路上
芥川龍之介
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一
午砲を打つと同時に、ほとんど人影の見えなくなった大学の図書館は、三十分経つか経たない内に、もうどこの机を見ても、荒方は閲覧人で埋まってしまった。
机に向っているのは大抵大学生で、中には年輩の袴羽織や背広も、二三人は交っていたらしい。それが広い空間を規則正しく塞いだ向うには、壁に嵌めこんだ時計の下に、うす暗い書庫の入口が見えた。そうしてその入口の両側には、見上げるような大書棚が、何段となく古ぼけた背皮を並べて、まるで学問の守備でもしている砦のような感を与えていた。
が、それだけの人間が控えているのにも関らず、図書館の中はひっそりしていた。と云うよりもむしろそれだけの人間がいて、始めて感じられるような一種の沈黙が支配していた。書物の頁を飜す音、ペンを紙に走らせる音、それから稀に咳をする音──それらの音さえこの沈黙に圧迫されて、空気の波動がまだ天井まで伝わらない内に、そのまま途中で消えてしまうような心もちがした。
俊助はこう云う図書館の窓際の席に腰を下して、さっきから細かい活字の上に丹念な眼を曝していた。彼は色の浅黒い、体格のがっしりした青年だった。が、彼が文科の学生だと云う事は、制服の襟にあるLの字で、問うまでもなく明かだった。
彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂った椎の葉が、僅に空の色を透かせた。空は絶えず雲の翳に遮られて、春先の麗らかな日の光も、滅多にさしては来なかった。さしてもまた大抵は、風に戦いでいる椎の葉が、朦朧たる影を書物の上へ落すか落さない内に消えてしまった。その書物の上には、色鉛筆の赤い線が、何本も行の下に引いてあった。そうしてそれが時の移ると共に、次第に頁から頁へ移って行った。……
十二時半、一時、一時二十分──書庫の上の時計の針は、休みなく確かに動いて行った。するとかれこれ二時かとも思う時分、図書館の扉口に近い、目録の函の並んでいる所へ、小倉の袴に黒木綿の紋附をひっかけた、背の低い角帽が一人、無精らしく懐手をしながら、ふらりと外からはいって来た。これはその懐からだらしなくはみ出したノオト・ブックの署名によると、やはり文科の学生で、大井篤夫と云う男らしかった。
彼はそこに佇んだまま、しばらくはただあたりの机を睨めつけたように物色していたが、やがて向うの窓を洩れる大幅な薄日の光の中に、余念なく書物をはぐっている俊助の姿が目にはいると、早速その椅子の後へ歩み寄って、「おい」と小さな声をかけた。俊助は驚いたように顔を挙げて、相手の方を振返ったが、たちまち浅黒い頬に微笑を浮べて「やあ」と簡単な挨拶をした。と、大井も角帽をかぶったなり、ちょいと顋でこの挨拶に答えながら、妙に脂下った、傲岸な調子で、
「今朝郁文堂で野村さんに会ったら、君に言伝てを頼まれた。別に差支えがなかったら、三時までに『鉢の木』の二階へ来てくれと云うんだが。」
二
「そうか。そりゃ難有う。」
俊助はこう云いながら、小さな金時計を出して見た。すると大井は内懐から手を出して剃痕の青い顋を撫で廻しながら、じろりとその時計を見て、
「すばらしい物を持っているな。おまけに女持ちらしいじゃないか。」
「これか。こりゃ母の形見だ。」
俊助はちょいと顔をしかめながら、無造作に時計をポッケットへ返すと、徐に逞しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好い加減に所々開けて見ながら、
「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸を一つ噛み殺すと、
「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」
「いや、一向振わなくって困っている。」
「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」
大井は書物を抛り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏揺りをし始めたが、その内に俊助が外套へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、
「おい、君は『城』同人の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔になって問いかけた。
『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々築地の精養軒で開かれると云う事は、法文科の掲示場に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。
「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」
俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋の下へ挟むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾そうに眼を働かせて、
「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢に売りつけ方を委託されて、実は大いに困却しているんだ。」
不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂から、『城』同人の印のある、洒落れた切符を二枚出すと、それをまるで花札のように持って見せて、
「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」
「どっちも真平だ。」
「いかん。いかん。金時計の手前に対しても、一枚だけは買う義務がある。」
二人はこんな押問答を繰返しながら、閲覧人で埋まっている机の間を通りぬけて、とうとう吹き曝しの玄関へ出た。するとちょうどそこへ、真赤な土耳其帽をかぶった、痩せぎすな大学生が一人、金釦の制服に短い外套を引っかけて、勢いよく外からはいって来た。それが出合頭に大井と顔を合せると、女のような優しい声で、しかもまた不自然なくらい慇懃に、
「今日は。大井さん。」と、声をかけた。
三
「やあ、失敬。」
大井は下駄箱の前に立止ると、相不変図太い声を出した。が、その間も俊助に逃げられまいと思ったのか、剃痕の青い顋で横柄に土耳其帽をしゃくって見せて、
「君はまだこの先生を知らなかったかな。仏文の藤沢慧君。『城』同人の大将株で、この間ボオドレエル詩抄と云う飜訳を出した人だ。──こっちは英文の安田俊助君。」と、手もなく二人を紹介してしまった。
そこで俊助も已むを得ず、曖昧な微笑を浮べながら、角帽を脱いで黙礼した。が、藤沢は、俊助の世慣れない態度とは打って変った、いかにも如才ない調子で、
「御噂は予々大井さんから、何かと承わって居りました。やはり御創作をなさいますそうで。その内に面白い物が出来ましたら、『城』の方へ頂きますから、どうかいつでも御遠慮なく。」
俊助はまた微笑したまま、「いや」とか「いいえ」とか好い加減な返事をするよりほかはなかった。すると今まで皮肉な眼で二人を見比べていた大井が、例の切符を土耳其帽に見せると、
「今、大いに『城』同人へ御忠勤を抽んでている所なんだ。」と、自慢がましい吹聴をした。
「ああ、そう。」
藤沢は気味の悪いほど愛嬌のある眼で、ちょいと俊助と切符とを見比べたが、すぐその眼を大井へ返して、
「じゃ一等の切符を一枚差上げてくれ給え。──失礼ですけれども、切符の御心配はいりませんから、聴きにいらして下さいませんか。」
俊助は当惑そうな顔をして、何度も平に辞退しようとした。が、藤沢はやはり愛想よく笑いながら、「御迷惑でもどうか」を繰返して、容易に出した切符を引込めなかった。のみならず、その笑の後からは、万一断られた場合には感じそうな不快さえ露骨に透かせて見せた。
「じゃ頂戴して置きます。」
俊助はとうとう我を折って、渋々その切符を受取りながら、素っ気ない声で礼を云った。
「どうぞ。当夜は清水昌一さんの独唱もある筈になっていますから、是非大井さんとでもいらしって下さい。──君は清水さんを知っていたかしら。」
藤沢はそれでも満足そうに華奢な両手を揉み合せて、優しくこう大井へ問いかけると、なぜかさっきから妙な顔をして、二人の問答を聞いていた大井は、さも冗談じゃないと云うように、鼻から大きく息を抜いて、また元の懐手に返りながら、
「勿論知らん。音楽家と犬とは昔から僕にゃ禁物だ。」
「そう、そう、君は犬が大嫌いだったっけ。ゲエテも犬が嫌いだったと云うから、天才は皆そうなのかも知れない。」
土耳其帽は俊助の賛成を求める心算か、わざとらしく声高に笑って見せた。が、俊助は下を向いたまま、まるでその癇高い笑い声が聞えないような風をしていたが、やがてあの時代のついた角帽の庇へ手をかけると、二人の顔を等分に眺めながら、
「じゃ僕は失敬しよう。いずれまた。」と、取ってつけたような挨拶をして、匇々石段を下りて行った。
四
二人に別れた俊助はふと、現在の下宿へ引き移った事がまだ大学の事務所まで届けてなかったのを思い出した。そこでまたさっきの金時計を出して見ると、約束の三時までにはかれこれ三十分足らずも時間があった。彼はちょいと事務所へ寄る事にして、両手を外套の隠しへ突っこみながら、法文科大学の古い赤煉瓦の建物の方へ、ゆっくりした歩調で歩き出した。
と、突然頭の上で、ごろごろと春の雷が鳴った。仰向いて見ると、空はいつの間にか灰汁桶を掻きまぜたような色になって、そこから湿っぽい南風が、幅の広い砂利道へ生暖く吹き下して来た。俊助は「雨かな」と呟きながら、それでも一向急ぐ気色はなく、書物を腋の下に挟んだまま、悠長な歩みを続けて行った。
が、そう呟くか呟かない内に、もう一度かすかに雷が鳴って、ぽつりと冷たい滴が頬に触れた。続いてまた一つ、今度は触るまでもなく、際どく角帽の庇を掠めて、糸よりも細い光を落した。と思うと追々に赤煉瓦の色が寒くなって、正門の前から続いている銀杏の並木の下まで来ると、もう高い並木の梢が一面に煙って見えるほど、しとしとと雨が降り出した。
その雨の中を歩いて行く俊助の心は沈んでいた。彼は藤沢の声を思い出した。大井の顔も思い出した。それからまた彼等が代表する世間なるものも思い出した。彼の眼に映じた一般世間は、実行に終始するのが特色だった。あるいは実行するのに先立って、信じてかかるのが特色だった。が、彼は持って生れた性格と今日まで受けた教育とに煩わされて、とうの昔に大切な、信ずると云う機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いては来なかった。従って彼は世間に伍して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむ事が出来なかった。袖手をして傍観す──それ以上に出る事が出来なかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味うべく余儀なくされた。彼が大井と交際していながら、しかも猶俊助ズィ・エピキュリアンなどと嘲られるのはこのためだった。まして土耳其帽の藤沢などは……
彼の考がここまで漂流して来た時、俊助は何気なく頭を擡げた。擡げると彼の眼の前には、第八番教室の古色蒼然たる玄関が、霧のごとく降る雨の中に、漆喰の剥げた壁を濡らしていた。そうしてその玄関の石段の上には、思いもよらない若い女がたった一人佇んでいた。
雨脚の強弱はともかくも、女は雨止みを待つもののごとく、静に薄暗い空を仰いでいた。額にほつれかかった髪の下には、潤いのある大きな黒瞳が、じっと遠い所を眺めているように見えた。それは白い──と云うよりもむしろ蒼白い顔の色に、ふさわしい二重瞼だった。着物は──黒い絹の地へ水仙めいた花を疎に繍い取った肩懸けが、なだらかな肩から胸へかけて無造作に垂れているよりほかに、何も俊助の眼には映らなかった。
女は俊助が首を擡げたのと前後して、遠い空から彼の上へうっとりとその黒瞳勝ちな目を移した。それが彼の眼と出合った時、女の視線はしばらくの間、止まるとも動くともつかず漂っていた。彼はその刹那、女の長い睫毛の後に、彼の経験を超越した、得体の知れない一種の感情が揺曳しているような心もちがした。が、そう思う暇もなく、女はまた眼を挙げて、向うの講堂の屋根に降る雨の脚を眺め出した。俊助は外套の肩を聳やかせて、まるで女の存在を眼中に置かない人のように、冷然とその前を通り過ぎた。三度頭の上の雲を震わせた初雷の響を耳にしながら。
五
雨に濡れた俊助が『鉢の木』の二階へ来て見ると、野村はもう珈琲茶碗を前に置いて、窓の外の往来へ退屈そうな視線を落していた。俊助は外套と角帽とを給仕の手に渡すが早いか、勢いよく野村の卓子の前へ行って、「待たせたか」と云いながら、どっかり曲木の椅子へ腰を下した。
「うん、待たない事もない。」
ほとんど鈍重な感じを起させるほど、丸々と肥満した野村は、その太い指の先でちょいと大島の襟を直しながら、細い鉄縁の眼鏡越しにのんびりと俊助の顔を見た。
「何にする? 珈琲か。紅茶か。」
「何でも好い。──今、雷が鳴ったろう。」
「うん、鳴ったような気もしない事はない。」
「相不変君はのんきだな。また認識の根拠は何処にあるかとか何とか云う問題を、御苦労様にも考えていたんだろう。」
俊助は金口の煙草に火をつけると、気軽そうにこう云って、卓子の上に置いてある黄水仙の鉢へ眼をやった。するとその拍子に、さっき大学の中で見かけた女の眼が、何故か一瞬間生々と彼の記憶に浮んで来た。
「まさか──僕は犬と遊んでいたんだ。」
野村は子供のように微笑しながら、心もち椅子をずらせて、足下に寝ころんでいた黒犬を、卓子掛の陰からひっぱり出した。犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸を一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細らしく俊助の靴の匀を嗅ぎ出した。俊助は金口の煙を鼻へ抜きながら、気がなさそうに犬の頭を撫でてやった。
「この間、栗原の家にいたやつを貰って来たんだ。」
野村は給仕の持って来た珈琲を俊助の方へ押しやりながら、また肥った指の先を着物の襟へちょいとやって、
「あすこじゃこの頃、家中がトルストイにかぶれているもんだから、こいつにも御大層なピエルと云う名前がついている。僕はこいつより、アンドレエと云う犬の方が欲しかったんだが、僕自身ピエルだから、何でもピエルの方をつれて行けと云うんで、とうとうこいつを拝領させられてしまったんだ。」
と、俊助は珈琲茶碗を唇へ当てながら、人の悪い微笑を浮べて、調戯うように野村を一瞥した。
「まあピエルで満足しとくさ。その代りピエルなら、追っては目出度くナタシアとも結婚出来ようと云うもんだ。」
野村もこれには狼狽したものと見えて、しばらくは顔を所斑に赤くしたが、それでも声だけはゆっくりした調子で、
「僕はピエルじゃない。と云って勿論アンドレエでもないが──」
「ないが、とにかく初子女史のナタシアたる事は認めるだろう。」
「そうさな、まあ御転婆な点だけは幾分認めない事もないが──」
「序に全部認めちまうさ。──そう云えばこの頃初子女史は、『戦争と平和』に匹敵するような長篇小説を書いているそうじゃないか。どうだ、もう追つけ完成しそうかね。」
俊助はようやく鋒芒をおさめながら、短くなった金口を灰皿の中へ抛りこんで、やや皮肉にこう尋ねた。
六
「実はその長篇小説の事で、今日は君に来て貰ったんだが。」
野村は鉄縁の眼鏡を外すと、刻銘に手巾で玉の曇りを拭いながら、
「初子さんは何でも、新しい『女の一生』を書く心算なんだそうだ。まあ Une Vie à la Tolstoï と云う所なんだろう。そこでその女主人公と云うのが、いろいろ数奇な運命に弄ばれた結果だね。──」
「それから?」
俊助は鼻を黄水仙の鉢へ持って行きながら、格別気乗りもしていなさそうな声でこう云った。が、野村は細い眼鏡の蔓を耳の後へからみつけると、相不変落着き払った調子で、
「最後にどこかの癲狂院で、絶命する事になるんだそうだ。ついてはその癲狂院の生活を描写したいんだが、生憎初子さんはまだそう云う所へ行って見た事がない。だからこの際誰かの紹介を貰って、どこでも好いから癲狂院を見物したいと云っているんだ。──」
俊助はまた金口に火を付けながら、半ば皮肉な表情を浮べた眼で、もう一度「それから?」と云う相図をした。
「そこで君から一つ、新田さんへ紹介してやって貰いたいんだが──新田さんと云うんだろう。あの物質主義者の医学士は?」
「そうだ──じゃともかくも手紙をやって、向うの都合を問い合せて見よう。多分差支えはなかろうと思うんだが。」
「そうか。そうして貰えれば、僕の方は非常に難有いんだ。初子さんも勿論大喜びだろう。」
野村は満足そうに眼を細くして、続けさまに二三度大島の襟を直しながら、
「この頃はまるでその『女の一生』で夢中になっているんだから。一しょにいる親類の娘なんぞをつかまえても、始終その話ばかりしているらしい。」
俊助は黙って、埃及の煙を吐き出しながら、窓の外の往来へ眼を落した。まだ霧雨の降っている往来には、細い銀杏の並木が僅に芽を伸ばして、亀の甲羅に似た蝙蝠傘が幾つもその下を動いて行く。それがまた何故か彼の記憶に、刹那の間さっき遇った女の眼を思い出させた。……
「君は『城』同人の音楽会へは行かないのか。」
しばらく沈黙が続いた後で、野村はふと思出したようにこう尋ねた。と同時に俊助は、彼の心が何分かの間、ほとんど白紙のごとく空しかったのに気がついた。彼はちょいと顔をしかめて、冷くなった珈琲を飲み干すと、すぐに以前のような元気を恢復して、
「僕は行こうと思っている。君は?」
「僕は今朝郁文堂で大井君に言伝てを頼んだら何でも買ってくれと云うので、とうとう一等の切符を四枚押つけられてしまった。」
「四枚とはまたひどく奮発したものじゃないか。」
「何、どうせ三枚は栗原で買って貰うんだから。──こら、ピエル。」
今まで俊助の足下に寝ころんでいた黒犬は、この時急に身を起すと、階段の上り口を睨みながら、凄じい声で唸り出した。犬の気色に驚いた野村と俊助とは、黄水仙の鉢を隔てて向い合いながら、一度にその方へ振り返った。するとちょうどそこにはあの土耳其帽の藤沢が、黒いソフトをかぶった大学生と一しょに、雨に濡れた外套を給仕の手に渡している所だった。
七
一週間の後、俊助は築地の精養軒で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。中には大学の西洋人の教師も、一人二人は来ているらしかった。俊助は、大きな護謨の樹の鉢植が据えてある部屋の隅に佇みながら、別に開会を待ち兼ねるでもなく、ぼんやり周囲の話し声に屈托のない耳を傾けていた。
するとどこからか大井篤夫が、今日は珍しく制服を着て、相不変傲然と彼の側へ歩いて来た。二人はちょいと点頭を交換した。
「野村はまだ来ていないか。」
俊助がこう尋ねると、大井は胸の上に両手を組んで、反身にあたりを見廻しながら、
「まだ来ないようだ。──来なくって仕合せさ。僕は藤沢にひっぱられて来たもんだから、もうかれこれ一時間ばかり待たされている。」
俊助は嘲るように微笑した。
「君がたまに制服なんぞ着て来りゃ、どうせ碌な事はありゃしない。」
「これか。これは藤沢の制服なんだ。彼曰、是非僕の制服を借りてくれ給え、そうすると僕はそれを口実に、親爺のタキシイドを借りるから。──そこでやむを得ず、僕がこれを着て、聴きたくもない音楽会なんぞへ出たんだ。」
大井はあたり構わずこんな事を饒舌りながら、もう一度ぐるり部屋の中を見渡して、それから、あすこにいるのは誰、ここにいるのは誰と、世間に名の知られた作家や画家を一々俊助に教えてくれた。のみならず序を以て、そう云う名士たちの醜聞を面白そうに話してくれた。
「あの紋服と来た日にゃ、ある弁護士の細君をひっかけて、そのいきさつを書いた小説を御亭主の弁護士に献じるほど、すばらしい度胸のある人間なんだ。その隣のボヘミアン・ネクタイも、これまた詩よりも女中に手をつけるのが、本職でね。」
俊助はこんな醜い内幕に興味を持つべく、余りに所謂ニル・アドミラリな人間だった。ましてその時はそれらの芸術家の外聞も顧慮してやりたい気もちがあった。そこで彼は大井が一息ついたのを機会にして、切符と引換えに受取ったプログラムを拡げながら、話題を今夜演奏される音楽の方面へ持って行った。が、大井はこの方面には全然無感覚に出来上っていると見えて、鉢植の護謨の葉を遠慮なく爪でむしりながら、
「とにかくその清水昌一とか云う男は、藤沢なんぞの話によると、独唱家と云うよりゃむしろ立派な色魔だね。」と、また話を社会生活の暗黒面へ戻してしまった。
が、幸、その時開会を知らせるベルが鳴って、会場との境の扉がようやく両方へ開かれた。そうして待ちくたびれた聴衆が、まるで潮の引くように、ぞろぞろその扉口へ流れ始めた。俊助も大井と一しょにこの流れに誘われて、次第に会場の方へ押されて行ったが、何気なく途中で後を振り返ると、思わず知らず心の中で「あっ」と云う驚きの声を洩らした。
八
俊助は会場の椅子に着いた後でさえ、まだ全くさっきの驚きから恢復していない事を意識した。彼の心はいつになく、不思議な動揺を感じていた。それは歓喜とも苦痛とも弁別し難い性質のものだった。彼はこの心の動揺に身を任せたいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫をした。
金屏風を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔しくシュウマンを唱った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層苛立てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱が終って、けたたましい拍手の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家を覗いていたが、
「成程、清水と云う男は、立派に色魔たるべき人相を具えているな。」と、呟くような声で云った。
俊助は初めてその中年の紳士が清水昌一と云う男だったのに気がついた。そこでまた演壇の方へ眼を返すと、今度はそこへ裾模様の令嬢が、盛な喝采に迎えられながら、ヴァイオリンを抱いてしずしずと登って来る所だった。令嬢はほとんど人形のように可愛かったが、遺憾ながらヴァイオリンはただ間違わずに一通り弾いて行くと云うだけのものだった。けれども俊助は幸と、清水昌一のシュウマンほど悪甘い刺戟に脅かされないで、ともかくも快よくチャイコウスキイの神秘な世界に安住出来るのを喜んだ。が、大井はやはり退屈らしく、後頭部を椅子の背に凭せて、時々無遠慮に鼻を鳴らしていたが、やがて急に思いついたという調子で、
「おい、野村君が来ているのを知っているか。」
「知っている。」
俊助は小声でこう答えながら、それでもなお眼は金屏風の前の令嬢からほかへ動かさなかった。と、大井は相手の答が物足らなかったものと見えて、妙に悪意のある微笑を漂わせながら、
「おまけにすばらしい美人を二人連れて来ている。」と、念を押すようにつけ加えた。
が、俊助は何とも答えなかった。そうして今までよりは一層熱心に演壇の上から流れて来るヴァイオリンの静かな音色に耳を傾けているらしかった。……
それからピアノの独奏と四部合唱とが終って、三十分の休憩時間になった時、俊助は大井に頓着なく、逞い体を椅子から起して、あの護謨の樹の鉢植のある会場の次の間へ、野村の連中を探しに行った。しかし後に残った大井の方は、まだ傲然と腕組みをしたまま、ただぐったりと頭を前へ落して、演奏が止んだのも知らないのか、いかにも快よさそうに、かすかな寝息を洩らしていた。
九
次の間へ来て見ると、果して野村が栗原の娘と並んで、大きな暖炉の前へ佇んでいた。血色の鮮かな、眼にも眉にも活々した力の溢れている、年よりは小柄な初子は、俊助の姿を見るが早いか、遠くから靨を寄せて、気軽くちょいと腰をかがめた。と、野村も広い金釦の胸を俊助の方へ向けながら、度の強い近眼鏡の後に例のごとく人の好さそうな微笑を漲らせて、鷹揚に「やあ」と頷いて見せた。俊助は暖炉の上の鏡を背負って、印度更紗の帯をしめた初子と大きな体を制服に包んだ野村とが、向い合って立っているのを眺めた時、刹那の間彼等の幸福が妬しいような心もちさえした。
「今夜はすっかり遅くなってしまった。何しろ僕等の方は御化粧に手間が取れるものだから。」
俊助と二言三言雑談を交換した後で、野村は大理石のマントル・ピイスへ手をかけながら、冗談のような調子でこう云った。
「あら、いつ私たちが御手間を取らせて? 野村さんこそ御出でになるのが遅かったじゃないの?」
初子はわざと濃い眉をひそめて、媚びるように野村の顔を見上げたが、すぐにまたその視線を俊助の方へ投げ返すと、
「先日は私妙な事を御願いして──御迷惑じゃございませんでしたの?」
「いや、どうしまして。」
俊助はちょいと初子に会釈しながら、後はやはり野村だけへ話しかけるような態度で、
「昨日新田から返事が来たが、月水金の内でさえあれば、いつでも喜んで御案内すると云うんだ。だからその内で都合の好い日に参観して来給え。」
「そうか。そりゃ難有う。──で、初子さんはいつ行って見ます?」
「いつでも。どうせ私用のない体なんですもの。野村さんの御都合で極めて頂けば好いわ。」
「僕が極めるって──じゃ僕も随行を仰せつかるんですか。そいつは少し──」
野村は五分刈の頭へ大きな手をやって、辟易したらしい気色を見せた。と、初子は眼で笑いながら、声だけ拗ねた調子で、
「だって私その新田さんって方にも、御目にかかった事がないんでしょう。ですもの、私たちだけじゃ行かれはしないわ。」
「何、安田の名刺を貰って行けば、向うでちゃんと案内してくれますよ。」
二人がこんな押問答を交換していると、突然、そこへ、暁星学校の制服を着た十ばかりの少年が、人ごみの中をくぐり抜けるようにして、勢いよく姿を現した。そうしてそれが俊助の顔を見ると、いきなり直立不動の姿勢をとって、愛嬌のある挙手の礼をして見せた。こちらの三人は思わず笑い出した。中でも一番大きな声を出して笑ったのは、野村だった。
「やあ、今夜は民雄さんも来ていたのか。」
俊助は両手で少年の肩を抑えながら、調戯うようにその顔を覗きこんだ。
「ああ、皆で自動車へ乗って来たの。安田さんは?」
「僕は電車で来た。」
「けちだなあ、電車だなんて。帰りに自動車へ乗せて上げようか。」
「ああ、乗せてくれ給え。」
この間も俊助は少年の顔を眺めながら、しかも誰かが民雄の後を追って、彼等の近くへ歩み寄ったのを感ぜずにはいられなかった。
十
俊助は眼を挙げた。と、果して初子の隣に同年輩の若い女が、紺地に藍の竪縞の着物の胸を蘆手模様の帯に抑えて、品よくすらりと佇んでいた。彼女は初子より大柄だった。と同時に眼鼻立ちは、愛くるしかるべき二重瞼までが、遥に初子より寂しかった。しかもその二重瞼の下にある眼は、ほとんど憂鬱とも形容したい、潤んだ光さえ湛えていた。さっき会場へはいろうとする間際に、偶然後へ振り返った、俊助の心を躍らせたものは、実にこのもの思わしげな、水々しい瞳の光だった。彼はその瞳の持ち主と咫尺の間に向い合った今、再び最前の心の動揺を感じない訳には行かなかった。
「辰子さん。あなたまだ安田さんを御存知なかったわね。──辰子さんと申しますの。京都の女学校を卒業なすった方。この頃やっと東京詞が話せるようになりました。」
初子は物慣れた口ぶりで、彼女を俊助に紹介した。辰子は蒼白い頬の底にかすかな血の色を動かして、淑かに束髪の頭を下げた。俊助も民雄の肩から手を離して、叮嚀に初対面の会釈をした。幸、彼の浅黒い頬がいつになく火照っているのには、誰も気づかずにいたらしかった。
すると野村も横合いから、今夜は特に愉快そうな口を出して、
「辰子さんは初子さんの従妹でね、今度絵の学校へはいるものだから、それでこっちへ出て来る事になったんだ。所が毎日初子さんが例の小説の話ばかり聞かせるので、余程体にこたえるのだろう。どうもこの頃はちと健康が思わしくない。」
「まあ、ひどい。」
初子と辰子とは同時にこう云った。が、辰子の声は、初子のそれに気押されて、ほとんど聞えないほど低い声だった。けれども俊助は、この始めて聞いた辰子の声の中に、優しい心を裏切るものが潜んでいるような心もちがした。それが彼には心強い気を起させた。
「画と云うと──やはり洋画を御やりになるのですか。」
相手の声に勇気を得た俊助は、まだ初子と野村とが笑い合っている内に、こう辰子へ問いかけた。辰子はちょいと眼を帯止めの翡翠へ落して、
「は。」と、思ったよりもはっきりした返事をした。
「画は却々うまい。優に初子さんの小説と対峙するに足るくらいだ。──だから、辰子さん。僕が好い事を教えて上げましょう。これから初子さんが小説の話をしたら、あなたも盛に画の話をするんです。そうでもしなくっちゃ、体がたまりません。」
俊助はただ微笑で野村に答えながら、もう一度辰子に声をかけて見た。
「お体は実際お悪いんですか。」
「ええ、心臓が少し──大した事はございませんけれど。」
するとさっきから退屈そうな顔をして、一同の顔を眺めていた民雄が、下からぐいぐい俊助の手をひっぱって、
「辰子さんはね、あすこの梯子段を上っても、息が切れるんだとさ。僕は二段ずつ一遍にとび上る事が出来るんだぜ。」
俊助は辰子と顔を見合せて、ようやく心置きのない微笑を交換した。
十一
辰子は蒼白い頬に片靨を寄せたまま、静に民雄から初子へ眼を移して、
「民雄さんはそりゃお強いの。さっきもあの梯子段の手すりへ跨って、辷り下りようとなさるんでしょう。私吃驚して、墜ちて死んだらどうなさるのって云ったら──ねえ、民雄さん。あなたあの時、僕はまだ死んだ事がないから、どうするかわからないって仰有ったわね。私可笑しくって──」
「成程ね、こりゃ却々哲学的だ。」
野村はまた誰よりも大きな声で笑い出した。
「まあ、生意気ったらないのね。──だから姉さんがいつでも云うんだわ、民雄さんは莫迦だって。」
部屋の中の火気に蒸されて、一層血色の鮮になった初子が、ちょっと睨める真似をしながら、こう弟を窘めると、民雄はまだ俊助の手をつかまえたまま、
「ううん。僕は莫迦じゃないよ。」
「じゃ利巧か?」
今度は俊助まで口を出した。
「ううん、利巧でもない。」
「じゃ何だい。」
民雄はこう云った野村の顔を見上げながら、ほとんど滑稽に近い真面目さを眉目の間に閃かせて、
「中位。」と道破した。
四人は声を合せて失笑した。
「中位は好かった。大人もそう思ってさえいれば、一生幸福に暮せるのに相違ない。こりゃ初子さんなんぞは殊に拳々服膺すべき事かも知れませんぜ。辰子さんの方は大丈夫だが──」
その笑い声が静まった時、野村は広い胸の上に腕を組んで、二人の若い女を見比べた。
「何とでもおっしゃい。今夜は野村さん私ばかりいじめるわね。」
「じゃ僕はどうだ。」
俊助は冗談のように野村の矢面に立った。
「君もいかん。君は中位を以て自任出来ない男だ。──いや、君ばかりじゃない。近代の人間と云うやつは、皆中位で満足出来ない連中だ。そこで勢い、主我的になる。主我的になると云う事は、他人ばかり不幸にすると云う事じゃない。自分までも不幸にすると云う事だ。だから用心しなくっちゃいけない。」
「じゃ君は中位派か。」
「勿論さ。さもなけりゃ、とてもこんな泰然としちゃいられはしない。」
俊助は憫むような眼つきをして、ちらりと野村の顔を見た。
「だがね、主我的になると云う事は、自分ばかり不幸にする事じゃない。他人までも不幸にする事だ。だろう。そうするといくら中位派でも、世の中の人間が主我的だったら、やっぱり不安だろうじゃないか。だから君のように泰然としていられるためには、中位派たる以上に、主我的でない世の中を──でなくとも、先ず主我的でない君の周囲を信用しなけりゃならないと云う事になる。」
「そりゃまあ信用しているさ。が、君は信用した上でも──待った。一体君は全然人間を当てにしていないのか。」
俊助はやはり薄笑いをしたまま、しているとも、していないとも答えなかった。初子と辰子との眼がもの珍らしそうに、彼の上へ注がれているのを意識しながら。
十二
音楽会が終った後で、俊助はとうとう大井と藤沢とに引きとめられて、『城』同人の茶話会に出席しなければならなくなった。彼は勿論進まなかった。が、藤沢以外の同人には、多少の好奇心もない事はなかった。しかも切符を貰っている義理合い上、無下に断ってしまうのも気の毒だと云う遠慮があった。そこで彼はやむを得ず、大井と藤沢との後について、さっきの次の間の隣にある、小さな部屋へ通ったのだった。
通って見ると部屋の中には、もう四五人の大学生が、フロックの清水昌一と一しょに、小さな卓子を囲んでいた。藤沢はその連中を一々俊助に紹介した。その中では近藤と云う独逸文科の学生と、花房と云う仏蘭西文科の学生とが、特に俊助の注意を惹いた人物だった。近藤は大井よりも更に背の低い、大きな鼻眼鏡をかけた青年で、『城』同人の中では第一の絵画通と云う評判を荷っていた。これはいつか『帝国文学』へ、堂々たる文展の批評を書いたので、自然名前だけは俊助の記憶にも残っているのだった。もう一人の花房は、一週間以前『鉢の木』へ藤沢と一しょに来た黒のソフトで、英仏独伊の四箇国語のほかにも、希臘語や羅甸語の心得があると云う、非凡な語学通で通っていた。そうしてこれまた Hanabusa と署名のある英仏独伊希臘羅甸の書物が、時々本郷通の古本屋に並んでいるので、とうから名前だけは俊助も承知している青年だった。この二人に比べると、ほかの『城』同人は存外特色に乏しかった。が、身綺麗な服装の胸へ小さな赤薔薇の造花をつけている事は、いずれも軌を一にしているらしかった。俊助は近藤の隣へ腰を下しながら、こう云うハイカラな連中に交っている大井篤夫の野蛮な姿を、滑稽に感ぜずにはいられなかった。
「御蔭様で、今夜は盛会でした。」
タキシイドを着た藤沢は、女のような柔しい声で、まず独唱家の清水に挨拶した。
「いや、どうもこの頃は咽喉を痛めているもんですから──それより『城』の売行きはどうです? もう収支償うくらいには行くでしょう。」
「いえ、そこまで行ってくれれば本望なんですが──どうせ我々の書く物なんぞが、売れる筈はありゃしません。何しろ人道主義と自然主義と以外に、芸術はないように思っている世間なんですから。」
「そうですかね。だがいつまでも、それじゃすまないでしょう。その内に君の『ボオドレエル詩抄』が、羽根の生えたように売れる時が来るかも知れない。」
清水は見え透いた御世辞を云いながら、給仕の廻して来た紅茶を受けとると、隣に坐っていた花房の方を向いて、
「この間の君の小説は、大へん面白く拝見しましたよ。あれは何から材料を取ったんですか。」
「あれですか。あれはゲスタ・ロマノルムです。」
「はあ、ゲスタ・ロマノルムですか。」
清水はけげんな顔をしながら、こう好い加減な返事をすると、さっきから鉈豆の煙管できな臭い刻みを吹かせていた大井が、卓子の上へ頬杖をついて、
「何だい、そのゲスタ・ロマノルムってやつは?」と、無遠慮な問を抛りつけた。
十三
「中世の伝説を集めた本でしてね。十四五世紀の間に出来たものなんですが、何分原文がひどい羅甸なんで──」
「君にも読めないかい。」
「まあ、どうにかですね。参考にする飜訳もいろいろありますから。──何でもチョオサアやシェクスピイアも、あれから材料を採ったんだそうです。ですからゲスタ・ロマノルムだって、中々莫迦には出来ませんよ。」
「じゃ君は少くとも材料だけは、チョオサアやシェクスピイアと肩を並べていると云う次第だね。」
俊助はこう云う問答を聞きながら、妙な事を一つ発見した。それは花房の声や態度が、不思議なくらい藤沢に酷似していると云う事だった。もし離魂病と云うものがあるとしたならば、花房は正に藤沢の離魂体とも見るべき人間だった。が、どちらが正体でどちらが影法師だか、その辺の際どい消息になると、まだ俊助にははっきりと見定めをつける事がむずかしかった。だから彼は花房の饒舌っている間も、時々胸の赤薔薇を気にしている藤沢を偸み見ずにはいられなかった。
すると今度はその藤沢が、縁に繍のある手巾で紅茶を飲んだ口もとを拭いながら、また隣の独唱家の方を向いて、
「この四月には『城』も特別号を出しますから、その前後には近藤さんを一つ煩わせて、展覧会を開こうと思っています。」
「それも妙案ですな。が、展覧会と云うと、何ですか、やはり諸君の作品だけを──」
「ええ、近藤さんの木版画と、花房さんや私の油絵と──それから西洋の画の写真版とを陳列しようかと思っているんです。ただ、そうなると、警視庁がまた裸体画は撤回しろなぞとやかましい事を云いそうでしてね。」
「僕の木版画は大丈夫だが、君や花房君の油絵は危険だぜ。殊に君の『Utamaro の黄昏』に至っちゃ──あなたはあれを御覧になった事がありますか。」
こう云って、鼻眼鏡の近藤はマドロス・パイプの煙を吐きながら、流し眼にじろりと俊助の方を見た。と、俊助がまだ答えない内に、卓子の向うから藤沢が口を挟んで、
「そりゃ君、まだ御覧にならないのですよ。いずれその内に、御眼にかけようとは思っているんですが──安田さんは絵本歌枕と云うものを御覧になった事がありますか。ありません? 私の『Utamaro の黄昏』は、あの中の一枚を装飾的に描いたものなんです。行き方は──と、近藤さん、あれは何と云ったら好いんでしょう。モオリス・ドニでもなし、そうかと云って──」
近藤は鼻眼鏡の後の眼を閉じてしばらく考に耽っていたが、やがて重々しい口を開こうとすると、また大井が横合いから、鉈豆の煙管を啣えたままで、
「つまり君、春画みたいなものなんだろう。」と、乱暴な註釈を施してしまった。
ところが藤沢は存外不快にも思わなかったと見えて、例のごとく無気味なほど柔しい微笑を漂わせながら、
「ええ、そう云えば一番早いかも知れませんね。」と、恬然として大井に賛成した。
十四
「成程、そりゃ面白そうだ。──ところでどうでしょう、春画などと云う物は、やっぱり西洋の方が発達しているんですか。」
清水がこう尋ねたのを潮に、近藤は悠然とマドロス・パイプの灰をはたきながら、大学の素読でもしそうな声で、徐に西洋の恁うした画の講釈をし始めた。
「一概に春画と云いますが、まあざっと三種類に区別するのが至当なので、第一は××××を描いたもの、第二はその前後だけを描いたもの、第三は単に××××を描いたもの──」
俊助は勿論こう云う話題に、一種の義憤を発するほど、道徳家でないには相違なかった。けれども彼には近藤の美的偽善とも称すべきものが──自家の卑猥な興味の上へ芸術的と云う金箔を塗りつけるのが、不愉快だったのもまた事実だった。だから近藤が得意になって、さも芸術の極致が、こうした画にあるような、いかがわしい口吻を弄し出すと、俊助は義理にも、金口の煙に隠れて、顔をしかめない訳には行かなかった。が、近藤はそんな事には更に気がつかなかったものと見えて、上は古代希臘の陶画から下は近代仏蘭西の石版画まで、ありとあらゆるこうした画の形式を一々詳しく説明してから、
「そこで面白い事にはですね、あの真面目そうなレムブラントやデュラアまでが、斯ういう画を描いているんです。しかもレムブラントのやつなんぞは、やっぱり例のレムブラント光線が、ぱっと一箇所に落ちているんだから、振っているじゃありませんか。つまりああ云う天才でも、やっぱりこの方面へ手を出すぐらいな俗気は十分あったんで──まあ、その点は我々と似たり寄ったりだったんでしょう。」
俊助はいよいよ聞き苦しくなった。すると今まで卓子の上へ頬杖をついて、半ば眼をつぶっていた大井が、にやりと莫迦にしたような微笑を洩すと、欠伸を噛み殺したような声を出して、
「おい、君、序にレムブラントもデュラアも、我々同様屁を垂れたと云う考証を発表して見ちゃどうだ。」
近藤は大きな鼻眼鏡の後から、険しい視線を大井へ飛ばせたが、大井は一向平気な顔で、鉈豆の煙管をすぱすぱやりながら、
「あるいは百尺竿頭一歩を進めて、同じく屁を垂れるから、君も彼等と甲乙のない天才だと号するのも洒落れているぜ。」
「大井君、よし給えよ。」
「大井さん。もう好いじゃありませんか。」
見兼ねたと云う容子で、花房と藤沢とが、同時に柔しい声を出した。と、大井は狡猾そうな眼で、まっ青になった近藤の顔をじろじろ覗きこみながら、
「こりゃ失敬したね。僕は何も君を怒らす心算で云ったんじゃないんだが──いや、ない所か、君の知識の該博なのには、夙に敬服に堪えないくらいなんだ。だからまあ、怒らないでくれ給え。」
近藤は執念深く口を噤んで、卓子の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気に取られている連中を後に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯いている大井の方へ、ちょいと顎で相図をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免を蒙るから。──」
これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。
十五
するとその後また一週間と経たない内に、俊助は上野行の電車の中で、偶然辰子と顔を合せた。
それは春先の東京に珍しくない、埃風の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸をかけて、膝の上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は──」と、平凡に挨拶した。
「私こそ──」
それぎり二人は口を噤んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩れるように後へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日は?──御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで──国許の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
俊助は次第に二人の間の他人行儀が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅の旗が、喇叭や太鼓の音を風に飛ばせながら、瞬く間電車の窓を塞いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶が、斜にさして来る日の光を受けて、仄かに赤く透いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。
「先達は、あれからすぐに御帰りになって。」
辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐しい声でこう云った。
「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」
「御宅はやはり本郷?」
「そうです。森川町。」
俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉を入れた金の指環が、細っそりとその小指を繞っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。
「大学の正門前の横町です。その内に遊びにいらっしゃい。」
「難有う。いずれ初子さんとでも。」
辰子は名刺を帯の間へ挟んで、ほとんど聞えないような返事をした。
二人はまた口を噤んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。
十六
俊助の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺の酒屋の隠居所を、ある伝手から二階だけ貸して貰ったので、畳建具も世間並の下宿に比べると、遥に小綺麗に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心は悪くない程度の西洋風な書斎を拵え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に据えてある寄せ木の卓子の上へ置いた。現に今日も、この卓子の上には、籐の籠へ入れた桜草の鉢が、何本も細い茎を抽いた先へ、簇々とうす赤い花を攅めている。……
須田町の乗換で辰子と分れた俊助は、一時間の後この下宿の二階で、窓際の西洋机の前へ据えた輪転椅子に腰を下しながら、漫然と金口の煙草を啣えていた。彼の前には読みかけた書物が、象牙の紙切小刀を挟んだまま、さっきからちゃんと開いてあった。が、今の彼には、その頁に詰まっている思想を咀嚼するだけの根気がなかった。彼の頭の中には辰子の姿が、煙草の煙のもつれるように、いつまでも美しく這い纏っていた。彼にはその頭の中の幻が、最前電車の中で味った幸福の名残りのごとく見えた。と同時にまた来るべき、さらに大きな幸福の前触れのごとくも見えるのだった。
すると机の上の灰皿に、二三本吸いさしの金口がたまった時、まず大儀そうに梯子段を登る音がして、それから誰か唐紙の向うへ立止ったけはいがすると、
「おい、いるか。」と、聞き慣れた太い声がした。
「はいり給え。」
俊助がこう答える間も待たないで、からりとそこの唐紙が開くと、桜草の鉢を置いた寄せ木の卓子の向うには、もう肥った野村の姿が、肩を揺ってのそのそはいって来た。
「静だな。玄関で何度御免と言っても、女中一人出て来ない。仕方がないからとうとう、黙って上って来てしまった。」
始めてこの下宿へ来た野村は、万遍なく部屋の中を見廻してから、俊助の指さす安楽椅子へ、どっかり大きな尻を据えた。
「大方女中がまた使いにでも行っていたんだろう。主人の隠居は聾だから、中々御免くらいじゃ通じやしない。──君は学校の帰りか。」
俊助は卓子の上へ西洋の茶道具を持ち出しながら、ちょいと野村の制服姿へ眼をやった。
「いや、今日はこれから国へ帰って来ようと思って──明後日がちょうど親父の三回忌に当るものだから。」
「そりゃ大変だな。君の国じゃ帰るだけでも一仕事だ。」
「何、その方は慣れているから平気だが、とかく田舎の年忌とか何とか云うやつは──」
野村は前以て辟易を披露するごとく、近眼鏡の後の眉をひそめて見せたが、すぐにまた気を変えて、
「ところで僕は君に一つ、頼みたい事があって寄ったのだが──」
十七
「何だい、改まって。」
俊助は紅茶茶碗を野村の前へ置くと、自分も卓子の前の椅子へ座を占めて、不思議そうに相手の顔へ眼を注いだ。
「改まりなんぞしやしないさ。」
野村は反って恐縮らしく、五分刈の頭を撫で廻したが、
「実は例の癲狂院行きの一件なんだが──どうだろう。君が僕の代りに初子さんを連れて行って、見せてやってくれないか。僕は今日行くと、何だ彼だで一週間ばかりは、とても帰られそうもないんだから。」
「そりゃ困るよ。一週間くらいかかったって、帰ってから、君が連れて行きゃ好いじゃないか。」
「ところが初子さんは、一日も早く見たいと云っているんだ。」
野村は実際困ったような顔をして、しばらくは壁に懸っている写真版へ、順々に眼をくばっていたが、やがてその眼がレオナルドのレダまで行くと、
「おや、あれは君、辰子さんに似ているじゃないか。」と、意外な方面へ談柄を落した。
「そうかね。僕はそうとも思わないが。」
俊助はこう答えながら、明かに嘘をついていると云う自覚があった。それは勿論彼にとって、面白くない自覚には相違なかった。が、同時にまた、小さな冒険をしているような愉快が潜んでいたのも事実だった。
「似ている。似ている。もう少し辰子さんが肥っていりゃ、あれにそっくりだ。」
野村は近眼鏡の下からしばらくレダを仰いでいた後で、今度はその眼を桜草の鉢へやると、腹の底から大きな息をついて、
「どうだ。年来の好誼に免じて、一つ案内役を引き受けてくれないか。僕はもう君が行ってくれるものと思って、その旨を初子さんまで手紙で通知してしまったんだが。」
俊助の舌の先には、「そりゃ君の勝手じゃないか」と云う言葉があった。が、その言葉がまだ口の外へ出ない内に、彼の頭の中へは刹那の間、伏目になった辰子の姿が鮮かに浮び上って来た。と、ほとんどそれが相手に通じたかのごとく、野村は安楽椅子の肘を叩きながら、
「初子さん一人なら、そりゃ君の辟易するのも無理はないが、辰子さんも多分──いや、きっと一しょに行くって云っていたから、その辺の心配はいらないんだがね。」
俊助は紅茶茶碗を掌に載せたまま、しばらくの間考えた。行く行かないの問題を考えるのか、一度断った依頼をまた引受けるために、然るべき口実を考えるのか──それも彼には判然しないような心もちがした。
「そりゃ行っても好いが。」
彼は現金すぎる彼自身を恥じながら、こう云った後で、追いかけるように言葉を添えずにはいられなかった。
「そうすりゃ、久しぶりで新田にも会えるから。」
「やれ、やれ、これでやっと安心した。」
野村はさもほっとしたらしく、胸の釦を二つ三つ外すと、始めて紅茶茶碗を口へつけた。
十八
「日はア。」
俊助の眼はまだ野村よりも、掌の紅茶茶碗へ止まり易かった。
「来週の水曜日──午後からと云う事になっているんだが、君の都合が悪るけりゃ、月曜か金曜に繰変えても好い。」
「何、水曜なら、ちょうど僕の方も講義のない日だ。それで──と、栗原さんへは僕の方から出かけて行くのか。」
野村は相手の眉の間にある、思い切りの悪い表情を見落さなかった。
「いや、向うからここへ来て貰おう。第一その方が道順だから。」
俊助は黙って頷いたまま、しばらく閑却されていた埃及煙草へ火をつけた。それから始めてのびのびと椅子の背に頭を靠せながら、
「君はもう卒業論文へとりかかったのか。」と、全く別な方面へ話題を開拓した。
「本だけはぽつぽつ読んでいるが──いつになったら考えが纏るか、自分でもちょいと見当がつかない。殊にこの頃のように俗用多端じゃ──」
こう云いかけた野村の眼には、また冷評されはしないかと云う懸念があった。が、俊助は案外真面目な調子で、
「多端──と云うと?」と問い返した。
「君にはまだ話さなかったかな。僕の母が今は国にいるが、僕でも大学を卒業したら、こちらへ出て来て、一しょになろうと云うんでね。それにゃ国の田地や何かも整理しなけりゃならないから、今度はまあ親父の年忌を兼ねて、その面倒も見に行く心算なんだ。どうもこう云う問題になると、中々哲学史の一冊も読むような、簡単な訳にゃ行かないんだから困る。」
「そりゃそうだろう。殊に君のような性格の人間にゃ──」
俊助は同じ東京の高等学校で机を並べていた関係から、何かにつけて野村一家の立ち入った家庭の事情などを、聞かせられる機会が多かった。野村家と云えば四国の南部では、有名な旧家の一つだと云う事、彼の父が政党に関係して以来、多少は家産が傾いたが、それでも猶近郷では屈指の分限者に相違ないと云う事、初子の父の栗原は彼の母の異腹の弟で、政治家として今日の位置に漕つけるまでには、一方ならず野村の父の世話になっていると云う事、その父の歿後どこかから妾腹の子と名乗る女が出て来て、一時は面倒な訴訟沙汰にさえなった事があると云う事──そう云ういろいろな消息に通じている俊助は、今また野村の帰郷を必要としている背後にも、どれほど複雑な問題が蟠まっているか、略想像出来るような心もちがした。
「まず当分はシュライエルマッヘルどころの騒ぎじゃなさそうだ。」
「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。──じゃ癲狂院行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」
十九
野村が止めるのも聞かず、俊助は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明くアスファルトの上を流れていた。
二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはない。」
野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡の視線を漂わせていると、気の利いた給仕が一人、すぐに手近の卓子に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下す所がないので、やむを得ずそこへ連らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子もなく、一輪挿しの桜を隔てながら、大阪弁で頻に饒舌っていた。
給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井君によく似た人を見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却して、嵐山の桜はまだ早かろうの、瀬戸内の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今初子さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故?」
何故と尋かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから──その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執るような口調だった。
「そうか。道理で今日辰子さんに遇ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午すぎに電車の中で。」
俊助はこう答えながら、さっき下宿で辰子の話が出たにも関らず、何故今までこんな事を黙っていたのだろうと考えた。が、それは彼自身にも偶然か故意か、判断がつけられなかった。
二十
プラットフォオムの上には例のごとく、見送りの人影が群っていた。そうしてそれが絶えず蠢いている上に、電燈のともった列車の窓が、一つずつ明く切り抜かれていた。野村もその窓から首を出して、外に立っている俊助と、二言三言落着かない言葉を交換した。彼等は二人とも、周囲の群衆の気もちに影響されて、発車が待遠いような、待遠くないような、一種の慌しさを感じずにはいられなかった。殊に俊助は話が途切れると、ほとんど敵意があるような眼で、左右の人影を眺めながら、もどかしそうに下駄の底を鳴らしていた。
その内にやっと発車の電鈴が響いた。
「じゃ行って来給え。」
俊助は鳥打帽の庇へ手をかけた。
「失敬、例の一件は何分よろしく願います。」と、野村はいつになく、改まった口調で挨拶した。
汽車はすぐに動き出した。俊助はいつまでもプラットフォオムに立って、次第に遠ざかって行く野村を見送るほど、感傷癖に囚われてはいなかった。だから彼はもう一度鳥打帽の庇へ手をかけると、未練なくあたりの人影に交って、入口の階段の方へ歩き出した。
が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が眼にはいると、思いがけずそこには大井篤夫が、マントの肘を窓枠に靠せながら、手巾を振っているのが見えた。俊助は思わず足を止めた。と同時にさっき大井を見かけたと云う野村の言葉を思い出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかったものと見えて、見る見る汽車の窓と共に遠くなりながらも、頻に手巾を振り続けていた。俊助は狐につままれたような気がして、茫然とその後を見送るよりほかはなかった。
が、この衝動から恢復した時、俊助の心は何よりも、その手巾の閃きに応ずべき相手を物色するのに忙しかった。彼はインバネスの肩を聳かせて、前後左右に雪崩れ出した見送り人の中へ視線を飛ばした。勿論彼の頭の中には、女づれのようだったと云う野村の言葉が残っていた。しかしそれらしい女の姿を、いくら探しても見当らなかった。と云うよりもそれらしい女が、いつも人影の間にうろうろしていた。そうしてその代りどれが本当の相手だか、さらに判別がつかなかった。彼はとうとう物色を断念しなければならなかった。
中央停車場の外へ出て、丸の内の大きな星月夜を仰いだ時も、俊助はまださっきの不思議な心もちから、全く自由にはなっていなかった。彼には大井がその汽車へ乗り合せていたと云う事より、汽車の窓で手巾を振っていたと云う事が、滑稽なくらい矛盾な感を与えるものだった。あの悪辣な人間を以て自他共に許している大井篤夫が、どうしてあんな芝居じみた真似をしていたのだろう。あるいは人が悪いのは附焼刃で、実は存外正直な感傷主義者が正体かも知れない。──俊助はいろいろな臆測の間に迷いながら、新開地のような広い道路を、濠側まで行って電車に乗った。
ところが翌日大学へ行くと、彼は純文科に共通な哲学概論の教室で、昨夜七時の急行へ乗った筈の大井と、また思いがけなく顔を合せた。
二十一
その日俊助は、いつよりもやや出席が遅れたので、講壇をめぐった聴講席の中でも、一番後の机に坐らなければならなかった。所がそこへ坐って見ると、なぞえに向うへ低くなった二三列前の机に、見慣れた黒木綿の紋附が、澄まして頬杖をついていた。俊助はおやと思った。それから昨夜中央停車場で見かけたのは、大井篤夫じゃなかったのかしらと思った。が、すぐにまた、いや、やはり大井に違いなかったと思い返した。そうしたら、彼が手巾を振っているのを見た時よりも、一層狐につままれたような心もちになった。
その内に大井は何かの拍子に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく傲岸不遜な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶を眼で送った。と、大井も黒木綿の紋附の肩越に、顎でちょいと会釈をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって来た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦しくもあった。そこで万年筆へインクを吸わせながら、いささか腰を擡げ兼ねていると、哲学概論を担当している、有名なL教授が、黒い鞄を小脇に抱えて、のそのそ外からはいって来てしまった。
L教授は哲学者と云うよりも、むしろ実業家らしい風采を備えていた。それがその日のように、流行の茶の背広を一着して、金の指環をはめた手を動かしながら、鞄の中の草稿を取り出したりなどしていると、殊に講壇よりは事務机の後に立たせて見たいような心もちがした。が、講義は教授の風采とは没交渉に、その面倒なカント哲学の範疇の議論から始められた。俊助は専門の英文学の講義よりも、反って哲学や美学の講義に忠実な学生だったから、ざっと二時間ばかりの間、熱心に万年筆を動かして、手際よくノオトを取って行った。それでも合い間毎に顔を挙げて、これは煩杖をついたまま、滅多にペンを使わないらしい大井の後姿を眺めると、時々昨夜以来の不思議な気分が、カントと彼との間へ靄のように流れこんで来るのを感ぜずにはいられなかった。
だからやがて講義がすんで、机を埋めていた学生たちがぞろぞろ講堂の外へ流れ出すと、彼は入口の石段の上に足を止めて、後から来る大井と一しょになった。大井は相不変ノオト・ブックのはみ出した懐へ、無精らしく両手を突込んでいたが、俊助の顔を見るなりにやにや笑い出して、
「どうした。この間の晩の美人たちは健在か。」と、逆に冷評を浴びせかけた。
二人のまわりには大勢の学生たちが、狭い入口から両側の石段へ、しっきりなく溢れ出していた。俊助は苦笑を漏したまま、大井の言葉には答えないで、ずんずんその石段の一つを下りて行った。そうしてそこに芽を吹いている欅の並木の下へ出ると、始めて大井の方を振り返って、
「君は気がつかなかったか、昨夜東京駅で遇ったのを。」と、探りの一句を投げこんで見た。
二十二
「へええ、東京駅で?」
大井は狼狽したと云うよりも、むしろ決断に迷ったような眼つきをして、狡猾そうにちらりと俊助の顔を窺った。が、その眼が俊助の冷やかな視線に刎返されると、彼は急に悪びれない態度で、
「そうか。僕はちっとも気がつかなかった。」と白状した。
「しかも美人が見送りに来ていたじゃないか。」
勢いに乗った俊助は、もう一度際どい鎌をかけた。けれども大井は存外平然と、薄笑を唇に浮べながら、
「美人か──ありゃ僕の──まあ好いや。」と、思わせぶりな返事に韜晦してしまった。
「一体どこへ行ったんだ?」
「ありゃ僕の──」に辟易した俊助は、今度は全く技巧を捨てて、正面から大井を追窮した。
「国府津まで。」
「それから?」
「それからすぐに引返した。」
「どうして?」
「どうしてったって、──いずれ然るべき事情があってさ。」
この時丁子の花の匀が、甘たるく二人の鼻を打った。二人ともほとんど同時に顔を挙げて見ると、いつかもうディッキンソンの銅像の前にさしかかる所だった。丁子は銅像をめぐった芝生の上に、麗らかな日の光を浴びて、簇々とうす紫の花を綴っていた。
「だからさ、その然るべき事情とは抑も何だと尋いているんだ。」
と、大井は愉快そうに、大きな声で笑い出した。
「つまらん事を心配する男だな。然るべき事情と云ったら、要するに然るべき事情じゃないか。」
が、俊助も二度目には、容易に目つぶしを食わされなかった。
「いくら然るべき事情があったって、ちょいと国府津まで行くだけなら、何も手巾まで振らなくったって好さそうなもんじゃないか。」
するとさすがに大井の顔にも、瞬く間周章したらしい気色が漲った。けれども口調だけは相不変傲然と、
「これまた別に然るべき事情があって振ったのさ。」
俊助は相手のたじろいだ虚につけ入って、さらに調戯うような悪問いの歩を進めようとした。が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏の並木の下へ出ると、
「君はどこへ行く? 帰るか。じゃ失敬。僕は図書館へ寄って行くから。」と、巧に俊助を抛り出して、さっさと向うへ行ってしまった。
俊助はその後を見送りながら、思わず苦笑を洩したが、この上追っかけて行ってまでも、泥を吐かせようと云う興味もないので、正門を出るとまっすぐに電車通りを隔てている郁文堂の店へ行った。ところがそこへ足を入れると、うす暗い店の奥に立って、古本を探していた男が一人、静に彼の方へ向き直って、
「安田さん。しばらく。」と、優しい声をかけた。
二十三
ほとんど常に夕暮の様な店の奥の乏しい光も、まっ赤な土耳其帽を頂いた藤沢を見分けるには十分だった。俊助は答礼の帽を脱ぎながら、埃臭い周囲の古本と相手のけばけばしい服装との間に、不思議な対照を感ぜずにはいられなかった。
藤沢は大英百科全書の棚に華奢な片手をかけながら、艶かしいとも形容すべき微笑を顔中に漂わせて、
「大井さんには毎日御会いですか。」
「ええ、今も一しょに講義を聴いて来たところです。」
「僕はあの晩以来、一度も御目にかからないんですが──」
俊助は近藤と大井との間の確執が、同じく『城』同人と云う関係上、藤沢もその渦中へ捲きこんだのだろうと想像した。が、藤沢はそう思われる事を避けたいのか、いよいよ優しい声を出して、
「僕の方からは二三度下宿へ行ったんですけれど、生憎いつも留守ばかりで──何しろ大井さんはあの通り、評判のドン・ジュアンですから、その方で暇がないのかも知れませんがね。」
大学へはいって以来、初めて大井を知った俊助は、今日まであの黒木綿の紋附にそんな脂粉の気が纏綿していようとは、夢にも思いがけなかった。そこで思わず驚いた声を出しながら、
「へええ、あれで道楽者ですか。」
「さあ、道楽者かどうですか──とにかく女はよく征服する人ですよ。そう云う点にかけちゃ高等学校時代から、ずっと我々の先輩でした。」
その瞬間俊助の頭の中には、昨夜汽車の窓で手巾を振っていた大井の姿が、ありありと浮び上って来た。と同時にやはり藤沢が、何か大井に含む所があって、好い加減に中傷の毒舌を弄しているのではないかとも思った。が、次の瞬間に藤沢はちょいと首を曲げて、媚びるような微笑を送りながら、
「何でも最近はどこかのレストランの給仕と大へん仲が好くなっているそうです。御同様羨望に堪えない次第ですがね。」
俊助は藤沢がこう云う話を、むしろ大井の名誉のために弁じているのだと云う事に気がついた。それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾から、濃厚に若い女性の匀を放散せずにはすまさなかった。
「そりゃ盛ですね。」
「盛ですとも。ですから僕になんぞ会っている暇がないのも、重々無理はないんです。おまけに僕の行く用向きと云うのが、あの精養軒の音楽会の切符の御金を貰いに行くんですからね。」
藤沢はこう云いながら、手近の帳場机にある紙表紙の古本をとり上げたが、所々好い加減に頁を繰ると、すぐに俊助の方へ表紙を見せて、
「これも花房さんが売ったんですね。」
俊助は自然微笑が唇に上って来るのを意識した。
「梵字の本ですね。」
「ええ、マハアバラタか何からしいですよ。」
二十四
「安田さん、御客様でございますよ。」
こう云う女中の声が聞えた時、もう制服に着換えていた俊助は、よしとか何とか曖昧な返事をして置いて、それからわざと元気よく、梯子段を踏み鳴しながら、階下へ行った。行って見ると、玄関の格子の中には、真中から髪を割って、柄の長い紫のパラソルを持った初子が、いつもよりは一層溌剌と外光に背いて佇んでいた。俊助は閾の上に立ったまま、眩しいような感じに脅かされて、
「あなた御一人?」と尋ねて見た。
「いいえ、辰子さんも。」
初子は身を斜にして、透すように格子の外を見た。格子の外には、一間に足らない御影の敷石があって、そのまた敷石のすぐ外には、好い加減古びたくぐり門があった。初子の視線を追った俊助は、そのくぐり門の戸を開け放した向うに、見覚えのある紺と藍との竪縞の着物が、日の光を袂に揺りながら、立っているのを発見した。
「ちょいと上って、御茶でも飲んで行きませんか。」
「難有うございますけれど──」
初子は嫣然と笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
「そうですか。じゃすぐに御伴しましょう。」
「始終御迷惑ばかりかけますのね。」
「何、どうせ今日は遊んでいる体なんです。」
俊助は手ばしこく編上の紐をからげると外套を腕にかけたまま、無造作に角帽を片手に掴んで、初子の後からくぐり門の戸をくぐった。
初子のと同じ紫のパラソルを持って、外に待っていた辰子は、俊助の姿を見ると、しなやかな手を膝に揃えて、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助はほとんど冷淡に会釈を返した。返しながら、その冷淡なのがあるいは辰子に不快な印象を与えはしないだろうかと気づかった。と同時にまた初子の眼には、それでもまだ彼の心中を裏切るべき優しさがありはしまいかとも思った。が、初子は二人の応対には頓着なく、斜に紫のパラソルを開きながら、
「電車は? 正門前から御乗りになって。」
「ええ、あちらの方が近いでしょう。」
三人は狭い往来を歩き出した。
「辰子さんはね、どうしても今日はいらっしゃらないって仰有ったのよ。」
俊助は「そうですか?」と云う眼をして、隣に歩いている辰子を見た。辰子の顔には、薄く白粉を刷いた上に、紫のパラソルの反映がほんのりと影を落していた。
「だって、私、気の違っている人なんぞの所へ行くのは、気味が悪いんですもの。」
「私は平気。」
初子はくるりとパラソルを廻しながら、
「時々気違いになって見たいと思う事もあるわ。」
「まあ、いやな方ね。どうして?」
「そうしたら、こうやって生きているより、もっといろいろ変った事がありそうな気がするの。あなたそう思わなくって?」
「私? 私は変った事なんぞなくったって好いわ。もうこれで沢山。」
二十五
新田はまず三人の客を病院の応接室へ案内した。そこはこの種の建物には珍しく、窓掛、絨氈、ピアノ、油絵などで、甚しい不調和もなく装飾されていた。しかもそのピアノの上には、季節にはまだ早すぎる薔薇の花が、無造作に手頃な青銅の壺へ挿してあった。新田は三人に椅子を薦めると、俊助の問に応じて、これは病院の温室で咲かせた薔薇だと返答した。
それから新田は、初子と辰子との方へ向いて、予め俊助が依頼して置いた通り、精神病学に関する一般的智識とでも云うべきものを、歯切れの好い口調で説明した。彼は俊助の先輩として、同じ高等学校にいた時分から、畠違いの文学に興味を持っている男だった。だからその説明の中にも、種々の精神病者の実例として、ニイチェ、モオパッサン、ボオドレエルなどと云う名前が、一再ならず引き出されて来た。
初子は熱心にその説明を聞いていた。辰子も──これは始終伏眼がちだったが、やはり相当な興味だけは感じているらしく思われた。俊助は心の底の方で、二人の注意を惹きつけている説明者の新田が羨しかった。が、二人に対する新田の態度はほとんど事務的とも形容すべき、甚だ冷静なものだった。同時にまた縞の背広に地味な襟飾をした彼の服装も、世紀末の芸術家の名前を列挙するのが、不思議なほど、素朴に出来上っていた。
「何だか私、御話を伺っている内に、自分も気が違っているような気がして参りました。」
説明が一段落ついた所で、初子はことさら真面目な顔をしながら、ため息をつくようにこう云った。
「いや、実際厳密な意味では、普通正気で通っている人間と精神病患者との境界線が、存外はっきりしていないのです。況んやかの天才と称する連中になると、まず精神病者との間に、全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通りロムブロゾオの功績です。」
「僕は差別のある点も指摘して貰いたかった。」
こう俊助が横合から、冗談のように異議を申し立てると、新田は冷かな眼をこちらへ向けて、
「あれば勿論指摘したろう。が、なかったのだから、やむを得ない。」
「しかし天才は天才だが、気違いはやはり気違いだろう。」
「そう云う差別なら、誇大妄想狂と被害妄想狂との間にもある。」
「それとこれと一しょにするのは乱暴だよ。」
「いや、一しょにすべきものだ。成程天才は有為だろう。狂人は有為じゃないに違いない。が、その差別は人間が彼等の所行に与えた価値の差別だ。自然に存している差別じゃない。」
新田の持論を知っている俊助は、二人の女と微笑を交換して、それぎり口を噤んでしまった。と、新田もさすがに本気すぎた彼自身を嘲るごとく、薄笑の唇を歪めて見せたが、すぐに真面目な表情に返ると、三人の顔を見渡して、
「じゃ一通り、御案内しましょう。」と、気軽く椅子から立ち上った。
二十六
三人が初めて案内された病室には、束髪に結った令嬢が、熱心にオルガンを弾いていた。オルガンの前には鉄格子の窓があって、その窓から洩れて来る光が、冷やかに令嬢の細面を照らしていた。俊助はこの病室の戸口に立って、窓の外を塞いでいる白椿の花を眺めた時、何となく西洋の尼寺へでも行ったような心もちがした。
「これは長野のある資産家の御嬢さんですが、何でも縁談が調わなかったので、発狂したのだとか云う事です。」
「御可哀そうね。」
辰子は細い声で、囁くようにこう云った。が、初子は同情と云うよりも、むしろ好奇心に満ちた眼を輝かせて、じっと令嬢の横顔を見つめていた。
「オルガンだけは忘れないと見えるね。」
「オルガンばかりじゃない。この患者は画も描く。裁縫もする。字なんぞは殊に巧だ。」
新田は俊助にこう云ってから、三人を戸口に残して置いて、静にオルガンの側へ歩み寄った。が、令嬢はまるでそれに気がつかないかのごとく、依然として鍵盤に指を走らせ続けていた。
「今日は。御気分はいかがです?」
新田は二三度繰返して問いかけたが、令嬢はやはり窓の外の白椿と向い合ったまま、振返る気色さえ見せなかった。のみならず、新田が軽く肩へ手をかけると、恐ろしい勢いでふり払いながら、それでも指だけは間違いなく、この病室の空気にふさわしい、陰鬱な曲を弾きやめなかった。
三人は一種の無気味さを感じて無言のまま、部屋を外へ退いた。
「今日は御機嫌が悪いようです。あれでも気が向くと、思いのほか愛嬌のある女なんですが。」
新田は令嬢の病室の戸をしめると、多少失望したらしい声を出したが、今度はそのすぐ前の部屋の戸を開けて、
「御覧なさい。」と、三人の客を麾いた。
はいって見ると、そこは湯殿のように床を叩きにした部屋だった。その部屋のまん中には、壺を埋けたような穴が三つあって、そのまた穴の上には、水道栓が蛇口を三つ揃えていた。しかもその穴の一つには、坊主頭の若い男が、カアキイ色の袋から首だけ出して、棒を立てたように入れてあった。
「これは患者の頭を冷す所ですがね、ただじゃあばれる惧があるので、ああ云う風に袋へ入れて置くんです。」
成程その男のはいっている穴では蛇口の水が細い滝になって、絶えず坊主頭の上へ流れ落ちていた。が、その男の青ざめた顔には、ただ空間を見つめている、どんよりした眼があるだけで、何の表情も浮んではいなかった。俊助は無気味を通り越して、不快な心もちに脅かされ出した。
「これは残酷だ。監獄の役人と癲狂院の医者とにゃ、なるもんじゃない。」
「君のような理想家が、昔は人体解剖を人道に悖ると云って攻撃したんだ。」
「あれで苦しくは無いんでしょうか。」
「無論、苦しいも苦しくないもないんです。」
初子は眉一つ動かさずに、冷然と穴の中の男を見下していた。辰子は──ふと気がついた俊助が初子から眼を転じた時、もうその部屋の中にはいつの間にか、辰子の姿が見えなくなっていた。
二十七
俊助は不快になっていた矢先だから、初子と新田とを後に残して、うす暗い廊下へ退却した。と、そこには辰子が、途方に暮れたように、白い壁を背負って佇んでいた。
「どうしたのです。気味が悪いんですか。」
辰子は水々しい眼を挙げて、訴えるように俊助の顔を見た。
「いいえ、可哀そうなの。」
俊助は思わず微笑した。
「僕は不愉快です。」
「可哀そうだとは御思いにならなくって?」
「可哀そうかどうかわからないが──とにかくああ云う人間が、ああしているのを見たくないんです。」
「あの人の事は御考えにならないの。」
「それよりも先に、自分の事を考えるんです。」
辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。
「薄情な方ね。」
「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら──」
「御親切?」
そこへ新田と初子とが出て来た。
「今度は──と、あちらの病室へ行って見ますか。」
新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃い眉をひそめて、
「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」
「そう。少し頭痛がするの。」
辰子は低い声でこう答えながら、ちょいと掌を額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、
「行きましょう。何でもないわ。」
三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。
やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、後の三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似をした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様に鼠の棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓の光の下に、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生って来るのを意識した。
「皆仲良くしているわね。」
初子は家畜を見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静に頷いただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。
「どうです。中へはいって見ますか。」
新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。
「僕は真っ平だ。」
「私も、もう沢山。」
辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。
「あなたは?」
初子は生々した血の気を頬に漲らせて、媚びるようにじっと新田の顔を見た。
「私は見せて頂きますわ。」
二十八
俊助と辰子とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、斜に窓硝子を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇の花も、前よりは一層重苦しく、甘い匀いを放っていた。最後にあの令嬢の弾くオルガンが、まるでこの癲狂院の建物のつく吐息のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ──僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私? 私はどうするでしょう。」
辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
俊助は金口を啣えたまま、しばらくはただ黙然と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り──」
辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
俊助は冗談のように云った言葉が、案外真面目な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇の匀いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑する感傷主義が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
しばらくして初子が新田と一しょに、応接室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、
「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。
「ええ、御蔭様で。」
初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌をふり撒きながら、
「ほんとうに私ためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃれば好いのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹に子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄ばかり歌っているの。」
二十九
初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助の肩を叩くと、
「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、
「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」
俊助は新田の云う通り、おとなしくその後について、明るい応接室からうす暗い廊下へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、鼠の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を開いて、涎を垂らして、両手を翼のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、
「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。
「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山が破裂するそうで、──昨晩もその御相談に、神々が上野へ御集りになったようでございました。」
老人は目脂だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着する気色もなく、俊助の方を振返って、
「どうだ。」と、嘲るような声を出した。
俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、癇の強そうな男の前へ行って、
「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」
が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許してくれませんからね。」
新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻の方じゃ帰りたがっているんですが、──」
その患者はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻をひっかけた──」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
新田は無造作に調子を合わすと、三度俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって──まあ、他は推して知るべしだね。」
新田は前後左右に蠢いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。
三十
初子と辰子とを載せた上野行の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場から動き出した。俊助はちょいと角帽をとって、窓の内の吊皮にすがっている二人の女に会釈をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止みを待っていた彼女の姿が、稲妻のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
その後を見送った俊助は、まだ一種の興奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行の電車へ乗って、索漠たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店で、食後の林檎を剥いていた。彼の前には硝子の一輪挿しに、百合の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子を囲みながら、綺麗に化粧した給仕女と盛に饒舌ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院の応接室を領していた、懶い午後の沈黙を思った。室咲きの薔薇、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿──ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫が、燈火の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染じゃないか。」
俊助はこう冷評しながら、大井に愛想を売っている給仕女を一瞥した。
「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店、酒場、ないしは下って縄暖簾の類まで、ことごとく僕の御馴染なんだ。」
大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。
三十一
「但し御馴染だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
大井は急に調子を下げて、嘲笑うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を扭じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦にするな。こう見えたって──少くとも、この家へは来ているじゃないか。」
この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括り頤の、眼の大きい、白粉の下に琥珀色の皮膚が透いて見える、健康そうな娘だった。俊助はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子の上へ移した時、二三日前に郁文堂であの土耳其帽の藤沢が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。──僕の未来の細君、お藤さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨めると、そのまま派手な銘仙の袂を飜して、匇々帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子の上のウイスキイをぐいとやって、
「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。
「うん、素直そうな好い女だ。」
「いかん、いかん。僕の云っているのは、お藤の──お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫にとって、あってもなくっても同じ事だ。」
俊助は相手にならないで、埃及の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子越しに手をのばして、俊助の鼈甲の巻煙草入から金口を一本抜きとりながら、
「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。
「そりゃ君ほど烱眼じゃないが。」
「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」
俊助は何を措いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。
三十二
「幾つだ、あのお藤さんと云うのは?」
「行年十八、寅の八白だ。」
大井はまた新に註文したウイスキイをひっかけながら、高々と椅子の上へあぐらをかいて、
「年まわりから云や、あんまり素直でもなさそうだが、──まあ、そんな事はどうでも好い、素直だろうが、素直でなかろうが、どうせ女の事だから、退屈な人間にゃ相違なかろう。」
「ひどく女を軽蔑するな。」
「じゃ君は尊敬しているか。」
俊助は今度も微笑の中に、韜晦するよりほかはなかった。と、大井は三杯目のウイスキイを前に置いて、金口の煙を相手へ吹きかけながら、
「女なんてものは退屈だぜ。上は自動車へ乗っているのから下は十二階下に巣を食っているのまで、突っくるめて見た所が、まあ精々十種類くらいしかないんだからな。嘘だと思ったら、二年でも三年でも、滅茶滅茶に道楽をして見るが好い。すぐに女の種類が尽きて、面白くも何ともなくなっちまうから。」
「じゃ君も面白くない方か。」
「面白くない方か? 冗談だろう。──いや、皮肉なら皮肉でも好い。面白くないと云っている僕が、やっぱりこうやって女ばかり追っかけている。それが君にゃ莫迦げて見えるんだろう。だがね、面白くないと云うのも本当なんだ。同時にまた面白いと云うのも本当なんだ。」
大井は四杯目のウイスキイを命じた頃から、次第に平常の傲岸な態度がなくなって、酔を帯びた眼の中にも、涙ぐんでいるような光が加わって来た。勿論俊助はこう云う相手の変化を、好奇心に富んだ眼で眺めていた。が、大井は俊助の思わくなぞにはさらに頓着しない容子で、五杯六杯と続けさまにウイスキイを煽りながら、ますます熱心な調子になって、
「面白いと云うのはね、女でも追っかけていなけりゃ、それこそつまらなくってたまらないからなんだ。が、追っかけて見た所で、これまた面白くも何ともありゃしない。じゃどうすれば好いんだと君は云うだろう。じゃどうすれば好いんだと──それがわかっているぐらいなら、僕もこんなに寂しい思いなんぞしなくってもすむ。僕は始終僕自身にそう云っているんだ。じゃどうすれば好いんだと。」
俊助は少し持て余しながら、冗談のように相手を和げにかかった。
「惚れられるさ。そうすりゃ、少しは面白いだろう。」
が、大井は反って真面目な表情を眼にも眉にも動かしながら、大理石の卓子を拳骨で一つどんと叩くと、
「所がだ。惚れられるまでは、まだ退屈でも我慢がなるが、惚れられたとなったら、もう万事休すだ。征服の興味はなくなってしまう。好奇心もそれ以上は働きようがない。後に残るのはただ、恐るべき退屈中の退屈だけだ。しかも女と云うやつは、ある程度まで関係が進歩すると、必ず男に惚れてしまうんだから始末が悪い。」
俊助は思わず大井の熱心さに釣りこまれた。
「じゃどうすれば好いんだ?」
「だからさ。だからどうすれば好いんだと僕も云っていたんだ。」
大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。
三十三
俊助はしばらく口を噤んで、大井の指にある金口がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧な返事を与えながら、帳場の側に立っているお藤に、「来い」と云う相図をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子の前へやって来た。
「勘定をしてくれ。この方の分も一しょだ。」
すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、
「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ──そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」
俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を啣えながら、劬るような微笑を大井に見せて、
「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの家も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」
大井はやっと納得した。が、卓子を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、頗る足元が蹣跚としていた。
「好いか。おい。危いぜ。」
「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯──」
俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤が、大きく硝子戸を開けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠の光を浴びて、最前よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利かずにその前を通りすぎた。
「難有うございます。」
大井の後から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明い硝子戸の前に佇みながら、白い前掛の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。
三十四
大井は角帽の庇の下に、鈴懸の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念くさっきの話を続け出した。
俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春扁桃腺を煩った時に──まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたような気がして、一度に嫌気がさしてしまったじゃないか。するとあいつは嫉妬を焼いたと云う、その事だけが悪いんだと思ったもんだから、──いや、これも余談だった。僕が君に話したいのは、その僕の所へ来た手紙と云うやつなんだがね。」
大井はこう云って、酒臭い息を吐きながら、俊助の顔を覗くようにした。
「その手紙の差出人は、女名前じゃあったけれど、実は僕自身なんだ。驚くだろう。僕だって、自分で驚いているんだから、君が驚くのはちっとも不思議はない。じゃ何故僕はそんな手紙を書いたんだ? あの女が嫉妬を焼くかどうか、それが知りたかったからさ。」
さすがにこの時は俊助も、何か得体の知れない物にぶつかったような心もちがした。
「妙な男だな。」
「妙だろう。あいつが僕に惚れている事がわかりゃ、あいつが嫌になると云う事は、僕は百も承知しているんだ。そうしてあいつが嫌になった暁にゃ、余計世の中が退屈になると云う事も知っているんだ。しかも僕は、その時に、九分九厘まではあの女が嫉妬を焼く事を知っていたんだぜ。それでいて、手紙を書いたんだ。書かなけりゃいられなかったんだ。」
「妙な男だな。」
俊助は目まぐるしい人通りの中に、足元の怪しい大井をかばいながら、もう一度こう繰返した。
「だから僕の場合はこうなんだ。──女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする。その癖僕は心の底で、ちっとも女が嫌になりたくはないんだ。ちっとも退屈でいたくはないんだ。だから君、悲惨じゃないか。悲惨だろう。この上仕方のない事はないだろう。」
大井はいよいよ酔が発したと見えて、声さえ感動に堪えないごとく涙ぐむようになって来た。
三十五
その内に二人は、本郷行の電車に乗るべき、ある賑な四つ辻へ来た。そこには無数の燈火が暗い空を炙った下に、電車、自動車、人力車の流れが、絶えず四方から押し寄せていた。俊助は生酔の大井を連れてこの四つ辻を向うへ突切るには、そう云う周囲の雑沓と、険呑な相手の足元とへ、同時に気を配らなければならなかった。
所がやっと向うへ辿りつくと、大井は俊助の心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶色をした入口の垂幕を、無造作に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢るから。」
俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢られても真平だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが──」
大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌になった女に別れるための方便なんだ。」
俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、──まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下してさ。それから女と泣き別れの愁歎場がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾を振ると云うのが大詰だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
大井はこう云って、自ら嘲るように微笑しながら、大きな掌を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化の皮が、永久に剥げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ──まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ──いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在するような気がするんだ。君は矛盾だと思うだろう。矛盾もまた甚しいと思うだろう。だろうが、僕はそう云う人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。──じゃ失敬しよう。わが親愛なる安田俊助。」
大井は妙な手つきをして、俊助の肩を叩いたと思うと、その手に海老茶色の垂幕を挙げて、よろよろビヤホオルの中へはいってしまった。
「妙な男だな。」
俊助は軽蔑とも同情とも判然しない一種の感情に動かされながら三度こう呟いて、クラブ洗粉の広告電燈が目まぐるしく明滅する下を、静に赤い停留場の柱の方へ歩き出した。
三十六
下宿へ帰って来た俊助は、制服を和服に着換ると、まず青い蓋をかけた卓上電燈の光の下で、留守中に届いていた郵便へ眼を通した。その一つは野村の手紙で、もう一つは帯封に乞高評の判がある『城』の今月号だった。
俊助は野村の手紙を披いた時、その半切を埋めているものは、多分父親の三回忌に関係した、家事上の紛紜か何かだろうと云う、朧げな予期を持っていた。ところがいくら読んで行っても、そう云う実際方面の消息はほとんど一句も見当らなかった。その代り郷土の自然だの生活だのの叙述が、到る所に美しい詠歎的な文字を並べていた。磯山の若葉の上には、もう夏らしい海雲が簇々と空に去来していると云う事、その雲の下に干してある珊瑚採取の絹糸の網が、眩く日に光っていると云う事、自分もいつか叔父の持ち船にでも乗せて貰って、深海の底から珊瑚の枝を曳き上げたいと思っていると云う事──すべてが哲学者と云うよりは、むしろ詩人にふさわしい熱情の表現とも云わるべき性質のものだった。
俊助にはこの絢爛たる文句の中に、現在の野村の心もちが髣髴出来るように感ぜられた。それは初子に対する純粋な愛が遍照している心もちだった。そこには優しい喜びがあった。あるいはかすかな吐息があった。あるいはまたややもすれば流れようとする涙があった。だからその心もちを通過する限り、野村の眼に映じた自然や生活は、いずれも彼自身の愛の円光に、虹のごとき光彩を与えられていた。若葉も、海も、珊瑚採取も、ことごとくの意味においては、地上の実在を超越した一種の天啓にほかならなかった。従って彼の長い手紙も、その素朴な愛の幸福に同情出来るもののみが、始めて意味を解すべき黙示録のようなものだった。
俊助は微笑と共に、野村の手紙を巻きおさめて、今度は『城』の封を切った。表紙にはビアズリイのタンホイゼルの画が刷ってあって、その上に l'art pour l'art と、細い朱文字で入れた銘があった。目次を見ると、藤沢の「鳶色の薔薇」と云う抒情詩的の戯曲を筆頭に、近藤のロップス論とか、花房のアナクレオンの飜訳とか、いろいろな表題が行列していた。俊助ははなはだ同情のない眼で、しばらくそれらの表題を見廻していたが、やがて「倦怠」──大井篤夫と云う一行の文字にぶつかると、急にさっきの大井の姿が鮮かに記憶に浮んで来たので、早速その小説が載っている巻末の頁をはぐって見た。と、それは三人称でこそ書いてはあるが、実は今夜聞いた大井の告白を、そのまま活字にしたような小説だった。
俊助はわずか十分ばかりの間に、造作なく「倦怠」を読み終るとまた野村の手紙をひろげて見て、その達筆な行の上へ今更のように怪訝の眼を落した。この手紙の中に磅礴している野村の愛と、あの小説の中にぶちまけてある大井の愛と──一人の初子に天国を見ている野村と、多くの女に地獄を見ている大井と──それらの間にある大きな懸隔は、一体どこから生じたのだろう。いや、それよりも二人の愛は、どちらが本当の愛なのだろう。野村の愛が幻か。大井の愛が利己心か。それとも両方がそれぞれの意味で、やはり為のない愛だろうか。そうして彼自身の辰子に対する愛は?
俊助は青い蓋をかけた卓上電燈の光の下に、野村の手紙と大井の小説とを並べたまま、しばらくは両腕を胸に組んで、じっと西洋机の前へ坐っていた。
(以上を以て「路上」の前篇を終るものとす。後篇は他日を期する事とすべし。)
底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年3月1日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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