聖書の読方
来世を背景として読むべし
内村鑑三
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聖書は来世の希望と恐怖とを背景として読まなければ了解らない、聖書を単に道徳の書と見て其言辞は意味を為さない、聖書は旧約と新約とに分れて神の約束の書である、而して神の約束は主として来世に係わる約束である、聖書は約束附きの奨励である、慰藉である、警告である、人はイエスの山上の垂訓を称して「人類の有する最高道徳」と云うも、然し是れとても亦来世の約束を離れたる道徳ではない、永遠の来世を背景として見るにあらざれば垂訓の高さと深さとを明確に看取することは出来ない。
「心の貧しき者は福なり」、是れ奨励である又教訓である、「天国は即ち其人の有なれば也」、是れ約束である、現世に於ける貧は来世に於ける富を以て報いらるべしとのことである。
哀む者は福なり、其故如何? 将さに現われんとする天国に於て其人は安慰を得べければ也とのことである。
柔和なる者は福なり、其人はキリストが再び世に臨り給う時に彼と共に地を嗣ぐことを得べければ也とのことである、地も亦神の有である、是れ今日の如くに永久に神の敵に委ねらるべき者ではない、神は其子を以て人類を審判き給う時に地を不信者の手より奪還して之を己を愛する者に与え給うとの事である、絶大の慰安を伝うる言辞である。
饑渇く如く義を慕う者は福なり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して斯かる国の斯世に於て無きことは言わずして明かである、義の国は義の君が再び世に臨り給う時に現わる、「我等は其の約束に因りて新しき天と新しき地を望み待り義その中に在り」とある(彼得後書三章十三節)、而して斯かる新天地の現わるる時に、義を慕う者の饑渇は充分に癒さるべしとのことである。
矜恤ある者は福なり、其故如何? 其人は矜恤を得べければ也、何時? 神イエスキリストをもて人の隠微たることを鞫き給わん日に於てである、其日に於て我等は人を議するが如くに議せられ、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤ある者は矜恤を以て審判かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債ある者を我等が免す如く我等の負債を免し給え」、恐るべき審判の日に於て矜恤ある者は矜恤を以て鞫かるべしとの事である。
心の清き者は福なり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論現世ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然なり、然れど彼の時(キリストの国の顕われん時)には面を対せて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(哥林多前書十三の十二)、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造主なる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光輝その質の真像なる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖父を見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くに再地に臨り給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。
和平を求むる者は福なり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者には権を賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞は斯くも遠大無窮である。
義き事のために責めらるる者は福なり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有なれば也、現世に在りては義のために責められ、来世に在りては義のために誉めらる、単に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害らる、栄光此上なしである、我等もし彼と共に死なば彼と共に生くべし、我等もし彼と共に忍ばば彼と共に王たるべし(提摩太後書二章十一、十二節)、キリストと共に棘の冕を冠しめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。
「我がために人汝等を詬誶り又迫害偽わりて様々の悪言を言わん其時汝等は福なり、喜べ、躍り喜べ、天に於て汝等の報賞多ければ也、そは汝等より前の予言者をも斯く迫害たれば也」と教えられた、天国は万事に於て此世の正反対である、此世に於て崇めらるる者は彼世に於て辱しめらる、此世に於て迫害らるる者は彼世に於て賞誉らる、「或人は嬉笑をうけ、鞭打れ、縲絏と囹圄の苦を受け、石にて撃れ、鋸にてひかれ、火にて焚れ、刃にて殺され、棉羊と山羊の皮を衣て経あるき、窮乏して難苦しめり、世は彼等を置くに堪えず、彼等は曠野と山と地の洞と穴とに周流いたり」とある(希伯来書十一章三十六─三十八節)、是れ初代の信者の多数の実験せし所であって、キリストを明白に証明して、今日と雖も稍々之に類する困厄の信者の身に及ばざるを得ないのである、而かも信者は悲まないのである、信仰の先導者なるイエスは其の前に置かれたる喜楽に因りてその恥をも厭わず十字架の苦難を忍び給うた(同十二章二節)、信者は希望なくして苦しむのではない、彼も亦「其前に置かれたる喜楽に因りてその恥を厭わない」のである、神は彼等のために善き京城を備え給うたのである、而して彼等は其褒美を得んとて標準に向いて進むのである(黙示録七章九節以下を見よ)。
如斯くに来世を背景として読みて主イエスの是等の言辞に深き貴き意味が露われて来るのである、主は我等が明日あるを知るが如くに明白に来世あるを知り給いしが故に、彼の口より斯かる言辞が流れ出たのである、是れ「我れ未だ生を知らず焉んぞ死を知らん」と言う人の言ではない、能く死と死後の事とを知り給いし神の子の言である、彼はアルバであり又オメガである、始であり又終である、今あり昔あり後ある全能者である(黙示録一章八節)、故に陰府と死との鑰(秘密)を握り今ある所の事(今世の事)と後ある所の事(来世の事)とを知り給う(同十八、十九節)、而して斯かる全能者の眼より見て今世に於て貧しき者は却て福なる者である、柔和なる者(蹂躪らるる者の意)は却て地の所有者となる、神を見るの特権あり、清き者は此特権に与かるを得云々、言辞は至て簡短である、然れども未来永劫を透視する全能者の言辞として無上に貴くある、故に単に垂訓として読むべき者ではない、予言として玩味すべき者である。
其他山上の垂訓の全部が確実なる来世存在を背景として述べられたる主イエスの言辞である、而して此背景に照らし見て小事は決して小事ではない、其兄弟を怒る者は(神の)審判に干り、又其兄弟を愚者よと称う者は集議(天使の前に開かるる天の審判)に干り、又狂人よという者は地獄の火に干るべしとある(馬太伝五章二十二節)即ち「我れ汝等に告げん、すべて人の言う所の虚しき言は審判の日に之を訴えざるを得じ」とある主イエスの言の実現を見るべしとのことである(同十二章三十六節)、姦淫の恐るべきも亦之がためである、「若し汝の眼汝を罪に陥さば抉出して之を棄よ、そは五体の一を失うは全身を地獄に投入れらるるよりは勝ればなり」とある(同五章二十九節)、又施済は隠れて為すべきである、右の手の為すことを左の手に知らしむべからずである、然れば隠れたるに鑒たまう神は天使と天の万軍との前に顕明に報い給うべしとのことである(同六章四節)、即ち「隠れて現われざる者なく、蔵みて知れず露われ出ざる者なし」とのことである(路加伝八章十七節)、今世は隠微の世である、明暗混沌の世である、之に反して来世は顕明の世である、善悪判明の世である、故に今世に隠れて来世に顕われよとの教訓である。
殊に山上の垂訓最後の結論たる是れ来世に関わる一大説教である。
と(七章二十一節以下)、実に強き恐るべき言辞である、僅かに三十歳を越えたばかりの人の言辞として駭くの外はないのである、イエスは茲に自己を人類の裁判人として提示し給うのである、万国は彼の前に召出されて、善にもあれ悪にもあれ彼等が現世に在りて為ししことに就て審判るるのである、而して彼は悪人に対し大命を発して言い給うのである、「我れ嘗て汝等を知らず、悪を為す者よ我を離れ去れ」と、如何なる威権ぞ、彼は大工の子に非ずや、而かも彼は世の終末に於ける全人類の裁判人を以て自から任じ給うのである、狂か神か、狂なる能わず故に神である、帝王も貴族も、哲学者も宗教家も皆尽くナザレ村の大工の子に由て審判かるるのである、嗚呼世は此事を知る乎、教会は果して此事を認むる乎、キリストは人であると云う人、彼は復活せずと云う人、彼の再臨を聞いて嘲ける人等は彼の此言辞を説明する事が出来ない、主イエスは単に来世を説き給う者ではない、彼れ御自身が来世の開始者である、彼は単に終末の審判を伝え給う者ではない、彼れ御自身が終末の審判者である、パウロが曰いし如くに神は福音を以て(福音に準拠して)イエスキリストを以て世を審判き給うのである(羅馬書二章十六節)、聖書は明白に此事を教える、此事を看過して福音は福音で無くなるのである、而して終末の審判はノアの大洪水の如くに大水大風を以て臨むとのことである、而して之に堪える者は存り之に堪えざる者は滅ぶとのことである、而して存ると存らざるとは磐に拠ると拠らざるとに因るとのことである、而して磐は主イエス御自身である、彼に依頼み彼の聖言に遵いて立ち、之に反きて倒れるのである、人生の重大事とて之に勝る者はない、イエスを信ずる乎信ぜざる乎、彼の言辞に遵うか遵わざる乎、人の永遠の運命は此一事に由て定まるのである、而して能く此の事を知り給いしイエスは彼の伝道に於て真剣ならざるを得給わなかった、山上の垂訓は単に最高道徳の垂示ではない人の永遠の運命に関わる大警告である、天国の光輝と地獄の火とを背景として読むにあらざれば福音書の冒頭に掲げられたるイエスの此最初の説教をすら能く解することが出来ないのである。
若しキリストが説かれし純道徳と称えらるる山上の垂訓が斯の如しであるならば其他は推して知るべしである、若し又人ありて馬太伝は猶太人に由て猶太人のために著されし書なるが故に自から猶太的思想を帯びて来世的ならざるを得ないと云うならば、異邦人に由て異邦人のために著わされし路加伝も亦イエスの言行を伝うるに方て来世を背景として述ぶるに於て少しも馬太伝に譲らないのである、医学者ルカに由て著わされし路加伝も亦他の福音書同様著るしく奇蹟的であって又来世的であるのである、イエスの出生に関する記事は措いて問わずとして、天使がマリヤに伝えし
とある言は確かにメシヤ的即ち来世的の言である(一章三十三節)、神の言葉として是は勿論追従の言葉ではない、又比喩的に解釈せらるべきものではない、何時か事実となりて現わるべき言葉である、然るに今時は如何と云うに、イエスの死後千九百年後の今日、彼は猶太人全体に斥けられこそすれ「ヤコブの家を窮なく支配す」と云いて猶太人の王ではないのである、又「その国終ること有らざるべし」とあるも実はキリストの国と称すべき者は今日と雖も未だ一もないのである、基督教国基督教会孰れも皆な名のみのキリストの国である、真実のキリストは彼等に由て涜され彼等の斥くる所となりつつあるのである、依て知る路加伝冒頭の此一言も亦未来を語る言として読むべきものであることを、イエスは第二十世紀の今日今猶お顕わるべきものである、彼の国は今猶お臨るべき者である、而して其の終に臨るや、此世の国と異なり百年や千年で終るべき者ではない、是は文字通り永遠に継続くべき者である、而して信者は忍んで其建設を待望む者である。
同三章五節、六節に於てルカは預言者イザヤの言を引いて曰うて居る、曰く
と、大切なるは後の一節である、「諸の人」即ち万人は神の救を見ることを得んとの事である、是未だ充たされざる預言であって、キリストの再現を俟ちて事実として現わるべき事である、全世界に今や三億九千万の基督信者ありとのことなれども是れ世界の人口の四分の一に過ぎない、而して四億近くの基督信者中其の幾人が真に神の救を見ることを得しや知る人ぞ知るである、而して「諸の人」と云えば過去の人をも含むのであって、彼等も亦何時か神の救を見ることを得べしと云う、而して是れ現世に於て在るべき事でないことは明瞭である、基督教会が其伝道に由て「諸の人」に神の救を示すべしとは望んで益なき事である、而かも神は福音を以て人を鞫き給うに方て、一度は真の福音を之に示さずしては之を鞫き給わないのである、茲に於てか何時か何処かで諸の人が皆神の救を見ることの出来る機会が供えられざるを得ないのである、而して斯る機会が全人類に供えらるべしとは神が其預言者等を以て聖書に於て明に示し給う所である、而して路加伝の此一節も亦此事を伝うる者である、
と馬太伝二十五章にあることが路加伝の此所にも簡短に記されてあるのである、未来の大審判を背景として読みて此一節も亦深き意味を我等の心に持来すのである。
其他「人情的福音書」、「婦人の為にせる福音書」と称えらるる路加伝が来世と其救拯と審判とに就て書記す事は一々茲に掲ぐることは出来ない、若し読者が閑静なる半日を選び之を此種の研究に消費せんと欲するならば路加伝の左の章節は甚大なる黙想の材料を彼等に供えるであろう。
路加伝に依る山上の垂訓。六章二十節以下二十六節まで、馬太伝のそれよりも更らに簡潔にして一層来世的である。
隠れたるものにして顕われざるは無しとの強き教訓。十二章二節より五節まで、明白に来世的である。
キリストの再臨に関する警告二つ。同十二章三十五節以下四十八節まで。序に「小き群よ懼るる勿れ」との慰安に富める三十二節、三十三節に注意せよ。
人は悔改めずば皆な尽く亡ぶべしとの警告。十三章一節より五節まで。
救わるる者は少なき乎との質問に答えて。同十三章二十二節より三十節まで。
天国への招待。十四章十五節─二十四節。
天国実現の状況。十七章二十節─三十七節。
財貨委託の比喩。十九章十一節─二十七節。
復活者の状態。二十章三十四節─三十八節。
エルサレムと世界の最後。終末に関する大説教である、二十一章七節より三十六節まで。
勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充溢れて居る、即ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書なることを、来世抜きの聖書は味なき意義なき書となるのである、「我等主の懼るべきを知るが故に人に勧む」とパウロは言うて居る(哥林多後五の十一)、「懼るべき」とは此場合に於ては確かに終末の審判の懼るべきを指して言うたのである(十節を見よ)、慕うべくして又懼るべき来世を前に控えて聖書殊に新約聖書は書かれたのである、故に読む者も亦同じ希望と恐怖とを以て読まなければならない、然らざれば聖書は其意味を読者に通じないのである。
然るに今時の聖書研究は如何? 今時の聖書研究は大抵は来世抜きの研究である、所謂現代人が嫌う者にして来世問題の如きはない、殊に来世に於ける神の裁判と聞ては彼等が忌み嫌って止まざる所である、故に彼等は聖書を解釈するに方て成るべく之れを倫理的に解釈せんとする、来世に関する聖書の記事は之れを心霊化せんとする、「心の貧しき者は福なり、天国は即ち其人の有なれば也」とあれば、天国とは人の心の福なる状態であると云う、人類の審判に関わるイエスの大説教(馬太伝二十四章・馬可伝十三章・路加伝二十一章)は是猶太思想の遺物なりと称して、之を以てイエスの熱心を賞揚すると同時に彼の思想の未だ猶太思想の旧套を脱卻する能わざりしを憐む、彼等は神の愛を説く、其怒を言わない、「それ神の震怒は不義をもて真理を抑うる人々に向って天より顕わる」とのパウロの言の如きは彼等の受納ざる所である(羅馬書一章十八節)、斯して彼等は─是等の現代人等は─浅く民の傷を癒して平康なき所に平康平康と言うのである、彼等は自ら神の寵児なりと信じ、来世の裁判の如きは決して彼等に臨まざることと信ずるのである、然し乍ら基督者とは素々是等現代人の如き者ではなかった、彼等は神の愛を知る前に多く神を懼れたる者である、「活ける神の手に陥るは恐るべき事なり」とは彼等共通の信念であった、彼等がイエスを救主として仰いだのは此世の救主、即ち社会の改良者、家庭の清洗者、思想の高上者として仰いだのではない。殊に来らんとする神の震怒の日に於ける彼等の仲保者又救出者として仰いだのである、「千世経し磐よ我を匿せよ」との信者の叫は殊に審判の日に於て発せらるべきものである、而して此観念が強くありしが故に彼等の説教に力があったのである。方伯ペリクス其妻デルシラと共に一日パウロを召してキリストを信ずるの道を聴く、時に
とある(行伝二十四章二十四節以下)、而して今時の説教師、其新神学者高等批評家、其政治的監督牧師伝道師等に無き者は方伯等を懼れしむるに足るの来らんとする審判に就ての説教である、彼等は忠君を説く、愛国を説く、社交を説く、慈善を説く、廓清を説く、人類の進歩を説く、世界の平和を説く、然れども来らんとする審判を説かない、彼等は聖書聖書と云うと雖も聖書を説くに非ずして、聖書を使うて自己の主張を説くのである、願くば余も亦彼等の一人として存ることなく、神の道を混さず真理を顕わし明かに聖書の示す所を説かんことを、即ち余の説く所の明に来世的ならんことを、主の懼るべきを知り、活ける神の手に陥るの懼るべきを知り、迷信を以て嘲けらるるに拘わらず、今日と云う今日、大胆に、明白に、主の和らぎの福音を説かんことを(哥林多後書五章十八節以下)。
底本:「日本の名随筆 別巻100 聖書」作品社
1999(平成11)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「聖書之研究」
1916(大正5)年11月号
※「棉羊」と「綿羊」の混在は、底本の通りです。
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月3日作成
2014年1月17日修正
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