海野十三



 小春日和こはるびよりねむさったらない。白い壁をめぐらした四角い部屋の中に机を持ちこんで、ボンヤリとひじをついている。もう二時間あまりもこうやっている。身体がジクジクと発酵はっこうしてきそうだ。

 白い天井には、黒いはえが停っている。停っているがすこしも動かない。生きているのか、死んでいるのか、それとも木乃伊ミイラになっているのか。

 それにしても、蠅が沢山いることよ。おお、みんなで七匹もいる。この冬の最中に、この清潔な部屋に、天井から七匹も蠅がぶら下っていてそれでよいのであろうか。

 そう思った途端とたんに、耳の傍でなんだかかすかな声がした。ナニナニ。蠅が何かをはなして聴かせるって。

 ではチョイト待ちたまえ。いま原稿用紙とペンを持ってくるから……。

 オヤ。どうしたというのだろう。持って来た覚えもないのに、原稿用紙とペンが、目の前に載っているぞ。不思議なこともあればあるものだ。──



   第一話 タンガニカの蠅



「あのウ、先生。──」

 と背後うしろで声がした。

 クリシマ博士は、顕微鏡めがねから静かに眼を離した。そのついでに、深い息をついて、椅子の中に腰をうずめたまま、背のびをした。

「あのウ、先生」

「む。──」

「あのらんは、どこかにお仕舞いでしょうか」

「卵というと……」

「先日、あちらからお持ちかえりになりました、アノ駝鳥だちょうの卵ほどある卵でございますが……」

「ああ、あれか」と博士は始めて背後へふりかえった。そこには白い実験衣をつけた若い理学士が立っていた。

「あれは──、あれは恒温室こうおんしつへ仕舞って置いたぞオ」

「あ、恒温室……。ありがとうございました。お邪魔をしまして……」

「どうするのか」

「はい。午後から、いよいよ手をつけてみようと存じまして」

「ああ、そうか、フンフン」

 博士はたいへん満足そうにうなずいた。助手の理学士は、うやうやしく礼をすると、跫音あしおともたてずに出ていった。彼はゴム靴を履いていたから……。

 そこでクリシマ博士は、再び顕微鏡めがねの方に向いた。そしてプレパラートをすこし横へにじらせると、また接眼せつがんレンズに一眼を当てた。

「あのウ、先生」

「む。──」

 またやって来たな、どうしたのだろうと、博士は背後をふりかえって、助手の顔を見た。

「あのウ、恒温室の温度保持のことでございますが、唯今摂氏せっし五十五度になって居りますが、先生がスイッチをお入れになったのでございましょうか」

「五十五度だネ。……それでよろしい、あのタンガニカ地方の砂地の温度が、ちょうどそのくらいなのだ。持って来た動物資料は、その温度に保って置かねば保存に適当でない」

「さよですか。しかし恒温室内からピシピシという音が聞えて参りますので、五十五度はあの恒温室の温度としては、すこし無理過ぎはしまいかと思いますが……」

「なーに、そりゃ大丈夫だ。あれは七十度までげていい設計になっているのだからネ」

「はア、さよですか。では……」と助手はペコンと頭を下げて、廻れ右をした。

 博士は、折角せっかくの気分を、助手のためにすっかりこわされてしまったのを感じた。といって別にそれが不快というのではない。ただ気分の断層によって、やや疲れを覚えて来たばかりだった。

 博士は、白い実験衣のポケットを探ると、プライヤーのパイプを出した。パイプには、まだミッキスチェアが半分以上も残っていた。燐寸マッチを擦って火を点けると、スパスパと性急に吸いつけてから、背中をグッタリと椅子にもたれかけ、あとはプカリプカリと紫の煙を空間にいた。

(探険隊の一行が、タンガニカを横断したときは……)と博士は、またしても学者としての楽しい憶い出をうかべていた。

 タンガニカで、博士は奇妙な一つの卵を見付けたのだった。助手がさきほども、駝鳥だちょうのような卵といったが、全くそれくらいもあろう。色は淡黄色たんこうしょくで、ところどころに灰白色かいはくしょく斑点はんてんがあった。それは何の卵であるか、ちょっと判りかねた。なにしろ、この地方は、前世紀の動物がんでいるとも評判のところだったので、ひょっとすると、案外掘りだしものかも知れないと思った。鳥類にしても、余程よほど大きいものである。それではるばる博士の実験室まで持ってかえったというわけだった。そして他の動物資料と一緒に、タンガニカの砂地と同じ温度をたもたせた恒温室の中に二十四時間入れて置いたというわけである。

 ガン、ガラガラッ。

 ガラガラガラッ。パシーン。

 博士はパイプをゆかにとり落した。それほど物凄い、ただならぬ音響がした。音の方角は、どうやら恒温室だった。

「さては恒温室が、熱のために爆発らしいぞ」

 博士は驚いて戸口の方へはこんだ。扉に手をかけようとするとドアの方でひとりでパッと開いた。──その向こうには、助手の理学士の土色つちいろの顔があった。しかも白い実験衣の肩先がひどく破れて、真赤な血潮が見る見る大きく拡がっていった。

「ど、どうしたのだッ」

「せ、せんせい、あ、あれを御覧なさい」

 ブルブルとふるう助手の指先は、表通おもてどおりに面した窓を指した。

 博士は身を翻して、窓際まどぎわに駈けつけた。そして硝子ガラスを通して、往来を見た。

 大勢の人がワイワイ云いながら、しきりに上の方を指している。どうやら、向い側のビルディングの上らしい。

 とたんに飛行機が墜落するときのような物凄い音響がしたかと思うと、イキナリ目の前に、自動車の二倍もあるような真黒なものが降りてきた。よく見ると、それにはたらいのような眼玉が二つ、クルクルと動いていた。畳一枚ぐらいもあるようなはねがプルンプルンと顫動せんどうしていた。物凄い怪物だッ!

「先生。恒温室の壁を破って、あいつが飛び出したんです」

「君は見たのか」

「はい、見ました。あのお持ちかえりになった卵を取りにゆこうとして、見てしまいました。しかし先生、あの卵は二つに割れて、中はからでした」

「なに、卵が空……」博士はカッと両眼りょうがんを開くと、怪物を見直した。そして気が変になったようにわめきたてた、「うん、見ろ見ろ。あれは蠅だ。タンガニカには身長が二メートルもある蠅がんでいたという記録があるが、あの卵はその蠅の卵だったんだ。恒温室で孵化ふかして、それで先刻さっきからピシピシと激しい音響をたてていたんだ。ああ、タンガニカの蠅!」

 博士は身に迫る危険も忘れ、呆然ぼうぜんと窓の下に立ちつくした。ああ、恐るべき怪物!

 このキング・フライは、後に十五万ヴォルトの送電線にれて死ぬまで、さんざんに暴れまわった。



   第二話 極左きょくさの蠅



 その頃、不思議な病気が流行はやった。

 一日に五六十人の市民が、パタリパタリと死んだ。第十八世に一度姿を現わしたという「赤き死の仮面」が再び姿をかえて入りこんだのではないかと、都大路みやこおおじは上を下への大騒動だった。

「きょうはこれで……六十三人目かナ」

 死屍室しししつから出て来た伝染病科長は、廊下に据付すえつけの桃色の昇汞水しょうこうすいの入った手洗の中に両手をけながら独り言を云った。そこへ細菌科長が通りかかった。

「おい、どうだ。ワクチンは出来たか」

「おお」と細菌科長は苦笑にがわらいをしながら足を停めた。「駄目、駄目、ワクチンどころか、まだ培養ばいようできやせん」

「困ったな。今日は息を引取ったのが、これで六十……」

 と云おうとしたところへ、ふとっちょの看護婦がアタフタ駈けてきた。

「先生、すぐ第二十九号室へお願いします。脈が急に不整ふととのえになりまして……」

「よオし。すぐ行く」といって再び細菌科長の方を振りかえり、「今日はレコード破りだぞ。こんどが六十四人目だ」

「……」

 二人は反対の方角に、急ぎ足で立ち去った。

 入れかわりに、廊下をパタパタ草履ぞうりを鳴らしながら、警視庁の大江山おおえやま捜査課長と帆村ほむら探偵とが、肩を並べながら歩いて来た。

「……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん」

「そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ」

「それは先刻さっきから何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのです。なにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐわかりますよ。普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません」

「しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う」

「伝染病であることは勿論もちろんですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ」

 二人の論争が、そこでハタと停った。彼の歩調もゆるんだ。丁度ちょうど二人が目的の部屋の前に来たからである。黒いうるしをぬった札の表には、白墨はくぼくで「病理室」と書いてあった。

 ノックをして、二人は部屋のドアを押した。

「やあ──」

 と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった。彼は待ちかねたという面持おももちで、二人を大きな卓子テーブルの方へ案内した。そこには硝子蓋ガラスぶたのついたかさばこが積んであった。

「このとおりです。みんな調べてみました」

 硝子箱の中には、沢山の白い短冊型たんざくがたの紙がピンで刺してあった。そして大部分は独逸文字ドイツもじで書きうずめられてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア・ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していた。どの短冊もそうであった。

 それは蠅以外の何物でもなかった。

「結果は如何でした」

 と帆村探偵が、頬を染めながらいた。

「大体を申しますと、この蠅の多くは、家蠅いえばえではなくて、刺蠅さしばえというやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です。普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものからかえったのだということが出来ます」

「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村がきかえした。

「そういうところです。なぜそれが断言だんげんできるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような黴菌ばいきんを持っていない。極めて黴菌の種類が少い。大抵たいていなら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です。深窓しんそうに育った蠅だといってよろしい」

「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が謹厳きんげんな顔を崩して笑い出した。

「その一種の黴菌ばいきんとは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。

「それが──それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」

「珍らしい黴菌ですって」

「そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」

「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッとあおざめた。「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今になおると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ日には、その病人の息の根が止まっていた。では、あの蠅の持っている黴菌ばいきんというのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」

 医学士は黙っていた。その答えは彼の領分りょうぶんではなかったから。

 大江山捜査課長も黙っていた。目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。

「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長をうながした。「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです。犯人は、あの奇病の流行した地区の幾何学的きかがくてき中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう。行って、その間接の殺人魔をとらえるのです」

 二人は病理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された。

 二人が、チンドン屋の寅太郎とらたろうという、いつも手甲てこう脚絆きゃはん大石良雄おおいしよしおを気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎のついに自白したところによると、彼こそまさしくその犯人だった。極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとないよろこびだったのだ。彼が丹精たんせいして飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその太鼓たいこの中にウジャウジャ発見された。彼が右手にもったばちで太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さいあなから、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。

 彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない。



   第三話 動かぬ蠅



 もの目賀野千吉めがのせんきちは、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。

 一体そうした秘密映画というものは、一と通りの仕草しぐさを撮ってしまうと、あとは千辺一律せんぺんいちりつで、一向いっこう新鮮な面白味をもたらすものではない。そこで会主かいしゅは、会員の減少をおそれて一つの計画をてた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞き、それに従って、映画の新鮮な味を失うまいと心けた。果してそれは大成功だった。会主の狭い頭脳から出るものよりも、同好者の天才的頭脳を沢山に借りあつめることが、いかに素晴らしい映画を後から後へと作りあげたか、云うまでもない。目賀野千吉は、その方面での、第一功労者にあげねばならない人物だった。

 会は大変もうかった。会は彼の功労を非常にとし、ついに千五百円を投げ出して、新邸宅を建てて彼に贈った。

「ほほう。あんな方面の労務出資しゅっしが、こんなに明るい新築の邸宅ていたくになるなんて、世の中は面白いものだナ」

 彼は満足そうに独言ひとりごとを云って、白い壁にめぐらされた洋風間に持ちこんだベッドの上に長々と伸びた。真白な天井てんじょうだった。新しいというのは、まことに気持がいいものだ。蠅が一匹止まっている。それさえ何となく、ホーム・スウィート・ホームで、明朗さを与えるもののように思われた。蠅のやつも、恐らく伸び伸びと、このうららかな部屋に逆様さかさまになってねむっていることであろう。

 彼はうららかな生活をしみじみと味わって、幸福感にひたった。いままでの変態的へんたいてきな気持がだんだん取れてくるように感じた。もうあの夜の映画観賞会には、なるべく出ないようにしようとさえ考えた。明るい生活がだんだんと、彼の心を正しい道にひき戻していったのだった。

 しかしそれと共に、彼はなんだか非常にたよりなさを感じていった。さびしさというものかも知れなかった。血のかよっている身体でありながら、まるで鉱石こうせきで作った身体をもっているような気がして来た。なにが物足りないのだ。なにが淋しいのだ。

「そうだ、妻君さいくんを貰おう!」

 彼は、このスウィート・ホームに欠けている第一番のものに、よくも今まで気がつかなかったものだと感心したくらいだった。

 目賀野千吉は、彼の決心を早速会主に伝達した。

「ああ、お嫁さんなの……」

 と会主は大きくうなずいてみせた。

「いいのがあるワ。あたしの遠縁とおえんだけれど。丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ」

「へえ! それを僕にくれますか」

「まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわ。ほほほほ」

 と会主は吃驚びっくりするような大きな顔で笑った。

 そんなわけで、彼は間もなく、新邸しんていの中にまたもう一つ新しく素晴らしいものを加えた。それは生々なまなましい新妻にいづまであることは云うまでもあるまい。

 新世帯というのを持ったものは誰でも覚えがあるように、三ヶ月というものは夢のように過ぎた。妻君は一向子供を生みそうもなかった代りに、ますます美しくなっていった。やがて一年の歳月が流れた。そのかん、彼はあらゆる角度から、妻君という女を味わってしまった。そのあとに来たものは、かねてとなえられている窒息ちっそくしそうな倦怠けんたいだった。彼の過去の精神酷使こくしが、倦怠期を迎えるに至る期限をたいへん縮めたことは無論である。彼はひたすら、刺戟しげきに乾いた。なにか、彼を昂奮させてくれるものはないか。彼は妻君が寝台の上に睡ってしまった後も、一人で安楽椅子あんらくいすによりながら、考えこんだ。白い天井を見上げると、黒い蠅が一匹、絵に書いたように止まっていた。それをボンヤリながているうちに、彼は思いがけないことに気がついた。

「あの蠅というやつは、もうせんにも、あすこに止まっていたではないか。それが今もなお、あすこに止まっている。あれは、先の蠅と同じ蠅かしら。違うかしら。もし同じ蠅だとしたら生きているのか死んでいるのか」

 彼は不図ふとそんなことを思った。しかしそれだけでは、一向彼を昂奮に導くにはりなかった。

「なにものか、自分を昂奮こうふんさせてくれるものよ、出て来い!」

 彼はなおも執拗しつように、心の中で叫んだ。

「そうだ。あれしかない。古い手だが、暫く見ない。あれをまたすこし見れば、なんとかすこしは刺戟があるだろう」

 彼は昔の秘密の映画観賞会のことを思い出したのだった。

(三ヶ月ぶりだ。……)

 そう思いながら、彼は或るブローカーから切符を買うと、秘密の映画観賞会のある会合へ、こっそりと忍びこんだ。会主にも表向き会わないで、昂奮だけをソッと一人で持ってかえりたいと思ったからである。

 映画はスクリーンの上に、羞らいを捨てて、あやしく躍りだした。大勢の会員たちが自然に発する気味のわるい満悦まんえつの声が、ひどく耳ざわりだった。しかし間もなく、心臓をギュッと握られたときのおどろきにたとえたいものが彼を待っていようなどとは、気がつかなかった。ああ、突然の駭き。それはどこからうつしたものか、彼と妻君とのたわむれが長尺物ちょうじゃくものになって、スクリーンの上にうつし出されたではないか!

ッ。──」

 と彼は一言ひとこと叫んだなりに、呆然ぼうぜんとしてしまった。

(何故だろう。何故だろう)

 彼はいきどおるよりも前に、まずおどろき、はじらい、おそれ、転がるように会場からでた。そして自分の部屋に帰って来て、安楽椅子の上に身をげだした。そしてやっとすこし気を取り直したのだった。

(何故だろう。あの怪映画は、自分たちの楽しい遊戯を上の方から見下ろすように撮ってあった。一体どこから撮ったものだろう。撮るといって、どこからも撮れるようなものはないのに……)

 と、彼はいぶかしげに、頭の上を見上げた。そこには、依然として真新しい白壁の天井があるっきりだった。別にどこという窓も明いている風に見えなかった。ただ一つ、気になるといえば気になるのは、前からあいも変らず、同じ場所にポツンと止まっている黒い大きい蠅が一匹であった。

「どうしてもあの蠅だ。なぜあの蠅だか知らないが、あれよりほかに怪しい材料が見当らないのだ!」

 そう叫んだ彼は、セオリーを超越ちょうえつして、梯子はしごを持ってきた。それから危い腰付でそれに上ると、天井へ手を伸ばした。蠅は何の苦もなくたちまち彼の指先に、とらえられた。しかしなんだか手触てざわりがガサガサであって、生きている蠅のようでなかった。

「おや。──」

 彼はてのひらを上に蠅を転がして、仔細しさいた。ああ、なんということであろう。それは本当の蠅ではなかった。薄い黒紗こくしゃで作った作り物の蠅だった。天井にへばりついていたために、下からは本当の蠅としか見えなかったのだ。だが誰が天井にへばりついている一匹の蠅を、真物ほんもの偽物にせものかと疑うものがあろうか。

(誰が、なんの目的で、こんな偽蠅にせばえを天井に止まらせていったのだろう!)

 彼は再び天井をあおいでみた。

「おや、まだ変なものがある!」

 よく見ると、それは蠅の止まっていたと同じ場所に明いている小さなあなだった。どうして孔がいているのだろう!

 その瞬間、彼はハッと気がついた。

「畜生!」

 そう叫ぶと彼は、押入のドアを荒々しく左右に開いた。そして天井裏へくぐりこんだ。そこで彼は不可解だった謎をとくことが出来た。あの孔の奥には、巧妙な映画の撮影機が隠されていた。目賀野千吉と新夫人との生活はあのあなからすっかり撮影され、彼が入った秘密映画会に映写されていたのであった。会主が家をくれたのも、その映画をうつさんがためにほかならなかった。なんとなれば、およそ彼ほどの好き者は、会主の知っている範囲では見当らなかったのだ。会主は彼が本気で実演してくれれば、どんなにか会員を喜ばせる映画が出来るか、それを知っていたのだ。むろん彼女は、新宅の建築費の十倍に近い金を既にあの映画によってもうけていたのだった。

 蠅は? 蠅は単に小さい孔を隠すたてにすぎなかった。薄い黒紗こくしゃで出来ている蠅の身体はよくけて見えるので、撮影に当ってレンズの能力を大してそこなうものではなかったのである。



   第四話 宇宙線



 宇宙線という恐ろしい放射線が発見されてから、まだいくばくもたないが、人間は恐ろしい生物だ、はや人造じんぞう宇宙線というものを作ることに成功した。あのX光線でさえ一ミリの鉛板えんばんつらぬきかねるのに、人造宇宙線は三十センチの鉛板も楽に貫く。だから鉄のドアやコンクリートの厚い壁を貫くことなんか何でもない。人間の身体なんかお茶の子サイサイである。

 どこから飛んでくるか判らない宇宙線は、その強烈な力を発揮して、人間の知らぬ大昔から、人体を絶え間なくプスリプスリとし貫いているのだ。或るものは、心臓の真中を刺し貫いてゆく。また或るものは卵巣らんそうの中を刺し透し、或るものはまた、精虫せいちゅうの頭をかすめてゆく。こう言っている間も、私たちの全身はおびただしい宇宙線でもってプスリプスリと縫われているのだ。

 一体、そんなにプスリと縫われていて差支さしつかえないものか。差支えないとは云えない、たとえば、精虫が卵子といま結合しようというときに、突然数万の宇宙線に刺しとおされたとしたらどうであろう。おぼんのように丸くなるべきだった顔が、俄然がぜん馬のように長い顔にゆがめられはしまいか。

 私はこの頃人造宇宙線の実験に没頭ぼっとうしているが、いつもこの種の不安を忘れかねている次第しだいである。人造が出来るようになってからは宇宙線の流れる数は急激に増加した。ことに私どもの研究室の中では、宇宙線がかすみのように棚曳たなびいている。恐らく街頭で検出できる宇宙線の何百倍何千倍に達していることだろうと思う。私はこうして実験を続けていながらも、何かおどろくべき異変がこの室内に現われはしまいかと思って、ときどき背中から水を浴びせられたように感ずるのだ。そんなことが度重たびかさなったせいか、今日などは朝からなんだか胸がムカムカしてたまらないのである。

 読者は、私が科学者であるくせに、何の術策じゅつさくほどこすこともなく、ただ意味なく狼狽ろうばいと恐怖とにおそわれているように思うであろうが、私とても科学者である。おろかしき狼狽のみにとどまっているわけではない。すなわち、ここにある硝子壜ガラスびんの中をちょっとのぞいてみるがいい。この中に入っているものは何であるか御存知であろう。これは蠅である。

 この蠅は、最初壜に入れたときは二匹であったが、特別の装置に入れて置くために、だんだん子をかえして、いまではこのとおり二十四五匹にも達している。この蠅の一群を、私は毎日毎日、丹念に検べているのだ。しかし私はいつも失望と安堵あんどとを迎えるのが例だった。なぜならば、蠅どもは別に一向異変をあらわさなかったから……。

 だが、今日という今日は、待ちに待った戦慄せんりつに迎えられたのだ。それは、この壜の中に一匹の怪しい子蠅を発見したからである。その子蠅は、なんという恐ろしい恰好をしていたことであろうか。それははじめは気がつかなかったが、すこし丈夫になって、壜の上の方にいあがってきたところを見付けたのであるが、一つの胴体に、二つの頭をもっていたのだ! 言わば双つ頭の蠅である。こんな不思議な蠅が、いまだかつて私共の目に止まったことがあろうか。いやいやそんな怪しげなものは見たことがなかった。おそらく、どこの国の標本室へいっても、二つ頭の蠅などは発見されないであろう。ことに目の前に蠅の入った壜を置いてあって、その中にこのような怪しい畸形の子蠅を発見出来るなどいうことは、いちじるしい特別の原因がなくては起り得るものではない。──その原因を、わが研究室の宇宙線にすることは、きわめて自然であると思う。無論読者においても賛成せられることであろう。……

     *

 ──さて、前段の文章は、途中で切れてしまったが、まったく申訳がない。実は急に胸元むなもとが悪くなって、嘔吐おうともよおしたのだ。そして軽い脳貧血にさえ襲われた。私は皆のすすめで室を後にし、別室のベッドに寝ていたのだ。それからかれこれ三時間は経った。やっと気分もすこし直って来たので、起き上ろうかと思っていると、其所そこへ友人が呼んでくれた医師が診察に来てくれた。

 その診察の結果をこれからお話しようと思うのであるが、読者は信じてくれるかどうか。多分信じて貰えまいと思う。といってこれが話さずにいられようか。

 いま私は起き上って、蠅の入った壜を手にとって見ている。あれから三四時間のちのことであるが、二つ頭の蠅が、俄然がぜん五匹に殖えている。異変は続々と起っているのだ。そして生物学的にみて、何という繁殖はんしょくすさまじさであろうか。何という怪奇な新生児であろうか。

 私がもし生物学者であったとしたら、蠅が卵を生み始めた頃直ぐに、重大なる事柄に気がつかねばならなかったのである。したがって、近頃の私自身の気分の悪さについても、早速さっそく思いあたらねばならなかったのであるが、幸か不幸か、私には蠅の雌雄しゆう識別しきべつする知識がなかったのである。

 実は私は──理学博士加宮久夫かのみやひさおは、本日医師の診察をうけたところによると、奇怪にも妊娠しているというのである。男性が妊娠する──なんて、誰も本当にしないであろうが、これはいつわりのない事実である。ああなんといういまわしき、また恐ろしいことではないか。男性にして妊娠したというのは、私が最初だったであろう。なぜ妊娠したか。その答えは簡単である。──この研究室に棚曳たなびいている宇宙線が私の生理状態を変えてしまって、そして妊娠という現象が男性の上に来たのだ。

 私が生物学者だったら、この壜の中の蠅が卵を生んでいるときに、既に怪異に気がつくべきだった。何となれば、その卵を生んでいる蠅は、いずれも皆めすではなく、実におすだったのである。そしてその雄から、あの畸形な子蠅が生れてきたのだ。

 ああ、私は果して、五体が満足に揃った嬰児えいじを生むであろうか。それとも……。



   第五話 ロボット蠅



 赤軍の陣営では、軍団長ぐんだんちょうイワノウィッチが本営から帰ってくると、司令部の広間へ、急遽きゅうきょ幕僚ばくりょう参集さんしゅうを命じた。

「実に容易ならぬ密報をうけたのじゃ」と軍団長は青白い面に深い心痛しんつうみぞりこんで一同を見廻した。「白軍にはおどろくべき多数の新兵器が配布されているそうな。その新兵器は、いかなる種類のものか、ハッキリしないのであるが、中に一つ探りあてたのは、殺人音波さつじんおんぱに関するものだ。耳に聞えない音──その音が、一瞬間に人間の生命を断ってしまうという。とにかく一同は、この新兵器の潜入せんにゅうについて、極度きょくどの注意を払って貰わにゃならぬ。そして一台でも早く見つけたが勝じゃ。一秒間発見が早ければ千人の兵員を救う。一秒間発見が遅ければ、千人の兵員をうしなう。各自は注意を払って、新兵器の潜入を発見せねばならぬ」

 並居なみいる幕僚は、思わずハッと顔色を変えた。そして銘々めいめいまなこをギョロつかせて、室内を見廻した。もしやそこに、見馴みなれない新兵器がいつの間にやらはこびこまれていはしまいかと思って……。

「ややッ、ここに変なものがあるぞ」

 幕僚の一人、マレウスキー中尉が突然叫んだ。

「ナナなんだって?」

 一同は長靴をガタガタ床にぶっつけながら中尉の方を見た。彼は室のすみ卓子テーブルの上に、手のついた真黒い四角な箱を発見したのだ。

「こッこれだッ。怪しいのは……」

「なんだ其の箱は」

「爆弾が仕掛けてあるのじゃないかナ」

「イヤ短波の機械で、われ等のしゃべっていることが、そいつをとおして、真直まっすぐに敵の本営へ聞えているのじゃないか」

「それとも、殺人音波が出てくる仕掛けがあるのじゃないか」

 一同はわめきあって、その四角の黒函くろばこをグルリと取り巻いた。

「あッはッはッ」と人垣のうしろの方から、無遠慮ぶえんりょな爆笑の声がひびいた。フョードル参謀の声で。

「あッはッはッ。それア弁当屋べんとうや出前持でまえもちの函なんだ。多分お昼に食ったおれの皿が入っているだろう」

「なんだって、弁当のからか?」

「どうして、それがこんなところにあるのか」

「イヤ、さっき弁当屋の小僧が来た筈なんだが、持ってゆくのを忘れたのじゃあるまいかのウ」フョードル参謀は云った。

「忘れてゆくとは可笑おかしい、中をしらべてみろ」

「早くやれ、早くやれッ」

「よォし」とフョードル参謀は進み出た、「じゃけるぞオ」

 一同の顔はサッと緊張した。軍団長イワノウィッチは、大刀だいとうたて反身そりみになって、この際の威厳いげんたもとうと努力した。

「よォし、明けろッ」

「明けるぞオ」

 フョードルは、黒函くろばこの蓋に手をかけると、音のせぬようにソッとはずしにかかった。一同の心臓は大きく鼓動をうって、停りそうになった。

「……?」

 蓋はパクリと外れた。

「なアんだ」

 見ると、函の中には、白い料理の皿が二三枚かさなっているばかりだった。皿の上には食いのこされた豚の脂肉あぶらにくが散らばっていて、蠅が二匹、じッとまっていた。

「ぷーッ。ずいぶん汚い」

「見ないがよかった。新兵器だなんていうものだから、つい見ちまった」

 一同はきょうざめ顔のうちに、まアよかったという安堵あんどの色を浮べた。

 そのとき入口のドアが開いて、少年がズカズカと入ってきた。

「おや、貴様は何者かッ」

「誰の許しを得て入って来たか」

 将校たちに詰めよられた少年は、眼をグルグル廻すばかりで、とみに返辞も出せなかった。

「オイ、許してやれよ」フョードル参謀が声をかけた、「いくら白軍はくぐんの新兵器が恐ろしいといったって、あまり狼狽ろうばいしすぎるのはよくない……」

「なにッ」

「そりゃ、弁当屋の小僧だよ」

「弁当屋の小僧にしても……」

「オイ小僧、ブローニングでおどかされないうちに、早く帰れよ」

 少年はフョードルの言葉が呑みこめたものか、うなずいて黒い函をとると、重そうに手に下げ、パッと室外に走り出した。

「なーんだ、本当の弁当屋の小僧か」

「いや小僧に化けて、白軍の密偵が潜入して来るかも知れないのだ」とマレウスキー中尉は神経をとがらした。

「油断はせぬのがよい。しかし卑怯ひきょうであっては、戦争は負けじゃ」

 と一伍一什いちぶしじゅうを見ていた軍団長はうまいことをべて、大きな椅子のうちに始めて腰を下ろした。

「注意をすることが、卑怯であるとは思いませぬ」とマレウスキー中尉は引込んでいなかった。「怪しいことがあれば、そいつは何処までも注意しなきゃいけません。たとえば……」

「たとえば何だという?」とフョードルが憎々にくにくしげに中尉をにらみつけた。

「たとえば、ああ、そこをごらんなさい。一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか」

「蠅が一匹、壁に止まっているって? フン、あれは……あれは先刻さっき弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない」

「それだけのことでは、怪しくないという証明にはならない。それは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について論及ろんきゅうしたに過ぎない。あの蠅を捕獲ほかくして、六本の脚と一個の口吻こうふんとに異物いぶつが附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べる。もし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるか。あの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうか。もしやそれは一種の新兵器ではないかと……」

「あッはッはッはッ」と参謀フョードルは腹をかかえて笑い出した。「君の説はよく解った。そういう種類の説は昔から非常に簡単な名称が与えられているのだ。曰く、懐疑かいぎ主義とネ」

「イヤ参謀、それは粗笨そほんな考え方だと思う。一体この室に蠅などが止まっているというのがきわめて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だ。ことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ」

「弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……」

「ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのをよしとする。もし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……」

「君は神経衰弱だッ」。

「参謀は神経がにぶすぎるッ」

「いいや、君は……」

鈍物参謀どんぶつさんぼう

「やめいッ!」

 と軍団長が大喝たいかつした。

「はッ」と二人は直立不動の姿勢をとった。

「もうやめいッ、論議は無駄だ。喋っているいとまがあったら、なぜあの蠅を手にとってしらべんのじゃ」

「はッ」

 二人は顔を見合わせた。誰が蠅を検べにゆくのがよいか──と考えた。その途端とたんに、フョードルも、中尉もハッと顔色をかえて、胸をおさえた。軍団長もヨロヨロとよろめきながら、右手で心臓をおさえた。そればかりではない。司令部広間にいた幕僚も通信手も伝令も、皆が胸を圧えた。そして次の瞬間には立てて並べてあった本がバタリバタリと倒れるように、一同はつぎつぎに床の上に昏倒こんとうした。間もなく、この大広間は、世界の終りが来たかのように、一人のこらず死に絶えた。まことに急激な、そして不可解な死にようだった。

 たった一つ、依然として活躍しているものがあった。それは壁にとまっていた一匹の蠅だった。その蠅の小さい一翅いっしは、どうしたものか、まったく眼に見えなかった。それは翅が無いのではなく、翅が非常に速い振動をしていたからである。その翅の特異な振動から、殺人音波が室内にふりまかれているのであった。白軍の新兵器、殺人音波は、実にこの蠅から放射されていたのである。

 蠅は死にそうでいて、中々元気であった。人間が死んで、蠅が死なないのはおかしいが、もし手にとって、顕微鏡を持つまでもなく肉眼でよく見るならば、この蠅がただの蠅ではなく、ロボットばえであることを発見したであろう。

 この精巧なロボット蠅は、弁当屋の小僧が持って来て、壁にとりつけていったものだった。蠅が止まっていると格別気にもしなかった間にあの小僧に化けたスパイは遠くに逃げ失せた。その頃、一つの電波が白軍の陣営から送られ、それであのロボット蠅の翅はたちまち振動を始めたのだ。その翅からは戦慄せんりつすべき殺人音波が発射され、室内の一同を鏖殺みなごろしというわけだった。軍団長のいうとおり、もっと早く蠅を手にとって検べていたら、こんな悲惨な結果にはならなかったろう。

 ロボット蠅は、それから後も、続々ぞくぞく偉功いこうてた。



   第六話 雨の日の蠅



(妻が失踪しっそうしてから、もう七日になる)

 彼は相変あいかわらず無気力な瞳を壁の方に向けて、待つべからざるものを待っていた。腹は減ったというよりも、もう減りすぎてしまった感じである。胃袋は梅干大うめぼしだいに縮小していることであろう。

 妻を探しにゆくなんて、彼には、やりとげられることではなかった。外はどこまでも続いた密林、また密林である。人間といえば彼と妻ときりしか住んでいない。食いつめて、しいたげられて、ねじけきって辿たどりついたこの密林の中の荒れ果てた一軒家だった。主人のない家とみて今日まで寝泊りしているのだった。

 失踪した妻を探しにゆく気力もなかった。それほど大事な妻でもなかった。結局一人になった方がしあわせかもしれない。しかし、倖なんておよそおかしなものである。腹の減ったときに蜃気楼しんきろうを見るようなもので、なんの足しになるものかと思った。

 陽がうっすらとさしていたのが、いつの間にやら、だんだんと吸いとられるように消えていった。そしてポツポツ雨が降ってきた。密林の雨は騒々そうぞうしい。木の葉がパリパリと鳴った。

 丸太ン棒を輪切りにして、その上に板をうちつけた腰掛の下から、一陣の風がサッと吹きだした。床に大きな窓が明いているのであった。とたんにどッと降りだしたしのをつくような雨は、風のために横なぐりに落ちて、窓枠まどわくをピシリピシリと叩いた。密林がこの小屋もろとも、ジリジリと流れ出すのではないかと思われた。

 流れ出してもよい。すべて天意のままにと彼は思った。

 雨は、ひとしきり降ると、やがて見る見るいきおいを失っていった。そしてあたりはだんだん明るさが恢復かいふくしていった。風もどこかへ行ってしまった。

 やがてまたホンノリと、薄陽うすびがさしてきた。彼はまだ身体一つ動かさず、破れた壁を見詰みつめていた。雨があがったら、どこからか妻がキイキイ声をあげながら、小屋へ駈けこんでくるように感じられた。だがそれは、いつもの期待と同じように、ガラガラとくずれ落ちていった。いつまでたってもキイキイ声はしなかった。

 壁を見詰めている彼の瞳の中に、なんだかこう新しい気力きりょくが浮んできたように見えた。壁に、どうしたものかたくさんの蠅が止まっている。一匹、二匹、三匹と数えていって、十匹まで数えたが、それからあとはいやになった。十匹以上、まだワンワンと居た。

(どうして蠅が、こう沢山居るのだろう)

 彼はようやく一つの手頃な問題にとりついたような気がした。別にけなくともよい。気に入る間だけ、舌の上にせた飴玉あめだまのように、あっちへ転がし、こっちへ転がしていればいいのだ。さて、蠅がどうしてこんなに止まっているのか。

(ウン、そうだ……)

 そうだ。蠅はさっきまで一匹も壁の上に止まっていたように思われない。蠅が急に壁の上にえたのは、先刻さっき豪雨ごううがあってから、こっちのことだ。

(そうだ。雨が降って、それで蠅が殖えたのだ。どうして殖えたのだ?)

 窓には硝子板ガラスいたなんてものが一枚も入っていなかった。板で作った戸はあったけれど、閉めてなかった。この窓から、あの蠅が飛びこんできたのに違いない。しかし飛びこんでくるとしても、このおびただしい一群の蠅が押しよせるなんて、彼がこの小屋に住むようになった一年この方、いままでに無いことだった。

(なぜ、今日に限って、この夥しい蠅の一群が飛びこんで来たのだ。どこから、この夥しい蠅が来たのだ)

 彼の眼は次第に険悪けんあくの色を濃くしていった。

 どこから来たのだ、この夥しい蠅群は!

「ああッ。──」

 と彼は叫んだ。

「この蠅が来るためには、この家の外に、なにか蠅が沢山たかっている物体があるのだ。雨が降って──そして蠅が叩かれ、あわててこの窓から飛びこんできたのだ。そうだそうだ、それで謎は解ける!」

 彼は爛々らんらんたる眼で見入みいった。

(だが、その蠅のおびただしくたかっている物体というのは、一体なにものだったろう)

 彼は急に落着かぬ様子になって、ブルブルと身体をふるわした。両眼はカッと開き、われとわが頭のあたりにワナワナとふるえる両手をからみつけた。

「ああッ。──ああッ、あれだッ。あれだッ」

 彼は腰掛から急に立ち上った。くぎをうったように棒立ちになった。ひどい痙攣けいれんが、彼の頬にいのぼった。

「妻だ。妻の死体だッ」彼の声はみにく皺枯しわがれていた。「妻の死体が、すぐそこの窓の下にまっているのだ。それがもう腐って、ドンドン崩れて、その上に蠅がいっぱいたかっているのだ。……先刻の雨に叩かれて、そこにいる蠅の一群が、窓から逃げこんできたのだ。ああ、妻の死体をめた蠅が、そこの壁の上に止まっている!」

 彼は後退あとずさりをすると、背中を壁にドスンとぶつけた。

「……で、その妻は、一体誰が殺し、誰がそこに埋めたのだろうか」

 彼は土の下で腐乱ふらんしきった妻の死体を想像した。いまの雨に、その半身はんしんが流れ出されて、土の上に出ているかもしれないと思った。

「殺したのは誰だ。この無人境むじんきょうで、妻を殺したのは誰だッ」

 そのとき、入口のドアがコツコツと鳴った。誰かがノックをしているのだ。

「あワワ……」

 彼は身をひるがえすと、部屋の隅に小さくなった。まるで蜘蛛くもの子が逃げこんだように。

 コツ、コツ、コツ。

 又もや気味の悪い叩音ノックが聞える。

 彼は死んだようになって、息をころした。

 そのとき扉の外で、ガチャリと音がした。鍵の外れるような音であった。そしてイキナリ、重い扉が外に開いた。その外には詰襟つめえりの制服にいかめしい制帽を被った巨大漢きょだいかんと、もう一人背広を着た雑誌記者らしいのとが肩を並べて立っていた。

「これがその男です」と、制服の監視人が部屋の中の彼を指して云った。「妻を殺して、窓の外にその死体を埋めてあるように思っている患者です。この男は何でも前は探偵小説家だったそうで、窓から蠅が入ってくると、それから筋を考えるように次から次へと、先を考えてゆくのです。そして最後に、自分が夢遊病者むゆうびょうしゃであって、妻を殺してしまったというところまで考えると、それで一段落いちだんらくになるのです。そのときは、いかにも小説の筋が出来たというように、大はしゃぎにねまわるのです。……強暴性の精神病患者ですから、この部屋はこれまでに……」



   第七話 蠅に喰われる



 机の上の、小さな蒸発皿じょうはつざらの上に、親子の蠅が止まっている。まるで死んだようになって、動かない。この二匹の親子の蠅は、私のらしてやったわずかばかりの蜂蜜に、じッと取付いて離れなくなっているのだ。

 そこで私は、戸棚の中から、二本の小さい壜をとりだした。一方には赤いレッテルが貼ってあり、もう一つには青いレッテルが貼ってあった。この壜の中には、極めて貴重な秘薬ひやくが入っているのだった。赤レッテルの方には生長液せいちょうえきが入って居り、青レッテルの方には「縮小液しゅくしょうえき」が入っていた。これは或るところから手に入れた強烈な新薬である。私はこの秘薬をつかって、これからちょっとした実験をして見ようと思っているのだ。

 私は赤レッテルの壜の栓を抜くと、妻楊子つまようじの先をソッと差し入れた。しばらくして出してみると、その楊子の尖端せんたんに、なんだか赤い液体が玉のようについていた。それが生長液の一滴いってきなのであった。

 私はその妻楊子の尖端を、蒸発皿の方へ動かした。そして親蠅おやばえがとりついている蜂蜜の上に、生長液をポトンとらした。それから息を殺して、私は親蠅の姿を見守った。

 ブルブルブルと、蠅ははねをゆり動かした。

「うふーン」

 と私は溜息をついた。蠅はしきりに腹のあたりを波うたせている。不図ふと隣りの仔蠅の方に眼をうつした私は、どンと胸をつかれたように思った。

ッ。大きくなっている!」

 仔蠅の身体に較べて、親蠅はもう七八倍の大きさになっているのだ。そしてなおもしきりにふくれてゆくようであった。

「ほほう。蠅が生長してゆくぞ。なんという素晴らしい薬の効目ききめだ」

 蠅は薬がだんだん利いて来たのであろうか。見る見る大きくなっていった。三十秒後には懐中時計ほどの大きさになった。それから更に三十秒のちには、かめ子束子こだわしほどにふくれた。私はすこし気味が悪くなった。

 それでも蠅の生長は停まらなかった。亀の子束子ほどの蠅が、草履ぞうりほどの大きさになり、やがてラグビーのフットポールほどの大きさになった。電球ぐらいもある両眼りょうがんはギラギラと輝き、おそろしい羽ばたきの音が、私の頬を強く打った。それでもまだ蠅はグングンと大きくなる。こんなになると、蠅の生長してゆくのがハッキリ目に見えた。私はすっかりおそろしくなった。

 蠅の身体が、やがてわしぐらいの大きさになるのは、間のないことであろうと思われた。

(これはもう猶予ゆうよすべきときではない。早く叩き殺さねば危い!)

 なにか適当の武器もがなと思った私は、あわてて身辺をふりかえったが、そこにはバット一本転がっていなかった。友人のところへ猟銃りょうじゅうを借りにゆく手はあるんだが、既にもう間に合わなかった。そんなに愚図愚図ぐずぐず手間どっていると、この蠅は象のように大きくなってしまうことだろう。

 狼狽ろうばい後悔こうかいとの二重苦のうちに、私は不図ふと一つの策略を思いついた。それはすこし無鉄砲なことではあったが、この上は躊躇ちゅうちょしている場合ではない。──と咄嗟とっさに腹をめた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッといきに生長液をんだのであった。

 たちまち身体の中は、アルコールをいたような温かさを感じた。と思ったら私の身体はもうブツブツふくれはじめた。シャボン玉のように面白いほど膨らみ始めた。

 あの親蠅はと見ると、先程に比べてなるほど小さく見えだした。これは私の身体が大きくなったのでそう見えるのであろう。室内の調度に比べると、の蠅は土佐犬とさいぬほどの大きさになっているらしかった。大量の生長液を飲んだせいで私はなおもグングン大きくなっていった。そのうちに親蠅は私の両手でがっちりつかめそうになった。

「よオし、こいつが……」

 私はたちまち躍りかかると、親蠅の咽喉のどを締めつけた。蠅は大きな眼玉をグルグルさせ、口吻こうふんからベトベトした粘液ねんえきを垂らすと、ついにあえなくも、呼吸がえはてた。そしてゴロリと上向うわむきになると、ビクビクと宙に藻掻もがいていた六本の脚が、パンタグラフのような恰好かっこうになったまま動かなくなってしまった。私はほっと溜息をついた。

 そのときだった。私は頭をコツンとぶつけた。見ると私の頭は天井にぶつかったのであった。何しろグングン大きくなってゆくので、こんなことになってしまったのだ。私は元々坐っていたのであるが、蠅を殺すときに中腰ちゅうごしになっていた。このままでいると、天井を突き破るおそれがあるので、私はハッとして頭を下げて、再びドカリと坐った。

「ああ、危かった」

 だが、本当に危いのは、それから先であるということがわかった。私の身体はドンドンふくれてゆく。このままでは部屋の内に充満するに違いない。外へ出ようと思ったが、そのときに私は恐ろしいことを発見した。

「ああッ、これはいけない!」

 私は思わず叫んだ。もうこんなに身体が大きくなっては、窓からもドアのある出入口からも外に出られなくなっているのだった。部屋から逃げだせないとしたら、これから先ず一体どうしたらいいのだろう。

 おそらく私の身体は壁を外へ押し倒し、この家を壊してしまわないと外へ出られないだろう。だがこの部屋の構造は特別に丈夫に作らせてあるのだ。身体の方が負けてしまうかも知れない。内から生長してゆく恐ろしい力が巌丈がんじょうな壁や柱に圧された結果はどうなるのだろうか。私の五体は、両国りょうごくの花火のようになって、真紅まっかな血煙とともに爆発しなければならない。そのうちに肩のところがメリメリいって来た。

 私は二度の大狼狽おおろうばいに襲われた。

「これアいかん!」

 こうなっては、一秒も争う。私は神を念じ、痛いあごの骨を折って、あたりを見まわした。そのとき天の助けか、目についたのは一個の薬壜だった。青レッテルを貼った縮小液の入った壜だった。

「そうだ。あれを飲めば、身体が小ちゃくなるぞ!」

 私は指の尖端さきつばをつけて、その青レッテルの壜をへばりつけた。それから爪の先で、いろいろやってみてやっとせんを抜いた。

「さあ、しめたッ」

 私はそのひとたらしもない薬液を、口の中へたらしこんだ。それはたいへんにがい薬だった。

 スーッと身に涼風りょうふうが当るように感じたそのうちに、エレヴェーターで下に降りるような気がしてきた。それと共に身体がひえて、ガタガタふるえだした。しかし、ああ、私の身体はドンドン小さくなって行く。坐っていて箪笥たんすの上に首がったのが、今は箪笥と同じ高さになった。

 ますます縮んでいった。立ち上っても、頭が鴨居かもいの下に来た。椅子に坐ってみても丁度ちょうど腰の下ろし具合がいい。もうこれで元のようになったと感じた。

 しかしである。また心配なことが起って来た。元のようになった身体は、まだグングン小さくなってゆくのだった。椅子に腰を下ろしていて、足の裏がいつの間にやら、絨毯じゅうたんから離れて来た。下へ降りようと思うと、窓から下へ飛び降りるように恐ろしくなってきた。私はお人形ほどの大きさになったのである。

 それ位にまるならば、まだよかったのであるが、更に更に、身体は小さくちぢまっていった。私はキャラメルの箱に蹴つまずいて、向うずねをすりむいた。馬鹿馬鹿しいッたらなかった。そのうちに、私は不思議なものを発見した。それは一匹のぶたほどもある怪物が、私の方をじっと見て、いまにも飛びかかりそうににらんでいるのだ。

「なにものだろう!」

 私は首を傾けた。そんな動物がこの部屋に居るとは、一向思っていなかったのだ。

 しかしよく見ると、その怪物は大きなはねがあった。鏡のような眼があった。鉄骨のようなあしがあって、それに兵士の剣のような鋭い毛がところきらわず生えていた。私はそのときやっとのことで、その怪物の正体に気がついた。

「ああ、こいつは、私の先刻さっき殺した蠅の仔なのだ」

 仔蠅にしては、何という大きな巨獣きょじゅう(?)になったのであろうか。

 その恐ろしい仔蠅は、しずしずと私の方ににじりよってきた。眼玉が探照灯たんしょうとうのようにクルクルと廻転した。地鳴りのような怪音が、その翅のあたりから聞えてきた。蓮池はすいけのような口吻こうふんが、醜くゆがむと共に、異臭のある粘液がタラタラとれた。

「ぎゃーッ」

 私の頭の上から、そのムカムカする蓮池はすいけが逆さまになって降って来たのだ。私の横腹は、銃剣のような蠅のつめでプスリと刺しとおされた。

「ぎゃーッ。──」

 そこで私は何にも判らなくなってしまった。その仔蠅に食われたことだけ判っていた。不思議にも、何時いつまでも何時いつまでも記憶の中にハッキリ凍りついて残っていた。

底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房

   1991(平成3)年228日第1版第1刷発行

初出:「ぷろふいる」

   1934(昭和9)年2月号~9月号

入力:tatsuki

校正:花田泰治郎

2005年526日作成

青空文庫作成ファイル:

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