国際殺人団の崩壊
海野十三



 作者わたくしは、の一篇をおおやけにするのに、幾分の躊躇ちゅうちょを感じないわけには行かないのだ。それというのも、じつは此の一篇の本筋は作者が空想の上からねあげたものではなく、作者の親しい亡友ぼうゆうMが、其の死後に語ってきかせてれたものなのである。亡友ぼうゆうMについては、いずれ此の物語を読んでゆかれるうちに諸君は、それがどのような人物で、どのような死に方をしたのであるか、おいおいとお判りになってくれることであろう。それにしても「死後に語ってきかせたもの」などと言うのは大変可笑おかしいことに聞えるかも知れないが、これも事情を申して置かねばならないことであるが、諸君もかねてお聞きおよびかと思う例の心霊しんれい研究会で、有名なるN女史という霊媒れいばいを通じて、作者がその亡友から聞いた告白なのである。その告白は、実に容易ならざる国際的怪事件を語っているので、命中率九十パーセントと称せられる霊媒れいばいN女史の取扱ったものだから充分事実に近いものだとすると、この怪事件は公表するには余りに重大な事柄で、或いは公表を見合わせた方があたさわりがなくてよいかも知れないくらいなのである。しかし一方において、N女史の招霊術しょうれいじゅつは、単なる読心術どくしんじゅつにすぎないという識者しきしゃもあるようだから、それなれば、N女史の前に坐った作者の心中しんちゅうにかくされていた妄想もうそうが反映したのに過ぎないとも云えないこともないのである。かく、そこのところは諸君の御判断におまかせするとして、怪事件の物語をはじめようと思うが、一種の実話であるだけに、筋ばかりで、描写が充分でないのは我慢していただきたい。





 古ぼけた大きな折鞄おりかばんを小脇にかかえて、ややうつむき加減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡きんがんきょうがあって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方ゆくえは、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作むぞうさに踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵たいていツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例にれずツルリと滑ったのであるが、尻餅しりもちをつく醜態しゅうたいも演ぜずに、まるでスケートをするかのように、あざやかに太った身体を前方にすべらせて、バナナの皮に一と目もれないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、あざやかに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂ぜんちょうの髪がなり、薄くなっている。年の頃は五十四五歳にみえた。

 この紳士は、構内を物静かに歩いて行った。それは五階建ての白い鉄筋コンクリートの真四角なビルディングが、同じ距離をへだてて、墓場のように厳粛げんしゅくに、そして冷たく立ち並んでいる構内であった。紳士は、そのようなビルディングの蔭を七つ八つも通りすぎてから、これはまた何と時代錯誤さくごな感じのする煉瓦建れんがだてのビルディングのドアを押して入って行った。そこで紳士は直ぐ左手の壁にかかっている沢山の名札なふだの中で一番上の列の一番端にかかっていた「研究所長鬼村正彦おにむらまさひこ」と書いた赤い文字のある札を手にとって、その裏をかえすと、又もとの位置にパチリとおさめた。赤かった文字が、今度は黒い文字に代り、矢張り「研究所長鬼村正彦」と名が読めた。さてその老紳士鬼村所長は、この動作中にも、別に視線を動かすようなこともなく、札をかえしてしまうと、階段の下の薄暗い隅にある扉を開いて、それから長い廊下を、音のしないように歩き、一番奥まった部屋の中に姿を消した。すべての行動が、いかにもれ切った世界に、大したエネルギーをついやすことなしに、いとも正確にすすめられてゆくという風に見えた。

 作者わたくしは、たいへん詰らない鬼村博士のスナップを、意味もなくだらだらと諸君の前に拡げたようであるが、これこそは最も意味のある大切なスナップなのであることは、ページを追ってゆくに従ってお判りになろうと思う。とにかく、このスナップに現われたる鬼村博士の調子は、実に博士の性格の全部をものがたるものと云ってよい。博士はこの極東科学株式会社化学研究所長として令名れいめいがあるばかりではなく、「日本のニュートン」と世界各国から讃辞さんじを呈せられるほどの大科学者で、日本科学協会々長の栄誉をになっているばかりか、英国のローヤル・ソサエティーの名誉会長であり、米国のスミゾニアン・インステチュートの名誉顧問であり、独国のテクニッシェ・ライヒサンスタルトの名誉研究員であり、1940年に東京で開かれる万国工業会議には副総裁に任ぜられることに決定している。「日本の工業立国は鬼村博士によって完成されるであろう」といわれている。

 鬼村博士のする事には無駄がない。その優秀な頭脳は各学会に、さまざまのすばらしい研究問題をあたえて、日本いな世界の科学界を面目一新させようとしている。博士自身も、この研究所にみずから一分科を担任して、終日しゅうじつ試験管やレトルトのそばをはなれない。その研究題目は「化学による生物の人造法」というのである。外の学者が五十年かかるところを、博士は十年で成績をあげている。

「開け、ごまの実」と廊下を飛ぶようにやって来て、博士のドアの前に立った白い実験衣の小柄の青年学者が大きな声で叫んだ。

「どなたですか?」と内側から博士の扉の番をするロボットがやさしい婦人の声を出していた。

まつ研究員です」

 すると扉が開いた。若い松ヶ谷学士は、全身に興奮を乗せておどりこむように所長室にすべりこんだ。

「先生、今朝の新聞をごらんになりましたか」

「これから見るところじゃ」と鬼村所長は答えた。博士は先刻さっきのペデストリアンと同じ姿勢をして静かに室内を歩き廻っているのであった。帽子も外套がいとうもとらずに、

「何かかわったことでもありましたかい?」

「昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉こだま博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁こんぎょう息をひきとったそうです」

「うん、松瀬君もやられたか」と博士はちょっと押黙おしだまって何事かを考えているようであったが、相変らず室内散歩の歩調をゆるめはしなかった。「気の毒なことじゃのう」博士の声は水のように淡々たんたんとして落付いていた。

「先生、昨夜の連中は毒瓦斯ガスにやられたそうです。症状からみると一酸化炭素の中毒らしいですが、どうも可哀想かわいそうなことをしました」と松ヶ谷学士は下をいた。

「薬学者連中が毒瓦斯にやられるなんて、ちょっと妙な話じゃね」博士は、毒舌どくぜつろうするというのでもなく、これだけのことをスラスラと言ってのけた。

「ですが先生、これで四度目でございますよ。半年とたたない間に、第一に電気学会の幹事会に爆弾をほうりこまれて幹部一同が惨死ざんしをする。次はS大学の工科教授室の連中が、悪性あくせいちょうチブスでみな死ぬし、第三番目には先月、鉄道省の技術官連が大島旅行をしたときに、汽船爆沈で大半たいはん溺死できししましたし、これで四度目です。私はいよいよこれは唯事ただごとではないと思うのですが……」

「唯事ではない──とは」博士が例の調子でうめくように言った。

「偶然の出来ごとでは無いというのかね」

「確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません」

「全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は」

「私は、こう思っています」と松ヶ谷学士は瞳を輝かして言った。「どうやら、これは変態的な性格を持った化学者の悪戯いたずらだろうと思うのですが。それは鉄道省の場合のほかは、爆弾、バクテリア、それから毒瓦斯という風に、いずれも化学者にえんのあるものばかりが、殺人手段に使われていることです。それから犯人は学界の事情によく通じているとみえて、幹部の出席する会合ばかりをねらっています。先生も、どうか会合へは今後一切御出席なさらぬ様にねがいます」

「君は、犯人の心当りでもあるのかね」

「無いわけでもありませんが、申しあげません」

「僕には言えないというのかね」

「言うのを控えた方がよいでしょう。それにまだ明瞭めいりょうな証拠を握ったわけでもありませんから……」

「君は椋島むくじま技師のことを指して言っているのじゃないだろうな」博士は、はじめて立ち止ると、帽子や外套を脱ぎながら言葉をつぎ足した。

「……」松ヶ谷学士は、椋島技師の白皙はくせき長身ちょうしんで、いつも美しいセンターから分けた頭髪を目の前に浮べた。

「椋島君なら、僕が保証をするよ。あれはすこし妙な男ではあるが、そんな勇敢な仕事の出来るほどの人物じゃない。うちの娘の真弓まゆみのお守をしている位が精一杯じゃて」

 松ヶ谷学士は、複雑な感情をジッとこらえていた。





 ちょうど其の時間に、椋島技師は陸軍大臣の官邸で、剣山つるぎやま陸軍大臣と向い合って、低声ていせいで密談中であった。椋島技師は、緊張にこまかくふるえながら、普段から真白い顔色を、一層蒼白あおじろくさせて、大臣の一ごんに聞き入っていた。

「事態は、想像以上に容易ならんのです」と大臣は、寝不足らしい血走った眼を大きく見開いて云った。「彼等国際殺人団の一味徒党というのは、どの位、我国の政治界、経済界、科学界に潜行しているのか、さっぱりわからないのですが、その組織たるや、実に巧妙な方法で、一人の団員は、自分に指令を持って来る一人の人間と、自分が指命を伝達すべき二人の人間と、この三人しか知らないというのです。かく、最近四回にわたる科学者虐殺事件は、あきらかに、この国際殺人団が活躍をはじめたものと考えてすこしも疑う余地がありません。これから先に、この災害が、どの位ひろまってゆくのか考えただけでも恐ろしいことです。彼等は、巧妙なる組織と、豊富なる情報と、莫大ばくだいなる資金と、しかもあくまで優秀なる頭脳と知識とをようして立っているのですから、これは容易なことではうち破れません。宣戦布告のない戦争です。敵の戦線は、現に帝都の中に歴然と横たわっているのです。

 しかも敵影てきえいたくみにカムフラージュされて、我々はそのねらいどころが見付からないのです。で先刻せんこく申しあげたように、あなたの御尽力ごじんりょくを乞いたいわけです。国家のために、えてあなたの御生命の提供を御願いしたい」

「だが、閣下のおっしゃることは、余りに空想すぎるのじゃありませんですか」と椋島技師は幾分苦笑を禁じ得ないという面持おももちで云った。「いくら日本人が堕落だらくをしていたって、要路ようろの高官とか、の道の権威とか言われる連中が、そうむざむざ敵国の云うことをきくわけはないじゃありませんか」

「そういうことを今あなたと議論しようとは思いません。それは、わが陸軍の探知し得た信用の出来る情報です。だが、考えても御覧なさい。×国は三十年も前から仮想敵国かそうてきこくとして我国をにらんでいるのです。あらゆる術策じゅつさくが我国にほどこされてある中に、最も陰険いんけんきわまるのはこの国際殺人団の本体であるところのJPC秘密結社です。×国は三十年前から各方面に亘って有望なる学才を有し、しかも貧乏だとか、孤児こじだとか云う恵まれていない人物を探し出して、これに莫大な資金を送り、その人物が立身出世をするように極力宣伝し、遂に今日我国の要路要路の実権を彼等の手に握るようにまで後援したのです。×国の参謀本部の命令一下、彼等×探は、いやが応でもその命令を決行しなければならないのです。しそれにがえんじなかったら、その男を国事犯で絞首台に送りでも、又、殺人隊をやって絶対秘密裡に暗殺してしまいでも、どうでも自由になるのです。彼等が始めて苦しいジレンマを意識したときには、その行く道は自殺があるばかりです。某博士の自殺、某公使の自殺、某中佐の自殺、それ等、原因のはっきりしない自殺は、皆ここに源があるのです。これだけ申せば、国際殺人団の活躍が如何に必然的なものであり、決死的なものであるか御判りになったでしょう」

「いや、よく判りました。それ以上は、おたずねいたしますまい。またこの御依頼にNOノーと答えたくても、即座に私の命のなくなることを思えば、YESイエスと申して置くのがなによりであることも判っています。だが、私に大役たいやくをおまかせになっても、若し私自身が、その結社の一員だったら、閣下は一体どうなさる御考えですか」

「どうも貴方は中々いたいところを御つきになりますね。しかし御安心下さい。その御念には及びません。いくらでも善処すべきみちが作ってありますから」

 この場面があって、椋島技師は、国際殺人団の探索たんさくに当るために、剣山陸軍大臣直属のスパイを任命された。彼はそのために、如何なる場合もこの目的のために一命をなげうって努力すること、このスパイたることは、絶対に他人にらしてはならぬのみか、同志であるものを発見したときといえども、その事情を明かし合ってはならぬこと、ただしスパイをつとめるについて、事情をあかすことがないのであれば、助手を使ってもさしつかえないことなどと、厳しい注意をこまごまとうけたのであった。

「誓って、祖国のために!」椋島技師は、燃えるような眼眸がんぼうを大臣の方に向けて立ちあがると、こう叫んで、右手をつとのばした。

天祐てんゆうを祈りますよ、椋島さん」大臣の幅の広いガッシリしたがギュッと、椋島技師の手を握りかえした。





 椋島むくじま技師は大臣のさし廻してくれたほろふかい自動車の中に身をげこむと、始めて晴々しい笑顔をつくった。右手でポケットの内側をソッとおさえたのは、いましがた大臣から手渡された莫大な紙幣束さつたばを気にしたためであろう。

 さてそれからはじまった椋島技師の行動こそは、奇怪きかい至極しごくのものであった。

 彼は、大臣からさしまわされた自動車を、銀座街ぎんざがいにむけさせた。尾張町おわりちょうの角を左に曲って、ややしばらく大道だいどうを走ると、とある横町を右に入って、それからまた狭い小路を左の方へ折れ、やがて一軒のカフェの前に車を止めさせた。そこは、悪性あくせいな銀座裏のカフェの中でも、とかく噂の高いエロ・サービスで知られたバア・ローレライであった。椋島技師は、午前十時のバアのドアを無雑作に開くと、ツカツカと奥へ通り、そこに二階に向ってかけられた狭い急勾配きゅうこうばい梯子段はしごだんの下に靴をぬぎとばすと、スルスルと昇って行った。二階は真暗であった。ムンと若い女の体臭が鼻をつく。

「キミちゃん居るかい」彼は暗中あんちゅうに声をかけた。

「ああ、ムーさんだわね、向うから二番目に、キミちゃん、まだ寝ているわ」と女給頭のお富が彼の膝頭ひざがしらの辺から頓狂とんきょうな声をあげた。

「そうか。僕は二時頃まで、ちょいと寝たいんだ、あとからウンとおごってやるから大目おおめに見るんだぜ。それからお富姐御あねごすまないけれど、その時間になったら、コックの留公に用が出来るんだから、どこにも行かずに待たせて置いとくれ。もう二時まで、なんにも口をきかないからな、話しかけても駄目だぜ」

 云いたいことを云ってしまうと、彼はオーバーを脱いだり、バンドをゆるめたりして、イキナリ、おキミの寝床にもぐりんだ。ぼそぼそと、しばらくは小声こごえで話し合っているらしかったが、やがておキミは寝床から出て行って、あとには椋島一人が、何か考え悩んでいるものか、転輾反側てんてんはんそくしている様子だった。こうして時計は、いく度か同じ空間を廻ってやがて午後二時を報ずるボーン、ボーンという眠そうな音が階下したからきこえて来た。それがキッカケでもあるかのように、おキミがおこしに上って来た。

 椋島とおキミとコックの留吉との三人が外出の仕度をして店の方に出て来たのは、それから一時間ほど経ってのちのことである。

「まア、仮装舞踊会かそうぶようかいへでもいらっしゃるの」

「ムーさん、勇敢な恰好ねえ」

 などと、ウェイトレス連がはやしたてた。たしかにそれは不思議な組合わせであった。留吉はシャンとした背広に、黒いちょうネクタイをしめて紳士になりすましていたし、おキミはどこで借りて来たのか、三越の食堂ガールがつけているようなすそのみじかいセルの洋服をきて年齢が三つ四つも若くなっていたし、椋島は椋島で、留吉の衣裳を借りたらしく、コールテンのズボンに、スェーターを頭から被ったという失業者姿であった。

 三人は、まぶしいペイブメントのうえへ飛び出した。三人が列をそろえて一列横隊で歩き出したところへ、横丁よこちょうから不意にとび出して来た若い婦人がドンと留吉にぶつかりそうになった。

「ごめん、あそばせ」と婦人は豊かな白い頬をサッと桃色に染めながら言って、チラリと一行を見たが、

ッ」と小さい叫声をたてた。この婦人は鬼村博士の一人娘の真弓子まゆみこにちがいなかった。無論彼女は、いち早く、椋島の姿をみとめたのである。だがその異様いようないでたちの彼を何と思って眺めたであろうか、スカートの短いところでカムフラージュされるとしても、生憎あいにく彼にしなだれかかっていたコケットのおキミを見落みおとはずはなかった。これに対して、椋島はついに一言も声を出さなかったし、むしろ顔をそむけたほどであった。しかし、うやら気になるものと見えて、真弓子の行く後を振りかえった。彼は真弓子がこちらを振りむいたのを見てあわてて頭を立てなおした。





 其の夜の六時、電気協会ビルディングの三階第十号室には我国の科学方面に於けるさまざまな学会の会長連が、円卓えんたくを囲んでずらりと並んでいた。その人数は十七名もあろうか。電気学会長である帝大工学部長の川山博士の白頭はくとうや、珍らしく背広を着用に及んでいる白皙はくせき長身ちょうしんの海軍技術本部長の蓑浦みのうら中将や、テレヴィジョンで有名なW大学の工学部主任教授の土佐博士の丸い童顔や、それからそれへと、我国科学界の最高権威を残りなく数えることができるのであった。勿論もちろん、その座長席には鬼村博士のやや薄くなった大きな頭がみえていた。

 会合は、科学協会としての例月の打合わせ会であったのであるが、議事が一ととおりんでしまうと、鬼村博士が、やおら、ずんぐりと太い身体をおこして立った。

「みなさん、例月議事は、これで終了いたしましたが、次に是非みなさんの御智恵を拝借したいことがあります。御承知でもありましょうが、近来どうしたものか、われわれ科学者仲間におきまして、不測ふそくの災害にたおれるものが少くない、いや、むしろ甚だ多いと申す方がよろしいようであります。これにつきまして、この頃では、さまざまの臆説おくせつが唱えられて居るようでありまして、中には、これは科学者に共通な悪運が廻って来たものだと申し、或る者は殺人魔の跳梁ちょうりょうであると申し、また或る者は偶然災害が続くものであって決して原因のあるものではないと反駁はんばくをいたしておるようなわけであります。私個人の考えといたしましては、どうも気が変になった犯人のなせるわざであると考えて居るのでありまするが、それが如何なる人物であるか、探偵でもありませんのでつきとめては居りませぬが、どうもすじなわふた筋縄で行かぬ人物であり、しかもその犯人は相当インテリゲンチャであると思うのであります。それで吾人ごじんは充分、警戒をする必要があると考えます。殊に今日迄の災害の後をふりかえってみますに、いずれも会合の席をねらって居るようでありまして、今後、私共科学者の集会はなるべく控えるか、または極力秘密な場所に開き、なおこれに官憲の保護を得るようにつとめたいと考えますが、かように私の御警告申上げることについてみなさんは、或いは異説をおもちかと存じ、今度は充分御対論を願いたくなお警戒法について御心付の点をお話し願いたい。現に今夜のこの会合の如き、最も鏖殺おうさつ甲斐がいのあるものでございますが、いままでなんともないところをみると、或いは遂になんでもないかもしれないのでありまするが、或いは又、これから爆弾が降ってくるかもしれないのでございます。いやそれは冗談でありまして、実は私の老婆心から、本会場は既に厳重な警視庁の警戒でとりまいてございますから、どうぞ御安心をねがいます」と博士はニヤニヤと両頬にみをうかべながら諧謔かいぎゃくろうして着座したので、最初のうちは顔色をかえた会員も、哄笑こうしょうに恐怖をふきとばし、一座はなごやかな空気にかえった。一旦席についた博士は衣嚢かくしから金時計を出してみたあとで一座の顔をみわたしたが、「どうぞ御意見を……」と言った。そして急に立ちあがって「ちょっと便所へ……」と隣席の川山博士に耳うちをすると、席を立った。そして入口のドアをあけて室外に出ると、

「先生、なにも変ったことは御座いません」と、今夜の警戒の第一線に自ら進んで立っていた松ヶ谷学士が、いきなり博士に顔を合わせて、こうささやいた。

「わしは便所へ行って来る、よろしく頼むぞ」博士は、例の調子でうめくように言うと、そろりそろりと便所のある方へと足どりをはこんで行った。会合室内では蓑浦中将が立って、

「唯今、協会長の御説明のあった最近の奇怪なる事件につきまして、私の……」と、そこまで話をすすめて来たときに、どうしたものか、グローブの中の電燈が、急に二倍もの明さに輝いたかとみる間に、スーウというかすかな音をたてて消えてしまった。それだけのことであった。別に爆発物の破裂しそうな煙硝えんしょうの匂いもしなかったし、イペリット瓦斯ガスの悪臭も感じられなかった。座中の或る者が、

唯今ただいま、私が給仕を呼びますから」と言ったので一同は子供のように立騒ぎはしなかったが、いずれも内心の不安をかくすことが出来なかった。声をかけた人は、そろりそろりとドアの方に近づいて行った。やがて扉に手が触れたので、両手を上下左右に伸ばしながら把手ハンドル在所ざいしょを探しもとめた。把手はあった。彼氏はその把手を握ってギュッと廻すと、外へ押したが、どうしたわけか扉は開かない。そんなわけはないと思って更に一生懸命押してみたが、今度はなんだか腕がしびれてくるようで力が入らなかった。そのうちに頭が割れるように痛み出し、胸がひきしぼられるように苦しくなってきた。

「やややられたッ。扉が、あああかない」と叫びながら、扉を滅多うちに叩きつけた。暗黒の室内のあちらこちらでは、けもののような絶望的な叫び声が起り、うんうんと呻吟しんぎんする声がだんだん高くなって行った。室外では、今、松ヶ谷学士が扉に身体をうちつけている。刑事や警官が扉の前にせ集って来た。扉はドーンと開く。松ヶ谷学士は先頭になって飛び込んだ。

あかりを、灯を」

 と叫ぶ警官がある。今入ったばかりの松ヶ谷学士がよろよろと入口へよろめき出て来ると、パタリと其儘そのままたおれた。惨劇さんげきの室の前に集った人の中から、マスクをかけた長身の男が飛び出して、

「毒瓦斯だ! 入ってはいけない」と叫んだ。彼は腰をかがめると、入口にたおれている松ヶ谷学士を肩にかつぐと、ドンドン階段の方へ駈け出して行った。そのとき、便所から帰って来た鬼村博士が、この騒ぎに驚いて、博士に似合わぬ狼狽ろうばいぶりを見せて、室内に飛込もうとしたが、それは警官が二人がかりで抱きついて、やっと止めることができたのであった。

 鬼村博士を除く十六名の学会長は、ことごとく枕を並べて無惨なる最後をとげてしまった。鬼村博士が、偶然にも唯一人助かったことは、不幸中のさいわいであると、各新聞紙は悲壮な空元気からげんきの社説をかかげた。だが、当夜の不思議な毒瓦斯電球を、誰が装置したのであるか、また入口の扉は誰が鍵をかけたのであるかについては、各紙は一行の報道もしていなかった。現場から行方不明となった松ヶ谷学士には、すくなからぬ嫌疑けんぎがかけられていたが、その生死のほどについては知る人が無かったのである。





 惨劇さんげきは、満都の恐怖をひきおこすと共に、当局に対する囂々ごうごうたる非難が捲き起った。「科学者を保護せよ、犯人を即刻逮捕せよ」と天下の与論よろんは嵐の如くにはげしかった。

 惨劇のあった翌日、秘密裡ひみつりに、日本化学会の幹部二十三名が、学士会館の一室で会合した。会場は言うに及ばず、会館内の隅々まで、電球や電熱器をはじめ、館内に在るありとあらゆるものが厳重な検査をせられたのち、内外に私服警官隊の網をつくり、それこそ一匹の蟻のぬけ出る道もない迄に、警戒せられたのであった。その会合は、午後七時となって、やっと開催せられた。勿論もちろんこの会合には、昨夜の惨劇から幸運にものがれた鬼村博士が座長席にすわって、「毒瓦斯ガス犯人についての意見」を交換し合い、これに対抗する具体的手段を考案せられんことを希望した。一座は、それこそ、我国に於ける化学界の至宝しほうと認められる学者たちばかりであった。この会合で、充分効果のある具体的方法を考え出さない限り、当分はいかなるこの種の会合も危険で出来ないのであった。一座はそれについて重大なる責任を思いながらも、昨日の惨劇におびえ切って兎角とかく、議案にまとまりがつかない様子であった。一座の中には、鬼村博士の命拾いまでを神経に病んで若しこの席から博士が立つようであれば、さまその後を追って室外に出なければ危険であると考え、博士の行動にばかり気をとられている人もあった。

「椋島君は、見えないようですね」といた人がある。

「椋島君は、来ると言っていましたが、どうしたものかまだ見えません。いや、いずれその内やって来ますよ」

 と鬼村博士が答えた。

「椋島君は、鬼村さんの御令嬢が昨日家出されたので、それで忙しいらしいですよ」と隣りの化学者がささやいた。

「だが、今日の問題は、国家の興廃こうはいに関する重大事項じゃありませんか」

「それに違いありませんが、この道ばかりは何とやら云いますからね」

 その噂にのぼった椋島技師は、鬼村博士の言葉のとおりに、実は既にこの学士会館に到着しているのであった。だが彼は、どうしたものか、コック部屋にいるのであった。前の日留吉とめきちに借りた妙ないでたちの上に、白いエプロンをぶら下げ、白いキッチン・キャップをかぶっていた。どうやら留吉の紹介でこのコック部屋へ這入はいりこんだものらしい。それはどこからみても、コックでしかなかった。椋島は料理の方には眼もれず、部屋の片隅にある妙な道具の蔭に頭をつき込んでいる。その道具のことを説明すれば彼氏の奇怪な行動がわかるのであるが、それはプリズムとレンズとからなる反射鏡で、その器体はコック部屋から、換気洞かんきどうを上の方にいあがり、果然かぜん、日本化学会の会合のある室に届いているのである。また彼の側にある特設電話器の延びて行く先を辿たどってゆくならば、例の会合のある三階の窓際にある衝立ついたての蔭に達しているのを発見するであろう。そればかりではない、その衝立のうちには、洋装の給仕女が控えていて、時々ぬからぬ顔をしてはその衝立から顔を出し、会合のある部屋の扉に注目しているのを発見するであろう。いや、それがバア・ローレライのおキミであることも既に発見せられているであろう。

 さて椋島技師ののぞいている望遠鏡には一体何が映っているのであろうか。そこには、例の会合室の正面に座っている鬼村博士の全身がクッキリと映し出されているではないか。椋島技師は、博士の挙動きょどうを静かに注目している。博士は今、何かしゃべっているらしく口を開閉している。やがて一礼をして席についた。博士の右手が、スルリと伸びて、衣嚢ポケットの時計にかかった。博士は、秒針の動きを、じっと眺めている様子である。椋島技師は、ゴクリとつばをのみこんだ。博士は時計を握ったまま、顔を正面に立てなおした。そのとき博士のとなりに居るK大学の昌木まさき教授が何事か博士に向って尋ねているようである。博士は、じいと正面を向いたまま答えない。昌木教授は、すこし苛々いらいらした面持おももちになって来て、卓を叩いてワンワン詰め寄るかのように見えた。他から人が立って来て昌木教授をなだめている様子だ。しかし博士はもくして語らない。

 ところが其の時である。果然かぜん、昌木教授の表情が変って来た。昌木教授をなだめている人も、いやな顔付にかわった。

「シ、しまった!」叫んだのは椋島技師である。反射鏡から飛びのくと、そばの電話器をつかんで、自棄やけに信号をした。

「キミちゃん。早く信号しろ!」

 そう言ったかと思うと、椋島技師は、気が変になったようになってコック部屋を飛び出した。

 おキミは、素早すばやく側の窓を開くと、窓の下に腰をかがめ、右手を水車みずぐるまのように廻すと、何か黒いものをパッと窓外になげた。なにか街路の上で爆発するらしい音がして、スーウと青い光がひらめいた。パンパンと音がして、ヒューッと銃丸じゅうがん窓外そうがいから、おキミの頭をかすめて衝立にピチピチと当った。そのときおそし、例の会合のある室の大きな硝子ガラス窓が、バシーン、ガラガラというすさまじい音響をたててこわれ始めた。何だか真黒な大きいものが、あとからあとへと硝子窓に飛んできては、硝子という硝子をことごとこわしてしまった。例の室内は硝子の破片がバラバラと雨のように降った。硝子の雨を浴びた一座のものは奇声をあげているばかりで、逃げ出そうとする気配けはいはなかった。どうやら、その前に、一同は毒瓦斯ガスに幾分あてられているかのように、その場にグッタリと身体をのばしていた。硝子の破片で傷ついているものもあるようであったが、別に痛そうな顔をしていないのは、中毒作用のせいであろうと思われる。唯一人の例外は、鬼村博士であった。博士だけは、直立して、柱の蔭に硝子の雨を避けていた。警官連中は入口の扉を開きはしたが近寄れないので、どうしたものかとひしめっていた。

 そのところへ、いきなり飛び上って来た怪漢がある。警官が取押とりおさえようとする手をはらいのけて、勇敢にも室内へ躍り込んだが柱のかげにひそんでいる鬼村博士の姿を目懸めがけて飛びかかって行った。博士は悲鳴をあげて救いを求めた。怪漢は、博士の顔を床の上におしつけると、博士の大きな鼻をねじり廻して、何だか綿のような白いものを、指先で抜きとったようであった。それはどうやら特種とくしゅの薬品を浸みこませた濾気器ろききで、博士が唯一人毒瓦斯にこらえていたのも、そのせいであるかのように思われた。そこへ警官連中が上から折重って怪漢をひきはなし、高手小手たかてこてに縛りあげてしまった。

 博士は身震いして、ヨロヨロと立ち上ったが、そこに引きすえられた怪漢の顔を見ると、

「椋島君、お気の毒じゃな」と、薄気味のわるい笑顔をズッと近付けた。

 翌朝の新聞紙は、一斉に特初号活字、全段ぬきという途方もない大きな見出しで、「希代の科学者鏖殺おうさつ犯人つい捕縛ほばくせられる。犯人は我国毒瓦斯ガス学の権威椋島才一郎」などと、昨夜の大事件を書きたて、彼の現場に於ける奇怪な行動や、精密な機械類の写真などが載った。帝都はかなえくがように騒ぎ立ち、椋島が収容せられたという市ヶ谷刑務所へは、「椋島を国民に引渡せ」というリンチ隊が、あとからあとへと、入りかわり立ちかわり押しかけては、時代逆行の珍現象を呈した。それを鎮撫ちんぶするのに、陸軍大臣に麻布あざぶ第三連隊に総動員を命ずるという前代未聞の大騒ぎが起ったのであった。

 しかし、新聞紙面には、さきに行方不明になった松ヶ谷学士や、家出をした鬼村真弓子のことについては、一行も報道していなかったばかりではなく、昨夜、活躍したおキミの消息も、それから又おキミの信号により、硝子窓の破壊に従事した人物についても、何の報道もしていなかった。





 それから約一ヶ月の月日が流れた。

 あの事件を最後の幕として、科学者虐殺事件は其後そのごまったく起らなくなった。椋島技師の犯行は、愈々いよいよ明白となって死刑の判決が下り、その刑日けいびもいよいよ数日のちに近付いた。世間は、反動的に静かになり、東京市民は、めっきり暖くなったる朝る朝を、長々しい欠伸あくびまじりで礼讃らいさんしあった。

 鬼村博士は、どの市民よりも、ずっとずっと早くから、あの凄惨せいさんきわまる事件を忘れてしまったかのような面持で、何十年一日の如き足どりで化学研究所に通い、実験室に、立籠たてこもっていた。研究所の入口で出勤札しゅっきんふだを返す手つきも同じなら、帽子を被ったまま、何時間となく室内をグルグル歩きまわるくせも、全く前と同じことであった。

 しかし、仔細しさいに誠を知り給う神の眼には、博士一味の行動こそは、その後、いよいよ出でて、いよいよしからぬものがあることがよく映っていたことであろう。実に博士こそは剣山つるぎやま陸軍大臣が、かつて椋島技師にスパイを命じたときに語ってきかせた国際殺人団の団長であったのだ。その下に集る団員は、博士の命令で、あの事件以来ピタリと鳴りをしずめ、その代り、あらたに恐ろしき第二期計画に着々として準備を急いでいた。博士は、多数の権威をうしなった我国の科学界の王座に直って、あらゆる機関を手足の如くに利用していた。ことに博士が所長を勤める研究所にあっては、所外不出しょがいふしゅつではあるが極秘裡ごくひりに、数々の恐ろしい実験がくりかえされていた。たとえば、その一つの部屋をうかがってみるならば、大きな金網かなあみの中に百匹ずつ位のモルモットを入れ、これを実験室の中に置き、技師たちは皆外へ出た上で、室外からべんを開いて室内へ、さまざまの毒瓦斯ガスを送り、モルモットの苦悩の有様や、死に行くスピードなどを、部厚な硝子窓からのぞきこんでは観測するのであった。こうして色々な毒瓦斯が研究されはしたが、結局、前に椋島技師が発明して残して行ったフォルデリヒト瓦斯ガスに及ぶ強力な毒瓦斯はなかった。これは非常に濃厚なもので、適当な精製法をると、三間四方の室なら五c.c.のフォルデリヒト瓦斯で、充分殺人の目的を達するようであった。博士は最近、この毒瓦斯の精製法に成功したのであった。

 博士は其の日の午後、近くにせまる陰謀の計画をチェックしていた。すると、博士の愛するロボットは、珍客の案内を報じたのであった。博士はその密室を出て、広間の扉を開いた。そこには、この一ヶ月というものの間、全く生死不明を伝えられていた松ヶ谷学士が、おどおどした眼付で立っていた。

「松ヶ谷君か。君、どうしていたんだ」と博士は機嫌がよかった。

「ハイ、それは追々おいおい御話し申上げる心算つもりでございます」

 と松ヶ谷学士は言って、口をつぐんだまま、やや躊躇ちゅうちょしている風だったが、強いて元気をふるいおこす様子で、

「先生、実は、……申上もうしあにくいので御座いますが、わたくし、お嬢様のお使いに本日参上いたしましたのですが……」

「ほう、真弓の使いというのか」博士は冷く言い放った。「遠慮えんりょなくここへ連れてくればよいではないか」

「それが、どうしても先生に、所外まで御出おいで願いたいということなんで、実は、いろいろ入組いりくんだ事情もございまして、所内へ入るのはいやだと仰有おっしゃいますのですが……」

「よし、行ってやろう」と博士は、何を考えたか機嫌よく立ちあがった。

 真弓子は、研究所から鳥渡ちょっとはなれた森の中に待っていた。彼女は、松ヶ谷学士が運転して来た自動車の中に、身うごきもせずに待っていた。彼女の相貌そうぼうは、この一ヶ月の間に、森華明もりかめいえがいた小野小町おののこまち美人九相の図を大急ぎで移って行ったように変りはてていた。ひたいは高く、眼窩めくぼは大きく、眼にはもう光がなかった。蒼白そうはくの頬、灰色の唇、すべて生きている人間のものではなかったのである。彼女は、椋島に捨てられたものと思い懊惱おうのうはて、家出をしたのであったが、電気協会ビル事件のとき、思いがけなく椋島のために一命を救われ、その翌日は其の助手となって学士会館の硝子窓破壊係をつとめてその夜の犠牲ぎせいを少くすることに成功した松ヶ谷学士に探し出されて、椋島の誠意を伝えられたが、それは遂に好意であって得恋とくれんではなかった。其内そのうちるともなく父鬼村博士の陰謀に気付き、夜に昼をいでなげきかなしんだため、到頭とうとうひどく身体を壊してしまった。だが、椋島技師の死刑が近いと聞いたので、彼女は片恋かたこいながら、なにをおいても椋島を救いたく思い、それには、父博士によって、椋島技師の行状ぎょうじょうを有利に証言して貰うことができれば、必ず彼女の思いはとどくものと信じ、こうして生と死の境を彷徨ほうこうする身体をここまではこんできたのであった。

 彼女の傍に立った鬼村博士は、急ににがりきった顔付になって、真弓子の痛々しい姿に、一言の憐憫れんびんの言葉もかけはしなかった。彼女は、いくたびかはげしくきいりながら、虫のような声でくりかえしくりかえし歎願し、椋島の助命を頼んだのであった。しかし父博士は一言も口を開かなかった。が真弓子が絶望のあまり、泣き声もえてその場に気を失ったとき博士は始めて口をきいた。

「松ヶ谷君、悪魔のしのび笑いを耳にしないかね!」

 二発の銃丸が、消音短銃ピストルのこととて、音もなく博士の手から松ヶ谷学士と真弓子の脇腹に飛んだ──

「とんだことに、永く手間どらせたわい」と博士はつぶやきながら後を再びふりむこうともせず、そろそろと研究所の方へ引きかえして行った。それは博士の退所時間三十分も過ぎていた。博士は、門をくぐり、ペイブメントをとおり、いくつかの会社のビルディングの蔭に行き、研究所の扉を押してスーウと内に入った。名札なふだをかえすと、スタスタと実験室の中に入って行った。そのとき、別な廊下から、白い実験衣をきた一人の技師があらわれた。彼氏は、そこの壁にかかっていた研究所員の名札を見まわした。

「所長室はあいているようだから」と、今し方、鬼村博士が習慣的にかえして行ったために、「不在」をあらわす赤字の札になっているのをしながら彼氏はあとから顔を出した助手に云った。「今試作した毒瓦斯は、直ぐ所長室へ送りこむんだ。そして一時間置きに、気圧計プレッシュア・ゲージを読むんだぜ」

「じゃ、今送ります。時間がよろしいようですから。──バルブをみんな開いて七百八十五ミリになりました」

「オウ・ケー」

  *  *  *

 完全で、正確この上なしの頭脳を持っている筈の鬼村博士はまことにつまらない、錯覚さっかくのために不慮ふりょの最後をげた。国際殺人団全体にその飛報が伝わると団員一同は色を失った。それも無理のない話で、博士のくわだてた第二期計画の日は、実にその翌日のあかつきかけて決行されるのであったから。

 それは何?

 翌日の早暁そうぎょう、帝都の西郊せいこうから毒瓦斯ガスフォルデリヒトをきちらし、西風せいふうにこれを吹き送らせて全市民を殺戮さつりくしつくそうという、前代未聞の計画であった。彼等は十三台の飛行機にそれぞれ分乗して、午前三時というに、根拠地を離れて午前四時を十五分過ぎる頃あい、予定どおりに今や眠りからめようとしている帝都の上空を襲来しゅうらいした。十三台の殺人団機は翼をそろえて南にとび、機体の後部から猛毒フォルデリヒト瓦斯を濛々もうもうした。その十三すじの尾がむくむくと太くなり、段々と地上に近づいて来たとき、北方の空から、突如とつじょとして二隊の快速力を持った戦闘機があらわれ、一隊は殺人団機の後をグングン追いついて行った。他の一隊は、今や帝都の上にさがろうとする毒瓦斯の煙幕えんまくよりは、更に風上に、薄紅うすあかにじのような瓦斯を物凄ものすごくまきちらして行った。それは椋島むくじま技師が陸軍大臣と打合わせた手筈てはずにより、投獄と世間をいつわって実はひそかに某所ぼうしょで作りあげたフォルデリヒト解毒げどく瓦斯であった。勿論、その一隊の誘導機上には、もう死刑執行の日も近い筈の椋島技師のいとも晴やかな笑顔があった。

底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房

   1990(平成2)年1015日第1版第1刷発行

初出:「新青年」博文館

   1931(昭和6)年5月号

※表題は底本では、「国際殺人団の崩壊ほうかい」となっています。

入力:田浦亜矢子

校正:もりみつじゅんじ

2001年123日公開

2011年1020日修正

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