地球盗難
海野十三
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「ほんとうかなア、──」
と、河村武夫はつい口に出してしまった。
「えッ、ほんとうて、何のことなの」
武夫と一緒に歩いていたお美代は、怪訝な顔をして武夫の方にすり寄った。
「イヤ何でもないことだよ。……只ネス湖の怪物がネ」
「ネス湖の怪物? 怪物て、どんなもの。お化けのことじゃない」
武夫はもう中学の三年、お美代の方は高等小学を終ったばかり、子供にしてはもうかなり大きい方だったが、武夫が暑中休暇で、この矢追村へ帰ってくると、幼馴染の二人は、昔にかえって、これから山の昇り口にある林の中へ分け入って甲虫を捕ろうという相談をし、いまブラブラ野道を歩いているところだった。そこへこの妙な話題が、とびこんできたのだった。
「そうさ。怪物といえばその字のとおり、怪しい物ということさ」
「その怪物がどうしたの」
お美代はますますすり寄ってきた。
「そんなに押してくると歩きづらいよ」と武夫は口だけで停めながら「お美代ちゃんはネス湖の怪物のことを聞いたことはないのかい。ほんとは僕も今日聞いたばかりなんだがネ、ネス湖の怪物というのは……」
それから武夫は手短かにネス湖の怪物の話をした。なんでもそいつは蘇格蘭の湖に頸から上だけを現したのを見た人があるということだが、非常に大きな竜のような動物で、頸から上が、九階の丸ビルよりもすこし高いくらいあったそうで、残念ながら頸から下は水面に隠れて見えなかったが、もし全身を現したら、東京駅よりもっと大きい途方もない巨獣だろうということである。それは多分、前世紀の動物なのであろうが、人々が騒ぐうちにザブリと湖の中に潜ってしまって、姿は見えなくなったそうである。この話が拡ると湖畔には大勢の見物人が寄ってきて、再び巨獣の現れるのを待ったそうだが、どうしたものかその後一向に姿をあらわさないという。そこで、一体ネス湖には、本当にそんな巨獣が棲んでいるのか、それとも見た人の眼の誤りであるかどうか、それからこっちへ一年ほども遂に誰も見た者が出てこないが、それがいまも尚科学界の大問題となっているそうである──というようなことを陳べて、
「……これはきょう理学士の大隅青二先生から聞いた話なんだよ」
大隅理学士というのは東京の工業学校の理科の先生で、よく通俗記事などを新聞や雑誌に書いている一風変った学者であるが、丁度いま暑中休暇を利用して、この矢追村に避暑に来ているのだった。
「ああ、大隅先生のお話なの。あの先生のお話では、当てにならないわ。よく突飛なことをいって、ひとを脅かすんですもの」
「そうでもないよ。先生は僕たちが知らないような珍らしいことを沢山知っているんだ。知らない者には、それが嘘のように思われるんだが、この世に不思議なことは沢山あるんだよ。とにかくネス湖の怪物の話は本当だよ。なぜって大隅先生はその記事や絵が載っている外国雑誌を僕に見せて下すったもの」
「そう? 本当に出ていたの」
「僕も見たんだから嘘じゃない。しかし先生は云われるんだ。ネス湖の水面から変な格好をした怪物が鎌首をもちあげたのは本当だろうけれど、恐竜などという前世紀の巨獣が今日生き残っているか、どうか、その辺はどうも問題だと仰有っていた」
「ああ、──それでも怪物がネス湖の水面から顔を出したことだけは本当なのネ。本当なら、まあ気味が悪い。いまの世の中に東京駅よりも大きい巨獣が棲んでいるなんて、それだけでもう沢山よ。あたしなんだか急に恐くなってきたわ」
「しかし怪物はそれほど大きかったかどうかもハッキリしているわけではないそうだよ。人間の眼は、近くのものを、遠くにあるように勘ちがいをすることがあって、そんなときには遠くの方にたいへん大きなものがいるような気がするものだそうだ。霧の深い朝、アルプスの山にのぼると、谷の向うに雲を衝くような巨人が出るという話がある。それをよくよく調べてみると、自分の影が霧にうつっているのを巨人と勘ちがいをするのだってネ。つまり太陽は自分の後方にあるから、自分の影がどうしても前方に出来る。霧がなければ、影は見えないが、すぐ前に濃い霧があると、これが映写幕の働きのようなことをして、その上に影がうつるんだ。自分が動けば、もちろんその影も動く。その霧が目の前にあることが分っている人には、恐ろしくもなんともないが、それを知らない人はその巨人の姿がはるか向うの空間にあると思うと、莫迦に大きく見誤るのだ。それと同じことを、いま目の前に手をかざしてみても実験できるよ」
といって武夫は、右手を目の前にさしあげながら、お美代の方をみた。
「この手をこう動かしてくると、向うに見える辻川博士の洋館がすっかり隠れてしまうだろう。つまり手は近くにあるから、眼の立体角が大きくて遠くにある洋館を隠してしまうのだ。しかし遠近がハッキリしない場合、この手とあの洋館とが同じ場所に並んでいたと考える人があったらどうだろう。あの洋館のところに、洋館よりも大きい手が生えていて、それがモクモクと動いて洋館を掌のうちに隠してしまった──などと思うかも知れない。すると、この小さい手がたいへん大きく見えたことになるネ。近ければ近いほど、大きくみえる。だからネス湖の怪物というのも、その正体は案外近くの水面に浮いていた流木か、それとも何でもない蛇の頭だったかもしれないという話もあるそうだよ。すこしは安心したろう」
「でも、あたし、やはり恐いわ。自分の眼で、それが流木だったか蛇の頭だったか見きわめないうちは、安心できないわ」
「じゃ、安心するために、お美代ちゃんはこれから蘇格蘭のネス湖まで出かけてみるかい。はッはッはッ」
「ホホホホ。……」
二人は声を合わせて笑った。
南には真青な海が満々たる海水を湛えており、北には杉や檜や松が青々と茂っている連山を背負い、その間のなだらかな斜面の上に建っている五、六十軒の家──それがこの矢追村だった。初夏の空はすっきり澄みわたって、二人の顔といわず背中といわず、強い太陽の光がジリジリと照りつけていた。しかしなんという平和、なんというすがすがしさ、武夫とお美代とは、ネス湖の怪物の話から始まった不気味さを、この和やかな村の風景でやっと取りかえすことができたように思った。甲虫のいる櫟林はもうそこに見えている。二人は、いつしか手を取りあって、幼いときによく歌った歌を思いだして、声をそろえて歌ってゆく。しかしこのとき武夫もお美代も、行手にあたって胆を潰すような怪異が彼等を待っていようなどとは、夢にも知らなかったのである。
櫟林は巨人群像のように、逞しい枝を張り、生々した梢を大空の方にグッと伸ばしていた。膝を没するような雑草を、バサバサと踏みわけながら、武夫とお美代とは、奥深く入っていった。
「お美代ちゃん。この缶を持ってて」
武夫は甲虫を入れるためにもって来た缶をお美代の手に渡した。それはビスケットの入っていたブリキ缶だったが、甲虫が息の出来るように沢山の穴が明けてあった。
「ああ、あすこに見える。……」
「もっと奥の方に、大きいサイカチの木があってよ」
この櫟林の奥の方にゆくと、甲虫の棲んでいるサイカチの木が六、七本あることを二人は知っていた。甲虫は、その樹の割れ目から流れだすジャムのように甘い赤味のある汁を吸って生きているのだった。
「ああ、そこにある木が一番大きい。あの木には、甲虫がウンといるぜ」
武夫はチラリとお美代の方に目配せすると、サイカチの巨木にヒラリと飛びついた。そしてスルスルと幹を攀じのぼっていった。やがて武夫の姿は繁った葉がくれに見えなくなった。
「どうも変だなア。──」
と、声だけが上から落ちてきた。
「変だって? どうしたのオ。──」
とお美代は上をみあげて、声をはりあげた。頸の骨が痛いほど、仰向いて……。
「いま下りてゆくよオ──」
と上からまた声がした。
ガサゴソと葉ずれの声がして、武夫の姿が梢の隙間から、すこし現れてきた。
「なにが変なの。早くいってよ、あたし恐くなっちゃったわ」
そうお美代が云うと、武夫は幹に抱きついたまま、顔を下へ向けながら、
「恐いことじゃないよ。……あのネ、このサイカチの木が変なのさ。甘汁の出る割れ目が方々にあるんだけれど、汁はみな綺麗に嘗めてあるんだよ。そして甲虫が一匹もいないんだ。どうだい、変だろう。甘汁をこんなに綺麗に嘗めたやつは何だろう」
お美代はソッとあたりの草叢を見まわした。もしや蛇かなんかが、その辺にいるのではないかしらと思って……。しかしそんなものもいない様子だった。
「そんな変な木はよして、あっちの方のサイカチを探してみない」
「うん、そうしよう。……」
と、武夫はすぐに返事をしたが、どうしたものか、なかなか木から降りて来ようとはしなかった。
「武夫さアん、はやく下りていらっしゃいよオ」
お美代はじれったくなって、もう一度、下から催促をした。
「シーッ……」
木の上から、武夫が静かにするようにと合図をした。
「なにか居るの」
「居るよ。なんだか居るんだ。三つ股のうしろに止っている。亀みたいなものがいる。亀がサイカチの木にのぼっているんだよ」
亀? 亀がサイカチの木にのぼっているとは珍らしい話だった。亀が木のぼりをするということがあるかしら。
「亀じゃないでしょう。亀が木にのぼれて?……どの辺なの。あたしも下から見てみるわ」
「……黒くて、楕円形で、弁当箱の二倍くらいもあるんだ。亀によく似ているが、脚が変だな。いま竹でつっついて、下に落とすから、どこへ落ちたか、よく注意しているんだよ」
武夫はもう獲物のことで夢中だった。
手に持っていた竹の棒をとりなおすと、腕をのばして、三つ股の裏をコンコンと突いた。亀のようなもののお尻がすこし動いたが、幹にぴったりと獅噛みついているのか、離れない。あまり向うが泰然としているので、武夫は癪にさわってきた。
「よオし。どんなことがあっても、捕えちまうぞ」
そう叫んだ彼は、冒険だったが横に出ている大枝の上を静かに匍っていった。枝はすこし撓ったけれど、三つ股のあるところへは、ずっと届きやすくなった。そればかりか、いままで幹の蔭でよく見えなかったのが、角度が変ったので、身体がだいぶんよく見えるようになった。武夫は悦んで暗い葉蔭をとおして、その亀のような動物に目を注いだが、そのとき彼は驚きのあまり、もう少しで枝から足を滑らせるところであった。
「呀ッ。……」
そう叫んだなり、武夫は激しい動悸を一生懸命に鎮まらせようとしたが、なかなか思うように行かなかった。見れば見るほど、奇異なる存在だった。それは実に身体が大きな亀ぐらいもある恐ろしく巨大な甲虫だった。甲虫といえばいくら大きくても、せいぜい銭亀ぐらいのものだった。ところがこいつは、大きさがその約十倍もあって、石亀にしても相当大きい方に比べなければならないほどだった。正に化物の部類に入れなければならぬ怪物甲虫だった。その怪物は、あまり竹の尖で突かれたもので、怒っているらしく、腹のところをブルブルと震わせていた。武夫の耳にはジージーという怪物の怪しい呻り声が聞えてきた。
「武夫さん、武夫さん。あんた、どうしたの。何か云ってよオ、あたし恐いわ。……」
武夫が化石のようになってしまったものだから、下ではお美代が泣きださんばかりの声で喚いた。
「うん、お美代ちゃん。居たよ居たよ。ネス湖の怪物がいたよ」
「えッ、ネス湖の……」
「イヤ本当は甲虫のデッカイのだよ。亀かと思ったら、今までに見たこともないような大きな甲虫だ。いま叩き落とすから、目を離さないようにネ」
「アラ甲虫なの」
「さあ、叩き落とすよ」
武夫はなおも身体をのばし、腕にウンと力を入れておいて、竹も折れよとばかり巨大な甲虫をピシリとぶん殴った。続いて、第二撃、第三撃。
キッキッキイ……。
甲虫は異様な悲鳴をあげ、フラリと落ちかかる身体を支えようとして、黒光りのする太い節足をふり、刃物のように鋭い爪を樹皮に突きたてて、なおも懸命に幹に獅噛みつこうと藻掻いた。武夫の方も死にもの狂いで、満身の力を竹の棒の先に籠めて、ピシリピシリと殴りつけた。
ギギイッ。……
という怪声をたてると、かの怪虫は遂に樹からブランと宙吊りとなり、そして次の一撃で幹を離れると、黒い巨体がパッと下の草叢の中に落ちていった。
「ほら、落ちた……」
武夫が呶鳴ると、下から絹を裂くようなお美代の声が聞えてきた。
「下りて来て、早く早く」
武夫は滑り落ちるように、サイカチの木から下りてきた。下ではお美代が真青になって、ブルブル慄えながら、向うを指している。
「葛の葉の向うよ。ほらほら、葉がガサガサ動いているわ。……」
「うん、分った。ここに待っといで……」
武夫は勇敢にも、巨大甲虫が落ちたと思われる草叢のなかへ、猛然と躍りこんだ。お美代が止める遑もなかった。
「呀ッ。居たなッ。……」
武夫の叫ぶ声がした。ピシリピシリと竹の棒がなおも彼方に鳴りつづけた。武夫は果して甲虫を捕えることができるであろうか。
そのときのことであった。
「うわ─ッ」
という悲鳴が、争闘の草叢の中から響いてきた。それは武夫の口から出た叫び声にちがいなかった。
「…………?」
お美代はハッと胸を衝かれたように思った。草叢を覗きこんでみると、そこには大きな葛の葉が白い葉裏を見せて無惨に飛びちっていた。しかし武夫の姿は見えなかった。草叢はシーンと鎮まりかえっていた。
「武夫さん。武夫さん。……」
お美代は叫んだが、その返事はなかった。草叢の中に入ってゆくべきだったろうけれど、お美代にとってはあまりに恐ろしい境域だった。
「誰か来てエ。助けて下さ─い。……」
お美代は必死に呼ばわった。そのときブーンという気味のわるい羽音がして、大きな真黒なものが草叢の中から飛び出してきた。それは例の巨大甲虫に違いなかった。その怪虫は、櫟の木の間を縫って低く飛びながら、だんだんとお美代の方に近づいてくるのだった。
「あッ、──」
彼女にとっては手にもっていたビスケットの缶が唯一の武器だったから、これをうちふりうちふり一生懸命に防戦した。巨大甲虫はお美代の死にもの狂いの勢いに辟易したものか、そのまわりを遠く離れてグルグルと二三度飛び廻っていたが、やがて次第に遠のいて、どこともなく飛び去ってしまった。
「どうしよう……」
お美代は、ポロポロ流れ出てくる涙を払いながら、争闘の跡ののこる草叢の方を見つめた。恐ろしい境域にはちがいなかったが、誰も救いの声を聞いて駆けつけてくれる者もない有様だから、このまま自分一人が逃げてかえることはできなかった。もしそんなことをすれば、あの仲善しの武夫は、生命を落としてしまうかもしれないのだ。
(あそこの草叢のところへ行ってみよう)
お美代は決心をして、とうとう草叢の中へ分け入った。ワンピースの簡単服は、茨にひっかかって、たちまちベリベリと裂けてしまった。しかし今はそんなことを顧みている余裕はなかった。
雑草をかきわけかきわけ、お美代は目星をつけて置いた葛の葉の茂っている草叢のところへ近づいていった。
「オヤ、この辺のはずなんだけれど……」
そこに武夫が長くなって倒れている筈だと思ったのに、その当ては外れて、そこには何者の姿もなかった。
「間違ったのかしら……」
あたりを見廻してみたが、この辺であることに違いなかった。武夫が棒切れで叩き破ったらしい葛の葉が点々として、白い葉裏を見せてそこらに散っているのだった。
「ああ、やっぱりここだ。武夫さんのもっていた竹がある!」
お美代は雑草の中に落ちていた竹を見つけて、拾いあげた。たしかに武夫の持っていたものに違いなかった。その尖の方は、あまり強く叩いたので、ささらのように裂けていた。それからよく見ると、その竹切れの上には、なにか赤いものがついていた。指先でさわってみると、それは血であった。それは甲虫が出したものか、それとも武夫の身体から出たものであるか分らなかったけれど、甲虫が赤い血をもっているとは思われないので、多分武夫の身体から出たものだろうと思われた。武夫は怪我をしたらしい。そこらに彼は倒れているらしいと思われるのに、どうしたものか姿が見えない。
「ああッ。──」
お美代は急に恐ろしくなった。なにかこの辺には、自分たちの知らないような恐ろしい物があるのではないかしら、さもなければ、あのような巨大な甲虫が木の上にのぼっていたり、今までそこにいた筈の武夫の姿が見えなくなったりすることはない筈だった。そう思うと、お美代の恐怖は二倍にも三倍にも強くなった。いまにそこらの草叢の中から、大きな木ほどもある魔物の手がニュウと伸び上ってきて、自分の身体をギュッと掴むのではないか。
「あれッ。……」
とお美代は一声悲鳴をあげるなり、もう夢中になって踵をかえすと、草叢の中から飛び出した。そして後も見ず、元来た道をドンドン逃げ出していった。一体、武夫はどうしたのだろう。彼の身体はどこに隠れてしまったのだろう。
お美代の姿が木立の向うに見えなくなって、林の中はシーンと元の静けさにかえったかのように見えた。
だが、もし誰かこの林の中を、なおも見ている人があったとしたら、その人はきっと、呀ッと声をあげて、びっくりしたかも知れない。というのは……。
それというのは、例の草叢から百メートルばかり奥へ入ったところに、ここにも葛の葉が一とかたまりになって茂っているところがあったが、その蔭から、異様な人物が、ヌーと姿を現したのであった。その人は──多分人だろうと思うが、顔中白毛の交った無精髭をモジャモジャと生やし、大きい二つの眼はらんらんとして怪しい光を放ち、痩せぎすな身体には、古めかしい汚れた洋服をつけ、そして何が入っているのか分らないが、肩から斜めに黒い皮紐のついた、四角な鞄をかけていた。武夫の争闘した草叢の方を見て、ニヤリと薄気味のわるい笑いを浮べると、そのまま雑草を踏みわけて、奥の方へドンドン入っていった。
その怪しい老人のような人物は、一体何者なのであろうか。そして彼は武夫の危難を知り、お美代の助けを求める声を聞いていた筈であるのに、なぜ救いに出て来ようとはしなかったのであるか?
森の中の変事は、この矢追村に休暇を送っていた大隅理学士の耳にも伝わった。
彼はその夏のうちに読破しようと思って持って来たギブソンの「有史前に於ける生物発生論」という大冊の原書をひきよせて最初からおよそ三分の一の所を拡げて、読み耽っていたところであった。その記事によると、馬の祖先には、人間と同じように足にも五本の指がついていた。それが今日の馬のように、なぜ真中の一本だけがひとり大きくなり両側の二本は小さく萎びてしまったか。それには或る微妙なキッカケが存在したのだった。その当時走ることの得意な一頭の馬があった。その馬はあまりに快走することに夢中だったため、或る時足首を石の割れ目に深く突きこみ、そのため両端の足指の骨が折れ曲ってしまった。もちろんその馬はもう歩くことも出来ず、そこに倒れたまま幾日も幾日も呻っていたが、やがてのことに傷が癒って再び起き上れるようになった。しかし足指の両端の骨は醜く内側に曲ったままで、遂に元のような形には直らなかった。始めは足をひきひき歩いてた。ところが或る日、猛獣に襲撃されてやむを得ず全力をあげて逃げた。そのとき彼の馬は、その醜く曲った足指が今までにない快速力で走るのに都合がよいことを発見したのだった。この快走王の出現は、他の馬たちの注意を惹かずにはいなかった。馬たちは自分の身の安全のために、出来るだけ早く走ることを必要としたので、この快走王を羨むあまり、その特殊な走り方を注意して眺めるようになった。そしていつしか大勢の馬は、快走王と同じように、爪先でピョンピョン走る癖がついてしまった。こんなキッカケで、馬は爪先で走ることを覚えたため、五本の足指のうち、真中の一本だけが成長し、両端の四本の指は、だんだんと萎びて小さくなっていった。早く走れる馬だけは猛獣の牙からのがれて生き残ることができたが、それを覚えようとしなかった馬どもは皆強い動物に喰われてしまって、五本指の馬の種属は絶え果てた。しかしどうかすると、太古のような五本指を持った馬が、ヒョックリ生れることがあるという。それは一見偶然の出来ごとのようであるが、実はそうでなくて、そのような馬が母胎の中に発生するとき極めて特殊な生理的条件が存在したのである。これについては後章において詳しく述べる云々──というところまで読んできたところで、大隅理学士は窓下で声高にお美代と武夫をめぐる怪事件発生を話合う村人のために、それから先を読むことを妨げられたのであった。
「武坊の家を訪ねたが、お母アは腰を抜かして居ったぞ。武坊は出かけたままで、どこにも居らんそうじゃ」
「なに分にも、肝腎のお美代坊が譫言ばかりいうていて、なかなか正気づかんのじゃから、どこでどんな目に遭ったのか皆目分らせんのじゃ」
「やはり様子が知れぬかのう」
「甲虫甲虫と譫言をいうとるがのう。お美代坊は山の方から駈け下りて来たそうじゃで、ことによると、あの魔の森へ近よったための間違いかも知れんと思うが、どんなものじゃろか」
「魔の森かい。魔の森のことなら、武坊は知らんかもしれんが、お美代の方は恐ろしいことをよく知っている筈じゃ。なぜそんなところへ武坊を連れこんだのかのう」
「さあ、それが魔がさしたというものかもしれんでなア」
「これは困ったことになった。武坊が魔の森に迷いこんでいるのだとすれば、これはちょっと救うのがむずかしいわい」
「そうじゃ。誰も生命が惜しいから、魔の森へ入ろうという者はあらせんわ。そういえばお主は昨日の真夜中、甚平が魔の森の方角で見たという怪しい一件の話を知っとるか」
「うん、あの一件か。あれなら知っとるどころか、この儂も見た一人なのじゃ」
「おお和作、お主も見た仲間なのか。どんな風なものじゃったか、話して聞かせい」
「うんにゃ、それは出来ねえだ。あとの祟りが恐ろしいわい。魔の森は、遂に魔の森じゃ。そのとき仲間同志で喋らないことに約束したのじゃ。聞かんで呉れ。その方がお主のためでもあり、また皆のためじゃ」
大隅理学士は、とうとう分厚い原書をパタリと閉めてしまった。どうやらこれはかなり重大な事件が発生したものと思われる。ことに武夫少年とは、こっちへ来てから毎日のように遊んで、よく知っていた。どうやらその武夫が魔の森に踏み迷って行方が知れない様子だ。その上、魔の森のこととて、村人が探しにゆくのを躊躇している風である。このままでは、武夫は危難のままに捨てて置かれることになるらしい。
「これは可哀想だ!」
大隅は立ち上ると、帯を解いて、洋服に着かえた。そして靴を履いて一旦門口へ出たが、なにを思ったかまた部屋に引返してきて、押入の中をゴソゴソやっていたが、やがて妙な金具のついた太くて真黒な洋杖をひっぱりだすと、それを携えて外に飛びだした。
お美代の家の前には、ほとんど全部の村人が集っていた。いずれも心配そうな顔をして、思案にあぐんでいる風だった。
大隅理学士はその連中の中から、顔見知りの役場の書記で古花甚平という男を探しあてて、話しかけた。
「その後、お美代さんの容態はどうですか」
書記は大きな手でツルリと自分の顔を撫でまわしたのち、
「ああ、お美代坊は、いま睡り薬が利いて、ぐうぐう眠っとりますだ。この調子だと、目が覚めるのは、多分明日のお昼ごろになるだろうという話です」
「明日のお昼ごろ?」それでは、明日のお昼ごろまでは、武夫の消息もハッキリ聞くことができないのだ。大隅は失望して、踵をかえそうとすると、書記が声をかけた。
「大隅さん。お美代坊は、『大亀のような甲虫がとびついてくる』などと譫言をいうとるが、気が狂ったせいだと思いますがな」
「大亀のような甲虫──ですって」大隅は目を大きく開きながら、「それは面白い謎ですね。お美代さんが気が変になっているにしろ、いないにしろ私はその譫言を実に興味深く聞きます。こいつを真面目に取ると、それはいま学界で問題になっているネス湖の怪物などに関係がついてくるのです。どうです、この村には、今までにそのように大きい甲虫を見かけた話があるのですか」
「いや、どうしてそんな莫迦気た話などがあるものかね」
と一言のもとに否定した。
「書記さん。私はあの櫟林の中を探して、武夫君の行方をつきとめたいんですが、貴方も一緒に行って呉れませんか」
「ナニあの魔の森へ……。いや、あの森ばかりは勘弁して下せえ」
「おや、貴方もやっぱり恐怖組ですね。では仕方がありません。私一人で出かけましょう」
「まあ、待った待った。あの森へ行くのは見合わせなされ。この村で、あの森に入る奴があったら、それはそいつが悪いのじゃということになっている。……」
「では、武夫君を見殺しにするのですか」
「見殺しなんて、そういうわけじゃないけれど、とにかく祟りが恐ろしい。やめて下され、やめて下され」
「一体、なぜあの櫟林が魔の森なんです。そのわけを聞かせて下さい」
「わしは知らん。とにかくいかんのじゃ。お前さんがあの森に出かけて、万一のことがあると、村の迷惑じゃ。お美代や武夫がこんなことをしでかしたのも、もともとその親どもの注意が足りないからじゃ。だから現にこんなに迷惑をしとる」
書記の機嫌はだんだんと悪くなってきた。大隅理学士はそれ以上云うこともどうかと思ったのでそのままその場を立ち去った。
彼は廻り路をして、問題の櫟林の見える街道へ出た。その森は気にして見るせいか、千古の秘密を蔵しているように欝蒼と茂っていた。しかしたとえどんな魔物が棲んでいようと、武夫をそのまま見殺しにするのは人道上許しがたいことだった。これはどうしても森の中へ入って、探検しなければならぬと決心した大隅は、太い洋杖を握りしめて、森の方へドンドンと歩いていった。
だが生憎と、太陽はもう西の地平線に落ちかかっていた。森に近づくに従って、夕暗は次第に濃くなった。そしてなんとなくゾクゾクするような冷気が、森の方から流れてくるような気がした。しかしここまで来た上は、なにかを掴まないと引返すことは出来ない。鬼気迫ると共に、大隅理学士の全身には、だんだんと勇気が燃え上って来た。
小径さえ見当らぬ森に、一歩一歩踏みこんでゆくと、いくばくもなくして暗さのため爪先が見えなくなった。大隅は手に持っていた洋杖をとりなおして、そこについていた釦を押すと、把手のところからサッと一道の光が流れだした。この洋杖こそ孫悟空の如意の棒ではないが、学士自慢の七つの仕掛のある護身杖であった。いま流れだした光芒は、その杖の先に仕掛けた懐中電灯の光であったことは云うまでもない。
木立は奥深かった。雑草は足の踏み入れ場もないほど茂っていた。突如、荒々しい羽ばたきが頭の上に起ったかと思うと、ケケケッという怪しい鳴き声を残して、名もしらぬ怪鳥が飛びさった。
前進すること四、五百メートル、恐らくもうそろそろ森の中心地点になるのであろうと思われる辺まで辿りついた。しかしあたりは依然として変らぬ木立と雑草との風景であって、探し求めている武夫少年の姿もなければ、格闘の跡も見当らなかった。大隅理学士はすこし当惑した。彼は歩行を止めると、そのままどっかりと草の上に腰を下ろした。そしていままでずっと点けていた懐中電灯を消した。俄かに闇がドッと学士の全身を包んだ。
ほの明るい残影が眼底から消えていって、彼はようやく闇に慣れた。そこで彼は、改めて暗黒そのもののような四囲を眺めまわした。暗澹たる闇の外に何にもない!
と、軽い失望と安心とが学士の胸に沈澱したと思った──その刹那の出来ごとだった。
何百メートル前方ともハッキリ分らないが、丁度彼の顔が向いていたその真正面のところで、なにものとも知れず、いきなり真青な火がパッと点いた。途端にシューッという激しい音響が、林の中の空気を震動させた。と同時に、真青な火は一時に大きく拡がって、どッと天に冲した。火柱だ、大火柱が立ったのであった。その怪光は、木立の幹まで真青に染めて、時間にして四、五秒間は焔々と燃えあがっていたであろうか。
「呀ッ!」
と、大隅理学士が驚いてその場に跳ねあがった瞬間、スーッと消えてしまった。
魔の森に燃えるは、そも何の光ぞ! 落雷か、爆発か、それとも悪魔の焚火であろうか?
怪しい音響を伴った真青な閃光は、その後再び起らなかった。こんな奥深い森の中に発する怪光の正体はなんであろう。
昨夜のこと、村人の誰かれが、この魔の森の方角に何ものかを認め、互いに口を噤みあっているほどの大恐怖を感じているが、それこそいま見たと同じ青い火柱ではなかったろうか。大隅理学士は遂にこの恐怖の森に踏み入った甲斐があったことを感じた。この上はこの森の中にある、大秘密を解いて武夫少年を救いだすことにある。そう思った彼は、猛然と奮い起ると、怪火の燃え上った方角さして前進を開始した。
彼は再び洋杖灯を点じ、四辺に鋭い注意を配りながら、一歩一歩踏みしめていった。しかし円錐型の光芒の中にうつるのは、依然たる木立と雑草ばかりであった。
彼は一歩踏みだすのに一時間もかかったような気がした。
およそ二十歩も前進したと覚しき頃であった。身近くに何か太刀風のようなものを感じたので、ハッと身を沈めようとしたが、もう間に合わなかった。ピシリッ! 強い打撃が、彼の手首の上に落ちた。
「うわッ──」
彼の護身杖はポロリと草叢の中に落ちた。これを落としてはと、疼痛を怺えながら拾おうとすると、不思議なことに、その光杖が生き物のように宙をひとりでスーッと走りだした。
「あッ──」と声を立てた途端に、杖の灯はパッと消えてしまって、再び真の闇となった。大隅理学士は恐怖の絶頂に取残された。何者だッ。
危険は迫る!
そのとき、低い人声がどこからともなく聞えたような気がした。
「先生、先生。大隅先生!」
と、そんな風にも聞えた。わが名を呼ぶは何者ぞ、気の迷いであろうかと、学士は耳を欹てた。
「先生、先生。大隅先生!」
同じ声がわが名を呼んだ。やはり自分を呼んでいるのだった。その声は、どこかで聞いたような声であった。
「何者だッ、卑怯な真似をしないで、早くここへ出て来いッ」
「ああ、先生。あまり大きな声を出さないで下さい」
こんどはハッキリした調子で闇の中の声はいった。
「おお、そういう君は……」
「分って下さいましたか。僕は武夫なんです。分るでしょうね。大隅先生」
武夫が喋っているのだった。武夫少年はまだ無事で生きていたのだ。それをつきとめることは今夜の最大の目的だったのだ。
──だが待てよ。
と、このとき大隅理学士は気がついた。
──この声の主が武夫少年だとしたら、なぜ目の前に素直に現れてこないのだろう。暗闇の中から不意にわが灯をうち落とすなんていう不遜な行動があるだろうか。これはうっかり気をゆるせないぞ! と思った。
「武夫君なら、いまそこに落とした私の懐中電灯を拾ってくれたまえ」
「いや、それはいけません。それはどうか待って下さい」
「変じゃないか。どうも君らしくないが……。一体君はどこで話をしているのだ。本当に生きているのかね。それとも……」
それとも幽霊かネ。と訊こうかと口の先まで出たが、云いだし兼ねた。
「僕は生きているようでもあり、死んでしまったようでもあるのです。……ああ、そんなことは今云っている場合じゃなかった。先生僕は重大なるお願いがあるのです。聞いて下さいますか」
「重大なる願いだって。……うん聞いてあげよう」
「では申しますが、それより前に、まずお断りをして置かなければならないことは、僕と先生とがここでお話をしたことは、誰にも秘密にして置いて頂きたいことです。たとえ僕の母親が聞いても、喋っていただいては困るのです。もしそんなことがあれば、たいへんな事が起るのです。実は先生とこうしてお話することもいけないのですが、先生が秘密を守って下さると思うので、それでお呼びしたというわけです」
「よく分ったよ、武夫君。私は約束する。必ず秘密を守るから、君の願いというのを云ってみたまえ」
その翌日の昼さがり、大隅理学士は矢追村の東にある雲雀が丘という小高い丘陵をトコトコと登りつつあった。昨日まで赭味がかって健康そうに見えていた彼の顔が、今日は別人のように蒼白く色を失っていた。
昨夜、魔の森の中で、姿の見えぬ武夫少年とどんな内容の話をしたのであろうか。それは読者諸君においても早く知りたいところであろうが、なにしろ武夫が泣かんばかりに秘密を守ることについて頼んだことでもあるから、ここに書き並べることは控えたいと思う。しかし結局、大隅先生の今後の行動を注目していれば、武夫が語った驚天動地の大秘密もだんだんに分ってくることであろう。尤も武夫も大隅理学士も、その大事件に捲きこまれたものの、まだ僅かにその一部分を知ったばかりである。彼等が本当に驚くことは、今後に残されているのだった。
大隅理学士が丘を登りきったとき、
「あら、大隅先生、お待ちしていましたわ」
といって、声をかけたものがあった。
「ああ、お美代ちゃんだネ。よく来てくれたねえ。おや、その赤ちゃんはどうしたの」
「ホホホ。これはうちの赤ン坊なのよ。あたしの妹ですわ。お守りをしているようなふりをしてソッとここまで抜けて来たのですわ。そうでもしなければ、昨日の今日でしょう。誰が外へ出してくれるもんですか」
「なるほどなるほど」
生れてからまだ十月ぐらいにしかならぬ女の幼児を抱いてそこに立っていたのは、紛れもなく昨日の怪事件の女主人公お美代に違いなかった。彼女はまだ興奮から醒めきらぬらしい、血の気のない顔をしていたが、薬の効き目もあってか、すっかり元気を恢復しているのであった。
「花束のなかに隠して渡して下すったお手紙は読みましたわ。──至急武夫君のことについて御相談したし──って、どんなことなのですの。武夫さんはまだ帰って来ないでしょうか」
「さあ、全く手懸りがないんだがねえ」と学士は苦しい心情を僅かに抑えていった。「しかし武夫君はどうしても救わなければならんと思うのだ。それについて、私はお美代ちゃんにいろいろ助けて貰わねばならぬと思うが、さしあたりこれから私の尋ねることについて、知っているだけ返事をしてみて下さい」
「あたしに出来ることなら、どんなことでもしますわ。あたし元気になったら、もう一度あの森へ行ってみようと考えているくらいなんですもの」
「あの魔の森へ? まあ、それは当分見合わせて置く方がいいと思う。ところでまず第一に訊きたいのは、今から丁度一年ほど前に、この沖に着いた白塗りの外国船があった筈ですが、そのときこの村の衆のうちで、雇われて沖の本船まで行った人は誰と誰とだろうね」
「まあ、そんなことをよくご存じなのですねえ」とお美代は目をパチクリしながら、「それは三人でしたわ。一人は喜太郎という人で、その人はこの春亡くなりました。もう一人は武夫さんのお父さんで、このお父さんは外国船が帰ると間もなく、どこへ行ったのか姿が見えなくなって、今日ではもう死んだのだろうといわれています。もう一人はいま村の助役をしている甚平さんという人ですわ」
「ああ、古花甚平さん。あの人かア。──それから、今度は、大宗寺の庭に墜ちた径が五十センチある隕石を後で掘りだしたそうだが、あれは今誰が持っているの」
「あれは、この向うの山腹に見える洋館に住んでいる辻川博士ですわ」
「そうか、辻川博士か。──それからもう一つ、この村では赤蜻蛉が出てくるのは何時ごろからかネ。そしてその赤蜻蛉が飛びながらいつも向いている方角はどっちの方だろうね」
「まあ、変なことばかりお聞きになるのネ。赤蜻蛉が出るのは去年からたいへん遅くなりました。いつもは七月頃に出てくるんですけれど、去年は十月になってやっと出て来たので、変だ変だと思っていましたわ。飛んでゆく方角はこっちの方ですから、真西よりこの位北によっていますわ」
といってお美代は二本の指先で、三十度ぐらいの角度をこしらえてみせた。
「フフーン。いや有難う。また聞くことがあろうけれども、今日知りたいと思ったことはそれだけだった」
「まあ気味がわるい。そんなことがどんなお役に立つんですの」
「いや今に分るから、それまでは黙っていて貰いたい。とにかくこの村には、今後も、もっといろいろの変事が起るかもしれない」
「あら、まア……」
二人は顔を見合わせて、歎息しあった。しかしこのとき若しも二人が背後をふりかえって、そこに突如として起った大異変に気がついたとしたら、どんなに胆をつぶしたことであろう。
お美代と大隅理学士とは、共に武夫少年の安否を気づかいながら、暫くは言葉もなく、その涼しい丘の上に塑像のようにじっと並んで坐っていた。
そのうちにお美代はハッと気がついた。
「アラ、代志子はどうしちゃったのでしょう。話に夢中になっている間に、どこへ行っちまったんでしょうね」
「おお、──」と大隅学士も、夢から覚めた人のように四囲を振りかえった。しかしお美代の抱いて来た赤ちゃんの姿は、どこにも見えなかった。
「まア、どっちへ匍っていったのかしら。……代志坊ーや。代志坊! どこへいったのよオ」
大隅学士も俄かに狼狽し、その辺の雑草の繁みをやたらに掻きまわしてみたが、尋ねる赤ちゃんの姿は遂に見出しかねた。お美代は重なる恐怖の出来事に堪えられなくなったものか、急に顔色が蒼くなったかと思うと、気を失ってどっとその場に倒れてしまった。一体お美代の妹はどこまで匍っていったのだろう。
若しもそこに誰かが通りかかって先刻から話し込んでいるお美代と大隅学士との背後に突如として起った異変の一伍一什を眺めていた人があったとしたら、彼は必ずや二人の話し半ばに、あまりの怪奇さに異変半ばにして目を廻してしまったことだろう。すなわち彼はまずお美代の妹が嬉々として丘の上まで匍ってゆくのを認めたろう。それはまことに無邪気な光景だった。赤ちゃんは遂に丘の上にのぼりつめた。烈々たる太陽は灼けつくように代志子坊やを照らしていた。彼女はこれからどっちの方へ匍ってゆこうかと考えているようであったが、それまではまあよかった。ところがそのとき突如として大異変が赤ちゃんの身体の上に降ってきたのだった。このとき赤ちゃんの着ている富士絹らしい白いベビー服が、ムクムクと膨れあがってきた。それはまるでベビー服の下で、ゴム風船を膨らしているような具合だった。ベビー服はピーンと突っ張って見る見るはち切れそうになった。と思った途端、ビリビリと微かな音をたてて破れてしまった。その下からは赤味のさした露わな肉塊が現れた。それは不気味にピクピクと蠢めいていたが、だんだん膨れ上ってきて、みるみる豚ぐらいの大きさになった。だがその怪物はたしかに代志子坊やに相違なかったのだった。あまりにムクムクと膨れてきたので、破れたベビー服は涎かけのように、申し訳にその首のあたりにぶら下っていた。こうして現れた摩訶不思議なる赤ン坊の大入道!
昔のお伽噺に、魔法の国から成長液の入った壜を盗んで来た一寸法師が一と口その液体を舐めると、彼の身体が俄かにムクムクと大きく成長して一人前の人間ぐらいの背丈になるという話があったが、それは人間の考えた作り話のこと──代志子坊やの場合は、白日下の地球上でまざまざと起った現実の大異変だった!
ここで代志子坊やが声でもたてれば、さぞやお美代と大隅学士とを驚かしたことであろうが、幸か不幸か、このとき坊やは異変の為か半ば昏睡状態にあって、丘をすこし向うへ越えたあたりに巨大な手足を抛りだしたままグッタリとなっていた。
そのとき雑草の繁みを分けて、ひょっくり顔を出した者があった。見れば、熊かと疑うばかりに顔中鬚茫々で、その両眼は炯々として野獣のように輝いているという怪人物、身には汚れきった洋服を着、妙な長細い黒革作りの鞄を肩から吊るしたところの姿にはどこやら見覚えがあった。それもその筈、この怪老人は、武夫少年が雑草の中に姿を消したとき、林間からひょっくり顔を出した彼の怪人物だった。その名は辻川聖弦という、この矢追村の高台にある変な形の洋館に住まっている自ら哲学博士と名乗る人物だった。
「うむ。こいつじゃ、……」
怪博士は、この場の光景を見て低い声で呟くと姿には似合わぬ元気な足取りでもってツカツカと、昼寝をしている牝豚のような代志子坊やの傍に近づいた。そして暫くその様子を窺っていたが、やがて大きく肯くと、大入道赤ン坊の身体をやっこらさと肩に担いで、丘をフラフラと向うの方へ下りていった。それは何といって形容したらよいか、実にグロテスクな光景だった。
怪博士と大入道赤ン坊の姿は、間もなく木立の蔭になって見えなくなってしまった。……
お美代と大隅理学士とが、坊やの失踪に気がついたのは、まだそれから程経っての事であった。
大隅理学士は、それから後三日間というものは、宿に閉じ籠って、一歩も外へ出なかった。打ち重なる変事が、彼を臆病にしたのであろうか。いやいやそうではなかった。
彼はその三日の間を、宿の一室で暮したものの、その間の活躍ぶりは、炎熱灼くがごとき外に出でて毎日二十キロの道を走るよりも数倍激烈なものであった。彼はその間に、熱心に横文字の書いてある原書を幾冊となく読み耽った。そして赤鉛筆でもってところどころに傍線を加えていった。しかし一冊を読み終るたびに、彼は長大息した。
「……駄目だ。この本も駄目だア」
彼は机の上から原書をつき落とすようにして、紙を展げると何事か一心不乱に書いた。訳の分らぬような図面も描いた。だがそれも最後へ来て、怒ったように、一枚のこらずビリビリと引裂いてしまった。それから彼は、机の上に両肘をつき、両手の指先でもって頭の毛を掻きむしり、悶えた。結局彼がその間に無駄には見えぬ仕事をしたとすれば、それは東京に在る中央気象台の中屋技師に宛てて長文の電報を発するよう、下宿のお内儀さんに依頼したことだけだった。
苦悩の三日間が過ぎて、次の朝階下へ顔を洗いに下りてきた彼の顔には、大分苦悩の跡が薄らいだように見えた。
「……オヤ先生、きょうは顔の色が大分良くならはったのう」と宿のお内儀がニコやかに声をかけた。
「餘り勉強に凝ると、身体に障っていけんぞナ」
学士は答を笑いに紛らせながら、冷い水で顔を洗った。井戸端から外を見ると、今日も連山には一点の雲も懸っていない好天気だった。油蝉がミンミンと、早くも街道の樹の幹に停って喧しく鳴き立てているのが聞えた。学士は濡れ手拭を頭に載せたまま、垣根のところまで歩いていった。そこからは、問題の怪人物辻川博士の洋館がよく見えた。その反り立った赤い屋根瓦は、朝日をうけて血を吸ったように毒々しい色に映えていた。
「お内儀さん。あの家に住んでいる辻川博士というのを見掛けたことがあるかネ」
「辻川博士のことかネ。……」
と問いかえして、彼女は悪魔を払いのけるように額の前で手を振った。
「なんであんな恐ろしい人を見かけるものかネ。ひょっくら見かけでもしたら、わたしゃその場にひっくりかえってしまうがナ」
彼女はそういった後で、なおも恐ろしさの餘りか、目を閉じてブツブツお呪いのようなことを口の中でいった。
「では、辻川博士はあまり町へは出て来ないんだネ」
「そんなに出て来られてたまるもんかネ」
「博士は一体誰に喰べさせて貰っているんだろう。奥さんや雇人があるのかネ」
「奥さんは昔あったが亡くなったという事じゃ」
「……いうことじゃとは、どういうわけかネ」
「それは話に聞いただけで、村の衆は誰も奥さんの死に顔を見た者がなかったけんな。しかしあの人には惜しいような器量よしじゃったがのう。今はたった一人の雇人がいるばかりじゃ。岩蔵といってナ、右脚がない男じゃ。いつも棒杭をその股に結びつけて、杖もつかずにヒョックリヒョックリと歩いているがのう。外にはいろいろな動物を飼っているということじゃが、よくは知らぬわい」
「ふうむ、そうか。随分気の毒な生活をしているらしいネ」と、辻川博士を見たことのない彼は同情をして「どうだろう、お内儀さん。訪ねてゆけば、会ってくれるだろうかネ」
「アレ訪ねてゆく? ああッ、めっそうもない。先生は行くつもりかも知らんが、そればかりは思い停ったがええ。第一、傍まで行った者の話にはあの邸の周囲には厳重な塀がめぐらされている上に、大小二つの門は、いつも閉まり、それに強い電気が通じてあって、もしそれに間違って触る者があれば、立ち処に生命を堕とすという話じゃ。おやめなはれ、おやめなはれ、そればかりは……」
宿のお内儀はそこで恐ろしそうにブルブルッと身慄いした。大隅学士は唇を堅く噛んで、無言で突立っていたが、彼は何か重大な決心を堅めているようであった。
そのとき、澄み渡った青空の中から、ブーンブーンという怪音が聞えて来た。折も折とて大隅学士はギョッとして身を引いたが、怪音は段々大きくなって、どうやらこっちへ近づいてくる様子だ。
「飛行機かな?」
と、彼が気がついたときには、宿の真上に恐ろしい身体の小さい飛行機が現れた。それは「空の虱」といわれる軽飛行機のようであった。一体何者が乗っているのであろうか。
そのプーはいよいよ低く下ってきて、屋根とすれすれに旋回を始めた。大隅学士はなんとなく危険を感じて、納屋の軒下に身を避けた。その途端に、飛行機の中から、真黒な長い塊が飛び出して、シューッと音をたてて、大隅学士が立っていたその真上あたりに烈しく墜落してきた。爆弾?
黒い爆弾様のものは、覘いが狂ったのかどうかは分らないが、とにかく垣根の側にある井戸の中へ飛びこんで、ボチャーンと大きな音を立てた。水中に潜りこんだせいか、遂に爆発もしないで終った。学士は無意識に、納屋の壁に立てかけてあった鍬の柄を逆手に握って身構えをした。
その途端に、空気を裂く烈しい羽音(と思った)と共に、空から軽飛行機が斜めになって舞い下ってきた。そして前の道路にドンとつきあたったかと思うと、ゴム毬のように一つポーンと跳ねかえり尚もそのまま滑走を続けると思われたが、尾部がスーッと浮きあがると見る間に、気持よく空中に弧を描いて蜻蛉がえりを打ち、仰向けにペシャンと引繰りかえってしまった。見ていた大隅学士も思わずハッと息を停めた。
──乗り手はどうした?
と、学士が疑問を起したとき、死んだように働きを停めたそのプーの機翼がユラユラと揺れ、その下からカーキ色の飛行服に身を固めた一人の人物が匍い出してきた。そして立ち上ったと見る間に砲弾のように下宿の囲いの中に闖入してきた。
その闖入者はあたりにいる人達に気がつかないのでもあるように、イキナリ井戸の処へ飛んで行って中を覗きこんだ。そして直ぐ顔をあげると、
「縄だッ。縄、縄ッ!」
と大隅学士の方を向いて叫んだ。学士が呆気にとられている間に、彼は軒下に吊してある綱束に気がついて飛びつくようにして手に取るとこれをバラバラに解いた。そしてその一方の端を持って大隅学士に近づくと、呀ッという間に学士の身体に綱をグルグルと捲きつけてしまった。それは素晴らしい早業だった。学士が何か叫ぼうとすると、
「さあこれでいい。一つシッカリその綱の端を持っているんだよ。……」
と早口に云って、彼は自ら綱の他端を持って素早く自分の胴中に結ぶと、井戸端に駈けつけた。それからポンポンと半靴を脱ぎ、井戸側に片足をかけた所で、首を廻して大隅学士の方をみた。
「ねえ……着陸の方は味噌をつけちまったが、爆弾投下術のこの見事なことはどうだネ、君。イヤあまり見事過ぎて、こんな軽業をやらにゃならぬとはちと弱ったが……いいかネ、君。いま人間が一人、溺れ死ぬかどうかという浮沈の境目だ。綱をしっかり持っているんだぜ」
そう云い捨てるなり、飛行服の男は無頓着に井戸の中へ下りていった。何者だろうと、学士が面喰っているうちに、飛行服の男は全身ズブ濡れになって、井戸側の上に匍い上って来た。その歯と歯の間には、草履袋をすこし大きくしたような真黒な袋を銜えていた。彼はヒラリと地上に飛び下りると二本の指でその黒い袋をぶら下げたまま、大隅学士の前に近づいた。
「大隅さんというのは貴方でしょう。さあここに貴方の注文した品物があります。あまり暑いのでちょっと行水したようだから、早いところ陽に乾したらいいでしょう。おわり」
そういって彼はおどけた手つきで、上官にするように挙手の敬礼をした。先刻から土間の入口に尻餅をついていた宿のお内儀は、この光景にやっと安心したものか、着物の泥を払って立ち上った。
大隅学士は狐に鼻をつままれたような感じで、渡されたびしょ濡れの袋を開いた。中からは丸く膨らんだ茶色の大きな封筒が現れた。もちろんすっかり水に濡れていたが、裏には「東京一ツ橋、中央気象台、中屋技師発」とあり、表をひっくりかえすと、「大隅青二殿」と大書し、その傍に「佐々砲弾君ニ托ス」と認めてあった。それこそ大隅学士が急遽電報でもって中央気象台へ注文したものだった。封筒を破いてみると、果して内部からはクルクル捲いた紙が出て来た。それにはガリ版でもって、何だか細かい数学が所も狭く書き並べられてあった。
「ああ、どうも済みませんでしたネ、佐々君」
と、彼は飛行家に呼びかけた。
「ササ君じゃない──サッサ君だ、サッサ砲弾というのが、僕の名前だ」
彼は井戸端で、すっかり裸になって、汲みあげた水でもって、気持よさそうに身体を拭いているところだった。見たところ二十四、五の溌剌たる青年だった。
「ああ、そうですか。──しかし困りましたね。貴方の飛行機は壊れちまったようで……」
「ああ、あれなら大したことアないよ。一日か二日あれば、すっかり直る」
言葉は乱暴だが、気持は至極からりとした若者だった。
「わざわざこんなもののために飛んで来ていただいて恐縮ですなア」
「いや、なんのなんの」といいながら、佐々砲弾は脱いだ服のポケットから小さい帳面と鉛筆とを出して、猿股一つのまま、学士の前へ進み出た。
「ところで一つ話をして下さい。大隅さんは此処で何を研究し、何を発見されたんですかねえ」
学士は三度面喰って、呆然と相手の顔を穴の明くほど打ち眺めた? すると佐々は手帳の間から一葉の名刺を抜いて学士に手渡しながら、元気な声で云った。
「……僕は東京通信新聞社の記者です。さあ一番乗りの特種を下さい!」
大隅学士は直ぐに佐々記者と仲よしになった。尤も佐々のような押しの太い人間は、いくら振り離そうとしても用のある間は決して離れてくれないことは確だった。
佐々記者はなかなか熱心に根掘り葉掘り質問をするので、まもなくこの村の事件に関する大抵のことは知られてしまった。しかし彼は賢明だったから直ぐに本社へ通信を送るようなことはしなかった。他社ではこの事件にまだ気がついていないから、その間はむしろ沈黙を守り、そして事件の内容を出来るだけみっちり仕入れておく方が得策であることを知っていた。
そんなわけで、佐々記者は記事を取るばかりではなく、今では大隅学士を大いに手助けして一日も早くこの事件の解決を図ろうと決心したのだった。彼は学士の為に、自分の知っているいろいろな知識を貸して与えた。
「大隅さん、いよいよ今日の十一時だ。さあそこにある受話器で、よく聞いているんだよ」
そういうと佐々記者はアタフタと、宿を飛び出していった。大隅学士は腕時計を見た。あと十五分で、その午前十一時となるのであった。彼の元気な友人は、今しも村の助役である古花甚平のところへ出掛けたのだった。古花といえば、失踪した武夫少年が調査依頼した三つの突飛な質問の一つに関係がある人物だった。つまり古花甚平こそは、丁度今から一年程前、この矢追村の沖合に停泊した外国汽船に臨時に雇われ、その汽船のために何か用事を果たした人物だった。外にも二名の男がいたが、一人は既に病死し、他の一人は武夫の父親であるがこれは行方不明になっていて、今では当時の事情を知る唯一の村人だったのである。大隅学士は古花甚平に逢って、いろいろ訊ね出そうとしたが、彼は説明の出来ない恐怖のためどうしても口を開かなかった。斯くてはこの第一問は遂に知ることが出来ないこととなり、第二の問題の方に懸かろうかと思っていたが、これを知った佐々記者は、そんなことは何でもないことで自分が喋らせてみるから一寸委せるようにと申し出た。そこで佐々の計画というのを聞いてみると彼は習い覚えた催眠術を古花甚平に懸けて、そして例の秘密を喋らせようというのだ。同時に佐々は彼の得意中の得意とする私設電話術、別名盗聴法を活躍させ、宿にいながらにして大隅学士に甚平の喋っているところを聴かせようというのであった。尤もそれは電話技術を心得ている者ならば何でもないことだった。つまり甚平を呼びよせた室には額の裏かなんかにマイクロフォンを置き、それから出た二本の電線をラジオの発振機に接ぎそれから更に電話線に持っていって接ぐ。すると高周波の電流は電話線を伝わって走るから、そこで大隅学士の宿の前を走る電話線から別に二本の支線を接ぎ、それを学士の室まで引張り込んでラジオ受信機に入れてやれば、それで甚平の話はすっかり聞えるわけだった。それは明かに通信法の違反であったけれど、佐々記者はそんなこととは知らなかったのである。
盗聴の用意は万端できあがった。
午前十一時という時刻になると、学士は受信機のスイッチをひねって、高声器から出てくる話し声を待った。やがて待っていた佐々記者の元気な声と、古花甚平の眠むそうな声とが入り交って聞えてきた。もう甚平は、すっかり佐々記者の魔術に懸っているらしい。学士は彼の何者にも頓着しない悪達者な腕前に三歎するより外なかった。
「……すると、沖についた白い汽船は、どこの船だか国籍が分らなかったというのだネ。碧眼の船長は何を君たちに頼んだのか、それを思い出してみなさい」
「……籐で編んだ四斗樽よりまだ少し大きい籠を三個陸揚げすることを頼まれたなア。持ち上げようとすると、それは何が入っているのか三人でやっと上るほどの重さじゃった。……」
「そうだ。そこでボートに乗せて、海岸まで搬んでいったね。船長も一緒について来たね。それから三つの籐の籠を、どうしたんだったかネ」
「……海岸の暗闇の中には、誰か手提電灯を持って立っていた者があった。近づいてきたのを見ると、それは辻川博士じゃった」
「えッ、辻川博士!」と佐々記者は声を嚥んだ。
「うん、辻川博士だったネ。それから?」
「辻川博士は何か分らぬ異人語で船長と話をしていたが、相談がまとまったものと見え、その三つの籠をわし等に担がせて、山麓の博士の家へ持ちこませたことじゃった」
「そうだそうだ。そこで取引は済んだのだ。それからどうした……」
「それからわし等は、一室に入れられてたいへん御馳走になって、たんまり金を貰った。しかし用事はまだ残っていたのじゃ。わし等がたらふく腹を膨らませて無駄話をしていると、さあこの籠をもう一度船までもっていってくれというのじゃ。それからわし等は、また三つの籠を担ぎあげた。ところが奇体なことに、二つの籠は軽くて中が空っぽだと分ったが、もう一つの籠はズッシリと重いのじゃ。そして肩に担ぎあげていると、どうも変な具合じゃ。あれは何が入っていたのじゃろうかどうも腑に落ちん。……」
といって甚平は額から脂汗を流しながら、ふと押し黙った。佐々記者は透かさず、
「実に変なものだったネ、あれは……。しかし後で三人で話し合ったところでは……」
「そうじゃ、……話し合ったところでは、どうもこの籠の中には、何か生き物が入っているのじゃないかと……」そこまで喋ると、どうしたのか甚平の面には突如としてひどい苦悶の色が浮かんできた。
「こいつは風向きが悪いぞ。ナムケンゲンコーリ、ナムケンゲンコーリ。あーらカンツーム、ヴィスヴィス。……うーむ、そこで覚めちゃっては困るよオ。なんとか持ち直してくれイ……」
催眠術の達人と称する東京通信新聞の佐々記者は、目を瞑じたまま苦悶している村の助役古花甚平に向って、なおも一生懸命に呪文を浴せかけたけれど、どうにも風向きはよい方に転じなかった。古花甚平はとうとう後頭部をしたたか壁にぶっつけた途端に、悪夢から覚めたかのように、パッチリ眼を明いてしまった。
「……あああーッ。これァどうしたちゅう訳じゃろう?……」
甚平はキョロキョロあたりを見廻した。
「南無三、覚めな覚めな。カンツーム、ヴィスヴィス。あーら、あーらア……」
だがもう呪文の効き目はなかった。甚平は完全に催眠術から覚めてしまった。こうなっては万事休すだった。遉の佐々砲弾も諦めて退散するより外なかった。
大隅学士は、下宿で、佐々の帰りを待ち侘びていた。
「いやあ、よくやって呉れたネ。君のお蔭で辻川博士の行状が大分明かになってきたよ」
「どうも惜しいところで催眠術が利かなくなっちゃったよ。そのうちに何とかして、もう一度やってみせるよ」
そこへ下宿のお内儀さんが、井戸の中に漬けて冷やしてあったビールを搬んできた。それは大隅学士の心尽しだった。
「やあ、俺の大好物が出てきたな。これはすまん」と佐々はゴクリと喉を鳴らした。
「ビールの満を引いて、大いに作戦を練るとするか」
二人は泡立つ洋盃を上げてカチンと打ちあわせ、不思議な縁で結ばれた共同戦線のため万歳を叫んだ。
「佐々君。この村にはどの点から見ても吾人の想像を許さぬ一大秘密が隠されていると確信する」
「一大秘密? ようよう、それだそれだ。そう来なくちゃ面白くない」
「まず失踪した武夫君が見たという亀のように大きな甲虫のこと、それから森の中に武夫君の声だけがあって姿を見せないこと、一年前突如として沖に碇泊した外国船のこと、辻川博士の怪行動のこと、蜻蛉の発生がたいへん遅れている上にいつも真西より三十度ほど北にふれた方角にばかり向いて飛んでいること、それから、お美代ちゃんの妹の失踪のこと……」
「まだある。佐々砲弾が忙しい東京の職場を離れてわざわざこんな土地に飛んで来たこと、それから大隅学士が暑中休暇の勉強地をわざわざこんな田舎に選んだこと、……」
「いや実を云えば、僕はどういうわけか、この矢追村の地形が気に入ったというか、気になるというか、とにかく非常に僕の心を惹きつけるところがあるのでネ、それでフラフラとやって来たのだ」
「第六感というところだネ」
「そうかも知れない。まあそんなわけで、この村には興味ふかい謎がウンと落ちているのだ。まるで多元連立方程式の、その要素をなす一つ一つの方程式があっちこっちにバラバラ落ちているといったような形だ。それを適当に組合わせてそれぞれの答を得るのも面白いことだが、その答の奥の奥にまた一つの大きい答があるような気がする。それは一つの世界を誘導することになる。たとえば個々の未知数を解いてみたらば、これが悉く無理数であって、それでわれわれはその無理数の形づくる無理世界を想像することを強いられるかもしれん。その無理世界を確認した暁には、われわれは逆に今日われわれが唯一無二だと信じているこの実在世界の絶対性を否定して、今まで実在世界だと思っていたのは或るホンの一例題の世界に過ぎなかったのだと、自殺的結論を建てなければならなくなるかもしれない。ああ何という遥けき真理、ああ何という恐ろしき疑惑……」
「おお先生。……」と佐々記者はイキナリ立ってビールの泡だった洋盃を大隅学士の頭の上に載せていった。
「そんな珍糞漢糞の寝言は後廻しにして、われわれはいま、冷静且つ果断に事件の心臓部を突破せにゃならないんだッ。それは辻川博士の邸内に忍び入って、博士の秘密を発いてしまうことだ。さあそれに賛成して立ち上れッ。それだけ云っても、まだムニャムニャ寝言の続きを云うようだったら、この冷たいビールを襟首へぶちまけるがどうだ!」
佐々記者は、壊れた軽飛行機「空の虱」を草原へ引張りだして、せっせと修理に忙しかった。それでも、ペンチを握る手をときどき休めては、傍の石塊の上に腰を下ろして見物をしている大隅学士の顔をジロジロ眺めるのであった。
「おう先生、昨日先生が寝言みたいな変なことを喋ったが、あのときは頭がどうかしていたのじゃないかネ」
「莫迦を云っちゃいかん。気は確かだ」
「ほほう。あれは本気で喋っていたのかい」
と佐々は改めて目を丸くして「すると今だに先生はあの無理世界とやらいうものに取り憑かれているわけなんだネ。そいつはどうも、交際い難いな。どうだネ。佐々砲弾のザックバラン主義の方に転向してみる気はないかネ」
「……余計なお喋りをやめて、飛行機の修理の方に熱中したまえ。大事な修理を間違えたりした揚句、われわれが空中に飛び上った途端に『空の虱』の空中分解式が始まったりするんじゃ厭だぜ。はッはッはッ」
「なアに、こっちの方は大丈夫さ」
そんな応酬をやっているうちにも、「空の虱」の修理はドンドン進んで、夕方になる前に、すっかり元のように直ってしまった。
和やかな夕餐が済んで、やがて二人は涼しい夜を迎えた。晴れわたった夜空には月もなく、ただ銀河系の群星が暗黒な空間にダイヤモンドの砂を撒いたようにキラキラと燦いていた。絶好の小暗い空模様だった。
「さあ、いよいよ出発だ」
「ああ、もうソロソロいい時刻だ。では出掛けるとしよう」
大隅学士は風呂敷包を小脇に抱え佐々記者は飛行服に身を固め、いずれも至極無造作に宿を立ち出でた。そして通りへ出ると、二人は改めて握手をした。
「じゃ、しっかり頼むぞ」
「うん大丈夫。では君もしっかりやれよ」
そういって二人は左右に分れた。佐々記者の方は「空の虱」を置いてある広場の方へ、大隅学士はスタスタ上り坂を昇っていった。二人は何を始めようというのだろう。
それから暫く経った後のこと、山麓に広大な地域を占める辻川博士邸の上空にあたって只ならぬ怪音が近づいた。それはどうやら飛行機の音のようであったが、だんだんと舞い下ってきてやがて屋根とすれすれになるほど近づいた。そして怪飛行機は、邸の上を往きつ戻りつして、一向に飛び去る模様がなかった。明かにこの博士邸が狙われている様子だった。博士の邸内は俄かに騒然としてきた。
そのときだった。また飛行機が低空を飛んできて、博士邸の真上を飛び去ったかと思った途端、城のように高い壁に擁せられた正門の鉄扉に何かが当ってガーンと鳴り響いた。と同時にパッと一閃して煌々たる火焔が立ちのぼった。
そのうちにも、また飛行機は引返してきた。こんどはまた一層低く飛んでいるらしい。ポーンとまた別の音が、正門脇の高い壁のところから聞えて、それと同時に、また目もくらむような火焔が立ちのぼった。
爆撃! 博士邸がいま飛行機から投げ下ろす爆弾によって爆撃されようとしているのだった。しかし幸にも、爆弾は邸内には落ちず、一弾また一弾、邸の外側に落ちては、盛んに爆発するのであった。
邸内では愕いたものか、裏門の潜り戸がギイッと明いて、中から一つの黒影が飛びだしてきた。その黒影は潜り戸の傍を離れてだんだん通りの方へ出てきた。出てこないと炸裂する爆弾が見えないからであった。
そのとき、また一閃して、こんどはドッと騰った火焔が、一本の松の木に移って、パチパチと烈しく燃えだした。そしてなかなか消える模様がなかった。……裏門を出た黒影はいよいよ愕いた様子で、焔に包まれた松の木の方に走りでてきた。火影にハッキリ照らしだされたところを見ると、それは年齢のころ、三十を二つ三つ越したかと思われるほどの頑丈な男だった。そして変に足を引いていたが、それも道理、彼の右脚は膝頭のところから下がない。有るのは太腿に縛りつけた棒杭の義足ばかりだった。
彼は明るく燃える松の木の傍にこわごわ近よったが、やがて安堵の腰骨を伸ばして呟いた。
「なアんだい。本物の爆弾か焼夷弾かと思えば、これァ脅かしにもならねえ花火仕掛……。いずれ村の奴の悪戯だろう。博士の豪いことも知らねえで、飛んだ野郎どもだ」
そう云い捨てて男は、ヒョックリヒョックリ元の裏門の方へ急ぎ足で帰っていった。そして裏門がさっきのまま明いているのに気づいて、
「呀ッ、こいつはうっかりしていた。明けっ放しておいて、誰かに忍びこまれでもすれゃ、これァ大事だった。危い危い」
といいながら、門の中に飛びこむが早いか、ピタリと鉄扉を閉め、ピーンと錠を下ろしてしまった。
この男は博士に忠実に仕える岩蔵という男だったが、彼の安心は、果して正しかったであろうか。
大隅学士は、遂にまんじりともせずに、暁を迎えた。
それはもちろん異常なる緊張にもよることだったけれど、一つには夏の戸外にはとても藪蚊が沢山いることを忘れていたせいもあった。実際夜露を凌ぐにいい繁みの間には、注射針のように鋭い嘴をもった藪蚊が群棲していて、襲撃してくるやつを払えば払うほど、人間のいることに気がついた新手のやつが押しよせてくるのであった。
辻川博士邸内にも、暁の雲間を破った太陽がすがすがしい光をさし込んできた。大隅学士はあたりを警戒しながら、庭園の繁みを匍いだした。彼は昨夜、佐々砲弾の「空の虱」の掩護によって彼自身が風呂敷包の中からとりだした擬装爆弾実はマグネシウム花火などを博士の門前に投げつけ岩蔵を巧みに門外におびき出し、その隙に乗じ、一と足お先に裏門の中に飛び込んだのであった。こんな大芝居でもうたなければ、まるで中世紀の城塞のような辻川博士邸内に忍び入ることはまず不可能だと思われた。学士が潜入した目的は云う迄もないことだが、怪人物辻川博士の動静を探るとともに、邸内の秘密を偵察するにあった。まかり間違えば生命を失う決心をして、彼は怪事件解決のために、中央突破を敢行したわけだった。
繁みからソロソロ匍いだした大隅学士は、幸いに誰に見咎められもしない様子に安心をして、宏大なる邸内の探険にとりかかった。広々とした庭園──それは庭園というのはむしろ不適当で、人造山岳地帯といった方がいいかもしれない。たとえていうと、箱根山塊を三百メートル四方ぐらいの大きさに人造的に縮小した大仕掛けの箱庭とでもいった方がハッキリ博士邸の庭園を説明しているだろう。何れにしても奇怪なる起伏凹凸をなして居り、丘陵があるかと思えば、泉水が流れ、雑木林があるかと思えば、巍然として洋風の塔が聳えたっていたりする。博士邸を囲る塀が城塞のように高いのも無理がない次第で、塀を高くして置かなければ、この異様な邸内の模様は容易に村人の眼に停り、物議の的にならない筈はなかったから。
匍いだした大隅学士は、この異風景の中に、呆然として立ちつくした。それはまるで千里の波濤を越えて、異境に遊ぶの想いがあった。日本中を探しまわっても、恐らくこれほど風変りな邸を持っているところがまだ他にあろうとは思えない。彼はこんな異風景を愛玩する辻川博士の心を恐ろしく思った。
だが大隅学士の愕くのは、いささか早やすぎた。なぜなれば、彼がこの怪園を徘徊してゆくうちに、たまたま欝蒼たる欅の大木にグルッと取巻かれた地内に建っている非常に背の高い頑丈な鉄の檻を発見したが、その檻の中を一と目覗いたときの驚愕に比べると、怪園の異風景などは物の数ではなかった。一体その檻の中には何が入っていたであろうか。
「おお、これは……」
といったきり、彼は化石のように立ち竦み、普段は赤いその顔からはサッと血の気が一滴のこらず退いてしまった。──見よ見よ、その頑丈なる檻の中に、ゆらゆらと蠢いている異様なる動物を……。
まず最初に目についたのは、第一号という檻の中にバタバタ飛翔している烏ぐらいの大きさの黒い鳥──と思ったのが目の誤りで、よくよく見ると身体の形や翅や肢の様子から知れるとおり、それは黒蠅だった。
「ウム、黒蠅だッ。……」
身体の大きさが烏ぐらいもある大黒蠅! 始めて見る怪物だった。──しかし怪物はそれ一つではなかった。その次の檻を見よ!
……見るからにテカテカと黒光りのする鉄冑のような丸い胴、その下からはみ出している刃物のような肢、レンズのように光る眼玉、小枝に漆を塗ったような一本の角……。
「ウム、これだナ、魔の森の怪物! 亀と間違えた甲虫というのは……」
彼はおのれの上下の歯がガチガチと戦慄を伝えてかち合う音を耳にした。恐るべき巨体をもった甲虫! そこで彼は、こわごわ次の檻に目を移した。
「呀ッ……」
彼はおのれの頭髪が一本一本逆立つのをハッキリ意識した。何たる驚異、ああ何たる無惨! 隣りの檻の中に収容せられていたのは、昆虫にも非ず、鳥獣にも非ず、実に実に万物の霊長たる人間が入っていたのである。それは赤裸の、大きさは豚ぐらいもある人間、しかしそれは頭が頗る大きくて一見赤ン坊を大きくしたようなものだった。
「大入道の赤ン坊か。……」
と、大隅学士は思った。これがお美代の妹の代志子であることを知らぬ大隅学士は、大入道の子供だと思った。
だがこの檻の中に飼われている生き物の凄く巨大なることよ。これはまるで御伽噺に出てくる大人国の動物園に行ったような景色である。
さて次の檻には何物が入れられているのか。彼は俄かに不安に襲われながら、その先を見ずにはいられなかった。それで次の檻の中を窺った。そこには、更に巨大なる動物が、金網の中に胡座をかいて、ジッと前方を見詰めていた。それは生ける仁王さまのような人間だったが、その顔をヒョイと見たときに、大隅理学士は、
「ううッ、……」
と一言叫んだなり、俄かに気が遠くなってヘタヘタとその場に崩れるように坐ってしまった。ああ、見ないがよかった。その檻だけは、たとい一命が亡びようとも見ない方がよかったのである。
一体そこには、何者が入っていたのであろうか。
「ああ、こうだと知ったら、僕は覗くんじゃなかった!」
それほど大隅学士をして、顔を背けさせたものは何だったか。その第四号の檻の中には、一体どんな生き物が入っていたのだろうか?──実にそれは、魔の森に分け入って行方の知れなくなった武夫少年だった。いや、もっと正しくいえば武夫の化物だったという方がいいかも知れない。なぜなら、檻の中に収容せられていた武夫少年は、昔日のような可愛いものではなく、身長、実に三メートル余──というから、背丈が一丈を越える大入道となっていた。これを見た大隅学士が脳貧血を起したのも無理がなかった。全くもって、この世の中ではあり得べからざる異変も異変、大異変だった。
辻川博士の庭内に造られた鉄檻には、不思議にもこうした巨大な生き物ばかりが聚められてあったのである。嘘のような巨大な生き物! どうしてこんな怪物が生じたのであろう。そしてなぜまた、このようなグロテスクな大入道ばかりが矢追村に発生したのだろう。
この疑問に対してまず誰でもが想像し得られる一つの解釈は、この怪邸宅の主である魔人辻川博士が妖術をもってこんなグロテスクな生き物を作ったのではないかということだった。これは辻川博士の正体がまだハッキリしないので、只今は軽々しく口にすべき問題でないかもしれないが、しかしこの多種な大入道が悉く博士邸内に集められていることからして、そんな風に疑われても仕方のないことだった。
この奇怪な檻の中の生物を一度でも見た者は、先年蘇克蘭のネス湖に前世紀の生物らしき巨獣が現れたという怪ニュースをそれは本当に有り得ることかもしれないと考えるだろう。ネス湖の怪物も、この辻川博士の手によって作られたものなのであろうか。
大隅学士は、欅の葉蔭をとおして垣間見る武夫の変りはてた姿に、思わず湧き出てくる涙をソッと拭った。一体これからどうしたらいいだろう。武夫君! といって声を懸けてやるのがよいか、それともそのまま会わないで置くのがよいか、いずれにしたものだろう。
「まア、ここは暫く会わないで置こう」
大隅学士は、やっぱり会わないことに決めた。武夫少年を救うために単身魔の森に忍びこんだとき、自分の持っていた懐中電灯を叩き落としたのも武夫だった。燐寸を点けようとしたらそれを停めたのもまた武夫だった。声だけを聴かせて遂に姿を見せなかったのを考えると、当時武夫は既にあのとおりの変り果てた姿になっていて、それで見られるのを厭がったものに違いなかった。武夫のいじらしい気持を察すると、大隅学士の眼からはまたひっきりなしに涙が湧いてくるのだった。
武夫に会うことを遂に諦めた大隅は、こんどは第二段の活動に移った。折角苦心して入ってきたのであるから、出来るだけの偵察はしたいと思ったのである。彼は草叢からコソコソと匍いだしては樹の上に登り、或いは大きな巌の裂け目に入ったりして、愛用の望遠鏡の力を借りて邸内のあらゆる建物やあらゆる地形を観察して廻った。殊に注意を払ったのは、辻川博士が起き伏しているらしい表現派のような建物の様子であった。しかし何分にも厳重に閉じられた建物の外から観察するのであるから、靴を隔てて痒い足を掻くような焦燥を感じずにはいられなかった。
空中には幾度となく爆音が聞えてきた。それは同志佐々砲弾の乗った「空の虱」の訪問であって辻川博士一味のものに対する示威運動でもあったとともに、僚友大隅の身の上を案じ、これに力をつけてやるためでもあった。
夕方になり、庭園が薄暗くなりかけたとき、それを待っていたように、また「空の虱」が飛び来って、しきりと地上に何物かをさがすかのように低空飛行を試みるのであった。それを見た大隅学士は自分の所在を知らせるため、懐中電灯を空に向けてピカリピカリと点滅した。それが空に通じたものと見え、上からなにか黒いものがポトンと落ちてきた。それは丁度、大隅の目の前に落ちてきた。佐々記者が自慢するだけあって爆弾投下術はなかなか巧みだ。──そこに転がる黒いものは袋だった。その中には、握り飯とキャラメルとが入っていた。佐々砲弾の心尽しだった。
大隅学士は、空中から投下された兵糧によって腹を充たした。そして元気に、夜の更けてゆくのを待った。
やがて人気のない邸内は、深山のように静かに更けていった。静かというよりは、物すさまじき夜を迎えたといってよいかも知れない。林の中には、どこから飛んできたのか梟がホウホウと鳴きだした。それに交って欅の森の中からは何ものとも知れぬ怪しげなる泣き声が聞えてくるのであった。それはそこの壁、ここの丘に木魂して、ゾクゾクと襟元に迫った。──大隅学士は繁みの中からソロソロ匍いだした。
博士の住む建物には、灯があかあかと点いた窓が二つ見える。それはまるで海坊主の二つの眼のようにも感じられた。その窓下に忍びよった大隅学士は、恐る恐る頭をあげてみた。室内には、剥製にした動物の標本が処も狭く並んで居り、広々とした壁にはいろいろの天体図や気象図などが掲げてあった。辻川博士はと見ると、大きな机に向って何か熱心に読書をしている様子だった。
「ウム、忍びこむのは今だ……」
大隅学士は、かねて見当をつけて置いた裏手の入口へ廻った。そこからは岩蔵がよく出入をしていたのである。扉に近づいてソッと押してみると、果してそこには錠がかかっていなかった。
「締めた!……」
大隅学士は勇躍して、中に潜入した。そこにはズッと小暗い長廊下がつづいて居り、その奥の方には明るい広間が見える。学士はその広間を目指し、カーテンの蔭に添って足音を忍びながらソロソロと近づいていった。しかしそこにはもう既に恐ろしい陥穽が待ちうけていたのだった。
「……呀ッ……」
と声を立てる遑もなく、傍らのカーテンから、太い二本の腕がニュッと飛びだしたと思うと、大隅学士の喉を、後方からグッと締めたのである。
「ウム……」
残念だ! なにをッ……と、大隅は怪人物の腕から脱れようとするが、そうはさせまいと、いよいよ咽喉はギュウギュウ締めつけられてくる。そのうち、とうとう頭脳がポーッとしてきて、なにがなんだか分らなくなった。……
大隅が抵抗しなくなると、彼をしめつけた腕は、やっと大隅の首から離れた。やがてカーテンの蔭からヌッと現れてきたのは、まるで西洋の悪魔が無人島に流されたような実に凄愴な顔をした辻川博士だった。髯といえば無精にも伸び放題となり、髪は一本一本逆だち、それも黒毛の間に、白髪がチカチカと秋のすすきのように光っている。身体には、初めは高い値段のものだったろうが、いまはヨレヨレになってむさくるしいというより外はない天鵞絨の洋服をつけ、何十年か前に流行ったような細い黒ネクタイを締めている。──というわけで、どこから見ても只ならぬ精神状態の人物だということが分るのだった。
「……イヒヒヒヒッ。……」
博士は、薄気味わるい笑みを浮べて、廊下に長く伸びた大隅の身体を見下ろした。そして、大隅の身体をスリッパの先でポンポンと蹴ってみたが、一向動く気配のないのを見てとると廊下を向うへスタスタと歩きだした。二、三間も行ったろうか、すると博士は急にクルリと後をふりかえった。そして右手の指を雀の巣のような頭髪のなかにつきこんでゴシゴシやっていたが、やがて大きく肯くと、元のところへ引返して来た。
「……そうだ。こいつを使ってやろう」
使ってやろうとは、どう使うのか分らないけれど、博士はそういうと、大隅の身体に手をかけ、ウンと力を入れて肩に背負うと、また廊下の向うへスタスタと歩きだした。
廊下を向うへ曲り、自動エレヴェーターの扉を開き、ガチャリ、ジーとのぼっていったのは第五階!
エレヴェーターが自然に停ると、博士は、扉をあけて、外に出た。博士の服装に比べて、廊下は清潔に掃き清められ、各室の扉に塗ってあるペンキの色も、四囲の壁の色も、たいへんに落つきがある。──博士は、右側にある「第一号実験室」という札の懸っている室の扉をあけて、入っていった。
明るい電灯の光の下に照らしだされたのは、二十坪近くもあろうと思われる広い室だった。何に使うのか大小さまざまの風変りな器械が所も狭いばかりにズラリと並んでいた。大きな変圧器らしいものもあれば、こんなところには勿体ないような望遠鏡も据えつけられていた。ことに奇妙なのは、高い円天井であって、大きな毬を半分に切って載せたような形をしており、その中央に、割れ目のような細長い窓が開いていた。博士は大隅の身体を、安楽椅子の上に寝かせた。あとは黙々として、室内をあっちへ行ったり、こっちへ来たりして、なにかしきりに調べていた。
そのうちに、室内に大きな電灯が消され、壁の一方から円錐形に投光される照明灯だけがのこった。その円い光の中に、クッキリ浮かんでいるのは、手術台のような一つの台、手術台とちがうところは、なにかゴテゴテと、使途も分らない小器械が、まるで飾りのようについている。──大隅の身体は、安楽椅子の上から、この風変りな手術台の上に移され、その首、手、足などが、皮帯でしっかりと台の上に結びつけられた。
博士の顔は、だんだんと子供の頬のように紅潮してきた。なにかしら、博士を興奮させるものがあるらしい。
やがて博士は、大隅の寝ている手術台の傍へ、また別の、カンバスがスポリと被さっている大きな器械を動かしてきた。カンバスをとると、その下からは、大きな放電管が現れてきた。硝子球は満月のように大きかった。その中に、銀色と金色との電極が輝いていた。壁スイッチが押されるとジジジーというかすかな音がして、この放電管が薄紫色に輝きだした。その怪光線は、管内の反射鏡によって、ツツーと横に流れ、いくつかの丸い枠をとおるたびにその紫色が濃くなり、やがて最後には深い藤色の円柱状の光束になった。その光束の行先を辿ってゆくと、一つの遮蔽膜にぶつかった。──ところがその遮蔽膜には、無心に睡っている大隅学士の身体が横たわっていたのである。……
「さあ、光線はこの位なら充分だろう」と博士はニヤリと笑った。「さあ、いよいよ実験を始めるかな。まずこの人間の右半分に、この器械から出るオメガ光線を投射し、左半分には例の疑問線を当てることにしよう。まずこの器械によってオメガ線を与えてみよう。……」
何ごとが起るか? 怪博士の怪実験の犠牲になろうとする大隅学士は、このとき始めて気がついた。眼にうつったその場の異常な光景に、学士は恐ろしい危険を身に感じて、ハッと愕いた。
「ウヌ……」
大隅学士は、やにわに跳ね起きようとしたが、身体は台にしっかり結びつけられて、ビクとも動かなかった。待ってくれ──と、叫ぼうとしたが、その声も出ない。口の中に、なにか綿のようなものが詰めこんであった。
「おお、気がついたナ。……」
博士は大隅の覚醒に、なんの愕きの色もあらわさなかった。そして躊躇するところもなく、オメガ光線を遮ぎってあるシャッターの釦に手をかけた。ああ、次の瞬間、その怪光線は、大隅学士の右半身の上に落ちかかろうとしている。そこに如何なる異変が発生することであろうか。博士の実験の材料に成りさがった大隅の運命は、風前の灯だった。丁度そのときだった。
ジリジリジリジリジリン。
と、けたたましいベルの音が、室の一隅から起った。博士がハッと振りかえってみると、隅のパネルの上に、赤いパイロットランプが、盛んに点滅している。……
「ああ、……丁度、通信の時刻がきたんだナ」
博士は呟くようにいうと、オメガ光線のところを離れて、パネルのところへ近づいた。博士はしばらくガチャガチャとやっていたが、やがて博士の話し声が聞えてきた。
「ああ、辻川博士です。そっちはどうかネ?」
と云った言語は、意外にも日本語ではなくそれは世界語の称あるエスペラント語だった。
「そうか。ちょっと待ってくれたまえ。SS五〇一が四ポイント六八か。……SS五〇二が四ポイント七九か。……」
博士は何か細かい数字を盛んに筆記した。
「よし、ありがとう。……こっちも今夜は可なり強勢なんだ。全体として、三倍ちかくになっているから愕くよ。つまりSS五〇一がやっぱり四ポイント九〇、五〇二が五ポイント一八、……」
しばらくは、博士が何かわからぬ沢山の数字を喋る声が聞えた。
「……この数字は、いよいよ僕の仮説の正しいことを証拠だてるものだと思う。ねえ、君も同感するだろう。とにかく近く地球を離れてみたいと思うんだが……。イヤその前に、一つ面白い実験をやりかかっている。今夜だよ。今なんだよ。君が来られると面白いのだが……ナニ今夜はオリオン星座から目が離せないって。そりゃ残念だ。とにかく僕は今夜この実験をやってしまわないと、研究のプログラムが……そうそう、その通り。じゃあ、この次は十六時に……。失敬!」
博士の奇怪なる電話はそこで切れた。対手は一体何者だろう。五〇一が四ポイントいくつだとかいうが、何を意味しているのだろうか。「近く地球を離れてみたい……」などといっているが、まるでおかしな会話に外ならない。しかしそんなところさえ深く問わないとすると、博士の電話における会話は、通常の人の会話に比べて、すこしも乱れているところがない。むしろ優れた学者なのではないかと思わせるような渋い会話だったともいえる。博士の精神状態は不健全なのか、それとも健全すぎるのであろうか。また博士は悪人であろうか。それともそれは思い違いであろうか。大隅学士は前にエスペラント語をすこし勉強したことがあったので、博士の会話内容がわかっただけに、正邪曲直いずれを博士の上にスタンプすべきかに悩むところが甚だしかった。
博士はパネルのところから戻ってきた。
「さあ……。と、これでよかった筈じゃが……」
といって、また丁寧に、装置を調べはじめた。
大隅学士は、無言で博士の眼を睨みつけた。彼はこの際、口に蓋をされていることが、とても残念だった。
──疑問に思っていることを、一つでもよいから、博士が明かにしてくれればよいと思った。しかし博士は、大隅学士などに用はないといった様子で、光線器械の横にすこし前屈みになって、しきりと調整に取りかかったのだった。器械になんだか調子の悪くなったところがあるらしく、博士はなかなか立つ様子がなかった。
このとき手術台の上に寝ていた大隅学士は、苦心の末、ようやく口の中に詰められていた綿のようなものを、舌でもって外に押しだすことができたのであった。彼はたいへん呼吸が楽になったので元気を盛りかえした。手術台の上の彼は、更に第二段の工作にうつった。まず何とかして手を外したい。身体をソッと曲げて渾身の力を籠めよう……としたときに、彼は室内に思いがけない新しい人の気配を感じてギクリとした、
「呀ッ、あいつだッ」
いつ入って来たのか、佐々砲弾が忍び足でこっちへ向ってくる。覘っているのは博士だった。佐々の右手にはブローニングらしい拳銃が握られていた。博士が動けば、撃とうというのらしい。
「射つな。──」
大隅はベッドの上から目顔で知らせた。佐々は不平だったらしいけれど、博士が全く後向きに仕事に熱中している様子に安心をして、これなら組打ちをしても大丈夫だと悟ったらしい。そこで彼は、拳銃をポケットに収いかけた。彼の手が内懐のポケットの中に消えたので、いよいよ収ったなと感じた途端、ゴトーンと大きな音がして、服の間から拳銃が床の上に落ちた。
博士は不意を喰って、その場に一メートルほども飛び上った。佐々は佐々で、思いがけない失敗に、ひどく狼狽の色を現した。
そうなると、どっちも五分と五分だった。
「貴様ア……」
「ウヌ、何者かア……」
二人は睨みあったまま、ジリジリと双方から近づいていった。大隅は手術台の上で、いまこそ脱出の好期とばかりに、手足をいろいろと引張ってみたが、どうしてどうして、動かばこそ……。
佐々は身を沈めて、つと拳銃を拾いあげようとした。途端に隙を見出したか、辻川博士は飢えたる狼のように、佐々の上に飛びかかった。
「痛いイ……」
悲鳴をあげたのは佐々の方だった。
「ウヌ。助け……」
声が出なくなった佐々は、博士のために遂に利腕を逆にとられて、床の上にお辞儀をしたような恰好になった。ヒイヒイ云っている彼の右耳からは、赤い血がタラタラと流れている様子だ。辻川博士が犬の様に佐々の耳に噛みついたらしかった。
「怪しからぬ奴どもだ。岩蔵は何をしているんだろう」
佐々を縛りあげてしまうと、博士は頬を膨らませて、憤慨の言葉をはいた。
「ああ痛い。……あの男なら、僕がさっき楽に寝かせて置いたよ。少くとも僕の今の場合よりも、もっと丁寧に取扱ってある。それになんだ。これは……。博士、もっと綱をゆるめてくれんか」
博士はそれを聞くと、窓のところによって、外を見た。そしてチェッと舌打をした。
門脇の小屋から、岩蔵を助けだしてくるまでに十分ほどの時間が流れた。この間、大隅と佐々とは、空しい悲憤を語りあったに過ぎなかった。
義足をつけた岩蔵の姿を見たとき、二人の不安はますます深くなった。一体博士はこの男を使って何をさせようというのだろう。
ところが、この男は、佐々の足の戒めを解いて、床上に立ち上らせた。それから大隅学士の方にも、同じような自由を与えるかと思って待っていたが、そうはしなかった。彼は大きい失望に暮れた。
「さあ、向うへ歩け。……」
義足の男は、佐々の身体を向うへ突きとばした。俘囚というものが、いかに惨めなものであるかということを、二人の盟友は別々に同じ事を感じ合った。向うへつれてゆかれるのは自分だけだと知って、佐々は大隅の方に別れを眼でつたえた。
──なアに、慨くな!
大隅はそういうつもりで、目に物を云わせた。
佐々はエレヴェーターに乗せられた。岩蔵だけかと思っていたら、辻川博士も一緒にきた。やがてエレヴェーターはゴーッと下に下っていったが、エレヴェーターの停ったのは、地階だった。彼は死刑囚のように、外に引張りだされた。
「おれをどうしようというのだい」
「黙って、歩け!」
岩蔵は憎々しげに、佐々の腰のあたりをドーンとついた。喋るだけ損がゆくようなものだった。
三人は地下道に入った。天井こそ低いが、まるで中ソ国境の名物トーチカの内部のように頑丈にできていた。乾燥した涼しい風がどこからともなく吹いてきて、いい気持だった。だが地下道の行方は何処であろうか。
長い地下道を千メートルぢかくも行ったころ、通路は急に広くなった。見廻すと、そこは倉庫らしく、大きな鉄扉が六つほど並んで居り、その上には1とか2とか、いちいち番号がうってあった。何を入れてある倉庫だろう?
博士は一人先に立って、鉄扉4の前に行った。そしてなにかガチャガチャやっていたと思うと、鉄扉はしずかに左右に開きはじめた。そして中から現れてきたものは何だったであろうか。──大きな爆弾のような恰好をしたものがギッシリ填っていた。だがそれは爆弾ではなかった。ロケットB18号──と、鋼鉄の上に白いエナメルでもって書き綴られていた。
ああロケット。なぜ佐々はロケット室の前に引張って来られたのであろうか。
大隅学士ほど、未来を粗末にしない人物も、まず少いであろう。
彼は手と足とを緊縛した皮帯の間から外すことに、なおも熱心だった。そのおかげか、まず右足が皮帯の間からズルズルと抜けた。すると左足の方がまた緩みはじめて、これもズルズルと抜くことができた。こんどは両手だがこの方はなかなか頑丈だ。そこで彼は尻をウンと高くあげて、下半身を振った。それはチョッキの間に入っているナイフを出そうという計画であった。ナイフはうまくチョッキのポケットから滑り落ちた。それを口で啣え、こんどは足を使って、これを右手にやっと渡すことが出来た。右手は手でもって、ナイフの刃をぬきだすのが最後の困難だった。これは一番時間を要したが、やっと刃が出てきた。あとはもう大したことではなかった。
「さあ、自由になったぞ!」
大隅学士は床上に立ち上ることができて狂喜した。彼は珍らしそうに、辺りを見廻した。理学を専攻している彼にとって、この部屋の設備は一つとして愕きでないものはなかった。深い関心が恐怖や憎悪までを薄れさせるようにさえ感じた。
彼はそこで、この後の行動につき、どっちにしようかと迷った。博士の留守を利用して、この部屋の秘密を調べるべきだろうか。それとも拉致された佐々砲弾の後を追うべきだろうか?
彼は残念に思ったけれど、今は極力佐々の跡を追う方が正しいと思ったので、この室の興味を次の機会にまで預け、ソッと脱出した。
この第五階には、佐々の姿が見えなかった。階段を下に降りようとすると、そのとき窓の外がパッと明るくなったように感じた。愕いて窓のところに寄ってみると、これはまた凄い外面の光景! 外は、まるで昼間のように、眩しい光に充ちみちていた。それは何か砲弾のような物体の下で、さかんにパチパチやっていたが、そのうちに、砲弾のようなものはスーゥと空中に浮き上ったと思うと、こんどは凄じい勢いで、呀っという間に花火のように天空高く舞いあがった。後には幅の広い大火柱が眼底にいつまでもハッキリとした残像を刻みつけたのだった。
「おお、この火柱だ!」
と大隅学士は吾にもなく、高く叫んだ。かって魔の森の中で見たのは、やはりこのような火柱だった。この矢追村の人たちが、魔の森の方向に火柱が立つといったのは、このことなのだ。ここで始めて火柱の正体が分った。これこそ高空に舞いあがり、宇宙旅行をさえ可能ならしめるだろうと云われているロケットに違いない。ロケットは、これまで幾度もこの辻川博士邸から噴射されたのに違いない。魔の森と辻川博士邸とは、距離がかなり近よっている。魔の森でみたと思った火柱も案外森の立木をとおして、博士邸内を見下ろしていたのかも知れないし、遠方から見た村人が、この近よった森と博士邸とを見あやまったのも、また無理のないことだった。
大隅学士はロケットの発射されるところを探すために、階段を下っていった。彼は一階から外に出ようとしたが、扉には鍵がかかっていた。これでは外に出られない。困ったものだと次の方針を考えているとき、ゆくりなくも、そこに地階に下りる階段が開いているのに気がついた。
大隅学士は、階段をソロソロと下りていった。その結果、先刻辻川博士たちが佐々砲弾を引きずるようにして通った地下道に出ることが出来た。
「ああ、これは壮観だ!」道を見透かしてみると、どうやら三人の足跡がついている様子であった。彼は勇躍して地下道をズンズン進んでいった。
やがて、広いホールに出た。
「おお、倉庫らしいものが並んでいるナ」
大隅は倉庫らしい戸口をズッと見廻した。すると、倉庫は、厳重にピタリと閉っているのにもかかわらず、ただ一つだけだらしなく開いている扉が目についた。彼はその扉の前に向って駆けだした。
「第4号だナ。三人ともこの中に入っているのだろうか」
彼は扉の蔭から、ソッと中を覗いてみた。なるほど沢山のロケットが収ってある。ロケットはいいけれど、彼はその一隅に、ふと厭なものを発見した。中は小暗いのでよく分らないが、それはどうやら人間らしかった。仰向けに床上に仆れた上、その胸のあたりに短剣がグサッとつき立てられている……。それ以外に、人間の臭いはしていながら、その姿はどこにも見あたらなかった。
誰が殺されているのだろう?
大隅理学士は、愕こうとする心臓を抑えつつ、その方へソロソロと近づいていった。
佐々砲弾は、ロケットの中に閉じこめられたところまでは覚えていたが、それから急にドンと激しい衝撃をうけた途端に人事不省に陥ってしまった。彼が再び意識を取戻したのはそれからどの位経った後だか分らなかった。
「……ああッ……」
佐々が気づいたとき、最先に感じたのは恐ろしい眩暈であった。脳味噌が誰かの掌のうちにギュッと握られているような感じだった。眼を明けようとしても、明けることができないほどの気持の悪さだった。彼は、これは死ぬのじゃないかなアと思ったりした。
シューゥ、ゴトゴトゴトゴト。
なんだか蒸気が洩れているような音と、それに交って何か機関でも廻るらしい響とが聞えてくるのだった。しかし別に震動はないので助かった。
「ああッ……。頭が割れてしまいそうだ。薬はないか……」
彼は両手で頭を抱えて、身体を蝦のように曲げた。
そのときだった。突然大きな声がした。
「座席について、横の壁にある抽出を明けろ。そこにある水薬を飲むと、頭痛が直る……」
たしかに人間の声だった。
誰?
と、思って強いて眼を明けてあたりを見まわしたが、誰もいなかった。
変だなアと思っていると、また五秒ほどして、同じ声が、同じ言葉をくりかえして叫んだ。
「座席について、横の壁にある抽出を明けろ。そこにある水薬を……」
神の声か、それとも魔人の声か知らないが、佐々はその言葉に吸いよせられるように感じた。彼はすこしばかり元気を取り戻して、その場に起きあがった。よく見れば、彼は樽の底のようなところに、長くなって倒れていたのである。なるほど傍には、椅子が一つあって、長い皮帯がついている。
佐々はようやくのことで、その座席の上に自分の身体を載せた──壁を見ると、そこには抽出があった。懸金を外して、それを開けてみると、小さい薬壜があって、頭痛鎮静剤というレッテルが貼ってあり、その硝子壜の中には薄青色の液体が入っていた。
神薬か魔薬か、どっちであるか知らない。しかも佐々は躊躇するところなく、その栓をぬいて、口からゴクンゴクンと液体を飲んだ。こんな苦しい頭痛に悩みつづけるなら、いっそ死んだ方がましだと思ったからだった。
「ああッ……」
一壜の液体をのみ乾すと、彼は前にある括りづけの蜜柑箱のように四角な卓子の上に両肘をついてガバと面を伏せた。
「ああッ、……この薬は利くぞ。これは有難い。頭痛が直ってきた」
説明も出来ないくらいの激しい頭痛が、まるで拭ったように取れた。彼は両手を頭上高く伸ばして、
「ああ、直った。……万歳!」
と叫んだ。
すっかり元気になった佐々は、そこで改めてこの室内を見廻わした。それは前にも言ったように、まるで樽の中のような紡錐形の部屋で、天井がいやに高かった。ただし、その天井の方はズーッと細く尖っていて、まるでビール壜の中に入ったような形に見えた。とにかく何から何まで実に奇妙な形、風変りな調度ずくめであった。その奇妙な形にもそれぞれ或る恐ろしい意味があったことは後に至って分ったが、始めのうちは、何のため、こんな奇妙な形にしてあるのか、唯に物珍らしさに目をみはるばかりだった。
「だが、一体おれはこれからどうなるんだろう」
気が落ちついてくると、頭の中に急に不安な気持が黒雲のように拡がっていった。
「これはロケットだ。いまおれはロケットの中に閉じこめられて空中をドンドン飛んでいるのだ。どこへこのロケットは行こうというのだろう。おれを一体どうしようというのだろう。まさか月の世界へ行かせようというのではあるまいな。……それに、見れば別に操縦装置も何もないようだが、うまく着陸できるのかしら……」
元来が放胆をもって知られている佐々砲弾だったけれど、涯しない天涯に放りだされては、心細くならないではいられなかった。
「……何か操縦装置みたいなものがありそうなものだが……」
そのとき彼は、前の四角な函卓子の横に、小さな押し釦があるのに気がついた。
「……おお、これは何をするための押し釦かしら?」
変な押し釦を押して厭な運命を背負いこんでもつまらないとは思ったが、なにしろこの狭いロケットの中である。じッとしていても天涯にふり流されて、再び地球に戻れないかもしれないのだ。ぼんやり死を待っているよりは、鬼でも蛇でもよいこっちから、迎えに行ってやろう……と覚悟を決めて、佐々砲弾は、卓子の横についている押し釦の上に太い指を重ねると、思い切ってギューッと押してみた。
するとバタンという音がして、卓子の板が二つに割れ、左右に開いた。
「あッ……」
割れた板の下から現れて来たのは、四角な桝のようなものが六つ。底には硝子が貼ってあった。
「これは何だろう……」
佐々はその桝の底を覗いてみた。
大体その硝子底は暗かった。しかし一つの硝子底には、丸い月のようなものが青白い光を放って映っていた。また一つにはボンヤリ明るい光団があって、その中に黒い砲弾のような形のものがクッキリと輪廓を現しており、その向うには、ときどき閃光のようなものがパッパッと出ていた。
「これは何が見えているのだろう?」
佐々砲弾の眼は、この物珍らしい映像にしばらくは釘づけにされていた。
「……うん、これはことによると、このロケットの外の風景かもしれないぞ」
そう思った彼は、もう一度念入りに、その六つの枠のまわりを調べてみた。すると果して、一つ一つの桝には小さな札が貼りつけてあった。「頭」「尾」「前」「後」「左」「右」という六つの文字が見える。
そこで改めて、月のような形が見える、桝の名札をしらべてみると「左」とある。それからボンヤリ明るい光団と黒い砲弾のようなものが見える桝の方をしらべてみると、これには「尾」という名札が貼りつけてあった。
するとこれは分る……。
「ああ、この六つの桝は、テレビジョンの受影幕なんだ。つまり六つのテレビジョンでもって、このロケットの前後左右と、頭に尾との六つの方角の景色が映っているのに違いない。これは実に素晴らしい仕掛けだ……」
佐々は六つのテレビジョン眼をいくどとなく眺めつづけた。だんだんと見ているうちに宙に浮かんでいる自分のロケットがハッキリ見えるような気がしてきた。このロケットは、いま地表に対して垂直に飛びあがっているわけだった!
ボンヤリ明るい光団は、放れてゆく地上の都市の灯がうつっているのだろう。その顕著な光団は東京あたりか、それとも上海であろうか。
「だが、あの黒い砲弾のようなものは何だろう?」
黒い砲弾のようなものは、受影幕の中をフラフラと揺いでいた。その大きさはいつも同じであった。黒影が揺れる調子によっては、その横からパッパッと青白い閃光が見えるのが物凄かった。──一体この怪物は何であろうか。
ところが、この黒い砲弾の形が、俄かにハッキリ見える機会が来た。その黒い砲弾が、急に左右に伸びだしたのである。みるみるその砲弾は魚雷のように長細くなった。そして尾部からは、目も眩むような閃光をパッパッと噴きだしていた。
「ああ、ロケットだッ。このロケットを追ってくるもう一台のロケットがあるんだ……」
ロケットがロケットを追う……。
追い迫ってくるロケットは、ちょっとだけ横になっただけで、暫くすると、また元のように丸い黒円にかえった。これはおかしいと桝の中を調べてみると、「左」にあった月が「頭」の桝に移動していた。この二つのロケットは、急に進路を月の方に転換したものと思われた。
そのときだった。
「これは変だぞ……」
佐々は急に気がついて、大声をあげた。それはテレビジョンの入った函卓子が、だんだんと低くなってゆくのであった。なんだか卓子が、床下に沈下してゆく様子だった。なぜそんなことが始まったんだろう。
だがそれは大変な思い違いだった。卓子が沈下してゆくのではなかった。佐々の足がついている床がだんだんと上にのぼってくるのであった。
「おお、床が上る……」
彼が天井を見上げた途端、一切がハッキリと分った。──なぜなら天井が、いやに低くなってきたからである。
「これは大変だッ……」
佐々は椅子から跳ね上った。そして床と壁との境目を調べてみた。なるほど、フェルトを敷きつめた床がすこしずつ壁をすりながら上ってゆくのがハッキリ見られた。
彼は身に迫る危険をハッキリ感じた。彼は両手を壁に、両足を床につけてウンと突っぱってみた。そうして床の上ってくるのを防ぎとめたいつもりだったけれど、床はそんなことに無頓着のように、ジリジリと上ってくるのであった。
やがて卓子も床と同じ高さになって、ジリジリと上ってくる。椅子も床の中に紙を重ねたように吸いこまれてしまう。今や床の上には、佐々の身体がただ一つ残っているばかりとなった。
佐々の死にもの狂いの努力も甲斐なく、彼の身体はロケットの尖端に、まるで壜詰の薤のように押しつけられてしまった。そこには丁度首が入るほどの穴があいていた。もともと首を入れさせるためだったかもしれないが、とにかくそこに首をさし入れないことには、背骨がポキンと折れてしまいそうだった。だから止むを得ず、佐々は首をさし入れた。
そこは厚い硝子張りになっていて、四方がよく見渡せた。しかし眼にうつるものは、生憎暗い夜空と、月光の流ればかりだった。彼はなんのために、こんな穴に首を入れているのだか、一向訳が分らなかったのである。
そのとき突然、耳もとで人の声がした。
「どうだ、何か痛みを感じないかネ」
その声の方に、顔を向けてみると、硝子の中に小さい穴があって、その奥から声が出てくるのだった。
「なにをッ」
と、彼は憤然と怒鳴りかえした。
「どうじゃ。痛みを感ずるようだったら、そう云いなさい。……君、そう顔を横にしないで、顔を正面に向けたがいい」
怪しき声の主は、どこからこっちを見ているのか、佐々の顔色を手にとるようにハッキリと眺めているらしかった。
佐々は気味わるくなって、声のいうとおり顔を正面に向け直した。そのとき正面に何かチラリと動いた影があった。よくよくみると、その正面の硝子板の向うに、怪しげな髯男の顔が薄ボンヤリと見えた。炯々たる二つの眼玉を剥き、小鼻をピクピクさせて、こっちを睨んでいる様子は物凄いというも愚かであったが──その恐ろしい顔には見覚えがあった。
「ウン、貴様は辻川博士だナ。……なんのためにおれをロケットに乗せ、こんな目に合わせるんだ」
博士の顔は、それについて何の応答も与えなかった。そしてなおも熱心に、佐々の面をためつすがめつして、穴が明くかと思われるほど眺めているのだった。
「……ふうむ、これは疑問線の力が弱いのか、それとも疑問線の到来方向が変ったかナ。どれどれ……」
そういう声の下に、佐々は顔面に急にほの暖いものを感じた。と同時に、何とも云いあらわしにくいような厭な気持に襲われてきた。
「……げッ、げッ、げッ……」
佐々が苦しそうに咳こんでくると、硝子面にうつる辻川博士の顔面にニヤリと薄気味わるい笑みが浮かんできた。佐々は、こんどこそ助からない危難に襲われたものと思った。
「……た、たすけてくれッ」
佐々が叫ぶのを、博士は興味ふかげに眺めていたが、突然どうしたものか博士の顔にアリアリと愕きの色が現れた。
それと時を同じゅうして、佐々の乗っていたロケットは俄かにビリビリッと震動を始めた。そして彼を責めていた不快感が、急にピタリと停まった。──正面の硝子にうつっていた博士の顔が、雨のように流れだしたかと思うと、チカチカチカと煌くなり、まるで映写中のフィルムが切れたときのように、博士の顔がパッと消えて、あとには透明な硝子板の外になんにも見えなくなった。
異変はなおも続いた。──
佐々の身体を上に押しつけていた床が、スーッと下に下りだしたかと思うと、あッという間に、彼の身体は、例の樽底のようなフェルト床の上にドーンと転落した。彼の全身は、圧力から俄かに解放されて、ポッポッと激しい熱感に襲われたのだった。
ロケットの具合が、すこし変になっていることに気がついた。佐々は痛む身体を起して、再びそこに現れた函卓子の上を覗きこんだ。そして呀ッと愕いた。──六つのテレビジョンの受影幕には、今は何にも映っていなかった。どれを覗いてみても、すべて暗黒の世界であった。月も星も、すべてどこかへ姿を隠してしまった。彼のロケットは宇宙をどこへ向けて流れてゆくのであろう。
佐々は急に目の前が真暗になったように感じた。そしてヘタヘタと卓子の下に、身体を崩れ折ったのであった。
「うぬッ、こいつアいかん」
辻川博士は配電盤の前に仁王立ちになり、あっちの開閉器、こっちの把手を必死になって操っていた。
「ますますいかん。機械が急に利かなくなった哩。……不思議なこともあればあるものじゃ……」
盛んに器械をいじっているうちに、やっとテレビジョン回路のパイロット・ランプがパッとついた。博士は噛みつきそうな顔して、第一装置の受影幕を覗きこんだ。
「なにも映らん」博士は嵐に遭った船長のように把手をグルグルと廻した。博士の眼が、俄かにらんらんと輝きだした。「おお、あそこへ行く……B18号のロケットが……。待て待て、こっちへ呼びかえさにゃ……」
博士は正面の配電盤にとびついて、起動スイッチをポンポンと入れていった。電流計の針がブルッと震えたかと思うと、弾かれたようにピーンと右の方へ一閃、たちまち針が飛んでしまった。
「ううむ。なんたることじゃ」
博士は獣のように、低く唸ると、どっかと座席の上に腰を下ろして、両手で頭を抱えた。
「う、うッ……分らん、分らん。……B18号はもう取戻せないのかッ!」
すると俄かにリンリンリンリンと、けたたましい警鈴の響! 顔をあげると、大きな赤色灯が生物のように激しい息をしていた。
辻川博士はサッと顔色を変えた。
そして座席から立ち上ろうとしたが、このとき遅し、博士の身体は宙にグルッと一廻転して、壁の上にドタンと叩きつけられた。──ロケットが急に独楽のようにクルクル廻りだしたのであったから……。
「ううむ……」
博士はムックリ半身を起すと、蜘蛛のように壁ぎわにピタリと身体をつけた。もう二十センチどっちかへよったら、生きた高圧電気の線に触れるところだった。博士は頭部に裂傷を負って、赤い血がタラタラと額の上を走った。そしてツツーと流れてキラキラする白髪の交った髯の中へ溜り、それがボタボタと床の上に落ちていった。普段からすさまじい博士の形相が、さらに物凄さを加えて、悪鬼のように見えた。
「……おお、神よ。われを見殺しにしたもうことなかれ!」
博士は悲痛な声を絞って、天井の片隅を睨んだ。
そのころ、博士の邸内においては、博士の思いもかけぬような異常な光景が展開していたのを、博士自身はまだ気づかなかったようである。
博士邸の塔の真下にある発電室の中には、二つの人影がこま鼠のように敏捷に立ち働いていた。
「……ねえ河村さん。貴方はすこし静かにしていてはどうですか。今に胸の傷が、ひどい熱を持ちますよ」
といったのは、発電機のところで、油だらけになっている大隅理学士だった。
「いいや、わしのことなら大丈夫でござりまするわい……」と、胸一ぱいに繃帯をした顔色の悪い男が、疳高い声で叫んだ。「わしの生命は、もう長うござりませぬでナ。まだ眼玉の黒いうちに、辻川のやつに一と打でも二た打でも恨みを報いてやらぬでは、死のうたって死なれませぬじゃ。……ホラホラ辻川のロケットが、また首を建て直したようじゃ。さあもっともっと電圧を上げて下され」
「……河村さん。もうその辺で勘弁してやったらどうですか」
河村と呼ばれた繃帯男こそは、大隅学士がロケット室の中に胸に剣を刺されて仆れているのを見た怪人物だった。彼は生活力の強かったせいか、大隅の介抱の甲斐あって、深傷にも屈せず元気をもりかえしたのだった。彼こそは、いま博士邸の檻の中に収容されている河村武夫の父親であった。その昔、博士の仕事を手伝って、この矢追村の沖に錨を下ろした外国船に使いをした三人の人物のうちの一人だった。彼はなぜか、博士に対する怨恨に燃えて野獣のようになっていた。
彼は博士がロケットを操縦して天空に舞いあがっていると聞いて、ゲタゲタと物凄い形相をして笑った。そして大隅学士をこの塔の真下にある発電室に案内すると、そこにある磁力砲を使って、さんざんに博士のロケットを見えない磁気線弾で悩まし続けたのだった。磁力砲の前には博士自慢のロケットも、まるで風に吹きとばされる羽毛のように無力であった。その無惨きわまる空中の翻弄ぶりは、塔の天井にある大きな電子望遠鏡を透して、大きなスクリーンの上にマザマザと映写しつづけられていたのだった……。
辻川博士の乗ったロケットは、遂にあらゆる反抗力を失ったものか、真黄色な煙を濛々と中空に曳きながら、頭部をグッと下に下げると、アレヨアレヨといううちに、矢追村の南に真黒な海水をたたえている大戸神灘の真只中に、天に冲する水煙と共に落下し、つづいて轟然たる音響と共に花火のような一大閃光を発し、その物凄い震動に驚いて寝衣のまま戸外にとびだした村民たちの目にも、暫くはその怪光が海上に探照灯のような尾を引いて東に馳けりゆくのがうつったのであった……。
怪博士辻川聖弦はどうなったであろうか。この海中に墜落したロケットと共に、水底に深く沈んだろうか。それともあの大爆発と共に四肢は裂けて空中に飛散したであろうか。その運命の果を知る者は誰もなかった。
それは暫くお預りとして、その翌日からこの矢追村に突然姿を現した奇々怪々なる幽霊事件について、筆を進めてゆかねばならない。
「とうとう、辻川のやつをやっつけちまった。ざまア見ろいだ!」
と、武夫の父の河村氏は本快の微笑をもらしたが、不死身の彼も重傷を怺えてのこの奮闘に疲れ果てたのであるか、
「ああッ……」
と叫ぶなり、その場にドーンと倒れてしまった。
「オーイ、河村さアーン」
大隅学士は、河村を抱き起すなり、その耳許に口をつけて叫んだ。しかし彼は、かすかに呻ったまま、またグッタリと長く伸びてしまった。河村の手足は、みるみる冷くなってゆく。
「これはいけない。……誰か手を貸してくれないかア……。」
と、無駄と知りつつ、彼は無人境に等しい怪博士邸内の動力室で、悲鳴をあげた。
そのときだった。
「おお……」
誰か応えた者があった。何者かとふりかえって見ると、入口のところからオズオズと顔を出したのは、外でもない怪博士の下僕の岩蔵だった。彼はコトンコトンと義足をひきずりながら、室内へ入ってきた。
「おお、君は居たのか。……今まで何故引込んでいたんだ」
大隅学士は、岩蔵が博士に連れ立って、ロケットで飛び出したものと思っていた。だから、彼の出現は思いがけなかった。しかし岩蔵の話を聞いてみると、こうだ。──博士が自らロケットに乗り込んだときに、突如河村が姿を現して、まだ開いていた入口に飛びついた。そこで博士と物凄い格闘が始まった。岩蔵は博士に力を貸すべきだったかも知れないが、河村とは旧知の間柄であり、彼の強いことを知っていたので、これは面倒だと逃げだした。そして自室に帰って小さくなっていたが、もういい頃だと思って、様子を見るために、再び引返してきたのだという。その言葉は嘘ではないようだ。すると河村の負傷は、すべて博士の仕業だということになる……。
「それでは丁度幸いだ。河村さんのために、医者を呼んで来てやりたまえ」
ところが岩蔵はそれを肯んじなかった。なにしろこの怪博士邸内には、常規では到底考えられないような怪しい生物などが飼ってある。それを今、村人に知らせるのには反対だ。ことに武夫少年のためにも、たいへん不幸を懸けはしないか。なぜなら、銅像のように急に超巨人になった武夫を見て、村人はきっと化物あつかいをするに相違ない。それはまた武夫の母を苦しませることになり、引いては今ここに人事不省になっている彼の父親を更に昂奮させる種にもなるから、俺はいやだア……というのであった。そしてこういうことを附け加えて云った。
「……これ位の傷なら、あっしだって手当が出来ますよ。なにしろ、あっしは外科の方なら、ちょっと心得がないわけでもないのでネ。ごらんなせえ。この足を一本無くしたときにも、あっしゃ、人手なんか、ただの一つも借りなかったくらいですよ」
と、岩蔵は妙なことを自慢しだした。
大隅学士は、そこで肚を決めた。たしかに彼の云うのは尤もであると、今この怪事件を村人に知らせたとすると、それは徒に騒ぎを大きくするだけで、武夫少年一家の苦痛を増させることはともかくも、この怪事件の真相を知ることが困難に陥りはしないかと考えた。だから当分のうち、村人には知らせない方がよいのだ。そう決心した彼は、岩蔵に河村の看護を一任したのだった。
「……ナーニ大丈夫ですよ。傷の手当てさえして暫く安静にさせとけば、元気になるのにはそう掛りませんよ」
そういって岩蔵は、河村をソッと背負うと、自分の小屋の方へ搬びだしていった。
これで大隅学士の重荷は、すこしばかり軽くなった。──さあ、後には、数々の大変なことが控えているのだった。まず第一に、佐々砲弾のロケットの行方である。
「……佐々のロケットを探してやらなくちゃ……」
彼は、電子望遠鏡の前に立って、その操縦桿をいろいろと操りながら、天涯を隈なく捜査していった。ところがどの位探しても、ロケットの姿は入ってこなかった。電子望遠鏡もいいけれど、何しろ相手がどの位の距離にあるのか分らないと、動いている物体に焦点を合わせることは困難を極めるのだった。
「……ああ、この光り物が、そうじゃないかしら……」
大隅は突然チカチカと息をしているような光芒を認めた。それはボンヤリしていたが、それをレンズの中心に持って来て置いて、その上で焦点を合わせてゆくと、その姿はだんだん明瞭になっていった。
「おお、B18号。……これだッ、砲弾の乗っているのは……」
ところが佐々の乗ったロケットの距離を電子望遠鏡の目盛で読んでみて愕いた。地球からの距離は、丁度八百キロメートルの向うにあった。それではもう成層圏なんか、とうの昔に飛び越し、電離天井のE層やF層も突き抜け、その三倍も向うに居るのだ。しかも見ていると、佐々砲弾の乗ったロケットは、地球の方に舞いもどるどころか、なおも一層グングンと地球を離れてゆきつつあることが、望遠鏡の目盛の再調整で、それと分ったのである。一体その行方は何処であるか。佐々砲弾はどんな気持で乗っているのだろう。地球に拙劣な着陸をして一命を隕とすよりはいいけれど、行方も見当がつかないのでは仕方がない。
大隅学士は、電子望遠鏡の前に坐りきり、刻一刻と、佐々のロケットにピントを合わせては、際涯しらぬ天空にとびだしてゆく友の身の上を心配しつづけた。
トロトロと睡ったらしい。
なにしろ大隅学士は、連日連夜の奮闘で、身体は綿のように疲れていた。しかし刻々に危難が自分の上に今にも落ちてきそうに見えるときには、緊張していた。だが今は、怪博士のロケットも爆破し、博士邸の番人である岩蔵も彼に降服し、この博士邸は今や彼の支配下にあるようなものだった。
彼は危難から解放せられた形で、ただ友人の身の上を案じながら、外に手段もないので、五分間置きに電子望遠鏡を覗くだけの仕事しかなかったので、そこで精神の緊張が解け、そこへ疲労感が急にあふれてきて、さてこそトロトロと睡ったものらしかった。
「あッ、これは失策った……」
大隅は、周章てて椅子の背から身体を起すと、電子望遠鏡を覗きこんだ。友の機影はどの位まで焦点を外したかと思いながら、注意して距離調整用のクランクを徐かに廻していった。ところが……どうしたものか、どの位クランクを廻していっても、佐々砲弾のロケットは出てこなかった。
「これはいかん……」
彼は顔色をかえた。しかしそれはもう遅かった。いつの間にか、佐々砲弾の乗っていたロケットの機影は、望遠鏡から外れてしまったのだった。彼は愕いて、あれやこれやと調整し得られるものを操ってみたが、遂に求める機影は入って来なかった。……そのうちに東の空がだんだんと白んできた。そしてやがて夜は明け放れた。然し彼の望遠鏡は遂に何の手懸りをも掴む事が出来なかった。
「ああ、砲弾はどこへ飛んでいったのだろうッ……」
と、大隅理学士は、怜悧で勇敢であった同志の身の上を懐って、ハラハラと泪を流したのだった。
爽やかな朝の微風の中に立った彼は、ようよう生き返ったように思った。彼は広い庭をトコトコと歩いて、門脇にある番人の岩蔵の小屋に行ってみた。
岩蔵はもう起きていた。そして傍のベッドの上には、武夫の父河村が、胸一杯に、部厚な繃帯を巻いて、唇は色うすく、顔色は土のように蒼ざめていたけれど、気持よげにスヤスヤと睡っていた。この分なら、大丈夫恢復するだろうという岩蔵の言葉に、彼はホッと安心の胸を撫で下ろした。河村こそは、やがて恢復すれば、この怪事件について参考になることをふんだんに喋ってくれるだろうと思われたので、彼は嬉しくなったのである。
そこで大隅理学士は、あとを岩蔵に頼んでおいて、久しぶりに、下宿していた村の方へ帰ることとなった。彼はトボトボと、なだらかな坂道を下りていった。僅か三、四日見なかったばかりの矢追村だったのに、彼はもう三、四ヶ月も来なかったような気がするのだった。
下宿では、朝日を浴びて洗濯ものを乾していたお内儀が、彼を見つけると頓狂な声をあげて近づいてきた。
「あらまア、大隅先生。わたしゃ心配していましたがナ。貴方さまは一体どうなすったというの……」
「イヤ突然だったけれどもネ、ちょっと東京へ出かけたんです。知らせる間もなくてどうも……」
といったけれど、大隅の洋服はヨレヨレになりところどころ鍵裂きや泥に汚れて、一と目でそれと、連日の悪戦苦闘を物語っていた。
「へえ、東京へ……」
とお内儀は妙な顔をして首をかしげたが「それからあのお連れの佐々さんはのう」
「ああ、佐々君か。彼も一緒に東京へ行ったんだが、そのうち帰ってくるだろう」
「そんなに宿へも知らさんし、支度もせんでお出掛けになるとは、一体どんな御用かいのう」
大隅は只苦がりきって、ゴロリと畳の上に横になった。
「なアもし大隅先生。……もしわたしの思い違いなら許して貰いますが、先生がたはあの魔の森へお入りじゃったのではないかのう。もしそうなら、ぜひ悪魔払いのお呪いをせんと、生命がないでのう」
大隅はお内儀の声が、だんだん遠くに小さくなってゆくのを感じた。彼は疲労のためにそのままグッスリと熟睡に陥ったのであった。彼の疲労はちょっとやそっとでは恢復しそうもなかったのである。
それからどの位経ったかしらないが、大隅学士は、突然金切り声を聞きつけて、ハッと眼が覚めた。
ドタドタドタと梯子段に尻餅をつきながら転げ落ちてゆくような音、そして、
「ウーム」
という呻り声。
彼は何事が起ったのかと吃驚して跳ね起きた。愕いたことに、もうすっかり夜になっていた。頭の上には五燭の電灯が一つ点っていて、室内には蚊いぶしの匂いがプンプンしていた。彼は階段の方へ二、三歩行きかけたが、そのとき何だか室内に人の気配を感じた。
「誰もいない筈なのに、誰だろう?」
と思って、室内をグルッと見廻したが、そのとき窓のところから何ものとも知れず真白なものがフワリと外へ飛び出していった。
「呀ッ……」
彼は恐ろしさよりも好奇心が先に立って、すぐ窓のところへ駈けつけた。するとその白いものの尾のようなものが、欄干にダラリと懸って、蛇のようにスルスルと外へ出てゆくところであった。彼はウヌと呻ってその白いものをギュッと掴えた。
「ギャッ……」
と悲鳴を挙げたのは、白い怪物ではなくて大隅学士の方だった。彼がその白い尾に触るか触らないうちに、彼の身体はドーンと後方へ跳ねとばされた。もうすこしひどくやられると、壁の真中に叩きつけられるところだった。
「何だろう? 人間かそれとも妖怪か?」
彼は再度跳ね起きると、欄干のところへ突進していった。そして暗い外を見た。白い怪物はたしかにまだそこにいた。しかし彼が顔を出すのと一緒に、暗闇の中に紛れこんで、スーッと姿を隠してしまった。
「うぬ、逃がすものか……」
何が何やら分らないながら、彼は追駈けてゆく決心を定めた。そして梯子段を下へトントンと駈け下りて行ったが、そこには、宿のお内儀が倒れていた。
その身体を跳び越えて、彼は往来へ飛んでいった。そしてそこら中、あっちへ走り、こっちへ駈けしたが、その白い怪物の姿を遂に見失った。彼はスゴスゴと、宿の方へ引返した。
お内儀はようやく気がついたものと見え、梯子段の下に半身を起し、腰のあたりを痛そうに撫でていた。
「おお、お内儀さん。今のは、あれは何ですかネ」
「ナ、何ですかって、わたしもあんな恐いもの知らへんがのう。どう見ても幽霊じゃ。先生が寝とらす周りをグルグルと何遍も廻っていたがのう」
「ナニ僕の寝ている周りをグルグル廻っていた?……やっぱりあれは幽霊かなア」
大隅学士はドキンとした。果してあれは幽霊であろうか。日本の幽霊は、ああいう場合、糞落ちつきに落ちついて、背後をふりかえり、痩せ細った手首をフラフラと動かして空間に小さな円周などを描き、恨めしそうな顔をヌーッとこっちへ出すといったのが定石なのであるが、今見た幽霊の方は、掴もうとしたのに、ドンと恐ろしい一撃を加えて、スーッと逃げだしていった。その激しい力や活溌な行動からいって、むしろ何か生き物に近い感じがする。もしそれが幽霊だとすると、よほど生前活溌な武将ででもあったにちがいない。……
と、そこまで考えて来たときに、彼はハッと胸を衝かれたように思った。
(もしや、あれは佐々砲弾の幽霊ではないかしら? それともあの怪力の辻川博士の亡霊だろうか?)
大隅学士は、俄かに失った友のことを考えて、胸をしめつけられるように感じた。しかしあの佐々砲弾が、まさか幽霊になろうとは考えられない。第一、幽霊なんぞというものは、この頃すっかり流行らなくなっているのだ。ただどうも腑に落ちないことは、この夏の矢追村においては、次から次へと、常識では到底考えられないことが頻発しているのだった。幽霊もその常識では考えられない。一つの現象として考えれば、考えられないこともなかったけれど、果してこの科学文明の世に、時代色濃い幽霊などが現れてよいものであろうか。
宿のお内儀は、ヨロヨロした足どりで、土間に下りて、息ぎれの水を飲みにいった。
そのとき、ワイワイという人声がして、大勢の足音が門の前を通りかかった。
「おう、おばア、いるかア……」
と、一人が戸口から声をかけた。
「おう、甚平さんか。……うちでは、えらいことじゃ。今しがた、二階のところをナ、白い着物を着た幽霊がフワフワと飛んでいたのじゃ」
「ナニ白い幽霊が。……お前の家にもか?」
「アレお前の家にもかって、他へもあの幽霊が出るのかの?」
「いや、いま村中はその幽霊のことで大騒ぎじゃ。太郎作のところへ出たのが最初で、それから小学校の用務員室に出る、酒屋の喜十の店先に出る……そんなわけであっちからもこっちからもの注進で、その図々しい幽霊は六ヶ所に現れよったのじゃ。おばアのところのを入れると、都合七軒になる。いま村の衆で自警隊を組み、幽霊狩りを始めているところじゃ」
「おンや、そんなら幽霊の出たのは、わたしのところばかりじゃないのじゃな」
「そうだともそうだとも。なんじゃ知らぬが、昨夜大戸神灘の沖合に落ちた大火柱といい、今夜の幽霊さわぎといい、どうもこの矢追村には怪かしがついているようじゃ」
「おお、昨夜の火柱のう。わたしゃあんな気味の悪い火の柱は生れて始めて見たわい。寿命が縮まったが、それに昨夜の今夜じゃ。村長さんに頼んで、村中の総お祓いをしてもろうたらどうかいなア……」
「うん。わしももう生きた心地がないのじゃ。……ドレ皆の衆に追いつかにゃ……」
そういって、故老古花甚平は、外へ出ていった。
大隅学士は、幽霊事件にも興味を引かれたが、それよりも辻川博士邸がその後どうなっているか心配だったので、お内儀には、ちょっと港の方に出かけるが、或いは今夜はかえらないかもしれないと云い置いて、家を出かけた。
彼は懐中電灯の灯をたよりに、暗い野道を一文字に、怪博士邸の方にのぼっていった。岩蔵と謀し合わせて置いたように正門脇の隠し釦を押すと、重い脇戸はスーッと内に開いた。
「どうだネ。河村さんの容態は?」
「どうもまだ分りませんな。気が一向ハッキリして来ねえのです。傷の方は、いい塩梅に化膿しないで済みそうですよ。明日一杯が勝負というところでしょうな」
「そうか。君の手で合わなきゃ、土地の事情を知らぬ東京から医者を呼んでもいいが……」
「いえ、とんでもない……」と岩蔵は強くかぶりを振りながら、「このわしで大丈夫でさア。わしに手当が出来ないものなら、どんな大博士だって、やっぱり出来やしませんよ」
大隅学士は、そこで河村を岩蔵の小屋に見舞いに行った。
「オイ、岩蔵君。どうして河村さんを、こんな押入れの中に入れちまったんだ。座敷に寝かして置くのがいやなのかい」
「いえナニ、そういう訳じゃないんですが、……いつまた誰がこのお邸に来て、あの人を見つけるかしれませんからねえ。そうなるとあの人の為めになりませんよ」
「ほほう、それはまた何故だ。村人が来ても入れないから大丈夫じゃないか。また辻川博士は墜落してロケットと共に運命を共にしたので、もうこの邸へは帰って来ないし……」と云ったとき大隅の脳裏に突然チラリと掠めたものがあった。「それとも君は、博士がまたこの邸へ帰ってくると思っているのかネ」
「…………」
岩蔵はそれに応えようともしなかったけれど、そのソワソワした態度は、大隅学士に少からぬ不安の念を植えつけた。
「真逆君は……」
といったとき、突然本館の方角に当って、何かガーンという金属板を力一杯殴りつけたような音響がした。
「呀ッ……」
大隅はハッと愕いて、外へ飛び出した。すると本館の五階の窓が四つほどアーク灯のような真青な閃光でピカピカと明滅しているのであった。
「おう、あれは何者の仕業だ」
この邸の中には、例の檻は別として、残っている人間は、岩蔵と、傷つける河村とそして、今入って来た大隅との二名しかない筈だった。その三人はいずれも門脇の小屋にこうして集まっている。それだのに本館の方で、突然金属板を叩くような物音がしたり、アーク灯のようなものがピカピカ輝きだしたりするとは、どうしたわけであろうか。何者かが本館の中に居るとしか考えられない。しかしそんなことはあり得べきことであろうか。
「わしは……わしは何も知らねえんで……」
と、岩蔵はオドオドした様子で、下を向いていった。
「知らない? 本当か。……とにかく僕は見て来る……」
大隅学士は勇敢にも、挺身して本館に向った。岩蔵は愕いて、学士を呼びかえすために両手をさしのばしたが、何と思ったものか、そのまま手を引込めてしまった。
大隅学士は、植込みの中を注意ぶかく縫っていった。そして勝手知った裏口から、ソッと本館内に忍び入った。
それから、五階までの階段を、コトリとも跫音を立てぬように登って行った。五階までのぼりきると、何だかしらぬが、シュウシュウシュウシュウという物音を耳にした。それは器械の音というのではなく、むしろ呻き声か鳴き声かに類していた。強いて相似なものを求めると中米の砂漠に住んでいるガラガラ蛇の尻尾から出る怪音に似ていた。
大隅は、なおも跫音を忍んで、廊下の上を歩いていった。
「どの部屋だろう?」
尋ねてゆくと、やがてそれは分った。それは、かつて彼が辻川博士のために実験台の上に乗せられ、博士の独言によれば、オメガ線と疑問線という二つの怪光線を身に浴せかけられようとしたその部屋──つまり「第一実験室」であった。
そこで彼は、思い切り勇気を出して、廊下に積んであった空函を戸口に重ねると、扉の上の廻転窓の中を透して、ソッと室内を窺ってみた。
「……ああッ……」
学士は愕きのあまり、函の上から転げ落ちそうになって、やっと怺えることができた。何ものとも知れぬ青白い光線に照らされた広い実験室内には、何だかモヤモヤした霧のようなものが動いているだけで、人間の姿は何処にも見当らなかったけれど、暫く見ているうちに、その室内にモヤモヤと立ちこめている霧のようなものが、半透明な身体を持った異様な生き物の集団であることに気がついたのであった。その数は十五、六体もあろうか。互いに犇きあいながら、そのたびにあの異様なシュウシュウシュウシュウという怪音を立てるのであった。下宿で見た白い怪物と同じものだ。
一体この怪物は何者であろうか。どこからやって来た生き物なのであろうか。
大隅学士の生涯を通じて、辻川博士邸の第一実験室のうちに、この訳のわからない異様な生物を発見した愕きに勝る愕きは、外になかった。青白い光線に照らされた室内には、半透明な白っぽい身体をもった凡そ十五、六体の生き物が霧のようにフワフワと泳ぐような恰好をして、互いにシュウシュウ鳴き合っているのだった。彼は、こんな生き物のことを、どんな動物学の文献からも読んだことがない。いや、このような怪生物は、人間の想像に絶するものだ。
「幽霊ではなかろうか?」
大隅学士は、廻転窓の枠につかまって、なおも室内を窺いながら、不図そんなことを思った。学者のくせに、幽霊だと思うなんて、全く恥かしいことだったけれど、殊更そんな恥かしい思いつきをするのも、その怪物があまりにも人間の常識を外れたものだったからであった。
(こいつ等が、もし幽霊だとしたら……そうだ、幽霊は日本語がわかる筈だ。一つ、勇敢に話をしてみようかしら?)大隅がそう考えているとき、室内の白い半透明の怪物は、何かに愕いたものと見え、急に一ヶ所に頭を寄せ集めると、なんだか盛んに頭をふりながら協議をしている様子だった。なにを始めるのかなアと思っているうちに、突然そのうちの二匹が集団をスーッと離れると、いきなり大隅の覗いている戸口の方へ向け、まるで人魂のように飛んできた。
「呀ッ!」
と、大隅が声をあげたときは、もう既に遅かった。半透明の白幽霊は、廻転窓にぶら下っている彼を左右から挟んでしまった。
大隅は、その白幽霊が、ドアを開けもしないのに、それを突き抜いて、廊下へ飛び出してきた奇怪さに、ゾーッとした。幽霊は物理学に反抗する! いよいよこれは幽霊だ。
〝君、そこを下りて、室内へ入って下さい。私たちは、君に質問をしたいのだ!〟
「えッ!」
大隅は、息が停るほど愕いた。白幽霊どもは、たしかに彼に対して、「室内へ来て、質問に答えよ」と云ったように感じたのだ。しかも彼の耳は、遂に一言も白幽霊の声を聞いたのではなかった。白幽霊は、声を出して喋らなかった。それにも拘らず、白幽霊が質問をしたいと彼に申込んだと、ちゃんと分るのであった。声なき会話! なんという不思議な現象だろう。
「ぼ、僕のことですか。……この部屋に入れって云うのですか」
と、大隅は慄える声でもって、彼の身近かに迫っている二匹の白幽霊に尋ねた。
〝そうです〟
「ああ……」
白幽霊は、またもや声を出さないのに、大隅に白幽霊の意志を伝えた。なんと驚くべき怪現象ではないか。
大隅はもう観念した。こう覘われては、もう逃げる余裕はない。この上は胆力を据えて、白幽霊の前に出、そして彼等の質問に答えると共に、逆に彼等の正体を偵察してやろうと決心した。そこで彼はドンと廊下に飛び下りた。そして扉に手をかけて、それを開いた。その開いた戸口から、彼は室内へ入っていった。連れの白幽霊はと見ると二匹とも人間では到底通れそうもない壁のところを、まるで壁が無いかのようにスーッと通った。そして大隅の方を見て、さも可笑しそうに笑った──というと、これも説明しなければ分らぬが、そのときその得態の知れない白幽霊の笑った顔が見えたというのではないが、なんとなく笑ったように感じたのであった。恰も
〝なんという、不便な身体をもった男だろう。あッはッはッ〟
という風に……。
大隅学士は、額から脂汗を流しながら、室の中央に蝟集している白幽霊の一団の前に進みいでた。彼はこわごわ彼等の様子を観察した。彼等はまるで白寒天のように半透明であった。身体の大きさは人間より一まわりほど大きかった。一言でいうと、彼等は西洋の幽霊そっくりだった。つまり人間が頭からスッポリと白布を被った恰好に等しかった。しかし身体はまるでアミーバーのように、自由に形をかえられるものと見え、決して一定の形をしていなかったがそれでも大隅の顔とほぼ同じ高さのところに首らしいものがあり、そしてその中にはどう見ても眼玉と覚しきダイヤモンドのように光る丸いものが嵌めこまれていた。しかしその眼玉は人間のように二個ではなくて、三個であった。その三個の眼玉の間隔はたいへん離れていて脊柱(もし有るならば)を中心として約百二十度ずつ開いた角度のところに嵌まっていた。それから見ると、この白幽霊は、人間の眼のように正面だけが見えるばかりではなく常に前後左右いずれの方向も見えるだろうと思われた。実は、これは後になって発見したことだったが、この白幽霊は、もう一つの眼を頭の真上にもっていた。それは上方を見るに都合のよいものであった。しかしこの時は、そんな思いがけないところに眼があろうとは思わなかったので見遁してしまった。
シュウシュウシュウシュウと、彼等はひとしきり激しく鳴き合っていたが、この鳴き声は何の意味だか分らない。そのうちに、一団の中から、一匹の白幽霊が大隅の前に進み出た。すると俄かに彼は、白幽霊の音なき声を了解したのだった。
〝辻川博士は何処へ行ったのか?〟
辻川博士は何処へ行った?
ははアなるほど、それで分った。彼等は辻川博士の所在が知りたいばかりに、大隅を室内に連れこんだのであった。彼等は辻川博士を前から知っていたのに違いあるまい。
「……さあ辻川博士は何処へ行ったのでしょうか……知りませんネ」
〝辻川博士は、なぜこの邸から居なくなったのか?〟
「さあ、それもよく分りません。しかし……僕の知っているところでは、博士はロケットに乗って、天空に飛び出されたが、そのまま帰って来られないのです」
〝天空へ?〟
「そうです」
すると一団は俄かに興奮の色を現し、またガラガラ蛇のように、シュウシュウシュウシュウと奇妙な声をあげて鳴きだした。
そのうちに、彼等の一部は、不気味な頭を寄せて、天井の一角を睨んだ。そして見ていると、だんだんと首を違った方角に向け直していった。それは天井を注視しているように見えたが、実際は天井に興味があるのではなくて、彼等の人間離れをした視力でもって、天井や屋根をとおして、遥かの天空を探しているのだということに気がついた。もちろんそれは辻川博士のロケットを探しているのに違いなかった。
そのうちに、また白幽霊が話しかけた。
〝博士のロケットには、B18号と書いてあるか?〟
「いえ、違いますよ。博士のロケットは、確かE4号でしたよ」
白幽霊は、また奇妙な声で鳴き合った。大隅学士は、この会話のとき、或る重大な事実に気付くべきだった。しかし心の余裕を失っていた彼は、そのとき遂に気付かないでしまった。彼は後になって、そのときのボンヤリさ加減を、どんなに悔んだかしれない。それはそれとして、白幽霊たちは盛んに鳴き合っていたが、そのうちに鳴くのをピタリとやめてしまった。それを注視していると、彼等は一匹ずつ順々にスーッと宙に浮かんでは、後から後へと繋がって天井の方に上昇してゆくのであった。
(おお、彼等は逃げ出したぞ!)大隅学士は狼狽した。絶好のチャンスが、今逃げつつある。彼等をこのまま逃がしてはならない。そう思った彼は傍にいた一匹に向って、勇敢にも声をかけた。
「……アアもし。……貴方がたは何者なのですか。われわれとは違った生き物だと思いますが、何者なのです」
その声を聞くと、彼等は俄かに上昇を中止して、またゾロゾロと下りて来た。そして大隅学士をグルリと取り巻いてしまった。しかし彼等は何とも返事をしない。
「……ああ皆さん。……僕は貴方がたの質問に答えた。だから貴方がたも僕の質問に答えるべきではありませんか。貴方がたは人間ですか。それとも霊魂ですか」幽霊と云いたいところを、すこし敬意を払って、霊魂と云った。
すると怪物の一団は、ゲラゲラゲラと笑いだしたように思った。そしてやがて待望の返事を大隅に与えたのだった。
〝君に云っても分らないと思う。われ等はウラゴーゴルだ〟
ウラゴーゴル? ウラゴーゴルとは何であろうか。大隅はその聞きなれない言葉を、忘れまいとして懸命に口の中で繰りかえした。
その間に、白幽霊の一団は、また元のように一匹ずつ天井に向けて上昇していった。
ウラゴーゴル?
「待てよ……」
大隅学士は、首をひねった。
ウラゴーゴルとは、何処かで聞いた名前である。それは何処だったかしら。さあ、思い出せ、思い出せ、さあ、早く思い出せ! 学士は自分の頭を拳固でもってガーンと殴りつけた。しかしそれは脳髄がジジーンと痛みを覚えたばかりだった。
「……ああもし。ウラゴーゴルとは何です。どうか教えて下さい」今や最後に残った一匹の白幽霊──ではないウラゴーゴルが床の上から天井に昇ろうとするのを引き留めて、大隅は一生懸命に訊ねた。すると、その最後の一匹が応えた。
〝ドクトル、シュワルツコッフが知っている……〟
「えッ、シュワルツコッフ博士?」
最後のウラゴーゴルの姿も、遂に天井の向うに見えなくなってしまった。
怪物ウラゴーゴル!
それはシュワルツコッフ博士に訊け!
大隅学士は只一人室内に取り残されたまま、暫くは物に憑かれたように、ウラゴーゴルとシュワルツコッフ博士の名をくりかえして叫んでいた。
よくは分らないけれど、あのウラゴーゴルは人間の幽霊ではなさそうに思える。第一、眼玉が人間の眼の数よりも多く、そしてその附いている場所が違っている。だから人間と同じ種族のものではないであろう。どうも別の種族らしい。人間以外のものというと……一体何であろう。
恐らく辻川博士は、ウラゴーゴルが何者であるかを知って居り、彼等と交際をしていたと思われる。シュワルツコッフ博士もまたウラゴーゴルと交際っているのであろう。辻川博士亡き後は、シュワルツコッフ博士に訊くより外致し方がないのであろう。シュワルツコッフ博士は、一体どこにいる?
このとき大隅学士は、気がついて、この第一実験室の中をグルッと見渡した。それは辻川博士のウラゴーゴルについての手記が必ずどこかにある筈である。その手記というか研究ノートというか、その書き物を見れば、ウラゴーゴルの秘密は、幾分わかるであろう。そう思ったので、彼は実験室内を探しまわり、書棚や机の抽出に手をかけてみたが、意地悪くも、どの棚も抽出も、悉くキチンと錠が懸っていて、いくら彼が力を出したとて開けられそうにもなかった。彼は戸棚探しを断念しなければならなかった。
そこで彼は、実験室を出た。
彼は幅の広い階段をトコトコと下りていった。そしてやがて真暗な館外に出ると、門番岩蔵の小屋の方へと歩いていった。
「大隅さん。何かおりましたか」
と、岩蔵は彼の顔を見るなり、訊いた。
「ウン……別に大したものではない」
大隅はそう返事をした。彼は岩蔵の言葉の調子から、彼が既にウラゴーゴルを知っているらしいのを感じたのだった。
彼は小屋の奥に静養している武夫の父親河村のところへ行った。彼が入ってゆくと、河村は水を呑ませてくれといった。彼は漸く生気を取り戻したようであった。
「ねえ、河村さん」
と大隅は病人の枕頭に腰を下して、話しかけた。
「ええッ──」
「僕は、貴方にぜひ教えて貰いたいんだが……去年の夏のこと、この沖合に外国船が一艘やって来て辻川博士と連絡したでしょう。あのとき、どんな用事があったんだか、話してくれませんか」
「ウン、あれかネ……」
といったが、河村は意地が悪そうに唇をゆがめて、ニヤッと笑った。
「……あのことばかりは云えないよ。第一云わないという約束だったしネ。それに……それに俺はあのことで自分でやりたいと思っていることがあるんだ。だから誰が何といっても喋らないぞ!」
河村はなぜか興奮して、形相ものすごく、大隅の申出を断った。
大隅は落胆した。折角聞けると思ったことが、今や余命いくばくもないこの重傷者の唇から聞けないと分ると、彼は掌中の珠を奪われたように、残念に感じたのだった。
といって、あの外国船について知っている者は僅かに四人、そのうち辻川博士と喜太郎とは既に死に、残る二人のうち、助役古花甚平は、現在の位置もあり思慮もあって、なかなか軽々しく喋ろうとはしないし、この上彼を監禁などしては、村中の輿論を悪く刺戟する結果、大隅のこの事件探索はもちろんのこと、この村に滞在することも許されなくなるので、それはなるべく避けたかった。そうなると、この際、気息奄々としている河村から聞きだすのが一番いいことだと思われたのに、彼がなおも頑固に喋らぬとあっては、悲観せざるを得なかった。なにか彼に口を開かせるよい方法はないものであろうか。
そのとき彼は、一策を思いついた。
「ねえ、河村さん。……僕はぜひ、貴方に見せたいものがあるんだが、見てくれませぬか」
「見せたいものって……」
と河村は床の中から、大隅の真意を探るような眼付でもって見上げた。
「そうです。ぜひ見せたいものです。……実は貴方の息子さんの武夫君が、この辻川博士邸内にいるのです。しかも気の毒なことに、博士のために監禁せられているのです。どうです、見たくはありませんか」
「ナニ、あの武夫がこの邸に監禁せられているって?……ああ、それは一体どういう訳だ。なぜ辻川は、俺の伜を監禁したのだ。さあ聞こう、その訳を……」
「その訳を話せといっても、それは辻川博士に聞いてみなくちゃ分りませんよ」
「だって、お前さんも知っているのだろう。さあ、教えてくれ。……監禁されていることを知っていながら、お前さんはなぜ伜を救おうとはしないのだ。可笑しな真似をすると、俺は許さんぞ……」
といって、彼は病床から身を起そうとしたが、傷の痛みに襲われたものか、あッというと、顔をしかめてまた床の中にドスンと倒れた。
大隅学士は、それを待っていたようにして、一膝のりだした。そして病床の河村の耳の傍に口を持ってゆくと、ソッと何事かを囁いたのだった。
「……ウム、そうだったか。お前さんは、伜が村の奴等に見殺しにされようとするのを、助けようと……」河村の言葉がグッと詰った。
「……いやア、俺は悪かった。一年間も、家のやつをうっちゃって置いて遊んでいたのだからなア。それも辻川に貰った礼金があんまり多すぎたもので、つい悪い心を起して、女房子供を捨てて遊び廻っていたんだ。それもこれも、みな辻川の奴のためだ。……しかし今はもう後悔している。こんなに傷を負っても、家に帰らないのは、せめても女房子供にこの上の苦労をかけないためだ。……それだのに、伜が辻川のやつに、この邸に監禁されているなんて……」
河村は悲歎と憤慨とを、両眼からはふり落ちる涙に托して、嗚咽した。
「そこで河村さん」と大隅は彼の肩にやさしく手をあてて云った。「武夫君を助けるためには、どうしても貴方から外国船の秘密についてお話を聞かなきゃうまくゆかないのです」
「何を……。ハハア、お前さんは、俺をうまくひっかけて、例の話を聞きだそうというつもりだな。おお危い。誰がそんな手に引懸るものかい」
と、たちまち変る河村の態度に、大隅はなおも屈せず、遂に云った。
「じゃ、話す話さんはとにかく、武夫君の哀れな姿を見て下さい。僕は、あまりにも悲惨だから、武夫君を却って苦しませると思って、その後彼に会わないでいるのです。もうこうなれば仕方がありません。それは貴方をも新たに悲しませることになるかもしれないが、武夫君を救うためには、それも已むを得ない。さあ、ではこれからソッと武夫君を見せてあげますから、私の背中におんぶなさい」
大隅の真心が通じたのか、この重傷者は、とうとう大隅に身体を預けた。
二人が入口に出ると、そこにいると思った岩蔵はどこに行ったか姿が見えなかった。大隅は河村をおんぶしたまま、庭づたいに、あの大きな檻のある森の方へヨチヨチと歩いていった。
さすがの父親も、木立の隙間から、電灯明るく輝く檻の中を望んで、男泣きに泣いた。伜がこうまで悲惨な化物になっているとは、檻を望むまでは知らなかった。彼は大隅の注意によって、一生懸命声を呑んだ。再び病床のところへ帰って来た河村は、さっきとはまるで別人のように大隅に対しては従順になっていた。
「……知らなかった、知らなかった。あっしは貴方に恥かしい。お礼を云いますよ、お礼を……」
「……では、教えて下さい。辻川博士と外国船との間には、どんな取引が行われたのです」と大隅は、この機会を逃がしてはと、問いかけた。
「それはよく知らない。イヤこれは本当に知らないんだ。俺たちは、辻川博士の命令に従って、荷物を船に搬んだり、船から荷物をこの邸へ持ってきたりしただけだ」
「ほう、何を船から持ってきたんです」
「なにかわけの分らない器械だった。そいつは函の中に入っていたので中身は判らない。しかし辻川博士は大喜びだった。その外国船の大将と幾度も握手をして喜んでいた」
「その外国船の大将というのは誰です」
「ドクトル、シュワルツコッフ」
「えッ、なんですって、……ドクトル、シュワルツコッフ!」シュワルツコッフ博士といえば、あの白幽霊のウラゴーゴルが残していった名前だ。あのシュワルツコッフが、一年前にこの沖へ来航してきたのか。
「それはいいが、この邸から船へ搬んだ品物というのが、たいへんな品物なんだ」
「ええッ、たいへんな品物というと……」
「そいつは袋の中に入っていた。グニャリとした品物さ。その中身を知っているものは俺ばかりだろう。俺はソッと開けてみて愕いたのだ」
「一体それは何だったんです。早く云って下さいッ」大隅は胸がつまるように感じた。
「それはネ……それはこうなんだ。辻川博士の……」
と、まで云ったとき、河村は突然「呀ッ」と叫んで、話を中断した。そのとき、彼の額から、パッと黄色い煙が立ちのぼり、額の真中に痣のような一銭銅貨大の赤い斑点が現れた。彼はウムと呻ると、右手でその額を押えた。するとその手から、また黄煙がサッと上って、手の甲の上に、同じような赤い斑点が現れた。河村は見るも物凄い形相となり、真紅な口をガッと開いたかと思うと、両手で虚空をつかんで、そのまま絶命した。実に悲惨とも凄絶ともいいあらわし難い彼の最期だった。
「何者だッ!」
大隅は話し半ばに怪しき方法によって河村を虐殺した者のあるのを悟り、奮然として、門番の小屋から外に飛びだした。岩蔵に違いない!
ところが彼は、屋外に出てみて、オヤと叫んだ。──岩蔵が今木立の奥にある玄関のところから、庭園の砂利の上をノコノコこっちに歩いてくるのを見た。
「彼が殺ったのだろうか? これは不思議だ」
門番の小屋から三百メートルほども離れたところを歩いている岩蔵が、どうして河村を殺害することができたのだろう。その岩蔵は、大隅の姿を認めると、急ぎ足でこっちへ近づいて来た。
「オイ、どうしたのだ」
と、大隅はイザといえば彼に躍りかかるつもりで、声をかけた。
「……イヤ、お客さんが見えたので……」
「客が見えた。客とは誰か?」
「……ドクトル、シュワルツコッフ」
「ドクトル、シュワルツコッフ?」
と、大隅学士は、岩蔵の顔を見詰めて、問い返した。
「そうです。シュワルツコッフです」
と、岩蔵はドキマギしている。
「辻川博士がいないことを云ったかネ」
「ええ、云いましたよ。するてえと、ちょっと愕いた顔をして、はるばる来たものだから、休憩させてくれというのでさあ」
「君はなぜ、本館の方へ行ったんだ」
「えッ、それは……それは何です。ドクトルが、もう一度、博士の部屋をよく見て来てくれ、もしかすると帰っていられるかも知れんから……というのです。それで私は、本館へ行って、博士を探してみたんですが、矢張り見えやしません。それだけのことですよ」
岩蔵は、そういってホッと溜息をついた。
大隅理学士は、それを聞いて、心の中に或る疑惑を持った。だがそれは面には出さず、それでは辻川博士に代って、シュワルツコッフに逢ってみようといった。岩蔵は肯いて、門の外に立っているドクトルを連れに行った。
「おお、わたくし、ドクトル・シュワルツコッフです。ドクトル辻川いない。残念です。彼、何処へ行きましたか」
と、大隅の前に立ったのは、鬚面に黒眼鏡を掛け、やや肥満せる身体を白い麻の洋服に包み、形のいいヘルメット帽子を被っている紳士だった。
大隅は博士の不在を説明してドクトルを本館に案内していった。
ドクトルは、応接室に入ると、疲労を訴えた。そして暫くそこで睡眠を取らせては呉れまいかと云うのであった。
大隅はそれを承知した。そして目覚めたら呼んでくれるようにと、ベルの位置を教えてその室を出ていった。
大隅は、そこを出ると、三部屋ほど向うにある辻川博士の書斎の扉を開いて、中に入った。
大隅は、一人になると、武夫の父の殺害事件のことにつき、静かに考え始めた。あれは全く不思議な殺人事件である。誰も部屋には入って来ないのに、一瞬間の出来事で、ズバリと殺されてしまった。そして音もなく、額と手の甲に見る見る大きな穴を明けていったあの恐ろしい殺人法は、一体なんであったろうか。彼は未だかつて、そのように奇怪な殺人手段を知らなかった。
「……どうも、何となく殺人光線くさいところがある。だが、殺人光線は具体化することが不可能だといわれている。もし殺人光線を使ったとすると、それは余程恐ろしい奴に違いない」
誰が殺人光線を持っているのだろう。
「そうだ。……あの怪ドクトルかも知れない」
そうは思ったものの、折ふし来会せたドクトルが、なぜあのような重傷者を話途中にして殺害する必要があったのだろうか。特殊事情があるにしても、腑に落ちない。第一何処に隠しているか知らないが、ドクトルの身辺には、ただ洋杖があるばかりで、それらしいものを外に発見することが出来なかった。
大隅がそんなことを思い続けているところへ、廊下に微かに跫音が聞えてきて、やがてそれが部屋の前で、バタリと停った。
(誰?)
と、大隅は咄嗟に椅子の上から立ち上った。そして彼は身を飜してカーテンの蔭に、身を隠し、ソッと入口の方を窺った。
すると、扉が音もなく開いて、そこからヌーッと出て来た黒眼鏡に鬚だらけの顔(……おお、やはり、ドクトル、シュワルツコッフだ)太い洋杖を持ったドクトルは、用心深い眼を光らせ、忍び足で室内に入ってきた。
(何をするつもりだろう)
ドクトルは、暫く四周を見廻していた。
そのうちに、彼は壁際に並んでいる辻川博士の厳重な書類戸棚の前に近より、そしてその鉄扉に手を懸けて、ウンウン引張った。しかし鉄扉はビクとも動かなかった。
ドクトルは観念したものか、今度は大きな机のところに寄って、上から二段目の抽出を開き、その中をしきりと探しはじめた。
(ハテナ)
と、大隅学士はカーテンの蔭から、首を振った。ドクトルは辻川博士の机の抽出の内容まで知っているらしく思われる。やがてドクトルは、抽出から手を引いた。そして困ったという顔をした。大隅学士は、もう出るに出られなかった。それは出ない方がよかった。もし出ようものなら、彼の生命はなかったかも知れない。
怪しきドクトルは、再び鋼鉄製の戸棚の前に立った。そして暫く考えこんでいたが、やがて何思ったものか持っていた洋杖を扉の方にズーッと差し出した。その洋杖の石附が、扉の鍵穴に向けてジワジワと延びていった。ドクトルはまるで作りつけの人形のように動かない。
すると怪しいかな、突然眼もくらむような青白い光点が、扉の上に現れた。それはジージーと微かな音を立てて見る見るうちに横に小さい円を描いて伸びていった。
(ああ、扉を焼き切るのだナ。おお、恐ろしい仕掛けのある怪洋杖!)
大隅学士は、カーテンの蔭に慄然と身震いした。あの洋杖は太すぎると思ったが、やはりこのように恐ろしい仕掛けがあったのである。洋杖の石附のところから、恐るべき怪力線が出てくる仕掛けになっているらしい。鋼鉄がまるで、紙のように焼けてしまうのだった。
大隅学士も、かつてあれに似た洋杖を持っていた。しかしそれは洋杖の握りのところに小型の電球をつけ、それから中身に小さい受信機が入っていたり、石附のところには鈎のついた分銅が入っていて、振るとブーンと呻りを立てて、長い綱が飛び出してくる仕掛けになっていた。しかしその洋杖は惜しいかな、魔の森の中に落としてしまった。ところがドクトルもそれに似た洋杖をもっている。しかしこれは大隅学士のとは違って、実に恐ろしい仕掛けになっていた。
大隅は、もう一度洋杖を見直した。
(どうも恰好がよく似ているが……)
彼にはあの洋杖が、だんだん自分の洋杖であるような気がしてきた。ひょっとすると、あれは中身だけが、あんな恐ろしいものに改造されたのではあるまいか。もしそうだとすると、ドクトル、シュワルツコッフは、どうして自分の洋杖を手に入れたのだろう。
(こいつは変だぞ!)
ドクトルは、遂に鉄扉を焼き切った。書類戸棚は、やがて楽々と左右に開かれた。ドクトルは悦びの色を浮べ、そしてそこに列んでいる書類綴の中から、赤いカバーのついている大型のものを引き出した。そして早速それを抱えるようにして、開かれたページに目を落とした。
だが室内の光線が、暗かったものか、彼はその書類綴を抱えたまま、奥の窓の方に歩いていった。そして貪るように、それを読み耽るのであった。そこには何んなことが記されてあるのだろうか。
大隅学士は何思ったか、四つン匍いになると、カーテンの蔭からソッと匍いだした。
(今がチャンスだッ!)
彼は音をたてぬように、充分の注意を払いながら、大胆にも書類戸棚の方に近づいていった。その戸棚こそは、彼が中を開けてみたいと思いつつ遂に開くことが出来なかったものであった。
彼は石亀のようにソロソロと匍った。そのうち彼は遂に戸棚の近くまで進んだ。そこには一つの安楽椅子があった。彼はその蔭に廻るとソッと手を伸ばした。
「やったッ!」
と彼は叫んだ。その手には、太い洋杖がムンズと握られていた。あの恐ろしい怪力線を発射する洋杖が……。
大隅の叫び声に、ドクトルは愕きのあまりその場に飛び上った。書類綴はドーンと床の上に落ちた。
「な、なにをするッ」
とドクトルの声。
「僕の命令どおりになさい。そうでないと……」
「そうでないと……」
「そうでないと、貴方の生命は有りませんよ」
大隅は例の怪力杖をドクトルの方にグッと差し向けながら、自信にみちた声をかけた。
「あッ、それは危い。ま、待て……」
「貴方は一体何者です。辻川博士の書斎を荒し、そして秘密書類を勝手に取り出すとは……」
ドクトルは恐ろしい形相をして机の向うをジリジリと横に動いた。大隅は少しも油断せず、ドクトルが豹のようにおどり懸ってくるのを警戒して、だんだんと戸棚の方に退いていった。全く息づまるような睨み合いだった。
「抵抗はしない。何もかも云うから、その洋杖を下に下ろして呉れたまえ。そして……そんなこわい顔をしないで……」
とドクトルは柄にもなく哀訴した。
その言葉に大隅学士は、少し動かされた。
と、その瞬間の出来事だった。大隅の立っていた床が、ガタンと下に落ちた。
「呀ッ!」
彼はサッと下に墜ちゆく自分の身体を、なんとかして墜とすまいとして、死に物狂いでもがいた。彼の手は辛うじて絨毯の端を掴んだ。
ドクトルは、弾丸のように飛んで来たが、大隅が落し穴から落ち切っていないのを見ると、大変狼狽してクルリと、踵をかえすなり、扉を開いて、室外に脱兎のように逃げだした。
大隅学士は懸命なる努力を払って、落し穴にも落ちないで、やっと立ち上った。彼は側にある洋杖を握ると、ドクトルの後を追って、室外に飛び出した。この間、僅か数秒のうち……。
廊下へ出てみると、ドクトルの姿はもうそこになかった。そして階段を下りてゆく荒々しい跫音が聞えた。てっきりドクトルは転がるようにして駈け下りてゆくのだと思った。彼は逃がしてはなるものかと、階段の方に駈けだした。
そのとき応接室の扉がサッと開いて、そこからヌッと愕きの顔を出した人物があった。
「何事が起りましたか?」
と、懸けられた声!
大隅学士は、えッと叫んだ儘、その場に立ち竦んだ。それも道理、応接室から姿を現したのは誰あろう。ドクトル、シュワルツコッフ!
「おう……」
大隅の頭は混乱した。ドクトルは、階段を駈け下っていったと思うのに、傍らの室から、愕き顔はしているが、割合に落着いた物腰で彼を呼び留めたのは、外ならぬドクトル、シュワルツコッフだったから……。大隅はドクトルの顔にも態度にも、敵意らしいものを発見することが出来なかった。その上ドクトルは如何にも睡っていたらしく、眼鏡のない眼瞼は腫れぼったく、そして上衣も着ていなかった。注意をしてみると、ドクトルのズボンには、寝ていたに違いない大きな皺が幾本もクッキリとついていた。これは一体どうした訳だろう。
「私、大きな音で愕きました。何事が起りましたか」
大隅は、それに応えようともせず、例の殺人洋杖をドクトルの方に向けてみた。するとドクトルは平気な顔をしていた。
「ドクトルは、今まで何をしておいででしたか」
「私?……私は睡っていました。たいへん元気になりました」
大隅はドクトルが嘘を云っているように思われなかった。そして尚も油断なく、その応接室に入ってみると、なるほどその部屋には、ドクトルが今まで寝ていたらしい証拠があった。長椅子の前に、脱ぎ揃えられてあった一足の短靴がそれであった。中に手を入れてみたが、それはひやりと冷めたく感じた。今まで履いていたものを脱いだのでは、こうは冷めたく感じない。さっき大隅学士を襲撃したドクトルは、確かに靴を履いていた。
(すると……すると、自分を襲撃したドクトルと、ここに寝ていたドクトルと、二人のドクトルがいることになる)
大隅は、愕くべき結論をつかんで、それをどう説明したらよいかについて苦しんだ。
「どうも可笑しいことですね」
「可笑しい。何、可笑しいですか」
彼はドクトルを其処に待って貰って、階段を下りていった。もちろん、もう一人のドクトルの姿はそこに発見されなかった。彼は本館を出て、門番の小屋にやって来た。
そこには岩蔵が、河村の死骸を護って、その前に、どこから見付けて来たのか、線香を立てて供養をしていた。
(この男の変装したのでもない)
大隅は、今誰か、この小屋の近くにやって来た者はいないかと訊いた。岩蔵は、誰も来なかったと答えた。それは嘘ではないと分った。門には例の厳重な錠前が下りていて、その鍵は、岩蔵がしっかり保管していたから。
ドクトルが二人いるらしいことについては、大隅は自分だけの胸に畳んで置くことにした。とにかく岩蔵とドクトルと自分との外にもう一人の人間が彷徨していることは確かである。
大隅学士は、また本館に取って返した。
ドクトルは、応接室の中に、衣服を整えて静かに煙草を喫っていた。それを見ると、どうもこれが本当のドクトルらしく思えるのであった。
「ドクトルは、辻川博士とどういう風のお知り合いですか」
「ああそれは、二人は同じ研究をやっているからです。私はドイツで、辻川博士は日本で、世界中外には誰もやっていない研究をやっているのです」
「世界中で二人きりの研究というと、それはどんなことですか」
大隅学士は、深い興味を覚えて、それを尋ねた。
「なかなかむずかしい研究です。誰に説明しても分るというものではありません。しかし簡単に云いますと、近年この地球上に、有史以来始めて見る異変が起っているのです。その著しいものは、生物の異常成長です。辻川博士はその異常成長の研究材料を、沢山持っています」
「なるほど、生物の異常成長! すると、魔の森において発見された亀のように大きい甲虫もそれなのですね」
「おお、貴君はよく知っていますね。あのX甲虫も、その一つです。まだもっと愕くべきものが沢山ありますよ」
「それは人間のことを云うのでしょう」
「ほう、貴君はよく知っていますね。辻川博士はその研究材料を沢山蒐めています。これは世界中で極めて珍らしいものです。日本とアルゼンチンの山奥と、この二ヶ所しかないのです」
「えッ、アルゼンチンにもあるのですか」
「そうです。私、そのアルゼンチンの探険を終えて帰国の途中、辻川博士に逢いに来たのです」
ドクトル、シュワルツコッフは大隅学士を辻川博士の助手と考えたものか、別に隠し立てもせず、スラスラと話すのであった。しかしドクトルの話の内容は、大隅学士をどのように愕かせたか、それは説明するまでもあるまい。彼が長い間知りたいと思っていた怪人辻川博士の研究の秘密が、今温帯を流れる氷山のように、解けはじめたのであった。
大隅学士は、大きい驚愕を、心の中に隠して、ドクトルに質問を続けるのだった。
「その成長異常は、どうして日本とアルゼンチンだけなのですか」
「そこが一つの解決の鍵です。アルゼンチンに成長異常例があるだろうということは、私の推理から遂に云い当てたことです」
「貴方はドイツにいて、どうしてそれを発見したのですか」
「それには面白い話があるのですが、それは長くなるから止しましょう。とにかく私が第一にこの現象を発見するに至ったのは、気象上の変化に基きます」
「気象上の変化!」大隅学士はそこで大声をあげた。彼も、気象上の変化については大きな関心を持っていたのだ。それはこの矢追村に来てから気がついたことだけれど、村人に聞いてみると、一年中の温度変化が、東京あたりとまるで違った性質を持っている。しかも地形的に見ても不審がある。このように後に山を背負い、前に大海を控えた場所では、四時気候の変化が穏かである筈であるのに事実はそうでなくて、非常に気候の変化がある。そして夏ならば、昼間は海の方から陸に向って、涼しい風が吹き、朝と夕方には風のない朝凪夕凪があって、夜と共に陸から海へ向って風が吹くのが普通であるのに、決してそういう現象が見えない。大陸的気象かというのに、それとも違う。それはあまり知られていない一種奇妙な変化をする。それに気づいた大隅学士は、この矢追村の気象を研究するため先に中央気象台に頼んで、全国気象統計を送ってもらったほどである。そして異常気象地たることを発見したのだ。しかしそれが、例の異常成長に関係がある事が、ドクトルの云う如くハッキリ分った訳ではなかった。だからドクトルの言葉は、彼を痛く愕かせたのである。
「私は、ドイツのベルリン大学で研究室を持っていますが、気象統計を調べてゆくうちに、近年どうも気象が統計から得た平均曲線に従わないことを発見した。そこでこれはドイツだけのことかと思い、次にスペインのものを取り寄せてみた。ところが、スペインにも異常気象のあるのを発見した。もっともそれはドイツのものよりは、遥かにオーダーが小さかったけれど……。そこで私は、思い切って日本の気象統計を取り寄せた。すると愕くではありませんか。日本の気象は目茶苦茶であるではありませんか。夏でもそうです。昨年のように温度が一向昇らない夏があるかと思えば、今年のように目茶苦茶に暑い夏がある。また雷雨の通ってゆく筋道というものが、近年日本全国的にたいへん違って来た。そんなわけで、私は日本国に特に著しい気象異常を発見した。そしていろいろと連絡しているうちに、辻川博士とお近づきになったというわけです。おお辻川博士の研究の素晴らしさ。それを私が始めて知ったときには、思わず博士の頬に接吻したくらいですよ」
大隅学士の頬は、次第に熱してくるのであった。辻川博士はどう考えても、よい人間とは思われないけれど、何という素晴らしい研究をしているのだろう。それに較べると、この夏の自分の苦闘なんか、まるで子供だましに過ぎなかったというものである。
ドクトルは、更に言葉をついで、
「結局、辻川博士の指摘したとおり、日本の中においても、この矢追村だけが、殊に異常状態に置かれてあることが分ったのです。成長異常の出るのも日本国中、この矢追村だけである。ですから矢追村こそは、この大研究についての世界の宝庫である。……おお、そして私はその宝庫をもう一つ探し当てたのだ。それは、今申したとおりアルゼンチンの山奥カピランクという地方です。そこには、また面白いことが起りつつある」
「ねえドクトル。一体この成長異常などという怪現象の原因というのは、何んなものなのでしょうネ。白幽霊ウラゴーゴルなどは、何んな役割をつとめているのでしょう」
するとドクトルは、ひどく狼狽の色を見せて、椅子から突立った。
「ウラゴーゴル? 貴君はそれを知っていますか。……ウラゴーゴルこそ、この研究の最後の鍵なのです。しかし彼等は実に聡明だ。われわれは彼等を怒らせてはならない。ああウラゴーゴル」
ドクトルは、神に祈りを捧げるときのような恰好をして、天を仰いで歎息をした。
ウラゴーゴルを怒らせてはならぬと、大隅学士に注意したシュワルツコッフ博士は、それからというものは、急に沈黙してしまって大隅学士がなんと聞こうとも、それ以上の説明を避けた。そしてひたすら辻川博士が早く帰ってくれば、鳥渡逢って帰国したいというばかりだった。
白幽霊ウラゴーゴル! あの怪物は、どこまで大隅学士を悩ませれば満足するのか。大隅ばかりではない。シュワルツコッフ博士すら、ウラゴーゴルに一目も二目も置いている有様がよく分った。ウラゴーゴルと握手をしているらしいのは、辻川博士だけらしいが、その博士はいまごろ大戸神灘の海底で白骨に化していることだろう。シュワルツコッフは、それを何時になったら感づくことやら。
「これは困った。なんとかしてウラゴーゴルの秘密を早く知りたいものだ。何とかいい工夫はないものか」
と、大隅学士は頭の痛くなるほど考えこんだ。
「そうだ。僕は大切なことを忘れていた。この上は、武夫君に会って、相談をするより外にいい方法がない」
そう思いついた大隅は、シュワルツコッフ博士に挨拶をした。例の怪力線洋杖を持ったまま室を立ちいでた。
彼はそれからソッと階段を降り、本館を出て、裏庭の方へ歩いていった。
思えば武夫のことはもっと早く考えつくべきでもあった。しかし大隅の苦悶したことは、なにしろ今の武夫は、例の成長異常現象に遭ってまるで化物のような巨大な身体をもっている。だから彼はそのような不恰好な身体を大隅に見せることを好まぬだろうと思って遠慮していたのである。しかし今は、その原因も、シュワルツコッフ博士の説明によって、只今地球上に起りつつある一つの異常現象のせいだと分ってしまえば、何の恥かしい事があろうか。いや、此際むしろ進んで武夫のために説明の労をとってやるのが、先輩としての親切というものではなかろうか。その上、武夫が知っているいろいろの知識を借りることができれば、これほど幸いなことはない。
彼は裏庭を過ぎて、武夫たちの監禁されている檻の前に近づいた。
「オイ武夫君、武夫君はいないか」
その声が聞えたのであろうか。
「おう──」
と声がして、まるでキリンの小屋のような中からヒョックリ姿を現したのは、外ならぬ巨人武夫であった。
「おお先生! 僕は恥かしい。……こんな生れもつかぬ浅間しい姿になってしまいましたよ」
といって、彼はハラハラと涙をこぼした。それは地面の上に、コップの水を撒いたように大きい水たまりを作った。
大隅もさすがにこのグロテスクな巨人と対いあっているのに勇気がいった。
「なアに、心配しないでもいいよ。君がそうなった原因も、やっと分ったよ」
実はこうこうかくかくの次第であると、シュワルツコッフ博士から聞いた話を手短かに語ってきかせた。すると武夫は今更のように眼を丸くして愕いていたが、
「──先生、よく分りました。そういわれればいろいろ思い当ることがあります。だから僕は最初あの真暗闇の森の中で先生にお話したでしょう。僕は地中に転落すると、まもなくこんな身体になって辻川博士邸内へ匍い出したのです。もちろん辻川博士は僕の傍に立っていて、たいへん熱心に、僕の身体を観察していました。そしてその夜にこの檻ではなく、あの本館に入れて、いろいろと診察のような事を受けたのです。そして夕食後、寝室を与えられて寝ましたが、どうして睡られましょう。そこでソッと忍んで外へ立ち出でました。そして庭のところから元の抜け穴をくぐって、森の中へ出たのです。先生にお目に懸ったのはそのときのことでした」
そういって巨人少年は、感慨深そうに、ため息をついたのであった。
「ウン、分った分った、君も随分悩んだことだろう」
「でもそのとき僕は、いくつかの不思議なことをお話したでしょう。あれは昼間、辻川博士の室にいるとき、博士が座を外したときに卓子の上にある博士の手帳をソッと覗いて、あれだけのことですが、ともかくも謎にみちた問題をつかまえたのです」
「そうだったネ。それについて、もっとよく相談したいんだが、なんとかしてその檻から出てこられないかネ」
「さあそれは弱りましたネ。この鍵は辻川博士がピチンと下ろしてもっていってしまったのです。この節、辻川博士の姿を一向見かけませんが、とにかく博士に頼まないとここは開きませんよ。身体が大きくなったからさぞ腕力も増したろうと思って、たびたび押してみたのですが、なにしろ太い鋼鉄の棒で組立てられた檻ですから、どうにもなりません」
それには大隅学士も、深い失望を感じないわけにゆかなかった。しかししばらくして彼は叫んだ。
「ああ心配はいらぬよ。いいものを持っていたことを忘れていた。すぐ出してやるから待っていたまえ」
そう云って大隅学士は、小脇に挟んでいた杖を構えなおした。例の怪力線洋杖を……。
怪力線洋杖の偉力によって、さすがの鋼鉄の棒も見る見るうちに飴のように柔くなり、武夫は何日ぶりかで外に出ることが出来た。檻は元のように直して置いた。
「先生、僕はうれしくてたまりません。しかし何という素敵な洋杖でしょう。どうしてそんなものを手に入れられたのです」
大隅は笑って、これを偽のシュワルツコッフ博士と思われる人物から奪取した顛末を手短かに話した。それから二人は、裏山の蔭に入って相談に懸った。銅像のように大きい少年と、孫ぐらいの大きさしかない大隅とが、繁みの間に寝そべって対談している有様は、珍中の珍というより外になかった。
「武夫君、君が僕に委ねた質問は半分はとけ、半分は今もとけないのだよ。一年前、この沖へ来た外国船というのは、シュワルツコッフ博士がアルゼンチンから帰り道の寄港であって、辻川博士と同じ研究をしているので、連絡をしにやって来たというわけだ。それから、去年から赤蜻蛉の出ようが遅くなり、この飛んでいる方向がすこし違ったわけは、近頃この地球上に起っている異常気象と関連しているものと思われるものであって、要するにこの地球上に近年異変が起っているという事を指摘すれば足りるのだ」
「するとこれは、やはりあの白幽霊ウラゴーゴルと関係があるんでしょうね」
「僕もそう思う。あのウラゴーゴルというのは、要するに他の遊星に住んでいる生物だと思うよ。あれは一種のアミーバーから成長した高等動物だと思えばいい。あのウラゴーゴルが、なにかこの地球に働きかけているせいだと思うよ」
「それに違いありませんよ。辻川博士は以前からあれと交際していたのですね」
「うん、そうなんだろう。ところで、どうも訳のわからないのは、外国船に博士邸から積みこんだ荷物なんだが、このことは君の……」
といいかけて、大隅はハッと気がついた。あの無惨な死に方をした武夫の父のことを喋っていいものだろうかどうだろうかと躊躇していたが、もうこうなっては隠しておくことは反って間違いのもとと思い、思い切って一切を打ちあけた。さすがに武夫はうなだれてホロホロと泣きだした。
「これも運命なら、仕方がありません。しかし母は知っているでしょうか。僕はきっとこの敵をうちます」
「まあそう興奮してはいけない。とにかく只今問題の秘密をすっかり解いてしまえば、何もかも事情がハッキリするに違いない。暫くはまあ心をしっかり持って、お互いに努力するのだネ。ところであの外国船に積みこんだ荷物の中身というのがハッキリしないのだよ。君の亡くなったお父さんは知っていられたが、それを云おうとしたらば何者かのために殺害されてしまった。尤も僕は、その下手人を、偽の方のシュワルツコッフ博士だと思うよ。一体彼は何者なのだろうネ」
「そんな奴がこの邸内に徘徊しているようじゃ、僕たちも油断がなりませんネ」
「うん、僕も極力注意を払っている。とにかくその荷物の内容がハッキリしなくて困っている。──それからもう一つは、大宗寺の庭に落ちた径五十センチの隕石のことだが、あれを掘りだして持っていったのが、この辻川博士だということまでは分った。しかし分らないのは、あの隕石がどんな役目をつとめているかということだ」
「隕石というのは、宇宙に飛んでいる星のかけらなのでしょう。そしてその成分は、殆んど鉄ばかりだという」
「そうだ、鉄もなかなかいい質の鉄だということだ。しかし鉄ばかりではなく、外の物質も混っていることがある。そうそう、それで思い出したが、これはギブソンの『有史前における生物発生論』に出ていた仮説であるけれど、なんでもこの地球だの火星だのに、どうして動物だの植物だのが発生したかというと、これは既に動植物の存在する星──たとえば、この地球もその一つと考えていいのだが、その星が他の星と衝突して粉々に破壊し、つまりそれは隕石となって宇宙に飛散するのであるが、その隕石にバクテリアなどが附着したまま遠くへ搬ばれる。そして他の星の上に落ちると、そのバクテリアから、新着の星の上に動植物の種を植えつける。こうして多くの星へ動物や植物が移植されてゆくのだということが書いてある。ちょっと面白い説じゃないか」
「それは面白いですね。先生、するとウラゴーゴルなどという怪物は、そんなことで発生したものではないでしょうか」
「大きにそうかも知れない」
と大隅学士は相槌をうった。だがこのとき二人がもっと冷静であってくれれば、その後に当然考えつかなければならなかった或る推理があったのである。ところが彼等は先の相談を急ぐあまり、遂に大切な推理を落とした。それがためこの重大事件は、もっと早く解決すべくして、不幸にも遷延するという結果に陥ったのは是非もない。とにかく隕石の役目はなんのことかハッキリしなかった。
大隅学士と巨人少年武夫との相談はそれからも続いた。その揚句、二人は揃ってシュワルツコッフ博士の前に出て、改めて新しい方針を考えようではないかということに一決した。
二人が裏山の蔭から再び姿を現して、本館の方へ、ソロソロ歩きだしたときのことであった。突然、目前がパーッと明るくなった。その明るさといったら、サングラスのない望遠鏡で太陽面を覗いたように、天地が裂けるような物凄い明るさだった。二人はあっと云って両眼を手で蔽うなり、地面にパッタリ倒れた。一体なにごとが起ったのだろう。
「うー、愕いた、今のは何だったろう」
「ぼ、僕の眼は潰れたんじゃないでしょうか」
大隅と武夫は、指先で両眼をしきりともみながら、こわごわ半身を起した。そしてソッと眼を開いてみた。
あまりの強い閃光のため、網膜はいまだに何だかキラキラとしていて、前方がよくは見えなかった。ポロポロとひっきりなしに涙が出てくるのであった。──そのうちに、大隅の眼が次第に慣れてきた。視力が恢復してきた。しかし彼はそこで腰をぬかさんばかりに愕かなければならなかった。
「呀ッ、これはどうしたんだろう」
「えッ、先生なにごとが起ったんです」
武夫はまだ眼がハッキリ見えないらしく、しきりと瞼をこすっていた。
「おお、これは君、大変なことになったぜ。こんなことがあっていいだろうか。今まで向うに建っていたに違いない本館が跡方もなくなっているぜ」
「えッ、本当ですか。ああやっとボンヤリ見えるようになってきた。なるほどなるほどそうですね。たしかに先刻までは、あの樹の向うに古城の怪塔のような本館が見えていましたのに」
二人は声をあわせて、愕きの声をあげた。
「さあ早く、向うへ行ってみよう」
一目散に二人は駆けだした。もちろん武夫のコンパスは巨人のコンパスだったから、たちまち大隅を馳けぬけて先頭を切った。
やがて二人は、だだっ広い広場の前に立った。それは先刻まで本館がたしかに建っていた地所に違いなかった。
「そうだ。ここに違いない。あれ見給え、建物の跡だけが、まるでマグネシウムを燃やしたように真白になっているよ」
「ははあ、よく分りますよ。たしかに本館の跡です。──本館は爆発してしまったのでしょうか」
「うん、爆発したのかもしれないね。待て待て、ことによると、これは……」
と、大隅はなに思ったものか、急に空を見上げて、両手を翳した。そしてしばらく何かをしきりに探し求めているようであったが、
「ああ武夫君。あれだあれだ。あれを見給え」
「ええ、あれとは……」
武夫は大隅の指す方を共に見上げた。
「ホラ、向うに見える白い雲の切れ目のところだよ。妙な恰好なものがピカピカ閃光を放ちながら舞い上ってゆくじゃないか」
「ええ見えます見えます。呀ッ、あれは家の形をしていますよ」
「そうだともそうだとも。よく見給え。あれはさっきまでそこに立っていた本館だよ」
「ええッ、あれが本館!」
よく見れば、なるほど紛れもなく本館にちがいない。あの大きな建物が、一瞬にして天空に舞い上るとは一体なにごとであろうか。
「こいつは全く愕いた。武夫君、あの本館の建物は、それ自身が一つの大きなロケット仕掛になっていたんだよ。なんという恐ろしいことだ。僕もぐずぐずしていれば、今ごろはあんな高いところを飛んでいたのだ。いやこれはなんといっていいか、実に胆をつぶした」
武夫は大隅の方を見下ろして、しばらくはポカンと口を開いていた。
「ねえ──先生。あの中には、シュワルツコッフとかいう博士がいたんじゃないのですか」
「そうそうシュワルツコッフ博士だ。それから偽のシュワルツコッフ博士もだ。二人のシュワルツコッフ博士が一緒に天上してしまったのだ。なぜだろう。なぜだろう。僕は気が変になりそうだ」
その訳は分らずとも、本館が二人のシュワルツコッフ博士をのせたまま、一瞬にして天空に飛び去ったことは飽くまで厳然たる事実であった。
あの豪華な研究室も、貴重な機械室も、そして謎を包んだ観測数値も、ともに空中に消えてしまったのであった。あとに残るものは何であるか。それは徒らに厳めしい塀と、杜の中の大きな檻と、門番小屋と、多分それだけであろう。辻川博士の怪邸も、いまは抜け殻となりはてたようなものであった。
そのとき大隅学士は不図気がついてあたりを眺めまわした。
「おお居た居た」
武夫はその声に、大隅の注視する方を見た。門番小屋の傍に、これも彼等と同じように小手を翳し、呆然と空を見上げている義足の男。
「岩蔵はとうとう取りのこされたんだナ」
大隅はツカツカと歩いていって、岩蔵の肩をポンと叩いた。すると彼は襖を倒すように、叫び声一つあげず、ドーンと後に倒れた。
大隅は愕いて、彼の傍に膝まずき、門番子の脈をとってみた。脈は微かで早かったけれど、たしかに指先に感じられた。どうやら愕きのあまり気絶した様子である。武夫の力を借りて、彼の身体は門番小屋の中にうつされた。
そうこうしているうちに、二人は突然東の方角にあたって、飛行機の爆音のようなものを聞いた。
「オヤ、こんどは何だろう」
と、音のする方の空を注視すると、なるほどそれは飛行機に違いなかった。だが愕いたことに、それは一機や二機ではなかった。数えてゆくと、およそ十四、五機もあったろうか。大きいのや小さいのや、それから近づくと、赤い翼をもったのや青い胴体のものや、いろいろさまざまの形のものが、吾れ勝ちに機首をこちらに向けて飛んでくるのであった。一体どこの飛行機なのだろう。
刻一刻、爆音は高くなった。速いやつから順に、博士邸の周囲をグルグルと円を描いて飛翔を始めた。そのうちに、着陸の覚悟がついたものかボツボツ低空飛行にうつるものがあった。大方は博士邸の外に着陸した。後からノロノロやってきた小型の「空の虱」が二つ三つ、果敢な邸内着陸を敢行した。
「これは新聞記者かもしれないぞ」
と大隅は、この前の佐々砲弾の到着の光景を思いだして、そう考えた。
それは予想どおり、各新聞社の記者団一行であった。彼等は勇敢に塀をのり越え、松の木にとびついて下り、ワーッと喚声をあげてこっちへ馳けだしてきたが、だいぶん近くまでくると、なに思ったものか、云いあわしたようにピタリと足を停めて、秋刀魚が乾物になったような顔をした。
「どうしたかな?」
と大隅が思った途端、
「皆は僕を見て愕いていますよ」
と武夫が云った。
なんだ、そんなことかと、大隅は進んで彼等の方へ歩いていった。
彼等は、すると、またワーッと大隅のまわりに集って、これを人垣の中にとりかこんでしまった。
「あれですね。成長異常現象の犠牲者は?」
と一人が早口で訊いた。
「ほう、それをどうして知っているのです」
「いやあ、そのことですよ。貴方はご存じないでしょうが、東京は大騒ぎですよ。なにしろ佐々砲弾発で突然無線電話がかかってきたのですからネ」
「えッ、佐々砲弾が……。佐々君は、まだ生きていたのですか」
「ホイ、これはニュースを知らせに来たようなものだな」と一人が眼をパチクリして「でもこっちの話を云わなきゃ、貴方に話をしてもらうのに不便でしょうネ。とにかく今日の知らせで佐々の冒険はすっかり分りましたが、彼は無事に生きているそうです。貴方……大隅先生ですネ。先生にそれを伝えてくれと云ってましたよ」
「佐々君が生きているとは、よかった! もう死んだことと思っていましたが。あの先生、今どうしているのですか」
「ウラゴーゴル星に上陸しているそうです」
「ええッ、ウラゴーゴル星に上陸? ほう、そうですか」
「なんでも空に舞い上って、もう死ぬなと覚悟したんです。しかしそのうちに何とはなしにウラゴーゴル星に着陸しちゃったそうで、そこから無線電話をかけてきたのでわれわれも愕きましたよ。さあその辺で、こっちの質問に答えて下さい。──まず、佐々砲弾がこの土地から飛びだしたときの模様を喋ってみて下さい。願います」
「みなさん。一つ折入ってのお願いがあるのですがねえ」
と、大隅学士は新聞記者にノートを十分とらせた上で云いだした。
「願いて何です。僕たちもお礼の意味で、どんなことでも骨を折りますよ」
「ぜひそうお願いしたいのです。お願いというのは外でもありません。佐々砲弾君と無線電話で話の出来るところへこれからすぐ僕を連れていってくれませんか」
「ああ佐々と話のできるところへですか?」
記者たちは、ちょっと困ったという顔をした。そして少しはなれたところに円陣を作って協議を始めた。しばらくすると相談がまとまったのか、一人が進み出で、
「大隅さん。それでは特に一台飛行機をお貸ししますから、これからすぐに東京へ飛んで天文台にいらっしゃい。あすこに素晴らしい送受信機が一組あるのです。われわれが佐々と会話したのもあれです。外の器械では、どうやってみても駄目でしたよ」
「ああ三鷹村の天文台ですか。じゃ僕を連れていって下さい」
「オーケイ。おい松田君。君早く頼むぜ」
巨人武夫少年は、大隅学士と離れることをたいへん淋しがったが、こればかりはどうも仕方がなかった。まさかこの仁王さまの二倍もあるような巨人を、飛行機に同乗させるわけにもゆかない。そこで直ぐ引返すから待っているようにと云い置いて、大隅学士は破れ洋服のまま機上の人となった。
通信用の飛行機だから、すこぶる快速であった。大隅学士は久しぶりでのんびりした気持となり、青畳を敷いたような遥かな下界の美しさに酔っている間もなく、搭乗機は三時間のちに天文台のある東京郊外三鷹村に無事着陸した。
大隅はあつく礼を云って、飛行士に別れた。そして天文台の正面の方へテクテクと歩いてゆくと向うから白髪童顔の老紳士が近づいてきて、彼の方に手をあげてしきりと合図をするではないか。誰だろう?
「おおこれは河内先生。ああ恩師河内先生だッ」
大隅理学士は、大学時代に厄介をかけた恩師に何年ぶりかで出会った。
「オイ、君は素晴らしい人気者になったじゃないか」
「えッ。先生、それはなんのことです」
「いやウラゴーゴル星のことだよ。それからあの矢追村の異常成長現象のことだよ。君はその発見者として、本年度の科学賞を受けることになるだろう。いや、おめでとう」
「いえ先生、そんな大したことではないのです。僕は単に傍観者の一人なんです」
「そんなことはない。佐々砲弾が東京の新聞に君の説を細大洩らさず連日の紙上に書いた。君は明かに金鵄勲章功一級というところだ。学界はいま大沸騰をしているよ」
「そうそう、その佐々砲弾で僕は今やってきたのです。先生この天文台の台長さんを紹介して下さい。僕は佐々と是非無線電話で話をしてみたいのです」
「ああそうか。それはいいだろう」
「先生は台長をご存じでしょうネ。紹介していただけますか」
「そんなことはわけはない。台長はこの儂じゃ」
「えッ、先生が……。なあンだ」
河内台長の案内で、大隅学士は秘密のミクロン電波送受信機の前に近よることができた。三人ほどの研究員が、熱心に機械の調子を合わせている。
台長の紹介で、大隅学士は一同と知り合いになった。研究員たちは、この学界の英雄を目のあたり見て、すっかり興奮してしまった。
「さあ、出ますよ」と一人が受話器をかけて、しきりとダイヤルを動かしている。「ああ出ました。……貴方佐々砲弾さんですか。いや毎度すみません。違いますよ、こんどは天文の話ではありません。大隅理学士がお話しなさりたいそうで。代りますから、ちょっとお待ち下さい」
研究員は、さあどうぞと挨拶をした。
大隅理学士は、器械に飛びつくようにして、受話器を頭に乗せた。
「ああ佐々君ですか。大隅ですよ。貴方が生きているなんて、全く夢のようだ。こんな嬉しいことはない」
佐々は向うで元気に返事をした。ウラゴーゴル星唯一人の人類であることを彼は誇っていた。
「君、さっきネ、辻川博士の本館がロケット仕掛けになって空中に飛び出したから、そういううちにそっちへ着陸するかもしれないよ」
「ちぇッ、そんなことだったか。……いや知らせてくれてありがとう。今なんだかウラゴーゴルのけだもの連中が、いやに騒いでいるんだ。じゃあ彼等は、そいつを見つけたんだな」
「そうかい。中にはシュワルツコッフ博士というのが二人乗っているんだ」
「なんだ、二人の博士。それは双生児かい」
「そうじゃない。一人は本物のシュ博士で、もう一人は他分偽せ者だろう」
「偽せ者? そうか。イヤ心当りがある。オヤオヤ、今到着したよ。なるほど変な恰好のロケットだ。ああウラゴーゴルの群衆が、ロケットめがけてドンドン飛んでゆく。たいへん殺気だっているが、これア少し変だネ」
大隅学士は、ウラゴーゴル星にいる佐々砲弾から、辻川博士本館のロケット到着の模様を無線電話によって聴きながら、そこになにか非常事件が起ったらしい報告にうちおどろいた。
「佐々君。どうしたのだろうネ。君、しっかり見て、しっかり報告してくれ給え」
「よしよし。──ヤヤ、入口から外国人が出てきたぞ。これかなア、シュワルツコッフ博士というのは」
「茶色の洋服を着た大きな人物だ。頤髭を生やしているよ」
「ウン、正にそのとおり。──オヤ、もう一人後から出て来たよ。おう、これは可笑しい。なんだ、あれは辻川博士じゃないか」
「えっ、辻川博士? それア可笑しい。博士ならずっと前に海中に墜落して死んだはずだ」
「いや違う。僕の眼に誤りなしだ。たしかに辻川博士に違いないよ。──おッとおッと。辻川博士はウラゴーゴルに捕って、手足をバタバタしているよ。博士がどうかしたらしいぜ」
「ナニ辻川博士が……。そりゃ大変だ。君、早いところ視察して、即時報告してくれたまえ。オヤ、モシモシモシ、モシモシモシ佐々君。オーイ砲弾クーン」
極どいところで、受話器の中にゴーッという音響が聞えたかと思うと、通話はプツリと切断してしまった。これはどうしたのだろう?
天文台の研究員は、それと見るより変事を悟り器械の傍にかけよった。そして素早く大隅に変って送受信機の中を点検したけれど、どこがどうしたものか、さっぱり相手の声が聞えなくなってしまった。──こっちの器械はいいらしいが、向うの方の器械がどうかしたものらしい。
「大隅さん。これはしばらく向うの直るのを待つよりほかに手はありませんよ」
と、その研究員は気の毒そうにいった。
大隅はイライラする心を抑えるのに骨を折りながらも、とにかく始めてウラゴーゴル星と通信しえたことを悦ばずにはいられなかった。
ただ辻川博士が生きていたとは、まことに意外であった。しかし後から考えると、なるほど心あたりがないでもない。さきごろ博士の書斎に忍びよって、書類戸棚を焼き切っていたシュワルツコッフ博士は、どうも本物のシュ博士と違って、身体も小さかったようだったし、顔中たいへん毛深かったように思った。ひょっとすると、辻川博士は自分の無事なことを隠すために、シュ博士に変装して博士邸へ帰ってきたのではあるまいか。なにしろ佐々砲弾さえ一命を助かっているくらいだから、博士乗用のロケットに立派な安全装置がついていない筈はないだろう。博士のロケットは海中へ墜落したが、博士の生命はとにかく安全だったのに違いない。
その辻川博士は、なぜまたシュワルツコッフ博士を連れて、ウラゴーゴル星へ向けて飛びだしたのだろう。辻川博士は、前からウラゴーゴルと深い関係があったようだが、いや電話の切れた前のはなしによると、ウラゴーゴルの白幽霊連中からなにか迫害を加えられているらしい様子だ。白幽霊にとっては大事にしなければならぬ博士を苦しめるとは、一体全体どうしたことであろうか。
電話の不通が直る間、ぜひ大隅学士の話を聴きたいという天文台の幹部学者の申入れがあったものだから、大隅はその席に出た。それは涼しい北向きのベランダで、冷い水とメロンと洋菓子とが出ていた。
謙遜する大隅を主座になおして、学者たちは矢追村における異常成長現象について、思うままの質問をした。大隅は知っているだけのことをくわしく答えたが、学者たちはその一つ一つに愕きを新たにした。
台長の河内老博士も席に連っていたが、このとき口を開き、
「矢追村の異常成長現象は、実に貴重な発見だと思う。気象台でも、この頃は気象全般にわたって、例年とはまるで違った数値が観測されるので、それをどう解釈すればいいかと、所員一同手を拱いているという話だ。わが天文台でも、急にウラゴーゴル星の接近に気がつき、それからこっちというものは大騒ぎをしているというわけだ。すべてこれ、大隅君の指摘したとおり、ウラゴーゴル星が地球に近づいた結果なんだが、ウラゴーゴル星がこう接近するものとは、従来誰も予想しなかったところだ。すべてこれ型やぶりというよりほかない。大隅君は、これについて、なにか意見を持っているかね」
大隅は師の言葉に、しばらくは下を向いて考えていたが、やがて頭を上げ、
「──一つお許しを得て、僕は頗る大胆なる説を出したいと思います」
「ほほう、大胆なる学説とは、頗る結構だ」
「それはどういうのですか、大隅君」
大隅はニッコリ笑って、
「お気に入るかどうかと存じますが、このウラゴーゴル星の接近は、従来の予測では解決できないものだと思います。つまりこれも異常現象の一つです」
「異常であることは、よく分るが……」
「そして、これはウラゴーゴル星が地球に近づいたというよりも、僕の信ずるところではウラゴーゴル星が、わが地球を自分の方に引き寄せたと云った方がいいと思います」
「ナニ、ウラゴーゴル星が、地球を引き寄せたというのですか。ウフフ、それはどうも、大胆すぎる。遊星の運動は、人力ではどうすることもできない」
「イヤ生物の力でどうすることも出来ないと思うのは、古い考え方です。それは決して不可能ではありません。現にウラゴーゴル星は地球に向ってそれを断行したのです。わが地球はウラゴーゴルのために手許へ引き寄せられました。つまり地球は久しい以前から盗難に遭っていたのです」
「盗難? 地球が盗まれていたというのか。いやこれは面白い。地球盗難か。ずいぶん大きなものを盗んだものだな。はッはッはッ」
と、河内台長は上機嫌でもって、いつまでもカラカラカラと笑いつづけた。
大隅学士の「地球盗難説」は、俄然世界の学界に一大センセイションを呼び起こした。
大隅説に大賛成を表して、これこそ有史以来の大発見だというものがあるかと思えば、一方では大隅説を邪説の甚しきものとして極力排撃し、殊に大隅説の弱点を指摘してその説明がつかないうちは、彼を学界から除名しろなどという尻の穴の狭い連中さえ現れるに至った。
大隅説の弱点というのは、「ウラゴーゴル星は、如何にして地球を手許に引き寄せたか。その方法が説明されていない」というのであった。
この弱点と称するものは、本来研究というものから云えば大したものではなく、大隅学士の功績は成長異常現象の発見だけで沢山である。その弱点と称するウラゴーゴル星が地球をどうして引張ったかということなどは、他日誰かがゆっくりと解決をつければいいのだ。その答案が出ていないということは決して大隅学士の不名誉ではなかった。しかもこの弱点に賛成して、大隅学士の名声がだんだん地に堕ち、彼を大山師と呼ぶ者が殖えてきたことは、いくら学非連中が泥合戦を好むとはいえ、なんという浅ましいことであろうか。
純真な大隅学士は、心の痛手にたえやらず、悶々として下宿の一室に閉じ籠り、一歩も外に出でなかった。そのうちにも彼の心はただ一つのことを念じていた。
「いまにまた無線電話がウラゴーゴルへ通ずるだろう。そうすれば佐々砲弾がなにか有力な報告をしてくれるだろう。彼はウラゴーゴル星にいるんだから『如何なる方法によりウラゴーゴルは地球を手許に引き寄せたか』ということを調べてくれるにちがいない」
このところ大隅学士も年齢の若いため、世間からの侮蔑に少しやっつけられた形であった。彼がもうすこし冷静だったら、この難問を解決してもっと早く笑顔を作ることが出来たかも知れない。彼はこの際下宿などに閉じ籠っていないで、武夫少年の待っている矢追村に直行する方がよかったのである。
それはさて置き、それから三日ほど経った後のこと、大隅学士のところへ三鷹村の天文台から至急報の電話がかかって来た。
彼は急いで電話口に出てみた。
相手は、この前行ったとき馴染になった無線係の菅井という理学士だった。
「モシモシ大隅さんですか。こっちは天文台ですが、例のウラゴーゴル星への電話がまた通じましたから、すぐいらっしゃいませんか」
「えッ、ウラゴーゴルが、また出ましたか。そうですか。それは有難い。すぐ参りますから……」
大隅は雀躍りして喜んだ。いよいよ問題の解ける機会が来た。佐々砲弾が出てくれるなら、よもや話の分らぬことはあるまい。
彼は通りがかりの37年型の自動車を呼びとめると、すぐに近郊三鷹村へ急行してくれるように頼んだ、
「どうです。ウラゴーゴルが出ましたか」
大隅は天文台の無線室へとびこむなり、それを訊いた。
「ええ出ることは出るのですが……」
と、菅井氏がちょっと気の毒そうな顔をした。
「えッ、どうしたのです。出ることは出るがどうしたというのです」
「──まあ聴いてごらんなさい。相手は佐々砲弾氏が出ます」
菅井研究員の不審な言葉に疑惑をもちながら、大隅は受話器を頭にかけた。
「モシモシ。こっちは大隅ですが、佐々砲弾君ですか。──モシモシ。オヤ、これは聞えないぞ」
「聞えないわけではないのですが、たいへん音が小さいのです。まアよく聴いてごらんなさい」
「ああそうですか。モシモシ砲弾君」
辛抱づよく呼びかけているうちに、なるほど、微かな声で佐々砲弾の声が聞えて来た。
「おお佐々君。これはどうしたのだ」
「いや大隅さん。僕はウラゴーゴル星を離れて、今ロケットで宇宙を飛んでいるんだ」
「なんだって、君はウラゴーゴル星を離れたのか。それは一体どういうわけだ」
「ウン、あそこにいては生命が危くなったんだ。それにウラゴーゴル星と地球の距離は五日前からドンドン遠くなってゆくことが分ったので、もうどうにも我慢が出来なくなったんだ」
「えッ、地球との距離が? どうしたんだろうなア、君そのわけを知っているだろう」
「そんなことは、君の方が知っている筈じゃないか。──例の隕石のことだよ」
「隕石て? ああ、あの大宗寺とかいうお寺の庭に落ちて、辻川博士がそれを掘って邸内にもって帰ったというやつかネ」
「そうだそうだ。その隕石だ」
「それがどうしたというのだ」
「君も案外、頭脳がわるいネ。あの隕石はウラゴーゴル星から故意に地球へ向って撃ちだした錨のようなものだ」
「えッ、錨というと……」
「つまり捕鯨船が、鯨の背中に向って、綱のついたモリを打ちこむじゃないか。あれと全く同じことなんだよ。あの隕石には、眼に見える綱こそ附いていないけれど、それと同じ働きをするものがあるんだ」
「なるほどなるほど。分ってきたぞ。するとあの隕石だが、あれは尋常一様の隕石じゃないんだネ」
「そうだと云ってたぜ。ウラゴーゴル星の国立研究所で、五十年がかりで作りあげた特殊物質なのだ。あれを地球に撃ちこんで置き、そして一方ウラゴーゴル星に建設せられた大きな機械を廻すとあの特殊物質を素晴らしい力で引張りつける。まあ一種の磁石みたいなものだが、その何千億倍のそのまた何千億倍かの力を持っているんだ。だから地球がスルスルとウラゴーゴル星の方に引き寄せられていったという話だぜ」
「うん、そうか。それで分った。僕の知りたいと思っていた答案ができた。君に感謝する。──そして今話の、一種の磁力みたいなものとは、何んなものかネ」
「ウフフ。そんな六ヶ敷いことが俺に分るかというんだ。──しかしウラゴーゴルのけだものたちは、その力のことをシュピオルと呼んでいたぜ」
「シュピオル? なんのことだろう。これはまた新しい大きな謎だ」
「まあその辺で勘弁してくれたまえ。俺のロケットの電池は、電圧がウンと下ってきたのだ。すこし倹約しないと、地球へ帰りつくまで保たないかもしれないからネ」
宇宙を走る佐々砲弾の無線電話は、そこで惜しくもプツンと切れた。
しかし受話器を台の上に置いた大隅学士の顔は急に若々しく輝きだしたのであった。
「ウム、これだこれだ。『如何なる方法でウラゴーゴル星は地球を引き寄せたか?』という問題の答案が立派にできたのだ。それにしても、何という恐ろしい力を持ったウラゴーゴルだろう! 彼奴等の知識は、わが地球に棲む人類よりも、百年以上も進歩している。恐ろしい大宇宙の敵!」
その翌日のこと、大隅学士は××大学の大講堂の演壇に進んで立って、この重大なる報告をした。これを聴講をするために押しよせた学者の数は無慮一万人にのぼった。会場の警戒線は会の始めから終りまで、二十度にわたって蹂躙された。それは嘗て政談演説会にも記録のないことだった。それは同時に全国中継でもって放送されたが、スピーカーの前に集った群衆は早慶戦以上だったという。ことに面白いことは、その放送の始まっている間、欧州におけるファッショ対コンミュニズムの戦争も一時休戦状態に入ったことである。そして大隅学士の講演が終了すると同時に、世界各地における戦争は、無期休戦に入ることを広く告げられた。
「われわれ地球に棲息する人類は、骨肉相食む闘争を即時中止し、全人類一致団結して、やがて侵入して来ようとするウラゴーゴルに対する戦闘準備を考究しなければならぬ。さもなければ、この次こそ、わが地球は八十億年の名誉を傷けられ、かのウラゴーゴルの奴隷とならねばならないであろう」
──と欧州の盟主ヒットリーニ氏は、国際放送をもって、世界の全人類に呼びかけたほどである。従って、大隅学士は人類の大恩人として、毎日のようにいくら断っても断り切れぬ招待会に追いかけられて、とうとう身体を壊しそうになった。とうとう彼は一夜、ひそかに飛行機に乗って帝都をぬけだし、ただ一人、想い出の矢追村に帰った。
月明の矢追村は、大隅学士を迎えて、まるで何事もなかったような平和な顔をしていた。
「ああ、武夫君はその後どうしたろうネ」
彼はそこで、ゆくりなくも巨人病に罹った哀れな武夫少年の身の上を思った。この矢追村は、ウラゴーゴル星からときどき発射される、目に見えない特殊光線に照射され、その光線にひどく照らされた生物が、あのグロテスクな巨人病の犠牲になったのであろうことは、最早疑いのないところであった。生れもつかぬ巨人になった彼武夫少年の一生こそ、なんという悲惨なことだろう。
彼は、少年を慰めたいと思ったので、博士邸の跡を訪れた。あの厳然たる高塀は、月光に照らされて、奇怪なる黒い影を長く引いていた。大隅は見覚えのある小門の前に立って、鋼鉄製の扉を、洋杖の先でコンコンと叩いてみた。
「──おーい、誰ですか?」
「僕は──僕は大隅という者です」
「大隅さん。ああ先生だッ」
扉のうちからは、可愛い子供の声がした。そして扉はギイッと内側に開かれた。
「おお──」
そう叫んだまま、大隅学士は門の中から飛び出してきた可憐なる少年の顔を、呆れ顔にいつまでも見つめていた。
「大隅先生。僕、武夫ですよ」
「えッ、武夫君。武夫君なら、もっと身体が大きい筈だ」
「ええ先生、悦んで下さい。僕の身体は四五日前からだんだん小さくなって、とうとう元のようになったんです。まるで、夢みたいで嬉しくて仕方がありません。お美代も、たいへん悦んでくれていますよ」
「おおそうか。やっぱり武夫君だったのか。僕も嬉しい。気になって仕方がなかった」
「僕だけじゃないんです。大きくなったものは全部小さくなりましたよ。ほら、石亀のように大きかった甲虫がありましたネ。あれもこの通り小さくなりましたよ」
そういって少年は、肩の上を指した。なるほど一匹の甲虫が、少年の服の上を匍っていた。それは小さな小さな甲虫だった。
「先生、どうして皆、元のように小さくなったんでしょうネ」
少年はニコニコしながら、大隅の顔を見上げた。
「ウン武夫君、やっと分ったよ。ウラゴーゴル星が遠くへ離れていったから、それであの不思議な力が弱くなり、それで皆元のように小さくなったんだ。それで分るじゃないか」
「ああ、そうなんですか。オヤお美代も先生の声を聞きつけて起きて来ましたよ」
なるほど、番小屋の方から、少年と仲よしだったお美代の声が聞えてきた。
「みんな幸福になったねえ──」
大隅学士は、皎々と照りわたる月の面を仰いで誰に云うともなく呟いた。
底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ科学」
1936(昭和11)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の箇所を除いて大振りにつくっています。
「そんな六ヶ敷いことが」
※「甚平」のルビに「じんべい」と「じんぺい」が、「大戸神灘」のルビに「おおとがみなだ」と「おおとかみなだ」が混在しているのは底本通りです。
入力:門田裕志
校正:宮城高志
2010年9月3日作成
2011年1月11日修正
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