疑問の金塊
海野十三
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尾行者
タバコ屋の前まで来ると、私は色硝子の輝く小窓から、チェリーを買った。
一本を口に銜えて、燐寸の火を近づけながら窓硝子の上に注目すると、向いの洋菓子店の明るい飾窓がうつっていた。その飾窓の傍には、二人連の変な男が、肩と肩とを並べて身動きもせず、こっちをジーッと睨んでいるのが見えた。
「何処までも、尾けてくる気だナ」
私はムラムラと、背後を振りかえって(莫迦!)と叫びたくなるのを、やっと怺えた。この尾行者のあるのに気がついたのは、横浜の銀座といわれるあの賑かな伊勢佐木町で夜食を採り、フラリと外へ出た直後のことだった。それから橋を渡り、暗い公園を脱け、この山下町に入りこんで来ても、この執念深い尾行者たちは一向退散の模様がないのである。
腕の夜光時計を見ると、問題の十一時にもう間もない。十五分前ではないか!
ぐずぐずしていると、折角の大事な用事に間に合わなくなってしまう。十一時になるまでに、こいつら二人を撒けるだろうか。これが銀座なら、どんな抜け道だって知っているが、横浜と来ると、子供時代住んでいた時とすっかり勝手が違っていた。大震災で建物の形が変り、妙なところに真暗な広々した空地がポッカリ明いていたりなどして、全く勝手が違う。この形勢では尾行者たちに勝利が行ってしまいそうだ。残るは、これからすこし行ったところに、さらに暗い海岸通があるが、その辺の闇を利用して、なんとか脱走することである。
そんなことを考え考え前進してゆくうちに、向うに町角が見えた。私は大きな息を下腹一ぱいに吸いこむと、脱走は今であるとばかり、クルリと町角を曲った。そして一目散に駈け出そうとする鼻先へ、不意に人が現れた。
「オイ政、待った!」
その声には聞き覚えがあった。これはいかんと引き返そうとすると、後からまた一人が追い縋った。私はとうとう挟み打ちになってしまった。
(しまった!)
と思ったが、もう遅い。
「政! 妙なところで逢うなア」
二人は予て顔馴染の警視庁強力犯係の刑事で、折井氏と山城氏とだった。いや、顔馴染というよりも、もっと蒼蠅い仲だったと云った方がいい。
「……」
私はチェリーを一本抜いて、口に銜えた。
「話がある。ちょっと顔を貸して呉れ」
「話? 話ってなんです」
「イヤ、手間は取らさん」
刑事は猫なで声を出して云った。
「旦那方」私は真面目に云った。「銀座の金塊は、私がやったのじゃありませんぜ」
「ナニ……君だと云やしないよ」
刑事は擽ったそうに苦笑した。恐らくあの有名な「銀座の金塊事件」を知らない人はあるまいが、事件というのは今から十日ほど前、銀座第一の花村貴金属店の飾り窓から、大胆にもそこに陳列してあった九万円の金塊を奪って逃げたという金塊強奪事件である。犯人は前から計画していたものらしく、人気のない早朝を選び、飾窓に近づくと、イキナリ小脇に抱えていたハトロン紙包の煉瓦をふりあげ、飾窓目がけて投げつけた。ガチャーンと大きな音がして、硝子には大孔が明いたが、すかさず手を入れて九万円の金塊を掴むと、飛鳥のように其の場から逃げ去った。それから十日目の今日まで犯人は遂に逮捕されない。なにしろ早朝のことだったから、目撃した市民も意外に尠い。手懸りを探したが、一向に有力なのが集らない。事件は全く迷宮に入ってしまった。警視庁は連日新聞記事の巨弾を喰って不機嫌の度を深めていった。その際に本庁の強力犯の二刑事が、はるばる横浜まで遠征して来たのは、誰が考えたって、ハハア金魂事件のためだなと気がつく。
「そう信用して下さるのなら、話はまた別の日に願いましょう。今夜はこれで、だいぶ更け過ぎていますからネ」
私は軽く突っぱねた。時計をソッと見ると、既にもう十一時に間がない。私は気が気でない。
「いやに逃げるじゃないか」と執念深い刑事は反って絡みついてきた。「ところで一つ尋ねるが、赤ブイ仙太を見懸けなかったか」
「仙太がどうかしたんですか」
「余計なことを訊くな。貴様、仙太と何処で逢った。何時のことだ」
「旦那方。私はハマの仙太の番をするくらいなら、今時こんな場所を一人で歩いちゃいませんぜ」と私はちょっと嘘をついた。
「ふざけるな。じゃあ訊くが、銀座無宿の坊ちゃんが河岸をかえて、なぜ横浜くんだりまで来ているのだ……」
坊ちゃん政──それは私にいつの間にか付けられた通り名だった。もちろんかねて顔馴染の二刑事が覚えているのも詮ないことだろう。だが云わでもその名前を呼びかけられりゃ、いくら此処は横浜だって小さくなっていられるものかと、私はムッとした。
だがそのムッとするのが、私の悪い病気なのだ。現に銀座を出て、単身この横浜に流れて来たのも、所詮は大きいムッとするものを感じたせいではなかったか。
(伝統の銀座を、横浜の奴等に荒されてたまるものかい)
若い私には無体にそいつが癪にさわった。私は覘う相手から、覘うものを捲きあげてしまわなければ、死んでも銀座には帰らないと肚を決めているのだ。──で、その大事の前に、顔馴染の刑事なんかと喧嘩をしてはつまらないではないか。我慢をしろ!
「オイ何とか云えよ」
「黙っていちゃ、駄目じゃないか」
二人の刑事はジリジリと左右から肉迫してきた。相手の眼はらんらんと輝いた。私を大きな獲物と見込んで、どうしても物にしようという真剣さが見える。これは簡単に済まないぞ。おとなしく身を委して機会を待つか、それともサッと相手の足を払って出るか、無気味な沈黙が三人の息を止めた。
と、その時だった。──
キ、キャーッ。
と、魂消える異様な悲鳴が、突然に闇を破って聞えた。どうやら向うの通らしい。途端に向うに見える時計台から、ボーン、ボーンと十一時を知らせる寝ぼけたような音が響いて来た。──ああ十一時。あの時刻だ。私はドーンと胸を衝かれたような激動を感じた。
金貨を握った屍体
「うむ、事件だぞ」
「すぐ其処だ。行くか……」
二人の刑事は顔を衝突せんばかりに近づけて、お互いの腕を掴み合った。
「直ぐ行こう」
「だが此奴をどうする?」
「うむ。さあ、どうする?」
刑事は私の処置をどうしたものかと躊った。
「逃げませんよ、私ア」と言下に応えた。「一緒に行ったげましょう」
「お前も行くか。どうかそうして呉れ!」
刑事はホッと溜息をついた。
私はわざと先頭になって駈けだした。刑事も横合から泳ぐように力走した。
真暗な、広い空地に出た。向うにポツンと二階建らしい倉庫のようなものが立っているが、灯もない真黒な建物だ。悲鳴はそのあたりから起ったように思われる。私は前面を注視しながら走った。
沈黙の倉庫の前まで来ると、向うに火の消えた街灯の柱が何事か云いたげに立っていた。その下に、長々と横たわっている黒い物があった。
「旦那方。あすこに、一件らしいのが見えますぜ」
刑事は私の方に身体を擦りよせてきた。
「うん。伸びているようだナ。それッ」
三人はバラバラと、その方に近づいた。刑事の手から、懐中電灯の光がパッと流れだした。その光は直ちに、地上に伏している怪しい男の姿を捉えた。雨あがりの軟泥の路面に、青白い右腕がニューッと伸びていて、一面に黒い泥がなすりついている──と思ったら、それは真赤な血痕だった。水色のアルパカの上衣にも、喞筒で注ぎかけたような血の跡が……。全くむごたらしい光景だった。
刑事は、倒れている若い男の横顔を照してみた。顔は血の気を失って、只太い眉毛と、長い鼻とが残っていた。歯を剥き出した唇は、泥を噛んでいた。──と、刑事が叫んだ。
「呀ッ。……これア、赤ブイの仙太じゃないか!」
赤ブイの仙太! 仙太といえば刑事たちが、さっき私に訊いたところの横浜の不良で、カンカン寅の一味なのだ。
「そうだ、仙太だ。すっかり顔形が違っている感じだが、仙太に違いない」
「誰が殺ったんだろう?」
二人の刑事は、そこで顔を見合わせると、意味あり気に、後に立っている私の顔をジロリと睨んだ。
「……」
仙太だってことは、お二人より先にこっちが知っていた。先刻あの悲鳴を聞いた瞬間に、「仙太め、南無阿弥陀仏!」と口の中で誦えた程だ。
「死んでいる。……とうとう殺られたのだ。」
「全くひどい。後頭部から背中にかけて、弾丸を撃ちこんだナ」
「銃声は聞えなかったが……」
「どこから撃ったのだろう」
刑事は踞ったまま、遥か向うの辻を透かしてみた。そこは水底に沈んだ廃都のように、犬一匹走っていなかった。
逃げるなら今のうちだった。しかし私は別に逃げようとはしなかった。
刑事たちは、折角探し求めていた横浜ギャングの一人、赤ブイの仙太が、遂に無惨な死体となって発見されたので、只もう残念でたまらないという風に見えた。二人は諦めかねたものか、なおも屍体をいじくりまわしていた。
「おやア、なんか掌の中に握っているぞ」
と、突然に、折井刑事が叫んだ。
「ナニ、握っているって? よし、開けてみろ」
山城刑事は懐中電灯をパッと差しつけた。屍体の右手は、蕾のように固く、指を折り曲げていた。折井刑事はウンウン云いながら、それを小指の方から、一本一本外していった。
「うん、取れた。……あッ、これは……」
「なんだ、金じゃないか!」
掌の中からは一枚のピカピカ光る貨幣が出てきた。
「金だ。オヤこれは金貨だ! それも外国の金貨だ」
金貨が出てきて、刑事達は俄かに緊張した。銀座の金塊盗難事件以来というものは、黄金を探して歩いた二人だ。その黄金製品である金貨が、屍体となった赤ブイ仙太の掌中から発見されたということは、極めて深い意味があるように思われたのだった。それにしても、それが外国金貨とは何ごとだ。
「旦那方」私は立った儘で云った。「金貨が落ちていますよ。ホラ、そこと、もう一つ、こっちにも……」
「ナニ、金貨が落ちている?」
「本当だ……」
刑事たちは、屍体から眼を放すと、地面を嗅ぐようにして、路面を匍いまわった。同じような、三つの金貨が拾いあげられた。一つは屍体の伸ばした右手から一尺ほど前方に、もう一つは、消えている街灯の根っこに、それから最後の一つは、倉庫のような荒れ果てた建物の直ぐ傍に……。
「沢山の金貨だ。これは一体、どういうのだろうな」
「この金貨と、仙太殺害とはどんな関係があるのだろう。それからあの金塊事件とは……」
刑事たちは、次々に出てくる疑問を、どこから解いたものかと、たいへん当惑している風だった。
「旦那方。金貨はまだまだ出てきますぜ」
と、私は仙太のズボンの右ポケットから、裸のままの貨幣を掴みだした。銅貨や銀貨の中に交って、更にピカピカ光る五枚の金貨が現れた。
「おい、余計なことをするナ」と折井刑事は一寸狼狽の色を見せて呶鳴ったが「もう無いか、金貨は……」と、息せきこんだ。
「どれどれ」と代って山城刑事が、ポケットというポケットに手をつきこんだが、その後は金貨が出てこなかった。全部で丁度十枚の金貨が出てきたわけだった。
「これアすくなくとも四五百円にはなる代物だ」と折井刑事は目を瞠って、「仙太の持ち物としては、たしかに異状有りだネ、山城君」
「もっと持っていたんではないかネ」と山城は眼をギロリと光らせた。「仙太のやつ、ここで強奪に遭ったのじゃないか。だから金貨が道に滾れている……」
「強奪に遭ったのなら、なぜ金貨が滾れ残っているのだ。それにわれわれが駈けつけたときにも、別に金貨を探しているような人影も見えなかった」
「そりゃ君、仙太を殺したからさ。……いいかネ。仙太は数人のギャングに取り囲まれたのだ。前にいた奴が、仙太の握っている金貨を奪おうとした。取られまいと思って格闘するうちに、手から金貨がバラバラと転がったのさ。手強いと見て、背後にいた仲間が、ピストルをぶっ放したというわけだ。前にいた奴は仙太を殺すつもりはなかった。仙太の仆れたのに駭いて、あとの金貨は放棄して、逸早く逃げだしたのだ。見つかっちゃ大変というのでネ」
「これは可笑しい」と折井刑事は叫んだ。「第一、格闘だといっても、その証拠がないよ。入乱れた靴の跡も無しさ。第二に、前から強迫しているのに、背後から撃ったのでは、前にいる同じ仲間のやつに、ピストルが当りゃしないかネ。僕はそんなことじゃないと思うよ」
「じゃ、どう思う?」
「僕のはこうだ。仙太のやつ、ここまで来て金貨を数えていたのだ。ここは人通もない暗いところだけれど、向うの街の灯が微かに射しているので。ピカピカしている金貨なら数えられる。そこを遥か後方から尾けて来たやつが、ピストルをポンポンと放して……」
「ポンポンなんて聞えなかった。……尤も俺は消音ピストルだと思っているが……」
「とにかく、遥か後方から放ったのだ。見給え、この弾痕を。弾丸は撃ちこんだ儘で、外へは抜けていない。背後近くで撃てば、こんな柔かい頸の辺なら、弾丸がつきぬけるだろう」
刑事たちは、その筋へ警報することもしないで、勝手な議論を闘わした。それは所轄警察署へ急報するまでに、事件の性質をハッキリ嚥みこんで、できるならば二人でもって手柄を立てたかったのである。それは刑事たちにとって、無理もない欲望だったし、それに二人が本庁を離れ、はるばるこの横浜くんだりへ入りこんでからこっち、二人で嘗めあった数々の辛酸が彼等を一層野心的にしていた。
私は先程から、二人の眼を避けて、屍体の横たわっている附近を、燐寸の灯を便りに探していた。そして漸く「ああ、これだ」と思うものを見付けたのだった。それは地面に明いた小さい穴だった。これさえあれば、仙太殺害の謎は一部解けるというものだ。
「ねえ、旦那方」と私は論争に夢中になっている刑事たちに呼びかけた。
荒れ倉庫の秘密
「ナ、なんだッ」と刑事は吃驚したらしく、私を振り返った。
「どうですい。一つここらで手柄を立ててみる気はありませんか」
「なんだとオ。……生意気な口を利くない」
「素敵な手柄が厭ならしようが無いが……」
刑事二人は、ちょっと顔を見合わせていたが、やがてガラリと違った調子で、
「なんだか知らないが、聞こうじゃないか」
「聞いてやろうと仰有るのですかい、はッはッはッ。……まア、それはいいとして、旦那方。私は犯人の居処を知っていますよ」
「ナニ、犯人の居処? 犯人は誰だッ」
「犯人は誰だか知らない。だが犯人の居処だけは知っているのですよ……ホラ、ここに真暗な崩れ懸ったような倉庫がありますネ。犯人はこの中に居るのですよ」
「何故だ。どうして此の中へ逃げこんだというのだ」
「喋っていると、犯人が逃げだしますよ」
「しかしわれわれは、意味もないのに動けないよ」
「じゃ簡単に云いましょう。いま仙太のポケットから出た五枚の金貨ですがネ、あの金貨には泥がついていたのをご存知ですか」
「……」
「もう一つは、そこに錆びた五寸釘を立てて置きましたが、路面に垂直に、小さい孔が明いていますよ」
刑事たちは、目をパチクリさせて地面に踞むと、その錆びた釘を退けて、太い箸をつっこんだ程の縦穴を覗きこんだ。
「これは?」
「ピストルの弾丸が入っているのですよ。今掘りだしてみましょう」
私は釘の先で、穴をどんどん掘った。すると案の定下からニッケル色の弾丸がコロリと出て来た。
「ほほう、なるほど」刑事は駭きの声を放った。「これは何故だ」
「いいですか、上を向いちゃ、犯人が気付きますよ。下を向いていて下さい。犯人は倉庫の二階の窓から仙太を撃ったのです」
「そりゃ変だ。仙太は背後から撃たれている」
「いいえ、傷はあれでいいのです。仙太のポケットに入っていた金貨は泥がついていたでしょう。仙太の野郎は、あの金貨を皆、この路面から拾ったのです。だから泥がついているんです。金貨は、同じ倉庫の二階から犯人が投げたのです。仙太がそれを拾おうと思って、地面に匍わんばかりに踞んだのです。いいですか。そこを犯人は待っていたのです。丁度われわれが今こうしている此の恰好のところを、上からトントンと撃ったのですよ」
「ナニ、この恰好のところを……」
上から撃たれたと聞いて、二人の刑事は、身の危険を感じてパッと左右に飛び退いた。
「そんなに騒いじゃ、犯人に気付かれますよ」と私は追縋って云った。
「さア早く、この建物の出口を固めるのです」
「よオし。おれは飛びこむ」
「だが、この屍体をどうする?」
刑事が躊っているところへ、折よく、密行の警官が通りかかった。
二人は物慣れた調子で、巡回の警官を呼ぶと、屍体の警戒やら、警察署への通報などを頼んだ。警官はいく度も肯いていたが、刑事たちが、
「じゃ、願いますよ」
と肩を叩くと、佩剣を握って忍び足に元来た道へひっかえしていった。
「さあ、これでいい。……じゃア、飛びこむのだ」
私たち三人は、抜き足さし足で、この建物の周囲をグルリと廻った。表の大戸は、埃がこびりついていて、動く様子もない。裏手に小さい扉がついていて、敷居に生々しい泥靴の跡がついている。これを引張ったが、明かない。
「いいから、内側へ外して見ろ!」
経験がいかなる場合も、鮮かに物を云った。戸の端がゴトリと内側へ外れた。それに力を得て、グングン圧すと、苦もなく入口が開いた。──内は真暗だ。
懐中電灯の光が動いた。階下には、大きな古樽がゴロゴロ転がっている。その向うには一斗以上も入りそうなそれも大きな硝子壜が並んでいる。ひどい蜘蛛の巣が到るところに掛っている。埃っぽい上に、なんだか鼻をつくような酸っぱい匂いがする。しかし犯人らしい人影は見えない。
「じゃあ、おれは入って見る」と折井刑事は低声で云った。「山城君はここで番をして居給え」
「うん」
「私もお供しましょう」と申し出た。
「そうか。……だが危いぞ。おれはピストルを持っているけれど……」
「なーに、平気ですよ」
折井刑事と私とは、一歩一歩用心しながら建物の中に入った。樽の間を探してみたが、何も居ない。──刑事は頤をしゃくった。その方角に梯子段が斜めに掛っていた。
(階段をのぼるのだな)
と私は思った。そのとき突然に、刑事の懐中電灯が消えた。
階段を一歩一歩、息を殺し、足音を忍んで上っていった。いまにも何処かの隅から、ピストルが轟然と鳴りひびきそうだった。
そのとき、折井刑事が私の腕をひっぱった。そして耳の傍に、やっと聞きとれる位の声で囁いた。
「二階に手が届くようになったから、一度懐中電灯をつけて見る。ピストルの弾丸が飛んでくるかも知れないが動いちゃいけない。その後で懐中電灯を消すから、その隙に階上へとびあがるのだ。わかったかネ」
私は低声で「判りました」と返事した。私を縛ろうとした刑事と、同じ味方となって相扶け相扶けられながら殺人鬼に迫ってゆくのだ。なんと世の中は面白いことよ。
折井刑事が、また一段上にのぼった。するとサッと一閃、懐中電灯が二階の天井を照した。灯は微かに慄えながら、天井を滑り下りると、壁を照らした。それから四囲の壁を、グルグルと廻った。──しかし予期した銃声は一向鳴らない。途端にパッと灯が消えた。
(今だ!)
私は階上に駈け上った。その拍子に、いやというほど、グラグラするものに身体をぶっつけた。見当を違えて、樽にぶっつかったものらしい。
十秒、十五秒……。
パッと懐中電灯が点った。しかし何も音がしない。
(さては、自分の思いちがいだったのか)
私はイライラしてきた。
「さあ、こんどは君がこいつを持って」と刑事は私に懐中電灯を握らせ「先へ立って、この部屋を廻って呉れ。危険だからネ」そういって彼はピストルで敵を撃つ真似をした。
私は電灯を静かに横へ動かした。部屋には階下同様、大きな硝子壜だの、樽だのが並んでいた。しかし階下には無かった変な器械が一隅を占領していた。それは古い化学工業の原書にあるようなレトルトだの、耐酸性の甕だの、奇妙に曲げられた古い硝子管だのが、大小高低を異にした架台にとりつけられていたのだった。
(さてはこの建物は、強酸工場と倉庫とを兼ねているんだな)
と私は気がついた。これは横浜へ明治年間に来た西洋人が、その頃日本に珍らしくて且つ高価だった硫酸や硝酸などを生産して儲けたことがあるが、それに刺戟せられて、雨後の筍のように出来た強酸工場の名残なのだ。恐らく震災で一度潰れたのを、また復活させてみたが、思わしくないので、そのまま蜘蛛の棲家に委ねてしまったものだろう。それにしても……。
と、突然に、後方にガタンと樽の倒れる音がした。ハッと振りかえる間も遅く、飛び出した黒い影が飛鳥のように階段を駈け下りた。
「待てッ」
折井刑事は叫び声をあげるが早いか、怪影を追跡して、階段の下り口へ突進した。そして転がるように、駈け下りた。
激しい叫喚と物の壊れる音とがゴッチャになって、階下から響いてきた。出口にいた城山刑事に遮られて、怪漢は逃げ場を失い、そこで三人入乱れての争闘が始まっているのであろう。
しかし私は、懐中電灯を持ったまま、じっと階上の部屋に立ち尽していた。目の前にある何に使うとも知れない化学装置が、ひどく私の心を捉えたのだった。それは奇妙な装置でもあったが、私の興味を惹いたのは、それが奇妙なことよりも、むしろ生々しい感じがしたからだった。室内は荒れ果て、樽は真白な埃にまみれ、天井には大きい蜘蛛の巣が懸っているという古めかしさの中に、その化学装置ばかりは、埃のホの字も附着していなかったからであった。
私は事件の謎が、正しくこの場に隠されていることを感づいた。
「よしッ。この秘密を解かずに置くものかッ」私は腕ぐみをしたまま、石のように、何時までも立ち尽したのだった。
怪しき取引
その次の日の夕方、私は同じ伊勢佐木町で、素晴らしい晩餐を執っていた。前日と違っているところは、連れが一人あることだった。壮平爺さんという頗る風采のあがらぬ老人が、私の客だった。
「ほんに政どん」と壮平爺さんは眼をショボショボさせて云った。「あんたに巡りあわなければ、今頃わしゃ首をくくっていたかも知れん。あのカンカン寅が、人殺しの嫌疑でお上に捕ったと聞いたときは、どうしてわしゃ、こうも運が悪いのかと、力もなにも一度に抜けてしまってのう」
カンカン寅というのは例の仙太の親分に当る男で、昨夜あの海岸通の古建物で、折井山城の二刑事に捕った怪漢のことだった。彼は始め階上に潜んでいたが、私たちをうまくやり過ごしたところで階段を下りて逃げだしたが、出口に頑張っていた山城刑事に退路を絶たれ、逡ろぐところを追いすがった折井刑事に組みつかれ、そこで大乱闘の結果、とうとう縛についたというわけだった。二人の刑事は、案の定大手柄を立てたことになった。その悦びのあまり、一旦不審を掛けた私だったが、何事もなく離してくれたのだった。
しかし捕えたカンカン寅というギャングの顔役は、当局の訊問に対して、思うような自白をしなかった。彼の手先である赤ブイの仙太殺しの一件を追求しても、首を横に振るばかりか、例の証拠をさしつけても一向恐れ入らなかった。かねがね手強い悪党だとは考えていたが、あまりにもひどく否定しつづけるので、係官もすこし疑問を持つようになったと、きょう折井刑事が不満そうに語ったことだった。
それに引きかえ、カンカン寅捕縛と共に、明かな失望を抱いたのは、この壮平爺さんだった。彼はあの古い建物の持ち主だった。彼は本牧で働いている彼の一人娘清子を除いては、この古い建物が彼の唯一の財産だった。ところで壮平爺さんは、目下大変な財政的ピンチに臨んでいるのだった。それは先年、ついウカウカと高利貸の証文に連帯の判を押したところ、その借主がポックリ死んでしまって、そのために気の毒にも明日が期限の一千円の調達に老の身を細らせているのだった。下手をすれば、娘の清子を棲みかえさせて、更に莫大な借金を愛児の上に掛けさせるか、それとも首をくくって死ぬより仕方がなかったのだった。詮方なく、物は相談と思い、カンカン寅の許を訪ね、あのボロボロの建物を心ばかりの抵当ということにして(あれでは二百円も貸すまいと云われた)、一千円の借金を申込んだ。
寅は何と思ったか、それを二つ返事で承知して、壮平爺さんを帰らせた。それは今から一月前のことだった。しかしカンカン寅は一向に金の方は渡す様子がない。それで催促にゆくと、期限の前日までに渡してやろうという話だった。ところが明日が約束の日という昨夜になって、カンカン寅が突然警察へ監禁されてしまったので、爺さんは失心せんばかりに駭いた。顔色を変えてカンカン寅の留守宅へ行って、いままでの事情を話すと共に、この際是非に融通を頼むと歎願をした。しかし留守を預る人達は、老人の話を鼻であしらって追いかえした。親分がこんなになっていて、そんなことが聞かれると思うか、いい年をしやがってという挨拶だった。
心臓が停まるほど驚いた壮平爺さんは、泣く泣く我が家へ帰っていった。路々、この上は娘に事情を云って新しい借金を負わせるか、さもなければ首をくくろうかといずれにしても悲壮な肚を決めかけていたところへ、私が背後から声をかけたのだった。爺さんとは、私が少年時代からの知り合いの仲だった。──と、まアこういう訳だった。
「じゃあ爺さん。私がカンカン寅に代って、あれを千円で譲りうけようと思うが、どうだネ」
と、事情を訊いた私は、相談を持ちかけた。
「えッ。あんたが、代って千円を」爺さんは目を瞠って云った。
「文句がなければ、金はいまでも渡そう」
「そうけえ。済まないが、そうして貰うと……」
「ホラ、千円だア。調べてみな」
私は人気のない室に安心して、千円の紙幣束を壮平に手渡した。その千円は、実を云えば銀座を出るとき、仲間から餞別に贈られた云わば友達の血や肉のように尊い金であったけれど、老人はワナワナ慄える手に、それを受取った。そして指先に唾をつけて、一枚一枚紙幣を数えていった。
「確かに千両。わしゃ、お礼の言葉がない」
「お礼は云うにゃ及ばないよ。それよか爺さん、ちょっと云って置くことがある」
「へーい」
「私が金を出したことは、誰にも云っちゃならないよ。しかしそれがためにあの建物がまだ爺さんの手にあるのだと思って、買いたいという奴が出て来たら、あの建物はいつでも返してやるから、直ぐ私のところへ相談に来なさい。いいかい爺さん」
「へーい、御親切に。だがあれを買いたいなんて物ずきは、これから先、出て来っこないよ、あんたにゃ気の毒だけれど……」
「はッはッはッ」
私は壮平爺さんを外に送りだした。老人のイソイソとした姿が、町角に隠れてしまうと、私は船会社と、東京から連れてきた身内の者とに電話を掛けた。それから外へ飛び出した。それは私が横浜に来た仕事の片をつけるためだった。
どんな仕事?
ギャング躍る
その夜はたいへん遅くなって、宿に帰った。私はなんだか身体中がムズムズするほど嬉しくなって、寝台についたけれど、一向睡れそうもなかった。とうとう給仕を起して、シャンパンを冷やして持って来させると、独酌でグイグイひっかけた。しかしその夜はなかなか酔いが廻らなかった。
その代り、いろいろの人の顔が浮んで消え、消えた後からまた浮びあがった。──銀座の花村貴金属店の飾窓をガチャーンと毀す覆面の怪漢が浮ぶ。九万円の金塊を小脇に抱えて走ってゆくうちに、覆面がパラリと落ちて、その上から現れたのは赤ブイの仙太の赤づらだ。すると横合から、蛇のような眼を持ったカンカン寅がヒョックリ顔を出す。とたんに仙太の顔がキューッと苦悶に歪む。カンカン寅の唇に、薄笑いが浮かんで、手に持ったピストルからスーッと白煙が匍い出してくる。二人の刑事の顔、壮平爺さんの嬉しそうな顔、そして幼な馴染の清子の無邪気な顔、──それが見る見る媚かな本牧の女の顔に変る。
「明日になったら、清子に一度逢ってくれるかな。清子も逢いたいと云っているって、壮平爺さんが云ったが……。莫迦莫迦。手前はなんて唐変木なんだろう。自惚が強すぎるぜ。まだ仕事も一人前に出来ないのに……」
自嘲したり、自惚たりしているうちに、ようやく陶然と酔ってきた。──そして、いつの間にかグッスリ睡ったものらしい。
コツ、コツ、コツ。
慌ただしいノックの音だ。それで目が醒めた。気がついてみると、空気窓からは明るい日の光がさしこんでいた。時計を見ると、午前九時。
「なんだア」
まだ早いのに……と、私は不満だった。
「朝っぱらから伺いやして……」
と、扉の向うでしきりに謝っているらしいのは、どうやら壮平爺さんの声だった。私は思わず、ギクンとした。
扉を開いてやると、転がるように壮平爺さんが入ってきた。顔色は真青だ。不眠か興奮のせいか、瞼が腫れあがっている。
「早いもので、ボーイさんも相手にせず、電話も通じて呉れないんで……」
と老人は恐縮した。
「なんだネ、こんな朝っぱらから」
私はチェリーをとって口に銜えた。
「イヤ政どん、今日は早朝から、わしも大騒ぎさ。アノ、カンカン寅の一家が、わしのところへ押し寄せてきやがった」
「ほうほう」私は紫の煙を、天井高く吹きあげた。美しい煙の輪がクルクル廻る。
「昨日はてんで相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ」
「うん、うん」
「わしは腹が立って、手厳しく跳ねつけてやったよ。あれはもう売っちまった。もう遅いよとナ。すると、それはいかん、是非こっちへ売れという。それは駄目だと、尚も突っぱねると、向うは躍気さ。こっちへ買い戻さねば親分に済まねえ。売らないというのなら手前は生かしちゃ置けねえと脅しやがる。それがどうも本気らしいので、政どんの昨夜の話もあり、じゃあ一寸相談してくるといってその場は納めたが……」と壮平は顔を慄わせた。
「──じゃあ、売っておやりよ」
「えッ」
「売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵を切るんだ」
「そいつはどうも」
「云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつは儲け話なんだ。相手は屹度買うよ。彼奴等はきっと今朝がた、留置場のカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ」
壮平爺さんは、私が心を翻さないと見て、諦めて帰りかけた。
「ああ、ちょっと」と私は呼びとめ、「いいかい爺さん。五千円を掴んだら、直ぐ横浜を出発んだ。娘さんも連れて行くんだぜ」
「どうして?」
「もう此上横浜に居たって、面白いことは降って来やしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減に見切をつけて、横浜をオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ」
「……」
「そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ」
「五千円を?」と壮平老人は目を丸くして「五千円よりもその言葉の方が嬉しいが、一体わし達はどこへ行けばいいのかネ。こうなると、わしはお前のところから遠く離れるのが心細くなるよ」
老人は悦びのあとで、また両眼をうるませた。
「満洲へゆくんだ。丁度幸い、今夜十一時に横浜を出る貨物船清見丸というのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ」
「満洲かい。……それもよかろう」
「じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。外には誰にも話しちゃ駄目だぜ」
「そりゃ大丈夫だ」と老人は肯いて「じゃ、万事お前さんの云うとおりにしよう。それでは順序として、まず五千円の商談をして来よう」
「ちょっと待った」と私は老人を呼び止めた。「あの建物の取引だが、今夜の十時にするといって呉れ」
「莫迦に遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃ拙いのかい」
「ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身を少し搬び出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる」
「へえ、中身をネ」老人は訝かしそうに呟いた。「中身というと、あの酸の入っている……」
「そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ」
「そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ」
「金塊は無かったよ」と私は朗かに云った。「金塊どころか、金の伸棒も入っていなかったことは、警官たちが一々検査して認めているよ」
「ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい」
「立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ」
「へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……」
「いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ」
横浜よ、さらば
その夜更けて、私は貨物船清見丸へ壮平親子を見送にいった。甲板に堆高く積まれたロープの蔭から私たちは美しい港の灯を見つめていた。
「横浜を離れるとなると、やっぱり淋しいわ」
と清子が丸めたハンカチを鼻に当てた。
「清子、贅沢をいっちゃ罰が当るよ」と壮平老人が云った。「政どんが来てくれなくちゃ、お互に今頃は屍骸になって転がっていたかも知れない」
「でも……」
「ところが屍骸にならないばかりか、借金を返した上に、五千両の金まである。その上、言い分があってたまるか」
「感謝しているわ。あたしたちはいろいろと儲けものをしているのに、政ちゃんは損ばかりしているのネ」
「そうでもないよ」と私は笑った。
「どうだ政どん」と壮平老人はこのとき真顔になって云った。「この辺で、一件の話を聞かせてくれてもいいじゃないか。あの倉庫から搬び出した中身のこと、それからお前が横浜へ流れてきた訳など」
「じゃ土産咄に、言って聞かせようか」
私はそこで、一件の要領をかいつまんで話をした。
──私は壮平老人から倉庫を一千円で買ったがあれには大きな自信があったのだった。あの夜、秘密に倉庫から警察へと搬んだ酸は、大きな硝子壜に入って全部で二十五個だった。それは見たところ、黄金の形は一向に無くて、澄明な液体に過ぎなかったが、しかし本当は九万円の黄金が、この液体の中に溶けこんでいるのだった。それは何故か?
王水という強酸があることを、人々は知っているであろう。それは硝酸と塩酸とを混ぜた混合酸であるが、この酸に黄金を漬けると始めて黄金は形が崩れ、やがて、全く形を失って液の中に溶け去る。それでこの強酸に王水という貴い名前が附けられている。──
黄金を王水に溶かしたのは私ではない。それは今、殺人罪で警察に監禁せられているカンカン寅の仕事だ。彼奴はそれを、あの海岸通の古い建物の中で仕遂げたのだ。九万円の金魂は、手下の赤ブイの仙太を使って、銀座の花村貴金属商から強奪させた。仙太が逃げ帰ってくると、煉瓦大の其の金塊は巻き上げ、仙太の身柄は身内の外に隠した。しかし仙太がいずれその内に喋るのを恐れたカンカン寅は、残虐にも仙太に報酬をやるといって呼び出した。
仙太は何も知らず、云いつけ通り海岸通の古建物の前へ来て口笛を吹いたのだろう。カンカン寅は、仙太と一室に逢うのは仙太のために危険だと巧いことを云い、あの建物の二階から、報酬の金貨を投げ与えたのだ。仙太が地上に散らばった金貨を拾おうと跼んだところを、二階からカンカン寅が消音ピストルを乱射して殺してしまったのだった。仙太の行動に不審を持っていた私は、あの会合の時間も場所も知っていたのだった。とにかく気の毒な仙太だ。
笑止千万なのは、カンカン寅だ。あの古い建物を壮平爺さんの手から買いとったと悦んでいるだろうが、九万円の液体黄金の無くなったことは夢にも知らないのだ。今夜私が搬び入れて置いた中身の酸は、分量こそ同じ二十五壜だが、東京から買った純粋の酸でしかない。カンカン寅の奴、後でそれを分析してみて、一匁の黄金も出てこないときには、どんな顔をすることだろうか。失望と憤怒に燃える彼奴の顔が見えるようだ。……と話をしてくると、壮平老人は、私の言葉を遮った。
「それはいいが、その九万円の黄金液はどう始末したのかい」
「警視庁へ引き渡したよ」
「どうだかネ。九万円じゃないか」いかにも惜しい儲け物だのにという顔をした。
「本当に渡したよ。私は金が欲しいわけでこの仕事をやったんじゃない。目的は銀座の縄張へ切りこんできたカンカン寅の一味に一と泡ふかせたかっただけさ」
「それじゃ警視庁は大悦びだろう」
「うん。──」
大手柄と判ったときの、折井山城の二刑事の嬉しそうな笑顔が再び目の前に見える。二人は意気揚々と本庁へ引上げていったことだろう。
そのとき、解纜を知らせる銅鑼の音が、船首の方から響いてきた。いよいよお別れだ。私は帽子に手をかけた。
「お父さん。──」
いままで黙って聞いていた清子が、突然顔をあげた。
「なんだ、清子」
「あたしは船を下りるわよ」
そういうが早いか、清子はトランクを両手で持ち上げた。
「なにを云うんだ。横浜にいちゃ、生命がない。カンカン寅の一味は張り子の人形じゃないぞ」
「生命が危いくらい、あたし知っているわ。でも……でも、あたし死んでもいいのよ、政ちゃんの傍に少しでも永く居られるなら……」
清子は憑かれたような眸で、私の方に顔を向けた。
壮平は気が転倒してしまって、一語も発することができないで居る。銅鑼は船内を一巡して、また元の船首で鳴っていた。出発はもう直ぐだ。
肚を決めた私は、イキナリ清子の手からトランクを取った。
「まあ嬉しい。あたし下りてもいいの」
「いや、いけない」
私は手に持ったトランクをソッと下に下ろした。清子は顔を両手の中に埋めた。私はトランクの上に静かに腰を下ろした。そしていつまでも動かなかった。銅鑼はもう鳴りやんで、清見丸は静かに動き出した。
満洲へ、満洲へ……。銀座に別れて満洲へ……。
それもまた、いいだろう!
折から、埠頭の方から、リリリリと号外売りの鈴の音が聞えてきた。私の眼底にはその号外の上に組まれた初号活字がアリアリと見えるようだ。──そのとき私は耳許に、魂をゆするような熱い息づかいが近よってくるのを感じたのだった。
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「キング」
1934(昭和9)年6月号
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2005年5月26日作成
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