空襲葬送曲
海野十三



   父の誕生日に瓦斯ガスマスクの贈物



「やあ、くたびれた、くたびれた」家中いえじゅうひびきわたるような大声をあげて、大旦那の長造ちょうぞうが帰って来た。

「おかえりなさいまし」お内儀かみのおつまは、夫の手から、印鑑いんかん書付かきつけの入った小さい折鞄おりかばんをうけとると、仏壇ぶつだんの前へ載せ、それから着換きがえの羽織を衣桁いこうから取って、長造の背後からフワリと着せてやった。「すこし時間がおかかりなすったようね」

「ウン。──」長造は、言おうか言うまいかと、鳥渡ちょっと考えたのち「こう世間が不景気でしなびちゃっちゃあ、何もかもおしまいだナ」

「また、いい日が廻ってきますよ、あなた」お妻は、夫の商談がうまく行かなかったらしいのを察して、なぐさがおに云った。

「……」長造は、無言で長火鉢ながひばちの前に胡座あぐらをかいた「おや、ミツ坊が来ているらしいね」

 小さい毛糸の靴下が、伸した手にひっかかった──白梅しらうめの入った莨入たばこいれの代りに。

「いま、かアちゃんと、おぶうに入ってます。一時間ほど前に、黄一郎きいちろうと三人連れでやって来ました」

「ほう、そうか、この片っぽの靴下、持ってってやれ。喜代子きよこに、よく云ってナ、春の風邪かぜは、赤ン坊の生命いのち取りだてえことを」

「それが、あの児、両足をピンピン跳ねて直ぐ脱いでしまうのでね、あなた今度見て御覧なさい、そりゃ太い足ですよ、胴中どうなかと同じ位に太いんです」

莫迦ばか云いなさんな、胴中と足とが、同じ位の太さだなんて」

「お祖父じいさんは、見ないから嘘だと思いなさるんですよ。どれ持ってってやりましょう」

 お妻は、てのひらの上に、片っぽの短い靴下を、ブッとふくらませてせた。それがお妻には、まるでおもちゃの軍艦の形に見えた。

「おい、あのなには……」と長造はお妻を呼び止めた。

弦三げんぞうはもう帰っているかい」

「弦三は、アノまだですが、今朝よく云っときましたから、もう直ぐ帰ってくるに違いありませんよ」

「あいつ近頃、ちと帰りが遅すぎるぜ、お妻。もうそろそろ危い年頃だ」

「いえ、会社の仕事が忙しいって、云ってましたよ」

「会社の仕事が? なーに、どうだか判ったもんじゃないよ、この不景気にゴム工場こうばだって同じ『ふ』の字さ。素六そろくなんざ、お前が散々さんざん甘やかせていなさるようだが、今の中学生時代からしっかりしつけをして置かねえと、あとで後悔こうかいするよ」

「まア、今日はお小言こごとデーなのね、おじいさん。ちとほかのことでも言いなすったらどう? 貴郎あなたの五十回目のお誕生日じゃありませんか」

「五十回目じゃないよ、四十九回目だよ」

「五十回目ですよ。おじいさん、五十になるとお年齢とし忘れですか、ホホホホ」

「てめえの頭脳あたまの悪いのをたなにあげて笑ってやがる。いいかいおぎゃあと、生れた日にはお誕生祝はしないじゃないか、だから、五十から引く一で、四十九回さ」

「なるほど、そう云えば……」

「そう云わなくても四十九回、始終しじゅう苦界くがいさ。そこでこの機会に於て、遺言ゆいごん代りに、子沢山の子供の上を案じてやってるんだあナ」

「まあ、およしなさいよ、遺言なんて、縁起えんぎでもない、鶴亀鶴亀つるかめつるかめ

「お前は実によく産んだね、オイばあさん。ちょいと六人だ。六人と云やあ半打はんダースだ。これがモルモットだって六匹函の中へ入れてみろ、騒ぎだぜ」

「やあ、お父さん、お帰りなさい」長男の黄一郎きいちろうが入ってきた。

「モルモットをどうするとかてえのは、一体なんです」

 長造とお妻とが顔を見合わせて、ぷッと吹きだした。

「お父さんは、お前たちのことをモルモットだって云ってなさるよ。よくお前は六匹も生んだねえ、なんて」お妻はおどけてしかけるように云った。

「私達がモルモットなら、お父さんは親モルモットになりますね、ミツ坊は孫モルモットで……」

「そうそう、ミツ坊に、この靴下を持ってってやらなきゃあ。おじいさんは、靴下を早く持って行けと云っときながら、あたしのことをつかまえてモルモットの話なんだからねえ」

 お妻は、いい機嫌で室を出て行った。

「お父さん、今日はお芽出めでとう御座ございます」

「うん、ありがとう」

「きょうは、店を頼んで、三人一緒に、早く出てきました」

「おお、そうかい」

「久しぶりに、モルモットが皆集まってにぎやかに、御馳走になります」

「うん、──」

 長造は何か別のことを考えている様子だった。黄一郎には、直ぐそれが判ったのだった。

「もっとも清二はいませんけれど……彼奴あいつなにか便たよりを寄越よこしましたか」

 清二せいじは、黄一郎の直ぐの弟だった。その下が、ゴム工場へ勤めている弦三げんぞうで今年が徴兵ちょうへい適齢てきれい。その下に、みどりと紅子べにこという姉妹があって、すえ素六そろくは、やっと十五歳の中学三年生だった。

「清二のやつ、一週間ほど前に珍らしく横須賀軍港よこすかぐんこうから、手紙なんぞよこしやがった」

「ほう、そりゃ感心だな。どうです、元気はいいようでしたか」

「別に心配はないようだ。今度、演習えんしゅうに出かけると云った。ばあさんには、なんだか、軍艦のついた帛紗ふくさをよこし、皆で喰えと云って、いかりせんべいの、でかい缶を送って来たので驚いたよ。いずれ後で出してくるだろう」

「そりゃいよいよ感心ですね」

「うちのばあさんは、これは清二にしちゃ変だと云ってなみだぐむし、みどりはみどりで、どうも気味がわるくて喰べられないというしサ、わしゃ、呶鳴どなりつけてやった。折角せっかく買ってよこしたのに喜んでもやらねえと云ってナ」

「なるほど、多少変ですかね」

もっとも、紅子と素六とは、せい兄さんも話せるようになった、だがこれは日頃の罪滅つみほろぼしの心算つもりなんだろう、なんてらずぐちを叩きながら、盛んにポリポリやってたようだ」

「清二は乱暴なところがあるが、根はやさしい男ですよ」

「そうかな、お前もそう思うかい。だが潜水艦乗りを志願するようなところは、無茶じゃないかい。後で聞くと、飛行機乗りと潜水艦乗りとは、お嫁の来手きてがない両大関りょうおおぜきで、このごろは飛行機乗りは安全だという評判で大分いいそうだが、潜水艦のほうは、ますます悪いという話だよ」

「それほどでも無いでしょう。ことに清二の乗っているのは、潜水艦の中でも最新式の伊号いごう一〇一というやつで、太平洋を二回往復ができるそうだから、心配はいりませんよ」

「だが、水の中に潜っていることは、同じだろう。危いことも同じだよ」

 そこへ廊下をバタバタ駈けてくる跫音あしおとが聞こえてきた。ヒョックリ真ンまるい顔を出したのは中学生の素六だった。

「お父様も、兄ちゃんも、あっちへ来て下さいって、御膳おぜんができたからサ」

「そうか、じゃお父様、参りましょう」黄一郎は、腰を起して、父親をうながした。

「うン、──よっこらしょい」と長造は煙管きせるをポンと一つ、長火鉢のかどで叩くと、立ち上った。「今日は下町をぐるッと廻って大変だったよ。品物が動かんね、お前の方の店はどうだい」

「駄目ですね。新宿が近いのですが、よくありませんね。むし甲府こうふ方面へ出ます。この鼻緒商売はなおしょうばいも、不景気知らずの昔とは、大分違って来たようですね」

「第一、このへんに問屋が多すぎるよ」

 長造はあご左右さゆうにしゃくって、表通に鼻緒問屋はなおどんやの多いのを指摘してきした。この浅草の大河端おおかわばたの一角を占める花川戸はなかわどは、古くから下駄げたの鼻緒と爪革つまかわの手工業を以て、日本全国に知られていた。ことに、東京好みのいきな鼻緒は断然だんぜんこの花川戸でできるものに限られていた。鼻緒の下請負したうけおいは、同じ区内の今戸いまどとか橋場はしばあたりの隣町となりまちの、おびただしい家庭工場で、しんを固めたり、麻縄あさなわを通したり、その上から色彩さまざまのさやになった鼻緒をかぶせたり、それが出来ると、真中から二つに折って前鼻緒まえばなおめ、それを百本ずつ集めて、前鼻緒をたばね、垂れ下った毛のような麻をとるために、火をつけて鳥渡ちょっと焼く──そうしたものを、問屋に持ちこむのだった。問屋には、数人の職人が居て、品物をけたり、特別のものを作ったりして、その上に商標しょうひょうのついた帯をつけ、重いたばを天井に一杯釣り上げ、別に箱におさめて積みあげるのだった。地方からの買出かいだし人が来ると、商談をまとめ、大きい木の箱にめて、秋葉原あきはばら駅、汐留しおどめ駅、飯田町いいだまち駅、浅草あさくさ駅などへそれぞれ送って貨車に積み、広く日本全国へ発送するのだった。長造は昔ながらの花川戸に、老舗しにせを張っていた。長男の黄一郎は、思う仔細しさいがあって、東京一の盛り場と云われる新宿を、すこし郊外に行ったところに店を作っていたのだった。そこには妻君さいくんの喜代子と、二人の間にできたミツ子という赤ン坊との三人のほかに三人の雇人がいた。今日は本家ほんけの大旦那長造の誕生日であるから、店を頼んで、浅草へ出て来たのだった。

「さア、おじいちゃま、今晩は、お辞儀じぎなさいよ、ミツ子」

 お湯から出て来て、廊下で挨拶あいさつをしているらしい喜代子の声がした。

「やあ、ミツ坊、よく来たね。はッは」長造が大きな声であやしているらしかった。「お湯が熱かったのかい、林檎りんごのようなッぺたをしているね。どれどれ、おじいちゃんが抱っこしてやろう。さあ、おいで、アッパッパ」

「やあ、笑った、笑った」赤ン坊の珍らしい素六が、横からはやてた。

 今夜は、客間をつかって、大きなお膳を中央に並べ、お内儀かみのお妻と姉娘のみどりが腕をふるった御馳走が、所も狭いほど並べられてあった。

 長造が席につくと、神棚かみだなにパッと灯明とうみょうがついて、皆が「お芽出めでとうございます」「お父さん、お芽出とう」と、四方から声が懸った。

 長造は、盃をあげながら、いい機嫌で一座をすっと見廻わした。

「全く一年毎に、お前たちは大きくなるね、孫も出来るし、これで清二が居て──あいつはまだ帰ってこないね」と、弦三の姿のないのに鳥渡ちょっと眉をひそめたが、直ぐ元のよい機嫌に直って、

げんも並ぶとしたら、この卓子テーブルじゃもう狭いね、来年はミツ坊も坐って、おととを喰るだろうし、なア坊や、こりゃ卓子テーブルのでかいのをあつらえなくちゃいけねえ」

「この室が、第一せもうござんすねえ」お妻も夫の眼のあとについて、しげしげ一座を見廻わしながら云った。

「来年は、隣りの間も、ぶちぬいて使うんですね」黄一郎が相槌あいづちをうった。

「それじゃ、宴会みたいになるね」長造は、癖で指先で丸いあごをグルグル撫でまわしながら云った。

「お父さん、こんな家よしちまって、郊外に大きい分離派ぶんりはかなんかの文化住宅を、お建てなさいよウ」紅子べにこが、ボッブの頭を振り振り云った。

「洋館だね、いいなア、僕の部屋もこしらえてくれるといいなア」素六は、もう文化住宅が出来上ったような気になって、喜んだ。

 ミツ坊までが、若いお母アちゃんの膝の上で、ロボットのようにピンピン跳ねだした。

贅沢ぜいたくを云いなさんな」長造は微苦笑びくしょうして、末ッ子達をおさえた。

「お父様は、お前達を大きくするので、一杯一杯だよ。皆が、もすこししっかりして、心配の種をかないで呉れると、もっと働けて、そんなお金がたまるかもしれない。これ御覧、お父様の頭なんざ、こんなに毛が薄くなった」

 父親が見せた頭のてっぺんは、成る程、毛が薄くなって、アルコールの廻りかけているらしい地頭じがしらが、赤くテラテラと、透いて見えた。

「お父さん、そりゃ、お酒のせいですよ」黄一郎がおかしそうに口を出した。

「ほんとにね」お妻が同意して云った。「あなた、この頃、ちと晩酌ばんしゃくが過ぎますよ」

莫迦ばかッ。折角せっかく訓辞くんじが、効目ききめなしに、なっちまったじゃないか!」口のところへ持ってゆきかけたさかずきを途中で停めて、長造は破顔はがんした。

「はッはッは」

「ふ、ふ、ふ」

「ほッほッほ」

 それに釣りこまれて、一座は花畑はなばたけのように笑いころげた。

 どよめきが、やっとしずまりかけたとき、

「それにしても、弦三は大変遅いじゃないか。昨夜は、まだ早かった。この間のように、十二時過ぎて帰ってくる心算つもりなんじゃ無いかなあ」と、長造が云った。

「お母アさん工場こうばへ電話をかけたらどうです」黄一郎が云った。

「それもそうだが、弦の居るところは、夜分やぶんは電話がきかないらしいんだよ」

「なーに、彼奴あいつ清二の二の舞いをやりかかってるんだよ。うちの子供は、不良性を帯びるか、さもなければ、皆気が弱い」

 父親はウッカリ、平常思っていることを、さらしたのだった。今日は云うのじゃなかった、と気のついたときは既に遅かった。一座は急に白けかかった。紅子は、断髪頭だんぱつあたまを、ビューンと一振りふると、卓子テーブルの前から腰をあげようとした。

「唯今──」

 詰襟服つめえりふくの弦三が、のっそり這入はいってきた。なんだか、新聞紙で包んだ大きなものを、小脇にかかえていた。

「まあ大分ひまがかかったのね。さァ、こっちへお坐り。お父様がお待ちかねだよ」母親がかばうようにして、弦三の席に刺身醤油さしみしょうゆの小皿などを寄せてやった。

「──」弦三は無言のまま、席についた。

「弦おじちゃん、大変でしたね」あによめ喜代子きよこも、お妻について弦三をかばった。「さあ、ミツ子、おじちゃん、おかえんなさいを、するのですよ」

 ミツ子は母の膝の上で、ふとった首を、弦三の方にかしげ、怪訝けげんな面持でのぞきこんだ。

「弦三、お前の帰りが遅いので、お母アさんが心配してるぞ」父親は、呶鳴どなりたいのを我慢して、やっと、そう云った。

「弦ちゃん、明日の晩でも、うちへ来ないか、すこし手伝ってもらいたいものもあるんだが……」黄一郎が、兄らしい心配をして、引きよせて意見をしようという心らしかった。

「このごろ、ずっといそがしいんですよ、兄さん」弦三は、はっきりことわった。

「なにが、そんなに忙しいんだい」父親が、痛いところへさわられたようにわめいた。

「工場が忙がしいんです」

「工場が忙がしい? お前の仲間にいたら、一向いっこう忙しくないって云ってたぜ」

「お父さん、僕だけ、忙しいことをやっているんですよ」

「あなた、もういいじゃありませんか、お誕生日ですから、ほかの事を仰有おっしゃいよ」母親が危険とみて口を出した。

「うん、大丈夫だよ」父親はいて笑顔をつくった。セメントのように硬い笑顔わらいがおだった。

「今夜は遅くなったとは思ったんですが、今夜中に仕上げて、お父さんのお誕生祝にあげようと思って、ホラこれ! これをあげますよ」そう云って弦三は、新聞紙包みを、父親の方へヌッと差出した。

「なに、誕生祝だって」長造はすっかり面喰めんくらってしまった。

「それを呉れるというのかい。ほほう」

「まア、きたないわ」と紅子べにこわめいた。「お膳の下から出すものよ。夜店よみせでバナナを買ってきたんでしょう」

「なに、バナナか?」父親は手を引込めた。

「バナナじゃありませんよ、僕が工場でこしらえてきたんですよ」

「僕知ってらあ。きっとゴム靴だよ。もうせん、僕に拵えてくれたねえ、げん兄さん」

「ゴム靴だって?」父親は顔をこわばらせた「鼻緒屋はなおやせがれが、ゴム靴を作る時代になったか」

「黙って開けてごらんなさい、お父さんは、きっと驚くでしょうよ」

 新聞紙の包みは、あによめの手から隣へ廻って、父親の膝の上へ順おくりに送られた。

 長造が、新聞紙をバリバリあける手許てもとに、一座のひとみあつまった。二重三重ふたえみえの包み紙の下から、やっと引出されたのは、ゴムと金具かなぐとで出来たおめんのようなものだった。

「こりゃ、お前が造ったのかい、一体、これは何だい」父親はきつねに鼻をつままれたような顔を弦三の方に向けた。

「それは、瓦斯ガスマスクですよ。毒瓦斯けに使うマスクなんです」

「瓦斯マスク! ほほう、えらいものをこしらえたものだね。近頃、こんな玩具がんぐ流行はやりだしたってえ訳かい」

玩具おもちゃじゃありませんよ、本物です。お父さん使って下さい。顔にあてるのはこうするのです」

 一座が呆然ぼうぜんとしているうちに、弦三は大得意で立ちあがった。

「いや、もう沢山、もう沢山」長造は、そのお面みたいなものを、弦三が本気でかぶせそうな様子を見てとって、尻込しりごみしたのだった。「わしはもういいから、素六にでも呉れてやれ、あいつ、野球のマスクが欲しいってねだっていたようだから丁度いい」

「野球のマスクと違いますよ、お父さん」弦三は躍起やっきになって抗弁こうべんしたのだった。「いまに日本が外国と戦争するようになるとこの瓦斯ガスマスクが、是非必要になるんです。東京市なんか、敵国の爆撃機が飛んできて、たった五トンの爆弾をおとせば、それでもう、大震災のときのような焼土しょうどになるんです。そのとき敵の飛行機は、きっと毒瓦斯を投げつけてゆきます。この瓦斯マスクの無い人は、非常に危険です。お父さんは、家で一番大事な人だから第一番に、これを作ってあげたんですよ」

「うん、そのこころざしは有難い」と長造は一つペコンと頭を下げたが、それは申訳もうしわけに過ぎないようだった。「だが、この東京市に敵国の飛行機なんて、飛んで来やしないよ。心配しなさんな」

「そんなことありませんよ。東京市位、空中襲撃をしやすいところは無いんですよ。僕は雑誌で読んだこともあるし、軍人さんの講話こうわも聴いた──」

「大丈夫だよ、お前」長造は、呑みこみがおに云った。「日本の陸軍にも海軍にも飛行機が、ドッサリあるよ。それに俺等わしら献納けんのうした愛国号も百台ほどあるしサ、そこへもってきて、日本の軍人は強いぞ、天子様てんしさまのいらっしゃるこの東京へなんぞ、一歩だって敵の飛行機を近付けるものか。お前なんぞ、知るまいが、軍備なんて巧く出来ているんだ」

「空の固めは出来てないんだって、その軍人さんが云いましたよ」

莫迦ばか、そんなことを大きな声で云うと、おまわりさんに叱られるぞ。お前なんか、そんな余計な心配なぞしないで、それよか工場がひけたら、ちと早く帰って来て、お湯にでも入りなさい」

「弦ちゃん、お前は、こんなことで毎日帰りが遅かったのかい」黄一郎きいちろうが、横合よこあいから口を出した。

 弦三は、黙ってうなずいた。

「瓦斯マスクなんてゴムで作ってあるから永く置いてあると、ボロボロになって、いざというときに役に立たないんだぜ。どうせゴム商売でもうけようと云うんだったら、マスクよりも矢張やはりゴム靴の方がいいと思うね」

「儲けなんか、どうでもいいのです」弦三はうらめしそうに兄を見上げた。「いまに東京が空襲されたら大騒ぎになるから、市民いや日本国民のために、瓦斯マスクの研究が大事なんです」

「瓦斯マスクのことなんか、軍部にまかしといたら、いいじゃないか。それに此後このごは戦争なんて無くなってゆくのが、人間の考えとしたら自然だと思うよ。聯盟だって、もう大丈夫しっかりしているよ。聯盟直属の制裁軍隊せいさいぐんたいさえあるんだからね」

「戦争なんて、野蛮だわ」紅子が叫んだ。

「でも万一、外国の爆撃機がとんできたら、恐ろしいわねエ」

 と云ったのは姉娘のみどりだった。

「もう五年ほど前になりますけれど、上海シャンハイ事変の活動で、爆弾の跡を見ましたけれど、随分おそろしいものですねエ。あんなのが此辺このへんに落ちたら、どうでしょう」あによめの喜代子が、恐怖派に入った。

「きっと、爆弾の音を聞いただけで、気が遠くなっちまうでしょうよ。おお、そんなことのないように」みどりが、身体をふるわせて叫んだ。

「大丈夫、戦争なんて起こりゃせん」黄一郎が断乎だんことして言い放った。

「ほんとかい」今まで黙っていた母親が口を出した。「あたしゃ清二せいじの様子が、気になってしようがないのだよ」

せい兄さんはネ、お母さん」素六そろくが呼びかけた。「この前うちへ帰って来たとき、また近く戦争があるんだと云ってたよ」

「おや、清二がそう云ったかい。あの子は、演習に行くと云ってきたが、もしや……」

「お母さん、もう戦争なんて、ありませんよ。理窟りくつから云ったって、日本は戦争をしない方が勝ちです。それが世界の動きなんだから」

「戦争があると、商売は、ちと、ましになるんだがなァ。このままじゃ、商人はあがったりだ」

「なんだか、折角せっかくのお誕生日が、戦争座談会のようになっちまったね。さア私はお酒をおつもりにして、赤い御飯をよそって下さい」

 黄一郎が、盃を伏せて、茶碗を出した。

「じゃ、お汁をあげましょう」お妻はそう云って、姉娘の方に目くばせした。「みどり、ちょっと、お勝手でお汁のお鍋をあたためといで」

「はい」

 みどりは勝手に立った。

 ミツ坊は、いつの間にか、喜代子の胸に乳房をくわえたまま、スウスウと大きないびきをかいて睡っていた。

「可愛いいもんだな」長造が膳越ぜんごしに、お人形のような孫の寝顔をのぞきこんだ。

「今日は、皆の引張ひっぱだこになったから、疲れたんですよ。まあこの可愛いいアンヨは」

 お妻が、ミツ子の足首を軽く撫でながら、口の中にも入れたそうにした。

「ミツ坊が産れたんで、家の中は倍もにぎやかになったようだね」

 長造は上々の御機嫌で、また盃を口のあたりへ運ぶのだった。一家の誰の眼も、にこやかに耀かがやき、床の間に投げ入れた、八重桜やえざくらが重たげなつぼみを、静かに解いていた。まことになごやかな春のよいだった。

 そこへ絹ずれの音も高く、姉娘のみどりが飛びこんで来たのだった。

「大変ですよ、お父さま。ラジオが、今、臨時ニュースをやっていますって!」

「なに、臨時ニュースだって?」

背後うしろの受信機のスイッチを入れて下さい。また上海シャンハイ事変ですって!」

「また上海事変だって?」

 長造は、床の間に置いてある高声器こうせいきのプラグを入れた。ブーンと唸って、高声器に、電気がきた。

「では、もう一度、くりかえして申し上げます」高声器の中から、杉内アナウンサーの声が聞こえた。その声は、隠しきれない程、興奮のふるえを帯びていたのだった。

「本日午後五時半、上海市の共同租界そかい内で、我が滝本総領事たきもとそうりょうじが○国人の一団により、惨殺ざんさつされましたお話であります。

 兼ねて租界管理に関し、日○両国間に協議を開いて居りましたが、我が滝本総領事は、常に正々堂々の論陣を張って、○国の暴論を圧迫していましたところ、其の新規約も八分通り片がついた今日になって、会議から帰途きとについた総領事の自動車が、議場の門から二百メートルほど行ったところで物蔭にひそんでいた○国人約十名よりなる一団に襲撃され、軽機関銃を窓越しに乱射され、総領事は全身蜂の巣のように弾丸を打ちこまれ、あけまって即死し、同乗して居りました工藤書記長、小柳秘書及び相沢運転手の三人も同様即死いたしました。兇行の目的は、協議妨害きょうぎぼうがいにあることはあきらかであります。以上。

 次は居留邦人きょりゅうほうじん激昂げっこうのお話。

 この報至るや、居留邦人は非常に激昴しまして、其の場に於て、決死団を組織し、暴行団員が引上げたと思われる共同租界内のホテル・スーシーを包囲した揚句あげくついに窓硝子ガラスを破壊し、団員四名を射殺し、一名を捕虜といたしました。他は其場そのばより遁走とんそういたしました。これに対して○国人側も非常に怒り、復讐を誓って、唯今準備中であります。両国の外交問題は、俄然がぜん険悪けんあくとなりました。以上。

 なお追加ニュースがある筈でございますから、この次は、どうぞ八時三十分をお待ち下さいまし。JOAK」

 アナウンサーの声は、高声器のなかに消えた。一座は急にざわめき立った。

「えらいことになったね」黄一郎が真先まっさきわめいた。「これは鳥渡ちょっと解決しませんぜ」

「また戦争かい」母親が心配そうに云った。

「シナ相手の戦争は儲らんで困るね」父親が浮かぬ顔をした。

「まア、お父様は慾ばってんのねえ」と紅子が、わざとらしく眼をいた。

「○国てどこなの、兄さん」と素六が弦三の腕をゆすぶった。

「僕には解らないこともないが……」弦三は唇をゆがめて小さい弟に答えた。

「どうせ日本の相手はアメリカだよ」黄一郎が、ずばりと云った。

「お父さん、この瓦斯ガスマスクを、新しい意味で受取って下さい」

 弦三の顔は、緊張にはちきれそうだった。

「そんなに云うなら」

 と長造は、自分のお尻のそばに転っている不恰好な愛児の製作品をとりあげて云った。

「お父さんはお礼を云ってしまっとくよ」

 そのとき、戸外では、号外売りの、けたたましい呼声が鈴の音に交って、聞こえ始めた。そして、また別な号外売りがあとからあとへと、かわかわり、表通おもてどおりを流していった。

 晴やかな笑声につつまれていた一座は、急に沈黙の群像のように黙りこくって仕舞しまった。

 下田家の奥座敷には、先刻さっきとはまるで異った空気が流れこんだように思われた。誰もそれを口に出しては云わなかったが、一座の家族の背筋になにかこうヒヤリとするものが感ぜられるのだった。

 不吉ふきつ予感よかん……

 いて説明をつけると、それに近いものだった。



   我が潜水艦の行方

     ──遂に国交断絶こっこうだんぜつ──



 横須賀の軍港を出てから、もう二じゅんに近い日数が流れた。

 清二の乗組んだ潜水艦伊号いごう一〇一が、出航命令をうけ、僚艦りょうかんの一〇二及び一〇三と、直線隊形をとって、太平洋に乗出したのは正確に云えば四月三日のことだった。伊豆沖いずおきまで来たときに、三艦は、予定のとおり、隊形を解き、各艦は僚艦にそれぞれ別れの挨拶を取交わして、ここに、別々の行動をとることになった。

 いつもであると、訣別けつべつに際し、各艦は水平線上に浮かびあって、甲板上に整列し、答舷礼とうげんれいを以て、おたがい武運ぶうんと無事とを祈るのが例であった。しかし今回に限り三艦は、艦体を水面下に隠したまま、ただ、潜望鏡をチラチラと動かすにとどまり、水中通信機で、メッセージを交換し合ったばかりだった。

「何処へ行くのであろう」

 清二は推進機に近い電動機室で、界磁抵抗器かいじていこうきのハンドルを握りしめて、出航命令が出た以後の、におちないさまざまの事項について不審をうった。

「どうやら、いつもの演習ではないようだ」

 二等機関兵である清二には、何の事情も判っていなかった。彼は上官の命令を守るについて不服はなかったけれど、ことでもよいから、出動方面を教えてもらいたかった。水牛すいぎゅうのように大きな図体ずうたいをもった艦長の胸のなかを、一センチほど、りひらいてみたかった。

 舳手じくしゅのところへは、なにか頻々ひんぴんと、命令が下されているのがエンジンの響きの間から聞こえたが、んな種類の命令だか判らなかった。

 だが、間もなくジーゼル・エンジンがぴたりと停って、清二の居る電動機室が急に、せわしくなった。

「界磁抵抗開放用意!」

 伝声管パイプから、伝令の太い声が、聞こえた。

 清二は、開閉器の一つをグッと押し、抵抗器の丸いハンドルを握った。そしていつでも廻されるように両肘りょうひじを左右一杯に開いた。

「界磁抵抗開放用意よし!」

 真鍮しんちゅう喇叭ラッパ口の中に、思いきり呶鳴どなりこんだ。

「開放徐々に始め!」

 推進機に歯車結合ギーア・カップリングされた電動機の呻りは、次第に高くなって行った。艦体が、明かに、グッと下方に傾斜したのが判った。深度計の指針が静かに右方へ廻りだした。

「十メートル、十五メートル、……」

 深度計の指針は、それでもまだ、グッグッと同じ方向に傾いて行った。

 艦底の海水出入孔かいすいしゅつにゅうこうは、全開のまま、ドンドンと海水を艦内に呑みこんでいるらしかった。

 このままでは海底にドシンと衝突ぶつかるばかりだと思われた。清二は、界磁抵抗のハンドルを、全開の位置に保持したまま、早く元への命令が来ればよいがと、気をせらせたのだった。疑いもなく、唯今の状態は、全速力沈降ぜんそくりょくちんこうを続けているものであって、海岸を十キロメートルと出ていないところで、こんな操作をするのは、前代未聞ぜんだいみもんのことだった。

「どこかで吾が潜水艦の行動を監視している者があるのかも知れない」

 清二は不図ふと、そんなことを考えたのだった。

 それから後は、話にならないほどの、単調な日が続いた。

 昼間は、絶対に水上へ浮びあがらなかった。そのくせ、電動推進機には、いつも全速力がかかっていた。夜間になると、時々ポカリと水面に浮かんだが、それも極く短時間に限られていた。それはまるで乗組員を甲板に出して、深呼吸をさせるばかりが目的であるとしか思えなかった。だがその目的も充分には達せられなかったようだった。というのは、なにか見えるだろうと喜びいさんで甲板に出てみても、いつも周囲は真暗な洋上で、灯台の灯も見えなかった。或る晩は、銀砂ぎんさいたように星が出ていたし、また或る夜はボッボツと、冷い雨が頬の辺を打った、それが一番著しい変化だった。長大息しんこきゅうを一つすると、もう昇降口から、艦内へ呼び戻されるという次第だった。

 夜間の航行は、実に骨が折れた。艦長は、精密な時計と、水中聴音機すいちゅうちょうおんきとをにらみながら、或るときは全速力に走らせるかと思うと、また或るときは、急に推進機を全然停止させて、一時間も一時間半も、洋上や海底に、フラフラとただよっているというわけだった。

 こんなわけで、横須賀軍港以来、二旬にじゅんの日数が経った。

 そして或る日のこと、艦長は乗組員一同を集めて、驚くべき訓令くんれいを発した。

「本艦は、本日を以て、米国加州沿岸べいこくかしゅうえんがんに接近することができたのである」艦長の頬は生々いきいき紅潮こうちょうしていた。「本艦の任務は、僚艦一〇二及び一〇三と同じく、米国の大西洋艦隊が太平洋に廻航して、祖国襲撃に移ろうというその直前に、出来るだけ多大の損害を与えんとするものである。其の目標は、主として十六せきの戦艦及び八隻の航空母艦である」

 乗組員は、思わず「ッ」と声をあげかけて、やっとそれを呑みこんだ。

 艦長の訓令で、いままでの不審な事実は、殆んど氷解ひょうかいした。航路が複雑だったのは、米国の西部海岸に備えつけられた水中聴音機や其の辺を游戈ゆうよくしている監視船、さては太平洋航路を何喰わぬ顔で通っている堂々たる間諜船舶かんちょうせんぱくの眼と耳とを誤魔化ごまかすためだったのだ。昨夜見たあの暗い海は、すでに敵国の領海だったのであるかと、清二はそれを思い出して興奮せずには居られなかった。

 帝国海軍の潜水艦伊号一〇一は、この日から、加州沿岸を去る二十キロメートルの海底の、ねて、計画をしてあった屈竟くっきょうの隠れ場所に、ゴロンと横たわったまま、昼といわず夜といわず、睡眠病息者のように眠りつづけていた。しかし艦内の一角では、極超短波きょくちょうたんぱによる秘密無線電話機が、鋭敏な触角しょっかくを二十四時間、休みなしに働かせて、本国からの指令を、ひたすらあこがれていた。

 丁度その頃、東洋方面には、有史以来の険悪な空気が、渦を巻いていた。

 わが日本の上海駐在シャンハイちゅうざいの総領事惨殺事件と、そのあとに続いた在留邦人の復讐事件とは、ずお互の官憲の手によって鎮まった。だがそれは無論、表面だけのことであった。東京と、華府かふとの二ヶ所では、政府当局と相手国の全権大使とが、頻繁ひんぱんに往復した。外交文書には、次第に薄気味のわるい言葉がりこまれて行った。おたがいの国の名誉と権益けんえきのために、往復文書には、強い意識が盛られていった。

 その外交戦の直ぐ裏では、日米両国の戦備が、驚くべき速度と量と形とに於て、進められて行った。鉄工場には、官設といわず、民間会社と云わず、三千度の溶鉱炉が真赤に燃え、ニューマティック・ハンマーが灼鉄しゃくてつを叩き続け、旋盤せんばん叫喚きょうかんに似た音をたてて同じ形の軍器部分品をけずりあげて行った。

 東京の街角には、たった一日の間に、千本針ぼんばりの腹巻を通行の女人達にょにんたちに求める出征兵士の家族がむらがりでて、街の形を、変えてしまった。だが其の腹巻の多くは、間に合わなかったのだった。それは通行の女人達が、不熱心なわけでは無く、東京に属する師団の動員が、余りに速かったのである。

 或る者は、交番の前に、青物の車を置いたまま、印袢纏しるしばんてんで、営門えいもんをくぐった。また或る者は、手術のメスを看護婦の手に渡したまま、聯隊目懸めがけて、飛び出して行った。

 事態は、市民の思っている以上に切迫していた。品川駅頭しながわえきとうを出発して東海道を下っていった出征兵員一行の消息は、いつの間にか、全く不明になってしまった。

 其のあとについて、品川駅を通過してゆく東北地方の出征軍隊の乗った列車は一々数えきれなかった。夜間ばかりでは運搬しきれないものと見え、真昼間にも陸続りくぞくとしてくだって行った。東北地方の兵営が、からになるのではないかと、心配になるほどあとからあとへと、出征列車がりこんできたのだった。

 帝都の辻々に貼り出される号外のビラは、次第に大きさを加え、鮮血せんけつで描いたような○○が、二百万の市民を、ことごとく緊張の天頂てっぺんへ、さらいあげた。ラジオの高声器は臨時ニュースまた臨時ニュースで、早朝から真夜中まで、ワンワンとわめらしていた。

 そして遂に、其の日は来た。

 昭和十×年五月一日、日米の国交は断絶した。

 両国の大使館員は、駐在国の首都を退京した。

 同時に、おごそかな宣戦の詔勅しょうちょくが下った。

 東京市民は、血走った眼を、宣戦布告の号外の上に、幾度となく走らせた。彼等は、同じ文句を読みかえして行く度毎に、まるで別な新しい号外を読むような気がした。

「太平洋戦争だ!」

「いよいよ日米開戦だ!」

 宣戦布告があると、新聞やラジオのニュースの内容は一変したのだった。

米国べいこくの太平洋艦隊は、今や大西洋艦隊の廻航を待ちてこれに合せんとし、の主力艦は既に布哇ハワイパール湾に集結をりょうしたりとの報あり!」

布哇ハワイの日系米人、騒がず」

墨西哥メキシコの首都附近に、叛軍はんぐんせまる、一両日中に、クーデター起るものと予測さる」

えいふつ両国は中立を宣言す」

「注目すべきレニングラードの反政府運動」

「中華民国もず中立宣言か」

上海シャンハイに市街戦起る、○○師団、先ず火蓋を切る。米国空軍は杭州こうしゅう地方に集結」

 東京市民は、我が軍に関するニュースの少いのに不満であった、それは恐らく、全国民の不満であるに違いなかった。ことに、太平洋方面に戦機をうかがっている筈の、帝国海軍の行動について、一行のニュースもないのを物足りなく思った。

 どこからともなく、流言りゅうげんが伝わり出した。東京市民の顔には不安の色が、次第にありありと現われて来た。誰しも、同じような云いたいことを持っていたが、云い出すのが恐ろしくて、互に押黙っていた。

 国民の不安が、もうおさえきれない程、絶頂ぜっちょうにのぼりつめたと思われた其の日の夜、東京では、JOAKから、実に意外な臨時ニュースの放送があった。



   警戒管制けいかいかんせいず!



 JOAKのある愛宕山あたごやまは、東京の中心、丸の内を、僅かに南に寄ったところにった。それは山というほど高いものではない。下から石段を登ってゆくと、ザッと百段目ぐらいを数える頃、山頂さんちょうの愛宕神社の前に着くのだった。毬栗まりぐりを半分に切って、ソッと東京市の上に置いたような此の愛宕山のいただきはたいらかで、公園ベンチがあちこちに並び、そこからは、東京全市はもちろんのこと、お天気のよい日には肉眼ででも、房総半島ぼうそうはんとうがハッキリ見えた。「五分間十銭」の木札をぶらさげた貸し望遠鏡には、いつもなら東京見物の衆が、おかしな腰付でかじりついていた筈だった。しかし、今日ばかりは、そんな長閑のどかな光景は見えず、貸し望遠鏡はどこかへ姿を隠し、その位置には代りあって、精巧を誇る測高器そっこうき対空射撃算定器たいくうしゃげきさんていきとが、がっしりした三脚さんきゃくの上にささえられ、それからややへだったところには、巨大な高射砲が金網かなあみかぶり、夕暗が次第に濃くなってくる帝都の空の一角をにらんでいた。

「少尉殿」突然叫んだのは算定器の照準手しょうじゅんしゅである飯坂いいさか上等兵だった。

「友軍の機影観測が困難になりましたッ」

「うむ」

 高射砲隊長の東山少尉は、頤紐あごひものかかったおもてをあげて、丁度ちょうどその時刻、帝都防護飛行隊が巡邏じゅんらしている筈の品川上空を注視したが、その方向には、いたずらに霧とも煙ともわからないものが濃くめていて、無論飛行機は見えなかった。

「それでは、観測やめィ」

 照準手と、測合手そくごうしゅとは、対眼鏡アイピースから、始めて眼を離した。網膜もうまくの底には、赤く〇と書かれた目盛が、いつまでも消えなかった。少尉はスタスタと、社殿しゃでんわきへ入って行った。その背後うしろ大喇叭おおラッパたばにして、天に向けたような聴音器が据えつけられていたのだった。夜に入ると、この聴音器だけが、飛行機の在処ありかを云いあてた。

「J、O、A、K!」

 神社の隣りにそびえ立った、JOAKの空中線鉄塔のあたりから、アナウンサーの声が大きく響いた。

 弾薬函だんやくばこそばうずくまっている兵士の群は、声のする鉄塔を見上げた。鉄塔を五メートルばかり登ったところに、真黒な函みたいなものがあるのが、薄明りのうちに認められたが、あれが、声の出てくる高声器なんだろうと思った。

 本物の杉内アナウンサーは、鉄塔の向うに見えるおごそかなJOAKビルの中にいた。スタディオの、黄色いれる窓を通して、彼氏かれしの短く苅りこんだ頭が見えていた。

「唯今から午後六時の子供さんのお時間でございますが……」

 と云ったは云ったが、流石さすがに老練なアナウンサーも、これから放送しようとする事項の重大性を考えて、そこでゴクリとつばきみこんだ。

「……エエ、当放送局は、時局切迫のため、陸軍省令第五七〇九号によりましてこの時間から、東京警備司令部の手に移ることとなりました。したがって既に発表しましたプログラムは、すべて中止となりましたので、あしからず御承知を願います。それでは唯今より、東京警備司令官別府べっぷ大将の布告ふこくがございます」

 杉内アナウンサーは、マイクロフォンの前で、恭々うやうやしく一礼をして下った。すると反対の側から、年の頃は六十路むそじを二つ三つ越えたと思われる半白の口髭くちひげ頤髯あごひげしい将軍が、六尺豊かの長身を、静かにマイクロフォンに近づけた。

「東京及び東京地方に居住する帝国臣民諸君」将軍の声は泰山たいざんの如くに落付いていた。「本職は東京警備司令官の職権をもって広く諸君に一げんせんとするものである。吾が帝国は、さき北米ほくべい合衆国に対して宣戦を布告し、吾が陸海軍は東に於て太平洋に戦機をうかがい、西に於ては上海シャンハイ比律賓フィッリピンを攻略中であるが、従来の日清にっしん日露にちろ日独にちどく、或いは近く昭和六七年に勃発せる満洲、上海事変に於ては、戦闘区域は外国内に限られ、吾が日本領土内には敵の一兵いっぺいも侵入することを許さなかったのである。しかるに、今次の日米戦役にちべいせんえきに於ては、全く事情を異にして戦闘区域は国外に限定を許されず、吾が植民地は勿論、東京大阪等の内地まで、戦闘区域とするのむなきに立至った。これは諸君に於て既に御承知の如く、主として航空機による攻撃力が増大したる結果である。当局は、敵国航空機の日本本土侵略に対し、充分なる準備と重大なる覚悟とを有するものであるが、元来航空機の侵入を百パーセントに阻止そしすることは、理窟上不可能と証明せられていることであるからして、敵機の完全なる撃退は保証しがたい。ゆえに本職は、各人が此辺の事情を理解し、指揮者の命にしたがい、官民一体となって此の重大事に善処せんことを望むものである。吾が国の家屋は火災に弱く、敵機の爆撃によって相当の被害あるべく、又非常時に際して種々の流言蜚語りゅうげんひごあらんも、国民は始終冷静に適宜てきぎの行動をとることによりて其の被害程度を縮少し、空襲おそるるに足らずとの自信を持ち得るものと確信する。いたずらなる狼狽ろうばいは、国難をして遂に収拾しゅうしゅうすべからざる状態に導くものである。皇国こうこく興廃こうはいは諸君の双肩そうけんかかれり、それ奮闘努力せよ。右布告す。昭和十×年五月十日。東京警備司令官陸軍大将別府九州造くすぞう

 JOAKが聞える五十キロの範囲の住民たちは、この布告を聴くと、老いたるも若きも、共にサッと顔色を変えた。

 夕闇深い帝都の空の下には、異常なる光景が出現した。

 ラジオの高声器のある戸毎家毎には、近隣の者や、見も知らぬ通行人までが、飛びこんで来て、警備司令部の放送がこれから如何になりゆくかについて、耳をそばだてるのだった。

 街を疾駆しっくする洪水のような円タクの流れもハタと止り、運転手も客も、自動車を路傍ろぼうに捨てたまま、先を争うて高声器の前に突進した。

 電車も、軌道の上に停車したまま、明るい車内には人ッ子一人残っていなかった。

 高声器の近所でさわぐもの、わめく者は、たちまち群衆の手で、のされてしまった。

 トーキーをやっている映画館の或るものでは、即時映画を中止し、ラジオをトーキーの器械へつなぎ、応急放送を観客に送って、非常に感謝された。

 歌舞伎かぶき劇場では、演劇をやめ、あの大きな舞台の上に、道具方が自作した貧弱な受信機を、支配人が平身低頭へいしんていとうして借用したのを持ち出した。血の気の多い観客さえ、石のように黙りこくってその聴きづらい高声器の音に耳を澄したのだった。

「別府閣下の布告は終りました」杉内アナウンサーは、幾分上り気味だった。「次は塩原参謀より東京警報があります」

「東京警備一般警報第一号、発声者は東京警備参謀塩原大尉!」キビキビした参謀の声が聴えた。

 帝都二百万の住民は、この一語も、聞きもらすまいと、呼吸いきを詰めた。

「信ずべき筋によれば」参謀の声は、余裕綽々よゆうしゃくしゃくたるものがあった。「比律賓フィリッピン第四飛行聯隊の主力は、オロンガボオ軍港を脱出し、中華民国浙江省せっこうしょう西湖せいこに集結せるものの如く、しかして此後このごの行動は、数日後を期して、大阪もしくは東京方面を襲撃せんとするものと信ぜらる。ちなみに、該主力がいしゅりょくは、百十人乗の爆撃飛行艇三台、攻撃機十五台、偵察機三十台、戦闘機三十台及び空中給油機六台より編成せられ、根拠地西湖せいこと大阪との距離は千五百キロ、東京との距離は二千キロである。終り」

 参謀が発表した驚くべき空中襲撃の警報は、帝都全市民にとって、僧侶そうりょがわたす引導いんどうにひとしかった。高声器の前に鼻を並べた誰も彼もは、お互に顔を見合わせ、同じように大きな溜息ためいきをついたのだった。

 ああ、敵機の空中襲撃!

 いよいよ帝都の上空に、米国空軍の姿が現れるのだ。

 あのあおい眼玉をした赤鬼たちが、吾等の愛すべき家族をねらって爆弾を投じ、焼夷弾しょういだんで灼きひろげ、毒瓦斯どくガス呼吸いきの根を停めようとするのだ。

「いよいよ来るねッ」丸の内の会社から退けて、郊外中野へ帰ってゆく若い勤人つとめにんが、一緒に高声器の前に駆けこんだ僚友りょうゆうに呼びかけた。

「うん」その友人は、鼻の頭に、膏汗あぶらあせにじませていた。「警備司令部なんてのが有るのは、始めて知ったよ。驚いたネ」

「一般警報だというが、敵機の在処ありかや、台数など、莫迦ばかくわしすぎるじゃないか。民衆には、敵機襲来すべしとだけアナウンスする方が、無難ではないかしら」

「いや、そうじゃないよ」彼は自由にならぬ顔をいて振った。「敵機が爆弾を落として見ろ、この東京なんざ、震災当時のような混乱におちいることは請合うけあいだよ。流言は今でも盛んだ。非常時には更に輪をかけて甚だしくなるよ。その流言を止めるには、戦闘の内容を或る程度まで詳しく、軍部が発表して、市民に戦況を理解させて置かにゃいかん。正しい理解は、混乱を救う唯一ゆいつの手だ」

「それもそうだが……」と、何か云おうとしたときに、ラジオがまた鳴り出した。

ッ、叱ッ」

 ざわめいていた群衆は、再び静粛せいしゅくに還った。彼等は、耳慣れない陸軍将校の言葉に、やや頭痛を覚えるのだった。

「東京警備一般警報第二号!」先刻さきほどの将校の声がした。「発声者は東京警備参謀塩原大尉。唯今より以降いこう、東京地方一円は、警戒管制を実施すべし。東京警備司令官陸軍大将別府九州造。終り」

 警戒管制に入る!

 おお、これは此の前に東京全市で行われたあの防空演習ではないのだ。この警戒管制には、市民の生命が、ちょうはんかのさいころの目に懸けられているのだ!

 警戒管制が敷かれると、訓練された在郷軍人会ざいごうぐんじんかい、青年団、ボーイ・スカウトは、ただちに出動した。

 一番目覚ましい飛躍ひやくを伝えられたのは、矢張やはり、光の世界とばれている東京は下町の、浅草あさくさ区だったという。

「おい素六そろく、どこへ行く?」

 店の前まで来たときに、花川戸はなかわど鼻緒問屋はなおどんやの主人下田長造しもだちょうぞうあわてて駈けだす三男の素六を認めたので、イキナリ声をかけたのだった。

「あ、お父さん」ボーイ・スカウトの服装に身を固めた素六は、緊張のおもてかがやかせて、立止たちどまった。「いよいよ警戒管制が出ましたから、僕働いてきます!」

「なに、警戒管制!」長造は目をパチクリとした。「警戒管制てなんだい」

「いやだなア、お父さんは」少年は体をくの字に曲げて慨歎がいたんしたのだった。「警戒管制てのは、敵の飛行機が東京の上空にやって来て、街の明るい電灯を見ると、ははァ此の下が東京市だなと知るでしょう。そこで爆弾をボンボンおっことすから、大変なことに、なっちゃう。だから空襲のときには、電灯をすっかり消して、山だか海だか、判らないようにして置くことが大切でしょう」

「そんなことァ知ってるよ」長造は、顔をふくらましてみせた。

「皆で、電灯のスイッチをパチンとひねれば、いいじゃないか」

「だけど、スイッチを誰がひねるか判っていないのですよ。電柱についている電灯だとか、お蕎麦そばやさんの看板灯かんばんびなんかは、よく忘れるんですよ。ですから、警戒管制になると空から見える灯火ともしびは、いつでも命令あり次第に、手早く消せるように用意をして置くんです。あっても、なくてもいいような電灯は、前から消して置く。これが警戒管制です。僕、受持は、水の公園と、あの並び一町ほどの民家みんかなんです」

「民家!」長造はニヤニヤ笑い出した。「生意気な言葉を知ってるネ。じゃ、行っといで。遊びじゃないんだから、乱暴したり、無理をしちゃ、駄目だよ」

「うん、大丈夫!」

 少年は、ニッと笑うと、そのまま脱兎だっとの如く駈け出して行った。

 長造が店頭てんとうを入ると、そこにはおつまが、伸びあがって、往来を眺めていた。

「おや、おかえりなさい」

「うん」

「外は大変らしいのね」

「そうよ、お前」長造は、ふりかえって店の前を眺めたが、警戒場所に急ぐらしい若人わこうどの姿を、幾人も認めた。

「なんしろ、警戒管制になったんだもの」

「警戒管制では、まだ電灯を消さなくていいのでしょうか」

 お妻がいた。

「そりゃ、ソノお前、警戒管制という奴は、だッ……」

 そこへバラバラと少年が駈けこんできた。

「警戒管制ですから、不用の電灯は消して置いて下さい。この門灯は直ぐ消えるようになっていますかッ」

「ええ、直ぐ消えるように、なってますよ。おや、波二なみじさんじゃないの」

「ああ、下田しもだのおばさんの家だったネ」波二と呼ばれた少年は、鳥渡ちょっと顔を赤くした。「こっちから見ると、電灯の影で判らなかった」

「あら、そう。御苦労さまだわネ。うちの素六もさっきに出掛けましたよ」

「僕も一生懸命、やっているんですよ、おばさん。この前の演習のときと違って、しっかりした大人は大抵たいてい出征しゅっせいしているんで手が足りないの」

「貴方の家のあんちゃんも、出征なすったんだってネ」

「兄さんは立川の飛行聯隊へ召集しょうしゅうされて行ったんだけれど、どうしているのかなア、その後なんとも云って来ないんです」

「心配しないで、観音かんのんさまへ、お願い申しときなさい。きっと守って下さるから……」

 お妻も、同じような思いだった。二男の清二が潜水艦に乗組んで演習に出たきり、消息の知れないこと、もう四十日に近い。彼女は、母の慈愛じあいをもって、幼時から信仰を捧げている浅草の観世音かんぜおんの前に、毎朝毎夕ひそかにぬかずき、おのれの寿命を縮めても、愛児の武運を守らせ給えと、念じているのだった。

「誰の家も、同じようなことがあるんだネ」波二少年は暗い顔を、いてふり払うように云った。「ンじゃ、僕もしっかり働きます、さようなら、おばさん」

「ああ、いってらっしゃい。波二さんも、気をつけてネ……」

 少年は、高いところにいている電灯の電球たまを、ねじって消すために、長い竿竹さおだけ尖端せんたんを、五つほどに割って、繃帯ほうたいで止めてある長道具ながどうぐを担ぐと、急いで駈け出していった。

「あれは、何処どこの子だい」長造が訊いた。

「あれは、ほら」お妻は首をふって思い出そうと努力した。「亀さんちの、区役所の用務員さんで、そうそう、浅川亀之助あさかわかめのすけという名前だった、あの亀さんのすえッ子ですよ」

「おォ、おォ、亀之助ンとこの子供かい。どうりで見覚みおぼえがあると思った。暫く見ないうちに大きくなったもんだネ」

「あの惣領息子そうりょうむすこが、岸一きしいちさんといって、社会局の事務員をしていたのが、いまの話では、立川飛行聯隊へ召集されたんですって」

「ふン、ふン、岸ちゃんてのは知っているよ。よく妹なんか連れて、うちの清二のところへ遊びに来たっけが、もうそうなるかなア」

 そこへまた、ノコノコと入って来た人影があった。それは、古くから浅草郵便局の集配人をやっている川瀬郵吉かわせゆうきちだった。

「下田さん、書留ですよ」

「おう、郵どん、御苦労だな」長造が、古い馴染なじみの集配人をねぎらった。「判子はんこを、ちょいと、出しとくれ」

「あい」お妻は、奥へ認印みとめいんをとりに行った。

「旦那」郵吉は、大きい鞄の中から、出しにくそうに、白い角封筒を取り出した。「海軍省からの、でございますよ」

「なに、海軍省から!」

 長造の顔は、サッと青ざめた。

「うむ」

 彼は封筒の頭をると、一葉いちようの海軍罫紙けいしをひっぱり出した。長造の眼は、釘づけにでもされたように、その紙面の一点に止っていたが、やがてしずかに両眼は閉じられた。その合わせ目から、透明な水球みずたまがプツンと躍りだしたかと思うと、ポロリポロリと足許あしもとへ転落していった。

 その紙面には、次のような文句があった。


 戦死認定通知。

  潜水艦伊号一〇一乗組のりくみ

       海軍一等機関兵 下田清二

右は去る五月十日午後四時頃、北米合衆国ほくべいがっしゅうこくメーヤアイランド軍港附近に於て、爆雷ばくらいを受け大破損だいはそんのち、行方不明となりたる乗組艦と、運命を共にしたるものと信ぜらる。よりてここに本官は戦死認定通知書を送付そうふし、その忠烈ちゅうれつに対し深厚しんこうなる敬意をひょうするものなり。

昭和十×年五月十三日

     聯合艦隊司令長官

海軍大将男爵 大鳴門正彦


(とうとう、清二はられたか!)

「旦那」郵吉が、おずおずと声を出した。「もしや、悪いしらせでも……」

 郵吉は、陸海軍から出した戦死通知を、何十通となく、区内に配達してあるいた経験から、充分それと承知をしているのだったが……。

「なァに──」

 長造は、何も知らぬお妻が、奥から印鑑いんかんをもって来るのを見ると、グッと唇を噛んでこらえた。

「大したことじゃないよ。郵どん」

「……」郵どんは、長造の胸の中を察しやって、無言で頭を下げた。そして配達証に判を貰うと逃げるように、店先を出ていった。

「あなた──」その場の様子に、早くも気付いたお内儀かみは、恐ろしそうに、やっと夫の名を呼んだだけだった。

「おお、お妻、一緒に、奥へ来な」

 長造は、スタスタ奥の間へ入っていった。

 店の前の、警戒管制で暗くなった路面を、一隊の青年団員が、喇叭を吹き吹き、通りすぎた。



   空襲警報くうしゅうけいほう



 時刻は、時計の外に、一向判らぬ地下室のことであった。それは相当に規模の大きい地下室だった。天井は、あまり高くないけれど、この部屋の面積は四十畳ぐらいもあった。そして、このしつを中心として、隣りから隣りへと、それよりやや小さい室が、まるで墜道トンネルのように拡がっているのだった。そして部屋の外には、可也かなり広いアスファルト路面の廊下が、どこまでも続いていて、なにが通るのか、軌道レールが敷いてあった。地面をささえる鉄筋コンクリートの太い柱は、ずっと遠くまで重なり合って、ところどころに昼光色ちゅうこうしょくの電灯が、縞目しまめの影を斜に落としているのが見えた。どこからともなく、ヒューンと発電機のうなりに似た音響が聴こえているかと思うと、エーテルのよう芳香ほうこうが、そこら一面にただよっているのだった。時々、大きな岩石でもほうり出したような物音が、地響じひびきとともに聞えて来、その度毎に、地下道の壁がビリビリと鳴りわたった。

 このような大仕掛けの地下室というよりは、むしろ地下街というべきところは、いつの間に造られ、一体どこをどういまわっているのであるか、仮りに物識ものしりを誇る東京市民の一人を、そこに連れこんだとしても、決して言いあてることは出来ないであろうと思われた。──この地下街こそは、東京警備司令部が、日米開戦と共に、引移った本拠だった。

 この地下街については、詳しく述べることをはばかるが、大体のことを云うと、丸の内に近い某区域にあって、地下百メートルの探さにあった。この地下街に入るには、東京市内で六ヶ所の坑道入口こうどういりぐちが設けられてあった。いずれも、偽装ぎそうをこらした秘密入口であるために、入口附近に居住している連中にも、それと判らなかった。唯一つ、日本橋の某百貨店のエレベーター坑道の底部ていぶに開いているものは、エレベーター故障事件に発して、炯眼けいがんなる私立探偵帆村荘六ほむらそうろくに感付かれたが、軍部は逸早いちはやくそれをると、数十万円を投じたその地下道を惜気おしげもなく取壊とりこわし、改めて某区の出版会社の倉庫の中に、新道を造ったほど、やかましいものだった。

 この地下室の中には、地上と連絡する電話も完成していた。食糧も弾薬も豊富だった。大きくないが精巧な機械工場も設けられてあった。地下街の空気は、絶えず送風機で清浄せいじょうに保たれ、地上が毒瓦斯で包まれたときには、数層の消毒扉しょうどくひが自動的に閉って、地下街の人命を保護するようになっていた。

 さらに驚くべきは、この地下街にいながらにして、東京附近の重要なる三十ヶ所に於ける展望が出来、その附近の音響を聞き分ける仕掛けがあった。例えば、芝浦しばうら埋立地うめたてちに、鉄筋コンクリートで出来た背の高い煙突えんとつがあったが、そこからは、一度も煙が出たことがないのを、附近の人は知っていた。その煙突こそは、東京警備司令部の眼であり、耳であったのだった。すなわち、その煙突の頂上には、鉄筋コンクリートの中に隠れて、仙台放送局の円本まるもと博士が発明したM式マイクロフォンが麒麟きりんのような聴覚をもち、逓信省ていしんしょうの青年技師利根川保とねがわたもつ君が設計したテレヴィジョン回転鏡が閻魔大王えんまだいおうのような視力を持っていたのだった。

 この地下街には、別に、東と西とへ続く、やや狭い坑道こうどうがあったが、その西へ続くものは、重々しい鉄扉てっぴがときどき開かれたが、その東へ通ずる坑道は何故なにゆえか、厳然げんぜんと閉鎖されたまま、その扉に近づくことは、司令部付のものといえども禁ぜられていた。それは一つの大きい謎であった。司令部内で知っていたのは、司令官の別府べっぷ大将と、その信頼すべき副官の湯河原ゆがわら中佐とだけであった。

 この物々しい地下街の中心である警備司令室では、真中に青い羅紗らしゃのかかった大きい卓子テーブルが置かれ、広げられた亜細亜アジア大地図を囲んで、司令官を始め幕僚ばくりょうの、緊張しきった顔が集っていた。

「すると、第一回の比律賓フィリッピン攻略は、結果失敗に終ったということになりますな」参謀肩章さんぼうけんしょうの金モール美しい将校が、声を呑んで唸った。

「うん、そうじゃ」司令官の別府大将は、頤髯あごひげをキュッとしごいて、目を閉じた。「第一師団は、マニラの北方二百キロのリンガイエン湾に敵前上陸し、三日目にはマニラを去る六十キロのバコロ附近まで進出したのじゃったが、そこで勝手の悪い雨中戦うちゅうせんをやり、おまけに山一つ向うのオロンガボオ軍港からの四十センチの列車砲の集中砲火をって、その半数以上が一夜のうちにやられたということじゃ。何しろ強風雨のうちだから、空軍は手も足も出ず、さぞ無念じゃったろう」

「閣下。オロンガボオ要塞ようさいは、まだ占領出来ませんか」別の将校がいた。

呉淞砲台ウースンほうだいのように、簡単にはゆかんようじゃ。海軍でも、早く陥落かんらくさせて、太平洋に出なけりゃならんのじゃ、何しろ、連日のように最悪の気象に阻止そしせられて、頼みに思う空軍は全く役に立たず、そうかと云って、無理に進むと、それ、あの金剛こんごう妙高みょうこうのように、機雷をグワーンと喰わなきゃならんで、今のところ低気圧の散るのを待たねば、艦隊は損傷が多くなるばかりじゃ。それがまた、あまり永くは待てんでのう。どうも困ったものじゃ」

「中部シナ方面の戦況は、大分発展を始めたらしいですな」前の参謀が、短い口髭くちひげに手を持っていった。

「だが、どうも感心できん」別府将軍は、トンと卓子テーブルを叩いた。「こうなると、戦線が伸びるばかりで、結局要領を得にくくなる。杭州こうしゅう寧波ニンポーなどに、米軍がいつまでも、のさばっていたんでは、今後の戦争が非常に、やりにくい」

「米国の亜細亜艦隊は、通称『犠牲艦隊』じゃというわけじゃったが、中々やりますなア」

「犠牲艦隊じゃったのは四五年前までのことじゃ。日本が東シナ海を、琉球りゅうきゅう列島と台湾海峡で封鎖すれば、どんなに強くなるかということは、米国がよく知っている。この辺は、日本の新生命線じゃ。そいつを亜細亜艦隊でもって、何とか再三破ってやらなければ、米国海軍は安心して、主力を太平洋に向けることができない。艦齢は新しいやつばかりで、ことに航空母艦が二隻もあるなんて、中々犠牲艦隊どころじゃない」

「昨日詳細なる報告が海軍からありましたが」と、又別な参謀が口を切った。「米国の太平洋沿岸で暴れた帝国潜水艦隊の損得比較は、どういうことになりましょうか」

「これはやや出来がよかった」別府将軍は、始めて莞爾にっこりと、頬笑ほほえんだ。「伊号一〇二は巧く引揚げたらしいが、行方不明の一〇一と、戦艦アイダホの胴中に衝突して自爆した一〇三とをうしなったのに対し、米国聯合艦隊側では、アイダホとアリゾナをくし、約六万トンを失った上、航空母艦サラトガに多大の損傷を受けたというから、まず帝国海軍の筋書程度までは成功したと云ってよいじゃろう。これで米国聯合艦隊も、相当きもつぶしたと思う。金剛と妙高とを、南シナ海で喪った帝国海軍も、これで戦前と同率海軍力どうりつかいぐんりょくを保てたというわけじゃ」

「伊号一〇一は、爆雷にやられて、海底にもぐりこんだそうですが、特務機関の報告によると、海面に湧出ゆうしゅつした重油の量が、ちと少なすぎるという話ですな」

「ほほう、そうかの」将軍は初耳らしく、その参謀の方に顔を向けた。「だが重油が流れ出すようでは、所詮しょせん助かるまい」

「いや、それが鳥渡ちょっと面白い解釈もあるんです。というのは……」

 そこへあわただしく、伝令兵が大股で近よると、司令官の前に挙手きょしゅの礼をした。

「お話中でありますが」と伝令兵は大きな声で怒鳴どなった。「唯今第四師団より報告がありました」

 司令官の側に、先刻さっきから一言も吐かないで沈黙のぎょうを続けていた有馬参謀長が佩剣はいけんをガチャリと音させると、「よオし、読みあげい」と命じたのだった。

「はッ」伝令兵は、左手に握っていた白い紙をツと目の前に上げると、声を張りあげて、電文を読んでいった。「昭和十×年五月十五日午後五時三十分。第四師団司令部発第四〇二号。和歌山県潮岬しおのみさき南方百キロの海上に駐在せる防空監視哨ぼうくうかんししょうの報告によれば、米軍べいぐんに属する重爆飛行艇三台、給油機六台、攻撃機十五台、偵察機十二台、戦闘機十二台合計四十八機よりなる大空軍だいくうぐんは、がい監視哨の位置より更に南南西約五キロメートルの空中を、戦闘機は二千五百メートルの高度、他はいずれも二千メートルの高度をとり、各隊毎に雁行形がんこうけいの編隊を以て、東北東に向け飛行中なり。終り」

「うむ、御苦労」参謀長は、伝令の手から、電文を受取って、云った。

 伝令兵は、再び挙手の礼をすると、同じしつの、一方の壁に並んだ、おびただしい通信パネルの傍へ帰っていった。そのパネルの前には、通信兵員が七八名も並び、戴頭受話機たいとうじゅわきをかけて、赤いパイロット・ランプのくジャックをねらってはプラグを圧しこみ、符号のようなわけのわからない言葉を送話器の中に投げこんでいた。

 その壁体へきたいと丁度反対の壁には、配電盤やら監視机や、遠距離制御器せいぎょきなどが並んで、一番右によった一角には、真黒な紙を貼りつけたのぞき眼鏡のような丸い窓が上下左右に、三十ほども並んで居たが、これはテレヴィジョン廻転鏡だった。

「第三師団から報告がありました」別の伝令が、司令官の前に飛んで来た。

「浜松飛行聯隊の戦闘機三十機は、隊形をととのえて、直ちに南下せり。一戦の後、太平洋上の敵機を撃滅げきめつせんとす」

「よし、御苦労」

 報告は俄然、輻輳ふくそうして来たのだった。司令官と幕僚とは、年若い参謀が指し示す刻々の敵機の位置に、視線を集中した。

 海上に配列してあった防空監視哨は、手にとるように、刻々と敵国空軍の行動を報告してきた。それが紀州きしゅう沖から、志摩しま半島沖、更に東に進んで遠州灘えんしゅうなだ沖と、だんだん帝都に接近してきた。

 それに反して、第四師団のある大阪方面では、空襲から脱れたので、解除警報を出したことなどを報告して来た。

 果然かぜん、マニラ飛行第四聯隊の目標は、帝都の空にあったのだった。

 東京警備司令部内は、眼に見えて、緊張の度を高めていった。

 浜松の飛行聯隊が、折柄おりからのどんより曇った銀鼠色ぎんねずみいろの太平洋上に飛び出していった頃から、第三師団司令部からの報告は、直接に高声器の中に入れられ、別府大将の前に据えつけられた。将軍は、胡麻塩ごましおの硬い髯を撫で撫で、目をじて、諸報告に聞きれているかのようであった。

 この場の将軍の様子を、遠くからうかがっていたのは、高級副官の湯河原中佐だった。彼は何事かについて、しきりに焦慮しょうりょしているようでもあった。だが其の様子に気付いていたものは、唯の一人も無いと云ってよい。なぜならば、中佐を除いたこの室の全員は、刻々にせまる太平洋上の空中戦の結果はどうなるか、という問題に、注意力の全体を吸収せられていたからだった。

 やがて、中佐は何事かを決心したものらしく、ソッと立つと、入口のドアを静かに押して、外に出た。

 アスファルトの廊下には、人影がなかった。

 中佐は、壁に背をつけたままスルスルと、かに横匍よこばいのように壁際かべぎわすべっていった。そして軈て中佐がピタリと止ったのは、「司令官室」と黒い札の上に白エナメルで書かれた室だった。

 奇怪な湯河原中佐は、ドアの鍵穴に、なにものかを挿し入れてガチャガチャやっていたが、やっと扉が開いた。

 ものの五分と時間は懸らなかった。司令官室で何をやったのであるかは判らぬけれど、再び中佐が姿をあらわしたときには、非常な決心をしているらしく、顔面神経がんめんしんけいがピクピク動いているのが、廊下灯ろうかとうによって写し出されたほどであった。このとき、中佐の両手は、ポケットのうちにあった。

 彼は再び、元来た路を、とってかえすと、司令部広間のドアの前を素早く通り、それから後はドンドン駈け出して行った。

 中佐の身長が、その先の階段に跳ねあがった。十段ばかり上ると、そこに巌丈がんじょう鉄扉てっぴがあって、その上に赤ペンキで、重大らしい符牒ふちょう無雑作むぞうさに書かれてあった。中佐はそれには眼も呉れず、扉のあちらこちらを、押えたり、グルグル指を廻したりしているうちに、サッとその重い鉄扉を開くと、ちょっと後を振返り、誰も見てないのをたしかめた上で、ヒラリとドアの中に姿を消してしまったのだった。

「……」

 誰もいないと思った階段の下から、ヌッと坊主頭ぼうずあたまが出た。しばらくすると、全身を現した。襟章えりしょう蝦茶えびちゃの、通信員である一等兵の服装だった。彼は中佐の姿の消えた扉の前に、躍り出ると、手袋をはいたまま、力を籠めて把手とってをひっぱってみたが、扉はゴトリとも動かなかった。

 そこで彼はニヤニヤと笑うと、扉の前を淡白たんぱくに離れ、廊下の上をコトコトと駈け出していった。そして何処かに、姿は見えなくなった。

 丁度ちょうどそのころ、大東京ははしかにでもかかったように、あちらでも、こちらでも、騒然としていた。号外の鈴は、やかましく、街の辻々に鳴りひびいていた。夜になったばかりの帝都の路面が、莫迦ばかに暗いのは、警戒管制で、不用な灯火あかりが消され、そしてその時間が続いているせいだった。

 警戒員の外には、往来を歩いている者も、無いようであった。誰もが、それぞれの家屋に落付いて、刻々にJOAKが放送してくる時事ニュースを一語のこらず聞いているせいだったであろう。

 ラジオ受信機のない家こそ、みじめであった。区役所の用務員、浅川亀之助一家は、その種類に入る家だった。

「おい、おつる」亀さんが、暗い露路ろじから声をかけた。

「どうなったい、お前さん」勝手元に働いていた女房のおつるは、十しょくの電灯を逆光線に背負って顔を出した。

「いま聞いたところによるとナ」亀さんは、はァはァせわしない呼吸をつきながら云った。

「いよいよアメリカの飛行機は静岡辺まで、やって来たらしいんだ。浜松の飛行隊で、追駈け廻しているけれど、敵のやつうま喰止くいとめることが出来ないらしいんだ。それでも五つ六つっことしたらしいってことだ」

「まア、大変だわネ。ンじゃ、今夜のうちにも、東京へ飛んでくるかい」

「来るだろうッて話だ」そこで亀さんは、鼻の下をグイとこすりあげると、駈け出しそうにした。「じゃ、もっとラジオを聞いてくるからな」

「ちょいと、待っとくれよ、お前さん」おつるはあわてて、亭主を呼びとめた。「お舟は、ダンスホールがお休みになったといって帰って来たけれど、笛坊ふえぼうの方は、まだ電話局から戻ってこないんだよ。いつもなら、もうくに帰って来てなきゃならないんだがね」

「うむ」亀さんは首を傾けて、去年の秋、交換手をしている娘の案内で見に行った東京中央電話局の建物を思いうかべていた。「ひょっとすると、忙しいのかも知れねえぜ」

「波二も、少年団へ出かけたっきりで、うちには、おばァさんとお舟としか居なくて不用心だから、なるたけ早く帰ってきとくれよ、お前さん」

「あいよ、判ってるよ」

 亀さんは、また、あたふたと、町角まちかどのパン屋の高声器を目懸けて、かけ出して行った。

 パン屋の軒先は、附近の下層階級の代表者が、黒山のように、だが水をうったように静粛せいしゅくに、アナウンサーの読みあげる臨時ニュースに耳を傾けていた。

唯今ただいま午後七時三十分、米国空軍の主力は、伊豆七島の南端、三宅島の上空を通過いたして居りますむね、同島の防空監視哨から報告がございました。以上」

 高声器の前の群衆は、流石さすがに興奮して、ザワザワと身体を動かした。

「次に、いよいよ帝都に於きましては、空襲警報が発せられる模様であります。敵機の帝都空襲は、全く確実となり、帝都との距離は最早二百キロメートルに短縮せられましたので、東京警備司令部では、いよいよ『空襲警報』を出す模様であります。空襲警報が布告されますと同時に、ねて御知らせ申上げてありましたように、当JOAKの放送は、戦闘終了の時期まで、ず中断いたすことになって居りますので、左様さようご承知下さいまし」

 人々の顔には、次第に不安の色が深く刻まれて行った。

なお、くりかえして申上げますが、空襲警報が出ました節は、兼ねての手筈によりましていつでも灯火あかりを外にれなくすることが出来るよう準備をし、消防及び毒瓦斯どくガス防護係の方は、直ちに、その持ち場持ち場に、おつき下さることを御忘れないように願います。そして、いよいよ敵機が襲来して参りますと、非常管制警報が発せられまするからして、その時は、即刻そっこく灯火あかりを御始末下さいまし。ッ、いよいよ空襲警報が発せられる模様であります」

 杉内アナウンサーの声は、ぱたりと、杜断とぎれた。

 愛宕山あたごやま山顛さんてんには、闇がいよいよ濃くなって来た。月のない空には、三つ四つの星が、高い夜の空に、ドンヨリした光輝こうきを放っていた。やや冷え冷えとする、風のない夜だった。

 警報隊長の四万しま中尉は、兵員の間に交って、いつもは東京全市に正午の時刻を報せる大サイレンの真下ましたに立っていた。

「中尉殿、報告」

 かたわらの松の木の蔭に、天幕テントを張り、地面に座っている一団から、飛び出して来た兵士だった。小さい鐘を横にしたような中に、細いカンテラの灯が動いている、そのかすかな灯影ほかげの周囲に三四人の兵士がすわっていた。よく見ると一人は真黒な函に入った器械の傍で卓上電話機のようなものを、耳と口とに、圧しあてていた。これは司令部との間をつなぐ有線電話班の一隊に、違いなかった。

「おう」

 四万中尉が、声をかけた。

「司令部より命令がありました。空襲警報用意! 終り」

「うん。鳥渡ちょっと待て」中尉は、つかつかと、サイレンの開閉器のところへ歩みよって、そこに立っている兵士に訊いた。「空襲警報用意があった。準備はいいようだな」

「はッ。用意は、よいであります」

 中尉は軽くうなずくと云った。「よいか、ぬかるな」

「おい佐島一等兵。電話で司令部へ、報告せい。空襲警報用意よし!」

「はいッ」一等兵は身をひるがえして、天幕テントのところへ帰った。「空襲警報用意よし」

 天幕の中の通信員は、送話器の中に、歯切れのよい声を送りこんだ。

「愛宕山警報所。空襲警報用意よゥし!」

 やがて、一分、二分。

 電話機のある天幕から、大サイレンの間までには、ズラリと兵員が立並んで、いずれも及び腰で、報告が電話機の上に来れば、直ちに警報が出せるように身構えた。

 そして、突如──

「空襲警報ゥ!」

 電話機をつかんでいる兵士が、大声で怒鳴った。

「空襲警報!」

「サイレン鳴らせィ!」

 命令の声が、消えるか消えない内に、

「ンぶうッ──う、う、う」

 と愛宕山あたごやまの大サイレンが鳴り出した。雄壮ゆうそうというよりも、悲壮な音響だった。

 東京市内の電灯という電灯は、パッと消えて、全市は暗黒になった。

ッ」

 覚悟をしていた人でさえ、驚きの声をあげた。

「十五秒して、又電灯が点いたら、空襲警報なんだよ」

 小学生たちは、学校の先生に教わったとおりに、電灯が消えたので、面白がっていた。

 電灯が消えると、にわかに聴力が鋭敏になったのだった。いままで聞こえなかった半鐘はんしょうの音が、サイレンに交って、遠近えんきんいろいろの音色をあげていた。

「ジャーン、ジャンジャンジャン」

「ボーン、ボンボンボン」

 下町の木工場の、貧弱なサイレンも、負けず劣らず、わめきつづけていた。

「呀ッ、電灯が点いたッ」

 誰の目も、電灯の光を見上げて、嬉しそうに笑った。ほんとに光りは、人間にとって、心強いものだった。

 下町の表通りを、バラバラと駈け出す一隊があった。

「火を消す用意をして下さい。不用な灯は消して下さい。空襲警報ですよォ」

 竿竹と、メガフォンと、赤い布を捲きつけた懐中電灯とで固めた一隊が、町の辻々を、練りまわった。

 今、帝都は、敵機の襲撃をうける!

 浜松の戦闘機隊は、どうしたであろうか。

 追浜おっぱまの海軍航空隊は、既に上空めがけて、舞いあがったであろうか。

 立川の飛行聯隊の用意は、ととのったであろうか。

 東京市民が、醵金きょきんをし合って献納けんのうした十五機から成る東京愛国飛行隊は、どうしているであろうか。

 嵐の前の静寂せいじゃく

 帝都の夜空は、うるしのように、いよいよ黝々くろぐろけていった。



   空襲葬送曲くうしゅうそうそうきょく



 非常管制の警報が出たのは、それから三十分ほど、あとのことだった。

 一等速く、民家に達したのは、電灯による警報だった。

「おい、お妻」と鼻緒問屋の主人、長造は暗闇の中で云った。

「お前、今、時計を見なかったか」

「いいえ、暗くなったんで、判りませんわ」

「非常管制の警報らしいが、何分位消えているんだっけな」

「お父さんは、忘れっぽいのね。三十秒の間消えて、また三十秒つき、それからまた三十秒消えて、それからあと、ずっとくのですよ」

「感心なもんだな、覚えているなんて──」

 三十秒経ったのか、電灯がパッとついた。

「今度は時計を見てるよ。これで三十秒経って消えたら、いよいよ本物だ」

ッ、消えましたわ」

 お妻の声には恐怖の音調が交っていた。

 間もなく、電灯は再び点いた。

「ほうら、見なさい。いよいよ非常管制だ。ははァ」

「誰か、表の電灯を消して下さい」

「もう消しましたよオ」真暗な店の方から、返事があった。

「お父さん。ここの電灯も消して、ちょうだい。あたし、怖いわ」長女のみどりが、奥の間へやってきた。

「ここは見えやしないよ」

「だって、戸の隙間すきまから、見えちまうじゃないの」

「じゃ、こうしとこうかな。手拭てぬぐいを、ねえさんかむりにさせて」

「ああ、それで、いいわ」あとから附いて来た紅子べにこが云った。

「家の中を皆、真暗にしてしまうんですもの。暗くちゃ、怖いわ」

 そこへ、店の方から、ドカドカとあがりこんで来た者があった。

「お父さん」

「おお、弦三か。よく帰って来た」

「この前、お父さんにあげた防毒マスクが、いよいよ役に立ちますよ」

「うん」長造は感慨探かんがいふかそうに云った。「あまりいいことじゃない。それにマスクは一つじゃなア」

「お父さん」弦三は、電灯の下へ、大きな包みをドサリと置いた。

「いよいよ、皆の分を作ってきましたよ。姉さんはいますか、姉さん」

「あい、よ」後に下っていたみどりが顔を出した。

「ここに、鉛筆で使用法を書いときましたから、大急ぎで、消毒剤をめて、皆に附けてあげて下さい」

「弦三、お前まだどっかへ行くのかい」

 母親が尋ねた。

「僕は直ぐ出懸けます」

「この最中に、どこにゆくんだ」長造が問いかえした。

淀橋よどばしの、兄さんのところへ、マスクを持ってゆくんです」

「なに、黄一郎のところへか」

「ほら、御覧なさい。この大きい二つが、兄さんと姉さんとの分。この小さいのが、ぼうの分」

「なるほど、三ツ坊にも、マスクが、いるんだったな」

「よく気がついたね」母親が、長男一家のことを思って、涙を拭いた。

「それにしても今頃、危険じゃないか。いつ爆弾にやられるか、しれやしない。あっちでも、相当の用意はしてるだろうから、見合わしたら、どうだ」

「いえ、いえ、お父さん」弦三は、首を振った。

「僕は、もっと早く作って、届けたかったのです。だが、お金もなかったし、僕の腕も進んでいなかった……」

 長造は、弦三のことを、色気いろけづいた道楽者どうらくものののしったことを思い出して、暗闇の中に、冷汗ひやあせをかいた。

「それが、今夜になって、やっと出来上ったのです」弦三は嬉しそうにつぶやいた。「僕は、東京市民の防毒設備に、サッパリ安心が出来ないのです。行かせて下さい。いつも僕のこと想っていてくれる兄さんに、一刻いっこくも早く、この手製のマスクを、あげたいんです」

 感激の嗚咽むせびが、静かに時間の軸の上を走っていった。

「よォし。行って来い」長造がキッパリ云った。「いや、兄さん達のために、行ってやれ。だが、気をつけてナ……」

 あとには言葉が無かったのだった。

「じゃ、行ってまいります」

 これが、弦三と一家との永遠の別れとなったことは、後になって、思い合わされることだった。

「弦──」

 母親のお妻が、我児を呼んだときには、弦三の姿は、戸外そとの闇の中に消えていた。

 非常管制の警報は、いつしかんでいた。

 外は咫尺しせきべんじないほど闇黒まっくらだった。

 弦三は、背中に、兄に贈るべきマスクを入れた包みを、斜に背負い、自分のマスクは、腰に吊し、歩きづらい道を、どうかして早くすすみたいと気をあせった。

 市内電車は、路面に停車し、車内の電灯は真暗に消されていた。これは、架空線かくうせんとポールとが触れるところから、青い火花が出て、それが敵機に発見されるおそれがあるからだった。

 それは弦三の目算違もくさんちがいだった。彼は、雷門かみなりもんまで出ると、地下鉄の中に、もぐり込んだ。

 地下鉄の中には、煌々こうこうと昼をあざむくような明るい灯がついていた。だが、暗黒恐怖症の市民が、後から後へと、ドンドン這入はいりこんでいて、見動きもならぬ混雑だった。

「ここん中へ入っとれば、爆弾なんか、大丈夫ですよ」五十近い唇の厚い老人が、たった一人で、こんなことをしゃべっていた。

まったくですネ。近頃のお金持は、てんでに自分の屋敷の下に一間や二間の地下室を持っているそうですが、わしたちプロレタリアには、そんな気の利いたものが、ありませんのでねえ」

 そう云ったのは、長髪の、薄気味わるい眼付の男だった。

「お蔭さまで、助りますよ」歯の抜けたお婆さんが、臍繰へそくがねの財布を片手でソッと抑えながら、これに和した。

「だが、毒瓦斯どくガスが来ると、このあなの中は駄目になるぜ。駅長に云って、早く入口の鉄扉てつどを下ろさせようじゃないか」会社の帰りらしい洋服男が、アジを始めた。

「駅長、ドアを下ろせ!」

「扉を、し、め、ろッ」

 そろそろ、空気は険悪けんあくになって来た。

 片隅では、渋皮しぶかわけた娘をつれた母親が眉を釣りあげて怒っていた。

「あなた、女連れだと思って、馬鹿にしちゃいけませんよ」

「いッヒ、ヒ、ヒ、ヒッ。こういう際です。仲よくしましょう。今に、えらい騒ぎになりますぜ、そのときは……」

 酒を呑んでいるらしい羽織袴はおりはかまの代書人といったような男が、汚い歯列はなみを見せて、ニヤニヤと笑った。

「皆さん。静粛せいしゅくにして下さい。さもないと、出ていって頂きますよ」

 駅長が高いところから怒鳴った。

「出ろ! とはなんだッ」

「もう一度、言ってみろッ!」

愚図愚図ぐずぐずぬかすと、のしちまうぞ」

 先刻さっきの怪しい一団が、駅長の声を沈黙させてしまった。

 そこへ地下電車が、やっと来た。

 弦三は、背筋になにか、こうやりとするものを感じたが、其儘そのまま、車内の人となった。

 新宿まで、この地下鉄で行けると思ったことも、あやまりだった。須田町すだちょうまでくると、無理やりに下ろされちまった。コンクリートの、狭い階段をトコトコ上ってゆくと、地上に出た。

「横断する方は、こっちへ来て下さい」

「自動車は、警笛を鳴らしながら走って下さい。警笛は、飛行機に聞えないから、いくら鳴らしても、いいですよ」

「懐中電灯は、そのままでは明るすぎますから、ここに赤いきれがありますから、それを附けて下さァい」

 あちこちに、メガフォンの太い声が交叉こうさして、布を被せた警戒灯が、ブラブラと左右に揺れていた。すべて秩序正しい警戒ぶりだった。

(それにしても、さっき見たのは、あれは夢だったかしら。悪夢あくむ 悪夢!)

 弦三は、雷門の地下道にわだかま不穏ふおんな群衆のことを、この須田町の秩序正しい青年団に対比して、悪夢を見たように感じたのだった。しかし、それは果して夢であったろうか。いやいや弦三は、確かに、あののろいにみちた悪魔の声をきいたのだった。

 弦三は、一つ自動車を呼びとめて、新宿の向うまで、走らせようと考えた。弦三は、二十一になる唯今まで、誰かに自動車に乗せて貰ったことはあるが、自分ひとりで、自動車を呼び止めた経験がなかったので、ちょっとモジモジしながら、須田町の広場に、突立っていた。

ッ!」

「やったぞオ!」

 突然に、悲鳴に似た叫声きょうせいが、手近かに起った。

 ハッとして、弦三は空を見上げた。

 鉄が熔けるときに流れ出すあのけきったような杏色あんずいろとも白色はくしょくとも区別のつかない暈光きこうが、一尺ほどの紐状ひもじょうになって、急速に落下してくる。

「爆弾にちがいない」

 高さのほどは、見当がつかなかった。

 見る見る、火焔の紐は、大きくなる。

 爆弾下の帝都市民は、その場に立竦たちすくんでしまった。

 悲鳴とも叫喚きょうかんともつかない市民の声にまじって、低い、だが押しつけるようなエネルギーのある爆音が、耳に入った。

 ぱッと、空一面が明るくなった。

 弦三は、きもつぶして、思わず、戸を閉じた商店の板戸に、うわッと、しがみついた。

 敵機の投げた光弾が、頃合いの空中で、炸裂さくれつしたのだった。

 ドーン。

 やや間を置いて、大きい花火のような音響が、あたりに、響きわたった。

 光弾は、須田町の、地下鉄ビルの横腹に、真黄色な光線を、べたべたになすりつけた。

 弦三は、商店の軒下のきしたから飛び出して、万世橋まんせいばしガードの下を目懸けて走っていった。

 ガードの上と思われるあたりで、物凄い音響がした。

「ドッ、ドッ、ドッ、グワーン」それはまぎれもなく、高射砲隊の撃ちだした音だった。悠々と天下あまくだりながら、帝都の屋根を照らしていた光弾が、一瞬間にして、粉砕されてしまった。

 帝都の空は、又もや、元の暗黒に還った。

 と、思ったのは、それも一瞬間のことだった。

 サッと、紫電一閃しでんいっせん! どこから出したのか、幅の広い照空灯が、ぶっちがいに、大空の真中で、交叉こうさした。

「呀ッ、敵機だッ」

 真白い、蜻蛉とんぼの腹のような機影が、ピカリと光った。

 そこをねらって、釣瓶撃つるべうちに、高射砲の砲火が、耳をろうするばかりの喚声かんせいをあげて、集中された。

 照空灯は、いつの間にか、消えていた。

 その次の瞬間、弦三の眼の前に、瓦斯ガスタンクほどもあるような太い火柱ひばしらが、サッと突立つったち、爪先から、骨が砕けるような地響がつたわって来た。そして人間の耳では、測量することの出来ない程大きい音響がして、真正面から、空気の波が、イヤというほど、弦三の顔を打った。

 爆弾が落ちたのだ!

 イヤ、敵機が、爆弾を投げつけたのだった。

 バラバラッと、こいしのようなものが、身辺しんぺんに降って来た。

 照空隊の光芒こうぼうは、異分子いぶんしの侵入した帝都の空を嘗めまわした。

 その合間、合間に、高射砲の音が、猛獣のように、恐ろしい呻り声をあげた。

 それは、人間の反抗感情というのでもあろうか。爆弾の音を聞かされ、照空灯のひらめきを見せられた弦三は、自分の使命のことも何処へか忘れてしまい、

「畜生! 畜生!」とひとごとを云いだしたかと思うと、矢庭に側の太い電柱にとびつき、危険に気がつかぬものか、

「わッしょい、わッしょいッ」と、背の高い、その電柱の天頂てっぺんまで、人技とは思われぬ速さで、よじのぼっていった。

 そこは、帝都のあっちこっちを見下ろすに、可也かなりいい場所だった。眺めると、帝都の彼方此方かなたこなたには、三四ヶ所の火の手が上っていた。

 次の爆弾が、空から投げ落とされるたびに、物凄い火柱が立って、それはやがて、おびただしい真白な煙となって、空中に奔騰ほんとうしている有様が、夜目にもハッキリと見えた。そして、その次に、浮び出す景色は、かつて関東大震災で経験したところの火焔の幕が、見る見るうちに、四方へ拡がってゆくのであった。

 弦三は、地響きのために、いまにも振り落されそうになる吾が身を、電柱の上に、しっかりささえているうちに、やっと正気しょうきに還ったようであった。

 彼は、こわごわ、電柱を下りた。

 地上に降り立ってみると、そこには又、先刻さっきと違った光景が展開しているのだった。

 どこで、やられて来たものか、うめき苦しんでいる負傷者が、ガードの下に、十五六人も寝かされていた。

「ヒューッ」どこからともなく、警笛けいてきが鳴った。

毒瓦斯どくガスだ、毒瓦斯だッ!」

「瓦斯がきましたよ、逃げて下さい」

風上かざかみへ逃げてください。皆さん、××町の方を廻って××町へ出て下さい」

 肝心かんじんの××町というのが、サッパリ聞きとれなかった。

 広瀬中佐の銅像の向うあたりに、うち固って狂奔きょうほんする一団の群衆があった。

「やッ、ホスゲンのにおいだ!」

 弦三は、腰をさぐって、彼の手製になる防毒マスクを外した。そのうちにも、ホスゲン瓦斯特有の堆肥小屋たいひごやのような悪臭が、だんだんと、著明ちょめいになってきた。彼は、防毒マスクをスッポリ被ると、すこしでも兄達の住んでいる方へ近づこうと、風下である危険を侵し、避難の市民群とは反対に、神保町じんぼうちょうから、九段くだんを目がけて、駈け出していった。

 だが、神保町を、駈けぬけきらぬうちに、弦三は運わるく、近所に落ちた爆弾の破片を左脚にうけて、どうとアスファルトの路面に倒れてしまった。

「なに糞、こんなところで、死んでなるものか!」

 彼は歯を喰いしばった。

 路面に転っていると、群衆に踏みつぶされるおそれがあるので彼は痛手いたでえて、じりじりと、商家しょうかの軒下へ、虫のようにっていった。

 右手を伸ばして、傷口のあたりをさぐってみると、さいわいに、脚の形はあったが、まるで糊壺のりつぼの中に足を突込んだように、そのあたり一面がヌルヌルだった。湧き出した血の赤いのが、この暗さで見えないのが、せめてもの幸いだったと、弦三は思った。

「おお、これは──」

 その家の窓下で、弦三は不思議な音楽を耳にした。

 それはまさしく、この家の中から、しているのだった。

 雑音のガラガラいう、あまり明瞭めいりょうでない音楽だったけれど、曲目きょくもくは正しく、ショパンの「葬送行進曲ヒューネラル・マーチ

 、葬送曲!

 一体、誰が、いま時分「葬送行進曲そうそうこうしんきょく」をやっているのだろう。

 彼は痛手いたでを忘れて、窓のわくにつかまりながら、家の中をのぞきこんだ。

 おお、そこには蝋燭ろうそく灯影ほかげに照し出されて、一人の青年が倒れていた。その前には、小さいラジオ受信機が、ポツンと、座敷の真中に、ほうり出されていた。

 音楽は、まぎれもなく、そのラジオ受信機から出ているのだった。

(JOAKが、葬送曲をやっているのだろうか、物好きな!)

 弦三は、むかむかとして、脚の痛みも忘れ壊れた窓の中へ、もぐり込んだ。

 入って来た人の気配けはいに気付いたものか、死んでいると思った青年が、白い眼を、すこし開いた。

 そしてうめくように言った。

「君、あれを聞きましたか。アメリカの飛行機のり、飛行機の上から、あの曲を放送しているのですよ。無論、故意にJOAKと同じ波長でネ。しゃれた真似をするメリケン野郎……」

 弦三は、それを聞くと、ムクムクッと起きあがって、諸手もろてで受信機を頭上高くもちあげると、

「やッ!」

 と壁ぎわに、叩きつけた。

「うぬ、空襲葬送曲まで、米国のお世話になるものか、いまに見ておれ、この空襲葬送曲は、熨斗のしをつけて、立派に米国へ、返してやるから……」

 死にかかっている青年にも、それが通じたものか、燃えのこった蝋燭の灯の蔭で、満足そうに、ニッと笑った。



   爆撃下ばくげきか帝都ていと



 うめきつつ、喚きつつ、どッどッと流れてゆく真黒の、大群衆だった。

 彼等は、大きなベルトの上に乗りでもしたように、同じ速さで、どッどッと、流れてゆくのだった。

「やっと、新宿しんじゅくだッ」

 誰かが、隊の中から、叫んだ。

「甲州街道だッ。もっと早く歩けッ!」

「中野の電信隊を通りぬけるまでは、安心ならないぞォ!」

 しゃがれた、空虚な叫喚きょうかんが、暗闇の中に、ぶつかり合った。

 群衆の半数を占める女達は、疲労と恐怖とで、なんにも口が利けないのだった。唯、母親の背で、赤ン坊が、ヒイヒイと絶え入りそうな悲鳴を、あげていた。

 この大群衆は、東京を逃げだしてゆく市民たちだった。爆弾と、毒瓦斯と、火災とに追われて、生命を助かりたいばっかりに、めいめいの家を後に、逃げだしてゆく人々だった。

 何万人という群が、あの広い新宿の大通にギッシリつまって、押しあい、へしあい、洪水こうずいの如く、流れ出てゆくのだった。すべては、徒歩の人間ばかりだった。円タクやトラックの暴力をもってしても、この真黒な人間の流れは、乗り切れなかった。無理に割りこんだ自動車もあったが、たちまち、人波にもまれて、橋の上から、突き落されたり、米軍の爆弾がえぐりとっていった大孔おおあなの底に転がりおとされたりして、車も人も、滅茶滅茶になった。

 避難民の頭上には、姿は見えないが、絶えず、飛行機のプロペラの唸りがあった。叩きつぶすような、機関銃の響が、聞えてくることもあった。何が落下するのか、屋根の上あたりに、キラキラと火花が光って、やがてバラバラと、つぶてのようなものが、避難民の頭上に降ってきた。

「ウ、ウ、グわーン、グわあーン」

 大地が裂けるような物音が、あちらでも、こちらでもした。それは、ひっきりなしに、米軍が投げおとす爆弾の、炸裂さくれつする響だった。そのたびごとに、

「キャーッ」

「こ、こ、こ、殺してれッ」

「あーれーッ」

 と、此の世の声とは思えぬ恐ろしい悲鳴が聞えた。阿鼻叫喚あびきょうかんとは、正に、その夜のことだったろう。

 その狂乱のちまたの真ッ唯中に、これは、ちと風変りな会話をしている二人の男があった。

「旦那、もし、旦那」印袢纏しるしばんてんを着ていることが、こんかおりで、それと判った。

「ウ、なんだネ」

 こっちは、頤髯あごひげがある──向う側のビルディングの窓硝子まどガラスが照空灯の反射で、ピカリとひらめいたので、その頤髯あごひげが見えた。

「いま、何時ごろでしょうかネ」熱ッぽい、調子はずれの声が、きいた。

「そうだナ──」頤髯男は、どッと、ぶつかってくる避難民の一人を、ウンと突き戻すと、クルリと後を向いて、夜光時計の文字盤を眼鏡にスレスレに近づけた。

「ああ、午後九時だよ」

「九時ですかい」印袢纏しるしばんてんは、間のぬけた声をだした。

「今夜は、莫迦ばかに、夜が永いネ」

「ほほう」髯は、暗闇の中で、眼を丸くしたのだった。

「君は、ずいぶん、落付いてるナ」

「旦那は、どこへ逃げなさるんで……」

「僕かい?」髯は、湖のような静かな調子で云った。

「僕は、これから、研究室へ、出勤するんだ」

「冗談じゃありませんぜ、旦那」印袢纏が呆れたような声をだした。「夜更よふけの九時に、出勤てのは、ありませんよ。それに、旦那の行くところはどちらです」

神田かんだ駿河台するがだいだよ」

「へへえ、すると旦那は、お医者さまかネ」印袢纏は、駿河台に病院の多いのを思い出したのだった。

「ちがうよ」と、あっさり云った。「君は、どこへ逃げるのかい」

あっしのことかネ。あっしは、逃げたりなんぞ、するものか。今夜は閑暇ひまになったもんだから、一つ市中へ出てみようと思うんで」

「ナニ、閑暇ひまだから、市中へ出る──」髯は、髯をつまんで、苦笑した。「それにしては、すこし、空中も、地上も騒がしいぞ」

 その言葉を、裏書するように、どーンと又一つ、火柱が立った。赤坂の方らしい。

あっしは、平気ですよ」印袢纏が言った。「ねえ旦那、アメリカの飛行機が、攻めて来たかは知らねえが、東京の人間たちのこのあわて加減は、どうです。震災のときにも、ちょいと騒いだが、今度は、それに輪を十本も掛けたようなものだ。青年団が何です。消防隊が何です。交通整理も、在郷軍人会も、お巡りさんも、なっちゃいない。第一、あっし達の献納けんのうした愛国号の働きも、一向無いと見えて、この爆弾の落っこちることァ、どうです。防護隊というのがあるということだが、死人同様だァな、畜生」

 髯は無言で、場所を出てゆこうとしたが、生憎あいにく、又ピカリと窓硝子が光ったので、印袢纏しるしばんてんに発見されてしまった。

「旦那、行くんなら、あっしも、お伴しますぜ。どうせ、今夜は、仕事が休みなんで」

「僕は、早く研究室へ行きたい──」

あっしが力を貸しましょう。皆、向うから、こっちを向いてくるのに、先生とあっしだけは、逆に行くんだ。裏通をぬけてゆかなくちゃ、とても、進めませんぜ」

「君は、防毒マスクを持ってるかい」

「持ってませんよ、そんなものは」

「それでは、毒瓦斯がやってくると、やられちまうぞ。悪いことは云わぬ。その辺の、毒瓦斯避難所へ、隠れていたまえ。生命が無くなるぞ」

「毒瓦斯かネ」印袢纏は、やや悲観の声を出した。「先生、手拭てぬぐいでは駄目かネ」

「手拭じゃ駄目だ」

「手拭に、水をひたしては、どうかネ」

「そんなことで、永持ちするものか」

「そいつは、弱ったな」

 二人が、押問答をしているとき、新宿の大通りでは、突如として、修羅しゅらちまたが、演出された。

 うわーッという群衆のわめごえが、市外側の方に起った。それに交って、ピリピリと、警笛が鳴った。

「瓦斯弾が、落ちたぞオ」

「毒瓦斯がきたぞオ」

 どッと、避難民の群は、崩れ立った。

 避難路の前面に、瓦斯弾が落ちたらしく、群衆は悲鳴をあげて、吾勝ちに、引っ帰してきた。それが、市内の方から、押しよせてくる何万、何十万という、まだ瓦斯弾ガスだんの落ちたことを知らない後続こうぞくの避難民と、たちまち正面衝突をした。老人や、女子供は、ッという間もなく、押し倒され、その上を、何千人という人間が、踏み越えていった。またたく間に、新宿の大通には、千四五百名の死骸が転った。その死骸は、どれもこれも、眼玉はポンポン飛び出し、肋骨ろっこつは折れ、肉と皮とは破れて、誰が誰やら判らない有様になった。すこしでも強い者、すこしでも運のいい者が、前に居る奴の背中を乗越え、頭を踏潰して、前へ出た。腰から下半身一帯は、遭難者の身体からほとばしり出た血潮で、ベトベトになった。まるで、赤ペンキを、一面に、なすりつけたような恐ろしい色彩いろどりだったが、暗黒の中の出来事とて、それに気のつく者が無かったのは、不幸中のさいわいだった。もしその血の池から匍い出してきたような下半身が、お互いの目に映ったなら、幾万人の避難民は、あまりの浅間しさに、一時に錯乱してしまったことだろう。

 そんなにまで一心になって、迫りくる毒瓦斯から脱れようと人々は藻掻もがいたが、一尺逃げると二尺押返えされ、一人をたおすと、二人が押して来、そのうちに、咽喉のあたりが、チカチカ痛くなった。

「瓦斯だッ」

 と気のついたときには、既に遅かった。魚のはらわたが腐ったような異臭が、身のまわりにただよっているのだった。胸の中は、灼鉄やきがねを突込まれたように痛み、それでせき無暗むやみに出て、一層苦しかった。胸から咽喉のあたりを締めつけられるような気がした。金魚のように、大きく口をパクパクやったが、呼吸はますます苦しくなった。頭がキリキリと痛くなり、眩暈めまいがしてきた。前の人間の肩をつかもうとするが、もう駄目だった。地球が一と揺れゆれると、堅い大地が、イヤというほど腰骨にぶつかった。全身が、木の箱か、なんかになってしまったような感じだった。

「うー、痛ッ」

 誰かが、太股を踏みつけた。

「うーむ」

 腹の上を、靴で歩いている奴がいる。

「うわーッ」

 胸の上で躍っているぞ。肋骨が折れる、折れる。

「ぎゃーッ」

 頭を足蹴あしげにされた。腹にもった。胸元むなもとを踏みつけては、駆けだしてゆく。あッ、口中こうちゅうへ泥靴を……。

 あとは、なにがなんだか判らなかった。

 パタリパタリと、群衆は、障子しょうじを倒すように、折重なって倒れていった。

 街の片端から、メラメラと火の手があがった。濛々もうもう淡黄色たんこうしよくを帯びた毒瓦斯が、霧のように渦を巻いて、路上一杯にってゆく。死屍累々ししるいるい酸鼻さんびきわめた街頭が、ボッと赤く照しだされた。市民の鮮血せんけつに濡れた、アスファルト路面に、燃えあがる焔が、ギラギラと映った。横丁よこちょうから、バタバタと駈け出した一隊があった。彼等は、いずれも、防毒マスクを、頭の上から、スッポリかぶっていた。隊長らしいのが、高く手をあげると、煙りの中に突進していった。後の者も、遅れずに、隊長のあとを追った。それは任務に忠実な、生き残りの青年団員でもあろうか。

 近くに、サイレンの響がした。毒瓦斯の間からヒョックリ顔を出したのは、真赤な消防自動車だった。だが、車上には、運転手の外に、たった二人の消防手しか、残っていなかった。その中の一人は、マスクの上から、白い布で、いたいたしく、頭部をグルグルきにしていた。

 消防自動車は、ヨロヨロよろめきながら、燃えあがる建物めがけて、驀進ばくしんしていった。二人の消防手は、いつの間にか、舗道ほどうの消火栓の前で、力をあわせて、重い鉄蓋てつぶたをあけようと試みていた。

 郊外へげようと、洪水のように押出してきた、さしもの大群衆も、前面から襲ってきた毒瓦斯に捲きこまれて、一溜ひとたまりもなく、たおれてしまった。雑沓ざっとうちまたは、五分と経たぬ間に、無人郷ノーマンズ・ランドに変ってしまった。その荒涼こうりょうたる光景は、関東大震災の夜の比ではなかった。

 大通りのところどころには、それでも、三人、五人と、異様な防毒マスクをめた人達が集結して、ゴソゴソやっていた。

「どんな人を、救護しますか」

 大蜻蛉おおとんぼの化物のような感じのする防毒マスクが二つって、かろうじて、こんな意味を通じた。

「救護して、あとで戦闘ができそうな人を選べ!」

 一方が、赤色手提灯あかいろてちょうちんの薄い光の下に、手帖をひろげて、読みにくい文字を書いた。

 他の一人が、それを見て、隊長らしいのをグングン向うへ引張っていった。彼は手真似で、隊長に話をした。

「そこの横丁の塵箱ごみばこの中から赤ン坊の泣声がするが、助ける必要はないか?」

 ゆびさすところに、真黒な大塵箱おおごみばこがあって、明かに、赤ン坊の泣き声がする。後から駈けつけた一人が、近づいて、イキナリ、塵箱の蓋を開けようとした。隊長らしい男が、おどろいた風で、塵箱にかかった男の腕をとらえた。そして部員を促して、毒瓦斯の沈澱する向うの闇へ、前進していった。

(開けば、塵箱の中の赤ン坊は、直ぐ死ぬだろう。開かないのが、せめてもの情けだ)

 そんなことを、隊長は、考えていた。

 また一つ、崩れるような大きな爆発音がして、新宿駅の方が急に明るく火の手があがり、それが、水でも流したように、見る見るうちに四方八方へ拡がり、あたり近所が、一度に、メラメラと燃え出した。焼夷弾しょういだんが落ちたらしい。

 焔に追われたような形で、最前の、マスクを被った髯男ひげおとこと、マスクの代りに手拭様てぬぐいようのもので顔の下半分を隠した例の印袢纏しるしばんてんの男とが兎のようにねながら、こっちへ、やってきた。

 赤ン坊の泣き声がするという塵箱の傍まで来たときに、印袢纏の男は、急にガクリと、地上に膝をついた。

「く、く、苦しい。先生、ク、ク、薬を、もっと、もっと、入れて下さいィ──」

 印袢纏の男は、始めの元気を何処かへ振り落していた。彼は自分の猿轡さるぐつわを掻きむしるようにはずすと、髯男の方へ、片手を伸ばした。どうやら、髯男が、持ち合わせの漂白粉ひょうはくふん活性炭素かっせいたんそを利用して、応急のマスクを作ってやったのが、もう利かなくなったらしい。

 髯男は、マスクの硝子越しに、連れの顔をのぞきこんだ。

ッ、マスク! マスク!」

 印袢纏の男は、何を見たのか、猛然と上半身を起こして、すぐ目の前にころがっている一個の死体にとびついた。彼は、死体の顔にはまっている防毒マスクを、力まかせに、もぎとろうとした。

 髯男は、あまりの浅間しさに、ただもう、あきれ顔に立っていた。

 マスクは、死体から、ポクリと外れた。マスクの下には、若い男の、苦悶にみちた死顔があった。

 印袢纏は、奪ったマスクに狂喜して、自分の顔に充てたがどうしたものか、その場に昏倒こんとうしてしまった。髯男は、すぐさま駈けよって、防毒マスクを被せてやった。印袢纏は、そのまま動かず、地上にながながと伸びていた。

 髯男は、マスクを外された若い男の傍に近よった。その青年は、もうとっくに死んでいた。それは勿論、瓦斯中毒ではないことは一と目で判った。下半身が滅茶滅茶にやられているのだった。次第に燃えさかってくる一帯の火災は、無惨むざんにも血と泥とにまみれた青年の腹部を、あかあかと照しだした。

 死んだ青年は、背中に大きい包みを背負っていた。髯男ひげおとこは、それが、なんとなく気懸きがかりになったので、手早く解いてみた。その中から、ゴロリと転りだしたのは、真黒の、三つの防毒マスクだった。

「ほう、防毒マスク?」

 髯男は、不審そうに、あたりを見廻した。

「ヒイヒイ」

 そのとき、枯れきったような赤ン坊の泣き声がした。

「おお、このゴミ箱に、人間がいるッ!」

 ゴトリゴトリ、大塵箱おおごみばこの内部で、赤ン坊にしては大きい物音がした。

 イキナリ、箱の蓋が、ガタリと開いて、真黒の顔をした男がヌッと、上半身を出した。咄嗟とっさに、髯男は気がついて、死んだ青年が、背負っていたマスクの一つを、その男の頭に、スッポリ、被せてやった。それはまさしく時機に適したことだった。周りにはホスゲンのいやにおいが、いまだプンプンとしていた。

 その男は、防毒マスクに気がついたのでもあろうか、かたわらを指さした。髯男が見ると、そこには、若い女が、彼女の子供でもあろうか、赤ン坊を、しっかり胸に抱いていた。髯男はおどろいて、機をはずさず、残りの二つのマスクをめいめいに被せてやった。その一つは、偶然にも、当歳の赤ン坊用のマスクだった。

「なんという不思議な暗合だろう。親子三人に、親子三人用のマスク!」

 髯男は、むずい数学解法を発見でもしたかのように、驚嘆きょうたんした。

 だが、この親子三人が、花川戸はなかわど鼻緒問屋はなおどんや下田長造の長男、黄一郎きいちろう親子であり、マスクを背負っていた死青年は、同じく長造の三男にあたる弦三であり、弦三は死線を越えて、兄達に手製のマスクを届けようと、負傷の身をこらえてどうやら此の場所まで来たところを、自制のない群衆のため、無残にも踏み殺されたものであって、弦三は死んだが、その願いは、きわどいところで達せられたことを髯男が知ったなら、彼はどんな顔をしておどろいたことであろうか。いや、あとで、黄一郎親子が、マスクの裏に記された「弦三作げんぞうさく」のめいに気がついたなら、どのように叱驚びっくりすることだろうか。

 しかし、そのときは、一切が夢中だった。黄一郎親子は、仮りの避難所である塵箱ごみばこの中に居たたまらず、一と思いに死ぬつもりで蓋を払ったところを、思いがけなく防毒マスクを被されたので「助かるらしい」と感じた外は他をかえりみ余裕よゆうもなかったのだった。しかも、背後には、恐ろしい火の手が迫っていた。黄一郎親子は、感謝すべき肉身の死骸の直ぐ傍に立っておりながらも、遂にそれと気付かず、蒸し焼きにされそうな苦痛から脱れるため、後をも見ずに逃げだした。

 それに続いて、髯男が、やっと気がついたらしい印袢纏しるしばんてんの男を、引立てながら、これも逃げだしたのだった。

あっしは、はずかしい!」

 死人の顔から、防毒マスクを奪いとろうとした浅間しい行為を恥じるものの如く、印袢纏しるしばんてん氏は、マスクの中で、幾度も、幾度も、苦吟くぎんを繰返した。

 大通りののきを境に、火焔と毒瓦斯とが、上下に入り乱れて、噛み合っていた。



   とつ! 売国奴



 愛宕山あたごやまの上では、暗黒の中に、高射砲が鳴りつづいていた。照空灯が、水色の暈光うんこうをサッと上空にげると、そこには、必ず敵機の機翼きよくが光っていた。まるの中に星が一つ──それが、米国空軍のマークだった。

「グわーン、グわーン」

 高射砲の砲口から、杏色あんずいろの火焔が、はッはッと息を吐いた。敵機は、クルリと、横転おうてんをすると、たちまち闇の中に、姿を消して行った。異様なプロペラのうなごえが、明らかに、耳に入った。

 照空灯は、サッと、光を収めた。

「ラッ、タッ、タッ」

 頭上に、物凄いエンジンの響が、襲いかかった。

「ラッ、タッ、タッ」こっちでも、高射機関銃が打ちだした。

 ぱッ──。くらくらッとする鋭い光に照された。

「ど、ど、ど、ど、どーン」

 ゆらゆらと、愛宕山あたごやまゆらいだ。

「少尉殿、少尉どのォ!」

 誰かが、こんかぎりに呼んでいる。

「オーイ」社殿しゃでんわきで、元気な返事があった。

「少尉殿。聴音機第一号と第三号とが破壊されましたッ」

「第四号の修理は出来たかッ」

「まだであります」

「早く修理して、第二号と一緒に働かせい」

「はいッ。第四号の修理を、急ぐであります」

 兵は、バタバタと帰っていった。

(聴音機が、たった一台になっては、この山の任務も、これまでだナ)

 東山少尉は、暗闇の中に、唇を噛んだ。七台の聴音機は、六台まで壊れ、先刻の報告では、高射砲も三門やられ、のこるは二門になっていた。

 兵員は?

 もともと一小隊しか居なかった兵員は、四分の一にも足らぬ人数しか、残っていなかった。

「ピリピリ。ピリピリ」

 振笛しんてきが、けたたましく鳴り響いた。毒瓦斯が、また、やってきたらしい。

 何か、わめく声がする。胡椒臭こしょうくさい、刺戟性しげきせい瓦斯ガスが、かすかに、鼻粘膜びねんまくを、くすぐった。

塩化えんかピクリンか!)

 東山少尉は、腰をひねると、防毒マスクをとりあげた。

催涙瓦斯さいるいガスだぞオ、催涙瓦斯だぞオ!」

 瓦斯警戒哨けいかいしょうが、大声に、呶鳴どなっていた。

 東山少尉は、そのとき、何を思ったのか、ツと、二足、三足前方にすすんだ。

「どうも、おかしいぞ」

 前方の、放送局の松林まつばやしあたりに、可也かなりおびただしい人数が移動している様子だった。演習慣れした少尉の耳には、その雑然たる靴音が、ハッキリと判った。

 どこの部隊だろうか?

 司令部が寄越した援兵えんぺいにしては、無警告だし、地方の師団から救援隊が来るとしても、おかしい。

 軍隊ではないのかも知れない。

 少尉は、背後に向って、携帯用の懐中電灯を、なな十字じゅうじに振った。それは下士官を呼ぶ信号だった。

 コトコトと足音あしおとがして、軍曹の肩章けんしょうのある下士官が、少尉の側にピタリと身体を寄せた。

吉奈軍曹よしなぐんそうであります」

 軍曹は、マスクの中で、できる限りの声を張りあげたのが、少尉の耳に、やっと入った。

「おう、吉奈軍曹。至急偵察を命ずる。放送局裏に、不可解ふかかいの部隊が集結しているぞ。突入とつにゅう誰何すいかしろ。友軍だったら、短銃ピストルを二発射て。怪しい奴だったら、三発うて。避難民だったら、四発だ。時節がら、怪しい奴かも知れぬから、臨機応変、細心に観察して、判ったら直ぐ知らせろッ」

 軍曹は、わかったと見えて、首を上下に振った。

「では、行け」

 軍曹は、右手に、短銃ピストルを握ると、放送局舎目懸けて、驀進ばくしんした。

 少尉は、直ちに、別の信号をして、兵員の急速集結を命じた。部署に最少限度の兵員を残して、あと二十名ばかりのものが集ってきた。彼等は、取敢えず、三門の機関銃をいた。

「少尉殿」耳の側で、伝令兵が叫んだ。

 少尉は首を振って、応答した。

「警備司令部との連絡電話が切断したであります」

「なにッ」少尉は、おどろいて、伝令兵の腕を握った。「無線電話はどうかッ」

「無線電話にも、司令部の応答が、無いであります」

「無線も駄目か。はあて──」

 途端に、前方で、銃声が響いた。

「パ、パ、パン!」

 うむ、さては、怪しい者だ。

 三発の短銃ピストルの音に、つつみをきられたように、向うの方に、銃声が起った。バラバラと、弾丸が飛んでくる!

 丁度ちょうど、そのとき、異様な響をたてて、一台の飛行機が、火焔に包まれ、錐揉きりもみになって、落下してきた。焼けのこった機翼の尖端せんたんに、チラリと、真赤な日の丸が見えた、と思った。次の瞬間には、囂然ごうぜんたる音響をあげて放送局裏の松林の真上に、機首をつっこんだ。パチパチと、物凄い音がして、松林が、ドッと燃えあがった。急に、あたりは、赤々と照し出された。そこは、吉奈軍曹が、突入したあたりだった。

 見よ、局舎のまわりには、四五百名近い人間が集っていた。彼等の半分は、陸軍々人だった。のこりの半分は、背広だの、学生服だの、雑然たる服装をしていた。顔は、マスクで見えない。ことごとくの人間が、防毒マスクをしていた。軍隊と市民との混成隊とでも云いたいものであった。

(なぜだ。なぜだッ)

 東山少尉は、不思議な軍隊を向うに廻して不審をうった。彼等は、こちらの陣地を認めて、小銃を乱射し、手榴弾しゅりゅうだんを投げつけた。小銃はとどいたが、手榴弾は、ずっと遠方で炸裂さくれつした。

 軍隊を狙撃そげきする軍隊なのである。そのような、不可解な軍隊を向うに廻して、東山少尉の部下は、敵慨心てきがいしんを起す前に、悒鬱ゆううつにならないわけにゆかなかった。

 向うの集団は、二手に別れた。一隊は、局舎の周囲を、グルグル廻っては、しきりに発砲していた。他の一隊は、地にい局舎を掩護物えんごぶつにして、ジリジリと、こっちを向いて進撃してきた。

 少尉の部下は、イライラしてきたが、少尉は、まだ発砲の号令を出さなかった。

(たしかに、おかしい。あの兵士等の、鉄冑てつかぶとかぶようあやしい。姿勢も、よろしくない。うン、これは、真正ほんとの軍隊ではない。それならば、よオしッ)

かた用意!」東山少尉は、マスクを取ると、大声に叫んだのだった。「敵は陸軍々人の服装をしているが、不逞群衆ふていぐんしゅう仮装かそうであると認める。十分に撃ちまくれ、判ったな。──左翼、中央の両隊の目標は、敵の散開線さんかいせん、右翼は横を見て前進、放送局の守備隊と連絡をとれイ。撃ち方、始めッ」

 猛烈な機関銃隊の射撃ぶりだった。

 敵は、最初のうちは、明かに、狼狽ろうばいの色を見せたが、暫くすると、いきおい盛返もりかえし、手榴弾を、ポンポンとげつけては、機関銃を、一門又一門と、破壊していった。

 東山少尉は、振笛しんてきを吹いて、残りすくない部下を、非常召集した。だが、敵は多勢たぜいで、服装に似ず、戦闘力は強かった。局舎守備隊も苦戦と見えて、連絡は、どう頑張っても、とれなかった。最後の任務を果たすために、飯坂いいさか上等兵と姥子うばこ一等兵を選抜して、東京警備司令部へ、火急かきゅうの報告に出発させた。少尉が、腹部を射ちぬかれたのは、それから五分とたない後だった。愛宕山高射砲隊は、ここに一兵も余さず、全滅を遂げてしまった。

 放送局の守備隊も、それよりずっと前に、同じような悲惨な運命を辿たどっていた。局舎内には、警備司令部の塩原大尉を首脳として、司令部付の警報班員が数名いて、最後まで頑強がんきょうに抵抗したが、数十倍に達する暴徒を向うに廻しては、勝てよう筈がなかった。軍人たちは、赤色灯せきしょくとうともる局舎のあちらこちらに、射斃いたおされ、非戦闘員である機械係りや、アナウンサーは、不抵抗ふていこうを表明した。こうして、JOAKは、不可解な一隊に、占領されてしまったのだった。

 しかし、どうしたものか、局舎のうちには、塩原参謀と、杉内アナウンサーの姿が見当らなかった。死骸の中にも、無論のこと、二人を探しあてることは、出来なかった。

「さあ、皆さん」陸軍の将校の服装をした男が、案外やさしい声で、第一演奏室の真中に立って叫んだ。「放送局の衆は、こっちへ並んで下さい。同志は、あっちの方へ固まって下さい」

 彼は、軍帽を、床の上にげ捨てた。房々ふさふさした頭髪が、軍人らしくもなく、ダラリと額にぶら下った。それから彼は、胸の金釦きんボタンを一つ一つ外していって、上衣をスッポリ脱ぎすてた。軍服の下に現われたものは、焦茶色こげちゃいろのルパシカだった。

「放送局の方々かたがたよ」彼は団長らしい落付を見せて、だが鋭く、呼びかけた。「われわれは、戦争否定主義の者です。戦争は、即時やめさせなければならない。そうでないと、世界の平和は来ない。それには、第一に、日本が武装を捨てることだ。私が今、軍服を脱いだように。──で皆さん、僕達同志は、そういう意味に於て、この機会に世に出たのである。雷門かみなりもんを中心とし、下谷したや浅草あさくさ本所ほんじょ深川ふかがわの方面では、同志が三万人から出来た。貴方たちも、加盟していただきたい。どうです!」

 局員は、申合わせたように、黙っていた。

「返事がなければ」と、例の男が、たちまち恐ろしいおもてかがやかしていった。「主義反対と見なしますぞ。われわれが、道々って来たと同じ方法により、主義反対の者の解消を要求する」

 キラリと、ルパシカ男の手に、短銃ピストルが光った。

「……」

 誰も彼もが、一せいに、両手をあげた。

「それなら、よろしい。はッはッはッ」

 ルパシカ男は、短銃をポケットに収めた。

「では、戦争否定同盟の同志として、あらたに命令する。大至急で、全国放送の用意をして呉れ給え」

 局員は、たじたじとなった。

「帝都の空中襲撃が終るまで、放送するのは危険です。まるで電波で、帝都の在所ありかを報らせるようなものですから」

「いいから、用意をし給え」

「それに軍部の命令……」

「もう一度、云って見給え。同盟の一員として判らなければ、物を云わせるぞ、君」

 ルパシカ男は、頑強に反対する一局員の胸元むなもとに、短銃の口を、圧しつけた。

 局員は、歯を喰いしばって、大きくうなずいた。

「承知しました。では皆、命令に従って、放送機のスイッチを入れよう」

 局員は、団員に守られて、機械室の方へ出ていった。

「おや、まだマスクを掛けている人があるじゃないか」団長はギョロリと、眼を光らせた。「もう瓦斯はないから、脱ぎ給え」

 団員は、てんでに、マスクを脱いだ。

 すると、そこには、驚くべき新事実が曝露ばくろしたのだった。団員の中には、多数の婦人と、中学生女学生も交っていた。全体として見ても、団員は三十歳どまりの若い者ばかりだった。その中には、たがいった者もいた。だが、彼等は、語ることを、団長達の前に、さしひかえなければならなかった。

 更に、驚くべきことは、この一団のうちに、花川戸はなかわど鼻緒問屋はなおどんや下田長造しもだちょうぞうの妹娘の紅子と、末子すえっこの中学生、素六とが、一隅いちぐうに慄えていることだった。

 そもそも、あの善良なる素六そろく少年と、モダン娘の紅子べにことは、一体どうした訳で、こんな一団に加わっているのであろうか。

 それについては、空襲下の下町方面したまちほうめんの情況について、少しばかり述べて置かねばならない。



   ゲーペーウー侵入しんにゅう



 下町方面は、古くから、空襲教練が、たいへん行届いている模範的の区域だった。たびたびの防空演習に、町の人々は、いつも総出で参加した。すこし芝居好きのところは、あったにしても、あれほど熱心に、灯火管制の用意に黒色こくしょく電灯カバーを作ったり、押入おしいれを改造して、防毒室を設けたり、配電所に特別のスイッチをもうけたりして、骨身をおしまないのは、感心にたえなかった。

 それが、あの本物の空襲下にさらされて、どこの区域よりも二三倍がた、混乱ぶりのひどかったことは、まことに意外の出来ごとだった。そのような大混乱の元は、なんであるかというと第一に、いつもの演習は、少壮気鋭しょうそうきえいの在郷軍人会の手で演じていたのが、本物の空襲のときには、その在郷軍人たちの殆んど全部が、召集されて、某国へ出征していたために、残っている連中だけでは、どうもうまく行かなかったこと。第二には、しっかりした信念がなくて、流言蜚語りゅうげんひごに、うまうまと捲きこまれ秩序が立たなかったこと。この二つの原因が混乱の渦巻を作ってしまった。

 鼻緒問屋、下田長造の三男で、防毒マスクの研究家だった弦三が、自作のマスクを背負って、新宿附近に住む長兄黄一郎親子に届けるために、花川戸を出たのは、敵の飛行隊が帝都上空に達するほんの直前のことだった。

 弦三は、なんのことはない、死の一歩を踏みだしたようなものだった。まず駈けつけた地下鉄の中で、彼は、避難群衆に、不穏ふおんの気が、みなぎっていることを、逸早いちはやく見てとったのだった。弦三の乗りこんだ地下電車が、構内を離れて間もなく、不穏分子の振舞ふるまいは、露骨ろこつになって行った。

 ねて、手筈ができていたものと見え、地下鉄の駅長は、避難してくる群衆を、無制限に地下構内へ入れすぎるという、極くつまらない理窟りくつをもって、群衆の袋叩ふくろだたきに合ったのだった。暴徒の一味は、群衆が、興奮した様子につけこんで、今度は、切符売場を襲撃したのだった。金庫は、みるみる破壊され、銀貨や紙幣が、バラバラと撒き散された。群衆は恐さも忘れて、慾心よくしんまるだしに、金庫を目懸けて突進した。五十銭銀貨を一枚でも、てのひらの中につかんだものは、強奪の快感の捕虜となって、ますます興奮を、つのらせて行った。五円紙幣を手に入れたものは、顔までが、悪魔の弟子のようになった。獣心じゅうしんが、檻を破り、ムラムラと、飛びだした。一味の者は、細心の注意をもって、機会を見ては、巧みに、煽動した。居合わせた婦女子は、おどろきのあまりに、失心しっしんする者が多かった。正義人道を口にするものが、四五人もいて頑張れば、群衆の冷静さを、幾分とりもどせたろうと思われたが、誰もが呆然自失ぼうぜんじしつしていて、適当な処置をあやまったのだった。一味の計画は、すっかり、図に当った。

「××人が、本当に暴れだしたぞォ」

「東京市民は、愚図愚図ぐずぐずしていると、毒瓦斯で、全滅するぞ。兵営に、防毒マスクが、沢山貯蔵されているから、押駆けろッ」

「デパートを襲撃して、吾等の払った利益をとりかえせ」

「国防力がないのなら、戦争を中止しろッ」

「放送局を占領しろッ」

 などと、さまざまな、不穏指令ふおんしれいが、街頭に流布るふされた。

 警官隊も、青年団も、敵機の帝都爆撃にばかり、注意力が向いていて、暴徒が芽をだしはじめたときに、早速さっそく苅りとることに気がつかなかった。

 暴徒一味の煽動は、さまざまの好餌こうじを、市民の中にひけらかし、善良な人達までが、羊の皮を被った狼にだまされて、襲撃団の中に参加したのは、物事が間違う頃合いにも程があると、後になってなげかれたところだった。

 若い青年男女は、あゆとも釣のようなわけで、深い意味もわからず、その団体に暴力を以て加盟させられた。一味幹事の統制ぶりは、実に美事であった。いろいろな別働隊が組織され、各隊は迅速じんそくに、行動に移った。

 長造の妹娘の紅子べにこと、末ッ子の素六そろくとは同じような手で、参加をいられた。

 長造とお妻が、涙をもって止めたが、それは何の役にも立たなかった。馴染なじみの誰々さんも入っている──たったそれだけのことで、若い人達の参加を決心させるに充分だった。「放送局を襲撃しろッ」

 ハッキリと、加盟団の指令が出たときには若い人達は、やっと気がついた。だが、それは、もう遅かった。幹部の手には、物々しい武器が握られていた。反抗したが最後、その兇器が物を云うことは、いくら若い連中にもよく解った。

 紅子と素六とは、恐怖と反省とに責められながら、放送室の一隅に、突立っていた。

 放送局襲撃隊の指導者は、鬼川壮太おにかわそうたといった。

「放送準備は、まだ出来ないのかネ」鬼川は団員の一人に訊いた。

「もう直ぐです」団員は答えた。「いま、水冷管すいれいかんに冷却水を送り始めました」

「電気は、来ているのですか」

猪苗代水電いなわしろすいでんの送電系統は、すっかり同志の手に保持されています。万事オーケーです」

 指導者鬼川は、満足そうにうなずいた。

「放送準備が出来ましたよ」

 奥の方から、これも電気係りの団員が、大声で報せて来た。

「よおし。では、始めよう」

 鬼川は、チラリと時計を出して、云った。

「午後九時四十分か。保狸口ほりぐち君、手筈どおり全国アナウンスをしてたまえ」

 保狸口と呼ばれた団員は、ニヤニヤと笑うと、ポケットから細く折った半紙をとり出して、マイクロフォンの前に立った。

「J、O、A、K」

 素六や紅子たちは、その声を、何処かで、聞き覚えのある声だと思った。

「大変お待たせをいたしました」保狸口は云うのだった。「唯今やっと、放送許可が出ましたような次第でございます」

 素六は、やっと、気がついた。保狸口という男は、地声じごえか、声帯模写せいたいもしゃかはしらないが、声だけ聞いていると、なんのことはない、放送局の杉内アナウンサーと、区別のつかない程似た声音をもって居り、その音の抑揚よくように至っては、よくも真似たものだと、感心させられた。この放送を聞いたものは、JOAKが例の調子で、放送をやっているものと、簡単に信じるだろうと思われた。

 それにしても、保狸口は、これから一体何事を喋ろうというのだ。

「第一に、申上げますことは、皆さん、御安心下さい。マニラ飛行聯隊の帝都空襲は、一と先ず一段落をつげました。敵機はだんだんと、帝都を後にして、引揚げてゆく模様であります。以上」

 強制団員の中には、この真面まともな放送に、大満足の意を表したものさえあった。だが、敵機は、本当に、帝都の上空から、引揚げていったのだろうか?

「次に、某筋からの命令が参りましたから、お伝えします。東京地方は、警戒解除を命ず。東京警備司令官、別府九州造べっぷくすぞう。繰り返して読みます、エエと──」

 素六は、窓際に立っていたので、不用意に開け放たれた窓から、帝都の空を眺めることが出来た。その真暗な空には、今もなお、照空灯が、青白い光芒を、縦横無尽に、うちふっていた。高射砲の砲声さえ、別におとろえたとは思われなかった。なんだか、怪しい放送である。

「次に、灯火を、早くお点け下さいという命令。目下帝都内は暗黒のために、大混乱にありまして、非常に危険でございますので、敵機空襲も片づきましたることでありますからして、市民諸君は、大至急に電──」

だまされてはいけない、市民諸君、これは偽放送にせほうそうだッ」

 大きな声で、保狸口のアナウンスを圧倒した者があった。

 ズドーン。

 銃声一発。

 ドタリと、マイクロフォンの前にたおれたのは、素六だった。

 指導者鬼川おにかわの手にしたピストルの銃口からは、紫煙しえんが静かに舞いあがっていた。

ッ、素六そろく、素六。しっかり、おしよ。素六ちゃーん」

 鬼川は、断髪女が、仆れた少年を抱いて、大声で呼び戻しているのを見ると、又もや、ズドンと、第二発目を、紅子に向けた。しかし、それは手許てもとが狂って当らなかった。

 死んだのかと思った素六が、ムクムクと起き上った。

「電灯をつけては、いけない。まだ敵の飛行機は──」

 そこまで云うと、素六の頭部は、ガーンとして、何にも聞こえなくなった。保狸口が飛出して、素六を殴りつけたのだった。

 そのとき、突然、局内の電灯が、一時に消えた。

「同志、配電盤を、配電盤を……」鬼川の叫ぶ声がした。

 携帯電灯の薄明りで、室内が、あらためて眺めまわされたとき、素六の身体も、紅子の姿も見当らなかった。それに代って、大きな図体の男が、長々と伸びていた。その額からは、絹糸をひっぱり出したような血のあとが認められた。

「誰だッ」

「やッ。保狸口がやられたッ」

「保狸口が、やられたかッ。折角せっかく、アナウンサーの換玉かえだまに、ひっぱって来たのに……」

 同志は、口々に、わめいた。

「射った奴を探せ!」

「同志の顔を、一々調べて見ろ!」

 そこへ、ドタドタと駈けこんで来たものがあった。

「市内に、電灯が点きはじめたぞ。僕たちの放送は、うまく行ったらしい。同志、出て来て見ろ!」

 ワッというと、誰も彼もが、表へとびだした。

 なるほど、今まで暗澹あんたんとしていた空間に、あちこちと、馴染なじみのある電灯が、輝きだした。電灯が点いてみると、全市を焦土しょうどと化してしまったかと思われた火災も案外、局部に限られていることが、判った。

「ラジオが、聞えたぞ」

「電灯も点いたぞ」

 市民は、聞きなれたアナウンサー(だと思った)の声を聞き、母のふところのようになつかしい電灯の光を浴びて俄かに元気をとりかえしたのだった。

 愛宕山あたごやまの上では、暴徒の指導者、鬼川が、一人で恐悦きょうえつがっていた。

「見ろ、市民は、うまうま一杯、かつがれてしまったじゃないか。これで、大東京の輪廓りんかくが、はっきり浮び上るのだ。米国空軍の目標は、これで充分だ。あとは、約束の賞金にありつくばかり。では、今のうちに、こっそり、失敬するとしよう。それにしても、米軍の攻撃は、莫迦ばかに、ゆっくりしているじゃないか」

 彼は、裏口へげようとしては、不審の面持おももちで耳を澄した。だが、彼の予期するような爆弾投下の爆音は、一向に、響いてこなかった。

「おかしいぞ。どうしたのだろう」

 そのとき、囂然ごうぜんたる爆声が起った。一発又一発。それに交って、カタカタという機関銃の響きだった。

「やったナ。だが、爆弾と、すこし音が違うようだ」

 彼は、逃げ腰になった。

「鬼川君は、いないですか、鬼川君」

 誰かが、向うの放送室で呼んでいる。返事をしようか、どうしようか。

「……」

「鬼川君、軍隊だッ。救援隊らしいのが、山を登って来ますぞ。早く指揮をして下さい。鬼川くーン」

 鬼川は、物も言わずに、裏口へ急いだ。

「やッ」

 カーテンの蔭から、太いたくましい腕がニューッと出た。鬼川は横腹をおさえて、もろくも、転倒した。

 カーテンの蔭から、ルパシカ姿の巨漢が現れた。

「中佐どの、片附けました」

 彼は、カーテンの蔭に言葉をかけた。

 カーテンが、揺れて、思いがけなく、司令部の、湯河原中佐が、顔を出した。

「塩原参謀」と中佐は、呼んだ。ルパシカ男は、いつの間にか局舎から姿を消していた塩原参謀の仮装だった。

「この男を、吾輩に預けてくれんか」

「おまかせいたします」参謀は、直立して言った。「ですが、中佐殿は、これから、どうされます」

「吾輩は、司令部の穴倉あなぐらへ、こいつを隠して置こうと思う。司令官に報告しないつもりじゃから、監禁かんきんの点は、君だけの胸に畳んで置いてくれ給え」

「しかし、くの如き重大犯人を、司令官に報告しないことはどうでありましょうか」

「吾輩を信じて呉れ。二十四時間後には、この事件について、必ず君に報告するから」

「判りました。では、急速に、御引取下さい」中佐は、大きくうなずくと、鬼川の身体を肩に担いで、カーテンの蔭に、かくれてしまった。

 そのころ、放送局の表口では、暴徒の一団と、警備軍の救援隊とが、物凄い白兵戦はくへいせんを展開していた。

 全市に、点灯を命令して、米軍に帝都爆撃の目標を与えるという放送局襲撃の第一目標が、どういう手違いか、すっかり外れ、生き残りの団員は、戦闘の間々に、爆弾の炸裂音さくれつおんを聞きたいものだとあせったが、その期待は、空しく消えてしまった。

 彼等の地位は、だんだんと悪くなって、元気は氷のようにけていった。

 折角うまくやったつもりの放送局占領が、筋書どおりの効目がなく、いやかえって逆の結果となり、東京市民を恐怖のドン底へ追いやる代りに、ラジオと光とは、市民たちの元気を恢復させるに役立ったのだった。同志は、それにやっと気がつくと急に、パタパタとたおれる者がえてきた。

 放送局奪還だっかんは、もう間もないことであった。


 某地域の地下街を占めた警備司令部では、別府司令官をはじめ、兵員一同が、血走った眼を、ギラギラさせて、刻々に報告されてくる戦況に、憂色を増していった。

「立川飛行聯隊では、大分脾肉ひにくたんに、たえかねているようでは、ありませんか」

 一人の参謀が、有馬参謀長に、私語しごした。

「九六式の戦闘隊のことだろう」参謀長は、さもあろうという顔付をした。「だが、司令官閣下は、出動には大反対じゃ」

「海軍の追浜おっぱま飛行隊でも、同じような不満があるらしいですな」

 とうとう「不満」という言葉を使って、参謀は有馬参謀長に、あんに警告を発した。

「うん、判ってる」参謀長は、言葉をのんだ。「だが、気をつけて、口をきけよ」

「はッ」参謀は、粛然しゅくぜんとして、挙手きょしゅの礼をした。(参謀長も、飛行隊の出動命令に、不満を持っていられるんじゃ)と思った。

「司令官の御心配は、近くに起る太平洋方面からの襲撃を顧慮こりょされてのことじゃ」

「そうでもありましょう。しかし、快速をもった敵機に対して、性能ともに劣った九二式や九三式で、太刀打たちうちが出来る道理がありません。帝都の撃滅は、予想以外に深刻であります」

「……」参謀長は、答えなかった。

 伝令が、パタパタと駈けてきた。

川口町かわぐちまち防空隊からの報告でありますッ」

「閣下」有馬参謀長は、司令官の前に直立した。「川口町からの報告が入りました。読みあげさせましょうか」

「いや、よろしい」司令官は、不機嫌に、頭を左右に振った。

「その報告書を、こっちへ、寄越し給え」将軍は、ひったくるようにして、報告の紙片を、手にとった。

「敵国航空軍とおぼしき約十数機よりなる飛行隊は、本町ほんちょう上空を一万メートルの高度をとって、午後九時五十分、北北西に向け飛行中なり。以上。川口町防空隊長、網島あみじま少尉」

 司令官は、紙片を、てのひらのうちに握りつぶすとポイと屑籠くずかごの中に、投げ入れた。

「閣下」参謀長が、やや気色けしきばんで、問いかけた。「唯今の報告は、なんでありましたか」

出鱈目でたらめじゃ」司令官は、吐き出すように云った。「それより君は、部下を、ちと静かにさせては、どうか」

「はッ」参謀長は、静かに挙手の礼をすると、元の卓子テーブルへ帰ってきた。

(閣下は、どうかして居られる)

 参謀長は、湯河原高級副官の姿を探しもとめたが、室内には見えなかった。

(副官までが、どうかしているナ)

 ムラムラと湧きあがってくる焦燥感しょうそうかんを、グッとおさえつけ、かたわらを見ると、年若い参謀は、満面をしゅにして、拳を握っていた。参謀長は、はッと気を取直した。

「草津参謀」彼は一人の参謀に呼びかけた。

「帝都の火災は、どういう状況にあるか」

「はいッ」参謀は、大東京区域図をバリバリ音させて、その上に、太い指を動かした。「淀橋よどばし区、四谷よつや区は、大半焼け尽しました。品川しながわ区、荏原えばら区は、目下もっか延焼中えんしょうちゅうであります。下町したまち方面は、むしろ、小康状態に入りました」

「放送局との連絡は、ついたろうか」

「無線連絡が、もう間もなく恢復するでありましょう」

「空中襲撃の解除警報を出す用意は、出来ているな」

「はいッ。すこし、困難はありますが、やれる見込みです」

「では、閣下に、お願いして見よう」

 参謀長は、又立って、司令官の前に出た。

「閣下、解除警報を出したいと考えます」

「解除警報!」司令官は、大きく眼を開いた。「まだ早すぎる。確乎かっこたる報告が集らぬではないか」

「閣下。例の怪放送者は、すでに先手を打って、敵機の退散をアナウンスして居ります。いわんや、唯今、川口町の報告によれば、敵軍は、明かに、機首を他へ向けています」

「君は、今の報告を盗み見たかッ」

「閣下、盗み見たとは、残念なおおせです。参謀長は、あらゆる報告に、一応目をとおす職責がございます」

「ウム」

の上は、速かに解除警報の御許可を、お与え下さい。市民は、軍部の、正しいアナウンスを、渇望かつぼうして居ります。一刻おくれると、市民の混乱は拡大いたします」

「敵国空軍が、川口の上空から、引返して来たとしたら、どうするかッ」

「そのときは、又、警報を出します。しかし以前の監視哨の報告三種を合わせて、敵軍は日本海方面に引揚を開始していることは、明瞭であります」

「確証がつかないのに、司令官として、解除警報を出すわけにはゆかぬ」

「どうあっても?」

「くどい、参謀長!」

 俄然、司令部の広間は、殺気立さっきだった。

 将校連は、二派に別れて、司令官と、参謀長の背後に、にらみあった。

 何という不祥ふしょうな出来ごとだろう。帝都の運命が累卵るいらんの危きにあるのに、その生命線を握る警備司令部に、この醜い争闘が起るとは。

 流石さすがに、教養のある将校たちのこととて、無暗に、拳銃をしたり、軍刀をひらめかしたりはしなかったが、司令官か、参謀長かの一言さえあれば、刹那せつなに、司令部の広間には、流血の大惨事が、捲きおこるという、非常に緊迫した重大な危機に、立至った。

 司令官の顔は、紙のように蒼ざめて、唇がワナワナと震えて来た。

 参謀長は、満面まんめんしゅを塗ったように怒張どちょうし、その爆発を、紙一枚手前で、堪えているようであった。

 コツ、コツ。

 ドアにノックの響があった。

 室内の、息づまるような緊張が、爆発の直前に、ちょっとゆるんだという形であった。

 やがて、扉は、静かに開いた。

 高級副官、湯河原ゆがわら中佐の円い顔が、あらわれた。この室内の光景を見ると、おどろくかと思いの外、ニヤリと、薄ら笑いを、口辺に浮べたのだった。

 中佐は、ツカツカと司令官の傍に近づいた。

「申上げます。唯今、御面会人で、ございます」

「面会人。誰だッ」

「はッ、唯今、御案内いたします」副官は、入口の方を向いて大声を張上げた。「閣下、どうか、おはいり下さい」

 扉の蔭から、閣下と呼ばれた人物の、カーキ色の軍服が、チラリと見えた。ガチャリと佩剣はいけんが鳴って、一人の将校が、全身をヌッと現わした。

「呀ッ」

「おお!」人々は、呆然ぼうぜんと、其の場に、立竦たちすくんだ。

 そこへ現われた人物は、紛れもなく、別府べっぷ司令官であった。

 ところが、別府司令官は、直前ちょくぜんまで、参謀長を、激しい語調で呶鳴どなっていた筈だった。おお、これはどうしたことだろう。参謀長の前には、たしかに、先刻から立っている別府司令官が居られるのだった。

 二人の、別府司令官。

 同じ服装の、同じ顔の、司令官。

 どっちかが、贋者にせものであろうと思われる。

 二人の司令官の、相違した点は、湯河原中佐の案内した司令官は、軍帽の下から、頭部に捲いた、白い繃帯ほうたいが、チラリと見えている点だった。

「両手を、おあげ願いたい」

 中佐は、室内の司令官の背後に、軍用拳銃の銃口を、さしつけた。

売国奴ばいこくど!」中佐のかたわらにいた将校が、イヤというほど中佐の横面を張りたおした。

 室内の司令官は、サッと身を、壁際に移した。

「中佐を、保護せい。むかう奴は、射殺してよしッ」参謀長は、若い参謀に、早口で命令した。

 三人の将校と、二人の下士官とが、室内の司令官を、守った。

 若い参謀たちは、勇敢に、彼等に、飛びかかっていった。咄嗟とっさの場合とて、ピストルよりも、肉弾が物を言った。

 大格闘の末、五人の者は、とらえられた。しかし肝心かんじんの贋司令官の姿は、いつの間にか見えなくなった。

「その壁が、怪しいぞ」

 贋司令官は、見ているうちに、そこの壁の中に、吸いこまれてしまったのだ。コツコツと叩いてみると、それは、たしかに空虚であった。

 司令部の人達が、誰も知らないあなを発見するまでには、やや時間が、かかった。追跡して行ったものも、遂に得るところがなかった。

 頭部に、白い繃帯ほうたいを捲いた本物の別府司令官は、静かに、こしを下ろした。

「閣下」参謀長が、厳粛げんしゅくな表情をして云った。「どうなされましたのですかッ」

「うん、心配をさせたのう。夕方、放送局から帰り、この地下室へ到着してから、洗面所へ、手を洗いに行ったところを、やっつけられた。なっていないナ。別府にも、焼きが、まわったようじゃ」

「相手は、何者でありますか」参謀長は、たたみこむように、いた。

「湯河原中佐に、聞け。ゲーペーウーの仕業じゃということじゃ」

「なに、ゲーペーウー!」

 ゲーペーウーというのは、労農ロシアの警察隊のことだった。その峻辣しゅんらつなる直接行動と、驚歎すべき探訪組織たんぼうそしきとをもって有名な特務機関だった。日本国内に、ゲーペーウーが、潜入しているといううわさが、前々からあったけれど、まさか警備司令部までにその魔手ましゅが伸びていようとは、何人なんびとも想像できないところだった。

 そこへ、伝令兵が、重要なる二通の暗合報告を持ってきて、司令官と参謀長の間へ、置いていった。

「いよいよ、筋書どおりですな」参謀長が、低く呻った。

「うん、早く読あげて、一同に聞かせてやれ」

「はッ」

 参謀長は、すっかり、冷静さをとり戻して幕僚ばくりょうを集めた。

「労農ロシア軍は、北満及び朝鮮の国境に於て日本守備隊へ発砲した。吾が守備隊は、ただちに応戦し、敵を撃退中である」

 参謀たちは、めいめいうなずき合った。

「次に、アラスカ飛行聯隊は、午後十時、北海道、根室湾ねむろわんを、占領した。聯隊は、更に、津軽海峡つがるかいきょうを征服し、青森県大湊要港おおみなとようこう占拠せんきょせんものと、機会をうかがっている模様である」

(ああ、内地までも、敵機の蹂躪じゅうりんに合うのか!)参謀たちは、唇を噛んだ。

「もう一つ、帝都を襲撃したマニラ飛行第四聯隊は、十七機を集結し、浦塩斯徳ウラジオストックに向け、引揚中である」

 一座は、興奮を越えて、水を打ったように静まりかえった。

 米国の太平洋、大西洋両艦隊は、圧倒的な大航空軍を、航空母艦に積みこんで、今や、舳艫相含じくろあいふくんで、布哇ハワイを出航し、我が領海に近づきつつある。

 露国ろこくは、五ヶ年計画完成し、世界第一の大陸軍をようして、黒竜江こくりゅうこうを渉り、日本の生命線満洲一帯を脅かそうとしている。

 第一次の帝都空襲に、予想以上の大痛手おおいたでをうけた祖国日本は近く第二次の大空襲を、太平洋と亜細亜アジア大陸両方面から、はさちの形で受けようとしている。既に満身創痍まんしんそういの観ある日本帝国は、果してねかえすだけの力があるだろうか。

 建国二千六百年の大日本の運命は、死か、はたまた生か!

 それはかくとして、今、帝都の空は、ようやく薄明りがさして来た。もう一時間と経たないうちに、空襲によって風貌ふうぼうを一変した重病者「大東京だいとうきょう」のむごたらしい姿が、曝露ばくろしようとしている。白光はっこうの下に、その惨状さんじょう正視せいしし得る市民は、何人あることであろうか。



   あかつき偵察ていさつ



 昭和十×年五月十五日の夜、帝都は、米国軍べいこくぐんのために、爆撃さる──

 と、日本国民は、建国二千六百年の、光輝こうきある国史こくしの上に、これはまた決して書きたくはない文句を、血と涙と泥をねあわせて、しるさねばならなかった。

 かくて、カレンダーは、ポロリと一枚の日附を落とし、やがて、東の空が、だんだんと白みがかってきた。あまりにも悽惨せいさんなる暁だった。生き残った帝都市民にとって、それは残酷以外の何物でもない夜明けだった。

 一夜のうちに、さしも豪華を誇っていたモダーン銀座の高層建築物は、跡かたもなく姿を消し、そのあとには、赭茶あかちゃけた焼土しょうどと、崩れかかった壁と、どこの誰とも判らぬ屍体したいとが、到るところに見出された。その間に、彷徨さまよう市民たちは、たった一晩のうちに、生色せいしょくうしない、どれを見ても、まるで墓石はかいしの下から出て来たような顔色をしていた。

 風が出てきて、余燼よじんがスーと横に長引くと、異臭いしゅうの籠った白い煙が、意地わるく避難民の行手をふさいで、その度に、彼等は、また毒瓦斯どくガスが来たのかと思って、狼狽ろうばいした。

 市街の、あちこちには、真黒の太い煙が、モクモクとあがり、いつ消えるとも判らぬ火災が辻から辻へと、燃え拡がっていた。

 射墜うちおとされた敵機の周囲には、激しいいかりに燃えあがった市民が蝟集いしゅうして、プロペラを折り、機翼きよくを裂き、それにもあきたらず、機の下敷したじきになっている搭乗将校とうじょうしょうこうの死体を引張りだすと、ワッとわめいて、かかった。「はずかしめず」ということわざを忘れたわけではなかったが、非戦闘員である彼等市民の上に加えられた昨夜来さくやらいの、米国空軍の暴虐振りに対して、どうにも我慢ができなかったのだった。

 戒厳令下かいげんれいかに、銃剣を握って立つ、歩哨ほしょうたちも、横を向き、黙々として、声を発しなかった。彼等にも、生死のほどが判らない親や、兄弟や、妻子があったのだ。

 次第に晴れあがってくる空に、プロペラの音が聞えてきた。素破すわこそと、見上げる市民の瞳に、機翼の長い偵察飛行機の姿がうつった。

「なんだ、陸軍機か」

 彼等は、噛んで吐き出すように、云った。この帝都の惨状を、振りかえっては、あまりにも無力だった帝都の空の護りへの落胆らくたんを、その飛行隊の機影に向ってげつけたのだった。

 だが、しかし、その偵察機の上にも、同じ悲憤ひふんに、唇を噛みしめる軍人たちが、いて冷静をよそおって、方向舵ほうこうだあやつっていた。

「おい、浅川曹長あさがわそうちょう!」操縦士の耳へ、将校の太い声が、響いた。

「はい。何でありますか」曹長は、左手で、胸のところに釣ってある伝声管をとりあげると、やや湿しめっぽい声で返事をした。

「機首を左へ曲げ、隅田川すみだがわ沿って、本所ほんじょ浅草あさくさの上空へやれ。高度は、もっと下げられぬか」そう云ったのは、警備司令部付の、塩原参謀しおばらさんぼうだった。

「はいッ、では、もう二百メートル、下降かこういたしましょう」

 浅川曹長は、左手を頭上に高くあげると、僚機の注目をうながし、それから腕を左水平ひだりすいへいに倒すと、手首を二三度振った。途端とたんに、彼の乗っている司令機は、かじをとって、静かに機首を左へ廻したのだった。あとにしたがう二機も、グッと旋回せんかいを始めたらしく、プロペラが重苦しいうなり声をあげているのが、聞えた。

「これは、ますます、ひどいな」そう云ったのは、側の湯河原ゆがわら中佐だった。

「敵の計画では、焼夷弾しょういだん毒瓦斯弾どくガスだんとで一気に、帝都を撲滅ぼくめつするつもりだったらしいですな。爆弾は、割にすくない。弾痕だんこんと被害程度とを比較して、判ります」塩原参謀は、指先で、コツコツと窓硝子をつついた。

「なにしろ、帝都の市民は、今日になって、防空問題に、目醒めざめたことだろうが、こんなになっては、もう既に遅い。彼等は、飛行機の飛んでくるお祭りさわぎの防空演習は、大好きだったが、防毒演習とか、避難演習のように、地味じみなことは、嫌いだった。満洲事変や上海シャンハイ事変の、真唯中まっただなかこそ、高射砲や、愛国号の献金をしたが、半歳はんとし、一年と、月日が経つに従って、興奮からめてきた。帝都の防空施設は、不徹底のままに、ほうり出されてあった。雨が降れば、人間は傘をさして、濡れるのを防ぐ。が、帝都には、爆弾の雨が降ってこようというのに、これをさえぎ雨具あまぐ一つ、備わっていないのだ……」湯河原中佐は、慨然がいぜんとして、腕をこまねいた。

「そう云えば、防空演習にしても、遺憾いかんな点が多かったですね。東京の小さい区だけの、防空演習だって、なかなか、やるというところまでぎつけるのに骨が折れた。市川いちかわとか、桐生きりゅうとか、前橋とかいう小さい町までもが、苦しい町費ちょうひをさいて、一と通りは、防空演習をやっているのに、大東京という帝都が、まとまった防空演習を、唯の一度もやっていなかったということは、何という遺憾、何という恥辱ちじょくだったでしょう」

貴君きくんの云うとおりだ。もしも、帝都として防空演習を充分にやって置いたら、昨夜ゆうべのような空襲をうけても、あれほどの大事にはならなかったろう。火災も、もっと少かったろう。いたずらに、いへし合い、郊外へ逃げ出すこともなかったろうから、人命じんめいの犠牲も、ずっと少かったろう。流言蜚語りゅうげんひごに迷わされて浅間あさましい行動をする人も、真逆まさか、あれほど多くはなかったろう」

 湯河原中佐と、塩原参謀は、偵察機上から、思わず悲憤ひふんなみだを流したことだった。

浅草あさくさの上空です」浅川曹長が、伝声管から注意した。

「うん、浅川曹長。お前の家は、浅草にあると云ったな」中佐が、不図ふと気がついて云った。

「そうであります」曹長の声は、すこしふるえを帯びていた。「雷門かみなりもん附近の、花川戸はなかわどというところであります」

「どうだ、お前の家のあたりは、見えるかね」

 中佐は、胸にかけていたプリズム双眼鏡をはずして、曹長の方へ、さし出した。

「はッ」曹長は、一礼してそれを受けとると、機上から上半身を乗りだして、遥かの下界を向いて双眼鏡のピントをあわせた。

「見えないか」

「判りましたッ」

「どうだ」

焼土やけつちばかりです。附近に、家らしいものは、一軒も見えません」

「戦争じゃからナ」中佐は、気の毒に耐えぬといった調子で、今から一と月程前までは、社会局の名事務員だった浅川岸一をなぐさめたのだった。

「浅川は、司令部の御命令で、昨夜は、立川飛行聯隊の宿舎に閉じこめられ、切歯扼腕せっしやくわんしていました。この上は、早く敵機に、めぐり逢いたいであります」

 小さいけれど、彼の懐しい裏長屋は、影すら見えなかった。そこには、用務員をしている父亀之助かめのすけと、年老いた祖母と、優しい母と、ダンサーをしている直ぐ下の妹舟子ふなこと、次の妹の笛子ふえこと、中学生の弟波二なみじとが、居た筈だった。彼等は、憎むべき敵機の爆弾に、蹴散らされてしまったのだった。今頃は、どこにどうしていることやら。生か、それとも死か。彼は、折角せっかく飛行命令が出たのに、求める敵機の、姿も影も見当らないのを、残念がった。

「おお、あれは何だろう!」

 突然、眼のいい塩原参謀が、怒鳴どなった。

「なに」中佐は、参謀の指す彼方かなたを、注視した。

「御覧なさい、中佐殿。おちゃみずほりの中から、何か、キラキラひらめいているものがあります」

「なるほど、何か閃いているね。おお、君あれは、信号らしいぞ」

「信号ですか」参謀は、双眼鏡をあてて、その閃いているものを注目した。

 ピカ、ピカ、ピカ、ピカーッ、ピカ。それを繰返している。それは聖橋ひじりばしと、お茶の水との中間にあたる絶壁ぜっぺきの、草叢くさむらの中からだった。

「応答して見ましょうか」参謀は、尋ねた。

「やって見給え」

「はッ」参謀は、浅川曹長に命令を伝えた。

 司令機の尾部から、白い煙がスー、スーッと、断続して、空中を流れた。

 それが、判ったものか、ピカピカ光るものは、鳥渡ちょっと、動かなくなったが、間もなく今度は、前よりも激しく、ひらめきはじめた。

「確かに、こちらを呼んでいるのですね。あれは、硝子板ガラスいたを応用した閃光通信せんこうつうしんです。おい通信兵、頼むぞ」

 背後の座席にいた通信兵は、このとき大きくうなずいて、先刻さっきから用意していた白紙に、鉛筆を走らせていた。

 やがて、地上の信号を、翻訳し終ったものと見え、一枚の紙が、中佐のところへ、届けられた。さて、そこに書き綴られた文章は──

「レイノジケンニツキ、シキユウ、セキガイセンシヤシンサツエイタノム。サツエイハンイハ、ヒジリバシヨリスイドーバシニイタルソトボリエンガン一タイ。コウドウニ、チユウイアレ。エム一三」

(例の事件につき、至急、赤外線写真撮影を頼む。撮影範囲は、聖橋ひじりばしより水道橋すいどうばしに至る外濠沿岸そとぼりえんがん一帯。行動に注意あれ。M13

「これは容易ならぬ通信ですね」参謀が、キッと口を結んで中佐の顔を見た。

「うん──」中佐は、何か考えている風だった。「M13て、誰です?」

「──赤外線写真撮影用意!」湯河原中佐は、参謀のといに答えないで、通信兵に、命令を発した。「それから、浅川曹長、機首を右に曲げ、航路外に出で、二分間したら、元の場所へ帰って来るんだ。それから空中撮影を始めるから、外濠について、廻ってゆくこと。速度は五十キロまで下げるんだぞ」

「判りました」曹長は、ハッキリ答えて、急旋回の合図を、後についてくる僚機の方にした。

「塩原君」と、中佐は始めて、参謀の方を向いて、莞爾にっこりとした。「今夜あたり、面白い話が聞けるかも、知れないよ」



   帆村探偵ほむらたんていたいウルフ



 神田駿河台かんだするがだいは、俗に、病院街びょういんまちといわれる。それほど、××産婦人科とか、××胃腸病院とか、××耳鼻医院とか、一々名を挙げるのにわずらわしいほど、数多あまたの病院が、建てこんでいた。しかし事実は、病院だけでなく、学校と研究所も少くないところであった。それ等の建物は、多くは三層又は四層の建築となっていて、病室の多い病院と間違えられるような恰好をして並んでいた。しかし数の方からは何と云っても病院の方が多く、そこから白いシーツなどがヒラヒラと乾されているのが、兎角とかく通行人の目につきやすく、病院街と呼ばれることになったらしい。

 その駿河台の、ややおちゃみずりの一角に、「戸波となみ研究所」と青銅製の門標もんひょうのかかった大きな建物があった。今しも、そこの扉が、外に開いて、背の高い若い男が姿を現わした。

「此の辺一帯は、うまく助かって、実に幸運でしたね」そう云って、後を振りかえった。

「そうですかねえ」

 とんちんかんの答をしたのは、若い男を送って来た中年の、もしゃもしゃした頤髯あごひげたくわえている男であった。それは、どこかで、見覚えのある顔、見覚えのある声音こわねだった。

「では先生、お大事に」青年は云った。

「いや、有難とう」

 と頤髯先生が、頭を下げた途端とたんに、いきなり、先生の身体は内部へ引擦ひきずりこまれてしまって、代りに、がっしりした大きなめんが、ニュッと出た。

「あんた、先生様を、連れだしたりして、困るじゃねえか。早く、帰って下せえ」

 青年は、一向悪びれた様子もなく、階段を下って行った。

「先生様も、ちと注意して下せえよ」と背後を振りかえり、それから又往来の方を向いてそこらにブラブラしている四五人の男に向って、「おい、皆の衆。お前ら駄目じゃねえか」と怒鳴どなった。

 その四五人のうちの一人が、グッとこっちをにらみかえしたのを見ると、彼は、周章あわてて入口の扉のうちに、姿を隠した。その頓間とんま男も、どこかで、見た男だった。

 それも道理だった。頤髯男は、ここの研究所長の戸波俊二となみしゅんじ博士。大八車のように大きい男は、山名山太郎やまなやまたろうといって、印半纏しるしばんてんのよく似合う、郊外の鍛冶屋かじやさんで、この二人は、帝都爆撃の夜、新宿の暗がりの中で知合いになり、助け助けられつつ、この駿河台の研究所まで辿たどりついたのがえんで、唯今では、鍛冶屋の山さん、変じて、博士の用心棒となり、無頓著むとんちゃくな博士の身辺護衛しんぺんごえいの任にあたっているのだった。戸波博士は、いま軍部の依頼によって、或る秘密研究に従事している国宝のようにとうとい学者だった。さてこそ、門前には、便衣べんいに身体を包んだ憲兵隊けんぺいたいが、それとなく、厳重な警戒をしている有様であった。

 戸波研究所を立出でた青年は、私服しふく憲兵との間に、話がついていたのでもあろうか、別にとがめられる風もなかった。彼は、往来を、急ぐでもなく、ブラブラと歩き出した。大通りに出てみると、避難民や、軍隊が、土煙をあげて、はげしく往来していた。

 青年は、駿河台下するがだいしたの方へ、下って行った。そこは、学生の多い神田の、目貫めぬきの場所であって、書店や、ミルクホールや、喫茶店や、カフェや、麻雀マージャン倶楽部や、活動館や、雑貨店や、ダンスホールが、軒に軒を重ねあわせて並んでいた。流石さすがに、今日は、店を閉めているところが、少くはなかったが、中には、東京人特有の度胸太どきょうふとさで、半ば犠牲的に、避難民のために、便宜べんぎをはかっている家も、見うけられた。

 キャバレ・イーグルも、そのうちの一軒だった。

 このキャバレ・イーグルという家は、カフェとレビュー館との、中間みたいな家だった。お酒を呑んだり、チキンの皿を抱えながら、美しい踊り子の舞踊が見られたり、そうかと思うと、お客たちが、てんでに席を立って、ダンスをしたりすることが出来た。したがって、ここの客は、若い婦人と、三十過ぎの男とが多かった。そして、どちらかというと、不良がかった色彩を帯びていることも、いなめなかったのである。

 の青年は、何の躊躇ちゅうちょもなく、イーグルの入口をくぐった。

 支配人が、大袈裟おおげさに、さもおどろいた恰好をすると、急いで近よった。

「まあ、ようこそ。男爵だんしゃくさま。──」

 支配人は、恭々うやうやしく手を出して、青年の帽子を受けとった。

「誰か、来てないか」

「どなたも、見えませんです。なにしろ、この騒動の中ですからナ」

「手紙も、来てないかしら」

「手紙といえば、真弓まゆみが、なにかビールだるから、ことづかったようでしたが……」

「そうか。真弓を呼べ」

 支配人は、奥の方を向いて、

「真弓さアーん」

 と声をかけた。

「はーイ」

 と返事がして、派手な訪問着を着たウェイトレスがパタパタと駈けてきた。

「まあ、男爵。よく来たわネ」

「てめぃ、ビールだるから、なんか、ことづかったろうが」男爵と呼ばれる青年は、姿に似ぬ下等かとうな言葉を、はいた。

「ええ、ことづかってよ。こっちへ、いらっしゃいよォ」

 真弓は、広間の片隅の、ボックス卓子テーブルへ、男爵を引っぱって行った。

「今日は、ゆっくりして行ってネ。あたしも是非、あんたに、相談したいことがあるのよ」

「それよか、手紙を、早く出せったら」

「まあ、ひどい人。あたしのことより、あんなビール樽の手紙がいいなんて、あたし、失礼しちゃうわ」そういって、彼女は、帯の間から真白い四角な封筒をとりだした。

「ほう、ビール樽からの手紙じゃなくて、これは『ウルフ』からのだな」

 ウルフといい、ビール樽というところを見ると、男爵というのも、大分怪しいことだった。青年のキリリとした伊達だて姿が「男爵」という通称を与えたのかも、知れなかった。

「おい、真弓。手紙を読む間、あっちへいっとれ」男爵は、真弓の頬っぺたを、指の先で、ちょいと、つついた。

「うん──」真弓は、だしぬけに、男爵の首ッ玉にかじりつくと、ッという間に、チュッと音をさせて、接吻せっぷんを盗んだ。

莫迦ばか──」男爵は、満更まんざらでもない様子で、ニヤリと笑って、真弓の逃げてゆくあとを、見送った。

 それから男爵は、急いで、入口のカーテンを引いた。次に彼は、驚くべき敏捷びんしょうさでもって、内懐ふところから、黄色い手袋を出してめ、そしてどこに隠してあったのか、マスクをひょいと被ると、例の封筒を指先でつまみあげて、端の方を、はさみで、静かにひらいた。封筒の中からは、四つに折畳おりたたんだレターペーパーと、百円紙幣とが出て来た。紙幣の方は、そのまま、封筒にかえし、彼は手紙の方をとりあげて、おそるおそる開いた。

(ちえッ。白紙しらがみでやがる!)

 彼は、何にも文字の書いてない白紙を卓子テーブルの上に拡げると、衣嚢ポケットの中から、青い液体の入った小さい壜を取出した。そのせんをぬいて紙面に、ふりかけようとした。丁度ちょうど、そのときだった。

「ピューッ、ピューッ」

 と、窓外に、口笛が鳴った。

 青年は、ひどく周章あわてて、席を立とうとしたが、卓上の、手紙などを、懐中に入れようか、どうしようかと、躊躇ちゅうちょした。が結局、手紙も、金も、小壜まで、そのままにして、カーテンの外へ、駈け出していった。

 それと入れちがいに、大きな坊主頭が、ニュッと、カーテンの中に入ってきた。彼は素早く、封筒の中へ、フッと息を入れ百円紙幣を抜き出すと、封筒だけは、元の卓子テーブルの上へほうり出した。ところが、運わるくそれが、小壜に触れて、パタリと倒してしまった。青い液体が、ドクドクと白紙の上に流れ出した。怪漢は、ひどく狼狽ろうばいして、壜を指先に摘むと、起した。白紙の上には、青い液体が拡がって、沸々ふつふつと白い泡を立てていた。彼は、半帛ハンカチで、それをぬぐおうとして、紙面に顔を近づけた瞬間、ウムとうめくと、われとわが咽喉をきむしるようにして、其儘そのままえた身体を、卓子の上に、パタリと伏せ、やがて、ダラリと動かなくなった。

 もしも、男爵と呼ばれた青年が、マスクも懸けないで、それと同じことをやったなら、彼もこの坊主頭の男と、同じ運命に落入る筈だった。それは、手紙の発信人「ウルフ」という人物の、目論もくろんだ恐ろしい計画に外ならなかった。

 物音に、おどろいて駈けつけた人々は、カーテンを開いてみて、二度吃驚びっくりをした。

ッ、これはビール樽だ」

「なんだか、おかしいぞ。危いから、近よっちゃいけない」

 人々は、ビール樽の死体を遠巻きにして、ワッワッと、騒いでいた。

「男爵が、居ないぞ」

「真弓も、どこかへ行った」

 その騒ぎの中に、チリチリと、電話が懸かって来た。

「それどころじゃございません」支配人がかんばかりの声を出して、電話口へ訴えていた。「ビール樽が、殺されちまったんです。ええ、男爵とは、違います。ビール樽の野郎ですよ。どうか直ぐ来て下さい。私は、大将の命令がなけりゃ、店をたたみたいのですよ。どうかして下さいな、『ウルフ』の親分!」

 その頃、男爵とウェイトレス真弓とは、御成街道おなりかいどうを自動車で走っていた。二人は、こんな会話をしていた。

「では、ウルフの大将は、今朝がた、イーグルへやって来たというのだな」

「そうですわ。そこへ、紅子べにこさんという、浅草の不良モガが、一人でやって来たのよ。ウルフは、紅子さんと、手を取って、帰って行きましたわよ」

「紅子が、ねえ──」

「ビール樽は、そのころから、お店の周囲をうろついてたんだわ。あいつ、百円紙幣に釣られて、あんたの身代みがわりになったのね」

「では、真弓。これから、故郷くにへ帰ったら、二三年は、東京へ顔を出しちゃ、危いぞ」

「もう、お降りになるの。いまお別れしたら、何時いつお目に懸かれるか、判らないわネ」

「おたがいに、どうなるか、判らない人生だ。帰ったら、お父さんや、子供を、大事にしろ」

「これでも、あたし、古いかたの女よ。帰ったら、いいママになりますわ」

「それがいい」男爵は、運転手の方へ向いて停車を命じた。

「では、所長」と運転手は、降り立った男爵に声をかけた。「たしかに、御婦人を、茨城県いばらぎけん磯崎いそざきまで、送りとどけて参ります」

「どうか、頼んだぞ」

「それじゃ、サヨナラ。あたしの、男爵さま──では無かった、帆村荘六ほむらそうろく様」

御健在ごけんざいに──」

 青年は、小さくなってゆく、自動車の方に手を振った。「男爵」というのは、無論、綽名あだなであって、ゲーペーウーの日本派遣隊の集合所とにらまれるキャバレ・イーグルに於ける不良仲間ふりょうなかまとしての呼び名だった。そこで、彼は巧みに、ウルフを隊長とするの一団に近づき、国際的陰謀の謎を、解きつつあった。「男爵」と呼ばれる彼の本名は、帆村荘六。軍部に属する特務機関としての記号をM13という。このところ、数年の間に、めきめきと売出した若手の私立探偵であった。

 記憶のよい読者は、彼が、いつの間にか、東京警備司令部の地下街に忍びこんでいたことや、今朝方のこと、お茶の水附近で、湯河原中佐や塩原参謀の乗っていた偵察機ていさつきに、赤外線写真の撮影を依頼したことを、思い出されるに違いない。

 帆村探偵の任務は、大日本帝国の体内に潜行している労農ろうのうロシアの特別警察隊、ゲーペーウーの本拠をつき、「ウルフ」といわれる団長以下を、捕縛ほばくするのにあった。その「狼」は紅子べにこを伴って歩いているらしい話であったが、彼こそは、先に、東京警備司令官別府九州造べっぷくすぞうに変装してマニラ飛行聯隊空襲の夜の、帝都警備権を、自分の掌中に握っていた怪人物だった。

 帆村探偵対「ウルフ」の、血飛ちと肉裂にくさけるの争闘は、ようやく機が熟してきたようであった。



   飛行船隊を発見す



 地下街の司令部では、印刷電信機が、リズミカルな響をあげて、各所の要地から集ってくる牒報ちょうほうを、仮名文字かなもじに打ち直していた。

 事態は、刻々に、うつりかわって、北満、朝鮮国境からの通信が、いつもの二倍になり三倍になり、なおもグングン殖えて行った。電信機は、火のように熱して来た。側に立っている通信兵員はシリンダーや、歯車のあたりに、絶えず滑動油マシンゆを、さしてやるのであった。

「次は北満軍司令部からの、報告であります」有馬参謀長は、本物の別府司令官の前に、直立した。「金沢、字都宮、弘前ひろさきの各師団より成る北満軍主力は、本日午後四時をもって、興安嶺こうあんれいを突破せり。これより、善通寺ぜんつうじ支隊と呼応し、海拉爾ハイラル満州里マンチュリ方面に進撃せんとす。終り」

 別府司令官は、静かにうなずいた。

「今一つは、極東軍の報告であります」有馬参謀長は、もう一枚の紙を、とりあげた。「仙台せんだい姫路ひめじ竜山りゅうざん各師団よりなる極東軍主力は、国境附近の労農軍を撃破し、本日四時を以てニコリスクを去る十五キロの地点にまで進出せり。目下、彼我ひがの空軍並に機械軍の間に、激烈なる戦闘をまじえつつあり。就中なかんずく、右翼竜山師団りゅうざんしだんは一時苦戦におちいりたるも、左翼仙台せんだい師団の急遽きゅうきょ救援砲撃により、危機を脱することを得たり。終り」

「労農軍は、いよいよ味なことを、やりよるのう」司令官は、髯のところに、手をやった。

「閣下」と呼んだのは、草津参謀だった。「市川町いちかわまち附近の準備は唯今を以て、完成いたしました。連絡通信の方も、故障なく働作どうさいたします」

「そうか」と将軍は顔をあげて云った。「わしの考えでは、今夜が最も危険じゃ。もう一度、宇都宮以北の防空監視哨へ、警告を発して置け」

「はッ、承知いたしました」

 そこへ、バタバタと、伝令が、電文を握ってきた。

「報告です」

「よオし。こっちへ貸せ」有馬参謀長は、多忙であった。「おお、これは……」

 参謀長は、キッと唇を噛んだ。

「閣下。海軍からの報告です。北緯ほくい四十一度東経とうけい百四十度を航行中なる第五潜水艦隊の報告によれば、本日午後四時十五分、東北東に向って三十五キロの距離に於て、米国空軍に属する飛行船隊の航空せるを発見せり。がい飛行船隊は、アクロン、ロスアンゼルス、パタビウス、サンタバルバラの順序を以て、高度七千メートル、時速百八十キロ、略西方ほぼせいほうに向けて航空中なり。なお該隊がいたいには、先導偵察機五機、戦闘機十四機を、随行ずいこうせしめつつあり。終り」

 これを聞いた将校たちは、たがいに顔を見合わせたのだった。いよいよ、恐ろしい怪物が、襲来しゅうらいしてくるのだった。飛行船といえば、ツェッペリンはく号を、帝都上空に仰いだことのある日本国民だった。ロスアンゼルス号はツェッペリン伯号の姉妹船、アクロン号、サンタバルバラ号は、それよりも二倍近い、巨大なもの、パタビウス号に至っては、空の帝王と呼ばれる途方もなく尨大ぼうだいな全鋼鉄の怪物で、爆弾だけでも、五十トン近く、積みこんでいるという物凄ものすごい飛行船だった。

 日本陸軍にも、海軍にもこれに比敵ひてきする飛行船は、一せきもなかった。く小さい軟式飛行船が、二三隻海軍にあったが、それは、わしの側によったすずめにも及ばなかった。

 ねて、襲来するかもしれないと思われていたのであるが、いまうして、北海道と、青森県の、ほぼ中間をねらって、大挙襲来しているのを知っては、流石さすがに、戦慄せんりつを感じないわけに行かなかった。

(あの尨大ぼうだいな爆弾を、どこに落すのだろうか?)

 おそらく合計して百トンの上にのぼる、爆弾だった。帝都でさえ五トンの爆弾で、灰燼かいじんになる筈であった。百噸を一度に投下するときは、房総半島ぼうそうはんとうなんか、千切ちぎれて飛んでしまいそうに、思われた。

 この戦慄せんりつあたいする報告書を前に、司令部の幕僚は、流石さすがに黙して、何も語らなかった。果して彼等の胸中には、勝算ある作戦計画が秘められているのであろうか。それとも、戦慄の前に最早もはや言葉もでないのであろうか。

 そのとき、卓上電話のベルが、ジリジリと鳴った。

「なに、帆村君か」

 湯河原中佐が、大きい声を出した。

「閣下も、お待ちかねだ。早く来給え」

 帆村探偵が、しつに、姿を現わしたのは、それから五分と経たない後だった。

「赤外線写真は、どうでした?」彼は、司令官達に、敬礼を済ませるが早いか、気になることをたずねた。

「うまく出たようだ。ここにある」湯河原中佐が、クルクルといてある細長い印画紙いんがしを机の上に、ひろげて見せた。

「ははァ、よく判りますね」と、帆村探偵はお茶の水に近い濠端ほりばたの、ある地点を指して、云った。「肉眼で見たのでは、なんの変りもない草叢くさむらつづきですが、うして、赤外線写真にとって見ると、どこに、坑道の入口があるか、直ぐ判りますね」

「だが、よくまア、坑道のあることが、判ったものだね」司令官が、感心をした。

「それは、帆村君の手腕ですよ」中佐が、代りに説明した。「空襲の夜、放送局を占領した不逞団ふていだんの頭目に鬼川おにかわという男が居りました。これを捕縛ほばくして、帆村君に預けたのです。すると帆村君は、紅子べにこという少女を使って、鬼川が知っている団の秘密をすっかり聞いてしまったのです」

「少女紅子を使ったというのは?」

「それは、帆村君が研究している読心術ですな。丁度ちょうど、塩原参謀が、その少女と、瀕死ひんしの重傷を負っていた弟の素六そろくというのを、放送局舎の中から助け出したんです。帆村君は、その少女を見て、おどろいたそうです。何でも前から知合いだったそうで……。紅子という少女は、非常に感動しやすい、どっちかというと、我儘わがままも強い方の女性でした。そんな人は、読心術の霊媒れいばいに使うと、非常に、うまく働くんだそうです。早く云うと、帆村君は、紅子を昏睡こんすい状態に陥し入れ、その側へ、猿轡さるぐつわをした鬼川を連れて来、紅子を通じて、鬼川の秘密を探らせたのです」

「そんなことが、出来るものかな」司令官は不思議そうに云った。

「帆村君に云わせると、いい霊媒れいばいを得さえすれば、わけのない事だそうです。いわば、鬼川の身体は、不逞団ふていだんの秘密という臭気しゅうきを持っているのです。紅子の方は、それをぎわける、鋭い鼻のようなものです。常人には、嗅いでもわからないのに、特異性をもった紅子のような霊媒を使うと、わかるんです」

「帆村君は、それで、何を発見したのじゃ」

「彼は、第一に、閣下の偽物ぎぶつが、司令部に頑張っていることを知りました。これは、わたくしも、既に気がついていたことだったので、成程なるほどと、信用が出来たのです」

「ほほう、君も、偽司令官を知っていたのかい」司令官は、意外な話に、驚いたのだった。

「それは閣下」湯河原中佐は、つばをグッとんだ。「帝都が空襲されるに当って、閣下が第一に、なさらなければならない或る重大な任務がおありだったのに、非常時が切迫しても、閣下は、お忘れのように見受けました。わたくしはそれを怪しく思いました」

「ではしや……」司令官は、何におどろいたのか、その場に、直立不動の姿勢をとり、湯河原中佐の憐愍れんびんを求めるかのように見えた。

「閣下、御安心下さい」中佐は、語尾ごびを強めて云った。

「それは、閣下に代って、わたくしが遂行すいこういたしました。閣下から信頼を受けてあの重大任務をおうちあけ願っていなかったら、わが国史上に、一大汚点を印するところでありました」

「それは、よかった──」

 司令官は、沈痛な面持をして、遥かな地点に、陳謝と祈りを、捧げるもののようであった。そういえば、湯河原中佐が、秘かに、司令官の室内に忍びこみ、鍵らしいものを盗んで、地下街の一隅に設けられた秘密の鉄扉てっぴを開き、その中に姿を一時隠したことがあった。彼は、誰にも話の出来ない或る重大任務を、遂行して、国家の危機を、間一髪に、救ったのだった。その内容については、司令官と中佐と、外に数名の当事者以外には、誰も知らないことで、筆者わたくしも、それ以上、書くことを許されないのである。

 かく、それは、三千年の昔より、神国しんこく日本に、しばしば現れたる天佑てんゆうの一つであった。

「帆村君は、もう一つ、大きな秘密を、ぐり出したのです」中佐は、夢からめたように、語をついだ。

 司令官は、静かに、あえいだ。

「それは、ゲーペーウーが、次に計画しつつあるところの陰謀であったのです。だが、鬼川自身も、こっちの方については、あまり詳しいことを知っていなかったのです。ただ、戸波博士の研究所がねらわれていること、研究所襲撃の手段として、坑道を掘り、地下から、爆破しようという計画のあるのを、知ることが出来たのです。帆村君は、思う仔細しさいがあって、今朝、紅子と手を取って、勇敢にも、大混乱の市内へ、飛び出して行ったのです。正午近くになって、わたくし達の、偵察機が、神田上空を通るとき、運よく、帆村君の、反射鏡信号を、発見したというわけです」

 中佐は、語り終って、ひたいの汗を、拭った。

「帆村君」司令官は、厳粛げんしゅくな態度のうちに、感激を見せて、名探偵の名を呼んだ。「いろいろと、御苦労じゃった。なお、これからも、お骨折りを、願いまするぞ」

「はいッ。愛する日本のためであれば、ウーンと、頑張がんばりますよ」

 日頃冷静な帆村探偵も、このときばかりは、両頬を、少女のように、紅潮させていた。

「それでは、戸波博士のことは、よくお願いいたしますよ」

「わかりました」司令官は、大きくうなずいた。「草津参謀。君は、麻布あざぶ第三聯隊の一個小隊を指導して、直ちに、お茶の水へ出発せい」

「はいッ。草津大尉は、ただちに、お茶の水の濠端ほりばたより、不逞団の坑道を襲撃いたします。終り」

「うむ、冷静に、やれよ」

 草津大尉は、かたわらの架台かだいから、拳銃の入ったサックを下ろして、胸に、斜に懸けた。それから、鉄冑てつかぶとを被り直すと、同室の僚友に、軽く会釈をし、静かにドアを開けて出て行った。



   やみうごめくもの



「おい、蘭子らんこ氏、えらいことになったぞ」

 暗闇の小屋の一隅から、若い男の声がした。

吃驚びっくりさせちゃ、いやーよ」

 手を伸ばすと、届くようなところで、やや鼻にかかった、甘ったるい少女の声がした。

「いよいよ、これァ、大変だ」

「オーさんたら。自分ばかりで、感心してないで、早く教えてよ」

「うん。もうすこしだ──」

 やがて、カチャカチャと、軽い音がした。若いオーさんという男が、頭から、受話器を外したのだった。

「いま放送局から、アナウンスがあったがね、アラスカ飛行聯隊と、飛行船隊とが、共同戦線を張って、とうとう、青森県の大湊要港おおみなとようこうを占領しちまったそうだぜ」

「あら、まア、あたし、どうしましょう」

「どうするテ、仕様がないじゃないか。相手は、強すぎるんだ」

「だって、青森県て、東京の地続きでしょう。アメリカの兵隊の足音が、響いてくるようだわ」

「もっと、えらいことが、あるんだぜ」

「早く言ってしまいなさいよ。オーさん」

「飛行船隊の中から、一隻、アクロン号というのが、陸奥湾むつわんを横断して、唯今、野辺地のへじの上空を通っているのだ」

「どこへ、逃げてゆくのかしら」

莫迦ばかだなア、君は。アクロン号は、東京の方へ、頭を向けているのだよ」

「じゃ、また東京は、空襲を受けるの」

「どうやら、そうらしいというのだ。警戒しろということだ」

「いやァね。あたし爆弾の光が、嫌いだわ」

「誰だって嫌いだよ」

「でも、今夜は、大丈夫なんでしょうね」

「ところが、今夜が危いのだ。一時間百キロの速度で飛んでいるから、真夜中の十二時から一時頃までには、帝都の上空へ現れるそうだよ」

「どうして、途中で、やっつけちまわないんでしょうね」

「あっちは、飛行機では、せられないような、大きな機関砲を、沢山持っているんだ。こっちの飛行機が、近づこうとすると、遠くからポンポンと射ち落しちまうんだ」

「高射砲で、下から射ったら、どう」

「駄目だ。ウンと高く飛んでいるから、中々届かない」

「じゃ、上から逆落さかおとしかなんかで、バラバラと撃っちまえば、いいじゃないの」

「そこにぬかりが、あるものか。あっちには、有力な戦闘機が飛行船の上に飛んでいて、近づく飛行機を射落してしまう」

「まア、くやしい。それじゃ、敵の飛行船をみすみす通してしまうことになるじゃありませんか」

「だから、東京市民は注意をしろ、とサ」

「オーさんは、いやに、米国空軍の肩を持つのネ。怪しいわ」

「おいおい、人聞きの悪いことを云うなよ。これでも、愛国者だよ」

「どうだか判りゃしない。あたし、明日になったら、お別れするわ」

「じょ冗談じょうだん、云うな。折角せっかく、この機会に、世帯しょたいを持ったのじゃないか」

「世帯って、なにが世帯さア。こんな、やけトタンの急造きゅうぞうバラックにさ。けた茶碗が二つに、半分割れた土釜どがまが一つ、たったそれっきり、あんたも、あたしも、着たきりじゃないの」

「まだ有るぞ。ほらラジオ受信機」

「……」

「半焼けの米櫃こめびつ、焼け米、そこらを掘ると、卵子たまごが出てくる筈だ。みんなこの際、立派な食料品だ」

「そりゃ、お別れしたくはないのよ、本当は。あんたは、失業者で、あたしはウェイトレス。こんな騒ぎになったればこそ、あんたも大威張おおいばりで、物を拾って喰べられるしサ……」

「オイオイ」

「あたしも、お店が焼けちゃったから、出勤しないであんたの傍にいられるしサ、嬉しいには、違いないけれど……」

「嬉しいところで、いいじゃないか」

「でも、あんたには、愛国心が、見られないのが、残念よ」

「弱ったな。僕だって、愛国心に、燃えているんだぞ」

「アクロン号が、来るというから、あたし、考えたのよ」

「何を、考えたのだい」

「日本がおこるかほろぶかという非常時に、お飯事ままごとみたいな同棲生活どうせいせいかつに、酔っている場合じゃないと、ね」

「同棲生活 同棲まで、まだ行ってないよ。六時間前にバラックを建てて、入ったばかりじゃないか」

「あたし達、若いものは、こんな場合には、お国のためにウンと働かなきゃ、日本人としてすまないんだわ」

「そりゃ、僕だって、働いても、いいよ」

「じゃ、こうしない」

「ウン」

「あたしは、サービスに心得こころえがあるから、これから、毒瓦斯避難所どくガスひなんじょへ行って、老人や子供の世話をするわ」

「僕は、どうなるんだ」

「あんたは、外に立っていて、ヨボヨボのお婆さんなんかが、逃げ遅れていたら、背中の上にのせて、避難所へ連れて来る役を、しなさいネ」

「君が働いている避難所へなら、何十人でも何百人でも、爺さん婆さんを拾ってゆくよ」

「そして、日本が戦争に勝って、そのとき幸運にも、あたし達が生きていたら……」

「生きていたら……」

「そのときは、大威張りで、あんたの所へ行くわ」

「ふうーん」

「あんた、約束して呉れる?」

「条件がいいから、約束すらァ」

「まア、いやな人ね」

 暗闇くらやみの中の男女の声は、パタリとしなくなった。


 暗闇の千葉街道を、驀地まっしぐらに、疾走しているのは、世田せたの自動車大隊だった。囂々ごうごうたるわだちの響は並木をゆすり、ヘッド・ライトの前に、濛々もうもうたる土煙をあげていた。

「もう七時を廻ったぞ、山中中尉」

 そういったのは、先導車せんどうしゃの中に、夜光時計の文字盤を探っている将校の一人だった。

「那須大尉どのは、この車で、先行されますか」隣りにいた将校が、たずねた。

「先行したいのは、山々だが、本隊との連絡が、つかなくなるのをおそれる」

「なにしろ、電灯器具材料を積んでいますから、四十マイル以上の速度スピードを出すと、壊れてしまうおそれが、あるのです」

かく、弱ったね。すこし準備が、遅すぎたようだ」

「ですが、目的地の市川いちかわへは、八時までには充分着きますから、アクロン号の襲来するのが、十二時として、四時間たっぷりはございますですが」

「四時間では、指揮をするだけでも、大変だぜ」

松戸まつどの工兵学校は、もう仕事を終えている頃ですから、直ぐ応援して貰ってはどうです」

「工兵学校も、いいが、俺は、千葉鉄道聯隊の連中を、あてにしているのだ」

 何事だか、まだ判らないけれど、とにかく帝都から、程遠ほどとおからぬ市川町附近へ、多数の特科とっか隊が、おびただしい材料をもって、集合を開始しているものらしい。

「大尉どの」闇の中から、山中中尉の声がした。

「うん」

「思い出しましたが、村山貯水池の方は、誰か行くことになっていましたでしょうか」

「村山貯水池は、臨時に、中野電信隊が出動したそうだ」

「ああ、そうですか」

「あの広い貯水池の水面に、すっかり、わらくのは、想像しただけでも、容易ならん仕事だと思うね」

「でも、藁を敷いて、水面の反射を消すとは、誰が考えたのかしりませんが、実に名案ですな」

「隅田川へ敷くのについて、非常に幸運だったというのは、今夜十二時頃から、次第に、上げ潮になって来るそうで、水面すいめんほうりこんだ藁が、流出せずに、済むそうだ」

「なるほど、そうですか。これも天佑てんゆうの一つでしょうな」自動車隊は、暗闇の中を、なおもグングンと、驀進ばくしんして行った。


「大尉どの、いよいよ、穴の奥まで、近づいたらしいですよ」

「そういえば、だんだんと天井が、低くなってきたね」

「入口で、三人、やっつけたばかりで、ここまで来ても、更に敵影てきえいみとめず、ですな」

「ちと、おかしいね。どこか、逃げ道が、こしらえてあるのだろうか」

「いままでのところには、探さない別坑べつこうは、一つもなかったのですが」

「おや、地盤が、急に変ったじゃないか。これは、燧石ひうちいしみたいに硬い岩だ」

 草津大尉の声のする方に、道後どうご少尉が、懐中電灯を照しつけてみると、なるほど、今までの赭茶あかちゃけた泥土層でいどそうは無くなって、濃い水色をした、硬そうな岩層がんそうが、冷え冷えと、前途ぜんとさえぎっていた。

「こんなところに、鑿岩機さくがんきが、ほうり出してあります」

「こっちの方にも、一台、ころがっているぞ」

「地盤が、固くなったので、あきらめて、引上げたのでしょうか」

「それにしては、おかしい。その辺の壁を、叩いてみよう」

 泥が、バラバラと、崩れ落ちた。

「おお、これは壁体へきたいに、ポカリと、孔が開いた。

 懐中電灯を、さし入れて見ると、その孔は上り気味になっている。

 草津大尉は、道後少尉をうながして、なおも恐れず、前進して行った。

どまりだ」

「押して見ましょう」

 ガラガラと音がして、つめたい風が、スーと入ってきた。

「いよいよ地上へ出たらしい」

「敵の奴、ここから逃げたらしいですね」

「うむ。──あれを見ろ、灯りが、さしているぞ」

「これは、建物の内部です」

「よオし、部下を集結するんだ。一度に、飛び出そう」

「承知しました」少尉は、合図の懐中電灯を波形なみがたに、うちふった。ゾロゾロと部下が、集って来た。

 頃合ころあいはよかった。

突撃とつげきだッ。イ、ウ、ッ!」

 ワッと喊声かんせいをあげて、一同は手に手に、拳銃を持って、飛び出した。扉らしいものを、いきなり蹴破けやぶると、地下室の広い廊下が、現れた。

 薄暗い廊下灯の蔭に、猿轡さるぐつわを噛まされ手足をばくされて転っている一人の男があった。そのほかに、人影は、見えなかった。道後少尉は、倒れている男を起して、猿轡をとってやった。それは、戸波研究所に、博士の身辺を守っている筈の山名山太郎だった。

「早く階上へあがって、窓をしらべて下さい」

 山太郎は、泣かんばかりにわめいた。

 ドヤドヤと、一同が、階段を駈け上ってみると、三階の西窓が、そこだけは歯が抜けたように、硝子ガラス窓が開いて居り、頑丈な一条のロープが、真向うの××産婦人科院の、物乾台のところへ架け渡されているのが発見された。

 ──用事があって、地下室へ降りて来た戸波博士は、待ち構えていた怪しい一団の手によって、何の苦もなく、誘拐ゆうかいされたことは、山太郎の説明によって、間もなく、明かになった。

 軍部は、この凶報きょうほうを受取ると、愕然がくぜんと色を失ってしまった。



   アクロン号の襲来しゅうらい



「モンストン君、まだ何にも、見えないのかい」

 アクロン号の船長、リンドボーン大佐は、航空羅針儀こうくうらしんぎおもてから眼を離すと、背後を振りかえって、爆撃隊長モンストン少佐に声をかけた。

「大佐殿、いよいよ、大東京です」少佐は、地上観測鏡の対眼レンズから、眼を離そうともせずに、叫んだ。「猫眼石ねこめいしのように美しい輪廓が、空中に、ぼッと、浮かびあがっています」

羅針儀らしんぎも正確だ」大佐は、硝子蓋ガラスぶたの上を、指先で、コツコツと叩いた。「時間も、予期したとおり午前一時、淋代さびしろから、まさに六時間半、った」

「左の方には、正しくカスミガウラの湖面が光っています」少佐は、やっと面をあげて、ゴンドラの外を、指さした。

「爆撃の用意は、いいのだろうな」

「勿論です。二十トンの爆弾は、おこのみによって、一瞬間のうちに本船から離してもよろしい」

「ふ、ふ、ふ」大佐は、軽く笑った。

「ですが、船長。大東京の輪廓が、すこし、明るすぎるように思いますが……」

「なアに、わしの経験によると、湿気の多い五月の天候では、地上の光が、莫迦ばかに輝いてみえるのだよ」

 大佐は、長身を折って、机上の東洋大地図の上に、静かに、眼を走らせた。その紙面には、先の世界一周のときに観測したデータが、赤インキで、詳細に、書き入れられてあった。

「航空長、大東京への、距離は?」

「西十一キロ丁度です」

 舵器だきっている航空長は、答えた。

「呀ッ。船長──」観測鏡を握っている爆撃隊長が、叫び声をあげた。

「どうした。モンストン君」

「大東京が、灯火あかりを、消したんです」

「やっと気がついたものと見える」大佐は、通信兵とめいをうった伝声管の前に立って、叫んだ。「戦闘機隊へ通報せい。襲撃陣形をとり、戦闘準備にうつれ」

 アクロン号は、大胆にも、三千メートルの高度まで、下降した。アクロン号をとりまく偵察機や戦闘機は、行進隊形を解いて、それぞれ、襲撃隊形にうつった。偵察機は、ぐっと、後へ引返して、アクロン号の、両翼と、後方とを守った。戦闘機は更に一千メートルの高度をとり、見る見る、速度を早めて、アクロン号の前方に、進出して行った。

 予期した霞ヶ浦の海軍航空隊に属する空軍は、どうしたものか、どの方面からも、襲撃して来なかった。

「船長、ごらんなさい」モンストン少佐が云った。「下に、電車らしいものが、走っていますよ」

「なるほど、スパークも見えるし、ヘッド・ライトも、ぼんやり見えるようだね」

「向うの方には、ボッと、ギンザらしい灯が見えますよ」

「そんなことは無いだろう」

「でも、左手に見えるのがシナガワ湾です。ずっと、海と陸との境界線が見えるでしょう」

「すこし、早く来すぎたような気がする」大佐は、一寸ちょっと、首をかしげた。

「いよいよ、大東京の位置が、はっきり判りました。こっちに、ムラヤマ貯水池が、明るく光っています」

「うん。地形は、ちゃんと合っている。爆撃して呉れと、いわぬばかりだ。では、モンストン君、ねての作戦どおり、思うがままに、爆撃出来るね」

「そうです、大佐どの。第一に、マルノウチ一帯へ、一トン爆弾を三個、半噸爆弾を十二個、叩きつけます。それから、シナガワ附近シンジュク附近とを中爆弾で爆撃し、頃合いを計って、ホンジョ、フカガワ附近の工業地帯を爆破し、なお、余裕があれば、ウエノ停車場を、やっつけて仕舞います」

「よろしい」リンドボーン大佐は、このとき長身を、すっくり伸して、直立し、厳然げんぜんと、命令を発した。「爆撃用意!」

「爆撃用意!」モンストン少佐は、伝声管の中に、割れるような声を、吹きこんだ。「マルノウチ爆撃用意!」

 アクロン号の、中央部に配置せられた、爆弾は、電気仕掛けで、安全装置が、バタバタと外されて行った。爆撃手は、照準しょうじゅん鏡のクロス・ヘアーに、丸の内の中心部が、静かに動いてくるのを待った。

適宜てきぎ、爆撃始め!」

 リンドボーン船長は、いよいよ、敵国の都に、二十噸の爆弾を、叩きこむことを、命じたのだった。

 照準手のところへは、鸚鵡おうむがえしに、高声器が、モンストン少佐の号令を、送ってきた。

「爆撃始めッ!」

 丁度ちょうど、その途端に、照準は、ピタリと、丸の内の中心に落ちた。

「ううん──」

 照準手は、把手ハンドルを、カチャリと、下に引いた。微かに、船体が、グッと持ちあげられたように感じた。三個の重爆弾が、発射孔はっしゃこうを通って、サーッと、落下して行った。

 一秒、二秒、三秒──

 地上に、パッと、ダリアの花が、開いたように感じた。真黄まっきいろな、燦然さんぜんたる、毒々しいはなだった。そこへ、

「だ、だ、だーン、だーン」

 と、眼のめるような大きな音がして、船体が、ギシギシと鳴り響いた。

 続いて、第二弾、第三弾──

 爆弾室は、見る見るうちに、空っぽになって行った。

「ううん、美事な命中率だ。素晴らしいぞ、照準手!」船長は紅蓮ぐれんうずを巻いて湧きあがる地上を見て、雀躍こおどりせんばかりに、喜んだのだった。

「いよいよ、敵の戦闘機が、現れましたぞッ」モンストン少佐は、ゴンドラの窓から、空中に、パッ、パッと、赤い息を吐きだすような機関銃の乱射ぶりを、注目した。

 地上からは、噴水のように、青白い光芒こうぼうを持った照空灯が、飛び上ってきた。ゴンドラの、防弾硝子ガラスで張った窓が、チカチカと、その光芒に、射すくめられた。

 高射砲から、撃ちだした砲弾が、美しく、空中で、炸裂さくれつした。そして、その照準は、見る見る正確になり、アクロン号の附近に、集まって来た。

 飛行船の胴中どうなかからも、重機関銃や、機関砲が、オレンジ色の焔を吐いて、敵機に、いどみかかった。

「ご、ご、ごーン」

 と音がして、アクロン号の船体が、グラグラと、揺れた。その途端に、ゴンドラと、すれすれに、日の丸のマークのついた日本軍の飛行機が、激しい火焔に包まれて、どっと下に落ちて行った。

「ジャップの飛行機を、寄せつけるやつがあるものか。危くて仕様がないじゃないか」大佐は、チョッと舌打をした。

 その言葉の終らないうちに、又、前よりも一層、激しい動揺が起って、大佐は、スルリと滑りそうになったのを、やっとのことで、窓枠まどわくにすがりついて、事なきを得た。

 日の丸のマークのついた日本の飛行機が、火焔に包まれて、又、墜落して行った。そのあとから、別な飛行機が、又一台、吠えるような、異様な響をあげて……。

「おい、モンストン」大佐は、たまりかねて爆撃隊長の肩をつかんだ。「われ等の、戦闘機隊は、何をしているのだ」

阻塞気球そさいききゅうの中へ、引っぱり込まれたらしいです。半数は、気球から垂れている綱に、機体をからめつけられ、進退の自由を失っているらしいです」

「なに、阻塞気球

「ほら、御覧なさい。あすこに、ヒラヒラしているのがあります」

「おお、──」と大佐は、窓のところに、駈けよった。「あれは、大グランド大尉の、赤鬼号じゃないか」

「や、やッ」モンストン少佐も、探照灯に照し出された、見覚えのある、真紅まっかな胴体をもった飛行機を見付けて、のけぞる位におどろいた。「グランド君が、敵の阻塞気球に……」

「航空長、本船を、浦塩ウラジオへ、向けろ」大佐は、皺枯しわがれ声で、叫んだ。

「日本の飛行機は、爆弾と同じことだ」

「ああ、日本の軍人は、気が変だッ」

 自分の墜落することを一向気にとめず、猛然と、機体を、爆弾代りに、うちつけて来る日本軍の勇猛さに、大佐は、あきれてしまった。

 そのとき、空の一角から、立川飛行聯隊の重爆撃隊じゅうばくげきたいが、三機雁行がんこうの隊形をとって、しずしずと、アクロン号の真上に、あらわれた。そこには、既に、アクロン号を守る敵機の姿も、見えなかった。重爆撃機は、アクロン号の上を、グルリと一とまわりした後、鮮かに、十二個の、爆弾を切って放した。

 それは、アクロン号にとって、最後のとどめであった。

 百雷の落ちるような響がしたかと思うと、空中の巨船は、一団の、真黄色な煙と化し、やがて、物凄い音響をあげ、全身を、真紅な火焔に包んで、墜落を始めた。空中の怪魚の、断末魔だんまつまは、流石さすが豪胆ごうたんな帝国の飛行将校も、正視せいしするに、たえなかった。或いは、船首を下にし、或いは胴中を二つにゆがめ、或いは、転々と苦悩し、焔を吹き、怪音をあげ、焼けただれたるアクロン号は、武蔵野平野むさしのへいやの、真唯中に、墜落していった。

 まことに、哀れなアクロン号の最後だった。

 船長リンドボーン大佐以下四十五名の乗組員は、敵国の首都を、完膚かんぷなきまでに爆撃した彼等の武勲を、唯一ゆいいつなぐさめとしてアクロン号と運命を共にした。

 だが、本当のことを云うなら、気の毒なことに、リンドボーン大佐以下は、大きな錯覚さっかくをしていたのだった。それは、大東京だと思って、爆弾の雨を降らせた一廓は、帝都とは似てもつかぬ草原と田畑だったのだ。それは帝都を、二十キロほど、東へ行ったところにある市川いちかわ町の附近を択んで、軍部が急造した偽都市にせとしだったのであった。その市川の草原には、松戸まつど工兵学校や、千葉鉄道聯隊や、世田せた自動車隊が、一夜のうちに急造した電灯装置ばかりの偽東京が、影も形もないほど、爆撃しつくされてあった。

 偽都市が成功したその反面には、其の夜、帝都の、灯火管制が、如何に巧みに行われて敵機の眼から脱れることに成功したかを、雄弁に物語っているので、その夜の勲功の半分は軍部がにない、他の半分は、帝都市民が貰うのが至当であると面白いことを云ったのは、外ならぬ東京警備司令官、別府九州造べっぷくすぞう氏であった。



   戦雲せんうんくらし太平洋



 わが海軍の主力、聯合艦隊は、小笠原おがさわら諸島の東方、約一千キロの海上を、真北に向って進撃中であった。

 珍らしや、聯合艦隊!

 日米国交断絶だんぜつの直ぐ後、南シナ海から、台湾海峡の方へ出動し、米国アジア艦隊と一戦まじえたまでは判っていたが、其後そのごはどこに何をしているのやら、国民にはようとして消息の判らない聯合艦隊だった。

 それも道理、アジア艦隊との一戦に、残念にも妙高みょうこう金剛こんごうとを喪い、外に駆逐艦と飛行機を少々、たっとい犠牲とすることによって、どうやら、アジア艦隊の始末をつけることが出来たのであった。なお生残った敵艦隊を掃尽そうじんし、更に進んでは、陸軍のフィリッピン攻略を援助すべきではあったが、太平洋方面の戦略が重大であるために、あとは第三艦隊と特務潜水艦隊とにまかせここに吾が聯合艦隊は、針路を東に向け直したのだった。先ず手近てぢかの、グアム島を占領して、これで西太平洋の制海権を収めると、いよいよ艦隊は、最後の一戦をまじえる準備として、南洋群島へ引上げ、待機の姿勢をることとなった。

 その間に、米国側では、どうにかして、わが聯合艦隊を、不利な状況下に引張り出そうとして、殊更ことさらマニラ飛行隊を帝都へ送って空襲をさせ、或いはアクロン号の夜襲、北海道、青森県の占拠せんきょまで、可也かなりの犠牲をかけて、日本艦隊の釣出しを試みたのであったが、わが聯合艦隊司令長官大鳴門正彦おおなるとまさひこ大将は無念の唇を噛み、悪口あっこうを耳より聞き流し、ただ、決戦の最も有利な機会の来るのを待った。

 そして、いよいよ其の日は近づいたのだ。布哇ハワイのパール軍港に集結していた敵艦隊の主力は、とうとう日本艦隊を待っている辛抱ができなくなり、ついウカウカと、有力な根拠地布哇ハワイを離れる気になった。うして太平洋上の二大艦隊は、相手を求めて刻一刻と、相互の距離をちぢめて行った。

「いよいよ、永年憧れていた恋人が、やって来たぞ」そういったのは、旗艦きかん陸奥むつ士官室ガン・ルームに、其の人ありと聞えた剽軽ひょうきん千手せんじゅ大尉であった。

「ほほう、どの位、近づいたのか」バットの煙を輪に吹きながら、戦略家の藤戸大尉がたずねた。

「主力の位置は、本日の唯今、北緯四十二度、東経百六十五度。北海道の真東まひがし、千八百キロというところだ」

「すると、敵艦隊は、今日になって、進路を急に西の方へ、向け直したことになるぞ」

藤戸ふじとの云うとおりだ」横から相槌あいづちを打ったのは、先刻から黙々として、探偵小説に読みふけっていた紙洗かみあらい大尉だった。「布哇ハワイから、ミッドウェーの東方沖合おきあいを、北西に進んでいた筈だから今日になって、進路を真西に向けたとなると……」

「そりゃ、こうサ」藤戸大尉が即座に引取って答えた。「いよいよ敵艦隊は、吾が艦隊と決戦を覚悟したのだ。これから敵艦隊は、南西へ下りて来るぞ。決戦の日の位置は北緯四十度東経百五十度附近と決った」

「青森県の東方一千キロ足らずの海上ということになるね」紙洗大尉は、探偵小説を伏せて、いつの間にか、その代りに、海図を拡げ、その上にキャラメルの艦隊を動かしていた。

「俺は大したことは望まんが」千手大尉は、ワザと神妙な顔をして云った。「大航空母艦レキシントン、アルカンター、シルバニアの飛行甲板ひこうかんぱんを、蜂の巣のように、あなをあけてやりたい」

「ウフ、それが大したことでなくて、何が大したことなんだ、あッはッはッ」

「うわッはッはッ」

 聞いていた二人の士官が、腹を抱えて笑い出した。

「何しろ相手は、輪形陣リング・フォーメーションだ、その中心の、そのまた中心にいる航空母艦だ。鳥渡ちょっと、手軽にはゆくまいな」

輪形陣りんけいじんが、破れまいと、確信しているところが、こっちの附け目さ。ナニ構うことはないから、平気でドンドン、飛行機を進めて行くさ、輪形陣の中に、こっちが入って行けば自信を裏切られて吃驚びっくりする。そこへ、着弾百パーセントという特選爆弾を一発、軽巡奴けいじゅんめに御馳走して、マスト飛び、大砲折れサ、ヤンキーが血を見て、いよいよ腰をぬかしているすきに、長駆ちょうく、大航空母艦の上に、五百キロ爆弾のウンコを落とす」

「うわーッ、千手せんじゅの奥の手が始まった。もう判った。やめィ」

「おい千手。それが本当なら、念のために、貴公きこう先刻さっき報告のあった米国聯合艦隊の陣容を、教えといてやろう」紙洗大尉は笑いながら、ポケットから、ガリ版刷ばんずりの「哨戒隊しょうかいたい報告」を拡げて読み出した。

「第六哨戒艦報告」

「判っとる。俺も覚えているよ」千手大尉が悲鳴をあげた。

「まァいい、聞け。──本艦搭載の偵察機を飛翔ひしょうせしめ、赤外線写真を以て撮影せしめたる米国聯合艦隊の陣容を報告すべし。先ずメリーランド、コロラド、ウェスト・バージニア、セントルイス、ソルトレーキ以下二十せきの主力艦を中心に、その前方に、大航空母艦レキシントン、アルカンター、シルバニア、レンジァーの四隻、大巡洋艦のポートランド、ニューオリアンス、イリノイ、フェニックス以下の八隻を配列し、又後方には多数の特務艦を従え、その周囲三十キロの円周海上は、四十キロの快速を持つ小航空母艦の感ある七千トン巡洋艦二十五隻を以て固め、更にその五キロの外輪がいりんを、二百隻の駆逐艦隊を配置し、別に八十隻の潜水艦を奇襲隊として引率し、またの輪形陣の上空六千メートルの高度に於て、メーコン、ラオコンの両飛行船隊を浮べ、飛行機全台数二千機中六百台の偵察機は各母艦より飛翔ひしょうして輪形陣の進航前方を、交互こうご警戒し、時速三十キロにて北西に向い航行中なり……」

「それが本当なら、こっちも全く、たたか甲斐がいがあるというものサ」千手大尉は、まだらずぐちめなかった。

「敵機三台に対し、こっちは一台の割だな。えて恐れるわけではないけれど、数理に合っているとは、考えられない」藤戸大尉は頭の中に数字を浮べているらしく、独りでうなった。

「そりゃ訳があるのサ」又、千手大尉がいきおいを盛りかえして、籐椅子からスックリ立上った。

「いいかね、敵機二千機、そりゃいいサ。それが一時に飛上ろうとしたって飛び上れるものじゃない。いくら空が広いからって、ページェントじゃないから、いなごが飛ぶようなわけには行かない。まァ精々せいぜい三分の一の六百機だ。六百機が、飛び上ったとしても、彼等の着艦は、すこぶる困難になる。そういうことは、彼等がよく知っているから、自然尻込しりごみをしてサ、実際現れる飛行機はそのまた三分の一で、二百機サ。ところが、我が飛行将校は、飛行甲板なり、カタパルトから飛び出すことは知っているが、着艦しようなどというケチくさい根性は持ち合わしていない。二百機が飛び出せば、二百機がフルに働く。ボーイング機が如何に速くともカーチス機が如何にすぐれた性能を持っているにしても、最後の勝利はこっちのものだ」

「そりゃ、呑気のんきすぎる説明じゃ」藤戸大尉が、本気になって反対した。

「俺に一説がある」紙洗大尉が、その後について云った。「三対一の比率は、あまりにはなはだしい。しかし軍令部が、見す見す負けるような計画を作る筈もない。そうかと云って、いくら吾が飛行機の優秀を見積り、兵員の技能を過信してもこの比率は、あまりに桁外けたはずれすぎる。そこで問題の解答は、こうだ。何かこう新兵器があって、敵機の三分の二を充分に圧迫することの出来る見込みが立っているのだ、トナ」

「いよいよもって、甘過うますぎる話じゃ」藤戸大尉は慨歎がいたんした。「俺の考えを最後に附加えるとこうじゃ。空軍として一時に参加出来るのは六百機、すなわち我れと同数に過ぎぬ。しかし米国艦隊が日本沿岸何百キロの距離に近寄ったところで戦争をするとなると、日本の海岸警備隊や、陸軍機が、戦争に参加することとなる。それに対しても充分の圧倒が出来る台数をというので、あの台数が出て来たのだ。又そうなると、日本の陸地の一部を占領することが出来れば、別に元の軍艦へ戻らなくてもいいわけサ。この辺に、三対一の比率が出ていると思う」

成程なるほどねエ──」

 三人三様の議論が丁度ちょうど一巡いちじゅんしたところへ、後のドアがコツコツと鳴って、三等水兵の、真紅な顔が現れた。

「紙洗大尉どの、井筒いづつ副長どのが、至急お呼びであります」

「おお、そうか。直ぐに参りますと、そう御返事申上げて呉れい」

 紙洗大尉は、かたわらの帽子掛けから、帽子と帯剣たいけんとを取ると、身づくろいをした。

「直ぐ帰って来るからな、一服しとれよ」

 そう云って彼は敏捷びんしょうに、部屋から出て行った。

 だがの紙洗大尉は、二十分経っても、三十分経っても、帰って来なかった。一時間の時間が流れても、彼の靴音は、聞えなかったので、二人の同期の友人は、云い合わせたように立上った。

「どれ、部屋へ帰って、今のうちに、辞世じせいでも考えて置こうかい」

「俺は、いまのうちに、たっぷり睡って置こうと思うよ」

 そこへ、紙洗大尉が、飛ぶようにして、帰って来た。

「おいどうした」

「大いに深刻な顔をしているじゃないか」

 紙洗大尉は、二人の友人の問を、其儘そのまま聞き流して、ジッと立っていた。

「おい、どうしたのかと云ったら!」

 そういった友人の、情深い手は、紙洗大尉の肩にかけられた。

「うん、大したことでは無い」彼はついに口を開いた。「ただ天佑てんゆうというものが今度の場合にも、おたがいに必要なのだ。いずれ判るだろうがね」

「ははァ、そんなことか」と、千手大尉。

「天佑は迷信ではない。忍耐と努力との極致きょくちじゃ」

 藤戸大尉は、帯剣を釣る手をやすめて何か重大命令を受けて来たらしい僚友に、哲学じみたことを言った。

 外へ出ると、大分風が出ていた。

 雲間からヌッと顔を出した弦月げんげつの光に、高く盛りあがった濤頭なみがしらが、夜目にも白々と映った。

 僚艦も稍難航ややなんこうの体で、十度ほど傾斜しながら、艦首から、ひどい浪を被っていた。



   鹿島灘かしまなだまも



 いよいよ米国大空軍の来襲は、確かになった。

 早ければ今夕、遅くとも明日の夕刻までには、敵影が鹿島灘かしまなだに現れることになろうと云うことであった。これは全国一斉に、ラジオによってアナウンスされた。新聞記者は、命懸けのテレヴィジョン送影機そうえいきを、モーターボートに積んで、沖合遥かに出て行った。それの後からはボコボコと、エンジンの音を立てて、幾百そうとなく、うす汚れた和船わせんが、同じ方角に出ていったが、これには各々、防空監視員が乗りこんでいた。防空監視員と云っても、完全な男子は出征して国内には居なかったので、四十過ぎの中老組か、二十歳以下の少年か、さもなければ、血気盛んなる妙齢みょうれいの婦人達であった。それは見るからに、重大任務をやりとげるのに充分な人達とは、お世辞にも、云えなかったが、壮年男子は、予備よび後備こうびといわず補充兵役にあるものまでが召集され、北満、極東方面に労農ロシア軍と戦い、或いはフィリッピン群島、東北地方北海道に、米国軍と対峙している今日、贅沢ぜいたくを云うわけにはゆかなかった。

 さて問題の、鹿島灘の、一番北の端に、磯節いそぶしで有名な三磯みいその一つ、磯崎町いそざきまちというところがあった。ここは、家数が四五十しかない、至って小さい町だった。町というのが多くは漁師の家で、その外には、数年前からジュラルミン工場が建てられたので、その職工達の家と、それ等の人々のために存在しているような感のあるお湯や、郵便局、荒物屋あらものや味噌みそ醤油しょうゆさけを売る店、米屋などが、一軒ずつ細々と暮しを立てているだけだった。その中で、最も新しい店の一つとして、小さなラジオ店が一軒あった。

「浩さんは、居なさらぬかな」そういって、店先をのぞきこんだのは、この小さな町の町長である吉田清左衛門よしだせいざえもんだった。

「あ、兄は先刻、平磯ひらいそ無線まで、出掛けたんでございますよ」そう云いながら顔を出したのは、ここの店をやっている夏目浩なつめひろしの妹にあたる真弓という若い女だった。記憶のよい読者は、彼女が神田のキャバレ・イーグルで、そこがゲーペーウーの秘密会合所と知らないで勤めているところを、団員をよそおって入り込んでいた帆村探偵に助け出され、この国許くにもとの磯崎へ、送りかえしてもらったことを覚えていられるだろう。

「ああ、それでは──」と、町長の吉田老人は独りで合点がってんをしながら「防空監視哨の電話設備を、平磯無線へ借りにいって下すったのだね。いや、こんどは、浩さんが居なかったら、わしは、どうしてよいやら、途方に暮れることじゃった」

「いよいよ防空監視哨が出来るんですの」

「お国のために、やらなけりゃならんことになりましたわい。この磯崎は、鹿島灘の一番北の端を占め、しかも町全体が、ズーッと海の真中へ突き出ているから、監視哨には持ってこいの土地ですよ」

「場所は、どこなんですの」

「三ヶ所、作れというおたっしでナ、岬に一つ、磯崎いそざき神社の林の中に一つ、それから磯合寄いそあいよりに一つ、と都合三ヶ所、作りましたよ。作ったのはよいが、監視哨に立つ人が、足りないので、弱っていますわい

「でも、ジュラルミン工場には、職工さん達が大勢いなさるから、一人や二人……」

「ところが、そうはならぬのですテ。ジュラルミンの工場は、なんでも国防用の機械を全速力でこしらえていましてナ、こっちを手伝って貰うことは、出来ないのですよ。監視哨をやってもらうことにすると、それだけ軍需品の補充が遅れることになるそうじゃ」

「まア、そうですの。皆さん、案外に呑気のんきにやっていらっしゃるようですが」真弓は、あの工場の職工たちが、勤務時間中でも、その辺をウロウロして、自分の顔をジロリと覗きにくることを思い出して云った。

「向うは何しろ軍需品工場ということだからこっちから無理に頼むことは出来ないのですテ」

「じゃ、あたしが、監視哨になりましょうか」

「ええッ、貴女が……」町長が驚いて云った。「貴女がなって下されば、つとまると思いますが、実は兄さんにもお願いしてあったのですが、むしろ貴女には、救護所の方でお手助けが願いたいのです。この方には、貴女のような気丈夫きじょうぶな方が、是非必要です。監視哨は、高いやぐらの上に、昼といわず夜といわず上って、眼と耳とを、十二分に働かしていなければならぬのです。誰かいい人を思付おもいつかれたら、どうか教えて下さい。では、兄さんにはよろしく」

 そういって町長は、帰って行った。

(誰か、目と耳との鋭い人は居ないものかしら?)

 真弓は、そのまま奥の間にも引込まず、店先で、ぼんやり考えていた。

 すると、遠くで、自動車の警笛が聞えた。聞くともなしに聞いていると、どうやら、こっちへ近づいて来るらしい。この辺では、あまり見懸けない自動車らしい音色ねいろだった。

「ほーン、ほーン」

 街道の砂煙りを、パッと一時に、濛々もうもうと立ち昇らせて、果せるかな、立派な幌型ほろがた自動車が、二台も続いて、家の前を通りすぎた。

「オヤ

 彼女は、首を振った。

「あれは、どうやら……」

 そこへ、往来おうらいから、七つばかりの男の子が駈けこんできた。

「お母ァちゃん。──」

「まア、三吉。お前、どこで遊んでいたの。いまみたいな自動車が通るところへ、出ちゃ駄目よ」

「ああ、僕出ないよ。──そいで、あの自動車、こんないいものを落としていったよ」

 そう云って三吉は、美しい外国製のチョコレートの函を母親の前に見せびらかした。

「あら、そんなものを拾ってきちゃ、いけませんよ」

 真弓は、チョコレートの箱を、子供の手から一旦とりあげたが、不図ふと気付いて、中をあけて検べた。中には、錫箔すずはくに包んだ丸いチョコレートが、たった一個、入っていたばかりだった。彼女は、その錫箔をがしてみた。すると、錫箔の下に、栗色くりいろのチョコレートは無くて、白い紙でもう一重ひとえ、包んであった。その白い紙をがして、しわを伸ばしてみると、果して其処そこには、鉛筆の走り書がしてあった。

「東京警備司令部付、帆村荘六氏へ、次のことを、至急電報して下さい。三三二六九二七五、四三六八、四三二九、四八六九、四三二七、……紅子べにこ

「ああ、矢張り紅子さんだったんだ!」

 真弓は頓狂とんきょうな叫び声をあげて、その小さい紙片を握りしめた。さっき、自動車のほろうちに、チラリと見せた片面かたおもが、どうも紅子に似ていると思ったが、矢張やはりそうだったんだ。

「母アちゃん、紅子さんて、誰?」

「紅子さんて、母アちゃんのお友達なのよ」

 真弓は、紅子から帆村へ宛てた、訳のわからぬ暗号めいたものに、自分でも可笑おかしいほど、何だかイヤな気がしたが、次の瞬間、そんなものは何処かに吹きとばしていた。

 ひょっとすると、帆村の探しているものが紅子の手に入ったしらせなのかも知れないと思ったので、紅子の頼みどおり、一時も早く、東京の帆村へ知らせてやらなくてはなるまいと思った。

 そこへ兄の浩が、フウフウ云いながら、帰ってきた。真弓は手短かに、一部始終を兄に話し、紅子の手紙を東京へ電報することを相談した。

「そりゃ訳はないよ」浩は云った。

丁度ちょうどいま、磯崎の防空監視哨と東京の中央電話局との直通電話を架設して来たばかりだ。あれで話せば、直ぐ東京が出る」

「じゃ、あたし直ぐに行ってみますわ」

「うん」

 真弓が外出の支度に、鳥渡ちょっと帯を締め直していると、奥の間から、

鳥渡ちょっと、待ってくれんか」

 と声をかけたのは、浩と真弓との父親だった。やがて、建てつけの悪い障子を、ガタガタと開いて、ぎごちない恰好で現れたのは、今年五十九歳になる、両眼の不自由な老父だった。

「お父さん、危いわよ」

 真弓が立って、気の毒な父の手をとった。

「お祖父じいちゃん。先刻さっき、大きな自動車が二つも続いて通ったよ。そいでネ、綺麗な箱を、おっことして行ったんだけど、母アちゃんがいけないって、とっちゃったよ」

「おお、そうか、そうか」盲目の祖父は、三吉の声のする方へ手を伸ばした。「三坊、お祖父さんのお膝の上へおいで」

「お父さん、どうかしましたか」浩が怪訝けげんな眼を見張って尋ねた。

「おお、浩も、真弓も、聞いて貰いたいことがあるんだ。ほかでもないが、いよいよアメリカの飛行機が、この浜の上へ沢山攻めてくるということだが、聞けば、監視に立つ人数が足りないと、町長さんの話じゃ。何でも、防空監視哨というのは、眼と耳とが確かならばつとまるそうじゃが、其処で考えたことがある。お前達も知っているとおり、わしは元、海軍工廠かいぐんこうしょうに勤めていたものの、不幸にもウィンチが切れ、灼鉄しゃくてつが高い所から、工場の床にドッと墜ち、それが火花のように飛んで来て眼に入り、退職しなけりゃならなくなって、それからこっち、お前達にも、ひどい苦労をめさせた。おれはいつも済まんと思っているよ」

「お父さん、愚痴ぐちなら、云わん方がいいですよ」浩が心配して口をはさんだ。

「いや、今日は愚痴ばかり並べるつもりじゃないのじゃ」老父ろうふは強く首を振って云った。「そんなわけで、わしは、海軍工廠をやめたが、お国のためにつくそうという気持は、更に変らないのじゃ。変らないばかりじゃあ無い。先刻せんこくのように、折角大事の防空監視哨に立つ人が無いと聞くと、残念で仕方がないのじゃ。そこでわしは考えた。何とかして自分がお役に立つ方法はないものかと。わしは眼こそ見えないが、耳は人一倍に、よく聞こえる。盲目になってから、特によく聞こえるような気持がするのじゃ。だがいくら耳が聞こえるからといって、盲目ではお役に立たない。そこでわしは、相談をするのじゃが、ことに真弓に考えて貰いたいと思うのじゃが、わしは孫の三吉を連れて監視哨の物見台へ上ろうと思うのだよ」

「ああ、お父さん、そんなこと、いけないわ」

「なあに、わしのことは、心配いらぬよ。こんな身体でお役に立てば死んでも本望ほんもうだ。ただ三吉を連れて行くのは、可哀想でもあるけれど、あれは案外平気で、行って呉れるだろうと思う」

「そうだよ。お祖父じいちゃんとなら、どこへでも連れてって貰うよ」無心の三吉が、嬉しそうな声をあげた。

「三吉は、まだ七つだけれど、恐ろしく目のよく利く奴さ。三吉の目と、わしの耳とを一つにすると、一人前いちにんまえの若者よりも、もっといいお役に立つかと思う位だよ」

「三吉は、小さいときから、父親のない不幸な子だ。それを又ここで苦しめるのは、伯父として忍びないです」

「ああ、兄さんも、お父さんも、ありがとう。どっちも、三吉の身の上を、それぞれ思っていて下さるのです。あたしは決心しました。三吉も、お祖父さんと行きたいと云っている位だから、あたしは母親として、それを許しますわ。今は、日本の国の、一つあっても二つあるとは考えられない非常時です。この磯崎では、一人の三吉を不憫ふびんがっていますけれど、あすこから電話線をつたって行ったもう一つの端の東京には、三吉みたいな可愛いい子供さんが何十万人と居て、同じようにアメリカの爆弾の下におびえさせられようとしているんです。そのお子さん達の親たちは、お父さんも、あたしのような母親も、どんなにかせめて子供達だけにでも、空襲の恐怖から救ってやりたいと考えていらっしゃるか知れないんです。あたしはそれを思うと、その大勢の同胞のために、喜んで三吉を、防空監視哨のやぐらの上に送りたいと思います。いいでしょう、兄さん」

「それは立派な覚悟だ」浩は熱い眼頭めがしらを、こぶしぬぐいながら返事をした。「建国二千六百年の日本が滅亡するか、それとも生きるかという重大の時機だ。私はお前の覚悟に感心をした。それと共に、年老いたお父さんの御決心にも頭が下るのを覚える。では、お父さん、三ちゃん、行って下さいますか」

「よく判ってくれて、こんなに嬉しいことは無い」老父も流石さすがに、感極かんきわまって泣いていた。

「なア、三坊、お祖父さんと一緒に、日本の敵のやってくるのを張番はりばんしてやろうな」

「ウン、あの磯崎神社いそざきじんじゃわきやぐらなら、さっきよく見てきたよ。お祖父ちゃんと一緒に昇れるのなら、僕、嬉しいな。アメリカの飛行機なんか、直ぐ見付けちゃうよ。ねえ、お祖父じいさん」

「おお、そうだ、そうだ」

 三吉の無邪気な笑いに、一家は喜んだり、泣いたりした。

「真弓、もう時間もないことだ。さァ急いでお前は、東京へ電話をかけるんだ。僕は町長さんのところへ行って、お父さんと三ちゃんの志願のほどを伝えて来よう」

「そう、愚図愚図ぐずぐずしてられないわねエ」

 二人は、弾条仕掛ばねじかけのように、立上った。



   太平洋の大海戦だいかいせん



 正確にいうと、昭和十×年五月二十一日の午前十一時五十分日米両艦隊は、いよいよ真正面から衝突したのであった。地点は、正しく北緯四十度、東経百五十度附近の海上で、青森県を東へ行くこと九百キロのところだった。

 主力の距離は、まだ五万メートルからあって、火蓋を切るところまでは行かなかったけれど、隊形は、米国艦隊が飽くまで南西の進路を固執こしつし、一挙鹿島灘かしまなだから東京湾を突こうというのに対し、我が日本艦隊は真南から襲い懸って、一艦一機をあまさず、太平洋の底に送り込もうというのであった。

 航空母艦から飛び出して、敵艦隊の動静をうかがっていた両軍の偵察機隊が、定石通じょうせきどおりぶっつかって行った。真先に火蓋ひぶたを切ったのは、米国軍だった。シャボン玉でも吹き出したように、パッパッと、真白な機関銃の煙が空中を流れた。わが偵察機は、容易に応射の気配けはいもなく、無神経に突入して行った。

 真下ましたの海上では、米軍の偵察艦隊がようやく陣形をかえ、戦闘隊形へ移って行く様子であった。これに対して米軍の駆逐艦隊は可也かなり高い波浪はろうにひるんだものか、それとも長い航洋に疲れを見せたものか、ずっと側面そくめんに引返して行った。

 日本艦隊の加古かこ古鷹ふるたか衣笠きぬがさ以下の七千トン巡洋艦隊は、その快速を利用し、那智なち羽黒はぐろ足柄あしがら高雄たかお以下の一万噸巡洋艦隊と、並行の単縦陣型たんじゅうじんけいを作って、刻々こくこくに敵艦隊の右側うそくねらって突き進んだ。

 その背後には、摩耶まや霧島きりしま榛名はるな比叡ひえい竜城りゅうじょう鳳翔おうしょうの両航空母艦をしたがえ、これまた全速力で押し出し、その両側には、帝国海軍の奇襲隊の花形である潜水艦隊が十隻、大胆にもくじらの背のような上甲板じょうかんぱんを海上に現わしながら勇しく進撃してゆくのであった。

 そのまた左翼にやや遅れて、我が艦隊の誇るべき主力、旗艦陸奥むつ以下長門ながと日向ひゅうが伊勢いせ山城やましろ扶桑ふそうが、千七百噸級の駆逐艦八隻と航空母艦加賀かが赤城あかぎとを前隊として堂々たる陣を進めて行くのであった。

 別動隊の、大型駆逐艦隊は、やや右翼前方に独立して、米国潜水艦隊を警戒すると共に機会さえあれば、敵陣の真唯中へ、魚雷ぎょらいを叩きこもうとする気配を示していた。

 艦数に於ては劣っているが、永年全世界の驚異の的である此の「怪物艦隊」は、待ちに待ったる決戦の日を迎え、艦も砲も飛行機も兵員もはちきれるような、元気一杯に見えた。

 旗艦きかん陸奥むつ檣頭しょうとう高く「戦闘準備」の信号旗に並んで、もう一連いちれんの旗が、するすると上って行った。

「うむ」

「おお」

 艦隊の戦士たちは、言葉もなく、潮風しおかぜにヒラヒラとひらめく信号旗の文句を、心のうちに幾度となく、繰返し読んだ。

「建国二千六百年のわが帝国の存亡そんぼうの一戦に懸る。各兵員れ奮闘せよ」

 おお、やろうぜ!

 さア、闘おうぞ!

 大和民族の腕に覚えのほどを見せてやろう。

 一死報国!

 猪口才ちょこざいなりメリケン艦隊!

 ──各艦の主砲は、一斉にグングン仰角ぎょうかくを上げて行った。

 弾薬庫は開かれ、砲塔の内部には、水兵の背丈ほどある巨弾が、あとからあとへと、ギッシリ鼻面はなづらを並べた。

 カタパルトの上には、攻撃機が、今にも飛び出しそうな姿勢で、海面をにらんでいた。

 艦橋の上に、器用に足を踏まえている信号兵は、目にも止まらぬ速さで、手旗を振っていた。

 高いほばしらの上からは、戦隊と戦隊との連絡をとるために、秘密の光線電話が、目に見えない光を送っていた。

 ぶるン、ぶるン、ぶりぶりぶり──

 航空母艦の飛行甲板からは、一台又一台と、殆んど垂直の急角度で、戦闘機が舞い上ってゆくのであった。灰白色かいはくしょくの機翼に大きく描かれた真赤な日の丸の印が、グングン小さく、そして遠くなって行った。

 一隊又一隊と、空中では何時いつの間にか、三機、五機、七機と見事な編隊をととのえ、敵の空中目指して突入して行った。

 はるか後方からは、爆撃機の一隊が、千百メートル、千二百メートルと、だんだん高度を高めて行くのが見えた。厚いフロートのついた大きな飛行艇は、やっと波浪の高い海面から離れ、主力艦の列とすれすれに飛んでいた。

 一秒一秒と、両軍の陣形は、目に見えていちじるしい変化を示して行った。息づまるような緊張が、兵員たちの胸を、ビシビシと圧しつけて行った。

 ぱッ、ぱッ、ぱッ、ぱッ──

 敵軍の偵察艦隊から、殆んど同時に、真黄色まっきいろな煙が上った。十門ずつの八インチほうが、一斉に火蓋を切ったのだった。

 ど、ど、ど、どーン。

 ぐわーン、

 加古かこ古鷹ふるたか青葉あおば衣笠きぬがさの艦列から千メートル手前に、真白な、見上げるように背の高い水煙が、さーッと、奔騰ほんとうした。どれもこれも、一定の間隔を保って、見事に整列していた。もう千メートルほど、近かったら、我が軍の精鋭なる巡洋艦隊は、可也かなり大きい損傷をこうむる筈であった。

 五秒、十秒、十五秒、煙りが、斜横に、静かにずれて行った。

 シカゴ、ルイズヴィル、ハウストン、イリノイ、フェニックスの砲口は、次の射撃に備えるために、じわじわと仰角ぎょうかくをあげて行くのが見えた。

 司令艦衣笠の司令塔からは、全艦へ向って急遽きゅうきょ命令が伝達された。

「全速力三十六ノット!」

 驚くべき命令が発せられた。

 給油管は全開となり、喞筒ポンプはウウーンと重苦おもくるしいうなりをあげ激しい勢いで重油がエンジンにきこまれて行った。ビューンとタービンは、甲高い響をあげて速力を増した。機関室の温度計の赤いアルコール柱はグングンあがって行った。

 途端とたんに、艦列を斜めにれて、又一連の水煙りが上った。二度目の砲弾が降って来たのだった。照準は、最初よりも狂いがひどく入って来たので、敵艦隊は、明かに狼狽ろうばいの色を見せはじめた。

取舵とりかじ一杯」

 司令艦の衣笠きぬがさから青葉あおば古鷹ふるたかという順序で見る見るうちに、艦首が左へ、ググッと曲って行った。

 キリキリキリー

 それに応じて、六門の主砲が、右舷の方へ旋回して行った。

 測距儀そっきょぎに喰い下っている士官は、忙しく数字を怒鳴っていた。砲術長は、高声器から、射撃命令を受けとると腕時計を見守りながら電気発火装置の主桿しゅかんを、ぐッと握りしめた。

(もうあと、五秒、四秒、三秒、二秒……)

 もう一秒だッ。

「そこだッ!」

 ううーンと主桿を倒した瞬間に、くらッくらッとくらむような閃光が煌々こうこうと、続いてずしーンと司令塔が真二つに裂けるような、音とも振動ともつかない大衝動だいしょうどうが起った。

「うう、見事に命中! おお、シカゴは、弾薬庫をやられて、爆発を始めたぞオ」

「うわーッ、万歳」

「万歳はまだ早い。とどめの一弾を、早く用意せいッ」

 主砲係りの兵員は、火薬の煙に吹かれた真黒な顔の中から、キリリと白い歯列を見せて、一弾又一弾と、重い砲弾を装填そうてんしていった。

 敵の最前列を占めていた巡洋艦隊は、次第に列を乱して行った。

 そのすき目懸めがけて、摩耶まやを司令艦とする高雄たかお足柄あしがら羽黒はぐろなどの一万噸巡洋艦は、グングン接近して行った。まとねらうは、レキシントン級の、大航空母艦であった。

 しかし、米国の誇りとする軽巡洋航空母艦隊は逸早いちはやくそのくわだてを知って、ますます空中に数を増す空軍の中から、快速力と爆撃力とに優れたカーチスの攻撃機隊の六隊四十二機に命令して、那智、羽黒の艦上に襲いかからしめた。

 これを見て取った我が竜城りゅうじょうに属する三六式戦闘機隊は、二十四機が翼を揃えて、見る見るうちにカーチス機隊の上空を指して急行した。

 敵のボーイング機隊が、北方に流れる浮雲うきぐもの中から現われて、これを圧迫する態度を示した。

 その隙に大航空船メーコン号、ラオコン号の側面に我が飛行艇隊が近づいて行った。メーコンとラオコンとの艦腹かんぷくに開く強力なる機関砲は、鼻を並べて、殷々いんいんたる砲撃を開始した。

 日米両艦隊の戦闘は、いまや順序を捨て、予測を裏切り、いずれが進むか退くか、にわかに計り知ることの出来ない疑問符号に包まれた。

 胸をふさぐような煙硝えんしょうの臭い、叫び声をあげてける砲弾、悪魔が大口を開いたような砲弾の炸裂、甲板かんぱんに飛び散る真紅な鮮血と肉塊にくかい、白煙を長く残して海中に墜落してゆく飛行機、波浪はろうまれて沈没してゆく艦艇から立昇る真黒な重油の煙、鼓膜こまくきりとおすような砲声、壁のように眼界をさえぎる真黄色の煙幕、──戦闘は刻々に狂乱の度を加えて行った。

 その頃、米国艦隊の主力は、十六隻の単横陣たんおうじんを作り、最も後方にいたが、ようやく三万五千メートルの射程しゃていに入ろうとして、もっぱら注意力を、前方に送っていた。

 旗艦きかんセントルイスの司令塔の奥深く、聯合艦隊司令長官ブラック提督ていとくは、移りゆく戦況を、主要なる艦艇から送られているテレヴィジョンによって、注目していた。

「戦況を、五分五分に保ち得ているところを考えると、最後の勝利は、わがアメリカに在ることが明瞭めいりょうじゃ」提督は静かに幕僚ばくりょうかえりみて云った。

「同感申しあげます、我等の閣下」

「わが空軍の活躍は、アクロン号、いや、こいつは、間違った──ロスアンゼルス、バタビウス、サンタバーバラの飛行船隊とがっすることによりて、絶頂に達することじゃろう。この空軍だけでも日本全土を、征服してしまうことは、訳のないことじゃ。艦隊の主力たる我が艦列の、彼にまさること一倍半なることは、此後このごの戦況に、大発展を予約しているものじゃ。要するに日本海軍というも、日本人というも、栄養不良のヒステリー見たいなものだ。布哇ハワイを見い。あれだけの日本人が居ってグウの音も出ないじゃないか。もっとも我が米軍の警戒も、完全にやっているせいもあるが、そこへ持ってきて、此の海戦地点たるや日本の海岸を去る七百キロという近さじゃ。ちょいと手を伸ばせば、日本の本土に手が届く。艦上機も、着艦の心配は無用じゃ、一と思いに、日本の飛行場を占領して降りればよい」

「ですが、閣下、日本の飛行場は、到底とうてい我等の飛行機全部を収容しきれんだろうと考えますが……。例えばハネダ飛行場にしましても……」

 ここまでしゃべってきたとき、けたたましいベルが鳴り渡るとともに、コロラドと書いた名札の下に、赤いパイロット・ランプが点いて、専属高声器が、周章あわてふためいた人声を発した。

提督閣下ていとくかっか。わがコロラドは、急速に沈下しつつあります。機雷に懸ったものか、魚雷を受けたものか、附近の兵員からの報告がありませんので、目下取調べ中であります」

「なに、コロラドが、沈没を始めた。何を油断していたのじゃ」

 そこへまた、チリリリリとベルが、鳴って、其の隣りのウェスト・バージニアのところに、赤いランプがついた。

「こちらは、ウェスト・バージニアです。唯今潜水艦から、魚雷を喰ったようであります。ぐに救援隊を御派遣ねがいたい」

莫迦ばかな奴じゃ」提督は、いよいよ苦虫にがむしを噛んだような顔をした。演習ではあるまいし、救援が出来るものか。それにしても潜水艦とは、可笑おかしいな、敵の潜水艦は、先刻からみているが始めの位置を動いたのは、一隻いっせきも居ないはずじゃが……

 提督が、不審顔で、あごに手を当てた其の瞬間だった。

 めり、めり、めりッ──

 司令塔が、馬の背から振り落されでもしたかのように、ひどい傾斜と共に、ガラガラと器物が転落を始めた。

「ど、どうしたッ」提督は、思わず椅子の上から突立って、サッと顔色を変えた。

「日本の潜水艦だッ」

「もう二分と経たない間に沈んでしまうぞ」同室の将校達は、奇声きせいをあげて、非常梯子のすべ金棒かなぼうに飛びつくと吾勝われがちに、第一甲板かんぱんの方を目懸けて、降りて行った。

 提督は一人残されてしまった。高声器が間に合う筈だったのに、今日に限って、ウンともスンとも鳴らない。彼は覚悟かくごめて、安全硝子ガラスの貼ってある窓の傍に駈けつけた。そのとき下から、三等水兵が、真赤な顔をして上ってきた。

「閣下、本艦は日本潜水艦に、舵器だきを半数破壊されました。したがって速力が半分に減じまするから、至急、隣に居りますソルトレーキへ御移りを願います」

「なに、本当に潜水艦か! おお、あすこの水面へ浮び上った。ッ、イ型一〇一号 するとさきにカリフォルニアの沖合で、襲来した自由艦隊の生き残りじゃな。あのとき一〇一号は射ち止めたと思ったのに……」

「閣下、お早くねがいます」

莫迦ばかなことを云え。砲術長は何をしているのじゃ。あの潜水艦を、何故早く射撃しないのじゃ。あれがマゴマゴしているうちに、旗艦移乗きかんいじょうなんて、どうして出来るものか」

 司令塔の外へ出てみると、混乱は更にひどかった。主力艦の列を、背後から不意に、まったく勘定に入れてなかった幽霊潜水艦隊から攻撃をうけたものであるから、驚くのも無理ではなかった。

 ひょっくり現れた伊号一〇一潜水艦は、大胆不敵にも、大混乱を始めている主力艦の後方に浮び上り、永らく中絶していた味方の艦隊との連絡をつけるために、搭載とうさいしていた飛行機を送り出すと、手際てぎわあざやかに、再び水底深く潜航して行った。

 潜水艦から離れた艦上機の操縦席についていたのは、別人べつじんならぬ花川戸はなかわど鼻緒問屋はなおどんやの二番息子の直二なおじであった。前に戦死と認知にんちされて、死亡通知の発せられた幽霊人ゆうれいじんだった。しかし彼はきずついた艦と共に、辛苦を分かち、墨西哥メキシコ某港ぼうこうによって秘かに艦の修理に従事し、その完成を待って、再び太平洋の海底にもぐり、僚艦と一緒に、秘密の行動についていたのであった。

 直二と先任将校の乗っている艦上機は、予定通り、近所を航進中の、駆逐艦山風やまかぜに救い上げられた。山風は直ちに隊列を離れて、旗艦陸奥きかんむつに向けて急航して行った。やがて彼等は、大鳴門おおなると司令長官の前に立って、米国艦隊の退路を絶つ機雷の敷設ふせつ状況と、なお布哇ハワイ攻略の機が如何に熟しているかを、つぶさに報告することであろう。

 それは後のこととして、主力艦を瞬時しゅんじうちに、三隻までも失った米艦隊は、やっと東洋遠征に誤算のあったことを気付いた。と云って、まで来て引上げることは許されないことであった。ブラック提督は、海軍の敗戦を、何とかして、空軍の強襲によって、取戻そうと決心した。

 彼は厳然げんぜんたる威容を、とりもどして、即時全空軍に命令を発した。

「今より吾が米国聯合艦隊所属の空軍二千機は、一機をもあますところなく直ちに艦上を離れ、空中に於て強行戦闘隊形をととのえ日本艦隊及びそれに属する空軍とを撃破し、以て吾が艦隊の不利なる戦績を救済きゅうさいすべし。なお余力よりょくあるに於ては、長駆カシマなだよりトーキョー湾に進撃し、首都トーキョー及びヨコハマの重要地点を攻撃すべし。ブラック提督」

 この一大決心を含めた命令が各隊に伝わると、飛行隊の将卒は、非常なる感激に打たれた。六対十の比率に安心していたのもむなしく、今自分達が出て奮戦しないと、このまま懐しい故郷へ帰れないことになるらしいのであった。残された唯一つのチャンスをつかむことについて、不熱心になるものは誰一人として無かった。

「さア、ジャップの奴を、のしてしまえ」

「行こう、行こう。メリーのために」

 たちまち米艦隊の真上には、蜜蜂みつばちの巣をつついたように、二千台の戦闘、偵察、攻撃、爆撃のあらゆる種類を集めた飛行機が一斉に飛び上った。天日は俄かに暗くなった。

 これに対して、精鋭をうたわれた皇軍の飛行機は、三百台ばかりが飛んでいたが敵の大空軍に較べて、なんと見窄みすぼらしく見えたことであったか。流石さすがに沈着剛毅な海軍軍人たちもこの明かな数量の上の不釣合に重苦しい圧力を感ぜずにはいられなかった。

 勝敗は、何処いずこへ行く?



   愛国者よ頑張がんば



 千葉県を横断して、茨城県に通ずる幅の広い県道を、風をって驀進ばくしんする一台の幌自動車があった。スピード・メーターの指度は四十マイルと四十五哩との間にゆらめいているほどの恐ろしい高速度であった。

「もう水戸が見える筈だ」そう云ったのは、賊を追って、お茶の水の濠傍ほりわきから、戸波研究所の地下道を突撃して行ったことで顔馴染かおなじみの、参謀草津くさつ大尉であった。

「まだ飛行機は見えないようですな」たおされるような窓外そうがいへ首を出したのは、例の私立探偵帆村荘六にほかならなかった。

「ねえ帆村さん」もう一つの声が、隅ッ子のクッションから聞こえた。大きな図体ずうたいの男、それは戸波博士の用心棒だった筈の山名山太郎であった。「先生は、大丈夫でしょうな」

「なんとも云えない」帆村は、唇を僅かにほころばして云った。「なにしろ用心棒の山名山太郎氏が傍にいないものだからネ」

「もうそいつは言いっこなしにしましょう」

 山太郎はきまりわるそうに頭を抱えた。

 どうやら一行の目的は、国宝の科学者戸波博士を捜し出そうということにあるらしい。

「茨城県磯崎に『ウルフ』の巣を見付け出したのは、何といっても驚嘆きょうたんすべきお手柄だ」草津大尉は、前方を注視しながら、独言ひとりごとのように云った。

「いやそれは二人の女性の手柄なんです。一人は危険を覚悟で『ウルフ』の身辺しんぺんにつきまとっている紅子べにこというモダン娘、もう一人は、紅子の密書を拾って逸早いちはやく僕のところへ通報して寄越した真弓まゆみという若い女」

「ほほう、密書を拾って通報したのは女性なのかい。しっかりした女だなア」

「……」探偵は無言で微苦笑びくしょうをした。「僕は結局大した働きもしませんでしたよ。磯崎いそざきのジュラルミン工場のオヤジが、ウルフであることを偶然発見したこと位です」

「あれは特筆すべきお手柄だったが、よく判ったものだね」

「草津大尉どの。太平洋戦争の其後の模様はどうなりました?」

「偵察機隊が火蓋を切ったそうだ。海軍の策戦さくせんが図に当って、敵軍は稍疲ややつかれが見えるそうだ。しかし勝敗はまだどこへ行くとも判っていない。だが少くとも戸波博士を、ここ一二時間のうちに奪還できない限り、帝国の勝算は覚束おぼつかない」

「先生を悪人が殺すようなことは、ぇでしょうか」

 山太郎が又心配した。

 このとき前方に注目していた帆村探偵が、突然叫んだ。

「草津さん、妙なものが、向うからやって来ますぞッ」

「ほほう、ありゃ牛乳運搬自動車らしいな」

「ところが大尉どの、御覧なさい、牛乳車の癖に莫迦ばかにスピードを出していますよ」

「五十マイルは出していますよ」運転手が云った。「すこし危いですが、この調子でつっぱしらせてようございますか」

「構わん、やれッ」

「承知しましたッ」運転手は巧みに把手ハンドルあやつった。彼の頸筋くびすじには、脂汗あぶらあせが浮んでやがてタラタラ流れ出した。

 距離はだんだん迫って来た。

 二千メートル、千メートル、五百メートル……。

「呀ッ、『ウルフ』の奴だ!」帆村が躍りあがって叫んだ。

「なに、ウルフかッ」大尉は叫んだ。「後藤、力一杯ブレーキをかけて左側の水田すいでんの中へ自動車を入れろッ」

 そう命令すると、大尉は座席の横から一かかえもあるくさりを、車外しゃがいほうした。途端に、車体はぐぐッと曲った。そして、大きな水煙りをあげると、どすンと水田の中に、急停車した。

「それッ、皆、飛び出せッ」

 出てみると、そこから三百メートルとへだっていないところに「ウルフ」の乗っていた牛乳自動車が車輪にくぎの出ているくさりからませ水田の中に頭部を突入して動かなくなっていた。

 駈けつけてゆくうちに、牛乳車の函車はこぐるまが内からパクリと開いて牛乳缶の代りに、四五人の怪漢が、ドッと飛び出して来た。言わずと知れた「ウルフ」の配下の者だった。

ウルフ」も運転台から、泥まみれになって降りて来た。その手には、ブローニング拳銃ピストルを握って、こっちをにらんで立った。

 こっちには、後藤運転手の手に、軽機関銃けいきかんじゅうが握られていた。

「手をあげろッ」大尉は怒鳴どなった。

 いくら大胆不敵な者共ものどもであっても、機関銃にはかなう筈が無かった。彼等は、静かに手をあげた。

「オイウルフ」大尉は降服者の前に立った。「いよいよお気の毒な運命になったネ。ところで戸波博士を渡して貰いたい」

「戸波博士はくなられた」ウルフが沈痛な面持をして答えた。

「えッ、博士は亡くなられたというのか。帝国の運命は、ついにああ……」

「莫迦を云うなッ、卑劣漢ひれつかんウルフのうしろから帆村が怒鳴どなった。

「大尉どの、博士は健在です。牛乳車の奥に、監禁されていましたぞォ」

「なに、博士が……」

 なるほど頤髯あごひげ見覚みおぼえのある戸波博士が、帆村の手によって牛乳車の中から助け出されていた。

「やッ」どこに隙間すきまを見出したのか、「狼」は大尉の脇の下をくぐって、猛然と博士の方へ飛び掛った。

「なにをッ」山太郎が横合いからムズと組付いた。

 この機会をはずしてはというので「ウルフ」の配下は、一度に反抗してきた。最早もはや機関銃もピストルも間に合わなかった。敵味方は肉体を以て相手の上に迫って行った。

 乱闘、また、大乱闘。

 どこから飛んで来たのか、乱闘の現場に近く、一台の偵察機が、低くさがって来た。誰も気付かぬうちに、機体からスルスルと、縄梯子なわばしごが下ろされ、やがて飛行服に身を固めた人が、機上から姿を現わすと、一段一段と、梯子を下りて行った。とうとう一番下の段まで来たときに、上を向いて合図をした。

 この不思議な飛行機は、宙乗りの人物を釣り下げた儘、乱闘の真唯中まっただなかを目懸けて、いよいよ低く舞い下ってきた。プロペラを急に停めたのは、速度を下げるためだと思われたが、何という大胆な振舞ふるまいであろう。一体、何をしようというのか。

 敵も味方も、突然飛びこんで来た怪物に、ソレと気がついてたじろいだ。

ッ」

 という瞬間に、宙乗りの人物は、右手めてを横にグッと伸ばすと、戸波博士をヤッと抱きあげた。博士の両足は、地上を離れた。

 それを合図のように、飛行機は、又漠々ばくばくたるプロペラの響をあげ、呆気あっけにとられている「ウルフ」の一団を尻目に、悠々と空中へ舞い上っていった。

「これで、祖国は救われたッ」

 草津大尉が、沈痛な声を発して、ハラハラと涙を流した。

「さア、これで安心して、やっつけてやるぞオ」山太郎が「ウルフ」の腕をねじあげた。

「大尉どの、磯崎へ急ぎましょう。どんなものをこしらえているか、心配です」そういったのは帆村探偵だった。

 陸軍偵察機の縄梯子の上では、戸波博士と警備司令部の快漢塩原参謀とが、感激の色を浮べて、挨拶をわしていた。



   空襲葬送曲くうしゅうそうそうきょく



 磯崎いそざき神社前の海辺うみべに組立てられた高さ五十尺のやぐらの上には、薄汚れた一枚の座布団ざぶとんを敷いて、祖父そふと孫とが、抱き合っていた。

「三ちゃんや、まだ何にも見えないかい」眼の不自由な老人が、優しくたずねた。

「うん、まアだ、何にも見えないよ。おじいちゃんのお耳にはまだ飛行機の音は聞えないの」

 三吉は大きな黒眼をグルグル動かして、下から祖父の顔を見上げた。

「飛行機の音はしないけれどネ、大砲の音はだんだん近くなって来たよ。プロペラの音は小さいから、飛んでいても中々区別がつかないのだよ。三ちゃん、見落さないように、左から右へと、ソロソロ見廻わしているのだよ」

「ああ、いいよ。僕、早く見付けて、伯父さんのこさえたこの電話機でネ、東京に住んでいる人と話をしたいの」

「そうか、そうか」

「さっき僕と話をした東京の人は、お姉ちゃんだったよ」

「電話局の交換手さんだからネ、交換手はお姉ちゃんにきまっているのだよ」

「そのお姉ちゃんに僕、いてみたの。お姉ちゃんには、お母ちゃんと、そいからお父ちゃんもいるのッてたずねたらネ……」

「うん」

「お父ちゃんも、お母ちゃんも居る筈なんだけれどネ、アメリカの飛行機が爆弾を落として、お家を焼いちゃったもんだからネ、どこへ行っちゃったか、判らないのッて云ってたよ。可哀想かわいそうだねーェ」

「──オヤ、これは……。おう、プロペラの音が聞こえる」

「ああ、見える、見える。一つ、二つ、三つ……」

「方角は、真東まひがし。おや、こっちの方にも聞こえる。三ちゃん。船神磯せんじんいその方には、何か見えないかい」

「船神磯の方? ああ、来たよ来たよ。飛行船が三つ──随分高く飛んでいるよ。おじいちゃん、電話を懸けていい!」

「そうじゃ、そうじゃ。間違うといけないから、落着いて掛けるのだよ」

 やぐらうえに、リリリリンと、可愛いい呼鈴よびりんの音がした。盲目の老人と、幼い子供の協力によって、警報は発せられた。真東から襲いかかるは、太平洋戦くずれの、爆撃隊であろう。北の方から、しずしずと下って来るのは、アラスカを通ってきた飛行船隊に違いない。磯崎岬いそざきみさきの、この可憐かれんなる防空監視哨は、思い懸けない大手柄をてた。少くとも三百万の帝都人は、直ちに、避難と防毒の手配に着手することができた。所沢ところざわ立川たちかわとの飛行聯隊、かすみうら追浜おっぱまの海軍航空隊、それから東京愛国防空隊の二十機は、一斉に飛行場から空高く舞い上った。

 白日はくじつもとの大空襲!

 二千機に余る精鋭なる米国空軍の襲来!

 十五万キロの爆弾を抱えた悪魔空中艦隊!

 この大空襲の報を耳にした帝都の住民の顔色は、其の場に紙の如く青褪あおざめたであろうか。

 いな! 否!

 先の空襲で、全市にわたる爆撃をうけたときは、覚悟していた以上の惨害さんがいこうむったので、一時は気が変になったほどだった。しかし、自分の懐かしい家は無くなり、美しい背広せびろも、丹精たんせいした盆栽ぼんさいも、振りなれたラケットもすべて赤い焼灰やけばいに変ってしまったことがハッキリ頭に入ると、かえって不思議にも胆力たんりょくすわってきた。

 こうなったら、非戦闘員も、戦闘員もあるものか。男も女も無い。子供も老人もない。障害者も病人もない。銃の引金を引く力の残っている者は、銃をとって前線に出ろ! 防毒薬のバケツを下げる力のある者は、救護班に参加しろ!

 ──こうして、第一回の空襲によって大和魂やまとだましいを取戻した市民たちは、眼の寄るところへたま比喩たとえで、だんだんと集り、義勇隊ぎゆうたいを組織して行った。それには出征に、取残された男は勿論もちろんのこと、女もあれば、老人もあった。帝都の秩序は、平時以上に恢復した。涙を流している者は、一人も見当らなかった。皆が皆、燃えるような愛国心、鉄のような忍耐心を持って兇暴な敵の空襲に立ち向ったのであった。

 国民のこの盛んなる意気は、敵艦敵機を向うに廻して奮戦している太平洋上のわが兵員の上にも、響いていった。

 攻撃力の弱い旧型駆逐艦くちくかんの如きは、敵の航空母艦に撃沈されるのは覚悟の上で、それでも万一天佑てんゆうがあって撃沈までの時間が伸びるようだったら、その機をはずさず、下瀬火薬しもせかやくのギッシリつまった魚雷ぎょらいを敵艦の胴中どうなかに叩き込もうと、突進して行った。

 潜水艦の機関兵員は、熱気ねっきされた真赤な裸身らしんに疲労もらず、エンジンに全速力をあげさせ、ふかのように敏捷びんしょうな運動をあやつりながら、五度六度と、敵の艦底を潜航し、沈着な水雷手に都合のよい射撃の機会を与えたのだった。

 砲熕ほうこうの前へ、ノコノコ現われて、敵弾から受けた損傷の程度を調べに行った水兵があった。

 一番砲手も、二番砲手も、皆倒れてしまうと、その後から信号兵が一人現れて、不慣ふなれな砲撃を続けたという話もあった。

 だが、どうにもならなくなったのは、敵の空軍の圧倒的偉力いりょくだった。

 敵艦を沈没させるのは自信があったが、敵機を射ち落すことは、中々うまくゆかなかった。そのうちに、味方の飛行隊のすきねらって押し寄せた爆撃隊から、多量の爆弾が切って落されると、偉力いりょくを誇る十六インチ砲も、あめのように曲ってしまった。

 この調子が永く続くと、敵艦隊を圧迫した我が艦隊は、ついに反対の悲運におちいらなければなるまいと思われた。

「見ちゃいられんな」陸奥むつの艦上三千メートルの上空に、戦闘機を操縦し、防戦につとめている千手大尉が舌打ちした。

「いまいましいメリケン空軍の奴原やつばらだ」

 その慄悍ひょうかんなる敵機の一隊は、目標を旗艦陸奥むつに向けて、突入してきた。

「やってきたなッ。吾輩の射撃の腕前を知らないと見えるな」

 千手大尉は、照準を敵機の司令機の重油タンクの附近につけた。出来るなら、陸奥の艦上から、敵機を離したいと思ったが、それはかえって容易に、敵の爆撃にまかせるようなものであった。万一のことを思うと、鳥渡ちょっと慄然りつぜんとしないわけに行かなかった。

旗艦きかん陸奥むつが、爆沈されたらば、わが艦隊の士気は、どんなにうしなわれることだろう!)楽天家の大尉も、今日ばかりは、不安に思わずにはいられなかった。

 だが、事ここに至って、躊躇ちゅうちょはいけない。

「戦闘用意!」大尉は、僚機の方へ、手を振って合図をした。

「戦闘始めイッ!」

 エンジンを全開にして、宙返りの用意をととのえながら、全速力で敵機へ突入した。

 敵は早くも機首を下げて、襲撃の形を示した。

 そのとき、極めて不思議なことが起った。まだ二聯装れんそうの機関銃の引金を引かないのに、向ってきた敵機は、爆弾でも叩きつけられたかのように、機翼全体に拡がる真赤な火焔につつまれ、木の葉のように、海上目懸けて、墜落して行った。大尉は、まるで狐につままれたような気がした。始めて気がついて、すこし遠くの空間を見廻わすと、これはどうしたというのだろう。あちらでもこちらでも、まるで松明行列たいまつぎょうれつを見るように、米軍の大小の飛行機が、火焔に包まれ、真黒な煙を蒙々もうもうと空中に噴き出しながら、海面へ向けて、落ちて行くのが見えた。

 途端に──

「ぶわーッ」

 大尉は機胴きどうに、恐ろしい衝動を感じた。

「やられたかッ」

 大尉は、それでも、反射的に水平舵すいへいだを引いた。

「おお、あれはメーコン号だッ」

 覚悟をした大尉の戦闘機は、何の苦もなく平衡へいこうをとりかえし、何事も無かった。

 大尉を驚かせたのは、米艦隊の最上さいじょうの空に、まもがみのように端然たんぜん游泳ゆうえいをつづけていたメーコン号が、一団の火焔となって、焼け墜ちてゆくのを発見したことだった。

「うん、判ったぞオ。これは怪力線かいりょくせんに違いない。うわさに聞いた怪力線の出現。ああ、そうだ。紙洗大尉の奴、井筒副長から何か言われてたっけが、あれが『天佑てんゆう』の正体しょうたいなんだな」

 真下を見ると、陸奥の艦橋かんきょうに、何だか見慣れない奇妙な形の器械が、クルクルと廻転しているのが見えた。そうだ。佐世保させぼ軍港で、得態えたいの知れぬ兵器を搬入はんにゅうしたことがあったが、あれに違いない。

 ああ、新兵器、怪力線!

 皇国こうこくは美事にすくわれた。

 怪力線の発明者は誰だ。

 千手せんじゅ大尉は、旗艦陸奥を呼ぶために、短波のラジオ受信機のスイッチを入れた。

 するとどうした具合であったか、感激に満ちた若い女性の声が聞えて来た。

「おや、この戦争の真唯中まっただなかだというのに、婦人が一体何を放送しているのだろう?」

 人一倍、呑気のんきものの千手大尉は、それをよく聞いてみるつもりで、ダイヤルをグッと廻した。厚い飛行帽の中にとりつけられた受話器には、手に取るような、その女性の言葉が聞えてきたのだった。

「──皆さん、わが帝国は、ついに勝ちました。さしも世界に誇った米国の太平洋大西洋の聯合艦隊も、わが海軍の沈着な戦闘によって、半数は、太平洋の海底深く沈み、残りの半数は戦闘力を失い、或は白旗はっきをあげて降服いたしました。遠く北満ではわが精鋭なる陸軍の奮戦によりまして労農ロシア軍を、興安嶺こうあんりょうの彼方遠く撃退することが出来ました。それから、米国の大艦隊に従い、日本へ攻め寄せて来た二千台の大空軍はどうなったでしょうか。又アラスカ半島から襲来して参りました大飛行船隊はどうなったでございましょうか。それは、わが陸海軍の航空隊と、私達の持って居ります愛国防空隊との活躍によって多大の損傷そんしょうを与えることが出来ましたが、しかし最後の一戦をいどんで帝都へ押寄せて来ました飛行船飛行機の数は、無慮むりょ一千五百機。これを撃破するには、あまりに手薄いわが空軍の勢力でございました。ところが、皆さんが唯今帝都の上空に於て、したしく御覧になりましたとおり、あの巨人のようなロスアンゼルス以下の飛行船も、ボーイング、カーチスの優秀飛行機も、ボール紙が燃えるように一瞬の間に焼け落ちてしまったのでございます。ああ、これは何という奇蹟でございましょう。しかし皆さん、これは奇蹟などという馬鹿げたものではございません。これこそ吾が科学界の明星みょうじょう、戸波博士の御発明になる怪力線かいりょくせん偉力いりょくでございます。しかし博士は謙遜けんそんされて申されます。怪力線はほんのお手伝いをしたのに過ぎない。本当に外敵がいてきを撃退し得た力は、伝統を誇るわが陸海軍々人の勇敢なる戦闘力と、その背後に控えた国民の覚悟と協力、ことに防空問題についての理解と準備とが十二分に行われた結果であると申されます。その辺の判断は、皆さんのお心委こころまかせとし、いまや太平洋を征服し、東洋民族の盟主めいしゅとして仰がれることになりました新日本の光輝こうきある黎明れいめいを迎えるに当り、そのとうとき犠牲となったわが戦士と不幸な市民たちをとむらい、又アメリカ主義にわずらわされて西太平洋の鬼となった米軍の空襲勇士たちのために、前に聞かせて頂いた空襲葬送曲を、唯今ただいま放送を以て、遠く米国本土にまで、お返ししようと思うのでございます。──」

 ショパンの、はらわたつような、悲痛なメロデーに充ちた葬送行進曲が、ピアノの鍵盤キイの上から、静かに響いて来た。

 涙をソッと押さえてJOAKのスタディオにだんずるのは、奇しい運命の下に活躍した紅子べにこだった。わず一旬いちじゅんのうちに、弦三と素六の兄弟と、優しい母と姉とをうしなった彼女は、この次の、父の誕生日に集るであろうところの、僅か半数になった家族のことを想って、胸のせまるのを覚えた。

 しかし戦死したと思った伊号一〇一乗組の、紅子の大好きな直二なおじ兄が、無事な姿をひょっくり現わすだろうことを思えば、いつとはなしに微笑ほほえまれて来るのであった。

底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房

   1990(平成2)年1015日第1版第1刷発行

初出:「朝日」

   1932(昭和7)年5月~9月号

入力:tatsuki

校正:kazuishi

2007年15日作成

2007年91日修正

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