ゴールデン・バット事件
海野十三



     1



 あの夜更よふけ、どうしてあの寂しい裏街を歩いていたのかとかれると、私はすこし顔があかくなるのだ。

 かく、あれは省線の駅の近所まで出て、円タクを拾うつもりで歩いていたのだった。れが一人あった。帆村荘六ほむらそうろくなる男である。──例の素人しろうと探偵の帆村氏だった。

「君の好きらしい少女は、いつの間にやら居なくなったじゃないか」と帆村が云った。

「うむ──」

 私は丁度ちょうどそのとき、道を歩きながら、その少女のことを胸に描いていたところだったので、ハッとした。あの薔薇ばらつぼみのように愛らしい少女を、帆村に紹介かたがた引張りだした今夜の仕儀しぎだった。それはこの場末ばすえの町にある一軒のカフェの女だった。カフェの女とは云いながら、カフェとは似合わぬ姫君のようにろうたけた少女だった。

 そのカフェは、名前をゴールデン・バットという。入口に例のめすだかおすだか解らない二匹の蝙蝠こうもりが上下になって、ネオンサインで描き出してあった。一寸ちょっと見たところでは、薄汚いくありふれたカフェではあったが、私は何ということなく、最初に飛びこんだ夜から気に入ったのだった。それは一ヶ月も前のことだったろう。そのときは私一人だったのだが、その折のことはいずれ話さねばならぬから、のちゆずるとして置いて、さて──

「今夜はコンディションが悪かったよ」と私は、半分は照れかくしに云った。

「そうでも無いさ。大いに面白かった」

「それにもう一人、君に是非紹介したいと思っていた女も休んでいやがってネ」

「うん、うん、君江きみえ──という女だネ」

「そうだ、君江だ。こいつと来たら、およそチェリーとは逆数的ぎゃくすうてき人物でネ」

「チェリーというのかい、あのミツ豆みたいな子は……」

「ミツ豆? ミツ豆はどうかと思うナ」(あわれ吾が薔薇ばらつぼみよ)──

「え?」

「イヤの君江というのくらい、性能すぐれた女性はいないよ。その熱情といい、その魅力といい、更にその能力に於ては、世界一かも知れんぞ。生きているモナリザというのは、正にあの君江のことだ」

 と私は、暗がりをもっけのさいわいにして、自分でも歯の浮くような饒舌じょうぜつをふるった。

 あとは二人とも、なまりのように黙って、あの裏街の軒下のきしたを歩いていった。秋はこの場末にも既に深かった。夜の霧は、頸筋くびすじのあたりに忍びよって、ひいやりとした唇を置いていった。

(遠い路だ──)あおぐと、夜空を四角に切り抜いたようなツルマキ・アパートが、あたりの低いひさしをもった長家の上に超然とそびえていた。

 と、そのときだった。

「ギャーッ」

 たしかギャーッと耳の底に響いたのだが、頭の上に、ひどい悲鳴を聞きつけた。何というか極度の恐怖に襲われたものに違いない叫び声だった。男か女か、それさえ判断しかねるほど、人間ばなれのした声だった。

「ほッ、この家だッ」

 と帆村は大地に両足を踏んばり、洋杖ステッキをあげてアパートの三四階あたりを指した。ビールのまんをひいて顔をテラテラ光らせていたモダンボーイの帆村とはことなり、もうすっかりシェファードのように敏感びんかんな帆村探偵になりきっていた。

「どこから行く、道は?」私も咄嗟とっさにもう突っこんでゆく決心をした。

「裏口へ廻って呉れッ。いてたら、しっかりせにゃ駄目だぞ」

「君は?」

「表から飛びこむッ。急いで──」

 帆村が腰を一とひねりして、尻の隠袋かくしから拳銃を取出しながら、早や身体を玄関のドアにぶっつけてゆくのを見た。こっちも負けずに、狭い家と家との間に飛び込んだ。飛びこんだはいいが、溝板どぶいたがガタガタと鳴るのに面喰めんくらった。

 露地内ろじないの一つ角を曲ると、アパートの裏口に出た。頑丈な鉄棒つきの硝子扉ガラスドアはまっていた。そのハンドルに手をかけようとしたとき、なんだか前方の溝板の上をサッと飛び越えていった者があるように感じた。誰か壁の蔭に隠れていたような気がした。私は裏口の方は放って置いて、その影を追い駈けた。

 露地をつきぬけると、また細い路地がずッと長く三方に続いていた。私は素早く三つの道をかしてみたが、猫の子一匹、眼に入らなかった。

 気の迷いだったかしら、と私はアパートの裏口へ引返した。ハンドルに手帛ハンカチを被せてグッとひねると、ガチャリとはずれて扉は内部へ開いた。さてはと思って、充分警戒をしながら、すこしずつ滑りこんだ。ところが入ってみると、上の方で大きなものの暴れるガタンガタンとひどい音だ。うなるような吠えるような声がする──。そこへ突然私の名が呼ばれた。疳高かんだかいが、まぎれもなく帆村の声だった。

 私は階段を駈けあがった。それは三階の廊下だった。薄暗い廊下の真中に、帆村は一人の男を組み敷いたところだった。

 その頃、やっと部屋部屋の扉が開いて、中から人影が注意深く、こっちをのぞきだした。

「一体どうしたんです」

 そういって近づいたのは、このアパートの番人と名乗る五十がらみのえた男だった。寝衣ねまきの上に太い帯をしめ、向う鉢巻に、長い棒を持っていた。

「これは事件の部屋から逃げ出した男です」と帆村が落付いた口調にかえって云った。

「事件というと、──事件はどの部屋です」

「あすこですよ。ホラドアの開けっぱなしになっている……」

「犯人は此奴こいつですか」

「さア、まだ何とも云えないが、あの部屋から飛び出してきて、いきなり私に切ってかかったのでネ」

 と帆村は一振の薄刃うすばの短刀をポケットから出してみせた。

 怪漢は縛られたまま廊下に俯伏うつぶせになって転がっていたが、動こうともしない。その横をすりぬけて、私達は気懸きがかりの事件の部屋へ行ってみた。

「驚いちゃ、いけませんよ」帆村は一同に念を押しながら入口のスイッチをひねった。室内は急に明るくなった。一間ひとま通り越して奥まったところに八畳ほどの洋間があった。白いシーツの懸っている寝台があったが、こいつが少しねじれていた。が、ベッドの上は空っぽで、求める事件の主は、いま入った戸口に近い左側の隅っこに、大の字に伸びていた。若い長身の男だが、四角いあごが見えるばかりで、上の顔面は見えない。なんだか黒い布を被っているように見えたが、見るとそれが赤い血潮ちしおだった。残酷ざんこくに頭部をやられているのだ。右肩を自分の手でおさえているが、肩もやられているらしかった。見ていると、フワーッと脳貧血が起りそうになった。それほどむごたらしい傷口だった。

「おお、きんさん。可哀想かわいそうに……」と番人は声をふるわせた。「助かりますか」

「金さんというのかネ」と帆村は云った。「金さん、まだ脈が続いている。無論意識は無いがネ。至急医者だ、警察も急ぐが、それより前に医者だ」

「医者は何処が近いですか、爺さん」私は番人の腕をとった。

「医者はあります。ここを向うへ三町ほど行ったところに丘田さんというのがある」

「じゃ爺さん、ちょっと一走り頼む」

「わしは、どうも……」

 番人は尻込しりごみをした。その結果、どうしても私が行かねばならなくなった。医師のところへゆくとすれば、怪我人けがにんの様子をよく見て行って話をせねばならないと思ったので、私は無理に気をはげまして、血みどろの被害者の顔を改めて見直した。

「おお、これは……」

 と私はおどろきに逢って、とうとう声に出した。

「どうした、オイ。知り合いか」と帆村もおどろいて私の肩を叩いた。

「これあネ」私は彼の耳に口を寄せた。「これあ先刻さっき云ったゴールデン・バットの君江とややっこしい仲で評判の男さ」



     2



 私は医者を迎えるために、外へ飛びだした。丘田医師というのは、ゴールデン・バットの近くに診療所を持っていた。それだから私は、さっき帆村と一緒に通った道をもう一度逆に帰ってゆかねばならなかった。

 その道々、私の全神経は、今見た怪我人のことで占領されていた。

 きんと呼ばれるの男の顔を覚えたのは、忘れもしない私が最初バットの門をくぐったときのことだった。沢山客もあるなかで、なぜあの男のことをハッキリ印象づけられたか。そうそう思い出したが、まだもう一人、あのときに覚えた男がいた。その人のことを先に云うが、それは海員らしく、女たちにしている話が如何にも面白かったので記憶に残っている。あまり大きな人ではなかったが、にやけた男らしい男で、その上、どの海員たちもがそうであるように、非常に性的魅力といったようなものがあふれていて、女の子にはチヤホヤされそうに見えた。彼のしていた話というのは、むろん航海中の出来ごとについてだったが、中で一番私の注意を引いたものは、密輸入に関するものだった。船員の中には、陸上の悪漢団あっかんだんと、切っても切れぬくさえんのあるものがあって、いつも密輸を強制される。密輸といっても小さい船の中であるから、たびたび繰返しては見付かってしまう。だから、一つ又一つと苦心をして新手あらての方法を考えなければならない。最近ではエドガア・ポオもどきに、密輸入品を人目につかぬ所に隠す代りに、かえって人目ひとめくつきやすいところへ放り出して置くのが流行はやっていると、こんな話を面白可笑おかしく、この海原力三うなばらりきぞうという船員が話して聞かせた。

 さて例のきん青年と来ると、身体が大きいばかりで男前がよいというのでもなく、スポーツマンらしいあかぬけたところがあるのでもなく、どちらかと云えば男として美の要素の欠けた青年だった。とても海原力三などとは、恋の競争などは思いもよらぬ劣勢者れっせいしゃと思われた。それがあのカフェ・ゴールデン・バットの女にもてること大変なものだった。金が入って来ると、十人近い女は自分の持ち番の客の有る無しにかかわらず、ドッとわめいて一斉に彼に飛びついてゆくという騒ぎである。それがなんとも形容しがたいような嬌声きょうせいを張りあげて、あっちからも、こっちからも金の胸にぶら下るのだ。まるで一つのを目懸けて、沢山の緋鯉ひごい真鯉まごいがお互に押しのけながら飛びついてくるかのように。

 そのときに金はどんな顔をしているかというのに、一向嬉しそうにも楽しそうにも見えないのだから不思議である。ただ、隅っこの席へ行ってドカリと腰を下ろす。そこは彼のために、いつも取って置きの場所だった。そこで彼は悠々ゆうゆうと一本の煙草を取り出す。するとまた大騒ぎである。十人ばかりの女が誰一人のこらず、てんでに帯の間から燐寸マッチを出し、シュッと火をつける。まるで燐寸すり競争をやっているようなものだ。莫迦莫迦ばかばかしくて見ていられない。

「ばか、ばか、煙草が燃えてしまうじゃないか」

 そのとき金は、ほんのかすかにニコついて、煙草の火をつける。彼がフーッと煙を吹き出すと女どもは、身体を蛇のようにねじらせて、

「ねェ、ねェ」「ねえッたら、ねェ」

 と鼻声をあげる。そこで金は、懐中をさぐって、卓子テーブルの上へポーンと煙草のはこを投げだす。わーッというので、女どもはその函をひったくって(それは大抵たいてい、あの君江の手に入るのが例だ)、ひったくった女が、子供に菓子を分けるように、朋輩ほうばいどもの手に一本ずつ握らせてやる。貰った方では、その金青年お流れの煙草に、パッと火をつけてむさぼるように吸って、黄色い声をあげる。

 左様さよう豪勢ごうせいな(しかし不思議な)人気を背負しょっている金青年の心は一体誰の上にあったかというと、それは君江の上にあった。その君江なる女がまた愉快な女で、金の女房然にょうぼうぜんとしているかと思えば、身体に暇があると、誰彼なしに愛嬌あいきょうをふりまいたり、なさけを尽したりした。だから君江という女は、金とは又別な意味で、客たちの人気を博していた。

 しかしみつればくるの比喩ひゆれず、先頃から君江の相貌そうぼうがすこし変ってきた。金青年に喰ってかかるような狂態きょうたいさえ、人目についてきた。それでいて、結局最後に君江は金の機嫌を取り結ぶ──というよりも哀訴あいそすることになるのだった。

 これに反して金青年の機嫌は、前から見ると少しずつよくなって来たようであった。それは、これまで煙草を欲しがらなかったチェリーが、彼の訓練によって煙草を喫いはじめたからである。

「煙草って、仁丹じんたんみたいなものネ」

 とチェリーは云った。

「煙草は仁丹みたいなものは、よかったネ」

 と金は笑った。女達も釣りこまれてハアハア笑いだしたが、君江だけがどうしたものか、ツと席を立って調理部屋の方へ姿を消したっきり、いつまで経っても出てこなかった。

 ──そのようなカフェ・ゴールデン・バットの帝王の如き人気者が、見るもむごたらしい兇行きょうこうを受けたものだから、私は非常におどろきもしたし、一体誰にやられたのかと、普段から知っている誰彼の顔をあれやこれやと思いめぐらした。

 丘田医師の家は、すぐ判った。私の長話に大変時間が経過したような気がされることであろうが、アパートを出てからここまで、正味しょうみ四五分の時間だった。

 電鈴ベルを押すと、すぐに人が出て来たのは意外だった。迎えてくれたのは、三十四五の、涼しそうな髭を立てた、見るからにすこやかそうな和服姿の紳士だった。

「先生は?」

「イヤ、僕ですよ」

「あ、そうですか、実は……」

 と私は急病人の話をして、ひどい外傷がいしょうだから直ぐに来て呉れるように頼んだ。

うかがいましょう。直ぐお伴しますから、ちょっと待っていて下さい」

 丘田医師は顔を緊張させたようだったが、奥へ入った。

 奥へ入って仕度したくをしているのであろうが、直ぐという言葉とは違って、なかなか出て来なかった。私はすこししゃくにさわりながら、この医師の生活ぶりを見てやるために、玄関の隅々をにらめまわした。

 そのときに、私の注意をいたものがあった。私も帆村張りに、これでも観察は相当鋭いつもりだ。とにかく第一に私は、そこに脱ぎすてられてあった真新しい男履きの下駄の歯に眼を止めた。桐の厚い真白の歯が、殆んど三分の二以下というものは、生々なまなましい泥で黒々と染まっていた。

 それからもう一つ、洋杖ステッキが立てかけてあったが、近くに眼をよせて仔細に観察してみると、象牙ぞうげでできているその石突いしづきのところが同じような生々しい泥で汚れていた。

 この夜更よふけ、丘田医師が直ぐ玄関へ飛び出して来たところといい、寝ぼけ眼をこすっていたわけでもなくえきった眼をしていたことといい、この下駄の泥、洋杖ステッキの泥は、丘田医師がどんなことをしていたかすこし見当がつくように思った。私は犬のように鼻をクンクン動かして、更に周囲に注意を払った。丘田医師のらしい男履きの下駄が並んでいるところは、セメントで固めた三和土たたきだった。それは白い色が浮き上るほど、よく乾燥していた。しかし私は、その男下駄の側方そくほうに、ほんの僅かではあるが、少し湿っぽい部分のあるのを発見した。私は前跼まえかがみになると、手のこうをかえしてこぶしの先で三和土の上をあちこち触れてみた。手の甲というものは、冷熱の感覚がたいへん鋭敏である。医師が打診をするときの調子で、そこらあたりをおさえてまわった揚句あげく、とうとう私は或る物の形を探しあてた。それはなんと、一対のかかとの高い婦人靴の形だった。靴から押して、足の寸法は二十二センチ位と思われた。

 婦人靴の恰好に、三和土の上が湿りを帯びていながら、そこに婦人靴が見当らないということはどういうことを意味するのだろう。と考えたとき、奥の間で何だか女のすすり泣くような声がと声た声したような気がした。ハッとして思わず前身を曲げて聞き耳を立てたところへ、手間どった丘田医師が洋服に着換えてヌッと出てきたので、これには私も周章あわてた。

「どうかしましたか」と丘田医師は不機嫌に云った。

「イヤ、誰方どなたか患者さんがおありじゃないですか」

「有りませんよ。お手伝いが歯を痛がっているのです」

 そういう声は変にこわばっていて、嘘を云っているのだということを証明しているものだった。

 私達は外へ出たが、そのときは話題が、例の重傷を負うた金青年の上に移っていた。丘田医師の話では、金青年を知ってもいるし、診察もしたことがあると云っていたが、何病なにびょうであるか、それは云わなかった。そして、私の熱心な問いに、時々トンチンカンな返事をしながら、しきりに足を早めるのだった。



     3



 折角せっかく駆けつけて呉れた丘田医師だったけれど、重傷のきん青年は、私が出掛けると間もなく事切れたそうであった。

 帆村の案内で、金の屍体のところまで行った医師は、叮嚀ていねいに死者へ敬礼をすると、懐中電灯を出して、傷の部分を診察した。

「これは何か鈍器どんきでやられたもののようですネ。余程重い鈍器ですナ、頭の方よりも、左肩が随分ひどくやられていますよ。骨がボロボロに砕けています」

「そうでしょう」と帆村はこたえてから、指を側へ向けた。「そこに凶器がありますよ」

「どれです」医師は目をあげた。

「ほら、これですよ」と帆村は二三歩あるいて、床の上にころがっている一つの大きいまりのようなものを指した。「外側は御覧のとおり毛糸で編んであります。しかしこれは単なる袋ですよ。中身は鉄の砲丸です、あの競技に使うのと同じですが、非常に重いです。こっちから御覧になると、血の附いているのが見えますよ」

 帆村は横の方から凶器の一部を指し示した。

「これは頭部からの出血が染ったのですナ」と医師は云った。

「そうらしいですネ。ときに丘田さん。この死者の致命傷は、やはりこの外傷によるものでしょうか」

「無論それに違いがありませんが、何か御意見でも……」

「意見というほどのものではありませんが、この死者の身体を見ますと、普通の人には見られない特異性があるように思うんです。例えば、中毒症といったようなものがです」

「そうです、そうです」医師はしきりに同感の意を表して云った。

「そう仰有おっしゃれば申上げてしまいますが、実はこの金さんはモルヒネざいの中毒患者ですよ」

「ほほう、貴方のところへ、治療を求めに参りましたか」

「そうなんです。実はこの四五日このかたですがネ」

「今日も御覧になりましたか」

「今朝ましたよ。大分ひどいのです。普通人の極量きょくりょうの四倍ぐらいやらないと利かないのですからネ」

「四倍ですか、成程。──」

 帆村はケースから一本の巻煙草を引張りだすと、カチリとライターで火をつけた。そしてそれっきり黙りこくって、ただ無闇に紫の煙を吹いた。それは彼がなにか大いに考えるべきものに突き当ったときの習慣だった。

 そのとき、大通りの方から、けたたましい自動車の警笛けいてきが入り乱れて聞えてきた。それはアパートの前まで来ると、どうやら停った様子だった。間もなく階段をのぼるドヤドヤという物音がして、この事件を聞きつたえた警視庁の係官や判検事の一行が到着したのだった。

「やあー」

「やあ、先程はおしらせを……」

 大江山捜査課長は、この事件を帆村から報せてもらったことに礼を述べた。

「ときにどうです、被害者の容態は」

「間もなく絶命ぜつめいしましたよ。とうとう一言も口を利きませんでした。……午前零時三十五分でしたがネ」

「ほほう、そうですか。これが金という男ですか。やあ、これはひどい」

現場げんじょうはすべて事件直後のとおりにしてありますから」

「いや有難う」

 係官たちは、現場がすこしも荒されずに保存されたことについて、帆村に感謝したのだった。帆村は私をうながして、別室へ移った。これは係官の調べを済ます間、邪魔をしないためだった。

 同じような部屋割りの隣室りんしつだった、椅子もないので、私達はベッドの上に腰を下した。ここにしばらくの時間があるが、この間に帆村とうまく連絡を取っておかねばならない。

「どうだ、犯人は何かしゃべったかい」

 と、帆村がホープに火をけるのを待って尋ねてみた。

「いや君、あの男はまだ犯人とは決っていないよ」

「だってあの男は、事件の室から出て来たのだろう。そして薄刃うすばの短刀をもって君に切り懸ったのじゃないか」

「うん、だがあの短刀にはまだ一滴の血もついていないのだ」

「すると、あの袋入の砲丸でやっつけたのだろう。あの大きな男にはやれそうな手段じゃないか」

「それもまだ解らない」

「君はあの男に、まだそれをいてみないのかい」

「うん、あの男とはことも口を利いていないんだ」

 犯人と思われるあの男に、まだ一言半句の訊問じんもんもしてないという帆村の言葉に、私は驚いてしまった。

「じゃ今まで君は、一体何をしていたのかネ」

「金の部屋について調べていたのだ」

「そして何をつかんだのかい」

「いろいろと面白いものを掴んだ。しかし短刀をもった男を犯人と決めるに十分な証拠はまだ集まらない」

「というと、どんなものを」

 帆村はみこんだ煙を、喉の奥でコロコロまわしているようだったが、やがて細い煙の糸にして静かに口から吐きだした。それは彼が何かがたい謎を発見し、解く前の楽しさに酔っているような場合に限って、必ずやって見せる一つの芸当げいとうだった。

「あの部屋で面白いことを見つけたがネ」と帆村はボツボツ語りだした。「それはゴールデン・バットについてなのだ。君はあすこの床の上に、バットがバラバラこぼれているのに気がつかなかったかい」

「そういえば、五六本、ころがっているようだネ」

「五六本じゃないよ。本当は皆で三十二本もあるんだ。といってこれが、五十本も入るシガレット・ケースから転げ出したのじゃないのだよ。そんなケースなんて一つもあの部屋には無いのだ。あるのはバットの、あのお馴染なじみ空箱からばこだけだった。空箱の数はみんなで四個あったがネ」

「ほほう」

「それからもっと面白いことがある。あの部屋には灰皿が三つもあるんだが、さての灰皿の中に大変な特徴がある」

「というと……」

「灰皿の中に、燐寸マッチの軸と煙草の灰が入っているのに不思議はないが、もう一つ必ず有りそうでいてあの灰皿には見当らないものがあるのだ」と帆村は云ってちょっと口をつぐんだ。

「それは何かというと吸殻すいがらが一つも転っていないのだ。灰の分量から考えると、すくなくとも十五六個の吸殻すいがらがある筈と思うのだが、一個も見当らないのだ。これは大変面白いことだ」

 私には何のことだか見当がつかなかった。

「煙草について、まだ発見したことがある。それは床の上に転がっている三十二本のうち、汚れないのが二十五本で、残りの七本は踏みつけられたものと見え、ペチャンコになっていた。それを調べてみると、ハッキリ靴の裏型がついているから、これは靴で踏みつけられたものと見てよい。しかし靴は、普通ならばあの部屋の入口で脱いで上るようになっている。しかるにこの踏みつけられた七本のバットから考えると、誰か靴を入口で脱がないで、そのまま、上へ上った者がいたという説明になるわけだ」

「それが例の短刀をもった男じゃないのかネ」

「そうかも知れない。そうかも知れないが、何しろバットの上につけられた靴の跡のことだ。小さい面積のことだから、ハッキリどんな形の、どんな寸法の靴だとまでは云えないのだ」

「なるほど」

「そこで僕は、君に一つ質問があるが」と帆村はまた一本のホープに火を点けて云ったのである。「事件の最初、君がアパートの裏口へ廻ったときに、露地ろじに何か人影のようなものを見懸みかけたといったが、あれは男だったか、それとも女だったか、解らなかったかネ」

「さあ、どっちとも解らないネ」

「解らない。解らなければ、それでもいいとして、僕はあの部屋に事件の前後に居たものと思われるもう一人の人物を知っているのだ」

「それは誰のことだい」

「それは女である。しかも若い女である」と帆村は仰々ぎょうぎょうしく云った。

「どうしてそれが判ったのかい」

「それはベッドの上に枕があったが、探してみるとベッドの下にもう一つの枕が転げていて、これには婦人の毛髪がついていた。それだけではない。卓子テーブルの上に半開きになったコンパクトが発見された。白い粉がその卓子の上にこぼれていた。粉の形と、コンパクトをどけてみた跡の形とから、コンパクトの主があれを卓子の上に置いたのは、相当生々なまなましい時間の出来ごとだと推定される。──それでさっき僕のした質問の目的が解ったことだろうと思うが、或いは君が、その若い女を見かけやしなかったのかと考えたのだ」

「待ってくれ、そう云えば……」

 とそこで私は、丘田医師の家で、はらたちまぎれに観察した女靴の跡のことや、丘田医師のことについて報告した。

「もしや金の部屋に寝ていたらしい若い女というのは、丘田氏のところにあった靴跡の女ではないのかネ」

「それは独断どくだんすぎると思うネ。しかし丘田氏のところにいた女が、洋装をしていることが判ったのはいいことだ」

「しかし君の云う隣りの室に寝ていた若い女は、直接犯行に関係があるのかい」

「そこに実は迷っている」と帆村は煙草をスパスパ性急せいきゅうに吸った。「その女が犯人らしいところもあると思う。そいつは踏みつけられたゴールデン・バットから考える。女はあのベッドの上に、金と寝ていた位だ。だから靴は脱いでいたものと思う。僕には意味が解らないが、状況から云って女は兇行後、あのバットを箱から出していたのだ。だから注意をしてバットを踏まずに外に出ることができた。そのあとで短刀をもった男が闖入ちんにゅうしたが、バットがこぼれていることには気付かないもんだから、踏みつけてしまったものと考えられる」

「しかしそれは、あの短刀の男が、箱から出したとしても理屈がつくじゃないか」

「それは別に構わない。あの男は元々怪しいふしがあるのだから、煙草の上の嫌疑が加わっても捜索には大して困らないのだ。なぜかといえば、あの砲丸を金の肩に投げつけるだけの力は、あの男には十分にあると認められるし、それからまた現にあの部屋から出てきたのを見られている。しかし犯人が若い女の方だとすると、煙草は可也かなり重要な証拠になると思う。金が目醒めざめている間には、あんなに煙草を撒き散すことは出来ない。男は相当抵抗の末重傷を加えられたと認められるから、そうなるとバットが踏みつけられることなしに満足に転がっている筈がない。そうかと云って男がベッドに睡っている間にあの煙草を撒いたのでもない。それは男がベッドから遠く離れたところで重傷しているので解る。ベッド以外に男が睡っていられるところなんてあるものじゃない。どうしてもあの煙草は、男に兇行を加えた上で撒いたものに違いないとなるじゃないか。もう一つ砲丸をげることは、どの若い女にも出来るという絶対の芸当ではないのだ。それとも君は、脆弱かよわい女性にあの砲丸を相手の肩へげつけることが出来る場合を想像できるかネ」

「さあそれは、まず出来ないと思うネ。その女が気が変にでもなって、馬鹿力というのを出すのでも無ければネ」

「気が変に? 気が変だとすれば、あの場をあんなにたくみに逃げられるだろうか」

「ないこともないぞ」と私は負けるのがいやであるから叫んだ。「こういう場合だ、気が変になった女が、金に重傷を負わした。途端になおったとすると……」

「もうそう。はッはッはッ」と、帆村はあきがおに笑い出した。

「帆村君、ちょっと来て下さらんか」

 室の外から、大江山捜査課長の呼ぶ声がした。どうやら隣りの調べもかたがついたものらしかった。



     4



 きん青年殺害事件は案外呆気あっけなく処理されてしまった。官辺かんぺんでは、帆村が捕縛ほばくした例の男を犯人として判定してしまった。

 ここに意外だったことは、あの犯人という男が、海原力三うなばらりきぞうその人だったことだ。私もあの後、係官の前へ彼が引張りだされたとき初めてそれと気が付いておどろいてしまったわけだった。

 海原力三は最初のうちは猛烈に頑張がんばって、犯人でないと云い張った。しかし後に至って遂に係官の指摘したとおり、一切の犯行を認めたということであった。

 犯行の動機は、カフェ・ゴールデン・バットで金のために女を奪われたことを極度に憤慨ふんがいしたためだった。彼のいだいていった薄刃うすばの短刀に血をちぬらず、あの重い砲丸を投げつけて目的を達したことは、のちに捕縛されたとしても、短刀をまだ使っていないという点で、犯行を否定するつもりだったという。それを最初から指摘したところの検事は、大変鼻を高くしていた。

 かくて事件は表面的には解決したが、私としてはお察しのとおり、いろいろの疑問が不可解のまま解決されていないので、大いに不満だった。

 そして思いは帆村の場合も同じであった。その帆村は、海原力三の自白後、随分しばらくやって来なかったが、そうそう、あれは一ヶ月ほどもった後のことだったろうか、莫迦ばかにいい機嫌で私のもとへ訪ねてきた。

「オイ何処へ行ってたのか」

 と私は帆村のひげったあとの青々とした顔を見上げて云った。

「うん、東京にいるのがいやになって、旅に出ていた。実は神戸こうべの辺をブラブラしていたというわけさ。あっちの方は六甲ろっこうといい、有馬ありまといい、舞子まいこ明石あかしといい、全くいいところだネ」

「ほう、そうか。じゃ誘ってくれりゃいいものをサ」

「ところがブラブラしていたとはいいながら、波止場仲仕はとばなかしをやっていたんだぜ」

「波止場仲仕を、か?」

 私は直ぐ帆村の意図いとが呑みこめた。彼は例の事件について、外国汽船の出入はげしい港で何事かを調べていたというわけなのだろう。

「ときに君は、近頃ゴールデン・バットへ行っているかい」

「行ってはいるがネ」

「行ってはいるがネというところでは、あまり成功していないようだネ。あすこも金だの海原氏が一時に行かなくなって、寂しくなったことだろう」

「その代り大した後任者が詰めかけているよ」

「そりゃ誰のことだい」

「君には解っているのだろう。あの丘田医師のことさ」

「そうか。丘田氏が行っているか。相手はどの女だい」

「それが例のチェリーなんだ。チェリーはこの頃、断然だんぜんナンバー・ワンだよ。君江も居るには居るが昔日せきじつおもかげしさ。しかし温和おとなしくなった。温和しいといえば、あの事件からこっち、不思議に誰も彼もが温和しくなったぞ。あれから思うと金という男は、悪魔のようなところのある素晴らしい天才だったんだナ」

「煙草の方は相変らず皆でやっているかい」

「煙草というと……」と私はあまり唐突とうとつなので直ぐには気がつかなかった。「ああ煙草のことかい。それならカフェ・ゴールデン・バットのことだ。看板どおりのものを忠実に愛用しているさ。うまい宣伝手段もあったもんだネ。そういえば近来、女ども、バットをてんでにケースに入れていてネ、それを揃いも揃ってパイプにはさんでプカプカふかすのだ。他にはちょっと見られない風景だネ」

「ふーん、なるほど」そこで帆村は言葉を切って、彼の好きなホープを矢鱈やたらにふかし始めた。

「じゃ一つ──」とやがて彼は立ち上って云った。「今晩は久しぶりにバットへ一緒に連れていって貰うとして、その前に君にちょっと附き合ってもらいたいところがあるんだが」

 そこで私は帆村について家を出掛けたのだった。

「最初はここだよ」

 と彼は云って、バットの近所にある野間薬局の店先みせさきにずかずか入っていった。

「ちょっと劇薬売買簿げきやくばいばいぼを見せて貰いたいのですがネ。ここに本庁からの命令書がありますが……」

 そういって帆村は店先に腰を下した。顔の青白い主人が奥から出てきて、こっちを向いて叮嚀ていねいに挨拶をすると、薬瓶の沢山並んだ部屋から、大きな帳簿をもって来た。帆村がそれを開いたのを見ると、こまか罫線けいせんが沢山引いてあって、そこに細い数字が書き込んであった。

 そこで彼は、丘田医師の欄を拡げて、古い日附のところから、その細い売買数量を丹念に別紙へ筆写しはじめた。

 外へ出ると、帆村はどんどん先に歩いて丘田医師の玄関に立った。案内を乞うと、太ったお手伝いさんが出て来たが、丘田氏は幸い在宅ざいたくとのことだった。私は何ヶ月振りかに、その応接室に通った。

「いや中々結構な住居すまいだネ」と帆村は大いにきょうがった。そこへ丘田医師があらわれた。

「やあは──」と帆村は馴々なれなれしく挨拶あいさつをした後で直ぐ云った。「今日は本庁の臨時雇りんじやといというところでして、ちょっと先生のところの劇薬の在庫数量を拝見に参りましたが」

「なに劇薬の在庫数量ですか。それは又珍らしい検査ですネ」そういう丘田医師の態度には、すこしの狼狽ろうばいのあともなかった。「じゃ向うの調剤室までお出でを願いましょうか」

 帆村は私をうながして診察室を出た。調剤室はすこし離れた玄関脇にあった。その中へ入ると、プーンと痛そうなくすりの匂いが鼻をうった。三方の高い壁には、十四五段もありそうな棚がかさなっていて、それに大小とりどりの薬壜が、いろいろのレッテルをつけてギッシリ並んでいた。

 劇薬は一隅いちぐうもうけられた戸棚の中に厳重に保管されてあった。丘田医師は鍵を外して、ガラガラとそのドアを開くと、黒いレッテルや赤いレッテルの貼ってある小形の壜が、気味のわるい圧力を私達の上になげつけた。

 帆村は隅から一つずつ、その小さい壜を下すと、蓋のあるものは蓋をとり、中身を小さいさじの上にすくいとってみたり、天秤てんびんの上に白紙を置いてその上に壜の内容全部をとりだしてはかったり、また封の切ってないものは封緘ふうかんを綿密に検べたり、なかなか念の入ったしらかただった。始めは感心していたものの、私はだんだんきてきた。その退屈さからのがれるために、何か面白いものでもないかと調剤室の中をズッと見廻した。

 しかし別にこれぞということなった品物も見当らなかった。唯一つ、背の低い私にはちょっと手の届きかねる高い棚の上に、直径が七八センチもあろうと思われる大きい銀玉ぎんだまが載っていた、その銀玉は、黒縮緬くろちりめんらしい厚い座布団ざぶとんを敷いてにぶい光を放っていた。どうやら煙草の錫箔すずはくを丹念にめて、それを丸めて作りあげたものらしかった。いくら煙草ずきの人でも、これだけの大きさの銀玉を作るには少くとも三四年はかかるだろうと思われた。

 私はあとで丘田医師にたずねてみようと思って、なおもその銀玉を見つめていたのであるが、そのとき妙なものに気がついた。それは銀玉の上から三分の二ぐらいのところに、横に一本細い線が入っていることだった。よくよく見るとそれは線というよりも切れ目のように思われた。

(オヤオヤ、この銀玉はインチキかな)

 そう思って私は手をのばしかけたとき、いきなり私の洋服をグッと引張ったものがある。はッと思って見廻わすと、引張ったのは、まぎれもなく帆村だった。丘田医師は、脚立きゃたつの上にあがって、毒劇薬の壜をセッセと下していて、それは余りに遠方に居たから、私の洋服を引張ったのは帆村の外には無い。

 ──とにかく私は気がついて、銀玉を見ることをめてしまった。

「もう、その辺でいいですよ」帆村は丘田医師に声をかけた。

「もういいですか」

「そこで鳥渡ちょっとお尋ねいたしますが」といって帆村は鉛筆で数字を書き入れていた紙片を取上げて丘田氏に云った。「パントポンの現在高が、すこし合いませんネ」

 パントポンというのはモルヒネ剤であるが精製した上等のものだった。

「そんなことは無いでしょう。よく調べて下さい」

「いや確かに合いませんよ。警察の方に報告されている野間薬局売りの数量と合わんですよ」

「そりゃ変ですネ。少いということは無いはずなんですがネ」丘田医師の眼は自信あり気に光っていた。

「そうです。少くはないのです。少いのはまだ始末がいいと思うんですが、現在高が非常に多すぎる……」

「多すぎるのは、いいじゃないですか」

「困るんですよ」と帆村はパントポンの壜に一眄いちべつを送りながら云った。「なにか他のモルヒネ剤で間に合わしたために、パントポンの数量が残っているのじゃありませんか。例えばヘロインとか……」

「ヘロインですって、ヘロインみたいな粗悪なやつは私のところでは使っていませんよ」

「ではこのままにして置きましょう。もう外に無いでしょうネ」

「ありませんとも」そういった丘田医師の顔は、心持ちあおかった。

「では一つ、投薬簿とうやくぼの方を見せて下さいませんか」

「投薬簿ですか。そうです、あれは向うの室にあるから取ってきましょう」

 そういって丘田医師は立った、帆村は私にいてゆくようにと、目で合図をした。

 丘田医師は不機嫌に診察室へ飛びこんだ。そしてチェッと舌打したうちをしたが、そのとき後からついていった私がドアに当ってガタリと音を立てたものだから、彼は吃驚びっくりして私の方を振りかえった。その面は、明かに不安の色が濃く浮んでいた。

 投薬簿は直ぐ見付かった。調薬室へ引返してみると、帆村は前とはすこしも違わぬ位置で、また別の劇薬の目方を測っていた。

「さアこれが投薬簿です。──」

 帆村は帳面をとりあげると、念入りに一ページ一頁と見ていった。丘田医師は次第に苛々いらいらしている様子だった。そのうちに帆村は、投薬簿をパタリと閉じた。

「どうも有難うございました」

「もういいのですか」

「ええ、もう用は済みました。この位で引揚げさしていただきましょう」

 帆村はうしろを向いて、そこにあった大理石の手洗に手を差出して、水道の栓をひねった。冷たそうな水がジャーッと帆村の手に懸った。



     5



 外へ出ると、もう街はとっぷり暮れていた。こころよい微風が、どこからともなく追駈けてきて、あごのあたりをくすぐるように撫でていった。

 私たちは橋の上に来た。その橋を渡れば、すぐカフェ・ゴールデンバットの入口があった。

 このとき帆村は、ツカツカと橋の欄干らんかんの方へ近づいていった。そこで彼はポケットを探っているようであったが、キャラメルのはこ二つ位の大きさの白い紙包みをとり出した。どうするのかと見ていると、ッという間もなく、その紙包みは帆村の手を離れて、川の水面に落ちていった。帆村はパタパタと両方のてのひらを打ち合わせて、なにかをしきりに払っていた。

 その夜のカフェ・ゴールデン・バットはよいの口だというのに、もう大入満員だった。私達はやっと片隅に小さい卓子テーブルを見付けることが出来た。

「ああら、いらっしゃい」

 そういって通りすぎたのは、チェリーだった。カクテルの盃を高くささげて、急ぎ足に通りすぎた。背後うしろから眺めるとワン・ピースが、はちきれそうにひきしまって、彼女の肉体があらわにいて見えそうだった。

「ありゃチェリーさんだネ」

「うん」

「暫く見ない間に、大変肉づきが発達したじゃないか。まるで別人のようだ」

「そうだネ」私は或ることを思い浮かべて、胸の締めつけられるのを覚えた。

「まあ、いらっしゃいませ」そこへ君江がやって来た。「先刻さっきはどうも……」

 君江が帆村にそういって挨拶をした。オヤオヤと思って私は帆村の顔を見た。

「む──」帆村は白っぱくれて、ホープの煙幕えんまくの蔭に隠れていた。

 注文をきいて、君江が向うへゆくのを待ちかねて私は口を切った。

「今のはどういう訳なんだ、『先刻はどうも』というのは」

 帆村はニヤリと笑って、灰皿に短くなったホープを突きこんだ。

「君は覚えているだろう」と彼は声をとして云った。「あのきんという惨死ざんし青年が或る中毒にかかっていたことを」

「ひどいモルヒネ中毒だというんだろう」

「そうだ。屍体解剖の結果、それは十分に証明されたが、しかしあのモルヒネ中毒は彼の直接死因でないことが証明された」

 帆村は、そこで又一本のホープをつまみあげた。

「ところが、あの金が如何なる手段でモヒを用いていたか、それについては一向解らなかったのだ。僕はそれを解くのに大分苦心をして、とうとう神戸へ出掛けるようなことになったのだ。しかし僕はついにその手段を見つけることが出来た。発見のヒントは、金の部屋を探したときにつかんだものだった。それは灰皿の内容物からだった」

「うむ」

「あのとき、君も知っているだろうが、灰皿の中には、燐寸マッチの燃え屑と、煙草の灰ばかりがあって、煙草の吸殻が一つも見当らなかったことを。あれが最初のヒントなのだ。およそ吸殻すいがらのない吸い方をするということは、普通の吸い方ではない。それは愛煙家のうちでも、最も特異な吸い方なのだ。火のついた巻煙草がだんだんと短くなってお仕舞いになるとやにくさくなる。これは決して美味おいしいところではない。それを大事に最後まで吸いつくすところに、僕は疑問をはさんだのだ。──そこで僕は、或る一つの仮定を置いた。仮定を置いただけでは十分ではない。僕はその仮定を確めるために、神戸の波止場はとば仲仕なかしを働きながら、不思議な秘密の楽しみをもっている人達の中を探しまわったのだ。そして遂に私の仮定が、或る程度まで正鵠せいこくを射ていることを確めた。しかしその上で、なお実際的証人を得る必要があったのだ。それで僕は急遽きゅうきょ東京へ引返した。そして第一番に逢って話をしたのがあの君江なのだ」

 帆村はそこでまたホープをうまそうにった。

「君江というと、彼女は金の情婦じょうふとして有名だった時代がある。私は一本くぎをさして置いた上でたずねてみた。『君はあのうまい煙草の作り方を、死んだ金から教わったのだろう』と」

「なに、うまい煙草というと?」

「そうなのだ。うまい煙草のことをかれて彼女はハッと顔色をかえたが、もう仕方がないのだ。先にさして置いた私の釘は、どうしても彼女の告白を期待していいことになっていたのだ。『ええ、そうですわ』とついに君江は答えた。そこで私は云った。『煙草にあの白い粉薬こなぐすりを載せて火をける。それでいいのだろう』君江は黙ってうなずいた」

「そりゃ、どういうわけだい」

「なーに、これはあの劇薬げきやくを煙草にませて喫う方法なのだよ。鴉片あへん中毒者はモヒ剤だけを吸うが、われわれの場合は、ほんの僅かのモヒ剤を煙草にぜて吸うのだよ」

「その方法は?」

「それはくわしく云うことをはばかるがネ、とにかくその薬の入った巻煙草──あの場合ではゴールデン・バットだが、そのバットの切口きりぐちのところは、一度火をけて直ぐ消したようになっているのだ。金のやつは、こうした仕掛けのある煙草を吸っていた」

「そりゃ、うまいのだろうか」

「モルヒネ剤特有の蠱惑こわくにみちた快味かいみがあるというわけさ。ところが金という男は頭がよかったと見えて、それを自分だけに止めず、ゴールデン・バットの女たちにひそかに喫わせたのだ。女たちは、真逆まさかそんな仕掛けのある煙草とは知らず、つい喫ってしまったが、大変いい気持になれた。それでうかうか何本も貰って喫っているうちに、とうとうモヒ中毒にかかってしまった。さアそうなると、今度はどうしてもまなければ苦しくてならない。仕舞しまいには、あの仕掛けのある煙草のことを感づいたのだろうが、そのときはどうにもならないところへ達していた。女たちは金に殺到さっとうして、そのゴールデン・バットを強要した。金としては思うつぼだったろう。バット一本の懸け引きで、気に入った女たちを自由に奔弄ほんろうしていったのだ」

「そうだったか──」私は深い嘆息たんそくと共に、あの死んだ金が素晴らしくもてていた其の頃の情景をハッキリ思い出した。

「これは君江から、すっかりいてしまったことなのだよ。君江が一時、狂暴になったことがあったネ。あれは金が寵愛ちょうあいをチェリーに移し始めた頃だったんだ。君江はそれを愚図愚図ぐずぐず云ったものだから、金はおこって、それじゃお前には今までのように薬をやらないぞといって、薬の制限で君江を黙らせようとしたのだ。君江は他の女よりすこし分量を多く貰っていた。それは金が彼女を強烈に興奮させて置いて、自分の慾情をそそろうとしたためだった。ところがその分量を減らされたために、君江はああして金に喰ってかかったのだ」

「ああ、するともしや……」と私は口に出しかけたが、気をかえて、「一体あのモヒ剤はどこから金が手に入れていたのかい」

「それが問題だったが、これも神戸で調べあげた。あれは某方面から密輸入をしたヘロインだったんだ。金はそれを手に入れたときに、あの用い方も一緒に教わったものらしい」

「では、相当貯蔵していたんだネ。でも金の部屋から、そんなものが出て来た話を聞かなかったじゃないか」

「そうだ。そこに面白い問題があるんだよ」と帆村はいかにも愉快そうに微笑ほほえんだ。「いまにだんだん判ってくるから」

 そこへ君江がビールをはこんできた。

「どうも済みません。今夜は御覧のとおりの大入おおいりで、うまく廻らないんですよ。まあどうでしょう。こんなに忙しいことは、このゴールデン・バットが出来て初めてのことなのよ」そういって君江は、白い指を顳顬こめかみにあてた。

「君たちのサービスが良すぎるせいだろう」と帆村は揶揄からかった。

「どうですか──」と、君江はビール壜をとりあげて、帆村の洋盃コップに白い泡をぎこんだ。

 丁度ちょうどそのとき、入口に置いた棕櫚しゅろの葉蔭から、一人の男がこっちをのぞいたように思った。チラと見たばかりで誰とも最初は思い出せなかったが、そのうち君江のところへ来た初顔の女が、

「オーさんよ」

 と小さい声で云ったのが聞えた。それで丘田医師が、このゴールデン・バットへりこんで来たことに気がついた。



     6



 どうしたというものか、それからは毎晩のように帆村が私のところへやってきた。やってきては、毎晩はんこで押したように、私を誘ってゴールデン・バットへ出掛けた。

 そんなことが、およそ一週間も続いたのちのことだった。その晩も帆村と私とは、ゴールデン・バットのボックスに身体をめていた。その日はいつもとは違い、カフェの中にはなんとなく変な空気がただよっていることに気がついたが、しかしその夜のうちに、あの愛慾の大殿堂だいでんどうゴールデン・バットがピタリと大戸を閉じてしまうなどとは夢にも気がつかなかった。実にこれが有名なる「ゴールデン・バット事件」の当夜とうやなのだった。

「どうも解らないことがあるのだがネ」と神ならぬ私は呑気のんきな口調で帆村に呼びかけていた。「君の話では、金という男は、ここの女たちに、劇薬をみこませた煙草を与えてモルヒネ中毒者にしていたということだが、金が死んでしまった今日こんにちも、彼女たちは別に中毒者らしい顔もしないで平気でいるのは、ちょっと訳が解らないネ」

「なるほど。それでどうだというのだ」

「どうだといって、彼女たちは金からモルヒネ剤の供給を断たれたわけだから、大なり小なり、中毒症状をあらわして狂暴になったり、痙攣けいれんが起ったりする筈だと思うんだ。ところが案外みんな平気なのはどういうわけだろうか」

「いや、君の探偵眼も近頃大いに発達してきたのに敬服する」と帆村は真面目な顔付になっていった。「しかしその回答は、まだ僕の口からは出来ないのだ。まあ、もう少し待っていたまえ」

 そこへ珍らしく私達の番のチェリーが、洋酒の盃をもって来た。彼女は黙々もくもくとして、ウイスキーを私達の前に並べたが、

「あの、ちょっと、顔を貸して下さらない」と私に言った。

「えッ」

「ちょっと話があるのよオ」

 私は顔があかくなった。私の眼の前には、チェリーの真白なムチムチ肥えたあらわな二の腕が、それ自身一つの生物せいぶつのように蠢動しゅんどうしていた。

「いいから、行ってこいよ」帆村は云った。

「じゃ、ちょっと──」

 私は心臓をはずませて、席を立った。彼女のなやましい体臭たいしゅうの影にぴったりとついて行くと、チェリーは楽手がくしゅのいないピアノの側へつれていった。

「用て、なんだい」私はいた。

「解ってるでしょう──」そういうチェリーの顔には、何となく険悪けんあくな気がみなぎっているのを発見した。

「あんた、早く返さないと悪いわよ」

 彼女は私の思いがけないことを云った。

「早く返せ。な、なにをだい?」

「白っぱくれるなんて、男らしくないわよ」

「なッなんだって?」

「こうなりゃハッキリ云ったげるわよ。──あんたせんに丘田さんのところで、盗んでいったものがあるでしょう」

「なにを云うんだ」私はおどろきといかりとで思わず大声になった。

「ほら、やましいから、赤くなったじゃないの。悪いことは云わないから、これからぐ帰って、あの薬をあたしンところへ持っていらっしゃい。いいこと。あたしから丘田さんにうまくあやまって置いてあげますからネ」

 薬といわれて、私はすこし気がついた。

「よし、考えとくよ」

「考えとくじゃないわよ。早くしないと困るのよ」

「まアいいよ。すこし考えさせろよ」

「あんたお金のことを云っているのネ。すこし位のお金なら、あたしからあげてもいいわ」

莫迦ばかなことを……」

 そういって私は席に戻った。帆村はホープの煙を濛々もうもうと立ち昇らせながら、眼をクルクルさせていた。

「どうした」

 そこで私は思いがけないチェリーの云いがかりについて、彼に報告した。そのあとに私はつけたして云った。

「薬を盗んだというが、それなら君に云いそうなものじゃないか」

「うん。そりゃ君のことさ。だから僕があのとき袖を引いて注意をしてやったじゃないか」

 そこで私は、帆村が袖を引張ったことを思いだした。そうだ、あのとき私は、銀玉に見惚みとれていた。横に細いみぞのある銀玉だった。ああ、そうすると……あの銀玉に薬が入っていたのだ。

 その瞬間だった。バラバラと私達の卓子テーブルに飛びついて来た人間があった。

「やい泥棒」いきなり卓子越テーブルごしに顔をつきだしたの男は、なんと丘田医師だったのである。丘田医師には違いないが、日頃の彼の温良なる風貌はなく、髪は逆立ち、顔面は蒼白そうはくとなり、眼は血走り、ヌッとつき出した細い腕はワナワナとふるえていた。

「さあ返せ、返せといったら返さないか」私は腰をあげた。

「畜生、黙っているのは、返さない心算つもりだな。よオし、殺しちまうぞ」

 そう呶鳴どなると丘田医師はたちまち身をひるがえして、そば棕櫚しゅろ鉢植はちうえに手をかけた。彼の細腕は、五十キロもあろうと思われるその重い鉢植を軽々ともちあげて、頭上にふりかぶろうという気勢を示した。

「危い。逃げろッ」

 と帆村が私の腕を引張った。私はパッと身をかわすと、夢中になって駆けだした。なんだか背後うしろで、ガーンという物のこわれる物凄い音を聞いたが、多分それは丘田医師の手を放れた鉢植が粉々にくだった音だろうと思う。

     *   *   *

 帆村と私とは、やっと流し円タクを拾ってその中に転げこんだ。

「いやどうもおどろいた──」私はまだふるえが停らなかった。

「あれでいいんだ」と帆村は呑気のんきなことを云った。「あれで筋書どおりにはこんだわけだ」

「筋書って、君はあのような場面を予期していたのかネ」と私はあきれて問いかえした。

「そうなんだが、あんなにうまくゆくとは思っていなかった。ここで一つ君に頭を下げて置かねばならぬことがあるが……」と彼はちょっとことばを切って「君がいつかきん青年の殺人犯人のことで、『犯人は気が変だ。それが馬鹿力を出して金を殺し、その直後に正気しょうきに立ちかえって逃走した』というような意味のことを云ったが、あれに対して僕は男らしく頭を下げるよ」

「というと……」

「あの丘田医師の大変な力のことを云っているのだ。気が変になったればこそ、あのような力が出る」

「すると金青年に重い砲丸をげつけて重傷を負わせたのは、丘田医師だったのかい」

「もうすこしすれば、誰が犯人か、自然にわかはずだよ」

 真犯人のことを知ったのは、それから三日のちのことだった。ゴールデン・バットのチェリー──それが真犯人だった。

 これは一部の人に大変奇異きいな思いをいだかせた。何故ならば、どうしてチェリーのように脆弱かよわい女性が、あの重い砲丸を金青年の肩の上にげつけることが出来たろうかという疑問が第一。それから彼女に真逆まさか金を殺すだけの十分な動機が見つかりそうもないという疑問がその第二だった。

 しかしそれは、彼女達の告白によって、すべてがあきらかになった。私は今、彼女達という複数の言葉を使ったが、あのゴールデン・バットの女たちは、あの晩の騒ぎをキッカケとして、去っていったのだった。彼女たちは、洋酒を盆の上に載せる代りに、みんなが白いベッドの上に載せられていた。それは某内科の病室に収容せられた風景だった。

 チェリーはベッドの上から、切れ切れに一切を予審判事よしんはんじに告白した。

 金が重傷をうけたあの頃は、チェリーが君江よりも一歩進んだ、金の寵愛ちょうあいを得ているときだった。金は前にも云ったように、魔薬まやくの入った煙草でもって女たちを自由にしていた。その資本は、金が秘蔵していた一袋のヘロインというモルヒネ剤だった。

 ところがこの大切な資本が、或る日金の部屋から見えなくなったのだ。それは大事件だった。命に関する出来ごとだった。彼は気が変になったように部屋の中を探したが、どうしても出て来なかった。そのうちにだんだんと中毒症状が出てきたので彼はかねてかかりつけの丘田医師をよんで、投薬とうやくを頼んだ。それから以来というものは、一日に何回となく丘田医師のもとに哀訴あいそを繰りかえさねばならなかった。ただしかし中毒者のことであるから、服薬したあとの数時間は、普通とことならぬ爽快な気分で暮らすことが出来た。

 しかしここに困ったことが出来た。それは金がかね魔薬まやく入りのゴールデン・バットをバラいていた女たちに与えるものがなくなったことだった。女たちの中でも、一番おそろしい苦悩におそわれたものは、実にチェリーだった。チェリーはその頃、金の寵愛ちょうあいを集めていただけに、服薬量が大変多量にのぼっていた。だからチェリーは金を訪ねて、ヘロインをせびったのだった。

 しかし金にとって、もういくらもたくわえのないヘロイン入りのゴールデン・バットだった。ひとに与えれば、忽ち自分が地獄のような苦悶に転げまわらねばならない。だから最愛の情人であるチェリーの切なるいではあったが、バットを与えることを断然だんぜんこばんだわけだった。

 チェリーは拒絶きょぜつされると、もう我慢しきれなくなった。どうしてもあの薬を手に入れなければならなかった。暴力に訴えても、たとえ殺人をしても……。彼女は全く気が変になって、あの重い砲丸を頭上に持ち上げた。金はこの思いがけない危険に室内を逃げ廻っているうちに、とうとうチェリーのために鉄の砲丸をげつけられてしまった。そしてあのような悲惨な最期さいごげたのだった。

 さてそれから、チェリーは室内をいまわって、魔薬まやくの入った煙草を探した。ついに煙草の隠匿いんとく場所がわかって、八本の特製のゴールデン・バットを手に入れた。彼女はそこでむさぼるように、あの煙草を喫ったのだった。喫っているうちに、次第に薬の効目ききめはあらわれた、彼女は平衡へいこうな心を取りかえしたのだった。彼女がソッと現場げんじょうを逃げだしたのは、それからだった。──(海原力三うなばらりきぞうが殺人の目的で忍びこんだときは、既に金が重傷を負っていたのちのことだった)

 チェリーは外へ逃げだしたが、そこで深夜の街を歩いていた丘田医師につかまったのだった。掴るというよりも、むしろ助けられたといった方が当っていた。丘田はチェリーのただならぬ様子からそれと察して、幸い独身者の気楽な自分の家へ連れてかえったのだ。その後、二人の仲が如何に発展したか、それは云うまでもないことである。

 ところで金のところにあったヘロインの袋は一体誰が盗んだのか。これはいまだに明瞭めいりょうではないのであるが、帆村の説によると、既に金のところへ度々呼ばれて行った丘田医師が、金のすきをみて秘かに奪いとったものではなかろうかと云っている。あの種の中毒患者にはそんな隙などはザラにあることに違いなかった。

 丘田医師は、盗みとった魔薬を悪用し、金と同じ手を用いて、カフェ・ゴールデンバットに君臨くんりんしたのだった。幸い医者だった彼は、その後の中毒女たちに投薬することに非常にたくみだった。だから女たちは、中毒者のようには見えなかったのだ。しかし最後に来て、運命の悪戯いたずらというか、天罰というか、丘田医師が魔薬を失い、遂に彼自身は金と同じように気が変になり、女たちも薬をたれて、一勢に中毒者としてその筋に発見されるに至ったのだった。中でもチェリーの中毒症状は殆んど致命的ちめいてきだと診断をくだされた。しかし一体誰が、丘田医師のところからヘロインを盗み出したのだ。丘田医師はかねてヘロインを手にしてからというものは、パントポンの代りに、この粗製品を使って世間を胡魔化ごまかしていたことは、帆村の調査によって証拠だてられたところだ。──実をいうと、帆村はこのことについて何も云わないのであるが、丘田医師のところへしらべに行った夜、ゴールデン・バットのそばの橋の上から、なにか白い紙包を川中に投じたが、あれが丘田医師のところにあったヘロインではあるまいかと、私は考えている。あの高い棚の上にあった銀玉ぎんだまはきっと真中から二つに割れるボンボン入れのようなものであったろう。

 海原力三うなばらりきぞうは無罪となり、放免された。

 しかし丘田医師は、あの夜から、どこへ逃げたものか、行方不明である。──しかし後日談を云うと、あれから三ヶ月ほどして、帆村は大阪の天王寺てんのうじのガード下に、彼らしい姿を発見したという。しかし顔色はいたく憔悴しょうすいし、声をかけてもしばらくは判らなかったという。丘田医師は、今もさる病院の一室で、根気こんきのよい治療を続けているという。流石さすがは医師である彼のことだと、医局では感心しているそうだ。だが元々医師であって、モルヒネ劇薬の中毒が恐ろしいことはよく判っている筈なのに、どうして彼がモヒ中毒におちいったのか。これはまことに興味ある疑問である。

 そのことについては、吾が友人帆村荘六も大いに知りたがっていたところだが、或る時とうの丘田医師から聞きだしたといって、ひそかに話してくれた。うそまことかは知らぬけれども、「……丘田氏は、自分でモヒを用いた覚えのないのに、中毒症状を自分の身体の上に発見したそうだ。注射もせず、喫いも呑みもせぬのにどうして中毒が起ったか。その答は、たった一つある。いわく、粘膜ねんまくという剽軽者ひょうきんものさ」

 そういわれた瞬間、私の眼底がんていには、どういうものか、あのムチムチとした蠱惑こわくにみちたチェリーの肢体したいが、ありありと浮び上ったことだった。

底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房

   1991(平成3)年228日第1版第1刷発行

初出:「新青年」

   1933(昭和8)年10月号

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:花田泰治郎

2005年526日作成

青空文庫作成ファイル:

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