修禅寺物語
岡本綺堂
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(伊豆の修禅寺に頼家の面というあり。作人も知れず。由来もしれず。木彫の仮面にて、年を経たるまま面目分明ならねど、いわゆる古色蒼然たるもの、観来たって一種の詩趣をおぼゆ。当時を追懐してこの稿成る。)
登場人物
面作師 夜叉王
夜叉王の娘 かつら
同 かえで
かえでの婿 春彦
源左金吾頼家
下田五郎景安
金窪兵衛尉行親
修禅寺の僧
行親の家来など
第一場
伊豆の国狩野の庄、修禅寺村(今の修善寺)桂川のほとり、夜叉王の住家。
藁葺きの古びたる二重家体。破れたる壁に舞楽の面などをかけ、正面に紺暖簾の出入口あり。下手に炉を切りて、素焼の土瓶などかけたり。庭の入口は竹にて編みたる門、外には柳の大樹。そのうしろは畑を隔てて、塔の峰つづきの山または丘などみゆ。元久元年七月十八日。
(二重の上手につづける一間の家体は細工場にて、三方に古りたる蒲簾をおろせり。庭さきには秋草の花咲きたる垣に沿うて荒むしろを敷き、姉娘桂、二十歳。妹娘楓、十八歳。相対して紙砧を擣っている。)
かつら (やがて砧の手をやめる)一晌あまりも擣ちつづけたので、肩も腕も痺るるような。もうよいほどにして止みょうでないか。
かえで とは言うものの、きのうまでは盆休みであったほどに、きょうからは精出して働こうではござんせぬか。
かつら 働きたくばお前ひとりで働くがよい。父様にも春彦どのにも褒められようぞ。わたしはいやじゃ、いやになった。(投げ出すように砧を捨つ)
かえで 貧の手業に姉妹が、年ごろ擣ちなれた紙砧を、とかくに飽きた、いやになったと、むかしに変るお前がこのごろの素振りは、どうしたことでござるかのう。
かつら (あざ笑う)いや、昔とは変らぬ。ちっとも変らぬ。わたしは昔からこのようなことを好きではなかった。父さまが鎌倉においでなされたら、わたしらもこうはあるまいものを、名聞を好まれぬ職人気質とて、この伊豆の山家に隠れ栖、親につれて子供までも鄙にそだち、しょうことなしに今の身の上じゃ。さりとてこのままに朽ち果てようとは夢にも思わぬ。近いためしは今わたしらが擣っている修禅寺紙、はじめは賤しい人の手につくられても、色好紙とよばれて世に出づれば、高貴のお方の手にも触るる。女子とてもその通りじゃ。たとい賤しゅう育っても、色好紙の色よくば、関白大臣将軍家のおそばへも、召し出されぬとは限るまいに、賤の女がなりわいの紙砧、いつまで擣ちおぼえたとて何となろうぞ。いやになったと言うたが無理か。
かえで それはおまえが口癖に言うことじゃが、人には人それぞれの分があるもの。将軍家のお側近う召さるるなどと、夢のようなことをたのみにして、心ばかり高う打ちあがり、末はなんとなろうやら、わたしは案じられてなりませぬ。
かつら お前とわたしとは心が違う。妹のおまえは今年十八で、春彦という男を持った。それに引きかえて姉のわたしは、二十歳という今日の今まで、夫もさだめずに過したは、あたら一生を草の家に、住み果つまいと思えばこそじゃ。職人風情の妻となって、満足して暮すおまえらに、わたしの心はわかるまいのう。(空嘯く)
(楓の婿春彦、二十余歳、奥より出づ。)
春彦 桂どの。職人風情とさも卑しい者のように言われたが、職人あまたあるなかにも、面作師といえば、世に恥かしからぬ職であろうぞ。あらためて申すに及ばねど、わが日本開闢以来、はじめて舞楽のおもてを刻まれたは、もったいなくも聖徳太子、つづいて藤原淡海公、弘法大師、倉部の春日、この人々より伝えて今に至る、由緒正しき職人とは知られぬか。
かつら それは職が尊いのでない。聖徳太子や淡海公という、その人々が尊いのじゃ。かの人々も生業に、面作りはなされまいが……。
春彦 生業にしては卑しいか。さりとは異なことを聞くものじゃの。この春彦が明日にもあれ、稀代の面をつくり出して、天下一の名を取っても、お身は職人風情と侮るか。
かつら 言んでもないこと、天下一でも職人は職人じゃ、殿上人や弓取りとは一つになるまい。
春彦 殿上人や弓取りがそれほどに尊いか。職人がそれほどに卑しいか。
かつら はて、くどい。知れたことじゃに……。
(桂は顔をそむけて取り合わず。春彦、むっとして詰めよるを、楓はあわてて押し隔てる。)
かえで ああ、これ、一旦こうと言い出したら、あくまでも言い募るが姉さまの気質、逆ろうては悪い。いさかいはもう止してくだされ。
春彦 その気質を知ればこそ、日ごろ堪忍していれど、あまりと言えば詞が過ぐる。女房の縁につながりて、姉と立つればつけ上り、ややもすればわれを軽しむる面憎さ。仕儀によっては姉とは言わさぬ。
かつら おお、姉と言われずとも大事ござらぬ。職人風情を妹婿に持ったとて、姉の見得にも手柄にもなるまい。
春彦 まだ言うか。
(春彦はまたつめ寄るを、楓は心配して制す。この時、細工場の簾のうちにて、父の声。)
夜叉王 ええ、騒がしい。鎮まらぬか。
(これを聴きて春彦は控える。楓は起って蒲簾をまけば、伊豆の夜叉王、五十余歳、烏帽子、筒袖、小袴にて、鑿と槌とを持ち、木彫の仮面を打っている。膝のあたりには木の屑など取り散らしたり。)
春彦 由なきことを言い募って、細工のおさまたげをも省みぬ不調法、なにとぞ御料簡くださりませ。
かえで これもわたしが姉様に、意見がましいことなど言うたが基。姉様も春彦どのも必ず叱って下さりまするな。
夜叉王 おお、なんで叱ろう、叱りはせぬ。姉妹の喧嘩はままあることじゃ。珍らしゅうもあるまい。時に今日ももう暮るるぞ。秋のゆう風が身にしみるわ。そちたちは奥へ行って夕飯の支度、燈火の用意でもせい。
二人 あい。
(桂と楓は起って奥に入る。)
夜叉王 のう、春彦。妹とは違うて気がさの姉じゃ。同じ屋根の下に起き臥しすれば、一年三百六十日、面白からぬ日も多かろうが、何事もわしに免じて料簡せい。あれを産んだ母親は、そのむかし、都の公家衆に奉公したもの、縁あってこの夜叉王と女夫になり、あずまへ流れ下ったが、育ちが育ちとて気位高く、職人風情に連れ添うて、一生むなしく朽ち果つるを悔みながらに世を終った。その腹を分けた姉妹、おなじ胤とはいいながら、姉は母の血をうけて公家気質、妹は父の血をひいて職人気質、子の心がちがえば親の愛も違うて、母は姉贔屓、父は妹贔屓。思い思いに子どもの贔屓争いから、埒もない女夫喧嘩などしたこともあったよ。はははははは。
春彦 そう承われば桂どのが、日ごろ職人をいやしみ嫌い、世にきこえたる殿上人か弓取りならでは、夫に持たぬと誇らるるも、母御の血筋をつたえしため、血は争われぬものでござりまするな。
夜叉王 じゃによって、あれが何を言おうとも、滅多に腹は立てまいぞ。人を人とも思わず、気位高う生まれたは、母の子なれば是非がないのじゃ。
(暮の鐘きこゆ。奥より楓は燈台を持ちて出づ。)
春彦 おお、取り紛れて忘れていた。これから大仁の町まで行って、このあいだ誂えておいた鑿と小刀をうけ取って来ねばなるまいか。
かえで きょうはもう暮れました。いっそ明日にしなされては……。
春彦 いや、いや、職人には大事の道具じゃ。一刻も早う取り寄せておこうぞ。
夜叉王 おお、職人はその心がけがのうてはならぬ。更けぬ間に、ゆけ、行け。
春彦 夜とは申せど通いなれた路、一晌ほどに戻って来まする。
(春彦は出てゆく。楓は門にたちて見送る。修禅寺の僧一人、燈籠を持ちて先に立ち、つづいて源の頼家卿、二十三歳。あとより下田五郎景安、十七八歳、頼家の太刀をささげて出づ。)
僧 これ、これ、将軍家のおしのびじゃ。粗相があってはなりませぬぞ。
(楓ははッと平伏す。頼家主従すすみ入れば、夜叉王も出で迎える。)
夜叉王 思いもよらぬお成りとて、なんの設けもござりませぬが、まずあれへお通りくださりませ。
(頼家は縁に腰をかける。)
夜叉王 して、御用の趣は。
頼家 問わずとも大方は察しておろう。わが面体を後のかたみに残さんと、さきにその方を召し出し、頼家に似せたる面を作れと、絵姿までも遣わしておいたるに、日を経るも出来せず、幾たびか延引を申し立てて、今まで打ち過ぎしは何たることじゃ。
五郎 多寡が面一つの細工、いかに丹精を凝らすとも、百日とは費すまい。お細工仰せつけられしは当春の初め、その後すでに半年をも過ぎたるに、いまだ献上いたさぬとはあまりの懈怠、もはや猶予は相成らぬと、上様の御機嫌さんざんじゃぞ。
頼家 予は生まれついての性急じゃ。いつまで待てど暮せど埒あかず、あまりに歯痒う覚ゆるまま、この上は使いなど遣わすこと無用と、予がじきじきに催促にまいった。おのれ何ゆえに細工を怠りおるか。仔細をいえ、仔細を申せ。
夜叉王 御立腹おそれ入りましてござりまする。もったいなくも征夷大将軍、源氏の棟梁のお姿を刻めとあるは、職のほまれ、身の面目、いかでか等閑に存じましょうや。御用うけたまわりてすでに半年、未熟ながらも腕限り根かぎりに、夜昼となく打ちましても、意にかなうほどのもの一つもなく、さらに打ち替え作り替えて、心ならずも延引に延引をかさねましたる次第、なにとぞお察しくださりませ。
頼家 ええ、催促の都度におなじことを……。その申しわけは聞き飽いたぞ。
五郎 この上はただ延引とのみで相済むまい。いつのころまでにはかならず出来するか、あらかじめ期日をさだめてお詫を申せ。
夜叉王 その期日は申し上げられませぬ。左に鑿をもち、右に槌を持てば、面はたやすく成るものと思し召すか。家をつくり、塔を組む、番匠なんどとは事変りて、これは生なき粗木を削り、男、女、天人、夜叉、羅刹、ありとあらゆる善悪邪正のたましいを打ち込む面作師。五体にみなぎる精力が、両の腕におのずから湊まる時、わがたましいは流るるごとく彼に通いて、はじめて面も作られまする。ただしその時は半月の後か、一月の後か、あるいは一年二年の後か。われながら確とはわかりませぬ。
僧 これ、これ、夜叉王どの。上様は御自身も仰せらるるごとく、至って御性急でおわします。三島の社の放し鰻を見るように、ぬらりくらりと取止めのないことばかり申し上げていたら、御疳癖がいよいよ募ろうほどに、こなたも職人冥利、いつのころまでと日を限って、しかと御返事を申すがよかろうぞ。
夜叉王 じゃと言うて、出来ぬものはのう。
僧 なんの、こなたの腕で出来ぬことがあろう。面作師も多くあるなかで、伊豆の夜叉王といえば、京鎌倉までも聞えた者じゃに……。
夜叉王 さあ、それゆえに出来ぬと言うのじゃ。わしも伊豆の夜叉王と言えば、人にも少しは知られたもの。たといお咎め受きょうとも、己が心に染まぬ細工を、世に残すのはいかにも無念じゃ。
頼家 なに、無念じゃと……。さらばいかなる祟りを受きょうとも、早急には出来ぬというか。
夜叉王 恐れながら早急には……。
頼家 むむ、おのれ覚悟せい。
(癇癖募りし頼家は、五郎のささげたる太刀を引っ取って、あわや抜かんとす。奥より桂、走り出づ。)
かつら まあ、まあ、お待ちくださりませ。
頼家 ええ、退け、のけ。
かつら まずお鎮まりくださりませ。面はただ今献上いたしまする。のう、父様。
(夜叉王は黙して答えず。)
五郎 なに、面はすでに出来しておるか。
頼家 ええ、おのれ。前後不揃いのことを申し立てて、予をあざむこうでな。
かつら いえ、いえ、嘘いつわりではござりませぬ。面はたしかに出来しておりまする。これ、父様。もうこの上は是非がござんすまい。
かえで ほんにそうじゃ。ゆうべようやく出来したというあの面を、いっそ献上なされては……。
僧 それがよい、それがよい。こなたも凡夫じゃ。名も惜しかろうが、命も惜しかろう。出来した面があるならば、早う上様にさしあげて、お慈悲をねがうが上分別じゃぞ。
夜叉王 命が惜しいか、名が惜しいか。こなた衆の知ったことではない。黙っておいやれ。
僧 さりとて、これが見ていらりょうか。さあ、娘御。その面を持って来て、ともかくも御覧に入れたがよいぞ。早う、早う。
かえで あい、あい。
(かえでは細工場へ走り入りて、木彫の仮面を入れたる箱を持ち出づ。桂はうけ取りて頼家の前にささぐ。頼家は無言にて桂の顔をうちまもり、心少しく解けたる体なり。)
かつら いつわりならぬ証拠、これ御覧くださりませ。
(頼家は仮面を取りて打ちながめ、思わず感嘆の声をあげる。)
頼家 おお、見事じゃ。よう打ったぞ。
五郎 上様おん顔に生写しじゃ。
頼家 むむ。(飽かず打ち戍る)
僧 さればこそ言わぬことか。それほどの物が出来していながら、とこう渋っておられたは、夜叉王どのも気の知れぬ男じゃ。ははははは。
夜叉王 (形をあらためる)何分にもわが心にかなわぬ細工、人には見せじと存じましたが、こう相成っては致し方もござりませぬ。方々にはその面をなんと御覧なされまする。
頼家 さすがは夜叉王、あっぱれの者じゃ。頼家も満足したぞ。
夜叉王 あっぱれとの御賞美ははばかりながらおめがね違い、それは夜叉王が一生の不出来。よう御覧じませ。面は死んでおりまする。
五郎 面が死んでおるとは……。
夜叉王 年ごろあまた打ったる面は、生けるがごとしと人も言い、われも許しておりましたが、不思議やこのたびの面に限って、幾たび打ち直しても生きたる色なく、たましいもなき死人の相……。それは世にある人の面ではござりませぬ。死人の面でござりまする。
五郎 そちはさように申しても、われらの眼にはやはり生きたる人の面……。死人の相とは相見えぬがのう。
夜叉王 いや、いや、どう見直しても生ある人ではござりませぬ。しかも眼に恨みを宿し、何者をか呪うがごとき、怨霊怪異なんどのたぐい……。
僧 あ、これ、これ、そのような不吉のことは申さぬものじゃ。御意にかなえばそれで重畳、ありがたくお礼を申されい。
頼家 むむ。とにもかくにもこの面は頼家の意にかのうた。持ち帰るぞ。
夜叉王 強って御所望とござりますれば……。
頼家 おお、所望じゃ。それ。
(頼家は頤にて示せば、かつら心得て仮面を箱に納め、すこしく媚を含みて頼家にささぐ。頼家はさらにその顔をじっと視る。)
頼家 いや、なおかさねて主人に所望がある。この娘を予が手もとに召し仕いとう存ずるが、奉公さする心はないか。
夜叉王 ありがたい御意にござりまするが、これは本人の心まかせ、親の口から御返事は申し上げられませぬ。
(桂は臆せず、すすみ出づ。)
かつら 父様。どうぞわたしに御奉公を……。
頼家 うい奴じゃ。奉公をのぞむと申すか。
かつら はい。
頼家 さらばこれよりその面をささげて、頼家の供してまいれ。
かつら かしこまりました。
(頼家は起つ。五郎も起つ。桂もつづいて起つ。楓は姉の袂をひかえて、心もとなげに囁く。)
かえで 姉さま。おまえは御奉公に……。
かつら おまえは先ほど、夢のような望みと笑うたが、夢のような望みが今かのうた。
(かつらは誇りがに見かえりて、庭に降り立つ。)
僧 やれ、やれ、これで愚僧もまず安堵いたした。夜叉王どの、あすまた逢いましょうぞ。
(頼家は行きかかりて物につまずく。桂は走り寄りてその手を取る。)
頼家 おお、いつの間にか暗うなった。
(僧はすすみ出でて、桂に燈籠を渡す。桂は仮面の箱を僧にわたし、われは片手に燈籠を持ち、片手に頼家をひきて出づ。夜叉王はじっと思案の体なり。)
かえで 父さま、お見送りを……。
(夜叉王は初めて心づきたるごとく、娘とともに門口に送り出づ。)
五郎 そちへの御褒美は、あらためて沙汰するぞ。
(頼家らは相前後して出でゆく。夜叉王は起ち上りて、しばらく黙然としていたりしが、やがてつかつかと縁にあがり、細工場より槌を持ち来たりて、壁にかけたるいろいろの仮面を取り下し、あわや打ち砕かんとす。楓はおどろきて取り縋る。)
かえで ああ、これ、なんとなさる。おまえは物に狂われたか。
夜叉王 せっぱ詰まりて是非におよばず、拙き細工を献上したは、悔んでも返らぬわが不運。あのような面が将軍家のおん手に渡りて、これぞ伊豆の住人夜叉王が作と宝物帳にも記されて、百千年の後までも笑いをのこさば、一生の名折れ、末代の恥辱、所詮夜叉王の名は廃った。職人もきょう限り、再び槌は持つまいぞ。
かえで さりとは短気でござりましょう。いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でもあっぱれ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか。
夜叉王 むむ。
かえで 拙い細工を世に出したをそれほど無念と思し召さば、これからいよいよ精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥を雪いでくださりませ。
(かえでは縋りて泣く。夜叉王は答えず、思案の眼を瞑じている。日暮れて笛の声遠くきこゆ。)
第二場
おなじく桂川のほとり、虎渓橋の袂。川辺には柳幾本たちて、芒と芦とみだれ生いたり。橋を隔てて修禅寺の山門みゆ。同じ日の宵。
(下田五郎は頼家の太刀を持ち、僧は仮面の箱をかかえて出づ。)
五郎 上様は桂どのと、川辺づたいにそぞろ歩き遊ばされ、お供のわれわれは一足先へまいれとの御意であったが、修禅寺の御座所ももはや眼のまえじゃ。この橋の袂にたたずみて、お帰りを暫時相待とうか。
僧 いや、いや、それはよろしゅうござるまい。桂殿という嫋女をお見出しあって、浮れあるきに余念もおわさぬところへ、われわれのごとき邪魔外道が附き纏うては、かえって御機嫌を損ずるでござろうぞ。
五郎 なにさまのう。
(とは言いながら、五郎はなお不安の体にてたたずむ。)
僧 ことに愚僧はお風呂の役、早う戻って支度をせねばなるまい。
五郎 お風呂とておのずと沸いて出づる湯じゃ。支度を急ぐこともあるまいに……。まずお待ちゃれ。
僧 はて、お身にも似合わぬ不粋をいうぞ。若き男女がむつまじゅう語ろうているところに、法師や武士は禁物じゃよ。ははははは。さあ、ござれ、ござれ。
(無理に袖をひく。五郎は心ならずも曳かるるままに、打ち連れて橋を渡りゆく。月出づ。桂は燈籠を持ち、頼家の手をひきて出づ。)
頼家 おお、月が出た。河原づたいに夜ゆけば、芒にまじる芦の根に、水の声、虫の声、山家の秋はまたひとしおの風情じゃのう。
かつら 馴れてはさほどにもおぼえませぬが、鎌倉山の星月夜とは事変りて、伊豆の山家の秋の夜は、さぞお寂しゅうござりましょう。
(頼家はありあう石に腰打ちかけ、桂は燈籠を持ちたるまま、橋の欄に凭りて立つ。月明らかにして虫の声きこゆ。)
頼家 鎌倉は天下の覇府、大小名の武家小路、甍をならべて綺羅を競えど、それはうわべの栄えにて、うらはおそろしき罪の巷、悪魔の巣ぞ。人間の住むべきところでない。鎌倉などへは夢も通わぬ。(月を仰ぎて言う)
かつら 鎌倉山に時めいておわしなば、日本一の将軍家、山家そだちのわれわれは下司にもお使いなされまいに、御果報拙いがわたくしの果報よ。忘れもせぬこの三月、窟詣での下向路、桂谷の川上で、はじめて御目見得をいたしました。
頼家 おお、その時そちの名を問えば、川の名とおなじ桂と言うたな。
かつら まだそればかりではござりませぬ。この窟のみなかみには、二本の桂の立木ありて、その根よりおのずから清水を噴き、末は修禅寺にながれて入れば、川の名を桂とよび、またその樹を女夫の桂と昔よりよび伝えておりますると、お答え申し上げましたれば、おまえ様はなんと仰せられました。
頼家 非情の木にも女夫はある。人にも女夫はありそうな……と、つい戯れに申したのう。
かつら お戯れかは存じませぬが、そのお詞が冥加にあまりて、この願かならずかなうようと、百日のあいだ人にも知らさず、窟へ日参いたせしに、女夫の桂のしるしありて、ゆくえも知れぬ川水も、嬉しき逢瀬にながれ合い、今月今宵おん側近う、召し出されたる身の冥加……。
頼家 武運つたなき頼家の身近うまいるがそれほどに嬉しいか。そちも大方は存じておろう。予には比企の判官能員の娘若狭といえる側女ありしが、能員ほろびしその砌に、不憫や若狭も世を去った。今より後はそちが二代の側女、名もそのままに若狭と言え。
かつら あの、わたくしが若狭の局と……。ええ、ありがとうござりまする。
頼家 あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情も湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。今はもろもろの煩悩を断って、安らけくこの地に生涯を送りたいものじゃ。さりながら、月には雲の障りあり。その望みもはかなく破れて、予に万一のことあらば、そちの父に打たせたるかのおもてを形見と思え。叔父の蒲殿は罪のうして、この修禅寺の土となられた。わが運命も遅かれ速かれ、おなじ路をたどろうも知れぬぞ。
(月かくれて暗し。籠手、臑当、腹巻したる軍兵二人、上下よりうかがい出でて、芒むらに潜む。虫の声にわかにやむ。)
かつら あたりにすだく虫の声、吹き消すように止みましたは……。
頼家 人やまいりし。心をつけよ。
(金窪兵衛尉行親、三十余歳。烏帽子、直垂、籠手、臑当にて出づ。)
行親 上、これに御座遊ばされましたか。
頼家 誰じゃ。
(桂は燈籠をかざす。頼家透しみる。)
行親 金窪行親でござりまする。
頼家 おお、兵衛か。鎌倉表より何としてまいった。
行親 北条殿のおん使いに……。
頼家 なに、北条殿の使い……。さてはこの頼家を討とうがためな。
行親 これは存じも寄らぬこと。御機嫌伺いとして行親参上、ほかに仔細もござりませぬ。
頼家 言うな、兵衛。物の具に身をかためて夜中の参入は、察するところ、北条の密意をうけて予を不意撃ちにする巧みであろうが……。
行親 天下ようやく定まりしとは申せども、平家の残党ほろび殲さず。かつは函根より西の山路に、盗賊ども徘徊する由きこえましたれば、路次の用心としてかようにいかめしゅう扮装ち申した。上に対したてまつりて、不意撃ちの狼藉なんど、いかで、いかで……。
頼家 たといいかように陳ずるとも、憎き北条の使いなんどに対面無用じゃ。使いの口上聞くにおよばぬ。帰れ、かえれ。
(行親は騒がず。しずかに桂をみかえる。)
行親 これにある女性は……。
頼家 予が召仕いの女子じゃよ。
行親 おん謹みの身をもって、素性も得知れぬ賤しの女子どもを、おん側近う召されしは……。
(桂は堪えず、すすみ出づ。)
かつら 兵衛どのとやら、お身は卜者か人相見か。初見参のわらわに対して、素姓賤しき女子などと、迂濶に物を申されな。妾は都のうまれ、母は殿上人にも仕えし者ぞ。まして今は将軍家のおそばに召されて、若狭の局とも名乗る身に、一応の会釈もせで無礼の雑言は、鎌倉武士というにも似ぬ、さりとは作法をわきまえぬ者のう。
(冷笑われて、行親は眉をひそめる。)
行親 なに。若狭の局……。して、それは誰に許された。
頼家 おお、予が許した。
行親 北条どのにも謀らせたまわず……。
頼家 北条がなんじゃ。おのれらは二口目には北条という。北条がそれほどに尊いか。時政も義時も予の家来じゃぞ。
行親 さりとて、尼御台もおわしますに……。
頼家 ええ、くどい奴。おのれらの言うこと、聴くべき耳は持たぬぞ。退れ、すされ。
行親 さほどにおむずかり遊ばされては、行親申し上ぐべきようもござりませぬ。仰せに任せて今宵はこのまま退散、委細は明朝あらためて見参の上……。
頼家 いや、重ねて来ること相成らぬぞ。若狭、まいれ。
(頼家は起ち上りて桂の手を取り、打ち連れて橋を渡り去る。行親はあとを見送る。芒のあいだに潜みし軍兵出づ。)
兵一 先刻より忍んで相待ち申したに、なんの合図もござりませねば……。
兵二 手を下すべき機もなく、空しく時を移し申した。
行親 北条殿の密旨を蒙り、近寄って討ちたてまつらんと今宵ひそかに伺候したるが、さすがは上様、早くもそれと覚られて、われに油断を見せたまわねば、無念ながらも仕損じた。この上は修禅寺の御座所へ寄せかけ、多人数一度にこみ入って本意を遂ぎょうぞ。上様は早業の達人、近習の者どもにも手だれあり。小勢の敵と侮りて不覚を取るな。場所は狭し、夜いくさじゃ。うろたえて同士撃ちすな。
兵 はっ。
行親 一人はこれより川下へ走せ向うて、村の出口に控えたる者どもに、即刻かかれと下知を伝えい。
兵一 心得申した。
(一人は下手に走り去る。行親は一人を具して上手に入る。木かげより春彦、うかがい出づ。)
春彦 大仁の町から戻る路々に、物の具したる兵者が、ここに五人かしこに十人屯して、出入りのものを一々詮議するは、合点がゆかぬと思うたが、さては鎌倉の下知によって、上様を失いたてまつる結構な。さりとは大事じゃ。
(遠近にて寝鳥のおどろき起つ声。下田五郎は橋を渡りて出づ。)
五郎 常はさびしき山里の、今宵は何とやらん物さわがしく、事ありげにも覚ゆるぞ。念のために川の上下を一わたり見廻ろうか。
春彦 五郎どのではおわさぬか。
五郎 おお、春彦か。
(春彦は近づきてささやく。)
五郎 や、なんと言う。金窪の参入は……。上様を……。しかと左様か。むむ。
(五郎はあわただしく引っ返しゆかんとする時、橋の上より軍兵一人長巻をたずさえて出で、無言にて撃ってかかる。五郎は抜きあわせて、たちまち斬って捨つ。軍兵数人、上下より走り出で、五郎を押っ取りまく。)
五郎 やあ、春彦。ここはそれがしが受け取った。そちは御座所へ走せ参じて、この趣を注進せい。
春彦 はっ。
(春彦は橋をわたりて走り去る。五郎は左右に敵を引き受けて奮闘す。)
第三場
もとの夜叉王の住家。夜叉王は門にたちて望む。修禅寺にて早鐘を撞く音きこゆ。
(向うより楓は走り出づ。)
かえで 父様。夜討ちじゃ。
夜叉王 おお、むすめ。見て戻ったか。
かえで 敵は誰やらわからぬが、人数はおよそ二三百人、修禅寺の御座所へ夜討ちをかけましたぞ。
夜叉王 にわかにきこゆる人馬の物音は、何事かと思うたに、修禅寺へ夜討ちとは……。平家の残党か、鎌倉の討手か。こりゃ容易ならぬ大変じゃのう。
かえで 生憎に春彦どのはありあわさず、なんとしたことでござりましょうな。
夜叉王 われわれがうろうろ立ち騒いだとてなんの役にも立つまい。ただそのなりゆきを観ているばかりじゃ。まさかの時には父子が手をひいて立ち退くまでのこと。平家が勝とうが、源氏が勝とうが、北条が勝とうが、われわれにはかかり合いのないことじゃ。
かえで それじゃと言うて不意のいくさに、姉様はなんとなさりょうか。もし逃げ惑うて過失でも……。
夜叉王 いや、それも時の運じゃ、是非もない。姉にはまた姉の覚悟があろうよ。
(寺鐘と陣鐘とまじりてきこゆ。楓は起ちつ居つ、幾たびか門に出でて心痛の体。向うより春彦走り出づ。)
かえで おお、春彦どの。待ちかねました。
春彦 寄せ手は鎌倉の北条方、しかも夜討ちの相談を、測らず木かげで立聴きして、その由を御注進申し上ぎょうと、修禅寺までは駈けつけたが、前後の門はみな囲まれ、翼なければ入ることかなわず、残念ながらおめおめ戻った。
かえで では、姉様の安否も知れませぬか。
春彦 姉はさておいて、上様の御安否さえもまだわからぬ。小勢ながらも近習の衆が、火花をちらして追っつ返しつ、今が合戦最中じゃ。
夜叉王 なにを言うにも多勢に無勢、御所方とても鬼神ではあるまいに、勝負は大方知れてある。とても逃れぬ御運の末じゃ。蒲殿といい、上様と言い、いかなる因縁かこの修禅寺には、土の底まで源氏の血が沁みるのう。
(寺鐘烈しくきこゆ。春彦夫婦は再び表をうかがい見る。)
かえで おお、おびただしい人の足音……。鎬を削る太刀の音……。
春彦 ここへも次第に近づいてくるわ。
(桂は頼家の仮面を持ちて顔には髪をふりかけ、直垂を着て長巻を持ち、手負いの体にて走り出で、門口に来たりて倒る。)
春彦 や、誰やら表に……。
(夫婦は走り寄りて扶け起し、庭さきに伴い入るれば、桂はまた倒れる。)
春彦 これ、傷は浅うござりまするぞ。心を確かに持たせられい。
かつら (息もたゆげに)おお妹……。春彦どの……。父様はどこにじゃ。
夜叉王 や、なんと……。
(夜叉王は怪しみて立ちよる。桂は顔をあげる。みなみな驚く。)
春彦 や、侍衆とおもいのほか……。
夜叉王 おお、娘か。
かえで 姉さまか。
春彦 して、この体は……。
かつら 上様お風呂を召さるる折から、鎌倉勢が不意の夜討ち……。味方は小人数、必死にたたかう。女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この面をつけてお身がわりと、早速の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩らさじと追っかくる。
夜叉王 さては上様お身替りと相成って、この面にて敵をあざむき、ここまで斬り抜けてまいったか。(血に染みたる仮面を取りてじっと視る)
春彦 われわれすらも侍衆と見あやまったほどなれば、敵のあざむかれたも無理ではあるまい。
かえで とは言うものの、あさましいこのお姿……。姉様死んで下さりまするな。(取り縋りて泣く)
かつら いや、いや。死んでも憾みはない。賤が伏屋でいたずらに、百年千年生きたとて何となろう。たとい半晌一晌でも、将軍家のおそばに召し出され、若狭の局という名をも給わるからは、これで出世の望みもかのうた。死んでもわたしは本望じゃ。
(云いかけて弱るを、春彦夫婦は介抱す。夜叉王は仮面をみつめて物言わず。以前の修禅寺の僧、頭より袈裟をかぶりて逃げ来たる。)
僧 大変じゃ、大変じゃ。かくもうて下され、隠もうてくだされ。(内に駈け入りて、桂を見てまたおどろく)やあ、ここにも手負いが…。おお、桂殿……。こなたもか。
かつら して、上様は……。
僧 お悼わしや、御最期じゃ。
かつら ええ。(這い起きてきっと視る)
僧 上様ばかりか、御家来衆も大方は斬り死……。わしらも傍杖の怪我せぬうちと、命からがら逃げて来たのじゃ。
春彦 では、お身がわりの甲斐もなく……。
かえで ついにやみやみ御最期か。
(桂は失望してまた倒る。楓は取りつきて叫ぶ。)
かえで これ、姉さま。心を確かに……。のう、父様。姉さまが死にまするぞ。
(今まで一心に仮面をみつめたる夜叉王、はじめて見かえる。)
夜叉王 おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。
かえで ええ。
夜叉王 幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神に入るとはこのことよ。伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう。(快げに笑う)
かつら (おなじく笑う)わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。ちっとも早う上様のおあとを慕うて、冥土のおん供……。
夜叉王 やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を堪えてしばらく待て。春彦、筆と紙を……。
春彦 はっ。
(春彦は細工場に走り入りて、筆と紙などを持ち来たる。夜叉王は筆を執る。)
夜叉王 娘、顔をみせい。
かつら あい。
(桂は春彦夫婦に扶けられて這いよる。夜叉王は筆を執りて、その顔を模写せんとす。僧は口のうちにて念仏す。)
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
初出:「文芸倶楽部」
1911(明治44)年1月
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年4月30日作成
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