時事雑評二三
内村鑑三
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一、独立論
独立を唱ふるは善し、然れども如何にして之を実行すべき乎、言ふを休めよ「汝我と共に独立する時は我も独立せん」と 独立とは「独り立つ」といふことなり、他人と共ならでは立ち得ざる人は独立には非らざるなり、独立を望むものは先づ独りで立つべきなり、而して独立の人相集て始めて独立の教会もあり、独立の国家もあるなり、集合的独立を望んで個人的独立を敢てせざるものは独立するとも独立の好結果に与かり得ざるなり、我等は厄介者と共に独立するを甚だ迷惑に感ずるなり、他人の独立する迄は依頼して他人の独立を待つて始めて独立せんとするものは何時迄待ても独立し得ざる人なり。
二、一致の来る時は何時か
是れ宗派的交渉の成りし時にあらざるなり、是れ神学的一致の来りし時に非ざるなり、真正の一致は吾人各々がその奉ずる所の主義を其儘実行する時にあり、約定上の一致は無益なり、我等をして之に信を置かしむる勿れ、実行上の一致のみが頼むに足るの一致なり、自身の主義を実行し得ざる人は人情の秘密を会得し得ざるが故に他を容るゝ雅量を有せず、実際に真面目に生涯の真味を味ひし人のみが互に共に働き得る人なり 宗教を以て茶話席の活題となすに止まるものは言語的捺印的の一致を計れよ、然れども二つとはなき此の生命を捨ても真理の為めに尽さんと欲するものは斯の如き演劇的同盟に加はること能はざるなり、汝一致せんと欲する乎、先づ汝の主義を決行せよ、然らば其時汝は宇宙に存在する総ての誠実なる人と一致せしなり、一致の難は外が来て汝と一致せざるに非ずして汝の誠実ならざるにあり。
三、真面目ならざる宗教家とは誰ぞ
真面目ならざる宗教家とは、直接間接に外国伝道会社の補助に与かり居りながら外国宣教師を悪口批難するものなり、社界の先導者を以て自ら任じ居りながら社界に引摺られつゝ行くものなり、教会内に偽善者の潜伏し居るを知りながら其破壊を恐れて之を排除し得ざるものなり、教会独立を唱へながら世の賛同を得ざるが故に躊躇遁逃するものなり、犠牲だとか精神的教育だとか能弁的に社界に訴へながら自らは米国的安楽主義を採るものなり、即ち義を見て為し得ざる卑怯者なり、即ち脳髄と心臓と性質を異にするものなり、即ち唇と手と一致せざるものなり、即ち宗教を弄するものなり、即ち世の中に誠実てふものゝ実在するを信ぜざるものなり、即ち不実の人なり、即ち未だ真理を会釈せざる人なり。
是等が真面目ならざる宗教家なり、彼等の存在は教会に害あり、社界に害あり、国家に害あり、今日は彼等を排除すべき時なり。
底本:「内村鑑三全集3 1894-1896」岩波書店
1982(昭和57)年12月20日発行
底本の親本:「基督教新聞 578号」署名(内村生)
1894(明治27)年8月24日発行
入力:ゆうき
校正:ちはる
2000年11月2日公開
2005年9月27日修正
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