骨董
幸田露伴
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骨董というのは元来支那の田舎言葉で、字はただその音を表わしているのみであるから、骨の字にも董の字にもかかわった義があるのではない。そこで、汨董と書かれることもあり、また古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝えたまでであることは明らかだ。さてしかし骨董という音がどうして古物の義になるかというと、骨董は古銅の音転である、という説がある。その説に従えば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至って玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになったのである。なるほど韓駒の詩の、「言う莫かれ衲子の籃に底無しと、江南の骨董を盛り取って帰る」などという句を引いて講釈されると、そうかとも思われる。江南には銅器が多いからである。しかし骨董は果して古銅から来た語だろうか、聊か疑わしい。もし真に古銅からの音転なら、少しは骨董という語を用いる時に古銅という字が用いられることがありそうなものだのに、汨董だの古董だのという字がわざわざ代用されることがあっても、古銅という字は用いられていない。翟晴江は通雅を引いて、骨董は唐の引船の歌の「得董紇那耶、揚州銅器多」から出たので、得董の音は骨董二字の原だ、といっている。得董紇那耶は、エンヤラヤの様なもので、囃し言葉である、別に意味もないから、定まった字もないわけである。その説に拠って考えると、得董または骨董には何の意味もないが、古い船引き歌のその第二句の揚州銅器多の銅器の二字が前の囃し言葉に連接しているので、骨董ということが銅器などをいうことに転じて来たことになるのである。またそれから種〻の古物をもいうことになったのである。骨董は古銅の音転などという解は、本を知らずして末に就いて巧解したもので、少し手取り早過ぎた似而非解釈という訳になる。
また、蘇東坡が種〻の食物を雑え烹て、これを骨董羮といった。その骨董は零雑の義で、あたかも我邦俗のゴッタ煮ゴッタ汁などというゴッタの意味に当る。それも字面には別に義があるのではない。また、水に落つる声を骨董という。それもコトンと落ちる響を骨董の字音を仮りて現わしたまでで、字面に何の義もあるのではない。畢竟骨董はいずれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字ではなく、言語の音からの文字であって、文字は仮りものであるから、それに訓詁的のむずかしい理屈はない。
そんな事はどうでもいいが、とにかくに骨董ということは、貴いものは周鼎漢彝玉器の類から、下っては竹木雑器に至るまでの間、書画法帖、琴剣鏡硯、陶磁の類、何でも彼でも古い物一切をいうことになっている。そして世におのずから骨董の好きな人があるので、骨董を売買するいわゆる骨董屋を生じ、骨董の目ききをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在しているようになっている。実におもしろい事で、また盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口をいえば骨董は死人の手垢の附いた物ということで、余り心持の好いわけの物でもなく、大博物館だって盗賊の手柄くらべを見るようなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行われるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝がわが曹の頭上にかがやき、香気が我らの胸に逼って、そして今人をして古文明を味わわしめ、それからまた古人とは異なった文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きている人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。いわば骨董が好きになって、やっと人間並になったので、豚だの牛だのは骨董を捻くった例を見せていない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それからまた骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によっては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込み手を突込むようになる。イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきった書物の中をウロツイている訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、その他いろいろの分科の学者たちも、ありふれた事は一ト通り知り尽して終った段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入って行く。それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合もあって、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのはむしろ誇るべし、骨董を捻くる度にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍むべきものであるといってもよいのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てて、小町の真筆のあなめあなめの歌、孔子様の讃が金で書いてある顔回の瓢、耶蘇の血が染みている十字架の切れ端などというものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くはあるまいかも知らぬ。
骨董いじりは実にオツである、イキである、おもしろいに違いない、高尚に違いない、そして有意義に違いない、そして場合によっては個人のため社会のためになる事もあるに違いない。自分なぞも資産家でさえあればきっとすばらしい贋物や贋筆を買込で大ニコニコであるに疑いない。骨董を買う以上は贋物を買うまいなんぞというそんなケチな事でどうなるものか、古人も死馬の骨を千金で買うとさえいってあるではないか。仇十州の贋筆は凡そ二十階級ぐらいあるという談だが、して見れば二十度贋筆を買いさえすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳はないことだ。何だって月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買うのは月謝を出すのだから、少しも不当の事ではない。さて月謝を沢山出した挙句に、いよいよ真物真筆を大金で買う。嬉しいに違いない、自慢をしてもよいに違いない。嬉しがる、自慢をする。その大金は喜悦税だ、高慢税だ。大金といったって、十円の蝦蟇口から一円出すのはその人に取って大金だが、千万円の弗箱から一万円出したって五万円出したって、比例をして見ればその人に取って実は大金ではない、些少の喜悦税、高慢税というべきものだ。そしてその高慢税は所得税などと違って、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのではなく、直に骨董屋さんへ廻って世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしているのである。野暮でない、洒落切った税というもので、いやいや出す税や、督促を食った末に女房の帯を質屋へたたき込んで出す税とは訳が違う金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺ではないが、かねに恨が数〻ござる、思えばこのかね恨めしやの税で、こっちの高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のように美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣〻として投出す、受取る方も、ハッ五万円、先ずこれ位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣〻して受取る。悪い心持のする景色ではあるまい。誰だって高慢税は出したかろうではないか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪しからぬものだ。
この高慢税を納めさせることをチャンと合点していたのは豊臣秀吉で、何といっても洒落た人だ。東山時分から高慢税を出すことが行われ出したが、初めは銀閣金閣の主人みずから税を出していたのだ。まことに殊勝の心がけの人だった。信長の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直して、いわゆる骨董を有難く頂戴させている。羽柴筑前守なぞも戦をして手柄を立てる、その勲功の報酬の一部として茶器を頂戴している。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いているのである。その骨董に当時五万両の価値があれば、そういう骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買ったのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数〻の茶器を信長から勲功の賞として貰ったことを記している手紙を自分の知人が持っている。専門の史家の鑑定に拠れば疑うべくもないものだ。で、高慢税を払わせる発明者は秀吉ではなくて、信長の方が先輩であると考えらるるのであるが、大にその税法を広行したのは秀吉である。秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになった。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになった。茶道にも機運というものでがなあろう、英霊底の漢子が段〻に出て来た。松永弾正でも織田信長でも、風流もなきにあらず、余裕もあった人であるから、皆茶讌を喜んだ。しかし大煽りに煽ったのは秀吉であった。奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさえ茶事を学んだほど、茶事は行われたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗匠を随えていたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、また古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大に尊んだ。骨董は非常の勢をもって世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味のないものや、平凡のものを持囃したのではない。人をしてなるほどと首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、またそれは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇があり、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしてもそれが世態漸く安固ならんとする傾を示して来て、そうむやみに修羅心に任せて踠きまわることも無効ならんとする勢の見ゆる時において、どうして趣味の慾が頭を擡げずにいよう。いわんやまた趣味には高下もあり優劣もあるから、優越の地に立ちたいという優勝慾も無論手伝うことであって、ここに茶事という孤独的でない会合的の興味ある事が存するにおいては、誰か茶讌を好まぬものがあろう。そしてまた誰か他人の所有に優るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者があろう。需むる者が多くて、給さるべき物は少い。さあ骨董がどうして貴きが上にも貴くならずにいよう。上は大名たちより、下は有福の町人に至るまで、競って高慢税を払おうとした。税率は人〻が寄ってたかって競り上げた。北野の大茶の湯なんて、馬鹿気たことでもなく、不風流の事でもないか知らぬが、一方から観れば天下を茶の煙りに巻いて、大煽りに煽ったもので、高慢競争をさせたようなものだ。さてまた当時において秀吉の威光を背後に負いて、目眩いほどに光り輝いたものは千利休であった。勿論利休は不世出の英霊漢である。兵政の世界において秀吉が不世出の人であったと同様に、趣味の世界においては先ず以て最高位に立つべき不世出の人であった。足利以来の趣味はこの人によって水際立って進歩させられたのである。その脳力も眼力も腕力も尋常一様の人ではない。利休以外にも英俊は存在したが、少〻は差があっても、皆大体においては利休と相呼応し相追随した人〻であって、利休は衆星の中に月の如く輝き、群魚を率いる先頭魚となって悠然としていたのである。秀吉が利休を寵用したのはさすが秀吉である。足利氏の時にも相阿弥その他の人〻、利休と同じような身分の人〻はあっても、利休ほどの人もなく、また利休が用いられたほどに用いられた人もなく、また利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人もない。利休は実に天仙の才である。自分なぞはいわゆる茶の湯者流の儀礼などは塵ばかりも知らぬ者であるけれども、利休がわが邦の趣味の世界に与えた恩沢は今に至てなお存して、自分らにも加被していることを感じているものである。かほどの利休を秀吉が用いたのは実にさすがに秀吉である。利休は当時において言わず語らずの間に高慢税査定者とされたのである。
利休が佳なりとした物を世人は佳なりとした。利休がおもしろいとし、貴しとした物を、世人はおもしろいとし、貴しとした。それは利休に一毫のウソもなくて、利休の佳とし、おもしろいとし、貴しとした物は、真に佳なるもの、真におもしろい物、真に貴い物であったからである。利休の指点したものは、それが塊然たる一陶器であっても一度その指点を経るや金玉ただならざる物となったのである。勿論利休を幇けて当時の趣味の世界を進歩させた諸星の働きもあったには相違ないが、一代の宗匠として利休は恐ろしき威力を有して、諸星を引率し、世間をして追随させたのである。それは利休のウソのない、秀霊の趣味感から成立ったことで、何らその間にイヤな事もない、利休が佳とし面白しとし貴しとした物は、長えに真に佳であり面白くあり貴くある物であるのであるが、しかしまた一面には当時の最高有力者たる秀吉が利休を用い利休を尊み利休を殆んど神聖なるものとしたのが利休背後の大光燄だった事も争えない。で、利休の指の指した者は頑鉄も黄金となったのである。点鉄成金は仙術の事だが、利休は実に霊術を有する天仙の臨凡したのであったのである。一世は利休に追随したのである。人〻は争って利休の貴しとした物を貴しとした。これを得る喜悦、これを得る高慢のために高慢税を納めることを敢てしたのである、その高慢税の額は間接に皆利休の査定するところであったのである。自身はそんな卑役を取るつもりはなかったろうが、自然の勢で自分も知らぬ間に何時かそういう役廻りをさせられるようになっていたのである。骨董が黄金何枚何十枚、一郡一城、あるいは血みどろの悪戦の功労とも匹敵するようなことになった。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のようなものになったので、そしてその不換紙幣の発行者は利休という訳になったようなものである。西郷が出したり大隈が出したりした不換紙幣は直に価値が低くなったが、利休の出した不換紙幣はその後何百年を経てなおその価値を保っている。さすがは秀吉はエライ人間をつかまえて不換紙幣発行者としたもので、そして利休はまたホントに無慾でしかも煉金術を真に能くした神仙であったのである。不換紙幣は当時どれほど世の中の調節に与って霊力があったか知れぬ。その利を受けた者は勿論利休ではない、秀吉であった。秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使してわが用を為さしめたのである。さて祭りが済めば芻狗は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理屈を付けられて殺されて終った。後から後からと際限なく発行されるのではないから、不換紙幣は長くその価値を保った。各大名や有福町人の蔵の中に収まりかえっていた。考えて見れば黄金や宝石だって人生に取って真価値があるのではない、やはり一種の手形じゃまでなのであろう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄ったりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議はないのだ。骨董の佳い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払って、釉の工合の妙味言うべからざる茶碗なり茶入なり、何によらず見処のある骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達した料簡というものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さそうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだった人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽んで死んでしまった。一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草の煙よりも果敢いものにしか思えぬことを会得しないからだ。
骨董はどう考えてもいろいろの意味で悪いものではない。特に年寄になったり金持になったりしたものには、骨董でも捻くってもらっているのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用いてもらって、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落だ。老人には老人相応のオモチャを当がって、落ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷になる。小供はセルロイドの玩器を持つ、年寄は楽焼の玩器を持つ、と小学読本に書いて置いても差支ない位だ。また金持はとかくに金が余って気の毒な運命に囚えられてるものだから、六朝仏印度仏ぐらいでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己の金盥に狐の毛が三本着いているのだの、伊尹の使った料理鍋、禹の穿いたカナカンジキだのというようなものを素敵に高く買わすべきで、これはこれ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのというむずかしい神〻の神慮をすずしめ奉る御神楽の一座にも相成る訳だ。
が、それはそれでよいとして、年寄でもなく、二才でもなく、金持でもなく、文無しでもない、いわゆる中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。こういう連中は全く盲人というでもなく、さればといって高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気もないので、得て中有に迷った亡者のようになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数はこの連中で、仕方がないからこの連中の内で聡明でもあり善良でもある輩は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたくない事はないが、それは雲に梯の及ばぬ恋路みたようなものだから、やはり自分らの身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲をなるべく狭小にし、そして歳月をその中で楽しむ。いわゆる一ト筋を通し、一ト流れを守って、画なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯の何時頃とか、書なら書で儒者の誰〻とか、蒔絵なら蒔絵で極古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さえ払えば立派に眼も明き味も解って来て、間違なく、最も無難に清娯を得る訳だから論はない。しかるにまた大多数の人〻はそれでは律義過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転にあたるように、雪舟くさいものにも眼を遣れば応挙くさいものにも手を出す、歌麿がかったものにも色気を出す、大雅堂や竹田ばたけにも鍬を入れたがる、運が好ければ韓幹の馬でも百円位で買おう気でおり、支那の笑話にある通り、杜荀鶴の鶴の画なんという変なものをも買わぬと限らぬ勢で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもというように気が多い。そういう人〻は甚だ少くないが、時に気の毒な目を見るのもそういう人〻で、悪気はなくとも少し慾気が手伝っていると、百貨店で品物を買ったような訳ではない目にも自業自得で出会うのである。中には些性が悪くて、骨董商の鼻毛を抜いていわゆる掘出物をする気になっている者もある。骨董商はちょっと取片付けて澄ましているものだが、それだって何も慈善事業で店を開いている訳ではない、その道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過しているのだから、三十円のものは口銭や経費に二十円遣って五十円で買うつもりでいれば何の間違はないものを、五十円のものを三十円で買う気になっていては世の中がスラリとは行かない。五円のものを三十円で売附けられるようなことも、罷り間違えば出来ることになる道理だ。それを弥が上にもアコギな掘出し気で、三円五十銭で乾山の皿を買おうなんぞという図〻しい料簡を腹の底に持っていたとて、何の、乾也だって手に入る訳はありはしない。勧業債券は一枚買って千円も二千円もになる事はあっても、掘出しなんということは先以てなかるべきことだ。悪性の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図というものだ。しかるに骨董いじりをすると、骨董には必ずどれほどかの価があり金銭観念が伴うので、知らず識らずに賤しくなかった人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。
掘出し物という言葉は元来が忌わしい言葉で、最初は土中冢中などから掘出した物ということに違いない。悪い奴が棒一本か鍬一挺で、墓など掘って結構なものを得る、それが既ち掘出物で、怪しからぬ次第だ。伐墓という語は支那には古い言葉で、昔から無法者が貴人などの墓を掘った。今存している三略は張良の墓を掘って彼が黄石公から頂戴したものをアップしたという伝説だが、三略はそうして世に出たものではない。全く偽物だ。しかし古い立派な人の墓を掘ることは行われた事で、明の天子の墓を悪僧が掘って種〻の貴い物を奪い、おまけに骸骨を足蹴にしたので罰が当って脚疾になり、その事遂に発覚するに至った読むさえ忌わしい談は雑書に見えている。発掘さるるを厭って曹操は多くの偽塚を造って置いたなどということは、近頃の考証でそうではないと分明したが、王安石などさえ偽塚の伝説を信じて詩を作ったりしていたところを見ると、伐墓の事は随分めずらしいことでなかったことが思われる。支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬ることもあるのだから、酷い奴は冢中の宝物から、骸骨の口の中の玉まで引ぱり出して奪うことも敢てしようとしたこともあろう。濰県あたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇になると、鋤鍬を用意して先達を先に立てて、あちこちの古い墓を捜しまわって、いわゆる掘出し物挊ぎをするという噂を聞いた。虚談ではないらしい。日本でも時〻飛んでもないことをする者があって、先年西の方の某国で或る貴い塋域を犯した事件というのが伝えられた。聞くさえ忌わしいことだが、掘出し物という語は無論こういう事に本づいて出来た語だから、いやしくも普通人的感情を有している者の使うべきでも思うべきでもない語であり事である。それにも関わらず掘出し物根性の者が多く、蚤取り眼、熊鷹目で、内心大掘出しをしたがっている。人が少し悪い代りに虫が大に好い談である。そういう人間が多いから商売が険悪になって、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋めて置いて、掘出し党に好い掘出しをしたつもりで悦ばせて、そして釣鉤へ引掛けるなどという者も出て来る。京都出来のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞというケレン商売も始まるのである。もし真に掘出しをする者があれば、それは無頼溌皮の徒でなければならぬ。またその掘出物を安く買って高く売り、その間に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払っている商売人でなければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでいるのである。毎日〻〻真剣勝負をするような気になって、良い物、悪い物、二番手、三番手、いずれ結構上〻の物は少い世の中に、一ト眼見損えば痛手を負わねばならぬ瀬に立って、いろいろさまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違わず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛である。どうして油断も隙もなりはしない。波の中に舟を操っているようなものである。波瀾重畳がこの商買の常である。そこへ素人が割込んだとて何が出来よう。今この波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談をちょっと示そう。但しいずれも自分が仮設したのでない、出処はあるのである。いわゆる「出」は判然しているので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハハハ。
これは二百年近く古い書に見えている談である。京都は堀川に金八という聞えた道具屋があった。この金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内〻、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になったつもりでいる。実際また何から何までに渡って、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきって一人で遣って行かれるほどになっていたのである。しかし何家の老人も同じ事で、親父はその老成の大事取りの心から、かつはあり余る親切の気味から、まだまだ位に思っていた事であろう、依然として金八の背後に立って保護していた。
金八が或時大阪へ下った。その途中深草を通ると、道に一軒の古道具屋があった。そこは商買の事で、ちょっと一ト眼見渡すと、時代蒔絵の結構な鐙がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留って視ると、如何にも時代といい、出来といい、なかなかめったにはない好いものだが、残念なことには一方しかなかった。揃っていれば、勿論こんな店にあるべきものではないはずだが、それにしても何程というだろうと、価を聞くと、ほんの端金だった。アア、一対なら、おれの腕で売れば慥に三十両にはなるものだが、片方では仕方がない、少しの金にせよ売物にならぬものを買ったってどうもならぬと、何ともいえないその鐙の好い味に心は惹かれながら、振返っては見つつも思い捨てて買わずに大阪へと下った。いくら好い物でも商売にならぬものを買わなかったところはさすがに宜かった。ところが、それから道の程を経て、京橋辺の道具屋に行くと、偶然といおうか天の引合せといおうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あった。ン、これが別れ別れて両方後家になっていたのだナ、しめた、これを買って、深草のを買って、両方合わせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問うと片方の割合には高いことをいって、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、なかなか廉くない。仕方がないから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方のいい値で買って、わが家へ帰ると直にこの話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであった。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たわけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買いおったナ」と罵られた。金八も馬鹿じゃなかった。ハッと気が付いて、「しまった。向後気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」という渾名を付けられたということである。これは、もとより片方しかなかった鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径のまわり道をして同じその鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さえ急かねば謀られる訳はないが、他人にして遣られぬ前にというのと、なまじ前に熟視していて、テッキリ同じ物だと思った心の虚というものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食わせられたのである。親父はさすがに老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事があるものではないというところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかったナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破ったところは親父だけあったのである。勿論深草を尋ねても鐙はなくって、片鐙の浮名だけが金八の利得になったのである。昔と今とは違うが、今だって信州と名古屋とか、東京と北京とかの間でこの手で謀られたなら、慾気満〻の者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八はちょっとおもしろい談だ。
も一ツ古い談をしようか、これは明末の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人〻や骨董屋の種〻の性格風丰がおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるということを語っている点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董というものについて一種の淡い省悟を発せしめられるような気味があるので、自分だけかは知らぬが興味あることに覚える。談の中に出て来る人〻には名高い人〻もあり、勿論虚構の談ではないと考えられるのである。
定窯といえば少し骨董好きの人なら誰でも知っている貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯というのである。詳しく言えばその中にも南定と北定とあって、南定というのは宋が金に逐われて南渡してからのもので、勿論その前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和宣和頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。また、新定というものがあるが、それは下って元の頃に出来たもので、ほんとの定窯ではない。北定の本色は白で、白の泑水の加わった工合に、何ともいえぬ面白い味が出て、さほどに大したものでなくてさえ人を引付ける。
ところが、ここに一つの定窯の宝鼎があった。それは鼎のことであるからけだし当時宮庭へでも納めたものであったろう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であった。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が曲水山房に蔵していた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯とつづき合で、七峯は当時の名士であった楊文襄、文太史、祝京兆、唐解元、李西涯等と朋友で、七峯のいたところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のように修禊の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だったばっかりでなかったのである。そこでその定窯の鼎の台座には、友人だった李西涯が篆書で銘を書いて、鐫りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであったろう。そういうスバらしい鼎だったのである。
ところが嘉靖年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種〻の点で損害を蒙って、次第〻〻に家運が傾いた。で、蓄えていたところの珍貴な品〻を段〻と手放すようになった。鼎は遂に京口の靳尚宝の手に渡った。それから毘陵の唐太常凝菴が非常に懇望して、とうとう凝菴の手に入ったが、この凝菴という人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒識にも長け、勿論学問もあった人だったから、家には非常に多くの優秀な骨董を有していた。しかし孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器は皆その光輝を失ったほどであった。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内第一、天下一品とすることに定まってしまった。実際無類絶好の奇宝であり、そして一見した者と一見もせぬ者とに論なく、衆口嘖〻としていい伝え聞伝えて羨涎を垂れるところのものであった。
ここに呉門の周丹泉という人があった。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先ず天才的の眼も手も有していた人であったが、或時金閶から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請い、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物でないことを知って交っていた唐氏は喜んで引見して、そしてその需に応じた。丹泉はしきりに称讃してその鼎をためつすがめつ熟視し、手をもって大さを度ったり、ふところ紙に鼎の紋様を模したりして、こういう奇品に面した眼福を喜び謝したりして帰った。そしてまた舟を出して自分の旅路に上ってしまった。
それから半歳余り経た頃、また周丹泉が唐太常をおとずれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じような白定鼎をそれがしも手に入れました」といった。唐太常は吃驚した。天下一品と誇っていたものが他所にもあったというのだからである。で、「それならばその品を視せて下さい」というと、丹泉は携えて来ていたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取って視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色の工合から、全くわが家のものと寸分違わなかった。そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟か孿生か、いずれをいずれとも言いかねるほど同じものであった。自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しっくりと合する。台座を合せて見ても、またそれがために造ったもののようにぴたりと合う。いよいよ驚いた太常は溜息を吐かぬばかりになって、「して君のこの定鼎はどういうところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾と笑って、「この鼎は実は貴家から出たのでござりまする。かつて貴堂において貴鼎を拝見しました時、拙者はその大小軽重形貌精神、一切を挙げて拙者の胸中に了〻と会得しました。そこで実は倣ってこれを造りましたので、あり体に申します、貴台を欺くようなことは致しませぬ」といった。丹泉は元来毎〻江西の景徳鎮へ行っては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そしていわゆる掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買おうとする慾張りや、訳も分らぬくせに金銭ずくで貴い物を得ようとする耳食者流の目をまわさせていたもので、その製作は款紋色沢、すべて咄〻として真に逼ったものであったのである。恐ろしい人もあったもので、明の頃に既にこういう人があったのであるから、今日でもこの人の造らせた模品が北定窯だの何だのといって何処かの家に什襲珍蔵されていぬとは限るまい。さて、周の談を聞いて太常はまた今更に歎服した。で、「それならばこの新鼎は自分に御譲りを願う、真品と共に秘蔵して永く副品としますから」というので、四十金を贈ったということである。無論丹泉はその後また同じ品を造りはしなかったのであろう。
この談だけでもかなり骨董好きは教えられるところがあろうが、談はまだ続くのである。それから年月を経て、万暦の末年頃、淮安に杜九如というものがあった。これは商人で、大身上で、素敵な物を買出すので名を得ていた。千金を惜まずして奇玩をこれ購うので、董元宰の旧蔵の漢玉章、劉海日の旧蔵の商金鼎なんというものも、皆杜九如の手に落ちた位である。この杜九如が唐太常の家にある定鼎の噂を聞いていて、かねがねどうかして手に入れたいものだと覗っていた。太常の家は孫の代になって、君兪というものが当主であった。君兪は名家に生れて、気位も高く、かつ豪華で交際を好む人であったので、九如は大金を齎らして君兪のために寿を為し、是非ともどうか名高い定鼎を拝見して、生平の渇望を慰したいと申出した。君兪は金で面を撲るような九如を余り好みもせず、かつ自分の家柄からして下眼に視たことででもあろう、ウン御覧に入れましょうといって半分冗談に、真鼎は深蔵したまま、彼の周丹泉が倣造した副の方の贋鼎を出して視せた。贋鼎だって、最初真鼎の持主の凝菴が歎服した位のものではあり、まして真鼎を目にしたことはない九如であるから、贋物と悟ろうようはない、すっかりその高雅妙巧の威に撲たれて終って、堪らない佳い物だと思い込んで惚れ惚れした。そこで無理やりに千金を押付て、別に二百金を中間に立って取做してくれる人に酬い、そして贋鼎を豪奪するようにして去った。巧偸豪奪という語は、宋の頃から既に数〻見える語で、骨董好きの人〻には豪奪ということも自然と起らざるを得ぬことである。マアそれも恕すべきこととすれば恕すべきことである。
しかし君兪の方では困ることであった。何故といえば持って行かれたのが真物ではないからである。君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だという位のことで贋物を真顔で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でもなく温厚の人なので、欺いたようになったまま済ませて置くことは出来ぬと思った。そこで門下の士を遣って、九如に告げさせた。「君が取って行ったものは実は贋鼎である。真の定鼎はまだ此方に蔵してあるので、それは太常公の戒に遵って軽〻しく人に示さぬことになっているから御視せ申さなかったのである。しかるに君が既に千金を捐てて贋品を有っているということになると、君は知らなくても自分は心に愧じぬという訳にはゆかぬではないか。どうかあの鼎を還して下さい、千金は無論御返しするから」と理解させたのである。ところが世間に得てあるところの例で、品物を売る前には金が貴く思えて品物を手放すが、品物を手放してしまうとその物のないのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思ったから、贋物だったなぞというのは口実だと考えて、約束変改をしたいのが本心だと見た。そこで、「どういたしまして。あの様な贋物があるものではございますまい。仮令贋物にしましたところで、手前の方では結構でございます、頂戴致して置きまして後悔はございません」とやり返した。「そんなにこちらの言葉を御信用がないならば、二つの鼎を列べて御覧になったらば如何です」と一方はいったが、それでも一方は信疑相半して、「当方はどうしても頂戴して置きます」と意地張った。そこで唐君兪は遂に真鼎を出して、贋鼎に比べて視せた。双方とも立派なものではあるが、比べて視ると、神彩霊威、もとより真物は世間に二ツとあるべきでないところを見わした。しかし杜九如も前言の手前、如何ともしようとはいわなかった。つまり模品だということを承知しただけに止まって、返しはしなかった。九如のその時の心の中は傍からはなかなか面白く感ぜられるが、当人に取っては随分変なものであったろう。しかしこの委曲を世間が知ろうはずはない、九如の家には千金に易えた宝鼎が伝わったのである。九如は老死して、その子がこれを伝えて有っていた。
王廷珸字は越石という者があった。これは片鐙を金八に売りつけたような性質の良くない骨董屋であった。この男が杜九如の家に大した定鼎のあることを知っていた。九如の子は放蕩ものであったので、花柳の巷に大金を捨てて、家も段〻に悪くなった。そこへ付込んで廷珸は杜生に八百金を提供して、そして「御返金にならない場合でも御宅の窯鼎さえ御渡し下されば」ということをいって置いた。杜生はお坊さんで、廷珸の謀った通りになり、鼎は廷珸の手に落ちてしまった。廷珸は大喜びで、天下一品、価値万金なんどと大法螺を吹立て、かねて好事で鳴っている徐六岳という大紳に売付けにかかった。徐六岳を最初から廷珸は好い鳥だと狙っていたのであろう。ところが徐はあまり廷珸が狡譎なのを悪んで、横を向いてしまった。廷珸はアテがはずれて困ったが仕方がなかった。もとよりヤリクリをして、狡辛く世を送っているものだから、嵌め込む目的がない時は質に入れたり、色気の見える客が出た時は急に質受けしたり、十余年の間というものは、まるで碁を打つようなカラクリをしていたその間に、同じような族類系統の肖たものをいろいろ求めて、どうかして甘い汁を啜ろうとしていた。その中に泰興の季因是という、相当の位地のある者が廷珸に引かかった。
季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしていた。勿論見た事もなければ、詳しい談を聞いていたのでもない。ただその名に憧れて、大した名物だということを知っていたに過ぎない。廷珸は因是の甘いお客だということを見抜いて、「これがその宝器でございまして、これこれの訳で出たものでございまする」と宜い加減な伝来のいきさつを談して、一つの窯鼎を売りつけた。それも自分が杜生から得た物を売ったのならまだしもであって、贋鼎にせよ周丹泉の立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さえ異っている方鼎であった。しかし季因是はまるで知らなかったのだから、廷珸の言に瞞着されて、大名物を得る悦びに五百金という高慢税を払って、大ニコニコでいた。
しかるに毘陵の趙再思という者が、偶然泰興を過ぎたので、知合であったから季因是の家をおとずれた。毘陵は即ち唐家のあるところの地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだこともあって、彼の大名物の定鼎を見たこともあったのである。その毘陵の人が来たので、季因是は大天狗で、「近ごろ大した物を手に入れましたが、それは乃ち唐氏の旧蔵の名物で、わざとにも御評鑒を得たいと思っておりましたところを、丁度御光来を得ましたのは誠に仕合せで」という談だ。趙再思はただハイハイといっていると、季は重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君もかつて御覧になったことが御有りですか」といった。そこで趙は堪えかねて笑い出して、「何と仰あります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、円鼎で、足は三つで、方鼎と仰あるが、それは何で」と答えた。季因是はこれを聴くと怫然として奥へ入ってしまって久しく出て来なかった。趙再思は仕方なしに俟っていると、暮方になって漸く季は出て来て、余怒なお色にあるばかりで、「自分に方鼎を売付けた王廷珸という奴めは人を馬鹿にした憎い奴、南科の屈静源は自分が取立てたのですから、今書面を静源に遣わしました。静源は自分のためにこの一埒を明けてくれましょう」ということであった。果して屈静源は有司に属して追理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿してしまって、人をたのんで詫を入れ、別に偽物などを贈って、やっと牢獄へ打込まれるのを免れた。
談はこれだけで済んでも、かなり可笑味もあり憎味もあって沢山なのであるが、まだ続くからいよいよ変なものだ。廷珸の知合に黄〻石、名は正賓というものがあった。廷珸と同じ徽州のもので、親類つづきだなどいっていたが、この男は搢紳の間にも遊び、少しは鼎彝書画の類をも蓄え、また少しは眼もあって、本業というのではないが、半黒人で売ったり買ったりもしようという男だ。こういう男は随分世間にもあるもので、雅のようで俗で、俗のようで物好でもあって、愚のようで怜悧で、怜悧のようで畢竟は愚のようでもある。不才の才子である。この正賓はいつも廷珸と互に所有の骨董を取易えごとをしたり、売買の世話をしたりさせたりして、そして面白がっていた。この男が自分の倪雲林の山水一幅、すばらしい上出来なのを廷珸に託して売ってもらおうとしていた。価は百二十金で、ちょっとはないほどのものだった。で、廷珸の手へ託しては置いたが、金高ものでもあり、口が遠くて長くなる間に、どんな事が起らぬとも限らぬと思ったので、そこでなかなかウッカリしておらぬ男なので、その幅の知れないところへ予じめ自分の花押を記して置いて、勿論廷珸にもその事は秘しておったのである。廷珸はその雲林を見ると素敵に好いので、欲しくなって堪らなかった。で、上手な贋筆かきに頼んで、すっかりその通りの模本をこしらえさせた。正賓が取返しに来た時、米元章流の巧偸をやらかして、摹本の方を渡して知らん顔をきめようというのであった。ところが先方にも荒神様が付いていない訳ではなくて、チャント隠し印のあることには気が付かなかったのである。こういうイキサツだから何時まで経っても売れない。そこで正賓は召使の男を遣って、雲林を取返して来いといい付けた。隠し印のことは無論男に呑込ませたのである。この男の王仏元というのも、平常主人らの五分もすかさないところを見聞して知っているので、なかなか賢くなっている奴だった。で、仏元は廷珸のところへ往って、雲林を返して下さいというと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼も異ってはいなかった。しかし仏元は隠しじるしのあり処についてその有無を査べた。不思議や主人の花押は影も形もなかった。ないはずである、廷珸が今渡したものは正しく摹品なのであるもの。
仏元はさてこそと腹の中でニヤリと笑った。ところでこの男がまた真剣白刃取りを奉書の紙一枚で遣付けようという男だったから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面からこちらの理屈の木刀を揮って先方の毒悪の真剣と切結ぶような不利なことをする者ではなかった。何でもない顔をして模本の雲林を受取った。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体を交わして危気のないところに身を置いたのである。そしてこういうことを言った。「主人はただ私に画を頂戴して参れとばかりではなく、こちらの定窯鼎をお預かり致してまいれ、御直段の事はいずれ御相談致しますということで」といった。定鼎の売れ口がありそうな談である。そこで廷珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。廷珸は仏元に、より長い真剣を渡して終ったのである。
そこへ正賓は遣って来た。そして画を検査してから、「售れないなら售れないで、原物を返してくれるべきに、狡いことをしては困る」というと、「飛んでもない、正しくこれは原物で」と廷珸はいい張る。「イヤ、そうは脱けさせない。自分は隠しじるしをして置いた、それが今何処にある。ソンナ甘い手を食わせられる自分じゃない」という。「そりゃいい掛りというもので、原物を返せば論はないはずだ」という。双方負けず劣らず遣合って、チャンチャンバラと闘ったが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、この鼎を還すまじいさまをしていた。論に勝っても鼎を取られては詰らぬと気のついた廷珸は、スキを見て鼎を奪取ろうとしたが、耳をしっかり持っていたのだったから、巧くは奪えなかった。耳は折れる、鼎は地に墜ちる。カチャンという音一ツで、千万金にもと思っていたものは粉砕してしまった。ハッと思うと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になって当面の敵の正賓にウンと頭撞きを食わせた。正賓は肋を傷けられて卒倒し、一場は無茶苦茶になった。
元来正賓は近年逆境におり、かつまた不如意で、惜しい雲林さえ放そうとしていた位のところへ、廷珸の侮りに遭い、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶苦痛一時に逼り、越夕して終に死んでしまった。廷珸も人命沙汰になったので土地にはいられないから、出発して跡を杭州にくらました。周丹泉の造った模品はこれで土に返った訳である。
談はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。廷珸が前に定窯の鼎類数種を蒐めた中に、なお唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺くべきものがあった。廷珸は杭州に逃げたところ、当時潞王が杭州に寓しておられた。廷珸は潞王の承奉兪啓雲という者に遇って、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀した。そして潞王に手引してもらって、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかかり、万事不束で、人も満足なものもなかったので、一厨役の少し麁鹵なものにその鼎を蔵した管龠を扱わせたので、その男があやまってその贋鼎の一足を折ってしまった。で、その男は罪を懼れて身を投げて死んで終った。その頃大兵が杭州に入り来たって、潞王は奔り、承奉は廃鼎を銭塘江に沈めてしまったという。
これでこの一条の談は終りであるが、骨董というものに附随して随分種〻の現象が見られることは、ひとりこの談のみの事ではあるまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。ただし願わくはスラリと大枚な高慢税を出して楽みたい。廷珸や正賓のような者に誰しも関係したくは思うまい。それからまた、いくら詰らぬ人にだって、鼎の足を折ったために身を投げてもらったりなぞしたくはあるまい。
底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1990(平成2)年11月16日第1刷発行
1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第六巻」岩波書店
1953(昭和28)年12月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2008年1月15日作成
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