日紅の花が落ちた。一夏の間、熱い寂しい思をさせた花が、表の農家の前には、すこし色の褪めたままで未だ咲いていた。実が住む町のあたりは祭の日に当ったので、お俊はお延を連れて、泊りがけに行く仕度をした。
「叔父さん、晩召上る物は用意して置きましたから」とお俊が言った。
「よし、よし、二人とも早くおいで。叔父さんが御留守居する──俺は独りでノンキにやる」
こう答えて、三吉はいくらかの小使を娘達にくれた。
二人の姪は明日の七夕にあたることなどを言合って、互に祭の楽しさを想像しながら、出て行った。娘達を送出して置いて、三吉はぴッたり表の門を閉めた。掛金も掛けて了った。
窓のところへ行くと、例の紅い花が日に萎れて見える。そのうちに三吉は窓の戸も閉めて了った。家の内は、寺院にでも居るようにシンカンとして来た。
「これで、まあ、漸く清々した」
と手を揉みながら言ってみて、三吉は庭に向いた部屋の方へ行った。
九月の近づいたことを思わせるような午後の光線は、壁に掛かった子供の額を寂しそうに見せた。そこには未だお房が居る。白い蒲団を掛けた病院の寝台の上に横に成って、大きな眼で父の方を見ている。三吉はその額の前に立った。光線の反射の具合で、玻璃を通して見える子供の写真の上には、三吉自身が薄く重なり合って映った。彼は自分で自分の悄然とした姿を見た。
三吉は独りで部屋の内を歩いた。静かに過去ったことを胸に浮べた。この一夏の留守居は、夫と妻の繋がれている意味をつくづく思わせた。彼は、結婚してからの自分が結婚しない前の自分で無いに、呆れた。由緒のある大きな寺院へ行くと、案内の小坊主が古い壁に掛った絵の前へ参詣人を連れて行って、僧侶の一生を説明して聞かせるように、丁度三吉が肉体から起って来る苦痛は、種々な記憶の前へ彼の心を連れて行ってみせた。そして、家を持った年にはこういうことが有った、三年目はああいうことが有った、と平素忘れていたようなことを心の底の方で私語いて聞かせた。それは殊勝気な僧侶の一代記のようなものでは無かった。どれもこれも女のついた心の絵だ。隠したいと思う記憶ばかりだ。三吉は、深く、深く、自分に呆れた。
遠く雷の音がした。夏の名残の雨が来るらしかった。
「只今」
お雪は種夫を抱きながら、車から下りた。下婢も下りた。
「叔父さん、叔母さんが御帰りですよ」
と二人の姪は、叔父を呼ぶやら、叔母の方へ行くやらして、門の外まで出て迎えた。二つの車に分けて載せてある手荷物は、娘達が手伝って、門の内へ運んだ。
「どうも長々難有う御座いました」
と娘達に礼を言いながら、お雪は入口のところで車代を払って、久し振で夫や姪の顔を見た。
「種ちゃんもお腹が空いたでしょう。先ず一ぱい呑みましょうネ」
とお雪が懐をひろげた。三吉は子供のウマそうに乳を呑む音を聞きながら、「ああ、好いところへお雪が帰って来てくれた」と思った。
娘達は茶を入れて持って来た。お雪は乾いた咽喉を霑して、旅の話を始めた。やがて、汽船宿の扱い札などを貼付けた手荷物が取出された。
「父さん、済みませんが、この鞄を解いてみて下さいな。お俊ちゃん達に進げる物がこの中に入っている筈です──生家の父親さんはこんなに堅く荷造りをしてくれて」
こうお雪が言った。
幾年振かで生家の方へ行ったお雪は、多くの親戚から送られた種々な土産物を持って帰って来た。これは名倉の姉から、これは㋤の姉から、これは〓(「ひとがしら/ナ」)の妹から、とそこへ取出した。㋤は彼女が二番目の姉の家で、〓(「ひとがしら/ナ」)は妹のお福の家である。「名倉母より」とした土産がお俊やお延の前にも置かれた。
この荷物のゴチャゴチャした中で、お雪は往復の旅を混合ぜて夫に話した。
「私が生家へ着きますとネ、しばらく父親さんは二階から下りて来ませんでしたよ。そのうちに下りて来て、台所へ行って顔を洗って、それから挨拶しました。父親さんは私の顔を見ると、碌に物も言えませんでした……」
「余程嬉しかったと見えるネ」
「よくこんなに早く仕度して来てくれたッて、後でそう言って喜びました。私が行くまで、老祖母さんの葬式も出さずに有りましたッけ」
お雪の話は帰路のことに移って行った。出発の日は、姉妹から親戚の子供達まで多勢波止場に集って別離を惜んだこと、妹のお福なぞは船まで見送って来て、漕ぎ別れて行く艀の方からハンケチを振ったことなぞを話した。お雪は又、やや躊躇した後で、帰路の船旅を妹の夫と共にしたことを話した。
「へえ、勉さんが一緒に来てくれたネ」と三吉が言った。
「商法の方の用事があるからッて、〓(「ひとがしら/ナ」)が途中まで送って来ました」
お雪が勉のことを話す場合には、「福ちゃんの旦那さん」とか、「〓(「ひとがしら/ナ」)」とか言った。なるべく彼女は旧いことを葬ろうとしていた。唯、親戚として話そうとしていた。それを三吉も察しないでは無かった。彼の方でも、唯、親戚として話そうとしていた。
旅の荷物の中からは、お雪が母に造って貰った夏衣の類が出て来た。ある懇意な家から餞別に送られたという円みのある包も出て来た。
まだ客のような顔をして、かしこまっていた下婢は、その包を眺めて、
「〓(「ひとがしら/ナ」)さんがそれを間違えて、『何だ、これは、水瓜なら食え』なんて仰有って、船の中で解いて見ましたッけ……」
「青い花瓶……」
とお雪は笑った。
勉には、三吉も直接に逢っていた。以前彼が名倉の家を訪ねた時に、既に名のり合って、若々しい、才気のある、心の好さそうな商人を知った。
「どれ、御線香を一つ上げて」
とお雪は仏壇の方へ行って、久し振で小さな位牌の前に立った。土産の菓子や果物などを供えて置いて、復た姪の傍へ来た。
「真実にお俊ちゃんも、御迷惑でしたろうねえ──さぞ、東京はお暑かったでしょうねえ──」
「ええ、今年の暑さは別でしたよ」
「彼地もお暑かったんですよ」
こんな言葉を親しげに交換しながら、お雪は家の内を可懐しそうに眺め廻した。彼女は、左の手の薬指に、細い、新しい指輪なども嵌めていた。
そのうちにお雪は旅で汚れた白足袋を脱いだ。彼女は台所の方へ見廻りに行って、自分が主に成って働き始めた。
お俊が叔父や叔母に礼を述べて、自分の家をさして帰って行ったのは、それから二三日過ぎてのことであった。「すっかり私は叔父さんの裏面を見ちゃってよ──三吉叔父さんという人はよく解ってよ」こう骨を刳るような姪の眼の光を、三吉は忘れることが出来なかった。それを思う度に、人知れず彼は冷い汗を流した。彼は、最早以前のように、苦痛なしに自分を考えられない人であった。同時に、他をも考えられなく成って来た。家の生活で結び付けられた人々の、微妙な、陰影の多い、言うに言われぬ深い関係──そういうものが重苦しく彼の胸を圧して来た──叔父姪、従兄妹同志、義理ある姉と弟、義理ある兄と妹……
三吉が家の横手にある養鶏所の側から、雑木林の間を通り抜けたところに、草地がある。緩慢な傾斜は浅い谷の方へ落ちて、草地を岡の上のように見せている。雑木林から続いた細道は、コンモリとした杉の木立の辺で尽きて、そこから坂に成った郊外の裏道が左右に連なっている。馬に乗った人なぞがその道を通りつつある。
武蔵野の名残を思わせるような、この静かな郊外の眺望の中にも、よく見れば驚くべき変化が起っていた。植木畠、野菜畠などはドシドシ潰されて了った。土は掘返された。新しい家屋が増えるばかりだ。
三吉はこの草地へ来て眺めた。日のあたった草の中では蟋蟀が鳴いていた。山から下りて来たばかりの頃には、お菊はまだ地方に居る積りで、「房ちゃん、御城址へ花摘りに行きましょう」などと言って、姉妹で手を引き合いながら、父と一緒に遊びに来たものだった。お繁は死に、お菊は死に、お房は死んだ。三吉は、何の為に妻子を連れてこの郊外へ引移って来たか。それを思わずにいられなかった。つくづく彼は努力の為すなきを感じた。
遠い空には綿のような雲が浮んだ。友人の牧野が住む山の方は、定めし最早秋らしく成ったろうと思わせた。三吉は眺め佇立んで、更に長い仕事を始めようと思い立った。
新宿の方角からは、電車の響が唸るように伝わって来る。丁度、彼が寂しい田舎に居た頃、山の上を通る汽車の音を聞いたように、耳を敧立てて町の電車の響を聞いた。山から郊外へ、郊外から町へ、何となく彼の心は響のする方へ動いた。それに、子供等の遊友達を見ると、思出すことばかり多くて、この静かな土地を離れたく成った。彼は町の方へ家を移そうと考えた。そのゴチャゴチャした響の中で、心を紛したり、新規な仕事の準備に取掛ったりしようと考えた。
家を指して、雑木林の間を引返して行くと、門の内に家の図を引いている人がある。やはりこの郊外に住む風景画家だ。お雪は入口のところに居て、どの窓がどの方角にあるなどと話し聞かせていた。
風景画家は洋服の袖隠から磁石を取出した。引いた図の方角をよく照らし合せて見て、ある家相を研究する人のことを三吉に話した。あまり子が死んで不思議だ、家相ということも聞いてみ給え、これから家を移すにしても方角の詮議もしてみるが可い、こう言って、猶この家の図は自分の方から送って置く、と親切な口調で話して行った。
「ああいう画を描く人でも、方角なぞを気にするかナア」
と三吉は言ってみたが、しかし家の図までも引いて行ってくれる風景画家の志は難有く思った。
お雪は夫の方を見て、
「貴方のように関わなくても困る。人の言うことも聞くもんですよ。山を発つ時にも、日取が悪いから、一日延ばせというものを無理に発ったりなんかして、だからあんな不幸が有るなんて、後で近所の人に言われたりする……それはそうと、何だか私はこの家に居るのが厭に成った」
こう言う妻の為にも、三吉は家を移そうと決心した。
信心深い植木屋の人達は又、早く三吉の去ることを望んだ。何か、彼が禍を背負って、折角新築した家へケチを付けにでも来たように思っていた。それを聞くにつけても、三吉は早く去りたかった。
外濠線の電車は濠に向った方から九月の日をうけつつあった。客の中には立って窓の板戸を閉めた人もあった。その反対の側に腰掛けた三吉は、丁度家を探し歩いた帰りがけで、用達の都合でこの電車に乗合わせた。彼は森彦の旅舎へも寄る積りであった。
昇降する客に混って、二人の紳士がある停留場から乗った。
「小泉君」
とその紳士の一人が声を掛けた。三吉は幾年振かで、思いがけなく大島先生に逢った。
割合に込んだ日で、大島先生は空いたところへ行って腰掛けた。三吉と反対の側に乗ったが、連があるのと、客を隔てたのとで、互に言葉も替さなかった。二人は黙って乗った。
大島先生は、一夏三吉が苦しんだ熱い思を、幾夏も経験したような人であった。細君に死別れてから、先生は悲しい噂ばかり世に伝えられるように成った。改革者のような熱烈な口調で、かつて先生が慷慨したり痛嘆したりした声は、皆な逆に先生の方へ戻って行った。正義、愛、美しい思想──そういう先生の考えたことや言ったことは、残らず葬られた。正義も夢、愛も夢、美しい思想も夢の如くであった。唯、先生には変節の名のみが残った。昔親切によく世話をして遣った多くの後輩の前にも、先生は黙って首を垂れて、「鞭韃て」と言わないばかりの眼付をする人に成った。旧い友達は大抵先生を捨てた。先生も旧い友達を捨てた。
以前に比べると、大島先生はずっと肥った。服装なども立派に成った。しかし以前の貧乏な時代よりは、今日の方が幸福であるとは、先生の可傷しい眼付が言わなかった。
この縁故の深い、旧時恋しい人の前に、三吉は考え沈んで、頭脳の痛くなるような電車の響を聞いていた。先生の書いたもので思出す深夜の犬の鳴声──こんな突然に起って来る記憶が、懐旧の情に混って、先生のことともつかず、自分のことともつかず、丁度電車の窓から見える人家の窓や柳の葉のように、三吉の胸に映ったり消えたりした。
そのうちに、三吉は大島先生の側へ行って腰掛けることが出来た。先生は重い体躯を三吉の方へ向けて、手を執らないばかりの可懐しそうな姿勢を示したが、昔のようには語ろうとして語られなかった。
「オオ、鍛冶橋に来た」
と先生はあわただしく起立って、窓から外の方の市街を見た。
「もう御降りに成るんですか」と三吉も起上った。
「小泉君、ここで失敬します」
という言葉を残して置いて、大島先生は電車から降りた。
「吾儕に媒酌人をしてくれた先生だったけナア」
こう思って、三吉が見送った時は、酒の香にすべての悲哀を忘れようとするような寂しい、孤独な人が連の紳士と一緒に柳の残っている橋の畔を歩いていた。
電車は通り過ぎた。
「小泉さんはおいでですか」
三吉は森彦の旅舎へ行って訪ねた。そこでは内儀さんが変って、女中をしていた婦人が丸髷に結って顔を出した。
電話口に居た森彦は、弟の三吉と聞いて、二階へ案内させた。部屋にはお俊も来合せていた。森彦は電話の用を済まして、別の楼梯から上って来た。
三吉はお俊と不思議な顔を合せた。殊に厳格な兄の前では、いかにも姪の女らしい黙って視ているような様子がツラかった。彼は、夏中手伝いに来ていて貰った時のような、親しい、楽々とした気分で、この娘と対い合うことが出来なかった。何となく堅くなった。
「森彦叔父さん、私は学校の帰りですから」とお俊が催促するように言った。
「そうかい。じゃ着物は宜しく頼みます。母親さんにそう言って、可いように仕立てて貰っておくれ」
旅舎生活する森彦は着物の始末をお俊の家へ頼んだ。お俊は長い袴の紐を結び直して、二人の叔父に別れて行った。
漸く三吉は平常の調子に返って、一日家を探し歩いたことを兄に話した。直樹が家の附近は、三吉も少年時代から青年時代へかけての記憶のあるところで、同じ町中を択ぶとすれば、なるべく親戚や知人にも近く住みたい。それには、旧時直樹の家に出入した人の世話で、一軒二階建の家を見つけて来た。こんな話をした。
「時に、延もお愛ちゃんの学校へ通わせることにしました」と三吉が言った。「その方があの娘の為めにも好さそうです」
森彦は自分の娘が兄の娘に負けるようでは口惜しいという眼付をした。
「まあ、学校の方のことは、お前に任せる……俺の積りでは、延に語学をウンと遣らせて、外交官の細君に向くような娘を造りたいと思っていた。行く行くは洋行でもさせたい位の意気込だった……」
「娘の性質にもありますサ」
「俺の娘なら、もうすこし勇気が有りそうなものだ。存外ヤカなもんだ」
と森彦は田舎訛を交えて、自分の子が自分の自由に成らないに、歎息した。
「実さんの家でも越すそうじゃ有りませんか」
「そうだそうな。どうも兄貴にも困りものだよ。一応俺に相談すればあんな真似はさせやしなかった。その為に俺の仕事まで、どれ程迷惑を蒙ったか知れない。ああいう兄貴の弟だ──直ぐそれを他に言われる。実に、油断も間隙もあったもんじゃ無い。どうだ、そのうちに一度兄貴の家へ集まるまいか。どうしても東京に置いちゃ不可……満洲の方にでも追って遣らにゃ不可……今度行ったら、俺がギュウという目に逢わせてくれる」
小泉の家の名誉と、実の一生とを思うのあまり、森彦は高い調子に成って行った。この兄は、充実した身体の置場所に困るという風で、思わず言葉に力を入れた。その飛沫が正太にまで及んで行った。兜町で儲けようなどとは、生意気な、という語気で話した。正太は幼少の頃、この兄の手許へ預けられたことが有るので、どうかすると森彦の方ではまだ子供のように思っていた。
部屋の障子の開いたところから、青桐の葉が見える。一寸三吉は廊下へ出て、町々の屋根を眺めた。
「お前が探して来た家は、二階があると言ったネ。二階も好いが、子供にはアブナイぞ。橋本の仙(正太の妹)なぞは幼少い時分に楼梯から落ちて、それであんな風に成った──夫婦は二階で寝ていて知らなかったという話だ──」
「でも、お仙さんは、房ちゃんと同じ病気をしたと云うじゃ有りませんか」
「何でも俺はそういう話を聞いた」
三吉は森彦の前へ戻って、眼に見えない二階の方を見るように、しばらく兄の顔を見た。
間もなく三吉はこの二階を下りた。旅舎を出てから、「よく森彦さんは、ああして長く独りで居られるナア」と思ってみた。電車で新宿まで乗って、それから樹木の間を歩いて行くと、諸方の屋根から夕餐の煙の登るのが見えた。三吉は家の話を持って、妻子の待っている方をさして急いだ。
家具という家具は動き始めた。寝る道具から物を食う道具まで互に重なり合って、門の前にある荷車の上に積まれた。
「種ちゃん、彼方のお家の方へ行くんですよ」
とお雪は下婢の背中に居る子供に頭巾を冠せて置いて、庭伝いに女教師の家や植木屋へ別れを告げに行った。こうして、思出の多い家を出て、お雪は夫より一足先に娘達の墳墓の地を離れた。
町中にある家へ、彼女が子供や下婢と一緒に着いた時は、お延が皆なを待受けていた。そこは、往時女髪結で直樹の家へ出入して、直樹の母親の髪を結ったという老婆が見つけてくれた家であった。その老婆の娘で、直樹の父親の着物なぞを畳んだことのある人が、今では最早十五六に成る娘から「母親さん」と言われる程の時代である。極く近く住むところから、その人達が土瓶や湯沸を提げて見舞に来てくれた。お雪は手拭を冠ったり脱ったりした。
静かな郊外に住慣れたお雪の耳には、種々な物売の声が賑かに聞えて来た。勇ましい鰯売の呼声、豆腐屋の喇叭、歯入屋の鼓、その他郊外で聞かれなかったようなものが、家の前を通る。表を往ったり来たりする他の主婦で、彼女のように束髪にした女は、殆んど無いと言っても可い。この都会の流行に後れまいとする人々の髪の形が、先ず彼女を驚かした。
実の家からは、例の箪笥や膳箱などを送り届けて来た。いずれも東京へ出て来てからの実の生活の名残だ。大事に保存された古い器物ばかりだ。お雪はそれを受取って、自分の家の飾りとするのも気の毒に思った。
夫は荷物と一緒に着いた。
「こういうところで、田舎風の生活をして見るのも面白いじゃないか」
と三吉はお雪に言った。お雪はよく働いた。夕方までには、大抵に家の内が片付いた。荷車に積んで来たゴチャゴチャした家具は何処へ納まるともなく納まった。改まった畳の上で、お雪は皆なと一緒に、楽しそうに夕飯の膳に就いた。
暮れてから、かわるがわる汗を流しに行った女達は、あまり風呂場が明る過ぎてキマリが悪い位だった、と言って帰って来た。下婢は眼を円くして飛んで来て、「この辺では、荒物屋の内儀さんまで三味線を引いています」とお雪に話した。長唄や常磐津が普通の家庭にまで入っていることは、田舎育ちの下婢にめずらしく思われたのである。
「延ちゃん、一寸そこまで見に行って来ましょう」
とお雪は姪を誘った。
郊外の夜に比べると、数えきれないほどの町々の灯がお雪の眼にあった。紅──青──黄──と一口に言って了うことの出来ない、強い弱い種々な火の色が、そこにも、ここにも、都会の夜を照らしていた。お雪と姪とは、互に明るく映る顔を見合せた。二人は手を引き合って歩いた。戻りがけに、町中を流れる暗い静かな水を見た。お雪は直樹の家に近く引移って来たことを思った。
三吉は最早響の中に居た。朝の騒々しさが納まった頃は、電車の唸りだの、河蒸汽の笛だのが、特別に二階の部屋へ響いて来た。
「叔父さん、障子張りですか」
と言いながら、正太が楼梯を上って来た。正太は榊と相前後して、兜町の方へ通うことに成った。
「相場師が今頃訪ねて来ても好いのかね」と三吉は笑って、張った障子を壁に立掛けた。
「いえ、私はまだ店へ入ったばかりで、お客さまの形です。今ネ、一寸場を覗いて、それから廻って来ました」
正太は叔父の側で一服やって、袂から細い打紐を取出した。叔父の家にある額の釣紐にもと思って、途中から買求めて来たのである。彼はこういうことに好く気がついた。
壁には田舎屋敷の庭の画が掛けてあった。正太はその釣紐を取替えて、結び方も面白く掛直してみた。その画は、郊外に住む風景画家の筆で、三吉に取っては忘れ難い山の生活の記念であった。
三吉は額を眺めて、旧いことまでも思出したように、
「Sさんもどうしているかナア」
と風景画家の噂をした。正太はずっと以前、染物織物なぞに志して、その為に絵画を修めようとしたことが有る位で、風景画家の仕事にも興味を持っていた。
「Sさんには、この節は稀にしか逢わない」と三吉は嘆息しながら、「何となく友達の遠く成ったのは、悲しいようなものだネ」
「オヤ、叔父さんはああして近く住んでいらしッたじゃ有りませんか」
「それがサ……この画をSさんが僕に描いてくれた時分は、お互に山の上に居て、他に話相手も少いしネ、毎日のようによく往来しましたッけ。僕が田圃側なぞに転がっていると、向の谷の方から三脚を持った人がニコニコして帰って来る──途次二人で画や風景の話なぞをして、それから僕がSさんの家へ寄ると、写生を出して見せてくれる、どうかすると夜遅くまでも話し込む──その家の庭先がこの画さ。あの時分は実に楽しかった……二度とああいう話は出来なく成って了った……」
「友達は多くそう成りますネ」
「何故そんな風に成って来たか──それが僕によく解らなかったんです。Sさんとは何事も君、お互に感情を害したようなことが無いんだからネ。不思議でしょう。実は、此頃、ある友達の許へ寄ったところが、『小泉君──Sさんが君のことをモルモットだと言っていましたぜ』こう言いますから、『モルモットとは何だい』と僕が聞いたら、大学の試験室へ行くと医者が注射をして、種々な試験をするでしょう。友達がモルモットで、僕が医者だそうだ──」
正太は噴飯した。
「まあ、聞給え。考えて見ると、成程Sさんの言うことが真実だ。知らず知らず僕はその医者に成っていたんだネ。傍に立って、知ろう知ろうとして、観ていられて見給え──好い心地はしないや。何となくSさんが遠く成ったのは、始めて僕に解って来た……」
復た正太は笑った。
「しかし、正太さん、僕は唯──偶然に──そんな医者に成った訳でも無いんです。よく物を観よう、それで僕はもう一度この世の中を見直そうと掛ったんです。研究、研究でネ。これがそもそも他を苦しめたり、自分でも苦しんだりする原因なんです……しかし、君、人間は一度可恐しい目に逢着してみ給え、いろいろなことを考えるように成るよ……子供が死んでから、僕は研究なんてことにもそう重きを置かなく成った……」
明るい二階で、日あたりを描いた額の画の上に、日があたった。春蚕の済んだ後で、刈取られた桑畠に新芽の出たさま、林檎の影が庭にあるさまなど、玻璃越しに光った。お雪は階下から上って来た。
「父さん、障子が張れましたネ」
「その額を御覧、正太さんがああいう風に掛けて下すった」
「真実に、正太さんはこういうことが御上手なんですねえ」
とお雪は額の前に立って、それから縁側のところへ出てみた。
「叔母さん、御覧なさい」
と正太も立って行って、何となく江戸の残った、古風な町々に続く家の屋根、狭い往来を通る人々の風俗などを、叔母に指してみせた。
塩瀬というが正太の通う仲買店であった。その店に縁故の深い人の世話で、叔父の三吉にも身元保証の判を捺かせ、当分は見習かたがた外廻りの方をやっていた。正太に比べると、榊の方は店も大きく、世話する人も好く、とにかく客分として扱われた。二人ともまだ馴染が少なかった。正太は店の大将にすらよく知られていなかった。毎日のように彼は下宿から通った。
秋の蜻蛉が盛んに町の空を飛んだ。塩瀬の店では一日の玉高の計算を終った。後場は疾うに散けた。幹部を始め、その他の店員はいずれも帰りを急ぎつつあった。電話口へ馳付けるもの、飲仲間を誘うもの、いろいろあった。正太は塩瀬の暖簾を潜り抜けて、榊の待っている店の方へ行った。
二人は三吉の家をさして出掛けた。大きな建築物のせせこましく並んだ町を折れ曲って電車を待つところへ歩いて行った。株の高低に激しく神経を刺激された人達が、二人の前を右に往き、左に往きした。電車で川の岸まで乗って、それから復た二人はぶらぶら歩いた。
途中で、榊は立留って、
「成金が通るネ──護謨輪かなんかで」
と言って見て、情婦の懐へと急ぎつつあるような、意気揚々とした車上の人を見送った。榊も正太も無言の侮辱を感じた。榊は齷齪と働いて得た報酬を一夕の歓楽に擲とうと思った。
橋を渡ると、青い香も失せたような柳の葉が、石垣のところから垂下っている。細長い条を通して、逆に溢れ込む活々とした潮が見える。その辺まで行くと、三吉の家は近かった。
「榊君──小泉の叔父の近所にネ、そもそも洋食屋を始めたという家が有る。建物なぞは、古い小さなものサ。面白いと思うことは、僕の阿爺が昔流行った猟虎の帽子を冠って、酒を飲みに来た頃から、その家は有るんだトサ。そこへ叔父を誘って行こうじゃないか……一夕昔を忍ぼうじゃないか」
「そんなケチ臭いことを言うナ。そりゃ、今日の吾儕の境涯では、一月の月給が一晩も騒げば消えて了うサ。それが、君、何だ。一攫千金を夢みる株屋じゃないか──今夜は僕が奢る」
二人は歩きながら笑った。
父の夢は子の胸に復活った。「金釵」とか、「香影」とか、そういう漢詩に残った趣のある言葉が正太の胸を往来した。名高い歌妓が黒繻子の襟を掛けて、素足で客を款待したという父の若い時代を可懐しく思った。しばらく彼は、樺太で難儀したことや、青森の旅舎で煩ったことを忘れた。旧い屋根船の趣味なぞを想像して歩いた。
「お揃いですか」
と三吉は机を離れて、客を二階の部屋へ迎えた。
兜町の方へ通うように成ってから、榊は始めて三吉と顔を合せた。榊も、正太もまだ何となく旧家の主人公らしかった。言葉遣いなぞも、妙に丁寧に成ったり、書生流儀に成ったりした。
「叔母さん、おめずらしゅう御座いますネ」
と正太は茶を持って上って来た叔母の髪に目をつけた。お雪は束髪を止して、下町風の丸髷にしていた。
お雪が下りて行った後で、榊は三吉と正太の顔を見比べて、
「ねえ、橋本君、先ず吾儕の商売は、女で言うと丁度芸者のようなものだネ。御客大明神と崇め奉って、ペコペコ御辞儀をして、それでまあ玉を付けて貰うんだ。そこへ行くと、先生は芸術家とか何とか言って、乙に構えてもいられる……大した相違のものだネ」
三吉は「復た始まった」という眼付をした。
「先生でなくても、君でも可いや──ねえ、小泉君、僕がこんな商売を始めたと言ったら、君なぞはどう思うか知らないが──」
「叔父さんなんぞは何とも思ってやしません」と正太が言った。
「榊が居ると思わないで、ここに幇間が一人居ると思ってくれ給え──ねえ、橋本君、まあお互にそんなもんじゃないか」と言って、榊は急に正太の方に向いて、「どうだい、君、今日の相場は。僕は最早傍観していられなく成った。他の儲けるところを、君、黙って観ていられるもんか」
「ドシンと来たねえ」
「どうだい、君、二人で大に行ろうじゃないか」
笛、太鼓の囃子の音が起った。芝居の広告の幟が幾つとなく揃って、二階の欄の外を通り過ぎた。話も通じないほどの騒ぎで、狭い往来からは口上言いの声が高く響き渡った。階下では、種夫を背負った人が、見せに出るらしかった。親戚の娘達の賑かな笑声も聞えた。
やがて、榊は三吉の方を見て、
「小泉君の前ですが、君は僕の家内にも逢って、覚えておられるでしょう。家内は今、郷里に居ます。時々家のことを書いた長い手紙を寄越します。それを読むと僕は涙が流れて、夜も碌に眠られないことがあります……眠らずに考えます……しかし四日も経つと、復た僕は忘れて了う……極く正直な話が、そうなんです。なにしろ僕なぞは、三十万の借財を親から譲られて、それを自分の代に六十万に増しました……」
正太も首を振って、感慨に堪えないという風であった。思いついたように、懐中時計を取出して見て、
「叔父さん、今晩は榊さんが夕飯を差上げるそうです。何卒御交際下さいまし」
と言って御辞儀をしたので、榊も話を一ト切にした。
その時親類の娘達がドヤドヤ楼梯を上って来た。
「兄さん、左様なら」とお愛が手をついて挨拶した。
「お愛ちゃん、学校の方の届は?」と三吉が聞いた。
「今、姉さんに書いて頂きました」
「叔父さん、私も失礼します」とお俊はすこし改まった調子で言って、正太や榊にも御辞儀をした。
「左様なら」とお鶴も姉の後に居て言った。
この娘達を送りながら、三吉は客と一緒に階下へ降りた。彼は正太に向って、今度引移った実の家の方へ、お延を預ける都合に成ったことなぞを話した。
階下の部屋は一時混雑した。親類の娘達の中でも、お愛の優美な服装が殊に目立った。お俊は自分の筆で画いた秋草模様の帯を〆ていた。彼女は長いこと使い慣れた箪笥が、叔父の家の方に来ているのを見て、ナサケナイという眼付をした。順に娘達はお雪に挨拶して出た。つづいて、三吉も出た。門の前には正太や榊が待っていた。未だ日の暮れないうちから、軒燈を点ける人が往来を馳け歩いた。町はチラチラ光って来た。
水は障子の外を緩く流れていた。榊、正太の二人は電燈の飾りつけてある部屋へ三吉を案内した。叔父の家へ寄る前に、正太が橋の畔で見た青い潮は、耳に近くヒタヒタと喃語くように聞えて来た。
榊は障子を明け払って、
「橋本君、こういうところへ来て楽めるというのも、やはり……」
「金!金!」
と正太は榊が皆な言わないうちに、言った。榊は正太の肩をつかまえて、二度も三度も揺った。「然り、然り」という意味を通わせたのである。
三吉が立って水を眺めているうちに、女中が膳を運んで来た。一番いける口の榊は、種々な意味で祝盃を挙げ始めた。
「姉さんにも一つ進げましょう」と榊は女中へ盃を差した。「どうです、僕等はこれで何商売と見えます?」
女中は盃を置いて、客の様子を見比べた。
「私は何と見えます?」と正太が返事を待兼ねるように言った。
「さあ、御見受申したところ……袋物でも御商いに成りましょうか」
「オヤオヤ、未だ素人としか見られないか」と正太は頭を掻いた。
榊も噴飯した。「姉さん、この二人は株屋に成りたてなんです。まだ成りたてのホヤホヤなんです」
「あれ、兜町の方でいらッしゃいましたか。あちらの方は、よく姐さん方が大騒ぎを成さいます」
こう女中は愛想よく答えたが、よくある客の戯れという風に取ったらしかった。女中は半信半疑の眼付をして意味もなく、軽く笑った。
知らない顔の客のことで、口を掛ければ直ぐに飛んで来るような、中年増の妓が傍へ来て、先ず酒の興を助けた。庭を隔てて明るく映る障子の方では、放肆な笑声が起る。盛んな三味線の音は水に響いて楽しそうに聞える。全盛を極める人があるらしい。何時の間にか、榊や正太は腰の低い「幇間」で無かった。意気昂然とした客であった。
「向うの座敷じゃ、大にモテるネ」
と榊は正太に言った。ここにも二人は言うに言われぬ侮辱を感じた。それに、扱いかねている女中の様子と、馴染の無い客に対する妓の冷淡とが、何となく二人の矜持を傷けた。殊に、榊は不愉快な眼付をして、楽しい酒の香を嗅いだ。
「貴方一つ頂かして下さいな」
とその中年増が、自信の無い眼付をして、盃を所望した。世に後れても、それを知らずにいるような人で、座敷を締める力も無かった。
そのうちに、今一人若い妓が興を助けに来た。歌が始まった。
「姐さん、一つ二上りを行こう」
と言って、正太は父によく似た清しい、錆の加わった声で歌い出した。
「好い声だねえ。橋本君の唄は始めてだ」と榊が言った。
「叔父さんの前で、私が歌ったのも今夜始めてですね」と正太は三吉の方を見て微笑んだ。
「小泉君の酔ったところを見たことが無い──一つ酔わせなけりゃ不可」と榊が盃を差した。
「すこし御酔いなさいよ。貴方」と中年増の妓が銚子を持添えて勧めた。
三吉は酒が発したと見えて、顔を紅くしていた。それでいながら、妙に醒めていた。彼は酔おうとして、いくら盃を重ねてみても、どうしても酔えなかった。
唯、夕飯の馳走にでも成るように、心易い人達を相手にして、談したり笑ったりした。
「是方は召上らないのね」
と若い妓が中年増に言った。
夜が更けるにつれて、座敷は崩れるばかりであった。「何か伺いましょう」とか、「心意気をお聞かせなさいな」とか、中年増は客に対って、ノベツに催促した。若い方の妓は、懐中から小さな鏡を取出して、客の見ている前で顔中拭き廻した。
榊は大分酔った。若い方が御辞儀をして帰りかける頃は、榊は見るもの聞くもの面白くないという風で、面のあたりその妓を罵った。そして、貰って帰って行った後で、腐った肉にとまる蠅のように言って笑った。折角楽みに来ても、楽めないでいるような客の前には、中年の女が手持無沙汰に銚子を振って見て、恐れたり震えたりした。
酒も冷く成った。
ボーンという音が夜の水に響いて聞えた。仮色を船で流して来た。榊は正太の膝を枕にして、互に手を執りながら、訴えるような男や女の作り声を聞いた。三吉も横に成った。
三人がこの部屋を離れた頃は、遅かった。屋外へ出て、正太は独語のように、遣瀬ない心を自分で言い慰めた。
「今に、ウンと一つ遊んで見せるぞ」
「小泉君、君は帰るのかい……野暮臭い人間だナア」
と榊は正太の手を引いて、三吉に別れて行った。
三吉は森彦から手紙を受取った。森彦の書くことは、いつも簡短である。兄弟で実の家へ集まろう、実が今後の方針に就いて断然たる決心を促そう、と要領だけを世慣れた調子で認めて、猶、物のキマリをつけなければ、安心が出来ないかのように書いて寄した。
弟達は兄を思うばかりで無かった。度々の兄の失敗に懲りて、自分等をも護らなければ成らなかった。で、雨降揚句の日に、三吉も兄の家を指して出掛けた。
沼のように湿気の多い町。沈滞した生活。溝は深く、道路は悪く、往来の人は泥をこねて歩いた。それを通り越したところに、引込んだ閑静な町がある。門構えの家が続いている。その一つに実の家族が住んでいた。
「三吉叔父さんが被入しった」
とお俊が待受顔に出て迎えた。お延も顔を出した。
「森彦さんは?」
「先刻から来て待っていらしッてよ」
とお俊は玄関のところで挨拶した。彼女は大略その日の相談を想像して、心配らしい様子をしていた。
「鶴ちゃん、御友達の許へ遊びに行ってらッしゃい」お俊は独りで気を揉んだ。
「そうだ、鶴ちゃんは遊びに行くが可い」
とお倉も姉娘の後に附いて言った。「こういう時には、延ちゃんも気を利かして、避けてくれれば可いに」とお俊はそれを眼で言わせたが、お延にはどうして可いか解らなかった。この娘は、三吉叔父の方から移って間もないことで、唯マゴマゴしていた。
実は部屋を片付けたり、茶の用意をしたりして、三吉の来るのを待っていた。三人の兄弟は、会議を開く前に、集って茶を嚥んだ。その時実は起って行って、戸棚の中から古い箱を取出した。塵埃を払って、それを弟の前に置いた。
「これは三吉の方へ遣って置こう」
と保管を托するように言った。父の遺筆である。忠寛を記念するものは次第に散って了った。この古い箱一つ残った。
「どれ、話すことは早く話して了おう」と森彦が言出した。
お俊は最早気が気でなかった。母は、と見ると、障子のところに身を寄せて、聞耳を立てている。従姉妹は長火鉢の側に俯向いている。彼女は父や叔父達の集った部屋の隅へ行って、自分の机に身を持たせ掛けた。後日のために、よく話を聞いて置こうと思った。
「そんなトロクサいことじゃ、ダチカン」と森彦が言った。「満洲行と定めたら、直ぐに出掛ける位の勇気が無けりゃ」
「俺も身体は強壮だしナ」と実はそれを受けて、「家の仕末さえつけば、明日にも出掛けたいと思ってる」
「後はどうにでも成るサ。私も居れば、三吉も居る」
「むう──引受けてくれるか──難有い。それをお前達が承知してくれさえすれば、俺は安心して発てる」
こういう大人同志の無造作な話は、お俊を驚かした。彼女は父の方を見た。父は細かく書いた勘定書を出して叔父達に示した。多年の間森彦の胸にあったことは、一時に口を衝いて出て来た。この叔父は「兄さん」という言葉を用いていなかった。「お前が」とか、「お前は」とか言った。そして、声を低くして、父の顔色が変るほど今日までの行為を責めた。
お俊はどう成って行くことかと思った。堪忍強い父は黙って森彦叔父の鞭韃を受けた。この叔父の癖で、言葉に力が入り過ぎるほど入った。それを聞いていると、お俊は反って不幸な父を憐んだ。
「俊、先刻の物をここへ出せや」
と父に言われて、お俊はホッと息を吐いた。彼女は母を助けて、用意したものを奥の部屋の方へ運んだ。
「さあ、何物もないが、昼飯をやっとくれ」と実は家長らしい調子に返った。
三人の兄弟は一緒に食卓に就いた。口に出さないまでも、実にはそれが別離の食事である。箸を執ってから、森彦も悪い顔は見せなかった。
「むむ、これはナカナカ甘い」と森彦は吸物の出来を賞めて、気忙しなく吸った。
「さ、何卒おかえなすって下さい」と、旧い小泉の家風を思わせるように、お倉は款待した。
皆な笑いながら食った。
間もなく森彦、三吉の二人は兄の家を出た。半町ばかり泥濘の中を歩いて行ったところで、森彦は弟を顧みて、
「あの位、俺が言ったら、兄貴もすこしはコタえたろう」
と言ってみたが、その時は二人とも笑えなかった。実の家族と、病身な宗蔵とは、復た二人の肩に掛っていた。
「鶴ちゃん」
とお俊は、叔父達の行った後で、探して歩いた。
「父さんが明日御出発なさるというのに……何処へ遊びに行ってるんだろうねえ……」
と彼女は身を震わせながら言ってみた。一軒心当りの家へ寄って、そこで妹が友達と遊んで帰ったことを聞いた。急いで自分の家の方へ引返して行った。
こんなに急に父の満洲行が来ようとは、お俊も思いがけなかった。家のものにそう委しいことも聞かせず、快活らしく笑って、最早旅仕度にいそがしい父──狼狽している母──未だ無邪気な妹──お俊は涙なしにこの家の内の光景を見ることが出来なかった。
長い悲惨な留守居の後で、漸く父と一緒に成れたのは、実に昨日のことのように娘の心に思われていた。復た別れの日が来た。父を逐うものは叔父達だ。頼りの無い家のものの手から、父を奪うのも、叔父達だ。この考えは、お俊の小さな胸に制え難い口惜しさを起させた。可厭しい親戚の前に頭を下げて、母子の生命を托さなければ成らないか、と思う心は、一家の零落を哀しむ心に混って、涙を流させた。
叔父達に反抗する心が起った。彼女は余程自分でシッカリしなければ成らないと思った。弱い、年をとった母のことを考えると、泣いてばかりいる場合では無いとも思った。その晩は母と二人で遅くまで起きて、不幸な父の為に旅の衣服などを調えた。
「母親さん、すこし寝ましょう──どうせ眠られもしますまいけれど」
と言って、お俊は父の側に寝た。
紅い、寂しい百日紅の花は、未だお俊の眼にあった。彼女は暗い部屋の内に居ても、一夏を叔父の傍で送ったあの郊外の家を見ることが出来た。こんなに早く父に別れるとしたら何故父の傍に居なかったろう、何故叔父を遠くから眺めて置かなかったろう。
「可厭だ──可厭だ──」
こう寝床の中で繰返して、それから復た種々な他の考えに移って行った。父も碌に眠らなかった。何度も寝返を打った。
未だ夜の明けない中に、実は寝床を離れた。つづいてお倉やお俊が起きた。
「母親さん、鶏が鳴いてるわねえ」
と娘は母に言いながら、寝衣を着更えたり、帯を〆たりした。
赤い釣洋燈の光はションボリと家の内を照していた。台所の方では火が燃えた。やがてお倉は焚落しを十能に取って、長火鉢の方へ運んだ。そのうちにお延やお鶴も起きて来た。
小泉の家では、先代から仏を祭らなかった。「御霊様」と称えて、神棚だけ飾ってあった。そこへ実は拝みに行った。父忠寛は未だその榊の蔭に居て、子の遠い旅立を送るかのようにも見える、実は柏手を打って、先祖の霊に別離を告げた。
お倉やお俊は主人の膳を長火鉢の側に用意した。暗い涙は母子の頬を伝いつつあった。実は一同を集めて、一緒に別離の茶を飲んだ。
復た鶏が鳴いた。夜も白々明け放れるらしかった。
「皆な、屋外へ出ちゃ不可よ……家に居なくちゃ不可よ……」
実は、屋外まで見送ろうとする家のものを制して置いて、独りで門を出た。強い身体と勇気とは猶頼めるとしても、彼は年五十を超えていた。懐中には、神戸の方に居るという達雄の宿まで辿りつくだけの旅費しか無かった。満洲の野は遠い。生きて還ることは、あるいは期し難かった。こうして雄々しい志を抱いて、彼は妻子の住む町を離れて行った。
お雪は張物板を抱いて屋並に続いた門の外へ出た。三吉は家に居なかった。町中に射す十月下旬の日をうけて、門前に立掛けて置いた張物板はよく乾いた。襷掛で、お雪がそれを取込もうとしていると、めずらしい女の客が訪ねて来た。
「まあ、豊世さん──」
お雪は襷を釈した。張物もそこそこにして、正太の細君を迎えた。
「叔母さん、真実にお久し振ですねえ」
豊世は入口の庭で言って、絹の着物の音をさせながら上った。
久し振の上京で、豊世は叔母の顔を見ると、何から言出して可いか解らなかった。坐蒲団を敷いて坐る前に、お房やお菊の弔みだの、郷里に居る姑からの言伝だの、夫が来てよく世話に成る礼だのを述べた。
「叔母さん、私もこれから相場師の内儀さんですよ」
と軽く笑って、豊世は自分で自分の境涯の変遷に驚くという風であった。
「種ちゃん、御辞儀は?」とお雪は眼を円くして来た子供に言った。
「種ちゃんも大きく御成なさいましたねえ」
「豊世叔母さんだよ、お前」
「種ちゃん、一寸来て御覧なさい。叔母さんを覚えていますか。好い物を進げますよ」
種夫は人見知りをして、母の背後に隠れた。
「種ちゃん幾歳に成るの?」と豊世が聞いた。
「最早、貴方三つに成りますよ」
「早いもんですねえ。自分達の年をとるのは解りませんが、子供を見るとそう思いますわ」
その時、壁によせて寝かしてあった乳呑児が泣出した。お雪は抱いて来て、豊世に見せた。
「これが今度お出来なすった赤さん?」と豊世が言った。「先には女の御児さんばかりでしたが、今度は又、男の御児さんばかし……でも、叔母さんはこんなにお出来なさるから宜う御座んすわ」
「幾ちゃん」とお雪は顧みて呼んだ。
お幾はお雪が末の妹で、お延と同じ学校に入っていた。丁度、寄宿舎から遊びに来た日で、客の為に茶を入れて出した。
「先によくお目に掛った方は?」
「愛ちゃんですか。あの人は卒業して国へ帰りました。今に、お嫁さんに成る位です」
「そうですかねえ。お俊ちゃんなぞが最早立派なお嫁さんですものねえ」
しばらく静かな山の中に居て単調な生活に飽いて来た豊世には、見るもの聞くものが新しかった。正太も既に一戸を構えた。川を隔てて、三吉とはさ程遠くないところに住んでいた。豊世は多くの希望を抱いて、姑の傍を離れて来たのである。
その日、豊世はあまり長くも話さなかった。塩瀬の大将の細君という人にも逢って来たことや、森彦叔父の旅舎へも顔を出したことなぞを言った。これから一寸買物して帰って、早く自分の思うように新しい家を整えたいとも言った。
「叔母さん、どんなに私は是方へ参るのが楽みだか知れませんでしたよ。お近う御座いますから、復たこれから度々寄せて頂きます」
こう豊世は優しく言って、心忙わしそうに帰って行った。お雪は張物板を取込みに出た。
暗くなってから、三吉は帰って来た。彼は新規な長い仕事に取掛った頃であった。遊び疲れて早く寝た子供の顔を覗きに行って、それから洋服を脱ぎ始めた。お雪は夫の上衣なぞを受取りながら、
「先刻、豊世さんが被入ッしゃいましたよ。橋本の姉さんから小鳥を頂きました」
「へえ、そいつは珍しい物を貰ったネ。豊世さん、豊世さんッて、よくお前は噂をしていたっけが。どうだね、あの人の話は」
「私なぞは……ああいう人の傍へは寄れない」
「よく交際って見なけりゃ解らないサ。なにしろ親類が川の周囲へ集って来たのは面白いよ」
三吉は白シャツまで脱いだ。そこへ正太がブラリと入って来た。芝居の噂や長唄の会の話なぞをした後で、
「叔父さん、私は未だ御飯前なんです」
こんなことを言出した。その辺へ案内して、初冬らしい夜を語りたいというのであった。
「オイ、お雪、今の洋服を出してくれ。正太さんが飯を食いに行くと言うから、俺も一緒に話しに行って来る」
「男の方というものは、気楽なものですねえ」
お雪は笑った。三吉は一旦脱いだ白シャツに復た手を通して、服も着けた。正太は紺色の長い絹を襟巻がわりにして、雪踏の音なぞをさせながら、叔父と一緒に門を出た。
「何となく君は兜町の方の人らしく成ったネ。時に、正太さん、君は何処へ連れて行く積りかい」
「叔父さん、今夜は私に任せて下さい。種々御世話にも成りましたから、今夜は私に奢らせて下さい」
こう二人は話しながら歩いた。
町々の灯は歓楽の世界へと正太の心を誘うように見えた。昂ったとか、降ったとか言って、売ったり買ったりする取引場の喧囂──浮沈する人々の変遷──狂人のような眼──激しく罵る声──そういう混雑の中で、正太は毎日のように刺激を受けた。彼は家にジッとしていられなかった。夜の火をめがけて羽虫が飛ぶように、自然と彼の足は他の遊びに行く方へ向いていた。電車で、ある停留場まで乗って、正太は更に車を二台命じた。車は大きな橋を渡って、また小さな橋を渡った。
風は無いが、冷える晩であった。三吉は正太に案内されて、広い静かな座敷へ来ていた。水に臨んだ方は硝子戸と雨戸が二重に閉めてあって、それが内の障子の嵌硝子から寒そうに透けて見えた。
女中が火を運んで来た。洋服で震えて来た三吉は、大きな食卓の側に火鉢を擁えて、先ず凍えた身体を温めた。
正太は料理を通して置いて、
「それからねえ、姉さん、小金さんに一つ掛けて下さい」
「小金さんは今、彼方の御座敷です」
「『先程は電話で失礼』──そう仰って下されば解ります」
それを聞いて、女中は出て行った。
「叔父さん、こうして名刺を一枚出しさえすれば、何処へ行っても通ります──塩瀬の店は今兜町でも売ッ子なんですからネ」と正太は、紙入から自分の名刺を取出して、食卓の上に置いて見せた。
正太の話は兜町の生活に移って行った。漸く塩瀬の大将に知られて重なる店員の一人と成ったこと、その為には随分働きもしたもので、他の嫌がる帳簿は二晩も寝ずに整理したことを叔父に話した。彼は又、相場師生活の一例として、仕立てたばかりの春衣が仕附糸のまま、年の暮に七つ屋の蔵へ行くことなどを話した。
「そう言えば、今は実に可恐しい時代ですネ」と正太は思出したように、「此頃、私がお俊ちゃんの家へ寄って、『鶴ちゃん、お前さんは大きく成ったらどんなところへお嫁に行くネ』と聞きましたら──あんな子供がですよ──軍人さんはお金が無いし、お医者さんはお金が有っても忙しいし、美い着物が着られてお金があるから大きな呉服屋さんへお嫁に行きたいですト──それを聞いた時は、私はゾーとしましたネ」
こんな話をしているうちに、料理が食卓の上に並んだ。小金が来た。小金は三吉に挨拶して、馴々しく正太の傍へ寄った。親孝行なとでも言いそうな、温順しい盛りの年頃の妓だ。
「橋本さん、老松姐さんもここへ呼びましょう──今、御座敷へ来てますから」
と言って、小金は重い贅沢な着物の音をさせながら出て行った。
土地に居着のものは、昔の深川芸者の面影がある。それを正太は叔父に見て貰いたかった。こういうところへ来て、彼は江戸の香を嗅ぎ、残った音曲を耳にし、通人の遺風を楽しもうとしていた。
小金、老松、それから今一人の年増が一緒に興を添えに来た。老松は未だ何処かに色香の名残をとどめたような老妓で、白い、細い、指輪を嵌めた手で、酒を勧めた。
「老松さん、今夜はこういう客を連れて来ました」と正太が言った。「御馳走に何か面白い歌を聞かせて進げて下さい」
老松は三吉の方を見て、神経質な額と眼とで一寸挨拶した。
「どうです、この二人は──何方がこれで年長と見えます」と復た正太が言った。
「老松姐さん、私は是方の方がお若いと思うわ」と小金が三吉を指して見せた。
「私もそう思う」と老松は三吉と正太とを見比べた。
「ホラ──ネ。皆なそう言う」と正太は笑って、「これは私の叔父さんですよ」
「是方が橋本さんの叔父さん?」老松は手を打って笑った。
「叔父さんは好かった」と小金と老松の間に居る年増も噴飯した。
「真実の叔父さんだよ」と正太は遮ってみたが、しかし余儀なく笑った。
「叔父さん! 叔父さん!」
老松や小金はわざとらしく言った。皆な三吉の方へ向いて、一つずつ御辞儀した。そして、クスクス笑った。三吉も笑わずにいられなかった。
「私の方が、これで叔父さんよりは老けてるとみえる」と正太が言った。
小金は肥った手を振って、「そんな嘘を吐かなくっても宜う御座んすよ。真実に、橋本さんは担ぐのがウマいよ」
「叔父さん、へえ、御酌」と老松は銚子を持ち添えて、戯れるように言った。
「私にも一つ頂かせて下さいな」と年増は寒そうにガタガタ震えた。
電燈は花のように皆なの顔に映った。長い夜の時は静かに移り過ぎた。硝子戸の外にある石垣の下の方では、音のしない川が流れて行くらしかった。老松は好い声で、浮々とさせるような小唄を歌った。正太の所望で、三人の妓は三味線の調子を合せて、古雅なメリヤス物を弾いた。正太は、酒はあまり遣らない方であるが面長な渋味のある顔をすこし染めて、しみじみとした酔心地に成った。
「貴方。何かお遣り遊ばせな」と老松が三吉の傍に居て言った。
「私ですか」と三吉は笑って、「私は唯こうして拝見しているのが楽みなんです」
老松は冷やかに笑った。
「叔父さん、貴方の前ですが……ここに居る金ちゃんはネ、ずっと以前にある友達が私に紹介してくれた人なんです……私は未だ浪人していましたろう、あの時分この下の川を蒸汽で通る度に、是方の方を睨んでは、早く兜町の人に成れたら、そう思い思いしましたよ……」
「ヨウヨウ」という声が酒を飲む妓達の間に起った。
「橋本さん」と老松は手を揉んで、酒が身体にシミルという容子をした。「貴方──早く儲けて下さいよ」
次第に周囲はヒッソリとして来た。正太は帰ることを忘れた人のようであった。叔父が煙草を燻している前で、正太は長く小金の耳を借りた。
「私には踊れないんですもの」と小金は、終に、他に聞えるように言った。
酔に乗じた老松の端唄が口唇を衝いて出た。紅白粉に浮身を窶すものの早い凋落を傷むという風で、
「若い時は最早行って了った」と嘆息するように口ずさんだ。食卓の上には、妓の為に取寄せた皿もあった。年増は残った蒲鉾だのキントンだのを引寄せて、黙ってムシャムシャ食った。
やがて十二時近かった。三吉は酔った甥が風邪を引かないようにと女中によく頼んで置いて、独りで家まで車を命じた。女中や三人の妓は玄関まで見送りに出た。三吉が車に乗った時は、未だ女達の笑声が絶えなかった。
「叔父さん! 叔父さん!」
すこし話したいことが有る。こういう森彦の葉書を受取って、三吉は兄の旅舎を訪ねた。二階の部屋から見える青桐の葉はすっかり落ちていた。
「来たか」
森彦の挨拶はそれほど簡単なものであった。
短く白髪を刈込んだ一人の客が、森彦と相対に碁盤を置いて、煙管を咬えていた。この人は森彦の親友で、実や直樹の父親なぞと事業を共にしたことも有る。
「三吉。今一勝負済ますから、待てや。黒を渡すか、白を受取るかという天下分目のところだ」
「失礼します」
こう兄と客とは三吉に言って、復た碁盤を眺めた。両方で打つ碁石は、二人の長い交際と、近づきつつある老年とを思わせるように、ポツリポツリと間を置いては沈んだ音がした。
一石終った。客は帰って行った。森彦は弟の方へ肥った体躯を向けた。
「葉書の用は他でも無いがネ、どうも近頃正太のやつが遊び出したそうだテ。碌に儲けもしないうちから、最早あの野郎遊びなぞを始めてケツカル」
こう森彦が言出したので、思わず三吉の方は微笑んだ。
「実は、二三日前に豊世がやって来てネ、『困ったものだ』と言うから俺がよく聞いてみた。なんでも小金という芸者が有って、その女に正太が熱く成ってるそうだ。豊世の言うことも無理が無いテ。彼女が塩瀬の大将に逢った時に、『橋本さんも少し気を付けて貰わないと──』という心配らしい話が有ったトサ。折角あそこまで漕ぎ着けたものだ。今信用を落しちゃツマラン。『叔父さんからでも注意して貰いたい』こう彼女が言うサ」
「その女なら、私も此頃正太さんと一緒に一度逢いました……あれを豊世さんが心配してるんですか。そんな危げのある女でも無さそうですがナア。私の見たところでは、お目出度いような人でしたよ」
「復た阿爺の轍を履みはしないか、それを豊世は恐れてる」
「しかし、兜町の連中なぞは酒席が交際場裏だと言う位です。塩瀬の大将だっても妾が幾人もあると言う話です。部下のものが飲みに行く位のことは何とも思ってやしないんでしょう。大将がそんなことを言いそうも無い……豊世さんの方で心配し過ぎるんじゃ有りませんか」
「俺は、まあ、何方だか知らないが──」
「そんなことは放擲して置いたら可いでしょう。そうホジクらないで……私に言わせると、何故そんなに遊ぶと責めるよりか、何故もっと儲けないと責めた方が可い」
森彦は長火鉢の上で手を揉んだ。
「どうも彼は質がワルいテ。すこしばかり儲けた銭で、女に貢ぐ位が彼の身上サ。こう見るのに、時々彼が口を開いて、極く安ッぽい笑い方をする……あんな笑い方をする人間は直ぐ他に腹の底を見透されて了う……そこへ行くと、橋本の姉さんなり、豊世なりだ。余程彼よりは上手だ。吾儕の親類の中で、彼の細君が一番エライと俺は思ってる。細君に心配されるような人間は高が知れてるサ」
「ですけれど──私は、貴方が言うほど正太さんを安くも見ていないし、貴方が買ってる程には、橋本の姉さんや豊世さんを見てもいません。丁度姉さんや豊世さんは貴方が思うような人達です。しかし、あの人達は自分で自分を買過ぎてやしませんかネ」
「そうサ。自分で高く買被ってるようなところは有るナ」
兄は弟の顔をよく見た。
「女の方の病気さえなければ、橋本父子に言うことは無い──それがあの人達の根本の思想です。だから、ああして女の関係ばかり苦にしてる。まだ他に心配して可いことが有りゃしませんか。達雄さんが女に弱くて、それで家を捨てるように成った──そう一途にあの人達は思い込んで了うから困る」
兄は、弟が来て、一体誰に意見を始めたのか、という眼付をした。
「しかし」と三吉はすこし萎れて、「正太さんも、仕事をするという質の人では無いかも知れませんナ」
「彼が相場で儲けたら、俺は御目に懸りたいよ」
「ホラ、去年の夏、近松の研究が有りましたあネ。丁度盆の芝居でしたサ。あの時は、正太さんも行き、俊も延も行きました。博多小女郎浪枕。私はあの芝居を見物して帰って来て、復た浄瑠璃本を開けて見ました。宗七という男が出て来ます。優美慇懃なあの時代の浪華趣味を解するような人なんです。それでいて、猛烈な感情家でサ。長崎までも行って商売をしようという冒険な気風を帯びた男でサ。物に溺れるなんてことも、極端まで行くんでしょう……何処かこう正太さんは宗七に似たような人です。正太さんを見る度に、私はよくそう思い思いします──」
「彼の阿爺が宗七だ──彼は宗七第二世だ」
兄弟は笑出した。
「それはそうと、俺の方でも呼び寄せて、彼によく言って置く。細君を心配させるようなことじゃ不可からネ。お前からも何とか言って遣ってくれ」と森彦が言った。
「去年の夏以来、私は意見をする権利が無いとつくづく思って来ました」と三吉は意味の通じないようなことを言って、笑って、「とにかく、謹み給え位のことは言って置きましょう」
遠く満洲の方へ行った実の噂、お俊の縁談などをして、弟は帰った。
正太は兜町の方に居た。塩瀬の店では、皆な一日の仕事に倦んだ頃であった。テエブルの周囲に腰掛けるやら、金庫の前に集るやらして、芝居見物の話、引幕の相談なぞに疲労を忘れていた。煙草のけぶりは白い渦を巻いて、奥の方まで入って行った。
土蔵の前には明るい部屋が有った。正太は前に机を控えて、幹部の人達と茶を喫んでいた。小僧が郵便を持って来た。正太宛だ。三吉から出した手紙だ。家の方へ送らずに、店に宛てて寄すとは。不思議に思いながら、開けて見ると、内には手紙も無くて、水天宮の護符が一枚入れてあった。
正太はその意味を読んだ。思わず拳を堅めてペン軸の飛上るほど机をクラわせた。
「橋本君、そりゃ何だネ」と幹部の一人が聞いた。
「こういう訳サ」正太は下口唇を噛みながら笑った。「昨日一人の叔父が電話で出て来いというから、僕が店から帰りがけに寄ったサ。すると、例の一件ネ、あの話が出て、可恐しい御目玉を頂戴した。この叔父の方からも、いずれ何か小言が出る。それを僕は予期していた。果してこんなものを送って寄した」
「何の洒落だい」
「こりゃ、君、僕に……溺死するなという謎だネ」
「意見の仕方にもいろいろ有るナア」
幹部の人達は皆な笑った。
その日、正太は種々な感慨に耽った。不取敢叔父へ宛てて、自分もまた男である、素志を貫かずには置かない、という意味を葉書に認めた。仕事をそこそこにして、横手の格子口から塩瀬の店を出た。細い路地の角のところに、牛乳を温めて売る屋台があった。正太はそれを一合ばかり飲んで、電車で三吉の家の方へ向った。
叔父の顔が見たくて、寄ると、丁度長火鉢の周囲に皆な集っていた。正太は叔父の家で、自分の妻とも落合った。
「正太さん、妙なものが行きましたろう」
と三吉は豊世やお雪の居るところで言って、笑って、他の話に移ろうとした。豊世は叔父と相対の席を夫に譲った。自分の敷いていた座蒲団を裏返しにして、夫に勧めた。
「叔父さん、確かに拝見しました」と正太が言った。「私から御返事を出しましたが、それは未だ届きますまい」
豊世は夫の方を見たり、叔父や叔母の方を見たりして、「私は先刻から来て坐り込んでいます……ねえ叔母さん……何か私が言うと、宅は直ぐ『三吉叔父さんの許へ行って聞いて御覧』なんて……」
こんな話を、豊世も諄くはしなかった。彼女は夫から巻煙草を貰って、一緒に睦まじそうに吸った。
「バア」
三吉は傍へ来た種夫の方へ向いて、可笑な顔をして見せた。
「叔母さん、私も子供でも有ったら……よくそう思いますわ」と豊世が言った。
「豊世さんの許でも、御一人位御出来に成っても……」とお雪は茶を入れて款待しながら。
「御座いますまいよ」豊世は萎れた。
「医者に診て貰ったら奈何です」と言って、三吉は種夫を膝の上に乗せた。
「宅では、私が悪いから、それで子供が無いなんて申しますけれど……何方が悪いか知れやしません」
「俺は子供が無い方が好い」と正太は何か思出したように。
「あんな負惜みを言って」
と豊世が笑ったので、お雪も一緒に成って笑った。
豊世は一歩先へ帰った。正太は叔父に随いて二階の楼梯を上った。正太は三吉から受取った手紙の礼を言った後で、
「豊世なぞは解らないから困ります。そりゃ芸者にもいろいろあります。ミズの階級も有ります。しかし、叔父さん、土地で指でも折られる位のものは、そう素人が思うようなものじゃ有りません。あの社会はあの社会で、一種の心意気というものが有ります。それが無ければ、誰が……教育あり品性ある妻を置いて……」
「いえ、僕はネ、君が下宿時代のことを忘れさえしなけりゃ──」
「難有う御座います。あの御守は紙入の中に入れて、こうしてちゃんと持ってます。今日は大に考えました」
こう言って、正太は激昂した眼付をした。彼は、真面目でいるのか、不真面目でいるのか、自分ながら解らないように思った。「とにかく肉的なと言ったら、私は素人の女の方がどの位肉的だか知れないと思います……」こんなことまで叔父に話して、微笑んで見せた。
「正太さん、何故君はそんなに皆なから心配されるのかね」
「どうも……叔父さんにそう聞かれても困ります」
「世の中には、君、随分仕たいことを仕ていながら、そう心配されない人もありますぜ。君のようにヤイヤイ言われなくても可さそうなものだ……何となく君は危いような感じを起させる人なんだネ」
「それです。塩瀬の店のものもそう言います──何処か不安なところが有ると見える──こりゃ大に省みなけりゃ不可ぞ」
その時、お雪が階下から上って来て声を掛けた。
「父さん、〓(「ひとがしら/ナ」)が見えました」
親戚の客があると聞いて、正太は叔父と一緒に二階を下りた。
「正太さん、この方がお福さんの旦那さんです」
商用の為に一寸上京した勉を、三吉は甥に紹介した。勉は名倉の母からの届け物と言って、鯣、数の子、鰹節などの包をお雪の方へ出した。
大掃除の日は、塵埃を山のように積んだ荷馬車が三吉の家の前を通り過ぎた。畳を叩く音がそこここにした。長い袖の着物を着て往来を歩くような人達まで、手拭を冠って、煤と埃の中に寒い一日を送った。巡査は家々の入口に検査済の札を貼付けて行った。
早く暮れた。お雪は汚れた上掩を脱いで、子供や下婢と一緒に湯へ行った。改まったような心地のする畳の上で、三吉はめずらしく郷里から出て来た橋本の番頭を迎えた。
「今御新造さん(豊世)が買物に行くと言って、そこまで送って来てくれました。久し振で東京へ出たら、サッパリ様子が解りません」
こう番頭が言って、橋本の家風を思わせるような、行儀の好い、前垂を掛けた膝を長火鉢の方へ進めた。
番頭は幸作と言った。大番頭の嘉助が存命の頃は、手代としてその下に働いていたが、今はこの人が薬方を預って、一切のことを切盛している。旧い橋本の家はこの若い番頭の力で主に支えられて来たようなもので有った。幸作は正太よりも年少であった。
黒光りのした大黒柱なぞを見慣れた眼で、幸作は煤掃した後の狭細しい町家の内部を眺め廻した。大旦那の噂が始まった。郷里の方に留守居するお種──三吉の姉──の話もそれに連れて出た。
「どうも大御新造(お種)の様子を見るに、大旦那でも帰って来てくれたら、そればかり思っておいでなさる。もうすこし安心させるような工夫は無いものでしょうか」
世辞も飾りも無い調子で、幸作は主人のことを案じ顔に言った。姉の消息は三吉も聞きたいと思っていた。
「姉さんは、君、未だそんな風ですかネ」
「近頃は復た寝たり起きたりして──」
「困るねえ」
「私も実に弱って了いました。今更、大旦那を呼ぶ訳にもいかず──」
「達雄さんが帰ると言って見たところで、誰も承知するものは無いでしょう。僕も実に気の毒な人だと思っています……ねえ、君、実際気の毒な……と言って、今ここで君等が生優しい心を出してみ給え、達雄さんの為にも成りませんやね」
「私も、まあそう思っています」
「よくよく達雄さんも窮って──病気にでも成るとかサ──そういう場合は格別ですが、下手なことは見合せた方が可いネ」
「大御新造がああいう方ですから、私も間に入って、どうしたものかと思いまして──」
「こう薬の手伝いでもして、子のことを考えて行くような、沈着いた心には成れないものですかねえ。その方が可いがナア」
「そういう気分に成ってくれると難有いんですけれど」
「姉さんにそう言ってくれ給え──もし達雄さんが窮って来たら、『窮るなら散々御窮りなさい……よく御考えなさい……是処は貴方の家じゃ有りません』ッて。もし真実に達雄さんの眼が覚めて、『乃公はワルかった』と言って詫びて来る日が有りましたら、その時は主人公の席を設けて、そこで始めて旦那を迎えたら可いでしょうッて──」
幸作は深い溜息を吐いた。
「実に妙なものです。ここは私も一つ蹈張らんけりゃ不可、と思って、大御新造の前では強いことを言っていますが……時々私は夢を見ます。大旦那が大黒柱に倚凭って、私のことを『幸作!』と呼んでいるような──あんなヒドイ目に逢いながら、私はよくそういう夢を見ます。すると、眼が覚めた後で、私はどんな無理なことでも聞かなければ成らないような気がします……」
こう話しているところへ、お雪が湯から帰って来た。三吉は妻の方を見て、
「オイ、幸作さんから橋本の薬を頂いたぜ」
「毎度子供の持薬に頂かせております」
とお雪は湯上りのすこし逆上せたような眼付をして、礼を言った。
幸作の話は若旦那のことに移った。小金の噂が出た。彼は正太の身の上をも深く案じ顔に見えた。
「実は御新造さんから手紙が来て、相談したいことが有ると言うもんですから、それで私も名古屋の方から廻って来ました」
「へえ、その為に君は出て来たんですか。そんなに大騒ぎしなくても可いことでしょう。豊世さんもあんまり気を揉み過ぎる」
「何ですか心配なような手紙でしたから、大御新造には内証で」
「そう突き散らかすと、反っていけませんよ」
その晩、幸作は若旦那の家の方へ寝に行った。
復たポカポカする季節に成った。三吉が家から二つばかり横町を隔てた河岸のところには、黄緑な柳の花が垂下った。石垣の下は、荷舟なぞの碇泊する河口で、濁った黒ずんだ水が電車の通る橋の下の方から春らしい欠伸をしながら流れて来た。
この季節から、お菊やお房の死んだ時分へかけて、毎年のように三吉は頭脳が病めた。子を失うまでは彼もこんな傷みを知らなかったのである。半ば病人のような眼付をして、彼は柳並木の下を往ったり来たりした。白壁にあたる温暖い日は彼の眼に映った。その焦々と萌え立つような光の中には、折角彼の始めた長い仕事が思わしく果取らないというモドカシさが有った。稼ぎに追われる世帯持の悲しさが有った。石垣に近く漕いで通る船は丁度彼の心のように動揺した。
三吉は土蔵の間にある細い小路の一つを元来た方へ引返して行った。彼はこういう小路だけを通り抜けて家まで戻ることが出来た。
お俊の母親が彼を待受けていた。
「姉さんが先刻から被入って、貴方を待ってますよ」
とお雪は長火鉢の傍で言った。煙草を吸付けて、それを嫂にすすめていた。
金の話はとかく親類を気まずくさせた。それに仕事の屈託で、髪も刈らず髭も剃らず、寝起のように憂鬱な三吉の顔を見ると、お倉は言おうと思うことを言い兼ねた。不幸な嫂の話は廻りくどかった。
「畢竟、先方の家では宗さんの世話が出来ないと言うんですか」
こう言って三吉は遮った。
「いえ、そういう訳じゃ無いんですよ」とお倉は寂しそうに微笑みながら、「先方だってもあの通り遊んでいるもんですから、世話をしたいは山々なんです。なにしろ手の要る病人ですからねえ。それに物価はお高く成るばかりですし……」
復た復たお倉の話は横道の方へ外れそうなので、三吉の方では結末を急ごうとした。
「あれだけ有ったら、いきそうなものですがナア」
「そこですよ。もう二円ばかりも月々増して頂かなければ、御世話が出来かねるというんです」
「姉さん、どうです」と三吉は串談のように、「貴方の方で宗さんを引取っては。私の方から毎月の分を進げるとしたら、その方が反って経済じゃ有りませんか」
「真平」とお倉は痩細った身体を震わせた。「宗さんと一緒に住むのは、死んでも御免だ」
傍に聞いているお雪も微笑んだ。
病身な宗蔵は、実の家族から、「最早お目出度く成りそうなもの」と言われるほど厄介に思われながら、未だ生きていた。実の出発後は、三吉がこの病人の世話料を引受けて、月々お俊の家へ渡していた。どんなに三吉の方で頭脳の具合の悪い時でも、要るだけのものは要った。無慈悲な困窮は迫るように実の家族の足を運ばせた。
「折角、姉さんに来て頂いたんですけれど、今日は困りましたナア」
と三吉は額に手を宛てた。とにかく、増額を承諾した。金は次の日お俊に取りに来るようにと願った。
お俊が縁談も出た。
「御蔭様で、結納も交換しました。これで、まあ私もすこし安心しました」
とお倉はお雪の方を見て言った。
この縁談が纏まるにつけても、お俊の親に成るものは森彦と三吉より他に無かった。森彦の発議で、二人はお俊の為に互に金を出し合って、一通りの結婚の準備をさせることにした。
「姉さん、まあ御話しなすって下さい。私は多忙しい時ですから一寸失礼します」
こう言い置いて、三吉は二階の部屋へ上って行った。
仕事は碌に手につかなかった。三吉が歩きに行って来た方から射し込む日は部屋の障子に映った。河岸の白壁のところに見て来た光は、自分の部屋の黄ばんだ壁にもあった。それを眺めていると、仕事、仕事と言って、彼がアクセクしていることは、唯身内の者の為に苦労しているに過ぎないかとも思わせた。
「一寸俺は用達に行って来る。着物を出してくんナ」
三吉は二階から下りて来て、身仕度を始めた。お倉は未だ話し込んでいた。お雪は白足袋の洗濯したのを幾足か取出して見て、
「一二度外へ行って来ると、もうそれは穿かないんですから、幾足あったって堪りませんよ」
こんなことを言って笑いながら、中でも好さそうなのを択って夫に渡した。三吉は無造作に綴合せた糸を切って、縮んだ足袋を無理に自分の足に填めた。
「姉さん」と三吉はコハゼを掛けながら、「満洲の方から御便は有りますか」
「ええ、無事で働いておりますそうです──皆さんにも宜しく申上げるようにッて先頃も手紙が参りました」
「ウマくやってくれると可う御座んすがナア」
「さあ、私もそう思っています」
「まだ家の方へ仕送りをするというところまでいきませんかネ」
「どうして……でも、まあ彼方に親切な方が有りまして、よく見て下さるそうです」
頼りないお倉は「親切な」という言葉に力を入れ入れした。嫂を残して置いて、三吉は家を出た。
森彦は旅舎の方に居た。丁度弟が訪ねて行った時は、電話口から二階の部屋へ戻ったところで、一寸手紙を書くからと言いながら、机に対っていそがしそうに筆を走らせた。やがてその手紙を読返して見て、封をして、三吉の方へ向くと同時に手を鳴らした。
「これは急ぎの手紙ですから、直に出して下さい」
と森彦は女中に言附けて置いて、それから弟の顔を眺めた。
「今日はすこし御願が有ってやって来ました」
こういう三吉の意味を、森彦は直に読むような人であった。「まあ、待てよ」と起上って、戸棚の中から新しい菓子の入った鑵を取出した。
「貴方の方で宗さんの分を立替えて置いて頂きたいもんですがナア」と三吉は切出した。
「ホ、お前の方でもそうか」と森彦は苦笑して、「俺は又、お前の方で出来るだろうと思って、未だお俊の家へは送れないでいるところだ──困る時には一緒だナア」
二人の話は宗蔵や実の家の噂に移って行った。
「真実に、宗蔵の奴は困り者だよ。人間だからああして生きていられるんだ。これがもし獣で御覧、あんな奴は疾に食われて了ってるんだ」
「生きたくないと思ったって、生きるだけは生きなけりゃ成りません……宗さんのも苦しい生活ですネ」
「いえ、第一、彼奴の心得方が間違ってるサ。廃人なら廃人らしく神妙にして、皆なの言うことに従わんけりゃ成らん。どうかすると、彼奴は逆捩を食わせる奴だ……だから世話の仕手も無いようなことに成って了う」
「一体、吾儕がこうして──殆んど一生掛って──身内のものを助けているのはそれが果して好い事か悪い事か、私には解らなく成って来ました。貴方なぞはどう思いますネ」
森彦は黙って弟の言うことを聞いていた。
「吾儕が兄弟の為に計ったことは、皆な初めに思ったこととは違って来ました。俊を学校へ入れたのは、彼女に独立の出来る道を立ててやって、母親さんを養わせる積りだったんでしょう。ところが、彼女は学校の教師なぞには向かない娘に育って了いました。姉さんだってもそうでしょう、弱い弱いで、可傷られるうちに、今では最早真実に弱い人です。吾儕は長い間掛って、兄弟に倚凭ることを教えたようなものじゃ有りませんか……名倉の阿爺なぞに言わせると、吾儕が兄弟を助けるのは間違ってる。借金しても人を助けるなんて、そんな法は無いというんです」
「むむ、それも一理ある」と森彦は快活な声で笑出した。「確かに、阿爺さんのは強い心から来ている。それが阿爺さんをして名倉の家を興させた所以でもある。確かに、それは一つの見方に相違ない。が、俺は俺で又別の見方をしている。こうして十年も旅舎に寝転んで、何事を為てるんだか解らない人だと世間から思われても、別に俺は世間の人に迷惑を掛けた覚は無し、兄貴のところなぞから鐚一文でも貰って出たものでは無いが、それでもああして俊の家を助けている──俺は俺の為ることを為てる積りだ」
「これがネ、一月や二月なら何でもないんですが、長い年月の間となると、随分苦しい時が有りますネ」
「いや、どうして、ナカナカ苦しい時があるよ」
兄の笑声に力を得て、三吉は他に工面する積りで起上った。何のかんのと言って見たところで、弱い人達が生きている以上は、どうしてもそれを助けない訳にいかなかった。「食わせてくれれば食うし、食わせてくれなければそれまで」と言ったような、宗蔵の横に成った病躯には実に強い力が有った。
「そうかい。折角来たのに御気の毒でした」
と森彦は弟を見送りに出て言った。
お俊は三吉叔父の家をさして急いで来た。未来の夫としてお俊が択んだ人は、丁度彼女と同じような旧家に生れた壮年であった。ふとしたことから、彼女はその爽快で沈着な人となりを知るように成ったのである。この縁談が、結納を交換すまでに運ぶには、彼女は一通りならぬ苦心を重ねた。随分長い間かかった。一旦談が絶えた。復た結ばれた。その間には、叔父達は早くキマリを付けさせようとばかりして、彼女の心を思わないようなことが多かった。「どうでも叔父さん達の宜しいように」こう余儀なく言い放った場合にも、心にはこの縁談の結ばれることを願ったのであった。
三吉叔父の矛盾した行為には、彼女を呆れさせることが有る。叔父は一度、ある演壇へあの体躯を運んだ。その時はお延も一緒で、婦人席に居て傍聴した。叔父が「女も眼を開いて男を見なければ不可」と言ったことは、未だ忘られずにある。その叔父が姪の眼を開くことはどうでも可いような仕向が多かった。叔父は自分に都合の好いような無理な注文ばかりした。
小泉の家の零落──それがお俊には唯悲しかった。それを思うと、涙が流れた。
叔母のお雪は門のところに居た。種夫を背中に乗せて楽隊の通るのを見せていた。
「種ちゃん、おんぶで好う御座んすね」
こう言って、お俊は叔母と一緒に家の内へ入った。
三吉は二階で仕事を急いでいた。お俊が楼梯を上って、挨拶に行くと、急に叔父は厳格に成った。
「叔父さん、昨日は母親さんが上りまして──」
とお俊は手を突いて言った。
「オオ、お前が来るだろうと思って、待っていた。まあ、是方へお入り」
お俊の前に堅く成って坐っている三吉は、楽しい一夏を郊外で一緒に送った頃の叔父とは別の人のようで有った。よく可笑な顔付をして、鼻の先へ皺を寄せたり、口唇を歪めたりして、まるで古い能の面にでも有りそうなトボケた人相をして見せて、お俊やお延を笑わせたような、そんな忸々しさは見られなかった。
三吉は自分でもそれに気がついていた。お俊と相対に成ると、我知らず道徳家めいた口調に成ることを、深く羞じていた。そして、言うことが何となく虚偽らしく自分の耳にも響くことを、心苦しく思っていた。不思議にも、彼はそれをどうすることも出来なかった……お俊の結婚に就いても、もっとユックリした気分で、こうしたら可かろうとか、ああしたら可かろうとか、種々話してやりたいと心に思っていた。妙に口へ出て来なかった……唯……「叔母さんの留守に、叔父さんは私の手を握りました──」と人に言われそうな気がして、お俊の顔を見ると何事も言えなかった。どんな為になることを言っても、為ても、皆なその一点に打消されて了うような気もした。三吉は心配して作って置いた約束の金を取出した。苦しむ獣のような目付をして、それを姪の前に置いた。
「何故、叔父さんはこうだろう……」
とお俊は自分で自分に言ってみて、宗蔵の世話料を受取った。
長くも居られないような気がして、お俊は一寸礼を述べて、やがて階下へ下りた。
お雪の居る部屋には、仕事が一ぱいにひろげてあった。叔母は長火鉢のところで茶を入れて、キヌカツギなぞを取出しながら、姪と一緒に上野や向島の噂をした。
「父さん、御茶が入りました」
とお雪は楼梯の下から声を掛けたので、三吉も下りて来た。三人一緒に成ってからは、三吉も機嫌を直した。叔母や姪は睦まじそうに笑った。
何処までもお俊は気をタシカに持って、言うことだけは叔父に言って置こうという風で、
「叔父さん──昨日母親さんに御話が有ったそうですが、宗蔵叔父さんと一緒に成ることは御断り申します」
と帰りがけに、口惜しそうに言った。
三吉は苦笑した。腹の中で、「なにも俺は、無理に一緒に成れと言ったんじゃ無いんだ──串談半分に、一寸そんなことを言って見たんだ──お前達はそう釈って了うから困る」こうも思ったが、あまりお俊にキッパリ出られたので、それを言う気に成らなかった。
姪が帰って行った後で、三吉は深い溜息を吐いた。
「何故、俊はああだろう」
とお雪に言って見た。叔父の心は姪に解らず、姪の心は叔父に解らなかった。
不意な出来事が実の留守宅に起った。お鶴を病院へ入れなければ成らない。この報知を持って、お延は三吉の家へ飛んで来た。不図した災難が因で、お鶴は発熱するように成ったのであった。
間もなくお鶴は病院の方へ運ばれた。一週間ばかり煩った後で、脳膜炎で亡くなった。
河岸の柳の花も落ち始める頃、三吉は不幸な娘の為に通夜をする積りで、お俊の家をさして出掛けた。お雪も、子供を下婢に托して置いて、夫よりは一歩先に出た。
親戚は実の留守宅へ集って来た。森彦、正太夫婦を始め、お俊が父方の遠い親戚とか、母方の縁者とか、そういう人達まで弔みを言い入れに来た。混雑したところへ、丁度三吉も春先の泥をこねてやって来た。「鶴ちゃんも、可哀そうなことをしましたね」こういう言葉が其処にも是処にも交換された。台所の方には女達が働いていた。
「ここの家は神葬祭だネ。禰宜様を頼まんけりゃ成るまい」と森彦はお倉の方を見て言った。
「宗さんの旧い歌仲間で、神主をしてる人があります」とお倉が答えた。「母親さんの生きてる時分には、よくその人を頼んで来て貰いました」
「よし。では、正太は気の毒だが、その禰宜様のところへ行って来てくれや」
「正太さん、僕も一緒に行きましょう」
と三吉は甥の側へ寄った。
遠い神主の寓居の方から、三吉、正太の二人が帰って来た頃は、近い親戚のものだけ残った。お倉は取るものも手に着かないという風で、唯もう狼狽していた。お俊は一人で気を揉んだ。会計も娘が預った。
「お雪」と三吉が声を掛けた。「お前は今日は御免蒙ったら可かろう」
「叔母さん、何卒御帰りなすって下さい」とお俊が言った。
奥に机を控えていた森彦は振向いた。「そうだ。子持は帰るが可い。俺もこの葉書を書いたら、今日は帰る……通知はなるべく多く出した方が可いぞ……俊、もっと葉書を出すところはないか。郷里の方からもウント香典を寄して貰わんけりゃ成らん」
死んだ娘の棺を側に置いて、皆な笑った。
暮れてから、通夜をする為に残った人達が一つところへ集った。豊世は正太の傍へ行って、並んで睦まじそうに坐った。
「世間の評判では、僕は細君の尻に敷かれてるそうだ」
こう正太は当てつけがましいことを言って、三吉やお倉の方を見ながら笑った。豊世は俯向いて、萎れた。
お倉は娘の棺の方へ燈明の油を見に行った。復た皆なの方へ戻って来て、
「正太さんの所でも御越しに成ったそうですネ」
「ええ」と正太は受けて、「叔母さんも御淋しく成りましたろうから、ちと御話に被入って下さい。今度は三吉叔父さんと同じ川の並びへ移りました」
「三吉叔父さんは一度被入って下さいました」と豊世がお倉に言った。
「今度の家は好いよ」と三吉は正太を見て、「第一、川の眺望が好い」
「延ちゃんも姉さんと一緒に遊びにお出」と正太は娘達の方を振向いた。
土器の燈明は、小泉を継がせる筈のお鶴の為に、最後の一点の火のように燃った。お倉は、この名残の住居で、郷里の方にある家の旧い話を始めた。弟、娘、甥、姪などの視線は、過去った記憶を生命としているような不幸な婦の方へ集った。
お倉はよく覚えていた。家を堅くしたと言われる祖父が先代から身上を受取る時には、銭箱に百文と、米蔵に二俵の貯えしか無かった。味噌蔵も空であった。これでどうして遣って行かれると祖父祖母が顔を見合せた時に、折よく大名が通りかかって、一夜に大勢の客をして、それから復た取り付いた。こんな話から始めて、街道一と唄われた美しい人が家に生れたこと、その女の面影をお倉もいくらか記憶していることなぞを語り聞かせた。
「へえ、叔母さんは真実に覚えが好い」と正太も昔懐しい眼付をした。
お倉の話は父忠寛の晩年に移って行った。狂死する前の忠寛は、眼に見えない敵の為に悩まされた。よく敵が責めて来ると言い言いした。それを焼払おうとして、ある日寺院の障子に火を放った。親孝行と言われた実も、そこで拠なく観念した。村の衆とも相談の上、父の前に御辞儀をして、「子が親を縛るということは無い筈ですが、御病気ですから許して下さい」と言って、後ろ手にくくし上げた。それから忠寛は木小屋に仮に造った座敷牢へ運ばれた。そこは裏の米倉の隣りで、大きな竹藪を後にして、前手には池があった。日頃一村の父のように思われた忠寛のことで、先生の看護と言って、村の人々はかわるがわる徹夜で勤めに来た。附添に居た母の座敷は、別に畳を敷いて設けた。そこから飲食する物を運んだ。どうかすると、父は格子のところから母を呼んだ。「ちょっと是処へ来さっせ」と油断させて置いて、母の手のちぎれる程引いた。薄暗い座敷牢の中で、忠寛の仕事は空想の戦を紙の上に描くことで有った。さもなければ、何か書いてみることであった。忠寛は最後まで国風の歌に心を寄せていた。ある時、正成の故事に傚って、糞合戦を計画した。それを格子のところで実行した。母も、親戚も、村の人も散々な足利勢であった……
皆な笑い出した。
「私は阿爺さんの亡くなる時分のことをよく知りません。御蔭で今夜は種々なことを知りました」と三吉は嫂に言った。「あれで、阿爺さんは、平素はどんな人でしたかネ」
「平素ですか。癇さえ起らなければ、それは優しい人でしたよ。宗さんが、貴方、子供の時分と来たら、ワヤク(いたずら)なもんで、よく阿爺さんにお灸をすえられました……阿爺さんはもう手がブルブル震えちまって、『これ、誰か来て、早く留めさっせれ』なんて……それほど気の優しい、目下のものにも親切な人でしたよ」
「種々なことを聞いて見たいナア。ああいう気性の阿爺さんですから、女のことなぞはサッパリしていましたろうネ」
「ええ、ええ、サッパリ……でも、癇の起った時なぞは、どうかするとお末が母親さんや私達の方へ逃げて来ましたよ……お末という下婢が家に居ましたあね」
「へえ、阿爺さんのような人でもそんなことが有りましたか」
三吉は正太と顔を見合せた。誰かクスクス笑った。
その晩は、三吉、正太夫婦なぞが起きていて、疲れた親子を横に成らせた。お倉は、遠い旅にある夫、他へ嫁く約束の娘、と順に考えて、寝ても寝られないという風であった。心細そうに、お俊の方へ身体を持たせ掛けた。
「鶴ちゃんが死んで了えば、私はもう誰にも掛るものが無い──真実に、一人ぼッち」
「母親さん、そんなことを言うもんじゃ無くってよ」
「ヤア、ヤア──どうも御苦労様でした」
お鶴の葬式が済んだ後で、三吉は正太を自分の家へ誘って来た。一緒に二階の部屋へ上った。
お雪は夫の好きな茶を入れて持って来た。障子を開けひろげて、三吉は正太と相対に坐った。
「叔母さん、すこし吾家も片付きました。ちと何卒被入って下さい。経師屋を頼みまして、二階から階下まですっかり張らせました」
「正太さんの今度の御家は大層見晴しが好いそうですネ」
「ええ、まあ川はよく見えます。そのかわり蛞蝓の多いところで、これには驚きました。匍った痕が銀色して光っています。なんでもあの辺から御宅あたりへ掛けて、蛞蝓が名物ですトサ……叔父さんも何卒復たお近いうちに……御宅から吾家までは、七八町位のものですから、運動かたがた歩いて被入しゃるには丁度好う御座んす」
夕日は部屋の内に満ちて来た。河岸の方から町中へ射し込む光線は、屋根と屋根の間を折れ曲って、ある製造場の高い硝子を燃えるように見せた。お雪は縁側へ出て町の空を眺めたが、やがて子供の泣声を聞いて、階下へ下りて行った。
「正太さん、女達の間に一つ問題が持上っています。兄貴の家も妙なことに成りましたろう。娘があっても、後を継がせるものが無い。俊が嫁に行って了えば、もうそれッきりということに成って来た。鶴に養子をする──そのつもりで兄貴も出て行ったんです。鶴が居なく成った。俊はどうしたものか。私なら親の方に残るという説と、私はお嫁に行っても差支ないと思うという説と、女達の間に問題に成っているんです」
「私も婚約を破るということは、不賛成です。結納でも交換してなければ格別、交換してある以上は、無論これは夫婦にすべきものと思います」
「僕も、まあそう思うがネ」
「叔父さん、お俊ちゃんの方が先へお嫁に行ったと思って御覧なさい。後で鶴ちゃんが死んだとしましょう。どうすることも出来ないじゃ有りませんか」
「当人同志の意志を重んじなけりゃ成らんネ。俊もウマクやってくれると可いがナ。これで、君、俊が嫁に行き、鶴が死に……でしょう。これから兄貴がどう盛返すか知らんが──長い歴史のある小泉の家は、先ず事実に於いて、滅びたというものだネ」
しばらく二人は、夕日を眺めて、黙って相対していた。
「正太さん、君なり、僕なり、俊なりは……言わば、まあ旧い家から出た芽のようなものさネ。皆な芽だ。お互に思い思いの新しい家を作って行くんだネ」
「どうかすると、橋本の家は私で終に成るかも知れないぞ」
正太は考深い眼付をした。
「旧い人は駄目だなんて、言ったって……新しい時代の人だって、頼甲斐があるとは言われないネ」
「ナカナカ」
その時、種夫が一生懸命に楼梯につかまってノコノコ階下から上って来た。ヒョッコリ頭を出したので、三吉は子供の方へ起って行った。
「オイ、お雪、危いねえ」と三吉は階下へ聞えるように怒鳴った。
「種ちゃんはもう、ずんずん独りで上るんですもの」とお雪は階下から答えた。
「なんだか危くって仕様がない。早く来て、連れておいで」
「種ちゃんいらッしゃい」
「ア、到頭上って来ちゃった」
と正太も種夫の方を見て笑った。
そのうちに暮れかかって来た。町々の屋根は次第に黄昏時の空気の中へ沈んで行った。製造場の硝子戸には、未だ僅かに深い反射の色が残った。下婢は階下から洋燈を持って上って来た。三吉はマッチを摺った。二階には燈火が点いた。正太はそれを眺めて、自分の家の方でも最早燈火が点いたかと思った。
橋本のお種が娘お仙を連れて上京するという報知が、正太の家の方へ来た。半歳も考えて旅に出る人のように、いよいよお種が故郷を発つと言って寄したのは、七月下旬に入ってからのことであった。
「漸く、私の待っていたような日が来た。番頭の幸作も養子分に引直して、今では家のもの同様である。それに嫁まで取って宛行ってある。私も、留守を預けて置いて、発つことが出来る。お前達はどういう日を送っているか。お仙と二人で、そちらの噂をしない日は無い。お前達の住む東京を、お仙にも見せたい……叔父さんや叔母さん達にも逢わせたい……」という意味が、お種の手紙には長々と認めてあった。
この母からの便りを叔父達に知らせる積りで、先ず正太は塩瀬の店を指して出掛けようとした。
同じ河の傍でも、三吉や直樹の住むあたりから見ると、正太の家は厩橋寄の方であった。その位置は駒形の町に添うて、小高い石垣の上にある。前には埋立地らしい往来がある。正太は家を出て、石段を下りた。朝日が、川の方から、家の前の石垣のところへ映っていた。それを眺めると、母や妹の旅立姿が彼の眼に浮んだ……日頃、女は家を守るものと定めて、めったに屋敷の外へ出たことも無いお種──そういう習慣の人が、自分から思立って上京する気に成ったとは。正太は、あの深い屋根の下に踠き悶いていた母の生涯を思わずにいられなかった。
塩瀬の店の車に乗って用達に馳廻った後、正太は森彦叔父の旅舎へ立寄り、それから引返して三吉叔父の家の前に車を停めた。丁度三吉は下座敷に居た。叔父の顔を見ると、正太は相場の思惑にすこし手違いを生じたことから、遣繰算段して母を迎える打開話を始めた。
「へえ、お仙ちゃんを連れて? 姉さんも出て来るにはすこし早いナ」
と三吉は首を傾げていた。
「叔父さんもそうお思いでしょう」と正太は不安らしく、「どうも母親さんは……阿爺に逢うのを目的にして出て来る様子です。いろいろ綜合して、私も考えて見ました。いずれこれは、何処かの温泉場へ阿爺を呼寄せて、そこで会見しようという希望が、母親さんに有るらしいんです……どうもそうらしい……唯母親さんが出て来るものとは、どうしても私に思われません」
猶、的確に言うために、正太は幸作から近く来た手紙の模様を叔父に話した。両親が、世間へは内証で、互に消息を通わせていることをも話した。
「母親さんからどういう手紙が行くものですか、それは解りませんが──」と正太はその話を継いで、「阿爺の手紙は、豊世が受取って、それから母親さんの方へ取次いでいます。時々、私も目を通します……」
「どんな風に、君の父親さんからは書いて寄すものかネ」と三吉が聞いた。
「あの年齢に成って、ああいう手紙を交換してるものかと思うと、驚く……」と言って、正太は歎息して、「私達が書く手紙なぞとは、全然違ったものなんです」
「どうでしょう、仮に、達雄さんが郷里へ帰ったとしたら──」
「そりゃ、叔父さん、阿爺が帰れば必ず用いられます──土地に人物は少いんですからネ。そこです。用いられれば、必ず復た同じことを繰返します。そりゃあ、もう目に見えています」
叔父に逢って談話をして見ると、正太は頭脳がハッキリして来た。父の家出──つづいて起った崩壊の光景──その種々の記憶が彼の胸に浮んで来た。三吉の方でも、甥の顔を眺めているうちに、何となく空恐しい心地に成った。
「こりゃ姉さんにも、すこし考えて貰わんけりゃ成らんネ」と三吉が言出した。
正太は力の籠った語気で、「ですから、私は母親さんを引留めようと思います……」
「大きにそうだ。今ここで、下手に会見なぞさせる場合では無いネ」
「もし母親さんが是方へ参りましたら、叔父さんからもよく話して遣って下さい」
お種が帰らない夫を待つことは、最早幾年に成る、とその時三吉も数えて見た。娘お仙を夫に逢わせて見たら、あるいは──一旦失われた父らしい心胸を復た元へ引戻すことも出来ようか──離散した親子、夫婦が集って、もう一度以前のような家を成したい──こう彼女が、一縷の希望を夫に繋ぎながら、心竊かに再会を期して上京するというは、三吉にも想像し得るように思われた。
門前には、車が待っていた。正太は車夫を呼んで、心忙しそうに自分の家の方へ帰って行った。
お種がお仙と一緒に東京へ着いた翌々日、正太はその報告がてら、一寸復た三吉叔父の家へ寄った。
「一昨日、母も無事に着きました」と正太は入口の庭に立ったまま、すこし改まって言った。
「お雪」と三吉は妻の方を見て、「姉さん達も御着に成ったとサ」
お雪は最早三番目の男の児を抱いている頃であった。橋本の姉の上京と聞いて、微笑みながら上り端のところへ来た。
「月でも更りましたら、御緩り入来しって下さい」と正太は叔父叔母の顔を見比べて、「叔母さんも、何卒叔父さんと御一緒に──母もネ、着きました晩なぞは非常に興奮していまして、こんな調子じゃ困ったもんだなんて、豊世と二人で話しましたが、昨日あたりから大分それでも沈静いて来ました──」
簡単に母の様子を知らせて置いて、正太は出て行った。
月でも更ったらと、正太が言ったが、久し振りで三吉は姉に逢おうと思って、その日の夕方から甥の家を訪ねることにした。種夫に着物を着更えさせて、電車で駒形へ行った時は、橋本とした軒燈が石垣の上に光り始めていた。三吉は子供を抱き擁えて、勾配の急な石段を上った。
「種ちゃん、父さんと御一緒に──よく被入しって下さいましたねえ」と豊世が出て迎えた。
「坊ちゃま、さあアンガなさいまし」女中の老婆も顔を出した。
「こんな小さな下駄を穿いて──」と復た、子の無い豊世がめずらしそうに言った。
間もなく、三吉はお種やお仙と挨拶を交換した。遠慮の無い種夫は、綺麗に片付けてある家の内を歩き廻った。お種は自分の方へ子供を抱寄せるようにして、
「種ちゃん──これが木曾の伯母さんですよ。お前さんの姉さん達は、よくこの伯母さんが抱ッこをしたり、負ぶをしたりしたッけが……」と言って、お仙の方を見て、「お仙や、あのワンワンをここへ持って来て御覧」
お仙は、箪笥の上にある犬の玩具を取出して、種夫に与えた。
「叔父さん、二階の方へいらしって下さい」と正太が先に立って言った。
「そうせまいか。二階で話さまいか」と言って、お種は子供を背中に乗せて、「お仙もいらっしゃい」
「母親さん、危う御座んすよ」と豊世は灯の点いた洋燈を持ちながら、皆なの後から階梯を上った。
二階は、水楼の感じがすると、三吉が来る度に言うところで、隅田川が好く見えた。対岸の町々の灯は美しく水に映じていた。正太に似て背の高いお仙は、縁側の欄に近くいて、母や叔父の話を聞こうとした。この娘の癖で、どうかすると叔父の顔に近く自分の処女らしい顔を寄せて、言い難い喜悦の情を表わそうとした。お仙は二十五六に成るとは見えなかった。ずっと若く見えた。
「どうだネ、お仙、三吉叔父さんにお目に掛ってどんな気がするネ」
と母に言われて、お仙は白い繊細い手を口に宛行いながら、無邪気に笑った。
「彼女は、どの位嬉しいか解ないところだ」とお種は三吉に言って聞かせた。「お前さん達のことばかり言い暮して来た。彼女が郷里へ連れられて行ったのは、六歳の時だぞや。碌に記憶があらすか。今度初めて東京を見るようなものだわい」
種夫はすこしも静止していなかった。部屋の内は正太の趣味で面白く飾ってあったが、子供はそんなことに頓着なしで、大切な道具でも何でも玩具にして遊ぼうとした。
「種ちゃん、いらッしゃい、豊世叔母ちゃんが負ぶして進げましょう──表の方へ行って見て来ましょうネ」
と豊世は種夫を連れて、階下へ行った。やがて、往来の方からお仙を呼ぶ声がした。
「お仙ちゃんも、そこいらまで一緒に見に行きませんか」
豊世が誘うままに、お仙も町の夕景色を見に出掛けた。
正太は母や叔父を款待そうとして、階梯を上ったり下りたりした。二階の縁側に近く煙草盆を持出して、三吉はお種と相対に坐った。お種が広い額には、何となく憂鬱な色が有った。でも案じた程でも無いらしいので、三吉もやや安心して、亡くなった三人の子供の話なぞを始めた。山で別れてから以来、お種は言いたいことばかり、何から話して可いか解らない程であった。
「房ちゃん達のことを思うと、種夫もよくあれまでに漕付けましたよ。どの位手数の要ったものだか知れません」
「そうさ──どうも見たところが弱そうだ」
姉弟が話の糸口は未だ真実に解けなかった。急に、正太は階下から上って来て、洋燈の置いてあるところに立った。
「母親さん、お仙ちゃんが居なくなったそうです」
こう坐りもせずに言った。思わず三人顔を見合せた。
お仙を探しに行った三吉が、町を一廻りして帰って来た頃は、正太も、豊世も、お種も出て居なかった。家には、老婆一人茫然と留守をしていた。
「お仙ちゃんは未だ帰りませんか」
と庭から声を掛けて、三吉は下座敷へ上って見た。壁に寄せて座蒲団の上に寝かして置いた種夫の姿も見えなかった。
「坊主は?」
「坊ちゃまですか。めんめを御覚しだもんですから、御隠居様が負ぶなさいまして、表の方へ見にいらッしゃいました」
夏の夜のことで、河の方から来る涼しい空気が座敷の内へ通っていた。三吉は水浅黄色のカアテンの懸った玻璃障子のところへ行って見た。そこから、石段の下を通る人や、町家の灯や、水に近い夜の空なぞを眺めながら立っていた。お仙が居なくなったという時から、やがて一時間も経つ……
三吉は老婆の方へ引返した。
「もう一度、私は行って見て来ます」
老婆は考深く、「御嬢様も、もうそれでも御帰りに成りそうなものですね」
「何処ですか、そのお仙ちゃんの見えなく成ったという処は」
「なんでも奥様が御一緒に買物を遊ばしまして──ホラ、電車通に小間物を売る店が御座いましょう──彼処なんで御座いますよ。奥様は、御嬢様が御側に居らッしゃることとばかり思召して、坊ちゃまに何か御見せ申していらしったそうですが、ちょっと振向いて御覧なさいましたら、最早御嬢様は御見えに成らなかったそうです。それはもう、ホンのちょっとの間に……」
それを聞いて、三吉は出て行った。
二度目に彼が引返して、暗い石垣の下までやって来ると、お種は娘の身の上を案じ顔に、玻璃障子のところに立っていた。
「姉さん、お仙ちゃんは?」と三吉は往来から尋ねてみた。
「未だ帰らない」
という姉の答を聞いて、三吉も不安を増して来た。
「三吉」とお種は弟を家の内へ入れてから言った。「お前は今夜、是方で泊ってくれるだろうネ」
「ええ、とにかく行って坊主を置いて来ます──それから復たやって来ましょう」
「ああそうしておくれ。弱い子供だから、お雪さんが心配すると不可。ワンワンも持たせてやりたいが、可いわ、私がまた訪ねる時にお土産に持って行かず」
三吉は眠そうな子供を姉の手から抱取った。
「坊ちゃまのお下駄はいかがいたしましょう」と老婆が言葉を添える。
「ナニ、構いませんから、新聞に包んで私の懐中へ捩込んで下さい」
こう三吉は答えて、「種ちゃん、吾家へ行くんだよ」と言い聞かせながら、子供を肩につかまらせて出た。種夫は眠そうに頭を垂れて、左右の手もだらりと下げていた。
「まあ御可愛そうに、おねむでいらッしゃる」と老婆が言った。
三吉が自分の家へ子供を運んで置いて、復た電車で引返して来た頃は、半鐘が烈しく鳴り響いていた。細い路地や往来は人で埋まった。お仙が居なく成ったというさえあるに、加に火事とは。三吉は仰天して了った。火は正太の家から半町ほどしか離れていなかった。
「これはまあ何という事だ」
というお種の言葉を聞捨てて、三吉は二階へ駆上った。続いてお種も上って来た。
雨戸を開けて見ると、燃え上る河岸の土蔵の火は姉弟の眼に凄じく映った。どうやら、一軒で済むらしい。見ているうちに、すこし下火に成る。
「もう大丈夫」
と正太も階下から上って来た。三人は無言のまま、一緒に火を眺めて立っていた。雨戸を閉めて置いて、三人は階下へ下りた。まだ往来は混雑していた。石段を上って来て、火事見舞を言いに寄るものもあった。正太は心の震動を制えかねるという風で、
「叔父さん、済みませんが下谷の警察まで行って下さいませんか……浅草の警察へは今届けて来ました」
「お仙も」とお種は引取って、「ああいう神様か仏様のようなやつだから、存外無事で出て来るかも知れないテ」
「お仙ちゃんは、ここの番地を覚えていますまいね」と三吉が聞いた。
「どうも覚えていまいテ」とお種は歎息する。
「なかなか車に乗るという智慧は出そうもない──おまけに、一文も持っていない」と正太も附添した。
三吉は思い付いたように、老婆の方を見て、「老婆さん、貴方はあの路地のところへ行って、角に番をしていて下さい。じゃあ私は下谷の警察まで行って来ます」
夜は更けて来た。火事の混雑の後で、余計に四辺はシーンとしていた。青ざめた街燈の火に映る電車通には、往来の人も少なかった。柳並木の蔭は暗い。路地の角に、豊世と老婆の二人が悄然立って、見張をしている。そこへ三吉が帰って来た。
「まだ帰りませんか」と三吉は二人に近づいて尋ねた。
「叔父さん、どうしたら宜う御座んしょうね」と豊世は愁わしげに答えた。
「まあ家へ行って相談しようじゃ有りませんか」
こういう三吉の後に随いて、豊世は重い足を運んだ。老婆も黙って歩いて行った。
正太の家には、お仙を捜しに出たものが皆な一緒に集った。
「何時でしょう」と三吉が言出した。
「十一時過ぎました」と正太は懐中時計を出して見て答えた。
しばらく正太は沈吟するように部屋の内を歩いて見た。やがて、玻璃障子の閉めてあるところへ行って、暗い空を窺いながら立っていたが、復た皆なの居る方へ引返した。時々、彼は可恐しげな眼付をして、豊世の顔を睨みつけた。
「あぶないあぶないと平素から思っていたが、これ程とは思わなかった」正太はこんな風に妹のことを言って見た。
「一体、私が子供なぞを連れてやって来たのが悪かった」と三吉が言った。
お種は引取って、「そんなことを言えば、私がお仙を連れて出て来たのが悪いようなものだ。いや、誰が悪いんでも無い。みんなあの娘が持って生れて来たのだぞや。どんなことが有ろうとも、私はもう絶念めていますよ。それよりは、働けるものが好く働いて、夫婦して立派なものに成ってくれるのが、何よりですよ」
「私はネ」と正太は叔父の方を見て、「事業と成ると、どんなにでも働けますが──使えば使うだけ、ますます頭脳が冴えて来るんです──唯、こういう人情のことには、実際閉口だ」
「正太もまた、こんなことに凹んで了うようなことじゃ不可」
とお種は健気にも、吾児を励ますように言う。
「ナニ、これしきのことに凹んでたまるもんですか。私の頭脳の中には、今塩瀬の店の運命がある──おまけに明日は晦日という難関を控えている」
こう言って、正太は鋭い眼付をした。
「さアさ」とお種は浴衣の襟を掻合せながら、家中を見廻して、「出来たことは仕方が有りません。とにかく一時頃まで皆なに休んで貰って、三吉と正太には気の毒だが、それからもう一度捜しに行って貰わず。三吉、すこし寝たが可いぞや。老婆もそこで横にお成りや──それにかぎる」
寝ろと言われても、誰も寝られるものは無かった。第一、そういうお種が眠らなかった。すこし横に成って見た人も、何時の間にか起きて、皆なの話に加わった。十二時頃、一同夜食した。
時計が一時を打つ頃、三吉、正太の二人は更に仕度して出掛けることに成った。
「叔父さん、風邪を引くといけませんよ──シャツでも進げましょう」と言って、正太は豊世の方を見て、「股引も出して進げな」
「じゃあ、拝借するとしよう」と三吉が言った。
三吉は股引に尻端折。正太もきりりとした服装をして、夏帽子を冠って出た。
「姉さん、お仙ちゃんが帰って来たそうですネ──よかった、よかった。僕は今そこの交番で聞いて来た」
と言って、三吉が飛込んで来た。
「お仙、叔父さんに御礼を言わないか」
とお種に言われて、お仙はすこし顔を紅めながら手を突いた。この無邪気な娘は唯マゴマゴしていた。
「叔父さん、もうすこしで危いところ」と豊世は妹の後に居て、「悪い者に附かれたらしいんですが、好い塩梅に刑事に見つかったんだそうです。今まで警察の方に留めて置かれたんですッて」
そこへ正太も妹の無事を喜びながら入って来た。
「随分心配させられたぜ、もうもうどんなことが有っても、独りでなんぞ屋外へ出されない」と言って、正太は溜息を吐いて、「お仙がもし帰らなかったら、それこそ家のやつを擲殺してくれようかと思った」
「ええ、そこどこじゃない」と豊世は後向に涙を拭いて、「お仙ちゃんが帰らなければ、私はもう死ぬつもりでしたよ……」
一同はお仙を取囲いて種々なことを尋ねて見た。お仙は混雑した記憶を辿るという風で、手を振ったり、身体を動ったりして、
「なんでもその男の人が、私の処を聞いたぞなし。私は知らん顔していた。あんまり煩いから、木曾だってそう言ってやった」
「木曾はよかった」と三吉が笑う。
「先方の人も変に思ったでしょうねえ」と豊世は妹の顔を眺めて、「お仙ちゃんは、自分じゃそれほど可畏いとも思っていなかったようですね」
お仙はきれぎれに思出すという顔付で、「ハンケチの包を取られては大変だと思ったから──あの中には姉さんに買って頂いた白粉が入っていたで──私はこうシッカリと持っていた。男の人が、それを袂へ入れろ入れろと言うじゃないかなし。私が入れた。そうすると、この袂を捕えて、どうしても放さなかった……」
「アア、白粉を取られるとばかり思ったナ」と正太が言った。
「ええ」とお仙は微笑を浮べて、「それから方々暗い処を歩いて、終に木のある明るい処へ出た。草臥たろうから休めッて、男の人が言うから、私も腰を掛けて休んだ……」
「して見ると、やっぱり公園の内へ入ったんだ。あれほど僕等が探したがナア」と三吉は言ってみた。
お仙は言葉を続けて、「煙草を服まないかッて、その人が私にくれた。私は一服しか貰って服まなかった。夫婦に成れなんて言ったぞなし──ええ、ええ、そんな馬鹿なことを」
「よかった、よかった──夫婦なぞに成らなくって、よかった」
こうお種が言ったので、皆な笑った。お仙も一緒に成って笑い転げた。
「皆な二階へ行って休むことにしましょう。正太も仕事のある人だから、すこし休むが可い──さアさ、皆な行って寝ましょう」
とお種は先に立って行った。
「皆様の御床はもう展べて御座います」と老婆も言葉を添えた。
一同は二階へ上って寝る仕度をした。三吉は寝られなかった。彼は一旦入った臥床から復た這出して、蚊帳の外で煙草を燻し始めた。お仙も眠れないと見えて起きて来た。豊世も起きて来た。三人は縁側のところへ煙草盆を持出した。しまいには、お種も我慢が仕切れなく成ったと見え、白い寝衣のまま蚊帳の内から出て来た。
「正太さんはよく寝ましたネ」と三吉は蚊帳の外から覗いて見る。
「これ、そうっとして置くが可い。明日は大分多忙しい人だそうだから──」とお種は声を低くして言った。
その時、豊世は起って行って、水に近い雨戸を開けかけた。
「叔父さん、一枚開けましょう。もう夜が明けるかも知れません」
一夜の出来事は、それに遭遇った人々に取って忘られなかった。折角上京したお種も、お仙を連れての町あるきは可恐しく思われて来た。河の見える家に逗留して、皆なで一緒に時を送るということが、何よりお種母子には楽しかった。
八月に入って、正太も家のものを相手に暮すような日があった。兄夫婦や妹の間に起る笑声は、過去った楽しい日のことをお種に想い起させた。下座敷の玻璃障子の外には、僅かばかりの石垣の上を丹精して、青いものが植えてある。お種は、郷里に居て庭の植木を愛するように、その草花の手入をしたり、綺麗に掃除したりした。
お種は草箒を手にして、石段の下へも降りて行った。余念なく石垣の草むしりをしていると、丁度そこへ三吉が路地の方から廻って訪ねて来た。お種はそれとも気がつかず、往来に腰を延ばして、自分の草むしりした跡を心地好さそうに眺めていた。三吉は姉の傍まで来た。まだお種は知らなかった。その時、三吉は両手を延ばして、背後から静かに姉の目を隠した。
この戯は、寧ろお種をビックリさせた。彼女は右の手に草箒を振りながら、叫んだ。何事かと、正太や豊世は顔を出した。三吉は笑いながら姉の前に立っていた。
「お前さんか──俺は真実に、誰かと思ったぞや」
とお種も笑って、「まあ、お入り」と言いながら、弟と一緒に石段を上った。
「姉さん」と三吉は家へ入ってから言った。「一寸御使にやって来たんです。明日は私の家で御待申していますから、何卒御話に入来しって下さい」
「それは難有う。私もお前さんの許の子供を見に行かずと思っていた。それに、久し振でお雪さんにも御目に掛りたいし……」
こういうお種の顔色には、前の晩に見たより焦心っているようなところが少なかった。その沈んだ調子が、反って三吉を安心させた。
正太と二人きりに成った時、三吉は姉の様子を尋ねて見た。
「母親さんも考えて来たようです」と正太は前の夜の可恐しかったことを目で言わせた。
「なにしろ、君、出て来る早々ああいう目に遭遇したんだからネ……実際あの晩はエラかったよ……」
「私なぞは、叔父さん、すくなくも十年寿命が縮みました」
「ホラ、君と二人で最後に公園の内を探って、広小路へ出て来ると、あの繁華な場処に人一人通らずサ……あの時、君は下谷の方面を探り給え、僕は浅草橋通りをもう一遍捜してみようッて言って、二人で帽子を脱って別れましたろう──あの時は、君、何とも言えない感じがしたネ」
「そうそう、一つ踏外すと皆な一緒にどうなるかと思うような……こりゃあウカウカしちゃあいられない、そう思って、私は上野の方へ独りで歩いて行きました」
水を打ったような深夜の道路、互に遠ざかりながら聞いた幽かな足音──未だそれは二人の眼にあり耳にあった。
女達が集って来た。親類の話が始まった。遠く満洲の方に居る実のことが出るにつけても、お種は夫の達雄を思出すらしかった。お俊の結婚も何時あるかなどと噂した後で、三吉は辞して行った。
お仙を残して置いて、お種は独りで弟の家族に逢いに行った。
三吉の家では、お雪が子供に着物を着更えさせるやら、茶道具を取り出すやらして、姉を待受けていた。気の置けない男の客と違い、殊に親類中一番年長のお種のことで、何となくお雪は改まった面持で迎えた。弟の家内の顔を見ると、お種は先ず亡くなったお房やお菊やお繁のことを言出した。
三吉は姉の側に坐って、「姉さん、御馴染の子供は一人も居なくなりました」
「そうサ──」とお種も考深く。
「種ちゃん、橋本の伯母さんに御辞儀をしないか」とお雪が呼んだ。
「種ちゃんはもう御馴染に成ったねえ。御預りのワンワンも伯母さんが持って来ましたよ」
「姉さん、これが新ちゃんです」と三吉は、漸く匍って歩く位な、次男の新吉を抱寄せて見せる。
「オオ、新ちゃんですか」とお種は顔を寄せて、「ほんに、この児は壮健そうな顔をしてる。眼のクリクリしたところなぞは、三吉の幼少い時に彷彿だぞや……どれ、皆な好い児だで、伯母さんが御土産を出さずか」
子供は、伯母から貰った玩具の犬を抱いて、家のものに見せて歩いた。
「お雪、銀ちゃんを抱いて来て御覧」と三吉が言った。
「これ、温順しく寝てるものを、そうッとして置くが可い」とお種は壁に寄せて寝かしてある一番幼少い銀造の顔を覗きに行った。
「どうです、姉さん、これが六人めですよ──随分出来も出来たものでしょう」
「お前さんのところでは、お雪さんも御達者だし、どうして未だ未だこれから出来ますよ」
こんなことを傍で言われて、お雪はキマリが悪そうに茶戸棚の方へ行った。
「真実に、子供があると無いじゃ、家の内が大違いだ」と言って、お種は正太の家のことを思い比べるような眼付をした。
その日、お種は心易く振舞おう振舞おうとしていたが、どうかすると酷く興奮した調子が出て来た。時にはそれが病的に聞えた。すこしも静止していられないような姉の様子が、何となくお雪には気づかいであった。お種は狭い町中の住居をめずらしく思うという風で、取散した勝手元まで見て廻ろうとするので、お雪はもう冷々していた。
姉を案内して、三吉は二階の部屋へ上った。日中の三味線の音が、乾燥いだ町の空気を通して、静かに響いて来た。
「姉さん、東京も変りましたろう」
こういう弟の話を、お種は直に吾児の方へ持って行った。
「今度、出て来てみたら、正太の家には妙なものが掛けてある。何様とかの御護符だげナ。そして、一寸したことにも御幣を担ぐ。相場師という者は皆なこういうものだなんて……若い時はあんな奴じゃなかったが……」
「しかし、正太さんはナカナカ面白いところが有りますよ。ウマくやってくれると宜う御座んすがネ」
「まあ、彼は、阿爺さんから見ると、大胆なところが有るで──」
お種は言い淀んで、豊世から聞いた正太と他の女との関係を心配そうに話した。
「アア向島の芸者のことですか」
「それサ」
「へえ、豊世さんは心配してるんですかネ。そんな話は、疾くにどうか成ったかと思っていた」
「ところがそうで無いらしいから困るテ……豊世もあれで、森彦叔父さんなら何事でも話せるが、どうも三吉叔父さんは気遣いだなんて言ってる」
こうお種が言って笑ったので、三吉の方でも苦笑した。
お雪は姉の馳走に取寄せた松の鮨なぞを階下から運んで来た。子供が上って来ては、客も迷惑だろうと、お雪はあまり話の仲間入もしなかった。
三吉は半ば串談のように、「お雪は姉さんをコワがっていますよ」
「そんなことがあらすか」とお種は階梯を下りかけたお雪の方を見て、「ねえ、お雪さん、貴方とは信州以来の御馴染ですものネ」
お種の神経質らしい笑声を聞いて、お雪は泣き騒ぐ子供の方へ下りて行った。
三吉は思い付いたように、戸棚の方へ起って行った。実が満洲へ旅立つ時、預って置いた父の遺筆を取出した。箱の塵を払って、姉の前に置いて見せた。その中には、忠寛の歌集、万葉仮名で書いた短冊、いろいろあるが、殊にお種の目を引いたのは、父の絶筆である。漢文で、「慷慨憂憤の士を以って狂人と為す、悲しからずや」としてある。墨の痕も淋漓として、死際に震えた手で書いたとは見えない。
父忠寛が最後の光景は、いつも三吉が聞いて見たく思うことであった。お鶴が通夜の晩に、皆な集って、お倉から聞いた時の話ほど、お種は委しく記憶していなかった。そのかわり、お種はお倉の記憶に無いことを記憶していた。
「大きく『熊』という字を書いて、父親さんが座敷牢から見せたことが有ったぞや」とお種は弟に微笑んで見せて、「皆な、寄って集って、俺を熊にするなんて、そう仰ってサ……」
「熊はよかった」と三吉が言った。
「それは、お前さん、気分が種々に成ったものサ。可笑しく成る時には、アハハ、アハハ、独りでもう堪えられないほど笑って、そんなに可笑しがって被入っしゃるかと思うと、今度は又、急に沈んで来る……私は今でもよく父親さんの声を覚えているが、きりぎりす啼くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む、そう吟じて置いて、ワアッと大きな声で御泣きなさる……」
お種は激しく身体を震せた。父が吟じたという古歌──それはやがて彼女の遣瀬ない心であるかのように、殊に力を入れて吟じて聞かせた。三吉は姉の肉声を通して、暗い座敷牢の格子に取縋った父の狂姿を想像し得るように思った。彼はお種の顔を熟と眺めて、黙って了った。
この姉が上京する前、正太から話のあった達雄との会見──今にそれを姉が言出すか言出すかと、三吉は心に思っていた。お種は、弟の方で待受けたようなことを何事も言出さずじまいに、郷里の方の変遷などをいろいろと語り聞かせた後で、一緒に階下へ降りた。
お雪は眼の覚めた銀造を抱き擁えて、
「へえ、伯母ちゃん、銀ちゃんを見て下さい」
「オオ、温順だそうな。白い前掛を掛けて──好い児だ、好い児だ」とお種は孫でもアヤすように言った。
「この通りの子持で御座いますから、いずれ私は夜分にでも伺います」
「お雪さん、御待ち申していますよ。お仙にも逢ってやって下さい」
それから一週間ばかり、お種は逗留した。そこそこに帰郷の仕度を始めたと聞いて、親戚はかわるがわる正太の家を訪ねた。三吉も別れかたがた出掛けて行った時は、お俊、お延なぞの娘達が集って来ていた。森彦の二番目の娘で、遊学のために上京したお絹も来ていた。
「三吉、御免なさいよ。今髪を結って了いますから」
とお種は階梯の下に近く鏡台を置いて、その前に坐りながら挨拶した。お種の後には、白い前垂を掛けた女髪結が立って、しきりと身体を動かしていた。
「叔父さん、私も母親さんの御供をして、一寸郷里まで行って参ります。実は行く前に、御相談したいことも有りますし、私の方から今伺おうと思っていたところなんです」
正太は叔父の顔を見て、丁度好いところへ来てくれたという風に言った。
三吉、正太の二人は連立って、河の見える二階へ上った。窓の扉だけ赤く塗った河蒸汽が、音波を刻んで眺望の中に入って来た。やがて川上の方へ通過ぎた。
三吉は薄く濁った水を眺めて、
「姉さんも、何事も言出さずに帰って行くものと見えるネ……時に、正太さん、相談したいというのは何ですか」
と叔父に言われて、しばらく正太は切出しかねていた。金の話であった。郷里に居る正太の知人で、叔父の請判があらば、貸出しそうなものが有る。商法の資本として、二千円ばかり借りて来たい。迷惑は掛けないから、判だけ捺してくれ。
「実は──この話は、母親さんからこうこういう人があると、聞出したのが元なんです」と正太は折入って三吉に頼んだ。
お種は髪が出来て上って来た。
「三吉──もう俺も親類廻りは済ましたし、是頃の晩のようなことが有ると可恐しいで、サッサと郷里の方へ帰るわい」
こう話しているところへ、お仙も来て、名残惜しそうに叔父の方を見たり、二階から見える町々の光景などを眺めたりした。
「なあ、お仙」とお種は娘の方を見て、「三吉叔父さんにも御目に掛ったし、これでお前も気が済んだずら……早く仕度をして帰るまいかや」
「ええ、田舎の方が安気で好い。兄さんや姉さんの傍に居られるだけは、東京も好いけれど──」とお仙は皆なの顔を見比べながら言った。
三吉が別れを告げて、この家を出たのは町に燈火の点き始める頃であった。薄暗く成って、復た三吉は引返して来た。つづいて森彦も入って来た。
「オヤ、三吉叔父さん、森彦叔父さんも御一緒に……」
と豊世は迎えに出た。二人の叔父は用事ありげに下座敷へ通った。
「叔父さん達は御風呂は如何ですか」と豊世は款待顔に、「今日は、郷里へ帰る人の御馳走に立てましたところですが──」
「それじゃ、とにかく一ぱい入るとしよう」と森彦が言った。
皆な出発するという前の晩のことで、何となく家の内は混雑していた。
食事を済ました後、叔父達は二階の縁側に近く居て、風呂から出る正太を待受けた。屋外は最早暗かった。お仙は煙草盆の火を見に上って来た。
森彦は胡坐にやりながら、
「お仙、兄さんは未だお風呂かネ」
「いえ、もう上ったずら……これから私達もよばれるところだ」
こう言って、お仙は一寸縁側へ出た。沈んだ空気は対岸の町々を遠くして見せた。河は湖水のように静かであった。お仙は欄のところから夜の空を眺めて見て、やがて階下へ引返して行った。
そのうちに正太が煙草入を手にして上って来た。チラと彼の眼は光った。
森彦は肥った身体を正太の方へ向けたが、顔はむしろ三吉の方へ向けて、
「いや、他でも無いがネ──俺は途中で三吉と行き逢って、彼がお前から相談を受けたという話を聞いた。そいつは考え物だぞ、三吉も一緒に来い、俺が行って正太によく話してやる。そう言って彼を引張って来たところだ」
「ああ、そのことですか」と正太は苦笑した。
三吉は河の方を見ていた。森彦は正太を諭すように、みすみす三吉に迷惑の掛るものを黙って観ている訳には行かぬ、証文に判をつけ──実も達雄も皆な同じ行き方で親類を倒している──こう腕まくりで言出した。
「そういうことなら、叔父さん、この話は断然止めましょう」
と正太はキッパリ答えた。
お種が階下から煙草盆を提げて談話の仲間入に来た頃は、森彦の声は高かった。ウンと言わなければ気の済まないのがこの叔父の癖で、お種や正太を前に置きながら、盛んに橋本父子を攻撃し始めた。叔父の目から見ると、正太の相場学なぞは未だ未だ幼稚なもので、仲買人のナの字にも行っておらぬ。こんなことが森彦の口を衝いて出て来た。
その時、豊世もお仙と一緒に、浴衣でやって来た。叔父の猛烈な語勢が、階下にいる老婆はおろか、どうかすると隣近所までも聞えそうなので、心の好いお仙は沈着いていられないという風であった。母の傍へ行ったり、兄の顔を眺めたりして、ハラハラしていた。
「森彦──お前の言うことは、好く解った……好く解った……正太も、叔父さんの言うことをよく聞いて置いて、橋本の家を興してくれるが可いぞや……ええ、ええ、それを忘れるようなことじゃ、申訳が無いで……」
こうお種は言いかけたが、興奮のあまり声が咽喉へ乾干び付いたように成った。豊世も姑の側に考深い眼付をして、女持の煙管で煙草を燻していた。
「今までの家風は、皆なが言うことを言わなさ過ぎたと思いますわ」と豊世は顔を揚げて、「母親さん、これから皆なでもっと言うことにしようじゃ有りませんか」
軽い、無邪気な、お仙の笑声が起った。
漸く、一同、笑って話すことが出来るように成った。森彦も愛嬌のある微笑を見せて、
「なんでも人間は信用が無くちゃ駄目だ。俺なんかも、十年一日のごとしで、志ばかり徒に大きいようなものだが、信用を失わないように心掛けているんで持ってる……」
「そうサ。お前は酒も飲まず、煙草も服まず──そこは一寸真似の出来ないところだ」とお種が言った。
「これで何だぞい、俺は旅舎生活を始めてから、唯の二度しか引手茶屋へも遊びに行ったことが無い。それも交際で止むを得ない時ばかり。一度はMさんの出て来た時、一度は──」
「二度と断ったところはよかった」と三吉が笑出した。
「いえ、正直な話サ」
森彦は三吉を睨むようにして言ったが、終には自分でも可笑しく成ったと見えて、反返って笑った。
「姉さん」と森彦はお種の方を見て、「俺はこういう話を覚えているが──貴方達が未だ東京に家を持ってる時分、お仙が二階から転がり落ちて、ヒドク頭を打った──それを貴方達は知らずに寝ていたということだが──」
「そんなことは、虚言だ」とお種は腹立たしげに打消した。
「とにかく、今夜のような話は、為る方が可いネ」と三吉が正太に言った。
「稀にはこういう話も聞かんと不可」正太も元気づいた。
お種は弟を顧みて、「三吉、お前は私のことを……旦那に逢って見る積りで、今度出て来たんだろうなんて、そう言ったそうなネ……」と他事のように言った。
「まあそんな話が出たことも有りました」と三吉は微笑んで、「しかし、姉さん、子のことも考えんけりゃ成りませんからネ」
「ええ、ええ、そこどこじゃない」とお種は力を入れた。
しばらく森彦は姉の横顔を眺めたが、やがて、
「この婆サも、これで未だ色気が有る」
と急所を衝くように言い放った。盛んな笑声が起った。一同の視線はお種の方へ集った。
「ウン有る──有る、有る」
お種は口を尖らせて、激した調子で答えた。そして、ブルブル身体を震るわせた。
「風向が変って来ましたぜ」と三吉は戯れるように。
「今度は俺の方へお櫃が廻って来たそうな」とお種も笑い砕けた。
お仙は手を振って笑った。
「しかし、串談はとにかく」とお種は浴衣の襟を掻合せて、「こう皆な集ることも、めったに無い。どうだ、豊世、お前も何か言うことがあらば──叔父さん達の前で言えや」
「母親さん、私は……別に言うことも有りません」
と答えて、豊世は胸を押えながら、俯向いて了った。
叔父達が夏羽織を引掛けて、起ち上った頃は、対岸の灯も幽かに成った。混雑した心地で、一同は互に別れを告げた。
「いや、危いところ──」
と森彦は正太の家を離れてから、三吉に言った。
昼間から花火の音がする。
両国に近い三吉の家では、毎年川開の時の例で、親類の娘達を待受けた。豊世も、その日約束して置いて、誰よりも先にお雪のところへ遊びに来ていた。
「よくそれでも、叔母さんは子供の世話を成さいますねえ」
「私だって心から子供が好きじゃ有りません」
叔母のような家庭的な人の口から、意外な答を聞いたという面持で、豊世は母衣蚊屋の内にスヤスヤ眠っている乳呑児の方を眺めた。そこへ二番目の新吉を背負った下婢に連れられて、種夫が表の方から入って来た。
「種ちゃんも、新ちゃんも、オベベを着更えましょう。今に姉さん方がいらっしゃるよ」とお雪が言った。
「どれ、種ちゃんは叔母さんの方へいらっしゃい」と豊世は種夫に手招きして見せて、「豊世叔母さんが好くして進げましょうネ」
幼い兄弟は揃いの新しい浴衣に着更えた。丁度、三吉は町まで用達に出掛けた時で、子供に金魚を買って戻って来た。
「正太さんは?」
三吉は豊世の顔を見て尋ねた。お種を送りながら郷里の方へ行った正太も、最早引返して来ていた。
「宅は後から伺いますって」と豊世は微笑んで、「どうして、宅がこんな日に静止していられるもんですか」
「今、豊世さんから伺ったんですが」とお雪は夫に、「塩瀬の御店もイケなく成ったそうです」
「叔父さんは未だ御聞きに成りませんか」と豊世が言った。
「いよいよ駄目なんですか。好い店のようでしたがナ。そいつは正太さんも気の毒だ」
「真実に相場師ばかりは、明日のことがどう成るか解りませんネ。川向に居ます時分──あの頃のことを思うと、百円位のお金は平素紙入の中に入っていたんですがねえ」と言って、豊世は萎れて、「そう言えば、森彦叔父さんにああ言って頂いたんで、宜う御座んしたよ。あのお金を借りて持っていようものなら、それこそ──今頃はどう成っているか解りません」
三吉はお雪と顔を見合せた。
「私もツマリませんから、花火でも見て遊びますわ」と豊世は嘆息した。
お雪は着物を着更えた。豊世は叔父から巻煙草を分けて貰って、眼を細くしながらそれを吸った。三吉も煙草を燻していたが、やがて独りで二階へ上って行った。
黄色い花火の煙が町の空に浮んだ。三吉は二階の縁側に出て、往来へ向いた簾の影から眺めた。
「……人妻などに成るものではないと、よく貴方から言って寄したから、ひょっとかすると最早名倉さんの方へ帰っているかとも思うが……試みにこの手紙を進げる……」
こう三吉は心に繰返して見た。これはお雪が旧い男の友達から、彼女へ宛てて寄した手紙の中の文句で。
言うに言われぬ失望が、ふとこの手紙を読んだ時から、三吉の胸に起って来た。長く艱難を共にしながら、これ程妻が自分を知らずにいたか、と彼は心にナサケなく思った。のみならず、全く心の持方の違った、気質も異なれば境遇も別な、こういう他人の手紙の中から、どう妻の心を読んだら可いか、第一それからして思い迷った。
ポンポン音がする。煙は風に送られて、柳の花のように垂下った。三吉はションボリ立って眺めていた。
「叔父さん──」
と声を掛けて、正太がズカズカ階梯を上って来た。
急に三吉は沈鬱な心の底から浮び上ったように笑った。正太と一緒に坐って、兜町の方の噂を始めた。
「塩瀬の店も駄目だそうだネ」と彼が言って見た。
「豊世からでも御聞きでしたか」と正太は叔父の方をキッと見て、「私が兜町へ入る頃から、塩瀬というものは実は駄目だったんです。外部を弥縫していましたから、店に使われる者すら知らなかった。幹部へ入ってみて、それが解った。いよいよあの店も致命傷を負いました。銀行からは取付を食う、得意は責めて来る──そう成ったら、実にミジメなものですよ。多分、あの店は、一旦閉めて、更に広田というものの名義で小さく始めることに成るでしょう。私なぞは、今までの行き掛り上、相談には乗ってやっていますが、殆んど手を引いたようなものです」
すべての劃策は水泡に帰した、と正太は歎息した。彼は仲買人として、別に立つ方法を講じなければ成らない、とも言った。
「榊君はどうしたろう」と三吉は思出したように。
「あの人も失敗して、郷里へ帰ったきりです。再挙を計る心は無さそうです」
こんな話をしていると、階下では娘達の笑声が起った。二人は一緒に階梯を下りた。お俊、お延、お絹を始め、お雪が末の妹のお幾も集って来た。娘達の中には、縁先に来て、涼しそうな鳴海絞を着た種夫や新吉に、金魚を見せているものも有った。
「お雪、皆なで写真を撮ろうじゃないか。お前達は子供を連れて先に写してお出。俺は正太さんと二人で写す」
と三吉は妻を呼んで言った。お雪は嬉しそうに微笑んだ。往来にはゾロゾロ人の通る足音がした。
夕方から、表の木戸を開けはらって、風通しの好い簾の影で、一同揃って冷麦を食った。
「世が世なら、伝馬の一艘も買切って押出すのにナア」
と正太は白い扇子をバチバチ言わせながら、叔父と一緒に門の外へ出て見た。
「お俊ちゃん達もいらっしゃいな」
お雪は娘達を呼んで、豊世と一緒に入口の庭へ下りた。町中のことで、往来の片隅に涼台を持出して、あるものは腰掛け、あるものは立って通る人々の風俗を眺めた。
「お俊ちゃんは島田に結っていらっしゃれば可いのに。好く似合いますわ」と豊世はお俊の方を見た。
「此頃もネ、お俊姉さんのは催促髷だなんて、皆なでサンザン冷かしました。ですから姉さんは結っていらっしゃらないんですよ」
こうお絹が言出したので、娘達は皆な笑った。
「絹ちゃんは感心に、田舎訛が出ないこと」と豊世は言って見た。
「郷里で稽古して来たんですもの」とお絹はすこし下を向いた。
「延ちゃんは、もうすっかり東京言葉だ」とお雪も娘達の発達に驚くという眼付をした。
群集は町を隔てて潮のように押寄せて来ている。花火の音と一緒に、狂喜する喚声が遠く近く響き渡る。正太と三吉は、河岸を一廻りして戻って来た。娘達は揃って出掛けようとした。
「ハイカラねえ」
とお延は、町を通る若い娘を叔父に指してみせて置いて、連の後を追った。
お雪は子供を見に家の内へ入ったが、やがて茶を入れて涼台のところへ持って来た。豊世も煙草盆を運んだ。
「お俊ちゃんから今日話がありましたが」とお雪は夫の傍へ寄って、「お祝の時には、私の帯を貸して下さいッて」
「帯は自分のが有るじゃないか」と三吉が言った。
「御婚礼の時の着物に似合わないんですッて」
「じゃあ、貸して進げるサ」
こんな内輪話をしている叔母を誘って、豊世は河岸の方へ歩きに出掛けた。涼台のところには、正太と三吉と二人残った。
三吉は笑いながら「向島もどうしましたかネ」
と小金の噂なぞをして見た。二人の間には、向島で意味が通じた。
「豊世のやつも、気ばかり揉んで──弱っちまう」と正太は歎息するように。
「いっそ、向島に逢わせてみたらどうです」と三吉は戯れて言った。
「いえ、叔父さん、既に最早逢わせてみたんです。駄目、駄目、それほど豊世がサバケていないんですからネ。土手のある待合でした。そこへ豊世を連れて行くと、向島も来て変に思ったと見えて、容易に顔を出しませんでした。あそこで、豊世が一つ笑ってくれると可いんでサ……」
「そりゃ、君、笑えないサ。女同志だもの」
「すると、さすがは商売人だ。人が悪いや。帰りに向島が車を二台あつらえて、わざわざ二人乗の方へ豊世と私を乗せて、自分は一人乗でそこいらまで送って来ました……後で、豊世の言草が好いじゃ有りませんか、『もっと私は凄い女かなんかと思っていた、貴方はあんなのが好いんですか』ッて……しかしネ、叔父さん、色に持つなら私はああいう温順しいのを選びますよ。そのかわり、取巻にはどんな凄いんでも……」
紅や薄紫の花火の色が、夜の空に映ったり消えたりした。二人が腰掛けている涼台から、その光を望むことが出来た。三吉は、多勢子供を失ってから、気に成るという風で、時々自分の家の内を覗きに行って、それから復た正太の話を聞きに来た。
どうかすると、三吉の心は空の方へ行った。半ば独語のように、
「家というものはどうしてこう煩しいもんでしょう。僕のところなぞは、もうすこしウマく行きそうなものだがナア……」
こう正太に話して聞かせた。
そのうちに、豊世やお雪は手を引き合いながら、明るい軒燈の影を帰って来た。二人とも下町風の髪を結って、丁度背も同じ程の高さである。お雪は三十を一つ越し、豊世もやがて三十に近かった。お雪が堅肥りのした肩や、乳の張った胸のあたりに比べると、豊世の方はやや痩せていたが、それでも体格の女らしく発達したことは、二人ともよく似ていた。二人は話し話し涼台の方へ近いた。
間もなく娘達も手を引いて帰って来た。私語く声、軽く笑う声が、そこにも、ここにも起った。知らない男や女は幾群となく皆なの側を通過ぎた。
仕掛花火も終った頃、三吉は正太と連立って、もう一遍橋の畔まで出て見た。提灯や万燈を点けて帰って行く舟を見ると、中には兜町方面の店印をも数えることが出来る。急に正太は意気の銷沈を感じた。叔父と一緒に引返した。
遅く成ったので、花火を見に来た娘達は分れて泊ることに成った。お俊とお絹は正太夫婦に連れられて行った。三吉の家には、お延、お幾が残った。
町中の夏の夜。郊外では四月五月も釣る蚊帳が、ここでは二十日か、三十日位しか要らない。でも、毎年のように蚊が増えた。その晩も皆な蚊帳の内へ入った。
ふと、三吉が眼を覚ました頃は、家のものは寝静まっていた。蚊の声がウルサく耳について、しばらく彼は眠られなかった。枕頭の方では、乳臭い子供の香をたずねると見え、幾羽となく集って来ていた。蚊帳の内にも飛んでいた。三吉は床を離れた。蝋燭とマッチを探って来て、火を点した。妻子はいずれもよく寝ていた。緑色の麻蚊帳が明るく映っても、目を覚まして声を掛けるものは無かった。
「種ちゃんはあんなところへ行って、転がってる──仕様が無いナア、皆な寝相が悪くて」
こう三吉は、叱るように言って見て、あちこちと子供の上を跨いで歩いた。
蚊を焼きながら、三吉はお雪の枕許へ来た。まだお雪は知らずに寝ていた。見ると、何等の記憶に苦むということも無いような顔付をして、乳呑児の頭の方へ無心に母らしい手を延ばしながら、静かに横に成っていた。三吉は燭台を妻の寝顔に寄せた。そして、お雪の心を読もうとするような眼付をして、猶よく見た。何物も変ったものが蝋燭の光に映らなかった……深い眠はお雪の身体を支配しているらしかった。顔面のどの部分でも、眠っていないところは無かった。白い腕までも夢を見ていた。
蚊帳の外まで燭台を持って廻った後、三吉は火を吹き消した。復た自分の床に入って、枕に就いた。
翌朝は、お延やお幾が種夫を間に入れて、三吉夫婦と一緒に食事した。新吉もその傍で、下婢に食べさせて貰った。
「いやです、父さん──人の顔をジロジロ見て」とお雪は食いながら言った。
「見たって可いじゃないか」と三吉は串談らしく。
「そんなに見なくたって宜う御座んす」
とお雪が言ったので、娘達はクスクス笑った。
「どうだ、昨夜俺は起きて、お前達の知らない時に蚊を焼いたが……皆なよく寝ていた」と言って、三吉は戯れるような口調で、「叔父さんは延の寝言まで聞いちゃった」
「嘘、叔父さん、私が寝言なんか言うもんですか」とお延が笑う。
「私は、兄さんが蚊を焼きにいらしったのを知ってたけれど……黙って寝た振をしていた」とお幾も笑った。
間もなく三吉は独りで自分の部屋へ上って行った。
二階──そこは三吉が山から持って来た机の置いてあるところで。そこから坐りながら町々の屋根や、水に近い空なぞを望むことが出来る。そこから階下に居る人達の声を手に取るように聞くことも出来る。彼が仕事で夢中に成っている時は、夜遅くまで洋燈が点いて、近所の家々で寝て了う頃にも、未だそこからは燈火が泄れていることもある。
階下から聞える声は、とは言え三吉の心を静かにしては置かなかった。男と女で争うなぞはクダラナいことだ、こう思いながら、知らず知らず彼はその中へ捲込まれて行った。何時まで経ったら、夫と妻の心の顔が真実に合う日が有るだろう。そんなことを考えるさえ、彼は厭わしそうな眼付をした。
夫としての三吉は、妻の変らない保護者で有った。しかし好い話相手では無かった。妙に、彼はお雪の前に長く坐っていられなかった。すこし長く妻と話をして居ると、もう彼は退屈して了った……こういう性分の三吉に比べると、もっと心易い人が世の中にはある。そういう人が階下へ来て、皆なを笑わせることも有る。それを三吉は二階から聞く度に、侘しい心を起した。どうかすると、彼は階梯を馳け降りるようにして、そういう人の手から自分の子供を抱取ることも有った。
「人の細君をつかまえて、雪さんなどと平気で書いて寄す男もある」
と三吉は思ってみた。そういう人が妻には親切な面白い人のように言われても、その無邪気さを三吉はどうすることも出来なかった。
すこしの言葉の争いから、お雪は鬱いで了うことが多かった。すると、三吉は二階から下りて、時には妻の前に手を突いて、「何卒まあ宜敷御頼申します」と詫びるように言った。
お俊の結婚がある頃は、三吉の家では名倉の母を迎えた。大きな名倉の家族に取って無くてならない調和者はこの人であった。「橋本の姉さんと、名倉の母親さんとは、丁度両方の端に居る人だ」と三吉はよくお雪に言って聞かせるが、この母は多くの養子に対してばかりでなく、娘を嫁けた先の三吉に対しても細いところまで行き届く。倦まず立働く人で、お雪の傍に居ても直に眼鏡を掛けて、孫の為に継物したり、娘の仕事を手伝ったりした。
丁度、勉も商用で上京していた。勉の旅舎はさ程離れてもいなかったし、それに名倉の母が逗留中なので、用達の序に来ては三吉の家へ寄った。お雪が母親の周囲には賑かな話声が絶えなかった。
こういう中で、とかく三吉は沈み勝ちであった。賢い名倉の母に隠れるようにして、日の暮れる頃には町の方へ歩きに出た。何処へ行こう。何を見よう。別に彼はそんな目的があるでもなかった。唯、家から飛出して行って、路を通る往来の人の中に交った。彼の足は電車の通う橋の方へ向き易かった。そこから、黄昏時の空気、チラチラ点く燈火、並木道、ゴチャゴチャした町の建物なぞを眺めては帰って来た。家の近くには、人の集る寄席がある。そこへも彼はよく独りで出掛けて行った。芸人が高座でする毎時きまりきった色話だとか、仮白だとかが、それほど彼の耳を慰めるでも無かった。彼は好きな巻煙草を燻しながら、後の方の隠れた場所に座蒲団を敷いて、独りで黙って坐った。そして、知らない人の中に居て、言い難き悲哀を忘れようとした。
名倉の母は長く逗留していた。その間に、お雪は留守番を母に頼んで置いて、旧の学校友達だの、豊世の家だのを訪問して歩いた。子持で、しかも年寄のない家に居ては、こういう機会がお雪には少なかったからで。三吉は妻の外出にすら、何とも言ってみようの無い不安な感じを抱くように成った。
ある晩、お雪は直樹の家を訪ねると言って出て行った。十時過ぐる頃まで帰って来なかった。妙に三吉は心配に成って来た。
「母親さん──お雪はどうしたでしょう。こんなに遅くなっても、未だ帰りません。一寸私はそこいらまで行って見て来ます」
こう名倉の母に言って置いて、三吉は直樹の家まで妻を迎えに行った。
橋の畔で彼はお雪の帰って来るのに行き逢った。
「父さん」
と声を掛けられて、三吉はやや安心したように、
「心配したぜ。こんなに遅くまで話し込んでるやつが有るもんか。もうすこしで、俺は直樹さんの家まで行っちまうところだった」
お雪は夫に寄添った。こうして二人ぎりで一緒に歩くということは、夫婦にはめったに無かった。三吉は妻を連れて、暗い道を静かに考深く歩いて帰った。
「──『一体お前はどういう積りで俺の許へ嫁に来た』なんて、よく父さんがそんなことを私に言いますよ」
「へえ、父さんはそういう心でいるのかねえ」
こうお雪と母親とで話しているところへ、勉が商人風の服装をして、表から入って来た。勉は大阪まで行って来たことから、東京での商用も弁じた、荷積も終った、明日は帰国の途に就くことなぞを話した。この人とお雪の妹との間には、最早種夫と同年の子供がある。
「父さん、〓(「ひとがしら/ナ」)がお別れに参りました。一寸逢ってやって下さい」
と名倉の母が階梯の下から呼んだ。
三吉も談話の仲間に入った。快活な世慣れた勉の口から、三吉は種々な商人の生活を聞くことを楽んだ。勉もよく話した。
勉とお雪の愛。それを知って、三吉が二人を許してから、可成長い月日が経つ。三吉は勉に交際ってみて、好くその気心も解った。以前のことは最早昔話のように思われるまでに成っていた。制え難い不安の念につれて、幾年となく忘れられていた苦痛が復た起って来た。男同志さしむかいでいれば、三吉の方でも快心く話せる。そこへお雪が入って来ると、妙に彼は笑えなかった。
勉は三吉の蒼ざめた顔を眺めて、
「しかし、小泉さんも御多忙しいでしょう」
「ええ、ええ、多忙しい人です」と母は引取って、やがて三吉の方を見て、「父さん──貴方は御仕事の方を成すって下さい。何卒お構いなく」
名倉の母は茶を入れかえて、帰国するという養子にすすめ、茶の好きな娘の亭主にも飲ませた。
間もなく勉は旅舎の方へ戻って行った。三吉は勉の子供へと思って、土産にする物を町から買求めて来た。それを持って妻の前に立った。
「父さん、何物か──」と種夫は見つけて、父に縋りつく。
「お前のお土産じゃ無いよ。あっちの叔父さんに進げるんだよ」と三吉は子供に言い聞かせて、やがてお雪に、「これはお前に頼むぜ──俺のかわりに、後で勉さんの旅舎まで行って来ておくれ」
「そんなことをしなくッても宜う御座んすに」
と母は顔を出して言った。
夕飯の後、三吉は二階に上って、机に対って見た。「馬鹿」と彼は自分で自分を叱った。「どうでも可いじゃないか、そんな事は……傍観者で沢山だ」こう復た自分に言って見た。不思議な本能の力は、しかし彼を唯傍観させては置かなかった。何時の間にか、彼はお雪が勉の旅舎に訪ねて行く時のことを想像した。彼女と勉との交換す言葉を想像した。
「どうしたというんだ、一体俺は……」
思い屈したような眼付をして、彼は部屋を見廻した。
その時、「君は嫉んだことが有るか……」こうある仏蘭西人の物語の中にあった言葉を胸に浮べて、三吉は心に悲しく思った。男が嫉む──それが自分のことだと感じた時は、彼は自分の性質を恥じずにいられなかった。許した、許した、とは言ったものの、未だ真実に勉やお雪を許してはいなかった、とも思って来た。
階下では、三人の子供も寝た。お雪は仕度が出来たと見えて階梯のところへ来て声を掛けた。
「じゃ、父さん、一寸行って参ります」
表の木戸を開けていそいそと出て行く妻の様子は、二階に居てよく知れた。三吉は熟と耳を澄まして、お雪の下駄の音を聞いた。
震える自分の身体を見ながら、三吉は妻の帰りを待っていた。人が離縁を思うのもこういう時だろう。こんなことを悲しく考えて、終に、今まで起したことも無い思想に落ちて行った。僧侶のような禁欲の生活──寂しい寂しい生活──しかし、それより外に、養うべき妻子を養いながら、同時にこの苦痛を忘れるような方法は先ず見当らなかった。このまま家を寺院精舎と観る。出来ない相談とも思われなかった。三吉はその道を行こうと考え迷った。
お雪は、勉が留守だったと言って、旅舎の方から戻って来た。
翌日、勉からは、三吉とお雪の両名宛で、葉書が届いた。それには、子供への土産の礼を述べ、折角姉上が訪ねてくれたのに、不在で失礼した、これから郷里へ向う、母上にも宜しく、としてあった。
十月は末に成って、三吉は長い風邪に侵された。名倉の母は未だ逗留していた。熱のある夫の為に、お雪は風薬だの、食物だのをこしらえた。それを二階に寝ている夫の枕許へ運んだ。時には、子供が随いて上って来て、母の肩につかまったり、手を引いたりして戯れた。
「叔父さんは御風邪ですか」
正太が階梯を上って来た。三吉は快くなりかけた時で、厚いドテラを引掛けたまま、床の上に起直った。
「正太さん、失礼します」と三吉は坊主枕を膝の上に乗せて言った。
「御無沙汰しておりますが、豊世さんも御変りは有りませんか」
こうお雪は正太に尋ねて、元気づいた夫の笑声を聞きながら階下へ降りて行った。
「どうです、兜町の方は」と三吉は正太が言わない先に言出した。「何とか言いましたネ、広田サ……今度の店の方はどうですかネ」
正太は寂しそうに笑った。「ええ、まあ暖簾が掛けてあるというばかり。それに、叔父さん、店員は大抵去りましたし、あの店も小さいところへ移りました……塩瀬の没落以来、もう昔日の面影はありません」
「でも、君は出てはいるんでしょう」
「この節は、遊びです。実は此頃、広田の店の為に、一策を立てて見ました。まあ、乗るか反るか、一つやッつけろと言うんで。あるところへ一日の中に九度も車で駆付けさして、しかも雨のドシャ降りの日に、この店を活かすなり殺すなりどうなりともしてくれ、そう言って私が転がり込んで行った……宛然ユスリですネ……どうしても先方で逢わない。すると、広田の店の方で、どうも橋本は凄いことをするなんて、そんな裏切者が出て来る……胆ッ玉の小さな男ばかり揃ってるんでサ。あんなことで何が出来るもんですか。私も何卒して、早く新しい立場を作らんけりゃ成らん……」
正太の眼は物凄く輝いた。同時に、何となく萎れた色を見せた。やがて彼は袂を探って、鉛の入った繭を取出した。仕事もなく、徒然なまま、この繭を土台にして、慰みに子供の玩具を考案している。こんなことを叔父に語った。正太は紀文が遺したという翫具の話なぞを引いて、さすがに風雅な人は面白いところが有る、とも言った。
日の光は町々の屋根を掠めて、部屋の内へ射込んでいた。臥床の上にツクネンとしている叔父の前で、正太はその鉛の入った繭を転がして見せた。
夫は家を寺院と観念しても、妻はもとより尼では無かった。
そればかりでは無い、若い時から落魄の苦痛までも嘗めて来た三吉には、薬を飲ませ、物を食わせる人の情を思わずにいられなかった。彼が臥床を離れる頃には、最早還俗して了った。彼の精神は激しく動揺した。屈辱をも感じた。
兄妹の愛──そんな風に彼の思想は変って行った。彼は自分の妹としてお雪のことを考えようと思った。
十一月の空気のすこし暗い日のことであった。めずらしく三吉はお雪を連れて、町の方へ買物に出た。お雪は紺色のコートをちょっとしたヨソイキの着物の上に着て、手袋をはめながら夫に随いて行った。「まあ、父さんには無いことだ──御天気でも変りゃしないか」とお雪は眼で言わせた。
ある町へ出た。途中で三吉は立ち留って、
「オイ、もうすこしシャンとしてお歩きよ……そんな可恥しいような容子をして歩かないで。是方がキマリが悪いや」
「だって、私には……」
とお雪はすこし顔を紅めた。
買物した後、三吉はお雪をある洋食屋の二階へ案内した。他に客も見えなかった。窓に近い食卓を選んで、三吉は椅子に腰掛けた。お雪も手袋を取って、よく働いた女らしい手を、白い食卓の布の上に置いた。
「ここですか、貴方の贔顧にしてる家は」
とお雪は言って、花瓶だの、鏡だの、古風な油絵の額だので飾ってある食堂の内を見廻した。彼女は又、玻璃窓の方へも立って行って、そこから見える町々の屋根などを眺めた。
白い上衣を着けたボオイが皿を運んで来た。三吉は匙を取上げながら、妻の顔を眺めて、
「どうだネ。お前の旧い友達で、誰か可羨しいような人が有るかネ。ホラ、黒縮緬の羽織を着て、一度お前の許へ訪ねて来た人が有ったろう。あの人も見違えるほどお婆さんに成ったネ」
「多勢子供が有るんですもの……」とお雪は思出したような眼付をして、スウプを吸った。
「旦那に仕送りするなんて言って、亜米利加へ稼ぎに行った人もどうしたかサ。そうかと思えば、旦那と子供を置いて、独りで某処へ行ってる人もある……妙な噂があるぜ、ああいう人がお前には好いのかネ」
「でも、あの人は感心な人です」
「そうかナア……」
ボオイが皿を取替えて行った。しばらく夫婦は黙って食った。
「芝に居る人はどうなんかネ」と復た三吉が言った。「よくお前が遊びに行くじゃないか」
「あの人も旦那さんが弱くッて……平常つまらない、つまらないッて、愚痴ばかしコボして……」
「何と言っても、女は長生するよ。直樹さんの家を御覧な、老祖母さんが一人残ってる。強い証拠だ。大きな、肥った体躯をした他の内儀さんなぞが、女というものは弱いもんですなんて、そんなことを聞くと俺は可笑しく成っちまう……」
「でも、男の人の方が可羨しい。二度と女なんかに生れて来るもんじゃ有りません」
夕日が輝いて来た。食堂の玻璃窓は一つ一つ深い絵のように見えた。屋外の町々は次第に薄暗い空気の中へ沈んで行った。やがて夫婦はこの食堂を下りた。物憂い生活に逆うような眼付をしながら、三吉は満腹した「妹」を連れて家の方へ帰って行った。
駒形から川について厩橋の横を通り、あれから狭い裏町を折れ曲って、更に蔵前の通りへ出、長い並木路を三吉叔父の家まで、正太は非常に静かに歩いた。
叔父は旅から帰って来た頃であった。正太は入口の庭のところに立って声を掛けた。
「叔父さん、御暇でしたら、すこし其辺を御歩きに成りませんか」
「御供しましょう──しかし、一寸まあ上り給えナ」
こう答えて、三吉は甥を下座敷へ通した。
家には客もあった。お雪の父。この老人は遠く国から出掛けて、三吉の家で年越した母と一緒に成りに来た。それほど長く母も逗留していた。
「や、毎度どうも──」
と名倉の老人は正太に挨拶した。気象の壮んなこの人でも、寄る年波ばかりは争われなかった。髯は余程白かった。
二階へ上って、叔父と一緒に茶を飲む頃は、正太は改まってもいなかった。旅から日に焼けて来た叔父の顔を眺めながら、
「時に、叔父さん、吾家の阿爺も……いよいよ満洲の方へ行ったそうです」
こんなことを正太が言出したので、三吉は仕掛けた旅の話を止めた。
「阿爺もネ──」と正太は声を低くして、「ホラ、長らく神戸に居ましたろう。何か神戸でも失敗したらしい。トドのツマリが満洲行と成ったんです……実叔父さんを頼って行ったものらしいんです……実は私も知らずにおりました。昨夕お倉叔母さんが見えまして──あの叔母さんも、お俊ちゃんはお嫁さんに成るし、寂しいもんですから、吾家で一晩泊りましてネ──その時、話が有りました。実叔父さんから手紙で阿爺のことを知らせて寄したそうです……」
橋本の達雄と小泉の実とが満洲で落合ったということは、話す正太にも、聞く三吉にも、言うに言われぬ思を与えた。つくづく二人は二大家族の家長達の運命を思った。
三吉は旅の話に移った。一週間ばかり家を離れたことを話した。山間の谿流の音にしばらく浮世を忘れた連の人達も、帰りの温泉宿では家の方の話で持切って、皆な妻子を案じながら帰って来たなどと話した。
古い港の町、燈台の見える海、奇異な女の風俗などのついた絵葉書が、そこへ取出された。三吉は思いついたように、微笑を浮べながら、
「どうです、向島へ一枚出してやろうじゃ有りませんか」
叔父の戯を、正太も興のあることに思った。彼は自分で小金の宛名を認めて、裏の白い燈台の傍には「御存じより」と書いた。この「御存じより」が三吉を笑わせた。彼も何か書いた。
三吉は立ちがけに、
「豊世さんが聞いたら苦い顔をすることだろうネ……」
こう言って復た笑った。
正太はヒドく元気が無かった。絵葉書を懐中にしながら階下へ降りて、名倉の老人の側を通った。三吉も、勝手の方で働いているお雪に言葉を掛けて置いて、甥と一緒に歩きに出た。
蔵つづきの間にある狭い路地を通り抜けて、二人は白壁の並んだところへ出た。そこは三吉がよく散歩に行く河岸である。石垣の下には神田川が流れている。繁華な町中に、こんな静かな場処もあるかと思われる位で、薄く曇った二月末の日が黒ずんだ水に映っていた。
船から河岸へ通う物揚場の石段の上には、切石が袖垣のように積重ねてある。その端には鉄の鎖が繋いである。二人はこの石に倚凭った。満洲の方の噂が出た。三吉は思いやるように、
「両雄相会して、酒でも酌むような時には──さぞ感慨に堪えないことだろうナ」
正太も思いやるような眼付をして、足許に遊んでいる鶏を見た。
水に臨んだ柳並木は未だ枯々として、蕭散な感じを与える。三吉はその枝の細く垂下った下を、あちこちと歩いた。やがて正太の方へ引返して来た。
「正太さん、君の仕事の方はどうなんですか──未だ遊びですか」
こう言って、石の上に巻煙草を取出して、それを正太にも勧めた。
正太は沮喪したように笑いながら、「折角、好い口があって、その店へ入るばかりに成ったところが……広田が裏から行って私の邪魔をした。その方もオジャンでサ」
「そんな人の悪いことを為るかねえ。手を携えてやった味方同志じゃないか」
「そりゃ、叔父さん、相場師の社会と来たら、実に酷いものです。同輩を陥入れることなぞは、何とも思ってやしません。手の裏を反すようなものです……苟くも自己の利益に成るような事なら、何でも行ります……自分が手柄をした時に、そいつを誇ること、他の功名を嫉むこと、それから他の失敗を冷笑すること──親子の間柄でも容赦はない……相場師の神経質と嫉妬心と来たら、恐らく芸術家以上でしょう」
正太は叔父の心当りの人で、もし兜町に関係のある人が有らば、紹介してくれ、心掛けて置いてくれ、こんなことまで頼んで置いて、叔父と一緒に石段の傍を離れた。
二人は河口の方へ静かに歩るいて行った。橋の畔へ出ると、神田川の水が落合うところで、歌舞歓楽の区域の一角が水の方へ突出て居る。その辺は正太にとっての交際場裏で、よく客を連れては遊興にやって来たところだ。「橋本さん」と言えば、可成顔が売れたものだ。「しばらく来ないな──」と正太は呟きながら、いくらか勾配のある道を河口の方へ下りた。
隅田川が見える。白い、可憐な都鳥が飛んでいる。川上の方に見える対岸の町々、煙突の煙なぞが、濁った空気を通して、ゴチャゴチャ二人の眼に映った。
「河の香からして変って来た。往時の隅田川では無いネ」
と三吉は眺め入った。
岸について両国の方へ折れ曲って行くと、小さな公園の前あたりには、種々な人が往ったり来たりしている。男と女の連が幾組となく二人の前を通る。
「正太さん、君は女を見てこの節どんな風に考えるネ」
「さあねえ──」
「何だか僕は……女を見ると苦しく成って来る」
こう話し話し、三吉は正太と並んで、青物市場などのあたりから、浜町河岸の方へ歩いて行った。対岸には大きな煙突が立った。昔の深川風の町々は埋立地の陰に隠れた。正太は川向に住んだ時のことを思出すという風で、あの家へはよく榊がやって来て、壮んに気焔を吐いたことなどを言出した。
その時、彼は岸に近く添うて歩きながら、
「榊君と言えば、先生も引込きりか……あれで、叔父さん、榊君の遊び方と私の遊び方とは全然違うんです……先生の恋には、選択は無い。非常に物慾の壮んな人なんですネ……」
電車が両国の方から恐しい響をさせてやって来たので、しばらく正太の話は途切れた。やがて、彼は微笑んで、
「そこへ行くと、私は選む……一流でないものは、妓でも話せないような気がする……私は交際で引手茶屋なぞへ行きましても、クダラナい女なぞを相手にして、騒ぐ気には成れません。隣室へ酒を出して置いて、私は独りで寝転びながら本なぞを読みます。すると茶屋の姉さんが『橋本さん、貴方は妙な方ですネ』なんて……」
二人は電車の音のしないところへ出た。その辺は直樹の家に近かった。昔時、直樹の父親が、釣竿を手にしては二町ばかりある家の方からやって来て、その辺の柳並木の陰で、僅かの閑を自分のものとして楽んだものであった。その人が腰掛けた石も、河岸の並木も大抵どうか成って了った。柳が二三本残った。三吉と正太は立って眺めた。潮が沖の方から溢れて来る時で、船は多く川上の方へ向っていた。
「大橋の火見櫓だけは、それでも変らずに有りますネ」
と正太が眺めながら言った。
青い潮の反射は直に人を疲れさせた。三吉は長く立って見てもいられないような気がした。正太を誘って、復た歩き出した。
大橋まで行って引返して来た頃、三吉は甥の萎れている様子を見て、
「正太さん、向島にはチョクチョクお逢いですか」と言って見た。
「サッパリ」
「へえ、そんなかネ」
「威勢の悪いこと夥しいんです。向島が私に、茶屋でばかり逢うのも冗費だから、家へ来いなんて……そうなると、先方の母親さんが好い顔をしませんや。それに、芸者屋へ入り込むというやつは、あまり気の利いたものじゃ有りませんからネ」
と言いかけて、正太は対岸にある建物を叔父に指して見せて、
「彼処に会社が見えましょう。あの社長とかが向島を贔顧にしましてネ、箱根あたりへ連れてったそうです。根引の相談までするらしい……向島が、どうしましょうッて私に聞きますから、そんなことを俺に相談する奴が有るもんか、どうでもお前の勝手にするサ、そう私が言ってやった……でも、向島も可哀相です……私の為には借金まで背負って、よく私に口説くんです、どうせ夫婦に成れる訳じゃなし……」
正太は黙って了った。三吉も沈んだ眼付をして、しばらく物を言わずに歩いた。
「そうそう」と正太は思い付いたように笑い出した。「ホラ、此頃、雪の降った日が有りましたろう──ネ。あの翌日でサ。私が河蒸汽で吾妻橋まで乗って、あそこで上ると、ヒョイと向島に遭遇しました。半玉を二三人連れて……ちっとも顔を見せないが、どうしたか、この雪にはそれでも来るだろうと思って、どれ程待ったか知れない、今日はもうどんなことがあっても放さない、そう言って向島が私を捕えてるじゃ有りませんか。今日は駄目だ、紙入には一文も入ってやしない、と私が言いますとネ、御金のことなんぞ言ってるんじゃ有りませんよ、私がどうかします、一緒にいらしって下さい、そう向島が言って置いて、チョイト皆さん手を貸して下さいッて、橋の畔にいる半玉を呼んだというものです──到頭、あの日は、皆なで寄って群って私を捕虜にして了った」
愛慾の為に衰耄したような甥の姿が、ふとその時浮び上るように、三吉の眼に映じた。二人は両国の河蒸汽の出るところまで、一緒に歩いて、そこで正太の方は厩橋行に乗った。白いペンキ塗の客船が石炭を焚く船に引かれて出て行くまで、三吉は鉄橋の畔に佇立んでいた。
笑って正太と話していた三吉も、甥が別れて行った後で、急に軽い眩暈を覚えた。頭脳の後部の方には、圧しつけられるような痛みが残っていた。
疲労に抵抗するという眼付をしながら、三吉は元来た道を神田川の川口へと取った。
潮に乗って入って来る船は幾艘となく橋の下の方へ通過ぎた。岸に近く碇泊する船もあった。しばらく三吉は考えを纏めようとして、逆に流れて行く水を眺めて立った。
「どうせ一生だ」
と彼は思った。夫は夫、妻は妻、夫が妻をどうすることも出来ないし、妻も夫をどうすることも出来ない。この考えは、絶望に近いようなもので有った。
「ア──」
長い溜息を吐いて、それから三吉はサッサと家の方へ帰って行った。
丁度、名倉の老人が一杯始めた時で、膳を前に据えて、手酌でちびりちびりやっていた。
「何卒御構いなく、私はこの方が勝手なんで御座いますから」
と老人は三吉に言って、自分で徳利の酒を注いだ。
お雪は勝手の方から、何か手造りのものを皿に盛って持って来た。老人の癖で、酔が廻って来ると皆なを前に置いて、自分の長い歴史を語り始める。巨万の富を積むに到るまでの経歴、遭遇した多くの艱難、一門の繁栄、隠居して以来時々試みる大旅行の話など、それに身振手真似を加えて、楽しそうに話し聞かせる。服装なぞはすこしも気に留めないような、質素な風采の人であるが、どこかに長者らしいところが具わっていた。
「復た、阿爺さんの十八番が始まった」と母も傍へ来た。
「しかし、阿爺さん」と三吉は老人の前に居て、「あの自分で御建築に成った大きな家が、火事で焼けるのを御覧なすった時は──どんな心地がしましたか」
「どんな心地もしません」老人は若い者に一歩も譲らぬという調子で言った。「あの家は──焼けるだけの運を持って来たものです──皆な、そういう風に具わって来るものです」
往時は大きな漁業を営んで、氷の中にまで寝たというこの老人の豪健な気魄と、絶念の早さとは年を取っても失われなかった。女達の親しい笑声が起った。そこへ種夫と新吉が何か膳の上の物を狙って来た。
「御行儀悪くしちゃ不可よ」とお雪が子供を叱るように言った。
「種ちゃんか。新ちゃんも大きく成った。皆な好い児だネ」と老人は酔った眼で二人の孫の顔を眺めて、やがて酒の肴を子供等の口へ入れてやった。
「コラ」と母は畳を叩く真似した。
子供等は頬張りながら逃出して行った。下婢が洋燈を運んで来た。最早酒も沢山だ、と老人が言った。食事を終る毎に、老人は膳に対して合掌した。
その晩、残った仕事があると言って、三吉が二階へ上った頃は、雨の音がして来た。彼は下婢に吩咐けて階下から残った洋酒を運ばせた。それを飲んで疲労を忘れようとした。
お雪も幼い銀造を抱いて、一寸上って来た。
「どうだ──」と三吉はお雪に、「この酒は、欧羅巴の南で産る葡萄酒だというが──非常に口あたりが好いぜ。女でも飲める。お前も一つ御相伴しないか」
「強いんじゃ有りませんか」とお雪は子供を膝に乗せて言った。
雨戸の外では、蕭々降りそそぐ音が聞える。雨は霙に変ったらしい、お雪は寒そうに震えて左の手で乳呑児を抱き擁えながら、右の手に小さなコップを取上げた。酒は燈火に映って、熟した果実よりも美しく見えた。
「オオ、強い」
とお雪は無邪気に言ってみて、幾分か苦味のある酒を甘そうに口に含んだ。
「すこし頂いたら、もう私はこんなに紅く成っちゃった」
と復たお雪が快活な調子で言って、熱って来た頬を手で押えた。三吉は静かに妻を見た。
「相談したい。旅舎の方へ来てくれ」こういう意味の葉書が森彦の許から来た。丁度名倉の老人は、学校の寄宿舎からお幾を呼寄せて、母と一緒に横浜見物をして帰って来た時で、長火鉢の側に煙管を咬えながら、しきりとその葉書を眺めた。
「とにかく、俺は行って見て来る」
こう三吉が妻に言って置いて、午後の三時頃に家を出た。
森彦は旅舎の方で弟を待受けていた。二階には、相変らず熊の毛皮なぞを敷いて、窓に向いた方は書斎、火鉢の置いてあるところは応接間のように、一つの部屋が順序よく取片付けてあった。三吉が訪ねて行った時は、茶も入れるばかりに用意してあった。
「や」
と森彦は弟を迎えた。
何時まで経っても兄弟は同じような気分で向い合った。兄の頭は余程禿げて来た。弟の鬢には白いやつが眼につくほど光った。未だそれでも、森彦はどこか子供のように三吉を思っていた。弟の前に菓子なぞを出して勧めて、
「今日お前を呼んだのは他でも無いが……実はエムの一件でネ」
彼は切出した。
森彦が言うには、今度という今度は話の持って行きどころに困った。日頃金主と頼む同志の友は病んでいる。一時融通の道が絶えた、ここを切開いて行かないことには多年の望を遂げることも叶わぬ……人は誰しも窮する時がある、それを思って一肌脱いでくれ、親類に迷惑を掛けるというは元より素志に背くが、二百円ばかり欲しい、是非頼む、弟に話した。
三吉は困ったような顔をした。
「お前の収入が不定なことも、俺は知っている。しかしこの際どうにか成らんか。一時のことだ──人は大きく困らないで、小さく困るようなものだよ」と森彦は附添して言った。
しばらく三吉は考えていたが、やがて兄の勧める茶を飲んで、
「貴方のは人を助けて、自分で困ってる……今日までの遣方で行けば、こう成って来るのは自然の勢じゃ有りませんか。私はよくそう思うんですが、貴方にしろ、私にしろ、吾儕兄弟の一生……いろいろ人の知らない苦労をして……その骨折が何に成ったかというに、大抵身内のものの為に費されて了ったようなものです」
「今更そんなことを言っても仕方が無いぞ」
「いえ、私はそうじゃ無いと思います。稀にはこういうことも思って、心の持ち方を変えるが好いと思います」
「でも俺は差当り困る」
「いえ、差当ってのことで無く、根本的に──」
森彦は弟の言うことを汲取かねるという風で、自分の部屋の内を見廻して、
「お前はそう言うが……俺は身内を助けるから、こうして他人から助けられている。碁で言えば、まあ捨石だ。俺が身内を助けるのは、捨石を打ってるんだ」
「どうでしょう、その碁の局面を全然変えて了ったら──」
「どうすれば可いと言うんだ、一体……」
「ですから、こう新生活を始めてみたらと思うんです──田舎へでも御帰りに成ったらどうでしょう──私はその方が好さそうに思います。どこまでも貴方は、地方の人で可いじゃ有りませんか、小泉森彦で……それには、田舎へでも退いて、身の閑な時には耕す、果樹でも何でも植える、用のある時だけ東京へ出て来る、それだけでも貴方には好かろうと思うんです」
「何かい、お前は俺にこの旅舎を引揚げろと言うのかい」と言って、森彦は穴の開くほど弟の顔を眺めて、「そんなことが出来るものかよ。今ここで俺が田舎へでも帰って御覧……」
「面白いじゃ有りませんか」
「馬鹿言え。そんなことを俺が為ようものなら、今日まで俺の力に成ってくれた人は、必と驚いて死んで了う……」
その時、三吉は久し振だから鰻飯を奢ると言出して、それを女中に命ずるようにと、兄に頼んだ。
「稀にはこういう話もしないと不可」と三吉が尻を落付けた。「飯でも食って、それから復た話そうじゃ有りませんか」
森彦は手を鳴らした。
夕飯の後、三吉は兄が一生に遡って、今日に到るまでのことを委しく聞こうとした。森彦が事業の主なものと言えば、八年の歳月を故郷の山林の為に費したことで有った。話がその事に成ると、森彦は感極まるという風で、日頃話好な人が好く語れない位であった。巣山、明山の差別、無智な人民の盗伐などは、三吉も聞知っていることであるが、猶森彦は地方を代表して上京したそもそもから、終には一文の手宛をも受けず、すべて自弁でこの長い困難な交渉に当ったこと、その尽力の結果として、毎年一万円ずつの官金が故郷の町村へ配布されていること、多くの山林には五木が植付けられつつあることなぞを、弟に語り聞かせた。
「あの時」と森彦は火鉢の上で両手を揉んで、「Mさんが郷里の総代で俺の許へ来て、小泉、貴様はこの事件の為に何程費った、それを書いて出せ、と言うから、俺は総計で三万三千円に成ると書付を出した。その話は今だにそのままで、先方で出すとも言わなければ、俺も出せとも言わない……で、知事が気の毒に思って、政府の方から俺の為に金を下げるように、尽力してくれた。その高が六千円サ。ところがその金が郷里の銀行宛で来たというものだ。ホラお前も知ってる通り、正太の父親さんがああいう訳で、あの銀行に証文が入ってる、それに俺が判を捺いてる。そこで銀行の連中がこういう時だと思って、その六千円を差押えて了った……到頭俺は橋本の家の為に千五百円ばかり取られた──苛酷いことをする……何の為にその金が下ったと思うんだ。一体誰の為に俺が精力を注いだと思うんだ……」
「何故、森彦さん、その時自分を投出して了わなかったものですか。とにかくこれだけの仕事をした、後は宜しく頼む、と言ってサッサと旅舎を引揚げたら、郷里の方でも黙っては置かれますまい。その後仕末をする為に、今度は困って来た……何か儲仕事をしなけりゃ成らんと成って来た……」
「まあ、言ってみればそんなものだ。俺は金を取る為に、あの事業を為たんでは無いで──儲ける? そんなことを念頭に置いて、誰があんな事業に八年も取付いていられるものか。まだ俺は覚えているが、夜遅く独りで二重橋の横を通って、俺の精神を歌に読んだことがある。あの時、自分でそれを吟じて見ると、涙がボロボロ零れて……」
自分で自分を憐むような涙が、森彦の頬を流れて来た。
「畢竟、これは俺の性分から出たことだ」と復た兄は弟の方を見た。「一度始めた仕事は──それを成し遂げずには置かれない。俺の精神が郷里の人に知られなくとも、可い。俺はもっと大きく考えてる積りだ。どうせ郷里の人達には解らんと思ってるんだ。百年の後に成ったら、あるいは俺に感謝する者が出て来る……」
「森彦さん、そんなら貴方は何処までもその精神で通すんですネ。自分の歩いて来た道を、何処までも見失わないようにするんですネ。しかし、後仕末はどうする。私はそれを貴方の為に心配します」
「だから、今度は儲けるサ。儲ける為に働くサ」
「ところが、それが貴方にはむずかしいと思います。貴方はやっぱり儲ける為に働ける人では無いと思います──」
「いや、そんなことは無い。今までは儲けようと思わなかったから、儲からなかった。これからは大いに儲けようと思うんだ──ナニ、いかないことは無い」
「どうも私は、今までと同じように成りやしないかと思って、それで心配してるんです……何だか、こう、吾儕には死んだ阿爺が附纏っているような気がする……何処へ行って、何を為ても、必と阿爺が出て来るような気がする……森彦さん、貴方はそんなこと思いませんかネ」
兄は黙って弟の顔を見た。
「私はよくそう思いますが」と三吉は沈んだ眼付をして、「橋本の姉さんがああしているのと、貴方がこの旅舎に居るのと、私が又、あの二階で考え込んでいるのと──それが、座敷牢の内に悶いていた小泉忠寛と、どう違いますかサ……吾儕は何処へ行っても、皆な旧い家を背負って歩いてるんじゃ有りませんか」
「そうさナ……」
「そいつを私は破壊したいと思うんです。折があったら、貴方にも言出してみようみようと思っていたんです……」
「待ってくれ──俺も直き五十だよ。五十に成ってサ、未だそれでも俺の思うように成らなかったら、その時はお前の意見を容れる。田舎へでも何でも引込む。それまで待ってくれ」
「いえ、私はそういう意味で言ってるんじゃ無いんです……」
「それはそうと、先刻の金のことはどうしてくれる」
「何とか工面して見ましょう。いずれ御返事します」
「そんなことを言わないで、確かに是処で引受けて帰ってくれ」と言って、森彦は調子を変えて、「今日は、貴様は、ドエライやつを俺の許へ打込みに来たナ──いや、しかし面白かった」
兄は高い声で笑った。
晩の八時過に、三吉はこの旅舎を辞した。電車で帰って行く途中、彼は兄の一生を思いつづけた。家へ入ると、お雪は夫から帽子や外套を受取りながら、
「森彦さんのとこでは、どんな御話が有りました」と尋ねた。
「ナニ、金の話サ」と三吉は何気なく答える。
「大方そんなことだろうッて、阿爺さんも噂していましたッけ──阿爺さんが貴方のことを、『父さんも余程兄弟孝行だ』なんて──」
夜中から降出した温暖な雨は、翌朝に成って一旦休んで、更に淡い雪と変った。
午後に、種夫や新吉は一人ずつ下婢に連れられて、町の湯から帰った。銀造も洗って貰いに行って来た。お雪は傘をさして、終に独りで泥濘った道を帰って来た。
明るい空からは、軽い綿のようなやつがポタポタ落ちた。お雪は足袋も穿いていなかった。多くの女のように、薄着でもあった。それでも湯上りのあたたかさと、燃えるような身体の熱とで、冷々とした空気を楽しそうに吸った。濡れた町々の屋根は僅かに白い。雪は彼女の足許へも来て溶けた。この快感は、湯気で蒸された眼ばかりでなく、彼女の肌膚の渇をも癒した。
「長い湯だナア」と母は、帰って来たお雪を見て、叱るように言った。
「だって、子供を連れてるんですもの」
こうお雪は答えて置いて、勝手の方へ通り抜けた。
冷い水道の水はお雪を蘇生るようにさせた。彼女は額の汗をも押拭った。箪笥の上には、家のものがかわるがわる行く姿見がある。彼女はその前に立った。細い黄楊の鬢掻を両方の耳の上に差した。濡れて乱れたような髪が、その鏡に映った。
「叔母さん、お湯のお帰り?」
こう正太が、お雪の知らないうちに入って来て、声を掛けた。正太は叔母の後を通過ぎて、楼梯を上った。
「正太さん、よくこの道路の悪いのに、御出掛でしたネ」
と三吉は二階に居て迎えた。
「ええ、叔父さんの許より外に、気を紛らしに行く処も有りませんから」
こう言って、正太は、長い紺色の絹を首に巻付けたまま、叔父の前に坐った。部屋の障子の玻璃を通して、湿った屋外の空気が見られる。何となく正太は向島の方へ心を誘われるような眼付をしていた。
「いかにも春の雪らしい感じがしますネ」と正太は叔父と一緒に屋外を眺めながら言った。
「正太さん、昨日僕は森彦さんの宿へ行ってネ。金の話が出ました。その序に、種々なことを話し込んだ。田舎へ行ったらどうです、それまで僕は言って見た──午後の三時から八時頃まで話した」
「や、そいつはエラかった。三時から八時に渡ったんじゃ──どうして。森彦叔父さんと貴方の対話が眼に見えるようです」
「しかし、話してみて、互に了解する場合は少いネ。僕の方で思うことは、真実に森彦さんには通じないような気がした。言い方も悪かったが。唯、田舎へでも引込め──そういう意味に釈られて了った」
「そりゃ、叔父さん、森彦さんには出来ない相談です。あの叔父さんは、第一等の旅館に泊って、第一等の宿泊料を払って行く人です。苦しい場合でも、そうしないでは気の済まない人です。草鞋穿で、土いじりでもしながら、片手間に用務を談ずるなんて、そういう気風の人じゃ有りません」
「極く平民的な人のようだが、一面は貴族的だネ。どうしても大きな家に生れた人だネ。すこし他が難渋して来ると、なアに俺がどうかしてやるなんて──御先祖の口吻だ」
こう話し合って見ると、二人は森彦のことを言っていながら、それが自然と自分達のことに成って来るような気がした。旧家に生れたものでなければ無いような頽廃の気──それを二人は互に嗅ぎ合う心地もした。
「森彦さんから、僕に二百円ばかり造れと言うんサ」と三吉は以前の話に戻って、「それがネ。真実にあの人の為に成ることなら、どんなことをしても僕は造るサ。特にその為に一作するサ。どうも今日の状態じゃ、復た前と同じことに成りゃしないか……それに、僕だって、君、ヤリキレやしないよ……」
と言いかけて、暫時三吉は聞耳を立てた。階下では老人の咳払が聞える。
「名倉の阿爺さんなぞは、君、今に僕が共潰れに成るか成るかと思って、あの通り熟と黙って見てる……決して僕を助けようとはしない。実に、強い人だネ。僕もまた、痩我慢だ。仕事のことであの阿爺さんに助けられても、暮し向のことや何かで助けてくれと言ったことは無い。ああして、下手に助けないで、熟と黙って見てる──あそこはあの阿爺さんの面白いところさネ」
その時、表の戸を開けて入って来る客の声がした。階下では皆なの話声が起った。
「ああ、〓(「ひとがしら/ナ」)さんだ」
と三吉が正太の顔を見ながら言っているところへ、お雪はそれを告げに来た。三吉は正太に会釈して置いて、一寸階下へ降りた。
老人や母や勉は長火鉢の周囲に集っていた。三吉は友達に話し掛けるような調子で、勉に話し掛けた。
「へえ、今度も商用の方ですか」
「ええ、毎年一度や二度は出て来なけりゃ成りません」と勉は商人らしい調子で言った。「時に小泉さん、㋤の兄さんから御言伝がありましたが、貴方の御宅でも女中が御入用だそうですから──近いうちに一人連れて御出掛に成るそうです」
「そうですか、そいつは難有い。名倉の兄さんもどうしてますかネ。相変らず御店の方ですかネ」
「大将も多忙しがっています」
こんな調子で、三吉は打解けて話した。彼はお雪を傍へ呼んで、勉を款待させて、復た正太の居る方へ上って行った。
「ええ、福ちゃんの旦那さんです。彼方の方の人達は大阪の商人に近いネ。皆な遣方がハゲしい」
と三吉は正太の前に復って言った。
未だ正太は思わしい仕事も無く、ブラブラしていた。骨を折って口を見つけに飛び歩こうともしていなかった。彼はいくらか窶れても見えた。謡の会の噂、料理の通、それから近く欧洲を漫遊し帰って来たある画家の展覧会を見たことなど、雪の日らしい雑談をした後で、正太は帰って行った。
修業ざかりの娘を二人まで控えた森彦の苦んでいる姿が、三吉の眼にチラついた。彼は兄を助けずにいられないような気がした。名倉の両親に隠すようにして金をつくることを考えた。
㋤の兄と連立って、名倉の母が長逗留の東京を去る頃は──三吉は黙って考えてばかりいる人でもなかった。「随分、父さんはコワい眼付をする」と名倉の母はよく言ったが、そういう眼付で膳に対って、飯を食えば直に二階へ上って行って了うような──最早そんな人でもなかった。
時には、楼梯を踏む音をさせて、用もないのに三吉は二階から降りて来た。下座敷の柱に倚凭って、
「お雪、俺とお前と何方が先に死ぬと思う」
「どうせ私の方が後へ残るでしょうから、そうしたら私はどうしよう──何にも未だ子供のことは為て無いし──父さんの書いた物が遺ったって、それで子供の教育が出来るか、どうか、解らないし(まあ、覚束ないと思わなけりゃ成りません、何処の奥さんだって困っていらっしゃる)と言って、女の教師なぞは私の柄に無い──そうしたら私は仕方が無いから、女髪結にでも成ろうかしら──」
夫婦は互に言ってみた。
名倉の老人は、母だけ先へ返して、自分一人、娘の家に残った。若い時から鍛えた身体だけあって、三吉の家から品川あたりへ歩く位のことは、何とも思っていなかった。疲れるということを知らなかった。朝は早く起きて、健脚にまかせて、市中到る処の町々、変りつつある道路、新しい橋、家、水道、普請中の工事なぞを見て廻った。東京も見尽したと老人は言っていた。
「でも、阿爺さんは、割合に歩かなく成りました──あれだけ年をとったんですネ」
とお雪は言った。
いよいよ老人も娘や孫に別れを告げて帰国する日が来た。㋤の兄が連れて来てくれた下婢に、留守居を頼んで置いて、三吉夫婦は老人と一緒に家を出た。子供は、種夫と新吉と二人だけ見送らせることにした。
「老爺さんが彼方へ御帰りなさるんだよ──種ちゃんも、新ちゃんも、サッサと早く歩きましょうネ」
とお雪は歩きながら子供に言って聞かせた。半町ばかり行ったところで、彼女は新吉を背中に乗せた。
老人と三吉は、時々町中に佇立んで、子供の歩いて来るのを待った。幾羽となく空を飛んで来た鳥の群が、急に町の角を目がけて、一斉に舞い降りた。地を摺るかと思うほど低いところへ来て、鳴いて、復た威勢よく舞い揚った。チリヂリバラバラに成った鳥は、思い思いの軒を指して飛んだ。
「最早燕が来る頃に成りましたかネ」
と三吉は立って眺めた。
電車で上野の停車場まで乗って、一同は待合室に汽車の出る時を待った。老人はすこしも静止していなかった。どうかすると三吉の前に立って、若い者のような声を出して笑った。
お雪の側には、二人の子供がキョロキョロした眼付をして、集って来る旅客を見ていた。老人はその方へ行った。かわるがわる子供の名を呼んで、
「皆な温順しくしてお出──復た老爺さんが御土産を持って出て来ますぜ」
「名倉の老爺さんが復た御土産を持って来て下さるトサ」とお雪は子供に言い聞かせた。
「この老爺さんも、未だ出て来られる……」
こう老人はお雪を見て言って、復た老年らしい沈黙に返った。
発車の時間が来た。三吉夫婦はプラットフォムへと急いだ。
「種ちゃんも、新ちゃんも、老爺さんに左様ならするんだよ」
と三吉は列車の横に近く子供を連れて行った。お雪は新吉を抱上げて見せた。
白い髯の生えた老人の笑顔が二等室の窓から出た。老人は窓際につかまりながら、娘や孫の方をよく見たが、やがて自分の席に戻って、暗然と首を垂れた。駅夫は列車と見送人の間を馳せ歩いた。重い車の廻転する音が起った。
「阿爺さんも──ひょっとすると、これが東京の見納めだネ」
と三吉は、妻と一緒に見送った後で、言った。
五月に入っても、未だ正太は遊んでいた。森彦の方は、新しい事業に着手すると言って、勇んで名古屋へ発って行った。
「正太さんもどうか成らないか。ああして遊ばせて置くのは、可惜いものだ」と三吉は心配そうにお雪に話して、甥の様子を見る為に、駒形の方へ出掛けた。
例の石垣の下まで、三吉は歩いた。正太の家には、往来から好く見えるところに、「貸二階」とした札が出してある。何となく家の様子が寂しい。三吉が石段を上って行くと、顔を出した老婆まで張合の無さそうな様子をしていた。
正太夫婦は揃って町へ買物に出掛けた時であった。程なく帰るであろう、という老婆を相手にして、しばらく三吉は時を送った。二階は貸すと見えて、種々な道具が下座敷へ来ている。玻璃障子のところへ寄せて、正太の机が移してあって、その上には石菖蒲の鉢なぞも見える。水色のカアテンも色の褪せたまま掛っている。
老婆は茶を勧めながら、
「是方へ私が御奉公に上りました時は、まあこんな仲の好い御夫婦もあるものでしょうか、とそう思いまして御座いますよ。段々御様子を伺って見ますと……私はすっかり奥様の方に附いて了いました。そりゃ、貴方、女はどう致したって、女の味方に成りますもの……」
この苦労した人は、夫婦の間に板挾みに成ったという風で、物静かな調子で話した。主人思いの様子は、奉公する人とも見えなかった。
「でも、是方の旦那様も、真実に好い御方で御座いますよ」
と復た老婆が言った。
三吉は玻璃障子のところへ行って、眺めた。軒先には、豊世の意匠と見えて、真綿に包んだ玉が釣してある。その真綿の間から、青々とした稗の芽が出ている。隅田川はその座敷からも見えた。伊豆石を積重ねた物揚場を隔てて、初夏の水が流れていた。
「そう、三吉叔父さんがいらしって下すったの」
と豊世は、夫の後に随いて、町から戻って来た。
「奥様、先程も一人御二階を見にいらしった方が御座いました」
と老婆が豊世に言ったので、正太夫婦は叔父の方を見た。夫婦の眼は笑っていた。
川の見えるところに近く、三吉は正太と相対に坐った。その時正太は苦しそうな眼付をして、生活を縮める為にここを立退こうかとも思ったが、折角造作に金をかけて、風呂まで造って置いて、この楽しい住居を見捨てるのも残念である、暫時二階を貸すことにした、と叔父に話した。
「どうしていらっしゃるかと思って、今日は家から歩いてやって来ました」と三吉が言った。「途中に芥子を鉢植にして売ってる家がありました。こんな町中にもあんな花が咲くか、そう思ってネ、めずらしく山の方のことまで思出した。ホラ、僕等が居た山家の近所には芥子畠なぞが有りましたからネ」
「叔父さん、私共ではこういうものを造りました」と豊世は叔父の後へ廻って、軒先の真綿の玉を指してみせた。「稗蒔ですよ──往来を通る人が皆な妙な顔をして見て行きます」
正太は何を見ても侘しいという風であった。豊世に、「彼方へいってお出」と眼で言わせて置いて、
「実は叔父さん、私の方から御宅へ伺おうと思っていたところなんです。未だ御話も致しませんでしたが、近いうちに私も名古屋へ参るつもりです。彼方の方で、来ないか、と言ってくれる人が有りましてネ……まあ二三年、私も稽古のつもりで、彼方の株式仲間へ入って見ます」
「そいつは何よりだ」と三吉が頼もしそうに言った。
正太は心窃かに活動を期するという様子をした。自分で作った日露戦争前後の相場表だの、名古屋から取寄せている新聞だのを、叔父に出して見せて、
「叔父さんからも御話がよく有りますから、今度は私もウンと研究して見ます。下手に周章てない積りです。この通り、彼方の株の高低にも毎日注意を払っています……『どうして、橋本は行るぜ、彼はナカナカの者だぜ』──そう言って、是方の連中なぞは皆な私に眼を着けてる……」
「それに、君、森彦さんは彼方へ行ってるしサ──何かにつけて相談してみるサ」
「そうです。森彦叔父さんと私とは、全く別方面ですから、仕事は違いますけれど……あの叔父さんも、いよいよ今度が最後の奮闘でしょう──私はそう思います──まあ、彼方へ出掛けて、あの叔父さんの働き振も見るんですネ」
「でも、あの兄貴も……変った道を歩いて行く人さネ。何を為てるんだか家のものにまで解らない……それを平気でやってる……あそこは面白いナ」
「何かこう大きな事業をしそうな人だなんて、豊世なぞもよくそう言っています」
「あの兄貴は一生夢の破れない人だネ──あれで通す人だネ──しかし、ナカナカ感心なところが有るよ。お俊ちゃんの家なぞに対しては、よくあれまでに尽したよ。大抵の者ならイヤに成っちまう……」
豊世が貰い物だと言って、款待顔に羊羮なぞを切って来たので、二人は他の話に移った。
「ここまで来て、眺望の好い二階を見ないのも残念だ」という叔父を案内して、一寸豊世は楼梯を上った。何となく二階はガランとしていた。額だけ掛けてあった。三吉は川に向いた縁側の欄のところへ出てみた。
「豊世さん、顔色が悪いじゃ有りませんか。どうかしましたかネ」
「すこし……でも、この節は宅もよく家に居てくれますよ……何事も為ませんでも、家で御飯を食べてくれるのが私は何よりです……」
叔父と豊世とはこんな言葉を替しながら、薄く緑色に濁った水の流れて行くのを望んだ。豊世は愁わしげに立っていた。
「どうかしますと、私は……こう胸がキリキリと傷んで来まして……」
こう訴えるような豊世の顔をよく見て、間もなく三吉は正太の方へ引返した。
玄関の隅には、正太が意匠した翫具の空箱が沢山積重ねてあった。郷里から取寄せた橋本の薬の看板も立掛けてあった。復た逢う約束をして、三吉は甥に別れた。
「正太さんを褒めるのは貴方ばかりだ」
お雪が自分の家の二階で、夫に話しているところへ、勝手を知った豊世が階下から声を掛けて上って来た。
「叔母さん、御免なさいよ。御断りも無しで入って来て──」
と豊世は親しげな調子で挨拶した。
正太が名古屋へ発ってから、こうして豊世はよく訪ねて来るように成った。長いことお雪は豊世に対して、好嫌の多い女の眼で見ていた。「豊世さんも好いけれど……」とかなんとか言っていたものであった。正太と小金の関係を知ってから、急にお雪は豊世の味方をするように成った。豊世の方でも、「叔母さん、叔母さん」と言って、旅にある夫の噂だの、留守居の侘しさだの、二階を貸した女の謡の師匠の内幕だのを話しに来る。正太が発つ、一月あまり経つと、最早町では青梅売の声がする。ジメジメとした、人の気を腐らせるような陽気は、余計に豊世を静止さして置かなかった。
「豊世さん──正太さんの許から便りが有りましたぜ」
と三吉に言われて、豊世は叔父の方へ向いた。風呂敷包の中から小説なぞを取出して、それを傍に居る叔母へ返した。
三吉は笑いながら、「何か貴方は心細いようなことを名古屋へ書いて遣りましたネ」
「何とか叔父さんの許へ言って参りましたか」
「正太さんの手紙に、『私は未だ若輩の積りで、これから大に遣ろうと思ってるのに、妻は最早老に入りつつあるか……そう思うと、何だか感傷の情に堪えない』──なんて」
それを聞いて、豊世はお雪と微笑を換した。名古屋から送るべき筈の金も届かないことを、心細そうに叔父叔母の前で話した。
二階から見える町家の屋根、窓なぞで、湿っていないものは無かった。空には見えない雨が降っていた。三人は、水底を望んでいるような、忍耐力の無い眼付をして、時々話を止めては、一緒に空の方を見た。どうかすると、遠く濡れた鳥が通る。それが泳いで行く魚の影のように見える。
「豊世さん──一体貴方は向島のことをどう思ってるんですか」三吉が切出した。
「向島ですか……」と豊世は切ないという眼付をして、「何だか私は……宅に捨てられるような気がして成りませんわ……」
「馬鹿な──」
「でも、叔父さんなぞは御存ないでしょうが、宅でまだ川向に居ました時分──丁度私は一時郷里へ帰りました時──向島が私の留守へ訪ねて来て、遅いから泊めてくれと言ったそうです。後で私はそのことを先の老婆から聞きました。よく図々しくも、私の蒲団なぞに眠られたものだと思いましたよ。そればかりじゃありません、宅で向島親子を芝居に連れてく約束をして、のッぴきならぬ交際だから金を作れと言うじゃ有りませんか。私はそんな金を作るのはイヤですッて、そう断りました。すると、宅が癇癪を起して、いきなり私を……叔父さん、私は擲られた揚句に、自分の着物まで質に入れて……」
豊世はもう語れなかった。瀟洒な襦袢の袖を出して、思わず流れて来る涙を拭った。
「叔父さん──真実に教えて下さいませんか──どうしたら男の方の気に入るんでしょうねえ」
と復た豊世は力を入れて、真実男性の要求を聞こうとするように、キッと叔父を見た。
「どうしたら気に入るなんて、私にはそんなことは言えません」と三吉は頭を垂れた。
「でも、ねえ、叔母さん──」と豊世はお雪に。
「亭主を離れて観るより外に仕方が無いでしょう」と三吉はどうすることも出来ないような語気で言った。
「そんなら、叔父さんなんか、どういう気分の女でしたら面白いと御思いなさるんですか」
「そうですネ」と三吉は笑って、「正直言うと、これはと思うような人は無いものですネ……昔の女の書いたものを見ると、でも面白そうな人もある。八月のさかりに風通しの好いところへ花莚を敷いて、薄化粧でもして、サッパリとした物を着ながら独りで寝転んで見たなんて──私はそういう人が面白いと思います」
豊世とお雪は顔を見合せた。
子供の喧嘩する声が起った。それを聞きつけて、お雪は豊世と一緒に階下へ降りた。茶の用意が出来たと言われて、三吉も下座敷へ飲みに来た。
「馬鹿野郎!」
いきなり種夫はそいつを父へ浴せ掛けた。
「種ちゃんは誰をつかまえても『馬鹿野郎』だ」と三吉は子供を見て笑った。「でも、お前の『馬鹿野郎』は可愛らしい『馬鹿野郎』だよ」
「種ちゃんの口癖に成って了いました」とお雪は豊世に言って聞かせた。「御客のある時なぞは、真実に困りますよ」
「豊世さん、煙草はいかが」
と三吉は巻煙草を取出して、女の客や妻の前でウマそうに燻した。
「一本頂きましょうか」と豊世は手を出した。「自分じゃそう吸いたいとも思いませんが、他様が燻していらっしゃると、つい頂きたく成る」
お雪も夫の巻煙草を分けて貰って、左の人差指と中指との間に挾んで吸った。
「あれで宅はどういうものでしょう」と豊世は叔父に、「名古屋へ参ります前なぞは、毎日寝てばかりおりましたよ。叔父さんが寝てるが可いッて仰ったから、俺は寝てるなんて、そんなことを申しまして……」
「正太さんも一時は弱ってましたネ」と三吉は心配らしく、「僕の家なぞへ来てもヒドく元気の無いことがあった」
「宅がよく申しましたよ、是方へ上って御話をしてると、自分の塞がった心が開けて来るなんて、そう言っちゃあ吾家を出掛けました……どうかすると、宅が私に、『三吉叔父さんは僕の恋人だ』なんて……」
三吉は噴飯して了った。お雪は巻煙草の灰を落しながら、二人の話を聞いていた。
「もうすこし宅も仕事を為そうなものですが」と豊世は考えるように。
「畢竟、楽むように生れて来た人なんですネ。橋本のような旧い家に、ああいう人が出来たんですネ」
「……」
「吾儕の親類の中で、絵とか、音楽とか、芝居とかに、あの人ぐらい興味を持つ人は有りません。そのかわりああいう人に仕事をさせると──どうかすると、非常に器用な素人ではあっても、無器用な専門家には成れないことが有ります」
「そういうものでしょうかねえ……」
「一体、正太さんは人懐こい──だからあんなに女から騒がれるんでしょう」
豊世は苦いような、嬉しいような笑い方をした。
入口の庭の隅には、僅かばかりの木が植えてある。中でも、八手だけは勢が好い。明るい新緑は雨に濡れて透き徹るように光る。青々とした葉が障子の玻璃に映って、何となく部屋の内を静かにして見せた。その静かさは、あだかも蛇が住む穴の内のような静かさであった。
お雪は起って行って、お俊夫婦の写真を取出して来た。新郎は羽織袴、新婦も裙の長い着物で、並んで撮れていた。
「お俊ちゃんの旦那さんは大層好い方だそうですネ」とお雪は豊世と一緒に写真を見ながら、「お俊ちゃんは真実に可羨しい」
「私も可羨しいと思いますわ」と豊世が言った。
「何故、そんなに可羨しいネ」と三吉は二人の顔を見比べた。
「でも仲の好いのが何よりですわ。笑って暮すのが──」とお雪は豊世の方を見て。
「今にお俊ちゃん達も笑ってばかりいられなく成るよ」
こう言って三吉が笑ったので、二人の女も一緒に成って笑った。
三吉は家の内部を見廻した。彼とお雪の間に起った激しい感動や忿怒は通過ぎた。愛欲はそれほど彼の精神を動揺させなく成った。彼はお雪の身体ばかりでなく、自分で自分の身体をも眺めて、それを彫刻のように楽むことが出来るように成った──丁度、杯の酒を余った瀝まで静かに飲尽せるような心地で。二人は最早離れることもどうすることも出来ないものと成っていた。お雪は彼の奴隷で、彼はお雪の奴隷であった。
「叔母さん──私も郷里へ行って参りますわ。宅から手紙が参りましてネ、どうも田舎の家が円くいかないようだから、暫時お前は母親さんの傍へ行ってお出なんて。まあ、どうしたというんでしょう。お嫁さんを貰うまでは、母親さんの眼の中へ入っても痛くない幸作さんでしたがねえ……私もイヤに成って了いますわ……彼方へ行き、是方へ行き、一つ処に落着いていられた例は無いんですものね。叔父さんも、何でしたら、一度郷里へいらしって下さいましな。母親さんによく話してやって下さい。真実に、叔父さんにでも行って頂くと難有いんですけれど……」
こう言って、豊世が三吉の家へ寄ったのは、八月の下旬であった。それに附添して、
「名古屋へ私が手紙を出しました序に、『駒形の家は月が好う御座んすが、そっちではどんな月を見てますか』ッて、そう申して遣りましたら、『俺は物干へ出て月を見てる』なんて、そんな返事を寄しましたよ──彼方も御暑いと見えますね」と夫のことを案じ顔に言った。彼女は留守宅を老婆に托して行くこと、名古屋廻りの道筋を取って帰国することなどを、叔父や叔母に話して置いて、心忙しそうに別れて行った。
三吉は父母の墓を造ろうと思い立っていた。山村に眠る両親の墳は未だそのままにしてあったので、幸作へ宛てて手紙を送って、墓石のことを頼んで遣った。返事が来た。石の寸法だの、直段書だのを細く書いて寄した。九月の下旬には、三吉は豊世からも絵葉書を受取った。
「其後、叔父様、叔母様には御変りもなく候や。国へ帰りて早や一月にも相成り候。こちらも思うように参らず、留守宅のことも案じられ、一日も早く東京へ参りたく候──」
と細い筆で書いてある。
秋も末に成って、幸作からは彫刻の出来上ったことを報知して来た。そこそこに三吉は旅の仕度を始めた。姉の様子も心に掛るので、諏訪の方から廻って、先ず橋本の家へ寄り、それから自分の生れ故郷へ向うことにした。森彦や正太は名古屋に集っている。序に、帰りの旅は二人を驚かそうとも思った。お雪も夫の手伝いでいそがしかった。お種のことや、幸作夫婦のことや、未だ郷里に留まっている豊世のことなぞが、取散した中で夫婦の噂に上った。
「橋本の姉さんも、親で苦労し、子で苦労し──まだその上に──最早沢山だろうにナア」
と夫の嘆息する言葉を聞いて、お雪も姉の一生を思いやった。
家を出て、三吉は飯田町の停車場へ向った。中央線は鉄道工事の最中で、姉の許まで行くには途中一晩泊って、峠を一つ越さなければ成らなかった。それから先には峠の麓から馬車があった。
この旅に、三吉は十二年目で橋本の家を見に行く人であった。故郷の山村へは十四年目で帰る。
三吉を乗せた馬車が、お種の住む町へ近づいたのは、日の暮れる頃であった。深い樹木の間には、ところどころに電燈の光が望まれた。あそこにも、ここにも、と三吉は馬車の上から、町の灯を数えて行った。
馬車は街道に添うて、町の入口で停った。馬丁の吹く喇叭は山の空気に響き渡った。それを聞きつけて、橋本の家のものは高い石垣を降りて来た。幸作も来て迎えた。三吉はこの人達と一緒に、覚えのある石段を幾曲りかして上って行った。古風な門、薬の看板なぞは元のままにある。家へ入ると、高い屋根の下で焚く炉辺の火が、先ず三吉の眼に映った。そこで彼は幸作の妻のお島や下婢に逢った。お仙も奥の方から出て来た。
「姉さんは?」と三吉が聞いた。
「一寸町まで行きました、姉様も一緒に。今小僧を迎えに遣りましたで、直ぐ帰って参りましょう」
こう幸作が相変らず世辞も飾りも無いような調子で答えた。幸作は豊世のことを「御新造」と言わないで、「姉様」と呼ぶように成っていた。
「母親さんもどんなにか御待兼でしたよ」
とお島は客を款待顔に言った。この若い細君は森彦の周旋で嫁いて来た人で、言葉遣いは都会の女と変らなかった。
「もう、それでも、皆な帰るぞなし」とお仙は叔父の方を見た。
遅く着いた客の前には、夕飯の膳が置かれた。三吉が旅の話をしながら馳走に成っていると、そこへお種と豊世が急いで帰って来た。お種は提灯の火を吹消して上った。三吉と相対に、炉辺の正面へドッカと坐ったぎり、姉は物が言えなかった。
「叔父さん、真実によく被入しって下さいましたねえ」と豊世は叔父に挨拶して、やがてお仙の方を見て、「お仙ちゃん、母親さんに御湯でも進げたら好いでしょう。今夜は叔父さんが御着きに成るまいと思っていらしったところへ、急に御見えに成ったものですから、母親さんは嬉しいのと──」
お種はいくらか蒼ざめて見えた。お仙のすすめる素湯を一口飲んで、両手を膝の上に置きながら、頭を垂れた。
ややしばらく経った後で、
「三吉、俺は何事も言いません──これが御挨拶です」
とお種は大黒柱を後にして言った。
古めかしい奥座敷に取付けられた白い電燈の蓋の下で、三吉は眼が覚めた。そこは達雄の居間に成っていたところで、大きな床、黒光りのする床柱なぞが変らずにある。庭に向いた明るい障子のところには、達雄の用いた机が、位置まで、旧の形を崩さないようにして置いてある。黄色い模様の附いた毛氈の机掛は、色の古くなったままで、未だ同じように掛っている。
年をとったお種は、旅に来て寝られない弟よりも、早く起きた。三吉が庭に出て見る頃は、お種は箒を手にして、苔蒸した石の間をセッセと掃いていた。
「こんな山の中にも電燈が点くように成りましたかネ」と三吉が言った。
「それどこじゃ無いぞや。まあ、俺と一緒に来て見よや」
こうお種は寂しそうに笑って、庭伝いに横手の勝手口の方へ弟を連れて行った。以前土蔵の方へ通った石段を上ると、三吉は窪く掘下げられた崖を眼下にして立った。
削り取った傾斜、生々した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畑、葡萄棚、お春がよく水汲に来た大きな石の井戸、そんな物は皆などうか成って了った。お種は手に持った箒で、破壊された庭の跡を弟に指して見せた。向うの傾斜の上の方に僅かに木小屋が一軒残った。朝のことで、ツルハシを担いだ工夫の群は崖の下を通る。
お種は可恐しいものを見るような眼付して、弟と一緒に奥座敷へ引返した。幸作は表座敷から来て、三吉の注文して置いた墓石が可成に出来上ったこと、既に三吉の故郷へ積み送ったことなぞを話した。お種は妙に改まった。
朝飯には、橋本の家例で、一同炉辺に集った。高い天井の下に、拭き込んだ戸棚を後にして、主人から奉公人まで順に膳を並べて坐ることも、下婢が炉辺に居て汁を替えることも、食事をしたものは各自膳の仕末をして、茶椀から箸まで自分々々の布巾で綺麗に拭くことも──すべて、この炉辺の光景は達雄の正座に着いた頃と変らなかった。しかし、席の末にかしこまって食う薬方の番頭も、手代も、最早昔のような主従の関係では無かった。皆な月給を取る為に通って来た。
「御馳走」
と以前の大番頭嘉助の忰が面白くないような顔をして膳を離れた。この人は幸作と同じに年季を勤めた番頭である。幸作は自分の席から、不平らしい番頭の後姿を見送って、「為るだけのことを為れば、それで可いじゃないか」という眼付をした。
賑かな笑声も起らなかった。お種は見るもの聞くもの気に入らない風で、嘆息するように家の内を見廻した。その朝、彼女は箸も執らなかった。三吉を款待すばかりに坐っていた。豊世やお仙は言葉少く食った。二人は飯の茶椀で茶を飲みながらも、皆なの顔を見比べた。
「母親さん、召上りませんか」
とお島は姑の方を見て、オズオズとした調子で言った。
「俺は牛乳を飲んだばかりだで……また後で食べる」
とお種は答えたが、ぷいと席を立って、奥座敷の方へ行って了った。
食後に、三吉は久し振の炉辺に居て、幸作を相手に沢田という潔癖な老人のあったことなぞを尋ねた。あの忠寛の旧い友達で、よくこの家へやって来た老人は疾に亡くなっていた。
ふと、三吉は耳を澄ました。玄関の方へ寄った薬の看板のかげでは、お島の忍び泣するけはいがした。
「そうかナア」という眼付をしながら、三吉は炉辺からお仙のボンヤリ立っている小部屋を通って、姉の居る方へ来た。
奥座敷の中央には、正太が若い時に手ずから張って漆を抹いたという大きな一閑張の机が置いてある。その前に、お種は留守を預ったという顔付で、先代から伝った古い掛物を後にして、達雄の坐るところに自分で坐っていた。豊世は茶道具を出して、それを机の上に運んだ。
三吉はこの座敷ばかりでなく、納戸の方だの、新座敷の方だのを見廻した。改革以来、沢山な道具も減った。たださえ広い家が余計に広く見えた。
「でも、思いの外種々な道具が残ってるじゃ有りませんか」と彼は言って見た。
「皆なの丹精で、これまでに為たわい。旦那が出て了った後で、私がお前さんの家から帰って来た時なぞは……眼も当てられすか」とお種は肩を動った。
「そう言えば、達雄さんも満洲の方へ行ったそうですネ」
「そうだゲナ──」
「姉さん、貴方は達雄さんに置去にされたような気はしませんか」
「神戸に居る間は、未だそうは思わなかったよ……どうも帰って来てくれそうな気がして……満洲へ行って了った……それを聞いた時は、最早私も駄目かと思った……」
「仕方が有りません。思い切るサ」
「三吉──お前はそんなことを言うが、どうしても私は思い切れんよ」
お種は心細そうに笑った。
ゴーという音が庭先の崖下の方で起った。工夫が石を積んで通る「トロック」の音だ。お種は頭脳へでも響けるように、その重い音の遠く成るまで聞いた。やがて、名古屋に居る正太の噂を始めた。彼女は幾度も首を振って、「どうかして彼がウマクやってくれると可いが」を熱心に繰返した。
茶が入ったので、隣の新座敷に薬の紙を折っていたお仙が母の傍へ来た。豊世は幸作夫婦を呼びに行った。
養子夫婦が入って来ると、急にお種は改まって了った。幸作は橋本の薬を偽造したものから、詫を入れに来た話なぞをして、その男が置いて行った菓子折を取出した。
「どれ、皆なで偽薬の菓子をやらまいか」
と幸作は笑って、それを客にもすすめ、自分でも食った。
お種は若い嫁の方を鋭く見て、
「お島は甘いものが好きだに、沢山食べろや──」
「頂いております」とお島は夫の傍に居て。
「オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは──」
姑は無理に笑おうとしていた。
長くも若夫婦は茶を飲んでいなかった。二人が店の方へ行った後で、三吉は姉に向って、
「姉さんの顔は、どうしてそんなにコワく成りましたかネ」
「そうか──俺の顔はコワいか」とお種は自分の眉を和げるように撫でながら、「年をとると、女でも顔がコワく成るで……どうかして俺は平静な心を持つように、持つように、と思って……こうして毎日自分の眉を撫でるわい」
「どうも貴方の調子は皮肉だ。あんまり種々な目に遭遇って、苦しんだものだから、自然と姉さんはそう成ったんでしょう。目下のものはヤリキれませんぜ」
「そんなに俺は皮肉に聞えるか」
「聞えるかッて──『オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは』──あんなことを言われちゃ、どんな嫁さんだって食べられやしません」
豊世やお仙は笑った。お種も苦笑して、
「三吉、そうまあ俺を責めずに、一つこの身体を見てくれよ。俺はこういうものに成ったよ──」
と言って、着物の襟をひろげて、苦み衰えた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎びた乳房は両方にブラリと垂下っていた。三吉は、そこに姉の一生を見た。
「エライもんじゃないか」
とお種は自分で自分の身体を憐むように見て、復た急に押隠した。満洲の実から彼女へ宛てて来た手紙が文机の上にあった。彼女はそれを弟に見せようとして、起って行った。
「ア、ア、ア、ア──」
思わずお種は旧い家の内へ響けるような大欠伸をした。
幸作は表座敷に帳簿を調べていた。優雅な、鷹揚な、どことなく貴公子らしい大旦那のかわりに、進取の気象に富んだ若い事務家が店に坐った。達雄の失敗に懲りて、幸作はすべて今までの行き方を改めようとしていた。暮しも詰めた。人も減らした。炉辺に賑やかな話声が聞えようが、聞えまいが、彼はそんなことに頓着していなかった。ドシドシ薬を売弘めることを考えた。「大旦那の時分には、あんなに多勢の人を使って、今の半分も薬が売れていない──あの時分の人達は何を為ていたものだろう──母親さん達は皆なの食う物をこしらえる為にいそがしかった」こう思っていた。お種に取って思出の部屋々々も彼には無用の長物であった。
こういう実際的な幸作のところへ、旧家の空気も知らないお島が嫁いて来た。達雄やお種から見ると、二人は全く別世界の人であった。若い夫婦はどうお種を慰めて可いか解らなかった。
三吉はこの人達の居る方へ来て見た。そこは以前彼が直樹と一緒に一夏を送った座敷で、庭の光景は変らずにある。谷底を流れる木曾川の音もよく聞える。壁の上には、正太から送って来た水彩画の額が掛っている。こういうものを見て楽む若旦那の心は幸作にもあった。
「姉様を呼んでお出」
と幸作は妻に吩咐けた。
豊世は困ったような顔付をして、奥座敷の方から来た。「こんな折にでも話さなければ話す折が無い」と言って、幸作はどんなに正太の成功を祈っているかということを話した。苦心して蓄積したものは正太の事業を助ける為に送っているということを話した。お仙を連れて空しく東京を引揚げてからのお種は、実に、譬えようの無い失望の人であった──こんなことを話した。
「兄様さえ好くやってくれたら、私は何事も言うことは無い──私は今、兄様の為に全力を挙げてる──一切の事はそれで解決がつく」
と幸作は力を入れて言った。
姑と若夫婦と両方から話を聞かされて、三吉は碌に休むことも出来なかった。その晩も、彼は奥座敷の方へ行って、復たお種の歎きを聞いた。姉は遅くなるまで三吉を寝かさなかった。
夜が更れば更るほどお種の眼は冴えて来た。
「姉さん、若いものに任せて置いたら可いでしょう」
と三吉が言うと、姉はそれを受けて、
「いえ、だから俺は何事も言わん積りサ──彼等が好いように為て貰ってるサ──」
こういう調子が、どうかすると非常に激して行った。幸作夫婦が始めようとする新しい生活、ドシドシやって来る鉄道、どれもこれもお種の懊悩しい神経を刺戟しないものは無かった。この破壊の中に──彼女はジッとして坐っていられないという風であった。
お種は肩を怒らせて、襲って来る敵を待受けるかのように、表座敷の方を見た。
「なんでも彼等は旦那や俺の遣方が悪いようなことを言って──無暗に金を遣うようなことを言って──俺ばかり責める。若い者なぞに負けてはいないぞ。さあ──責めるなら責めて来い──」
橋本の炉辺では盛んに火が燃えた。三吉が着いて三日目──翌日は彼も姉の家を発つと言うので──豊世やお島やお仙が台所に集って、木曾名物の御幣餅を焼いた。お種は台所を若いものに任せて置いて弟の方へ来た。
三吉は庭に出て、奥座敷の前をあちこちと見廻っていた。以前この庭の中で、家内中揃って写真を撮ったことがある。それを三吉が姉に言って、達雄が立って写した満天星の木の前へ行きながら、そこは正太が腰掛けたところ、ここは大番頭の嘉助が禿頭を気にしたところ、と指して見せた。彼は自分で倚凭って写した大きな石の間へ行って見た。その石の上へも昇った。
お種は、どうかすると三吉がずっと昔の鼻垂小僧のように思われる風で、
「三吉、お前がそんなことをしてるところは、正太に酷く似てるぞや」
こう言って、彼女も座敷から庭へ下りた。姉は自分が培養している種々な草木の前へ弟を連れて行って見せた。山にあった三吉の家から根分をして持って来た谷の百合には赤い珊瑚珠のような実が下っていた。こうして、花なぞを植えて、旧い家を夢みながら、未だお種は帰らない夫を待っているのであった。
新座敷は奥座敷とつづいてこの庭に向いている。その縁側のところへ来て、お仙が父の達雄に彷彿な、額の広い、眉の秀でた、面長な顔を出した。彼女は何を見るともなく庭の方を見て、復た台所の方へ引込んで了った。
木曾路の紅葉を思わせるような深い色の日は、石を載せた板葺の屋根の上にもあった。お種は自分が生れた山村の方まで思いやるように、
「三吉が行くなら、俺も一緒に御墓参をしたいが──まあ、俺は御留守居するだ」
独語のように言って、姉は炉辺の方へ弟を誘った。
午後に、お雪から出した手紙が三吉の許へ着いた。奥座敷の縁側に近いところで、三吉はその手紙を姉と一緒に読んだ。その時、お種は幸作に吩咐けて、家に残った陶器なぞを取出させて、弟に見せた。薬の客に出す為に特に焼かせたという昔の茶呑茶椀から、達雄が食った古雅な模様のある大きな茶椀まで、大切に保存してあった。
「叔父さん、こんなものが有りましたが、お目に掛けましょうか」
と豊世は煤けた桐の箱を捜出して来た。先祖が死際に子供へ遺した手紙、先代が写したらしい武器、馬具の図、出兵の用意を細く書いた書類、その他種々な古い残った物が出て来た。
三吉はその中に「黒船」の図を見つけた。めずらしそうに、何度も何度も取上げて見た。半紙程の大きさの紙に、昔の人の眼に映った幻影が極く粗い木版で刷ってある。
「宛然──この船は幽霊だ」
と三吉は何か思い付いたように、その和蘭陀船の絵を見ながら言った。
「僕等の阿爺が狂に成ったのも、この幽霊の御蔭ですネ……」と復た彼は姉の方を見て言った。
お種は妙な眼付をして弟の顔を眺めていた。
「や、こいつは僕が貰って行こう」
と三吉はその図だけ分けて貰って、お雪の手紙と一緒に手荷物の中へ入れた。
叔父の出発は豊世に取って好い口実を与えた。こういう機会でも無ければ、彼女は容易に母を置いて行くことも出来ないような人であった。
「叔父さん、お願いですから私も連れてって下さいませんか。私も仕度しますわ」
と豊世は無理やりに叔父に頼んで、自分でも旅の仕度を始めた。
三吉はすこし煩そうに、「実は、僕は独りで行きたい。それに他の細君なぞを連れて行くのも心配だ」
「心配だと思うなら止すが可いぞや」とお種が言った。
「何でも私は随いてく」と豊世は新座敷の方から。
「じゃ、汽車に乗るところまで送って進げよう」と三吉も引受けた。
いよいよ別れると成れば、余計にお種は眠られない風であった。その晩、姉は奥座敷に休んで弟と一緒に遅くまで話した。姉の様子も気がかりなので、一旦枕に就いた三吉は復た巻煙草を取出した。彼は先ずお仙の話をした。あれまでに養育したは姉が一生の大きな仕事であったと言った。薬の紙を折らせることも静かな手細工を与えたようなもので、自然と好い道を取って来たなどと言った。
「彼女が有るんで、俺も今まで持続えて来たようなものだわい」とお種も寝ながら煙草盆を引寄せた。
新座敷の方に休んだ豊世やお仙は寝沈まっていた。三吉は橋本の家の話に移って、幸作の骨折も思わねば成らぬ、正太には生命がくれてある、何物も幸作にはそんなものがくれて無い、そう神経質な眼で養子や嫁を見るべきものでもあるまい、欠点を言えば正太の方にも有るではないか、などと姉を沈着かせたいばかりに種々並べ始めた。一体、何の為に達雄が家出をしたと思う、そんなことを言出した。
「三吉、貴様は……何か俺の遣方が悪くて、それで、家がこう成ったと言うのか……何か……」
お種は尖った神経に触られたような様子して、むっくと身を起した。電燈の光を浴びながら激しく震えた。これ程女の節を立て通した自分に、何処に非難がある、と彼女の鋭い眼付が言った。どうかすると、弟まで彼女の敵に見えるかのように。
「姉さん、姉さん、そう貴方のように──他の言うことをよく聞きもしないうちから──何故そんなに思い詰めて了うんです。もっと静かな心で考えられませんか」
こんな風に、三吉の方でも半ば身を起して、言って見た。お種は直に話を別の方へ持って行った。興奮のあまり、彼女はよく語れなかった。
「でも、何でしょう。達雄さんだっても、まかり間違えば赤い着物を着なくちゃ成らなかったんでしょう」
「それサ……むむ、それサ……赤い着物を着せたくないばっかりに……」
「でしょう。その為に皆な苦心して、漸く今日まで漕付けた。正太さんのことなぞを考えて御覧なさい。ウッカリしていられるような時じゃありませんぜ」
「むむ、解った、解った。若いものを相手にするようなことじゃ、是方が小さいで……」
「小さいも、大きいも無いサ」
「いや、解った」
話が次第に紛糾った。終には、一体何を話しているのか、両方で解らないように成った。
「畢竟──姉さんはどうすれば可いと言うんですか」
「俺は正太の傍へでも行って、どんな苦労をしても可いから、親子一緒に暮したいよ」
こう話の結末をつけてみたが、何だか二人ともボンヤリした。
払暁まで、お種は碌に眠られなかった。
夜が白々する頃には、豊世も床を離れて、何かゴトゴト言わせていた。お種は雪洞を持って新座敷の方へ行った。
「豊世、お前も行って了うかい」
「母親さん達は昨夜遅くまで話していらっしゃいましたネ」
「碌に寝すか」
「何だかぼそぼそぼそぼそ声がしてましたが、そのうちに私は寝て了いました」
「豊世──俺はツマランよ」
お仙は未だ眼を覚さなかった。思わずお種は娘の枕許で泣いた。
三吉と一緒に朝茶を飲む頃のお種は、前の晩とは別の人のようであった。
「折角来てくれたのに」とお種はサッパリした調子で、「今度はイヤな話ばかり聞かせましたネ」
「三晩とも話し続けだ」
「いや、どうしてオオヤカマシ」
姉弟は顔を見合せて笑った。
豊世も仕度が出来た。やがて出発の時が来た。炉辺には、お種をはじめ、お仙、幸作夫婦、薬方の衆まで集って、一緒に別離の茶を飲んだ。
三吉達を見送ろうとして、お島とお仙の二人は町はずれまで随いて来た。
こういう道中をあまりしたことの無い豊世は、三吉と一緒に余儀なく歩かせられた。旧い木曾路は破壊される最中であった。時々、岩石の爆裂する音が起った。大きな石の塊が可恐しい響をさせて、高い崖の上から紅葉した谷底の方へゴロゴロ転がり落ちて行った。
「女が、独りでなんぞ、とても通られる時じゃ有りませんネ」
と豊世は叔父に随いて歩きながら言った。
都会風な豊世の風俗は、途中に仕事をしている労働者の眼を引き易かった。どうかすると、十人も二十人も「ツルハシ」を手にした工夫の群が集って、石や土を運ぶことを休めて、道を塞いでいた。
大きな森林は三吉の眼前に展けて来た。路傍には自然と足を留めさせるような休茶屋がある。樹木の間から、木曾川の流れて行くのが見える。そういうところへ寄って、三吉が豊世を休ませようとすると、かみさんが茶を運んで来て、「奥さんは、今日は何処から?」などと聞く。豊世はハニカンでもいなかった。自分のことは言わずに、三吉の方を指して、
「あれは、私の叔父さんですよ」
こう笑いながら答える。この笑いが反って休茶屋のかみさんを戯れるように思わせた。復た二人は笑って出掛けた。
停車場の新設された駅へ着いたは、日暮に近かった。豊世は汽車の時間を問合せた。叔父と一緒に一晩そこで泊らせて貰って、一番で名古屋へ発ちたいと言った。こう頼む人を翌朝停車場へ送り届けた時は、三吉も漸く気楽な一人に成ることが出来た。
深い秋雨に濡れながら、三吉は森彦が家のある村へ入った。そこまで行けば、木曾川を離れて、山林の多い傾斜を上るように成る。三吉が生れ故郷の隣村である。森彦の養家は小泉兄弟の母親の里で、姓は同じ小泉であった。養父は疾に亡くなっていた。留守居する養母、妻、子供は、三吉の周囲に集った。その日は、名古屋の方に居る森彦、東京に修業中のお延、お絹の噂で持切った。
旧の街道は木曾風の屋造の前にあった。従順な森彦の妻は夫を待侘顔に見えた。
大きな木曾谷は次第に尽きて来た。兄の村を離れて、更に三吉は山林の間の坂道を上った。二里ばかり歩いた。峠の一部落から一緒になった男と連立って進んで行くと、子供の時に見馴れた山々が谷の向にあらわれて来た。
「三吉様。その外套も私が持たず」
と連の男が往時と同じ調子で言って、辞退する三吉の外套を無理やりに引取った。この男は、「カルサン」を穿いて、三吉の荷物まで自分の肩に掛けていた。
「構って下さらない方が、私は難有いんです。今度は唯墓参りに来たんです」
こう話し話し行く三吉は、高い山の上の日のあたった道を歩いていた。旧い馴染の人達に見つからないうちに、彼は独りで、自分の生れた家の跡を見て廻ろうとした。途中で、寺の方へ向う連の男に別れた。
洋服に草鞋穿で、寂しい旅人のように、三吉は村へ入った。ずっと以前大火があって駅路の面影もあまり残っていなかった。そこは美濃路の方へ下りようとする山の頂にあった。傾斜に成った道の両側には、新規に建った家だの、焼残った家だのが、樹木の間に出たり引込んだりして並んでいた。畠に成っているところもあった。
石垣の上には十一二ばかりに成る女の児が遊んでいた。猿羽織というものを着て、何処の人が通るかと三吉の方を見ていた。三吉は勝手が違ったように、心覚えの場所を探した。
「ここらに小泉という家があった筈ですが──知りませんか」
とその女の児に一寸尋ねた。小娘は妙な顔をして、
「そこだに」
と直ぐ眼前にある桑畠を指して見せた。
連の男は迎えに来た。村を横に切れて、田畠の間の細い道を小山の方へ登ると、小泉の先祖が建立したという古い寺がある。復た三吉は独りで山腹の墓地へ廻って見た。寺の名と同じ戒名を刻んだ先祖の墓の前を通り過ぎて、墓地の出はずれまで行った。その眺望の好い、静かな一区域は、父母の眠っている場所だ。幸作に頼んで作った新しい墓石は墳の前に建ててあった。
幼い記憶が浮んで来た。以前から見ると明るく成った樹木の間から、三吉は村の家々を望んだ。「旦那衆」の住居は多くは焼けて小さく成った。昔は頭の挙らなかった百姓の部落の方に沢山新らしい家が建込んでいた。
旧い馴染の人達は、何時までも三吉を独りにしては置かなかった。その翌日は、彼は寺の広間で、墓参の為に集って来た遠い近い親戚とか、出入の百姓とか、その他小泉の昔を忘れずにいる男や女の多勢ゴチャゴチャ集った中に居た。
三日目に三吉は以前の隣家へ移った。大きな酒屋を営んでいた家で、小泉の屋敷跡も今ではその所有に成っている。二階の客間は、丁度以前の小泉の奥座敷と同じ向にあって、遠い美濃の平野を一段高く望まれるような位置にある。そこへ主人は三吉を誘った。桑畠は直ぐ石垣の下にあった。忠寛の書院、母やお倉のよく縫物をした仲の間、実の居た「くつろぎ」の間、上段、離れ、会所などと名のつけてあった広い部屋々々の跡は、眼下に見ることが出来る。温厚な長者らしい主人は、自分も往時を思出したという風で、三吉と一緒に縁側に立って、あそこに井戸があった、ここに倉があった、と指して見せた。忠寛の座敷牢のあったという木小屋の辺は未だ残っていた。三吉が祖母の隠居していた二階建の離れには、今は主人の老母が住むとのことであった。
「や、小泉さんに進げるものが有る」
と主人は、手を鳴らして酒を呼んだ後で、桑畠の中から掘出されたという忠寛の石印を三つばかり三吉の前に置いた。
古い鏡も掘出されたことを、主人は語った。忠寛の書院の前にあった牡丹は、焼跡から芽を吹いて、今でも大きな白い花が咲く。こんな話もした。
この明るい二階へも、村の人や三吉の学校友達が押掛けて来た。以前は、「オイ、三公」なぞと忸々しく呼んだ旦那衆が、改まってやって来て、「小泉君」とか「三吉君」とか言葉を掛けた。主人を始め、集って来る人達は大抵忠寛の以前の弟子であった。
「でも、忠寛先生の時分には──いくら無いと言っても──六七十俵の米は蔵に積んであった。皆な兄さんが亡くしたようなものだわい」
こう笑い話のようにして、高い酔った声で旧を語るものもあった。
人を避けて、復た三吉は縁側の障子の外へ出てみた。家は破れても、山々の眺望は変らずにある。傾斜の下の方には、石を載せた板屋根、樹木の梢などが見える。秋は深い。最早霜が来たらしい桑畠の中には、色づいた柿の葉が今にも落ちそうに残っている。
何となく時雨れて来た。
荒廃した街道について、三吉は故郷の村から美濃の方へ下りた。二里ばかり送って随いて来るものも有った。ある町へ出た。そこで名古屋行の汽車に間に合った。
正太が泊っているのはやはり株式に関係した人の自宅であった。三吉は名古屋へ入って、清潔な「閑所」の多い、格子窓の続いたある町の中に、その宿を見つけた。
「誰方?」
茶色な暖簾を分けて、五十近い年恰好の婦人が顔を出した。
「小泉です。橋本の叔父です」
叔父と聞いて、婦人は三吉を静かな奥深い客間へ案内した。正太も豊世も出て居なかった。その時、三吉は、この婦人の口から、正太が既に名古屋の相場で失敗したことを聞いた。この婦人の若い養子も、正太と手を組んで、大きな穴を開けたと聞いた。
午後の四時頃に正太夫婦は散歩から戻って来た。表二階が正太の借りている部屋であった。
「豊世、何かお前は叔父さんに見て来て進げたら可かろう」
と正太は買物を命じて置いて、表から裏口へ通り抜けられる土間の板を渡った。三吉もその後から、この家の母親が坐っている部屋を横に見て、高い壁に添うて、箱梯子を上った。
二階は薄暗かった。三吉は正太と窓に近く坐って、互に顔を見合せた。正太が相場の失敗を語り出す前に、その意味は叔父の方へ通じていた。
「や、種々な話が有る」
と三吉は正太の並べる言葉を遮った。何となく正太は悄然としていた。それを見て、叔父は自分の旅を語り始めた。
「どうも叔父さん、種々御世話様で御座いました」と豊世が上って来て言った。「なんですか、私も是方へ来てから、また母親さんが一人加えたような気がしますわ」
階下に住む婦人がナカナカのエラ者で、商売の道にも明るく、養子の失敗を憂えていることなぞが、かわるがわる正太夫婦の口から出た。そのうちに、正太は、「お前はそっちへ行ってお出」と豊世に眼で言わせて、黙然と叔父の前に頭を垂れた。
「叔父さん、私もいよいよ洗礼を受けました」
こんなことを言出した。三吉は不思議そうに甥の顔を見た。
「実は──」と正太は沈痛な語気で、「熱田へ遊びに参りましたら、その帰り道で洗礼を受けました──二度、喀血しました」
「叔父さん」と正太は男らしい響のある調子に返った。「私もこれから大に遣ります。医者に診て貰いましたところが、『お前の病気は自分で作った病気だ、精神の過労から出た病気だ、下手にクヨクヨするな、そのかわり三年や四年でマイって了うようなものじゃ無い、十年の生命は引受けた』と言ってくれましたんです。『仕事を為ても構わんか』と聞いたら、『差支は無い』ッて言いますからネ。『よし』と、『それじゃ俺はこれからウンと遣って見せる、この病気に罹ってから事を成した者は──いくらもある』こういう覚悟を抱いたんです」
「どうだネ、どんな心地がするネ」と三吉は病人扱いにしたくなく尋ねた。
「何となく、こう厳粛な心地が起って来ました……」
「そいつは面白いナ。何だねえ、正太さん、今日までのことは忘れて行るんだネ。是非とも親譲りの重荷をどうしなけりゃ成らんとか、なんとか、そんなことは先ず側に置くんだネ。自分は自分の為るだけのことを為る──それで可いじゃないか」
「私もその積りです。それにネ、叔父さん、銀行側の人ですら、『もう達雄さんも好い加減にして帰って来たら好かろう』──なんて言ってくれた人もあるんです」
「今度の旅は、君の家でも大分ヤカマシかった。僕は君、三晩とも碌に寝ずサ。姉さんに向って種々なことを言って、終には、赤い着物の話まで出た。そこまで僕は姉さんには言わなかったが、何故達雄さんが家を出る時に、自分の為たことは自分で責任を負います……赤い着物でも何でも着ます……そのかわり妻子に迷惑を掛けてくれるな、と言わなかったろう。家を出る位の思をしても……その苦痛が何の役にも立たない……」
「いえ、叔父さん、そう阿爺の方から出てくれれば、まさかに赤い着物を着せるとも、誰も言いはしなかったろうと思います。ところが阿爺はそうじゃなかった。『俺にそれを着せてくれるな』と言出した……その時、もうこれは駄目だ、と私も思いました」
こう二人は達雄のことを言って見たが、でも何となく頭が下った。目下のものが旧家の家長に対する尊敬の心は、是方に道理があると思う場合でも、不思議に二人に附いて廻った。
豊世が膳を運んで来た。正太は力の無い咳をして、叔父と一緒に笑いながら食った。三吉は姉の生涯をあわれに思うという話なぞをした後で、
「僕は、今度は、姉さんにも言った……莫迦に怒られちゃった……」
「なにしろ、母親さんは、神聖にして犯す可らず──吾家じゃそう成っていましたからネ。しかし、叔父さん、小泉忠寛翁の風貌を伝えたものは──貴方の姉弟中で、吾家の母親さんが一番ですよ」
正太はすべて可懐しいという眼付をした。母も、幸作夫婦も、家を捨てて行った父も──
「森彦叔父さんを訪ねて見ようじゃ有りませんか。私の病気のことは未だ誰にも言わずに有ります。あの叔父さんにも知らせて有りません。母親さんは無論のこと。唯、貴方に御話するだけです。豊世は……これはまあ看護をしてくれる人ですから……」
こんなことを言って、翌日正太は三吉を誘った。彼は胸に病のある人とも見えないほど爽快な声で話す時もあった。活気のある甥の様子に、三吉もやや安心して、一緒に森彦の宿を訪ねることにした。
「森彦叔父さんも奮闘していますぜ」
と正太は箱梯子を降りかけた時に言った。
午後に成って、正太は名古屋女の観察、音曲、家屋の構造なぞの話を叔父に聞かせながら帰って来た。暖簾を潜ると、茶室のように静かな家の内には読経する若主人の声が聞える。それを聞きながら、二人は表二階の方へ上って行った。
豊世は行末のことまでも思うという風で、二人の傍へ来た。
「豊世さん、貴方はどうする人ですか」と三吉が尋ねた。「未だここに居る人ですか」
「私も困って了いますわ。こうして置いても行かれませんし、そうかと言って、東京の家を畳むのも惜しいなんて言いますし──」
「ああ、意気地の無いものは駄目です」と正太は妻の方を見て、アテコスるような調子で歎息した。「どういうものか、豊世は、イヤに突掛って来るようなことばかり言う……こう俺に……しかし、無理も無いサ。この年に成って、碌に妻も養えないような人間だからナア」
これを聞くと、豊世はもう何事も言えなかった。
「まあ、森彦さんにも相談するサ」と云って、三吉は調子を変えて、「駒形の家に居る老婆さんネ、あの人も一生懸命で君の留守居をしてるよ。稀に僕が留守見舞に寄ると、これは旦那から預った植木だから、どうしてもこいつを枯らしちゃ成らんなんて……余程主人思いだネ」
正太も笑った。「叔父さん、ホラ、私がこの夏、岐阜の方へ行って、鵜飼の絵葉書を差上げましたろう。あの時、下すった御返事は、大事に取っといてあります」
「どんな返事を進げたっけネ」
「ホラ、私も長良川に随いて六七里下りましたと申上げました時に……あの暑い盛りに……こう夏草の香のする……」
「そうそう、木曾路を行くがごとしなんて、君から書いて寄したッけネ──是方の暑さが思いやられたッけ」
正太は深い、深い溜息を吐いた。
暮方に、三吉は東京へ向けて、夜汽車で発つことにした。叔父を見送ろうとして、正太は一緒にこの宿を出た。電車で名古屋の停車場まで乗った。時間はまだすこし早かった。正太は燈火の点き始めた停車場の前をあちこちと静かに歩いて、ふと思いついたように叔父に向って、
「貴方の許の叔母さんにしろ、吾家のやつにしろ、今が一番身体の盛んな時でしょう──」
見ても圧迫を感ずるという調子に、彼は言った。
間もなく三吉は新橋行の列車の中に入った。窓の外には、見送の切符を握った正太が立って、何もかも惨酷いほど身に浸るという様子をしていた。車掌は飛んで来て相図の笛を鳴らした。正太は前の方へ曲み気味に、叔父をよく見ようとするような眼付をした。三吉も窓のところに、濡れ雫に成った鶏のようにションボリ立っていた。
「叔母さんにも宜しく……」
と正太が言う頃は、汽車は動き出していた。
停車場の灯、薄暗い人の顔は窓の玻璃に映ったり消えたりした。宿の方へ戻って行く正太の姿を、三吉は想って見た。「郷里へでも帰って静養したらどうです」と森彦の旅舎から帰りがけに甥に言った時、正太が首を振って、健気にも未だ戦おうという意気を示したことなぞが、三吉の胸にあった。正太の失敗も知らず、まして病気も知らず、彼一人に希望を繋いでいるような橋本の家の人達のことも浮んで来た。
「可哀想な男だ」
こう口の中で言って見て、長いこと三吉は窓のところに立っていた。
春が来た。正太の留守宅では、豊世と老婆と二人ぎりで、四月あまりも名古屋の方の噂をして暮した。豊世は十一月末に東京へ引返したので、駒形の家の方で女ばかりの淋しい年越をした。河の方へ向いた玻璃障子の外へは幾度となく雪が来た。石垣の下に見える物揚場の伊豆石、家々の屋根、対岸の道路などは、その度に白く掩われた。弟という人と一緒に二階を借りて夫婦同様に暮している女の謡曲の師匠が他へ移るとか移らないとか、家主が無理に立退を迫るとか、煩いことの多い中に、最早家の周囲には草の芽を見るように成った。
やがて豊世はこの惜しい世帯を畳まなければ成らない人であった。正太が放擲して置いて行った諸方の遊び場所からは、あそこの茶屋の女中、ここの待合の内儀、と言って、しばしば豊世を苦めに来た。彼女はそういう借金の言訳ばかりにも、疲れた。そればかりではない、月々の生活を支える名古屋からの送金は殆んど絶えて了った……家賃も多く滞った……老婆に払うべき給料さえも借に成った……
家具を売払って、一旦仕末を付けよう、こう考えながら豊世は家の内を歩いて見た。二度とこうした世帯が持てるであろうか、自ら問い自ら答えて、幾度か彼女は家の形を崩すことを躊躇した。
勝手の流許には、老婆が蹲踞んで、ユックリユックリ働いていた。豊世は板の間に立って眺めた。ゴチャゴチャした勝手道具はこの奉公人に与えようと考えていた。
「真実にねえ、これまでに丹精するのは容易じゃなかった」と豊世は独語のように言った。
「奥様、何卒まあ、一日も早く旦那様の方へ御一緒に御成遊ばすように……」と老婆は腰を延ばして、「私も、何か頂きたくて、これまで御世話を致したのじゃ御座いません。奥様がこうして御一人でいらっしゃるのが、私は心配で堪りません……御留守居は最早沢山で御座いますよ……」
この奉公人は、リョウマチ気のある手を揉み揉み言っていた。
豊世は水に近い空の見える方へ行った。川蒸汽や荷舟は相変らず隅田川を往復しつつあった。玻璃障子の直ぐ外にある植込には、萩や薔薇などを石垣の外までも這わせて、正太がよく眼を悦ばした場所である。豊世は、その玻璃障子も他の造作と一緒に売ろうと考えた。
長く手入もせずに置いた草木は、そこに柔かな芽を吹いていた。それを見ると、幾年か前の春が彼女の胸に浮んだ。橋本の姑が寝物語に、男の機嫌の取りようなぞを聞かされて、それにまた初心らしく耳傾けたことは、夢のように成った。相場師の妻らしく粧おうとして、自然と彼女は風俗をもつくった。女に出来ることで、放縦な夫の心を悦ばすようなことは、何でもした。それほど夫の心まかせに成ったのも、何卒して夫の愛を一身に集めたいと思ったからで……夫の胸に巣くう可恐しい病毒、それが果して夫の言うように、精神の過労から発したのか、それとも夫が遊蕩の報酬か、殆んど彼女には差別のつかないものに思われた。
二月の末頃、正太は一度名古屋から上京したこともあった。その時は顔色も悪く、唯瘠我慢で押通しているような人であった。「旦那様は御自分じゃ、十年も生きるようなことを仰って被入っしゃいますが……どうして私の御見受申したところでは、二三年もむずかしゅう御座いますよ」と老婆は蔭で豊世に言った。二三日逗留した正太の身体からは、毎晩のように、激しい、冷い寝汗が流れた。まるで生命の油が尽きて行くかのように。それを豊世は海綿で拭き取ってやったことも有った。
その時の夫の言葉を、彼女は思出した。
「看護婦さん、足でも撫っておくれ……」
と夫は言ったが、それを玻璃障子のところで繰返してみた。彼女はまだ女の盛りであることを考えて、そこに立っていられないほど悲しく成った。
「老婆や、一寸御留守居を頼みますよ。三吉叔父さんの御宅まで行って来ますから」
と豊世が声を掛けたので、老婆は勝手の方から送りに出た。
「まあ、奥様の御服装は……意気なことは意気で御座いますが……おめかけさんか何ぞのようじゃ御座いませんか」
こう上り端のところに膝を突いている老婆の眼が言った。意気な細君らしく成った豊世の風俗は、昔気質の老婆には気に入らなかった。この年をとった奉公人は、何処までも旦那から留守を預ったという顔付でいた。
豊世は石段を下りた。
途次彼女は種々なことを考えて行った。どうかすると彼女は、自分の結婚の生涯を無意味に考えた。絶対の服従を女の生命とするお種のような、そういう考えは豊世には無かった。名古屋へ行こうか、それともこの際……いっそ自分の生家の方へ帰って了おうか、と彼女は叔父の家の門へ行くまでも思い迷った。
三吉はお雪と一緒に自分の家の方で、折柄訪ねて来たお愛を送り出したところであった。このお雪が二番目の妹は、若々しい細君として、旦那という人と共に一寸上京したのである。下座敷の障子も明けひろげてあるところへ、丁度豊世が入って来た。
「豊世さんはお愛ちゃんを御存じでしたろう。好い細君に成って来ましたよ」
こう言いながら、三吉は長火鉢の前に豊世を迎えた。お雪もその側に居て、お愛夫婦の噂をした。
叔父叔母の顔を眺め、若い人達の噂を聞くにつけても、豊世は気が変って、途次考えて来たようなことは言出さなかった。いよいよ駒形の家を仕舞うに就いては、何か家具の中に望みの品はないか、どうせ古道具屋に見せて売払うのだから、とお雪に話した。「真実に惜しいと思いますわ……でも、どうすることも出来ません」とも言った。
「なんでしょうか、橋本の姉さんは正太さんの病気を知ったでしょうか──実際の病気を」と三吉が尋ねた。
「さあ……」と豊世も考深く、「手紙には何とも書いてありません……最早知ったでしょうよ……幸作さんが名古屋へ出て、宅に逢っていますから。森彦叔父さんだって、漸くこの頃御知んなすった位ですわ」
「あの兄貴へは、私の方から話しました」
豊世は切ないという眼付をして、「橋本の母親さんからは、早く名古屋の方へ行って、看病してやっておくれ、と言って来ますし……生家の母からは、また……是非是方へ帰って来いなんて……真実に、親達は、先ず自分の子の方のことを考えてますよ。でも、生家の母も、私が可哀想だと思うんでしょう……」
「正太さんも可哀想ですし、貴方も可哀想です」
と叔父に言われて、豊世は自分で自分を憐むように、
「私も、行って看病してやりますわ……今までだって、叔父さん、私の方で居てやったようなものですもの……」
「豊世さん──貴方がたは結婚なすってから、今年で何年に成りますネ」と三吉は巻煙草の灰を落しながら言出した。
「丁度十一年──」と豊世も過去ったことを思出したように。
「して見ると僕等よりは一年後でしたかねえ」
「たしか、橋本の番頭さんが薬を負って吾家へ被入って、あの時豊世さんのお嫁さんに被入しったことを伺いましたっけ」とお雪も言葉を添える。
「そうでしたねえ、あの時叔母さんからも御手紙なぞを頂きましたっけねえ」と豊世が言った。「真実に楽しいと思ったのは、結婚して一年ばかりの間でしたよ……それからもう家の内がゴタゴタゴタゴタし出して……母親さんは臥たり起きたりするように御成んなさる……そのうちにあの騒ぎでしょう」
お雪も微かな溜息を吐いた。
「何しろ、正太さんと私とは縁故の深い訳ですネ──」と三吉は話を引取った。「私達二人は小学校時代から一緒でしたからネ。尤も級は違いましたが。私が八つばかりの時に東京へ修業に出される……あの頃は土耳古形のような帽子が流行って、正太さんも房の垂下ったのを冠ったものでサ……あんな時分から一緒なんですからね」
「旧い、旧い御馴染」と豊世は受けて、「叔父さんが仙台に被入しった時分、宅のことで書いて寄して下すった手紙が、昨年でしたか出て参りましたっけ。あれなぞを見ましても、余程宅は皆さんに心配して頂いた人なんですネ」
「へえ、そんな手紙を進げましたかナア」
「なんでも宅の方針のことで、叔父さんの意見を聞きに上げたんでしょう……あんなに皆さんから心配された位ですから、もうすこし宅も何か為そうなものでしたが……」
こういう話から引出されて、豊世は橋本の舅が家出の当時のことや、生家から電報が来て、帰って行ってみると、それぎり引留められて了うところであったことや、実に恋人の方へ行く女の心で彼女は正太の方へ逃げて来たものであることなぞを言出した。
豊世はまだ聞いて貰いたいという風で、ある時自分の一生を卜って貰ったことがあった。「貴女は優しい人ですが、何処か一箇処、男性のようなところが有る──そこを気を着けなければ不可」とその卜者が言ったとか。そんなことまで言出した。
「叔父さんの言葉で言えば、まあ親が出て来るんでしょうよ」
こう言って、豊世は寂しそうに笑った。
遊び盛りのお雪の子供等は表の入口を出たり入ったりしつつあった。三番目の男の児も、最早どうにかこうにか歩ける頃で、母親の方へ来たり、女中の方へ往ったりしていた。
「オヤ、可笑しい、母さんのお乳を捜したりなぞして」
と豊世に言われて、子供は母親の懐に入れた手を引込ました。
「ナイナイしましょう」とお雪は懐を掻合せながら子供に言った。
「そう言えば、叔母さんは復たお出来なさいましたんでしょう……どうも此頃から、そうじゃないかッて、老婆とも御噂をしていましたよ」
豊世はお雪の方を見た。お雪はすこし顔を紅めて、微笑んだ。
「お雪」と三吉は妻に、「何か豊世さんの許の道具で、お前の方に頂きたいものが有るかい」
お雪は気の毒そうに、「そうですねえ……じゃ、豊世さんの裁物板と、それから張板でも譲って頂きましょうか」
「あの張板なぞは、宅でまだ川向に居ました時分、わざわざ檜木で造らせたんですよ。長く住む積りでしたからねえ。とにかく、道具屋に一度見せまして、直段を付けさした上で、また申上げましょう」
豊世は心細そうに震えた。とかく話は途切れ勝であった。
豊世が帰って行く頃、三吉は独り二階の部屋へ上って、北側の窓のところに立った。屋根、物干などの重なり合っている間には、春らしく濁った都会の空気や煙を通して、ゴチャゴチャ煙筒の立つ向うの町つづきに、駒形の方の空を望むことも出来た。そこで三吉は正太のことを思った。
お雪も楼梯を上って来て、豊世が置いて行ったという話を夫にした。正太が一つ場所に一週間居ると、必ともうそこには何か持上っている──正太はお俊にまで掛った──こんなことまで豊世はお雪に話して行ったとかで。
「『真実に、叔母さんは可羨しい』なんて、豊世さんはそんなことを言って帰りましたっけ」
「でも、お前は不平だって言うじゃないか」と三吉は聞き咎める。
「何にも不平なことは有りません」
こうお雪が力を入れて答えたので、しばらく三吉は妻の顔を眺めていた。
「吾儕が豊世さんから羨まれるようなことは何にも無いサ──唯、身体が壮健だというだけのことサ」
そう言って置いて、三吉は自分の仕事の方へ行った。
その晩、三吉夫婦は遅くまで正太や豊世の噂をした。子供等が寝沈まった頃、お雪は何か思出したという風で、平素にない調子で、
「父さん、私を信じて下さい……ネ……私を信じて下さるでしょう……」
と夫の腕に顔を埋めて、終には忍び泣に泣出した。「何を言出すんだ──今更信じるも信じないもないじゃないか」と三吉は言おうとしたが、それを口には出さなかった。彼は黙って、嬉しく悲しく妻の啜泣を受けた。
いよいよ豊世が名古屋へ発つという前日、駒形の家の方からは、夏火鉢、額、その他勝手道具の類なぞを三吉の許へ運んで来た。その中には正太の意匠で、お俊の絵筆をかりて、小さな二枚戸に落葉を模様のように画かせた置床もあった。
豊世も別れに来た。彼女は自分の使い慣れた道具が、叔父の家の方へ来ているのを眺めて、楽しい河畔の生活もいよいよ終を告げるかと思った。
「今も、一軒お別れに寄って参りましたら、その家の人が、橋本さんは何時でもお別れにばかり寄るじゃありませんか、なんて……」
こう豊世は叔父叔母に話して、落着いていたことも少い自分の生涯を聞いて貰いたいという風であった。
「豊世さん、こういう説がありますぜ」とその時、三吉は直樹の老祖母の話だと言って、正太の生命が三年持つものなら、豊世が傍に居ては一年しか持つまい、とあの七十の余までも生き延びた老祖母が言ったことをそこへ持出した。豊世は首を振って、夫の衰え方は世間の人の思うようなものでは無い、と萎れながら打消した。
お雪も別れを惜んで、一晩豊世に泊るように、自分の家から名古屋へ発つように、と勧めた。「どうです。そうなすったら」と彼女が言った。豊世は、方角の好い旅舎を択んで、老婆と二人宿賃を出し合って、名残に一夜泊ることを約束して置いて来たから、折角ではあるが、成るならその旅舎から送られて発ちたいと言った。多くの家具を腹の立つほど廉く売払っても、老婆の給料まで悉皆払って行くことは覚束ない、いずれ名古屋から送る積りだ、とも言った。
「御勝手の道具で、売って幾何にも成らないようなものは、皆なあの老婆やに遣りましたよ」と豊世は附添えた。
お雪は別れの茶を汲んで来た。豊世は直樹の家へも暇乞に寄ったことを話した。種々な人の噂が出た。三吉は、正太がまだ若くて懇意にした人の中に、お春という娘のあったことなぞをめずらしく言出した。
「叔父さんはよくあんな人のことまで覚えていらっしゃいましたね。私がまだお嫁に来ない前のことでしょう。あの人も嫁いて、最早子供が幾人もあります」と豊世が言った。
「それはそうと」と三吉は笑いながら、「豊世さんを一つ嫌がらせることが有る。ホラ、名古屋で正太さんが泊ってる家の主婦さん……シッカリ者だなんて、よく貴方がたの褒めた……あの人が丹前なぞを造って、正太さんに着せてるといいますぜ──森彦さんが出て来た時、その話でした」
「あんな年寄なら、私は焼きません」
と豊世も串談のように言って笑ったが、やがて立ちがけに、
「叔父さん、今の御話を……行って宅に仕ても可う御座んすか」
と聞いた。お雪も笑わずにはいられなかった。豊世は、いずれ名古屋へ着いたら、日あたりの好い貸間でも見つけて移る積りだと話して、いそいそと別れを告げて行った。
五月の末に、三吉は正太が名古屋の病院に入ったという報知を受取った。間もなく、彼は病院からの電報を手にした。
「ゼヒアイタイ、スグキテクレ」
としてあった。
それほど正太の病が急に重く成ったとは、三吉には思えなかった。手放しかねる仕事もあり、様子も分りかねたので、名古屋に居る森彦へ宛てて、病人のことを電報で問合せた。都合して来いという返事が来た。何を措いても、彼は名古屋の方へ行こうと思い立った。それをお雪にも話した。
正太を見舞いに行く前の晩、三吉は種々なことで多忙しい思をした。甥が病んでいることを、せめて向島の女にも知らせて遣りたいと思った。言伝でもあらばと思って、人を通して、電話で伝えさせた。小金も、その母親も、共に病床にあるということが、その時解った。
こうして三吉は復た名古屋行の汽車に揺られて行くように成ったのである。彼が森彦の旅舎へ着いたのは、日暮に近い頃であった。
東京から見ると暑い空気の通う二階の窓のところで、兄弟は正太の病状を語り合った。病院の方へはお種も来ているとのことであった。森彦は片端から用務を処理するような口調で、橋本の姉が近年にない静粛な調子の人であることや、幸作からも便りがあって、もし彼の行商中に万一の事でもあったら、死体は名古屋で焼くように、そして遺骨として郷里の方へ送るように、と頼んで来たことなぞを話した。
「いかに言っても、これは早手廻しだ──しかし、好く書いてある」
と森彦は幸作からの書面を弟に見せて、高い調子で笑った。
翌朝、三吉は兄に伴われて病院の方へ行った。玻璃戸のはまった長い廊下に添うた二階の一室に、橋本正太とした札が掲けてあった。二間つづきに成って、一方に窓のある明るい室が患者の寝台の置いてあるところ、その手前が看護するものの部屋であった。そこで三吉は、お種や豊世とも一緒に成った。
正太は、叔父達の来たことも知らずに、暗く黒ずんだ顔を敷布に埋めながら眠っていた。そのうちに大きな眼を開いて、驚いたように三吉の方を見た。
「オオ、眼が覚めたそうな。いくらかでも寝られて反って可かった。三吉叔父さんも被入しって下すったよ」
とお種は正太の枕許へ行って、母らしい調子で言った。正太は半ば身を起して、叔父達に一礼したが、復た寝台の上に倒れた。痩せ細った手で豊世を招いて、自分の口を指して見せる。やがて豊世が勧める水薬で乾き粘った口を霑して、
「是非一度叔父さんに御目に掛って置きたいと思いまして……電報はすこし大袈裟かとも思いましたが、わざわざ御出を願ったような訳です……」
こう正太は三吉に言った。彼は又、豊世を顧みて、「叔父さん達に倚子でも上げたら可かろう」と注意した。
豊世は倚子を寝台の側へ持って来た。森彦、三吉の二人はそれに腰掛けて話した。お種はなるべく正太を休ませたいという風で、三吉に向って、
「お前さんが来るか来るかと言って、彼は昨日から待っていた……この名古屋に、彼の御友達で油絵を描く人がある、その人の描いた画をこの部屋で眺められて、三吉叔父さんに御目に掛れれば、もう他に彼は思い残すことが無いのだそうな……で、そのことを御友達に御話したら、それは造作もないことだ、同じ絵ばかりでも倦きるだろうによって、時々別なのを持って来て取替えて進げる、そう言ってあんなのを掛けて下すった……」
彼女は、寝ながら病人が眺められるようにしてある小さな風景画の額を弟に指してみせた。
森彦はお種や豊世に看護の注意を与えて置いて、一歩先に旅舎の方へ帰って行った。午後まで三吉は正太の傍に居た。時とすると、正太はウトウトした眠に陥入った。その度に三吉は病室の外へ出て、夏めいた空の見える玻璃戸のところで巻煙草を燻した。白い制服を着けた看護婦は長い廊下を往来していた。
森彦は旅舎の方で、看護する人達のことを心配していた。共進会も終った頃で、二階には泊り客も少かった。部屋々々は風通しよく明けひろげてあった。そこへ三吉はお種と一緒に、病院から戻って来た。
「御風呂を御馳走してくれるそうだで、一寸呼ばれに来ました」とお種は森彦に言った。
「ええ、貴方がたは看病にばかり夢中に成ってるが、各自注意しないと不可。湯にでも入って、すこし休んでお出。今日は一つ──三吉も来たし──夕飯を奢ろう」
と言って、森彦は女中を呼んだ。
「三吉は何が好い。鳥肉でも食うか」と復た彼は弟を顧みて言った。
一風呂浴びた後、姉弟三人は一緒に集って茶を飲んだ。「今度は、姉さんも非常に成績が好い──その点は感心した」と森彦が面と向って姉に言う位で、橋本の家で三吉が一緒に成った時のお種とは別の人のように見えた。狂人にでも成るかと思われたお種の晩年に、こうした静かさが来ようとは、実に三吉には思いもよらないことで有った。
他の兄弟の話が引出された。お種は、満洲から来た実の便りに、漸く彼も信用のある身に成って、東京に留守居するお倉へ月々の生活費を送るまでに漕付けたことを話し出した。
「三吉にその手紙を見せずと思って……つい郷里を出る時に忘れて来た」ともお種が言った。
宗蔵の噂も出た。「ああ捨身に成れば、人間は生きて行かれるものだ──彼は彼で食える」と森彦は森彦らしいことを言って、笑った。
やがて、女中は誂えて置いた鳥の肉を大きな皿に入れて運んで来た。紅くおこった火、熱した鉄鍋、沸き立つ脂などを中央にして、まだ明るいうちに姉弟は夕飯の箸を取った。
「熱い御馳走だが、さあ、やっとくれ」
と森彦は腕まくりして始めた。
肉は焼けてジュウジュウ音がした。見る間に葱も柔く成った。お種も、三吉も、口をホウホウ言わせながら、甘そうに汗を流して食った。
「豊世にも食わせてやると好かった」と森彦は懐をひろげて、胸のあたりに流れる汗を押拭った。
「彼女は病人を引受けてるで……俺がまた入替りに成って、彼女をも寄すわい……御風呂にでも入れてやって御くれ」
こうお種は物静かな調子で答えた。
病院の方へ心が引かれて、お種はそこそこに別れて行ったが、燈火の点く頃には、豊世が入替ってやって来た。豊世は行末のことまでも考えるという風で、沈み勝ちに見えた。その晩は遅く成って、豊世の兄、幸作の二人が郷里の方からこの旅舎へ着いた。
翌日の午前は、小泉兄弟を始め、ここへ来て脚絆を解いた人達が一つ部屋に集って、正太が亡く成った後のことまでも話し合った。
「や、名古屋へ来て、ここの家の娘の踊を見ないということは無い」
と森彦が款待顔に言出した。彼は宿の小娘を呼んで、御客様に踊を御目に掛けよ、老婆さんにも来て、三味線を引くように、と笑い興じながら勧めた。
こういう中で、正太は病みつつあった。午後に一同が病院を訪ねた時は、正太は興奮した気味で、皆なの見ている前で手足なぞを拭かせたが、股のあたりの肉はすっかり落ちていた。嘔気があるとかで、滋養物も咽喉を通らなかった。正太は、豊世の兄と三吉の二人を特に寝台の側へ呼んで、母や妻の聞いているところで、種々と後事を托した。おそらく彼亡き後には、彼が家の為に尽したことに就いて、同情を寄せる人もあるであろう、と話した。豊世には、長く家に居て、母や幸作を助けるように──何一つ幸福な思もさせなかったことを気の毒に思う、とも話した。どうかすると彼の調子は制えることの出来ないほど激昂したものと成って行った。それが戯曲的にすら聞えた。両手で顔を押えながら聞いていた豊世は、夫の口唇を霑してやった。
「正太さん、どんな心地がしてるものかネ」
三吉は甥の寝台の側へ寄って尋ねた。名古屋へ着いて三日目の午前の事である。
「私は今、何事も思いません」と正太は両手を白い掛蒲団の上へ力なげに載せて、大きく成った眼で三吉の方を見た。「唯……どうかするとこう、脆く行って了うようなものじゃないか……そんなような気はしています……」
幾干もない自己の生命を、正太は自覚するもののように見えた。その日は沈着いて、言うことも平常と変らなかった。
乾燥した空気は病室の壁に掛けてある額の油絵まで明るく見せた。微かな心地の好い風も通って来た。玻璃窓の外には、遠く白い夏雲を望んだ。三吉は窓の方へ行って、静かな病院の庭を眺めて、復た甥の枕許へ来た。
「正太さん、君の一生を書いて見ようかネ──何だか書いて置きたいような気もするネ」
「何卒、叔父さん、御書きなすって下さい──是非御書きなすって下さい──好かれ、悪しかれ──」
正太は微かな笑を口元に浮べながら、力を入れて答えた。
こうして正太と二人ぎりで居ることは、病院に来ては得難い機会であった。豊世は濯ぎ物か何かに出て居なかった。幸作も見えなかった。その時、三吉は向島の言伝を齎そうとして、電話で聞かせたことを話しかけた。お種が廊下の方から入って来た。
「姉さん、一寸彼方へ行ってて下さい。すこし私は正太さんに話したいことが有る」
と三吉に言われて、姉は笑いながら出て行った。
「しばらく私の方へは便りが有りません……」と正太は向島親子が病んでいることを叔父から聞いた後で、言った。「この春あたりまでは文通もしましたが、それからはサッパリ手紙も来なく成りました……」
「駒形にあった額が三枚僕の家へ来てる。いずれ僕が東京へ帰ったら、あの中をどれか一枚、君の記念として送りましょう」
「何卒、宜しく……」
正太は意外な音信を聞いたという顔付で話した。
何気なく三吉は廊下の方へ出て見た。そこで豊世と幸作とに逢った。三吉は姉の様子が好さそうなのを悦んで、それを二人に話した。「母親さんも気を張って被入っしゃるからでしょうよ。私の方が反って励まされる位です」と豊世は言った。「どうして、心はあれで弱っているんです」と彼女は附添えた。
幸作に伴われて、三吉は二階の昇降口の人の居ないところへも行った。
「満洲の父親さんの方へは知らせたものでしょうか……」
「さあねえ……もし万一のことでも有ったら、その時は知らせるサ」
「私も、まあ、それに賛成だ……」
二人は欄に倚りながらこんな立話をした。その時幸作は、豊世の一身に就いて、行末の方針に苦むということを話した。正太の看護はしても、再び橋本の家へ帰る心は、豊世には無いらしいとのことで有った。
三吉も、そう長く名古屋に逗留することは出来なかった。午後まで、皆なと一緒に正太の側に居た。甥の病勢もまだ旦夕に迫ったという程では無いらしいので、看護を人々に頼んで置いて、東京の方へ帰ることにした。
別れる時が来た。つと三吉は正太の枕許へ行った。
「正太さん。僕はこれで失敬します」
と言いながら、熱い汗ばんだ手を差出して、握手を求めた。
長いこと叔父甥は手を握り合っていた。やがて三吉が別れを告げて行こうとすると、正太は周章てて叔父の解いた手に取縋るようにして、
「僕も勇気を奮い起して、是非もう一度叔父さんに御目に掛ります……」
と言いながら、堅く堅く叔父の手を握り〆た。一度に込上げて来るような涙が正太の暗い顔を流れた。
「オオ、そうだとも……」
側に居たお種は吾児を励ますように言って、思わず両手で顔を掩うた。次の部屋には、幸作が坐って、頭を垂れていた。
長い廊下の突当りには消毒する場所があった。三吉はそこで自分の手をよく洗って、それから姉にも別れを告げた。正太は寝ながら、よく見て置こうとするような眼付をして、叔父を見送った。その時は豊世は室に居なかった。幸作は病院の出口まで随いて送って来た。門を離れて、三吉は激しく泣いた。
「どうして、十日や二十日で死ぬようなものでは無いぞ。でも、正太も、下手に遺言なぞをしないところは、一寸彼も考えてる」こう森彦の旅舎で人々が言い合うのを聞き捨てて、その晩三吉は名古屋を発った。夜行汽車の窓は暗かった。遠い空には稲妻が光って、それが窓の玻璃に映ったり消えたりした。
「叔父さん──叔父さん──」
と呼ぶような別れ際の正太のことを胸に浮べながら、三吉は自分の妻子の方へ帰って行った。それは最早六月の初であった。家では、お雪や親戚の娘達が名古屋の方の話を聞こうとして、彼の周囲に集った。
六月九日の夕、三吉は甥の死去したという電報に接した。その夜、火葬に附するともして有った。それを彼はお雪に見せて、互に顔を見合せた。
「今年は私も三十三の厄年です……ひょっとすると今度の御産では、正太さんの後を追うかも知れない……」
心細そうに言って、お雪は二階の戸棚にある写真箱の中から、正太の兜町時代に撮った半身で横向のを探し出して来た。それを亡くなった三人の娘の位牌の前に置いて、燈明も進げた。
「なんだか急にそこいらが寂しく成った」
と三吉も、今更のように家の内を眺め廻した。正太や豊世がかわるがわるやって来て、長火鉢の側でよく話したことは、何となく急に過去に成った。三吉夫婦の周囲には、お俊夫婦、お愛夫婦などの若い一対が幾組も出来たばかりでなく、お福まで、勉と一緒に子供を連れて出て来て、東京に世帯を持つように成った。
その晩は暑苦しい上に、風も無かった。七度目の懐妊した身でいるお雪に取っては、この遽かにやって来た暑気が殊に堪え難かった。蒸されるような身体の熱で、三吉も眠ろうとして眠られなかった。夫婦は子供等のごろごろ寝ている側で、話しつづけた。正太のことを語り合った。勉やお福の噂もした。終には、自分等の過去ったことの話までも、それからそれと引出された。
お雪は横に成りながら、
「……私は、自分のことを考えますと、なんですかこう三人別のものがそこへ出て来るような気がします──極く幼少い時分と、学校に居た娘の頃と、それからお嫁に来てからと──三つずつ別々の自分じゃないかと思うような、まるでその間が切れちゃってるようなものです……私は子供の時分には、真実に泣いてばかりいるような児でしたからねえ……」真に心の底から出て来たような調子で、彼女は話した。
すこしトロトロしたかと思うと、復た二人とも眼が覚めた。
「お雪、何時だろう──そろそろ夜が明けやしないか──今頃は、正太さんの死体が壮んに燃えているかも知れない」
こう言いながら、三吉は雨戸を一枚ばかり開けて見た。正太の死体が名古屋の病院から火葬場の方へ送られるのも、その夜のうちと想像された。屋外はまだ暗かった。
底本:「家(下)」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年5月10日発行
1968(昭和43)年4月30日第18刷改版
1998(平成10)年9月5日50刷
入力:(株)モモ
校正:藤田禎宏
2000年12月5日公開
2010年11月2日修正
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