電気風呂の怪死事件
海野十三
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井神陽吉は風呂が好きだった。
殊に、余り客の立て混んでいない昼湯の、あの長閑な雰囲気は、彼の様に所在のない人間が、贅沢な眠から醒めたのちの体の惰気を、そのまま運んでゆくのに最も適した場所であった。
それに、昨日今日の日和に、冬の名残が冷んやりと裸体に感ぜられながらも、高い天井から射し込む眩しい陽光を、恥しい程全身に浴びながら、清澄な湯槽にぐったりと身を横えたりする間の、疲れというか、あの一味放縦な陶酔境といったものは、彼にとって、ちょっと金で買えない娯しみであったのだ。
陽吉の行きつけの風呂は、ちゃんと向井湯という屋号があった。が、近頃大流行の電気風呂を取りつけてあるところから、一般に電気風呂と称ばれていた。
「電気風呂はよく温るね」などと、とにかく珍しもの好きの人気を博することは非常なものであったが、その反対に、入るとピリピリと感電するのを気味悪がる人々は、それを嫌って、わざわざ遠廻りしてまで他所の風呂へ行くといった様に、勢い、それは好き好きのことではあるけれど、噂で持ちきっていたものである。
では、陽吉はどうかというと、決してその電気風呂が好きというのではなかった。ただ、元来無精な所から、何も近所にあるものを嫌ってまで、遠くの風呂へ行くにも及ぶまいじゃないかといった点で、別に是非をつけてはいなかったのである。
尤も、何時であったか、彼の友人で電気技師を職としている茂生というのと一緒に入った時、ひょいとした感じで、ちょっと不安を覚えたので、訊ねてみたことがあった。
「どうだい、この電気風呂って奴は、入浴中に人間が死ぬ様なことはないものかね?」
すると、茂生は、何か他のことでも考えていたのか、はっとした様な態度で、しかしこう答えたものだ。
「さあ、大体大丈夫だがね、しかしどうかした拍子で電気が強くなると、心臓をやられることもあるだろうね。人間の中でも電気に感じ易い人と、感じの鈍い人とあるものだからね。同じ人間でも身体の調子によって、感じ易い日と、感じにくい日とがあるものだよ。とにかく、疲れ過ぎたり、昂奮していたり、酒を呑んでいたりして心臓が弱っている時には、電気風呂など止めた方がいいよ。そりゃ普通はそんなこと滅たに、いや絶対といってもいい位、ありゃしないがね。また死ぬかも知れないような危険なものを、許可しとく筈があるまいじゃないか、まあ、安心していいだろうよ」と。──
だから、今日も、彼は例日のように、いや、むしろ今日は進んでこの電気風呂へやって来たのだった。というのは、前夜、銀座あたりを晩くまでのそのそとほっつき歩いた疲労から、睡眠も思ったより貪り過ぎたためか、妙に今朝の寝醒めはどんよりとしていたので、匆々タオルと石鹸を持って飛び込んで来たのだった。
めっきり、暖い午前なので、浴室には何時ものように水蒸気も立ち罩めてはいなかった。
よっちゃんと呼ばれる風呂屋の由蔵が、誰かの背中を流しながらちょっと挨拶した。陽吉は黙って石鹸と流し札を桶の上に置いて湯槽の横手へ廻った。浴客は皆で四人、学生らしいのが湯槽に漬っているだけで、あとはそれぞれ流し場でごしごしと石鹸を使っていた。由蔵が流してやっている老人が、いかにも心地好さそうに眼を細くしてされるがままに肩を上下に振っている。全くのんびりとした昼湯の気分が漲っていた。
陽吉は、そうした気分を未だ充分に感じられずに、ひょいと手拭を湯槽に浸した。と、ピリピリといやに強い感覚、頸動脈へドキンと大きい衝動が伝った。何となく心臓の動悸も不整だな、と思いながらも、肌にひろがる午前の冷気に追われて、ザブンと一思いに身を沈めた。熱過ぎる位の湯加減である。頤の辺まで湯に漬りながら、下歯をガクガクと震わせながら、しかも彼は身動きすることを怖れて、数瞬じいっと耐えていた。と、唐突、
「熱ッ」と叫びながら、遽かに飛び出したのはその学生らしい男であった。忽ちに、湯槽の中は激しい波が生じて、熱湯が無遠慮に陽吉の背筋に襲いかかった。ブルブルブルと一竦みに飛び上った彼は、湯槽の縁に手をかけて出ようとした瞬間、
「吁ッ!」
という叫びと共に、彼の体は再び湯の中に転倒してしまった。全身に数千本の針を突き立てられたような刺戟、それは恰も、胃袋の辺に大穴が明いて、心臓へグザッと突入したような思いだった。指先は怪魚に喰いつかれたような激痛を覚えた。
「た、救けて! で、電気、電気だ。感電だ!」
ザアッと湯の波に抗って、朱塗の仁王の如く物凄く突っ立った陽吉が、声を限りに絶叫したとき、浴客ははじめて総立ちになって振返った。由蔵は垢摺りを持ったまま呆然と案山子のように突っ立っている。二人の職人風の伴は、それと見るより呼応して湯槽の傍へ駆けつけて来た。
「おい。兄弟、手を、手を貸した」
「よし来た!」
向う見ずに、今にも湯槽へ飛び込もうとするのを見て、例の学生風の男が大声で制した。
「危い! 待った待った。感電らしい。飛び込んだら、今度は君達がやられちまうぜ!」
「あッ、然うだった。危い危い! しかし此儘見殺しが出来るもんじゃない。何とか、おい番頭さん、何とかしなければ──」
「電気の元を切るんだ。おい番頭君、早く電流を断つんだよ!」
学生風の男に云われて、由蔵は漸くあたふたと釜場へ通う引戸を押して奥の方へ姿を消した。
バタバタと板の間を走る足音。カタコトと桶の転がる音など──女湯の客が、何か異常を知って狼狽しているらしいけはいだった。やがて間もなく、真蒼になった女房が番台から裾を乱して飛び降りて来るなり、由蔵の駆けて入った釜場の扉口で甲高い叫びを発した。
「大変です。お前さん、大変ですよお!」
続いて太い男の声で、
「電気を切ったぞお!」
と、再び由蔵が流し場へ戻って来た。
「さあ、電気は切りました」
「大丈夫だな。じゃ、早く──」
学生上りが、いらいらと促すのを、臆病そうに老人が尻込みした。
「ええッ焦れってえ、もう大丈夫だというのになあ。そおれ!」
と、職人風の一人が、見るに耐えかねたといったかたちで、さっと勢い込んで両手を湯槽に入れた時、ドヤドヤと向井湯の主人や、下足の小供、脱衣場の番人のお鶴などが駆けつけて来た。
「由蔵どうしたんだ、いったい?」
主人はこの椿事に対して何等見当がつかないので、むしょうに怒りっぽく由蔵をきめつけようとした。
「どうもこうもねえ、感電で客が一人この湯ん中へ沈んじまったんだ。早く救け出さにゃ死んでしまわあな!」と職人風の一人が叫んだ。
「え、感電? そら大変だ、由蔵入れ!」
主人は仰山に驚いて、顎で由蔵へ命令した。が、由蔵はと見ると、只もうおろおろとしながらも、何か気になるらしく、一向湯槽へ飛び込む勇気を持とうともせず、縁へ掴まったまま、左右を見廻したり、肩を振ったりして埓が明かなかった。
「ええ、意気地なし!」
むっとした語調で云い捨てるなり、学生風の男は人を待たずに飛び込んだ。続いて石鹸だらけの肉体を跳らせて、ザブンと荒々しく足を踏み入れた職人風の二人。彼等はもう必然的の労働の様に、妙に亢揚した息使いで各々足の先で湯の中を探って廻った。泥沼に陥没しかかった旅人のように、無暗矢鱈に藻掻き廻るその裸形の男三人、時に赤鬼があばれるように、時にまた海坊主がのたうち廻るような幻妖なポオズ──だが、それも極めて短い瞬間の印象でなければならぬ。
突如、
「吁ッ、此処に有った!」
と、職人風の一人が両手をさあッと挙げて頓狂な叫びを発した。と、同時に、冷水管を通す円い穴の向うで、「きゃッ」という叫びが弾かれた。──それは、先刻狼狽して釜場の方へ飛んで行った湯屋の女房であった。彼女は、覗き穴へ当てた片眼の前で、余りにも唐突に職人の一人が声を発したので吃驚したのである。のけぞり反るように、逃げ腰に振り返った途端、発止と鉢合せたのは束髪に結った裸体の女客であった。
「見ちゃいけません。見ちやいけません。早くお帰んなさい」
前後の見境なく、女房はその女客を片腕で制して押し戻した。その女客は、手に何か黒いかさばったものを持っているらしかったが、此際そんなことは、女房に取って注意を要すべきことではなかった。ただ、その女客が黙って元来た女湯の方へ行こうとするのにおっ冠せて、
「あの、女湯の方には変りはありませんでしたでしょうか?」
と問いかけた。すると、その女客は引戸に手をかけたまま、ちょっと振返ったが、
「いいえ、別に何とも……」
と、曖昧に答えてそのまま女湯の流し場の方へ入ってしまった。
その引戸が閉まると同時に、女房は何故か一抹の疑心を感じて、念のため女湯の方を見廻りたいと思った。が、その時、男湯の方から主人の声が聴こえて来た。
「おい、早く蒲団を持って来い。おい、居ないか、由蔵、由蔵!」
女房は擾乱した頭で、裏口の扉に錠をかけると再び男湯の流し場へ駆けつけた。
陽吉の身体が上ったものらしく、其処では色んな人々が立ち騒いでいた。寒さも忘れ、恥部を隠す余裕も持てない数人の浴客、それに椿事と知って駆けつけて来た近所の人々や、通行人らしい見知らぬ顔の男達が、或は足袋を濡らしたまま、或は裾をまくったままで、わいわいと湯槽を取囲んでいた。
「おい、早く蒲団を持って来ないか。由蔵はどうしたんだ、いったいあ奴は何処へ行っちまったんだ?」
「あたしゃ知らないよ。交番へでも駆けてったんじゃ、ないかね?」
「そんな筈はない。もう交番の旦那は夙くに見えてるんだ。由蔵に訊きたいことがあるって、待ってるんじゃないか。ええ、それより早く蒲団を持って来いというに──」
いずれもむしょうに昂奮した口調で、こんなことを応酬したのち、女房は返事も口の中でして奥の間へ飛び込んだ。押入から蒲団を曳きずり出すと、力一杯それを抱えて釜場の方へ引返して来た。と、其処にも男湯の方を覗き込んでいる近所の若衆が二三人立っていた。
「みなさん、お客様はもう死んでしまったんですか?」
「助かるだろうというんですがね、まあ早く蒲団を持ってってやんなさい!」
だが、女房はその扉口に近く、警官や刑事らしい人々が数人、ひどく難しい表情で突立っているのを認めると、何故か心怯えてゆく気にはなれなかった。
「すみません、ちょっと此処を開けて下さい!」
女房は、傍の人に声をかけて、女湯の扉口を頤でしゃくってみせた。
無言で開けられた扉口から一歩、女湯の方へ足を踏み入れた彼女は、又も思わず「吁ッ!」と叫んだ。
その声にはっと反射的に此方を向いた扉口の連中は、「おやッ!」と、ひとしく目を瞠った。
「お、女湯にも、大変です! 女湯にも人が、人が……」
タイル張りの流し床に蒲団を放り出した女房が、こう叫んだのは、すべて計ることの出来ない瞬間のことである。
男湯の方の出来事に注意を鳩めていた警官連や他の男達は、どっと、その声に誘われて女湯の方へ雪崩れ込んで来た。
司法主任の赤羽直三氏の蒼白な顔が、何時の間にか交っていた。
「おお! こりゃ兇器で殺られてる。みんな傍へ寄っちゃいかん! 大変だ。君、急いで手配をして見張って呉れ給え!」
彼は、さすがに昂奮の色を見せて誰に云うとなく叫んだ。と同時に、刑事らしい一人がバタバタと表口へ駆け去った。
男湯と女湯との仕切板の上から、いくつも覗いていた顔は、一様にさっと筋ばった。見るに忍びず、といったそれらの顔色が示す事件は、いったい何であったのだろう?──
女湯の白いタイル張りの床の上に、年の若い婦人の屍骸が俯伏に倒れていたのだ。いや、それよりも何よりも、一目見た程の人々の心に、最も強く映ったのは、その白いタイルの一面に、紅がらを溶かしような生々しい血糊がみなぎっていたのだ。そして、怖ろしいまでの苦悶の跡をみせて、その年若い婦人の裸体が不自然な姿態をその中に示しているのであった。──
赤羽司法主任は、たった一人でつかつかとその屍体に近づいて調べてみた。
女は、もはや夙うにこと断れていた。そして、左の頸と肩との附根の所に、鋭い吹矢が深々と喰い込んで刺っている。夥しい出血は、それがためのものであるらしい。が、その婦人の身体には、未だ幾分か温みが残っていた。肉附のよい、見るからに豊満な全身に亘って、まだ硬直の来していないことが、誰の眼にも生々しい事件を想像させた。恐らく此の女は、男湯の騒ぎの最中に殺されたものであろう。そう想う人々の面に、何がなし深い恐怖と不安が漂い初めたのを、赤羽主任も一通り看取する余裕を持っていた。
だが、見渡したところ、浴室の窓が開いている訳でもなし、吹矢を打ち込む隙間があろうとも思われなかった。と、赤羽主任の頭にさっと閃いたのは、由蔵が姿を見せないということである。
「君、ちょっと、釜場の上にある由蔵の部屋を捜索して呉れ給え。狭い梯子で昇れるようになっている所だ」
部下の一人に耳打ちした赤羽主任は、次にも一人の部下に、容疑者として由蔵の逮捕方並に非常線を張ることを、本署に電話するように命じた。
直に、その二人はそれぞれの役目に就くべく其の場を去ると、赤羽主任は、向井湯の主人と女房を眼で呼び寄せた。
主人は、赭ら顔を全く恐怖で包んだまんま扉口の前列に立っていた。女房はというと、投げ出した蒲団の後に眼を据えたまま口を開けて立ちつくしている。四囲の人々がどうあろうと、そんな判別もつかぬらしく、ただ徒らにその眼は執念く女の屍体に注がれていた。
「君たち夫婦の中で、この女の顔に見覚えのある者はいないかね?」
赤羽主任の訊問に、はじめて我に返った両人は、再び指し示されたその女の屍体に眼をやったが、答は横に振った首でなされた。
次々と、その場に居合せた程の人々は、順に訊ねられたが、口数少く、いずれも女の身元に就ては未知との答ばかりであった。
と、何を思ったか、低い、ややもすると隣の人にさえも聴き取れないような口籠り方で、女房が呟いた。
「……しかし、変だこと!」
「何? 何処が変だね?」
赤羽主任の声に、一同は女房と共にはっと眼を上げた。そして、赤羽主任の眼が女房の言動に何事か関心を持ったらしいことに気がついて、一層緊張した沈黙が生れた。
女房は、飛んでもないことを云ってしまった、という様な不安を以て、まじまじと赤羽主任の眼を視返した。
「今、変だこと! って云ったじゃないか?」
「ええ、でもそれは──」
しかし、女房は云い逃れることの無駄を知って、おずおずと口を開いた。
「いえね、先刻男湯で沈んだお客の体が見つかったとき、それがわたしの鼻の先なんでしょ。わたし、びっくりしちゃって奥へ逃げ出そうとしたんです。すると、ちょうどその時、女の人が一人、裸のまんま、わたしと衝突ったんです。思わず、いけません、早くお帰んなさい──って、わたしが云いますと、その方、この女湯の方へ帰ってしまいましたが、その時もしやと思ったもんですから、私は、女湯の方は何ともありませんか、って訊ねましたんです。すると、いいえ、何事もありません、と云って、そのまま此方へ来た筈なんですのに──それで、今思い出したもんですから、ひょいと呟いたんですわ」
「ほほう、では君の見たという女は、此の死んでいる女客じゃなかったかね? よく見て御覧!」
赤羽主任にそう云われて、今度は眉を顰めながら、女房は再びチラリとその方を見たが、
「いえ、全っきり異ってますわ。何しろうす暗いのと、上気していたのとで、はっきり見ることも出来ませんでしたが、わたしの見た女の方は束髪だった様に覚えています。此のお客さんは銀杏返しですものね、──ですけど、肉附きや、体の恰好など、似ていたと思えばそんな気もしますけれど……」
赤羽主任は、無残につぶされた女の銀杏返しの髪に視線を送った。──丸々と肥えた頸筋に、血に塗れた乱れ髪が数本蛇のように匍っている、見るからに惨酷な犯行を思わせずにはおかなかった。
と、その時、赤羽主任の眸はパッと大きく見開いた。というのは、その今しも見つめていた女の頸筋から一寸程離れた肩先に附着していた血痕が、チラリと閃いたようだったからである。
「おやッ?」
と叫んだ時、チラッと再び、その辺の血痕は鋭く光った。そして、同時に、その血は頸筋へかけてすうっと流れ出したではないか? 思わず掌を出して、赤羽主任はその上へ拡げてみた。と、まさしく、ポトリと音がして、赤羽主任の掌上には、一滴の血潮が、円点を描いた。
「ヤッ血だ!」
一層頻繁に落ちて来る血潮を受け止めながら、赤羽主任は反射的に天井を見上げた。それに誘われて傍の人々もひとしく高い浴室の天井に首を廻らせた。
「やッ、あそこに、あんな、あんなものが──」
誰かが叫んだ時、一同の眼は同時に同じものを認めたのであった。
それは、高い高い、浴場特有の水色のペンキで塗られた天井であった。その天井の、ちょうど女の屍体が横っている真上と覚しい箇所に、小さな、黒い環が見えていたのだ。いや、黒いと思ったのは、実は真紅な環で、血の滲み出た環であったのだ。そこから、ポタリポタリと血潮が、青白い女の肉体に落ちるのではないか?
打ち続く怪事に、人々の面は、今にも泣き出しそうに歪んだ。
赤羽主任は、唇をヒクヒクと痙攣させ、顴骨の筋肉を硬ばらせながら、主人に訊ねた。
「あの天井裏へ案内して呉れ! 早くだ、何処から昇るんだ!」
が、主人は全く当惑した面持で躊躇した。
「へッ、ど、何処から上ったもんでしょうかな?」
「自分の家じゃないか、落ついて考えるんだッ!」と、赤羽主任は、焦れったそうに、低いながらも力強く詰問した。
「それが、あそこへは一度も昇ったことがありませんので……。ま、とにかく裏梯子をかけてみましょう。どうぞ、こちらへ」
周囲の人々の眼に送られて、両人が奥へ通う扉口を出ようとした時、刑事の一人が慌だしく駆け込んで来た。
「主任、由蔵の室を取調べましたが、由蔵の姿は見当りません。色々調べてみましたのですが、押入の天井の板が少し浮いていたほかに、別に異常はありません。で、押入の天井板を押しのけて上ってみますと、どうやら此の浴場の天井へ抜けられるんですが、驚いたことに……」
と、報告しながら、その刑事は天井を見上げたが、突然頓狂に叫んだ。
「吁ッ! あ奴の血だ! 由蔵が殺られてるんですぜ!」
赤羽主任は屹となって、共に天井の血の穴を見上げたが、刑事の叫びを聞くより、
「うむ、人が死んでいたろう? 男か女か?」
「男です! しかも裸体です。どうも由蔵らしいと思われますが、足裏が白く爛れていました」
「よしッ! 直ぐ行こう、案内をたのむ!」
と、赤羽主任は、真先に立って裏口へ行こうとしたが、何事かに気がついたと見えて再び身を振り返って云った。
「だが、この女の身元だ。女の着衣を調べて見よう!」
赤羽主任は、あちこちに転っている桶類を跨いで女湯の脱衣場へ行くなり、乱雑に散らばっていた、衣類籠をひとつひとつ探してみた。が、目指す女の着衣も誰の着衣も、一向に見当らない。
「おい、女の着衣が見えないぞ、箱を探して呉れ」
刑事達は、箱の扉を片っ端から開いてみた。が、どの箱にもそれは見当らなかった。殺されている女湯の客の着衣が見当らないなんて、そんなおかしい訳はある筈がないと、一同は一様に不審の面を見合せた。もしや先刻の混雑に紛れて、誰かがその女の着物を掠めたとしても、足袋一足、湯文字一枚も残さぬという筈はなかった。
「じゃあ、下駄はどうだ?」
赤羽主任は躍起となって、番台横の三和土を覗いてみたが、その下駄も片方すら見当らないではないか?
「一体、此の女は何処から入って来たんだろう?」
赤羽主任は脳髄の痺れるのを感じた。が、その疑問は疑問として、とにかく天井裏の屍体も、差当り放っては置けなかった。
やがて、発見者の刑事を先頭に赤羽主任や刑事連は、釜場の梯子を上って行った。向井湯の主人も、命ぜられて兢々と一同の後に続いて昇って行った。
由蔵の部屋は、わずか三畳敷の小室であった。西に小窓が一つあって、不完全な押入が設けられてあった。その押入の中には、柳行李やら鞄やらが入っている。そして、成程、天井の板が一枚めくられていた。一同はゴソゴソとその穴から天井裏へ抜けて出た。
懐中電灯の光芒が縦横に飛び動いて、四辺の状態をそれぞれの眼に瞭りと映して呉れた。そこは、上って見ると、こうも広々としているものかと思われる程、ゆったりとした天井裏であった。頑丈な棟木が交錯して、奇怪な空間を形作っている。と、十間ばかりの彼方に、正しく俯臥せに倒れている屍骸が認められた。
主人の証言によって、それは些の疑いもなく由蔵の屍体であると判明した。
赤羽主任は、殆んど迷宮に途惑った人間のように、甚しく焦立ちながらも、決して検証を怠らなかった。
由蔵の屍体は、女湯の惨殺体と同様に、咽喉笛の処に鋭い吹矢が立っていた。そして、四辺一面の血の海は、次々と発見された事件の衝動に麻痺された一同の心に、只燃えつつある絨鍛の如くに映った。
しかし、次に、一同は異様なものの落ちていることを発見した。それは筒状の望遠鏡と、もう一つは脚のない活動写真撮影機であった。更に、犯人が兇行に使用したに違いない吹矢や、吹矢の筒も片隅の方に発見された。パンの食いかけ、蜜柑の皮、それらも決して忽かには出来ぬ発見物と見做された。
赤羽主任は懐中電灯を藉りて、由蔵の屍体の周囲を丹念に調べてみたのち、ちょっと首を傾げて云った。
「おい、誰かちょっと手を借して呉れないか。この屍体の頸を左へ、四五寸ばかし動かしてみるんだ」
心得顔に一人が屍体の頭髪を掴んでズルズルと左へ曳き寄せた。と、赤羽主任は、吹矢の一本を取上げて、その尖端で由蔵の頭のあった辺を探っていたが、暫くすると、コツンと音がして、ポカリと眼の前に一つの穴が開いた。
「これだな!」
赤羽主任は、その丸い穴から下を覗いてみた。果せるかな、眼眩いを感ずる程遥かの真下に、先刻まで取調べていた女の屍体が横っている。──紛れもなく、其処は女湯の天井裏だったのだ。
やがて、赤羽主任は、その節穴をふさいでいた血染めの栓を、吹矢の先に刺して懐中電灯の光を借りて、じいっと見つめた。それは、決して単なる木栓や、材木の節ではなく、実に巧妙に作り上げられた蓋様のものであった。そして、その金属の蓋の真ん中を打ち抜いて、円いセルロイドの小板が嵌め込んであるものであった。が、それも矢張り血潮に染っていた。
2
次から次へと、意外な事件の連続と、それにも増して奇怪な事実の発見に依って、居合せた刑事連は、ひとしく驚愕の眼を瞠った。が、誰よりも彼よりも、歯の根も合わない程愕いたのは、向井湯の主人であった。
自分の家の天井に、斯うした油断のならぬ節穴があったことさえ、夢にも知らない事であったのに、その上、誰が持ち込んだものか、望遠鏡やら、活動写真の撮影機やら、吹矢やら、またパンの欠片や蜜柑の皮といった食物まで運ばれていた──など、何が何やら、彼にとって薩張り訳の判らないことであった。しかも、日頃忠実であって、深い信頼を懸けていた由蔵が、僅々の時間に、場所もあろうにこんな所に屍骸と化して横っているとは!
彼は、天井裏にペタンと坐ったまま、情ないのと恐怖とで涙に暮れていた。と、泣けて泣けて仕方がない程の気持の中にも、何か異常を感じたのだろう、ひょいと立上った彼は、今迄坐っていた足の下をぞろりと撫でてみたのち、何かに触れて声を上げた。
「何だ何だ!」
懐中電灯の光線が、さっと飛んで来た。刑事たちの注視が一様に其処へ集った。
「やッ! 電線だ、こりゃ電線だぜ!」
主人は、一条の細い電線の上に坐っていたのだ。それが足の肉に喰い込んでいた痛みが偶然発見をもたらしたのである。
「電線!」という声に、一同は先刻の感電騒ぎのあったことを思い出した。そうだ、井神陽吉が男湯の中で感電して卒倒した事件は、今の今迄、恐らく皆の脳裡から忘却されていたのであろう。それほど、一同は異常に狎れていた。それを今、電線の発見から、再び一同の頭には関係づけられて考えられて来た。
赤羽主任は、つかつかとその電線の所在箇所に近寄って色々と調べてみた。と、それは蝋引きのベル用の電線で、この天井裏を匍い廻っている電灯会社の第四種電線とは、全然別種のものであることが判明した。又、それは大して古いものではないという様なことも判って来た。赤羽主任が、尚もその先を辿って見ると、その電線の一端は、電灯線の所謂第四種線に絡まって由蔵の屍骸の傍に終ってい、他の一端を探ってみると、棟木の上に、ベルに用いるようなマグネットがあって、更に下部へ降りて男湯の天井を匍って電気風呂の男湯の配線の中へ喰い込んでいた。専門外のこととて瞭りしたことは判らなかったが、とにかく、簡単ながら、男湯の電気風呂へ、何かの仕掛けが施されていることだけは、誰にも首肯されたのであった。
赤羽主任の脳裡には、漸く事件の綾が少しずつ明瞭になってくるのを覚えた。そして、此の事件の犯人は、この天井裏に潜伏していて、望遠鏡と活動写真撮影機とを使用して、女湯の天井から、犯人の恋人ででもあるらしい肉体美の女を殺し、その藻掻き苦悶して死んでゆく所を、活動写真に撮影しようと思ったのでもあろうか。つまり一種の変態性慾者である。そして、その犯行を遂げるために、最初、男湯に強烈な電流を通じて、浴客の一人を感電せしめ、その混乱から人々の注意が男湯の方に集っている機に乗じ、犯人はその女を吹矢で殺して、その目的である活動写真撮影を完成し、兼ねて恋愛の復讐か何かを遂行したものであろう。──と、これが、赤羽主任が匆々にまとめ上げた推理の筋道であった。
赤羽主任は考える。──それから由蔵は、何かの異常に気がついて、此の天井裏に上ってみたが、逸早くそれと知った犯人のために、物蔭から吹矢で射殺されたに違いがない。それが証拠に、由蔵の屍体には、明かに格闘をした形跡が残っていないではないか。──
だが、これだけではまだ解き足りない謎が大分沢山残されてある。
第一は犯人が一向遁げ出した様子がないことである。此の風呂場で感電騒ぎが起ったとき、向井湯の直ぐ向う側にある交番の警官が、バタバタと飛び出して来た浴客の女達のあられもない姿を認めて、彼女等を訊問したことに依って早くも事件を知って、時を移さず表口や裏口に手配をしたことが報告されている。感電事件に居合せた浴客の男達も、陽吉の手当している間に、警官に堅く禁足を命ぜられていた。後から飛び込んで来た近所の連中や通行人さえ、みんな留め置かれている。猫の子一匹だって表へ出たものがないとしたら、犯人は必ず此の向井湯の中に、依然として現在も居る筈に違いない。万一その犯人が由蔵の室の窓から外へ飛び出したとしても、見張りの警官に認められぬということはあり得ない。
第二に、由蔵が、何故にこの天井裏に異常のあることを認めて、此処まで上って来たかということである。いくら気が顛倒していた場合とは云え、他の人間に知らせずに、こんな所へ一人で上って来る筈はない。
第三に、最も不審なことと云えば、女湯で惨殺された彼の婦人の着衣も下駄も一物として発見されぬ事である。仮に当時の女湯の客で、手の長い人間か、狼狽者が居たとして、その女の着衣を持ち出したとしても、足袋の片足や、湯文字の一枚までも残さぬなどという大胆不敵な行動が、あの際出来るものでなく、下駄の無いことに至っては、もはやそんな生暖い想像は覆えされるべきことであろう。
最後に疑問として残ることは、当時数人居たと想像される、いや、居たに相違ない女湯の客が逃げ出す時、どうしてこの女が殺されたことを誰一人として知っていないのであろうか。いくら女は気が弱いと云っても、その辺のことを考えると怪しむべき余地は充分にあろう。が、これも、殺された女が事件を他に悠々と落ついて、たった一人で何時までも湯槽に漬っているなり、流しているふりしていたと考えれば、幾分合理性も認められるが、浴客中に、もしもその様に落ついた女が一人も居らなかった場合を考えると、天井裏に穏れて、かねて計画の機会を待っていた犯人が人知れず或る女を殺したり、活動写真を撮影したりすることも不可能となって来るから、此の辺も尚不審である。
赤羽主任は考え疲れて、頭がフラフラするのを覚えながら、一同と共に再び階下に降りて来た。
由蔵の部屋から釜場へと梯子を降りている時、赤羽主任は、奥の居間から、湯屋の女房が茶盆を持って出て来るのを見た。と、同時に、彼は、ハッタと、忘れていた或事に気がついた。先刻、女房が云ったことには、釜場の下で変な裸体の女に突き当った。その女が「女湯の方は何事もない」と云ったのにも拘らず、僅か幾分と云わせずして、女の屍体が発見されたではないか。女が、女湯の方へ入った時には、女の屍体はどうしても其処にあった筈である。それなのに彼の疑問の女は何事も言わなかった。ひょっとすると、その女が、惨殺された女の着衣や下駄を自分の身につけて、澄ました顔で表戸から出て行ったのではなかろうか? だが、もしそうだとすると、その女は一体何処から来て、彼女の真実の着衣や下駄は何処にあるだろうか。仮に、その女が犯人だとしても、まさか女が裸体で天井裏にいたのもおかしいし、また女が女湯から活動を撮るなども変な話である。
──そう考えながらも、赤羽主任は、孰れにしろ、その惨殺された女の着衣と下駄を探すことが、事件の解決に最も役立つものであることを知って、後ろに続いて来た部下の一人に命じた。
「由蔵の部屋の持物を全部洗ってみろ、女の持物が出て来るかも知れないからな」
梯子を降りかかった刑事の一人は、そう云われて直に再び部屋へ取って返した。
やがて五分も経ったと思われる頃、その刑事は由蔵の部屋から顔を出して勢いよく答えた。
「主任、ありました。何だか、おかしなものが出ましたぜ!」
「ふむ、そうか、何だね?」と主任の声。
「ま、ちょいと来て御覧なさい!」
刑事は頬の辺りを変に歪めて、いやらしい笑いを見せた。赤羽主任は云われるままに梯子を昇って行ってみた。
室の中央に投げ出された柳行李の中に、一杯女の裸体写真が詰まっていたのだ。それは主にサロンの安っぽい印刷になる絵葉書や、新聞雑誌の切抜らしいものばかりであったが、更にその奥の方からは、独逸文字の学術的な女の裸体研究書などが出て来た。が、それにも拘らず、目的の女の着衣は部屋の何処にも見当らなかった。
然し、斯うなると、由蔵に就ても余り軽々しく考えられなくなって来た。何故なら、それらの持物でも判るように、由蔵は立派な変態性慾者であるに違いなかったからである。
暫くして、又刑事は押入の隅から望遠鏡のサックを曳っ張り出した。──赤羽主任の頭は愈々混乱して来るのであった。……
と、其の時、釜場へやって来た人間が、やあと声をかけた。それは、赤羽主任のよく知っている警察医の山村であった。
「御苦労さまで、どうも。所で赤羽さん、あの感電騒ぎをやった井神陽吉という男ですな。大分意識も恢復して来たようですが、先生頻りに帰りたい帰りたいと言うのです。言ってきかせても解らないので閉口してますが、どうでしょうな、あんまりあの男の意志に逆らうと、心臓が昂進して悪いのですが、お差支えなかったら、あの男を一応帰らしたらと思うんですが──。ええ、もうそりゃ決して逃げられるような身体じゃありませんよ」
「じゃあ帰してやりましょう。警察の者を二三人附き添わしてやって下さい。然し一応身元調べをすましたんでしょうな?」
「身元調べでは先刻注射の後で、前の交番の村山巡査にやって貰っときましたよ。村山君、ちょっと先刻の調査を見せて呉れませんか?」
呼ばれて釜場へやって来たのは、制服の巡査村山辰雄であった。彼は、事件の最初から見張り番に当って、一向犯行の経路も、捜査の経緯も知らないのであった。
「村山君、他ではないが感電した男の身元調べをやって置いて呉れたそうですが──」
赤羽主任に問われて、規律的に「はい」と返事した彼は、懐中から手帖を出してぱらぱらめくっていたが、或る頁を読み上げて報告しようとした。
「おっと、ちょっと僕にだけ見せて呉れ給え!」
云われて、村山巡査は、四囲に湯屋の夫婦やその他役筋でない人間のいることを知って苦笑しながら、その頁を開いたまま手帖を赤羽主任に手渡した。
と、見る見る赤羽主任の面には輝くばかりの喜色が漲った。
「これだ、犯人は判った!」
「えッ、犯人が判りましたか? あの、井神陽吉が、では、犯人なのですか?」
キョトンと解せぬ面持で、村山巡査は反問した。
「いや、然うじゃない。樫田武平、あの男に違いない!」
断乎として云い放った赤羽主任の顔を、事情の判らない一同は不審そうに瞶めた。
「いや、有難う、村山君。君の手帖のお蔭で図らずも犯人、いや有力な嫌疑者が判明した。感謝する!」
益々意外な赤羽主任の言葉、しかしそれはこうであった。
初め赤羽主任は、村山巡査の手帖を受け取った時、感電被害者の井神陽吉の身元を一見するのが目的であったことに間違はなかった。が、それを見ようとして、図らずもその調査項目の前に記されてあった文字が、彼をして一道の光明を認めさせたのであった。それは──
微罪不検挙(始末書提出)
活動写真撮影業及び活動写真機械及附属品販売業並にフィルム現像、複写業
(住所)
といった、今日の事件に関係なく記入された覚え書きであったのだ。
赤羽主任は、それをチラと見るや、忽ちにして脳裡に蟠っていた疑問を一掃し得ることが出来たのだ。というのは、樫田武平なる青年の住所が、村山巡査の管轄区域内の者であること、その職業がこの事件の謎を解くに最も有力なものであること、それに微罪ながらも交番巡査に始末書を取られるといったような行状などからして、直覚的に犯人推定を試みたのであった。
説明を聞いて、共に五里霧中にあった刑事連もひとしく同意見を陳べるに到った。
だが、何にせよ、その樫田武平の身柄を捜査してみなければ、或は現場不在証明などの懸念もあるので、色めき立った刑事連は、赤羽主任の命を待つものの様にその面を仰いだ。
と、赤羽主任は、何故か悠然と構えて急ぐことを欲せぬもののようである。
「非常線は張ってある。本署へ行けばきっと捕っているに違いないよ!」
先刻までの陰鬱そうな顔色にひき代えて、また何と云う暢気さだろう!
3
だが、赤羽主任の推定が真実であったことは、一同が向井湯を引上げて本署へ立ち帰った時に判明した。
「主任殿、御苦労さまでした。非常線にひっかかった怪しい奴は、みんな留置所へ打ち込んであります。そして、たった一人全くおかしな奴がいるんです……」
一行の帰署を待ち構えていたもののように報告する一人の刑事の言葉を聞いて、赤羽主任はおっ冠せて云った。
「……束髪の女装をした奴で、名は樫田武平とね、然うだろう?」
「おお、よく御存じで。此間一度、軟派の事件で始末書を取った奴です」
満足そうに同行の部下を顧た赤羽主任は、初めて愉快らしい笑みを浮べた。
樫田武平の取調べの結果、事件の一切は判明した。
彼は、かねて、若い女が苦悶して死んでゆく所を映画に撮ろうという、大それた野心を持っていたのだ。それは、多分に彼の変態性の欲望が原因したのであったが、職業とする所の趣味道楽が、ひどく凝り固ったことも一部の因をなしていた。で、彼は種々と研究と計画を廻らした結果、それが夢でなく実現することが出来ることを発見した。それには、彼の行きつけの風呂向井湯という、電気風呂を利用することが、最も容易な手段であったのだ。
先ず彼は、日頃おさおさ怠りなく向井湯の内外を研究し、それに、特有の肉体美を備えた若い婦人を一人選んで、彼女の入浴の際、特殊の方法で惨殺しようと計画した。
事件のあった日の暁、彼は自家の売品たるフィルムを一本と現像液を準備して、それに店にあった小形撮影機を一台と、パンや蜜柑などの食料品、束髪の西洋鬘などを一緒に風呂敷に包み、向井湯の裏口へ赴いた。そして物蔭に隠れて種々と様子を窺ったのち、午前十時頃、由蔵の隙を窺ってその部屋から天井裏に忍び込んだ。彼が斯く忍び込むまでには、充分の用意と研究が積まれてあったことは勿論である。彼は、先ず汽罐を開けて自らの着衣と下駄とをその中に投入して燃やし、由蔵の部屋で由蔵の着衣をそのまま失敬して天井裏に忍び込んだのであった。
彼は、勿論相当の電気知識を備えていた。故に、男湯の方の感電を計画し、またそれを遂行するための技術上の操作は、十分間も要さずに易々と行われた。それが終ると、彼はかねて探って置いた、由蔵の秘密の娯しみ場所たる、女湯の天井の仕掛のある節穴の処へ来て、由蔵が設置した望遠鏡の代りに、持って来た撮影機を据えつけた。
やがて、時が来て、当日の生贄となった例の女(後で判明したが、彼女はお照という二十二歳になる料理屋の女で、その日はこの向井湯の近所に住む伯母の所を訪ねて来た者であった)の肉体に魅力を感じ、愈々計画の実現に志したのであった。
その時は正午少し前だった。女湯の客は、そのお照の他に、僅に三人であった。男湯の方は前述の通り、井神陽吉と他に四人、で、頃合いを計って、彼は男湯の電気風呂に高電圧を加えた。果せるかな、手応えがあって、井神陽吉が飛んだ犠牲となったのである。それからのちは、少くとも表面だけの騒動は前述の通りであった。が、女湯の客のうち、お照を除いた他の三人は、ひとしく上り際だったので、隣りの騒動を機に匆々逃げ去ったのであった。が、お照はただ一人、湯槽の側で間誤間誤していた。というのは、女故の辱さが、裸体で飛び出す軽率を憚からせたのと、一人ぽっちの空気が、隣の事件を決して重大に感ぜしめなかったものらしかった。が、何はともあれ、樫田武平にとっては究竟の機会であった。
彼は用意の吹矢を取り出すなり、狙い撃ちに彼女の咽喉へ射放った。果して、あの致命傷であったのだ。
転げつ、倒れつ、悶々のたうち返る美人の肉塊の織り作す美、それは白いタイルにさあっと拡がってゆく血潮の色を添えて充分カメラに吸収された。が、十数秒の短い時刻で、敢なくもお照は動かずなってしまった。
だが、樫田武平は美事な成功に雀躍して、そのフィルムだけを外すと、そのまま逃走しようと試みた。が、その時であった。由蔵は、別の目的を以て同じこの天井裏へ上って来たのである。というのは、彼は感電騒ぎを知るや忽ちにして警察の取調べがこの天井裏の電線に及ぶのを慮って、其処は秘密を持つ身の弱さ、望遠鏡を外すために人知れず梯子を昇って這い上ったのである。
当然、樫田武平と由蔵との両人が、高い天井の暗がりで睨み合うことになった。が、何分にも大きな声を出すことを許されぬ場合のこととて、互に敵視しながらも一言も云わず、必死と眼を光らし合った。やがて、由蔵は、己が隆々たる腕力に自信を置いて、樫田武平の華奢な頸筋を締めつけようと襲いかかった。と、早くも吹矢は由蔵の咽喉笛深くグザと突刺さったのであった。──急所を殺られてそのままこと断れた由蔵の屍骸を見捨てて、樫田武平は怖ろしい迄緊張した気持で変装に取かかった。かねて目論んで置いた通り、彼は咄嗟の間にも順序を忘れずに、女装の鬘を被った。
そして再び由蔵の部屋へ降りて、由蔵の着衣を脱ぎ捨てると、彼は裸体のまま右手にはフィルムの入った黒い風呂敷を提げて、大胆にも梯子を伝って釜場に降りた。そして女湯の扉口へ行こうとした、ちょうどその時彼は其処で湯屋の女房とばったり鉢合せをしたのみか、ちょっと見咎められたのであった。さすがに、これには彼もぎょっとしたが、いかにも柔い嫋々しい彼の体は、充分に心の乱れた女房の眼を欺瞞することに成功した。
そして、彼は、素早く女湯の扉口から中へ入って、自分が殺したお照の屍体の側を過ぎて脱衣場へやって来た。それから先、お照の着衣をつけて、下駄を穿いて、何喰わぬ顔で見張りの警官にも怪しまれずに戸外へ逃走する迄は、難なく行われたことであった。
が、如何に緻密の計画と、巧妙の変装を以てしても、白昼の非常線を女装で突破することは可なりの冒険であった。
──樫田武平が捕縛されるに到ったのも、すべてこの最後の冒険に敗れたがためであった。
さて、かくして怖るべき「電気風呂」の怪死事件は、犯人の捕縛と共に一切闡明されるに到った。
やがて、あのフィルムは、警視庁へ移送されてその犯罪捜査に携った一同の役人並に庁内主脳者の前で、たった一度だけ試写された。
が、凡そ其試写会に立会った程の人々は、期待していた若き一婦人の断末魔の姿を見る代りに、ま白きタイルの浪の上に、南海の人魚の踊りとは、かくもあるかと思われるような、蠱惑に充ちた美しいお照の肉体の游泳姿態を見せられて、いずれ物言わぬ眼に陶然たる魅惑の色を漂わしていたものである。
何故ならそのフィルムは故意か偶然か、高速度カメラで撮られていたのである。
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
1928(昭和3)年4月号
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月25日作成
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