問答二三
内村鑑三
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客あり余に問ふに左の二三の事項を以てせり、而して余は爾か答へぬ。
問、足下は日本の基督教は今より何年を期して復興すると考へらるゝや。
答、教会は草木又は動物の如き自然物にあらず、草木は時期を定めて花を有ち菓を結び、小児は或る時期を経過すれば成人して智力の啓発に至るべし、然れども教会は人為的なり、復興せんと欲せば明日、今日、之を復興するを得べし、而して其復興の方たるや、安楽椅子に倚り罹り、或は柔軟なる膝褥の上に跪き如何程祈祷叫号するも無益なり、暑を山上に避けながら眼下に群住する憐れなる数万の異教徒の為めに祈願を込めるも無益なり、教会復興の方策とは教導師先づ躬から身を捐つるにあり、彼の家族の安楽を犠牲に供するにあり、若しミツシヨンより金を貰ふ事が精神上彼と彼の教会の上に害ありと信ずれば直に之を絶つにあり、我れ饑ゆるとも可なり、我の妻子にして路頭に迷ふに至るも我は忍ばん、真理は我と我の家族より大なり、此決心を実行あらん乎、教会は直に復興し始むべし、是れなからん乎、復興は世の終まで待つも来らざるべし。
問、足下は尚ほ何時迄も著述に従事せれんとする乎(基督信徒に他人の仕事を気にする者多し)。
答、余は基督の兵卒なり、兵卒は其時の来る迄は何をなすべきかを知らず、主の命ならん乎、余は高壇に立つ事もあるべし、官海に身を投ずるやも計られず、基督信者は目的なき者なり、自から一の目的を定め、万障を排し、終生一徹其目的点に達せんと勉むるが如きは余の不信仰時代の行為なりき、主の命維れ徇ひ、今日は今日の業を成す、是れ余の今日の生涯なり、余に計画なる者あることなし、何と愍むべき(羨むべき)生涯ならずや。
問、他人に道を説くに如何なる方法を採るべきや。
答、余は曾て如此き事を試みし事なし、否な試みて其甚だ馬鹿気切たる事を認めたれば全然之を放棄せり、道を行ふ事是れ道を説く事なり、殊更に勉めて他人を教化せんとするが如きは是を為す者の僣越を示し、無智無謀を証す、余は知る大陽は勉めて輝かざるを、星は吾人の教化を計て光を放たず、光からざるを得ざれば光るなり、我れ主に倚り、主我れに宿る時は我は勉めずして光を放つなり、而して世は我より出る主の光を見て我を信ぜずして主を信ずるに至る、是れ余の信ずる基督教的伝道なる者なり。
客又問はず、余を辞して去る。
底本:「内村鑑三全集3 1894-1896」岩波書店
1982(昭和57)年12月20日発行
底本の親本:「福音新報 59号」署名(内村鑑三)
1896(明治29)年8月14日発行
入力:ゆうき
校正:ちはる
2000年11月2日公開
2011年9月3日修正
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