運命
幸田露伴
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世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。洪水天に滔るも、禹の功これを治め、大旱地を焦せども、湯の徳これを済えば、数有るが如くにして、而も数無きが如し。秦の始皇帝、天下を一にして尊号を称す。威燄まことに当る可からず。然れども水神ありて華陰の夜に現われ、璧を使者に托して、今年祖龍死せんと曰えば、果して始皇やがて沙丘に崩ぜり。唐の玄宗、開元は三十年の太平を享け、天宝は十四年の華奢をほしいまゝにせり。然れども開元の盛時に当りて、一行阿闍梨、陛下万里に行幸して、聖祚疆無からんと奏したりしかば、心得がたきことを白すよとおぼされしが、安禄山の乱起りて、天宝十五年蜀に入りたもうに及び、万里橋にさしかゝりて瞿然として悟り玉えりとなり。此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。定命録、続定命録、前定録、感定録等、小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。
我が古小説家の雄を曲亭主人馬琴と為す。馬琴の作るところ、長篇四五種、八犬伝の雄大、弓張月の壮快、皆江湖の嘖々として称するところなるが、八犬伝弓張月に比して優るあるも劣らざるものを侠客伝と為す。憾むらくは其の叙するところ、蓋し未だ十の三四を卒るに及ばずして、筆硯空しく曲亭の浄几に遺りて、主人既に逝きて白玉楼の史となり、鹿鳴草舎の翁これを続げるも、亦功を遂げずして死せるを以て、世其の結構の偉、輪奐の美を観るに至らずして已みたり。然れども其の意を立て材を排する所以を考うるに、楠氏の孤女を仮りて、南朝の為に気を吐かんとする、おのずから是れ一大文章たらずんば已まざるものあるをば推知するに足るあり。惜い哉其の成らざるや。
侠客伝は女仙外史より換骨脱胎し来る。其の一部は好逑伝に藉るありと雖も、全体の女仙外史を化し来れるは掩う可からず。此の姑摩媛は即ち是れ彼の月君なり。月君が建文帝の為に兵を挙ぐるの事は、姑摩媛が南朝の為に力を致さんとするの藍本たらずんばあらず。此は是れ馬琴が腔子裏の事なりと雖も、仮に馬琴をして在らしむるも、吾が言を聴かば、含笑して点頭せん。
女仙外史一百回は、清の逸田叟、呂熊、字は文兆の著すところ、康熙四十年に意を起して、四十三年秋に至りて業を卒る。其の書の体たるや、水滸伝平妖伝等に同じと雖も、立言の旨は、綱常を扶植し、忠烈を顕揚するに在りというを以て、南安の郡守陳香泉の序、江西の廉使劉在園の評、江西の学使楊念亭の論、広州の太守葉南田の跋を得て世に行わる。幻詭猥雑の談に、干戈弓馬の事を挿み、慷慨節義の譚に、神仙縹緲の趣を交ゆ。西遊記に似て、而も其の誇誕は少しく遜り、水滸伝に近くして、而も其の豪快は及ばず、三国志の如くして、而も其の殺伐はやゝ少し。たゞ其の三者の佳致を併有して、一編の奇話を構成するところは、女仙外史の西遊水滸三国諸書に勝る所以にして、其の大体の風度は平妖伝に似たりというべし。憾むらくは、通篇儒生の口吻多くして、説話は硬固勃率、談笑に流暢尖新のところ少きのみ。
女仙外史の名は其の実を語る。主人公月君、これを輔くるの鮑師、曼尼、公孫大娘、聶隠娘等皆女仙なり。鮑聶等の女仙は、もと古伝雑説より取り来って彩色となすに過ぎず、而して月君は即ち山東蒲台の妖婦唐賽児なり。賽児の乱をなせるは明の永楽十八年二月にして、燕王の簒奪、建文の遜位と相関するあるにあらず、建文猶死せずと雖、簒奪の事成って既に十八春秋を経たり。賽児何ぞ実に建文の為に兵を挙げんや。たゞ一婦人の身を以て兵を起し城を屠り、安遠侯柳升をして征戦に労し、都指揮衛青をして撃攘に力めしめ、都指揮劉忠をして戦歿せしめ、山東の地をして一時騒擾せしむるに至りたるもの、真に是れ稗史の好題目たり。之に加うるに賽児が洞見預察の明を有し、幻怪詭秘の術を能くし、天書宝剣を得て、恵民布教の事を為せるも、亦真に是れ稗史の絶好資料たらずんばあらず。賽児の実蹟既に是の如し。此を仮り来りて以て建文の位を遜れるに涙を堕し、燕棣の国を奪えるに歯を切り、慷慨悲憤して以て回天の業を為さんとするの女英雄となす。女仙外史の人の愛読耽翫を惹く所以のもの、決して尠少にあらずして、而して又実に一篇の淋漓たる筆墨、巍峨たる結構を得る所以のもの、決して偶然にあらざるを見る。
賽児は蒲台府の民林三の妻、少きより仏を好み経を誦せるのみ、別に異ありしにあらず。林三死して之を郊外に葬る。賽児墓に祭りて、回るさの路、一山の麓を経たりしに、たま〳〵豪雨の後にして土崩れ石露われたり。これを視るに石匣なりければ、就いて窺いて遂に異書と宝剣とを得たり。賽児これより妖術に通じ、紙を剪って人馬となし、剣を揮って咒祝を為し、髪を削って尼となり、教を里閭に布く。祷には効あり、言には験ありければ、民翕然として之に従いけるに、賽児また饑者には食を与え、凍者には衣を給し、賑済すること多かりしより、終に追随する者数万に及び、尊びて仏母と称し、其勢甚だ洪大となれり。官之を悪みて賽児を捕えんとするに及び、賽児を奉ずる者董彦杲、劉俊、賓鴻等、敢然として起って戦い、益都、安州、莒州、即墨、寿光等、山東諸州鼎沸し、官と賊と交々勝敗あり。官兵漸く多く、賊勢日に蹙まるに至って賽児を捕え得、将に刑に処せんとす。賽児怡然として懼れず。衣を剥いで之を縛し、刀を挙げて之を砍るに、刀刃入る能わざりければ、已むを得ずして復獄に下し、械枷を体に被らせ、鉄鈕もて足を繋ぎ置きけるに、俄にして皆おのずから解脱し、竟に遯れ去って終るところを知らず。三司郡県将校等、皆寇を失うを以て誅せられぬ。賽児は如何しけん其後踪跡杳として知るべからず。永楽帝怒って、およそ北京山東の尼姑は尽く逮捕して京に上せ、厳重に勘問し、終に天下の尼姑という尼姑を逮うるに至りしが、得る能わずして止み、遂に後の史家をして、妖耶人耶、吾之を知らず、と云わしむるに至れり。
世の伝うるところの賽児の事既に甚だ奇、修飾を仮らずして、一部稗史たり。女仙外史の作者の藉りて以て筆墨を鼓するも亦宜なり。然れども賽児の徒、初より大志ありしにはあらず、官吏の苛虐するところとなって而して後爆裂迸発して燄を揚げしのみ。其の永楽帝の賽児を索むる甚だ急なりしに考うれば、賽児の徒窘窮して戈を執って立つに及び、或は建文を称して永楽に抗するありしも亦知るべからず。永楽の時、史に曲筆多し、今いずくにか其実を知るを得ん。永楽簒奪して功を成す、而も聡明剛毅、政を為す甚だ精、補佐また賢良多し。こゝを以て賽児の徒忽にして跡を潜むと雖も、若し秦末漢季の如きの世に出でしめば、陳渉張角、終に天下を動かすの事を為すに至りたるやも知る可からず。嗚呼賽児も亦奇女子なるかな。而して此奇女子を藉りて建文に与し永楽と争わしむ。女仙外史の奇、其の奇を求めずして而しておのずから然るあらんのみ。然りと雖も予猶謂えらく、逸田叟の脚色は仮にして後纔に奇なり、造物爺々の施為は真にして且更に奇なり。
明の建文皇帝は実に太祖高皇帝に継いで位に即きたまえり。時に洪武三十一年閏五月なり。すなわち詔して明年を建文元年としたまいぬ。御代しろしめすことは正しく五歳にわたりたもう。然るに廟諡を得たもうこと無く、正徳、万暦、崇禎の間、事しば〳〵議せられて、而も遂に行われず、明亡び、清起りて、乾隆元年に至って、はじめて恭憫恵皇帝という諡を得たまえり。其国の徳衰え沢竭きて、内憂外患こも〴〵逼り、滅亡に垂とする世には、崩じて諡られざる帝のおわす例もあれど、明の祚は其の後猶二百五十年も続きて、此時太祖の盛徳偉業、炎々の威を揚げ、赫々の光を放ちて、天下万民を悦服せしめしばかりの後なれば、かゝる不祥の事は起るべくもあらぬ時代なり。さるを其の是の如くなるに至りし所以は、天意か人為かはいざ知らず、一波動いて万波動き、不可思議の事の重畳連続して、其の狂濤は四年の間の天地を震撼し、其の余瀾は万里の外の邦国に漸浸するに及べるありしが為ならずばあらず。
建文皇帝諱は允炆、太祖高皇帝の嫡孫なり。御父懿文太子、太祖に紹ぎたもうべかりしが、不幸にして世を早うしたまいぬ。太祖時に御齢六十五にわたらせ給いければ、流石に淮西の一布衣より起って、腰間の剣、馬上の鞭、四百余州を十五年に斬り靡けて、遂に帝業を成せる大豪傑も、薄暮に燭を失って荒野の旅に疲れたる心地やしけん、堪えかねて泣き萎れたもう。翰林学士の劉三吾、御歎はさることながら、既に皇孫のましませば何事か候うべき、儲君と仰せ出されんには、四海心を繋け奉らんに、然のみは御過憂あるべからず、と白したりければ、実にもと点頭かせられて、其歳の九月、立てゝ皇太孫と定められたるが、即ち後に建文の帝と申す。谷氏の史に、建文帝、生れて十年にして懿文卒すとあるは、蓋し脱字にして、父君に別れ、儲位に立ちたまえる時は、正しく十六歳におわしける。資性穎慧温和、孝心深くましまして、父君の病みたまえる間、三歳に亘りて昼夜膝下を離れたまわず、薨れさせたもうに及びては、思慕の情、悲哀の涙、絶ゆる間もなくて、身も細々と瘠せ細りたまいぬ。太祖これを見たまいて、爾まことに純孝なり、たゞ子を亡いて孫を頼む老いたる我をも念わぬことあらじ、と宣いて、過哀に身を毀らぬよう愛撫せられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
はじめ太祖、太子に命じたまいて、章奏を決せしめられけるに、太子仁慈厚くおわしければ、刑獄に於て宥め軽めらるゝこと多かりき。太子亡せたまいければ、太孫をして事に当らしめたまいけるが、太孫もまた寛厚の性、おのずから徳を植えたもうこと多く、又太祖に請いて、遍く礼経を考え、歴代の刑法を参酌し、刑律は教を弼くる所以なれば、凡そ五倫と相渉る者は、宜しく皆法を屈して以て情を伸ぶべしとの意により、太祖の准許を得て、律の重きもの七十三条を改定しければ、天下大に喜びて徳を頌せざる無し。太祖の言に、吾は乱世を治めたれば、刑重からざるを得ざりき、汝は平世を治むるなれば、刑おのずから当に軽うすべし、とありしも当時の事なり。明の律は太祖の武昌を平らげたる呉の元年に、李善長等の考え設けたるを初とし、洪武六年より七年に亙りて劉惟謙等の議定するに及びて、所謂大明律成り、同じ九年胡惟庸等命を受けて釐正するところあり、又同じ十六年、二十二年の編撰を経て、終に洪武の末に至り、更定大明律三十巻大成し、天下に頒ち示されたるなり。呉の元年より茲に至るまで、日を積むこと久しく、慮を致すこと精しくして、一代の法始めて定まり、朱氏の世を終るまで、獄を決し刑を擬するの準拠となりしかば、後人をして唐に視ぶれば簡覈、而して寛厚は宗に如かざるも、其の惻隠の意に至っては、各条に散見せりと評せしめ、余威は遠く我邦に及び、徳川期の識者をして此を研究せしめ、明治初期の新律綱領をして此に採るところあらしむるに至れり。太祖の英明にして意を民人に致せしことの深遠なるは言うまでも無し、太子の仁、太孫の慈、亦人君の度ありて、明律因りて以て成るというべし。既にして太祖崩じて太孫の位に即きたもうや、刑官に諭したまわく、大明律は皇祖の親しく定めさせたまえるところにして、朕に命じて細閲せしめたまえり。前代に較ぶるに往々重きを加う。蓋し乱国を刑するの典にして、百世通行の道にあらざる也。朕が前に改定せるところは、皇祖已に命じて施行せしめたまえり。然れども罪の矜疑すべき者は、尚此に止まらず。それ律は大法を設け、礼は人情に順う。民を斉うるに刑を以てするは礼を以てするに若かず。それ天下有司に諭し、務めて礼教を崇び、疑獄を赦し、朕が万方と与にするを嘉ぶの意に称わしめよと。嗚呼、既に父に孝にして、又民に慈なり。帝の性の善良なる、誰がこれを然らずとせんや。
是の如きの人にして、帝となりて位を保つを得ず、天に帰して諡を得る能わず、廟無く陵無く、西山の一抔土、封せず樹せずして終るに至る。嗚呼又奇なるかな。しかも其の因縁の糾纏錯雑して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の、或は刻毒なる、或は杳渺たる、奇も亦太甚しというべし。
建文帝の国を遜らざるを得ざるに至れる最初の因は、太祖の諸子を封ずること過当にして、地を与うること広く、権を附すること多きに基づく。太祖の天下を定むるや、前代の宋元傾覆の所以を考えて、宗室の孤立は、無力不競の弊源たるを思い、諸子を衆く四方に封じて、兵馬の権を有せしめ、以て帝室に藩屏たらしめ、京師を拱衛せしめんと欲せり。是れ亦故無きにあらず。兵馬の権、他人の手に落ち、金穀の利、一家の有たらずして、将帥外に傲り、奸邪間に私すれば、一朝事有るに際しては、都城守る能わず、宗廟祀られざるに至るべし。若し夫れ衆く諸侯を建て、分ちて子弟を王とすれば、皇族天下に満ちて栄え、人臣勢を得るの隙無し。こゝに於て、第二子樉を秦王に封じ、藩に西安に就かしめ、第三子棡を晋王に封じ、太原府に居らしめ、第四子棣を封じて燕王となし、北平府即ち今の北京に居らしめ、第五子橚を封じて周王となし、開封府に居らしめ、第六子楨を楚王とし、武昌に居らしめ、第七子榑を斉王とし、青州府に居らしめ、第八子梓を封じて潭王とし、長沙に居き、第九子杞を趙王とせしが、此は三歳にして殤し、藩に就くに及ばず、第十子檀を生れて二月にして魯王とし、十六歳にして藩に兗州府に就かしめ、第十一子椿を封じて蜀王とし、成都に居き、第十二子柏を湘王とし、荊州府に居き、第十三子桂を代王とし、大同府に居き、第十四子楧を粛王とし、藩に甘州府に就かしめ、第十五子植を封じて遼王とし、広寧府に居き、第十六子〓(「木+旃」の「丹」に代えて「冉」)を慶王として寧夏に居き、第十七子権を寧王に封じ、大寧に居らしめ、第十八子楩を封じて岷王となし、第十九子橞を封じて谷王となす、谷王というは其の居るところ宣府の上谷の地たるを以てなり、第二十子松を封じて韓王となし、開源に居らしむ。第二十一子模を瀋王とし、第二十二子楹を安王とし、第二十三子桱を唐王とし、第二十四子棟を郢王とし、第二十五子𣟗を伊王としたり。藩王以下は、永楽に及んで藩に就きたるなれば、姑らく措きて論ぜざるも、太祖の諸子を封じて王となせるも亦多しというべく、而して枝柯甚だ盛んにして本幹却って弱きの勢を致せるに近しというべし。明の制、親王は金冊金宝を授けられ、歳禄は万石、府には官属を置き、護衛の甲士、少き者は三千人、多き者は一万九千人に至り、冕服車旗邸第は、天子に下ること一等、公侯大臣も伏して而して拝謁す。皇族を尊くし臣下を抑うるも、亦至れりというべし。且つ元の裔の猶存して、時に塞下に出没するを以て、辺に接せる諸王をして、国中に専制し、三護衛の重兵を擁するを得せしめ、将を遣りて諸路の兵を徴すにも、必ず親王に関白して乃ち発することゝせり。諸王をして権を得せしむるも、亦大なりというべし。太祖の意に謂えらく、是の如くなれば、本支相幇けて、朱氏永く昌え、威権下に移る無く、傾覆の患も生ずるに地無からんと。太祖の深智達識は、まことに能く前代の覆轍に鑑みて、後世に長計を貽さんとせり。されども人智は限有り、天意は測り難し、豈図らんや、太祖が熟慮遠謀して施為せるところの者は、即ち是れ孝陵の土未だ乾かずして、北平の塵既に起り、矢石京城に雨注して、皇帝遐陬に雲遊するの因とならんとは。
太祖が諸子を封ずることの過ぎたるは、夙に之を論じて、然る可からずとなせる者あり。洪武九年といえば建文帝未だ生れざるほどの時なりき。其歳閏九月、たま〳〵天文の変ありて、詔を下し直言を求められにければ、山西の葉居升というもの、上書して第一には分封の太だ侈れること、第二には刑を用いる太だ繁きこと、第三には治を求むる太だ速やかなることの三条を言えり。其の分封太侈を論ずるに曰く、都城百雉を過ぐるは国の害なりとは、伝の文にも見えたるを、国家今や秦晋燕斉梁楚呉閩の諸国、各其地を尽して之を封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小、天子の都に亜ぎ、之に賜うに甲兵衛士の盛なるを以てしたまえり。臣ひそかに恐る、数世の後は尾大掉わず、然して後に之が地を削りて之が権を奪わば、則ち其の怨を起すこと、漢の七国、晋の諸王の如くならん。然らざれば則ち険を恃みて衡を争い、然らざれば則ち衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて而して起たんに、之を防ぐも及ぶ無からん。孝景皇帝は漢の高帝の孫也、七国の王は皆景帝の同宗父兄弟子孫なり。然るに当時一たび其地を削れば則ち兵を構えて西に向えり。晋の諸王は、皆武帝の親子孫なり。然るに世を易うるの後は迭に兵を擁して、以て皇帝を危くせり。昔は賈誼漢の文帝に勧めて、禍を未萌に防ぐの道を白せり。願わくば今先ず諸王の都邑の制を節し、其の衛兵を減じ、其の彊里を限りたまえと。居升の言はおのずから理あり、しかも太祖は太祖の慮あり。其の説くところ、正に太祖の思えるところに反すれば、太祖甚だ喜びずして、居升を獄中に終るに至らしめ給いぬ。居升の上書の後二十余年、太祖崩じて建文帝立ちたもうに及び、居升の言、不幸にして験ありて、漢の七国の喩、眼のあたりの事となれるぞ是非無き。
七国の事、七国の事、嗚呼是れ何ぞ明室と因縁の深きや。葉居升の上書の出ずるに先だつこと九年、洪武元年十一月の事なりき、太祖宮中に大本堂というを建てたまい、古今の図書を充て、儒臣をして太子および諸王に教授せしめらる。起居注の魏観字は杞山というもの、太子に侍して書を説きけるが、一日太祖太子に問いて、近ごろ儒臣経史の何事を講ぜるかとありけるに、太子、昨日は漢書の七図漢に叛ける事を講じ聞せたりと答え白す。それより談は其事の上にわたりて、太祖、その曲直は孰に在りやと問う。太子、曲は七国に在りと承りぬと対う。時に太祖肯ぜずして、否、其は講官の偏説なり。景帝太子たりし時、博局を投じて呉王の世子を殺したることあり、帝となるに及びて、晁錯の説を聴きて、諸侯の封を削りたり、七国の変は実に此に由る。諸子の為に此事を講ぜんには、藩王たるものは、上は天子を尊み、下は百姓を撫し、国家の藩輔となりて、天下の公法を撓す無かれと言うべきなり、此の如くなれば則ち太子たるものは、九族を敦睦し、親しきを親しむの恩を隆んにすることを知り、諸子たるものは、王室を夾翼し、君臣の義を尽すことを知らん、と評論したりとなり。此の太祖の言は、正に是れ太祖が胸中の秘を発せるにて、夙くより此意ありたればこそ、其より二年ほどにして、洪武三年に、樉、棡、棣、橚、楨、榑、梓、檀、杞の九子を封じて、秦晋燕周等に王とし、其甚しきは、生れて甫めて二歳、或は生れて僅に二ヶ月のものをすら藩王とし、次いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ、而して又夙くより此意ありたればこそ、葉居升が上言に深怒して、これを獄死せしむるまでには至りたるなれ。しかも太祖が懿文太子に、七国反漢の事を喩したりし時は、建文帝未だ生れず。明の国号はじめて立ちしのみ。然るに何ぞ図らん此の俊徳成功の太祖が熟慮遠謀して、斯ばかり思いしことの、其身死すると共に直に禍端乱階となりて、懿文の子の允炆、七国反漢の古を今にして窘まんとは。不世出の英雄朱元璋も、命といい数というものゝ前には、たゞ是一片の落葉秋風に舞うが如きのみ。
七国の事、七国の事、嗚呼何ぞ明室と因縁の深きや。洪武二十五年九月、懿文太子の後を承けて其御子允炆皇太孫の位に即かせたもう。継紹の運まさに是の如くなるべきが上に、下は四海の心を繋くるところなり。上は一人の命を宣したもうところなり、天下皆喜びて、皇室万福と慶賀したり。太孫既に立ちて皇太孫となり、明らかに皇儲となりたまえる上は、齢猶弱くとも、やがて天下の君たるべく、諸王或は功あり或は徳ありと雖も、遠からず俯首して命を奉ずべきなれば、理に於ては当に之を敬すべきなり。されども諸王は積年の威を挟み、大封の勢に藉り、且は叔父の尊きを以て、不遜の事の多かりければ、皇太孫は如何ばかり心苦しく厭わしく思いしみたりけむ。一日東角門に坐して、侍読の太常卿黄子澄というものに、諸王驕慢の状を告げ、諸叔父各大封重兵を擁し、叔父の尊きを負みて傲然として予に臨む、行末の事も如何あるべきや、これに処し、これを制するの道を問わんと曰いたもう。子澄名は湜、分宜の人、洪武十八年の試に第一を以て及第したりしより累進してこゝに至れるにて、経史に通暁せるはこれ有りと雖も、世故に練達することは未だ足らず、侍読の身として日夕奉侍すれば、一意たゞ太孫に忠ならんと欲して、かゝる例は其昔にも見えたり、但し諸王の兵多しとは申せ、もと護衛の兵にして纔に身ずから守るに足るのみなり、何程の事かあらん、漢の七国を削るや、七国叛きたれども、間も無く平定したり、六師一たび臨まば、誰か能く之を支えん、もとより大小の勢、順逆の理、おのずから然るもの有るなり、御心安く思召せ、と七国の古を引きて対うれば、太孫は子澄が答を、げに道理なりと信じたまいぬ。太孫猶齢若く、子澄未だ世に老いず、片時の談、七国の論、何ぞ図らん他日山崩れ海湧くの大事を生ぜんとは。
太祖の病は洪武三十一年五月に起りて、同閏五月西宮に崩ず。其遺詔こそは感ずべく考うべきこと多けれ。山戦野戦又は水戦、幾度と無く畏るべき危険の境を冒して、無産無官又無家、何等の恃むべきをも有たぬ孤独の身を振い、終に天下を一統し、四海に君臨し、心を尽して世を治め、慮い竭して民を済い、而して礼を尚び学を重んじ、百忙の中、手に書を輟めず、孔子の教を篤信し、子は誠に万世の師なりと称して、衷心より之を尊び仰ぎ、施政の大綱、必ず此に依拠し、又蚤歳にして仏理に通じ、内典を知るも、梁の武帝の如く淫溺せず、又老子を愛し、恬静を喜び、自から道徳経註二巻を撰し、解縉をして、上疏の中に、学の純ならざるを譏らしむるに至りたるも、漢の武帝の如く神仙を好尚せず、嘗て宗濂に謂って、人君能く心を清くし欲を寡くし、民をして田里に安んじ、衣食に足り、熈々皡々として自ら知らざらしめば、是れ即ち神仙なりと曰い、詩文を善くして、文集五十巻、詩集五巻を著せるも、詹同と文章を論じては、文はたゞ誠意溢出するを尚ぶと為し、又洪武六年九月には、詔して公文に対偶文辞を用いるを禁じ、無益の彫刻藻絵を事とするを遏めたるが如き、まことに通ずること博くして拘えらるゝこと少く、文武を兼ねて有し、智有を併せて備え、体験心証皆富みて深き一大偉人たる此の明の太祖、開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊徳成功高皇帝の諡号に負かざる朱元璋、字は国瑞の世を辞して、其身は地に入り、其神は空に帰せんとするに臨みて、言うところ如何。一鳥の微なるだに、死せんとするや其声人を動かすと云わずや。太祖の遺詔感ず可く考う可きもの無からんや。遺詔に曰く、朕皇天の命を受けて、大任に世に膺ること、三十有一年なり、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき。奈何せん寒微より起りて、古人の博智無く、善を好し悪を悪むこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼す、慮るに終らざることを恐るのみ。今万物自然の理を得、其れ奚んぞ哀念かこれ有らん。皇太孫允炆、仁明孝友にして、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ。葬祭の儀は、一に漢の文帝の如くにして異にする勿れ。天下に布告して、朕が意を知らしめよ。孝陵の山川は、其の故に因りて改むる勿れ、天下の臣民は、哭臨する三日にして、皆服を釈き、嫁娶を妨ぐるなかれ。諸王は国中に臨きて、京師に至る母れ。諸の令の中に在らざる者は、此令を推して事に従えと。
嗚呼、何ぞ其言の人を感ぜしむること多きや。大任に膺ること、三十一年、憂危心に積み、日に勤めて怠らず、専ら民に益あらんことを志しき、と云えるは、真に是れ帝王の言にして、堂々正大の気象、靄々仁恕の情景、百歳の下、人をして欽仰せしむるに足るものあり。奈何せん寒微より起りて、智浅く徳寡し、といえるは、謙遜の態度を取り、反求の工夫に切に、諱まず飾らざる、誠に美とすべし。今年七十有一、死旦夕に在り、といえるは、英雄も亦大限の漸く逼るを如何ともする無き者。而して、今万物自然の理を得、其れ奚にぞ哀念かこれ有らん、と云える、流石に孔孟仏老の教に於て得るところあるの言なり。酒後に英雄多く、死前に豪傑少きは、世間の常態なるが、太祖は是れ真豪傑、生きて長春不老の癡想を懐かず、死して万物自然の数理に安んぜんとす。従容として逼らず、晏如として惕れず、偉なる哉、偉なる哉。皇太孫允炆、宜しく大位に登るべし、と云えるは、一言や鉄の鋳られたるが如し。衆論の糸の紛るゝを防ぐ。これより前、太孫の儲位に即くや、太祖太孫を愛せざるにあらずと雖も、太孫の人となり仁孝聡頴にして、学を好み書を読むことはこれ有り、然も勇壮果決の意気は甚だ欠く。此を以て太祖の詩を賦せしむるごとに、其詩婉美柔弱、豪壮瑰偉の処無く、太祖多く喜ばず。一日太孫をして詞句の属対をなさしめしに、大に旨に称わず、復び以て燕王棣に命ぜられけるに、燕王の語は乃ち佳なりけり。燕王は太祖の第四子、容貌偉にして髭髯美わしく、智勇あり、大略あり、誠を推して人に任じ、太祖に肖たること多かりしかば、太祖も此を悦び、人も或は意を寄するものありたり。此に於て太祖密に儲位を易えんとするに意有りしが、劉三吾之を阻みたり。三吾は名は如孫、元の遺臣なりしが、博学にして、文を善くしたりければ、洪武十八年召されて出でゝ仕えぬ。時に年七十三。当時汪叡、朱善と与に、世称して三老と為す。人となり慷慨にして城府を設けず、自ら号して坦坦翁といえるにも、其の風格は推知すべし。坦坦翁、生平実に坦坦、文章学術を以て太祖に仕え、礼儀の制、選挙の法を定むるの議に与りて定むる所多く、帝の洪範の注成るや、命を承けて序を為り、勅修の書、省躬録、書伝会要、礼制集要等の編撰総裁となり、居然たる一宿儒を以て、朝野の重んずるところたり。而して大節に臨むに至りては、屹として奪う可からず。懿文太子の薨ずるや、身を挺んでゝ、皇孫は世嫡なり、大統を承けたまわんこと、礼也、と云いて、内外の疑懼を定め、太孫を立てゝ儲君となせし者は、実に此の劉三吾たりしなり。三吾太祖の意を知るや、何ぞ言無からん、乃ち曰く、若し燕王を立て給わば秦王晋王を何の地に置き給わんと。秦王樉、晋王棡は、皆燕王の兄たり。孫を廃して子を立つるだに、定まりたるを覆すなり、まして兄を越して弟を君とするは序を乱るなり、世豈事無くして已まんや、との意は言外に明らかなりければ、太祖も英明絶倫の主なり、言下に非を悟りて、其事止みけるなり。是の如き事もありしなれば、太祖みずから崩後の動揺を防ぎ、暗中の飛躍を遏めて、特に厳しく皇太孫允炆宜しく大位に登るべしとは詔を遺されたるなるべし。太祖の治を思うの慮も遠く、皇孫を愛するの情も篤しという可し。葬祭の儀は、漢の文帝の如くせよ、と云える、天下の臣民は哭臨三日にして服を釈き、嫁娶を妨ぐる勿れ、と云える、何ぞ倹素にして仁恕なる。文帝の如くせよとは、金玉を用いる勿れとなり。孝陵の山川は其の故に因れとは、土木を起す勿れとなり。嫁娶を妨ぐる勿れとは、民をして福あらしめんとなり。諸王は国中に臨きて、京に至るを得る無かれ、と云えるは、蓋し其意諸王其の封を去りて京に至らば、前代の遺孽、辺土の黠豪等、或は虚に乗じて事を挙ぐるあらば、星火も延焼して、燎原の勢を成すに至らんことを虞るるに似たり。此も亦愛民憂世の念、おのずから此に至るというべし。太祖の遺詔、嗚呼、何ぞ人を感ぜしむるの多きや。
然りと雖も、太祖の遺詔、考う可きも亦多し。皇太孫允炆、天下心を帰す、宜しく大位に登るべし、と云えるは、何ぞや。既に立って皇太孫となる。遺詔無しと雖も、当に大位に登るべきのみ。特に大位に登るべしというは、朝野の間、或は皇太孫の大位に登らざらんことを欲する者あり、太孫の年少く勇乏しき、自ら謙譲して諸王の中の材雄に略大なる者に位を遜らんことを欲する者ありしが如きをも猜せしむ。仁明孝友、天下心を帰す、と云えるは、何ぞや。明の世を治むる、纔に三十一年、元の裔猶未だ滅びず、中国に在るもの無しと雖も、漠北に、塞西に、辺南に、元の同種の広大の地域を有して蹯踞するもの存し、太祖崩じて後二十余年にして猶大に興和に寇するあり。国外の情是の如し。而して域内の事、また英主の世を御せんことを幸とせずんばあらず。仁明孝友は固より尚ぶべしと雖も、時勢の要するところ、実は雄材大略なり。仁明孝友、天下心を帰するというと雖も、或は恐る、天下を十にして其の心を帰する者七八に過ぎざらんことを。中外文武臣僚、心を同じゅうして輔祐し、以て吾が民を福せよ、といえるは、文武臣僚の中、心を同じゅうせざる者あるを懼るゝに似たり。太祖の心、それ安んぜざる有る耶、非耶。諸王は国中に臨きて京に至るを得る無かれ、と云えるは、何ぞや。諸王の其封国を空しゅうして奸驁の乗ずるところとならんことを虞るというも、諸王の臣、豈一時を托するに足る者無からんや。子の父の葬に趨るは、おのずから是れ情なり、是れ理なり、礼にあらず道にあらずと為さんや。諸王をして葬に会せざらしむる詔は、果して是れ太祖の言に出づるか。太祖にして此詔を遺すとせば、太祖ひそかに其の斥けて聴かざりし葉居升の言の、諸王衆を擁して入朝し、甚しければ則ち間に縁りて起たんに、之を防ぐも及ぶ無き也、と云えるを思えるにあらざる無きを得んや。嗚呼子にして父の葬に会するを得ず、父の意なりと謂うと雖も、子よりして論ずれば、父の子を待つも亦疎にして薄きの憾無くんばあらざらんとす。詔或は時勢に中らん、而も実に人情に遠いかな。凡そ施為命令謀図言義を論ぜず、其の人情に遠きこと甚しきものは、意は善なるも、理は正しきも、計は中るも、見は徹するも、必らず弊に坐し凶を招くものなり。太祖の詔、可なることは則ち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年高皇后の崩ずるや、奏王晋王燕王等皆国に在り、然れども諸王喪に奔りて京に至り、礼を卒えて還れり。太祖の崩ぜると、其后の崩ぜると、天下の情勢に関すること異なりと雖も、母の喪には奔りて従うを得て、父の葬には入りて会するを得ざらしむ。此も亦人を強いて人情に遠きを為さしむるものなり。太祖の詔、まことに人情に遠し。豈弊を生じ凶を致す無からんや。果して事端は先ずこゝに発したり。崩を聞いて諸王は京に入らんとし、燕王は将に淮安に至らんとせるに当りて、斉泰は帝に言し、人をして勑を賚らして国に還らしめぬ。燕王を首として諸王は皆悦ばず。これ尚書斉泰の疎間するなりと謂いぬ。建文帝は位に即きて劈頭第一に諸王をして悦ばざらしめぬ。諸王は帝の叔父なり、尊族なり、封土を有し、兵馬民財を有せる也。諸王にして悦ばざるときは、宗家の枝柯、皇室の藩屏たるも何かあらん。嗚呼、これ罪斉泰にあるか、建文帝にあるか、抑又遺詔にあるか、諸王にあるか、之を知らざる也。又飜って思うに、太祖の遺詔に、果して諸王の入臨を止むるの語ありしや否や。或は疑う、太祖の人情に通じ、世故に熟せる、まさに是の如きの詔を遺さゞるべし。若し太祖に果して登遐の日に際して諸王の葬に会するを欲せざらば、平生無事従容の日、又は諸王の京を退きて封に就くの時に於て、親しく諸王に意を諭すべきなり。然らば諸王も亦発駕奔喪の際に於て、半途にして擁遏せらるゝの不快事に会う無く、各〻其封に於て哭臨して、他を責むるが如きこと無かるべきのみ。太祖の智にして事此に出でず、詔を遺して諸王の情を屈するは解す可からず。人の情屈すれば則ち悦ばず、悦ばざれば則ち怨を懐き他を責むるに至る。怨を懐き他を責むるに至れば、事無きを欲するも得べからず。太祖の人情に通ぜる何ぞ之を知るの明無からん。故に曰く、太祖の遺詔に、諸王の入臨を止むる者は、太祖の為すところにあらず、疑うらくは斉泰黄子澄の輩の仮託するところならんと。斉泰の輩、もとより諸王の帝に利あらざらんことを恐る、詔を矯むるの事も、世其例に乏しからず、是の如きの事、未だ必ずしも無きを保せず。然れども是れ推測の言のみ。真耶、偽耶、太祖の失か、失にあらざるか、斉泰の為か、為にあらざる耶、将又斉泰、遺詔に托して諸王の入京会葬を遏めざる能わざるの勢の存せしか、非耶。建文永楽の間、史に曲筆多し、今新に史徴を得るあるにあらざれば、疑を存せんのみ、確に知る能わざる也。
太祖の崩ぜるは閏五月なり、諸王の入京を遏められて悦ばずして帰れるの後、六月に至って戸部侍郎卓敬というもの、密疏を上る。卓敬字は惟恭、書を読んで十行倶に下ると云われし頴悟聡敏の士、天文地理より律暦兵刑に至るまで究めざること無く、後に成祖をして、国家士を養うこと三十年、唯一卓敬を得たりと歎ぜしめしほどの英才なり。鯁直慷慨にして、避くるところ無し。嘗て制度未だ備わらずして諸王の服乗も太子に擬せるを見、太祖に直言して、嫡庶相乱り、尊卑序無くんば、何を以て天下に令せんや、と説き、太祖をして、爾の言是なり、と曰わしめたり。其の人となり知る可きなり。敬の密疏は、宗藩を裁抑して、禍根を除かんとなり。されども、帝は敬の疏を受けたまいしのみにて、報じたまわず、事竟に寝みぬ。敬の言、蓋し故無くして発せず、必らず窃に聞くところありしなり。二十余年前の葉居升が言は、是に於て其中れるを示さんとし、七国の難は今将に発せんとす。燕王、周王、斉王、湘王、代王、岷王等、秘信相通じ、密使互に動き、穏やかならぬ流言ありて、朝に聞えたり。諸王と帝との間、帝は其の未だ位に即かざりしより諸王を忌憚し、諸王は其の未だ位に即かざるに当って儲君を侮り、叔父の尊を挟んで不遜の事多かりしなり。入京会葬を止むるの事、遺詔に出づと云うと雖も、諸王、責を讒臣に托して、而して其の奸悪を除かんと云い、香を孝陵に進めて、而して吾が誠実を致さんと云うに至っては、蓋し辞柄無きにあらず。諸王は合同の勢あり、帝は孤立の状あり。嗚呼、諸王も疑い、帝も疑う、相疑うや何ぞ睽離せざらん。帝も戒め、諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疎隔せざらん。疎隔し、睽離す、而して帝の為に密に図るものあり、諸王の為に私に謀るものあり、況んや藩王を以て天子たらんとするものあり、王を以て皇となさんとするものあるに於てをや。事遂に決裂せずんば止まざるものある也。
帝の為に密に図る者をば誰となす。曰く、黄子澄となし、斉泰となす。子澄は既に記しぬ。斉泰は溧水の人、洪武十七年より漸く世に出づ。建文帝位に即きたもうに及び、子澄と与に帝の信頼するところとなりて、国政に参す。諸王の入京会葬を遏めたる時の如き、諸王は皆謂えらく、泰皇考の詔を矯めて骨肉を間つと。泰の諸王の憎むところとなれる、知るべし。
諸王の為に私に謀る者を誰となす。曰く、諸王の雄を燕王となす。燕王の傅に、僧道衍あり。道衍は僧たりと雖も、灰心滅智の羅漢にあらずして、却って是れ好謀善算の人なり。洪武二十八年、初めて諸王の封国に就く時、道衍躬ずから薦めて燕王の傅とならんとし、謂って曰く、大王臣をして侍するを得せしめたまわば、一白帽を奉りて大王がために戴かしめんと。王上に白を冠すれば、其文は皇なり、儲位明らかに定まりて、太祖未だ崩ぜざるの時だに、是の如きの怪僧ありて、燕王が為に白帽を奉らんとし、而して燕王是の如きの怪僧を延いて帷幙の中に居く。燕王の心胸もとより清からず、道衍の瓜甲も毒ありというべし。道衍燕邸に至るに及んで袁珙を王に薦む。袁珙は字は廷玉、鄞の人にして、此亦一種の異人なり。嘗て海外に遊んで、人を相するの術を別古崖というものに受く。仰いで皎日を視て、目尽く眩して後、赤豆黒豆を暗室中に布いて之を弁じ、又五色の縷を窓外に懸け、月に映じて其色を別って訛つこと無く、然して後に人を相す。其法は夜中を以て両炬を燃し、人の形状気色を視て、参するに生年月日を以てするに、百に一謬無く、元末より既に名を天下に馳せたり。其の道衍と識るに及びたるは、道衍が嵩山寺に在りし時にあり。袁珙道衍が相をつく〴〵と観て、是れ何ぞ異僧なるや、目は三角あり、形は病虎の如し。性必らず殺を嗜まん。劉秉忠の流なりと。劉秉忠は学内外を兼ね、識三才を綜ぶ、釈氏より起って元主を助け、九州を混一し、四海を併合す。元の天下を得る、もとより其の兵力に頼ると雖も、成功の速疾なるもの、劉の揮攉の宜しきを得るに因るもの亦鮮からず。秉忠は実に奇偉卓犖の僧なり。道衍秉忠の流なりとなさる、まさに是れ癢処に爬着するもの。是れより二人、友とし善し。道衍の珙を燕王に薦むるに当りてや、燕王先ず使者をして珙と与に酒肆に飲ましめ、王みずから衛士の儀表堂々たるもの九人に雑わり、おのれ亦衛士の服を服し、弓矢を執りて肆中に飲む。珙一見して即ち趨って燕王の前に拝して曰く、殿下何ぞ身を軽んじて此に至りたまえると。燕王等笑って曰く、吾輩皆護衛の士なりと。珙頭を掉って是とせず。こゝに於て王起って入り、珙を宮中に延きて詳に相せしむ。珙諦視すること良久しゅうして曰く、殿下は龍行虎歩したまい、日角天を挿む、まことに異日太平の天子にておわします。御年四十にして、御鬚臍を過ぎさせたもうに及ばせたまわば、大宝位に登らせたまわんこと疑あるべからず、と白す。又燕府の将校官属を相せしめたもうに、珙一々指点して曰く、某は公たるべし、某は侯たるべし、某は将軍たるべし、某は貴官たるべしと。燕王語の洩れんことを慮り、陽に斥けて通州に至らしめ、舟路密に召して邸に入る。道衍は北平の慶寿寺に在り、珙は燕府に在り、燕王と三人、時々人を屏けて語る。知らず其の語るところのもの何ぞや。珙は柳荘居士と号す。時に年蓋し七十に近し。抑亦何の欲するところあって燕王に勧めて反せしめしや。其子忠徹の伝うるところの柳荘相法、今に至って猶存し、風鑑の津梁たり。珙と永楽帝と答問するところの永楽百問の中、帝鬚の事を記す。相法三巻、信ぜざるものは、目して陋書となすと雖も、尽く斥く可からざるものあるに似たり。忠徹も家学を伝えて、当時に信ぜらる。其の著わすところ、今古識鑑八巻ありて、明志採録す。予未だ寓目せずと雖も、蓋し藻鑑の道を説く也。珙と忠徹と、偕に明史方伎伝に見ゆ。珙の燕王に見ゆるや、鬚長じて臍を過ぎなば宝位に登らんという。燕王笑って曰く、吾が年将に四旬ならんとす、鬚豈能く復長ぜんやと。道衍こゝに於て金忠というものを薦む。金忠も亦鄞の人なり、少くして書を読み易に通ず。卒伍に編せらるゝに及び、卜を北平に売る。卜多く奇中して、市人伝えて以て神となす。燕王忠をして卜せしむ。忠卜して卦を得て、貴きこと言う可からずという。燕王の意漸くにして固し。忠後に仕えて兵部尚書を以て太子監国に補せらるゝに至る。明史巻百五十に伝あり。蓋し亦一異人なり。
帝の側には黄子澄斉泰あり、諸藩を削奪するの意、いかでこれ無くして已まん。燕王の傍には僧道衍袁珙あり、秘謀を醞醸するの事、いかでこれ無くして已まん。二者の間、既に是の如し、風声鶴唳、人相驚かんと欲し、剣光火影、世漸く将に乱れんとす。諸王不穏の流言、朝に聞ゆること頻なれば、一日帝は子澄を召したまいて、先生、疇昔の東角門の言を憶えたもうや、と仰す。子澄直ちに対えて、敢て忘れもうさずと白す。東角門の言は、即ち子澄七国の故事を論ぜるの語なり。子澄退いて斉泰と議す。泰曰く、燕は重兵を握り、且素より大志あり、当に先ず之を削るべしと。子澄が曰く、然らず、燕は予め備うること久しければ、卒に図り難し。宜しく先ず周を取り、燕の手足を剪り、而して後燕図るべしと。乃ち曹国公李景隆に命じ、兵を調して猝に河南に至り、周王橚及び其の世子妃嬪を執え、爵を削りて庶人となし、之を雲南に遷しぬ。橚は燕王の同母弟なるを以て、帝もかねて之を疑い憚り、橚も亦異謀あり、橚の長史王翰というもの、数々諫めたれど納れず、橚の次子汝南王有㷲の変を告ぐるに及び、此事あり。実に洪武三十一年八月にして、太祖崩じて後、幾干月を距らざる也。冬十一月、代王桂暴虐民を苦むるを以て、蜀に入りて蜀王と共に居らしむ。
諸藩漸く削奪せられんとするの明らかなるや、十二月に至りて、前軍都督府断事高巍書を上りて政を論ず。巍は遼州の人、気節を尚び、文章を能くす、材器偉ならずと雖も、性質実に惟美、母の蕭氏に事えて孝を以て称せられ、洪武十七年旌表せらる。其の立言正平なるを以て太祖の嘉納するところとなりし又是一個の好人物なり。時に事に当る者、子澄、泰の輩より以下、皆諸王を削るを議す。独り巍と御史韓郁とは説を異にす。巍の言に曰く、我が高皇帝、三代の公に法り、嬴秦の陋を洗い、諸王を分封して、四裔に藩屏たらしめたまえり。然れども之を古制に比すれば封境過大にして、諸王又率ね驕逸不法なり。削らざれば則ち朝廷の紀綱立たず。之を削れば親を親むの恩を傷る。賈誼曰く、天下の治安を欲するは、衆く諸侯を建てゝ其力を少くするに若くは無しと。臣愚謂えらく、今宜しく其意を師とすべし、晁錯が削奪の策を施す勿れ、主父偃が推恩の令に効うべし。西北諸王の子弟は、東南に分封し、東南諸王の子弟は、西北に分封し、其地を小にし、其城を大にし、以て其力を分たば、藩王の権は、削らずして弱からん。臣又願わくは陛下益々親親の礼を隆んにし、歳時伏臘、使問絶えず、賢者は詔を下して褒賞し、不法者は初犯は之を宥し、再犯は之を赦し、三犯改めざれば、則ち太廟に告げて、地を削り、之を廃処せんに、豈服順せざる者あらんやと。帝之を然なりとは聞召したりけれど、勢既に定まりて、削奪の議を取る者のみ充満ちたりければ、高巍の説も用いられて已みぬ。
建文元年二月、諸王に詔りして、文武の吏士を節制し、官制を更定するを得ざらしむ。此も諸藩を抑うるの一なりけり。夏四月西平侯沐晟、岷王梗の不法の事を奏す。よって其の護衛を削り、其の指揮宗麟を誅し、王を廃して庶人となす。又湘王柏偽りて鈔を造り、及び擅に人を殺すを以て、勅を降して之を責め、兵を遣って執えしむ。湘王もと膂力ありて気を負う。曰く、吾聞く、前代の大臣の吏に下さるゝや、多く自ら引決すと。身は高皇帝の子にして、南面して王となる、豈能く僕隷の手に辱しめられて生活を求めんやと。遂に宮を闔じて自ら焚死す。斉王榑もまた人の告ぐるところとなり、廃せられて庶人となり、代王桂もまた終に廃せられて庶人となり、大同に幽せらる。
燕王は初より朝野の注目せるところとなり、且は威望材力も群を抜けるなり、又其の終に天子たるべきを期するものも有るなり、又私に異人術士を養い、勇士勁卒をも蓄え居れるなり、人も疑い、己も危ぶみ、朝廷と燕と竟に両立する能わざらんとするの勢あり。されば三十一年の秋、周王橚の執えらるゝを見て、燕王は遂に壮士を簡みて護衛となし、極めて警戒を厳にしたり。されども斉泰黄子澄に在りては、もとより燕王を容す能わず。たま〳〵北辺に寇警ありしを機とし、防辺を名となし、燕藩の護衛の兵を調して塞を出でしめ、其の羽翼を去りて、其の咽喉を扼せんとし、乃ち工部侍郎張昺をもて北平左布政使となし、謝貴を以て都指揮使となし、燕王の動静を察せしめ、巍国公徐輝祖、曹国公李景隆をして、謀を協せて燕を図らしむ。
建文元年正月、燕王長史葛誠をして入って事を奏せしむ。誠、帝の為に具に燕邸の実を告ぐ。こゝに於て誠を遣りて燕に還らしめ、内応を為さしむ。燕王覚って之に備うるあり。二月に至り、燕王入覲す。皇道を行きて入り、陛に登りて拝せざる等、不敬の事ありしかば、監察御史曾鳳韶これを劾せしが、帝曰く、至親問う勿れと。戸部侍郎卓敬、先に書を上って藩を抑え禍を防がんことを言う。復密奏して曰く、燕王は智慮人に過ぐ、而して其の拠る所の北平は、形勝の地にして、士馬精強に、金元の由って興るところなり、今宜しく封を南昌に徒したもうべし。然らば則ち万一の変あるも控制し易しと、帝敬に対えたまわく、燕王は骨肉至親なり、何ぞ此に及ぶことあらんやと。敬曰く、隋文揚広は父子にあらずやと。敬の言実に然り。揚広は子を以てだに父を弑す。燕王の傲慢なる、何をか為さゞらん。敬の言、敦厚を欠き、帝の意、醇正に近しと雖も、世相の険悪にして、人情の陰毒なる、悲む可きかな、敬の言却って実に切なり。然れども帝黙然たること良久しくして曰く、卿休せよと。三月に至って燕王国に還る。都御史暴昭、燕邸の事を密偵して奏するあり。北平の按察使僉事の湯宗、按察使陳瑛が燕の金を受けて燕の為に謀ることを劾するあり。よって瑛を逮捕し、都督宗忠をして兵三万を率い、及び燕王府の護衛の精鋭を忠の麾下に隷し、開平に屯して、名を辺に備うるに藉り、都督の耿瓛に命じて兵を山海関に練り、徐凱をして兵を臨清に練り、密に張昺謝貴に勅して、厳に北平の動揺を監視しせしむ。燕王此の勢を視、国に帰れるより疾に托して出でず、之を久しゅうして遂に疾篤しと称し、以て一時の視聴を避けんとせり。されども水あるところ湿気無き能わず、火あるところは燥気無き能わず、六月に至りて燕山の護衛百戸倪諒というもの変を上り、燕の官校于諒周鐸等の陰事を告げゝれば、二人は逮えられて京に至り、罪明らかにして誅せられぬ。こゝに於て事燕王に及ばざる能わず、詔ありて燕王を責む。燕王弁疏する能わざるところありけん、佯りて狂となり、号呼疾走して、市中の民家に酒食を奪い、乱語妄言、人を驚かして省みず、或は土壌に臥して、時を経れど覚めず、全く常を失えるものゝ如し。張昺謝貴の二人、入りて疾を問うに、時まさに盛夏に属するに、王は爐を囲み、身を顫わせて、寒きこと甚しと曰い、宮中をさえ杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂う者もあり、朝廷も稍これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠ひそかに昺と貴とに告げて、燕王の狂は、一時の急を緩くして、後日の計に便にせんまでの詐に過ぎず、本より恙無きのみ、と知らせたり。たま〳〵燕王の護衛百戸の鄧庸というもの、闕に詣り事を奏したりけるを、斉泰請いて執えて鞠問しけるに、王が将に兵を挙げんとするの状をば逐一に白したり。
待設けたる斉泰は、たゞちに符を発し使を遣わし、往いて燕府の官属を逮捕せしめ、密に謝貴張昺をして、燕府に在りて内応を約せる長史葛誠、指揮盧振と気脈を通ぜしめ、北平都指揮張信というものゝ、燕王の信任するところとなるを利し、密勅を下して、急に燕王を執えしむ。信は命を受けて憂懼為すところを知らず、情誼を思えば燕王に負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能わず、進退両難にして、行止ともに艱く、左思右慮、心終に決する能わねば、苦悶の色は面にもあらわれたり。信が母疑いて、何事のあればにや、汝の深憂太息することよ、と詰り問う。信是非に及ばず、事の始末を告ぐれば、母大に驚いて曰く、不可なり、汝が父の興、毎に言えり王気燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能く擒にするところにあらざるなり、燕王に負いて家を滅することなかれと。信愈々惑いて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂に怒って曰く、何ぞ太甚しきやと。乃ち意を決して燕邸に造る。造ること三たびすれども、燕王疑いて而して辞し、入ることを得ず。信婦人の車に乗じ、径ちに門に至りて見ゆることを求め、ようやく召入れらる。されども燕王猶疾を装いて言わず。信曰く、殿下爾したもう無かれ、まことに事あらば当に臣に告げたもうべし、殿下もし情を以て臣に語りたまわずば、上命あり、当に執われに就きたもうべし、如し意あらば臣に諱みたもう勿れと。燕王信の誠あるを見、席を下りて信を拝して曰く、我が一家を生かすものは子なりと。信つぶさに朝廷の燕を図るの状を告ぐ。形勢は急転直下せり。事態は既に決裂せり。燕王は道衍を召して、将に大事を挙げんとす。
天耶、時耶、燕王の胸中颶母まさに動いて、黒雲飛ばんと欲し、張玉、朱能等の猛将梟雄、眼底紫電閃いて、雷火発せんとす。燕府を挙って殺気陰森たるに際し、天も亦応ぜるか、時抑至れるか、颷風暴雨卒然として大に起りぬ。蓬々として始まり、号々として怒り、奔騰狂転せる風は、沛然として至り、澎然として瀉ぎ、猛打乱撃するの雨と伴なって、乾坤を震撼し、樹石を動盪しぬ。燕王の宮殿堅牢ならざるにあらざるも、風雨の力大にして、高閣の簷瓦吹かれて空に飄り、砉然として地に堕ちて粉砕したり。大事を挙げんとするに臨みて、これ何の兆ぞ。さすがの燕王も心に之を悪みて色懌ばず、風声雨声、竹折るゝ声、樹裂くる声、物凄じき天地を睥睨して、惨として隻語無く、王の左右もまた粛として言わず。時に道衍少しも驚かず、あな喜ばしの祥兆や、と白す。本より此の異僧道衍は、死生禍福の岐に惑うが如き未達の者にはあらず、膽に毛も生いたるべき不敵の逸物なれば、さきに燕王を勧めて事を起さしめんとしける時、燕王、彼は天子なり、民心の彼に向うを奈何、とありけるに、昂然として答えて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云いけるほどの豪傑なり。されども風雨簷瓦を堕す。時に取っての祥とも覚えられぬを、あな喜ばしの祥兆といえるは、余りに強言に聞えければ、燕王も堪えかねて、和尚何というぞや、いずくにか祥兆たるを得る、と口を突いてそゞろぎ罵る。道衍騒がず、殿下聞しめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以てすと申す、瓦墜ちて砕けぬ、これ黄屋に易るべきのみ、と泰然として対えければ、王も頓に眉を開いて悦び、衆将も皆どよめき立って勇みぬ。彼邦の制、天子の屋は、葺くに黄瓦を以てす、旧瓦は用無し、まさに黄なるに易るべし、といえる道衍が一語は、時に取っての活人剣、燕王宮中の士気をして、勃然凛然、糾々然、直にまさに天下を呑まんとするの勢をなさしめぬ。
燕王は護衛指揮張玉朱能等をして壮士八百人をして入って衛らしめぬ。矢石未だ交るに至らざるも、刀鎗既に互に鳴る。都指揮使謝貴は七衛の兵、并びに屯田の軍士を率いて王城を囲み、木柵を以て端礼門等の路を断ちぬ。朝廷よりは燕王の爵を削るの詔、及び王府の官属を逮うべきの詔至りぬ。秋七月布政使張昺、謝貴と与に士卒を督して皆甲せしめ、燕府を囲んで、朝命により逮捕せらるべき王府の官属を交付せんことを求む。一言の支吾あらんには、巌石鶏卵を圧するの勢を以て臨まんとするの状を為し、昺貴の軍の殺気の迸るところ、箭をば放って府内に達するものすら有りたり。燕王謀って曰く、吾が兵は甚だ寡く、彼の軍は甚だ多し、奈何せんと。朱能進んで曰く、先ず張昺謝貴を除かば、余は能く為す無き也と。王曰く、よし、昺貴を擒にせんと。壬申の日、王、疾癒えぬと称し、東殿に出で、官僚の賀を受け、人をして昺と貴とを召さしむ。二人応ぜず。復内官を遣して、逮わるべき者を交付するを装う。二人乃ち至る。衛士甚だ衆かりしも、門者呵して之を止め、昺と貴とのみを入る。昺と貴との入るや、燕王は杖を曳いて坐し、宴を賜い酒を行り宝盤に瓜を盛って出す。王曰く、たま〳〵新瓜を進むる者あり、卿等と之を嘗みんと。自ら一瓜を手にしけるが、忽にして色を作して詈って曰く、今世間の小民だに、兄弟宗族、尚相互に恤ぶ、身は天子の親属たり、而も旦夕に其命を安んずること無し、県官の我を待つこと此の如し、天下何事か為す可からざらんや、と奮然として瓜を地に擲てば、護衛の軍士皆激怒して、前んで昺と貴とを擒え、かねて朝廷に内通せる葛誠盧振等を殿下に取って押えたり。王こゝに於て杖を投じて起って曰く、我何ぞ病まん、奸臣に迫らるゝ耳、とて遂に昺貴等を斬る。昺貴等の将士、二人が時を移して還らざるを見、始は疑い、後は覚りて、各散じ去る。王城を囲める者も、首脳已に無くなりて、手足力無く、其兵おのずから潰えたり。張昺が部下北平都指揮の彭二、憤慨已む能わず、馬を躍らして大に市中に呼わって曰く、燕王反せり、我に従って朝廷の為に力を尽すものは賞あらんと。兵千余人を得て端礼門に殺到す。燕王の勇卒龐来興、丁勝の二人、彭二を殺しければ、其兵も亦散じぬ。此勢に乗ぜよやと、張玉、朱能等、いずれも塞北に転戦して元兵と相馳駆し、千軍万馬の間に老い来れる者なれば、兵を率いて夜に乗じて突いて出で、黎明に至るまでに九つの門の其八を奪い、たゞ一つ下らざりし西直門をも、好言を以て守者を散ぜしめぬ。北平既に全く燕王の手に落ちしかば、都指揮使の余瑱は、走って居庸関を守り、馬宣は東して薊州に走り、宋忠は開平より兵三万を率いて居庸関に至りしが、敢て進まずして、退いて懐来を保ちたり。
煙は旺んにして火は遂に熾えたり、剣は抜かれて血は既に流されたり。燕王は堂々として旗を進め馬を出しぬ。天子の正朔を奉ぜず、敢て建文の年号を去って、洪武三十二年と称し、道衍を帷幄の謀師とし、金忠を紀善として機密に参ぜしめ、張玉、朱能、丘福を都指揮僉事とし、張昺部下にして内通せる李友直を布政司参議と為し、乃ち令を下して諭して曰く、予は太祖高皇帝の子なり、今奸臣の為に謀害せらる。祖訓に云わく、朝に正臣無く、内に奸逆あれば、必ず兵を挙げて誅討し、以て君側の悪を清めよと。こゝに爾将士を率いて之を誅せんとす。罪人既に得ば、周公の成王を輔くるに法とらん。爾等それ予が心を体せよと。一面には是の如くに将士に宣言し、又一面には書を帝に上りて曰く、皇考太祖高皇帝、百戦して天下を定め、帝業を成し、之を万世に伝えんとして、諸子を封建したまい、宗社を鞏固にして、盤石の計を為したまえり。然るに奸臣斉泰黄子澄、禍心を包蔵し、橚、榑、栢、桂、楩の五弟、数年ならずして、並びに削奪せられぬ、栢や尤憫むべし、闔室みずから焚く、聖仁上に在り、胡ぞ寧ぞ此に忍ばん。蓋陛下の心に非ず、実に奸臣の為す所ならん。心尚未だ足らずとし、又以て臣に加う。臣藩を燕に守ること二十余年、寅み畏れて小心にし、法を奉じ分に循う。誠に君臣の大分、骨肉の至親なるを以て、恒に思いて慎を加う。而るに奸臣跋扈し、禍を無辜に加え、臣が事を奏するの人を執えて、箠楚刺縶し、備さに苦毒を極め、迫りて臣不軌を謀ると言わしめ、遂に宋忠、謝貴、張昺等を北平城の内外に分ち、甲馬は街衢に馳突し、鉦鼓は遠邇に喧鞠し、臣が府を囲み守る。已にして護衛の人、貴昺を執え、始めて奸臣欺詐の謀を知りぬ。窃に念うに臣の孝康皇帝に於けるは、同父母兄弟なり、今陛下に事うるは天に事うるが如きなり。譬えば大樹を伐るに、先ず附枝を剪るが如し、親藩既に滅びなば、朝廷孤立し、奸臣志を得んには、社稷危からん。臣伏して祖訓を覩るに云えることあり、朝に正臣無く、内に奸悪あらば、則ち親王兵を訓して命を待ち、天子密かに諸王に詔し、鎮兵を統領して之を討平せしむと。臣謹んで俯伏して命を俟つ、と言辞を飾り、情理を綺えてぞ奏しける。道衍少きより学を好み詩を工にし、高啓と友とし善く、宋濂にも推奨され、逃虚子集十巻を世に留めしほどの文才あるものなれば、道衍や筆を執りけん、或は又金忠の輩や詞を綴りけん、いずれにせよ、柔を外にして剛を懐き、己を護りて人を責むる、いと力ある文字なり。卒然として此書のみを読めば、王に理ありて帝に理なく、帝に情無くして王に情あるが如く、祖霊も民意も、帝を去り王に就く可きを覚ゆ。されども擅に謝張を殺し、妄に年号を去る、何ぞ法を奉ずると云わんや。後苑に軍器を作り、密室に機謀を錬る、これ分に循うにあらず。君側の奸を掃わんとすと云うと雖も、詔無くして兵を起し、威を恣にして地を掠む。其辞は則ち可なるも、其実は則ち非なり。飜って思うに斉泰黄子澄の輩の、必ず諸王を削奪せんとするも、亦理に於て欠け、情に於て薄し。夫れ諸王を重封せるは、太祖の意に出づ。諸王未だ必ずしも反せざるに、先ず諸王を削奪せんとするの意を懐いて諸王に臨むは、上は太祖の意を壊り、下は宗室の親を破るなり。三年父の志を改めざるは、孝というべし。太祖崩じて、抔土未だ乾かず、直に其意を破り、諸王を削奪せんとするは、是れ理に於て欠け情に於て薄きものにあらずして何ぞや。斉黄の輩の為さんとするところ是の如くなれば、燕王等手を袖にし息を屏くるも亦削奪罪責を免かれざらんとす。太祖の血を承けて、英雄傑特の気象あるもの、いずくんぞ俛首して寃に服するに忍びんや。瓜を投じて怒罵するの語、其中に機関ありと雖も、又尽く偽詐のみならず、本より真情の人に逼るに足るものあるなり。畢竟両者各理あり、各非理ありて、争鬩則ち起り、各情なく、各真情ありて、戦闘則ち生ぜるもの、今に於て誰か能く其の是非を判せんや。高巍の説は、敦厚悦ぶ可しと雖も、時既に晩く、卓敬の言は、明徹用いるに足ると雖も、勢回し難く、朝旨の酷責すると、燕師の暴起すると、実に互に已む能わざるものありしなり。是れ所謂数なるものか、非耶。
燕王の兵を起したる建文元年七月より、恵帝の国を遜りたる建文四年六月までは、烽烟剣光の史にして、今一々之を記するに懶し。其詳を知らんとするものは、明史及び明朝紀事本末等に就きて考うべし。今たゞ其概略と燕王恵帝の性格風丰を知る可きものとを記せん。燕王もと智勇天縦、且夙に征戦に習う。洪武二十三年、太祖の命を奉じ、諸王と共に元族を漠北に征す。秦王晋王は怯にして敢て進まず、王将軍傅友徳等を率いて北出し、迤都山に至り、其将乃児不花を擒にして還る。太祖大に喜び、此より後屡諸将を帥いて出征せしむるに、毎次功ありて、威名大に振う。王既に兵を知り戦に慣る。加うるに道衍ありて、機密に参し、張玉、朱能、丘福ありて爪牙と為る。丘福は謀画の才張玉に及ばずと雖も、樸直猛勇、深く敵陣に入りて敢戦死闘し、戦終って功を献ずるや必ず人に後る。古の大樹将軍の風あり。燕王をして、丘将軍の功は我之を知る、と歎美せしむるに至る。故に王の功臣を賞するに及びて、福其首たり、淇国公に封ぜらる。其他将士の鷙悍驁雄の者も、亦甚だ少からず。燕王の大事を挙ぐるも、蓋し胸算あるなり。燕王の張昺謝貴を斬って反を敢てするや、郭資を留めて北平を守らしめ、直に師を出して通州を取り、先ず薊州を定めずんば、後顧の患あらんと云える張玉の言を用い、玉をして之を略せしめ、次で夜襲して遵化を降す。此皆開平の東北の地なり。時に余瑱居庸関を守る。王曰く、居庸は険隘にして、北平の咽喉也、敵此に拠るは、是れ我が背を拊つなり、急に取らざる可からずと。乃ち徐安、鐘祥等をして瑱を撃って、懐来に走らしむ。宗忠懐来に在り 兵三万と号す。諸将之を撃つを難んず。王曰く、彼衆く、我寡し、然れども彼新に集まる、其心未だ一ならず、之を撃たば必らず破れんと。精兵八千を率い、甲を捲き道を倍して進み、遂に戦って克ち、忠と瑱とを獲て之を斬る。こゝに於て諸州燕に降る者多く、永平、欒州また燕に帰す。大寧の都指揮卜万、松亭関を出で、沙河に駐まり、遵化を攻めんとす。兵十万と号し、勢やゝ振う。燕王反間を放ち、万の部将陳亨、劉貞をして万を縛し獄に下さしむ。
帝黄子澄の言を用い、長興侯耿炳文を大将軍とし、李堅、寧忠を副えて北伐せしめ、又安陸侯呉傑、江陰侯呉高、都督都指揮盛庸、潘忠、楊松、顧成、徐凱、李文、陳暉、平安等に命じ、諸道並び進みて、直に北平を擣かしむ。時に帝諸将士を誡めたまわく、昔蕭繹、兵を挙げて京に入らんとす、而も其下に令して曰く、一門の内自ら兵威を極むるは、不祥の極なりと。今爾将士、燕王と対塁するも、務めて此意を体して、朕をして叔父を殺すの名あらしむるなかれと。(蕭繹は梁の孝元皇帝なり。今梁書を按ずるに、此事を載せず。蓋し元帝兵を挙げて賊を誅し京に入らんことを図る。時に河東王誉、帝に従わず、却って帝の子方等を殺す。帝鮑泉を遣りて之を討たしめ、又王僧弁をして代って将たらしむ。帝は高祖武帝の第七子にして、誉は武帝の長子にして文選の撰者たる昭明太子統の第二子なり。一門の語、誉を征するの時に当りて発するか。)建文帝の仁柔の性、宋襄に近きものありというべし。それ燕王は叔父たりと雖も、既に爵を削られて庶人たり、庶人にして兇器を弄し王師に抗す、其罪本より誅戮に当る。然るに是の如きの令を出征の将士に下す。これ適以て軍旅の鋭を殺ぎ、貔貅の胆を小にするに過ぎざるのみ、智なりという可からず。燕王と戦うに及びて、官軍時に或は勝つあるも、此令あるを以て、飛箭長槍、燕王を殪すに至らず。然りと雖も、小人の過や刻薄、長者の過や寛厚、帝の過を観て帝の人となりを知るべし。
八月耿炳文等兵三十万を率いて真定に至り、徐凱は兵十万を率いて河間に駐まる。炳文は老将にして、太祖創業の功臣なり。かつて張士誠に当りて、長興を守ること十年、大小数十戦、戦って勝たざる無く、終に士誠をして志を逞しくする能わざらしめしを以て、太祖の功臣を榜列するや、炳文を以て大将軍徐達に付して一等となす。後又、北は塞を出でゝ元の遺族を破り、南は雲南を征して蛮を平らげ、或は陝西に、或は蜀に、旗幟の向う所、毎に功を成す。特に洪武の末に至っては、元勲宿将多く凋落せるを以て、炳文は朝廷の重んずるところたり。今大兵を率いて北伐す、時に年六十五。樹老いて材愈堅く、将老いて軍益々固し。然れども不幸にして先鋒楊松、燕王の為に不意を襲われて雄県に死し、潘忠到り援わんとして月漾橋の伏兵に執えられ、部将張保敵に降りて其の利用するところとなり、遂に滹沱河の北岸に於て、燕王及び張玉、朱能、譚淵、馬雲等の為に大に敗れて、李堅、寗忠、顧成、劉燧を失うに至れり。ただ炳文の陣に熟せる、大敗して而も潰えず、真定城に入りて門を闔じて堅く守る。燕兵勝に乗じて城を囲む三日、下す能わず。燕王も炳文が老将にして破り易からざるを知り、囲を解いて還る。
炳文の一敗は猶復すべし、帝炳文の敗を聞いて怒りて用いず、黄子澄の言によりて、李景隆を大将軍とし、斧鉞を賜わって炳文に代らしめたもうに至って、大事ほとんど去りぬ。景隆は紈袴の子弟、趙括の流なればなり。趙括を挙げて廉頗に代う。建文帝の位を保つ能わざる、兵戦上には実に此に本づく。炳文の子璿は、帝の父懿文太子の長女江都公主を妻とす、璿父の復用いられざるを憤ること甚しかりしという。又璿の弟瓛、遼東の鎮守呉高、都指揮使楊文と与に兵を率いて永平を囲み、東より北平を動かさんとしたりという。二子の護国の意の誠なるも知るべし。それ勝敗は兵家の常なり。蘇東坡が所謂善く奕する者も日に勝って日に敗るゝものなり。然るに一敗の故を以て、老将を退け、驕児を挙ぐ。燕王手を拍って笑って、李九江は膏梁の豎子のみ、未だ嘗て兵に習い陣を見ず、輙ち予うるに五十万の衆を以てす、是自ら之を坑にする也、と云えるもの、酷語といえども当らずんばあらず。炳文を召して回らしめたる、まことに歎ずべし。
景隆小字は九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦むるに因るも、又別に所以有るなり。景隆は李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経を治め、其の家居するや恂々として儒者の如く、而も甲を擐き馬に騎り槊を横たえて陣に臨むや、踔厲風発、大敵に遇いて益壮に、年十九より軍に従いて数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重するところとなれるのみならず、西安に水道を設けては人を利し、応天に田租を減じては民を恵み、誅戮を少くすることを勧め、宦官を盛んにすることを諫め、洪武十五年、太祖日本懐良王の書に激して之を討たんとせるを止め、(懐良王、明史に良懐に作るは蓋し誤也。懐良王は、後醍醐帝の皇子、延元三年、征西大将軍に任じ、筑紫を鎮撫す。菊池武光等之に従い、興国より正平に及び、勢威大に張る。明の太祖の辺海毎に和寇に擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以て威嚇するや、王答うるに書を以てす。其略に曰く、乾坤は浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪なり、諸邦を作して以て分守す。蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也。吾聞く、天朝戦を興すの策ありと、小邦亦敵を禦ぐの図あり。豈肯て途に跪いて之を奉ぜんや。之に順うも未だ其生を必せず、之に逆うも未だ其死を必せず、相逢う賀蘭山前、聊以て博戯せん、吾何をか懼れんやと。太祖書を得て慍ること甚だしく、真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和元年に当る。時に王既に今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝の皇子良成王に譲り、筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務をば執りたまわず、年代齟齬するに似たり。然れども王と明との交渉は夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此事我が国に史料全く欠け、大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚にあらず。)一個優秀の風格、多く得可からざるの人なり。洪武十七年、疾を得て死するや、太祖親しく文を為りて祭を致し、岐陽王に追封し、武靖と諡し、太廟に配享したり。景隆は是の如き人の長子にして、其父の蓋世の武勲と、帝室の親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡出でゝ軍を湖広陝西河南に練り、左軍都督府事となりたるほかには、為すところも無く、其功としては周王を執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮にして羊質、所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血を蹀み剣を揮いて進み、創を裹み歯を切って闘うが如き経験は、未だ曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其真を得たりしなり。
李景隆は大兵を率いて燕王を伐たんと北上す。帝は猶北方憂うるに足らずとして意を文治に専らにし、儒臣方孝孺等と周官の法度を討論して日を送る、此間に於て監察御史韓郁(韓郁或は康郁に作る)というもの時事を憂いて疏を上りぬ。其の意、黄子澄斉泰を非として、残酷の豎儒となし、諸王は太祖の遺体なり、孝康の手足なりとなし、之を待つことの厚からずして、周王湘王代王斉王をして不幸ならしめたるは、朝廷の為に計る者の過にして、是れ則ち朝廷激して之を変ぜしめたるなりと為し、諺に曰く、親者之を割けども断たず、疎者之を続げども堅からずと、是殊に理有る也となし、燕の兵を挙ぐるに及びて、財を糜し兵を損して而して功無きものは国に謀臣無きに近しとなし、願わくは斉王を釈し、湘王を封じ、周王を京師に還し、諸王世子をして書を持し燕に勧め、干戈を罷め、親戚を敦うしたまえ、然らずんば臣愚おもえらく十年を待たずして必ず噬臍の悔あらん、というに在り。其の論、彝倫を敦くし、動乱を鎮めんというは可なり、斉泰黄子澄を非とするも可なり、たゞ時既に去り、勢既に成るの後に於て、此言あるも、嗚呼亦晩かりしなり。帝遂に用いたまわず。
景隆の炳文に代るや、燕王其の五十万の兵を恐れずして、其の五敗兆を具せるを指摘し、我之を擒にせんのみ、と云い、諸将の言を用いずして、北平を世子に守らしめ、東に出でゝ、遼東の江陰侯呉高を永平より逐い、転じて大寧に至りて之を抜き、寧王を擁して関に入る。景隆は燕王の大寧を攻めたるを聞き、師を帥いて北進し、遂に北平を囲みたり。北平の李譲、梁明等、世子を奉じて防守甚だ力むと雖も、景隆が軍衆くして、将も亦雄傑なきにあらず、都督瞿能の如き、張掖門に殺入して大に威勇を奮い、城殆ど破る。而も景隆の器の小なる、能の功を成すを喜ばず、大軍の至るを俟ちて倶に進めと令し、機に乗じて突至せず。是に於て守る者便を得、連夜水を汲みて城壁に灌げば、天寒くして忽ち氷結し、明日に至れば復登ることを得ざるが如きことありき。燕王は予め景隆を吾が堅城の下に致して之を殱さんことを期せしに、景隆既に彀に入り来りぬ、何ぞ箭を放たざらんや。大寧より還りて会州に至り、五軍を立てゝ、張玉を中軍に、朱能を左軍に、李彬を右軍に、徐忠を前軍に、降将房寛を後軍に将たらしめ、漸く南下して京軍と相対したり。十一月、京軍の先鋒陳暉、河を渡りて東す。燕王兵を率いて至り、河水の渡り難きを見て黙祷して曰く、天若し予を助けんには、河水氷結せよと。夜に至って氷果して合す。燕の師勇躍して進み、暉の軍を敗る。景隆の兵動く。燕王左右軍を放って夾撃し、遂に連りに其七営を破って景隆の営に逼る。張玉等も陣を列ねて進むや、城中も亦兵を出して、内外交攻む。景隆支うる能わずして遁れ、諸軍も亦粮を棄てゝ奔る。燕の諸将是に於て頓首して王の神算及ぶ可からずと賀す。王曰く、偶中のみ、諸君の言えるところは皆万全の策なりしなりと。前には断じて後には謙す。燕王が英雄の心を攬るも巧なりというべし。
景隆が大軍功無くして、退いて徳州に屯す。黄子澄其敗を奏せざるを以て、十二月に至って却って景隆に太子太師を加う。燕王は南軍をして苦寒に際して奔命に疲れしめんが為に、師を出して広昌を攻めて之を降す。
前に疏を上りて、諸藩を削るを諫めたる高巍は、言用いられず、事遂に発して天下動乱に至りたるを慨き、書を上りて、臣願わくは燕に使して言うところあらんと請い、許されて燕に至り、書を燕王に上りたり。其略に曰く、太祖升遐したまいて意わざりき大王と朝廷と隙あらんとは。臣おもえらく干戈を動かすは和解に若かずと。願わくは死を度外に置きて、親しく大王に見えん。昔周公流言を聞きては、即ち位を避けて東に居たまいき。若し大王能く首計の者を斬りたまい、護衛の兵を解き、子孫を質にし、骨肉猜忌の疑を釈き、残賊離間の口を塞ぎたまわば、周公と隆んなることを比すべきにあらずや。然るを慮こゝに及ばせたまわで、甲兵を興し彊宇を襲いたもう。されば事に任ずる者、口に藉くことを得て、殿下文臣を誅することを仮りて実は漢の呉王の七国に倡えて晁錯を誅せんとしゝに効わんと欲したもうと申す。今大王北平に拠りて数群を取りたもうと雖も、数月以来にして、尚蕞爾たる一隅の地を出づる能わず、較ぶるに天下を以てすれば、十五にして未だ其一をも有したまわず。大王の将士も、亦疲れずといわんや。それ大王の統べたもう将士も、大約三十万には過ぎざらん。大王と天子と、義は則ち君臣たり、親は則ち骨肉たるも、尚離れ間たりたもう、三十万の異姓の士、など必ずしも終身困迫して殿下の為に死し申すべきや。巍が念こゝに至るごとに大王の為に流涕せずんばあらざる也。願わくは大王臣が言を信じ、上表謝罪し、甲を按き兵を休めたまわば、朝廷も必ず寛宥あり、天人共に悦びて、太祖在天の霊も亦安んじたまわん。倘迷を執りて回らず、小勝を恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、為す可からざるの悖事を僥倖するを敢てしたまわば、臣大王の為に言すべきところを知らざる也。況んや、大喪の期未だ終らざるに、無辜の民驚きを受く。仁を求め国を護るの義と、逕庭あるも亦甚し。大王に朝廷を粛清するの誠意おわすとも、天下に嫡統を簒奪するの批議無きにあらじ。もし幸にして大王敗れたまわずして功成りたまわば、後世の公論、大王を如何の人と謂い申すべきや。巍は白髪の書生、蜉蝣の微命、もとより死を畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝の御恩を蒙りて、臣が孝行を旌したもうを辱くす。巍既に孝子たる、当に忠臣たるべし。孝に死し忠に死するは巍の至願也。巍幸にして天下の為に死し、太祖在天の霊に見ゆるを得ば、巍も亦以て愧無かるべし。巍至誠至心、直語して諱まず、尊厳を冒涜す、死を賜うも悔無し、願わくは大王今に於て再思したまえ。と憚るところ無く白しける。されど燕王答えたまわねば、数次書を上りけるが、皆効無かりけり。
巍の書、人情の純、道理の正しきところより言を立つ。知らず燕王の此に対して如何の感を為せるを。たゞ燕王既に兵を起し戦を開く、巍の言善しと雖も、大河既に決す、一葦の支え難きが如し。しかも巍の誠を尽し志を致す、其意と其言と、忠孝敦厚の人たるに負かず。数百歳の後、猶読む者をして愴然として感ずるあらしむ。魏と韓郁とは、建文の時に於て、人情の純、道理の正に拠りて、言を為せる者也。
年は新になりて建文二年となりぬ。燕は洪武三十三年と称す。燕王は正月の酷寒に乗じて、蔚州を下し、大同を攻む。景隆師を出して之を救わんとすれば、燕王は速く居庸関より入りて北平に還り、景隆の軍、寒苦に悩み、奔命に疲れて、戦わずして自ら敗る。二月、韃靼の兵来りて燕を助く。蓋し春暖に至れば景隆の来り戦わんことを慮りて、燕王の請えるなり。春闌にして、南軍勢を生じぬ。四月朔、景隆兵を徳州に会す、郭英、呉傑は真定に進みぬ。帝は巍国公徐輝祖をして、京軍三万を帥いて疾馳して軍に会せしむ。景隆、郭英、呉傑等、軍六十万を合し、百万と号して白溝河に次す。南軍の将平安驍勇にして、嘗て燕王に従いて塞北に戦い、王の兵を用いるの虚実を識る。先鋒となりて燕に当り、矛を揮いて前む。瞿能父子も亦踴躍して戦う。二将の向う所、燕兵披靡す。夜、燕王、張玉を中軍に、朱能を左軍に、陳亨を右軍に、丘福を騎兵に将とし、馬歩十余万、黎明に畢く河を渡る。南軍の瞿能父子、平安等、房寛の陣を擣いて之を破る。張玉等之を見て懼色あり。王曰く、勝負は常事のみ、日中を過ぎずして必ず諸君の為に敵を破らんと。既ち精鋭数千を麾いて敵の左翼に突入す。王の子高煦、張玉等の軍を率いて斉しく進む。両軍相争い、一進一退す、喊声天に震い 飛矢雨の如し。王の馬、三たび創を被り、三たび之を易う。王善く射る。射るところの箭、三箙皆尽く。乃ち剣を提げて、衆に先だちて敵に入り、左右奮撃す。剣鋒折れ欠けて、撃つに堪えざるに至る。瞿能と相遇う。幾んど能の為に及ばる。王急に走りて隄に登り、佯って鞭を麾いで、後継者を招くが如くして纔に免れ、而して復衆を率いて馳せて入る。平安善く鎗刀を用い、向う所敵無し。燕将陳亨、安の為に斬られ、徐忠亦創を被る。高煦急を見、精騎数千を帥い、前んで王と合せんとす。瞿能また猛襲し、大呼して曰く、燕を滅せんと。たま〳〵旋風突発して、南軍の大将の大旗を折る。南軍の将卒相視て驚き動く。王これに乗じ、勁騎を以て繞って其後に出で、突入馳撃し、高煦の騎兵と合し、瞿能父子を乱軍の裏に殺す。平安は朱能と戦って亦敗る。南将兪通淵、勝聚等皆死す。燕兵勢に乗じて営に逼り火を縦つ。急風火を扇る。是に於て南軍大に潰え、郭英等は西に奔り、景隆は南に奔る。器械輜重、皆燕の獲るところとなり、南兵の横尸百余里に及ぶ。所在の南師、聞く者皆解体す。此戦、軍を全くして退く者、徐輝祖あるのみ。瞿能、平安等、驍将無きにあらずと雖も、景隆凡器にして将材にあらず。燕王父子、天縦の豪雄に加うるに、張玉、朱能、丘福等の勇烈を以てす。北軍の克ち、南軍の潰ゆる、まことに所以ある也。
山東参政鉄鉉は儒生より身を起し、嘗て疑獄を断じて太祖の知を受け、鼎石という字を賜わりたる者なり。北征の師の出づるや、餉を督して景隆の軍に赴かんとしけるに、景隆の師潰えて、諸州の城堡皆風を望みて燕に下るに会い、臨邑に次りたるに、参軍高巍の南帰するに遇いたり。偕に是れ文臣なりと雖も、今武事の日に当り、目前に官軍の大に敗れて、賊威の熾んに張るを見る、感憤何ぞ極まらん。巍は燕王に書を上りしも効無かりしを歎ずれば、鉉は忠臣の節に死する少きを憤る。慨世の哭、憂国の涙、二人相持して、泫然として泣きしが、乃ち酒を酌みて同に盟い、死を以て自ら誓い、済南に趨りてこれを守りぬ。景隆は奔りて済南に依りぬ。燕王は勝に乗じて諸将を進ましめぬ。燕兵の済南に至るに及びて、景隆尚十余万の兵を有せしが、一戦に復敗られて、単騎走り去りぬ。燕師の勢愈旺んにして城を屠らんとす。鉄鉉、左都督盛庸、右都督陳暉等と力を尽して捍ぎ、志を堅うして守り、日を経れど屈せず。事聞えて、鉉を山東布政司使と為し、盛庸を大将軍と為し、陳暉を副将軍に陞す。景隆は召還されしが、黄子澄、練子寧は之を誅せずんば何を以て宗社に謝し将士を励まさんと云いしも、帝卒に問いたまわず。燕王は済南を囲むこと三月に至り、遂に下すこと能わず。乃ち城外の諸渓の水を堰きて灌ぎ、一城の士を魚とせんとす。城中是に於て大に安んぜず。鉉曰く、懼るゝ勿れ、吾に計ありと。千人を遣りて詐りて降らしめ、燕王を迎えて城に入らしめ、予て壮士を城上に伏せて、王の入るを侯いて大鉄板を墜して之を撃ち、又別に伏を設けて橋を断たしめんとす。燕王計に陥り、馬に乗じ蓋を張り、橋を渡り城に入る。大鉄板驟に下る。たゞ少しく早きに失して、王の馬首を傷つく。王驚きて馬を易えて馳せて出づ。橋を断たんとす。橋甚だ堅し。未だ断つに及ばずして、王竟に逸し去る。燕王幾んど死して幸に逃る。天助あるものゝ如し。王大に怒り、巨礟を以て城を撃たしむ 城壁破れんとす。鉉愈屈せず、太祖高皇帝の神牌を書して城上に懸けしむ。燕王敢て撃たしむる能わず。鉉又数々不意に出でゝ壮士をして燕兵を脅かさしむ。燕王憤ること甚しけれども、計の出づるところ無し。道衍書を馳せて曰く、師老いたり、請う暫らく北平に還りて後挙を図りたまえと。王囲を撤して還る。鉉と盛庸等と勢に乗じて之を追い、遂に徳州を回復し、官軍大に振う。鉉是に於て擢でられて兵部尚書となり、盛庸は歴城侯となりたり。
盛庸は初め耿炳文に従い、次で李景隆に従いしが、洪武中より武官たりしを以て、兵馬の事に習う。済南の防禦、徳州の回復に、其の材を認められて、平燕将軍となり、陳暉、平安、馬溥、徐真等の上に立ち、呉傑、徐凱等と与に燕を伐つの任に当りぬ。庸乃ち呉傑、平安をして西の方定州を守らしめ、徐凱をして東の方滄州に屯せしめ、自ら徳州に駐まり、猗角の勢を為して漸く燕を蹙めんとす。燕王、徳州の城の、修築已に完く、防備も亦厳にして破り難く、滄州の城の潰え圯るゝこと久しくして破り易きを思い、之を下して庸の勢を殺がんと欲す。乃ち陽に遼東を征するを令して、徐凱をして備えざらしめ、天津より直沽に至り、俄に河に沿いて南下するを令す。軍士猶知らず、其の東を征せんとして而して南するを疑う。王厳命して疾行すること三百里、途に偵騎に遇えば、尽く之を殺し、一昼夜にして暁に比びて滄州に至る。凱の燕師の到れるを覚りし時には、北卒四面より急攻す。滄州の衆皆驚きて防ぐ能わず。張玉の肉薄して登るに及び、城遂に抜かれ、凱と程暹、兪琪、趙滸等皆獲らる。これ実に此年十月なり。
十二月、燕王河に循いて南す。盛庸兵を出して後を襲いしが及ばざりき。王遂に臨清に至り、館陶に屯し、次で大名府を掠め、転じて汶上に至り、済寧を掠めぬ。盛庸と鉄鉉とは兵を率いて其後を躡み、東昌に営したり。此時北軍却って南に在り南軍却って北に在り。北軍南軍相戦わざるを得ざるの勢成りて東昌の激戦は遂に開かれぬ。初は官軍の先鋒孫霖、燕将朱栄、劉江の為に敗れて走りしが、両軍持重して、主力動かざること十日を越ゆ。燕師いよ〳〵東昌に至るに及んで、盛庸、鉄鉉牛を宰して将士を犒い、義を唱え衆を励まし、東昌の府城を背にして陣し、密に火器毒弩を列ねて、粛として敵を待ったり。燕兵もと勇にして毎戦毎勝す。庸の軍を見るや鼓譟して薄る。火器電の如くに発し、毒弩雨の如く注げば、虎狼鴟梟、皆傷ついて倒る。又平安の兵の至るに会う。庸是に於て兵を麾いて大に戦う。燕王精騎を率いて左翼を衝く。左翼動かずして入る能わず。転じて中堅を衝く。庸陣を開いて王の入るに縦せ、急に閉じて厚く之を囲む。燕王衝撃甚だ力むれども出づることを得ず、殆んど其の獲るところとならんとす。朱能、周長等、王の急を見、韃靼騎兵を縦って庸の軍の東北角を撃つ。庸之を禦がしめ、囲やゝ緩む。能衝いて入って死戦して王を翼けて出づ。張玉も亦王を救わんとし、王の已に出でたるを知らず、庸の陣に突入し、縦横奮撃し、遂に悪闘して死す。官軍勝に乗じ、残獲万余人、燕軍大に敗れて奔る。庸兵を縦って之を追い、殺傷甚だ多し。此役や、燕王数々危し、諸将帝の詔を奉ずるを以て、刃を加えず。燕王も亦之を知る。王騎射尤も精し、追う者王を斬るを敢てせずして、王の射て殺すところとなる多し。適々高煦、華衆等を率いて至り、追兵を撃退して去る。
燕王張玉の死を聞きて痛哭し、諸将と語るごとに、東昌の事に及べば、曰く、張玉を失うより、吾今に至って寝食安からずと。涕下りて已まず。諸将も皆泣く。後功臣を賞するに及びて、張玉を第一とし、河間王を追封す。
初め燕王の師の出づるや、道衍曰く、師は行いて必ず克たん、たゞ両日を費すのみと。東昌より還るに及びて、王多く精鋭を失い、張玉を亡うを以て、意稍休まんことを欲す。道衍曰く、両日は昌也、東昌の事了る、此より全勝ならんのみと。益々士を募り勢を鼓す。建文三年二月、燕王自ら文を撰し、流涕して陣亡の将士張玉等を祭り、服するところの袍を脱して之を焚き、以て亡者に衣するの意をあらわし、曰く、其れ一糸と雖もや、以て余が心を識れと。将士の父兄子弟之を見て、皆感泣して、王の為に死せんと欲す。
燕王遂に復師を帥いて出づ。諸将士を諭して曰く、戦の道、死を懼るゝ者は必ず死し、生を捐つる者は必ず生く、爾等努力せよと。三月、盛庸と來河に遇う。燕将譚淵、董中峰等、南将荘得と戦って死し、南軍亦荘得、楚知、張皀旗等を失う。日暮れ、各兵を斂めて営に入る。燕王十余騎を以て庸の営に逼って野宿す。天明く、四面皆敵なり。王従容として去る。庸の諸将相顧みて愕き眙るも、天子の詔、朕をして叔父を殺すの名を負わしむる勿れの語あるを以て、矢を発つを敢てせず。此日復戦う。辰より未に至って、両軍互に勝ち互に負く。忽にして東北風大に起り、砂礫面を撃つ。南軍は風に逆い、北軍は風に乗ず。燕軍吶喊鉦鼓の声地を振い、庸の軍当る能わずして大に敗れ走る。燕王戦罷んで営に還るに、塵土満面、諸将も識る能わず、語声を聞いて王なるを覚りしという。王の黄埃天に漲るの中に在って馳駆奔突して叱咜号令せしの状、察す可きなり。
呉傑、平安は、盛庸の軍を援けんとして、真定より兵を率いて出でしが、及ばざること八十里にして庸の敗れしことを聞きて還りぬ。燕王、真定の攻め難きを以て、燕軍は回出して糧を取り、営中備無しと言わしめ、傑等を誘う。傑等之を信じて、遂に滹沱河に出づ。王河を渡り流に沿いて行くこと二十里、傑の軍と藁城に遇う。実に閏三月己亥なり。翌日大に戦う。燕将薛禄、奮闘甚だ力む。王驍騎を率いて、傑の軍に突入し、大呼猛撃す。南軍箭を飛ばす雨の如く、王の建つるところの旗、集矢蝟毛の如く、燕軍多く傷つく。而も王猶屈せず、衝撃愈急なり。会また暴飇起り、樹を抜き屋を飜す。燕軍之に乗じ、傑等大に潰ゆ。燕兵追いて真定城下に至り、驍将鄧戩、陳鵰等を擒にし、斬首六万余級、尽く軍資器械を得たり。王其の旗を北平に送り、世子に諭して曰く、善く之を蔵し、後世をして忘る勿らしめよと。旗世子の許に至る。時に降将顧成、坐に在りて之を見る。成は操舟を業とする者より出づ。魁岸勇偉、膂力絶倫、満身の花文、人を驚かして自ら異にす。太祖に従って、出入離れず。嘗て太祖に随って出でし時、巨舟沙に膠して動かず。成即便舟を負いて行きしことあり。鎮江の戦に、執えられて縛せらるゝや、勇躍して縛を断ち、刀を持てる者を殺して脱帰し、直に衆を導いて城を陥しゝことあり。勇力察す可し。後戦功を以って累進して将となり、蜀を征し、雲南を征し、諸蛮を平らげ、雄名世に布く。建文元年耿炳文に従いて燕と戦う。炳文敗れて、成執えらる。燕王自ら其縛を解いて曰く、皇考の霊、汝を以て我に授くるなりと。因って兵を挙ぐるの故を語る。成感激して心を帰し、遂に世子を輔けて北平を守る。然れども多く謀画を致すのみにして、終に兵に将として戦うを肯んぜす、兵器を賜うも亦受けず。蓋し中年以後、書を読んで得るあるに因る。又一種の人なり。後、太子高熾の羣小の為に苦めらるるや、告げて曰く、殿下は但当に誠を竭して孝敬に、孳々として民を恤みたもうべきのみ、万事は天に在り、小人は意を措くに足らずと。識見亦高しというべし。成は是の如き人なり。旗を見るや、愴然として之を壮とし、涙下りて曰く、臣少きより軍に従いて今老いたり、戦陣を歴たること多きも、未だ嘗て此の如きを見ざるなりと。水滸伝中の人の如き成をして此言を為さしむ、燕王も亦悪戦したりというべし。而して燕王の豪傑の心を攬る所以のもの、実に王の此の勇往邁進、艱危を冒して肯て避けざるの雄風にあらずんばあらざる也。
四月、燕兵大名に次す。王、斉泰と黄子澄との斥けらるゝを聞き、書を上りて、呉傑、盛庸、平安の衆を召還せられんことを乞い、然らずんば兵を釈く能わざるを言う。帝大理少卿薛嵓を遣りて、燕王及び諸将士の罪を赦して、本国に帰らしむることを詔し、燕軍を散ぜしめて、而して大軍を以て其後に躡かしめんとす。嵓到りて却って燕王の機略威武の服するところとなり、帰って燕王の語直にして意誠なるを奏し、皇上権奸を誅し、天下の兵を散じたまわば、臣単騎闕下に至らんと、云える燕王の語を奏す。帝方孝孺に語りたまわく、誠に嵓の言の如くならば、斉黄我を誤るなりと。孝孺悪みて曰く、嵓の言、燕の為に游説するなりと。五月、呉傑、平安、兵を発して北平の糧道を断つ。燕王、指揮武勝を遣りて、朝廷兵を罷むるを許したまいて、而して糧を絶ち北を攻めしめたもうは、前詔と背馳すと奏す。帝書を得て兵を罷むるの意あり。方孝孺に語りたまわく、燕王は孝康皇帝同産の弟なり、朕の叔父なり、吾他日宗廟神霊に見えざらんやと。孝孺曰く、兵一たび散すれば、急に聚む可からず。彼長駆して闕を犯さば、何を以て之を禦がん、陛下惑いたもうなかれと。勝を錦衣獄に下す。燕王聞て大に怒る。孝孺の言、真に然り、而して建文帝の情、亦敦しというべし。畢竟南北相戦う、調停の事、復為す能わざるの勢に在り、今に於て兵戈の惨を除かんとするも、五色の石、聖手にあらざるよりは、之を錬ること難きなり。
此月燕王指揮李遠をして軽騎六千を率いて徐沛に詣り、南軍の資糧を焚かしむ。李遠、丘福、薛禄と策応して、能く功を収め、糧船数万艘、糧数百万を焚く。軍資器械、倶に煨燼となり、河水尽く熱きに至る。京師これを聞きて大に震駭す。
七月、平安兵を率いて真定より北平に到り、平村に営す。平村は城を距る五十里のみ。燕王の世子、危きを告ぐ。王劉江を召して策を問う。江乃ち兵を率いて滹沱を渡り、旗幟を張り、火炬を挙げ、大に軍容を壮にして安と戦う。安の軍敗れ、安還って真定に走る。
方孝孺の門人林嘉猷、計をもって燕王父子をして相疑わしめんとす。計行われずして已む。
盛庸等、大同の守将房昭に檄し、兵を引いて紫荊関に入り、保定の諸県を略し、兵を易州の西水寨に駐め、険に拠りて持久の計を為し、北平を窺わしめんとす。燕王これを聞きて、保定失われんには北平危しとて、遂に令を下して師を班す。八月より九月に至り、燕兵西水寨を攻め、十月真定の援兵を破り、併せて寨を破る。房昭走りて免る。
十一月、駙馬都尉梅殷をして淮安を鎮守せしむ。殷は太祖の女の寧国公主に尚す。太祖の崩ぜんとするや、其の側に侍して顧命を受けたる者は、実に帝と殷となり。太祖顧みて殷に語りたまわく、汝老成忠信、幼主を託すべしと。誓書および遺詔を出して授けたまい、敢て天に違う者あらば、朕が為に之を伐て、と言い訖りて崩れたまえるなり。燕の勢漸く大なるに及びて、諸将観望するもの多し。乃ち淮南の民を募り、軍士を合して四十万と号し、殷に命じて之を統べて、淮上に駐まり、燕師を扼せしむ。燕王これを聞き、殷に書を遣り、香を金陵に進むるを以て辞と為す。殷答えて曰く、進香は皇考禁あり、遵う者は孝たり、遵わざる者は不孝たり、とて使者の耳鼻を割き、峻厳の語をもて斥く。燕王怒ること甚し。
燕王兵を起してより既に三年、戦勝つと雖も、得るところは永平・大寧・保定にして、南軍出没して已まず、得るもまた棄つるに至ること多く、死傷少からず。燕王こゝに於て、太息して曰く、頻年兵を用い、何の時か已む可けん、まさに江に臨みて一決し、復返顧せざらんと。時に京師の内臣等、帝の厳なるを怨みて、燕王を戴くに意ある者あり。燕に告ぐるに金陵の空虚を以てし、間に乗じて疾進すべしと勧む。燕王遂に意を決して十二月に至りて北平を出づ。
四年正月、燕の先鋒李遠、徳州の裨将葛進を滹沱河に破り、朱能もまた平安の将賈栄等を衡水に破りて之を擒にす。燕王乃ち館陶より渡りて、東阿を攻め、汶上を攻め、沛県を攻めて之を略し、遂に徐州に進み、城兵を威して敢て出でざらしめて南行し、三月宿州に至り、平安が馬歩兵四万を率いて追躡せるを淝河に破り、平安の麾下の番将火耳灰を得たり。此戦や火耳灰矟を執って燕王に逼る、相距るたゞ十歩ばかり、童信射って、其馬に中つ。馬倒れて王免れ、火耳灰獲らる。王即便火耳灰を釈し、当夜に入って宿衛せしむ。諸将これを危みて言えども、王聴かず。次いで蕭県を略し、淮河の守兵を破る。四月平安小河に営し、燕兵河北に拠る。総兵何福奮撃して、燕将陳文を斬り、平安勇戦して燕将王真を囲む。真身に十余創を被り、自ら馬上に刎ぬ。安いよいよ逼りて、燕王に北坂に遇う。安の槊ほとんど王に及ぶ。燕の番騎指揮王騏、馬を躍らせて突入し、王わずかに脱するを得たり。燕将張武悪戦して敵を却くと雖も、燕軍遂に克たず。是に於て南軍は橋南に駐まり、北軍は橋北に駐まり、相持するもの数日、南軍糧尽きて、蕪を採って食う。燕王曰く、南軍飢えたり、更に一二日にして糧やゝ集まらば破り易からずと。乃ち兵千余を留めて橋を守らしめ、潜に軍を移し、夜半に兵を渡らしめて繞って敵の後に出づ。時に徐輝祖の軍至る。甲戌大に斉眉山に戦う。午より酉に至りて、勝負相当り、燕の驍将李斌死す。燕復遂に克つ能わず。南軍再捷して振い、燕は陳文、王真、韓貴、李斌等を失い、諸将皆懼る。燕王に説いて曰く、軍深く入りたり、暑雨連綿として、淮土湿蒸に、疾疫漸く冒さんとす。小河の東は、平野にして牛羊多く、二麦まさに熟せんとす。河を渡り地を択み、士馬を休息せしめ、隙を観て動くべきなりと。燕王曰く、兵の事は進ありて退無し。勝形成りて而して復北に渡らば、将士解体せざらんや、公等の見る所は、拘攣するのみと。乃ち令を下して曰く、北せんとする者は左せよ、北せざらんとする者は右せよと。諸将多く左に趨る。王大に怒って曰く、公等みずから之を為せと。此時や燕の軍の勢、実に岌々乎として将に崩れんとするの危に居れり。孤軍長駆して深く敵地に入り、腹背左右、皆我が友たらざる也、北平は遼遠にして、而も本拠の四囲亦皆敵たる也。燕の軍戦って克てば則ち可、克たずんば自ら支うる無き也。而して当面の敵たる何福は兵多くして力戦し、徐輝祖は堅実にして隙無く、平安は驍勇にして奇を出す。我軍は再戦して再挫し、猛将多く亡びて、衆心疑懼す。戦わんと欲すれば力足らず、帰らんとすれば前功尽く廃りて、不振の形勢新に見われんとす。将卒を強いて戦わしめんとすれば人心の乖離、不測の変を生ずる無きを保せず。諸将争って左するを見て王の怒るも亦宜なりというべし。然れども此時の勢、ただ退かざるあるのみ、燕王の衆意を容れずして、敢然として奮戦せんと欲するもの、機を看る明確、事を断ずる勇決、実に是れ豪傑の気象、鉄石の心膓を見わせるものならずして何ぞや。時に坐に朱能あり、能は張玉と共に初より王の左右の手たり。諸将の中に於て年最も少しと雖も、善戦有功、もとより人の敬服するところとなれるもの、身の長八尺、年三十五、雄毅開豁、孝友敦厚の人たり。慨然として席を立ち、剣を按じて右に趨きて曰く、諸君乞うらくは勉めよ、昔漢高は十たび戦って九たび敗れぬれど終に天下を有したり、今事を挙げてより連に勝を得たるに、小挫して輙ち帰らば、更に能く北面して人に事えんや。諸君雄豪誠実、豈退心あるべけんや、と云いければ、諸将相見て敢て言うものあらず、全軍の心機一転して、生死共に王に従わんとぞ決しける。朱能後に龍州に死して、東平王に追封せらるゝに至りしもの、豈偶然ならんや。
燕軍の勢非にして、王の甲を解かざるもの数日なりと雖も、将士の心は一にして兵気は善変せるに反し、南軍は再捷すと雖も、兵気は悪変せり。天意とや云わん、時運とや云わん。燕軍の再敗せること京師に聞えければ、廷臣の中に、燕今は且に北に還るべし、京師空虚なり、良将無かるべからず、と曰う者ありて、朝議徐輝祖を召還したもう。輝祖已むを得ずして京に帰りければ、何福の軍の勢殺げて、単糸の紉少く、孤掌の鳴り難き状を現わしぬ。加うるに南軍は北軍の騎兵の馳突に備うる為に塹濠を掘り、塁壁を作りて営と為すを常としければ、軍兵休息の暇少く、往々虚しく人力を耗すの憾ありて、士卒困罷退屈の情あり。燕王の軍は塹塁を為らず、たゞ隊伍を分布し、陣を列して門と為す。故に将士は営に至れば、即ち休息するを得、暇あれば王射猟して地勢を周覧し、禽を得れば将士に頒ち、塁を抜くごとに悉く獲るところの財物を賚う。南軍と北軍と、軍情おのずから異なること是の如し。一は人役に就くを苦み、一は人用を為すを楽む。彼此の差、勝敗に影響せずんばあらず。
かくて対塁日を累ぬる中、南軍に糧餉大に至るの報あり。燕王悦んで曰く、敵必ず兵を分ちて之を護らん、其の兵分れて勢弱きに乗じなば、如何で能く支えんや、と朱栄、劉江等を遣りて、軽騎を率いて、餉道を截らしめ、又游騎をして樵採を妨げ擾さしむ。何福乃ち営を霊壁に移す。南軍の糧五方、平安馬歩六万を帥いて之を護り、糧を負うものをして中に居らしむ。燕王壮士万人を分ちて敵の援兵を遮らしめ、子高煦をして兵を林間に伏せ、敵戦いて疲れなば出でゝ撃つべしと命じ、躬ずから師を率いて逆え戦い、騎兵を両翼と為す。平安軍を引いて突至し、燕兵千余を殺しゝも、王歩軍を麾いて縦撃し、其陣を横貫し、断って二となしゝかば、南軍遂に乱れたり。何福等此を見て安と合撃し、燕兵数千を殺して之を却けしが、高煦は南軍の罷れたるを見、林間より突出し、新鋭の勢をもて打撃を加え、王は兵を還して掩い撃ちたり。是に於て南軍大に敗れ、殺傷万余人、馬三千余匹を喪い、糧餉尽く燕の師に獲らる。福等は余衆を率いて営に入り、塁門を塞ぎて堅守しけるが、福此夜令を下して、明旦砲声三たびするを聞かば、囲を突いて出で、糧に淮河に就くべし、と示したり。然るに此も亦天か命か、其翌日燕軍霊壁の営を攻むるに当って、燕兵偶然三たび砲を放ったり。南軍誤って此を我砲となし、争って急に門に趨きしが、元より我が号砲ならざれば、門は塞がりたり。前者は出づることを得ず、後者は急に出でんとす。営中紛擾し、人馬滾転す。燕兵急に之を撃って、遂に営を破り、衝撃と包囲と共に敏捷を極む。南軍こゝに至って大敗収む可からず。宗垣、陳性善、彭与明は死し、何福は遁れ走り、陳暉、平安、馬溥、徐真、孫晟、王貴等、皆執えらる。平安の俘となるや、燕の軍中歓呼して地を動かす。曰く、吾等此より安きを獲んと。争って安を殺さんことを請う。安が数々燕兵を破り、驍将を斬る数人なりしを以てなり。燕王其の材勇を惜みて許さず。安に問いて曰く、淝河の戦、公の馬躓かずんば、何以に我を遇せしぞと。安の曰く、殿下を刺すこと、朽を拉ぐが如くならんのみと。王太息して曰く、高皇帝、好く壮士を養いたまえりと。勇卒を選みて、安を北平に送り、世子をして善く之を視せしむ。安後永楽七年に至りて自殺す。安等を喪いてより、南軍大に衰う。黄子澄、霊壁の敗を聞き、胸を撫して大慟して曰く、大事去る、吾輩万死、国を誤るの罪を贖うに足らずと。
五月、燕兵泗州に至る。守将周景初降る。燕の師進んで淮に至る。盛庸防ぐ能わず、戦艦皆燕の獲るところとなり、盱眙陥れらる。燕王諸将の策を排して、直に揚州に趨く。揚州の守将王礼と弟宗と、監察御史王彬を縛して門を開いて降る。高郵、通泰、儀真の諸城、亦皆降り、北軍の艦船江上に往来し、旗鼓天を蔽うに至る。朝廷大臣、自ら全うするの計を為して、復立って争わんとする者無し。方孝孺、地を割きて燕に与え、敵の師を緩うして、東南の募兵の至るを俟たんとす。乃ち慶城郡主を遣りて和を議せしむ。郡主は燕王の従姉なり。燕王聴かずして曰く、皇考の分ちたまえる吾地も且保つ能わざらんとせり、何ぞ更に地を割くを望まん、たゞ奸臣を得るの後、孝陵に謁せんと。六月、燕師浦子口に至る。盛庸等之を破る。帝都督僉事陳瑄を遣りて舟師を率いて庸を援けしむるに、瑄却って燕に降り、舟を具えて迎う。燕王乃ち江神を祭り、師を誓わしめて江を渡る。舳艫相銜みて、金鼓大に震う。盛庸等海舟に兵を列せるも、皆大に驚き愕く。燕王諸将を麾き、鼓譟して先登す。庸の師潰え、海舟皆其の得るところとなる。鎮江の守将童俊、為す能わざるを覚りて燕に降る。帝、江上の海舟も敵の用を為し、鎮江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱して計を方孝孺に問う。孝孺民を駆りて城に入れ、諸王をして門を守らしむ。李景隆等燕王に見えて割地の事を説くも、王応ぜず。勢いよ〳〵逼る。群臣或は帝に勧むるに淅に幸するを以てするあり、或は湖湘に幸するに若かずとするあり。方孝孺堅く京を守りて勤王の師の来り援くるを待ち、事若し急ならば、車駕蜀に幸して、後挙を為さんことを請う。時に斉泰は広徳に奔り、黄子澄は蘇州に奔り、徴兵を促す。蓋し二人皆実務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海に航して兵を外洋に徴さんとして果さず。燕将劉保、華聚等、終に朝陽門に至り、備無きを覘いて還りて報ず。燕王大に喜び、兵を整えて進む。金川門に至る。谷王橞と李景隆と、金川門を守る。燕兵至るに及んで、遂に門を開いて降る。魏国公徐輝祖屈せず、師を率いて迎え戦う。克つ能わず。朝廷文武皆倶に降って燕王を迎う。
史を按じて兵馬の事を記す、筆墨も亦倦みたり。燕王事を挙げてより四年、遂に其志を得たり。天意か、人望か、数か、勢か、将又理の応に然るべきものあるか。鄒公瑾等十八人、殿前に於て李景隆を殴って幾ど死せしむるに至りしも、亦益無きのみ。帝、金川門の守を失いしを知りて、天を仰いで長吁し、東西に走り迷いて、自殺せんとしたもう。明史、恭閔恵皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所を知らずと。皇后馬氏は火に赴いて死したもう。丙寅、諸王及び文武の臣、燕王に位に即かんことを請う。燕王辞すること再三、諸王羣臣、頓首して固く請う。王遂に奉天殿に詣りて、皇帝の位に即く。
是より先建文中、道士ありて、途に歌って曰く、
燕を逐ふ莫れ、
燕を逐ふ莫れ。
燕を逐へば、日に高く飛び、
高く飛びで、帝畿に上らん。
是に至りて人其言の応を知りぬ。燕王今は帝たり、宮人内侍を詰りて、建文帝の所在を問いたもうに、皆馬皇后の死したまえるところを指して応う。乃ち屍を煨燼中より出して、之を哭し、翰林侍読王景を召して、葬礼まさに如何すべき、と問いたもう。景対えて曰く、天子の礼を以てしたもうべしと。之に従う。
建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟号を去り、旧の諡に仍りて、懿文皇太子と号し、建文帝の弟呉王允熥を降して広沢王とし、衛王允熞を懐恩王となし、除王允凞を敷恵王となし、尋で復庶人と為ししが、諸王後皆其死を得ず。建文帝の少子は中都広安宮に幽せられしが、後終るところを知らず。
魏国公徐輝祖、獄に下さるれども屈せず、諸武臣皆帰附すれども、輝祖始終帝を戴くの意無し。帝大に怒れども、元勲国舅たるを以て誅する能わず、爵を削って之を私第に幽するのみ。輝祖は開国の大功臣たる中山王徐達の子にして、雄毅誠実、父達の風骨あり。斉眉山の戦、大に燕兵を破り、前後数戦、毎に良将の名を辱めず。其姉は即ち燕王の妃にして、其弟増寿は京師に在りて常に燕の為に国情を輸せるも、輝祖独り毅然として正しきに拠る。端厳の性格、敬虔の行為、良将とのみ云わんや、有道の君子というべきなり。
兵部尚書鉄鉉、執えられて京に至る。廷中に背立して、帝に対わず、正言して屈せず、遂に寸磔せらる。死に至りて猶罵るを以て、大鑊に油熬せらるゝに至る。参軍断事高巍、かつて曰く、忠に死し孝に死するは、臣の願なりと。京城破れて、駅舎に縊死す。礼部尚書陳廸、刑部尚書暴昭、礼部侍郎黄観、蘇州知府姚善、翰林修譚、王叔英、翰林王艮、淅江按察使王良、兵部郎中譚冀、御史曾鳳韶、谷府長史劉璟、其他数十百人、或は屈せずして殺され、或は自死して義を全くす。斉泰、黄子澄、皆執えられ、屈せずして死す。右副都御史練子寧、縛されて闕に至る。語不遜なり。帝大に怒って、命じて其舌を断らしめ、曰く、吾周公の成王を輔くるに傚わんと欲するのみと。子寧手をもて舌血を探り、地上に、成王安在の四字を大書す。帝益怒りて之を磔殺し、宗族棄市せらるゝ者、一百五十一人なり。左僉都御史景清、詭りて帰附し、恒に利剣を衣中に伏せて、帝に報いんとす。八月望日、清緋衣して入る。是より先に霊台奏す、文曲星帝座を犯す急にして色赤しと。是に於て清の独り緋を衣るを見て之を疑う。朝畢る。清奮躍して駕を犯さんとす。帝左右に命じて之を収めしむ。剣を得たり。清志の遂ぐべからざるを知り、植立して大に罵る。衆其歯を抉す。且抉せられて且罵り、血を含んで直に御袍に噀く。乃ち命じて其皮を剥ぎ、長安門に繋ぎ、骨肉を砕磔す。清帝の夢に入って剣を執って追いて御座を繞る。帝覚めて、清の族を赤し郷を籍す。村里も墟となるに至る。
戸部侍郎卓敬執えらる。帝曰く、爾前日諸王を裁抑す、今復我に臣たらざらんかと。敬曰く、先帝若し敬が言に依りたまわば、殿下豈此に至るを得たまわんやと。帝怒りて之を殺さんと欲す。而も其才を憐みて獄に繋ぎ、諷するに管仲・魏徴の事を以てす。帝の意、敬を用いんとする也。敬たゞ涕泣して可かず。帝猶殺すに忍びず。道衍白す、虎を養うは患を遺すのみと。帝の意遂に決す。敬刑せらるゝに臨みて、従容として嘆じて曰く、変宗親に起り、略経画無し、敬死して余罪ありと。神色自若たり。死して経宿して、面猶生けるが如し。三族を誅し、其家を没するに、家たゞ図書数巻のみ。卓敬と道衍と、故より隙ありしと雖も、帝をして方孝孺を殺さゞらしめんとしたりし道衍にして、帝をして敬を殺さしめんとす。敬の実用の才ありて浮文の人にあらざるを看るべし。建文の初に当りて、燕を憂うるの諸臣、各意見を立て奏疏を上る。中に就て敬の言最も実に切なり。敬の言にして用いらるれば、燕王蓋し志を得ざるのみ。万暦に至りて、御史屠叔方奏して敬の墓を表し祠を立つ。敬の著すところ、卓氏遺書五十巻、予未だ目を寓せずと雖も、管仲魏徴の事を以て諷せられしの人、其の書必ず観る可きあらん。
卓敬を容るゝ能わざりしも、方孝孺を殺す勿れと云いし道衍は如何の人ぞや。眇たる一山僧の身を以て、燕王を勧めて簒奪を敢てせしめ、定策決機、皆みずから当り、臣天命を知る、何ぞ民意を問わん、というの豪懐を以て、天下を鼓動し簸盪し、億兆を鳥飛し獣奔せしめて憚らず、功成って少師と呼ばれて名いわれざるに及んで、而も蓄髪を命ぜらるれども肯んぜず、邸第を賜い、宮人を賜われども、辞して皆受けず、冠帯して朝すれども、退けば即ち緇衣、香烟茶味、淡然として生を終り、栄国公を贈られ、葬を賜わり、天子をして親ずから神道碑を製するに至らしむ。又一箇の異人というべし。魔王の如く、道人の如く、策士の如く、詩客の如く、実に袁珙の所謂異僧なり。其の詠ずるところの雑詩の一に曰く、
志士は 苦節を守る、
達人は 玄言に滞らんや。
苦節は 貞くす可からず、
玄言 豈其れ然らんや。
出ると処ると 固より定有り、
語るも黙するも 縁無きにあらず。
伯夷 量 何ぞ隘き、
宣尼 智 何ぞ円なる。
所以に 古 の君子、
命に安んずるを 乃ち賢と為す。
苦節は貞くす可からずの一句、易の爻辞の節の上六に、苦節、貞くすれば凶なり、とあるに本づくと雖も、口気おのずから是道衍の一家言なり。況んや易の貞凶の貞は、貞固の貞にあらずして、貞𠧩の貞とするの説無きにあらざるをや。伯夷量何ぞ隘きというに至っては、古賢の言に拠ると雖も、聖の清なる者に対して、忌憚無きも亦甚しというべし。其の擬古の詩の一に曰く、
良辰 遇ひ難きを念ひて、
筵を開き 綺戸に当る。
会す 我が 同門の友、
言笑 一に何ぞ膴ある。
素絃 清商を発し、
余響 樽爼を繞る。
緩舞 呉姫 出で、
軽謳 越女 来る。
但欲ふ 客の𢬵酔せんことを、
觥籌 何ぞ肯て数へむ。
流年 猋馳を嘆く、
力有るも誰か得て阻めむ。
人生 須らく歓楽すべし、
長に辛苦せしむる勿れ。
擬古の詩、もとより直に抒情の作とす可からずと雖も、此是れ緇を披て香を焚く仏門の人の吟ならんや。其の北固山を経て賦せる懐古の詩というもの、今存するの詩集に見えずと雖も、僧宗泐一読して、此豈釈子の語ならんや、と曰いしという。北固山は宋の韓世忠兵を伏せて、大に金の兀朮を破るの処たり。其詩また想う可き也。劉文貞公の墓を詠ずるの詩は、直に自己の胸臆を攄ぶ。文貞は即ち秉忠にして、袁珙の評せしが如く、道衍の燕に於けるは、秉忠の元に於けるが如く、其の初の僧たる、其の世に立って功を成せる、皆相肖たり。蓋し道衍の秉忠に於けるは、岳飛が関張と比しからんとし、諸葛亮が管楽に擬したるが如く、思慕して而して倣模せるところありしなるべし。詩に曰く、
良驥 色 羣に同じく、
至人 迹 俗に混ず。
知己 苟も遇はざれば、
終世 怨み讟まず。
偉なる哉 蔵春公や、
箪瓢 巌谷に楽む。
一朝 風雲 会す。
君臣 おのづから心腹なり。
大業 計 已に成りて、
勲名 簡牘に照る。
身退いて 即ち長往し、
川流れて 去つて復ること無し。
住城 百年の後、
鬱々たり 盧溝の北。
松楸 烟靄 青く、
翁仲 蘼蕪 緑なり。
強梁も 敢て犯さず、
何人か 敢て樵牧せん。
王侯の 墓累々たるも、
廃すること 草宿をも待たず。
惟公 民望に在り、
天地と 傾覆を同じうす。
斯人 作す可からず、
再拝して 還一哭す。
蔵春は秉忠の号なり。盧溝は燕の城南に在り。此詩劉文貞に傾倒すること甚だ明らかに、其の高風大業を挙げ、而して再拝一哭すというに至る。性情行径相近し、俳徊感慨、まことに止む能わざるものありしならん。又別に、春日劉太保の墓に謁するの七律あり。まことに思慕の切なるを証すというべし。東游せんとして郷中諸友に別るゝの長詩に、
我生れて 四方の志あり、
楽まず 郷井の中を。
茫乎たる 宇宙の内、
飄転して 秋蓬の如し。
孰か云ふ 挾む所無しと、
耿々たるもの 吾胸に存す。
魚の濼に止まるを為すに忍びんや、
禽の籠に囚はるゝを作すを肯ぜんや。
三たび登ると 九たび到ると、
古徳と与に同じうせんと欲す。
去年は 淮楚に客たりき、
今は往かんとす 浙水の東。
身を竦てゝ 雲衢に入る、
一錫 游龍の如し。
笠は衝く 霏々の霧、
衣は払ふ 颼々の風。
の句あり。身を竦てゝの句、颯爽悦ぶ可し。其末に、
江天 正に秋清く、
山水 亦容を改む。
沙鳥は 烟の際に白く、
嶼葉は 霜の前に紅なり。
といえる如き、常套の語なれども、また愛す可し。古徳と同じゅうせんと欲するは、是れ仮にして、淮楚浙東に往来せるも、修行の為なりしや游覧の為なりしや知る可からず。然れども詩情も亦饒き人たりしは疑う可からず。詩に於ては陶淵明を推し、笠沢の舟中に陶詩を読むの作あり、中に淵明を学べる者を評して、
応物は趣 頗合し、
子瞻は 才 当るに足る。
と韋、蘇の二士を挙げ、其他の模倣者を、
里婦 西が顰に効ふ、
咲ふ可し 醜愈張る。
と冷笑し、又公暇に王維、孟浩然、韋応物、柳子厚の詩を読みて、四子を賛する詩を為せる如き、其の好む所の主とするところありて泛濫ならざるを示せり。当時の詩人に於ては、高啓を重んじ、交情また親しきものありしは、奉レ答二高季迪一、寄二高編脩一、賀二高啓生一レ子、訪二高啓鍾山寓舎一辱二詩見一レ貽、雪夜読二高啓詩一等の詩に徴して知るべく、此老の詩眼暗からざるを見る。逃虚集十巻、続集一巻、詩精妙というにあらずと雖も、時に逸気あり。今其集に就て交友を考うるに、袁珙と張天師とは、最も親熟するところなるが如く、贈遺の什甚だ少からず。珙と道衍とは本より互に知己たり。道衍又嘗て道士席応真を師として陰陽術数の学を受く。因って道家の旨を知り、仙趣の微に通ず。詩集巻七に、挽二席道士一とあるもの、疑うらくは応真、若しくは応真の族を悼めるならん。張天師は道家の棟梁たり、道衍の張を重んぜるも怪むに足る無きなり。故友に於ては最も王達善を親む。故に其の寄二王助教達善一の長詩の前半、自己の感慨行蔵を叙して忌まず、道衍自伝として看る可し。詩に曰く、
乾坤 果して何物ぞ、
開闔 古より有り。
世を挙って 孰か客に非ざらん、
離会 豈偶なりと云はんや。
嗟予 蓬蒿の人、
鄙猥 林籔に匿る。
自から慚づ 駑蹇の姿、
寧ぞ学ばん 牛馬の走るを。
呉山 窈くして而して深し、
性を養ひて 老朽を甘んず。
且 木石と共に居りて、
氷檗と 志 堅く守りぬ。
人は云ふ 鳳 枳に栖むと、
豈同じからんや 魚の〓(「网/卯」)に在るに。
藜藿 我腸を充し、
衣蔽れて 両肘露はる。
虁龍 高位に在り、
誰か来りて 可否を問はん。
盤旋す 草莾の間に、
樵牧 日に相叩く。
嘯詠 寒山に擬し、
惟 道を以て自負す。
忍びざりき 強ひて塗抹して、
乞媚びて 里婦に効ふに。
山霊 蔵るゝことを容さず、
辟歴 岡阜を破りぬ。
門を出でゝ 天日を睹る、
行也 焉にぞ 肯て苟もせん。
一挙して 即ち北に上れば、
親藩 待つこと惟久しかりき。
天地 忽ち 大変して、
神龍 氷湫より起る。
万方 共に忻び躍りて、
率土 元后を戴く。
吾を召して 南京に来らしめ、
爵賞加恩 厚し。
常時 天眷を荷ふ、
愛に因って 醜を知らず。(下略)
嘯詠寒山に擬すの句は、此老の行為に照せば、矯飾の言に近きを覚ゆれども、若夫れ知己に遇わずんば、強項の人、或は呉山に老朽を甘んじて、一生世外の衲子たりしも、また知るべからず、未だ遽に虚高の辞を為すものと断ず可からず。たゞ道衍の性の豪雄なる、嘯詠吟哦、或は獅子の繍毬を弄して日を消するが如くに、其身を終ることは之有るべし、寒山子の如くに、蕭散閑曠、塵表に逍遙して、其身を遺るゝを得可きや否や、疑う可き也。虁龍高位に在りは建文帝をいう。山霊蔵するを容さず以下数句、燕王に召出されしをいう。神龍氷湫より起るの句は、燕王崛起の事をいう。道い得て佳なり。愛に因って醜を知らずの句は、知己の恩に感じて吾身を世に徇うるを言えるもの、亦善く標置すというべし。
道衍の一生を考うるに、其の燕を幇けて簒を成さしめし所以のもの、栄名厚利の為にあらざるが如し。而も名利の為にせずんば、何を苦んでか、紅血を民人に流さしめて、白帽を藩王に戴かしめしぞ。道衍と建文帝と、深仇宿怨あるにあらず、道衍と、燕王と大恩至交あるにもあらず。実に解す可からざるある也。道衍己の偉功によって以て仏道の為にすと云わんか、仏道明朝の為に圧逼せらるゝありしに非る也。燕王覬覦の情無き能わざりしと雖も、道衍の扇を鼓して火を煽るにあらざれば、燕王未だ必ずしも毒烟猛燄を揚げざるなり。道衍抑又何の求むるあって、燕王をして決然として立たしめしや。王の事を挙ぐるの時、道衍の年や既に六十四五、呂尚、范増、皆老いて而して後立つと雖も、円頂黒衣の人を以て、諸行無常の教を奉じ、而して落日暮雲の時に際し、逆天非理の兵を起さしむ。嗚呼又解すべからずというべし。若し強いて道衍の為に解さば、惟是れ道衍が天に禀くるの気と、自ら負むの材と、莾々、蕩々、糾々、昂々として、屈す可からず、撓む可からず、消す可からず、抑う可からざる者、燕王に遇うに当って、砉然として破裂し、爆然として迸発せるものというべき耶、非耶。予其の逃虚子集を読むに、道衍が英雄豪傑の蹟に感慨するもの多くして、仏灯梵鐘の間に幽潜するの情の少きを思わずんばあらざるなり。
道衍の人となりの古怪なる、実に一沙門を以て目す可からずと雖も、而も文を好み道の為にするの情も、亦偽なりとなす可からず。此故に太祖実録を重修するや、衍実に其監修を為し、又支那ありてより以来の大編纂たる永楽大典の成れるも、衍実に解縉等と与に之を為せるにて、是れ皆文を好むの余に出で、道余録を著し、浄土簡要録を著し、諸上善人詠を著せるは、是れ皆道の為にせるに出づ。史に記す。道衍晩に道余録を著し、頗る先儒を毀る、識者これを鄙しむ。其の故郷の長州に至るや、同産の姉を候す、姉納れず。其友王賓を訪う、賓も亦見えず、但遙に語って曰く、和尚誤れり、和尚誤れりと。復往いて姉を見る、姉これを詈る。道衍惘然たりと。道衍の姉、儒を奉じ仏を斥くるか、何ぞ婦女の見識に似ざるや。王賓は史に伝無しと雖も、おもうに道衍が詩を寄せしところの王達善ならんか。声を揚げて遙語す、鄙しむも亦甚し。今道余録を読むに、姉と友との道衍を薄んじて之を悪むも、亦過ぎたりというべし。道余録自序に曰く、余曩に僧たりし時、元季の兵乱に値う。年三十に近くして、愚庵の及和尚に径山に従って禅学を習う。暇あれば内外の典籍を披閲して以て才識に資す。因って河南の二程先生の遺書と新安の晦庵朱先生の語録を観る。(中略)三先生既に斯文の宗主、後学の師範たり、仏老を攘斥すというと雖も、必ず当に理に拠って至公無私なるべし、即ち人心服せん。三先生多く仏書を探らざるに因って仏の底蘊を知らず。一に私意を以て邪詖の辞を出して、枉抑太だ過ぎたり、世の人も心亦多く平らかならず、況んや其学を宗する者をやと。(下略)道余録は乃ち程氏遺書の中の仏道を論ずるもの二十八条、朱子語録の中の同二十一条を目して、極めて謬誕なりと為し、条を逐い理に拠って一々剖柝せるものなり。藁成って巾笥に蔵すること年ありて後、永楽十年十一月、自序を附して公刊す。今これを読むに、大抵禅子の常談にして、別に他の奇無し。蓋し明道、伊川、晦庵の仏を排する、皆雄論博議あるにあらず、卒然の言、偶発の語多し、而して広く仏典を読まざるも、亦其の免れざるところなり。故に仏を奉ずる者の、三先生に応酬するが如き、本是弁じ易きの事たり。膽を張り目を怒らし、手を戟にし気を壮にするを要せず。道衍の峻機険鋒を以て、徐に幾百年前の故紙に対す、縦説横説、甚だ是れ容易なり。是れ其の観る可き無き所以なり。而して道衍の筆舌の鋭利なる、明道の言を罵って、豈道学の君子の為ならんやと云い、明道の執見僻説、委巷の曲士の若し、誠に咲う可き也、と云い、明道何ぞ乃ち自ら苦むこと此の如くなるや、と云い、伊川の言を評しては、此は是れ伊川みずから此説を造って禅学者を誣う、伊川が良心いずくにか在る、と云い、管を以て天を窺うが如しとは夫子みずから道うなりと云い、程夫子崛強自任す、聖人の道を伝うる者、是の如くなる可からざる也、と云い、晦庵の言を難しては、朱子の寱語、と云い、惟私意を逞しくして以て仏を詆る、と云い、朱子も亦怪なり、と云い、晦庵此の如くに心を用いば、市井の間の小人の争いて販売する者の所為と何を以てか異ならんや、と云い、先賢大儒、世の尊信崇敬するところの者を、愚弄嘲笑すること太だ過ぎ、其の口気甚だ憎む可し。是れ蓋し其姉の納れず、其友の見ざるに至れる所以ならずんばあらず。道衍の言を考うるに、大槩禅宗に依り、楞伽、楞厳、円覚、法華、華厳等の経に拠って、程朱の排仏の説の非理無実なるを論ずるに過ぎず。然れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於て、抗争反撃の弁を逞しくす。書の公にさるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰うと雖も、亦争を好むというべし。此も亦道衍が莾々蕩々の気の、已む能わずして然るもの耶、非耶。
道衍は是の如きの人なり、而して猶卓侍郎を容るゝ能わず、之を赦さんとするの帝をして之を殺さしむるに至る。素より相善からざるの私ありしに因るとは云え、又実に卓の才の大にして器の偉なるを忌みたるにあらずんばあらず。道衍の忌むところとなる、卓惟恭もまた雄傑の士というべし。
道衍の卓敬に対する、衍の詩句を仮りて之を評すれば、道衍量何ぞ隘きやと云う可きなり。然るに道衍の方正学に対するは則ち大に異なり。方正学の燕王に於けるは、実に相容れざるものあり。燕王の師を興すや、君側の小人を掃わんとするを名として、其の目して以て事を構え親を破り、天下を誤るとなせる者は、斉黄練方の四人なりき。斉は斉泰なり、黄は黄子澄なり、練は練子寧なり、而して方は即ち方正学なり。燕王にして功の成るや、もとより此四人を得て甘心せんとす。道衍は王の心腹なり、初よりこれを知らざるにあらず。然るに燕王の北平を発するに当り、道衍これを郊に送り、跪いて密に啓して曰く、臣願わくは託する所有らんと。王何ぞと問う。衍曰く、南に方孝孺あり、学行あるを以て聞ゆ、王の旗城下に進むの日、彼必ず降らざらんも、幸に之を殺したもう勿れ、之を殺したまわば則ち天下の読書の種子絶えんと。燕王これを首肯す。道衍の卓敬に於ける、私情の憎嫉ありて、方孝孺に於ける、私情の愛好あるか、何ぞ其の二者に対するの厚薄あるや。孝孺は宗濂の門下の巨珠にして、道衍と宋濂とは蓋し文字の交あり。道衍の少きや、学を好み詩を工にして、濂の推奨するところとなる。道衍豈孝孺が濂の愛重するところの弟子たるを以て深く知るところありて庇護するか、或は又孝孺の文章学術、一世の仰慕するところたるを以て、之を殺すは燕王の盛徳を傷り、天下の批議を惹く所以なるを慮りて憚るか、将又真に天下読書の種子の絶えんことを懼るゝか、抑亦孝孺の厳厲の操履、燕王の剛邁の気象、二者相遇わば、氷塊の鉄塊と相撃ち、鷲王と龍王との相闘うが如き凄惨狠毒の光景を生ぜんことを想察して預め之を防遏せんとせるか、今皆確知する能わざるなり。
方孝孺は如何なる人ぞや。孝孺字は希直、一字は希古、寧海の人。父克勤は済寧の知府たり。治を為すに徳を本とし、心を苦めて民の為にす。田野を闢き、学校を興し、勤倹身を持し、敦厚人を待つ。かつて盛夏に当って済寧の守将、民を督して城を築かしむ。克勤曰く、民今耕耘暇あらず、何ぞ又畚鍤に堪えんと。中書省に請いて役を罷むるを得たり。是より先き久しく旱せしが、役の罷むに及んで甘雨大に至りしかば、済寧の民歌って曰く。
孰か我が役を罷めしぞ、
使君の 力なり。
孰か我が黍を活かしめしぞ、
使君の 雨なり。
使君よ 去りたまふ勿れ、
我が民の 父なり 母なり。
克勤の民意を得る是の如くなりしかば、事を視ること三年にして、戸口増倍し、一郡饒足し、男女怡々として生を楽みしという。克勤愚菴と号す。宋濂に故愚庵先生方公墓銘文あり。滔々数千言、備に其の人となりを尽す。中に記す、晩年益畏慎を加え、昼の為す所の事、夜は則ち天に白すと。愚庵はたゞに循吏たるのみならざるなり。濂又曰く、古に謂わゆる体道成徳の人、先生誠に庶幾焉と。蓋し濂が諛墓の辞にあらず。孝孺は此の愚庵先生第二子として生れたり。天賦も厚く、庭訓も厳なりしならん。幼にして精敏、双眸烱々として、日に書を読むこと寸に盈ち、文を為すに雄邁醇深なりしかば、郷人呼んで小韓子となせりという。其の聰慧なりしこと知る可し。時に宋濂一代の大儒として太祖の優待を受け、文章徳業、天下の仰望するところとなり、四方の学者、悉く称して太史公となして、姓氏を以てせず。濂字は、景濂、其先金華の潜渓の人なるを以て潜渓と号す。太祖濂を廷に誉めて曰く、宋景濂朕に事うること十九年、未だ嘗て一言の偽あらず、一人の短を誚らず、始終二無し、たゞに君子のみならず、抑賢と謂う可しと。太祖の濂を視ること是の如し。濂の人品想う可き也。孝孺洪武の九年を以て、濂に見えて弟子となる。濂時に年六十八、孝孺を得て大に之を喜ぶ。潜渓が方生の天台に還るを送るの詩の序に記して曰く、晩に天台の方生希直を得たり、其の人となりや凝重にして物に遷らず、穎鋭にして以て諸を理に燭す、間発して文を為す、水の湧いて山の出づるが如し、喧啾たる百鳥の中、此の孤鳳皇を見る、いかんぞ喜びざらんと。凝重穎鋭の二句、老先生眼裏の好学生を写し出し来って神有り。此の孤鳳皇を見るというに至っては、推重も亦至れり。詩十四章、其二に曰く、
念ふ 子が 初めて来りし時、
才思 繭糸の若し。
之を抽いて 已に緒を見る、
染めて就せ 五色の衣。
其九に曰く、
須らく知るべし 九仭の山も、
功 或は 一簣に少くるを。
学は 貴ぶ 日に随つて新なるを、
慎んで 中道に廃する勿れ。
其十に曰く、
羣経 明訓 耿たり、
白日 青天に麗る。
苟も徒に 文辞に溺れなば、
蛍爝 妍を争はんと欲するなり。
其十一に曰く、
姫も 孔も 亦何人ぞや、
顔面 了に異ならじ。
肯て 盆盎の中に墮せんや、
当に 瑚璉の器となるべし。
其終章に曰く、
明年 二三月、
羅山 花 正に開かん。
高きに登りて 日に盻望し、
子が能く 重ねて来るを遅たむ。
其才を称し、其学を勧め、其の流れて文辞の人とならんことを戒め、其の奮って聖賢の域に至らんことを求め、他日復再び大道を論ぜんことを欲す。潜渓が孝孺に対する、称許も甚だ至り、親切も深く徹するを見るに足るものあり。嗚呼、老先生、孰か好学生を愛せざらん、好学生、孰か老先生を慕わざらん。孝孺は其翌年丁巳、経を執って浦陽に潜渓に就きぬ。従学四年、業大に進んで、潜渓門下の知名の英俊、皆其の下に出で、先輩胡翰も蘇伯衡も亦自ら如かずと謂うに至れり。洪武十三年の秋、孝孺が帰省するに及び、潜渓が之を送る五十四韻の長詩あり。其引の中に記して曰く、細らかに其の進修の功を占うに、日々に異なるありて、月々に同じからず、僅に四春秋を越ゆるのみにして而して英発光著や斯の如し、後四春秋ならしめば、則ち其の至るところ又如何なるを知らず、近代を以て之を言えば、欧陽少卿、蘇長公の輩は、姑らく置きて論ぜず、自余の諸子、之と文芸の場に角逐せば、孰か後となり孰か先となるを知らざる也。今此説を為す、人必ず予の過情を疑わんも、後二十余年にして当に其の知言にして、生に許す者の過に非ざるを信ずべき也。然りと雖も予の生に許すところの者、寧ぞ独り文のみならんやと。又曰く、予深く其の去るを惜み、為に是詩を賦す、既に其の素有の善を揚げ、復勗むるに遠大の業を以てすと。潜渓の孝孺を愛重し奨励すること、至れり尽せりというべし。其詩や辞を行る自在にして、意を立つる荘重、孝孺に期するに大成を以てし、必ず経世済民の真儒とならんことを欲す。章末に句有り、曰く、
生は乃ち 周の容刀。
生は乃ち 魯の璵璠。
道真なれば 器乃ち貴し、
爰ぞ須ゐん 空言を用ゐるを。
孳々として 務めて践形し、
負く勿れ 七尺の身に。
敬義 以て衣と為し、
忠信 以て冠と為し、
慈仁 以て佩と為し、
廉知 以て鞶と為し、
特り立つて 千古を睨まば、
万象 昭らかにして昏き無からむ。
此意 竟に誰か知らん、
爾が為に 言諄諄たり。
徒に 強聒ふと謂ふ勿れ、
一一 宜しく紳に書すべし。
孝孺後に至りて此詩を録して人に視すの時、書して曰く、前輩後学を勉めしむ、惓惓の意、特り文辞のみに在らず、望むらくは相与に之を勉めんと。臨海の林佑、葉見泰等、潜渓の詩に跋して、又各宋太史の期望に酬いんことを孝孺に求む。孝孺は果して潜渓に負かざりき。
孝孺の集は、其人天子の悪むところ、一世の諱むところとなりしを以て、当時絶滅に帰し、歿後六十年にして臨海の趙洪が梓に附せしより、復漸く世に伝わるを得たり。今遜志斎集を執って之を読むに、蜀王が所謂正学先生の精神面目奕々として儼存するを覚ゆ。其の幼儀雑箴二十首を読めば、坐、立、行、寝より、言、動、飲、食等に至る、皆道に違わざらんことを欲して、而して実践躬行底より徳を成さんとするの意、看取すべし。其雑銘を読めば、冠、帯、衣、屨より、箠、鞍、轡、車等に至る、各物一々に湯の日新の銘に則りて、語を下し文を為す、反省修養の意、看取すべし。雑誡三十八章、学箴九首、家人箴十五首、宗儀九首等を読めば、希直の学を為すや空言を排し、実践を尊み、体験心証して、而して聖賢の域に躋らんとするを看取すべし。明史に称す、孝孺は文芸を末視し、恒に王道を明らかにし太平を致すを以て己が任と為すと。(是鄭暁の方先生伝に本づく)真に然り、孝孺の志すところの遠大にして、願うところの真摯なる、人をして感奮せしむるものあり。雑誡の第四章に曰く、学術の微なるは、四蠹之を害すればなり。姦言を文り、近事を摭り、時勢を窺伺し、便に趨り隙に投じ、冨貴を以て、志と為す。此を利禄の蠹と謂う。耳剽し口衒し、色を詭り辞を淫にし、聖賢に非ずして、而も自立し、果敢大言して、以て人に高ぶり、而して理の是非を顧みず、是を名を務むるの蠹という。鉤摭して説を成し、上古に合するを務め、先儒を毀訾し、以謂らく我に及ぶ莫き也と、更に異議を為して、以て学者を惑わす。是を訓詁の蠹という。道徳の旨を知らず、雕飾綴緝して、以て新奇となし、歯を鉗し舌を刺して、以て簡古と為し、世に於て加益するところ無し。是を文辞の蠹という。四者交々作りて、聖人の学亡ぶ。必ずや諸を身に本づけ、諸を政教に見わし、以て物を成す可き者は、其れ惟聖人の学乎、聖道を去って而して循わず、而して惟蠹にこれ帰す。甚しい哉惑えるや、と。孝孺の此言に照せば、鄭暁の伝うるところ、実に虚しからざる也。四箴の序の中の語に曰く、天に合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせずと。孝孺の此言に照せば、既に其の卓然として自立し、信ずるところあり安んずるところあり、潜渓先生が謂える所の、特り立って千古を睨み、万象昭して昏き無しの境に入れるを看るべし。又其の克畏の箴を読めば、あゝ皇いなる上帝、衷を人に降す、といえるより、其の方に昏きに当ってや、恬として宜しく然るべしと謂うも、中夜静かに思えば夫れ豈吾が天ならんや、廼ち奮って而して悲み、丞やかに前轍を改む、と云い、一念の微なるも、鬼神降監す、安しとする所に安んずる勿れ、嗜む所を嗜む勿れ、といい、表裏交々修めて、本末一致せんといえる如き、恰も神を奉ぜるの者の如き思想感情の漲流せるを見る。父克勤の、昼の為せるところ、夜は則ち天に白したるに合せ考うれば、孝孺が善良の父、方正の師、孔孟の正大純粋の教の徳光恵風に浸涵して、真に心胸の深処よりして道を体し徳を成すの人たらんことを願えるの人たるを看るべき也。
孝孺既に文芸を末視し、孔孟の学を為し、伊周の事に任ぜんとす。然れども其の文章亦おのずから佳、前人評して曰く、醇龐博朗、沛乎として余有り、勃乎として禦ぐ莫しと。又曰く、醇深雄邁と。其の一大文豪たる、世もとより定評あり、動かす可からざるなり。詩は蓋し其の心を用いるところにあらずと雖も、亦おのずから観る可し。其の王仲縉感懐の韻に次する詩の末に句あり、曰く
壮士 千載の心、
豈憂へんや 食と衣とを。
由来 海に浮ばんの志、
是れ 軒冕の姿にあらず。
人生 道を聞くを尚ぶ、
富貴 復奚為るものぞ。
賢にして有り 陋巷の楽、
聖にして有り 西山の饑。
頤を朶る 失ふところ多し、
苦節 未だ非とす可からず。
道衍は豪傑なり、孝孺は君子なり。逃虚子は歌って曰く、苦節貞くすべからずと。遜志斎は歌って曰く、苦節未だ非とす可からずと。逃虚子は吟じて曰く、伯夷量何ぞ隘きと。遜志斎は吟じて曰く、聖にして有り西山の饑と。孝孺又其の瀠陽を過ぎるの詩の中の句に吟じて曰く、之に因って首陽を念う、西顧すれば清風生ずと。又乙丑中秋後二日兄に寄する詩の句に曰く、苦節伯夷を慕うと。人異なれば情異なり、情異なれば詩異なり。道衍は僧にして、觥籌又何ぞ数えんといいて、快楽主義者の如く、希直は俗にして、飲の箴に、酒の患たる、謹者をして荒み、荘者をして狂し、貴者をして賤しく、存者をして亡ばしむ、といい、酒巵の銘には、親を洽くし衆を和するも、恒に斯に於てし、禍を造り敗をおこすも、恒に斯に於てす、其悪に懲り、以て善に趨り、其儀を慎むを尚ぶ、といえり。逃虚子は仏を奉じて、而も順世外道の如く、遜志斎は儒を尊んで、而も浄行者の如し。嗚呼、何ぞ其の奇なるや。然も遜志斎も飲を解せざるにあらず。其の上巳南楼に登るの詩に曰く、
昔時 喜んで酒を飲み、
白を挙げて 深きを辞せざりき。
茲に中歳に及んでよりこのかた、
已に復 人の斟むを畏る。
後生 ゆるがせにする所多きも、
豈識らんや 老の会臨するを。
志士は 景光を惜む、
麓に登れば 已に岑を知る。
毎に聞く 前世の事、
頗る見る 古人の心。
逝く者 まことに息まず、
将来 誰か今に嗣がむ。
百年 当に成る有るべし、
泯滅 寧ぞ欽むに足らんや。
毎に憐む 伯牙の陋にして、
鍾 死して 其琴を破れるを。
自ら得るあらば 苟に伝ふるに堪へむ、
何ぞ必ずしも 知音を求めんや。
俯しては観る 水中の鯈、
仰いでは覩る 雲際の禽。
真楽 吾 隠さず、
欣然として 煩襟を豁うす。
前半は巵酒 歓楽、学業の荒廃を致さんことを嘆じ、後半は一転して、真楽の自得にありて外に待つ無きをいう。伯牙を陋として破琴を憐み、荘子を引きて不隠を挙ぐ。それ外より入る者は、中に主たる無し、門より入る者は家珍にあらず。白を挙げて楽となす、何ぞ是れ至楽ならん。
遜志斎の詩を逃虚子の詩に比するに、風格おのずから異にして、精神夐に殊なり。意気の俊邁なるに至っては、互に相遜らずと雖も、正学先生の詩は竟に是れ正学先生の詩にして、其の帰趣を考うるに、毎に正々堂々の大道に合せんことを欲し、絶えて欹側詭詖の言を為さず、放逸曠達の態無し。勉学の詩二十四章の如きは、蓋し壮時の作と雖も、其の本色なり。談詩五首の一に曰く、
世を挙って 皆宗とす 李杜の詩を。
知らず 李杜の 更に誰を宗とせるを。
能く 風雅 無窮の意を探らば、
始めて是れ 乾坤 絶妙の詞ならん。
第二に曰く、
道徳を 発揮して 乃ち文を成す、
枝葉 何ぞ曾て 本根を離れん。
末俗 工を競ふ 繁縟の体、
千秋の精意 誰と与に論ぜん。
是れ正学先生の詩に於けるの見なり。華を斥け実を尚び、雅を愛し淫を悪む。尋常一様詩詞の人の、綺麗自ら喜び、藻絵自ら衒い、而して其の本旨正道を逸し邪路に趨るを忘るゝが如きは、希直の断じて取らざるところなり。希直の父愚庵、師潜渓の見も、亦大略是の如しと雖も、希直の性の方正端厳を好むや、おのずから是の如くならざるを得ざるものあり、希直決して自ら欺かざる也。
孝孺の父は洪武九年を以て歿し、師は同十三年を以て歿す。洪武十五年呉沉の薦を以て太祖に見ゆ。太祖其の挙止端整なるを喜びて、皇孫に謂って曰く、此荘士、当に其才を老いしめて以て汝を輔けしめんと。閲十年にして又薦められて至る。太祖曰く、今孝孺を用いるの時に非ずと。太祖が孝孺を器重して、而も挙用せざりしは何ぞ。後人こゝに於て慮を致すもの多し。然れども此は強いて解す可からず。太祖が孝孺を愛重せしは、前後召見の間に於て、たま〳〵仇家の為に累せられて孝孺の闕下に械送せられし時、太祖其名を記し居たまいて特に釈されしことあるに徴しても明らかなり。孝孺の学徳漸く高くして、太祖の第十一子蜀王椿、孝孺を聘して世子の傅となし、尊ぶに殊礼を以てす。王の孝孺に賜うの書に、余一日見ざれば三秋の如き有りの語あり。又王が孝孺を送るの詩に、士を閲す孔だ多し、我は希直を敬すの句あり。又其一章に
謙にして以て みづから牧し、
卑うして以て みづから持す。
雍容 儒雅、
鸞鳳の 儀あり。
とあり。又其の賜詩三首の一に
文章 金石を奏し、
衿佩 儀刑を覩る。
応に世々 三輔に遊ぶべし、
焉んぞ能く 一経に困せん。
の句あり。王の優遇知る可くして、孝孺の恩に答うるに道を以てせるも、亦知るべし。王孝孺の読書の廬に題して正学という。孝孺はみずから遜志斎という。人の正学先生というものは、実に蜀王の賜題に因るなり。
太祖崩じ、皇太孫立つに至って、廷臣交々孝孺を薦む。乃ち召されて翰林に入る。徳望素より隆んにして、一時の倚重するところとなり、政治より学問に及ぶまで、帝の咨詢を承くること殆ど間無く、翌二年文学博士となる。燕王兵を挙ぐるに及び、日に召されて謀議に参し、詔檄皆孝孺の手に出づ。三年より四年に至り、孝孺甚だ煎心焦慮すと雖も、身武臣にあらず、皇師数々屈して、燕兵遂に城下に到る。金川門守を失いて、帝みずから大内を焚きたもうに当り、孝孺伍雲等の為に執えられて獄に下さる。
燕王志を得て、今既に帝たり。素より孝孺の才を知り、又道衍の言を聴く。乃ち孝孺を赦して之を用いんと欲し、待つに不死を以てす。孝孺屈せず。よって之を獄に繋ぎ、孝孺の弟子廖鏞廖銘をして、利害を以て説かしむ。二人は徳慶侯廖権の子なり。孝孺怒って曰く、汝等予に従って幾年の書を読み、還って義の何たるを知らざるやと。二人説く能わずして已む。帝猶孝孺を用いんと欲し、一日に諭を下すこと再三に及ぶ。然も終に従わず。帝即位の詔を草せんと欲す、衆臣皆孝孺を挙ぐ。乃ち召して獄より出でしむ。孝孺喪服して入り、慟哭して悲み、声殿陛に徹す。帝みずから榻を降りて労らいて曰く、先生労苦する勿れ。我周公の成王を輔けしに法らんと欲するのみと。孝孺曰く、成王いずくにか在ると。帝曰く、渠みずから焚死すと。孝孺曰く、成王即存せずんば、何ぞ成王の子を立てたまわざるやと。帝曰く、国は長君に頼る。孝孺曰く、何ぞ成王の弟を立てたまわざるや。帝曰く、これ朕が家事なり、先生はなはだ労苦する勿れと。左右をして筆札を授けしめて、おもむろに詔して曰く、天下に詔する、先生にあらずんば不可なりと。孝孺大に数字を批して、筆を地に擲って、又大哭し、且罵り且哭して曰く、死せんには即ち死せんのみ、詔は断じて草す可からずと。帝勃然として声を大にして曰く、汝いずくんぞ能く遽に死するを得んや、たとえ死するとも、独り九族を顧みざるやと。孝孺いよ〳〵奮って曰く、すなわち十族なるも我を奈何にせんやと、声甚だ厲し。帝もと雄傑剛猛なり、是に於て大に怒って、刀を以て孝孺の口を抉らしめて、復之を獄に錮す。
孝孺の宋潜渓に知らるゝや、蓋し其の釈統三篇と後正統論とを以てす。四篇の文、雄大にして荘厳、其大旨、義理の正に拠って、情勢の帰を斥け、王道を尚び、覇略を卑み、天下を全有して、海内に号令する者と雖も、其道に於てせざる者は、目して、正統の君主とすべからずとするに在り。秦や隋や王莾や、晋宋・斉梁や、則天や符堅や、此皆これをして天下を有せしむる数百年に踰ゆと雖も、正統とす可からずと為す。孝孺の言に曰く、君たるに貴ぶ所の者は、豈其の天下を有するを謂わんやと。又曰く、天下を有して而も正統に比す可からざる者三、簒臣也、賊后也、夷狄也と。孝孺篇後に書して曰く、予が此文を為りてより、未だ嘗て出して以て人に示さず。人の此言を聞く者、咸予を訾笑して以て狂と為し、或は陰に之を詆詬す。其の然りと謂う者は、独り予が師太史公と、金華の胡公翰とのみと、夫れ正統変統の論、もとより史の為にして発すと雖も、君たるに貴ぶ所の者は豈其の天下を有するを謂わんやと為す。是の如きの論を為せるの後二十余年にして、一朝簒奪の君に面し、其の天下に誥ぐるの詔を草せんことを逼らる。嗚呼、運命遭逢も亦奇なりというべし。孝孺又嘗て筆の銘を為る。曰く、
妄に動けば 悔あり、
道は 悖る可からず。
汝 才ありと謂ふ勿れ、
後に 万世あり。
又嘗て紙の銘を為る。曰く、
之を以て言を立つ、其の道を載せんを欲す。
之を以て事を記す、其の民を利せんを欲す。
之を以て教を施す、其の義ならんを欲す。
之を以て法を制す、其の仁ならんを欲す。
此等の文、蓋し少時の為る所なり。嗚呼、運命遭逢、又何ぞ奇なるや。二十余年の後にして、筆紙前に在り。これに臨みて詔を草すれば、富貴我を遅つこと久し、これに臨みて命を拒まば、刀鋸我に加わらんこと疾し。嗚呼、正学先生、こゝに於て、成王いずくに在りやと論じ、こゝに於て筆を地に擲って哭す。父に負かず、師に負かず、天に合して人に合せず、道に同じゅうして時に同じゅうせず、凛々烈々として、屈せず撓まず、苦節伯夷を慕わんとす。壮なる哉。
帝、孝孺の一族を収め、一人を収むる毎に輙ち孝孺に示す。孝孺顧みず、乃ち之を殺す。孝孺の妻鄭氏と諸子とは、皆先ず経死す。二女逮えられて淮を過ぐる時、相与に橋より投じて死す。季弟孝友また逮えられて将に戮せられんとす。孝孺之を目して涙下りければ、流石は正学の弟なりけり、
阿兄 何ぞ必ずしも 涙潜々たらむ、
義を取り 仁を成す 此間に在り。
華表 柱頭 千歳の後、
旅魂 旧に依りて 家山に到らん。
と吟じて戮せられぬ。母族林彦清等、妻族鄭原吉等九族既に戮せられて、門生等まで、方氏の族として罪なわれ、坐死する者およそ八百七十三人、遠謫配流さるゝもの数う可からず。孝孺は終に聚宝門外に磔殺せられぬ。孝孺慨然、絶命の詞を為りて戮に就く。時に年四十六、詞に曰く、
天降二乱離一兮孰知二其由一。
奸臣得レ計兮謀レ国用レ猶。
忠臣発レ憤兮血涙交流。
以レ此殉レ君兮抑又何求。
嗚呼哀哉兮庶不二我尤一。
廖鏞廖銘は孝孺の遺骸を拾いて聚宝門外の山上に葬りしが、二人も亦収められて戮せられ、同じ門人林嘉猷は、かつて燕王父子の間に反間の計を為したるもの、此亦戮せられぬ。
方氏一族是の如くにして殆ど絶えしが、孝孺の幼子徳宗、時に甫めて九歳、寧海県の典史魏公沢の護匿するところとなりて死せざるを得、後孝孺の門人兪公允の養うところとなり、遂に兪氏を冒して、子孫繁衍し、万暦三十七年には二百余丁となりしこと、松江府の儒学の申文に見え、復姓を許されて、方氏また栄ゆるに至れり。廖氏二子及び門人王稌等拾骸の功また空しからず、万暦に至って墓碑祠堂成り、祭田及び嘯風亭等備わり、松江に求忠書院成るに及べり。世に在る正学先生の如くにして、豈後無く祠無くして泯然として滅せんや。
節に死し族を夷せらるゝの事、もと悲壮なり。是を以て後の正学先生の墓を過ぎる者、愴然として感じ、泫然として泣かざる能わず。乃ち祭弔慷慨の詩、累篇積章して甚だ多きを致す。衛承芳が古風一首、中に句あり、曰く、
古来 馬を叩く者、
采薇 逸民を称す。
明の徳 詎ぞ周に遜らん。
乃ち其の仁を成す無からんや。
と。劉秉忠を慕うの人道衍は其の功を成して秉忠の如くなるを得、伯夷を慕うの人方希直は其の節を成して伯夷に比せらるゝに至る。王思任二律の一に句あり、曰く、
十族 魂の 暗き月に依る有り、
九原 愧の 青灯に付する無し。
と、李維楨五律六首の中に句あり、曰く、
国破れて 心 仍在り、
身危ふして 舌 尚存す。
又句あり、曰く、
気は壮なり 河山の色、
神は留まる 宇宙の身。
燕王今は燕王にあらず、儼として九五の位に在り、明年を以て改めて永楽元年と為さんとす。而して建文皇帝は如何。燕王の言に曰く、予始め難に遘う、已むを得ずして兵を以て禍を救い、誓って奸悪を除き、宗社を安んじ、周公の勲を庶幾せんとす。意わざりき少主予が心を亮とせず、みずから天に絶てりと。建文皇帝果して崩ぜりや否や。明史には記す、帝終る所を知らずと。又記す、或は云う帝地道より出で亡ぐと。又記す、滇黔巴蜀の間、相伝う帝の僧たる時の往来の跡ありと。これ言を二三にするものなり。帝果して火に赴いて死せるか、抑又髪を薙いで逃れたるか。明史巻一百四十三、牛景先の伝の後に、忠賢奇秘録および致身録等の事を記して、録は蓋し晩出附会、信ずるに足らず、の語を以て結び、暗に建文帝出亡、諸臣庇護の事を否定するの口気あり。然れども巻三百四、鄭和伝には、成祖、恵帝の海外に亡げたるを疑い、之を蹤跡せんと欲し、且つ兵を異域に輝かし、中国の富強を示さんことを欲すと記せり。鄭和の始めて西洋に航せしは、燕王志を得てよりの第四年、即ち永楽三年なり。永楽三年にして猶疑うあるは何ぞや。又給事中胡濙と内侍朱祥とが、永楽中に荒徼を遍歴して数年に及びしは、巻二百九十九に見ゆ。仙人張三丰を索めんとすというを其名とすと雖も、山谷に仙を索めしむるが如き、永楽帝の聰明勇決にして豈真に其事あらんや。得んと欲するところの者の、真仙にあらずして、別に存するあること、知る可き也。蓋し此時に当って、元の余孽猶所在に存し、漠北は論無く、西陲南裔、亦尽くは明の化に順わず、野火焼けども尽きず、春風吹いて亦生ぜんとするの勢あり。且つや天一豪傑を鉄門関辺の碣石に生じて、カザン(Kazan)弑されて後の大帝国を治めしむ。これを帖木児(Timur)と為す。西人の所謂タメルラン也。帖木児サマルカンドに拠り、四方を攻略して威を振う甚だ大に、明に対しては貢を納ると雖も、太祖の末年に使したる傅安を留めて帰らしめず、之を要して領内諸国を歴遊すること数万里ならしめ、既に印度を掠めて、デリヒを取り、波斯を襲い、土耳古を征し、心ひそかに支那を窺い、四百余州を席巻して、大元の遺業を復せんとするあり。永楽帝の燕王たるや、塞北に出征して、よく胡情を知る。部下の諸将もまた夷事に通ずる者多し。王の南する、幕中に番騎を蔵す。凡そ此等の事に徴して、永楽帝の塞外の状勢を暁れるを知るべし。若し建文帝にして走って域外に出で、崛強にして自大なる者に依るあらば、外敵は中国を覦うの便を得て、義兵は邦内に起る可く、重耳一たび逃れて却って勢を得るが如きの事あらんとす。是れ永楽帝の懼れ憂うるところたらずんばあらず。鄭和の艦を泛めて遠航し、胡濙の仙を索めて遍歴せる、密旨を啣むところあるが如し。而して又鄭は実に威を海外に示さんとし、胡は実に異を幽境に詢えるや論無し。善く射る者は雁影を重ならしめて而して射、善く謀る者は機会を復ならしめて而して謀る。一箭二雁を獲ずと雖も、一雁を失わず、一計双功を収めずと雖も、一功を得る有り。永楽帝の智、豈敢て建文を索むるを名として使を発するを為さんや。況んや又鄭和は宦官にして、胡濙と偕にせるの朱祥も内侍たるをや。秘意察す可きあるなり。
鄭和は王景弘等と共に出て使しぬ。和の出づるや、帝、袁柳荘の子の袁忠徹をして相せしむ、忠徹曰く可なりと。和の率いる所の将卒二万七千八百余人、舶長さ四十四丈、広さ十八丈の者、六十二、蘇州劉家河より海に泛びて福建に至り、福建五虎門より帆を揚げて海に入る。閲三年にして、五年九月還る。建文帝の事、得る有る無し。而れども諸番国の使者和に随って朝見し、各々其方物を貢す。和又三仏斉国の酋長を俘として献ず。帝大に悦ぶ。是より建文の事に関せず、専ら国威を揚げしめんとして、再三和を出す。和の使を奉ずる、前後七回、其の間、或は錫蘭山(Ceylon)の王阿烈苦奈児と戦って之を擒にして献じ、或は蘇門答剌(Sumotala)の前の前の偽王の子蘇幹剌と戦って、其妻子を併せて俘として献じ、大に南西諸国に明の威を揚げ、遠く勿魯漠斯(Holumusze ペルシヤ)麻林(Mualin? アフリカ?)祖法児(Dsuhffar アラビヤ)天方(〝Beitullah〟House of God の訳、メッカ、アラビヤ)等に至れり。明史外国伝西南方のやゝ詳なるは、鄭和に随行したる鞏珍の著わせる西洋番国志を採りたるに本づく歟という。
胡濙等もまた得る無くして已みぬ。然も張三丰を索めしこと、天下の知る所たり。乃ち三丰の居りし所の武当 大和山に観を営み、夫を役する三十万、貲を費す百万、工部侍郎郭𤧫、隆平侯張信等、事に当りしという。三丰嘗て武当の諸巌壑に游び、此山異日必ず大に興らんといいしもの、実となってこゝに現じたる也。
建文帝は如何にせしぞや。伝えて曰く、金川門の守を失うや、帝自殺せんとす。翰林院編修程済白す、出亡したまわんには如かじと。少監王鉞跪いて進みて白す。昔高帝升遐したもう時、遺篋あり、大難に臨まば発くべしと宣いぬ。謹んで奉先殿の左に収め奉れりと。羣臣口々に、疾く出すべしという。宦者忽にして一の紅なる篋を舁き来りぬ。視れば四囲は固むるに鉄を以てし、二鎖も亦鉄を灌ぎありて開くべくも無し。帝これを見て大に慟きたまい、今はとて火を大内に放たせたもう。皇后は火に赴きて死したまいぬ。此時程済は辛くも篋を砕き得て、篋中の物を取出す。出でたる物は抑何ぞ。釈門の人ならで誰かは要すべき、大内などには有るべくも無き度牒というもの三張ありたり。度牒は人の家を出て僧となるとき官の可して認むる牒にて、これ無ければ僧も暗き身たるなり。三張の度牒、一には応文の名の録され、一には応能の名あり、一には応賢の名あり。袈裟、僧帽、鞋、剃刀、一々倶に備わりて、銀十錠添わり居ぬ。篋の内に朱書あり、之を読むに、応文は鬼門より出で、余は水関御溝よりして行き、薄暮にして神楽観の西房に会せよ、とあり。衆臣驚き戦きて面々相看るばかり、しばらくは言う者も無し。やゝありて天子、数なり、と仰せあり。帝の諱は允炆、応文の法号、おのずから相応ずるが如し。且つ明の基を開きし太祖高皇帝はもと僧にましましき。後にこそ天下の主となり玉いたれ、元の順宗の至正四年年十七におわしける時は、疫病大に行われて、御父御母兄上幼き弟皆亡せたまえるに、家貧にして棺槨の供だに為したもう能わず、藁葬という悲しくも悲しき事を取行わせ玉わんとて、仲の兄と二人してみずから遺骸を舁きて山麓に至りたまえるに、綆絶えて又如何ともする能わず、仲の兄馳還って綆を取りしという談だに遺りぬ。其の仲の兄も亦亡せたれば、孤身依るところなく、遂に皇覚寺に入りて僧と為り、食を得んが為に合淝に至り、光固汝頴の諸州に托鉢修行し、三歳の間は草鞋竹笠、憂き雲水の身を過したまえりという。帝は太祖の皇孫と生れさせたまいて、金殿玉楼に人となりたまいたれども、如是因、如是縁、今また袈裟念珠の人たらんとす。不思議というも余りあり。程済即ち御意に従いて祝髪しまいらす。万乗の君主金冠を墜し、剃刀の冷光翠髪を薙ぐ。悲痛何ぞ能く堪えんや。呉王の教授揚応能は、臣が名度牒に応ず、願わくは祝髪して随いまつらんと白す。監察御史葉希賢、臣が名は賢、応賢たるべきこと疑無しと白す。各髪を剃り衣を易えて牒を披く。殿に在りしもの凡そ五六十人、痛哭して地に倒れ、倶に矢って随いまつらんともうす。帝、人多ければ得失を生ずる無きを得ず、とて麾いて去らしめたもう。御史曾鳳韶、願わくは死を以て陛下に報いまつらん、と云いて退きつ、後果して燕王の召に応ぜずして自殺しぬ。諸臣大に慟きて漸くに去り、帝は鬼門に至らせたもう。従う者実に九人なり。至れば一舟の岸に在るあり。誰ぞと見るに神楽観の道士王昇にして、帝を見て叩頭して万歳を称え、嗚呼、来らせたまえるよ、臣昨夜の夢に高皇帝の命を蒙りて、此にまいり居たり、と申す。乃ち舟に乗じて太平門に至りたもう。昇導きまいらせて観に至れば、恰も已に薄暮なりけり。陸路よりして楊応能、葉希賢等十三人同じく至る。合二十二人、兵部侍郎廖平、刑部侍郎金焦、編修趙天泰、検討程亨、按察使王良、参政蔡運、刑部郎中梁田玉、中書舎人梁良玉、梁中節、宋和、郭節、刑部司務馮㴶、鎮撫牛景先、王資、劉仲、翰林侍詔鄭洽、欽天監正王之臣、太監周恕、徐王府賓輔史彬と、楊応能、葉希賢、程済となり。帝、今後はたゞ師弟を以て称し、必ずしも主臣の礼に拘らざるべしと宣う。諸臣泣いて諾す。廖平こゝに於て人々に謂って曰く、諸人の随わんことを願うは、固よりなり、但し随行の者の多きは功無くして害あり、家室の累無くして、膂力の捍ぎ衛るに足る者、多きも五人に過ぎざるを可とせん、余は倶に遙に応援を為さば、可ならんと。帝も、然るべしと為したもう。応能、応賢の二人は比丘と称し、程済は道人と称して、常に左右に侍し、馮㴶は馬二子と称し、郭節は雪菴と称し、宋和は雲門僧と称し、趙天泰は衣葛翁と称し、王之臣は補鍋を以て生計を為さんとして老補鍋と称し、牛景先は東湖樵夫と称し、各々姓を埋め名を変じて陰陽に扈従せんとす。帝は滇南に往きて西平侯に依らんとしたもう。史彬これを危ぶみて止め、臣等の中の、家いさゝか足りて、旦夕に備う可き者の許に錫を留めたまい、緩急移動したまわば不可無かるべしと白す。帝もこれを理ありとしたまいて、廖平、王良、鄭洽、郭節、王資、史彬、梁良玉の七家を、かわる〴〵主とせんことに定まりぬ。翌日舟を得て帝を史彬の家に奉ぜんとす。同乗するもの八人、程、葉、楊、牛、馮、宋、史なり。余は皆涙を揮って別れまいらす。帝は道を溧陽に取りて、呉江の黄渓の史彬の家に至りたもうに、月の終を以て諸臣また漸く相聚まりて伺候す。帝命じて各々帰省せしめたもう。燕王位に即きて、諸官員の職を抛って遯去りし者の官籍を削る。呉江の邑丞鞏徳、蘇州府の命を以て史彬が家に至り、官を奪い、且曰く、聞く君が家建文皇帝をかしずくと。彬驚いて曰く、全く其事無しと。次の日、帝、楊、葉、程の三人と共に、呉江を出で、舟に上りて京口に至り、六合を過ぎ、陸路襄陽に至り、廖平が家に至りたもうに、其後を訊う者ありければ、遂に意を決して雲南に入りたもう。
永楽元年、帝雲南の永嘉寺に留まりたもう。二年、雲南を出で、重慶より襄陽に抵り、また東して、史彬の家に至りたもう。留まりたもうこと三日、杭州、天台、雁蕩の遊をなして、又雲南に帰りたもう。
三年、重慶の大竹善慶里に至りたもう。此年若くは前年の事なるべし、帝金陵の諸臣惨死の事を聞きたまい、泫然として泣きて曰く、我罪を神明に獲たり、諸人皆我が為にする也と。
建文帝は今は僧応文たり。心の中はいざ知らず、袈裟に枯木の身を包みて、山水に白雲の跡を逐い、或は草庵、或は茅店に、閑坐し漫遊したまえるが、燕王今は皇帝なり、万乗の尊に居りて、一身の安き無し。永楽元年には、韃靼の兵、遼東を犯し、永平に寇し、二年には韃靼と瓦剌(Oirats, 西部蒙古)との相和せる為に、辺患無しと雖も、三年には韃靼の塞下を伺うあり。特に此年はタメルラン大兵を起して、道を別失八里(Bisbalik)に取り、甘粛よりして乱入せんとするの事あり。甘粛は京を距る遠しと雖も、タメルランの勇威猛勢は、太祖の時よりして知るところたり、永楽帝の憂慮察す可し。此事明史には其の外国伝に、朝廷、帖木児の道を別失八里に仮りて兵を率いて東するを聞き、甘粛総兵官宋晟に勅して儆備せしむ、とあるに過ぎず。然れども塞外の事には意を用いること密にして、永楽八年以後、数々漠北を親征せしほどの帝の、帖木児東せんとするを聞きては、奚んぞ能く晏然たらん。太祖の洪武二十八年、傅安等を帖木児の許に使せしめて、安等猶未だ還らず、忽にして此報を得、疑虞する無きを得んや。帖木児、父は答剌豈(Taragai)、元の至元二年を以て生る。生れて跛なりしかば、悪む者チムールレンク(Timurlenk)と呼ぶ。レンクは跛の義の波斯語なり。タメルランの称これによって起る。人となり雄毅、兵を用い政を為すを善くす。太祖の明の基を開くに前後して大に勢を得、洪武五年より後、征戦三十余年、威名亜非利加、欧羅巴に及ぶ。帖木児は回教を奉ず。明の初回教の徒の甘粛に居る者を放つ。回徒多く帖木児の領土に帰す。帖木児の甘粛より入らんとせるも、故ある也。永楽元年(1403)より永楽三年に至るまで帖木児の許に在りしクラウイヨ(Clavijo, Castilian Ambassador)記す、タメルラン、支那帝使を西班牙帝使の下に座せしめ、吾児たり友たる西帝の使を、賊たり無頼の徒たる支那帝の使の下に坐せしむる勿れと云いしと。又同時タメルラン軍営に事えしバワリヤ人シルトベルゲル(T. Schiltberger)記す、支那帝使進貢を求む、タメルラン怒って曰く、吾復進貢せざらん、貢を求めば帝みずから来れと。乃ち使を発して兵を徴し、百八十万を得、将に発せんとしたりと。西暦千三百九十八年は、タメルラン西部波斯を征したりしが、其冬明の太祖及び埃及王の死を知りたりと也。帖木児が意を四方に用いたる知る可し。然らば則ち燕王の兵を起ししより終に位に即くに至るの事、タメルラン之を知る久し。建文二年(1400)よりタメルランはオットマン帝国を攻めしが、外に在る五年にして、永楽二年(1404)サマルカンドに還りぬ。カスチリヤの使と、支那の使とを引見したるは、即ち此歳にして、其の翌年直に馬首を東にし、争乱の余の支那に乱入せんとしたる也。永楽帝の此報を得るや、宋晟に勅して儆備せしむるのみならず、備えたるあること知りぬ可し。宋晟は好将軍なり、平羌将軍西寧侯たり。かつて御史ありて晟の自ら専にすることを劾しけるに、帝聴かずして曰く、人に任ずる専ならざれば功を成す能わず、況んや大将は一辺を統制す、いずくんぞ能く文法に拘らんと。又嘗て曰く、西北の辺務は、一に以て卿に委ぬと。其の材武称許せらるゝ是の如し。タメルランの来らんとするや、帝また別に虞るゝところあり。蓋し燕の兵を挙ぐるに当って、史之を明記せずと雖も、韃靼の兵を借りて以て功を成せること、蔚州を囲めるの時に徴して知る可し。建文未だ死せず、従臣の中、道衍金忠の輩の如き策士あって、西北の胡兵を借るあらば、天下の事知る可からざるなり。鄭和胡濙の出づるある、徒爾ならんや。建文の草庵の夢、永楽の金殿の夢、其のいずれか安くして、いずれか安からざりしや、試に之を問わんと欲する也。幸にしてタメルランは、千四百〇五年即永楽三年二月の十七日、病んでオトラル(Otoral)に死し、二雄相下らずして龍闘虎争するの惨禍を禹域の民に被らしむること無くして已みぬ。
四年応文は西平侯の家に至り、止まること旬日、五月庵を白龍山に結びぬ。五年冬、建文帝、難に死せる諸人を祭り、みずから文を為りて之を哭したもう。朝廷帝を索むること密なれば、帝深く潜みて出でず。此歳傅安朝に帰る。安の胡地を歴游する数万里、域外に留まる殆ど二十年、著す所西遊勝覧詩あり、後の好事の者の喜び読むところとなる。タメルランの後の哈里(Hali)雄志無し、使を安に伴わしめ方物を貢す。六年、白龍庵災あり、程済募り葺く。七年、建文帝、善慶里に至り、襄陽に至り、滇に還る。朝廷密に帝を雲南貴州の間に索む。
八年春三月、工部尚書厳震安南に使するの途にして、忽ち建文帝に雲南に遇う。旧臣猶錦衣にして、旧帝既に布衲なり。震たゞ恐懼して落涙止まらざるあるのみ。帝、我を奈何せんとするぞや、と問いたもう。震対えて、君は御心のまゝにおわせ、臣はみずから処する有らんと申す。人生の悲しきに堪えずや有りけん、其夜駅亭にみずから縊れて死しぬ。夏、帝白龍庵に病みたもう。史彬、程亨、郭節たま〳〵至る。三人留まる久しくして、帝これを遣りたまい、今後再び来る勿れ、我安居す、心づかいすなと仰す。帝白龍庵を舎てたもう。此歳永楽帝は去年丘福を漠北に失えるを以て北京を発して胡地に入り、本雅失里(Benyashili)阿魯台(Altai)等と戦いて勝ち、擒狐山、清流泉の二処に銘を勒して還りたもう。
九年春、白龍庵有司の毀つところとなる。夏建文帝浪穹鶴慶山に至り、大喜庵を建つ。十年楊応能卒し、葉希賢次いで卒す。帝因って一弟子を納れて応慧と名づけたもう。十一年甸に至りて還り、十二年易数を学びたもう。此歳永楽帝また塞外に出で、瓦剌を征したもう。皇太孫九龍口に於て危難に臨む。十三年建文帝衡山に遊ばせたもう。十四年、帝程済に命じて従亡伝を録せしめ、みずから叙を為らる。十五年史彬白龍庵に至る、庵を見ず、驚訝して帝を索め、終に大喜庵に遇い奉る。十一月帝衡山に至りたもう、避くるある也。十六年、黔に至りたもう。十七年始めて仏書を観たもう。十八年蛾眉に登り、十九年粤に入り、海南諸勝に遊び、十一月還りたもう。此歳阿魯台反す。二十年永楽帝、阿魯台を親征す。二十一年建文帝章台山に登り、漢陽に遊び、大別山に留まりたもう。
二十二年春、建文帝東行したまい、冬十月史彬と旅店に相遇う。此歳阿魯台大同に寇す。去年阿魯台を親征し、阿魯台遁れて戦わず、師空しく還る。今又塞を犯す。永楽帝また親征す。敵に遇わずして、軍食足らざるに至る。帰路楡木川に次し、急に病みて崩ず。蓋し疑う可きある也。永楽帝既に崩じ、建文帝猶在り、帝と史彬と客舎相遇い、老実貞良の忠臣の口より、簒国奪位の叔父の死を聞く。世事測る可からずと雖も、薙髪して宮を脱し、堕涙して舟に上るの時、いずくんぞ茅店の茶後に深仇の冥土に入るを談ずるの今日あるを思わんや。あゝ亦奇なりというべし。知らず応文禅師の如何の感を為せるを。即ち彬とゝもに江南に下り、彬の家に至り、やがて天台山に登りたもう。
仁宗の洪凞元年正月、建文帝観音大士を潮音洞に拝し、五月山に還りたもう。此歳仁宗また崩じて、帝を索むること、漸くに忘れらる。宣宗の宣徳元年秋八月、従亡諸臣を菴前に祭りたもう。此歳漢王高煦反す。高煦は永楽帝の子にして、仁宗の同母弟、宣徳帝の叔父なり。燕王の兵を挙ぐるや、高煦父に従って力戦す。材武みずから負み、騎射を善くし、酷だ燕王に肖たり。永楽帝の儲を立つるに当って、丘福、王寧等の武臣意を高煦に属するものあり。高煦亦窃に戦功を恃みて期するところあり。然れども永楽帝長子を立てゝ、高煦を漢王とす。高煦怏々たり。仁宗立って其歳崩じ、仁宗の子大位に即くに及びて、遂に反す。高煦の宣徳帝に於けるは、猶燕王の建文帝に於けるが如きなり。其父反して而して帝たり、高煦父の為せるところを学んで、陰謀至らざる無し。然れども事発するに至って、帝親征して之を降す。高煦乃ち廃せられて庶人となる。後鎖縶されて逍遙城に内れらるゝや、一日帝の之を熟視するにあう。高煦急に立って帝の不意に出で、一足を伸して帝を勾し地に踣せしむ。帝大に怒って力士に命じ、大銅缸を以て之を覆わしむ。高煦多力なりければ、缸の重き三百斤なりしも、項に缸を負いて起つ。帝炭を缸上に積むこと山の如くならしめて之を燃す。高煦生きながらに焦熱地獄に堕し、高煦の諸子皆死を賜う。燕王範を垂れて反を敢てし、身幸にして志を得たりと雖も、終に域外の楡木川に死し、愛子高煦は焦熱地獄に堕つ。如是果、如是報、悲む可く悼む可く、驚く可く嘆ずべし。
二年冬、建文帝永慶寺に宿して詩を題して曰く、
杖錫 来り遊びて 歳月深し、
山雲 水月 閑吟に傍ふ。
塵心 消尽して 些子も無し、
受けず 人間の物色の侵すを。
これより帝優游自適、居然として一頭陀なり。九年史彬死し、程済猶従う。帝詩を善くしたもう。嘗て賦したまえる詩の一に曰く、
牢落 西南 四十秋、
蕭々たる白髪 已に頭に盈つ。
乾坤 恨あり 家いづくにか在る。
江漢 情無し 水おのづから流る。
長楽 宮中 雲気散じ、
朝元 閣上 雨声収まる。
新蒲 細柳 年々緑に、
野老 声を呑んで 哭して未だ休まず。
又嘗て貴州金竺長官司羅永菴の壁に題したまえる七律二章の如き、皆誦す可し。其二に曰く、
楞厳を閲し罷んで 磬も敲くに懶し。
笑って看る 黄屋 団瓢を寄す。
南来 瘴嶺 千層逈に、
北望 天門 万里遙なり。
款段 久しく 忘る 飛鳳の輦、
袈裟 新に換る 兗龍の袍。
百官 此日 知る何れの処ぞ、
唯有り 羣烏の 早晩に朝する。
建文帝是の如くにして山青く雲白き処に無事の余生を送り、僊人隠士の踪跡沓渺として知る可からざるが如くに身を終る可く見えしが、天意不測にして、魚は深淵に潜めども案に上るの日あり、禽は高空に翔くれども天に宿するに由無し。忽然として復宮に入るに及びたもう。其事まことに意表に出づ。帝の同寓するところの僧、帝の詩を見て、遂に建文帝なることを猜知し、其詩を窃み、思恩の知州岑瑛のところに至り、吾は建文皇帝なりという。意蓋し今の朝廷また建文を窘めずして厚く之を奉ず可きをおもえるなり。瑛はこれを聞きて大に驚き、尽く同寓の僧を得て之を京師に送り、飛章して以聞す。帝及び程済も京に至るの数に在り。御史僧を糾すに及びて、僧曰く、年九十余、今たゞ祖父の陵の旁に葬られんことを思うのみと。御史、建文帝は洪武十年に生れたまいて、正統五年を距る六十四歳なるを以て、何ぞ九十歳なるを得んとて之を疑い、ようやく詰問して遂に其偽なるを断ず。僧実は鈞州白沙里の人、楊応祥というものなり。よって奏して僧を死に処し、従者十二人を配流して辺を戍らしめんとす。帝其中に在り。是に於て已むを得ずして其実を告げたもう。御史また今更に大に驚きて、此事を密奏す。正統帝の御父宣宗皇帝は漢王高煦の反に会いたまいて、幸に之を降したまいたれども、叔父の為に兵を動すに至りたるの境遇は、まことに建文帝に異なること無し。其の宣宗に紹ぎたまいたる天子の、建文帝に対して如何の感をや為したまえる。御史の密奏を聞召して、即ち宦官の建文帝に親しく事えたる者を召して実否を探らしめたもう。呉亮というものあり、建文帝に事えたり。乃ち亮をして応文の果して帝なるや否やを探らしめたもう。亮の応文を見るや、応文たゞちに、汝は呉亮にあらずや、と云いたもう。亮猶然らざるを申せば、帝旧き事を語りたまいて、爾亮に非ずというや、と仰す。亮胸塞がりて答うる能わず、哭して地に伏す。建文帝の左の御趾には黒子ありたまいしことを思ひ出でゝ、亮近づきて、御趾を摩し視るに、正しく其のしるし御座したりければ、懐旧の涙遏めあえず、復仰ぎ視ること能わず、退いて其由を申し、さて後自経して死にけり。こゝに事実明らかになりしかば、建文帝を迎えて西内に入れたてまつる。程済この事を聞きて、今日臣が事終りぬとて、雲南に帰りて庵を焚き、同志の徒を散じぬ。帝は宮中に在り、老仏を以て呼ばれたまい、寿をもて終りたまいぬという。
女仙外史に、忠臣等名山幽谷に帝を索むるを記する、有るが如く無きが如く、実の如く虚の如く、縹渺有趣の文を為す。永楽亭楡木川の崩を記する、鬼母の一剣を受くとなし、又野史を引いて、永楽帝楡木川に至る、野獣の突至するに遇い、之を搏す、攫されてたゞ半躯を剰すのみ、殮して而して匠を殺す、其迹を泯滅する所以なりと。野獣か、鬼母か、吾之を知らず。西人或は帝胡人の殺すところとなると為す。然らば則ち帝丘福を尤めて、而して福と其死を同じゅうする也。帝勇武を負い、毎戦危きを冒す、楡木川の崩、蓋し明史諱みて書せざるある也。
数か、数か。紅篋の度牒、袈裟、剃刀、噫又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、御溝の片舟、噫又何ぞ奇なるや。吾嘗て明史を読みて、其奇に驚き、建文帝と共に所謂数なりの語を発せんと欲す。後又道衍の伝を読む。中に記して曰く、道衍永楽十六年死す。死に臨みて、帝言わんと欲するところを問う。衍曰く、僧溥洽というもの繋がるゝこと久し。願わくは之を赦したまえと。溥洽は建文帝の主録僧なり。初め帝の南京に入るや、建文帝僧となりて遁れ去り、溥洽状を知ると言うものあり、或は溥洽の所に匿すと云うあり。帝乃ち他事を以て溥洽を禁めて、而して給事中胡濙等に命じて徧く建文帝を物色せしむ。之を久しくして得ず。溥洽坐して繋がるゝこと十余年、是に至りて帝道衍の言を以て命じて之を出さしむ。衍頓首して謝し、尋で卒すと。篋中の朱書、道士の霊夢、王鉞の言、呉亮の死と、道衍の請と、溥洽の黙と、嗚呼、数たると数たらざると、道衍蓋し知ることあらん。而して楡木川の客死、高煦の焦死、数たると数たらざるとは、道衍袁珙の輩の固より知らざるところにして、たゞ天之を知ることあらん。
底本:「日本の文学 3 五重塔・運命」ほるぷ出版
1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「幽秘記」改造社
1925(大正14)年6月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問箇所の確認にあたっては、底本の親本と、「露伴全集 第六卷」岩波書店、1953(昭和28)年12月20日発行を参照しました。
※底本の「凡例」に「韻文の作品は、原表記・歴史的仮名づかいのままとした。ただし、振仮名は現代表記に改めた。」と記載されています。
※「懐来に在り 兵三万と」「天に震い 飛矢雨の如し。」「城を撃たしむ 城壁破れんとす。」「前半は巵酒 歓楽、」「武当 大和山に」の空白は、底本通りです。
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校正:しだひろし
2004年11月17日作成
2014年7月3日修正
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