雛祭りの話
折口信夫



     一 淡島様


黙阿弥の脚本の「松竹梅湯島掛額シヨウチクバイユシマノカケガク」は八百屋お七をしくんだものであるが、其お七の言葉に、内裏びなを羨んで、男を住吉様スミヨシサマ女を淡島様アハシマサマといふクダりが出てくる。お雛様を祭る婦人方にも、存外、淡島様とお雛様との関係を、知らぬ人が多いことゝ思ふ。

古くは願人グワンニンといふ乞食房主があつて、諸国を廻りめぐつて、婦人たちに淡島様の信仰を授けまはつたのである。そして、婦人たちからは、衣類を淡島様に奉納させたのであつた。

由緒ユカリはかうである。昔住吉明神の后にあはしまといふお方があつて、其が白血シラチ長血ナガチの病気におなりになつた。それで住吉明神が其をお嫌ひになり、住吉の社の門扉にのせて、海に流したのである。かうして、其板船は紀州の加太の淡島に漂ひついた。其を里人が祀つたのが、加太の淡島明神だといふのである。此方は、自分が婦人病から不為合せな目を見られたので、不運な人々の為に悲願を立てられ、婦人の病気は此神に願をかければよい、といふ事になつてゐるのである。処々に、淡島の本山らしいものが残つてゐるが、加太の方がもとであらうと思ふ。

東京の近くで物色すると、三浦半島の淡島があり、中国では出雲の粟島、九州に入ると平戸の粟島などが有名である。凡そ、祭神は、すくなひこなの命といふ事になつてゐる。特に、出雲のは、此すくなひこなが粟幹に弾かれて渡られたのだ、といふのである。すくなひこなは其程小さい神様なのである。国学者の中でも、粟島即、すくなひこな説を離さぬ人がある。

処が古事記・日本紀などを覗いた方には、直ぐ判ることだが、すくなひこなの命以外にちやんと淡島神があつて、あの住吉明神の后同様に、海に流されてゐるのである。即、天照大神などを始め、とてつもない程沢山の神々の親神であるいざなぎのみこといざなみのみことの最初にお生みになつたのが、此淡島神で、次が有名な蛭子神であつた。

遠い〳〵記・紀の昔から、既に、近世の粟島伝説の芽が育まれてゐたことが訣る。一体、此すくなひこなは、常世の国から、おほくにぬしの命の処へ渡つて来た神であり、而も、おほくにぬしと共に、医薬の神になつてゐるし、粟に引かれて来た粟といふ聯関もあり、かた〴〵淡島神とごつちやにされる原因に乏しくないのである。でも、其は後世の合理的な見解に過ぎないので、もつと色々な方面から、お雛様の信仰と結び附いたのであつた。

此淡島様の祭日は三月三日であつて、淡島を祈れば、婦人病にかゝらず、丈夫な子を持つ、と信ぜられてゐたのである。此は、三日には女が海辺へ出かけて、病気払ひの祓除ミソギハラヘをした遺風が底に流れてゐるらしい。一方、三月三日を祓除の日とする事は、日本ばかりではなく、支那にもあつた事で、寧、大部分支那から移された風と見ることが出来る。

唯、単に春やよひの季節のかはる頃、海に出て、穢れを洗ふといふのは、古くからあつたと見られる。支那では、古く三月の初の巳の日、即、上巳の日に、水辺に出て祓除をし、宴飲をした。其が形式化して曲水ゴクスヰの宴ともなつたので、通常伝へる処では、の後、上巳をやめて三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つてゐるのだといふ。同じ例は端午の節供に見出される。始め、五月最初の午の日であつたものが、五日に決められても、やはり、ハジめの午なのである。

かうして支那の信仰が、日本在来の宗教上の儀礼と結合して、上巳の祓へといふものが盛大に行はれるに至つたのであつた。唯、必しも女ばかりが、此日に祓除した訣ではなかつたらうが、ともかく、女の重要行事であつた事だけは認められるであらう。


     二 雛人形と女神と


此までの学者の説明では、其時に穢れを移して、水に流す筈の紙人形が流されずに、子供・女の玩び物になつたのが、雛祭りの雛だ、といふことになつてゐる様である。穢れを移す人形とは即、モノ形代カタシロ天児アマガツなどの名によつて呼ばれるものである。なる程、かう説明すると、上巳の節供と雛人形との関係、延いては淡島との聯絡もつかう。が、も少し考へて見る必要がないであらうか。

従来の我が国の好事家肌の学者の研究では、人形の歴史といふものが、比較的、時代の新しい処に限られてゐる様である。殆ど此撫で物位が人形の起原をなすもの位に考へられてゐるが、なか〳〵そんな短い歴史ではかたづけられないのである。

もとはやはり、信仰上の対象として、生れたものに違ひはないが、祭りの中心行事に人形の与ることは、平安朝あたりから近世までは証拠がある。こんな人形は主に、さいのを又はせいのうと呼ばれてゐた。此を直に御神体と見立てたといふ程の、古代の形は見あたらぬが、万葉集あたりに採録された、民謡の中には、古事記・日本紀に洩れた昔物語であつて、極めて素樸な身振り芝居、或は偶人劇の舞踊であつたらしいものが、相応に見つけられるのである。万葉巻十三其他に見えてゐる劇的の脚色を持つた長歌の類には、其を演ずる人或は人形を予期することなしには、独立して存在出来ぬ様なものがあるのである。何かしら身振りが入らなければ、文句だけでは足りないのである。

さうした神事に使はれる偶人が、次第に遊戯化して来る道程には、きつと、此神事演劇が梯渡しをしてゐるに違ひない。

勿論、平安朝頃の上流の女たちの玩び物にはモノ形代カタシロ天児アマガツなどいふ名で呼ばれた人形はあつたのであらうが、祓除の穢れを移す人形を、其儘、玩具にしたとはいへない。形が同じである処から、同様な名前を附けたと見ることも出来るし、殊に、天児アマガツなどは祓除以外の神事の人形であることを見せてゐるものらしい。更に更級日記に見えてゐるをみな神なども、単なる形代ではなかつたであらうと思はれる。

厳粛な宮中の祭祀の中で、一種ひようきんな趣きを見せてゐたものに、大宮之咩オホミヤノメ祭りがある。東国風を多量に取り込んで、其儀礼は野趣横溢、文字通りなものであつた。此には名高い大宮之咩祭りの祭文があつて、其が誦まれる対象は、宮中の八神殿といふよりも、寧、其折臨時に拵へる竹の柄につけられた華蓋キヌガサ、其に結び下げた男女三対、並びに一人の従者の人形にあつたらしい。つまり、其が祀られたらしいのである。此が宮中では、古くひゝなといはれてゐた様である。

大宮之咩祭りとは十二月の初午の日に行はれたもので、後世の二月の初午の稲荷イナリ祭りの源流だ、と考へられてゐる。此祭りの目的には、悪事災難を除却するといふ意味はあつたのであるが、其ひゝなたちを必しも、撫で物其他の如く、人間の穢れを脊負つて往つてくれるものとも決められない。通常は此を以て、大宮之咩以下の神々の象徴と見てゐたらしいのである。

ひゝなといふ言葉は、古く長音符の用法を発明しなかつた時代に、長音を表すのに同音を重ねたものであらう。ウグヒスほゝき鳥ハウキはゝき、蕗をふゝきなど言ふ風に表すことが多かつた。此ひゝなも其一例である。であるから、ひゝなが約まつて、ひなになつたといふ様なことは、万が一にもないことで、ひなを長音化して用ゐることが多かつた為でなければならぬ。

想像すれば、ひなは一対のものといふ程の意味を持つてゐたらしく考へられるが、暫く其危険を避けても、鳥の雛の如く可憐なもの、又は形代の意味の人間のひながたといふ様な語から、出たものでないことは明言出来る。

前にもいつた「女神」があるからには「男神」もあつたのであらう。其を合せて、ひゝな神と言うたことも、略推定出来るのである。


     三 奥州のおしらさま


此処まで述べて来ると、ひらりと私の頭をよぎるものがある。此には何らの関係もないことかも知れぬ。或は、切り離せないものであるかも訣らない。ともかく、おもしろい類似を持つてゐるのは、奥州地方から北海道にかけて行はれてゐる、養蚕・狩猟の神と考へられて来たおしら様といふ、人形式の御神体のあることである。

おしら様には馬などの動物の頭のもあるが、大体に於て、男女一対のものが多い様である。而も、しらひなは音韻の関係が、頗、密接であるから、万更、没交渉のものと思はれぬ。

さすれば、ひなは男神・女神の揃つたもので、祓除の形代カタシロ以前からあつたものと思うてもよからう。それが三月三日に祭日を定めることになつたのは、大宮之咩祭りと同様此偶神を対象として、この日の儀礼を行うた家々の民間祭祀から、出てゐるものではなからうか。

さうとすれば、其処に、淡島風の形代信仰と一致融合すべき点が出来てくる訣である。尤、淡島様の配流は、撫で物の水に捨てられる形が、人格化せられて、事実の如く考へられて来たものであらうかと思ふ。

茲に、一つ断つておきたいことがある。崇神天皇の巻に見えた、山城のひら坂の上で、腰裳の少女が童謡ワザウタを歌ふ、あの句の中に「ひめなすびすも」と出てくることである。「姫の遊びすることよ」の意で、雛人形を玩ぶ後世の雛祭りの古い形だといふ様な考へは、撫で物にせおはせて海上遠く放ちやつてよからうではないか。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社

   1995(平成7)年410日初版発行

底本の親本:「古代研究 民俗学篇第二」大岡山書店

   1930(昭和5)年620日発行

初出:「愛国婦人 第四七九号」

   1922(大正11)年3

※底本の題名の下に書かれている「大正十一年三月「愛国婦人」第四七九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2004年128日作成

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