毒と迷信
小酒井不木



原始人類と毒


 ダーウインの進化論を、明快なる筆により、通俗的に説明せしことをもつて名高い英国の医学者ハツクスレーが、「医術はすべての科学の乳母だ」といつたのはけだし至言といはねばなるまい。何となれば、吾人の祖先即ち原始人類が、この世を征服するために最も必要なりしことは主として野獣との争闘であり、従つて野獣を殺すための毒矢の必要、又負傷したときのきずの手当の必要等からして、医術は人類の創成と共に発達しなければならなかつたからである。しかして現今の医学の主要なる部分をむる薬物療法なるものは、実に原始人類から伝へられて来た種々の毒に関する口碑こうひもととなつて発達して来たものであつて、この意味に於て、毒は凡ての科学の開祖と見做みなしても差支さしつかへないのである。本来、「薬」なる語は毒を消す意味を持ち、毒と相対峙して用ひられたものであるが、毒も少量に用ふるときは薬となり、加之のみならず最も有効な薬は、これを多量に用ふれば最も恐ろしい毒であることは周知のことである。

 毒と人生!ある意味に於てこれ程関係の深いものは無いといつても過言ではなからう。何となれば酒、煙草、茶、とかうならべて見るだけで、敏感な読者は、毒なくしては人生は極めて殺風景であることを感ぜらるゝであらう。酒はアルコホルを、煙草はニコチンを、茶はコフエインを、いづれも毒をの主成分として居るではないか。よしや禁酒宣伝があり、禁煙運動があつても、いまだ禁茶きんさ運動のあることを耳にしない。たとひこれ等のものが直接生命の保持に必要なものでないとはいへ、毒と人間とは極めて親しい関係のあることがわかり、いはんや一旦病魔に冒さるれば、多くは毒の力でなくては恢復が出来ないに於ておやである。

 人類の祖先は如何いかにして毒の存在を知り、その使用法を知つたか。支那では人神牛首じんしんぎうしゆ神農氏しんのうし赭鞭かはむちを以て草木をむちうち、初めて百草をめて、医薬を知つたといひ、希臘ギリシヤではアポローの子、エスキユレピアスが、草木土石の性質を会得して医道の祖となつたといはれて居るがいづれも神話中の人物で、もとより信ずべき筋のものではなく、長い間の経験と幾多の犠牲とを払ひ、其の間に或は他動物の本能的になす所を見たり、或は偶然の機会に依つたりして、毒に関する知識は発達して来たものらしい。

 原始人類の知識状態又は生活状態を知るに最も有力なる手がかりは、現今世界に散在する未開地に住する蛮族ばんぞくついての研究である。の研究にるに、彼等は何れも矢毒(即ち野獣を射てこれを毒殺すべくやじりに塗る毒)クラーレ、ヴェラトリンのごとき猛毒の使用を知り、あはせて阿片あへん規那きな大麻おほあさヤラツパ、など諸多いくたの薬剤の使用を知つて居る。中にも矢毒は原始人類にとりて必要くべからざるものであり、又人間を毒殺するてふことの濫觴らんしやうとも見られぬでもない。ホーマーの詩「オヂツセー」の中には、ユリツシーズがアイラスに矢毒を要求することが書かれてあり、希臘神話の中にもパリスが毒箭どくやを放つてアキリーズを射殺すことが述べてある。ボルネオに現住するヂヤークと称する土人は長さ七尺、直径五分ばかりの吹管すゐくわんを用ひて毒矢を吹き放ち、アデンの附近に産するある毒物は其の附近に住む、ソマリーと称する蛮族により矢毒として今も使用せられて居る。

 毒の使用を知ると同時に、毒の恐ろしさを知つたのは自然の理であつて、従つて単純なる原始人類の頭は毒に関する幾多の迷信を生じ、それ等の迷信は時として現今の文明人の間にまで残され拡がつて居る。しかして毒に関する迷信は凡そ二種類に大別することが出来、その一は即ち毒物そのものにまとふ迷信であつて、其の二は即ち毒物ならぬ色々の物質を毒と思つて取り扱ふ迷信である。原始人類に共存せる偶像崇拝の風習により、ある種族が定めた偶像例へば一定の動物とか植物とかは、其種族は之をくらふことを禁止し、し之を食したならば其の物は毒となりて、之を食したものに疾病をかもすなどの迷信も、これに加へることが出来よう。コンゴに住むイーキー民族は現今げんこんも「しまうま」の肉は食はぬ。むかしエヂプトに於ては、テベスでは羊を食はず、メンデスでは山羊やぎを食はず、オムポズでは鰐魚わにを嫌つた。羅馬人ローマじん啄木鳥きつつきの肉を食することを禁じた。エツヂストーン島では殆どすべての疾病しつぺいは、禁ぜられた樹木の実を食べた為に起つたのだと考へられて居る。


植物性毒と迷信


 原始人類に最も喜ばれた毒物は、いづれの地方にありても麻酔作用を有するものであつた。日本に於ても既に素盞嗚尊すさのをのみことの時に酒があり、少彦名神すくなひこのみことは造酒の神なりと言はれ、支那に於ても酒をもつて薬物のはじめとした。しう成王せいわうの時、倭人やまとびと暢草やうさうを献じたと「論衡ろんかう」といふ書に見えて居り、この暢草は香ひ草で、祭祀に当り、酒に和して地に注ぐと、気を高遠に達して神を降すの効ありと言はれて居た。印度インドにありては梨倶吠陀リーグヴエダ(印度古代の経典)の中に、ソーマしんの伝説がある。ソーマと称する植物の繊維からしぼつた液(始めこの植物は婆楼那バルナが天界の岩の上に植ゑて置いたもので、ある時一羽のはやぶさが天上から盗んで来たものだと言はれて居る)に牛乳又は大麦の煎汁せんじふを加へ、しばらまゝにして置くと、醗酵して人を酔はすはたらきを生ずる。病む者が、これを薬として飲むと、四肢は強壮となり、病は去りて長寿を得ると信ぜられて居る。又一たびソーマが腸にみ渡ると貧者も富者になつた様な気持になり、詩人は超人的の力をる。よつて詩人はソーマを人格化して一個の神となし、ソーマ液の供物は火祭と共に梨倶吠陀に現はれた祭儀の重要な部分を占めて居る。ソーマ液の魅力は単に人間に作用するばかりではなくして天上の諸神も之を口にすると、打ち勝ち難い活力と永劫に滅びぬ生命とを得ることが出来、神々の間にはアムリタ(不老の霊薬)の名にてもてはやされ、丁度ちやうど希臘ギリシヤ神話の中の諸神が生命の培養に用ひたと伝へらるるアムブロジアのやうな役目を演じて居る。

 サツフオード氏の報告に依るに、西インド諸国及び南米に住むインド人共は現今も種々の麻酔薬を用ふるのであつて、それはピブタデニア・ペレグリナと称するものから生ずる物質であるといふ。其他そのた阿片あへんにしろ大麻だいまにしろ何れも麻酔作用を有するものであつて、大麻のごときは古来印度の僧侶が「じやう」に入るときに用ひたものである。話は少しれるがのちに探偵小説を論ずるときに必要であるから「じやう」に入ることに就てここに少しく述べて置かう。

 蛇や蛙其の他の動物が所謂いはゆる冬眠を行ふことは周知の事実であるが、人類には本来かゝる能力は存在しない。ところがある人々にとりては事実上かゝることが可能である。大覚世尊たいかくせそん(釈迦)が年七十二の時、法機やうやく熟して法華爾前にぜんに於ける権実ごんじつ両教の起尽を明かにするため無量義経むりやうぎきやうを説き「四十余年未顕真実みけんしんじつ」と喝破して静かに禅定ぜんじやうに入つた話は仏者の間に有名であり、わが弘法大師は現にまだ禅定のうちにありとさへ或る一部の人々に信ぜられて居る。これ等は其の真偽を正すによしないが、印度の僧侶は今もなほかかることを行ひ、現に信ずべき記録に載せられてある。ハーレー氏の記載に依ると印度の僧侶が「定」に入るときはづ大麻を飲んで麻酔状態となり、その状態のまゝで、つめたき静かな墓の中に置かれ、六週乃至ないし八週を経過するのである。ブレード氏は一八三七年ある僧侶がラホールにて「定」に入り、六週を経て掘り出された時の状態を記して居るが、それに依ると四肢は固くなり心臓の鼓動さへなかつたといふ。しかも立派に生き還つた。この実験は厳密に行はれ、昼夜交替で墓の上を軍人共が守衛した。其他独逸ドイツの医師ホーニツヒベルゲルも、印度滞在の際ある僧侶に就て四十日間の「定」を実験した。この僧侶は其名をハリダスといひ、かつて四ヶ月間山間の墓の中で「定」に入つたさうで、墓に入る前に髭を剃つたが、四ヶ月後墓から出たとき少しも髭は伸びて居なかつたといふ。かやうなことは無論誰でも行ひ得るといふ訳でなく、其の人の性質にもり又練習にも依るであらうが、かく人間にも動物に見るごとき冬眠状態の可能であることは疑ひ得ない。

 話は前に戻る。既に旧約全書の「天地創成」の部分には、神がアダムを「深き眠り」に陥らしめ、一本の肋骨を抜き取つたことが書かれ(この肋骨からイヴは作られ、英国の文豪トーマス・ブラウンは、この事から女の悪口を言つて「女は男の曲りくねつた肋骨だ」と叫んだ。)ホーマーの詩オヂツセーの中では、ヘレンがユリツシーズの酒盃しゆはいの中に、エヂプト産の妄憂薬ネーベンチーを投げたことが書かれ、ヘロドトスはマツサゲテーが大麻を燃し、その烟を吸つていい気持になつたことを書き其他猶太ゆだやの経典タルマツド中の「サムメ・デ・シンタ」、アラビアン・ナイト物語中の「バング」(大麻の類)を始め、狼毒(マンドラゴラ)、毒人参ヘムロツク(哲学者ソクラテスが死刑に処せられて服用したもの)ヘルボア、鶏毒ヒヨスなどの麻酔薬は何れも東西両洋にわたりて、古代の人民に知られたもので、それ等に纏はる迷信も数多いが、茲には一々これを書き記すことは出来ないから、欧洲の文学などに最も屡々現はれて来る狼毒マンドラゴラに関する迷信に就て述べて見ようと思ふ。

 マンドラゴラは英語でマンドレークと称する。この植物は馬鈴薯ばれいしよ類に属するもので其の有効成分マンドラゴリンは、わが国に産する「きちがひなすび」の毒成分「アトロピン」と同じ作用を有するのであつて、往時人々は麻酔剤として用ひ、ことに屡々外科手術の際に応用した。たゞこの植物の形が丁度支那の人参にんじんと等しく人間の形をして居るために(即ち根が又をなして人の脚の形をして居るゆゑ)之に色々な奇怪な迷信が附せられるやうになつたのである。其の迷信の一つはこれに男性と女性があると信ぜられ、日本に於ける蠑螈ゐもりの黒焼と等しく所謂いはゆるぐすり」として盛んに使用せられたことであり、その二は之を地より抜く際、物凄い叫び声を発し、其の声を聞いた者は皆気が狂ふといふ迷信である。従つて之を地から抜き取る際には、昔から犬を連れて来て犬に縛り附けて置いて、人々は耳をおほつて遠くに居り、しかのち犬を走らしめたのである。かくてマンドレークが抜き出されて後に、その犬はマンドレークの唸り声を聞いて死んでしまふ。ローマの文豪プリニーの記載する所に依ると、人々は之を抜き取る際、風に背を向けて立ち、刀を抜いて三たび植物のまはりに円をき、西に向ひて進みつゝ引き抜いたといはれて居る。希臘神話の中に出て来る魔法使ひの女サーシーはこのマンドレークを最も屡々しば〳〵使用したといはれて居る。この迷信は余程久しい間行はれ、沙翁さをうの劇の中にも度々たび〳〵引用せられてゐる。「ロミオとジユリエツト」の中では、ジユリエツトに「マンドレークが地から抜き取られた時の如き叫び声、これを聞く凡ての者が気違ひになる叫び声」といはしめ、「ヘンリー四世」の中でもサツフオークをして同じやうのことを言はしめて居る。然し沙翁自身はマンドレークの薬理作用をよく知つて居たので、「アントニーとクレオパトラ」の中で、クレオパトラが「マンドラゴラが飲みたい」といふと、そばの者が、「何故なぜか」と尋ねる。するとクレオパトラは、「アントニーが居ないから其の留守の間に眠りたいと思ふから」といふ。即ちマンドラゴラの催眠作用を有することを沙翁はよく知つて居たのである。そこで面白いことは、バツクニールといふ医学者の考証によると、沙翁は前後六回この植物を其の劇詩の中に引用して居るが、例の迷信を取り入れたときは、英語のマンドレークの語を其の儘用ひ、催眠作用を取り入れたときには羅甸語らてんごのマンドラゴラを用ゐて居る。些細なことではあるが大詩人の用意周到な心根が窺はれる。

 遠くこの植物の歴史に遡ると、大昔のヘブライ人が「デーン」と称して居たものと同じであつてヤコブの時代には非常にたふとばれた「創成」の歴史によると、リユーベンが野に於てこの植物を見つけ、其の母のリエーに与へた。するとラケルがリエーに息子のマンドレークをれといふ。リエーは、「私の夫を奪つた上にまた息子をも奪ふ気か」となじると、「その代り今夜は夫を帰さう」といふ。この事から、ラケルがマンドレークを用ひて妊娠しようとしたためだと解釈し、マンドレークを用ひると子のない女が子を生むやうになるとの迷信をも生ずるに至つた。

 マンドレークに関係して茲に少しく述べて置きたいのは、古来我国および支那で万病に霊効ありと唱せられて居る人参のことである。佐藤方定ほうじやうは日本の神代かみよに存した八薬の最初に仁古太にこた(人参)を挙げて居る。この人参は丁度マンドレークのやうに、人間の形に類似して居て「本草綱目」の中にも、「根に手足両目ありて人の如きもの神と為す」とあるが如く、この形のために霊効があるといふ迷信が生じて来たものらしい。ことに、支那にありては人参に関して荒唐な伝説があり、「抱朴子はうぼくし」には「人参千歳くわして小児せうにとなる」などといひ、マンドレークに於けると同じく、人間の如くに言語を発したり、又男女の性別があるものゝ如くに考へられたりした。人参中にはマンドレークの含有するやうな毒物はなく、近時二三の研究家が、そのうちから特殊の成分を取り出したといふが、勿論俗間に信ぜられて居るやうな霊効のある訳ではない。何れにしても、同じやうな形をした植物が、東洋と西洋とに於て、同じやうな迷信を生じたことは興味ある現象といはねばならぬ。


鉱物性毒と迷信


 以上植物性の毒物に関する迷信の一斑を説いたから、こゝに鉱物性の毒に関する迷信を説かうと思ふが、前にも述べたやうに毒にまつはる迷信には二種あつて、毒そのものに関する迷信と、他のものを毒(又は薬)と見做みなす迷信とにわかつことが出来るから、この際には後者の場合即ち鉱物(こゝに於ては石)が毒(又は薬)と見做された迷信のことを書いて見ようと思ふ。

 石を外科的手術に即ちはりとして応用することは、日本の神代かみよから既に行はれて居たものらしく、支那へはこの術が日本から伝はつて行つたものであるとさへ一部の人々によりて考へられて居る。「薬石効なく」などといふ時の「石」の字は砭(いしばり)を意味して居るのである。外科的に石を使用することは別に迷信ではないが、欧洲で昔から磁石を毒と見做したのは迷信である。すべて珍らしい性質を持つものは、単純な頭脳の所有者にとりては、一の驚異であり従つて色々な迷信を生じて来る。磁石のごときはまた一方に於ては不老長生の作用を有すると考へられ、ゼイランの王は常に磁石(磁鉄鉱)で作つた皿で、食事を取つたといはれて居る。マーセラス・ヱムピリクスは磁石を「お守りアミユレツト」として用ふるときは頭痛がなほるといつた。又鉄を引くといふ意味から、磁石の上にヴイーナスの像を彫つて「お守り」として持つて居ると、好きな女を引き寄せることが出来るといふ迷信もある。又欧洲では昔から硝子がらすが毒として考へられた。トーマス・ブラウンはの理由を説明して、硝子の破片は如何いかにも鋭い、恐ろしい形状をして居るためであり、実際硝子を砕いて粉にして飲めば腸を害するからだと言つて居る。欧洲では近頃まで硝子粉末による殺児がしば〳〵行はれた。ダイヤモンドも同様にある場合には毒と考へられ、かの文芸復興期に出た鬼才パラセルズスはダイヤモンド中毒で死んだと伝へられて居る。即ちダイヤモンドの粉を口にしたといふ意味であらう。同じ中毒でも猫イラズなどよりはダイヤモンドの方が上品な気がする。史記の扁鵲倉公列伝へんじやくさうこうれつでんに、斉王さいわうの侍医が病気になつた時、五石を煉つて服したと書かれてあり、日本では昔眼病に真珠を用ひた。恐らく尊い意味で用ひたのであらう。

 エヂプトの世界最古の記録にも石を疾病しつぺいの治療に用ひたことが書かれ、欧洲では動物の体内から出た腸石、胆石等は憂鬱病メランコリアを予防すると言はれ、又多くの中毒(毒蛇に噛まれて起る中毒をも含む)を防ぐとも言はれて居る。ことに英国では根石ねいしが同様の目的に用ひられてある。宝石類が昔から病気予防のために「お守り」として用ひられて居ることは言ふまでもなく、ダイヤモンドは「平和をもたらし」「暴風を防ぐ」ものとしてたふとばれて居る。又蟇石と称する宝石は蜘蛛くもやその他毒性の動物にまれたとき、その疼痛を消すと伝へられて居る。しか現今げんこんでもさうであるが蛋白石たんぱくせきは昔から婦人はこれけることを嫌つて居る。又ある一部の人々には真珠を持つて居ると命が危ないといふ迷信がある。有名な仏蘭西フランスの大喜劇作者モリエールは其の作「ラムール・メドサン」のうちで、ジヨツス氏をして、「どんなに健康の衰へた青春の婦人でも、ダイヤモンドとルビーとエメラルドを懸けてやりさへすれば、必ず健康を恢復すると」皮肉を言はしめて居るが、いかにも宝石の顔を見せてニツコリせぬ若い婦人はづ無さゝうである。(なほ「アミユレツト」や指環は悪魔の凝視を避けるためにも用ひられた)

 以上の事柄は毒又は毒殺に少し縁遠いやうに思はるゝ読者があるかもしれない。しかながら現今でも欧洲の多くの婦人は「お守りアミユレツト」を懸けて居り、これはよく彼地かのちの小説の中に出て来るから「お守り」の由来を知つて置くのもあながち無益でないと思ふ。ことに屡々しば〳〵この「アミユレツト」に関して犯罪の行はるゝことなどが探偵小説に書かれてあるから特に一言注意を促した訳である。


動物性毒と迷信(毒蛇)


 動物性毒に関する迷信もはなはだ数多いが、就中なかんづく毒蛇に関しては古来色々の伝説が行はれて居るからこゝれを説いて見ようと思ふ。人類が蛇を恐れるのは人類の祖先が(動物時代に於て)毒蛇に悩まされた経験が遺伝せられて居るためであると説明する人もあるやうであるがそれはかくいづれの国にありても古代の伝説に蛇が入つていない所はほとんど無い。日本に於ても素盞嗚尊すさのをのみこと八岐大蛇やまたのおろちを退治した話は周知のことであり、支那では三皇の一人いちにん庖犠氏ほうぎし蛇身人首じやしんじんしゆであつたと伝へられ、印度インドの神話とも見るべき梨倶吠陀リーグヴエダの中にはセシアと称する千頭の怪蛇のことが記されてある。蛇は又一面に於て原始人類の崇拝の的となつて居たのであつて、けだし怖いものを崇むるのは自然の傾向であらう。旧約全書の始めに当り、蛇がイヴを誘惑する話はあまねく人の知る所であり、ジエレミエー第八章にはコツカトリスなる怪蛇の名が出て来る。この毒蛇は又バジリスクとも称せられ、これに睨まれたのみで人は死ぬと言ひ伝へられて居る。

 希臘ギリシヤの神話の中には度々たび〳〵毒蛇の話が出て来る。アルゴスの都に近き古井戸の中にハイドラと称する九頭の水蛇みづちがあつて屡々人畜を悩ましたのをハーキユリーズが退治する話、パアナツサスの山のふもとに住んだパイソンといふ恐ろしき蛇をアポローが銀の弓ともつて殺す話、アポローの子にして楽人なるオルフユーズの愛妻ユーリヂシーが毒蛇に脚をかまれて死に、従つて生ぜし楽人の哀話あいわなどを見ても、如何いかに蛇と原始人類との交渉の多かつたかを知るに足らう。

 直接毒蛇に関した話ではないが、じやに縁故がありつ西洋の文学書に度々たび〳〵引用せらるゝゴーゴンの伝説は、希臘神話中最も興味多き部分であるから、茲に少しく書いて置かうと思ふ。夏目漱石氏の「幻のたて」の中にもゴーゴンの頭に似た夜叉の顔の盾の表にきざまれてある有様が艶麗えんれいの筆をもつて写されてある。「頭の毛は春夏秋冬しゆんかしうとうの風に一度に吹かれた様に残りなく逆立つて居る、しかも其一本々々のすゑは丸く平たい蛇の頭となつて、その裂目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出して居る。毛といふ毛はこと〴〵く蛇で、其の蛇は悉く首をもたげて舌を吐いて、もつるゝのも、ふのも、ぢあがるのも、にじり出るのも見らるゝ」と漱石氏は書いて居る。実にゴーゴンの毛髪はかくの如き物凄いもので、其の顔も五体も普通の女子ではあるが、この外に黄金の翼と真鍮の爪とを有し、し何人でもこれを凝視するときは、たちまち化して石となると伝へられて居る。ゴーゴンは姉妹きやうだい三人から成り、世界のある一端に住んで居たのであるが、そのうち二人は不仁身ふじみで、つても打つても死なないが、末の一人なるメヂユーサのみは、若し巧みに剣を用ひて急処を打つたならば、その命を奪ふことが出来ると言ひ伝へられた。

 アルゴスの王女ダネイと其の息子パーシユーズとが、ある事情のもとに匣舟はこぶねに載せられて果しなき海に流される。幾多の恐ろしき暴風雨の後ある浜辺に漂ひ着いて一人の男に助けられ其の男の厚意によつて数年を暮す。するとその島の王がダネイに懸想けさうして手に入れようとしてもダネイは応じない。王はパーシユーズを遠ざけさへすればダネイの心を変へることが出来るであらうとて、ある難題を持ち出す。即ち島内の若者を呼んで、ある目的のために馬が必要だから馬を一疋づつ持つて来いといふ。パーシユーズには馬がないことを王は知つて居た。パーシユーズは困つて、「もつとたふとい物を求めて下さい。メヂューサの首でも自分は辞せない」とくちすべらす。王はたちまち、「それぢやメヂューサの首を持つて来て貰はう」と答へる。

 パーシユーズは口で言つたものの、さてどうしてよいかに困つて了つた。悄然せうぜんとして浜辺に立つて居ると二人の貴人が其の前に現はれた。一人は大気のつかさアシーナの女神で、一人は伝令神マアキュリーである。パーシユーズの事情を察してマアキュリーは彼に海陸を自由に飛ぶことの出来るくつを与へ、女神は彼に如何にしてゴーゴンに近づくべきかの方法を教へる。「づ北のかた氷寒界の彼方に蒼面白髪の姉妹を尋ね、それに迫つて、西の国で林檎りんごまもれる三人の処女の在所を訊ねよ。処女はゴーゴン・メヂューサの首をるに必要な三つの品を呉れるから、」といふのである。そこで例の沓を穿つて北に向ふと果して蒼面白髪の三人の姉妹の居る所に来た。この姉妹は三人で一つの眼を有し、物を視るときは互に貸しあふのである。丁度ちやうど一人が他の一人に眼を貸さうとする時、パーシユーズは突然其の眼を奪ふ。そして西の国なる三人の処女の在所を訊ねる。姉妹は容易に口を開かなつたが、最も大切な眼を奪はれて居るので遂に眼を返して貰ふために教へる。教へられたまゝに飛び行き、三人の処女を見つけて来意を告げる。処女等は快く三つの品を呉れる。それは鎌の様に湾曲した太刀と、鏡の如く輝くたてと、今一つは革嚢かはぶくろである。このほかになほ「闇隠れの兜」を呉れる。この兜を載くと何物も其の姿を見ることが出来ぬやうになるのである。

 かくてゴーゴンの在所ありかを三人の処女から教はつたパーシユーズは、四つの品を携へてゴーゴンの棲処すみかに向つた。いよ〳〵目的地に来て見ると三つのゴーゴンは熟睡して居る。千条のじやも等しく眠つて頭から肩に懸つて居る。中央に顔を空に向けて眠つて居るのがメヂューサである。直視するとこちらが石に化してしまふから、盾の鏡に映る像を目標として近づき、矢庭やにわに剣を抜いて切り附くるとメヂューサの首は宙に飛んだ。手早く革嚢に取り入れて再び虚空に舞ひ上り兜を載いて大急ぎに引き返す、その時の二個の怪物はメヂューサの死骸を見ておほひに怒りたちまち跡を追つかけたけれども、伝令神の沓には及ばず、パーシユーズは首尾よく虎口をのがれた。帰途パーシユーズは、とある所に一人の少女の怪獣に襲はるるを救ひ、妻となして故郷に伴つた。

 国王はパーシユーズが決して無事で帰らぬものと思ひ、不在中母のダネイを挑んでまない。しかしダネイがどうしても意に従はぬので王は大に怒つて之を殺さんとダネイの家に乱入する。丁度其処へ帰つたパーシユーズは、国王の前に立ち塞がり、「約束通りメヂューサの首をお目にかけよう」といひさま、不意に王の目に前に差し出すと、王の五体は立ち所にすくんでそのまゝ石と化して了つた。──ゴーゴンの伝説は之で終る。

 話は神話から実説に移る。毒蛇を説くものはエヂプトの最後の女王クレオパトラの臨終の模様を書き落してはなるまい。何となればクレオパトラは毒蛇に身を噛ませて自殺したと伝へられて居るからである。然しこれは果して事実であつたかどうかは千古の謎として残つて居る。

 アントニーとクレオパトラとの恋物語は今更茲に喋々てふ〳〵するまでもなからう。アントニーはオーガスタス帝の妹を妻としたが、クレオパトラの容色に魅せられて離縁すると、オーガスタス帝は怒つてクレオパトラに宣戦する。運つたなくアントニーとクレオパトラの艦隊は敗北し共にのがれ帰つたが途中アントニーはクレオパトラが死んだといふ偽報ぎほうを聞いて自殺する。女王は時に三十八歳であつた。オーガスタスはなほもあきたらずクレオパトラをローマに連れ帰らうとしたが、女王はアントニーの墓を訪ね、二人の侍女と共に墓室に閉ぢ籠り、オーガスタスに書を送つてアントニーと同じ墓に葬つてくれと請願した。ほどて、兵士共が女王の室の戸を開くと、女王は黄金の床の上に眠るが如く死んで居て、二人の侍女も虫の息であつた。

 その死の原因はいまだに解けぬ。ある説によると墓室に閉ぢ籠つて居るうち、無花果いちぢくを盛つたかごを携へた男が通され、その籠の中に毒蛇が隠されてあつて、それに腕(胸といふ説もある)を噛ませて自殺したといひ、他の説によると、女王はかねて花瓶の中に毒蛇を飼つて置き、金製の紡錘つむでつついて怒らせ噛ましたといひ、第三の説によると空洞うつろになつたかんざしの中に毒を入れて常に髪に挿して居て、其の毒を仰いで死んだといふのである。毒蛇の説を反駁するものは、女王のやうに自ら美を誇つたものが、蛇に噛ませて死骸を醜くする訳はなからうといひ、つ其の身体の表面に何の痕跡もなかつたら、毒蛇に噛ませたとしたら、何かあとが無くてはならぬといふのである。然し、やはりクレオパトラが毒蛇に自身を噛ませて死んだとした方が彼女の臨終に相応ふさはしいやうに思はれる。

 さて、毒蛇に噛まれたら、身体はどんな状態を呈するかを事のつひでに述べて見よう。毒蛇に噛まれたとき其の歯の痕は正確に認めることのほとんど出来ない程小さい。ただし其の部の痛みは非常であつて、見る間にあがり、赤くなり痛みはいよ〳〵はなはだしくなる。し致死的の量が体内に入つたならば、しばらくの間に腫脹しゆちようは拡がり水泡を作り、皮膚は破れて大なる壊疽ゑそを生ずる。精神は少しく譫呆様せんばうやうになり、顔面は苦悶の表情を呈し、脈搏は早くかつ弱く呼吸は促迫しあだかも窒息時のやうな様子を示している。ついで深い昏睡状態に陥り、呼吸は徐々となつて絶命するのである。然し噛まれた局所には別に変化なくして、精神を冒されて死ぬ場合も報告されてある。かやうな場合は毒性の極めて強い毒が極少量に入つた場合であるらしい。クレオパトラの死もこの後者の場合と見れば差支なからう。又多くの探偵小説作家が毒蛇による殺人を書くときは、何れも普通に起る前者のやうな症状は書かないで、極めてさつぱりした死に方を書いて居る。

 テオフラスツスは昔、毒蛇に噛まれたときの特効薬として音楽を挙げて居る。古代には実際音楽を蛇に噛まれた者に聞せたものらしい。然しそれで果してよく治療し得たや否やは勿論疑問である。現今では血清学上の研究が進み、毒蛇に対する治療血清も出来て居るが、何分急劇に症状を発するので、治療血清の注射が多くは時期を失する。

底本:「日本の名随筆 別巻78 毒薬」作品社

   1997(平成9)年825日第1刷発行

底本の親本:「小酒井不木全集 第一巻」改造社

   1929(昭和4)年6

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:加藤恭子

校正:菅野朋子

2001年426日公開

2011年125日公開

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