深夜の市長
海野十三
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ナニシロコレハ一篇ノ小説デアル。作中、T市長ダノ銀座ダノトイウ名詞ガ出テクルガ、コレハ決シテ何処カノ帝都ニアッタ実話ナドヲもでるニシタモノデハゴザイマセン。
「深夜の市長」に始めて会ったのは、陽春とは名ばかりの、恐ろしく底冷えのする三月二十九日の夜のことだった。
ラジオの気象通報は、中国大陸にあった高気圧が東行してかなり裏日本に迫り、北西風が強く吹き募ってきたことを報じた上、T市地方は二、三日うちにまた雪になるでしょうと有難くない予報をアナウンスした。
そのアナウンスもやがてぷっつりと切れ、暗黒なエーテルの漂う夜空からは、内地の放送局が一つ一つお休みなさいを云って電波を消してゆき、あとには唯一つ、南京放送局の婦人アナウンサーが哀調を帯びた異国語で何かしら悠くりと喋っている声だけが残っていた。
その嬌声を副食物にして、僕は押入から出してきた電気麺麭焼器でこんがりと焦げた薄いトーストを作っては喰べ、作っては喰べした。それからH社から頼まれているコントを三つほど書き、ついでにその編集者へ原稿料をもっと上げて貰えないかという手紙を一本認め、それが済むと書き捨ての原稿紙が氷原のように真白に散乱している部屋をすっかり片づけ、掃除をし、それから蒲団を敷いた上、電気炬燵も一応足のところへ入れて置いて、帰ってきても冷い足をすぐ温められるようにし、次に洋服箪笥を開いて、予て一着分用意してあった古洋服を下して着換えた。そしてこれだけは上等交りけなしというラクダの襟巻をしっかりと頸に巻きつけ、その上に莨の焼跡がところどころにある真黒なオーヴァに腕を通し、名ばかりは天鵞絨のウィーン帽子を深々と被り、電灯のスイッチをひねって、それからなるたけ音のしないように靴を履き、洋杖を抜きだし、表の戸を明け、外から秘密の締まりの孔へ太い釘をさし、それから小暗い路地にソロソロと歩を搬びながら、始めてホッと溜息をついたのだった。
時刻はもう十二時をかなり廻っている筈だった。通りの家並はすっかり寝静まって、軒から氷柱が下りそうに静かであった。僕はオーヴァのポケットから、「暁」を一本口に銜えて火を点けながら、これから始まるその夜の行手に、どんな楽しいことが待ち構えているかを予想して、ひそかに胸を躍らせたのだった。
深夜の散歩──。
それが僕の最大の楽しみだった。そのために僕は特別なる睡眠法を励行していた。それは一日のうちに睡眠を三回に分けて摂ることだった。午睡三十分──これは勤め先の応接室を内側からロックして、安楽椅子の上で睡る。それから夕刻帰宅して食事を済ますと、二時間ばかり毛布にくるまってゴロリと寝る。最後は、深夜の散歩から帰ってきて、朝まで三、四時間をグッスリ睡る。このバラバラの比較的短い睡眠によって僕はいつも元気で暮していられた。ことに深夜の散歩のときは一番元気がよく、そして自分でも恐ろしくなるほど頭がハッキリしていた。……
通りへ出たとき一台の円タクが、背後の方から疾風のように駆けてきたが、僕の姿を認めたらしく急にブレーキをかけ、舗装道路の上にキキキキイッと鋭い音を出して、傍に停った。それは素敵な36年型の新車だった。
「旦那、お伴しましょう」
と、学校帽子を被った助手が窓から手を出していった。
「うん、頼むぜ。……下町へ向けて飛ばして呉れよ」
「へえ、どうぞ」といって僕を乗せてしまうと、「旦那、下町は何処です」
「河の向うだ」
「河の向うというと……本所ですか、深川ですか」
「業平橋を越えたところで下して呉れ」
「へえ、もっと先まで行きましてもよろしゅうございますが……へへえ、お楽しみで……」
「フフン、気の毒だネ」
深々したクッションの中に抱かれるように身体を埋めた僕は、その夜の散歩コースのことを考えた。業平橋を渡ったところを起点とし、濠割づたいに亀井戸を抜け、市電終点猿江を渡って工場街大島町まで伸ばしてみようと。だが結局後に述べるような突発事件のために、折角考えた散歩コースを行くこと幾何もなくして、遂に前途を放棄しなければならなくなったのだった。……
ポーンと五十銭玉を一つ助手の手に抛りこんで、僕は車を捨てた。橋の袂から、濠割のなかを覗きこむと、昼間見れば真黒な溝泥の水を湛えた汚い水面が、両岸の工場の塀外にさし出た常夜灯の眩しい光に照り映えて、まるで鏡のように光っていた。夜は昼間と全然違った別の天地を現出する。屋外灯にしても、昼のうす汚れた灰色のグローブが、夜間に於てはニーベルンゲンの夜光珠もかくやと思うばかりに燦然と輝くのであった。昼と夜と、いずれが真の姿であるか知らないが、すくなくとも夜は美しく優しく静もり深く、そして底しれぬ神秘の衣をつけている。T市の人々の多くは、この素晴らしい夜の顔を知らないでいる。昼間のT市とは全く別のT市が在ることに気付かないのだ。市民たちは深夜となれば習慣として皆家の中に籠って睡る。翌朝起き、太陽の輝く町が昨日在ったそれと同じであるところから、T市が昨夜何ごともなく何者にも奪われないで市民と共に死んだようになって睡っていたものと至極単純に考えている。しかしそれは間違いではなかろうか。そのような筆法でゆけば、逆にいって、昼間のT市こそ、深夜のT市の睡りの状態であるかもしれないのだ。僕は知っている。深夜のT市は、昼間のT市とは全く別個の存在である。しかも極く少数の市民が住み、そしてその少数の人しか知らない不思議な都市である。面積や道具だての宏大な割に人口がきわめて不稠密な点からいうと、沙漠の上に捨てられてある廃都にも似かよっていたが、その魅惑的であり神秘的であり多元的である点については、沙漠に埋れている廃都などとは比すべくもない。……
僕は橋畔を離れて、こんどは広い大通りを柳島の方へブラブラと歩みはじめた。幅員が三十三メートルもあるその大通りのまん真中を、洋杖をふりふり悠然と濶歩してゆくのだった。こんな気持のよいことはなかった。大通りは頑固に舗装され、銀色に光る四条のレールが象眼されていた。頭の上をみると手の届きそうなところに架空線がブラブラしているし、大通りの両側のポールにはまるで大宮殿の廊下のように同じ形の電灯が同じ間隔をもって、ずっと向うの方まで点いて居り、それでいてあの大きな図体をもった市街電車もいなければ、バスもいない。ときどき円タクのヘッドライトがピカリと向うの辻に閃くばかりで、こっちの方まではやってこない。この広い大道を濶歩してゆくのは、ただ自分ひとりだった。なんという勿体ない通り路であろうか。なんという豪快な散歩であろうか。踉めいて歩こうが、眼をつぶって歩こうが、それとも後向きに歩こうが、誰も何ともいうものがなく、号笛を鳴らして神経をやたらに刺戟するものもいないのである。これが昼間、足の踏み入れようもないほど、喧騒を極めたあの柳島の通りであろうか。交通標示器をちょっと見誤ればたちまち自動車の車輪をわが血でもって染めなければならないあの昼間のT市と同じ市街なのであろうか。否々、これは全く別の座標の上に立っている別の市街なのだ。
僕は深夜の散歩を好むのあまり、饒舌を弄しすぎたようである。だが、その夜更けて、始めて会う機会をもった「深夜の市長」のいうところに比べると、僕の喋っていることなんか、赤ン坊の寝言に等しいのだ。「深夜の市長」こそは、僕の云わんとするところをハッキリ云い、そして僕が平生求めようとして求め得なかったものを無造作に持っているという正に驚嘆すべき畸人だった。いや畸人といったのでは足りない。もしも常識豊富な狂人(?)という反語的ないいあらわし方が許されるものとしたら、それは一等適切に「深夜の市長」と呼ばれる人物を云いあらわしているだろう。その反語的な性格こそ、素性の知れない彼の「深夜の市長」の持っている不可解なミステリーそのもののような気がする。
ここらで夜のT市の三嘆を止め、では僕を「深夜の市長」の許へ送りつけるようなことになった奇怪きわまる事件に話を進めようと思う。
電車の見えない電車道に交叉して、右へ延びている二十二メートル道路があった。そこをゆけば、別の濠割まで下らなくて亀井戸へ出られる。この広い道路も、いまは人影一つ見えない水晶宮殿の廊下のようであった。僕はそっちへ曲りこんで、ブラブラと約百メートルも行ったかと思われる頃、何者とも知れず、キャーッと魂消る悲鳴を発したものがあった。声の大きさからいっても声音から云っても、人間以外の生き物とは思われなかった。深夜の街をうろつくこと茲に何十度何百度か知らないほどの僕だったけれど、このような怪しい悲鳴を耳にしたのは、これが始めてだった。僕はギクリとして、その場に足を停めた。
悲鳴はたった一声! だからハッキリとはいえないが、どうやらここをすこし向うへ行って左へ入った路地あたりらしかった。僕はそのとき身分のことを考えた。そういっては嗤われるかもしれないが、こんな夜更、こんな場所で、怪しげなる事件に関係していいものだろうかどうかを考えたのだ。昔のように、単なる文学青年だけなら、こんなことはどっちでもよいのであった。しかし只今は「黄谷青二」なるペンネームの外に、別に本名によって或る本職を持っているのだった。それは相当立派な役柄で、文筆による原稿稼ぎよりも、ずっと将来も有望なる職業だった。その職業に取付いたばかりの今の僕としては、本来なら深夜の散歩なんて、どっちかというとまあ慎んでいた方がよかったのだ。所轄警察へでも引かれて、本名を名乗らせられ、それから一週間ほど前にかち得た面恥ゆい役柄を下手に申立てたりしようものなら、僕は刑事たちのいい嗤い者になった上、僕をその役柄に送りこむため大変骨を折ってくれた恩人T氏や、いま上長と戴いている先輩諸氏に迷惑などを懸けることになっては僕として本当に立つ瀬がないのだ。いずれは分るであろうが、僕の本職が何であるかを此処に云わない訳も、実はそうした事情から出発していることで、どうかいま暫く披露することを許して置いて貰いたいのである。──
と、まあその辺で僕は悲鳴事件から素直に引下っていればよかったのだ。しかし世の中には分って呉れる仁もあるだろうと思うが、人間というものは如何にそれが間違いのないことであろうとも、その場の気持によっては、必ずしもその間違いのないことに従いたくない場合がある。──僕の場合がそうだった。一生懸命に僕は自分の手足に号令して、早く別の方角へ退くようにと頑張ったのだけれど、僕の手足は──それは多分「黄谷青二」の手足だったらしく、一向に感じないのだった。そして生ける屍に等しい僕の身体を、グングンその悲鳴の発した方角へ引擦ってゆくのだった。
町角を曲ると、果して僕は地上に搦みあっている怪しい人影を見つけた。
「ああ、何です、何です。何うしたんです……」
浅間しくも、僕の身体の中に永らく下宿している「黄谷青二氏」は、浅間信十郎──これが僕の本名だ──の制止する号令も聞かず、遂に弥次馬と択ぶところのない声を発しさせてしまった。ちえッ。「ええッ。──」と同じようにインバネスに中折帽子という扮装の向うの二人は駭きの声をあげ、二人で舁いでいる第三の人物を地面に取り落しそうにした。
「どこかやられたんですか。──強盗ですか、殺人ですか」
といって遠慮なく覗いてみると、その舁がれている第三の人物は、二人とは違って、僕と同じようにオーヴァを着込んだ洋服姿の男だった。年のころは三十四、五かと思うが、すこし骨ばってはいるがそこらにザラに転がっているような至極特徴のない顔をしていた。
二人のインバネス男は、互いに顔を見合わせたが、そのうちの一人が、
「ええ、こいつ友達だんね。だいぶ酔うとりましてな、足がフラフラで、いまそこの溝に足をつっこんで、ひっくりかえりましてん。怪我しとりますが、医者がどこにあるやら分らしめへんねン。貴方さん、えろう済みまへんが、ちょっと医者らしい家を見つけくんなはらしめへんか。……」
と関西弁でもってベラベラと喋った。
「ああ、溝へおっこって怪我をしたんですか。……」
僕は肚の中で、声を立てて笑った。そんなことで誰が欺されるものか。あのキャーッという悲鳴が溝へ落ちた悲鳴かそうでないかぐらいは、ちょっと考えてみれば見分けのつくことだった。しかも二人の連れがいながら、僕だけを医者の家を探すために走らせようというのが腑に落ちなかった。探偵小説は伊達に書いているのではないぞこの野郎と、僕はムラムラと癪にさわった。しかしそれはいい傾向とはいえなかった。「黄谷青二」がどうやら完全に浅間信十郎を征服してしまって、なにかまた大怪我をしでかしそうであった。──
果然、僕はポケットから小型の懐中電灯を取出すが早いか、サッと第三の男の身体を照らした。
「あッ──」
「あッ──」
向うとこっちと、同時に叫び声をあげた。向うはこっちの懐中電灯に驚いたのであることは疑いない。こっちが驚いたのは、怪我をしているといった第三の男が、実は、もう死にきっていることだった。顔色はすっかり青ざめ、唇の色も変り、大きな口をだらりと開き、両眼は白目を剥きだし、呼吸をしていなかった。誰が見ても一と目で、これは死んでいるなと鑑定することが出来た。その上、向うには気の毒なことだったが、このとき第三の男の身体がゴトンと下についた拍子に、身体がすこし傾いだ。そして左の背中にピカリと光るものが見えた。それは驚いたことに、相当深く肉に喰いこんでいるらしい刃物だった。多分短刀でもあろう。
ハッとして、僕は後へ飛びのいた。しかしそれはもう間に合わなかった。面は下頤にガーンと、したたか激しい打撃を喰って、呀ッと叫ぶ間もなく、その場へ昏倒してしまった。
暫くはピーンという高い唸音の世界に迷っていて、なにが何だか分らなかった。本当はどの位経ったか知らないが、兎に角やがて気がついた。寒くて身体がブルブルと震えるのを我慢して僕は起き上った。
「畜生!……」
僕は自分自身にはげしい憎悪を感じながら、なおもその憎悪を二倍にも三倍にもして敵の方に叩きつけた。だがそこには相手の影も形もなかった。そればかりではない。その辺に転がっているだろうと思った第三の男の屍体が掻き消したように失せていた。
「ざまはないぞ。黄谷青二も浅間信十郎も……」
あまりのことに、僕はフラフラする足をひきしめて、歩きだそうとした。がそのとき、いま昏倒したときに懐中電灯をどこかそこらに落したことを思い出した。
「うん、大変な証拠物件を残してゆくところだった」
僕は腋の下から冷い汗がジックリと滲みだすのをハッキリと意識した。その失敗一つで、あたら何もかもフイになるところだった。ポケットを探り、燐寸を四、五本一緒にしてシュッと火をつけた。その光であたりを探してみると、目に停ったのは、懐中電灯にはあらで、それはクローム側の真新しい懐中時計だった。紐も鎖もなんにもついていない。これはもちろん僕のものではないから、今の格闘のときに、向うの連中の誰かが落していったものであろう。
それから尚もマッチの火を擦ってみる、と時計の落ちていた近所に、ピカピカ光る小さいものが二つ三つ散らばっているのを発見した。拾いあつめてみると、それは三枚の、日本銀行から出て来たばかりのような十銭のニッケル貨幣だった。これは一体どうしたのだろう。やはり一行が落したものに相違ないが、三枚以上もっとあるかも知れないと思って、更にあたりを探しまわった。しかしそれ以上はどこにも見つからなかった。その代り、舗装道路の上に、点々として流れているドス黒い血痕を発見した。それはいまの殺人が夢ではないことを証明しているようなものだった。それから思いがけない遠方に飛んでいた僕の懐中電灯をも遂に拾うことができた。
「まあ、これでよかった。ほかに何も落し物はないだろうな」
両手のポケットを外から叩いて、思い出そうとしたときに掌がいやにニチャニチャする。ハッと思って、また燐寸をすってみると、掌に一ぱい赤い血がついていた。よく見ると、オーヴァがところどころ血でベトベトになっている。それがいま掌に附着したのだった。自分は犯人でないことを知っているからいいが、もしやこれを他の人に見られたとなると、これは簡単には無罪を信じて貰えないことだと思った。僕は俄かに不安な気持に襲われた。
そのときのことである。ピイ、ピイ、ピイッと、鋭い笛の音が聞えた。ピイ、ピイ、ピイッと、しきりに反復しながらこっちへ近づいてくる様子である。それは確かに夜勤の警官たちが同僚の密行警官や刑事たちを呼びあつめるための呼笛だった。──それはますますこっちへ近づいてくる。もうすぐに、向うの小暗い辻から隼のように敏捷な警官隊が現われてくるだろうと思われた。
「これはいけない。……」
僕は慄然とした。先刻感じた不安がまた蘇ってきたのだった。こんな土地の警官に捕えられてはならない。しかも現在の立場は先刻よりも一層不利になっている。オーヴァその他は血に染んでいるし、ポケットにはこの事件の証拠物件が秘められている。しかも事件を感づいた警官隊は、もう身近かに迫っている。これで捕えられれば、四の五のはない。なにもかもお終いだ。
「脱走!」
そのときの僕の顔色は、紙のように褪せていたろうと思う。もう深夜の散歩者も、なんにもなかった。家に残してきた温い寝床が無性に恋しかった。ただどうかして警官隊の網からうまく脱出したいという本能的な考えだけが、僕の全身を支配した。僕はクルリと踵をかえすと呼笛のなっているとは正反対の方の闇の中に走りこんだ。
ところが、そいつは失敗だった。というのは、僕の逃げた方角から、また別の警官隊がくりだして来たらしく、正面から呼笛がピピーッと激しく鳴り響いたからだ。本当は鳴り響いたどころではなくて、バラバラと駆けだしてくる警官らしい人影を軒灯の灯影の下に認めたのである。
「南無三!」
僕は死にもの狂いで、狭い道路を右に折れ曲った。ここなら大丈夫と思って、暫くゆくと、矢庭に背後に跫音がして、
「こら、待たんかア!」
と飛び出して来た者があった。刑事だ!
そうなると僕はもう躍起となっていた。なんのために逃げる必要があるのかと、根本的な誤謬を考えなおす余裕もなくただ本能的に警官隊から脱れようと焦った。
智恵のない話だが、また左へ折れた。正面に、亀井戸の魔窟へ抜ける橋が目についた。多分それは栗原橋だろう。しかし生憎とその橋の袂には交番がある筈だった。そうなるといよいよ進退は谷まってしまった。これではもう逃げても逃げなくても捕えられる! 僕はハアハアとあえぎながら、それでも走った。
「おい、こっちに逃げ道があるよオ。──」
唐突に、その家並の軒端と覚しきところから圧しつけるような声が懸かった。僕はその声に、飛びあがるほど驚いた。
「そっちへゆくと危い! 早くこっちへ入れ、こっちへ入れ!」
同じ声は、なおも続いてした。
ハッと思って、声のする方を見直すと、そこは炭屋らしく薪が山のように積まれていた。その蔭から、オイデオイデをして招く何者かがいた。
刑事かもしれないが……。
と僕は思ったけれど、僕の行く道はいずれにしろもう完全に封鎖されていた。この上は本当にも嘘にも、いま声をかけてくれた道一方しか逃げ場がないのだ。──僕はもう覚悟をきめて、
「おい、頼むよオ」
と叫んで、ヒラリとその薪の蔭へとびこんだ。
「おお、よし。──声を出すな。おれについて来い。こっちだこっちだ」
そういって先に立つのは、見たこともないルンペン態の鬚だらけの老人だった。しかしこの老人、年齢に似合わず力があって、いきなり僕の手を握ると、ズルズルと物蔭へ引張りこんだ。
僕は親猿に抱かれた子猿のように、かの老人に抱きすくめられていた。そこはどうやら穴蔵でもあるらしく、老人の吐く息が周囲にハッハッと反響した。
外はだんだんと騒々しくなってきた。バタバタと駆けだす靴音に交じって、佩剣がガチャガチャ鳴る響さえ聞えた。呼笛はなおも執念深く吹き鳴らされている。そこへガヤガヤとこっちへ急いでくる話し声が耳に入った。
「おい、若いの。──」と、耳許で老人の抑えつけるような声がした。「こっちへやって来たが心配するな。お前さん、軽業が出来るかい。両手と両足とで、この両側の壁を踏んまえて、穴蔵の天井に身体を隠していろ。ちっとは苦しかろうが、生命と交換するのだと思って頑張るんだぞ。それッ。──」
老人はドンと背中を叩いて、僕を激励した。ここで逡巡いだりして、老人に見放されては大変だと思ったので、言わるるままに、両手両足とを使い向いあった壁の間に自分の身体を橋渡しした。そして満身の力を出して、ジリジリと上の方に擦り昇っていった。
「その調子、その調子。どんなことがあっても声を出したり、動いたりするな。いいかッ。……」
僕は苦しさで、もう返事をする余裕もなかった。──老人は外へ首を出している様子。
「ああ、ここだ」と靴音と人声とが一緒に近づいた。
「おい、『深夜の市長』、起きてるか。──」
「おう、──」と、下の老人は人を喰ったような返事をし「商売繁昌だな。人殺しも賑やかでいいのう」
「なにイ……」
と別の声が憤りを見せるのを、
「オイ云うな」と始めの声が停めて「どうだ『深夜の市長』、逃げて来たやつを隠しゃしないだろうネ」
僕はハッとした。途端に壁を抑えていた靴がズルリと下に滑った。十センチも滑ったような気がしたが、本当はほんの僅かだったかもしれない。こいつはいけない──と、僕は歯を喰いしばってウンと両足を踏んばった。
「相変らず鼻が利くねえ」と老人の声で「叶わないよ、お前さん方には……。さあさあ中に一匹だけ隠して置いたから、摘みだして手柄になせえ」
もう少しで僕は呀ッと叫ぶところだった。ひどい奴があればあったものだ。引張りこんで置いて、僕を相手に売りつけようとは……。八ツ裂にしても足りない奴……と、憤慨し、こっちから進んで飛び下りようとした刹那、
「いや、悪かった悪かった、『市長さん』騒がして済まなかったネ。はッはッはッ」
と笑いに紛らす声がした。
「隠して置いたというのに、連れてゆかないというのかい」
そのとき誰の声だか、呀ッという叫び声がして、それに追っかぶせるように老人の声で、
「サアしみったれた見方なんかするない。もっと奥まで入って、よく調べろッ」
真下になにか黒い影がドサリと飛びこんで来たと思うと、
「うわーッ」
という獣のような叫び声をあげたものがあった。だが直ぐさまガラガラというなにか引っくりかえったらしい物音と共にまた外へ跳ね出していった者があった。
「あッはッはッ、あッはッはッはッ」
老人は無遠慮に、いつまでも笑い続けていた。
「……だから止せといったのに……。相手が悪い……」
と窘めるような声が切れ切れに聞えた。どうやら一人の方が、この穴蔵の中を覗こうとしたところを、老人にエイッと尻を突かれて、穴蔵の中に転げこんだものらしかった。
「若いの、向うへ行っちまったから、もう大丈夫だ。そろそろ下りてきてはどうだ」
僕はホッとした。危い瀬戸際であった。もうやられたかと思った刹那に救われたのだった。途端に関節から急に力が抜けてしまって、あれよという間もなく、こんどは自分の身体がツーと下に動きだすと、呀ッという間もなくドーンと大きな音をたて、いやというほど額と腰骨とを固いものにぶっつけた。骨がビーンと音をたてて震え、暫くは起き上ることもできなかった。
「なかなか頑張り屋だのう。悪いことするだけあって……」
老人は褒めたのか冷かしたのか分らないような云い方をした。そのころ僕はようやくのことで、「深夜の市長」と呼ばれる老人に礼を述べる気力を取りかえした。
「……しかし思い違いなすっているようだが、僕は別に悪いことをしたわけじゃないんです」
「あッはッはッ、隠すところは、まだ可愛いいな。悪いことをしない奴は、あんな風に逃げないもんだぜ」
そういわれて気がついたが、さっき僕がそこの横丁を逃げているときの気持は、捕っては一大事だというので、まるで犯罪者のような挙動で駆けだしていたから、そこを老人の炯眼に睨まれたのかもしれない。こうなってはもう隠しているべき場合ではないと思った。それで、実はこうこういうわけで……と、僕の妙な趣味生活のことや、また先刻見たり聞いたりした怪事件について、一伍仔什を詳しく老人に説明したのだった。
「……それで、現場に落ちていた証拠物件を、ここにちゃんと持っているのですが、いま出して見ましょう」
といって、オーヴァのポケットの中を探りはじめると、老人はそれを抑えた。
「ちょっと待て。いま入口を締めて、明りをつけるから……」
老人は立上ると、狭い入口に向ってなにかゴソゴソやっていた。やがてバサリと上から落ちて来たものがある。それはどうやら継ぎだらけのカーテンまがいのもののようであった。それが済むと、老人は背のびをして、壁土をバラバラ落していたが、やがてパッと天井に思いがけなくも明りがついた。驚いて見上げると、それはどこから電気を引張ってきたのかしらないが、煌々たる自動車用電球らしいものが二本の線と共にぶら下っているのであった。──始めて見るこの狭い穴蔵の中の様子、それは天然の押入といったのが一等適切に云いあらわしているような土窟であった。壁も天然の土壌であるけれど、そこに棚のようなものを刳りぬいて、食器らしいものがゴタゴタと並べてあった。
「さあ、見せて貰うか。──」
始めてつくづくと老人の顔を見る機会を得た。なるほど鬚が生えていると思ったが、まるで鬚の中から眼玉と鼻の先が出ているといった方がいいくらいの、見るからに身体が痒くなるような無精鬚を生やした老人だった。これが「深夜の市長」と呼ばれる人物なのであるか。だが老人の眼は、羊の眼のように柔和だった。そしてピョコリと飛びだした赤い鼻頭には無限のユーモアが宿っていた。鬚の中に埋れた唇をモゴモゴやって、老人は僕の顔をジロジロ眺めながら目顔で催促した。
実をいうとそのとき僕は、すこし当惑している最中だった。それはポケットに入れて置いた筈の時計と十銭白銅三個が、どこかに引懸って、取出そうとしても、なかなか出てこないのだった。
「あれッ、変だナ……」
なかなか出て来ないということが、後にこの怪事件を解くことの手懸りになったのであるが、そのときはそんなこととは夢にも気づかず、見せるといったものが、あまりに出て来ないので、僕が出し惜しみをしているように老人に誤解され一喝を喰いはしないか──と、それを心配して、一層心は焦った。
「落したな。──」
「いいえ、そうじゃないんで、ここに入っているんですが、どうしたのか出て来ないんです。なにかにくっついているようなんです。うーン」
と僕が力一杯、引出そうとするのを見ると老人は、
「おっとおっと待った。人生無理をするなよ──ということがある。オーヴァを脱いでからにしたらいいじゃないか」
と注意をした。
なるほどと思って、僕はオーヴァを脱ぎにかかった。釦を外して脱ごうとするが、どうしたのか脱げない。右のポケットのところが妙に洋服の上に縫いつけられたような具合で、離れない。
「これは妙だ。可笑しいことがある。……」
僕は両手を、その縫いつけられたようなところへ持っていって、様子を調べてみると、果然、何ものかが洋服とオーヴァとをピシャリと縫いあわしているのだった。一体どこでこんな悪戯をされたのかと思って、なおも両手でもって縫いつけられた糸目を探してみた。そうしているうちに、
「おや、──」
と、思わず驚きの声をあげてしまったが、固く縫いつけられていると思った洋服とオーヴァとが、今度はまるで蒲団の糸目が外れたように、ポツンと離れてしまった。なんだか狐に化かされているような塩梅で、拍子ぬけがした。オーヴァは楽々と脱げた。そしてポケットの中から、懐中時計と三枚の十銭貨幣とが出てきた。僕はそれを掌の上に載せて、老人の顔の前に持っていった。
「これが、その証拠物件なんで……」
「…………」
老人は黙って僕の掌の中を眺めた。そしてマッチの軸木の先で、それをいじりまわしていたがやがて顔をあげて、ジロリと僕の顔を見た。その面にはなにか僕に抗議するような色があらわれていた。
「……素人はこれだから困るねえ」
と老人は重い口を開いた。
「素人?」
そのとき僕はハッキリと自分の失策に気がついた。僕は証拠物件を手に入れることに夢中になっていたので、その時計や貨幣の上に残っていたろうと思われる指紋のことには一向気がつかなかったのだった。僕はその時計を、うっかりしてそのまま手づかみで拾い上げてしまったのだった。それから後も、僕は何度となくその時計を手づかみにした。そのために、折角大事な指紋がついて居りながらそれを滅茶滅茶にしてしまったのだった。探偵小説作家を自任して居りながら、なんという迂濶なことをやったものだろう。これでは素人と何のかわるところもない。いや予て知っていながら、うっかりやっちまっただけに、自分の粗忽加減に只呆れるより外なかった。
「指紋を滅茶滅茶にしてしまって、どうも残念です」
「うん、指紋はこれじゃ仕様がないねえ」老人は案外あっさりと返事をした。その語勢には、なにか外に、もっと別の言葉を期待していたように聞えた。僕が怪訝な面持で、老人の顔を見詰めていると、「深夜の市長」は急にニヤニヤ笑いながら、
「お前さんは、右のポケットにナイフを持っているだろう。それも型のすこし大きいやつだろう」
「えッ、──」
僕はギクリとした。ナイフといえば、僕はいつも大型の七つ道具のついたナイフを持って歩いていた。それはいつもチョッキの右下のポケットに入れてあった。ソッと、触ってみると、そのときもその場所に固いものが手に触れた。たしかに大型のナイフを持っていた。
「そうだろう。……これを御覧よ。このニッケル貨幣は三枚とも糊で貼りあわせたように、ピタリとくっついて離れない。何故だろう? これはつまり、このニッケル貨幣が強い磁力を持っているせいなんだ。いまお前さんが取出したとき、変な恰好をして繋がっていたから、それで気がついたのだ。こいつは余程風変りな事件だぞ」
老人はそういって、首をかしげた。密着して離れない三枚のニッケル貨幣!
「そんなことから風変りな事件だということが分るんですかね。もっともニッケル貨幣同志で、こんなにくっつき合っているのを見たのは今が始めだけれど……」
「実に風変りだ。だが風変りだけに、こいつは早く種があがるかも知れないよ。まだ有る筈だ。ほらこれだこれだ。この時計を御覧よ」と老人は懐中時計の硝子蓋を叩きながら、目を輝かした。「こいつは占めたぞ。この時計はいい塩梅に停らないでコツコツ動いている」
「時計がどうしたんです」
「うん、これは面白い」と老人は独りで悦に入りながら
「この時計の針を見て御覧よ。どうだネ」
「ははア」
「なにを見ているんだ。この指針がいま何時何分を指しているかというんだ。ね、今ちょうど十一時四十分を示しているじゃないか。ところでいま本当の時刻は……」と老人は隅の方をゴソゴソ探していたが、やがてこの土窟には不似合なピカピカする大型の懐中時計を探し出してきて、「今正に午前二時二十分だ。いいかネ」
「どうしたんでしょう。莫迦に僕の拾った時計は狂っていますね。僕の腕時計を見ましょう。……ああ、停っている」
手首を伸ばして見ると、僕の腕時計は停っていた。よく見るとそれも道理だった。硝子蓋がどこかへ飛んでしまっていた。先刻のされたときに飛んでしまったのにちがいない。
「そうだ、ちょうど二時間四十分遅れている。これは面白い。これだけの材料があれば、この事件の仕掛が分らんこともあるまい」
「どうも貴方は不思議な人ですね。まるで探偵のようなことを云うじゃありませんか。それに科学にもなかなか精しいようだし……」
と、僕があけすけな質問をすると、
「なアに付け焼刃さ。科学の方は速水輪太郎から輸入した聞き覚えだ」
「速水輪太郎?」
「うん、奇妙な街の科学者さ。そうだ、速水に、この謎を解かせるのが一番いい。君、いいやお前さん、済まないが、この時計とニッケル貨幣とを速水に届けてくれまいか。もちろん今手紙を書くがネ」
「…………」
呆気にとられている僕に構わず、老人はポケットを探って、小さい紙片を出し、その上にちょこちょこと何か走り書きをして、それをクルクルと丸めた。それから、汚いボロ布の中に、時計とニッケル貨幣と、その手紙を丸めたものを包んで、僕の手に渡した。
「これを速水輪太郎氏に届けるんですね。速水氏の所番地は?」
「なアに所番地なんか要るものか。……銀座のM百貨店の裏通りにブレーキという十銭洋酒立飲店がある。夜といわず昼といわず、そこで虎になっている年増女の客がいるから、そいつに云ってこれを速水へ渡してくれといえばいいんだ。それだけで分らなかったら、女の左の耳朶を見るがいい。そこにRと入墨がしてあるのが、その虎女だ」
僕はこのルンペンみたいな老人が、彼に似合わしからぬ色っぽい女を知っていることを聞いて驚いたが、老人は別に得意そうな色も見せなかった。僕は妙な事件から、妙な老人に会って、それからまた妙なことを頼まれて、なんだか夢に夢を見ているような気持になってきた。
僕は外面の気配に聞き耳をたてながら、
「まだ出てゆくのは危いですね」
というと、老人は、
「そうさなあ、──」
といって、特徴のある小鼻を左右から拇指と人指し指とで摘んでスーッと先の方へ引張った。さっきから見ていると、老人はよくそんな動作をやってみせた。この寒いのに汗でも小鼻の脇についているのかと思ったが、そうではなくて、これは「深夜の市長」どのの一つの癖でもあり、且つ唯一の娯楽でもあるらしく思われた。
「それでは……」
と云いかけた途端に、遠くの方で低くサイレンの唸り声が聞えた。
──火事かな!
と、考えている遑に、そのサイレンはどんどんこっちへ近づいて来た。紛れもなく出火らしい。
「ほう、時も時……」
と呟いて、老人は幕の外へ匍い出した。すると何者かが、バタバタとこっちへ駈けつけてくる気配だ。僕はハッとなって、思わず土窟の片隅に小さく縮まった。
「市長さん、遅れまして何とも申訳ござんせん」と、跫音がピタリと止ると、入れ代って脳天より出るような声、「只今火を発しましたるは、これより南へ二丁ほど先、横川橋は四丁目十六番地に所在致しまする油倉庫にござりまする。原因万端取調べ中でござりまするが後刻申し奉ります。へえ、お静かに、お静かに……」
「ご苦労、──」
「お言葉、まことに有難うさんで……」
ツツツーとまた引擦るような跫音がして、脳天声の主は向うへ去っていった。
「ハテ殺人事件のあとに、続いて油倉庫の火事とはうますぎるが……。おう、若いの、いいきっかけが、向うの方からお出でなすったぜ。さあ、このどさくさに紛れて、早く抜け出すんだ」
そういった「深夜の市長」の声に、僕は思わず躍りあがった。最早このときにはウーウーとサイレンが二重にも三重にも鳴りだした。僕はパッと外へ顔を出した、すぐ前の屋根の向うが真赤だ。油倉庫の火事だけあって、どッどッと立ち騰る紅蓮の炎の勢の猛烈さ。しかしこれを感心してみとれていることはできなかった。これこそ勿化の幸いと、僕は老人に挨拶もそこそこに火事場の方へ道をとって走りだした。
「いいかネ。頼んだことを忘れるな」
「承知しましたッ」
それから僕は火事場へ駈けつけると見せて、実は刻々に殖えてくる寝ぼけ眼の弥次馬の間を掻きわけ掻きわけ、どんどん脇道の方へ曲っていった。もう誰にも咎められはしなかった。そして一台の円タクを拾うと、それに乗って浅草の住居の方角へどんどん急がせた。
その夜ほど、わが住居の寝床の心地よさを感じたことはなかった。戸締りをして、電気行火ですっかり温くなっている蒲団の中で足を伸ばすと価千金といいたいほど有難かった。
だが僕はそれから暫く、どうしても寝つかれなかった。僕の困った悪趣味の上に、一大警告がやって来たのだった。深夜の散歩が、遂に僕をしてたいへんな災難につまずかせてしまった。
業平橋横の怪しい殺人事件がまず眼前に浮んだ。死に切っている男の左の背後には、鋭い短剣らしいものがグサリとつき刺さっている。それを介抱するんだというインバネスの二人男は、僕をK・Oして、屍体もろとも何処かへ消えてしまう。後に気がついて、現場から拾ったのが、一個の新しいクローム側の懐中時計に、十銭のニッケル貨幣が三枚。とたんに警察に追われ、もう駄目だ、捕えられたかと思ったところを、「深夜の市長」と呼ぶ怪老人のために助けられた。その老人に見聞した事件を洗いざらい物語ってゆくうち、かの老人はニッケル貨幣に強い磁気のあることを発見して、これは怪しいと覘む。それから同じく殺人現場から拾ってきた懐中時計の時刻の遅れの二時間四十分というものを問題にして、これで事件が解決できそうだと、老人は云った。そしてその解決を得るために、速水輪太郎のところへ、時計と貨幣とを届けろと命令したのだった。その方法として銀座の十銭スタンドへ行って、耳朶にRと入墨のある虎御前を見つけて、それに頼めといった。
考えてくると、それはあまりに猟奇にみちみちた出来ごとだった。僕はこれまでに探偵小説を随分書きもしたが、こん夜のような、猟奇性に富んだ事件を書いたことは勿論のこと、構想したこともなかった。事実は小説よりも奇なりというが、こんなことを云ったのではあるまいか。
それにつけても、最も腑に落ちないのは、あの土窟内に住んでいる老人のことだった。僕の危いところを救ってくれたその老人は、刑事だの遊び人だのから「深夜の市長」と呼ばれていた。あの土窟から出てみると、それは紡績工場とその塀越しの炭屋の倉庫との間に取残された妙な土塊の中の洞穴であったが、ああした変な穴居者が、この整然としたT市の真中に棲息するとは不思議千万なことだった。その「深夜の市長」という意味は、いままでの見聞で朧気ながら分るような気がしないでもないが、怪老人の素性に至っては、どう捉えてよいのやら、まったく見当がつかない。顔を見ると非常に老人のように思うが、案外腕力や声は若々しく、また生活ぶりは普通のルンペンと択ぶところがないが、土窟住居には似合わしからぬ電灯だの時計だのを隠し持っていたり、教育のない口の利き方をするかと思うと、「君」といって急に「お前さん」と云い直したり、速水輪太郎から聞き覚えたというが、ルンペンには勿体ないほどの知識を備えていたりする。要するに「深夜の市長」という綽名(?)が、きっと深い素性をあらわしているのであろうが、これは誰がつけたものか。綽名の由来を教えてくれる者があったら、万事についてきっとハッキリした事情が分るのではあるまいか。そんなことを思いつづけているうちに、疲労が一時に発して、いつしか僕は深い睡りに陥ってしまった。
翌朝はいつになく寝過ぎてしまって、大狼狽を演じなければならなかった。丁度その日は、勤め先の方で見学すべき予定が与えられていて、時間どおりに出なければならなかったので、それで大騒ぎをしたわけだった。間に合わぬと知ったので、最後の手段として円タクを割増金つきで急がせることにより、ようやく時刻ぎりぎりに滑りこんで、セーフと相成った。勤めてから今日が八日目だというのに、早々こんなことでは前途が案じられてならない。
その日の勤めが終ったのが、丁度五時だった。いつもならもう一時間早く引上げられる筈だったが今日はあれもこれもと見学やら手伝いやらを仰せ付かってたいへん遅くなった。門から外へ飛びだすというと、本名の「浅間信十郎」なる人物はフッと世界から消えて、探偵作家「黄谷青二」に早変りしてしまうのであった。その途端に僕は、まるで色彩の異った別の世の中を見るのであった。それが何ともいえず楽しいことだった。
門を出て、バスの停留所の方へ四、五軒ほど「黄谷青二氏」が行ったかと思った頃、不意に後から、「浅間さん浅間さん」と呼び声がする。ふりかえって見ると、これが小倉服を着た僕らの部屋の小生意気な給仕であった。忌々しいながら、僕は直ちにもとの「浅間信十郎」に還元して何ごとかと聞くと、「麻雀をやろうと仰有っています」と云った。二、三日前、上役の耳に、僕が麻雀三段であるというのをつい耳に入れてしまった。そのとき失敗ったと思ったが、こう早くお相手を仰せつけられようとは思っていなかった。僕は「黄谷青二氏」の方には一足先へ帰って貰うことにし、浅間信十郎になり澄してお交際をした。もう一回、もう一回と負けた相手が挑戦するので、時間は頗る長引き、解散となったのが十一時だった。お蔭で朝のうちに考えておいたその夜の予定は、すっかり狂ってしまった。
実はその朝出かけるときに、「深夜の市長」から預ってきたボロ布包みを、勤め先まで持っていったものかどうしたものかと思い迷ったのであるが、結局持ってゆくには行っても、そんなボロ布包みを、年増女にしろ虎御前にしろ、気持よく盃をあげているだろうひとに手渡して頼むのは、人情としてどうも気が進まないので、夜帰ってきてから考え直そうと思ったのであった。しかるに唯今は、もう十一時をかなり廻ったから、帰ってまた銀座裏まで出直すのは億劫だし、そうかといって手ぶらでは行っても仕方がないしと、後悔しているところへ、丁度流して来てピタリと目の前に停った円のタクというのが、まるで辻占いのようにわが家の方角へ向いていた。それでは「家へ帰ろうか」というので、僕はそれに乗り、浅草のわが家へ向けて走らせた。
入口の締りを外して中へ入ったとき、僕はなにか異変のあるのを直感した。僕はどこか変質者らしいところがあると見えて、前々からときどき不思議によく当る直感作用をもっていた。たとえばポケットの底の時計をギュッと握って、その文字盤を瞼の裏に念視していると、やがて朦朧と文字盤が現われてくるのだった。そのときなおも精神を統一すると、その文字盤の上に、長短二つの指針がアリアリと浮んでくるのであった。ああ、今は何時何分だな──。そう思って、こんどはポケットから時計を出して見ると、正にその時刻が瞼の裏に見えたのと同じなのである。こんな程度の直感は、身体が一種特別な調子になっているときに、よく起ってきたのであった。──丁度いま、僕が暗い室内に入るやいなや、なにか異変のあったことを直感したのも、全く同じ作用であった。
その異変は何であるかというところまでは分っていなかった。まず最先に気になったのは、机の引出の中に抛りこんで置いた昨夜の事件の証拠物件と深夜の市長の手紙とが入っているボロ布包みだった。僕は急ぎ机のところへ駈けよって、引出の鍵穴にガチャリと鍵をさしこむと、開いてみた。
「ああ、これだッ。──」
僕の直感はたしかに的中した。たしかにこの引出の中に入れて置いた筈のそのボロ包みが紛失しているではないか。
「盗まれた!──誰が盗んでいったろう」
僕は慄然として、部屋の中を見まわした。しかし、部屋の様子には、その外に別に異変も見当らない。窓のところによって、内から掛けてある締りをいちいち調べて廻ったが、どこも皆ちゃんと掛っていた。ただ勝手元の床の上に、葉が黄色く枯れた水仙を差して置いた花筒が見えない。よく見ると、板の間に水をひっくりかえしたらしい痕があって、その蓋をひっくりかえしてみると、その辺二、三枚ばかり、裏の方へ水が廻ったまま濡れている。
「誰が花筒をひっくりかえしたのだろう?」
それは云うまでもなく、この部屋に忍びこんだ怪しい人間の仕業に違いなかった。
では、花筒はどこへ行った? 僕は躍気になって、部屋という部屋──というほど沢山あるわけでもないが──を駈け廻った。押入もいちいち明けて見た。そして結局何の得るところもなく元の書斎へ戻ってくるとこれはしたり、僕の机の上に、くれないの罌粟の花束が、探していた花筒に活けて載っているのを発見した。先刻にはどうしてこれを見逃がしていたろう。抜きだした内臓のように毒々しく真赤な花束が僕に挑戦しているかのように見えた。
確かに誰かが入って来た筈であるのに、何処から入ったか侵入口が見つからない。これほど癪に触ることはなかった。そして大切な物件は、あざやかに盗まれてしまったのである。僕は畳の上に胡座をかくと、全く途方に暮れてしまった。何本目かの莨を、火鉢の中に突きこんでいるときに、ようやく僕の決心は定まった。時間はもうたいへんに遅いけれど、ともかくもこれから銀座裏の十銭洋酒店ブレーキへ行って、それとなく様子を見て来ることにしよう。
それから二十分ほど後のこと、僕は銀座裏のブレーキの門口に立っていた。内部を窺うと、外はもう霜でも下りそうな暗さであるのに、中には煌々と電灯が輝き、酔っぱらいの高い歌声が、聞えてきた。僕は生れつきアルコールに親しめない性質であったから、今までにこうしたところへ入ったことがなかったので、すこし勝手が違ったが、勇気を奮い起して入口の扉を内部へ押して入った。しかるに誰も酒に気を取られてか、入っていった僕に気付いた様子がない。そこですこしばかり、気持が軽くなった。
僕は素早く、客の中に目指す相手の女を猟った。
居た居た。さまざまのレッテルの洋酒壜が、夥しく並んだ壜棚と背の高い花道のような卓子との間に挟まって、カクテル・グラスを、危そうに取り上げている肥り肉のちょっと人好きのする年増女が目にうつった。余程きこしめしていると見えて、頬は艶々と赭く、前額からは長い毛がだらりと垂れさがり、両眼はとろんとして、あまりいいざまではなかった。小さい歯の揃った口を盛んに現わしながら、傍へ引きつけたバーテンダーを口説いていたが、そのうち急に入口の方に目を据えると、オヤッという風な表情をした。そして直ぐ前に飲んでいる男客を無遠慮に双方へかきわけながら、半身を高い卓子の上に乗りだしたかと思うと、こっちの方をためつすがめつ見る様子である。とうとう新来の僕に見当をつけたらしかった。僕は身体が竦むように感じた。
「ああ、ちょいとちょいと。……」
酔っぱらいの年増女は、双腕を僕の方に伸ばしたまま、酒棚の前からフラフラ出てきた。
「ああ、やっぱりお前さんだったネ。妾はずいぶん待っていたのよ。……」
そういいながら女は僕の双肩に腕をかけて、プンプンするアルコールの蒸気を吹きかけた。僕は怺えながら、
「貴女は知っていますか、アノ深夜の……」
といいかけると、彼女は電気に引懸ったように全身をピリリと震わせ、
「叱ッ、……」
と叱って、酒くさい手で僕の唇に蓋をした。
「さあさあ、妾はお前さんに話があるんだ。オイ由公」といって、ここの主人らしい先刻のバーテンダーの方に振りかえり、手振りで合図しながら、「さっき頼んで置いた二階の部屋は明けてあるんだろうネ」
主人は酒壜を放りだして、慌てて飛んできた。そして、分っています分っていますという風に目顔で返事をしながら、横についている階段の方に女を引張っていった。
「母アちゃん。──」
途端に子供の声がして、どこに潜んでいたのか、小さい女の子が弾丸のように飛び出してきた。
「母アちゃん、何処にゆくのよオ。──」
そういって、女の袂に縋りついたその女の子は、年の頃四つぐらいでもあろうか、身体の小さい癖に、お河童にした頭のきわめてでかい児だった。顔の色は酒でも飲んだようにテラテラと上気して、飛びだしたような額の下には、蛤の貝を二つくっつけたような大きなグリグリ眼があった。そしてなんともいいあらわせないような不安な色を漂わせて、母親の顔を睨み上げた。
「ああ、絹坊。この間のように、捨ててゆきゃしないよ。……いい児だから、ホラあすこにいて、蜜柑かなんか貰って喰べてるといい」
絹坊と呼ばれた女の児は、一人前の妖婦かなどのように、唇を小憎らしくきゅっと曲げてニタニタと笑った。そしてクルリと踵をかえすと、鼠のようにチョロチョロと奥の方に馳けていった。例の花道のような背の高い卓子の蔭に極く狭い隙間があって、その隅っこに白い瀬戸製の痰壺が置いてあった。僕がハッとする間に、もうその女の子は痰壺の上にチョコンと無造作に腰を下し、板張りの壁に痩せた身体を凭せかけた。そしていかにも楽しそうに、薄汚れたエプロンの前で小さい両手をパチパチと叩きあわせた。彼女に呉れるといった蜜柑を待ちうけるらしく、あまりにもいじらしいその場の光景だった。
「なに見ているのよオ。──」
女は僕の腕をいやというほどつねった。女の顔を見ると、彼女は早く階段を上れと、眼で合図をした。言われるままに、僕は先へ立ってトコトコと窮屈な階段をのぼっていった。女はすぐ後を追っかけてきた。そして階段をのぼりきったところにある扉を開いて、自分の身体をもって僕をドーンと室内へつきとばした。僕は衣服の上から露わに女の全裸身を感じた。そこは一台の円い卓子と二脚の壊れかかった肘掛椅子とがあるっきりの、実にお粗末な小室だった。
「お前さんは、割合に尤もらしい顔をしているのネ、写真で見るよりは……」と、向い側に座った女は、莨の煙を吹き吹き、正面から僕のことを冷やかした。
「写真? 僕の写真を、何処で……」
「何処でって、忘れっぽいのネ。お前さんの部屋に飾ってあったじゃないの」
といって、女ははだけた胸の間から、ハガキ版の写真を摘み出した。
「ああ、……」
僕は驚いて立ち上った。それは机の前に立てて置いたものだったけれど、真逆こんな女が持ってきていようなどとは気がつかなかった。
「いいじゃないの」女は不貞腐れな態度を見せて、「この写真じゃ、随分いい男だと思って貰ってきたんだけれど、お前さん随分背が低いのネ」
「ああ、すると僕の家に侵入したのは、貴女だったんですネ」
「あら、まだ気がつかなかったの。呆れるわねえ。わざわざ花束まで机の上に捧げて来たのに。……」
「では、時計だの十銭玉だのを取ったのも。……」
「まあ察しが悪いのネ。一杯お酒でも飲むといいわ。いま取ってきてあげる。……」
と女はフラフラする身体を起そうとする。僕はそんな目に会いたくなかったので、女の腕を掴むと無理やりに椅子の上にまた腰を下させた。女は椅子の上にドスンと尻餅をつき、乱れた裾をかきあわせた。僕の両の掌には、蛇にでも触ったような妖しい触感だけが、いつまでもハッキリと残っていた。
「どうせ、貴女に渡して頼むように言いつかってきたものだからいいようなものの……。一体貴女はどこから僕の家へ忍びこんだのです。そしてまた何処から出ていったのです」
女は肩をすぼめるようにして、顔を曲げた。分りきったことを聞くものかなという風に……。
「……床下を潜って、お勝手の板の間を開けて入ったのさ。お隣りは空き家で、窓の締りが一つ外れるところがあるんですよ。内部へ入れば、畳のない床は、明けっ放しよ。用心はあまりいい方じゃないわネ」
僕は頭を鉄槌でガーンと擲られたような気がした。そんな不用心な抜け道があったのであるか。何もかもそれで分った。この女が、隣りの空き家から床下越しに忍びこみ、僕の家の勝手の板を下から押しあげたときに、そこに置いてあった花筒の水をひっくりかえしたというわけなんだろう。
「罌粟の花は?」
「ホホホホ」と女はちょっと羞らいを見せて、高らかに笑った。「一度入っただけでよかったものを、御苦労さまにもまたもう一度出入りして、あの花を買って来たのよオ。妾は男の人とみると、直ぐ岡惚れしちゃうのが悪い病でネ。尤もお前さんの場合は、写真に岡惚れしたってわけだけれど……」
蓮葉だった女は語るに連れて、それでもだんだん女らしさを取りかえしてくるようだった。
「じゃあ、もう僕は用事がないわけですね。貴女はあのボロ布に包んだものを、たしかに速水輪太郎氏に渡して下すったのでしょうネ」
「それは間違いなしだわ。……妾の方に用事はないけれど、あなたの方になにか話があるのじゃないかと思ってたのよ」
「飛んでもない、僕の方にどうして話なんか有るものですか」
と、僕は憤然として立ち上った。
このとき女は、憎らしいほど押し黙って、そっぽを向いていた。そのはだけた襟の間からは、膨れあがったような真白な肉の隆起が覗いていた。その上を匍いのぼると、白い氷山のような広い頸があって、見るのも羞かしいような細いくびれの筋がつき、その上に四、五本の後れ毛が搦みついていた。肉づきのいい丸い頤は、先のところでふっくらと二重頤になっていた。そして膚と襦袢との間から、懊しい年盛りの女の香気がムンムンと立ちのぼってくるような気がした。その妖艶な肢体を望んでいると、僕はなぜかこの女を犬のように心安く扱う「深夜の市長」のことが、嫉妬されてきて堪えかねた。──僕はまた破れ椅子の上にソッと腰を下した。
「あの『深夜の市長』というのは何者ですか」
「おやッ、用事はないといった癖に……」と、女はそら見ろといわんばかりに僕の方に妖艶な面を向け、「そんなことは、あのひとに直接に聴いてみることだわよ」
女はアッサリと、僕の質問をつき放した。
僕は赭くなりながら、弾かれたように椅子から起ち上った。
「僕は、あの殺人の現場で拾った懐中時計と十銭玉とが急に入用になったんです。貴女は僕の家からあれを盗んでいったといいましたね。ではたった今、あれを僕に返してください」
僕は卓子を叩いて、女の方に迫った。
女はその言葉には驚いたと見え、急に半身を起しながら僕の顔を見つめた。
「なんですって? 時計と十銭玉が要るというの? なぜそんなことを云いだすの、あんたは……。どっちも、もう此処に無いことはよく知っているじゃありませんか。それとも……」
といって女は口籠ったが、
「それともこの妾が、隠しているようにでも思っているの。あんたは知らないだろうけれども、『深夜の市長』さんにいいつかったことを一つでも間違えようものなら、あたし達は一夜だって無事に生きてゆけないのよ。変なことを云い出さないでヨ」
「じゃあ、たしかに速水輪太郎に渡したんだな」
「分ってるじゃないの」
「よオし。それなら僕はこれから速水輪太郎のところへゆくんだ。君はその男の居る場所を知っているだろう。さあ、そいつを教えて呉れ給え」
「おや、だいぶ威勢がよくなって来たのねエ」と、女は隙を見出してすかさず弥次ることを忘れなかった。「それで輪太郎さんのところへ行って、一体どうしようというのさ」
「それは分ってるじゃないか。僕はこの変な事件や、この妙な環境から、一分間でも早く逃出したくなったのだ。速水氏から、僕の拾った証拠物件を返して貰ったら、そいつを直ぐその筋へ差出して堂々と裁きをつけて貰うつもりだ。僕はすこしも怪しいところなんかありゃしないのだ」
「へん、どうですかねえ。自分だけよければそれでいいと云うんだろう。男らしくもない」
「君は僕に速水氏のところを教えないというんだな」
女はフフンと鼻で嗤って、意地悪そうに僕を見ていたが、
「誰も教えないとは云やしないわよ。……行きたけりゃ此処に書いてあるから、地図をよく見てゆくがいいわ」
そういうと女は、突然袖をたくしあげて、肉づきのいい真白な二の腕をヌッと、目の前につきだした。
「…………?」
僕は非常に面喰った。よく見ると、何時書いたものか、女の二の腕の裏側から腋の下へかけて、青いインキで詳しい地図が丹念に書きこんであった。
言うのも恥かしいことながら、僕は力強いもののために動かされかけた。しかしその刹那、僕は勤め先の首尾のことばかりが気になった。どうやら甘美な雰囲気に一歩を踏みこんだものの、その甘美な味が感ぜられれば感じられるほど、なんだか恐ろしくなってきた。僕は事件に深入りしないうちに上司へ具申して、身の潔白を立てようと思ったのであった。
そこで僕は、萎縮しきった浅間信十郎になりきって、虎御前の腕に書きつけられた地図を思い出しながら、通り懸った円タクを拾って、寝静まった丸の内街に向けて走らせた。
丸ビルの前で車を棄てた僕は、暫くは冷えきった建物の蔭に身をひそめていた。円タクはそこに下した僕を別段怪しむ様子もなく、スピードをあげて有楽町の方へ走り去った。目をあげて向うを見ると、月も星もない曇り空に、尾根のような駅の屋根が、高く黒々と浮きだしていた。遉に列車も発着を停止したらしく、いつもは眩しいばかりに照りつけている反射灯の光も消えて、塔上の丸い時計の文字盤だけが、ボンヤリと見えていた。指針は正に、午前二時を指していた。
僕はオーヴァの襟を立てると、丸ビルの蔭から離れて、なるべく跫音のしないように、郵船ビルの方へ歩きだした。どちらを見ても、まったく人影が見えなかった。ただときどき向うに見えるお濠ばたを、ツツーッと自動車のヘッド・ライトが夢のように流れてゆく。
丸ビルの裏角まで来ると、そこを左にとって折れた。そこには、ずっと狭い横丁が真直に通じていた。舗道もかなり冷えているらしく、立てまいとする跫音が、コツコツと高く、あたりのビルディングに反響した。深夜の散歩者は、いよいよ萎縮しきって、不安な歩行をつづけた。十字路へ出ようという途端に、突然カラカラという音がして、なにかフワフワした白いものが転がって来た。ハッとしてその場にピーンと棒立になったその前を丸まった新聞紙が小馬鹿にしたように、風に煽られて通りすぎた。しかしそれは誰かもうこの世にはいない元丸の内勤めのサラリーマンの迷える魂が、仮りに新聞紙に慂り移って、懐しい想い出多い深夜のビル街を散歩しているようでもあった。また一陣の風が、ヒューッと物悲しげな音をたて、舗道の上を吹いてきた。
湖水の底に沈んだ廃都のような暗黒のビル街を縫って尋ねてゆくうち、求める丸の内第十三号館というのが漸くにして見つかった。それは古めかしい三階建の煉瓦造だった。しかし闇の中に透してみると、かなり宏大な、まるで城廓のようにも見える建物だった。
その第十三号館の外れまでくると、酔っぱらいの年増女の腕に書いてあった地図のとおりに、隣りの建物との間に人間一人がやっと通れるくらいの実に狭い路地があった。
「此処だナ。──」
僕は決心すると、あたりに充分気を配りながら、徐ろに奥の方へ這入っていった。
「一イ、二ウ、三イ。……三つ目の窓だったな」
窓の下に空気抜けの四角な穴があった。そこには頑丈な鉄の格子が嵌っていたが、僕は跼むとそれに手をかけ横に引くと、年増女の腕にかきつけてあった文字どおりに、鉄格子がズルズルと十センチほど摺れて、あとにポッカリと穴が明いた。
僕は腹匍いになった。そして、右腕をソロソロと穴の中に差入れていった。この行動はすべて真暗の中で行われた。懐中電灯などを点すと、万一、誰かに見咎められるかもしれない虞れがあったからだ。腋の下まで充分に腕を差込んで置いて、それから僕は手探りに、左の方の壁を撫でまわした。それは漆喰で固めてあるらしく、滑々した表面を持っていたが、果然指先に、壁の面から飛びだした固いものを探りあてた。それは小さいスイッチであった。
金属の球のついたスイッチ・ヘッドを指先で摘んだ僕は、遉に烈しい動悸を感ぜずにはいられなかった。……ここで勇気を失ってはなんにもならない! 僕は思いきって、その丸いスイッチ・ヘッドをパチンと上に倒した。とたんに地下室の何処かでウウーンと低く電動機の起動する呻り声が聞えてきた。僕はそこで穴から腕を抜いた。そしてヨロヨロする脚を踏み締めて立ち上った。
鼻先にある第三番の窓硝子が、ググーッと音をたてて、静かに静かに上に明いてゆくのが、闇に慣れたわが眼に、それと映った。僕は頃合を見計らって、ちょっと後方に退ると、窓下の空気抜きに片足をかけるが早いか、やッと身を躍らせて雨垂れ落ちに飛びついた。そしてそのまま壁を蹴って、開かれた窓の中に滑り込んだ。そのときブラインドがバサリと顔を打ったのに驚いて、もすこしのことで悲鳴をあげるところだった。
家の中へ這入りこむと妙なもので、最前までの気持とはガラリと変り、いやに気が落着いて来た。度重なる夜々の冒険が、僕の心をひき緊めたのでもあろうか。それともいまだ経験したこともない盗賊のような振舞に、自ずと胆が据わってきたのでもあろうか。
窓にブラインドが下りたのを確かめた上、このとき始めて僕はポケットの中から小型の懐中電灯をとりだして、パッと灯りをつけた。小ぢんまりしたこの部屋には、壁を背にした書棚がいくつも並んで居り、ズラリと並んだ同じ型の事務机の上は言いあわしたようにキチンと整頓していた。僕はそんなものには再び見向こうともせず、前面に閉っている扉に近づくと把手に手をかけてグッと押した。扉には錠がかかっていなかった。僕はなんなくそこを室外へ抜けて、廊下に出た。
鍵がたに曲った廊下を、静かに歩いてゆくと、左側にポツンと硝子の嵌った扉がついていた。
「これだナ。──」
と思って、その扉の前へ立ち止った僕は、硝子を通して向うを覗いた。懐中電灯の灯りはよくは届かなかったけれど、扉の向うは広い庭になっていた。僕はひとり肯いて扉に手をかけた。それは難なく開いて、懐中電灯の光は、下の方に下りるように設けられている御影石の階段をサッと照した。これを下りてゆけばいいのだった。
内庭の芝地の上に下りたって、僕は奇異な感に打たれた。この庭の広々としたことはどうであろう。見渡したところ、面積は二百坪ほどもあった。土の香りがプンプンしていた。そこはモザイック風のきちんと整った花壇になっていて、花壇の中には春らしい色とりどりの花が咲いていて、いい香りが鼻を打った。また小さいながら、硝子ばりの温室なども立っていた。このような土の香高い庭園がアスファルトの舗装道路をめぐらしたあの宏壮な煉瓦建の建物の中に設けられて有ろうなどとは、外を行く誰人が気づいたことであろう。彼等はあの厳しい赤い煉瓦壁体の中には、古ぼけた事務室と部厚い壁と幅の広い階段と長い廊下のほかに、なにものも予想していないであろう。
僕は庭園の存在に驚歎するあまり、この庭園の中央に建つ風変りな建築物について述べることを忘れていた。風変りな建築物といったが、それはよく町中でみる鉄筋コンクリートの太い烟突を想像して貰えばいいと思うが、それと殆んど同じような感じのする高塔が、庭園の中央に高々と聳えていたのだった。ただ烟突と異るところは、この高塔には方々に窓がついていた。そして見上げると、遥か上の方の窓には、ポーッと薄明りがさしていた。──僕の訪ねてきたのは、とりもなおさず、あの高窓のうちに棲んでいる人物だったのである。あの明り窓の内部には、「深夜の市長」が城東で起った殺人事件の証拠物件を、彼の手紙とともに届けるようにと命じたところの不思議な科学者速水輪太郎が住んでいる筈だった。そして十銭洋酒店「ブレーキ」の悪酒に酔いしれた、妖艶な年増女の二の腕に書きつけて置いた奇怪なる案内図は、いま目の前に聳えたつこの高塔の所在を教えたものに外ならなかった。
僕はもう逡巡するところなく、塔の真下に見える入口へ突進した。扉は軽く押しただけで、ギイと内側へ開いた。
内部は十坪ほどの広さであった。中央部には傾斜の急な螺旋階段がグルグルと上に伸びていた。だから天井の真中が、丁度人間の通るだけの大きさに丸く切りぬいてあった。
階段の下に立って、冷い真鍮の欄干に手をかけながら、垂直に上を仰いでみると、途中は石炭を詰めたように真黒ぐろとしていた。ただ遥かに高いところに、ポーッと丸い輪廓をもった明りが見えるのがきっと速水輪太郎の居るフラットであろう。金属鈑の貼ってある階段を僕はコトンコトンと、一段一段昇っていった。
あたりの壁にチャ─ンチャーンと不気味な反響をたてながら、何階まで昇ったのかはしらないが、遂に僕は、薄明りのするフラットの穴をくぐって、最上の室に頭を出した。
「あ、──」
僕は予期していたものの、眼前に展けた雑然たる狭い部屋のうちに、後向きになったまま、黙々として妙な器械の中を覗いている人物を発見して、すくなからず驚いた。その人物こそ、尋ねる速水輪太郎氏に違いないのだ。
僕が階段を踏み鳴らしながら、その部屋のリノリウムの床の上にトンと足を載せたのにもかかわらず、かの速水氏は微動だにしなかった。真逆、器械に向って、立ちながら居睡りをしているわけでもあるまいに、どうしてこの侵入者の気配を感じて、後へふり向かないのか、僕には大層不審だった。
「今晩は、──」
そのまま黙って背後に立ち尽しているわけにもゆかないで、僕は部屋の主人公に、静かに声をかけた。
ところがその主人公は、ウンともスンとも返事を発しなかった。僕はそのまま暫く突立っていた。そのうちに主人公の用事が済むだろうと思って……。
だが、その予想はなかなか適中しなかった。主人公は依然として器械台に喰いついているように、一向離れる気配が見えなかった。──僕はすこし恐ろしくなってきた。なにかしら目に見えない妖しい糸が僕の全身をグルグルと締めつけているようで、頗る無気味だった。
「ええ、今晩は、──」
たまらなくなって、僕は前よりすこし大きい声で呶鳴るような調子で挨拶した。四囲の壁がワワーンと吠えた。
そのとき始めて、前屈みになっている主人公の肩さきがピリピリと震えたように思った。
「ああーッ。……」と奇妙に嗄れた声が、器械台の前から響いてきた。見たところまだ若いらしいのに、それはまるで七、八十の老人のような声だった。「ああーッ、どうですか、外の気温は……」
「ええッ……?」
僕はこの不意の奇問に面喰った。
「……つまりソノ、今夜は昨夜に比べて温いですか、寒いですかネ」
「さあ、それは……」
と僕が眼をパチクリして、答につまっていると、速水輪太郎氏はやおら腰を伸ばして、ツーンと立った。しかし見れば気の毒なくらい脊柱が曲り、早く云えば著しい猫背だった。そのとき五燭ぐらいの薄明りに、始めて彼の顔を正視したが、それはへちまのように長い顔だった。灯のせいもあるであろうが、顔色は黄疸ではないかと思われるほど真ッ黄色だった。鼻は細根の乾し蘿蔔を思わせるように、痩せて乾枯らびていた。下眼瞼はだらりと垂れて、刷毛で書いたように、幅の広い黒い隈ができていた。しかし小さい黒眼をもった両の眼球だけは、なんとなく炯々たる光を放っていた。
「……寒暖計だとか湿度計だとかいう器械で測るよりは、人間の感覚で推知する方が、本当の数値を云いあらわす……ことを御存知でしょうネ。つまりそれで僕は知りたいのですよ。昨夜と今夜との外気の温度の比較をネ。……」
「そうですねえ、今夜の方が昨夜よりすこしばかり寒いように思いますよ」
といった、途端に僕は昨夜の事件をまた新に思い出して、慄然とした。
「ああ、それで決りました」と速水輪太郎は大きなジェスチャアをしながら、「実はそいつが分らないと、二分十六秒ばかりの大きな誤差が出てきて、答を決めかねるのでした。いや、なるほど……」
こう書いてくると、いかにも速水氏は、僕の顔を睨みながら、得々として口を利いているように感ずるであろうけれども、本当のことを云えば、速水氏は僕が部屋に入ったときから、唯の一度も僕の顔を見ようとはしないのだった。いつもそっぽを向いて話しかけたり、感心したりするのだった。それはこの偏執な科学者の癖として仕方がないと我慢ができるが、さっきからだんだんと我慢のなりかねるのは、僕がこの速水輪太郎を訪問したその真の目的だった。それは昨夜、事件の現場で拾った懐中時計と三枚の十銭ニッケル貨幣とを返却して貰うことだった。このような調子だとすると、恐らくこの科学者は、例の虎御前が届けたであろうところのその物件について、手にふれるどころか考えようとさえしたことがないに違いない。
「もし、速水輪太郎さん。──」
と、ゴソゴソ狭い部屋の中を動物園の狼のように歩き廻る怪塔の主に呼びかけた。
「実は、あの──何というか『ブレーキ』に入り浸って酒びたりになっている女のひと……」
「ああ、それは丘田お照のことだ」と速水は早口にいった。
「丘田お照さんというのですか。……そのお照さんが、貴下にお届けした筈の懐中時計と十銭玉とを返して頂きに参ったのですが……」
「ああ、あれ? あれなら、もう用は済んだ。そこの机の上に載っているから持ってゆきたまえ」
と、速水氏はくびれたような長い頤の先で、書物の堆高く積まれた片隅にある机の方を差した。なるほど積まれた本と本との間の極く狭い空地に、ボロ帛を下に敷いて見覚えのある時計とニッケル貨幣とがチョンと載っていた。
「用が済んだと仰有ると、……何の手懸りもなかったのですか」
「そう、……ちょうどいい、浅間君」と、怪科学者は狎れ狎れしく僕の名前を呼び、「いまの君の答で、求むる結果は、うまく出たのだから、君一つ、『深夜の市長』に僕の書く手紙を持っていってくれないかネ」
それを聞いて、僕は口の裡で、「呀ッ──」と叫んだ。一つは唐突に僕の名前を呼ばれたのにも驚いた。が、それよりも大きな驚きは僕に尋ねた無意味だとしか思われない質問が、実は僕の例の事件を解くためにされたらしいことだった。その様子だとすると、僕がこの部屋に入ってくる前に、速水輪太郎は、あの二つの証拠物件からして、犯罪事件に関する解答を一生懸命計算していたのに違いない。
「もう、あの事件の謎は解けたのですか。それならどうか教えて下さい」
そういうと速水輪太郎は、腕を後に組んで往復運動を続けながら大きく肯いて、
「解答は至極簡単である。例の殺された男は、昨日の午後七時五十一分三十秒に、あの懐中時計を狂わせる原因を得ている。それが答だ」
「それが答?」
「そこのところを決めかねていた。極く僅かの計器の誤差だけれど、それを君の話によってチェックしないで計算すると、その時刻が午後七時四十九分十四秒と出るのだ。そいつは相当大きな誤差だ。君が来たので、丁度うまく補正ができた」といってその面上にかすかに悦びの色を浮べた。「いま手紙を書くから、待っていてくれ給え。──」
速水氏はチョコチョコと、机の前に走りよった。そして矢庭に、そこに積んであった書籍をドンドン床の上に落した。そしてその後に出来た空地の上へ、雑誌の頁を一枚ひき千切って、その上へ何かスラスラと認めた。
その暇に、僕は何気なく、先刻から速水氏が覗きこんでいた器械の前に立ち、そこに出ている接眼鏡らしいものの上に眼を持っていった。
──呀ッ、これは……。
と、僕はもう少しで大声をあげるところだった。そのレンズの底には、真昼のように明るい市街がアリアリとうつっていた。さっき円タクから下りたときに眺めたと同じく、T駅や、その前の広場やそれから丸ビルの方まで、実に明瞭にうつっているのだった。しかしそれは決して昼間の風景ではなかった。なぜなら、T駅の入口には、人間一人居なかったからである。といって、これはなにも写真や絵はがきのような固定した風景でもなかった。それはなぜかというのに、T駅の高塔の上の時計は今午前二時三十五分を指し、確かに正しい現在の時刻を現わしていたし、その上に、いま駅の前に一陣の突風が颯々と吹いているのであると見え、そこに植わっている鈴懸けの樹の小枝が風のまにまにユラユラと動いているのさえ認められた。そうして見ると、これは決して写真などではなく、たった今のT駅前の風景である。しかし不審なのは、いまは午前二時半を過ぎて、外面は真の闇に包まれている筈なのに、この複雑な覗き眼鏡のような器械でみると、まるで真昼のように明るく見えるのであった。
「ああ、浅間君、──」と速水氏が僕に声をかけた。
失策った──と思ってふりかえると、氏は書き終えたらしい手紙を四角な封筒に入れ、その端の糊を嘗め嘗め封をしているところだった。
「……覗くのは一向構わないが、そこらにある目盛盤や把手などに手を触れないように注意してくれたまえ」
「はア、分りました。どうも済みません」と、僕は謝って置いて、「ここにうつっているのは、何でしょうか。T駅前の広場には違いありませんが、夜間だか昼間だか分りませんねえ」
「もちろんそれは現在只今の光景がうつっているのだから、深夜の景色にちがいない。但しこの器械は暗視機といって、暗くても明るく見えるテレビジョン装置なのだ。これで見ていると、深夜とて真昼のように見えるのだ」
「ほう、──」と僕は驚倒するより外なかった。「で、貴下はこの器械でいつも何を覗いているのですか。なにかハッキリした目的でもあるですか」
「そんなことは応えるまでもないことじゃないか。そんなことはどうでもいい。早くこれを『深夜の市長』のところへ届けてくれたまえナ」
速水輪太郎は急に不機嫌を露骨に面にあらわして、僕の前に四角な封筒をさし出した。
這入るときよりは数等楽々と、丸の内の第十三号館の表に出た。
いま速水輪太郎からことづかった手紙を「深夜の市長」のところへ持ってゆくのが本来だったけれど、冷い風の吹く暗い往来へ出てみると、急に行くのが億劫になってきた。考えてみると、今日は一日勤め先でかなり運動のつく仕事をし頭脳の疲れる仕事をした。そのうえ麻雀を何回もやったし、深更に及んでは、お照という酔っぱらいの虎御前に引きずり廻され、それから只今のようなわけで城廓のような建物の中へ忍び入ったり、高い塔に攀じのぼって怪科学者と押問答をやったりして随分まめに動きまわった。どう考えてみたって、これで疲れなかったり、億劫がらなかったなら人間じゃない化物である。おまけに今夜はいつもの習慣によって夜の小睡眠もとっていない。こんなことでは今に身体を壊すにきまっている。今夜はこれ位にして、早々うちへ帰って睡るにしかずだと思った。だから「深夜の市長」への伝達は明日──といっても、本当はもう既に今日の領分に入っているが──にしようと決心した。それでまた元の丸ビル前まで出て、丁度そこへ流してきた円タクを呼びとめると、浅草まで五十銭でゆくように交渉して、その中へ乗りこんだ。深々としたクッションの中に身を埋めながら、窓越しに寝静まっているT駅を望んだ刹那、僕は忘れていたことを突然想い出して俄かに不安の念に駆られた。それはあの丸の内十三号館内の怪塔の上に仕かけられた暗視機の中を覗きこんでいる怪科学者速水輪太郎の黄色な顔のことであった。
このまま我が家へ帰れると思うと、僕は急に気がゆるみ、車上にトロトロと眠ってしまった。
「旦那、どの辺まで参りますか」
と、突然声をかけられて僕はハッと目覚めた。途端にクシーンと大きな嚏が一つ出た。
ハッキリしない眼をこすりながら、外を見てみると、なんのことだ。円タクは丁度都合のよい吉野町通りへ滑りこんだところだったので、あわてて大声をあげ、車を停めさせた。
外へ出た拍子に、また嚏が、たてつづけに二つも出た。三月の末だというのにいよいよこれは風邪をひいたかなと苦笑しながら、通りを左に曲った。懐しい──というほどでもないが、わが家はその先をもう一つ右へ曲ったところにあるのだった。
重い靴をゾロゾロ舗道の上に引きずりながら、わが家の前に帰って来たとき、僕は、
「オヤッ、──」
と叫んで、その場に歩みを止めた。それは隣りの空き家の中にチラリと灯が見えたように思ったからだった。空き家の中に明りがあるなんてこいつは怪しいと思い、もう一度よく見てやろうと、眼をこすりこすり頤をつきだして幾度も見直したが、こんどはすこしも灯らしいものが見えなかった。
「寝ぼけ眼のせいかしら?」
と、それでも怪訝に思いながら、我が家の締りを外して、中に入った。電灯をつけてみたが、留守中別に異状はあった様子もない。まず安心と思い、それから持ってかえった証拠物件を包んだボロ布包みを、本箱の書物の空きケースの中に押しこみ、また元のように書棚に入れて置いた。それがすむと、早々寝衣に着換えたが、なんだか妙に気になって仕方がない。そこで勝手元へ立って、揚げ板を暫く眺めているうちに、一つ妙案が浮んできた。そこでまた居間へ引返すと、そこにあったチャブ台を抱えて、勝手元の揚げ板の上に置いた。それからまた引返して、こんどは長火鉢をエンヤラヤッと抱えあげ、ウンウンいいながら、これもまた勝手元の揚げ板の上に置いた。その次には、薬罐をさげていって長火鉢の上にかけた。それから書斎の襖を開けて、そこに積みあげてあった重い原書や百科辞典や、それから「新青年」、「ぷろふいる」、「探偵文学」、「月刊探偵」などという古雑誌までを幾度も両手に抱えて、チャブ台の上にだんだん重ねていった。そして最後に、その積みあげた本の上に愛蔵のギターをソッと置いて、この土木工事は終った。こうして置けばもう大丈夫である。もしや隣家に何者かが忍び入り、床下をもぐってこの勝手元の揚げ板を下から押しあげようとしても、上には長火鉢や薬罐やチャブ台や古雑誌などが、ズッシリと載っていて、ちょっとやそっとでは持ち上らない。なおそれでも頑張って下からゴトゴト押しあげていると、上に載っているギターが徐々に傾いてやがて一大音響とともに板の間に転落する。そうするといかに寝坊の僕でも必ず眼を覚すにちがいがない。これで僕は今夜、枕を高うして睡られると悦んだ。
寝床へ入ってウトウトすると、夢心地に誰かシクシクと泣き声を立てているのが耳に入った。
「オヤッ、──」
と思って床を蹴って起きあがった。それからなおも聞き耳を立ててみたが、その後は一向に泣き声が聞えない。
「──どうも変な日だなア。ことによると、昨夜からあまり神経を使いすぎているので、急性神経衰弱症というのにでもなったのじゃあるまいか。……」
と思った。だが、もう、その後は泣き声が聞えないと分ると、また急にねむたくなってきた。こんなにねむくなるようでは、神経衰弱症も可笑しいぞと思いながら、再び寝床の中にずるずると潜りこんだ。そこまでは覚えているが、後はすこしも記憶がない。
どの位睡ったのか、自分にはよく分らなかったが、何かの物音に目を覚し、薄眼を開いてみると、眩しいばかりに朝日がさしていた。天気がいいにしても、あまりに明るすぎると思って、本格的に両眼を開いてみると、なんのことだ。閉めて置いたと思った窓の雨戸がすっかり明いていて、障子の上にはあかあかと朝日が照り栄えているのだった。
──これは不思議!
と、床の中でハッと顔色をかえた瞬間、障子の傍へ衣ずれの音も高く現われたのは若い女の立姿、──
いや、そのときくらい驚いたことはない。いつの間にやら自分の家の中に、若い女が入りこんでいたのである。昨夜はたしか各室──というほどのものでもないが、ちゃんと見廻り、人気のないのを見定めた上、床についたのだったが……。
「おや、もう目が覚めたの。もっと寝ていなくていいのウ」
ニヤニヤと笑いながら、こっちへ向いた女は、誰あろう虎御前こと丘田お照だったのには、二重に驚いた。
──やったな。──
と思って敷居越しに、勝手元を覗きこむと、揚げ板の上には、長火鉢だのチャブ台だの古雑誌だのギターまでが、物々しく積み重なっている。完全に昨夜のままの光景である。
するとこいつは妙な理窟になって来た。
締りのあるところからは絶対に入れない上に、勝手元の揚げ板の下からも絶対に入った形跡がないことになる。この入口のない家の中へ、お照は何処から潜りこんできたのだろう。こんな奇怪なことはなかった。奇怪だと思うと、明るく障子を照らしている太陽の光が、かえってたいへん恐ろしく感じられたのだった。うわッ、雨戸をもう一度たててくれ──と、叫びたいような気持に襲われた。
お照はこっちの恐怖にも一向気づかぬらしく、無遠慮に僕の寝床の方に寄ってきた。
「君はなんだってまた僕のところへやって来たのだ。うん、それより君は、何処から僕の家へ潜りこんだのだ。さあそれから云いたまえ……」
と睨めつけると、お照は酒の気のない黄色な顔をずっと前の方に寄せてきて、
「そうたびたび床の下などを、誰が潜るものですか。第一潜って来たって、あれじゃ入れないじゃないの……」と揚げ板のうえの一件を大形に指さし、「表の戸を開けて入ってきたのですよオーだ。なんですねえ、貴郎もだらしがない。昨夜帰って来て、戸締りもしないで……。きっとグデングデンに酔っぱらって帰ってきたのでしょう」
なんのことだ。表の懸け金を懸けることを忘れていたのか。あまりの疲労と睡さについ忘れてしまったのであろう。なんだ、それならばお照にかぎらず、誰でも表から入って来られたであろう。だがまだ変なことが残っていた。昨夜隣りの戸の隙間から見た灯影と、それからあとになって、不図耳に入った泣き声はどう解釈したならばいいのであろうか。
それをお照に尋ねてみると、彼女は大きな身体をぐっとくねらせ、隣家に接した壁の方を憎々しげに睨みつけて云った。
「いやに小生意気な女ですよ。……どうせ真ともな女じゃないわ。あんな夜更けに引越してくるなんて。つまり夜逃げをして来たわけなのよ」
そういってお照は、軽蔑の色を浮べ、隣家の方に向って二重頤をしゃくった。
引越し? するととにかく戸の隙間からチラチラした灯影も女の泣き声の正体も分ったというものだが、そんなに遅く引越して来た女とは一体何者であろうか。昨夜お照の話では、隣りは畳を剥いであったというのに、昨夜遅く越して来た隣家の女は、夜逃げをしてきたにしろ、一体何の上に睡ったことであろうか。僕はまだ見ないけれど、その女の身の上に、いたく同情を禁じ得なかった。
「……それで、あんたア」と、お照は急に生真面目な顔付になって、僕の身体を蒲団の上から突いた。
「あんたは昨夜、輪太さんから手紙かなんか預りゃしなかった」
──ああ、そんな用事かと、僕は安心した。「うん、預っていたとしたら、どうしようというのかネ」
「預ってきたのなら、どうして昨夜のうちに『深夜の市長』さんに渡さなかったの。あの方に頼まれて、そんなに統制を乱したのは、あんたが始めてだわ。いけないじゃありませんか。『深夜の市長』さん随分お待ちかねだったのよ」
「なんだ、そんなことか。僕は今夜、『市長』に渡すつもりだったが……」
「もっとも輪太さんともあろうものが、あんたのようなひとに頼んだのも、そりゃよくなかったんだけれど。しかしこれだけは『市長』さんの言伝ですから、ちゃんとあんたに通じて置くけれど、警察ではあんたのことをしきりに探しているそうだから、注意をしていろだってさア。……聞いているのあんた。ねえ、よくって、注意をしていろというのが分った?」
「……ほう、警察の手が、僕の上にねえ……」
僕はそれを聞いて、全身に水を浴せかけられたように思ったのである。こいつはいよいよ勤め先を縮尻るかな。
「ねえ、お照さん、僕は至急に『深夜の市長』さんに会いたいんだけれど、亀井戸のあすこのところに居なさるだろうかなア」
「ううん。……」
といって、お照は顳顬のあたりを指先でギュッと圧しながら、さっとかぶりを振った。
「じゃ、何処へゆけば逢える?」
「駄目駄目。昼間は駄目よ。どこにいらっしゃるか、誰も知っているものなんかないわ」
「なに、昼間は所在が知れないというのか」と僕は問いかえした。「一体あの『深夜の市長』という人は、どんな素性の人なのかい」
「まあ、──昨夜も妾に、そんなことを聞いたじゃないの。答は同じことよ。そんなに知りたければ自分でもって尋ねてみるといいわ」
「話して呉れるかネ」
「話しちゃ呉れないわ」
女は、妙に震えた声で、まるで歌でも歌うように、それを云った。
寝床の中から、一向に可笑しくない掛合咄をしているうちに、思わず時間が過ぎた。僕は驚いて、お照に部屋から一時退いて貰うと、寝床からピョンと起き上った。それから大急ぎで洗面をして、洋服に着かえた。そして帽子をつかんで、玄関に飛び出そうとすると、
「ああ、あんたは御飯を食べてゆかないの」
と、お照は僕を呼びとめた。
振りかえって見ると、いつの間にか僕の万年床が奇麗に片づいていて、畳の上がひろびろとしていた。僕はなぜかこのとき、昨夜十銭洋酒店「ブレーキ」で見かけた何とかいった女の子のことを思いだした。あの児は、このお照の生んだ子供なのであろうが、年齢のせいとはいえこの莫迦に世帯じみた女の気持を発見して、恐らくアルコールの気のないときは、この女はいかにも善良であり、あの育ち損ったような女の子も、さぞかしこの母親から愛撫せられていることであろうと、不図そんなことを思った。……
「もう時間が遅いので、食べている隙がないんだ。それに……米も、それから味噌も生憎切らしているのでねえ」
女は、そうかそうかという風に、わざと剽軽な面を作って肯いた。
「それから、今夜はきっとあの人にあの報告を渡す。……こいつは表の鍵だ。あとで閉めて、預っといておくれ。『ブレーキ』でまた逢おうぜ。……」
そう云い捨てて、僕は外に飛びだした。なんだか、急に朗かになったような気持だった。僕はうしろをふりかえってみた。すると、隣りの家の格子窓から、凄い引き眉毛をした、やっと肩あげの取れたばかりのような若い女が巻煙草を口に銜えて、こっちを見ていた。そしてパッタリ僕と視線を合わすと、彼女はピシャリと障子を締めてしまった。一体彼女は何者だろう? まるで鼠のように、チョロチョロ出たり引込んだりする。一方お照の方を見ると、彼女は玄関の上り鼻に太い身体を丸く曲げてこっちを見守っていたが、ニッと笑ってから、片方の手をあたりに憚るようにソッと振って見せた。
狭い路地を抜けて、灰色の空の下にある大通りまで出ると、僕はもう、家に残して来た年増女お照のことも、昨夜隣家に越して来た凄い引き眉毛の洋装少女のことも、共にすっかり忘れてしまわねばならなかった。なぜなら、時計は午前九時を十五分ほども廻り、役所の出勤門限はもう間近かに迫っていた。残り少い時間のうちに、どんな手段によって出勤簿の前に到着するかということが、目下の一大問題だったのである。
「円タク来い、円タク来い。それも36年型の素晴らしいやつよ、来い来い。車体の胴中に天馬のような羽根が生えているやつなら、五円ぐらい投げだしてもいいぞ」
ところが意地悪く出来あがっているもので、いつもの朝とはこと違い、いくら待っても円タクの姿が一台も現われて来ない。苛々しているうちに、時計は馬鹿正直にまた五分ほど廻った。
「旦那、安くゆきましょう」
不意に横丁から、一台の円タクが飛びだして来た。円タクはいいが、ボロボロの生き残り車だ。誰が乗るものか。と……思ったものの、ほかのを待てば、いつになったら現われるか分ったものではない。仕方がない。これが今日の運勢なんだろう。諦めが肝賢だ。
「おいオジサン、この車でも走るかい」
「走るかいとは腹が立つね。走り方が気に入らなかったら銭はいりませんや」
「よし、それでは僕を乗せて、ちょっと走ってみてくれ、お銭はその上で決めるよ。……ほら、向うへ走るんだ」
驚いたことに、そのボロ車の走ることったら無かった。車は一大音響をあげて上下左右へ跳ねあがり、僕は座席に座っているのか、それとも空間に宙ぶらりんになっているのか、いずれとも判じかねた。遂に僕は胆を潰して叫んだ。
「もっと遅くともいいぞ。……霞ヶ関まで、一両でやってくれ」
「一両は要らねえ。四貫で沢山だ。しかしよく覚えて置いて下せえよ。円タクは古いほど、よく走るもんだてえことを……」
車のお蔭で、僕は奇跡的に役所の門に着くことができた。運転手に一両渡したが、かのオジサンは六十銭を僕に返して、浩然と反りかえった。
「あっし等の仲間には、慾張りや不正直な奴なんか一人もないのでさあ。だが年甲斐もなく素っ飛ばしたことについちゃ今夜、お目玉を頂戴するかもしれねえが……」
僕はその言葉をちょっと聞き咎めた。
「お目玉を貰うって、誰からかね」
「ははア、お前さんがたの知ったことじゃないよ」
「ふン、……」僕は云おうか云うまいかと逡巡しながらも遂に云った。「こっちから教えてやろうか。それは『深夜の市長』のことだろう」
「ええッ。……」
五十ぢかいその運転手は、見るも気の毒なくらい愕き慌てて把手を力一杯に廻すと、車体をグルッと廻して大通りの方へ逃げだした。
深夜の市長!
実に奇怪な存在だ。家屋票もついていないような穴蔵に棲み、何か事件が起ると直ぐ注進して来る者があり、そうかと思えば、速水のような風変りの街の科学者を駆使し、色っぽいお照のような女に崇められ、そして僕のようなものを救うという不思議な人物、そしてまた今、運転手から尊敬の言葉を聞き、彼等の仲間がかなり善良に統制されていることを知った。「深夜の市長」とは、そうした風に顔の広いため奉られた単純なる綽名なのであろうか、それとも何かもっと大きな実力を持っていて深夜のT市に於て、何か陰謀でもめぐらしている怪人物なのであろうか。もしそうなれば、職権上そのまま看過しがたいところである。
折角速い車を駆って定刻にうまく滑りこみながらも、花道で飛んだ思い入れ沢山の芝居を演じたため、ハッと気がついて出勤簿の前に駈けつけたときには、ほんの今すこし前、庶務の給仕が集めて持っていったところだと聞かされた。顔が売れていればそうでもないのだろうが、新参者の悲しさで仕方がない。僕はまたハアハア息を切りながら、暗い長廊下を駆けだして、大きな出勤簿を抱えてゆくチンピラ給仕の後を一生懸命に追わねばならなかった。
そしらぬ顔をして、部屋に入ると、一緒に入った新米連中が一人一人呼びだされて、主任からその日の仕事を与えられているところだった。その日の僕の仕事は、終日、和紙を綴じた部厚い書類を読破することであった。僕はガランと広い部屋の片隅に席をとって、書類綴の表紙を開いた。すっかり春らしくなり、和やかな日ざしがポカポカと背中に当って、睡眠不足の僕を意地悪く盛んに挑発する。頁を繰ってゆくうちに、毛筆で書いてある可也大きい字がボーッと融け崩れ始めて、僕はあまりの睡さにとうとう怺えられなくなった。……
急に大きな音がして、重い扉が閉ったので、僕はハッと気がついた。手の平で素早く口のあたりを拭うと、自分が睡っていないことを衆人に知らせるためにわざと大袈裟に書類の頁をめくろうとした刹那、顔から火の出るような思いをした。書類のまン真中に、硝子珠を載せたように、大きな涎の玉ができていたのである。あまりに恥かしくて、途端に睡気がスーッと本当に抜けてしまった。
「どうも市会と市長との仲にも困ったもんだネ」
と、僕の背後で太い銅間声をあげたのは、次席検事の雁金浩三氏だった。
「全くですよ。市議の方も、今度は足並が揃っていませんがあれでどうしようというのですかねえ」
と相槌を打ったのは、主任書記の鴨志田番一氏だった。
「しかし僕は市会と市長との対立に、只ならぬ殺気を感ずるよ。これが昔の御前試合の立合ででもあったら、横から出ていって立合を中止させたいところだ。手に真剣を持っていなくて、木刀だけの覘い合いでも、その場で人命に係るような試合もあるからネ。……そうだ、君のクラスメートかなんかが、市長の傍で働いているとかいったが、あれは誰だったい」
「助役をしていますが、中谷銃二です」
「注意したがいいなア。……」
と、ぼんやりした意味の言葉を云い捨てて、雁金次席検事は沈黙した。新聞紙の他の面を展げるらしい紙音が続いて僕の背後で起った。
秘密にして置いた僕の勤め先も、どうやらこの辺で尻が割れそうになったから、もう観念して、いっそのことハッキリぶちまけて置くが、実は僕すなわち浅間新十郎のことは、十日ほど前の官報を見て下さればよく分るが、司法官試補という役柄に採用されたのだった。その試補というのは、検事とか判事とかの卵みたいなものであって、これから試補として修業を積んだ後、検事になるか判事になるかどっちかに方向を定め、それから定期的に行われる試験を受ける順序になっていた。その試験に及第すれば、そこで始めて一人前の司法官になれるわけだった。僕は、「黄谷青二」なるペンネームで探偵小説を書いていたため、それで司法官を志願したというわけではなく、ただ何となく、あの高い台の上に並んで、思う存分、事件を裁いてみたいと思ったからである。僕がこの畑に入った理由は、云うのも恥かしいことながら、嘘にも本当にもそのようなフラフラした考えだけだった。
さてその日の勤めも、居睡りと涎の玉を拵えたぐらいのことで、まず大した失策もなくて勤め終った。退庁時刻が来ると、僕は帽子とコートを掴むが早いか、脱兎のようにといいたいぐらい素早く門外に走りでた。まごまごしていると、また昨日のように呼び戻されて麻雀のお相手をさせられる虞れがあった。なにしろ今夜はできるだけ早く「深夜の市長」に会って、速水輪太郎から預っている手紙を渡さねばならなかった。その上先夜の事件以来、どうも現場に居合わせた自分の身が不安でならないので、その安全策について、神のような洞察力を持った「深夜の市長」に教えを乞う必要が感ぜられたからのことだった。
「深夜の市長」の姿を見るには、夜の幕が完全に下りた後でないと絶対に駄目であるというのがお照の話だった。僕は銀座近くのビルディングの高い場所にあるレストランで、夕食後の飲物を幾度となく追加注文しながら日の暮れるのを待った。厚い鼠色の曇り空を通して、遅々たる陽あしを感じてはひとり苛々した。
やがてのこと、俯観しているT市のあっちにもこっちにも桃色のネオン・サインがだんだん浮きあがって来た。そしてその間を待望の夜の闇が、静かに薄墨色の翼を拡げていった。夜だ、夜だ。遂にまた夜のT市が巡って来たのだった。僕は卓子の前から、ずいぶん長い尻を上げた。
僕はなんとなく脱獄囚のような素振りになるのを自分でも苦笑しながら、密かに夜の城東の一廓に紛れこんだ。幸いに尾行者もない様子で、ホッと胸をなでおろしながら「深夜の市長」の住む土窟の方に急いだ。
土窟の方へ曲る角のところには、紡績工場の高い塀が聳えている。そこを何気なく折れ曲って、そこで前方を見た僕はハッと胸を衝かれたように感じた。これは何ごとであろうか、土窟の方から、今しも大時代な提灯の灯が三つ四つ、暗闇の中にブラリブラリと揺れながら、こっちへやってくるところであった。
「ハテナ?」
僕は驚いた。顔でも見られては大変と、飛鳥のように身を躍らせて反対側の軒下に身を潜め、一行をやり過しつつそれとなく様子を窺った。それは実に立派な服装をした人達だった。どうやら一行の大将は、二人目にいた襟に河獺の毛皮をつけたシュウシュウ鳴る立派なインバネスを着た大兵肥満の人物らしかった。前後に続く人物、これまた相当のなりをした人物で、和服が多かった。まず警官や刑事でないのは、自分にとって何よりのことだった。
一行の遠去かるのを待って、僕は入れ代りに土窟の方へ入っていった。
「深夜の市長さん。──」と呼ぶと、奥から声があって、
「おう、──おお、先達の若いのだな。……早くこっちへ入れ」
僕は逡巡することなく、勝手を知った土窟の中にゴソゴソと匍いこんだ。奥では市長がニコニコ笑っている。僕はまず気になることを最先に訊いた。
「いま出ていった提灯の連中は何者ですか。立派な風体をしていたが、真逆ここまで入ってきたわけじゃないでしょうね」
「うふン。──」と、老人は例の癖で拇指と人差指とで小鼻を先の方へツーンとつまみながら「いや儂のところへやって来たんだよ。──どうだ、こんな汚いところに住むのをやめないか。年寄の身体には持ってこいの、その上便利この上もないというアパートがあるから、そっちへ引越をせんか、もし引越しをするなら、室代を無料にした上、三食を只で賄うようにしてやるから、行く気はないか──などと大層なことをぬかしやがった」
「ああ、それは願ってもない幸いじゃないですか。失礼だが年齢を考えると、行って厄介になった方がいいですよ」
「莫迦を云え、お前も思いの外とんちきだな。誰が行ってやるものかい」
と、老人は意気軒昂として叫んだ。
「一体あれは何者です」
「何とか委員というのだろうが、あの達磨のように肥っていた奴が、有名な市会議員の動坂三郎という人物だ」
「えッ、動坂三郎……」僕は少からず驚いた。動坂三郎といえば、いまは市会議長の後釜に擬せられている人物で、その実力は測るべからざるものとされている。ただ商売が、さる大遊廓の持ち主であるため、実力は十分にありながら寧ろ市政の表面にはあまり出たがらなかったのであるが、近年どう悟ったものか、従来の消極主義を捨てて積極主義に転向し、しかもかなり目にあまるほどの振舞いが見えてきた。またそれだけに彼の門を叩きその幕下に馳せ参ずる者も増加し、その方面では凄い信望があるという人物だった。そのような人物がこの汚い土窟をわざわざ覗きに来るなんて、全く意味がわからない。
「市議の大立物たる動坂三郎が訊ねてくるなんて、変ですね」
「なに変でもないよ。こっちは『深夜の市長』さんだから、市議が来ても大して不思議じゃないじゃないか。うわッはッはッ」
「貴方は深夜の市長! そうでしたネ。あッはッはッ」
「……変に儂の機嫌をとったりしやがって、ほんとに彼奴はイヤな野郎だよ。はッはッはッ」
土窟の中は、時ならぬ哄声のために、ワンワンと反響した。深夜の市長は笑い疲れたものか土窟の中にゴロリと横になった。
僕はこのとき、街の科学者と呼ばれる速水輪太郎から預ってきた手紙を取りだして、老人に手渡した。
「ほう……」といって深夜の市長は身を起した。「なんだお前が持ってきたのか。道理で手間取ると思ったよ」
軽く叱言をいいながら、老人は至極機嫌よく、天井に隠した電灯をつけながら、その下で封を切って読みだした。
「……なるほど、流石は輪太郎だ。これなら間違いなしの答だ。三月二十九日午後七時五十一分三十秒に、あの時計を狂わせる原因を得ているというのだな。よオし、それでは早速出かけるとしよう」
「出かけるって、どこへ行くんですか。その前に、どうして街の科学者が、そんな答を出したのですか、僕に説明して下さい」
「どうして答が出たなんてことを、今喋っている隙はない。そんなことは輪太郎から聞いたらいいだろう。それよりも例の事件を早く解決しなければならないのだ。そうだ、恰度いい。お前さんも一緒に来て、手伝ってくれないか」
「えッ、それではこれから出掛けて、二十九日の夜の殺人事件の謎を解こうというのですか」僕は深夜の市長の毅然たる面を見上げていった。「それならこっちからお願いします。連れてって下さい」
「うん、そうして貰いたい。その代り駄賃として、途中で面白い話を聞かせてやる。一昨夜油倉庫の火事があったことを知っているだろう。あの火事も一と通りの火事とは訳が違うという話だ。どうだこれなら面白いだろう」
「ああ、あの夜の火事が曰くつきなんですか。……」
「そうともそうとも、新聞には出ていないが、あの火事場に半焼けになった人間の片腕が転がっていたのだ」
「ほう、片腕が、……ですか」
「うん。ところがその片腕を拾おうとすると、なんのことだ何処に行ったか、影も形も見えなくなっていたというんだ」
「焼け棒杭かなんかが、人間の片腕に見えたのでしょうか」
「そういう解釈もあるねえ、何しろ油倉庫にいた人達の中には行方不明者なんか一人も居らないし、それに……それに附近にいたルンペンどもの頭数もちゃんと揃っていた。だから眼の誤りだという解釈もあるが、しかし見た男は、確かにそこに片腕が転がっていたと保証するのだ。それが本当なら、変な話じゃないか。……さあ、その後は歩きながら話すとしてお前さん一足先に外へ出てくれ」
そういって「深夜の市長」は、土窟の天井の明りをパッと消した。
それから「深夜の市長」と僕との奇妙な道行が始まった。彼は三月二十九日夜の殺人事件を解くのだと称していたが、なにをするのかと思っていると、大通りへ出るなり、そこに通りかかった空のトラックの方を向いて手をあげた。するとトラックは、驚くべき素直さをもって、大急ぎでブレーキをかけ僕たちをすこし通りすぎたところで停車したのだった。
「亀沢町まで頼むよ」
と「深夜の市長」が何か変な手真似をしながら声をかけると、運転手は黙って肯くのであった。だが僕は、その運転手が敬虔な眼眸をもって「深夜の市長」に対するのを見遁がしはしなかった。──僕等はトラックの後へ攀じのぼった。
向きを変えたトラックが亀沢町へ入りこむと、老人は合図をして車を停めさせた。
「廻り路をさせて済まなかったな」
老人の挨拶は若々しかった。運転手は何か云いたげに唇をモゴモゴ動かしたが、遂に一言も発しなかった。ただ前と同じような敬虔な眼眸で老人を見送るばかりだった。
「深夜の市長」は、そこに佇立して走りゆくトラックを眺めている僕を促して、ドンドン明るい街の方へ引張っていった。
「いよいよやって来たぞ」と老人は僕のオーヴァを抑えた。
「ええッ。……」
「さあ、向うの角に見えるのが、明治昼夜銀行の亀沢支店だ。そこへ行って、支店長を呼んで貰ってなるべく小さな声で──ちょっと用事が出来ましたから、恐縮ですがお願いいたします……と丁寧に云うんだよ。それから一つ、これを頸にかけていってくれ。……」
といって「深夜の市長」は、僕の頸に、なにか頸飾りのようなものを懸けてくれた。驚いて手で触ってみると、それは細い黒い紐で、ただ胸に当るところになにか鍵のようなものが下っていた。よくよく見ると、それは美しい翡翠で、風変りにも太短い鍵の形を彫ってあった。どうやらそれは何かの信号を先方へ伝えるものらしく思われた。
僕は半信半疑で、昼夜銀行の扉を押した。
銀行の中はまだ宵のうちのせいか、だいぶん混み合っていた。どこに支店長がいるのかと、僕は帳簿が沢山並んだ間に点在する銀行員を見廻した。すると室の中央に突立っていた年配の人物が、こっちを向くや否や、手招きをしながら、ツカツカと高い応接台のところへ出て来た。僕は彼が支店長だなと悟った。
「……ちょっと用事ができまして、お願いしたいというんですが……」
と、面羞い言葉を支店長の耳に囁くと、
「畏りました。只今参りますとお伝えを……」
支店長は僕の胸に揺めいている翡翠の鍵に向って慇懃に挨拶をした。あまりうまく事が搬ぶので、僕はむしろ呆気にとられた程だった。
外へ出てみると「深夜の市長」は最前の位置で、じッと待っていた。
「まことにお待たせを……」
と、裏口から出てきたらしい支店長を見ると「深夜の市長」はニコニコしながら二、三歩近づき、
「早速ですが、二十九日の午後七時五十一分頃に、貴方のお店から新しい十銭白銅貨を沢山受取っていった男がなかったでしょうかね」
「はッ。十銭白銅を沢山に……二十九日の午後七時五十一分でございますか。はアて、当行に於きましては左様なお客様がお見えになりませんでした」
「そうかネ。いや、どうもお忙しいのに済みませんでした」
ぶっきら棒な挨拶をし終ると、「深夜の市長」はすぐさま僕のオーヴァを引張って、また歩きだすように信号した。
それは実に妙な光景だった。りゅうとした支店長と汚い服装をした「深夜の市長」とが相対して、変な問答をするところは、まるで芝居の舞台を見るような気がした。それにしても、例の飾り気ない調子でぶっきら棒な物の言い方をするのを横から聞いていると、この老人にはどことなく冒しがたい威厳が備っているようであった。「深夜の市長」の綽名はその辺から来たのかもしれないが、とにかく怪しみても余りある人物だと云わなければならない。僕は「市長」の素性に、ますます深い興味を覚えた。
それから老人は、またトラックを呼びとめて、今度は大川を渡って、小伝馬町の支店へ馳らせた。そしてまた僕に、同じような使いをさせた。須田町支店、上野支店、金杉支店という順序に、同じような順礼が続いたが、どこでも同じ質問を発し、そして同じような答を受取った。しかし老人は一向失望する様子もなく、昼夜銀行の順礼を続けるのであった。二十九日の午後七時五十一分に、沢山の十銭白銅貨を受取っていった男……を一体何処でうまく探しあてることができるのであろうか。
僕がすこし疲れを催して来た様子を見たのか、「深夜の市長」は自らすすんで、一昨夜、横川町四丁目の油倉庫に起った火事について語りだした。
「……いいかネ。火事場に転がっていた片腕というのは、右の腕だったよ。二人ばかり見た奴があったが、どっちの云うこともピッタリ合っていたから信用してもいい。その右腕は倉庫の水道口のところに転がっていて、明るい余燼の火を浴びているのが見えたのだが、そこはやはりプスプス燃えている焼け跡の中だから、踏みこんでいっては取れない。何か棒切れはないかというので、二人が一寸場を外して探しにいった後で、どうなったのか見えなくなってしまったのだ。うまく取出せば、これはまた面白いことになったがまことに残念だ。しかしその片腕については、もう一つ、面白い話がある。その手の指が四本しかなかったのだ。欠けているのは拇指だった。この指だ。……」
といって「深夜の市長」は自分の拇指を目の前へ出して、ピクピク動かせて見せたのち、それを鼻へ持っていって例の癖をスーッと鮮かにやってのけた。
「……拇指のない右腕が、あの火事場に転がっていた。そしていつの間にか見えなくなった。しかも焼け死んだ人間の心当りはないというのだから、面白い話じゃないか」
「それは、また下に落ちて燃えだしたか、それとも別の人が持っていったか、どっちかでしょうね」
と、僕は次第に興奮を感じながら口を挟んだ。
「そうだ。そのどっちかだろう。ところが現場をいくら探しても、右腕の骨は見当らなかった。尤も他の骨も見当らなかったのだ。だからもともと腕だけが投げこんであったものか、それとも身体全体があって腕だけ焼け残っていたのか分らないが、とにかく油倉庫の火事のことだ。うまく真中のところで焼けると、人骨なんか粉々になって、形を止めないだろう。それはこの頃の火葬場のように、重油を使って焼いた屍体を見るがいい。実によく焼けているからねえ。あれをもっと火力を強くすることは訳はないのだ。そのとき人骨は粉々になってしまうだろうと想像するのは、これは容易なことだろうじゃないか、ねえ君」
「はア……。そうですねえ」
「いや思わず演説しちまった。儂は昔、雄弁大会というのを聞いたことがあったのでねえ。はッはッはッ」
「深夜の市長」は笑ったが、その笑いは妙な含羞の響きを持っていた。僕の方はすこしも笑うことができなかった。その理由は、誰にも分ってくれるだろう。……
遂に「深夜の市長」がその夜の順礼に凱歌をあげたのは、出発地とは途方もない見当外れの、T市の反対側に位するところの明治昼夜銀行目黒支店だったのである。──頭髪を短かく刈りこみ、色眼鏡をかけた目黒支店長は、屋台寿司の出てくる薄暗い横丁で大袈裟に驚きの様子を現わしながら、ハッキリ応えた。
「……よく存じて居りますよ。なにしろその時、実にうまく行ったのでございます。二十九日のたしか午後七時五十一分ごろ、もう店を仕舞うちょっと前のことでございますナ、お客様がお見えになりまして、手前の店払渡しの小切手九十九円八十銭というのを払出していらっしゃいましたが、九円八十銭だけはニッケル貨で、それも新しいのを呉れと仰有いました。ところがそれより十分ほど前に、別のお客様が見えまして、紙幣の外に新しいニッケル貨を八円ばかり交ぜて預けていらっしゃったのがありました。その前のお客さまは、新しいニッケルをバラのままお出しになり、それからわざわざ手前の店に備えつけの貨幣を包みます紙がございますが、それを御請求になってご自分でお包みになって、預けていらっしゃったのでございます。それが四本の棒包みになりましたが、後のお客様にその四本で八円の外に、別にバラでございました一円八十銭を添えまして差上げましてございます」
「それは面白いなア」と「深夜の市長」は盛んに例の小鼻を引張る癖をくりかえしくりかえし発揮しながら、「つまり、四本の二円棒包みに、バラで一円八十銭のニッケル貨幣を持っていったんですね。どうです。その人はどんな風体をしていましたか」
──背広服で、背は高い方、年齢は三十になるかならずか、色浅黒く、苦が味走った無髭、無眼鏡の逞しい男……と、支店長は一つ一つ思いだしながら答えた。
「何か手に特徴がなかったかネ。──」
そう云った「深夜の市長」の声は、気のせいか少し上ずって聞えた。
「ああ、手です手です。そうです忘れて居りました。手と仰有ったので思い出しましたが、そのお客様はニッケル貨幣の棒包みを手帛の中に丸めてお収いになりましたがどこか様子が変なので、注意して見ていますと、お客様は左手ばかりを使って手帛の端を結んでいらっしゃるのです。実に器用なものでしたなア。……いえ、まだ話が厶います。それから右手の方はどうなすったのかと、それとなく見ていますと、まあどうでしょうか、右手に拇指がないのです。つまり右手は拇指なしの四本指なんで……」
「ウむ……」と老人は呻った。横から聞いていた僕は「深夜の市長」が先刻話した拇指のない人間のことを想い出してハッとした。
「……それでナニかね……」深夜の市長は乗りだしながら、
「そのお客様は、右手の四本指を見せまいと気にしていたようだったかナ」
「いえ、そんな気配はありません。恥かしいともなんとも思っちゃいないようなようでした」
「大ぴらで四本指を見せていたんだと……ハテナ。それからもう一つ訊きたいことは、始めの方のお客様が棒包みを作る前に、そのニッケル貨幣はバラバラだったかね。それとも……」
「さあ、それはハッキリ覚えていませんが、こうっと……。そうです。なんでもそのお客様は小型の鞄をもっていらっしゃいまして、それを台の蔭でお開きになり、それからニッケルを取出されましたが、応接台の上に二十枚ずつキチンと積みあげたものを私どもの目の前にお並べになりました。つまりバラバラなところは見なかったように思いますが……」
「ああ、それでよく分った。どうも支店長さん、いろいろ済みませんでした。後は小切手の番号から振出人と裏書に書いた四本指の男の名前、それからその十分前にニッケルを預けていった男のことなどが伺いたいんだが、また何れ後からもう一度来ますから、それまでに調べて置いて下さいな。いや、どうも済みませんでしたね」
そういって「深夜の市長」は、何遍も丁寧に頭を下げた。そして僕を促して、そこを立ち去ったのである。
「どうもお前さんにも、散々苦労をかけたが、これで用事は一と先ず済んだよ。だが苦労しただけあって、今夜の話はお前さんにも面白かったろう。ことに四本指の手のことなんかはネ」
僕は「深夜の市長」と、目黒の通りを肩を並べて歩みながら、さっきから聞いてみたいと思ったことを遂に口に出した。
「驚きましたネ、貴方は。まるで名探偵のようじゃないですか。真逆、名探偵の化けたのじゃないでしょうね」
「はッはッ。変なことを云いっこなしだ」
「しかし貴方はどうして二十九日の夜の事件や、銀行を訪ねてまわって今の話のようなことを知りたがるのですか」
「知りたがるのは、儂の道楽なのじゃ。説明しろといったって、それ以上説明ができるものかね。だが、あの横丁の殺人事件、油倉庫出火事件、それにいまの銀行の話と、都合三つの真相さえ分ればお前さんも警察に追っ駆けられたりする心配がなくなるじゃないか」
「僕自身のことも、大変有難いですが、こうして考えてくると、今の三つの話はどうやらお互いに関係がありそうですね」
「そうかも知れないよ。どれ、腹が減ったが、その辺で、ワンタン屋の屋台でも見つけようじゃないか。権之助坂を下れば、どこかに店が出ているぜ。ほう、ひどく冷えてきやがった。……」
「深夜の市長」は寒そうに、鼻を無暗にこすった。
丁度そのときのことだった。一台の空円タクが擦れ違いそうになったが、急にブレーキをかけて、ハタと僕等の側に止った。
「もし……」と運転手は老人の方に声をかけた。
「……」老人は臆する気色もなく、顔をその円タクの方に向けた。
「もうお聞き及びでござんしたら、お許しを蒙ります。先刻よりたいへんお探し申しているようでござります。お帰りならこの車がお供いたしとうござんす。いかがで……」
「ほう、探しているって」と「深夜の市長」はニヤニヤ笑いながら車に近づき、「何処だ、川の向うか」
「詳しいことは存じませぬが、手前は川の向うで言伝りましてござんす。……どうぞお乗りを」
「なにか事件が出来たらしいな。では乗せて貰おう。……どうだネ、お前さんも一緒に乗らんかな」と「深夜の市長」は僕の方をふりかえった。
「……いえ、僕はこの辺で失礼させて頂きます」
実をいうと、その頃僕は「深夜の市長」疲れをしていた。最初は唯のルンペン親爺だと思って気軽に交際っていたが、その後、彼の後についてゆくと、あちらからもこちらからも大時代めいた丁寧な言葉で挨拶される。そういうところを見ていると僕はなんだか急に肩の凝りを覚えて来たのだった。
「深夜の市長」に聞きたいことは沢山あったが、精神的欝血が、僕を彼から引離した。僕は帽子をとって挨拶をした。
「では、ご機嫌よう。……」
運転手の横に腰を下していた老人はニヤニヤと笑って、また一つ小鼻をツーンと前へ引張った。
目黒の薄暗い鉄橋の上で、僕は暫く夜気を湯あみした。
「ああーッ。……」
腕をウーンと上の方へ伸ばし、強い深呼吸をくりかえした。なんだか急に、背中から自由の翼が生え伸びたような気がした。僕にはどうも人から圧迫を感ずると、直ぐに耐え切れなくなる。身勝手かもしれないが、持って生れた性分だから、どうにも仕方がない。独りがいい。独りで気儘に動いているのが一番いい。
薄ら寒い早春の夜気が、鉄橋の下のレールの上から吹き上ってきて、ひしひしと背中に浸みだした。僕はオーヴァの襟を立てて頸を包み、それから忘れていた煙草をポケットから一本抜きだして口に銜えた。火を点けようと燐寸を探すと生憎どのポケットにも入っていない。そうなると、余計に煙草が喫みたくて、絶え切れなくなった。この辺で燐寸を得るには、駅の前に行き、そこの売店へ一銭銅貨を献じるより外に手がない。僕は舌打をして、忌々しい一歩を踏みだそうとしたとき、
「モシ、……」
と、小さい声が僕を呼びとめた。それはすこし震えを帯びた優しい女性の声だった。
「えッ。……」
と、僕は驚いて、声のする方を振りかえった。すると、そこには背のスラリと高い立派な毛皮の外套を着た素晴らしい美少女が立っていて、青白い顔の下半分を、革手袋を嵌めた手で隠しながら、オズオズとした眼つきで僕の方を見つめているのだった。
「ああ、僕のことですか。……」
「……燐寸をお使い遊ばせな」
と、彼女は鶯みたいな声を出してそういうと、つと右手をのばして、革手袋の中の四角な燐寸箱を僕の前に見せた。
「ああ、これは済みません。……」
僕は燐寸を貸してくれる少女の気持を計りかねながら、その燐寸箱をうけとった。そのとき、彼女の毛皮の外套の合わせ目のところから、プーンと香りのいい化粧料の匂いが流れてきた。僕は思わずその襟の合わせ目を覗きこんだが、温かそうな毛皮の奥に、クリームのような真白な肌がすこしばかり見えて、その下に緑色のドレスがふっくらした襞績目をつくって、下に悩ましい曲線を隠していることを囁いていた。
──僕のいつも引張りこまれる渦巻はこれだ!
僕は両眼をピタリと閉じて、頭を振った。
「どうも有難うございました、お嬢さん」
そういって僕は燐寸を少女に返した。
「いいえ、……お役に立つことがあったら、何なりといたしますわ。ホホホホ」
──え?
と訝る折しも、何を思ったか洋装の少女はつと僕に近づいて、腕を捉えた。そして僕の耳許に早口で囁いた。
「え、お願いですわ。暫くあたくしのいう言葉に辻褄を合わしていて下さいませネ。あたくし、生死の境に立っているんですもの……」
不意に掛けられた怪しい歎願の言葉が終るか終らないうち、背後でガチャガチャと、警官の佩剣が鳴った。
「うむ。……」
僕は呻った。背筋を氷のように冷たいものがサッと流れ過ぎた。──少女はこのとき、僕の腕を強く引張り、身体をダンサーのようにくねらせて見せ、
「ねえ、りゅうちゃん、帰りましょうよ。今から廻ると、とても遅くなってよ。あたし、またお父様に叱られるわ。お前が附いていながら、なぜ引張って帰らなかったといって……」
警官は歩調をゆっくり落しながら、まじまじ僕たちを見守った。
「ねえ、りゅうちゃん、たら……」
「ハナ子ッ。そこ離せ!」思わず妙なことを呶鳴ってしまったので、僕はプーッとふきだした。「……しょうがねえ。じゃ今夜はお前の説に服従して、素直に帰るとしよう。……」
「それがいいわ。これで、あたし、お父様に顔が立ちますわ」
警官は行き過ぎながら、なおもこっちを振りかえって見ている。
「……じゃ、歩くのは面倒だ。円タクを奢ろう。オイ、円タク……。幽霊坂のところまで、三貫で行け」
通りすがりの円タクが「旦那、三貫じゃあ」というのを抑えるようにして、
「いつも三貫に決めてあるんだ。ものの、五分間もかからないじゃないか。何だい、あまり慾張るない」
じゃ、行きましょう──と、円タクの助手は扉をあけてくれた。僕はまず少女に先に乗れと合図し、彼女がステップに足をかけたとき、後からお尻を押してやった。そして自分も車内に飛びこんだ。──警官は棒のように突立って見送っていた。
車内では、僕も少女も、まるで黙っていた。僕は少女の身体から発する恥かしいような、香気に噎せびながらこの思いがけない連れを、これからどう取扱ったものかと思案をめぐらせた。
幽霊坂の下で、僕たちは車をかえした。二人は人通りのない真暗な道路の上に残された。闇の中に少女は吐く息さえ停めて、ジッとしていた。
「お嬢さん、もうこの辺でお別れいたしますか」
「ええ、ありがとうございました。お蔭で助かりましたわ。……貴方のお家、こんな淋しいところなんですの」
「いえ、飛んでもない。僕の家は、まるで方向違いですよ。もっとも昔この辺に下宿していたことがありましたのでね、咄嗟に思いついてこんなところへ車を命じたのです」
「まあ、そうなの。……どこかこの辺にホテルか何かございませんでしょうか」
「えッ、ホテルですか?」僕は、ハテナやっぱりそうかナと思った。
「……あたし、いま困っていますのよ。助けていただきたいの。簡単に取引させていただきたいのですけれど……」
「ああッ、分りました。……」
僕はそれ以上に少女が云いだそうとする言葉を恐れた。これは一面に於て、素晴らしい幸運が転がってきたとも云える。しかしそれを幸運として受取ったものかどうか。とにかく僕は少女の腕を執って、歩きだした。苺園ホテルというのが、この坂を登って向うへ下ったところにある筈だったから。
ホテルでは万事心得て迎えてくれた。そして二階の奥まった洋室へ案内してくれた。そこには窓に二重のカーテンが掛って居り、下には幅の広いダブルベッドが置いてあった。
少女はまず帽子を脱いだ。その下から、引き眉毛の、思いの外大人っぽい顔が現われた。十六、七歳かと思ったら、どうやら二十歳を二つ三つ越しているらしく、疲れている色はあったが、頸のあたりなどは脂ぎって円々していた。──女は続いて、立派な毛皮の外套の釦を外そうとした。僕はそれを見ると、慌てて停めた。
「アラ、あたし困るわ。心変りなすっては……」
「いえ、心変りなんかしませんよ。お役に立つつもりでいます」
「まあ、……あたし実は今夜が始めてなのですのよ。あまりお窘めならないでネ。……」
そういって女は、またもや外套の釦に手をかけた。
「まあ、待った……」
女の当惑そうな顔を見ながら、僕はポケットから蟇口を取出した。そしてそこに小さく折りたたんであった五円紙幣を摘み出すと、彼女の小さい掌の中に握らせた。
「取っておいて下さい。取引はそれで済みました。……」
「これでは、取引ではありません。」
「いいえ、取引になっています。僕は真夜中に、こんな素晴らしい天使を拾ったのですからねえ。だが今夜始めてだという話ですが、貴女のような立派な風采をした方が、どうしてこんな商売を始めたんです。それを聞かして下さると、僕の方はお銭をさしあげるだけの材料を得たことになります」
「……あたしは性格破産者なのです。兄の家にいましたが、兄は馬鹿正直なくらい昔風な一徹な性質で、新しい生活様式に憧れる妹とは何ごとにつけても合うはずがありません。だからあたくしが兄の家を飛びだしたのは当り前でした」といって女は俄かに昂奮の色を示し、「……始めは自分の腕で、立派に独立してゆけるつもりでした。少くとも最初のうちはあたくしの思ったとおりでした。あたしは外国人の商館で、タイピストになって働きました。家出をしたことを知ったお友達──女友達も男友達も──みな万歳を云ってくれましたの。あたくしはたいへんな人気者だったのです。その素晴らしい人気が、あたくしをウンと幸福の雲の峰へ担ぎあげてくれると信じていたのです。しかしそれは大変な思い違いでした。あたくしは全く反対の夢を見ていたのです。兄と喧嘩をして出たあたくしですが、貞操のことについては、伝統といえるでしょうが堅い観念をもっていたあたくしでした。それがいけなかったのです。男のお友達にも、それから女のお友達にも、だんだん軽蔑されてきました。そして遂にあたくしは分らず屋で異端者のように嘲笑されて来たのです。あたくしはとうとう職業まで失ってしまいました。別の職業につこうとしましたが、如何にも給料が安いので、昔、商館にいて貰っていた給料が、或る約束をも籠めてある法外なものだとは、やっと後になって気がついたのです。そういう豪奢な生活に慣れ切ってしまった妾ですもの、一ヶ月働いて三十円や四十円の給料を得る安い職業なんかに、どうして就けるものですか。だがどうかして食べるだけのお金を得なければならない。そうかといってこの高価な毛皮の外套に別れることなんか、どうして出来ましょう。この外套は現在あたくし自身を価値づけている最大の恩人なんです。蒸暑い夏が来たって、あたくしはこの毛皮の外套を脱ぎはしないでしょう」
女はそういって、肩をふるわせて泣きじゃくった。
「兄さんのところへ帰ったらどうです。兄さんはきっといい人ですよ」と僕はソッと言葉を揷んだ。
「兄ですって?」女は涙に濡らした凄艶な顔を起して叫んだ。
「兄がどうしてあたくしを迎えてくれるものですか。それが出来るくらいなら、あたくしは……あたくしは……なにも淫売女になんか成り下ることはなかったのです」
女はもう前後を忘れて、激しい嗚咽と共に、ダブルベッドの上に獅噛みついた。僕はつい誘われて悲嘆する女を抱きしめたい衝動に駆られてくるのを、努めて払いながら、
「……じゃ僕にお委せなさい。僕が兄さんに会って、よく相談してみましょう。きっとうまくやりますよ。ね、ハナ子さん……でしたかネ」
僕が不用意に放った失言が、女にとって時の氏神のユーモアであったのだろうか、彼女は泣くのをピタリと停めた。
「あたくしの名はマスミでございます」
「ああ、マスミさん。たいへんいいお名前ですね。ところで、兄さんのお名前と住所とを教えて下さい」
マスミはやっと泣くのをやめて、こっちへ顔を向けた。
「貴方、ほんとうにそうして下さる。あたくし心からお願いするわ。兄の名は、四ツ木鶴吉というのです。住所はどこへ越していったのか、もう分らないのですけど、兄が勤めているところが分っていますから、そこへ行って尋ねて下さいな」
「勤め先というと……?」
「兄は動坂三郎という市会議員のところで働いているのです。ずいぶん古くから、動坂さんのために粉骨砕身して仕えています。……」
「ナニ動坂三郎?」
「アラ、動坂さんを御存知なんですの」
「知っているというほどではありませんがネ……」
といったが、このとき僕はいまT市会に断然勢力を有する議長候補の動坂三郎の名が、図らずも、怪しいホテルに同室する闇の女の口から出たので驚いた。そして今宵「深夜の市長」の土窟の近くで見た達磨のようにでっぷり肥ったその立派な風采を思い出した。
マスミに固い約束をして、僕等は苺園ホテルを出た。時刻はいつしか十時を廻っていた。
「じゃ、貴女のお家まで送ってゆきましょう。いまどこに宿を持っているんですか」
「あら、送って下さるの」マスミは莞爾笑いながら「でも遠いのよ。ずっと下町の方ですわ」
「下町ですって。下町、結構です。僕も下町の方へ帰るんですから……」
「浅草なんですのよ。あたし恥かしいけれど」
「なアに、浅草はいいところです。僕も浅草に住んでいるのですからネ」
「まあ、不思議ですことネ。これも何かの御縁と思いますわ」
「そうかも知れませんね」
大通りへ出ると僕は円タクを呼び止めた。浅草まで一円でいってくれというと、運転手と助手は、マスミの方をジロジロ見ながら、──旦那、そんなことを云わないで、もう二十銭はずんで下さいな──といった。
「じゃそれと決めて……その代り目黒を通るのをよして、エビスの方へ抜けて呉れ」
僕は鉄橋の上の警官のことを思い出しながらいった。
円タクは深夜の町を、矢のように駛った。
僕はマスミの背後から腕をまわしたものかどうかと迷いながら、ソワソワしていると、そのうちにマスミの身体の重味が、胸のあたりにだんだんと掛ってきた。おや変だなと思っているうちに、彼女の頭がガクンと揺れて、僕の頤の下にもぐって来た。クウクウと、鳩のような寝息が、香りの高いカールをした女の頭髪の下から聞えてきた。僕は翼の折れたモダン娘をソッと抱きよせて、口のうちにシューベルトの子守歌うたった。
やがて車は、賑やかな電灯に輝く雷門の附近まで来たので、僕は惜しい気持がしたけれど、マスミの肩をつついて起した。
「雷門へ来たよ、マスミちゃん。……これからどっちへゆけばいいのかね」
僕は兄貴になったような口を利いた。
「あーら……」と彼女は口のところへ、革手袋を嵌めた手を持っていったが、急に気づいて、僕の身体を押しのけた。
「もう雷門! そこで左へ曲るんですわ。あたしの家、吉野町なんですわ」
「へえ、吉野町かい。……」
吉野町なら、僕の家も同じ吉野町だ。僕はなんだか恐くなってきた。
「この辺でいいわ。……」
車を降りた彼女は、ドンドン先に立って、僕の家の方へ行った。すこし呆れながらついてゆくと、マスミはとうとう僕の家の路地へスタスタと入っていった。
「ここがあたくしの家なんです。どうも遠方まで送っていただいてすみませんでしたわネ。では、分りましたら、どうか知らせに来て下さいましネ」
そういって彼女は、僕の家の隣家の戸を開いた。そしてスーッと中に入ると、鮮やかな投げキッスを僕に送るなり、雨戸をピシャリと閉めた。
「……なんのことだ。あれが隣家へ越して来た女だったのか……」
偶然か、それとも故意か! こんな偶然て、あり得るだろうか。僕は説明することの出来ないような困惑に囚われた。そして隣家に住むマスミに気取られぬよう、跫音を忍んで、その隣りの、わが家の雨戸の前に立ったのである。
すると、このとき家の中でボソボソ囁き交わす人の声を聞き咎めた。
「オヤ、……」
僕は二重の驚きをもって、雨戸から後へ飛びのくと、そこに掛っている表札を読んだ。
──浅間新十郎──
ああ、やはり我が家に違いない。──それでは何者か忍びこんでいるのだろう。
僕は再び雨戸に近づいて、聞き耳を立ててみた。
「どうも遅いのネ。まあ困っちゃうわねえ。……」
そういう声音には聞き覚えがあった。虎御前こと丘田お照の、虎になっていない心配そうな声だった。
「浅間氏が早く帰って来てくれぬと、このりん太郎とて、手の下しようがないですな」
りん太郎? すると街の科学者速水輪太郎がわざわざ訪ねて来ているのか。なにか一大事が起りでもしたような口ぶりである。
つづいてお照のヒステリックな声がした。
「……『深夜の市長』さんに万一のことがあったら、あたしゃ、浅間の奴の咽喉笛を喰い切ってやるわ」
「いや『深夜の市長』の行方がこのまま分らないそのときは浅間氏の始末については君の手なんか借りないです。私が彼氏を霊振機に掛けて、彼氏の生命はなくなるとも、彼氏が『深夜の市長』について知っていることだけは、絞りだしてごらんに入れるです」
「深夜の市長」の失踪? 悪魔のように呪われている僕!
これは一体どうしたことだろう。
僕は決心して、ガラリと戸を明けた。座敷の中からは期せずして同時に「呀ッ!」という叫び声が聞えた。
「まあ浅間さん、遅いのネ。どこをほつき歩いていたのさ」
と、お照は僕を小僧かなんかのように叱りつけた。
「君は黙って居給え。僕が話をする約束だったじゃないか」
後から立ってきた速水輪太郎が、お照の身体を押えるようにして引留めた。お照はそれは邪慳に払いのけて、猟犬のように飛び出そうとする。それを輪太郎が「これお照さん。──」とウンと引張ったので、彼女はやっと気がついたという風に温和しくなり、僕のために通り路を開けたのだった。
「一体どうしたんです。いま外で聞いたが、『深夜の市長』が居なくなったとか、何かと云うのは……」
僕はオーヴァの襟を立てたままで、丸火鉢の前に座ると、気になることを尋ねた。
「おお、もうそれを聞かれたんですか。いや、前代未聞のことで、僕たち一同心配しているんです。実はこういうわけなんです。……」と、街の科学者速水輪太郎は、黄色い面を僕の方に近づけ、昨夜とはまるで変った慇懃な言葉で事件の内容を語った。それによると、今夜「深夜の市長」から、午後八時ころ、彼の穴居の近くへ電話で知らせがあった。──今帰途についたから、八時半までにはそっちへ帰れるだろう──と。実はその夜、或る人物が「深夜の市長」を訪ねてきて急に会いたいといった。それで彼を探しているところへこの電話が来たので、それでは間もなく帰ってくることと待っていた。しかるに、もう三十分すれば帰るといった「深夜の市長」が八時半は愚か十時になっても十時半になっても帰って来ないのである。彼は嘗て時間や約束を無断で破ったことがなかった。ことに彼を訪ねてきたその人物が待っているのを知っている筈だから、それがこんなに遅いというのは途中に於て何か間違いがあったに相違ないと一同が騒ぎだしたというのである。
「二時間ぐらいしか余計に経っていないのじゃないですか……何です。仰々しく騒ぐなんて……」
すると声の下に、憤激したお照が、また河獺のように僕に飛びついてきた。速水はそれを押えるのにまた骨を折らねばならなかった。その後ですこし厳かな面を僕の方に向け、
「貴方にとっては『深夜の市長』は何でもないでしょうが、しかし『深夜の市長』の呼吸の下に生きている人間がこのT市だけで十万人もあるのです。その十万人は殆んど全部、夜のT市に棲息しているといってよろしい人種です。彼等にとっては、白昼のT市は、自分とはまるで関係のない世界なのです。夜のT市こそ自分等の本当の世界だと思っています。つまり彼等のT市に市長がいなくなったも同然です。その心配するのも無理ないです」
そういって速水輪太郎は僕を窘めた。
「そんなものかなア……」
「貴方なんぞに分らないも無理はないと思いますがねえ」と速水は薄気味わるい笑みを浮べた。速水が笑うのを見たのはこの時が始めてだったが、それはあまりにも無気味なもので、見ないに越したことはない種類のものだった。「で……、結局僕は一同の依頼をうけて、貴方のお帰りを待っていたのです。貴方は今夜『深夜の市長』と一緒に出掛けられた筈です。一体何時頃、何処で『深夜の市長』と別れたのですか」
「それは……目黒駅の前ですよ。時刻は午後八時十分ぐらい前だったと思いますよ。円タクの運転手が声をかけて、『川の向うでお探し申していました』なんていっていたが……」
と、僕は知っている通りのことを話した。
「ははア、午後八時十分前目黒駅前ですか。すると遅くも八時半までには帰って来られる筈だ。さあそれが分れば一同に知らせた上、その道筋を調べにゆきましょう。貴方もぜひ一緒に行って下さい」
もちろん僕は同意した。
時刻はもう十二時に間がなかった。お照も一緒に行くといったが、速水は捜索に邪魔になるからと留め、その代り一同にこの話を伝えるようにと命じた。彼女は速水の言葉の前には傍の見る眼も可笑しいほどの温和しさをもって聞き入れるのだった。それから僕の方をキッと睨んで、
「浅間さん、隠し立てをしたり、その筋へ密告したりすると、そのときはこのあたしが只じゃ置かないからネ」
といった。これが今朝、出勤のとき、子供のような無邪気な恰好でもって僕を送りだしてくれたお照と同じ人だろうかと訝った。しかしそれも「深夜の市長」の失踪からこんなに態度が変ったのだと思えば、そんなにまで彼女に慕われている彼の「市長」に淡い嫉妬を感じないではいられなかった。
僕は速水輪太郎と一緒に、シーンとした屋外に飛びだした。そして通りで、空の円タクを停めて、目黒へ走らせた。輪太郎は要心深くも、まずその車を、一旦「深夜の市長」の穴居のある亀井戸の街へ廻らせ、それから順路を追って目黒へ行くよう命ずることを忘れなかったのには感心した。
輪太郎は深く車外に注意を払っていた。そのために、円タクに、もうすこしスピードを落すようにと命令した。しかしそうなると、僕はこれから先の長い退屈な行程を考えて急に憂欝を感じた。そこで前から輪太郎に聞きたいと思っていたことのあるのを思い出して、無遠慮に質問の矢を放った。
「速水さん、あの人はねエ」と殊更「深夜の市長」というのを隠し、「今夜、例の目黒の昼夜銀行に午後七時五十一分に現われ、沢山のニッケル十銭銅貨を受取っていった人を探すために市内のありとあらゆる支店を廻って歩いたのですよ」
「そんなことが有るかもしれんですね」
「あの時刻は、結局貴方が算出した時刻でしたネ。何秒とかいう端たはついていたが……」
「そうです。例の事件の現場で、君が拾って来た時計から算出したんだから、間違いっこなしです」
と、科学者だけに、算出値の信用できることを力説した。
「それはいいとして、どうして貴方はあのようなハッキリした時刻を、遅れている時計の面から算出したんですか。僕は手品のように思うが……」
すると速水は怒ったような顔付で僕の方を振りむいたが、
「ナニ手品?……冗談いっちゃいけません。この速水輪太郎のやることに手品はありません。徹頭徹尾、森羅万象の間に横たわっている真理に基いてやっているので、すこしも胡魔化しはないですぞ。あの問題の時間算出なんか、小学生にだって出来ます」
「そうですかね、……」と、僕は殊更疑わしそうな語調で合槌を打った。
「そうですかって、君。あの時計は午後十一時四十分を指していたが、本当の時刻は午前二時二十分だったのだ。この間、時計は二時間四十分遅れている。ところであの時計をよく調べてみると、見かけはなるほど動いているが、内部に故障がある。それは振子が強い磁力を帯びていることだ。そのために、振子は附近の歯車や何かにいつも強く吸引されているため振子の運動が思うようにゆかない。つまり運動がたいへんのろくなっている。それがために、あんなに時計の指針が遅くなるのだ。分りますかネ」
「ほほう、あれもやっぱり磁力のせいですか」と僕はことの意外に愕いた。ニッケル銅貨も磁力で喰っついているというし、懐中時計の振子も磁力を帯びていて、近所にある鋼鉄でつくった歯車や何かに吸引されて、運動が遅くなるのだという。なにから何まで磁力とは、まるで歌舞伎十八番の「毛抜」みたいなことになったものである。
「……次に僕はあの時計が、どの位遅れるかを測ってみた。すると一時間につき三十五分六だけ遅れることが分ったのです。指針は殆んど半分のスピードで廻っているわけです」
「ははん、そうですかな」僕は本当に感心した、科学者なんて、豪いところへ眼をつけるものだ。
「毎時間三十五分六だけ遅れることは分れば、後は簡単です。あの時計が遅れだしてから、何時間になるか、これを勘定すればいいのです。つまり毎時それだけずつ遅れていて『深夜の市長』が見たときには二時間四十分遅れていたのだから、これを三十五分六で割ればよろしい。これは小学生でも出来る算術で、恰度四時間三十分前と出て来ます。つまりあの狂った時計が指す午後十一時四十分の四時間前ですから、それは午後七時五十分と出て来るではありませんか」
「なるほど、午後七時五十分ですかナ」
「その数字に、僕の使った測定器の誤差と、気温の変化とを考慮に入れて補正すると、一分三十秒だけ加えて、結局午後七時五十一分三十秒となる!」
「へえ──すると、その時刻にどうしたというのです」
「なんですって」と速水は意外そうに僕の顔を見て叫んだ。
「なんだといって、その出て来た時刻、午後七時五十一分三十秒から、あの時計は急に遅れ始めたんです。急に遅れ始めるについては、正にあの時刻に、時計の上に何か強い磁力が働き、そしてあのとおり振子などを強く磁化してしまったのです。それだからあの時刻が大事なのです」
「なアるほど……」と、遉の僕も呻るより外、感心の仕様がなかった。算術なんて、釣銭を出すときだけに必要なものかと思ったら、これはまた見掛けによらずずいぶん恐ろしい魔術だと思った。「……それでその七時五十一分に、あの時計を急に遅らし始めた原因というのはそもそも何なのでしょう?」とついウッカリ云ったものの、僕は途端にあああれじゃないかと膝を打った。そして自分のウッカリしていたことが恥かしくて、真紅になった。──「深夜の市長」が僕を伴につれて、市内の明治昼夜銀行支店を軒なみに訪問して、尋ねていたあの言葉じゃないか。
──二十九日の午後七時五十一分頃に貴方のお店から、新しい十銭白銅貨を沢山受取っていった男がなかったでしょうかネ。──と。
すると、その金を受取った時刻が算出されたことになる。その金を受取った人間が、多分刺し殺されたのだろう。なぜなら彼はその狂える時計を持っていた上に、十銭ニッケルさえ持っていた。そいつは強い磁力を持っていた。ではそのニッケル貨幣が、時計を狂わせることになったのではないだろうか? しかしそのニッケル貨幣はなぜそんなに強い磁力を持っていたのだろうか。そして彼はまた何故に刺し殺されなければならなかったのだろうか?
続いて思いだしたことは、目黒支店で、例の金を受取っていった男の右手の指が四本しかなかったことだ。しかもこの四本指の手首は、あの夜、刺殺現場から程遠からぬ油倉庫の火事場に落ちているのを見た者があると、「深夜の市長」は話をしている。果してそれが本当で、四本指の手が同一人物のものだったら、これは一体どういうことになるのだろう。失踪したと断定されている「深夜の市長」は、どうした訳で姿を隠したのだろうか。彼こそこの不思議な事件の持つ秘密を僕等よりもはるかに詳しく知っているのであろうが、失踪したとすると、聞く術もないのが残念だった。でも、この夜の「深夜の市長」の失踪も、実はあの四本指の男の刺殺事件と密接な関係があったことを後で知って、驚倒したが、その夜はそこまで見透す力がなかった。
僕等の円タクは速水輪太郎の心配と、僕の募りくる懐疑とを乗せて、遂に目黒駅前まで来てそこにストップしたけれど、結局目の前に、昨夜と同じような陸橋風景を見出したばかりで、途中「深夜の市長」に関する手懸りは何にも見当らなかった。
明くれば、月が代って、ここに四月一日を迎えた。
遉に不死身を誇る僕も、連夜の奮闘にすっかり参ってしまった。それでその日は、例によって円タクを飛ばす手を用いたが、たとえ時速百キロの快スピードを出させても、もう門限には間に合わぬことが分っていたので、自棄気分になって、なるべくノロノロとやるようにと命じ、その代りこの時間をウツラウツラと居睡りに提供することとした。いや全く、近来この日ぐらい気もちよく居睡りをしたことがなかった。
お蔭で、埃だらけの遅刻簿を出して貰って、判子をついたが、庶務課の有象無象からいい加減面白い見世物扱いされ、大いに気まりが悪かった。
主任の前へ行って、仕方がないから「昨夜から腹を壊しまして」といってその場を取りつくろうと主任はギイギイ云う壊れかかった回転椅子の上に急に反り身になって、「……一体腹を壊すなんて、日頃の緊張が足りないからだ、よし今度から道場へ出たまえ、一手指南をしてやる」といって、持っていた筆の軸でやっとうの真似をしてみせた。続いて「君は何段か」というから「どういたしまして、無段です」というと「なんだ無段か、警官でも大抵二段や三段は持っているぞ。検事の威信に関する。今日からやり給え」という。「では主任さんは何段ですか」と訊ねてみたところ「俺か……俺は大したことない。ちょっと六段だ」といって、主任は更にふんぞり返ったが、その拍子に安楽椅子の背骨がガクンと音を立て、彼の身体は「呀ッ」と叫ぶ間もなく後へ抛り出されようとした。僕は愕いて椅子に飛びつくと、辛うじてこれを停めてやった。それでも主任はまるで軽業小僧のように両脚を頭よりも高くニョッキリ立てて、醜態を演じた。しかも彼は礼を云わなかった。僕は「僕は検事の椅子は嫌いです。判事の方を志望しても、剣道の段をとらにゃいかんですか」と訊ねた。主任はそれに只一言で答えた。「莫迦!」──宮仕えはまことに辛いものである。
「ところで君の今日の見習仕事だが……」と主任は程よいところで要領よく立ち直りながら「昨夜腹の痛くなかった連中は一同揃って囚人自動車に乗り、小菅刑務所の見学にでかけたぜ。遅れた君のためもう一台出すわけにゃ行かぬから、君だけ今日は──ウム市庁へ行ってきたまえ」
「ハア、市庁へですか」
「そうだ、市庁へ行って、あすこの事務管掌といわず、議場その他、内部の構造物も一と通り見学して来たまえ。どうせそのうちに行かにゃならんのだから……」
遅刻が祟って、僕は嘸や面白かろうと思う刑務所見学の仲間から外れ、ただ一人、面白くもない、市庁の見学に赴くこととなった。でも、この検事局にいて、また部厚い和紙綴じの調書の上に涎の宝石を作るよりは助かるので、云われるとおり出かけることにした。
市庁は近いので、僕はブラブラ歩いていった。春はまだ寒く、それに空模様はいよいよ悪くなって、どう見ても雪雲としか見えぬのが、ビルディングの上に低迷していた。スキーの味を知らぬ僕は、雪雲を見て腹が立つばかりだった。
もうすぐ埋立地の方へ移転することと決っていた市庁は、外から見たところ、まるで鼠の入れ物か妖怪屋敷のようにひどく汚れていた。それでも夥しい人の出入りが目についた。なにを騒いでいるのか、誰の顔にも笑いの筋一本も見えず、皆云い合わせたように、深刻極まる顔付をしていた。
中へ入ってみると、深刻さは更に喧噪さと合体して、まるで火事場のような騒ぎだった。僕はすっかり毒気に当てられた形で、早くその窒息するような雰囲気から脱れたいとそればかりを思った。それで幸い一つの階段を見出すと、それに足を掛け、トコトコと二階へ上っていった。
二階へ来てみると、これはまた世界が違ったように物静かだった。廊下には赤と黒との模様のある絨毯がズッと敷きつめてあった。その上を静かに歩いてゆきながら、傍の扉の上に懸っている黒い漆塗りの名札を読むと「市長室」などと、厳しい達者な白い文字で記してあった。
──はッはッ、これが本物のT市長さんの居るところか。と、僕は「深夜の市長」のことを思い出して、急に嬉しくなった。T市長というと、今は男爵高屋清人氏だった。扉をノックして高屋市長の顔をちょっと見てくるのも悪くないなアと考えたが、どうやら気が変だと間違えられそうな虞れがあるのでまあ思い停った。
その代り、隣りにある第一応接室の扉をグッと明けてみた。そこには目も眩む金色燦然たる大額が、壁間にズラリと並んでいた。それは歴代の市長の肖像らしかった。誰も彼も市会に苛め抜かれて罷めたような顔はしていなかった。それは恐らく市長になりたてのときの写真なのであろう。罷めるときは、こうは温和な顔付にはゆかなかった筈だ。
応接室は沢山あった。いずれも奇数の番号がついていた。しかしどの部屋にも人が入っていなかった。勿体ないことである。そのうちに一室、扉を押しても明かない応接室があった。第七応接室という札が懸かっていた。僕は鍵穴に耳をあてて、中の様子を覗ってみた。しかし中には人の気配が感じられなかった。
すると、ここで僕のよろしくない病がムラムラと起ったのである。僕はポケットに手を入れると、小さい金物をとりだした。実はこれは僕の秘蔵の手製合鍵である。こいつを鍵穴に入れてガチャガチャと三、四度やると、手応えがあって、扉は苦もなくも明いた。こうなると司法官試補の「浅間信十郎」はどこかへ行って、もう一つの人格、探偵作家、「黄谷青二」の地金がムクムクと出て来る。入ってみると、これも前のと同じ位の広さだが装飾は殆んどない。そして丸い卓子が一台ある外は、二、三百円もするような大きな肘掛椅子が十脚ほどもあり、奥の壁際にあるものは、実に乱雑に、思い思いの方向に向いている。スチームはムンムンするほど部屋を温めて居り、肘掛椅子は実に柔軟くフカフカしている。こうなると僕は催眠術にかけられたように後の扉を締め、奥まった肘掛椅子の上にフンワリ身体を投げだした。なんといういい気持であろう。
云うも愧かしいが、僕はまた可なりの時間を睡ったものらしい。どうも市庁まで忍びこんで、居睡りをするとは怪しからん話だが、僕の身体は本当に疲れていたのだ。気がついてみると、室内で話声が聞える。誰? 僕はハッとして、椅子の中に身体を小さく曲げた。幸いに椅子が後向きなのは、何よりだった。
「どうも弱ったよ、中谷君。今日の市会には、例の土地買収問題が出るだろうか」
と、疳高い声が心配そうに訊いた。
「そりゃ市長さん、今日は上程しますよ。向うの作戦は今日に極っていますよ」
と相手の太い声が応えた。
市長さん! ああ、すると今僕の背後には、T市の本物の市長男爵高屋清人氏が立っているのだ。いよいよ僕は出るに出られなくなった。
「そいつは困った、そうなると、一件書類を金庫から出さにゃならぬねえ」
「そりゃ必要ですね。市長さん、どうかなすったのですか」
「……ウム。実は金庫が開かないのだ」
「えッ、金庫が……」と中谷氏──そういえば思いだしたが、この人は助役の中谷銃二氏に違いない──が愕いて「そりゃまた一体全体どうしたんです。市長の鍵で開けても明かないのですか」
「あああ、──イヤ実に参った。実はその『市長の鍵』をどこかへ失してしまったか、盗まれたかしたのだ。昨日になってそれに気がついた。……イヤ弱り果てたよ、中谷君」
「そいつは全く困りましたネ。ここへ来て『市長の鍵』がないじゃ、どうにも納りがつかないじゃありませんか」
と激昂の助役の声に、二人の話はハタと杜絶えてしまった。このT市の首脳部の両人が、蒼白になって睨み合っている光景が椅子の背後を透して見えるようであった。
「オヤ、あすこに誰か居るんじゃないか、中谷君!」
突然市長の声がした。さあもうどうすることも出来ない、百年目である! 僕は覚悟を決めた。名乗りをあげてT市長の面前に立とう。……しかしT市長! 本物の市長なのだ。「深夜の市長」とは訳が違う。そして「深夜の市長」は失踪しているのだ。もしも向い合って立って、有名な写真嫌いの市長の顔が、万一「深夜の市長」の顔に似ていたら、僕は一体どうしたらいいだろうか、僕の全身は火の塊でもあるかのように、ありとあらゆる毛穴から熱汗を噴きだした。
「おお、君は誰だ!」
僕は中谷助役のために椅子の蔭から摘みだされた。──こういう土壇場にいよいよなってしまうと糞度胸の据わるのがまた吾輩の特性でもあった。
「僕ですかア。……僕はこういう者で……」
と、悠々内懐のチョッキのポケットへ手を入れて、そこに入れてあった名刺をとりだした。
「……ああッ、これは飛んだ失礼を」と助役は大狼狽だ。
「イヤこれは、私も失礼しました」と市長が云った。「こんなところに、はや御出張下すっているとは思いませんでした。どうか総監閣下によろしく……」
そういうと、高屋市長は中谷助役を促すと、あたふたと室外へ出ていった。その市長の顔は、無髯無髭で、なんのことはない肥った中国人のようにかっぷくのよい身体をしていた。僕には彼が「深夜の市長」に似ているかどうかを俄かに判じかねたのだった。
ほうほうの態で、僕は匆々市庁を飛びだした。
これは全く大変な失敗をやったものだった。これが問題になると、どう考えたって免官の外ないだろう。折角司法官になろうとして、ここまでは来たけれど、到底自分は満足に勤め終らせることができないような気がする。
そう考えると僕はなんだか、身体の深い底の方から、急に大きな声でウワーッと叫びたくなった。これまで針の莚にいるような気持で、役所づとめをしていたのが、我が身ながらいじらしくなってきた。そうだ、満足に勤めようと思えばこそハラハラいじけているのだ。どうせ先が駄目なものなら、ここらで一番思い切って暴れてからオン出てやろうではないか、太く短く──そうだ、なぜそれを今まで考えなかったろう。
僕は俄かに両肩の欝血が取れてきたように思った。
さあ、こうなると、もう今までのように引込み思案ばかりはしていないぞ。なんでも華々しい最後を飾って散るのだ! たとえば「深夜の市長」事件なんて、いままでビクビクしていたが、あれだって考えて見れば実に変な存在だ。帝都治安上許しておけない存在だ。よし! 積極的に調べてやろう。
そのとき僕は、さっき市長が僕に云った変な言葉を思い出した。
(総監閣下によろしく……)といったが、実に総監閣下とは何ごとであるか、仮りに検事局に身を置いている自分に、検事正によろしくとか、検事総長によろしくとかいうのなら分っているが総監閣下へよろしくは無い。どうやらそれは警視総監のことを云っているのだろうが、市長さん狼狽したりと雖も、管轄を間違えるとは何であるかといいたくなる。
尤もあの室で、偶然市長の口から聞いた「市長の鍵」がなくなって、金庫が開かないというのは、考えてみると相当重大問題だ。失くしたか盗まれたか、そこまでは、ハッキリしなかったようであるが、もし盗まれたとしたら、これは由々しき一大事だ。なにしろ「市長の鍵」というのは、T市にたった一個あるだけの黄金色眩ゆい大事な鍵で、歴代の市長は、後任者へ事務引継ぎの際、親しく手から手へ譲り渡して、名誉と権限と秘密とを一緒に伝えるという由緒ある鍵である。もしそれが盗まれたとしたら、それは前代未聞の出来ごとで、これは警視総監閣下も親しく陣頭に立って捜索に当らねばならない大事件であると思う。
市長があのとき「総監閣下云々」と云ったのは、狼狽して云い間違えたのではなく、不用意にも、その「市長の鍵」紛失事件を黒河内総監には通じて置いた事実を曝露したものではあるまいかと思った。
そうなると、僕は一体、どっちの事件に突進したらいいだろうか。こっちの「市長の鍵」事件を探索するか、それとも行方不明の「深夜の市長」を探し出してその正体と一味、徒党の秘密をあばくかそのいずれに手をつけたらいいのだろう。
そんなことを考え考え歩いているうちに、僕はいつしか役所ぢかくまで戻ってきたことに気がついた。もう時刻は午に近い、これからいまさら役所にかえるのも面白くないと思ったので、足を向きかえて、久し振りで日比谷公園の中に入っていった。
春をやがて迎えることになった花壇は、園丁の苦心で、早や咲きのチューリップ、ヒヤシンス、シネラリヤ、オブコニカ、パンズイなどを程よき位置に移し、美しい花毛氈が組立てられていた。僕は身も心も、にわかに浮々とした胡蝶のようになり、そこに据えられてある一脚の腰かけの上に腰を下して、泰西渡来の鮮やかな花の色と仄かに漂っている香りとに酔っていたが、わが魂はそぞろにとおくなるのを覚えた。
しかし僕の夢はそう永くは続かなかった。
というのは、すぐ前をギャンギャンと、途方もない大きな声で、獣かなにかのように泣き叫んでいる女の子が通りかかったからだ。その女の子を見て、僕は愕いた。身体の小さい割に、頭が極めて大きいのだ。飛び出したお凸額の下には、泪にあふれた腫れぼったい瞼があった。顔の色はこれがほんとの蒼いのだといいたいくらい不健康な色をしていた。身体には汚れきった花模様のあるメリンスの着物を着ていた。これこそ、紛れなき丘田お照の子、絹坊だった。
「あッ、絹坊……」
と思わず手を伸しながら立ち上った僕は、そこに二重の愕きを経験しなければならなかった。それはこの絹坊の後から追いついて来た立派な洋装の女が、いきなり、絹坊の手を執って歩きだしたからだ。見覚えのある総毛皮のオーヴァを着こんだこの贅沢な女は、外でもない隣りの空き家に越して来た女マスミだった。
「やあ、マスミちゃんも……これはどうしたんです」
その声に、向うでも気がついたと見え、愕いて駈けよってきた。
「あらまあ、貴方でしたの……」と目を瞠って会釈した後で、「昨夜はどうも……」と、恥かしそうに身体をねじるようにして挨拶をした。それはなんともいえぬ色気があった。
「なんです、この変った道行は……」
「いえ、お母アさんが見えないというので、あたし連れて来たのよ。今朝起きてみたら、勝手の板の間の下でゴトゴトいうのよ。あけてみると、まあ愕くじゃありませんか、この子が縁の下を匍いまわっていたのよ。……それからとりあえず、上に上げて聞いてみると、お母アさんが居なくなったというでしょう。その方、昨夜から、お宅に泊っていた粋な方ネ。それから同情しちゃって、連れ出したのよ」
「ほほう、絹坊は縁の下に寝かされたのかい。ひどい女だなア……」
と僕は、お照の顔に似合わない無茶な仕打にいたく憤慨の念を禁じ得なかった。
「……」マスミは黙って下うつむき、彼女のオーヴァに顔をつけたまま恐ろしそうに獅噛みついている絹坊のお河童頭を撫でていた。
「でも、何だってこんな丸の内まで、お照さんを探しに来たのかね。あの女だったら、今頃亀井戸の家で寝ているんじゃないですか」
「ホホホホ」とマスミは突然可笑しそうに笑った。「外へ出たらこの子はお陽さまが当っているから恐いっていうのよ。随分変ね。お陽さまに当らないから、こんな蒼んぶくれをしているのだわ。それであたしはこの子のために、いかに太陽の光線が衛生によいかを知らせるため、この公園へ日光浴をさせに来たんだけれど、生憎今日はあまり照らないのネ」
「うむ、なるほど」といったが、見たところ絹坊は日光浴どころか、この灰色の空にさえ慄えあがっていた。この子はまるで蝙蝠のように、白昼そのものが嫌いらしい。
「この子は面白いのよ。さっきチューインガムを買ってやったら臭いを嗅いだだけで嘔吐すのよ。おかしな子ネ。ホラ見ていてごらんなさいよ、面白いのよ」
そういってマスミは。バッグの口を開けて、中からセロファンに包んだガムを取りだして、嫌がる絹坊の顔に押しつけた。すると絹坊はブルブルと慄えたかと思うと、胸を押えて地面に俯臥した。そしてヒイヒイと咽喉を鳴らしながら、まるで病犬のように黄色い胃液を吐いてまわるのだった。
「まあ面白い。ホラ絹ちゃん、チューインガムよ。……」
と、この美しい顔をした悪魔はなおも執拗な遊戯をくりかえすのだった。僕はこの場の暴行に対しきつい義憤を感じながらも、強いてそれを停めはしなかった。なぜならこの異様な光景の中に躍動するマスミの心理状態にたいへん深い魅力を感じたからだった。僕はこの悪性の遊戯に夢中になっている彼女の頬が次第に紅潮し、果ては一種のオルガスムスに似た微かな痙攣がマスミのしなやかな肩から上膊のあたりに波うつのさえ、認めたのだった。
「ねえマスミちゃん」と僕は声をかけた。「君は昨夜目黒の陸橋のところで僕に会ったネ。あのとき僕が君ン家の隣りに住んでいる人間だとすぐ分ってたかい」
「あら、──」とマスミはこっちへクルリと振り向き「嘘よ、そんなこと、気がついたのは家へ送っていただいてからよ。だってそうでしょう。お隣りの独身紳士と取引する気なら、なにもあんな高価いホテルまで銜えこみはしないわよ」
マスミは穏かならぬ露骨な言葉を交えて使ったが、彼女は別にそれを恥かしいとも思っていないらしい。
「そうかい。ンじゃ、今後僕は君の商品購買者たるの資格を失ったわけだネ」
「まア、どうして?」とマスミは僕と並んで、ベンチに腰を下しながら「ではあたし、本当のことを云うわ。聞いて下さるわネ」
「……」僕は黙って肯いた。
「実をいえばあたし……昨夜、あの狭いベッド・ルームのある苺園ホテルで貴方と二人っきりでいたことが、深く心臓の上に刻みつけられて、もう忘れられなくなったのよ。貴方は立派な紳士ね。憎いほど紳士だわ。あたしはそう云う方にこそ、どうかされたいと思って貴方の迫ってくるのを烈しく待っていたんだけれど……やっぱり貴方は紳士だったわネ。そのためにあたしは兄の四ツ木鶴吉のところへ詫びをしてくださいなんて、神妙なお願いを貴方にしちまったのよ。あたしは貴下のような頼母しい方にお目に懸ることができて、どんなにか嬉しいの。あたしは神様にお祈りをしたのよ。どうかお隣りの紳士の手で、罪深きあたしが救われますようにといって……。でも……でも、本当はマスミは駄目だわ。恵まれていないのよオ。あたしだけが熱望していたって、相手の方が氷のように冷やかなんじゃ仕方がないわ。こういっちゃなんだけれど、貴方は成程紳士らしくて、そりゃ立派よ。それは分ってるわ。しかし真の紳士というものは、百パーセントは間違いなしの生活をしていたんじゃ駄目なの。百パーセントは間違いなしの生活をした上、同時に別の百パーセントは間違いばかりの生活が出来るような能力を備えていなければいけないんだわ。ここのところ鳥渡六ヶ敷いんだけれど、貴方に分んなさる?」
「……さあ、百パーセント白で、百パーセント黒の生活をしろ、合計二百パーセントの生活をしろと云ってるんだろうが、よく嚥みこめないね」
「ああ、それだけ分っている癖に、貴方は分らないと仰有るの。あたし、どうしたらいいだろう。救われそうでいて……さっぱり救われないわ」
「君はいま、心底から力強く保護をしてくれる者が必要なんだ。よろしい、僕はきっと君の兄さんを訪ねて君の必要とするものを与えるように頼んでやる」
「アラ、まだそんなことを云って……。いいわ、あたし斯うなれば修道院に入りたい!」
暗雲低迷する空の下、情熱に燃えたこの断末魔のモガの媚態はいつまでも続いたが、そのとき一台の立派なクライスラーが花壇の傍をゆるやかなスピードで通りすぎんとして、どうしたわけだか、ピタリと停まり、しかもジンジンとエンジンを高鳴らしながら徐々に逆行してきた。その車窓からは、立派な河獺の襟のついたインバネスを着た赭ら顔の肥満紳士がニコやかな笑顔を見せて、手招きをしていた。彼の運転手は車を停めると、ヒラリと外へ下りた。
「まあ、動坂さんだわ……」とマスミは急に眼を輝かして「これがあたしの本当の運命だわ」
と独り言をいって、こんどは僕の方を振り向き、
「あたし、ちょっと用事ができたのよ。この絹ちゃんを貴方にお願いしてよ。……」
そう云い捨てるなり、彼女は別人のように朗らかな調子になり、運転手がサッと開いた扉のうちにヒラリと滑りこんだ。そして僕が呆気にとられているうちに、その高級自動車は一抹の紫の煙を残して、アメリカ松の並木の陰に姿を消してしまった。──
「なんという出鱈目な女だろう!」
僕は奔放な彼女の性格に愕きながらも、大きい鯉を釣針から逃がしたような気がしないではなかった。──まあ動坂さんだわ……といったが、あの車上の紳士は、例の市議中の大立物、動坂三郎に違いなかった。あの女は彼とどんな関係があるのであろうか。マスミの兄の四ツ木鶴吉は動坂三郎の下で働いているといった。そんな関係で二人は知り合っているのだろうか。いや、それだけではあるまい。二人の妙に慣れ慣れしいあの態度はどうだ。マスミは遂に肉塊を資本にのさばり歩く醜業婦でしかなかったのか。
僕は不図われにかえって、あたりを見廻した。──マスミが押しつけていった厄介なお土産は何をしているのだろうと思ったからだった。
「ああ、これは……」
僕は思わず舌打ちをした。怪児絹坊はと見れば、彼女はさっき居たと同じ地面に俯伏せになったまま、石のように動かなかった。まくれ上った赤い着物の裾からは、乾からびた出来のわるい大根のような脚がヌッと出ていて、傍には足から外れた汚れきったゴム靴が片方裏がえしになって落ちていた。どうしたんだろう。真逆死んでいるのじゃあるまいな。
「オイ絹坊、どうしたんだ」
僕は行人の訝しげな視線を熱く感じながら、靴先で彼女の脚をちょいと突いてみた。すると、その色の悪い乾大根のような脚は縮んで着物の裾へスルスルと入ってしまった。まるで泥亀が手足を甲羅の中に隠してしまったかのように。
僕は、日がとっぷり暮れるのを待って、役所の門を出た。僕の傍には、まるで狗ころを引張っているような塩梅式に、怪児絹坊が纏わりついていた。彼女は守衛の前をとおるとき僕のズボンを千切れんばかりにシッカリ抑えていたが、昼間よりはたしかに元気になっていた。しかし相変らず剛情に口を噤んでいて、何をされたって一言も口を開こうとはしなかった。全く妙な子供である。一体お照は誰と契ってこんな怪児を産んだのだろう。
あの午近い、日比谷公園の花壇で、マスミからこの子供を押しつけられたときには、全く弱った。こんな子供を連れて昼日中歩いてもいられもしないので何処か預けるところはないかと考えた。その揚句、幸いにも近くの丸の内十三号館の中庭に街の科学者速見輪太郎の住んでいる高い塔があったので、あそこなら陽の光の差さぬところもあろうし、速水もお照の子は知っているので、彼女を預ってくれるだろうと思った。そこで通りかかった円タクを呼びとめると、地面に獅噛みついて離れようともしない絹坊を、無理やりに抱き上げて車の中に入れ、丸の内十三号館まで行ったのである。
僕は受付に名刺を出して、速水氏に会いたいというと、受付氏は怪訝な面持をして、そんな人は知らぬと云った。僕は彼がわざと白っぱくれているのだと思ったので、先日その高塔実験室を訪問した次第を説明して、ぜひに会わせてくれ、決して迷惑はかけないからと云った。すると受付氏はいよいよ変な顔をして、それは何かの間違いにちがいないと云い張った。あまり頑固に否定するので、僕はムカムカとして来た。ではともかくも十三号館の中庭へ案内しろと云うと、僕は当惑するかと思いの外、ええようございます、どうぞよく見て下さいというのである。
その口ぶりがいかにも自信にみちているので、僕はすこし気持がわるくなったが、なに行けば分ることだと思い、案内を頼んだ。
その結果はと云えば、あのくらい愕いたことは近来になかった。全く狐に化かされたとは、こんなことをいうのだろう。見覚えのある廊下を通り、これも見覚えのある硝子戸を押して中庭へ案内されたが、その中庭には確かに建っていなければならぬ筈の輪太郎の高塔が、影も形もないのだった。その中庭は光沢のある緑の芝生をもって蔽われ、ところどころにさまざまの形をした花壇が出来て居り、作り物ならぬ天然の芳香を持つ春の草花が美しく咲き並んでいた。僕は言葉もなく呆然とその場に立ち尽したのだった。
ひょっとすると、僕は戸口を間違えたのではないかと思ったので、再び廊下にとってかえし、長い廻廊をグルグル廻ってみたが、どの戸口からも先刻下り立ったイギリス風の花壇が見えるばかりで、探している塔の影さえ見当らなかった。もしやこれと同じ中庭が、他にもあるのではないかと、それも調べたが、庭はここ一個所であった。
僕は再び中庭の花壇に立った。あのような立派な高塔が一夜のうちに、煙のように消失するわけがない。あの塔が消えてなくなれば、速水輪太郎はどうなるのだろうか。あれも遂に蜃気楼中の幻影の人物だったろうか。いやいやそんなはずはない。
僕はこの不思議な矛盾を、矛盾でなく合理的に説明するために或る一つの大胆な仮説を立てた。その結果、僕は意を決するところがあって、足もとの芝草を一掴み引抜いた。それから僕はまた場所を変えてまた一掴みの芝草を引抜いた。そしてこの二つの芝草の剛さを仔細に調べてみたのだった。僕はそれを幾度も続けていった。その結果、遂に一つの結論に達した。それは──およそこの芝草には柔剛二種のものがあること、それから中央に円形をなした部分の芝草は特に剛くなっていること──この二つの事実を発見したのだった。僕は仮りに立てた大胆な仮説が、この二つの事実からして当らずとも遠からずという程度なのを知って胸をときめかした。この上は時間の廻ってくるのを待つばかりだ。……
僕は丸の内十三号館を辞して、そこに待たせてあった円タクに乗った。変り者の絹坊は座席を滑り落ちて、靴の載るところにあいかわらず石亀のように小さくなって伏臥していた。僕は頼みに思う速水輪太郎にも会えなかったので、とうとう心を定めて、絹坊を役所へ伴っていった。そして彼女を地下室にある留置場に抛りこんだ。留置場は白昼であっても陽の目が見えなかった。こうして彼女を陽の光から隠すことが、彼女に安全感を与えるだろうと思ったからだった。果して彼女はあたりを見廻しながらイソイソと這入りこんだ。太陽に反いた児! 絹坊はなぜそんなに陽の光を嫌うようになったのだろうか。この子供はいつも母親に連れられて夜毎夜毎を遅くまで酒場などに暮していた。自然睡りにつくのもかなり遅くなり、結局太陽が顔を出している間は、酔いの勢いで前後の正体もない母親とともに寝床の中で抱き合って睡っているか、さもなくば雨戸を深く閉ざした真暗な家の中で、ただ独りままごとなどをして遊んでいるのだろう。そんなことがこの子を太陽の光から背かせることになり、随って陽の光を受けた街上で元気に遊んでいる世の子供たちに馴染まなくなってしまったのだろう。太陽の嫌いな絹坊! そういえば母親のお照が、この子供を縁の下に入れて置いたからといって、絹坊の場合それは虐待を意味するわけではなく、むしろ母親として我が子に対する情け厚い心遣いがそうさせたのだろう。
僕は絹坊を伴って灯の入ったばかりの銀座裏へ歩いていった。彼女の足どりはだんだんと活発になり、果てはなんだか口の中で歌っているようであった。
「絹坊、お前は唱歌が上手だネ」
と、僕は手をとっている女の子を顧みていった。
「……唱歌じゃないわよ」と突然無口かと思った子供が物をいった。「これ、淡海節ヨ」
「ええッ。──」僕は彼女が物を云ったことにも、その鮮やかな答にも、両方に度肝を奪われた形だった。「淡海節って、そりゃどんな唄だい。おじさんに唄って聞かせろよ」
「ああ、唄ってやろうか。……」そういって絹坊はませた声で唄いだした。「この子を生んだあたしはいいがア、この子を生ませたアあなたには、貸しがある、ヨイショコショ、忘れしゃんすなア……」
「ほほう、そいつは意味深な唄だネ。もっと子供らしいのはないのかなア」
「こんなのはどう?……鼻をつまんでニヤリと笑うウ、お前は深夜のオ市長さん、夜が明けるヨイショコショ、もうお帰りかア……」
「うん、それもおじさんにゃ深刻に響くよ。……ねえ、絹坊一体お前の、お父ちゃんは無いのかい」
「お父ちゃんは一人いるんだってよ。でもあたいはお父ちゃんの名前は知らないの。だって母アちゃんが教えて呉れないんだもの」
「お前はそのお父ちゃんという人を見たことがあるのかい」
「一度ちょっとだけ見たことがあるわ。お料理店の黒い門から出て来て自動車に乗っていっちまったの」
「どんな顔をしていたい」
「どんな顔?……あたし覚えてないわ」
「それっきりで見たことがないのかい。会いに行ったことなんかないのかネ」
「それはねエ、お母ちゃんが一緒に会いにゆこうといってあたいを引張ってゆくことはあるんだけれど、いつも途中までいって停めにしちゃうのよ。だからあたしつまらないわ。そして帰りにお母ちゃんはいつもあの唄を歌うのよ。この子を生んだア……って」
「ああ、あの唄をネ。……」僕はなんだか恐ろしくなった。
「おじちゃんは、あたいのお父さんがいい人だと思う。それとも悪い人だと思う」
「さあ──どっちだろうね」
「鬼みたいな人だっていうのよ、母アちゃんは。鬼は人間を喰べちゃうのだってよ。あたいたちも見つかると喰べられちゃうかもしれないから、喰べられそうになったら、早く鬼を殺してしまわないといけないんだって……」
「ああ、もうそんな話はよそう。……さあ、酒場ブレーキはもうすぐそこだ。母アちゃんが来ているといいネ……」
ブレーキの前まで来ると、絹坊はうわーッとわが家の門へ辿りついたように、歓声をあげて、中へ飛びこんだ。でも彼女の母親お照はまだ来ていなかった。しかし絹坊はもうすっかり家へ帰って来たつもりで、例の白い瀬戸物の痰壺のところへとんで行くと、ちょこんと腰をかけ、顔馴染の誰彼の方を見てニヤニヤと歪んだ顔で微笑むのだった。──これで僕の役目は済んだようなものだった。だからそのまま僕はブレーキの前を立ち去ったのだった。
その足で、僕は築地よりの河岸ぶちに出て、そこに屋台を出している「錦斗寿司」の暖簾をくぐった。僕は寿司に眼がなかった。食慾がない今夜のようなとき、うまく腹を膨らませてくれるのは、この立ち喰いの屋台寿司に限るのだった。僕は、鼻から眼へ抜けるほど山葵の利いたやつを十五、六も喰べたであろうか。それから別にお土産を二人前ほど包んで貰ってこれを片手にぶら下げた。
外へ出ると、夕刊を買うことを忘れていたことを思いだした。どこかに、夕刊売りは出ていないかと四囲を見廻すと、小暗い河岸ぷちの向うから、リンリンと微かな鈴の音が聞えてきた。音のしている方向には、灯が一つポツンとついていた。変なところに夕刊売りが出ているものだなと思いながらその方へ近づいていった。すると、近づくに従って、鈴の音は勢いよく盛んにリンリンと鳴り始めたのだった。
「ああ、夕刊を呉れたまえ、──」
「ハイ、いらっしゃい。何をあげます?」と和服を着た年端もゆかぬ夕刊売りの少女が丁寧なお辞儀と共に云った。
僕は驚きの色を隠して、五銭玉を出した。四枚の夕刊をうけとりながらつくづくその場の異風景を観察したが、その淋しい場所にいたのは夕刊売りだけではなく、その傍には実にささやかな店を構えた焼き大福餅店があった。店の主人というのは、なんと十五、六になった水兵服の少女だった。二人は一つのアセチレン灯で、商売をしているのだった。
僕はその灯の明りを借りて、買った夕刊にザッと眼をとおした。そこには何か「深夜の市長」の失踪に関する記事がありはしないかと思ったからだ。だがその期待は美事に外れて彼の老人と関係のある記事は一行半句見当らなかった。
「出てないかなア」
というと、夕刊売りの少女の顔が、泣き出しそうにゆがんだ。彼女は何か勘違いをしたのだろう。
「イヤ君、君から買った夕刊が悪いというせいじゃないよ。……別のことだから……」
すると焼き大福売りの水兵服嬢がエヘンと変な咳払いをした。僕は彼女の眼の中に或る敵意をさえ認めた。仲間の夕刊売りを苛めているとでも誤解しているのだろう。
「……僕は『深夜の市長』を探している者なのだ。どうだネ、君達、『深夜の市長』の噂を知らないかネ」
深夜の河岸ぷちでささやかな商売をしている彼女たちも、「深夜の市長」の袖にすがっていることと思い、それを云ってみたのだった。すると、水兵服嬢は意外にも突然眼鼻を一つにして白い歯を剥きだした。
「──『深夜の市長』? ああ、誰があんな悪魔の行先なんか知るもんですか」
「ナニ、『深夜の市長』が悪魔だって?」
僕はわが耳を疑った。『深夜の市長』といえば、深夜のT市に蠢いている人たちから、生き神さまのように尊敬されている徳望の主ではないか。それが事もあろうに悪魔とは……。
「そうですわ。あんな悪魔がのさばっている間は、このT市は救われませんわ」
「なぜそんな事を云うのだい君は……」
「早い話がこの千代子さんをごらんなさい」と連れの夕刊売り少女を指し、「こんな売れない場所に立って夕刊を売らなきゃならないのも、あの大悪魔のためです!」
「もう、よしてよ、町子さん!」
連れの夕刊売りの少女はオロオロ声で、町子と呼ばれた水兵服の娘に縋りついた。
実は僕はこれから丸の内十三号館に輪太郎の幻の高塔を探検に行こうと思い先を急いでいたのだが、これはまたひょんなことになった。この町子という大福売りの娘は「深夜の市長」を何故悪魔と呼ぶのだろう?
深夜のT市に棲息する夥しい人々から、まるで生き神様のように敬愛されている「深夜の市長」のことを、呼びようもあろうに大悪魔と罵って悔いない人間があろうとは、全く意外中の意外であった。僕は大福餅を売る水兵服の少女町子の顔を暫くは呆然と見詰めるばかりであった。がやがて嵐のような好奇心に駈られて、町子に問いたださずにはいられなかった。
「……君みたいに、『深夜の市長』をこきおろす人間には、始めてお目に懸ったよ。君は冗談を云ってるのだろう」
「なにが冗談なものですか」と町子は彼女を鎮めようとする一夕刊売りの少女千代子を押しのけて噛みつかんばかりの顔を突きだした。「じゃ、納得のゆくように何もかも話をしたげるわよ。それには、なぜ千代子さんが夕刊を売らなけりゃならなくなったか、それから話をするわ。最近まで千代子さんは兄さんと二人で暮していたのよ。兄さんは見掛けは悪いような人だったけれど、気はそりゃ優しくって、そしてほんとに正直な人だったのよ。……」
「正直な人だった? だったというと……」
「ええ、だったのよ。だって今は居ないのですものネ。死んでしまったかも知れないの。いや、殺されちまったんだわ!」
「殺されちまった! それは穏やかでない話だネ」
「穏やかでないことが、貴方にも分る。……そう分るならそれでいいのよ。千代子さんの兄さんを殺したのは一体誰だったでしょうか。……」
水兵服の町子は、そこで傲然と胸を張り、その上によく肥った腕を組合わせた。
「…………」
「この可哀そうな千代子さんの兄さんを殺したのは一体何処の何奴だったでしょうか! 知っている? 知らない?……では教えたげましょうか。その人殺しをした奴は……『深夜の市長』なのさ!」
「ええッ。……」遉の僕も、これには一驚した。
「愕いたでしょう。そして『深夜の市長』が、大悪魔だったことが分ったでしょう。この千代子さんは……」
「話の途中だが、その殺された兄さんというのは、何という名前の人かネ」
「それは四ツ木……鶴吉ていうのよ」
「呀ッ、四ツ木鶴吉! ほんとかい、それは……」
四ツ木鶴吉といえば、モガ崩れのマスミの兄の名であった。市議の旗頭動坂三郎のところで働いているという人物だった。それでは夕刊売りの千代子は、マスミの妹なのだろう。道理で、何処かで見覚えのある顔立ちだと思っていた。とにかくその四ツ木鶴吉のところへは、近いうちに会いにゆくつもりだった。そしてマスミの心境を説明して、性格破産の妹を救ってやるよう薦めるつもりだったのである。その四ツ木鶴吉が死んだと聞いて僕はすくなからずガッカリしたが、それよりも更に愕いたことは、人もあろうに「深夜の市長」が彼を殺害したという意外な話だった。
「おじさんは、兄のことを御存知ですの」
と、夕刊売りの千代子は泪にうるんだ眼を大きく開いて僕を見詰めた。その面影! たしかにマスミの妹に違いない。僕は兄さんの名は話に聞いただけであることを説明し、そして尚も質問の矢を放った。
「でも、どんな証拠があって『深夜の市長』が殺したというのかネ。また千代子さんの兄さんは何処で殺されたのかネ」
「なぜかって、あの悪魔が殺したのに違いないのよ」
と町子は応えた。
「違いないだけじゃあ、漠然たる話だネ。証拠がないのなら殺人の嫌疑などを軽々しく口にしちゃいけない」
と、僕はつい役所で聞き覚えある言葉を云ってしまった。すると、町子はカンカンになって怒りだした。
「貴方は何も知らない癖に何を云ってんのよオ。そんなに聞きたけりゃ教えたげるわ。……そう云う話は、確かな人の口から聞いたのよ。動坂三郎先生が、これは秘密だが……といって話して下すったわ。(わしの口からはどうも云い憎いが、四ツ木君はわしを裏切って『深夜の市長』に買われていたらしい。勿論それは四ツ木君だけが悪いわけではなく、あの悪漢『深夜の市長』が莫大な金で誘惑したからそうなったのじゃ。ひどいのは『市長』で、四ツ木君を買収したのはいいが、どうも『深夜の市長』一味の秘密を知って、これを種としてまた寝返りそうに思われたので、とうとう惨酷な制裁を加えてしまったんだ。『深夜の市長』の手に落ちれば、四ツ木君の屍体なんて秘密の場所に片づけてしまうから出て来やしないよ。しかしお前たち、黙って見ていてごらん。四ツ木君は何処からも決して帰ってこないから……)とそう仰有ったわよ。どうです。ハッキリしているじゃないの?」
「ほほう、四ツ木さんは殺されたと、動坂氏は云ったのだネ」と僕は愕きを隠し「そしてそれは何日話されたのかネ」
「あれは……兄は二十九日の夜帰って来なかったんですから、翌三十日の夕方のことでしたわ。兄さんの便りを聞くために町子さんについていって貰って、一緒に動坂さんのお邸へ伺ったとき、秘密に話をしていただいたんですわ」
「それっきり、兄さんは帰って来ないの」
「ええ、そうなの……」
といって千代子は悲しそうに目を伏せた。
「深夜の市長」が殺人をするなどとは始めて聞いた。その話によると、四ツ木鶴吉が殺されたのは、二十九日の朝、家を出ていった後のことに違いなかった。するとまず怪しいのは二十九日だ。二十九日、……三月二十九日! 指を繰ってみると、二十九日は例の不思議な事件のあった日だった。「深夜の市長」に始めて会ったり、奇妙な殺人があったり、火事があったり……。(そうだ、これは事によると……)
不図僕は、それに気がついたのだった。そんな恐ろしいことがあろうか。そんな不思議なことがあっていいだろうか。
「ねえ、千代子ちゃん。貴女の兄さんの身体を見て、これが兄さんだと分る特徴がありますか」
「ええ、顔を見れば分りますわ。それから兄はアノ……右手の拇指が無いのですから、手だけ見たって、直ぐそれと分りますよ」
「おお、それではあの四本指の手の男が……」
僕の予想は的中したのだ。しかしこの可憐なる少女にとっては、それがなんという不幸な的中だったろうか。四本指の男が二十九日の夜、どんなところを歩いて、どんな最期を遂げたか、それは大体ハッキリしている。彼は同夜午後七時五十一分ごろ、明治昼夜銀行目黒支店に突如として現われ、そこで小切手九十九円八十銭を出し、引換えに十円紙幣で九十円と、外にニッケル銅貨で二円の棒包みを四本にバラで一円八十銭也を受取っていったのだった。……それからどんな足取りをとったかは知らないが、その次に彼だと判定される男に会ったのはその夜の午前一時から二時の間──もちろん日附から云えば三月三十日だったが──、四ツ木と思われる男は、亀井戸の魔窟をすぐ前にした路地に、インバネスを着た関西弁の男二人によって屍体となって担がれていた。僕が懐中電灯の光でほんの一瞬間ではあったが観察したところでは、この男の顔はすっかり青ざめ、唇の色も変り、大きな口をダラリと開き、両眼を白く剥いていた。そして背中には短刀のようなものが相当深く肉の上に突き刺さっていた。そこまで見たときに、連れの男から石のように硬いメリケンを喰らったのであった。
次に四ツ木鶴吉らしい男の特徴ある手首は、現場から程遠からぬ横川橋四丁目の油倉庫の火災現場に於て発見された。しかしこれは発見されたというばかりで、発見者が火中から取出そうとして長い木片を探しに行った遑に、どこかへ行って見えなくなってしまった。手首だけが火中に投げこまれるというのは可笑しいことであって、前後の模様から察すると、亀井戸の魔窟の附近で殺害された四ツ木屍体は、この油倉庫の火事場に投げこまれて全身灰になってしまったのであろう。手首は火の廻りかなんかの加減で、燃え残っていたのではなかろうか。その前に、焼け落ちた棟木かなんかのために、手首だけが切断せされて、火の廻りの遅いところへポーンと飛んだということも考えられる。なんにしても、四ツ木鶴吉の殺害は、動坂三郎の推察どおり九分九厘までは事実と見るより外ない。
四ツ木を殺った者が、「深夜の市長」だったとすれば、これは一体どうなるのであろう。するとあの夜、彼に会ってからこっち、僕は完全にあの怪人の大芝居を見てすっかり欺されていたことになる。そんな大芝居を僕ごとき人間のために、なぜ打って見せねばならない程の事情があったのだろう。
僕は薄ら寒い築地の通りに立ちつくして、センチメンタルな気持に墜ちていった。
こんなところに迷い来て、千代子たちに会うようなことになったのも、非業の最期を遂げた仏が一念籠めて僕を引き寄せたわけだったかも知れない。これも人の世に珍らしくない縁の糸の力と思い、僕はポケットから一葉の名刺をぬいて仏の妹に手渡した。そして自分はこういう者だから心配しないでいいこと、それからきっとその事件は検べてあげて得心のゆくようにするから安心するようにと云った。しかし彼女の兄の屍体を見たこと等については、軽々しくいうべきことでないので、黙っていた。
役柄の肩書が物を云ってか、千代子はもちろんのこと、傲慢にさえなった大福餅売りの町子さえ俄かに態度をかえて信頼の念を面に現わして、無礼を詫びてくれた。
僕は面映くは感じながらも内心大いに得意だったが、なんという浅間しいことだろう。
町子の話によると、千代子は今、誰からも保護を受けていないそうである。その日からの生活に困って、こうして夕刊売りとなったが、夕刊売り場の縄張りを持つ「深夜の市長」一味の者のために、「動坂三郎に使われていた者の妹じゃないか」というので、よい場所に立つことを阻まれたそうだ。また動坂三郎は動坂三郎で「乾分たちへの見せしめもあることだから、気の毒ながら裏切り者の妹へ合力をするのは困る」といって婉曲に保護を断ったという。それを聞いて僕は更に義憤を覚えた。それでなにがしかの紙幣を、遠慮する千代子の手に握らせ、そこを立ち去ろうとした。
そのときだった。橋の向うから、リンリンリンと冴えた鈴の音を騒がせながら、号外売りが駈けて来た。
「うおォ、号外だ、号外だ。……新聞の号外だ。さあ大変大変、えれい事が始まったぞおォ。……うおォ、号外、号外!」
何新聞なのか、生憎新聞名がハッキリしなかったけれど、号外売りの声の上ずった呼び声は、号外を買わずにはいられないような不安の想いを抱かせるに充分だった。
「オーイオーイ、号外を呉れエ」
号外売りは喰ってかかるような恰好で、こっちへ飛んできた。「ええ、三銭、三銭! 今日のは高いよ」
いつもよりは一銭高い号外を一枚買った僕は、なんだかその記事を見るのが恐いような気がした。目の上高く差上げて巷の迷光に透してみると、これは一大事勃発だ!
──T市長高屋清人氏自殺す。──
たいへんな標題から始まって、
──T市長男爵高屋清人氏(五八)は今夕六時、市長室に於てピストル自殺を企て重傷を負った。銃声に愕いて駈付けた守衛のため極秘裡に直ちに市内某区の○○病院に搬び込まれたが危篤である。尚、市長は午後七時十五分遂に絶命したと伝えられる。自殺原因に就ては種々の噂あるも信ずべき確かな筋の報道によれば、最近高屋市長は某地所売却問題に関し醜行為あり、其の為本日の市会に於て自ら同案の上程を理由なく拒否する等の市会始まっての非行を演じた為、市議動坂三郎氏より痛烈なる指弾を受け、市長金庫の立会開扉を求められたが、傲岸なる市長は之をも拒絶した。併し市長が己が醜跡を蔽い難きを悟り、遂に最後の手段として自殺を選んだものだと。因みにT市財政は既に破綻に瀕せる重大危機にあって市長を空席にするは一日も許されざる事情にあるを以て、早くも後任市長の候補者が話題に上っているが、有力者の一部では見識手腕倶に優れた清廉の士現市議中の大立物動坂三郎氏を推さんとする説が有力である。──
僕はこの青天霹靂に等しい報道記事を貪るように読み下した。この号外を出した新聞名は「朝夕新報」という。あまりに聞かない名の新聞だったが、とにかくこの号外の内容には大いに打たれた。それは今日、高屋市長と中谷助役との間に取り交わされていた会話によっても、一概にデマとは信じ難いものだった。ただ不審に堪えないのは他の大新聞の号外がまだ発行になっていないことだった。
そのとき程遠からぬところで、喚くような声が聞えるので、何事かと振りかえってみると、一人の警官が、夕刊を売っている千代子のところへ自転車を乗りつけて、何か喚いているのが、暗い灯影にうつって見えた。
僕は何気ない風を装って引返し、警官が何を喚いているのかを聞くと、
「……そうか、まだ配達して来ないのならいいが、来ても売っちゃいけないぞ。禁止になったんだからナ」
そういうと、警官はまたあたふたと自転車に打ち乗って、向うへ遠去かっていった。
「一体どうしたの、今のお巡りさんは……」
と訊ねてみると、千代子に代って町子が、
「いえ、朝夕新報の号外が発禁になったんですって、貴方、いまお買いになったんでしょう。何でしたの」
と尋ねた。
「ああ、今のは市長が自殺したというんだよ」
「あら、『深夜の市長』が自殺したんですか」
「『深夜の市長』が……。違うよ。本物の高屋市長がやったというんだ」
そうは云ったが、このとき妙な気がしないでもなかった。深夜の市長は昨日から行方不明を伝えられている。彼こそは本当の市長の化けたのであって、とうとう自殺してしまったのじゃないか──などと考えた。しかしそんな莫迦な筈があってたまるものではない。
市長自殺の号外は、なぜ発禁になったのか知らないが、これはまた一と騒動あるのではないかと思った僕は、不図気づき、公衆電話箱に飛びこんで、検事局の宿直室を呼んでみた。話中で暫く待たされたけれど、やがて向うの電話口に現われたのは、思いがけなく次席検事の雁金浩三氏だった。
「……おお、君は試補の浅間君か。それは恰度いいところへ電話して呉れたネ。ちょっと至急頼みたいことがある。直ぐこっちへ来て呉れたまえ。何処にいるの。……ナニ築地? それは幸いだ。円タクで駈けつけ給え」
雁金次席検事は、局内で僕の最も敬服する人物だった。その人から直々言葉を懸けられ、「直ぐ駈けつけろ」というのである。僕は全身が俄かに緊張に鳴り亘るように感じながら、電話函を出ると、通りがかりの円タクを大声で呼びとめた。
通用門を明けさせ、長い廊下にいらいらしながら、僕は宿直室に辿りついた。室内に居合わせたのは、思いの外の少人数だった。雁金検事は、書記を督励して、何か書類を繰らせていたが、僕の入ってきたのを見ると、つと室の隅に立って僕を手招きした。
「君は辰巳芸者のいる深川門前仲町の待合街を知っているかネ。ところでそこに紅高砂家という待合がある。そこへ直ぐ行って貰いたい」
「はア、待合で何をいたしますか」
「金曜会という会合がある。そこに川田さんという変名で、黒河内警視総監が居られるから、この手紙を持っていって貰いたい」
「えッ、警視総監が待合に……」
「誤解や早合点は慎しむがいいぞ。職務のために行って居られるのだ。手紙を渡したら何か挨拶があろう。後は総監の命令を遵奉して行動すること。分ったかネ。余り役人風を吹かせるんじゃないよ」
深夜の待合行き、──しかも向うには警視総監が列席しているという。なんという変った使命だ。事件らしいが、一体どんなことが起ったのであろう。今夜の号外となにか関係があるのかしら。僕は胸を躍らせて、また夜の町へ飛びだした。時刻は正に午後九時。
門前仲町──とネオン・サインが出ている横丁、酸漿電灯の下をくぐり、そこにポツンポツンと三味を弾いて、これから商売にかかろうとする新内流しの二人連れに訊ねると、待合の紅高砂家はすぐ分った。ゴタゴタした植込みを抜けて、玄関の格子をガラガラと明けると、奥からバネ仕掛のように垢ぬけのした年増の女中がでてきたが、中腰になるより早く、
「……アノお気の毒さまでございますが、今夜はちょっと取込んで居りまして……」
と断られてしまった。それが癪の虫に響いたので、思わず「僕は検……」と云いかけて、わが声にハッと気がつき「金曜会の川田さんに取次いで呉れたまえ」
「ああカーさんの……オヤオヤ飛んでもない失礼を申上げて……まあ妾どうしましょう。穴があれば入りとうござんすワ……」
それで関所は無事通行を許された。
そこは十二畳位の大広間だった。紫檀の大卓子を囲んで、和服に羽織袴の立派なる人物が三人、いずれも年の頃は五十を過ぎている。しかしこのとき位、僕が愕いたことはない。総監は予期したことながら他の二人の人物は誰だったろうか。奥に反りかえっているデップリ太った赧ら顔の人物は、これぞ市会の大立者、動坂三郎氏だった。それはまあいいとして、床の間を背に、すこし青褪めている格幅のいい無髯無髭の人物は誰だったろうか。それこそ先刻の号外で重傷或いは既に死亡を伝えられたT市長男爵高屋清人氏ではあったではないか。僕は自分の眼を疑った。こんな愕きがあるだろうか。ピストルで自殺をした筈の市長は、見たところ何処に繃帯をしているわけでもなく、負傷に痛みを怺えている様子もなかった。──このとき、有名な黒い鉄縁の眼鏡をかけた黒河内総監が腰を上げて僕の前まで出てきてくれなければ、僕はもっともっとT市長の顔を見詰めていたろう。
「はッ、これは総監閣下でいらっしゃいますネ。これをお届けいたします」
「いや御苦労……」
総監は封を切って、中から毛筆で細かく書き込まれた罫紙綴をペラペラとくって読んでいたが、やがてそれを元のように封筒に収めて袖に入れた。それから僕を市長と動坂氏とに紹介した後、
「では君、オブザーヴァとしてこっちへ来て、僕たちの会談を聞いていて呉れ給え。場所柄、野暮くさいのは禁物だよ。いいかネ、はッはッはッ」
僕がなんでこのエラ方の会談にオブザーヴァとして選ばれたのか分らなかったが、恐らくそれは何かオブザーヴァの必要があり、そしてオブザーヴァするにはあまり圧迫的な人物でないのがいいためだったのであろう。──とにかく僕は如何なる会話が始められるか、大いに興味を持った。
「それで動坂さん」と黒河内総監は、懐手をしたままで口を切った。「高屋さんの提案どおり、土地払下案をここ三日ほど市会に懸けるのを猶予してやれませんか」
なんだ、やはり土地売却問題なのか。市長が困り果てて、総監の救け舟を呼んだものと見える。しかし総監を調停者に立てるとは何事か!
「それア何度云っても同じことですよ。猶予するもせんも儂にはどうにもならぬことです」
「しかし動坂さん。聞くところによると、本案を今日上程するように計らったのは、貴下だということだが……」
「黒河内さん。それは何者かの為めにせんとするデマですよ。貴下も、その連中に乗じられているのだ。第一、あの土地払下の件は今更始まった問題ではなし、前から下相談もあり、誰も異議はないといっている。市長も数日前、賛成のような口吻を洩している。それだのに、上程がなぜいかんのか、儂には腑に落ちん」
「それは市長も説明しているように、この件について、ちょっと取調べを要することが出来たという……」
「いまさら取調べなんて迂濶千万ではありませんか。が、まあ取調べもいいでしょう。しかし市会の意思を蹂躙して上程をさせまいとするのはいかん。上程してみた上で、取調べの必要ができたからと云って、そこで延期を図ればよろしい」
「取調べる必要があれば、上程前に取調べをやらせた方が穏やかでいいと思いますよ」と総監は飽くまで協調的に出るのだった。「ねえ動坂さん。市政に責任を持つ市長の希望なんだ。貴下一つ叶えてやって下さらんか」
「いいや駄目です。取調べなどとは口実ですよ。もう取調べることなんか何にもありゃしない。そういうところを見ると市長の方には何か別の事情があるのではないか。別の事情があるのなら、儂も考慮しますよ。こんな訳だから、暫く待てと仰有れば、儂も何を好んで市長を苛めましょう」
動坂三郎は憎々しいまでに落ついている。総監はこのとき懐から右手を出して、顔のところへ持ってゆきかけたが、何を思ったのか慌てたまま懐へ引込めた。そして居ずまいを直した後で、
「じゃあ仕方がありません。云いだしたくはないが、私からその訳を云いましょう。お察しのとおり或る事情がある。……」
「ああ、黒河内さん。……」と、今まで下を俯いて黙りこんでいた市長が、ハッとした様子で声をかけた。
「いや高屋さん。やはりこれは云わにゃならんことですよ。云わないで置こうとするから、貴下は無駄な苦しみをする」
そういって総監は両手を出して、卓子の上に組んだ。
「実は市長このところ大失態をやった。それは大事にしなけれアならんT市の黄金の鍵を二、三日前失ってしまったんです」
「ナニ、T市の黄金の鍵を……。ああ、それは飛んだことだ。あれは一つしかない。T市では一番大切な品物だ。それを無くしたとは、一体全体何ごとだ! 市長! これぁ辞職や切腹だけでは、済みませぬぞ」
動坂三郎は顔の色を変え、市長の方へ太い拳固を幾度もつきつけた。市長は更に青褪めて見えた。
「そのとおり、全く高屋さんの大失態だ。しかしネ、動坂さん。いろいろ訪ねてみると、その鍵がどうして紛失したかハッキリしないのです。つまりそれは落したものか、それとも盗まれたものか分らない」
「どっちにしろ、市長の責任は遁れられぬ。T市五十年の名誉はどうなるのだ。儂の耳に早く入ったからいいようなものの、これが他の議員に知れて御覧なさい。どんな騒ぎが起ると思う……」
「ところで、動坂さん。貴方の御意見を伺いますが、もしそのT市の鍵が、落したのではなくて、誰かが盗んだのだったらどうします。その盗んだ人間を、どう処置すればいいでしょうか」
「黒河内さん。儂は警視総監じゃありませんよ。盗人の処分なんか、貴公の役目じゃありませんか」
「そうです。だから私は、自分の職務を遂行しようかと考えているのです。結局私は気の毒な検挙をしなければなりません。それでもいいでしょうか」
「妙なことを云いますなア、貴下は……」動坂は大きい顔を総監の方に向けた。「なんだか、丸で儂がその鍵泥棒を知っているようなことを云う……。なにも儂に御遠慮はいらぬ。捕えると仰有るのなら捕えたらいいでしょう。しかし……」
「しかし、何というのです」
総監と動坂との視線がかち合って、火花でも見えそうな有様だった。
「しかしだ、黒河内さん。失礼ながら貴方なんぞに、その犯人が捕りますかな。犯人を誰だと思っているのです。こうなれば儂は云うが、とにかく市長はどうしていたのか知らぬが、市の鍵を持っていた人物は知っていますよ。貴方にはそれが誰か分っているのかネ。見当もついていないのじゃないか。どうして貴方なんぞに分るものか。貴方の腕前は誰でも知っている。早い話が『深夜の市長』のことだ。……」
『深夜の市長』──という言葉が、突然動坂三郎の口から飛びだしたので、僕はハッと思った。三人の巨頭は、俄然緊張の絶頂に抛りあげられた。
動坂三郎は、語を継いで、
「……あの『深夜の市長』という存在は何です。このT市にああいう奇怪な存在があることは公知なのに、なぜあの一味を黙って捨て置くのだ。貴公は彼等に対して、一指を染めることさえ出来ないではないか。なにが警視総監だ。貴公に総監たる資格などは無い。貴公を拾い上げて総監にした仁は、大きな見損いをしている。寧ろ『深夜の市長』を総監にした方が、ましなくらいだ。はッはッはッ。……とにかく先ほどから黙って聞いていれば、これは何のことはない。総監を笠に来ての脅迫じゃないですか。なんのために大失策をやった市長の肩をもって、善良なるこの動坂三郎を恐喝するのです。儂はもう、こんな不純極まる席に列しているのを好まんから、これで退席しますよ。……」
そういって動坂は悠々と立ち上った。
「いや動坂さん、御苦労でした。では高屋さんも、それから浅間君も……今夜の協議はこれで解散ということにしましょう」
黒河内総監は別に愕きも怒った様子もなく、静かに閉会を宣した。
僕たちは、そのまま階下に降りた。女中たちは不意を喰って玄関へ飛んで出た。動坂三郎を先頭に総監、市長、僕の順で履物を履いた。そして女達の艶かしい声に送られて、植込みの傍を通って表へ出ようとしたその一刹那……
「呀ッ、……」
と叫ぶ動坂の声、その声の終らぬ先に、ポンポンと、二、三発の銃声が通りの方からした。途端にシューッと音がして、僕の耳許を掠めて一発の弾丸が後へ抜け、カーンと竹を並べた垣根に当って跳ねかえった。このとき誰か庭石の上に、ドッと倒れた者があった。
全く不意の襲撃だ。何者の仕業?
反射的に、僕は表へ飛びだした。
「……母アちゃん、よしよ。撃っちゃいや」
僕は待合の向い側で、鋭く泣き叫ぶ女の子の声を聞いた。
「撃っちゃいやよ、あたいの父うちゃんじゃないか……」
と、なおも叫び続ける声!
その方を見やると、一人の女の腕に、蝗のように飛びついている小娘の姿が目に入った。
「コラッ……」女の手にキラリと光ったのはピストルだ。
「絹坊、お離し。……あの悪魔を殺してやるのだ。あいつだよ、『深夜の市長』さまを、どうかしたのは。……」
僕はその声を聞いてハッと愕いた。……絹坊、「深夜の市長」、母アちゃん、父うちゃん……。
「ああ、撃ったのはお照だナ。……」
これはどうしても取り慎めなければいけないと思って一旦立ち停った僕は、再び駈けつけようとした途端、横合から飛びだして来た四、五人の壮漢……。呀ッという間もなく僕の向う脛を掻っ払った。僕は俵のように摚と地上に転倒した。
「……だから、お照さん。云わないこっちゃない。……」
「さあ、愚図愚図しないで、早く逃げるんだ。刑事や巡査がやってくると面倒だ」
「自動車は向うに待っている。早く早く」
雑然と早や口に喋るその言葉から察すると、これはお照の後を追いかけてきた彼の深夜人種らしかった。一行はそのうちにもドヤドヤと一と固まりとなって、要領よく嵐のように引揚げていった。後には集ってきた近隣の人々の怒号する声ばかりが残った。
僕は痛味を怺えて、ようやく起き上った。
気になるのは、三人の巨頭の安否だった。お照の放った弾丸は確かに命中した。その弾丸に当って、待合の前でドーンと倒れてしまったのは、誰だったのか?
真先に目に入ったのは、動坂三郎だった。彼は門の脇にウロウロしていた。その向うに、長々と地上に倒れている人間が見えた。近寄ると、高屋市長の声で、
「おお、浅間君。黒河内さんがやられたッ」
「ええッ、総監がですか。……」
駈けよってみると、何と痛わしいことではないか。黒河内総監が、肩を抑えて呻っていたではないか。
「黒河内さん、どうしました。しっかりして下さい」
「ああ、浅間君。もう何でもないよ」総監は寝たままで云った。「それでネ、浅間君。私は病院に行きたいのだ。君に頼むから、どこかその辺の病院へ連れてってくれ給え。君と二人だけで行きたい。私がいうまで、警視庁へ電話をかけるのも控えてくれ給え。さあ、警官たちの来ぬ間に、早く早く、早くやってくれ」
「ええ、分りました。しっかりしていて下さい。それでは僕が起してあげますから……」
するとその側へ、動坂三郎がヌッと顔を出して、傷ついた総監を覗きこんだ。
「やれやれ、案外君たちは不用意なんだネ。僕を見給え、僕を。ちゃんと防弾チョッキを着込んでいるんだ。ホラ、此処に弾丸が当って穴が明いているが、蚤に喰われたほども感じないさ。うわッはッはッ」
と、高らかに笑って、ポンポンと懐の上を叩いた。
高屋市長はと見ると、今し方総監を介抱していたと思ったのに、いつの間にどこへ行ったのか、姿が消えていた。こんなところに愚図愚図していてこの上変な噂をたてられるのを嫌い、要領よく立ち去ったのかと思った。しかしそれは思い違いで、このとき市長はもっと重大な決意の下に行動していたのだったことは、後にいたって思い合わされた。
総監はウーンウーンと重傷に苦悶していた。この上猶予はならないので、僕は通りがかった円タクを呼び留めて、総監の身体を抱え入れた。何処の病院がいいだろうか。総監は大袈裟に騒がれることを恐れている様子である。そのとき僕は、先年、本所の工場で働いていた友人がクレーンに跳ねとばされて重傷を負ったとき入院した江東外科病院を思いだした。近くはないが自動車のことだから、物の五分も違わないと思ったので、運転手に命じて、江東外科病院の方へ走らせた。
「川田」という仮名をそのまま、病院の受付に登録して、総監の身体は即刻、手術台の上に載せられた。宿直の医師はキビキビした調子で看護婦を督励し、総監の身体を裸にした。右の腋の下を中心に出血はかなり夥しく、消毒した脱脂綿で拭っても、上膊にパクリと明いた傷口から、鮮明な血潮がジクリジクリと、噴きだしてきた。医師は直ちに、総監の右腕の付け根を肩の上から緊縛させた。そしてピカピカ光る手術具をガチャリガチャリと音をさせながら、傷の手当に取懸った。
「……ああ、川田さん……でしたネ。傷は勿論貫通銃創で、弾丸は外へ抜けています。川田さんは天下一の幸運児ですよ。ピストルの弾丸は、長頭膊筋を撃ち抜いていますが、その中には動脈だの上膊骨だのがあるんです。どっちに当っても大変なことになりますが、貴下の傷は幸運にも上膊動脈と上膊骨との中間をうまく貫いています。化膿さえしなければ、ズンズンよくなりますよ」
総監は口を緘したまま、首を振って悦びの色を示した。
僕はそれから小一時間も付き添っていたであろうか。傷も案外急所を外れたことだし、総監もウツラウツラと睡りかけたので、僕は病室を辞去することにした。すると睡っていたとばかり思った黒河内氏は、パッと眼を見開いて、
「……帰るのか、浅間君。今度はたいへん世話になったネ。いずれよくなったら御礼をするよ。……それから雁金検事に伝えて下さい。例の問題につき協調は成らなかった。私はすぐ適宜の処置を講ずるから……とネ。では……」
といって、白い毛布の間から健全な左手を出すと、僕の手を堅く握った。
外に出てみると、愕いたことに、雪がチラチラ降っていた。今夜は莫迦に冷えると思っていたが、やはり雪になる知らせだった。陽春とは名ばかりで、このくろぐろと更けた風なき夜、霏々として真直に降り下る白雪をオーヴァの上に受けて、再び真冬に逢うの想いであった。
僕は何よりも先ず、雁金検事にその夜の出来事の報告をしなければならなかった。待合紅高砂の玄関を出た途端に、あの不意打ちの狙撃事件が起り、重傷者を出すやら、病院まで付き添ってゆくやらで自分一人になる自由を持たなかった。この際のこととて他人に立聞かれるような電話をかけることはできないので、ただ徒らに移りゆく時刻を恨しく見送っていたのだった。今こそ、報告の出来る機会がやって来たのである。
腕時計の指針を探ると、もはや時刻は十二時間近だった。さあ電話をかけるのだ。心当たりの辻々を縫い歩いているうち、ようやく高架橋の畔りに、置き忘れられたようにポツンと立っている公衆電話函を見つけることができた。
電話は検事局の宿直室にすぐ通じた。雁金検事を呼んで貰って、僕は待合紅高砂に於ける三巨頭協議のオブザーヴァとしての報告と、それに続いて起った狙撃事件とを詳細に亘って報告した。
「いかがでしょうか。そちらへ参った方がよければ、すぐ駈けつけますが……」
というと、雁金検事は、
「イヤ電話で詳細分ったから、今夜は来なくてもいいよ。こっちはこっちで人手が十分だから、手配に心配はいらぬ。君はあまり身体に無理をしないで、ちと休養を摂りたまえ」と優しい言葉をかけて呉れたが、最後に不図思いだしたように言葉を付け加え「……だが、逃走した加害者の女の所在が分ったら、そいつはすぐ報告を頼むよ」
そこで電話は切れたが、雁金次席の最後の言葉は、僕の胸をギクンと衝いた。いま自分は忠実なる司法官として、加害者がお照であることを報告したのだ。それに対して上官は、加害者の逮捕を僕にも命令した。街の科学者速水輪太郎を恋人に持ち、「深夜の市長」を神のように崇めているあのお照を、僕が逮捕しなければならぬこととなった。それは決して気持のよいことではなかった。僕は苦しい立場に追いこまれてしまったのだ。──この上は、どうかお照にめぐり会いたくもないものだ。
雪は先刻にも増してドンドン降っていた。収い忘れた陽よけの上にも、軒端に近い舗道の上にも、真白に積ってきた。僕は俄かに空腹を感じた。その上に一椀の温い飲物もほしかった。どこかに蕎麦やでも起きていないかしら。
この辺一帯は物寂しい工業地帯だった。あたりには鉄が錆びたような酸っぱい空気が澱んでいた。そしてどっちを見ても、無暗に頑丈な高塀がつづき、夜空に聳え立つ工場の窓には明々と灯がうつり、それを距てた内側で夜業に熱中している職工たちの気配が感ぜられた。何の音かはしらぬが、カーンカンと金物を打つ鋭い音が冴々と聞えるかと思うと、またザザザーッと物をぶちまけるような高圧蒸気の音がするのであった。
そのとき僕は、工場の塀ぎわに、一軒の中華そば屋の灯を発見した。僕の足は、心よりも先に、その方に踏みだしていた。温い湯気の洩れる暖簾をくぐって、僕は荒くれた二、三人の先客の間に割りこんだ。釜の向うでワンタンを鉢にうつしていた白い割烹着にレースの布を捲いた娘がチラリと一瞥を送って「いらっしゃい」と声をかけた。若い職工の働いている工場街なればこそ、このような妙齢の娘が結構商売をしているのだ。
番が廻って来て、僕の受取った丼は風呂桶のように熱かった。フウフウ吹きながら箸を搬んでいるうちに、身体も魂も自分のところへ帰ってきた様な感じがした。丼を置いてハンカチーを取出そうとしてオーヴァのポケットに手を入れたとき、思いがけなくマッシヴなものが入っているのに愕いた。オヤオヤと思いながら引張りだしてみると、なんのこと、それは築地の河岸ぷちで買い求めた握り寿司の包みだった。いつの間にこんなところへ蔵ったのだろうと呆れる外なかった。
「姐さん、ここに買って来た握り寿司があるんだが、喰べても構わないかネ」
「アラ御馳走さまネ。どうぞ御遠慮なく……」
「じゃあ……」といって、僕はその紙包みを開いて、台の上に載せた。鮪も小鰭も鳥貝も、みなぺちゃんこになっていた。
「君もよかったら一つ喰べないか。温くして貰ったお礼に、無代提供するよ。……どうです皆さんも。よかったら、やって下さい」
じゃ御馳走になろうじゃねえかというので、あっちからもこっちからも手が出てきた。僕はそのとき、この店にコップ酒があるのを見つけたので、早速お燗を頼んだ。
さて、これから先どうしたものだろうか。雁金検事は僕に休養をしろといったが、今夜のような目に会っては寝てもいられなかった。あのお照をどうしよう。
それにしても、お照はよくあそこまでやって来たものだ。ピストルを貸したのは誰だったかしら。絹坊が縋りつかなかったら、弾丸はもっともっと発射されたろう。そうなると僕も今頃はこんなところで中華そばの湯気を吹いたりなど出来なかったかもしれない。
──「深夜の市長」の讐うちだ。
というような言葉を吐いていたなア。
──あたいの父ちゃんを殺しちゃ厭よ!
と絹坊は泣き叫んでいたっけ。
ピストルの弾丸は、動坂三郎と黒河内総監とに命中したがお照が本当に覘っていたのは誰だろう。結果からゆけば、黒河内総監が引きうけちまったことになるが、お照は果して総監を覘ったのであろうか。なにしろあの場には三人の巨頭が居合わせた。いずれも僕より早く、一と塊りとなって門を出た筈だった。お照の覘った相手が知りたいものだ。そしてその相手というのは、絹坊が歌ってきかせた淡海節、
〽この子を生んだあたしはいいがア、この子を生ませたアあなたには貸しがある。ヨイショコショ、忘れしゃんすなア。
という文句にあるとおり、お照は絹坊を生ませた男に対する貸しを、ピストルの弾丸で取ろうとしたものに違いない。すると、あの三巨頭の誰かが、絹坊の隠し父親に違いないのである。一体誰がその父親であろう。動坂三郎であろうか、黒河内総監だろうか、それとも市長高屋男爵であろうか、それが誰であろうと、この立派なる顔触れの中にあるとは、これはなんというセンセイショナル事件であろうか。
「アラお客さん、いやに沈んでいるのネ。なにか貴方の大事な彼の女がどうかしましたか」
娘はニヤニヤ笑いながら、釜の中を掻きまわしている。
「ふふふふ。彼の女がねエ。……図星だと云いたいが、ちょっと的を外れたねえ」
「まア憎らしい。そんなに恥かしがらなくてもいいわよ。オホホホホ」
僕はコップを撫でまわしながら、静かに口に持っていった。深夜の天使は天真爛漫に笑いつづけている。……
そのとき何となく外が騒々しくなってきた。
「何だ。又おっぱじまったのかナ。……」
丼を空けたあとに湯を注いで貰って呑んでいた連中がガヤガヤ云いながら、屋台を出ていった。どうやらこの塀の中の工場らしいが、呶鳴りつけるような大きな声やら、重いチェーンを引上げるらしくガラガラという音などが一しきり喧しく響いてきた。何だろう? と思い、娘に聞こうかと顔を上げてみたが、彼女は全然気にしていないらしく、平然として丼を洗っているので、こっちから問うのが恥かしくなった。
全くもって、深夜の世界には、いろいろ珍らしい出来ごとが後から後へと引切りなしに起っているのだ。ラジオ体操のアナウンサーの声とともに起き、夜の気象通報とともに睡るような多くのT市民たちには全く分らない別の世界なのだ。彼等は全く知らない。彼等が快い高鼾を掻いている間に、その枕許を起重機が軋み、刑事に追われた泥棒が走り、ゴミ箱に睡るルンペンの心臓がハタと停り、死所を求めて彷徨う家出人が大金の入った蟇口を拾い、硝子壜に白い牛乳が一杯詰められては蓋をされてゆくのだ。いやもっともっと恐ろしい事件、珍らしい事件、不思議な事件が後から後へと起っているのだ。何も知らない彼等は天使か白痴かのように、いとも穏かな顔をして睡っているのだ。
ドヤドヤと跫音がして、先刻暖簾を出ていった連中が帰ってきた。
「何だったんです」と僕が声をかけた。
「イヤいつもあるやつでさあ。なにネ、熔鉱炉の中に、誰だか飛びこんだ人間があるようだというのでちょっと騒いだんでさあ」
「えッ、熔鉱炉……」
「そうですよ。この工場の熔鉱炉と来た日にゃ、人間が好きでたまらねえと見えて、よくやるんですよ。なにしろ炉は野天に置いてあるんだし、外から持っていった屑金を直ぐ抛りこめるように、入口から近いところにあるんで、誰でも直ぐ入れまさあネ。そこへ持ってきて、高い炉口に上っている梯子は薄暗く、上にゃ職工が一人きゃいないで、こいつが小さい車を押してあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。だからやろうと思えば誰でも飛び込めるんです……」
「今夜も本当に飛びこんだんですか」
「どうかなア。怖じ気のついた野郎どもが、よく幽霊を見て本当の人間が飛びこんだと早合点することがあるのでネ」
「ほう、幽霊……。つまり幻影を見るんですネ」
幻にしろ本物の人間にしろ、溶鉱炉に飛びこんだと聞いてはいい気持はしなかった。それをきっかけに、僕は勘定を台の上に並べて外に出た。街は雪に睡っている。……
僅かのアルコールに僕の元気はすっかり恢復した。さあ何でも向って来い、だ。しかし困ったことに、司法官試補浅間新十郎と探偵作家黄谷青二との両人格がすっかりごっちゃになってしまって、なんだか妙な気持だ。
間もなく僕は、円タクの中に自分自身を発見した。オヤオヤと思ううちに、「へえ参りました」という運転手の声と共に下されてしまった。一体ここは何処だろうと見廻すと、煉瓦造りの建物が立ち並んでいるあたりにどうやら見覚えがある。
「ほほう。してみると、これは丸の内十三号館の近所に違いない」
僕の潜在意識が、円タクをここへ命じたのであろう。丸の内の十三号館、大いによろしい。今夜こそ、あの街の科学者速水輪太郎をとっちめて呉れるぞオ。
少し酔ってはいるが、記憶は確かだった。十三号館はこれだ。こっちに横丁もある。空気抜きの窓もあった。手をさしこんでみると、なんだか位置が違っているように思ったけれど押し釦もあった。押せば窓もスルスルと明いた。それを攀じのぼろうとしたが──ドッコイ、これア骨だ。……
これを上らなければ職務を遂行するわけにはゆかぬ。僕は二百三高地を攻撃するときのように、飛びついては墜ち、立ち上ってはまた飛びついた。
そのとき誰だか、僕の肩を掴んで、大声に話しかける者があった。やあ天の助けとはこの事だ。僕に力を貸そうという人間が降って湧いたのだった。ひょっとすると僕は、お伽噺に出てくる魔法ランプの持ち主アラジンではないかしら。
「おう、恰度いい。済まんが僕のお尻を持ち上げて呉れ給え」
「こーらッ。貴様は太いやつだ。警官の見ている前で、泥棒に入るとは何だ。俺は警官だぞ」
「ナニ警官だ。そりゃ都合がいい。……」
「なんだとオ。……服装はしっかりしているが……。貴様の住所が何処だ。商売はあるのかア。……」
「住所だ、商売だアというのかア。それなら名刺を呉れといえば話が早いじゃないか。さあ手を出せ一枚二枚三枚……もっと欲しいかア」
警官は名刺を見ると、打って変ったように温和しくなった。
「これは失礼しました。……」
「住所と商売が分ったら、早く僕のお尻をもちあげて呉れ」
「ハッ承知いたしました」
僕はやっと思い通りに、窓の内部へ転げこむことが出来た。警官も続いて入って来ようとするから僕はそれを止めて、これは極秘の事件だから手を出すな、云うことを聞かんで手を出すと、次席検事の雁金さんに叱られるかもしらんぞと呶鳴りつけ、硝子戸をバタンと降してしまった。僕は至極痛快であった。
勝手知ったる廊下を抜けて、ズンズンゆくと、中庭へ出る扉があった。それを押し開くと、庭が見える。石の階段を踏み外したと思ったら、もう中庭に出た。さあ、輪太郎の怪塔は有りや無しやと仰いで見れば、あったぞ、あったぞ、夜目にも屹然と聳える見覚えある高塔──窓についた灯も、この前見たとおりだった。
僕は塔の根元にある入口の扉に向って歩きだした。気がつくと白く積った雪の上に、誰か歩いた足跡がついていた。誰? 輪太郎が帰って来たのかしら。
僕は苦しい息をつぎつぎ、骨の折れる階段を一歩一歩登っていった。それはジャックが豆の木に攀じのぼるように、長い長い遥かな旅程だった。睡くなって来た。……
気がついてみると、僕はなんだか温いものの上に寝ていた。ヒヤリと冷いものが、額から首筋へ流れた。一体どうしたというんだろう。
「ああ、気がついたようです。……」
「ウン、もう大丈夫じゃ」
なんだか聞き覚えのある声に、僕はその方を振り向いた。そこに並んだ三つの顔。おお、その三つの顔!
速水輪太郎と呑んだくれのお照の顔は、別になんでもないからよろしい。しかしもう一つの顔は、僕の心臓を停まらせるほど愕かせた。
「おお『深夜の市長』! 貴方は生きていたのですか?」
「おお、『深夜の市長』! ほんとに貴下は……」
と、僕は吃驚仰天して、その場に跳ね起きた。
「貴下は一体何処に居たんです。みんな心配していましたよ。僕が貴下をどうかしたんじゃないかとひどく疑ぐられて、不愉快でしたよ」
僕は「深夜の市長」の頬から頤にかけて濃い髯のある面を懐しく下から眺めた。彼の顔はなんだかいつもとは違っているようであった。顔色は血の気もない迄に蒼く、そしてたいへん疲れているようであった。でも彼は強いて快活らしく装い、髭の下に隠れた唇を開き、
「いや鳥渡した事件で、友達に頼まれて出かけたんだよ。行ったは行ったが、そのまま手が抜けなくなってネ、皆に心配をかけちまった。……だが儂のことより、お前さん自身を気をつけたがいい。さっきはアルコールの匂いをプンプンさせて、階段の下に仆れていたよ」
「あッ、そうですか」僕は赭くなった。「しかし一体貴下という仁は昼間は何処で何うして暮しているんです」
「およしよ。兄ちゃん!」突然横合からお照が口を出した。虎御前は祝い酒を聞こし召しているらしく、鼻に懸った声を出した。「余計なことを云いだすと、あたしが黙っちゃいないよ」
「おお、お照さん」僕はムカムカとしてきた。「僕は検事局の命令により君を逮捕することが出来るんだぜ」と云ってしまってから、僕は浅間しい威嚇をしたものだと恥かしくなった。
「なんだって? あたしを捕えるんだって。ヘン笑わせるじゃないか。なんだってあたしを捕えるんだい」
「知れたことさ。君は今夜、門前仲町の待合、紅高砂の前でピストルを撃ったじゃないか。撃っただけじゃない。高官に重傷を負わせた。その高官は誰だったと思っている。警視総監の黒河内さんを君は狙撃したのだぞ」
「いけすかないよ。この人は……。そんな脅しの手に誰が乗るもんかネ。あたしには警視総監なんぞ狙うわけはないんだよ」
お照は不貞腐れて天井の方に嘯いた。しかし内心大いに動揺している様子は隠せなかった。これを見ると、お照の覘ったのは総監ではなかったらしい。
「でも命中したのは、総監だった。弾丸は総監の……」
「二人とももう止せ!」と、「深夜の市長」は嗜めるように叫んだ。「とにかくそんな話は、此処ではして貰いたくない」
「いや、僕は云うだけは云います。実は今日までは、お照さんにも同情してきた。しかし今日という今日、お照さんは乱暴にも、あの尊敬すべき黒河内総監を撃ったのです。間違いにしろ撃って傷つけたのに、君は一向悔いていない」
と、僕はお照の鼻の先に人指し指をピッタリと向けた。
「なにが尊敬すべきなもんか。待合に足を踏み入れるような奴に碌な者がいるもんかネ」
「コレお照さん。黙らんかというのに!」
「深夜の市長」はジロリとお照を睨んだ。
「今夜は今も話していたように、もっと大事な仕事があるんだ。喧嘩などしているような時じゃないわ」といって、それから僕の方へ向き直り、「ところでお前さんに訊ねるがのウ」
僕は何とはなしにギクリとした。
「お前さんはこれから司法官として出世をするつもりか、それとも深夜の街をうろついていて、俺たちみたいな日蔭者に堕ちる気か、一体どっちかネ」
さあ──この単刀直入的な問いには、遉の僕もウムと呻ったまま、急に応えるべき言葉も見つからなかった。
「一体どっちの道を行こうというのかネ。司法官として出世するつもりなら、この際もう俺たちとは手を切って貰いたいネ。俺たちと交際っていれば、泥を握ることはあっても、黄金の冠を拾うようなことにはますます縁どおくなるよ」
僕はルンペン老人とばかり思っていた「深夜の市長」が、意外にも六ヶ敷いことを云いだしたので呆れるほど愕いてしまった。この唯者ではない「深夜の市長」の正体は何だろう。──
そのとき、最前から奇妙な器械の前に坐って、しきりに何かを調べていた街の科学者速水輪太郎がつと腰掛から立ち上って、こっちへ歩いて来た。
「さあ、時分は恰度よいようですが、出懸けましょうか」
「そうか。では出発としよう」
「深夜の市長」は立ち上ったが、急に眩暈でもしたらしく、フラフラと蹣跚いた。
「呀ッ、どうしましたッ」「もし、しっかりしてエ」
倒れようとする「深夜の市長」を、駆けよった速水とお照が、背後から危く支えた。
「うっ、痛……」
「深夜の市長」は真青になって、歯をギリギリと噛み合わせた。何か激しい疼痛が、彼を襲っているものらしかった。彼は左手でもって、右の腕を握り潰しそうに掴んでいた。そのとき僕はハッと胸を衝かれたように思った。そんなことがあるだろうか。それは暗合だろうか。もしや、もしや……。イヤそんな不思議なことがあってたまるものか。
「俺は駄目だ。俺に構わず、行ってくれ。機会を逸しては、折角の……」と「市長」は叫んだ。
「でも私だけでは、到底目的を達せそうもありませぬ」
「ウン、そうでもあろうが……」
「仲間のなかから、至急信用の置けるのを選びましては……」
「いかんよ、それは……。極秘が破れる。友人の名誉のために、T市の光輝ある歴史のために、それからまた……」
「なんだか知らないが、僕に手伝わせて下さい。僕はきっと秘密を守ります」
と、僕は立って、床に倒れた市長のところへ、近づいた。
「……」市長は髭の間から唇をブルブル慄わせながら、僕の方を見ていたが「おお、浅間君、では速水を助けて……T市の鍵を……秘密を守って……。明朝までに、市長に渡さぬと彼は……」
そこまでいうと、「深夜の市長」はまだ歯をギリギリと噛んで、ブルブルと慄えだした。──T市の鍵! 高屋市長!
「深夜の市長」が自らこの言葉を口にした! このルンペン老人の綽名は、やはり無意味ではなかったのだ。事情はよく分らないながら、彼と本物の市長との間には、とにかく一脈の縁の水路が続いていたのだった。──僕は跪いて「市長」の手を取ろうとすると、
「さあ行こう」
と、速水は僕の腕を抑えて引張った。
「でも、これじゃ『深夜の市長』を見殺しにするようじゃないかネ」
「仕方がない、後はお照に委せるんだ。躊躇している場合ではない」
後髪を引かれるような想いで、僕は速水と連れ立って、高塔を下りていった。階段を一つ下りるごとに、ズキンズキンと腰に痛みが響いた。しかし足を停めることは出来なかった。
「深夜の市長」が生命を賭けたT市の黄金の鍵のことを思えば……。
事務机の下を抜け、丸の内十三号館の窓を明けて、外へ出ようとすると、いきなり鼻先へパッと眩しい光線が爆発した。ハッと思って呼吸を停めたところへ、窓下から、
「試補さん、さあ私の手にお掴りなさい」
という声、よく見ると何のことだ。先刻この窓を攀じのぼるとき、お尻を持ち上げてもらった巡邏の警官だった。彼は今まで辛棒づよく、この窓下に待っていたものらしい。──同じように逡いだ街の科学者速水に、素早く耳うちをして愕く必要のないことを教えた。忠実なる警官は速水にも手を貸した上、尚も僕たちに附いて用をしたがる様子なので、これからの秘密行動に邪魔になって仕方がなかった。そこで、この館内には病人を看病している女が居るから、もし窓のところへ現われたら手を貸してやってくれと頼んで、ようやくのことで彼を窓下にピン附けにすることができた。そして僕と速水はそのまま薄く雪の積った深夜の舗道を走りだした。
「速水さん、一体これから、どうしようというのかネ」
僕は雪に足をとられそうなのを心配しながら、先刻から聞きたいと思っていたことを訊いた。
「T市の黄金の鍵を奪還するんだ」
「奪還? やっぱりねえ。……その黄金の鍵は何処にあるのかネ」
「市会の巨頭動坂三郎が持っている。これから彼の邸を襲って、奪還するのだ」
「失礼だが、君のような科学者に、泥棒のような忍び込みができるのかネ」
「心配無用!」
そう云い放って、街の科学者は腰のあたりをポンポンと鳴らした。何だろうと音のする方を見ると彼は何時持ちだしたのか、望遠鏡でも入っていそうな長い革袋を肩から斜めに懸けていて、それをポンポンと叩いてみせたのだった。その革袋の中には、いかなる品物が潜んでいるのだろう。
凱旋道路のところまで駆け足で行ってみると、意外にも一台の黒い自動車が、雪の綿帽子を被ったまま、ジッと停っていた。速水がオーイと声をかけると、自動車の扉がサッと開いた。待っていた運転手が、速水の声に応じて、内側から開いたものらしかった。
僕たちが、腰を下すよりも早く、自動車は素早くスタートを切った。──運転手は幅の広い背中をこっちに見せて、黙々とハンドルを握った。車は雪明りの人跡杜絶えた街路を矢のように走っていった。ソッと夜光時計の盤面を見ると、ウラニウム針はピタリと正三時を指していた。
僕は、横に並んでクッションに腰を下している速水をつッ突いた。すると彼は何ごとかと愕いたような顔付で、僕の方に耳を寄せてきた。そこで僕はその耳に口を近づけて、ソッと囁いた。
「君は何故、あんな場所に、あんな塔を建てたのだい。一体何をするのが目的なのかい」
「…………」
速水は無言で、僕の唇から自分の耳を引き千切った。
暫くすると、僕はまた彼の脇腹をつッ突いた。すると彼はまた耳をソッと寄せてきた。
「あの高塔は、夜になるとあの通り聳えているが、夜明けになるとスルスルとエレヴェーター式に、地下に降りてしまうのだろう。いつぞや昼間行ったときは、塔の影も形もなかった。しかし目の鋭い者はそんなカラクリのある事は知っているぞ。なぜっていえば、あの中庭の芝草の生え具合を調べてみると、真中に円形をなした部分の芝草だけは他の部分よりも葉が硬くて丈夫だ。その円形をなした部分が、塔の屋根に当る部分なのだ。その円形の芝草は、夜間高空にのぼって、風に当るから、それで自然に丈夫になるんだ。どうだ、愕いたろう。愕いたら、あの隠見式高塔の使命を教えたまえ」
「……」速水は前よりも激しい愕きの色を見せて、首を元の位置に立て直したが、やがて向うから、唇を僕の耳に持ってきて囁いたことである。「それだけ知っていて、あの塔の使命が察しできないような奴は、よほど頭が悪いのだ」
僕は何をコン畜生と思った。そして三度、彼の腹をつッ突いたのであった。
「どうやら『深夜の市長』は病気らしいが、どこが悪いのかネ」
すると速水は今までとは、まるで打って変ったように悄然として僕の方に顔をすり寄せた。
「全く愕いている。先刻貴下も見たろうが、あんな風に、手でシッカリと腕を掴み、脂汗を流し、歯を喰い縛っていられる。非常に痛みがあるらしいけれど、医者を呼ぼうかといっても聴き入れられないのだ。何処が悪いのやら、全く見当がつかない。貴下に分っていたら、是非教えて貰いたいのだが……」
そこで僕は、さっき彼が僕にして見せたと同じように、傲然として、彼の頭から吾が耳を捥ぎ取ったのである。──速水は、途端にギュッと僕の両の利腕を鷲づかみにすると、グッと自分の方へ引寄せた。僕は小暗い車内灯の光が、彼の瞼の中でチラチラ浮動するのを認めた。僕はつい気の毒になり、
「……速水さん。心配しないでいい。……あの人は、あのくらいの傷で、へたばるようなことはないよ」
と云った。そのとき自動車はゴトンと音をたてて、停った。外を見ると、狭い横丁だった。下りてみると、油じみた職工服を着た男が立っていて、速水に何か耳うちをした。自動車はゴトゴトと音をたてながら、傍の狭いギャレージに後退りしながら入っていったが、ギャレージの中にも二人ほど立ち働いている若者がいて、奥の明るい硝子戸の中には、内儀さんらしいエプロン姿の女の顔がこっちを覗いていた。いよいよ目的地へ来たらしい。
僕と速水とは、職工服男の案内で頑丈な高塀のある邸宅の前に出た。彼の若者は、前後をソッと見廻した後で、潜り戸の上をコツコツコツと三つ叩いた。そこに懸っている標札には「動坂家勝手口」という文字が読めた。──戸は合図に応じて、音もなく内側に開いた。
中には、別の男がいた。彼は火の番のような風体をしていた。僕たち二人を迎え入れると、彼は戸に鍵をかけた後、黙々として傍に置いてある大きな犬小屋の中に姿を隠した。この小屋の主人公であるらしいシェーパードが一匹、雪の積った地面に死んだようになって長く伸びていた。
懐中電灯の光のもとに、絵図を案じながら先に立つ速水に随っていくと、やがて奥庭に出た。
「速水さん、見張りの連中は、僕たちの目的を知っているのかネ。皆いやに黙っているので気味が悪いナ」
「彼等は見張りだけが任務なんだ。──黙っているのは『深夜の市長』の威令が行われている証拠だよ。規律が弛緩すれば、場所がらを弁えず、詰らぬお喋りなどをするものだ」
僕は皮肉を云われたように感じて、それ切り口を噤んだ。
絵図の上に、赤い矢印で示された縁の下の潜り穴が見つかった。そこで両手と膝頭とをついて、薄氷の張っているらしい大地のツーンとする冷たさを痛く感じながら、穴を潜って床下に忍びこんだ。
眩しい懐中電灯の光が、檻の中のようにすさまじい床下を照し出した。
中に入ると速水は悠々と床下に寝転がった。そして肩から長い革袋を下すと、その口を開いた。僕は何が出てくるかと興味をもって眺めていた。中から出て来たのは、何やらこまごました部分品のついたピカピカ光る円筒様のものだった。自動車のタイヤに空気を送るポンプのようでもあり、機関銃のようなところもあった。
「それは何をする器械かネ」
と僕は恐る恐る速水に質問した。
「今に分るときには分る!」
と、速水はさも蒼蠅そうに応えた。そしてその器械を持ちあげて、鉄砲を撃つときのように肩にあてた。だから器械はそのとき直立していた。それから彼は引金のようなものをグッと下に引いた。すると何だか器械の一部が廻りはじめたらしく、微かな響きが聞えてきた。
「浅間君、その懐中電灯を持って、床下を照らしてくれ給え。……そうだ、この器械の恰度真上の辺りを、横の方から照らしてくれるといいんだ」
僕は云われる通りにして、この訳のわからない作業を応援した。
「おお、……」
長いピカピカの円筒の中から、細い真黒な管が徐々に出て来て、床を下から突き刺した。それはまるで、蚊が血を吸うときに、人間の身体に嘴を刺しこんだような恰好だった。──丁度一分ぐらい経ったと思われる頃、撥条が外れたようなジジーという音がした。すると速水は、床から器械を外すのであった。
「もう済んだのかい」と僕が訊くと、
「いや、次だ。……」
そういって、彼はクルリと腹匍いになると、その器械を抱えた儘、向うの方へソロリソロリと芋虫のように匍ってゆくのであった。……
そんな風にして、彼は床の下をあちらこちらと匍いまわり、およそ二十近い個所に、丹念にかの器械の嘴を突きたてては、ジジジーと止めの音をさせていった。僕はいい加減退屈したころ彼はその器械を袋の中に収めた。
「もう済んだのかい」
「準備は済んだ。これからいよいよ本舞台だ。君、こいつを頭から被りたまえ、こんな風に……」
どこに持っていたのか、彼が私に渡したものを見ると、ゴム製の防毒面のようなものだった。しかしそれはたいへんに簡単で、まるで海水帽を少し長くしたほどの手軽なものだった。なぜそんなものを被るのか分らないが、云われるままに、彼を真似て頭の上からスッポリ被った。彼は手を伸ばして僕のマスクを直してくれた。マスクの上から鼻をおさえてみると、なにかお猿の口吻のようにピョコンと飛び出しているものがあって、その間から呼吸が通うらしく、そして何だか薬品の匂いらしい涼しい香りがした。
(さあ、こっちだ!)
と、云わぬばかりに、速水の持っている懐中電灯の光芒がサッと動いた。ヌッと手を上に伸ばしてガタガタやっているうちに、サッと風の通る気配が手首に感じられた。光の動く方を見ると、床にポッカリと四角な穴が明いている。速水は先に立って、その穴を攀じのぼった。僕も続いて昇りかけると、頭の上にパッと明るく電灯がついた。僕は彼の大胆なのに呆れかえった。攀じのぼってみると、それは厨房であった。板の間の揚げ蓋が二枚だけ、横に外されていた。
速水は靴のままで、ゴトゴト板の間を踏みならしながら歩き出した。まるで無人境を踏破しているかのように。
「この家は留守なのかい」
「どうして?……ホラ、これを見給え」
そういって速水は、傍の障子をガラリと開けた。するとそこには年の若いお手伝いさんが、蒲団にくるまって寝ていた。
「ちと静かにしないと、起きられるんじゃないか」
「なんの、起きるものか」
そういった速水は、蒲団の間から、ヌッと出しているお手伝いさんの白い腕を握って激しく動かしたが、お手伝いさんの表情には何の変りもなかった。僕はハッとその場に立ち竦んだ。
「……死んでいるのか」
「なアに、よく睡っているだけだ。先刻床下から注射した毒瓦斯はそれを嗅いだ人間を正味二時間に亘って、生きた屍にする。あの注射器もこの毒瓦斯も、僕が作ったものだ」
床下から麻痺性毒瓦斯を注射する──とは、考えたものだと感歎し、かつ底知れぬ街の科学者の知能に恐怖を感じた。
僕の顔色を早くも見てとったか、このとき速水は僕の前に直立していった。
「君、誤解しちゃいけないよ。僕はいつも正義の味方なんだからネ……もともと私は、人間の活動を束縛するような科学器械を作ることを好む者ではない。しかしこれを一足お先に自分の手で発明して置かなければ、他人が発明を完成して、こっちを束縛しに懸る。こいつはたまらんという外ない。神こそ、最優秀な武器を持たねばならないのだ。──さあ、急いで協力してくれ給え」
速水はドンドンと先に立って廊下を進んでいった。各室に送った毒瓦斯は、正二時間に亘って一家を全滅させているのだった。速水は毫もその毒瓦斯の効力を疑わなかった。
「ここが、動坂三郎の寝室だ。T市の黄金の鍵は、必ず彼の身辺に持っている筈だと『深夜の市長』は云われる。さあ一緒に探して呉れたまえ」
速水は、壁間のスイッチを押してから、重い扉を開いた。天井に嵌めこんだ大きなグローヴを透して、まるで昼間のように明るい光線が室内を照らしていた。これはなんという風変りな部屋だろう。内部は日本間となっていて、丁度お城の広間のようにだだッ広く、その中央に背の高い屏風が立て廻してあった。
僕たちはツカツカと屏風の傍に進み、それを左右に開いた。
まるで土俵のように盛り上った二つの厚い蒲団──その蒲団の夜着の間から、二つの頭が覗いていた。一人は紛れもなき海坊主のような市会の大立物動坂三郎、そしてもう一人はどうも見たような横顔なので、ソッと枕許を廻って、正面から覗いてみたが、途端に呀ッと仰天した。
「……マスミだッ。……」
海坊主の横手にすやすやと夢路を辿っているのは、意外にも彼のモガ崩れのマスミだった。僕はただ訳も分らず、無暗に腹が立った。マスミの枕をポーンと蹴飛ばしてやりたくなって、ツカツカと傍へ寄ったが、途端にこれは卑怯だなと気がついて、辛うじて思い停った。そういえば、先頃、マスミは日比谷公園で動坂の自動車にノコノコ乗りこんだりしたが、それから考えると、この体たらくも別に怪しむに足りないことだったかも知れない。しかし僕は彼女をもっともっと神聖視していた。それが誤りだった。もともと自分が不明だったのである。こう腹の立つのも、マスミに対する嫉妬というよりは、自分の不明に対する憤りのせいだったかもしれない。それにしても、この虫も殺さぬ天使のような少女がやっぱり売女だったとは、なんという淋しいことだろうか。
「おお、売女! 売女!」
僕は眼でもって、マスミの頬を打擲した。眼でもって、微かに白い歯を覗かせた可愛いい薔薇色の唇を抓りあげた。それでも物足りなかった。夜具を跳ねのけて、彼女の細い頸をギュッと締めつけたい衝動に駆られて、怺えがたくなった。僕の腕は、いつしかマスミの顔の方に伸びていた。そしてその指先が、彼女の額に触れんばかりに近づいたとき、僕の腕は急に磐石を載せられたように重くなった。──僕は何処かに凜たる声のするのを聴き咎めた。
(……お前は卑怯者で、冷酷な人間だ。……マスミをこんなにしたのはお前のせいだぞ。お前は今までに度々マスミを救う機会があったのだ。目黒の苺園ホテルを忘れたか、日比谷公園を忘れたか。いやいや、お前はもっと重大な義務からも逃避している卑怯者だ。冷血動物だ。お前はいつも自分だけがいい子になろうとして、責任を回避していたからこんなことになったのだ。お前には意志の力がない。男らしい決心がない。そして不親切だ。恥じるがいい)
僕は胸許をギュウギュウを絞めつけられるように感じた。
その声はまだ続いた。
(……お前はここで気がつかなければならない重大な義務を忘れているぞ。なぜ早くそれを思い出して、その義務を果たそうとはしないのだ。このままでは、お前はまた彼女を、新しい地獄の淵につき墜すようなものだ。反省しろ、そして実行するんだ。マスミに対する罪を贖うには、今からでも決して遅くはないぞ!)
僕は苦しさに怺えられなかった。マスミへの罪、マスミに対して、まだ果さない義務とは何であろう。……僕は胸に手を置いて考えた。何だったか、それは何だったろう……。
「そうだ。アレだ。アノことだッ。……」
僕は予てマスミに対して伝言したい一つの事柄を持っていたのに気がついた。なぜそれを忘れていたのだろう。僕はポケットからノートを出して、その上に鉛筆で走り書に次のようなことを認めた。
──マスミサン、貴女ノ兄サンノ四ツ木鶴吉氏ハ、先月ノ二十九日ノ夜、本所ノ亀井戸近クデ殺害サレマシタ。其ノ屍体ハ油倉庫ノ中ニ投ゲ入レラレ、放火サレタカラ灰ニナリマシタ。兄サンガ何故殺害サレタカ分リマセンガ、其ノ殺害ヲ一番早ク云イ当テタノハ動坂三郎氏デス。動坂氏ハ其ノ翌朝、ツマリ三十日朝、貴女ノ妹サンノ千代子サンニ、ウッカリ夫レヲ話シタノデス。兄サンヲ殺害シロト命令シタノハ動坂三郎ニ違イアリマセン。隣家ノ男ヨリ──
(隣家ノ男ヨリ)と一旦書いてはみたが、どうも卑怯なような気がしたので、それを消して、「浅間新十郎」と堂々、署名をした。それを書き終えると、頁を千切って、小さく折り畳んだ。そして枕許に抛りだしてあったマスミのハンドバッグを開けてその中へ入れて口を閉じた。これでいい。マスミが読んだら、これ以上、仇敵の男と枕を並べるような間違ったことは繰りかえすまいと考えた。──僕はこれで心の重荷を下すことができた。そしてホッと溜息をついた。
「……ちょいと、浅間君。……」
ハッと愕いて、畳の上から飛び上ると、後には街の科学者速水輪太郎が、疲れ切ったという恰好でボンヤリ突立っていた。
「随分探したが、T市の黄金の鍵は何処にも見当らないんだ……」
黄金の鍵? そうだ、自分はマスミに会うために、この家へやって来たのではない。黄金の鍵を探しに来たのであった。何を盆槍しているのだろう。見ると、床の間の上下の戸棚といわず、手文庫の中といわず、書棚といわず、手あたり次第引っ掻きまわされてあったが、これは速水のやったものに違いなかった。欄間を飾る伊藤博文公の額もブランと宙に下っているし、床の間からは掛軸が外され、青銅製の釣鐘の置き物まで、裏返しになっていた。──速水は僕の腕を握ると、力のない声で云った。
「この上、どこを探したらいいだろう。……それとも『深夜の市長』の考え違いで、動坂三郎は黄金の鍵を持っていないのではなかろうか」
科学器械に造詣の深い速水輪太郎も、黄金の鍵の捜査にはすっかり手を焼いたと見えて、先刻とはまるで別人のように悄気ていた。
T市の鍵! いま高屋市長と「深夜の市長」と黒河内警視総監とが、血眼になって探し求めている黄金の鍵は、一体何処に潜んでいるのだろうか。
「……大事なものだから、身近に置いているに違いない」と、「深夜の市長」の云ったこの言葉は、僕も共に同感するところだ。ことに明日は、市会の壇場に於て、動坂三郎は、このT市の黄金の鍵を中心にして、高屋市長の弾劾案を上程するつもりであり、かの待合で放言したところから想像すると場合によっては鍵を必要とするかも知れないと思っているらしいので、それがためには鍵の在所はいよいよ動坂三郎の身辺に局限されてくるのだった。
僕は海坊主のような大きな肉塊をもった動坂三郎の顔を暫く眺めていたが、そのとき不図考えついたことがあった。
「速水さん。ちょっと手を貸してくれたまえ」
「手を貸す? 何をするのかネ」
「この動坂氏を裸にしてみるのだ」
「ナニ、この人を裸に……」
呆れている速水を促して、僕は端の方から蒲団をソッとまくった。しかし僕は慌てて、蒲団を元のように被せた。
「どうしたんだ、君」
速水は怪訝そうに、僕の顔を眺めた。
「……そうだ。動坂氏を蒲団の間から畳の上に、引張り下そう。それがいい」
僕たちは苦心をして、動坂氏の大きな体だけを、畳の上にようやく引張りだした。僕は人間の身体がこんなに醜怪なものであることを始めて知った。
「速水君。これを見給え。嗜みのいい動坂氏は、寝ていても、防弾チョッキを外していないよ」
「ほほう、なるほど……」
動坂氏の寝衣や口腔を調べたが、黄金の鍵は見つからなかった。この上は防弾チョッキだと思ってそれを外してみた。防弾チョッキの裏は、真綿で蔽ってあったが、よく調べてみると、丁度胸骨の当るところに、小さなポケットがついていた。僕はその中へ指をさし入れてみた。
「うむ」
僕は呻った。手応えがあったのだ。摘み出してみると、黄金色目映ゆき、サイダーの栓抜きほどの大きさの鍵!
それには把手のところに、T市の紋章が浮き彫になって居り、鍵軸には「T市の鍵──T市長恒保存之」と刻してあった。
「おおT市の鍵だあ。万歳!」
「ああ黄金の鍵! 私たちの使命は遂に全うせられたッ」
僕たちは鍵を高くさし上げると、感極まって互いにひしと抱き合い、共に相手の胸に顔を埋めて嬉し泣きに泣いた。
これさえあれば、こっちのものである。さあ出かけようという速水を暫く押し止めて、乱雑になった室内を手早く片づけた。速水は鳥渡不服そうに見えたが、それでも一緒になって片づけた。
「この先生はどうしよう」
といって、速水が裸で寝ている動坂三郎を指した。これもまた元のようにする外ない。防弾チョッキもちゃんと元通り胸に当て、その上に寝衣を着せて帯まで結び、肩と足とを二人で担いでヤッコラサと寝床の中に寝かせた。
「オイオイ浅間君。そこはまだ敷蒲団だ。もう一枚まくらなきゃ……」
と速水は僕に注意をした。
「ナーニ、ここん中でも風邪を引きゃしないよ」
そういって僕は無理やりに、動坂三郎を二枚の敷蒲団の間に寝させた。僕は速水が僕の顔を不思議そうに見ているのを知っていた。
僕たちは、元入ったところから、外へ出た。
張り番の人たちは、黙々として僕たちを迎えた。速水は彼等に向って、御苦労さまでしたと丁寧に挨拶したが、この邸の中で行った仕事については一言もいわなかった。
トロトロと睡ったと思ったら、激しく揺すぶり起された。
「浅間さん、しっかりおしよ。……もうすぐお午のサイレンが鳴るというのに……」
女の声で、お午のサイレンという。こいつは失敗ったと思って起きようとするが、瞼がどうしても開かない。
「凱旋勇士が、そんなことでどうするのさ。……愚図愚図していると素裸にして、冷水摩擦をやってあげるがいいこと」
艶めかしい匂いが、僕の鼻をついたかと思うと、僕の身体はフワリと宙に浮き、そして何だかグニャリと軟い物の上に置かれた。
「さあさあ、襯衣も下帯も外して……」
うわーイと、僕は目を醒ました。目を明けてみると、大きな女の顔が笑っている。やはりそんな気がしていたが、お照の顔だった。よせよせというのに、彼女はハアハアいって笑っている。気がつくと、僕はお照の部厚な膝の上に抱きあげられていたのだった。僕は愕いて、彼女をつきのけて下に下りた。
……腕時計を見ると、今漸く午前九時になったばかり。うまうま一杯欺された。お照という女は、酔っては怒りやすく、醒めては濃厚すぎるほど世話好きになるまことに困った女である。
寝ていたところは、丸の内十三号館の街の科学者速水輪太郎の高塔の中。──昨夜は遉が不死身の僕も、速水と連れ立って、「深夜の市長」の待っているこの高塔まで辿りついたときはヘトヘトになってしまったのだった。折角の凱旋報告も何を云ったかハッキリ覚えていない。「深夜の市長」は病床の上から手をさし伸べて僕に固い握手をして呉れ、いろいろと褒めて呉れたようだったが、結局、T市の黄金の鍵は、明日市庁へ行って、高屋市長か中谷助役に自ら手渡すように頼まれたことだけは記憶している。それから後は、横に倒れて、ちょっと一と睡りと思ったのに、もう六時間も経ってしまったのだ。──室内にはお照の外に誰も見えない。
「ねえお照さん、『深夜の市長』は?」
「なにを云ってるのよオ。もちろん明けないうちに、お帰りになったわよ。……さあ牛乳にトーストよ」
お照はどこで用意して来たのか、銀盆の上に、軽い食事を搬んできた。
「いや済まない。……『市長』はあんな重態でも、やはり夜明け前には居なくなるのかネ。……それはそうあるべきだろうけれど……」
「なにが、そうあるべきサ」
「イヤ、あの人の生活は、ちょっと僕に似ているところがある」
「ちっとも似てやしないよ。似ているといやあ、うちの絹坊に似ているよ。お陽さまが嫌いなところがネ」
「ああ絹坊! 絹坊といえば、絹坊はどうしているネ」
「けさ速水さんが病院に連れていったよ。お陽さまを恐がるのをセイシンブンセキとかで癒すためにネ。あたしは余計なことだと思っているんだけれど、あの人は癒してやるってきかないのだよ」
「精神分析か、速水さんの好きらしいことだ」僕は熱い牛乳を一口すすった。「お照さん、絹坊の父親は誰なんだネ」
お照はギクリとしたらしく、一歩身を引いて立ち竦んだ。
「あんたは、このあたしを縛るつもりなのネ」
「……うんにゃ、縛るのはもうよしたよ、はッはッはッ」
「だってそれじゃお役目をどうするの……」
「お役目か、お役目なんざ……もう罷めちまうばかりだ」
「ヘン、云ってるよ。あんたが本当にお役人を罷めたら、あたしは逆立をしてあんたの周りをグルグル廻ってみせるわ」
「そうか。じゃそれを娯しみにしているが……あの淡海節に詠みこんだ『この子を生ませたあなた』というのを教えろ」
「知らないッ。……」
「知らない? じゃあヨイショコショ教えてやろう、こっちから……。あの子の父親は……いいかネ……動坂三郎だッ」
「まあ、どうしてそれを……」
「君は彼奴が待合から出てくるのを覘って撃ったのだ。弾丸は美事に命中したのだ。しかし彼奴は死なない」
「そうなのか。確かに当ったのに……」
「防弾チョッキを着てやがるんだ。生命には別条ない。昨夜彼奴の防弾チョッキを見たが、君の呪いの弾丸が二発鋼鉄の上に浅い凹みを造っていたぜ。もし徹りぬけりゃ、心臓を射留めたろう」
「卑怯な男!」
「だがお照さん、今日は君のために、市会の真唯中で彼奴をとっちめてやるからネ」
「ああ、市会でネ。……そういえば、アラもう遅いわよ。けさ早く『深夜の市長』さんから電話が掛って来て、あんたを十時半までに、市庁へ着かせるようにッて!」
「十時半だって……。なぜそれを早く云わないんだ」
僕は、例の問題は正午過ぎに上程のことと思い、正午までに行けばいいのだと思って、悠っくりしていたのだった。僕は愕いて、牛乳をガブガブと飲み、トーストを口に銜えて、洗面所へ駆けつけた。鏡に写った僕の顔は、一夜のうちに頬がゲッソリ痩け、寝不足の眼は真赤に充血していた。
「じゃ行ってくるよ。……まあ、帰って来てから、ゆっくり君のロマンスを聴かせて貰おう」
僕は黄金の鍵をポケットの中に握りしめて、いつものように螺旋階段を下ろうとすると、お照は慌ててそれを停めた。
「こっちから出るのよオ」
お照は明るい窓に手をかけてガラガラと明けた。外には青い空が見えるかと思いの外明るさは硝子戸と一緒に上に上って、そこにはポッカリと真暗な穴が明いた。変なことがあればあるものと、よくよく見ると、何のことだ、擦り硝子の窓は抽斗のようになっていて硝子の外側に昼色電灯が点いているのだった。窓を明けると昼色電灯も一緒にガラガラと上に上ったのであった。外は暗い地下道だった。しかしよく見ると、ずっと向うの方まで、燭力の弱い電灯が続いていた。それもその筈、今は昼間だから、この速水の高塔は、エレヴェーター仕掛で地下に下っていたのだった。窓を明けると、外は地下道になっていたって別に不思議はない。
「ここをずっと行くと、地上に出てよ。……じゃ、しっかりあたしの敵をとって来てね」
お照の甘ったるい声に送られて、僕は窓を跨いで小暗い地下道に下り立った。しかし、そのときはこれがお照との永のお別れになろうなどとは気がつかなかった。
少しずつ上り坂になった地下道をグルグル廻ってゆくと、やがて一つの扉にぶつかった。それを押してみると、苦もなく開いて、雑然と木箱やバケツの転がっている物置のような部屋に出た。そこを構わず出てゆくと、階段があって、それを登り切ると、直ぐに出口がひらけ、自動車が河のように流れている明るい街路が見えた。外に出てみると、なんのこと、今出てきたのは有名な××ビルだったのには愕いた。──僕は早速、通りがかりの円タクを呼びとめて、市庁へ急がせた。
市庁の前は、いつもとは違い、どこから集ってきたのか、黒山の人だかりだった。それはどうやら市政に興味を持つ市民の群らしかった。今日の市会の険悪な雲行が露骨に反映しているかのようであった。
秘書課に名刺を出して、市長に面会を求めたが、市長は今日はまだ登庁していないということだった。オヤオヤと思って、それでは助役の中谷銃二に取次ぎを頼むと、今議場に出て、市長に代って奮戦の真最中だとのことだった。それなればというので僕は勝手知ったる議場の方へ行ってみることにした。
なるほど議場は、め組の喧嘩のように殺気立っていた。
正面の演壇の方に眼を向けると、壇上にスクッと立ち上って拳を盛んにふりまわしているのは、外ならぬ動坂三郎氏だった。氏の身辺には、二、三十名の壮漢がギッシリと取囲み、壇上壇下一帯を占領しているらしかった。その横後には、中谷助役以下の当局者がズラリと並んでいたが、いずれも蒼白な面を伏せて、罪人の如くオドオドしていた。市長席は空席で、まるで歯の抜けたような物淋しさを見せていた。──動坂氏は満面を朱にして猛虎の如く吠える。……
「……土地払下案について重大なる質問をしたのに、市長及び当事者が答弁をしないとは何事であるか。剰さえ、吾等市民代表者の切なる要求を斥け、一件書類を金庫から取出して見せることを拒むとは横暴とも理不尽とも、実に言語道断の振舞いである。未だ曾て三百万人の市民は、斯くの如き侮辱を蒙り、斯くの如き暴政に蹂躙せらせたことはないのである。金庫を開放して見せるまでは、われわれは餓死するともこの市政壇上から一歩も退くものではなアい!」
動坂氏の演説ぶりは、実に勇壮無比なものではあったが、昨夜の彼の醜態を思い出した途端に、およそ滑稽至極なものに見えた。──議席は満場総立ちとなり、怒号と拍手と口笛と足踏みとで、まるで鼎の沸くような騒ぎだった。この急迫せる事態を鎮圧すべき議長は、まるで置き物のように天井に向いて嘯いていた。それもその筈、彼もまた動坂一派の強か者だったのである。
僕はこの有様を見て、最早一刻も猶予すべき時ではないと思った。
僕は市委員控室の方に廻った。丁度そこに給仕が一人、リーダーを勉強していたので、これに一つの封筒を渡し、急いで中谷助役に手渡してくれるように頼んだ。給仕は、リーダーの頁に折り目をつけて本を閉じると、すぐ立ち上って議席の方へスタスタと歩いていった。
僕は再び議場にとってかえした。中谷助役はどんな顔をするだろうかと思うと、興味が深かった。──中谷助役は怪訝な面持で給仕から受取った封筒を机の蔭で破っている様子だった。一秒、二秒、三秒、俄然中谷助役の顔色は酒を飲んだ人のように赤くなった。と思うと今度は反対にサッと蒼ざめた。彼は額に手を当てた。傍にいた第二助役が顔を寄せたと思うと、彼に急にソワソワしだした。それもその筈だった。簡単な手紙と共に僕は封筒の中に、昨夜動坂三郎の懐中から奪ってきたT市の黄金の鍵を入れて置いたのだったから……。
壇上の動坂三郎は、拳を突き出して喚き散らしていた。
「……T市の金庫を、たった今、明けてみせるか、それとも明けられない事情を説明するか?」
「よろしい。……では金庫を明けてお目に懸けよう!」
突如として叫んだのは、中谷助役だった。彼は右手に高く黄金色燦然たるT市の鍵をさしあげた。
議席からも壇上からもウワーッという喚声が起って、議場の天井を地震のように揺すぶった。──そして市会議員たちは、席を立ってわれ勝ちに出口の方に殺到した。それは開扉されようとする金庫の中を、誰よりも早く見たいがためだった。
市長室に据えつけられた金庫の前は、たちまち十重二十重に人垣で囲まれた。遅れ走せに駆けつけた議員たちは、熱狂のあまり、市長の机の上に土足のまま上るものもあれば、それでも入れぬ議員たちは、廊下のところでウンウン犇き合った。
「……では、これより金庫を開きまアす」
立合の衆はまたもやワーッと喚声をあげたが、あとは中からどんなものが飛び出すかと一座は緊張の極に達し、水を打ったようにシーンと鎮まりかえった。
中谷助役は、金庫の前に片膝をついて、鍵穴に黄金の鍵をさし入れた。そして、ガチャガチャと右に廻したり、左に廻したりした。しかし何時まで経っても、金庫の扉は明かなかった。一座は早くも事態に気がついたらしく、ガヤガヤとザワめき立った。
「どうしたッ、早く開けろッ」「ガチャガチャはもう沢山だ。扉を明けるんだ」「なんだなんだ、一向開きそうもないじゃないかッ」
一座は再び騒然として来た。呶鳴る者、口笛を吹く者、カラカラ笑う者、いや大変な騒ぎになってきた。──中谷助役は死人のような顔をして、フラフラと立ち上った。それを見た瞬間、僕の心臓は早や鐘のように鳴りだした。
(これァどうしたのだ。──何か間違っているところがあるらしい! あの鍵がどうして役に立たないのだ)
僕の全身の血は、俄かに逆行を始めた???
そのとき傍で、傍若無人にカラカラと笑う者があった。愕いて振りかえってみると、そこには海坊主のような動坂三郎が大口を開いて、腹の底から笑いを爆発させているのだった。──拍手とシーッシーッという声とが入り交って起った。
「あッはッはッ。なんのことだ。鍵を入れただけのことで、金庫の扉は、ビクともしないじゃないかッ! うわッはッはッ」
「インチキ公吏を葬れ」だの、「市長はどうした、市長を出せ」とか、「首を縊って天下に謝罪しろ」とか、聞くに堪えない罵声が、また一としきり市長室の壁も破れんばかりに響いた。
「満場の諸君!」と、動坂三郎は大声を張りあげた。「この出鱈目にして無恥厚顔なる現市長一派に対し、吾輩はこれから血涙を払って、重大なる曝露を始める。正義の同志よ、吾輩の云うことに耳を藉せ」
喚声は三度、市長室の壁を震駭させた。「謹聴謹聴」という。
「……昨夜のことだ。吾輩の邸は、恐るべき暴漢の一味によって襲撃された。暴漢は土足のまま闖入し、手当り次第什器を破壊し、婦人の寝室を襲い、吾輩を人事不省に陥れて手籠めにした。暴漢は貴重なる数々の物品を奪っていったが、その主要なる目的は、T市の黄金の鍵を奪うにあった。T市の黄金の鍵! それはT市長が生命を賭して保管しなければならぬ貴重品だが、高屋市長は或る秘密事件に関係して、代償の約束のため、秘密を握る某氏に貴重なる鍵を預けたのである。某氏は受取った品物を見てT市の鍵なるを知り、愕いて吾輩のところへ相談に来た。これはT市の名誉のために由々敷いことであると思い、吾輩は即座に数万金を積んで、その黄金の鍵を買い受けた。かくしてT市の鍵は一と先ず安全に戻ったけれど、市長一派は毫も反省の色なく、剰さえT市の鍵が吾輩のところにあるのを知ると、仮面の悪人どもを語らいあらゆる悪辣なる手段を弄してその奪還を図ったのだ。市長とグルになった黒河内警視総監は、吾輩を待合に呼んで脅喝し、吾輩が鍵を渡すのを拒むと、権力をもって奪還すると豪語した。昨夜闖入した暴漢は、実に黒河内の使嗾による者で、主立つ者は二人──一人はT市の壁蝨というべき、有名なる無頼漢『深夜の市長』と、もう一人は愕くなかれ現職の司法官浅間新十郎という悪役人だッ」
僕はここまで聞くと、口惜しさのために歯ぎしりした。なんたる捏造だ。なんたる侮辱だ。だが何故、自分の交っていたのを知っているのか。
「……これが見えるか、諸君! この手帳こそは、昨夜司法官浅間新十郎が遺留していったものだ。彼は市長と警視総監と検事局と、それから無頼漢『深夜の市長』とを結ぶ連絡係に外ならない! どうだこの官憲の堕落と暴状とは……」
手帳! と聞いて「失敗ったッ!」と思ったが、もう遅かった。ああ何たる失敗! 昨夜僕はマスミのハンドバッグに手紙を入れるのに気を取られ、頁を破った手帳を蒲団の上かどこかに置き忘れて来たのだった。飛んでもない失敗だ。そのために「深夜の市長」を始め、市長、検事局、それから警視総監にまで迷惑をかけるとは、ああ、なんたる失策だッ! 死んでも死に切れない。
「吾輩はかねてこの危険を慮り、T市の鍵の模造品を用意して身辺に保管して置いたのだ。昨夜の暴漢は、それを偽せ鍵とも知らずして盗んでいったのだ。その偽せ鍵がどうして今中谷助役の手に入ったか、その間の事情を考え合わすと、市当局が如何に堕落し切っていて、悪人輩と結託しているかが分る。T市長よ、隠れていないで、吾等の前にこれを釈明しろ。いや出て来られまい。釈明の仕様がないのだからナ」
動坂三郎の咆哮の下にあって、僕はもう生きた気持もなかった。──そのときだった。
「諸君! 高屋市長の所在が分りました」
そういって突然の声に、声のする市長室の入口の方を振りかえってみると、そこには意外にも厳然たる制服に身を固めた黒河内総監が立っていた。議員たちは、非難の的の人物が、突如として眼前に現われたので、眼を瞠って駭いた。
総監の顔色は、重傷まだ癒えないためか、紙のように白かった。彼は人垣を分けて、市長の金庫の前まで出てきた。動坂三郎は苦がりきって総監の行動を注視していた。
「満堂の諸君。市長は昨夜深更、遂に自殺を遂げました──」
人々は思わず呀ッと叫び声を立てた。
「高屋市長は本官に遺書を郵送されました。内容は三項から成立っていて、第一はT市の黄金の鍵の紛失に責任を負うということと、第二は市長は深く動坂三郎氏を恨み、氏が経営する本所のDSマグネット工場の熔鉱炉に飛び入ること、第三に本官の手でT市の黄金の鍵を探して金庫を明けて貰いたいこと──この三つが記されています」
動坂三郎がDSマグネットの工場を持っているとは初耳だったが、高屋市長は昨夜深更、その熔鉱炉に飛びこんだというと、ハテナ、昨夜僕が屋台の中華ソバを食べているとき、そのうしろ、熔鉱炉に人が墜ちたと騒いでいたが、あれがそうだったのに違いない。僕は首筋に水を浴びたように慄然とした。
「ああ、そこで本官は、高屋市長の委託により、ここにありまする金庫を明けたいと存ずるものであります」
「明くものかッ」「明くものなら先刻明いた筈だ」「まだその上に恥を掻きたいかッ」などと相変らぬ野次が飛んだ。
黒河内総監は、別に立腹の模様もなく、入口の方に向って手をあげた。すると合図に応じて、一隊の警官隊がゾロゾロと入って来た。「横暴!」「弾圧排斥!」の声が起った。
何事が始まるのかと思っていると、警官隊の中から飛び出して来たのは、よく街路などで見るアセチレン瓦斯を使う熔融切断器を持った職工体の男だった。彼は人造人間の頭のようなグロテスクな円筒形の冑を被っていた。呀ッと驚く議員たちを尻目に、彼は忽ちシュウシュウと音をさせたかと思うと、途端に器械の尖端から噴きだす目も昏むような真青な火焔をズバリと金庫の扉にさし向けた。遉がに堅きを誇る鋼鉄製の扉も、この高熱火焔に会っては一とたまりもなく、パチパチと火花は四方に飛散し、アレヨアレヨと云っている間に黄金の鍵のさしこまれたまま金庫の鉄扉の真中には大孔が穿たれた。
遉がの動坂一派の荒武者どもも、この豪快な金庫の鍵?の使い方にすっかり度肝を抜かれた形で誰一人声を立てる者もなかった。──待望の扉は除かれた。さてその中を改めてみると、収ってあった筈の土地払下案をはじめ一切の重要書類が影も形もなかった。その代り金庫の棚には大きな馬蹄形磁石が一つ、人を莫迦にしたように鎮座していた。──人々はウムと呻ったきり、互いの顔を見合わせた。
「どうですナ動坂さん」と総監は穴の明いた金庫を指さして云った。「都合のいい嘘をつきたいため、今揷しこんだ鍵を偽せ物と呼びたいようですが、これはやっぱり本物のT市の鍵ですよ。だが貴方の工場で作ったこんな強力な磁石が入っているんでは、いくら本物の鍵を入れても扉は明く筈がないですネ。それはいいとして、紛失した重要書類の所在は、貴方が一番御存知のように思いますが、至急当局へお返しねがいたいですね」
「誰が書類のことなんか知るものか」動坂三郎は早くも出口のところまで逃げていたが、カッと目を剥いた。「ウム、よくも邪魔を……イヤ横暴なことをしたなッ。明日まで待っていろ、貴様を馘にした上、貴様が深夜の闇に隠れてどんな悪事を重ねているか、その仮面を引ン剥いてやるから……。よく覚えていろッ」
黒河内総監はニヤリと動坂の後を見送り、
「仮面は貴方のことです。貴方の仮面さえ剥げば、私はすぐにも辞職しようと……これ、この通り辞表を用意しています」
総監は懐中から白い辞表をふってみせた。
「明日だッ。何もかも明日だッ。覚えて居れ。……」
動坂三郎は凄い捨台辞を残して、姿を廊下の方に消した。
敏腕もて鳴る黒河内総監と市会の巨頭動坂三郎とは、遂に真正面から衝突せんとして辛うじて解決を明日に伸ばした。
──しかし本当は明日まで待つことを要しなかったのである。それはその午後、思いがけない結果が訪れ、あたら動坂三郎をして、その捨台辞を不渡りにさせちまった。僕はそのことを、役所へ遅く出て知った。それは同僚の一人が、僕の留守にマスミから掛ってきた奇怪な電話を報告してくれたからだった。同僚はこんな風にいった。──
「なにしろ、その女はハアハア息を切らせていたよ。君の留守を残念がってネ。……なんでも今、動坂三郎を自動車で連れだして運転手にアイスクリームを買いにやらせ、その留守に車内で或る手段により毒殺したというのだ。動坂は自分の兄を殺した仇敵である。その兄というのは、動坂の頼みにより高屋市長から鍵を奪ったんだそうだが、それを感謝もせず、秘密漏洩の方を恐れて殺したという。……よく分らないが、なんでも兄さんなる人物に、磁力の強いニッケルを持たせて置いて、遠方から背後目懸けて短剣を抛げた。短剣は磁力に強く引きつけられ、覘い誤らずズブリと背中を刺したという。……なんだか君に教えられてそれから、分ったんだが有難いって……それから彼女は車内へ引返して毒を嚥むといった。──本当だったよ。先刻、日比谷脇で車内の二人の屍体を検案したよ」
僕はこの意外な話に、卓子の上にガバと伏して、暫くは顔があげれなかった。
T市の市政をめぐる恐ろしい嵐は過ぎ去った。高潔なる高屋市長は自殺し、敏腕を謳われた黒河内警視総監は辞職し、悍雄動坂三郎はマスミの手で無理心中させられた。なにもかも一時に移り変ってまるで夢のように感じる。よくよく考えてみると、この数々の惨劇に、もともと無関係の筈の僕でありながら、事実上、どの事件にも深い関係を持っていたことになる。驚くべき奇縁だといわなければならない。それを思うとき、僕は大きな後悔と激しい刺戟とに身を焼かれるの想いがある。この大きな苦悩から、なんとか免れる途はあるまいか。──そうだ、無いこともない。
僕は決心を定めて、その夜雁金次席を私邸に訪い、退職の件を願いいでた。この物優しい先輩は、いろいろと僕を慰めてくれ、退職を思い停るように薦めてくれたけれど、僕の決心はいよいよ固かったのである。イヤ全く、このたびのように事件がなくとも、僕みたいな性格の男は、もともと司法官などが勤るような高等な人間ではないのである。それをすこしよく云えば、僕は司法官になるにはあまりに人間臭が強かったのであった。
ようやく雁金検事の聴許を得て、僕はホッとした気持で外に出た。春の夜とはいえ、今夜も前日に続いて、また雪でも降りかかりそうな寒さだった。
「とうとう、役人生活を棒にふったぞ!」
僕は独り言をいって、自分に云い聞かせた。そうだ、もう僕は司法官でも役人でもないのだ。天下のルンペン浅間新十郎なのだ。これからどうして世渡りをしてゆこうか。
僕の足は、いつとはなしに、大河の鉄橋の上を渡って、河の向うの「深夜の市長」の棲む洞窟の方に近づいていった。馴染み深い深夜の街は、まるで僕の故郷のように感じられた。業平橋を越え、右に広い道を折れ、それから狭い横丁に入りこんでいった。目印の炭屋の角を曲れば、そこの突き当たりが「深夜の市長」の洞窟だった。──行きついた洞窟はなんとなく様子が違っていて、入口に堆高く空き函が積みあげてあった。
「モシ、『深夜の市長』さん。──」
僕は内へ向って、忍びやかに声をかけた。ところがどうしたのか幾度くりかえしても、何の応答もなかった。僕の心は急に不安に包まれた。僕は急いで、入口をふさいでいる空き函の山を上の方から崩していった。──穴の中は真暗だった。人の気配もない。懐中電灯をパッと照らしてみると、洞窟内は奇麗に片づいていて、蓙一枚見当らなかった。只一つ、入口に四角な紙包みが、糸の先に吊されてプランプランしていた。
「おお、これは……」
僕はそれを手にとってみた。表には僕の名が書いてあった。封を破ってみると、中から一枚の紙片と、顔の下半分に当る付け髯とが出てきた。その紙片に認められてあった数行の文字は、僕を非常に驚かせた。
──一路、司法官としての御成功を祈り、永遠に君と袂を別つ。而して記念のために今は吾れに用なき「深夜の市長」の仮面を君に贈る。黒河内生──
僕は「深夜の市長」の付け髯と手紙とを胸に押しあてたまま、暫くは茫然としていた。今までどうもそんな気がしないこともなかったが、「深夜の市長」こそ深夜の勤務における黒河内警視総監の姿だったのか、いや黒河内総監こそは「深夜の市長」の昼間における勤務姿だったといった方がいいように思う。だがルンペンになった僕が、途端に「深夜の市長」に捨てられたことは大変寂しかった。
いや「深夜の市長」に捨てられたばかりでなく、その一党にも捨てられたことが後になってハッキリ分ってきた。その後、夜更けて幾度も丸の内十三号館を訪ねたが、あの聳え立っていた高塔も見えず、裏口の通路も見当らず、もちろん速水輪太郎にもお照にも会えなかった。夜の街の行きずりに、ルンペン爺さんの袂を引いて尋ねても、僕の顔を一と目見るなり顔を背けて、知らぬ知らぬと首を振るのだった。
僕は今でも、時折思いたっては、当て途もなく深夜の街を散歩する。そんなときは、今夜こそは、「深夜の市長」にパッタリ行き逢いそうな気がするのだが、不幸にして、その後一度も彼にも彼の一党にも巡り逢ったことがない。従って、彼等の残していった数々の謎も、いまだにやっぱりそのままになっている。
底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房
1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷
初出:「新青年」博文館
1936(昭和11)年2月~6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
「霞ヶ関まで」
※「浅間信十郎」と「浅間新十郎」の混在は底本の通りです。
入力:電子JUの会(吉野真帆)
校正:門田裕志
2010年10月10日作成
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