ある抗議書
菊池寛
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司法大臣閣下。
少しの御面識もない無名の私から、突然かかる書状を、差上げる無礼をお許し下さい。私は大正三年五月二十一日千葉県千葉町の郊外で、兇悪無残な強盗の為に惨殺されました角野一郎夫妻の肉親のものでございます。即ち一郎妻とし子の実弟であります。私の姉夫婦の悲惨な最期は、当時東京の各新聞にも精しく報道されましたから、『千葉町の夫婦殺し』なる事件は、閣下の御記憶の中にも残って居ることと存じます。私は肉親の姉が受けた悲惨な運命を、回想する度ごとに、今でも心身を襲う戦慄を抑えることは出来ません。人間の女性の中で姉ほどむごい死方、否殺され方をした者はないと思いますと、私は今でも胸の中が掻き廻わされるように思います。私は、当時の色々な記憶を頭の中に浮べることさえ、不快に思われます。が、私は此の書状を以て、申上ぐる事の前提として、当時の事をちょっと申上げて置かなければなりません。
私の義兄の角野一郎は、大正三年の三月迄東京で雑誌記者を致して居りました。が、その頃痼疾の肺がだんだん悪くなりかけましたので、転地療養の為、妻の実家即ち私の家の所在地なる千葉町へ参ったのであります。そして、私の父母と相談の上で、海に近い郊外に六畳に四畳半に二畳の小さい家を借りまして、そこで病を養うことになったのであります。私の父母は、今迄東京に住んで居た為に、月に一、二度しか逢う機会のなかった姉が、つい手近に移って来た為に、毎日のように顔を合わせることが出来るのを非常に欣んで居たようでありました。幸い義兄の病気も、夏に向うに連れて段々快方に向うようで、一夏養生を続けたならば健康を恢復するだろうと姉夫婦も私も私達の父母も、愁眉を開いて居たのでありました。が、こうした小康を欣んで居た時、あの怖ろしい運命が姉夫婦を襲いかけて居たのであります。
忘れも致しません。それは大正三年の五月二十一日の夜と申しても、正確に云えば、翌二十二日午前の四時頃でありました。私の家の表戸を割れるように烈しく乱打するものがありました。私が驚いて戸を細目に明けますと、警察署の印の付いた提灯が眼に付きました。私は巡査か、でなければ探偵だと思いましたので、何事が起ったのかと胸をとどろかせました。が、その男は巡査でもなく探偵でもなく法被を着た警察の小使らしい男なのです。その男は私の戸を開けるのも待たず、息をはずませながら、
「此方は、角野さんの御親類でしょう。今角野さんの御宅が大変なのです。すぐ誰か来て下さるように……」と、云いながら、その男は、スタスタと駈け出そうとしましたので、私は追い縋るように、
「大変って、一体どうしたのです。どうしたのです」と、訊き返しました。後から考えますと、小使は姉夫婦が殺されたことは、知って居たのでしょうが、そうした怖ろしい惨事を、自分の口で知らせると云う嫌な仕事を避けたのでしょう。
「なんでも強盗が、はいったと云う事ですが、私は精しいことは知りません。何しろ、早う来て下さるようにとの事でした」と、云いながらドンドン帰って行きました。私は強盗と云う言葉を聴くとある怖ろしい予感に胸を閉ざされてしまって両足にかすかな慄えをさえ感じました。玄関へ取って返して来ますと、そこに父と母とが寝衣のままに立って居ました。母はもうスッカリ慄えを帯びた声で、
「どうしたのどうしたの」と、オズオズ訊きました。私が、
「姉さんの家へ強盗が、はいったんです」と、云いますと、母は、
「ひえ!」と、云ったまま父の肩にすがり付きながら、ガタガタ慄え出しました。気丈な父は、遉に色も更えずに、
「走って行け。すぐ行け。わしもすぐ後から行くから」と、申しました。私は慄える手で、衣服を着換えると、用心の為に台所にありました樫の棒を持って家を駈け出しました。振りかえると母は最愛の娘を襲った変事の為に烈しい激動を受けたらしく、口もろくろく利けないように目をパチパチさせながら、玄関に腰をかけたまま慄え続けて居たようでありました。
私の家から、姉の家迄は十五町位隔って居りました。千葉の町を離れて田圃の中の道を十町ばかり行くと、松林が道の両側にあって、その松林を過ぎると、姉の家を初め、二、三軒の家が並んで居ました。私はその十五町の道を後で考えれば十分位で駈け付けたと思いますが、その夜はその歩き馴れた道がいつもの二倍も三倍もの長い道のように思われました。が、私は、姉の家へ急ぎながらも、姉夫婦が殺されたとは、夢にも思いませんでした。ただ強盗に襲われた為に、気の弱い姉夫婦が、どんなに強い激動を受けただろうかと、そればかりが心配でした。殊に、その為に義兄の病気が重りはしないかなどと心配して居ました。姉夫婦の衣類などの中で目覚しいものは、皆私の家へ預けてありましたから、盗られたとしてもホンの小遣銭位だろうと思いましたから、その点は、少しも心配いたしませんでした。姉の家に近づくに連れて気が付くと、姉の家の雨戸が一枚開いて居て、其処から光が戸外へ洩れて居るのが見えました。私は、姉夫婦が強盗に襲われた跡始末をして居るのだと思いました。私は一刻も早く顔を見せて、姉夫婦に安心させてやろうと思いまして、勢よく姉の家の門の中へ飛び込みました。すると、いきなり門の中の闇から、「コラッ誰だっ!」と、云って声をかける人がありました。私は強盗でないかと思って、ハッと身構えました。私は、それでも虚勢を張って、
「貴様こそ誰だっ!」と、怒鳴りました。
すると、闇の中から私に近づいて来た鳥打を被た男がありました。前と丸切り違った落着いた声で、
「千葉署の刑事です、貴君は」と、訊きました。そう聴くと私はホッと安心して、
「そうですか。どうも御苦労です。私は角野一郎の妻の実弟です」と、云いました。すると、刑事は、
「それならば、どうかおはいりください。が、まだ検屍が済んで居ませんから、手を触れてはいけませんよ」と、申しました。私は、刑事にこう云われた時、頭から冷水を浴せられたように、ぞっとしました。
「えっ! 検屍! 誰が殺されたのです、角野ですか、妻ですか」と、私は急き込んで訊きました。
「まあ! 行って御覧なさい。お気の毒です」と、職業柄、こうした被害者を見馴れて居る刑事さえ、心から同情を表して居るようでありました。
私は、心の中で義兄かそれとも姉かと、思いました。義兄が抵抗した為に斬られたのであろうと思いました。肉親に対する私の利己的な愛は、やっぱり被害者が義兄であって姉でないことを、心私かに祈って居ました。
門から、玄関迄は四間位ありました。私は玄関の格子を開けると、
「姉さん」と、呼んで見ました。内からは、寂としてなんの物音も聞こえないのです。その癖、電燈はアカアカと灯って居るようなのです。
「兄さん!」と、私は繰り返して見ました。が、やっぱりなんの物音も聞えないのです。私は何だか冷めたい固くるしい物が、咽喉からグングン胸の方へ下って行って、胸一杯に拡がるように思いました。格子を持って居る私の手が、ブルブル顫えた為でしょう、格子が無気味に、ガタガタと動きました。私は、障子一枚の向うに姉夫婦の屍骸が横わって居るのを、マザマザと感じました。私は必死の覚悟を固めて玄関の障子をあけました。が、その二畳の間には、なんの異状もありませんでした。私は、怖る怖る次の四畳半の襖を開けました。その四畳半にも何の異状もありませんでした。が、ふと四畳半と六畳との間の襖が二尺ばかり、開かれて居る間から六畳の間を見ました時、私は思わず「姉さん!」と、悲鳴に似た声を出しました。それは、確かに姉の足です。敷かれてある布団から斜に畳の上に投げ出されてある色白な二つの足は、姉の両足に相違ありませんでした。その二つの足を見ると、私は今迄の恐怖を丸切り忘れて一気に六畳の間に駈け込みました。そこで私が如何なる光景を目撃しましたろうか。その当時から、足掛五年になる只今も私はその光景を思い出すごとに、胸が裂け四肢の戦くような、恐ろしさと忿とを感ぜずには居られないのです。
司法大臣閣下。──閣下は、閣下の肉親の方が兇悪なる人間に惨殺された現場を御覧になったことがありますか。否少くとも、閣下の肉親の方が他人に依って惨殺されたと云う御経験をお持でしょうか。もしこうした経験がお有りにならなければ、私がその光景に依って感じた怖ろしさと忿と悲しみとの混じった名状しがたい心持は、とても御想像も及ばないだろうと思います。
私の姉は、私のただ一人のとし子は、ついその前日私を微笑を以て送迎した姉は、髪を振り乱したまま布団の上に投げ出されたように倒れて居ましたが、その首に捲かれて居る細い紐を見ました時、私の全身は烈しい暴風のような怒の為に、ワナワナと慄えるのを覚えました。私は刑事が手を触れてはいけないと云う言葉も忘れていきなり、姉の頸からその呪うべき紐を解かずには居られませんでした。姉のあさましい死状や、烈しい苦悶の跡を止めた死顔の事などは申上げますまい。回想するさえ私には恐ろしいのです。姉のあさましい屍体に、私は両手をかけて、号泣しようと思いました時、私はふと義兄の安否を思いました。私が目を上げて室内を見廻すと、縁側へ面する障子が開いて居る事に気が付きました。丁度六畳間に足だけを置いて、身体の大部分を縁側の上に投げ出して寝そべって居るのは、義兄に違いありません。私は、姉の屍体を捨てて義兄の方へ駈け寄りました。が、両手を後手に縛られた義兄は、姉と同じように絞殺されたと見え刮いた眼に死際の苦悶を見せながら、もう全身は冷たくなりかけて居ました。私は、その後手に縛られた両手を見ました時、腸を切り苛むような憤と共に、涙が、──腹の底から湧き出すような涙が、潸々として流れ出ました。私は、狂気のように家から飛び出すと其処に居た刑事に、「誰が殺したのです。犯人は犯人は」と、叫びかけました。刑事には、私が狂乱したようにも見えたでしょう。私は、まだ右の手から離して居なかった樫の棒を握りしめながら、此の刑事にでも飛びかかりそうな気勢を示しました。刑事は、遉に気の毒に思ったのでしょう。
「いやお察し申します。先刻見えました警部さんなども、大変気の毒がって居たようです。非常線を張りましたから、犯人は案外早く上るかも知れません」と、云いました。が、私は姉夫婦を殺された無念と悲しみとで一刻もじっとして居られんように思いました。が、何をしてよいのかどう行動してよいのか丸切り夢中で、ただ異常に興奮するばかりでした。私は息をはずませながら、
「犯人は強盗ですか、それとも遺恨ですか」と、訊きました。
「いやまだ判りませんが、多分は強盗でしょう。長生郡と遣口が、同じだとか云って居ましたよ」と、刑事は答えました。私は、そう答える刑事の職業的な冷淡さが、癪に触るようにさえ思いました。姉夫婦が、悲惨な最期を遂げたのも、つまりは千葉県警察の怠慢であるように思いまして、私は此の刑事を頭から罵倒してやりたいようないらいらした気持をさえ感じました。その時、私の父は、近所の俥屋を起したと見え綱引で馳付けて来ました。私は、父の顔を見ると、一旦止まって居た涙が再び流れ出るのを感じました。父は、私の顔を見ると、しゃがれた声で、
「どうだ、おとしには怪我はないか」と、申しました。それには、子を思う親の慈愛が、一杯に溢れて居ました。私は、父の言葉を聴くと、胸が閉がって言葉が出ないのです。
「どうだい。一郎もおとしも怪我はないのかい」と、訊き直しました。私はすすり泣きながら、
「姉さんも、兄さんも、やられた」と、云いました。父は遉に声を立てませんでした。老眼をしばたたきながら、黙って家の中へはいって行きました。私が父の後から引返して見ますと、父は姉の屍体を半ば抱き起しながら、
「おとしおとし」と、背中を力強く叩いて居りました。が、そんな事で姉が蘇る筈もありませんでした。父は、姉の屍体を放すと義兄の屍体を抱き上げながら、
「一郎一郎」と、同じように背中を叩いて見ました。が、兄の唇はもう紫色に変って居ました。父は、スゴスゴと立ち上ると老眼をしばたたきながら、
「おのれ! 酷いことをしやがる。酷いことをしやがる」と、云うかと思うと、瘠せた右の手の甲で老顔を幾度もこすりました。私は父の悲憤を眼にしますと、再び胸のうちが湧き返るような激怒を感じました。
「俺は、諦めるが、お信はどう思うだろう」と云いました。そう云うのを聴くと、私は家に残って最愛の娘の安否を気遣って居る老年の母を思わずには居られませんでした。母がどんなに姉を愛して居るかを、知って居る私は此の惨事の報道が母に対してどれほど、致命的であるかを考えずには居られませんでした。父は、姉と義兄との屍体を等分に見て居ましたが、
「夫婦二人揃って、殺されるなんて、何と云う因果な事か……」と、云うかと思うと無念に堪えられないように歯噛みをいたしたようでありました。丁度、その時に戸外に、数台の車の音がしたかと思うと、さっきの刑事が入って来て、「今予審判事が出張になりました」と、云いました。私は、それでも予審判事が来たことを頼もしい事のように思いました。その人達の手に依って此の兇悪な犯人が一日も早く捕われることを祈らずに居られませんでした。
それから後のことは、簡単に申し上げましょう。私達は、尚、姉のあさましい死を、姉を何物にもまして愛して居た母に告げると云う、心苦しい仕事をしなけれはなりませんでした。それを聴いた時、母の狂乱に近い悲痛の有様は、今でもどんなに精しくでも申上げることが出来ます。父は母が必死に頼むにも拘わらず、姉夫婦の惨死の現場へは、母を行かせませんでした。棺に収めた姉の屍体に対し、僅かな名残りを惜しませただけでありました。
母は、姉の悲業の死を聞いてから、三日の間は一食も咽喉を通らない程でありました。その時は丁度六十一でありましたが、元来瘠せて居た身体は、僅か二、三日の中に、ゲッソリと衰え、ただ二つの大きな眼だけが狂人のそれのように血走って、絶えず不安な動き方をいたして居りました。夜も娘の死を思うて、易々とは寝付かれないと見えまして、ウトウトしたかと思うと、『おとしおとし』と、叫んで、狂気のように跳ね起きて布団の上に端座して、何やらブツブツと申すかと思うと、又さめざめと泣き伏すのでありました。
姉が病気で死にましたならば、いくら気の弱い母でも、之ほどの悲嘆には暮れなかったのでありましょうが、夫婦諸共兇悪な強盗の為に惨殺されたと云う恐ろしい激動は、母には堪えられなかったのでありましょう。その事件があって以来、ボンヤリとしてしまって日に衰えて行ったようであります。
姉の頸に纏い付いて居た細紐を見、義兄の後手に縛られた両手を見た時に、私は犯人の肝を喰わねば満足しないような烈しい憎悪を感ぜずには居られませんでした。私は、犯人が捕まったら最先に馳け付けて行って、思う存分踏みにじって姉と義兄との無念を晴してやりたいと思いました。私は、昔の人間が肉親を殺された場合、敵打にいでて幾年もの艱苦を忍ぶ心持が充分に解ったように思いました。私は、今でも復讐が許されるならば、土に喰い付いても犯人を探し出して、姉の無念を晴したいと思わずには居られませんでした。もし、姉夫婦の殺された原因が、遺恨だとか痴情などでありましたら、それは姉夫婦にも何等かの点に於て、少しは責任があることですから、私の無念は之れ程でもなかったのでしょうが、殺された原因が、全く強盗の為であって、その兇漢は罪も怨もない姉夫婦の命をなんの必要もないのに、不当に非道に、蹂み躪ったものであることを知ってからは、私達の無念は二倍にも三倍にも深められぬ訳には行きませんでした。殊にその夜張った非常線が、何の効果もなく三日経っても五日経っても犯人の手懸りが、少しも無いのを知ると、私は警察の活動が、愈々まだるっこいように思われて、じっとして居られないようないらいらした心持に、ならずには居られませんでした。
父は遉に心のうちの悲憤を口には出しませんでしたが、母はよく口癖のように、
「おとしの敵はまだ捕まらんのか」と、申して居りました。が、私達の一家が、一日も早く犯人の捕われることを祈って居りましたにも拘わらず、一月と経ち二月と経つ間、警察からはなんの音沙汰もありませんでした。その中に、警察の方でも、新しい事件が起れば、その方へも力を割くと云う訳で、時日の経つと云うことは犯人逮捕の可能性を段々、少くして居るようでありました。私は、待ち遠いような心に駆られて、時々知り合の警部の家を尋ねました。警部は私の顔を見ると、ちょっと気の毒そうな顔をしながら、
「もう少し待って下さい。之が遺恨などの殺人でなく強盗だけに、ちょっと挙りにくいのですが、なあに、その中に貴君方の御無念を晴して上げますから。今年中には、きっとです。東京の警視庁へも、よく頼んでありますから」と、申しました。それは姉が殺されてから、三、四月を経たその年の十月頃でした。私は今年中には必ず逮捕してやると云う警部の証言を、セメての慰とし、母に伝えて居たのであります。
ところが、その年も押しつまった十二月の半ばでした。姉の遭難以来、生きた屍骸のようになって居ました母は、腎臓炎を起して僅か四日か五日かの病で倒れてしまいました。姉が、生きて居ましたら、まだ三年や四年は生き延びただろうと思いますに付けても、私は姉夫婦を殺した強盗は同時に私の母の生命をも縮めて居ったのだと、思われずには居られませんでした。私は、名も知らぬ顔も知らぬその獣の如き人間に対して、更に倍加した憎悪と恨みとを持たずには居られませんでした。
母は、死際にまで姉の事を、クドクドと申して居りました。
「まあ可哀相な事じゃ。夫婦揃うて殺されるなんて、あの子はよっぽど不幸せな子じゃ」と申して泣くかと思いますと、
「えい憎い畜生め! ようもおとしを殺したな」と、申して怒り罵りました。そして、口癖のように、
「まだ捕まらんのかな。人を殺した人間が、大手を振って歩いて居るとは神さまも仏さまもないのかな」と恨んで居ましたが、又諦めたように、
「まあ! えいわ。あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも、死んだら地獄へ落ちるのじゃ。地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」と、申して居りました。こうして、母は娘を殺された恨みと悲しみとに悶えながら、十二月の二十日でしたか、最愛の娘の後を追うて死んでしまいました。犯行の表面では姉夫婦だけが殺されたことになって居ますが、私は母もその同じ犯人に惨殺されたものだと云う感銘を受けずには居られません。母と姉とを非道に殺された私と父とは、不快なあさましい記憶から絶えず心を苛なまれながら、怏々としてその日を暮して居りました。『千葉町の夫婦殺し』と云う題目も段々世間からばかりでなく、警察当局者の記憶からも薄れて行ったと見え、犯人捜索に就いての消息なども、新聞紙上に一行も出ないようになりました。私と父とは、段々心細く思わずには居られませんでした。それと共に、かかる兇悪無残な悪徒を、逮捕し得ざる警察を呪い、またかかる悪徒の横行闊歩して居る世の中が嫌になりました。
ところが、時運到来と申すのでございましょうか。大正五年の十月でした。犯人坂下鶴吉は──私は、その時初て姉を殺した兇悪な人間の名を知りました──警視庁の手に依って逮捕されました。なんでも挙動不審の為に拘引されたのですが、訊問の結果、多くの兇行を自白しました。その多くの兇行の中でも私の姉を殺した事件が、丁度烏の黒い身体の中でも、その兇悪な眼が一番怪しい光を放ったように、あの事件が一番恐ろしい光彩を放って居りました。『千葉町夫婦殺しの犯人捕わる』と、各新聞は報道しましたが、彼は此の事件ばかりの犯人ではありませんでした。新聞紙の報ずるだけでも、彼は十指に余る人間の命を絶ち、多くの子女の貞操を蹂躙し、数多の良民をして無念の涙に咽ばせて居るのでした。
父は、犯人逮捕の通知を、警察署から受けると久し振に晴々しく笑いました。そして、
「之でおとしも、お信も浮ばれるわい」と、申して非業に倒れた娘と、悲嘆に死した妻とを弔うて居りました。その夜は、仏壇に燈明を灯して、姉と母との霊に、犯人逮捕の欣びを告げました。
私は、初て現代の日本の警察制度に感謝しました。そして、天網疎にして洩さずと云う古い言葉にも、深い人間の世の摂理を知ったように思いました。
私達が坂下鶴吉の公判の経過に至大の注意を払ったのは、勿論でありました。が、遉に恐ろしい悪党であるだけに、諦めもよいと見え、地方裁判所で死刑の宣告を受けると、控訴もしないで、大人しく服罪しました。その判決のある日でありました。私は、私達の一家の運命に、残虐な打撃を与えたその男の顔を、一目見たいと思って、わざわざ傍聴に参りました。
あの公判延の被告箱の中に、傲然として起立して居る男を見ました時、私は姉夫婦の惨死の光景を見た時と同じような戦慄を感ぜずには居られませんでした。骨組の如何にも逞しい身体、眼は血走って眉毛は飽く迄も濃く、穢悪な大きな低い鼻と云い、太く横に走った唇と云い、人間の獰猛な獣性が、身体全体に溢れて居るような男でありました。こんな男の手にかかっては、あのかよわい姉夫婦は一溜りもなかったのも無理はないと思いました。
が、遉に獰悪らしいこの男も、裁判長の厳かな死刑の云い渡しを受けると、顔の色をサッと易えて、頭を低くうなだれました。私は、正当な刑罰が、否彼の犯した罪悪に比ぶれば軽過るが、然し現在の刑法では極刑に当る刑罰が宣告され、その男が刑罰に対する、相当な恐怖を感じた時、私は初めて、私の限りなき憤忿の心が和らげられたのを感じました。が、私の本当の感情から云えば、まだまだ之位の事では、私の憤や恨は充分に晴らされたとは思いませんでした。
私は死刑と云うことが、かかる場合に充分な刑罰であるか、どうかを考えて見ました。此の坂下鶴吉は、私の姉夫婦を加えて、丁度九人の人間の命を奪って居ます。が、彼が奪って居るものは単に九人の被害者の生命だけではありません。私の姉が殺されたに付いて、私の母の怖ろしい精神上の打撃を受けた如く、他の八人の被害者の父なり母なり兄弟なり姉妹なりが同じように怖ろしい打撃を受けて居るに相違ありません。九人の被害者の為には、四十人五十人の肉親の者が親なり子なり兄弟なり姉妹なりを殺された無念の涙に咽んで居る筈です。生命を奪われると云うことも人生の悲惨事には相違ありません。が、肉親の父なり母なり子なり兄弟姉妹なりを、なんの罪なくして絞殺され斬殺されるのを見、それから受けた怖ろしい激動を、生涯持ち続けて行くと云うことも、同様に人生の悲惨事であります。殺人の場合、被害者は単に殺された当人だけではありません。その被害者の親なり手なり兄弟なり姉妹なりは命こそ奪われないが、精神的には恐ろしい打撃を受けるのです。坂下鶴吉が殺したのは、僅か九人かも知れません。が、彼の兇悪な所業の為に苦しんで居るのは、私達親子の者ばかりではありますまい。そうした点から、考えて行くと、死刑などと云うことは軽すぎる位、軽いと思います。九つの命と一つの命。私は数学的な数の点からだけ云うのではありません。坂下鶴吉が宣告の日から、処刑の日迄、獄中でどんなに苦悶しても、彼の為に苦しんで居る数多くの人達の感情の十分の一をも、償うことは出来ますまい。殊に、不当に絞殺され不当に斬殺された被害者達の末期の無念と苦悶との百分の一をも償うには足りますまい。従って私は、坂下鶴吉の如き重悪人に、死刑以上の刑罰を課し得ないと云うが如きは、司法制度に於ける文明主義の欠陥でないかと思うのです。何等の理由もなく、責任もなく、何等の予期もなく、不当に不意に強盗に惨殺される被害者の断末魔のやるせない心外さ、限りなき苦痛、燃ゆるような無念を考うれば、死刑囚の苦しみの如き、余りに軽すぎると思います。自分の犯せる罪悪の為に、殺されるのですもの、其処には充分の諦めも付き、覚悟も定るだろうと思います。
が、現代の刑法の下には、私達は坂下鶴吉の死刑を以て、満足せざるを得なかったのであります。従って、私は死刑囚の苦痛と云うことを色々に、想像してやっと姉夫婦の惨死に対する無念を晴すことにして居ました。
どんなに兇悪な人間でも、国家の鉄の如き腕に依って禁獄され、不可抗力の死を宣告され、否やでも応でも死に対する覚悟を定めなければならぬ恐怖と苦痛とを想像したり、又日一日と処刑の日が近づくにつれ、生に対する執着が却って段々強くなり、必死に運命から逃れんとする無益な然しながら懸命の身悶えなどを考えると、私は姉夫婦の横死以来、鬱積して居た悲慣を漸く洩らすことが出来ました。
殊に、毎朝毎朝、今日は死刑の執行される日ではないかと、怖れおののく心持、執行の手続きをする為にいつ看守が扉を開きはしないかと期待する恐ろしい不安などを考えると、たとえ充分とは云えない迄も、ある程度迄は姉達の無念が償われると思うようになって居ました。
そうして居るうちに坂下鶴吉が死刑を宣告されてから、半年も経ったでしょう。私はある朝新聞で『夫婦殺し犯人処刑』と云う三号表題の記事に依って、愈々坂下鶴吉が此の世界から駆逐されたことを知りました。私は長い間の緊張から逃れたように、安易なホッとした心持を感ずると共に此の悪人に対しても、僅かな憐憫の情を催さないこともありませんでした。
私は之で万事了ったと思いました。私の心を長い間苦しめた憎悪の心も全く取払われて、私は普通の人間と同じようになだらかな平和な心持を持つことが出来るようになりました。私は再び現在の司法制度なり刑法なりに対し、ある感謝の心持を懐かずには居られませんでした。
司法大臣閣下。
もし事件が此のままで終ったならば、私はかかる書状を閣下に呈出する必要は少しもなかったのであります。
ところが坂下鶴吉が処刑されてから一年も経った此の頃であります。私は新聞の広告に依って、ふと、『坂下鶴吉の告白』なる一書が、ある弁護士の努力に依って、上梓されたのを知りました。私は、坂下鶴吉なる人間の痕跡が世の中に公々然と発表されることが少し不快でありました。被害者の多くが彼の兇害なる打撃に依って、世の中から永劫に葬られ、墓穴の下に黙々たる無名の骨を朽ちさせて居るのにも拘わらず、坂下鶴吉の告白なるものがとにも角にも書冊の形式に依って公表され、彼が如何なる形式に於ても彼の思想を披瀝し得ると云うことは、私にとっては可なり不当のように思われましたが、そんなことはなんでもありません。私は『坂下鶴吉の告白』なるものを、読むに当って、私は国家の刑罰なるものが、此の男に依ってその効果を蹂躙され、彼は彼自身に適わしい恥多き苦しみ多き刑死を遂ぐる代りに、欣びに溢れ光栄に輝き凱旋的にこの世を去ったことを知って、私は憤忿の念に堪えないのであります。
彼の手にかかった被害者のすべてが、無念の中に悲憤の中に、もだえ死、もがき死んだにも拘わらず彼坂下鶴吉は、欣々然として絞首台上に立ち、国家の刑罰そのものに対してなんらの恐怖を示さず、何等の羞恥をも示さず、自若として死んだことを知って私は実に憤忿の念に堪えないのであります。しかも典獄なる人までが、その最後の情景を叙べて、『罪の重荷を投げ下して、恋しき故郷に旅立ち帰る心持にて、喜色満面勇み立ったその姿は、坐ろに立会の官吏達を感歎せしめざるはなかったと申します』云々と、まるで決死隊の勇士を送るような讃嘆の言葉を洩して居ます。もしも私の義兄の角野一郎、此の坂下鶴吉に後手で縛り上げられ、絞殺されてもがき死んだ私の義兄の角野一郎が、此の処刑の情景を見たらばなんと申しましょう。自分の目前で夫を絞め殺され、相次いで自分自身を絞め殺された私の姉が、此の情景を見たらなんと申しましょう。彼等を殺した悪人が、彼等よりも十倍も百倍も幸福な死を国家の看視の下に遂げて居ることを知ったらなんと申しましょう。こんな不公平な不合理な処罰が世の中にあるでしょうか。
もしも、坂下鶴吉の欣々然たる最期が、──国家の刑罰に対してなんの恐怖をも感じない態度が、彼の悪人としての根性から自発的に出たものならば、私はなんとも申しません。九人の人間を殺しながら欣々然として絞首台上に立ち得るような恐ろしい人間に姉夫婦が殺されたことを、不幸中の不幸と諦めるほかはありません。が、坂下鶴吉のかかる態度は彼の自発的のものではなくして、彼が在監中キリスト教に改宗した結果なのであります。私は、今ここでキリスト教そのものに対してなんの非難をするのではありません。キリスト教が罪人の教化に努めようとすることは、当然なことかも知れませんが、キリスト教の感化が、本当に効果を示して坂下鶴吉の場合の如く、絞首台に上ることが天国へ行く梯子段にでも上るようになっては、それで刑罰の目的が達せられるでしょうか。世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱しめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。幸にしてすべての被害者やその遺族が悉く基督教徒であり、左の頬を打れた時には右の頬を出すような人や、敵を愛し得るような人であれば坂下鶴吉の改宗を欣び、彼の欣々然たる死刑を欣んだでしょうが、私の如く姉夫婦を鶏か何かのように惨殺され、母までをその為に失ったものに取っては、坂下鶴吉が刑罰の効果を適当に受けることは、内心の絶対な要求であります。私は国家の善良な臣民として其事を、要求する権利があると思います。刑罰の効果が、宗教的感化に依って薄弱となっては堪らないと思います。世の中に『死ぬ者貧乏』と云う諺があります。坂下鶴吉の殺した人達は、私の知る限りでは、国家の良民であります。然るに、被害者なり被害者の遺族なりが国家の手に依って毫頭慰藉を受けて居ないのにも拘らず悪人でも、坂下鶴吉の如き悪人でも生きて居る者には、宣教師との接見を許し、その改宗を奨励し、死刑の精神上に及ぼす効果を緩和してやると云うことは甚だ不当な片手落なことだと考えずには居られません。坂下鶴吉はその告白の中に、こんな事を申して居ります。『私は今日では、有難い事には主イエスキリストの御慈愛に依りてこの身も心も共に救われた為に、今日の監獄生活は他の在監者が日々夜々煩悶に苦痛を重ねて、心の中では男泣きに涙を滾して居りますが、私はそれと反対で日々夜々何一つの不安をも感ぜず、喜ばるるばかりでございます。これと申しますのも、嚢に申しました通り、他人様から御覧下されば、何も有せざるに似たれどもすべての物を有するのでございまする。そこで私達が造った品物や金銭は使えば無くなりますに依って、限りがありますが、神様から私は頂きましたすべての物がありますから、如何程沢山に使いましても、それは無くなると云うことはなく無限でありまする。以上申述べましたのは、私の肉体上の生死を述べたのではございません。肉体の生死と云うことは今日では頭に置きませぬ』と、又こうも申して居ります。
『基督教信者は神様よりほかのものは、如何なるものにても、恐れませんのは、私がただ口実を以て申すのではございませぬ。マタイ伝に「身を殺して魂を殺すこと能わずる者を懼るる勿れ」と、あります。之が確かな宣言でございまする』
以上、坂下鶴吉の言葉に依りますと、彼は監獄に在ってキリスト教の信仰を得た為に、彼の強盗時代よりも、もっと幸福に暮したようであります。そして死刑を少しも恐れて居ないことは、『身を殺して魂を殺すこと能わざる者を懼るる勿れ』と、申して居ることで明かであります。もし国家の監獄が基督教の修道院でありますれば、之で結構であるかも知れませんが、監獄が国家の刑罰の機関である以上、監獄に繋ぎながら、囚人を彼らの罪悪時代よりも幸福にし、刑法を、『身を殺して魂を殺し得ざるものとして』何等の威力なからしめて、それ監獄の目的死刑威力が発揮せられるでしょうか。
私は、よくは解りませんが、ある法学者から刑罰の目的に就いては、相対主義と絶対主義と、二つあるのだと云うような事を聞いたことがありますが、キリスト教の信仰さえ得れば監獄も幸福に、死刑も懼るに足らずと云うことになっても、刑罰の目的は立派に達せられて居るのでしょうか。又囚人が幸福に禁獄され欣々然として処刑されると云うような心持を、典獄なる職務にある人が讃美しても差支えないものでしょうか。禁獄とか死刑とか現世的な刑罰が、宗教の信仰に依って其の効果を滅茶滅茶にされて居るのに拘わらず、その現世的刑罰の執行機関に長たるものが感賞の言葉を洩してもよいものでしょうか。『坂下鶴吉の告白』なる本に依りますと、典獄とか検事とか云う連中が、坂下鶴吉の信仰を獲たことを宛も猫が鼠を取ったのを賞めるように、賞めそやして居ります。国家の刑罰なるものは肉体にさえ課すれば、その囚人が心の中ではその刑罰を馬鹿にして居ようが欣んで居ようが、措いて問わないものでしょうか。犯罪なるものが、被害者の肉体のみならず、精神をもどんなに苦しめるかを考えたならば、囚人が刑罰の為に肉体的にも精神的にも苦しむと云うことが云わば至当な事ではないかと思います。私の如き遺族の数多くが肉親を殺された為に悶々の苦しみに苦しんで居るにも拘わらず、その加害者が監獄の中でも幸福な生涯を送り、絞首台上に欣々然として立つことを、典獄迄が讃美するに至っては被害者なり被害者の遺族なりは一体どう思えばよいのでしょうか。
殊に、この書に『看守と巡査とに説教』なる一項があります。キリスト教の立場から云えば会心のことかも知れませんが、国家の刑罰機関の役員が、刑罰の客体から、説教を受けるなどに至っては、寧ろ醜体ではありますまいか。
坂下鶴吉が、国家の刑罰を受けて悪人に適わしい最期を遂げただろうと、想像することに依って、僅かな慰めを受けて居た私は、此の告白を読んで、自分の感情を散々に傷つけられてしまいました。姉夫婦の恨みや、私達遺族の無念は何処に晴されて居るのでしょうか。刑罰の目的に就ての学説はどうか知りませんが、私達の復讐心が、国家の刑罰機関の活動に依り、正当に適法に充たされることだと信頼して居た私達良民の期待は、全く裏切られてしまいました。私の姉夫婦を惨殺した人間は笑って絞首台の上に立って居るのです、懺悔をして居るのだ、許してやってはどうかと云う人があるかも知れませんが、私は基督教徒でありません。殊に坂下鶴吉の如き悪人を許せよなど云う人は、未だ自分の親愛なる人間を、強盗に依って惨殺された経験のない人です。自分の肉親の姉が、虚空を掴み、目を刮き舌を噛み、衣服もあらわに惨殺された現場を見た私に取って、その兇悪な下手人を許すなどと云うことは、夢にも思われない事です。愛も仁もない劣等な人間だと云われても平気です。私は姉の無念が、又自分の無念が正当に晴されることを、良民の一人として国家に要求する権利があると思うのです。もし坂下鶴吉が、国家の手に依って、あんな安易な気楽な死を遂げるのであったならば、私はほかにもっと決心があったと思います。私は彼を公判延で瞥見した時に、彼を倒さないまでも、セメて恨みの一撃を与えなかったことを今更痛切に後悔します。
私が、此の告白を読んだ時に、最初は『坂下鶴吉の奴め、芝居をやるのだな』と、思いました。もうどうせ、死刑は免れないのだから、全く改心して基督教徒になったような顔をして、典獄はじめ周囲の同情を得て、華々しく死刑になったのではないかと思いました。
此の告白に依ると、此の坂下鶴吉は、一度千葉の監獄で、善行の結果残りの刑期を免除されて放免になったと書いてあります。而も、善行の結果、刑期を短縮された坂下鶴吉は、放免になってから九人の人間を殺して居るのです。千葉監獄の典獄が、此の男の善行を認めなかったならば、私の姉などは少くとも、まだ世の中に生きて居られた筈です。善行に依って、残りの刑期を免除された男が、出獄後直ちに罪を犯したばかりではなく、僅か六ヶ月の間を置いて、私の姉夫婦を殺したのです。坂下鶴吉は、その夜のことを次の様に申して居ります。『二十一日の夜ある家へ忍び込みて、家人を縛りまして細君に金を出せと脅迫いたして居りますと、主人が盗賊盗賊と、大声を発しますから、隣の人に聞えては悪いと思いまして、その場にあり合せたる手拭にて首を締めるのを、細君が見て居りまして、細君が精一杯の大声を発して人殺しと呼びましたから、又其の場に在り合わせた細帯にて遂に二人共殺してしまいました。目の前に夫が締め殺されるのを見て居る細君の心持はどんなに恐ろしく思われたでしょう』と、呑気な事を書いてあります。此の犯行の後を見ますと、此の男に人間らしい処が何処にあるのです。而かも、此の男でも、監獄では善行を為し得るのです。私は、こうした男の刑期を、監獄内の善行なるものに依って、短縮した当局者の不明を痛嘆するのですが、然しそれはそれとして置いて、坂下鶴吉の善行がこの程度の善行であった如く、彼の監獄内の信仰なるものも、やっぱりこうした種類の信仰ではなかったかと思うのです。彼が、善行遊戯をして、千葉監獄を、まんまと放免されたように、今度はとても免れないと見積って、信仰遊戯をして、周囲からやんやと喝采を受けながら、死んだのではないかと思うのです。坂下鶴吉の善行なるものが、何如なるものであったかは、直ぐ正体を現したのですが、今度は彼と一緒に天国もしくは地獄へ同伴するものがないだけに、彼のヤマは以前よりももっと成功したと思います。彼の信仰を、ゴマカシと見、絞首台上で欣々然たる容子をしながらその実は差し迫る死の前に戦慄しただろうと想像することが、私のセメてもの慰めです。
が、仏教にも悪人成仏と云う言葉があるように、彼坂下鶴吉が、背負い切れぬ罪悪を背負って居たことは、却って真の信仰を得る機縁であるかも知れぬと思います。従って、私は坂下鶴吉の信仰を、心から全然軽蔑することは出来ないのです。彼は、彼の告白する通り、本当の基督教徒となり、基督教徒の信ずるが如く神の手に迎えられて、天国へ行ったかも知れないとも思うのです。彼坂下鶴吉の信仰が本当のものだとすれば、彼自身『人の世の罪の汚れを浄めつつ神のみ国へ急ぐ楽しさ』と、辞世に述べてある如く、天国へ行ける積りであったと思うのです。
基督教の教義を真実とし、坂下鶴吉の信仰を真実のものだとする時は、坂下鶴吉は、明かに天国へ行って居るのに違いありません。が、坂下鶴吉は天国へ行ったとして、彼の被害者は何処へ行ったでしょう。
私の義兄にしろ、姉にしろ、平常から何の信仰も持って居ません。また縦令、如何なる信仰を持って居たにしろ、咄嗟に生命を奪われた、死際の刹那を苦悶と忿怒との思いで魂を擾したものが極楽なり天国なりへ行かれようとは、思われません。よくは、知りませんが、基督教では死際の懺悔を、非常に大切なものだとされて居るそうですが、姉夫婦の如く虐殺されては懺悔どころか、後生を願う心も神を求める心も影だに射さなかったと思います。殺される刹那の心は、修羅の心です。地獄の思です。もし基督教の教義が本当なれば、地獄の底に陥ちるよりほかはなかったと思います。姉夫婦ばかりではありますまい。彼の為に殺された他の七人の人達も、その人達の信仰はとも角、死際の苦悩の為に天国なり、極楽なりへは、決して行かれなかったと思います。然るに、彼等の生命を奪ったばかりでなく、その魂さえ地獄へ墜した筈の坂下鶴吉は、そうした罪悪を犯した事が却って懺悔の材料となり、天国へ行けると云うことは、少くとも私にとっては奇怪至極な理窟のように思われます。まるで、坂下鶴吉に殺された者が、脚台になって此の悪人を──基督教的には聖徒を、天国へ昇せてやって居るようではありませんか。基督教徒が、彼等の教旨の為にどんな事をしようが、それは彼等の勝手で、彼等の方には充分な埋窟があるかも知れませんが、現世的な刑罰機関の長たる典獄迄が、その便宜を計り、それを奨励するに至っては、被害者達の魂は浮ばれようもないではありませんか。
昔、ある伊太利人は『愚人聖職に上り、ガリレオ獄中に在り』と云って嗟嘆したそうでありますが、もしも天国の存在が本当だとすれば、『加害者天国に在り、被害者地獄に在り』です。宗教の立場から云えば、現世的な法律的な区別は、どうでもいいのでしょうが、国家の司法当局が、その現世的な職務を忘れ、『加害者を天国に送る』事を奨励し、讃美するに至っては、私の如き被害者の遺族は、憤懣に堪えないのであります。
況んや、その信仰の告白を発表し、国家の刑罰機関の効果が、キリスト教の信仰によって蹂躙されたことを公表し、併せて被害者の遺族の感情を傷つくることを許すに至っては、司法政策の上から考えて如何なものでございましょうか。『刑罰の目的は改過遷善に在り』など云う死刑廃止論者などは、自分の妻なり子なりを強盗にでも殺されて見れば、私の憤慨がどんなに自然であり、正当であるかを了解するだろうと思います。
私はこの書状を了るに当って、はしなくも坂下鶴吉の逮捕を見ずして、娘を殺された悲しみに倒れた私の母の事を思い出しました。母は、死際に「あんな極悪な人間は、この世では捕まらんでも死んだら地獄へ落ちるのじゃ。地獄で、ひどい目に逢うのじゃ」と申して居りましたが、母の考えなどとは丸切り違って、坂下鶴吉は(典獄や弁護士などはこう呼んで居る以上、どんな極悪人でも改心した以上罪人扱いには出来ないかも知れません)この世で捕まった代りに、先きの世では天国へ行ったことになって居ます。私は、母の愚かな期待を思い出すごとに、彼女の無智を憫む潸々たる涙を抑えることは出来ません。
底本:「日本探偵小説全集11 名作集1」創元推理文庫、東京創元社
1996(平成8)年6月21日初版
1998(平成10)年8月21日再版
底本の親本:「中央公論」中央公論社
1919(大正8)年4月号
初出:「中央公論」中央公論社
1919(大正8)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2005年8月18日作成
2016年12月25日修正
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