島原の乱
菊池寛



       切支丹宗徒蜂起之事


 肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草上島かみじまの北端との間に、大矢野島、千束せんぞく島などの島が有って、不知火しらぬい有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。

 天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、たちま崩潰ほうかいした程であるから、沿道の小名郷士ごうしの輩はふうを望んで秀吉の軍門に投じたのであった。

 秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。

 徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。

 行長の遺臣益田甚兵衛好次よしつぐはそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇土郡江辺えべ村に晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一揆の乱が起った年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んで居た。元来行長は切利支丹宗の帰依者であったから、その家臣も多くこのおしえを奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、法度はっとたるべき禁令をいた。これより宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居ること世人の知るが如くである。

 九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、苫屋とまや苫屋の朝夕に、ひそかな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。

 大矢野島の益田好次に男子があった。名は四郎、五歳にして書を善くし、天性の英資は人々を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎に出て明人に雇われた。ある時一明人、四郎の風貌をて此子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事を為すであろう、と語ったと云う。父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年ようやく十六であったが、英敏の資に加うるに容資典雅にして挙動処女の如くであった。当時は、美少年尊重の世であったから、忽ち衆人讃仰のまととなった。この弱冠の一美少年こそは、切利支丹一揆の総帥そうすいとなった天草四郎時貞である。

 当時島原一円の領主であった松倉重次しげつぐは惰弱の暗君で、いたずらに重税をほしいままにした。宗教上の圧迫も残虐で宗徒を温泉うんぜん(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。領主の暴政に、人心離反して次第に動揺し、流言蜚語ひごまた盛んに飛んだ。──病身がちであった将軍家光は既にこうじているが、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる者だけが身を全うし得るであろうとか、紛々たる流言である。四郎時貞が父と共に住居して居る大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達が居た。これ等はこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、つては益田好次同様豊臣の恩顧を受けた者である。

 この年の夏彼等は人心の動揺に乗じて、「慶長の頃天草上津浦かみつうらの一伴天連ばてれんが、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝天をして東西の雲を焦さしめ、地をして不時の花を咲かしめるであろう。国郡騒動して人民困窮するけれども、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗門の威を以って救うであろうとあるが、今年は正にその時に当る」と流言を放った。丁度この夏は干魃かんばつで烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりしたから、人民は容易にこれらの流言を信ずるに至った。そこで松右衛門は好次とはかって、四郎をもって天帝くだす処の天章と為し、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。来り会する老若男女は、威風かたわらを払い、諄々じゅんじゅんとして説法する美少年の風姿に、まずその眼をみはったに相違ない。その上彼等が尊敬し来った長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の尊崇に変った。更に四郎が不思議の神通力を現すと云う噂は、門徒の信心を強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増さしめた。四郎天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の掌上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂女が来ったのに四郎うなずくと忽ちに正気に還ったとか、またある時には、道場に来て四郎をののしる者があったが、其場におしとなりいざりとなった、などと云う。こうして宗教的熱情は高まり物情次第に騒然となって来た。

「領主板倉氏の宗徒への圧迫と課役の苛酷さとは、平時も堪えがたし。今年の凶作をもって、如何にして之に堪えてゆかれよう。今は非常手段に訴えるより途はなかろう」この様な論議が各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒等は此処に秘密のアジトを置き、天草島原の両地方の人々が来り会して、策謀をこらした。後世談合島と称される所以ゆえんである。

 島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、熱烈な信者であった。彼等の父は嘗つて藩の宗門改めに会って斬られた者達であるが、角蔵、三吉は各々の父の髑髏どくろと天主像を秘かに拝して居たのを、此頃に至って公然と衆人に示して、勧説かんぜいするに至った。立ち所に帰する者七百人に及んだが、領内の不穏を察して居た有馬藩では、之が逮捕に、松田兵右衛門以下二十五人をして、船に乗じて赴かしめた。両名の妻子共々に捕えた時に、三吉は角蔵に向って「自分が身を以って教に殉ずるのは、もとから願う処だ。しかし五歳の男児と三歳の女児の未だ教の何たるかを知らない者まで連座するのを見ると涙がこぼれる」と云うと、角蔵は、「何と云う事を云われる。我等両人世々教に殉ずる事になったわけで、生前のはえ、死後の寵何の之に加えるものがあろう」と答え笑って縛に就いた。たまたま三吉の家で礼拝して居た男女が七十余人あったが、角蔵、三吉両家の者を始め、主謀者とみなされた者等すべて十六人が、藩船に乗せられて折柄暮れようとする海へ去るのを見送って、「自分等も早晩刑を受ける事であろう。今はただ相共に天国にまみえん事を待つのみである」と呼ばわりながら、見送った。これは十月二十二日の事であるが、その翌二十三日、有江村の郷士佐志木作右衛門のやしきに信徒が集って居るのを耳にした代官林兵右衛門は単身乗り込んで、天主の画像を奪い破り、かまどに投じた。忍従の信徒達もこれを見ては起たざるを得なかったのであろう。座に在った四十五人は等しく耒耜らいしを採って、兵右衛門を打ち殺して仕舞った。ここに於て佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門等とはかったが、結局ながら藩兵に攻められるより兵を挙ぐるにかずとなった。

「天主の教を奉じての事故ことゆえ日本全土を敵とするもおそるるに当らない。いわんや九州の辺土をや。事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事だ」聞く者皆唯々として従ったので、挙兵の檄文げきぶんは忽ちに加津佐、串山、小浜、千々岩ちぢわを始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥銃の為にたおされた。千々岩、小浜、串山三村の代官高橋武右衛門は、夜半放火されて驚いて出る処を討たれた。其他諸々在々の諸役人も同じく襲撃されたのである。

 時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老臣岡本新兵衛は、士卒をして船で沿岸を偵察せしめるが、ほとんど、津々浦々が一揆である。うかつに上陸した者は、ことごとく襲われる始末である。殊に一揆は代官所を襲って得た処の鳥銃槍刀の武器を多く手に収めて居る。其上に元来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作の名手も、少なくない。三会みえ村の百姓金作は針を遠くに懸けて置いて、百発百中と云う程で、人呼んで懸針金作と称した位である。

 銃の名手丈でなく大斧おおおのを揮う老農があるかと思えば、剣法覚えの浪士が居る。こうした油断のならない一揆の群が何処にひそんで居るかわからないのだから、軍陣に慣れて居る藩士達も徒らに奔命に疲れるばかりでなく、諸処に討死をする。一揆の方では三会村の藩の米倉を奪取しようとさえした。

 隣国の熊本藩、佐賀藩では急を聞いて援軍各々数千を国境にまで出したが、国境以外は幕命がなければ兵を進めることは法度である。豊後府内に居る幕府の目付が救援を許さないので、次第に騒動が大きくなるのを眺めているだけだった。

 島原城から繰出した討手の軍勢も散々に反撃を受けて、早々に退き籠城しなければならなかった。宗徒勢は城下の民家社寺を焼き払って陣を布いた。此頃になると宗徒勢も大軍をなす程であるから、誰か総大将を立てようとの論議が出て来た。さらば稀代の俊英天草四郎時貞こそ然るべしと云うので、大矢野宮津の道場に急使をたてた。四郎は直ちに諾して、「我を大将と仰ぐからには、如何なる下知にもしたがうべし。陣立を整う故に早々各地の人数を知らしむべし」と命令した。道場の周囲には既に七百の武装民が集って居た。間もなく四郎は警固の者四五十人と共に、島原の大江村に渡った。首謀者達は此処で相談した結果、先ず長崎附近へ人数一万二千余を二つに分けて遣わし、日見ひみ峠、茂木もぎ峠に布陣して長崎を見下し、使をやって若し宗門に降らざる時は、一度に押し降って襲撃放火し、その後、勢いに乗じて島原城を乗取るべしと定めた。要地長崎を窺う軍略は一時の暴徒の考え得る処ではない。まさに、出動しようとして居る処へ天草の上津浦から使が来た。曰く、「寺沢家の支城富岡では、宗徒鎮圧の為に三宅藤兵衛を大将として、上津浦の近く島子志柿辺まで軍勢を指し向けたから至急に加勢を乞う」と。

 そこで、長崎進撃を差置いて、四郎千五百を率いて天草に渡り、上津浦の人数と合して三道より進んだ。島子の一戦に寺沢勢を敗走せしめ、本戸もとどまで追撃して、ついに大将藤兵衛を、乱軍の中に自刃せしめた。何しろ、島中の人民はほとんど総てが信徒なので、征討軍が放つ密偵は悉く偽りの報告をもたらすから、まるで裏をかかれ通しである。

 十一月十九日、寄手の軍は富岡城を攻めた。総軍一万二千分って五軍となす。加津佐の三郎兵衛、口野津くちのつの作兵衛、有馬の治右衝門、千々岩の作左衛門以下千五百人、有家ありやの監物、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千二百人、大矢野の甚兵衛、大矢野の三左衛門以下二千五百人、本渡もとわたりの但馬、楠浦の弥兵衛以下二千人、上津浦の一郎兵衛、下津浦の治右衛門、島子の弥次兵衛以下三千七百人、部将皆郷士豪農のたぐいである。総大将四郎時貞は相津玄察、下津浦の次兵衛と共に二百の麾下きかを従えて中軍に在った。陣中悉く白旗を掲げ十字架を画いた。「山野悉く白旗に満ち、人民皆十字架を首に懸けるであろう」と云ったバテレンの予言は、此処に実現したわけである。城は二の丸まで押し破られたが、城兵も殊死して防ぎ、寄手の部将加津佐の三郎兵衛を斃したりした。既に城も危くなった頃、四郎時貞は不意に囲を解き、軍船海を圧して、島原に帰って行った。江戸幕府急を知って、征討の軍きたる事近しとの報を受けたからであった。


       板倉重昌憤死之事


 江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯保科正之まさゆきを征討使たらしめんと議した。家光は東国の辺防をゆるうすべからずと云って許さず、よって板倉内膳正重昌しげまさを正使とし、目付石谷いしたに十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷たださと、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。

 さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。

 城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の蘆塚あしづか忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師有家久意ありやひさとも年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江休意よしとも、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、蜷川にながわ左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪士之を承った。加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ヶ村の庄屋三十数名が物頭役として十軍に分った総勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。

 上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数倍する大軍である。上使重昌は、鍋島勢を大江口浜手はまてより北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。十二月十九日寄手ときの声を揚げると城中からも同じく声を合せて、少しも周章あわてた気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻めすべく評議したが、有馬忠郷と立花忠茂は共に先鋒を争うのを重昌さとして忠茂を先鋒と定めた。二十日の黎明れいめい、忠茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城をじて、一番槍と叫びもあえず、弾丸三つまでもかぶとを貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦うが、城中ではかねてよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者忽ち算を乱した。重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危んで、退軍を命ずるが、土民軍に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、軍使三度到って漸く帰陣した。大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退いて仕舞った。

 籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一向はかばかしくない。温泉颪うんぜんおろしの寒風に徒らにふるえ乍ら、寛永十四年は暮れて行った。其頃幕府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとのしらせがなされた。このほうを受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦をもって、総攻撃をなすべく全軍に命じた。元旦とらの下刻の刻限と定めて、総勢一度に鬨を挙げて攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ旧臘きゅうろう我軍攻撃に際しては諸軍救授を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く気色けしきもない。板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諫めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるよりみちはないと嘆いた。進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の出立いでたちは、紺縅鎧こんおどしのよろいに、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻とうまと名づける家重代の長槍をって居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。小林久兵衛前駆奮撃して重昌をまもるが、丸石落ち来って指物の旗を裂き竿さおを折った。屈せずなお進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹束たけたばに重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。

 石谷貞清も浅黄あさぎに金の五の字をえがいた指物見せて、二の丸近くに押しよせた。しかし崖は数丈の高さであり堀も亦至って深い。城兵また多く来襲して、貞清自らも肩を槍で衝かれた。家臣湯浅覚太夫がその城兵を突伏せたので、危く重囲を脱し得たが、従士は次々に斃れるばかりである。その処を赤い瓢箪ひょうたんの上に小熊を附けた馬印を押し立て、兵五百に先頭して、け抜ける若武者がある。重昌の子主水佐重矩もんどのすけしげのりである。父の弔合戦、父が討死の処に死のうとの血相すさまじい有様を貞清見て、貝を吹いて退軍を命じ、犬死をいましめて、切歯するのを無理に伴い帰った。全線に亙り戦いも午刻には終ったが、寄手は四千余の死傷を出した上に大将を討たせた様な始末である。之に引かえ城中の死傷は僅に百に満たなかったのであった。

 始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄頭邸で能楽を見物して居たが、この由を耳にするや、席をはずして出で、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞ったので、止むなく引返した宗矩は、登営して将軍に謁し、至急上使を変えんことを乞うた。台命たいめいを論議する言であるというので、家光の不興は甚しい。一言も下さずに奥へ立った後を、夜半に及ぶまで宗矩は端然と黙坐したまま退かない。我を折った家光は、ついに宗矩の言を聴いて見るとこうである。

およそ宗門の徒は深く教を信じ、身命を軽じてもえない事武士の節義に於けると異ならない位である。織田信長の兵威をもってして、如何に本願寺の宗徒、或は伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、百姓一揆何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりといえども三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遣すことにでもなった暁、重昌何の面目あって帰ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした諫言かんげんに、流石さすがの家光も後悔したけれども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残したものに、次の如くしるされてあった。

去年の今日こんにちは江城に烏帽子えぼしの緒をしめ、今年こんねんの今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。

   あら玉の年の始に散る花の

      名のみ残らばさきがけと知れ

 重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣らぬ器量があり、兄は重厚、弟は俊敏であったが、つまらない貧乏くじを引き当てたのである。


       松平信綱謀戦之事


 松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)以下従士千三百を率いて西下したのは、寛永十四年極月ごくげつ二十八日であった。副使は美濃大垣の城主戸田左門氏鉄うじてつ(此時年六十一)。明けて十五年の正月四日、有馬表に着陣したのであるが、直ちに軍令を発し陣法を厳重にした。老中の指揮であるから従軍の諸大名も、今度は板倉重昌の場合の様に、馬鹿にするわけにはゆかない。

 十日、信綱は海上から鉄砲で城を撃たせたが、船が少ない上に城は高く思う様にならない。そこで大船を求めしめた処が、丁度平戸沖に阿蘭陀オランダ船が碇泊しているのを知った。直ちに廻送せしめ、城へ石火矢いしびやを放たせた。阿蘭陀は当時新教でカソリック教とは新旧の違いこそあれ同じ宗教の為に闘って居る城へ、大砲を撃ち込むのは心苦しかったであろうが、何しろ当時の日本政府の命令だから止むを得ない。「智慧伊豆ともあろうものが、外国船の力を借りて城を攻めるとは、国の恥を知らないものか」手厳しい批評を城中で為して居る者が居る。が、宗徒はスペインなどからの援兵をひそかに期待していたかも知れぬから、外船からの攻撃は兵気を阻喪させたに違いない。

 信綱は持久の策を執る決心をして居たから、兵糧米を充分に取寄せて諸軍に分った。二月初旬には、九州の諸大名も新手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣はひしひしと原城をとり囲んだのである。信綱、氏鉄並に、板倉重矩等は中軍を形造りいくさ目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野成純なりずみを柳川、久留米、島倉の営へ、榊原職允よりみつを佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営との連絡を厳重にした。更に信綱は各陣に指図して、高い井楼を築かしめた。井楼の上から城を俯して矢丸を射込もう策戦である。

 信綱は更に城中の大将四郎の甥小平をして、小左衛門の手紙を持って城内に入らしめた。その手紙の趣と云うのは、

一、寄手の軍勢は数十万余にて候……(中略)江戸様よりの御詫に、切利支丹の百牲ばらに侍衆そこなはせ候こと、いらざる儀と思召され候間、柵の所に丈夫に仰付けられほし殺しになされ候やうにと仰聞かされ候。

一、(前略)城より落つるもの三四人御座候処に、命を御助けなされ、其上金銀を下され、あまつさへその在所の内にて当年は作り取につかまつり(後略)

一、天下様仰出でられ候は(中略)、切利支丹の儀は、当歳子によらず御果しなされ候に相定め申し候。いま発起に附きて(中略)無理に切利支丹に勧められまかり成り候は、聞召し届けられ、御助けなさる可く候事、上意の由に御座候(中略)勿論切利支丹宗の儀相背あいそむき難く存じ候者は、籠舎仕り相果て候とも、その段は銘々次第と存じ候。(後略)

一、城中大将四郎と申す儀、隠れなく候。その年来を聞召し候へば、十五六にて諸人を勧め、斯様かようの儀を取立て申す儀にては無之これなく候と思召し候条、四郎が名を借り取立て申すもの有之これありと思召し候。左様の事に候はゞ、大将四郎にて御座候とも、罷り出でたる者これ在るに於ては、御赦免罷り成る可きの由に御座候事。

一、我等どもかくの如きの身上に罷り成り、右の通り申し遣し候事、相果て候を迷惑に存じ申入る様に思召され御心中御恥しく存じ候。ゆめ〳〵左様にては御座なく候。(中略)城中より出で申し度しと申す者ども御出し候はゞ、御断りを申し城中へ参り、一処に相果て申す可く候。(後略)

 言々誠意の溢れるのを見る事が出来る。この手紙と同時に、四郎の母と姉からも、城中の甚兵衛、四郎宛に、同趣旨の手紙を送って居る。四郎の母は法名をマルタと称し、四郎旗挙げに際して、熊本藩の手に捕われたのだが、母の為に臆するなく存分に働けと四郎へ云い送った程の女丈夫である。

 しかし事ここに至っては肉身の情に打ち勝ち難かったものと見える。

 この二つの手紙の返事は即日城内より齎された。それには「各々御存知の如く他宗の者を無理に切利支丹にして居る事は無い。満城の衆みな身命を天主に捧げる覚悟までである」

 と書かれてあった。

 事実城を抜けた者は三万人中前後数名に過ぎず、信仰の力は、天下の勢を前にして懼れなかったのである。

 この後信綱自ら四郎へ、降伏すべき手紙を送ったが、四郎の返書には、松倉氏の暴政を綿々として訴え、信仰の変え難きを告げ、

「みな極楽安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候、片時も今生の暇、こいねがふばかりに候」と結んで居る。

 智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて居なかった。

 十日頃、城中に於て度々太鼓が鳴り響いて舞踊をして歌を歌う者がある。寄手耳を傾けて聴いてみると次の様な文句である。

かゝれ、かゝれ、寄衆よせしゅうもつこてかゝれ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは、

とんとと鳴るは、寄衆の大筒、ならすとみしらしよ、こちの小筒で、

有りがたの利生りしょうや、伴天連様の御影で、寄衆の頭を、すんと切利支丹。

 十一日、寄手は、地下より角道を掘って城際しろぎわに到ろうと試みると、城の方でも地下道を掘って来る始末である。日暮れた頃、城中三の丸辺から火が挙がるのを寄手見て失火であろうと推測したが、あに計らんや生木生草を焼いて、寄手の地下道をくすべて居たのであった。

 其後、この地下道へ、糞尿を流し込んで、寄手をして辟易へきえきせしめたりした。くすのき流の防戦ぶりには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江甲賀から連れて来た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするので、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。

 さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、

「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力なお壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」と定めた。

 二十一日の夜、おばろ月夜に暗い二の丸のやぐらに、四郎出で立って、静かに下知を下した。

 黒田の陣へは、蘆塚忠兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、千々岩の五郎左衛門、加津佐の三平以下一千人は鍋島の営へ、夫々粛々と進み近づくや、一斉に鬨を挙げ火を竹束につけたのを投げ込んだ。

 用心はして居ても不意の夜襲であるから、黒田藩の家老黒田監物は討たれて形勢非であったが、黒田隆政自ら槍を揮って宗徒三人を突伏せ更に、刀を執って進み、「隆政これに在り」と叫んで衆を励まして漸く追い払った。

 監物の子作左衛門、松炬たいまつを照して父のかばねを見て居たが、自らも従士五六十を率いて突入して果てたと云う。

 寺沢の陣でも騒動したが、三宅藤右衛門、白柄の薙刀なぎなたを揮って三人を斬り、きずを被るも戦うのを見て諸士亦奪戦して斥けた。藤右衛門は、本戸の役に自刃した藤兵衛の子であるから仇討ちをしたわけになる。宗徒勢を討つこと三百人余であった。

 信綱、氏鉄、夜討ちの現場を視察して、城兵の死骸の腹をかしめて検した処が、海草の類を見出した。これによって、城内の兵糧少ないのを知ったのである。


       聖旗原城頭搉落之事


 城中の糧食尽きたのを知った信綱は、諸将を会して攻撃の方略を議した。其頃、上使の一人として出陣した水野日向守勝成かつしげは、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」

 と云いも終らず、戸田氏鉄は、

「然らば糧尽くるを待とう」

 と云った。勝成大声に、

「既に今日まで百日余の遠巻きをした。糧尽きたのは明かだ、今はただ攻めんのみ」

 と怒号した。

 氏鉄は又、

「さらば城に近い細川鍋島の勢をして攻め、他は鬨を合しめよう」と云うと、勝成嘲笑って、

「我十六歳にして三州小豆坂あずきざか初陣ういじんして以来五十余戦、未だ鬨の声ばかりで鶏軍した覚えがない。諸軍力をあわせずして如何いかんぞ勝とうや。老人の長居は無用、伜美作守勝俊も大阪陣大和口にて、後藤又兵衛出張の時名を挙げた者だ。御相談の役には立つ筈」と云い棄てて起って仕舞った。

 ここに於て、軍議は二十五日総攻撃ときまったのである。当時城内の武備の有様を見るに石火矢八十挺、二三十目玉から五十目玉までの大筒百挺、十匁玉より二十目玉までの矢風筒やかぜづつ三百挺、六匁玉筒千挺、弓百張、長柄五百本、槍三百本、具足二百領、其他とあるから、相当なものである。

 さて期日の二十五日も、その翌日も雨なので、攻撃を延期して居る中、二十七日の昼頃、突然鍋島の一隊が命を待たずして攻撃に移った旨を、本営に告げる者があった。信綱楼に昇って望むと告ぐるが如くである。「火を挙ぐるを見て起き、鐘を聴いて飯し、つづみを聴いて進み、貝を聴いて戦え」と云う軍令も今は無駄になった。信綱即ち、直ちに全軍に進撃を命じた。

 先駆けを試みた鍋島勢を目付して居るのは榊原職充であるが、総攻撃令近づくや先登したくてたまらず、鍋島勝茂に向って、「公等は皆陣を布いて柵を設けて居る。我等は軍目付の故をもって寸尺の地もないが、愚息職信よりのぶ始め従士をして柵を結ぶ事を学ばしめたいから」と云って割込んで仕舞った。職信年十七の若武者で秘かに従士七八人と共に、城の柵を越えて入った。見覚えのある上に赤の布に白い餅の指物が、城を乗り越えて行くのを見て、流石の職充も驚いた。直ちに白に赤い丸二つの指物がその後を追う事になる。

 一番驚いたのは鍋島勢である。信綱の命を伝うべき軍目付親子が敵城へ乗入れたのだから、今はとかくの場合ではないと、軍勢一同に動いて、鍋島勝茂の上白うえしろ下黒筋違いの旗も、さっと前へ進んだ。鍋島勢が信綱の命に反して先駆したのではなくて、軍目付自ら軍律に反した始末なのである。

 この職充は平常士を好んで、嘗つて加藤清正、福島正則等、国を除かれ家を断たれた時、その浪士数十人を引取った程である。この時の戦いにこの浪士達が日頃の恩顧を報じて功を立てて居る。

 水野勝成は、鍋島先登の事を聞くや、五千の軍を整えて、子勝俊の来るのを待った。

 勝俊白馬に乗り、金の旗掲げて来ると、五千の兵勇躍して進んだ。

 勝俊は馬上に叱咤しったして、

「鍋島勢を排して進め」と命じた。

 城外の地勢険阻な処に来ると、馬を棄てて子の伊織十四歳になるのを伴って進んだ。激戦なので、掲げる金の旗印が悉く折れ破れた。旗奉行神谷杢之丞もくのじょう、漸く金の旗を繕って、近藤兄弟をして、崖を登って掲げしめた。

 城外に在った勝成は、

「大阪の役に児子の功をてた事があったが、今日児孫の先登を見る」と云って涙を流して喜んだ。

 細川越中守忠利は、地白、上に紺の九曜の紋ある旗を掲げ、狸々緋しょうじょうひの二本しないの馬印を立て、黒白段々の馬印従えた肥後守光利と共に、三の丸前門を攻撃した。

 先鋒の部将長岡式部、城中に烟が起るのを見て、直ちに前門に進撃した。

 奥野伝右衛門なる士が刀を揮って門を破り開いた。前兵悉く城内へ行ったが、城の部将大塚四郎兵衛、相津左兵衛三千五百の人数で門を守って居るのと衝突した。西門を、有江掃部五百で守って居たのが、式部を見て、槍を並べて突出した。武部の軍奮戦して斥け、逃げるのを追った。

 黒田忠之、同長興、同隆政は、大江門を目指して進んだが、忠之は余り急いだので甲を着けて居る暇がない。老臣黒田睡鴎すいおう追い付いて諫めたので、鎧は着けたが、猶かぶとを冠らない。

 冑を冠ると左右が見えないなどと理屈を云い乍ら進むと、城の部将本渡の但馬五千を以て逆襲し、その勢いは猛烈である。

 為に黒田勢三百余忽ち討たれて少しくしりぞくのを、忠之怒って、中白上下うえしたに紺、下に組みの紋ある旗を進め励ます。睡鴎は然るに自若として牀に坐して動こうとしない。

 忠之、「如水公の時屡々武功あったと云うが老耄おいぼれたのか」と罵って之を斬ろうとする処に弟隆政現れて漸く止めた。睡鴎暫く四方を観望して居たが、忽ち大喝たいかつして軍を進めついに大江門を抜いた。

 もう此頃には、三の丸池尻門辺に、上白下黒白黒の釘貫くぎぬきの旗や、白い鳥毛とりげ二つ、団子の馬印が立てられて、有馬豊氏とようじ、同忠郷の占拠を示し、三の丸田尻門辺には立花忠茂の上白下黒、黒の処に紋ある旗や、松倉重次の黒に中朱筋一つの旗が眺められた。

 二の丸辺に、熊毛二段の団子、下に金の団子の馬印が動くのは、寺沢忠高が乗り込んで居るからであり、その後に、赤い旗が進むのは、小笠原忠政、同長次が進みつつあるからである。

 信綱の子輝綱は、従士十数名と共に、馬印も掲げず秘かに城へ向うを、地白紋登りはしごの総帥旗の下に、地白紋赤き丸三つの旗掲げた戸田氏鉄と共に、本営に指揮して居る信綱に見付かった。信綱軍令に反すとなして、酒井三十郎をって止めるが聴かない。岩上いわかみ角之助行って、鎧の袖を掴んで放さないので、輝綱は怒って斬ろうとした。角之助は、敵手に斃れんより公の手に死なんと云って猶も放さない。遂いに止められた。

 信綱は徒らに兵を損ずるを憂えて、諸軍に令して、各々占拠の地に陣を取り、夜明けを待つことを命じた。

 陣中の盛んな篝火かがりびは、寂然せきぜんたる本丸を、闇の中に浮き出させて居た。

 二十八日卯の頃、総軍十二万五千余は、ひとしく内城に迫った。城中の宗徒も今日が最後と覚悟したから、矢丸やだまを惜しまず、木石を落し、器具に火をつけて投げ、必死に防ぐ。攻囲軍たじろぐと見ると門を開いて突出したが、反撃に支え切れず再び城に逃げ込んだ。

 寄手はそこで石火矢を放ったから、城内は火煙に包まれて、老弱の叫声は惨憺たるものである。

 板倉重矩緋縅ひおどしの鎧に十文字の槍をさげ、石谷十蔵と共に城内に乗り込んで、

「父重昌のかたきを報ぜん為に来た。四郎時貞出でて戦え」と大呼した。

 会々たまたま宗徒の部将有江休意よしとも、黒髪赤顔眼光人を射る六尺の長身をおどらして至った。重矩の従士左右から之に槍を付けようとするのを、重矩斥けて立ち向った。重矩の槍が休意の額を刺し、血が流れて眼に入ったので、休意は刀を抜いて斬りかかって来た。重矩抜き合すや、休意の右肩を斬り下げてついに斃した。

 後に間もなく、信綱知って之を賞し、水野勝成は自らぶる宇多国房の刀を取って与えたと云う。

 細川の先鋒長岡佐渡等の一隊は、四方に四郎時貞を求め探した。その士陣佐左衛門すけざえもんは、火煙をくぐって石塁中に入って見ると、一少年の創を受けて臥床するのを発見した。一女子そばに在って嘆き悲んで居る。佐左衛門躍り込んで少年の首を斬って出ようとすると、女が袖を放さない。三宅半右衛門が来て、その女をも斬った。

 忠利、少年の首は時貞のであろうと信綱の見参に入れた。時貞の母を呼んで見せると、正しく時貞の首であった。

 かくて籠城以来、本丸に翻って居た聖餐せいさんの聖旗も地に落ちて、さしもの乱も終りを告げたのであった。

 これより先、寄手の放った弾丸が、原城中の軍議の席に落ちて、四郎を傷けたことがある。城兵は、四郎を天帝の化身のように考え、矢石当らず剣戟けんげきも傷くるあたわずと思っていたのに、四郎が傷いたので、彼等の幻影が破れ、意気とみに沮喪したと云われる。

 幕軍は、城中に在ったものは老幼悉く斬って、その首をさらした。

 天草の乱平ぎ、切利支丹の教えは、根絶されたと思われた。

 しかし、こぼれた種は、地中にひそんで来ん春を待っていた。

 明治初年信教の自由許され、カソリック教の宣教師が来朝し、長崎大浦の地に堂宇を建てて、朝夕の祈祷きとうをしていると、どこからともなく集って来た百姓が、宣教師の背後に来て、しずかに十字を切った。

 その数が日にえて、日本に於けるカソリック教復活の先駆を成したのである。


     後記


この物語を作るに際し参考としたものは次の如し。

  島原天草日記

  松平輝綱の陣中日記

  島原一揆松倉記

  天草士賊城中話

城中の山田佐右衛門の口述書で、一名『山田佐右衛門覚書』とも云う。

  立花宗茂島原戦之覚書

  肥前国有馬古老物語

  原城紀事

  徳川実記

  其他

底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社

   1987(昭和62)年210日第1

※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5-86)(「十数ヶ村」)を、大振りにつくっています。

入力:網迫、大野晋、Juki

校正:土屋隆

2009年1113日作成

青空文庫作成ファイル:

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