疑問の金塊
海野十三



   尾行者びこうしゃ



 タバコ屋の前まで来ると、私は色硝子いろガラスの輝く小窓から、チェリーを買った。

 一本を口にくわえて、燐寸マッチの火を近づけながら窓硝子の上に注目すると、向いの洋菓子店の明るい飾窓ウィンドーがうつっていた。その飾窓ショー・ウィンドーそばには、二人連の変な男が、肩と肩とを並べて身動きもせず、こっちをジーッとにらんでいるのが見えた。

何処どこまでも、けてくる気だナ」

 私はムラムラと、背後うしろを振りかえって(莫迦ばか!)と叫びたくなるのを、やっとこらえた。この尾行者のあるのに気がついたのは、横浜はまの銀座といわれるあのにぎやかな伊勢佐木町いせざきちょう夜食やしょくり、フラリと外へ出た直後のことだった。それから橋を渡り、暗い公園を脱け、この山下町やましたちょうりこんで来ても、この執念深しゅうねんぶかい尾行者たちは一向退散の模様がないのである。

 腕の夜光時計やこうどけいを見ると、問題の十一時にもう間もない。十五分前ではないか!

 ぐずぐずしていると、折角せっかくの大事な用事に間に合わなくなってしまう。十一時になるまでに、こいつら二人をけるだろうか。これが銀座なら、どんな抜け道だって知っているが、横浜はまと来ると、子供時代住んでいた時とすっかり勝手が違っていた。大震災だいしんさいで建物の形が変り、妙なところに真暗な広々した空地がポッカリいていたりなどして、全く勝手が違う。この形勢では尾行者たちに勝利が行ってしまいそうだ。残るは、これからすこし行ったところに、さらに暗い海岸通があるが、その辺の闇を利用して、なんとか脱走することである。

 そんなことを考え考え前進してゆくうちに、向うに町角まちかどが見えた。私は大きな息を下腹一ぱいに吸いこむと、脱走は今であるとばかり、クルリと町角を曲った。そして一目散に駈け出そうとする鼻先へ、不意に人があらわれた。

「オイ政、待った!」

 その声には聞きおぼえがあった。これはいかんと引き返そうとすると、後からまた一人が追いすがった。私はとうとうはさみ打ちになってしまった。

(しまった!)

 と思ったが、もう遅い。

「政! 妙なところで逢うなア」

 二人はかね顔馴染かおなじみの警視庁強力犯係ごうりきはんがかりの刑事で、折井おりい氏と山城やましろ氏とだった。いや、顔馴染というよりも、もっと蒼蠅うるさい仲だったと云った方がいい。

「……」

 私はチェリーを一本抜いて、口に銜えた。

「話がある。ちょっと顔を貸して呉れ」

「話? 話ってなんです」

「イヤ、手間は取らさん」

 刑事は猫なで声を出して云った。

「旦那方」私は真面目に云った。「銀座の金塊きんかいは、私がやったのじゃありませんぜ」

「ナニ……君だと云やしないよ」

 刑事はくすぐったそうに苦笑した。恐らくあの有名な「銀座の金塊事件」を知らない人はあるまいが、事件というのは今から十日ほど前、銀座第一の花村貴金属店の飾り窓から、大胆にもそこに陳列してあった九万円の金塊を奪って逃げたという金塊強奪事件きんかいごうだつじけんである。犯人は前から計画していたものらしく、人気ひとけのない早朝を選び、飾窓ショー・ウィンドーに近づくと、イキナリ小脇にかかえていたハトロン紙包しづつみ煉瓦れんがをふりあげ、飾窓ショー・ウィンドー目がけて投げつけた。ガチャーンと大きな音がして、硝子には大孔おおあなが明いたが、すかさず手を入れて九万円の金塊をつかむと、飛鳥ひちょうのように其の場から逃げ去った。それから十日目の今日まで犯人は遂に逮捕されない。なにしろ早朝のことだったから、目撃した市民も意外にすくない。手懸てがかりを探したが、一向に有力なのが集らない。事件は全く迷宮めいきゅうに入ってしまった。警視庁は連日新聞記事の巨弾をくらって不機嫌の度を深めていった。その際に本庁ほんちょうの強力犯の二刑事が、はるばる横浜はままで遠征して来たのは、誰が考えたって、ハハア金魂事件のためだなと気がつく。

「そう信用して下さるのなら、話はまた別の日に願いましょう。今夜はこれで、だいぶけ過ぎていますからネ」

 私は軽く突っぱねた。時計をソッと見ると、既にもう十一時に間がない。私は気が気でない。

「いやに逃げるじゃないか」と執念深い刑事はかえってからみついてきた。「ところで一つたずねるが、赤ブイ仙太を見懸みかけなかったか」

「仙太がどうかしたんですか」

「余計なことをくな。貴様、仙太と何処どこで逢った。何時いつのことだ」

「旦那方。私はハマの仙太の番をするくらいなら、今時いまどきこんな場所を一人で歩いちゃいませんぜ」と私はちょっと嘘をついた。

「ふざけるな。じゃあ訊くが、銀座無宿ぎんざむしゅくの坊ちゃんが河岸かしをかえて、なぜ横浜はまくんだりまで来ているのだ……」

 坊ちゃん政──それは私にいつの間にか付けられたとおだった。もちろんかねて顔馴染かおなじみの二刑事が覚えているのもせんないことだろう。だが云わでもその名前を呼びかけられりゃ、いくら横浜はまだって小さくなっていられるものかと、私はムッとした。

 だがそのムッとするのが、私の悪い病気なのだ。現に銀座を出て、単身たんしんこの横浜はまに流れて来たのも、所詮しょせんは大きいムッとするものを感じたせいではなかったか。

(伝統の銀座を、横浜はまの奴等に荒されてたまるものかい)

 若い私には無体むたいにそいつがしゃくにさわった。私はねらう相手から、覘うものを捲きあげてしまわなければ、死んでも銀座には帰らないとはらを決めているのだ。──で、その大事の前に、顔馴染の刑事なんかと喧嘩をしてはつまらないではないか。我慢をしろ!

「オイ何とか云えよ」

「黙っていちゃ、駄目じゃないか」

 二人の刑事はジリジリと左右から肉迫にくはくしてきた。相手の眼はらんらんと輝いた。私を大きな獲物えものと見込んで、どうしても物にしようという真剣さが見える。これは簡単に済まないぞ。おとなしく身をまかして機会を待つか、それともサッと相手の足をはらって出るか、無気味ぶきみな沈黙が三人の息を止めた。

 と、その時だった。──

 キ、キャーッ。

 と、魂消たまぎえる異様な悲鳴が、突然に闇を破って聞えた。どうやら向うのとおりらしい。途端とたんに向うに見える時計台から、ボーン、ボーンと十一時を知らせる寝ぼけたような音が響いて来た。──ああ十一時。あの時刻だ。私はドーンと胸をかれたような激動げきどうを感じた。



   金貨きんかにぎった屍体したい



「うむ、事件だぞ」

「すぐ其処そこだ。行くか……」

 二人の刑事は顔を衝突せんばかりに近づけて、おたがいの腕をつかみ合った。

ぐ行こう」

「だが此奴こいつをどうする?」

「うむ。さあ、どうする?」

 刑事は私の処置しょちをどうしたものかとためらった。

「逃げませんよ、私ア」と言下げんかこたえた。「一緒に行ったげましょう」

「お前も行くか。どうかそうして呉れ!」

 刑事はホッと溜息ためいきをついた。

 私はわざと先頭せんとうになって駈けだした。刑事も横合よこあいから泳ぐように力走した。

 真暗な、広い空地に出た。向うにポツンと二階建らしい倉庫のようなものが立っているが、あかりもない真黒な建物だ。悲鳴はそのあたりから起ったように思われる。私は前面を注視しながら走った。

 沈黙の倉庫の前まで来ると、向うに火の消えた街灯がいとうの柱が何事か云いたげに立っていた。その下に、長々と横たわっている黒い物があった。

「旦那方。あすこに、一件らしいのが見えますぜ」

 刑事は私の方に身体をりよせてきた。

「うん。伸びているようだナ。それッ」

 三人はバラバラと、その方に近づいた。刑事の手から、懐中電灯の光がパッと流れだした。その光はただちに、地上に伏している怪しい男の姿をとらえた。雨あがりの軟泥なんでいの路面に、青白い右腕がニューッと伸びていて、一面に黒い泥がなすりついている──と思ったら、それは真赤な血痕けっこんだった。水色のアルパカの上衣にも、喞筒ポンプそそぎかけたような血の跡が……。全くむごたらしい光景だった。

 刑事は、倒れている若い男の横顔を照してみた。顔は血の気を失って、ただ太い眉毛まゆげと、長い鼻とが残っていた。歯をき出した唇は、泥を噛んでいた。──と、刑事が叫んだ。

ッ。……これア、赤ブイの仙太じゃないか!」

 赤ブイの仙太! 仙太といえば刑事たちが、さっき私にいたところの横浜はまの不良で、カンカン寅の一味なのだ。

「そうだ、仙太だ。すっかり顔形が違っている感じだが、仙太に違いない」

「誰がったんだろう?」

 二人の刑事は、そこで顔を見合わせると、意味ありに、後に立っている私の顔をジロリとにらんだ。

「……」

 仙太だってことは、お二人より先にこっちが知っていた。先刻さっきあの悲鳴を聞いた瞬間に、「仙太め、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ!」と口の中でとなえた程だ。

「死んでいる。……とうとう殺られたのだ。」

「全くひどい。後頭部から背中にかけて、弾丸たまちこんだナ」

「銃声は聞えなかったが……」

「どこから撃ったのだろう」

 刑事はうずくまったまま、はるか向うの辻をかしてみた。そこは水底みずそこに沈んだ廃都はいとのように、犬一匹走っていなかった。

 逃げるなら今のうちだった。しかし私は別に逃げようとはしなかった。

 刑事たちは、折角せっかく探し求めていた横浜はまギャングの一人、赤ブイの仙太が、遂に無惨むざんな死体となって発見されたので、只もう残念でたまらないという風に見えた。二人はあきらめかねたものか、なおも屍体をいじくりまわしていた。

「おやア、なんかの中に握っているぞ」

 と、突然に、折井刑事が叫んだ。

「ナニ、握っているって? よし、開けてみろ」

 山城刑事は懐中電灯をパッと差しつけた。屍体の右手は、つぼみのように固く、指を折り曲げていた。折井刑事はウンウン云いながら、それを小指の方から、一本一本外していった。

「うん、取れた。……あッ、これは……」

「なんだ、かねじゃないか!」

 の中からは一枚のピカピカ光る貨幣が出てきた。

「金だ。オヤこれは金貨だ! それも外国の金貨だ」

 金貨が出てきて、刑事達はにわかに緊張した。銀座の金塊盗難事件以来というものは、黄金おうごんを探して歩いた二人だ。その黄金製品である金貨が、屍体となった赤ブイ仙太の掌中しょうちゅうから発見されたということは、極めて深い意味があるように思われたのだった。それにしても、それが外国金貨とは何ごとだ。

「旦那方」私は立ったままで云った。「金貨が落ちていますよ。ホラ、そこと、もう一つ、こっちにも……」

「ナニ、金貨が落ちている?」

「本当だ……」

 刑事たちは、屍体から眼を放すと、地面をぐようにして、路面ろめんいまわった。同じような、三つの金貨が拾いあげられた。一つは屍体の伸ばした右手から一尺ほど前方に、もう一つは、消えている街灯の根っこに、それから最後の一つは、倉庫のようなてた建物の直ぐ傍に……。

「沢山の金貨だ。これは一体、どういうのだろうな」

「この金貨と、仙太殺害とはどんな関係があるのだろう。それからあの金塊事件とは……」

 刑事たちは、次々に出てくる疑問を、どこから解いたものかと、たいへん当惑とうわくしている風だった。

「旦那方。金貨はまだまだ出てきますぜ」

 と、私は仙太のズボンの右ポケットから、裸のままの貨幣を掴みだした。銅貨や銀貨の中にまじって、更にピカピカ光る五枚の金貨が現れた。

「おい、余計なことをするナ」と折井刑事は一寸狼狽ろうばいの色を見せて呶鳴どなったが「もう無いか、金貨は……」と、息せきこんだ。

「どれどれ」と代って山城刑事が、ポケットというポケットに手をつきこんだが、その後は金貨が出てこなかった。全部で丁度ちょうど十枚の金貨が出てきたわけだった。

「これアすくなくとも四五百円にはなる代物しろものだ」と折井刑事は目をみはって、「仙太の持ち物としては、たしかに異状いじょう有りだネ、山城君」

「もっと持っていたんではないかネ」と山城は眼をギロリと光らせた。「仙太のやつ、ここで強奪ごうだつったのじゃないか。だから金貨が道にこぼれている……」

「強奪に遭ったのなら、なぜ金貨が滾れ残っているのだ。それにわれわれが駈けつけたときにも、別に金貨を探しているような人影も見えなかった」

「そりゃ君、仙太を殺したからさ。……いいかネ。仙太は数人のギャングに取り囲まれたのだ。前にいた奴が、仙太の握っている金貨を奪おうとした。取られまいと思って格闘するうちに、手から金貨がバラバラと転がったのさ。手強てごわいと見て、背後にいた仲間が、ピストルをぶっ放したというわけだ。前にいた奴は仙太を殺すつもりはなかった。仙太のたおれたのにおどろいて、あとの金貨は放棄して、逸早いちはやく逃げだしたのだ。見つかっちゃ大変というのでネ」

「これは可笑おかしい」と折井刑事は叫んだ。「第一、格闘だといっても、その証拠がないよ。入乱いりみだれた靴の跡も無しさ。第二に、前から強迫きょうはくしているのに、背後うしろから撃ったのでは、前にいる同じ仲間のやつに、ピストルが当りゃしないかネ。僕はそんなことじゃないと思うよ」

「じゃ、どう思う?」

「僕のはこうだ。仙太のやつ、ここまで来て金貨を数えていたのだ。ここは人通もない暗いところだけれど、向うの街のあかりかすかにしているので。ピカピカしている金貨なら数えられる。そこを遥か後方うしろからけて来たやつが、ピストルをポンポンと放して……」

「ポンポンなんて聞えなかった。……もっとも俺は消音しょうおんピストルだと思っているが……」

「とにかく、遥か後方から放ったのだ。見給え、この弾痕だんこんを。弾丸たまは撃ちこんだ儘で、外へは抜けていない。背後近くで撃てば、こんな柔かいくびの辺なら、弾丸たまがつきぬけるだろう」

 刑事たちは、その筋へ警報することもしないで、勝手な議論をたたかわした。それは所轄しょかつ警察署へ急報するまでに、事件の性質をハッキリみこんで、できるならば二人でもって手柄を立てたかったのである。それは刑事たちにとって、無理もない欲望だったし、それに二人が本庁を離れ、はるばるこの横浜はまくんだりへりこんでからこっち、二人でめあった数々の辛酸しんさんが彼等を一層野心的にしていた。

 私は先程から、二人の眼を避けて、屍体の横たわっている附近を、燐寸マッチあかり便たよりに探していた。そしてようやく「ああ、これだ」と思うものを見付けたのだった。それは地面に明いた小さい穴だった。これさえあれば、仙太殺害の謎は一部解けるというものだ。

「ねえ、旦那方」と私は論争に夢中になっている刑事たちに呼びかけた。



   倉庫そうこの秘密



「ナ、なんだッ」と刑事は吃驚びっくりしたらしく、私を振り返った。

「どうですい。一つここらで手柄を立ててみる気はありませんか」

「なんだとオ。……生意気な口を利くない」

「素敵な手柄がいやならしようが無いが……」

 刑事二人は、ちょっと顔を見合わせていたが、やがてガラリと違った調子で、

「なんだか知らないが、聞こうじゃないか」

「聞いてやろうと仰有おっしゃるのですかい、はッはッはッ。……まア、それはいいとして、旦那方。私は犯人の居処いどころを知っていますよ」

「ナニ、犯人の居処? 犯人は誰だッ」

「犯人は誰だか知らない。だが犯人の居処だけは知っているのですよ……ホラ、ここに真暗なくずかかったような倉庫がありますネ。犯人はこの中に居るのですよ」

「何故だ。どうして此の中へ逃げこんだというのだ」

しゃべっていると、犯人が逃げだしますよ」

「しかしわれわれは、意味もないのに動けないよ」

「じゃ簡単に云いましょう。いま仙太のポケットから出た五枚の金貨ですがネ、あの金貨には泥がついていたのをご存知ですか」

「……」

「もう一つは、そこにびた五寸釘ごすんくぎを立てて置きましたが、路面に垂直に、小さいあないていますよ」

 刑事たちは、目をパチクリさせて地面にしゃがむと、その錆びた釘を退けて、太いはしをつっこんだ程の縦穴たてあなのぞきこんだ。

「これは?」

「ピストルの弾丸たまが入っているのですよ。今掘りだしてみましょう」

 私は釘の先で、穴をどんどん掘った。するとあんじょう下からニッケル色の弾丸たまがコロリと出て来た。

「ほほう、なるほど」刑事はおどろきの声を放った。「これは何故だ」

「いいですか、上を向いちゃ、犯人が気付きますよ。下を向いていて下さい。犯人は倉庫の二階の窓から仙太を撃ったのです」

「そりゃ変だ。仙太は背後うしろから撃たれている」

「いいえ、傷はあれでいいのです。仙太のポケットに入っていた金貨は泥がついていたでしょう。仙太の野郎は、あの金貨を皆、この路面から拾ったのです。だから泥がついているんです。金貨は、同じ倉庫の二階から犯人が投げたのです。仙太がそれを拾おうと思って、地面にわんばかりに踞んだのです。いいですか。そこを犯人は待っていたのです。丁度われわれが今こうしている此の恰好かっこうのところを、上からトントンと撃ったのですよ」

「ナニ、この恰好のところを……」

 上から撃たれたと聞いて、二人の刑事は、身の危険を感じてパッと左右に飛び退いた。

「そんなに騒いじゃ、犯人に気付かれますよ」と私は追縋おいすがって云った。

「さア早く、この建物の出口を固めるのです」

「よオし。おれは飛びこむ」

「だが、この屍体をどうする?」

 刑事がためらっているところへ、折よく、密行みっこうの警官が通りかかった。

 二人は物慣れた調子で、巡回の警官を呼ぶと、屍体の警戒やら、警察署への通報などを頼んだ。警官はいく度もうなずいていたが、刑事たちが、

「じゃ、願いますよ」

 と肩を叩くと、佩剣はいけんを握ってしのび足に元来た道へひっかえしていった。

「さあ、これでいい。……じゃア、飛びこむのだ」

 私たち三人は、抜き足さし足で、この建物の周囲をグルリと廻った。表の大戸おおどは、ほこりがこびりついていて、動く様子もない。裏手に小さい扉がついていて、敷居しきい生々なまなましい泥靴の跡がついている。これを引張ったが、明かない。

「いいから、内側へはずして見ろ!」

 経験がいかなる場合も、あざやかに物を云った。戸のはしがゴトリと内側へ外れた。それに力を得て、グングンすと、苦もなく入口が開いた。──内は真暗だ。

 懐中電灯の光が動いた。階下には、大きな古樽ふるだるがゴロゴロ転がっている。その向うには一以上も入りそうなそれも大きな硝子壜ガラズびんが並んでいる。ひどい蜘蛛くもの巣がいたるところに掛っている。埃っぽい上に、なんだか鼻をつくような酸っぱいにおいがする。しかし犯人らしい人影は見えない。

「じゃあ、おれは入って見る」と折井刑事は低声こごえで云った。「山城君はここで番をして居給え」

「うん」

「私もお供しましょう」と申し出た。

「そうか。……だが危いぞ。おれはピストルを持っているけれど……」

「なーに、平気ですよ」

 折井刑事と私とは、一歩一歩用心しながら建物の中に入った。たるの間を探してみたが、何も居ない。──刑事はあごをしゃくった。その方角に梯子段はしごだんが斜めに掛っていた。

(階段をのぼるのだな)

 と私は思った。そのとき突然に、刑事の懐中電灯が消えた。

 階段を一歩一歩、息を殺し、足音を忍んで上っていった。いまにも何処かの隅から、ピストルが轟然ごうぜんと鳴りひびきそうだった。

 そのとき、折井刑事が私の腕をひっぱった。そして耳のそばに、やっと聞きとれる位の声でささやいた。

「二階に手が届くようになったから、一度懐中電灯をつけて見る。ピストルの弾丸たまが飛んでくるかも知れないが動いちゃいけない。その後で懐中電灯を消すから、その隙に階上うえへとびあがるのだ。わかったかネ」

 私は低声こごえで「判りました」と返事した。私をしばろうとした刑事と、同じ味方となって相扶あいたすけ相扶けられながら殺人鬼さつじんきせまってゆくのだ。なんと世の中は面白いことよ。

 折井刑事が、また一段上にのぼった。するとサッと一閃いっせん、懐中電灯が二階の天井を照した。あかりかすかにふるえながら、天井をすべり下りると、壁を照らした。それから四囲の壁を、グルグルと廻った。──しかし予期した銃声は一向鳴らない。途端にパッと灯が消えた。

(今だ!)

 私は階上に駈け上った。その拍子に、いやというほど、グラグラするものに身体をぶっつけた。見当を違えて、樽にぶっつかったものらしい。

 十秒、十五秒……。

 パッと懐中電灯がともった。しかし何も音がしない。

(さては、自分の思いちがいだったのか)

 私はイライラしてきた。

「さあ、こんどは君がこいつを持って」と刑事は私に懐中電灯を握らせ「先へ立って、この部屋を廻って呉れ。危険だからネ」そういって彼はピストルで敵を撃つ真似をした。

 私は電灯を静かに横へ動かした。部屋には階下同様、大きな硝子壜だの、樽だのが並んでいた。しかし階下には無かった変な器械が一隅いちぐうを占領していた。それは古い化学工業の原書げんしょにあるようなレトルトだの、耐酸性たいさんせいかめだの、奇妙に曲げられた古い硝子管ガラスかんだのが、大小高低だいしょうこうていことにした架台かだいにとりつけられていたのだった。

(さてはこの建物は、強酸工場きょうさんこうじょうと倉庫とをねているんだな)

 と私は気がついた。これは横浜はまへ明治年間に来た西洋人が、その頃日本に珍らしくてつ高価だった硫酸りゅうさん硝酸しょうさんなどを生産してもうけたことがあるが、それに刺戟しげきせられて、雨後うごたけのこのように出来た強酸工場の名残なごりなのだ。おそらく震災しんさいで一度つぶれたのを、また復活させてみたが、思わしくないので、そのまま蜘蛛くも棲家すみかゆだねてしまったものだろう。それにしても……。

 と、突然に、後方にガタンと樽の倒れる音がした。ハッと振りかえる間も遅く、飛び出した黒い影が飛鳥ひちょうのように階段を駈け下りた。

「待てッ」

 折井刑事は叫び声をあげるが早いか、怪影かいえいを追跡して、階段の下り口へ突進した。そして転がるように、駈け下りた。

 激しい叫喚きょうかんと物の壊れる音とがゴッチャになって、階下から響いてきた。出口にいた城山刑事にさえぎられて、怪漢は逃げ場を失い、そこで三人入乱いりみだれての争闘が始まっているのであろう。

 しかし私は、懐中電灯を持ったまま、じっと階上の部屋に立ちつくしていた。目の前にある何に使うとも知れない化学装置が、ひどく私の心をとらえたのだった。それは奇妙な装置でもあったが、私の興味をいたのは、それが奇妙なことよりも、むしろ生々なまなましい感じがしたからだった。室内は荒れ果て、樽は真白な埃にまみれ、天井には大きい蜘蛛の巣がかかっているという古めかしさの中に、その化学装置ばかりは、埃のホの字も附着していなかったからであった。

 私は事件の謎が、まさしくこの場に隠されていることを感づいた。

「よしッ。この秘密を解かずに置くものかッ」私は腕ぐみをしたまま、石のように、何時いつまでも立ち尽したのだった。



   あやしき取引とりひき



 その次の日の夕方、私は同じ伊勢佐木町で、素晴らしい晩餐ばんさんっていた。前日と違っているところは、連れが一人あることだった。壮平爺そうへいじいさんというすこぶ風采ふうさいのあがらぬ老人が、私の客だった。

「ほんに政どん」と壮平爺さんは眼をショボショボさせて云った。「あんたにめぐりあわなければ、今頃わしゃ首をくくっていたかも知れん。あのカンカン寅が、人殺しの嫌疑けんぎでおかみつかまったと聞いたときは、どうしてわしゃ、こうも運が悪いのかと、力もなにも一度に抜けてしまってのう」

 カンカン寅というのは例の仙太の親分に当る男で、昨夜ゆうべあの海岸通の古建物で、折井山城の二刑事に捕った怪漢のことだった。彼は始め階上にひそんでいたが、私たちをうまくやり過ごしたところで階段を下りて逃げだしたが、出口に頑張がんばっていた山城刑事に退路たいろたたたれ、たじろぐところを追いすがった折井刑事に組みつかれ、そこで大乱闘の結果、とうとうばくについたというわけだった。二人の刑事は、あんじょう大手柄を立てたことになった。そのよろこびのあまり、一旦不審ふしんけた私だったが、何事もなく離してくれたのだった。

 しかしとらえたカンカン寅というギャングの顔役は、当局の訊問じんもんに対して、思うような自白をしなかった。彼の手先である赤ブイの仙太殺しの一件を追求しても、首を横に振るばかりか、例の証拠をさしつけても一向おそらなかった。かねがね手強てごわい悪党だとは考えていたが、あまりにもひどく否定しつづけるので、係官もすこし疑問を持つようになったと、きょう折井刑事が不満そうに語ったことだった。

 それに引きかえ、カンカン寅捕縛ほばくと共に、明かな失望を抱いたのは、この壮平爺さんだった。彼はあの古い建物の持ち主だった。彼は本牧ほんもくで働いている彼の一人娘清子きよこを除いては、この古い建物が彼の唯一の財産だった。ところで壮平爺さんは、目下大変な財政的ピンチにのぞんでいるのだった。それは先年せんねん、ついウカウカと高利貸こうりがし証文しょうもん連帯れんたいの判を押したところ、その借主がポックリ死んでしまって、そのために気の毒にも明日が期限の一千円の調達ちょうたつおいの身を細らせているのだった。下手をすれば、娘の清子をみかえさせて、更に莫大な借金を愛児の上に掛けさせるか、それとも首をくくって死ぬより仕方がなかったのだった。詮方せんかたなく、物は相談と思い、カンカン寅の許を訪ね、あのボロボロの建物を心ばかりの抵当ていとうということにして(あれでは二百円も貸すまいと云われた)、一千円の借金を申込んだ。

 寅は何と思ったか、それを二つ返事で承知して、壮平爺さんを帰らせた。それは今から一月前のことだった。しかしカンカン寅は一向に金の方は渡す様子がない。それで催促さいそくにゆくと、期限の前日までに渡してやろうという話だった。ところが明日が約束の日という昨夜になって、カンカン寅が突然警察へ監禁かんきんされてしまったので、爺さんは失心しっしんせんばかりにおどろいた。顔色を変えてカンカン寅の留守宅へ行って、いままでの事情を話すと共に、この際是非に融通ゆうずうを頼むと歎願たんがんをした。しかし留守を預る人達は、老人の話を鼻であしらって追いかえした。親分がこんなになっていて、そんなことがかれると思うか、いい年をしやがってという挨拶あいさつだった。

 心臓が停まるほど驚いた壮平爺さんは、泣く泣く我が家へ帰っていった。路々みちみち、この上は娘に事情を云って新しい借金をわせるか、さもなければ首をくくろうかといずれにしても悲壮なはらを決めかけていたところへ、私が背後うしろから声をかけたのだった。爺さんとは、私が少年時代からの知り合いの仲だった。──と、まアこういう訳だった。

「じゃあ爺さん。私がカンカン寅に代って、あれを千円でゆずりうけようと思うが、どうだネ」

 と、事情を訊いた私は、相談を持ちかけた。

「えッ。あんたが、代って千円を」爺さんは目をみはって云った。

「文句がなければ、金はいまでも渡そう」

「そうけえ。済まないが、そうして貰うと……」

「ホラ、千円だア。調べてみな」

 私は人気ひとけのないへやに安心して、千円の紙幣束さつたばを壮平に手渡した。その千円は、実を云えば銀座を出るとき、仲間から餞別せんべつに贈られた云わば友達の血や肉のようにとうとい金であったけれど、老人はワナワナふるえる手に、それを受取った。そして指先につばをつけて、一枚一枚紙幣を数えていった。

「確かに千両。わしゃ、お礼の言葉がない」

「お礼は云うにゃ及ばないよ。それよか爺さん、ちょっと云って置くことがある」

「へーい」

「私が金を出したことは、誰にも云っちゃならないよ。しかしそれがためにあの建物がまだ爺さんの手にあるのだと思って、買いたいという奴が出て来たら、あの建物はいつでも返してやるから、直ぐ私のところへ相談に来なさい。いいかい爺さん」

「へーい、御親切に。だがあれを買いたいなんて物ずきは、これから先、出て来っこないよ、あんたにゃ気の毒だけれど……」

「はッはッはッ」

 私は壮平爺さんを外に送りだした。老人のイソイソとした姿が、町角に隠れてしまうと、私は船会社ふながいしゃと、東京から連れてきた身内の者とに電話を掛けた。それから外へ飛び出した。それは私が横浜はまに来た仕事のかたをつけるためだった。

 どんな仕事?



   ギャングおど



 その夜はたいへん遅くなって、宿に帰った。私はなんだか身体中がムズムズするほど嬉しくなって、寝台しんだいについたけれど、一向ねむれそうもなかった。とうとう給仕を起して、シャンパンを冷やして持って来させると、独酌どくしゃくでグイグイひっかけた。しかしその夜はなかなか酔いが廻らなかった。

 その代り、いろいろの人の顔が浮んで消え、消えた後からまた浮びあがった。──銀座の花村貴金属店の飾窓ショー・ウィンドーをガチャーンとこわす覆面の怪漢が浮ぶ。九万円の金塊きんかい小脇こわきかかえて走ってゆくうちに、覆面がパラリと落ちて、その上から現れたのは赤ブイの仙太の赤づらだ。すると横合よこあいから、へびのような眼を持ったカンカン寅がヒョックリ顔を出す。とたんに仙太の顔がキューッと苦悶くもんゆがむ。カンカン寅の唇に、薄笑いが浮かんで、手に持ったピストルからスーッと白煙がい出してくる。二人の刑事の顔、壮平爺さんの嬉しそうな顔、そしておさ馴染なじみの清子の無邪気むじゃきな顔、──それが見る見るあでやかな本牧の女の顔に変る。

「明日になったら、清子に一度逢ってくれるかな。清子も逢いたいと云っているって、壮平爺さんが云ったが……。莫迦莫迦ばかばか手前てめえはなんて唐変木とうへんぼくなんだろう。自惚うぬぼれが強すぎるぜ。まだ仕事も一人前に出来ないのに……」

 自嘲じちょうしたり、自惚たりしているうちに、ようやく陶然とうぜんと酔ってきた。──そして、いつの間にかグッスリ睡ったものらしい。

 コツ、コツ、コツ。

 あわただしいノックの音だ。それで目がめた。気がついてみると、空気窓からは明るい日の光がさしこんでいた。時計を見ると、午前九時。

「なんだア」

 まだ早いのに……と、私は不満だった。

「朝っぱらからうかがいやして……」

 と、ドアの向うでしきりに謝っているらしいのは、どうやら壮平爺さんの声だった。私は思わず、ギクンとした。

 ドアを開いてやると、転がるように壮平爺さんが入ってきた。顔色は真青まっさおだ。不眠か興奮のせいか、まぶたれあがっている。

「早いもので、ボーイさんも相手にせず、電話も通じて呉れないんで……」

 と老人は恐縮きょうしゅくした。

「なんだネ、こんな朝っぱらから」

 私はチェリーをとって口にくわえた。

「イヤ政どん、今日は早朝から、わしも大騒ぎさ。アノ、カンカン寅の一家が、わしのところへ押し寄せてきやがった」

「ほうほう」私は紫の煙を、天井高く吹きあげた。美しい煙の輪がクルクル廻る。

「昨日はてんで相手にしなかったあの海岸通の建物を買うというのさ」

「うん、うん」

「わしは腹が立って、手厳てきびしく跳ねつけてやったよ。あれはもう売っちまった。もう遅いよとナ。すると、それはいかん、是非こっちへ売れという。それは駄目だと、なおも突っぱねると、向うは躍気やっきさ。こっちへ買い戻さねば親分に済まねえ。売らないというのなら手前は生かしちゃ置けねえとおどしやがる。それがどうも本気らしいので、政どんの昨夜ゆうべの話もあり、じゃあ一寸相談してくるといってその場は納めたが……」と壮平は顔をふるわせた。

「──じゃあ、売っておやりよ」

「えッ」

「売ってやるが、すこし高いがいいかと云うんだ。五千円なら売るが、一文も引けないと啖呵たんかを切るんだ」

「そいつはどうも」

「云うのが厭なら、私はあの建物を手離さないよ。……そいつは冗談だが、こいつはもうけ話なんだ。相手は屹度きっと買うよ。彼奴等あいつらはきっと今朝がた、留置場りゅうちじょうのカンカン寅と連絡をしたのだ。そのとき買っとかなけれア手前たちと縁を切るぞぐらいなことを云って脅したんだよ。カンカン寅から出た話なら、五千円にはきっと買う。やってごらんよ」

 壮平爺さんは、私が心をひるがえさないと見て、あきらめて帰りかけた。

「ああ、ちょっと」と私は呼びとめ、「いいかい爺さん。五千円をつかんだら、直ぐ横浜はま出発たつんだ。娘さんも連れて行くんだぜ」

「どうして?」

「もう此上このうえ横浜はまに居たって、面白いことは降ってやしないよ。お前たちは苦しくなる一方だ。いい加減かげん見切みきりをつけて、横浜はまをオサラバにするんだ。ぐずぐずしていりゃ、カンカン寅の一味にひどい目に遭わされるぞ」

「……」

「そしてその五千円だが、それも爺さんにあげるよ。小さいときいろいろと可愛がって貰ったお礼にネ」

「五千円を?」と壮平老人は目を丸くして「五千円よりもその言葉の方が嬉しいが、一体わし達はどこへ行けばいいのかネ。こうなると、わしはお前のところから遠く離れるのが心細くなるよ」

 老人はよろこびのあとで、また両眼りょうがんをうるませた。

「満洲へゆくんだ。丁度ちょうどさいわい、今夜十一時に横浜はまを出る貨物船清見丸きよみまるというのがある。その船長は銀座生れで、親しい先輩さ。そいつに話して置くから、今夜のうちに港を離れるんだ」

「満洲かい。……それもよかろう」

「じゃ娘さんに話をして、直ぐに仕度にかかるんだ。ほかには誰にも話しちゃ駄目だぜ」

「そりゃ大丈夫だ」と老人はうなずいて「じゃ、万事お前さんの云うとおりにしよう。それでは順序として、まず五千円の商談をして来よう」

「ちょっと待った」と私は老人を呼び止めた。「あの建物の取引だが、今夜の十時にするといって呉れ」

莫迦ばかに遅いじゃないかネ。いま直ぐじゃまずいのかい」

「ちょっと拙いのさ。というのは、あれを私が買ってから、中身なかみを少しはこび出してしまったのよ、そいつを元通りに返すとすると、どうしても午後十時になる」

「へえ、中身をネ」老人はいぶかしそうにつぶやいた。「中身というと、あの酸の入っている……」

「そうさ、酸を或る所へ持っていったのさ。買ったからにゃ、宝ものは私のものだからネ」

「そういえばカンカン寅の一味も、あの中身をソックリつけてと云っていたよ。こいつは変だぞ。……オイ政どん、噂に聞くと、あのカンカン寅が銀座の金塊を盗みだしたというが、お前は昨日ゆうべ、あの建物にカンカン寅が隠してあった九万円の金塊を探しだして、搬びだしたんだナ」

「金塊は無かったよ」と私はほがらかに云った。「金塊どころか、金の伸棒のべぼうも入っていなかったことは、警官たちが一々検査して認めているよ」

「ほほう、そのとき警官が立ち会ったのかい」

「立ち会ったともさ。何しろその中身はいま警察へ行っているんだぜ」

「へへえ、中身が警察へネ。わしにゃ判らない。一体その酸をどうしようというので……」

「いまに号外が出る。そのとき訳が判るよ」



   横浜はまよ、さらば



 その夜更よふけて、私は貨物船清見丸へ壮平親子を見送みおくりにいった。甲板かんぱん堆高うずたかく積まれたロープの蔭から私たちは美しい港の灯を見つめていた。

横浜はまを離れるとなると、やっぱりさびしいわ」

 と清子が丸めたハンカチを鼻に当てた。

「清子、贅沢ぜいたくをいっちゃばちが当るよ」と壮平老人が云った。「政どんが来てくれなくちゃ、おたがいに今頃は屍骸しがいになって転がっていたかも知れない」

「でも……」

「ところが屍骸にならないばかりか、借金を返した上に、五千両の金まである。その上、言い分があってたまるか」

「感謝しているわ。あたしたちはいろいろともうけものをしているのに、政ちゃんは損ばかりしているのネ」

「そうでもないよ」と私は笑った。

「どうだ政どん」と壮平老人はこのとき真顔まがおになって云った。「この辺で、一件の話を聞かせてくれてもいいじゃないか。あの倉庫から搬び出した中身のこと、それからお前が横浜はまへ流れてきた訳など」

「じゃ土産咄みやげばなしに、言って聞かせようか」

 私はそこで、一件の要領をかいつまんで話をした。

 ──私は壮平老人から倉庫を一千円で買ったがあれには大きな自信があったのだった。あの夜、秘密に倉庫から警察へと搬んだ酸は、大きな硝子壜ガラスびんに入って全部で二十五個だった。それは見たところ、黄金おうごんの形は一向に無くて、澄明ちょうめいな液体に過ぎなかったが、しかし本当は九万円の黄金が、この液体の中に溶けこんでいるのだった。それは何故か?

 王水おうすいという強酸きょうさんがあることを、人々は知っているであろう。それは硝酸しょうさん塩酸えんさんとを混ぜた混合酸であるが、この酸に黄金をけると始めて黄金は形がくずれ、やがて、全く形を失って液の中にけ去る。それでこの強酸に王水というとうとい名前が附けられている。──

 黄金を王水に溶かしたのは私ではない。それは今、殺人罪で警察に監禁かんきんせられているカンカン寅の仕事だ。彼奴あいつはそれを、あの海岸通の古い建物の中で仕遂しとげたのだ。九万円の金魂は、手下の赤ブイの仙太を使って、銀座の花村貴金属商から強奪ごうだつさせた。仙太が逃げ帰ってくると、煉瓦大れんがだいの其の金塊は巻き上げ、仙太の身柄は身内の外に隠した。しかし仙太がいずれその内にしゃべるのを恐れたカンカン寅は、残虐ざんぎゃくにも仙太に報酬ほうしゅうをやるといって呼び出した。

 仙太は何も知らず、云いつけ通り海岸通の古建物の前へ来て口笛を吹いたのだろう。カンカン寅は、仙太と一室に逢うのは仙太のために危険だと巧いことを云い、あの建物の二階から、報酬の金貨を投げ与えたのだ。仙太が地上に散らばった金貨を拾おうとかがんだところを、二階からカンカン寅が消音しょうおんピストルを乱射らんしゃして殺してしまったのだった。仙太の行動に不審を持っていた私は、あの会合の時間も場所も知っていたのだった。とにかく気の毒な仙太だ。

 笑止千万しょうしせんばんなのは、カンカン寅だ。あの古い建物を壮平爺さんの手から買いとったとよろこんでいるだろうが、九万円の液体黄金えきたいおうごんの無くなったことは夢にも知らないのだ。今夜私が搬び入れて置いた中身の酸は、分量こそ同じ二十五壜だが、東京から買った純粋の酸でしかない。カンカン寅の奴、後でそれを分析してみて、一もんめ黄金きんも出てこないときには、どんな顔をすることだろうか。失望と憤怒ふんぬに燃える彼奴あいつの顔が見えるようだ。……と話をしてくると、壮平老人は、私の言葉をさえぎった。

「それはいいが、その九万円の黄金液はどう始末したのかい」

「警視庁へ引き渡したよ」

「どうだかネ。九万円じゃないか」いかにも惜しいもうけ物だのにという顔をした。

「本当に渡したよ。私は金が欲しいわけでこの仕事をやったんじゃない。目的は銀座の縄張なわばりへ切りこんできたカンカン寅の一味にあわふかせたかっただけさ」

「それじゃ警視庁は大悦びだろう」

「うん。──」

 大手柄と判ったときの、折井山城の二刑事の嬉しそうな笑顔が再び目の前に見える。二人は意気揚々いきようようと本庁へ引上げていったことだろう。

 そのとき、解纜かいらんを知らせる銅鑼どらの音が、船首の方から響いてきた。いよいよお別れだ。私は帽子に手をかけた。

「お父さん。──」

 いままで黙って聞いていた清子が、突然顔をあげた。

「なんだ、清子」

「あたしは船を下りるわよ」

 そういうが早いか、清子はトランクを両手で持ち上げた。

「なにを云うんだ。横浜はまにいちゃ、生命がない。カンカン寅の一味は張り子の人形じゃないぞ」

「生命が危いくらい、あたし知っているわ。でも……でも、あたし死んでもいいのよ、政ちゃんのそばに少しでも永く居られるなら……」

 清子はかれたようなひとみで、私の方に顔を向けた。

 壮平は気が転倒てんとうしてしまって、一語も発することができないで居る。銅鑼は船内を一じゅんして、また元の船首で鳴っていた。出発はもう直ぐだ。

 はらを決めた私は、イキナリ清子の手からトランクを取った。

「まあ嬉しい。あたし下りてもいいの」

「いや、いけない」

 私は手に持ったトランクをソッと下に下ろした。清子は顔を両手の中にうずめた。私はトランクの上に静かに腰を下ろした。そしていつまでも動かなかった。銅鑼はもう鳴りやんで、清見丸は静かに動き出した。

 満洲へ、満洲へ……。銀座に別れて満洲へ……。

 それもまた、いいだろう!

 折から、埠頭の方から、リリリリと号外売りの鈴の音が聞えてきた。私の眼底がんていにはその号外の上に組まれた初号活字しょごうかつじがアリアリと見えるようだ。──そのとき私は耳許みみもとに、魂をゆするような熱い息づかいが近よってくるのを感じたのだった。

底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房

   1991(平成3)年228日第1版第1刷発行

初出:「キング」

   1934(昭和9)年6月号

入力:tatsuki

校正:花田泰治郎

2005年526日作成

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