影を踏まれた女
──「近代異妖編」
岡本綺堂
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一
Y君は語る。
先刻も十三夜のお話が出たが、わたしも十三夜に縁のある不思議な話を知つてゐる。それは影を踏まれたといふことである。
影を踏むといふ子供遊びは今は流行らない。今どきの子供はそんな詰らない遊びをしないのである。月のよい夜ならばいつでも好さゝうなものであるが、これは秋の夜にかぎられてゐるやうであつた。秋の月があざやかに冴え渡つて、地に敷く夜露が白く光つてゐる宵々に、町の子供たちは往来に出て、こんな唄を歌ひはやしながら、地にうつる彼等の影を踏むのである。
──影や道陸神、十三夜のぼた餅──
ある者は自分の影を踏まうとして駈けまはるが、大抵は他人の影を踏まうとして追ひまはすのである。相手は踏まれまいとして逃げまはりながら、隙をみて巧みに敵の影を踏まうとする。また横合から飛び出して行つて、どちらかの影を踏まうとするのもある。かうして三人五人、多いときには十人以上も入りみだれて、地に落つる各自の影を追ふのである。勿論、すべつて転ぶのもある。下駄や草履の鼻緒を踏み切るのもある。この遊びはいつの頃から始まつたのか知らないが、兎にかくに江戸時代を経て、明治の初年、わたし達の子どもの頃まで行はれて、日清戦争の頃にはもう廃つてしまつたらしい。
子ども同士がたがひに影を踏み合つてゐるのは別に仔細もないが、それだけでは面白くないとみえて、往々にして通行人の影をふんで逃げることがある。迂闊に大人の影を踏むと叱られる虞れがあるので、大抵は通りがかりの娘や子供の影を踏んでわつと囃し立てゝ逃げる。まことに他愛のない悪戯ではあるが、たとひ影にしても、自分の姿の映つてゐるものを土足で踏みにじられると云ふのは余り愉快なものではない。それに就てこんな話が伝へられてゐる。
嘉永元年九月十二日の宵である。芝の柴井町、近江屋といふ糸屋の娘おせきが神明前の親類をたづねて、五つ(午後八時)前に帰つて来た。あしたは十三夜で、今夜の月も明るかつた。ことしの秋の寒さは例年よりも身にしみて、風邪引きが多いといふので、おせきは仕立ておろしの綿入の両袖をかき合せながら、北に向つて足早に辿つてくると、宇田川町の大通りに五六人の男の児が駈けまはつて遊んでゐた。影や道陸神の唄の声もきこえた。
そこを通りぬけて行きかゝると、その子供の群は一度にばら〳〵と駈けよつて来て、地に映つてゐるおせきの黒い影を踏まうとした。はつと思つて避けようとしたが、もう間にあはない。いたづらの子供たちは前後左右から追取りまいて来て、逃げまはる娘の影を思ふがまゝに踏んだ。かれらは十三夜のぼた餅を歌ひはやしながらどつと笑つて立去つた。
相手が立去つても、おせきはまだ一生懸命に逃げた。かれは息を切つて、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店の框へ腰をおろしながら横さまに俯伏してしまつた。店には父の弥助と小僧ふたりが居あはせたので、驚いてすぐに彼女を介抱した。奥からは母のお由も女中のおかんも駈出して来て、水をのませて、落着かせて、さて、その仔細を問ひ糺さうとしたが、おせきは胸の動悸がなか〳〵鎮まらないらしく、しばらくは胸をかゝへて店さきに俯伏してゐた。
おせきは今年十七の娘ざかりで、容貌もよい方である。宵とは云へ、月夜とは云へ、賑かい往来とは云つても、なにかの馬鹿者にからかはれたのであらうと親たちは想像したので、弥助は表へ出てみたが、そこらには彼女を追つて来たらしい者の影もみえなかつた。
「おまへは一体どうしたんだよ。」と、母のお由は待ちかねて又訊いた。
「あたし踏まれたの。」と、おせきは声をふるはせながら云つた。
「誰に踏まれたの。」
「宇田川町を通ると、影や道陸神の子供達があたしの影を踏んで……。」
「なんだ。」と、弥助は張合ひ抜けがしたやうに笑ひ出した。「それが何うしたといふのだ。そんなことを騒ぐ奴があるものか。影や道陸神なんぞ珍しくもねえ。」
「ほんたうにそんな事を騒ぐにやあ及ばないぢやあないか。あたしは何事が起つたのかと思つてびつくりしたよ。」と、母も安心と共に少しく不平らしく云つた。
「でも、自分の影を踏まれると、悪いことがある……。寿命が縮まると……。」と、おせきは更に涙ぐんだ。
「そんな馬鹿なことがあるものかね。」
お由は一言の下に云ひ消したが、実をいふと其頃の一部の人達のあひだには、自分の影を踏まれると好くないといふ伝説がないでもなかつた。七尺去つて師の影を踏まずなどと支那でも云ふ。たとひ影にしても、人の形を踏むといふことは遠慮しろといふ意味から、彼の伝説は生まれたらしいのであるが、後には踏む人の遠慮よりも踏まれる人の恐れとなつて、影を踏まれると運が悪くなるとか、寿命が縮むとか、甚だしきは三年の内に死ぬなどと云ふ者がある。それほどに怖るべきものであるならば、どこの親達も子どもの遊びを堅く禁止しさうなものであるが、それ程にはやかましく云はなかつたのを見ると、その伝説や迷信も一般的ではなかつたらしい。而もそれを信じて、それを恐れる人達からみれば、それが一般的であると無いとは問題ではなかつた。
「馬鹿をいはずに早く奥へ行け。」
「詰らないことを気におしでないよ。」
父には叱られ、母にはなだめられて、おせきはしよんぼりと奥へ這入つたが、胸一杯の不安と恐怖とは決して納まらなかつた。近江屋の二階は六畳と三畳の二間で、おせきはその三畳に寝ることになつてゐたが、今夜は幾たびも強い動悸におどろかされて眼をさました。幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に跳つてゐる夢をみた。
あくる日は十三夜で、近江屋でも例年の通りに芒や栗を買つて月の前にそなへた。今夜の月も晴れてゐた。
「よいお月見でございます。」と、近所の人たちも云つた。
併しおせきはその月を見るのが何だか怖しいやうに思はれてならなかつた。月が怖しいのではない、その月のひかりに映し出される自分の影をみるのが怖しいのであつた。世間ではよい月だと云つて、或は二階から仰ぎ、あるひは店先から望み、あるひは往来へ出て眺めてゐるなかで、かれ一人は奥に閉籠つてゐた。
──影や道陸神、十三夜の牡丹餅──
子ども等の歌ふ声々が、おせきの弱い魂を執念ぶかく脅かした。
二
それ以来、おせきは夜あるきをしなかつた。殊に月の明るい夜には表へ出るのを恐れるやうになつた。どうしても夜あるきをしなければならないやうな場合には、努めて月のない暗い宵を選んで出ることにしてゐた。世間の娘たちとは反対のこの行動が父や母の注意をひいて、お前はまだそんな詰らないことを気にしてゐるのかと、両親からしば〳〵叱られた。而もおせきの魂に深く食ひ入つた一種の恐怖と不安とはいつまでも消え失せなかつた。
さうしてゐる中に、不運のおせきは再び自分の影におどろかされるやうな事件に遭遇した。その年の師走の十三日、おせきの家で煤掃をしてゐると、神明前の親類の店から小僧が駈けて来て、おばあさんが急病で倒れたと報せた。神明前の親類といふのは、おせきの母の姉が縁付いてゐる家で、近江屋とは同商売であるばかりか、その次男の要次郎をゆく〳〵はおせきの婿にするといふ内相談もある。そこの老母が倒れたと聞いては其儘には済されない。誰かゞすぐに見舞に駈け付けなければならないのであるが、生憎にけふは煤掃の最中で父も母も手が離されないので、とりあへずおせきを出して遣ることにした。
襷をはづして、髪をかきあげて、おせきが兎つかはと店を出たのは、昼の八つ(午後二時)を少し過ぎた頃であつた。ゆく先は大野屋といふ店で、こゝも今日は煤掃である。その最中に今年七十五になるおばあさんが突然打つ倒れたのであるから、その騒ぎは一通りでなかつた。奥には四畳半の離屋があるので、急病人をそこへ運び込んで介抱してゐると、幸ひに病人は正気に戻つた。けふは取分けて寒い日であるのに、達者にまかせて老人が、早朝から若い者どもと一緒になつて立働いたために、こんな異変をひき起したのであるが、左のみ心配することはない。静に寝かして置けば自然に癒ると、医者は云つた。それで先づ一安心したところへ、おせきが駈けつけたのである。
「それでもまあ好うござんしたわねえ。」
おせきも安心したが、折角こゝまで来た以上、すぐに帰つてしまふわけにも行かないので、病人の枕もとで看病の手つだひなどをしてゐるうちに、師走のみじかい日はいつか暮れてしまつて、大野屋の店の煤はきも片附いた。蕎麦を食はされ、ゆふ飯を食はされて、おせきは五つ少し前に、こゝを出ることになつた。
「阿父さんや阿母さんにもよろしく云つてください。病人も御覧の通りで、もう心配することはありませんから。」と、大野屋の伯母は云つた。
宵ではあるが、年の暮で世間が物騒だといふので、伯母は次男の要次郎に云ひつけて、おせきを送らせて遣ることにした。お取込みのところをそれには及ばないと、おせきは一応辞退したのであるが、それでも間違ひがあつてはならないと云つて、伯母は無理に要次郎を附けて出した。店を出るときに伯母は笑ひながら声をかけた。
「要次郎。おせきちやんを送つて行くのだから、影や道陸神を用心おしよ。」
「この寒いのに、誰も表に出てゐやしませんよ。」と、要次郎も笑ひながら答へた。
おせきが影を踏まれたのは、やはりこゝの家から帰る途中の出来事で、彼女がそれを気に病んでゐるらしいことは、母のお由から伯母にも話したので、大野屋一家の者もみな知つてゐるのであつた。要次郎は今年十九の、色白の痩形の男で、おせきとは似合の夫婦と云つてよい。その未来の夫婦がむつまじさうに肩をならべて出てゆくのを、伯母は微笑みながら見送つた。
一応は辞退したものゝ、要次郎に送られてゆくことはおせきも実は嬉しかつた。これも笑ひながら表へ出ると、煤はきを済せて今夜は早く大戸をおろしてゐる店もあつた。家中に灯をとぼして何かまだ笑ひさゞめいてゐる店もあつた。その家々の屋根の上には、雪が降つたかと思ふやうに月のひかりが白く照り渡つてゐた。その月を仰いで、要次郎は夜の寒さが身にしみるやうに肩をすくめた。
「風はないが、なか〳〵寒い。」
「寒うござんすね。」
「おせきちやん、御覧よ。月がよく冴えてゐる。」
要次郎に云はれて、おせきも思はず振り仰ぐと、向う側の屋根の物干の上に、一輪の冬の月は、冷い鏡のやうに冴えてゐた。
「好いお月様ねえ。」
とは云つたが、忽ちに一種の不安がおせきの胸に湧いて来た。今夜は十二月十三日で、月のあることは判り切つてゐるのであつたが、今までは何かごた〳〵してゐたのと、要次郎と一緒にあるいてゐるのとで、おせきはそれを忘れてゐたのである。明るい月──それと反対におせきの心は暗くなつた。急におそろしいものを見せられたやうに、おせきは慌てゝ顔をそむけて俯向くと、今度は地に映る二人の影があり〳〵と見えた。
それと同時に、要次郎も思ひ出したやうに云つた。
「おせきちやんは月夜の晩には表へ出ないんだつてね。」
おせきは黙つてゐると、要次郎は笑ひ出した。
「なぜそんなことを気にするんだらう。あの晩もわたしが一緒に送つて来ればよかつたつけ。」
「だつて、なんだか気になるんですもの。」と、おせきは低い声で訴へるやうに云つた。
「大丈夫だよ。」と、要次郎はまた笑つた。
「大丈夫でせうか。」
二人はもう宇田川町の通りへ来てゐた。要次郎の云つた通り、この極月の寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も見出されなかつた。むかしから男女の影法師は憎いものに数へられてゐるが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落しながら、摺寄るやうに列んであるいてゐた。勿論、こゝらの大通りに往来は絶えなかつたが、二つの憎い影法師をわざわざ踏みにじつて通るやうな、意地の悪い通行人もなかつた。
宇田川町をゆきぬけて、柴井町へ踏み込んだときである。どこかの屋根の上で鴉の鳴く声がきこえた。
「あら、鴉が……」と、おせきは声のする方をみかへつた。
「月夜鴉だよ。」
要次郎がかう云つた途端に、二匹の犬がそこらの路地から駈け出して来て、恰もおせきの影の上で狂ひまはつた。はつと思つておせきが身をよけると、犬はそれを追ふやうに駈けあるいて、かれの影を踏みながら狂つてゐる。おせきは身をふるはせて要次郎に取縋つた。
「おまへさん、早く追つて……」
「畜生。叱つ、叱つ。」
犬は要次郎に追はれながらも、やはりおせきに附纏つてゐるやうに、かれの影を踏みながら跳り狂つてゐるので、要次郎も癇癪をおこして、足もとの小石を拾つて二三度叩きつけると、二匹の犬は悲鳴をあげて逃げ去つた。
おせきは無事に自分の家へ送りとゞけられたが、その晩の夢には、二匹の犬がかれの枕もとで駈けまはるのを見た。
三
今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として彼女は陰鬱な人間となつた。
それが嵩じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火をも嫌ふやうになつた。月といはず、日と云はず、燈火といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古にも通はなくなつた。
「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき〴〵に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
「まつたく困つた奴だ。」
弥助も溜息をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。
「まあさうだな。」
それが大野屋の人々にもきこえて、伯母夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱られた。
おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それも先づそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは勿論、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、何うしてもおせきの病を癒すことは出来なかつた。
なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診て貰つたのであるが、どこの医者にも確な診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり勝の気鬱病であらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の惣領息子、すなはち要次郎の兄が或人から下谷に偉い行者があるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。
「あれは狐使ひだと云ふことだ。あんな奴に祈祷を頼むと、却つて狐を憑けられる。」
「いや、その行者はそんなのではない。大抵の気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」
兄弟が頻りに云ひ争つてゐるのが母の耳にも這入つたので、兎も角もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。併しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応訊いて来ることにした。それは嘉永二年六月のはじめで、今年の梅雨のまだ明け切らない暗い日であつた。
行者の家は五条の天神の裏通りで、表構へは左ほど広くもないが、奥行のひどく深い家であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の間には二本の蝋燭が点つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた後に、かれはしばらく眼をとぢて考へてゐた。
「自分で自分の影を恐れる──それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」
行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を把つて出した。今夜の子の刻(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物がしてゐるならば、その形は見えずとも其影があり〳〵と映る筈である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭を小さい白木の箱に入れて、なにか呪文のやうなことを唱へた上で、うや〳〵しく弥助にわたした。
「ありがたうござります。」
夫婦は押頂いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき〴〵に雷の音がきこえた。これで梅雨も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。
前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も洩さなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物ある夫婦は寐た振をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて子の刻の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子をのぼつた。弥助は彼の蝋燭を持つてゐた。
二階の三畳の襖をあけて窺ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや〳〵と眠つてゐた。お由はしづかに揺り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく顫へてゐるからであつた。
夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは確に娘の影であつた。そこには角のある鬼や、口の尖つてゐる狐などの影は決して見られなかつた。
四
夫婦は安心したやうに先づほつとした。不思議さうにきよろきよろしてゐる娘を再び窃と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。
あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者をたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。
「それでは私にも祈祷の仕様がない。」
突き放されて、弥助も途方にくれた。
「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。
「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角たび〳〵お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を燃すのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはり子の刻、お忘れなさるな。」
今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で我儘をいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。
かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ〳〵それに服従するのほかは無かつた。
「夏の中にどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親は兎も角も、本人のおせきが外出を堅く拒むので、それも結局実行されなかつた。
ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩せは著るしく眼に立つた。日の目を見ないやうな奥の間にばかり閉籠つてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ〳〵彼女を疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は癆症であらうなどとも噂してゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。行者に教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。
それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日を繰つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目が恰も満一年目の当日であるといふことが、彼女の父母の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭のひかりが何かの不思議を照し出すのではないかとも危まれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。
その九月十二日がいよ〳〵来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。
あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。午少し前に弱い地震があつた。八つ頃(午後二時)に大野屋の伯母が近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの挨拶をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。
「おせきの百日目といふのは昨夜だつたのですよ。」
「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」
「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら摺寄つた。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、寐ぼけてぼんやりしてゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると──壁には骸骨の影が映つて……。」
お由の声は顫へてゐた。伯母も顔の色を変へた。
「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」
「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、確にそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん〳〵に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」
「まあ。」と、伯母は溜息をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」
「ひどく眠がつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、骸骨が映るなんて一体どうしたんでせう。」
「下谷へ行つて訊いて見たの。」と、伯母は訊いた。
「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、行者様はたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」
「さあ。」
判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。善いことであれば隠す筈がないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来中に突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。
お由はやがて泣き出した。
「おせきは死ぬのでせうか。」
伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、兎も角も間にあはせの気休めを云つて置くの外はなかつた。
伯母は家へ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。
「近江屋の叔父さんや叔母さんにも困るな。いつまで狐つかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして此方をさん〴〵嚇かして置いて、お仕舞に高い祈祷料をせしめようとする魂胆に相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」
「そんなことを云つても、論より証拠で、丁度百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。
「それは行者が狐を使ふのだ。」
又もや兄弟喧嘩がはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、所詮は水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯を食つてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。
「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。
十三夜──それを考へると、要次郎はなんだか家に落ついてゐられなかつた。彼はふら〳〵と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。
「おせきちやん、居ますか。」
「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。
「呼んで呉れませんか。」と、要次郎は云つた。
「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」
母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗に化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。
「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。
おそらく断るかと思ひの外、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。併し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して遣つた。
若い男と女とは金杉の方角にむかつて歩いてゆくと、冷い秋の夜風がふたりの袂をそよ〳〵と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。
「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。
おせきは黙つてゐた。
「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が鬱いだり、からだが悪くなつたりして、お父さんや阿母さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」
「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。
──影や道陸神、十三夜のぼた餅──
子どもの唄が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。
「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて遣る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。
子供の群は十人ばかりが一組になつて横町から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供等は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。
「お化けだ、お化けだ。」
かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて嚇したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影──その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者を狐つかひなどと罵つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは俄に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。
要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返して逃げた。
その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬に斬られて往来のまん中に倒れてゐた。
近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者の奴が狐を憑けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤つた。しかし誰にも確な説明の出来る筈はなかつた。唯こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。
底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
2005年12月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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