文學に於ける虚構
折口信夫
|
このごろ、短歌の上で虚構の問題が大分取り扱はれて來た。文學に虚構といふことは、昔から認められてゐた。日本文學では、それを繪空事・歌虚言などゝ言つて、文學には嘘の伴ふものだといふことを、はつきり知つてゐた。寧、藝術は嘘で成り立つてゐる。其肝腎の部分は嘘だと言つてゐる。だから昔の人は藝術には信頼せず、作家にしても、戲作などゝ自分自身を輕蔑してゐた。今言はれてゐる虚構といふことも、此態度の延長に過ぎない。
しかし、廣い意味で言へば、藝術家のする事に、虚構が一つも入らぬといふことはない。たゞ、まざ〳〵とした虚構が、人に感じられることがいけないのだ。そこで、文學には本來虚構があるのだから、まざ〳〵とした虚構も許すべきかどうかといふ問題がある。
日本の例で申します。この數年來志田義秀さんの研究で、芭蕉の作物に嘘のあることが大きくうつし出されて來た。それは、皆うす〳〵感じてゐたが、志田さんが例を擧げて言はれる處によると、我々の中に這入つてゐた芭蕉の、調和した姿が破れて行くやうになつた。いま、芭蕉の姿を解釋しながら、虚構が文學の上に存在し得る限界について説明してみたい。
日本の戀歌は凡虚構だ。殊に、平安朝中期以後の歌、及び其に基いて出來た歌物語は、虚構といつてよい。しかし其が、眞實らしい姿を持つてゐて、讀む人に眞實だと感じさせてゐたのだ。それだけに、其を作る動機がまる〳〵嘘ではなかつた。ところが世間の人は、これを始めから終りまで本道だと思つてゐたのだ。謂はゞ、作者の間では、お互に諒會してふいくしよんを用ゐてゐたが、讀者には知らしめないでゐた訣だ。さういふ風にして、虚構の多い歌を作り、歌物語を作つてゐた、其傳統を承け繼いだ連歌師・誹諧師が、虚構の文學を作るのは、當然のことゝ言へよう。唯、芭蕉といふ人が人間的に非常に信頼されてゐたので、我々として、どの點まで信頼すべきであると訣つてはゐたけれど、其以上の點まで、傳記などをすべて信頼してゐたのだ。だから、芭蕉の作物がすべて、眞面目な動機から出てゐる、といふより生活の眞實から生れてゐると、考へ過ぎてゐた。しかし、芭蕉といへど、日本の文學者で、虚構の文學の畑に育つた人である以上、虚構を如何にして眞實げに表さうといふ苦心をしたか、我々の考へるべきは、そこにある。
しかし、芭蕉の書いたものだけ見てゐると反證があがらぬが、其と竝行して、或同行者が芭蕉の行動を緻密に書いてゐるとしたら、芭蕉の虚構の文學は、實際の記録によつて破壞せられる。だが、破られて了ふと思ふのは、實は我々の持つてゐた小偶像が破壞せられるだけで、芭蕉の文學の眞實性は、決して亡びるものではない。
いちばん適切に、簡單にその事の言へるのは、曾良の書いた、「奧の細道隨行日記」である。江戸を出發して奧州から北陸を𢌞つて戻つて來る間に、此眞實の記録書と併行して、如何に芭蕉が虚構を逞しくしたかゞ、はつきり訣る。がそれだからと言つて、文學者としての素質を芭蕉に疑ふのは、わからない人である。
それにしても、箇所々々を見てゆくと、あまり虚構が多いのに、驚かずにはゐられない。其中で、最劇的な──誹諧だと「戀の座」のやうな場面は、皆さんが御存じである。
越後路の末に、親不知「市振の宿」に來た場面だ。芭蕉といふ人は、老達の人だから、書くにもなか〳〵考へてゐる。其處が、市振か其以外の處か訣らぬやうに書かれてゐるのだ。尤、これ以外にも、「奧の細道」には是に類似の所がいくらもあるから、虚構の事は隨處に成立する。市振の處をとつて見ると、
元祿四年七月十二日、──申ノ中刻市振ニ着宿
といふ風に、隨行日記では書いてゐる。「奧の細道」で其に當る所を見ると、
──越後の地に歩みを改て、越中の國市ぶりの關に至る。──
文月や六日も常の夜には似ず
あら海や佐渡に横たふ天河
といふ句があつて、次に、
けふは、親しらず・子しらず・犬もどり・駒がへしなど云北國一の難所をこえてつかれ侍れば、枕引よせて寢たるに、云々
と書いて、これから伊勢參宮する同宿の遊女二人の事を書いてゐる。ところが、其書き方を見ると、市振の關の事を立ち戻つて書いてゐるのか、先へ行つて泊つた處か、どうでもとれるやうに書いてある。文章から見ると、市振での出來事に就て書いてゐると見るのが當り前だ。隨行日記で見ると、翌日市振を發つて、越中の國、滑川へ泊つてゐる。だからこゝの處は市振の出來事だと見ていゝ。ところがそこでは、一間隔てた座敷に、若い女が二人話してゐる。年寄つた伴の男の聲も聞える。こゝまで送つて來た此男が、明日は新潟にたつかするので、遊女たちが手紙を書いて、これに言傳てなどしてゐるところだ。
しらなみのよする汀に身をはふらかし、あまの子の世をあさましう下りて、さだめなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云を聞々寢入て、──
いかにも小説的な場面を、海岸の宿屋で、海邊の述懷らしいことばで佗び合はしめてゐる。處で翌朝になつて、芭蕉の前で言ふことには、女の旅で頼りないから、見え隱れに後について行きたい、あなたは出家の御方の樣に見えるから佛の惠みに與らしてくれ、と言つたが、自分等は旅の所々で、逗留するところが澤山あるから、お前さん達も、同じ方角に行く者について、自由に行つたらよからう、神の護りできつと無事に著くに違ひない、とそれだけ語を殘して出たが、「哀さしばらくやまざりけらし」と書いてゐる。で、
一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば、書とゞめ侍る。
と、名高い句をいかにもほんたうらしく書いてゐる。ところが、曾良の隨行日記にはそのやうな事は一行も書いてゐない。これは、曾良の書き落したものとするよりも、道の記らしいあはれを持たせるために、虚構の上に虚構を重ねたと考へていゝのだ。後の人は、芭蕉の一代中でも、あはれ深い旅路の末、最わびしい經歴を讀んで、身に沁みて感じる。蝶夢の「繪詞傳」などにも、この市振の一夜を繪に畫いて、芭蕉の前で遊女達が泣いてゐるところなど畫いたりしてゐる。
つまり、芭蕉の市振に於ける實際生活は、曾良の日記に書いたところに留つてゐるのだが、芭蕉の空想は其から出發して、虚構と言ふべき文學を作つた訣だ。正直な我々は、虚實竝行の兩日記を見ると、芭蕉の嘘つきなのに開いた口が塞がらぬ氣がするが、もつと重大な虚構が、芭蕉の傳記の一部に割り込んでゐるかも知れない。すると、其は文學と違ふのだから、芭蕉の虚構は、一種別なもらるの問題に觸れて來る。しかし、我々には其場合にも、芭蕉の文學が實生活にまで延長せられた名殘りを見ればよい。そこに、文學研究者に對して問題が、與へられてゐることになるのだ。
この句を見ても、芭蕉がいかに物寂しい日記に、色氣を添へようとしてゐるか訣る。芭蕉が此句を作つた文因ともいふべきものは、月は尾花とねたと言ふ、尾花は月と寢ぬといふ、小唄の古い型が、頭に働きかけてゐるので、萩と月の光りとを交錯させる表現に、遊女の情趣を含めたものが示されてゐるのだ。だからきつと、此句を作る過程には、一つ家に遊女とねたり、といふ形もとつてゐたらう。たゞさうすると、同じ一つ家に遊女と自分が、別々に宿つた一夜、といふ風には受け取らぬ人も出て來るので、此形に直したのだと取つてもいゝ。さういふところまで、芭蕉は事實を文學のために犧牲にしてゐる。だから、其處に到達するまでの道筋として、會はなかつた旅の女を出しさうな點も、不思議ではない。これで芭蕉の偶像を破壞してしまふ人もあるだらうが、そんな人は、氣の毒な鑑賞者と言はねばならぬ。だが、其事實と虚構との關係の意義を思ふと、さう言ふ失望を感じると言ふことに、我々の文學的經驗の、練熟せられてないといふ感じもする。謂はゞ、剽輕な日記が飛び出して來たために、芭蕉の文學の其部分が破れて、虚構があらたな勢を以て、次の調和を求めて、心にひろがつて來るわけだ。
今日短歌の上で、文學としては虚構が許さるべきものだ、虚構を用ゐる意義のあるといふことは、誰でも認めてゐる筈で、たゞ其議論の立て方、論理の運び方が、問題にせられてゐるのだと言つてよい。だから、我々が其問題の中に入りこんで行つても、別に變つた、新しい事の言へる訣がない。たゞ近年、芭蕉から受けた衝動が非常であつて、繪空事・歌虚言に馴れた我々も、反省してみなくてはならなかつた經驗を新しくした。此經驗を思ひ返しながら、ある方角を別に考へて行くことだ。
我々の生活は、其生活を完成したものと信じて、其を文學の素材として用ゐるのである。一つの完全なものと想像してかゝつてゐる訣だ。ところが、表現の段になると、素材そのものが、不完全なものだといふ感じを度々うける。つまり、我々は度々同種類、或は近似した、または飛び離れてはゐるが、經驗から推測出來る、いろ〳〵の生活の形を考へることが出來る。だから、我々が表現すべき素材として持つものが、安全なものと信じて表現する段になれば、それでいゝので、亦其を完全に表現するために努力するのが、眞の意味の表現技術だ。だが、我々の持つてゐる素材が、經驗と照し合せて見ると、不完全な部面を表すことが多い。だから、かうすれば素材として完全なものとなり、優れた文學を構成するだらうといふ考へは、屡起つて來る。意志の弱い作者は、素材を完全に表現する意力を缺いて、單なる虚構に陷ることが屡ある。それは文學の上の虚構として價値がなく、問題にならぬ。
文學の上の虚構に、かなり練達した作家として、島木赤彦をあげることが出來る。多くの場合、素材を忠實に表現するための技巧に苦しんでゐたが、單にそれのみでなく、事實はかうだが、かう素材の上に變更を加へた方が文學として優れてゐると考へて、素材を改めることが、あり過ぎる程あつた。我々の實際生活を、表現が完全にするのであるが、文學の上の生活としては、條件が事實、不備なことが多い。だから、さういふ意味に於て、完全な素材に變更して表現するといふ處に、文學の上の虚構の、眞の意味がある。實際の生活より、もつと完全な生活を求めるための虚構だと言ふことが出來る。たゞ、芭蕉にも見られることは、どうすれば文學的になるか、どうすれば藝術感豐かな文學になるかといふ立ち場から、素材を變更することは勿論ある。さうでなくて、素材が完全なものに變更せられて居つた場合でも、不幸な芭蕉の如く、剽輕な曾良の日記に裏切られて、完全に到達した素材が、一擧にして、極脆弱な、文學的なものを狙つたゞけの變更と思はれるものに、一時でもなることがあるのだ。虚構が問題になるといふ事は、いかにも作り物らしい生活が詠まれる爲に、起つて來ることであつて、完全な段階に達すれば、虚構が虚構だといふ曇りを拂拭して、そんな問題を起さぬところにしづまる訣だ。
赤彦の作物の中にも幾多の虚構を露呈したものもあるが、其を感じさせないところに達したものを、我々は引例することがいくらでも出來る。だから、作家が心構へとして、ふいくしよんを論ずるのは勿論さし支へのない事だが、必虚構あらざるべからず、といふ風に開き直つて言ふやうなことを言ふのは、意味がない。結局、虚構といふ事は、表現技術の一方法にすぎないのであるから。
底本:「折口信夫全集 廿七卷」
1968(昭和43)年1月25日発行
初出:「短歌研究 第五卷第四號」
1948(昭和23)年4月
※底本の題名の下に書かれている「昭和二十三年四月「短歌研究」第五卷第四號」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。