人相見
内田魯庵



 占ひ、人相、方角、気にしだしたら際限が無い。朝から晩まで易者、人相、方位家と駈けずり廻つても追付かない。が、中には道楽で、何にも見て貰う事も無いのにソコラ中へ冷かしに行くものがある。私の亡夫なぞは道楽の方で、能く出掛けては見て貰つたが、誰のは筮竹の揉み方が勿体振つてるとか、算木の置き方が巧者だとか、そんな事ばかり云つて、肝腎占なつて貰つた事はケロリと忘れて念頭に無かつた。其頃(明治の初年)は芝の石竜子(先々代)や馬道の千枝田(?)が名人で、其前に坐ると直ぐ何を見て貰ひに来たかを看抜いたさうだ。私の父が千枝田へ行つた時、坐るか座らない中に『お前は冷かしに来たんだナ、帰れ〳〵ツ。』と一喝されて縮み上つたさうだ。

 だが、易者も中々理詰めな事を云ふ。十七八歳の頃、退屈𠗕ぎに近所で評判の占ひに見て貰つた事があるが、先生厳べらしい顔をして易を立て、軈て咳払ひして曰く、アンタは哲学者志望だナ、でなければ実業家だナ、と。成程人間の方向を荒つぽく二分したら大抵此の二つのドツチかに収まつて了う。先生再び咳一咳して曰く、アンタは何をやつても成功する、勉強なさい、天下に名を揚げる事が出来る、と安国寺瓊慶もどきに三世を看透したやうな顔をして更に一転語を下して曰く、だが怠けちやイケマセンぞ、怠けると何にも出来ませんぞ。成程理詰めだ。小学校の修身読本はチヤンと教へてゐる。

 三十年も前の話、戸川残花がヒヨツコリやつて来て曰く、数寄屋橋外に頗る上手な人相見がある、百発百中で数寄屋橋教会の会員は皆信じてゐるんで坪内君と一緒に実験に出掛ける筈になつてるが、君も一緒に行かないかといふ話で、約束の日を打合はして当日三人して出掛けた。坪内君はドウいふツモリであつたか知らぬが、残花は性来ミスチツクの好きな心霊信仰の男で占ひ人相は何より好物、見て貰はない中から信心肝に銘じてゐたらしい。

 赤煉瓦の小さな板木師の家で、人相見の看板も何も出てゐない横の格子戸を排けて、残花が数寄屋橋教会の誰それからの紹介で上つたといふと直ぐ慇懃に二階に通された。

 主人は板木師の親方であるが、観相家だけあつて職人らしくない沈着きがあり、眼が据つて鋭くギラ〳〵してゐた。アトにも先きにも相を見て貰つたのは前後に一回ぎりだから、ヨソの人相見はドウいふ風に見るか知らないが、此の剞劂堂先生は天眼鏡を片手に顔を押しつけぬばかりに眼を近寄せて鋭どい眼を光らしてヒタと看入つた。丸で骨董屋が石か玉のニユウを捜し出さうとする塩梅式だ。眼蓋の裏を返して見たり、鼻の孔を仰向かして見たり、口を開かして覗いたり、耳朶の裏表を検めたり、眉や髯の中から生え際まで撫でて見たり、医者の診察の二三層倍も入念に三人を代る〳〵に見てから徐ろに天眼鏡を下に置いた。

 三人は名刺を出さないから無論誰だか解らなかった。が、残花がクリスチヤンであるのは紹介者が数寄屋橋教会の会員だから直ぐ判断が附かうし、其の同伴者であるから我我両人も読者階級者であるのは亦容易に推測されやう。相者は先づ坪内君に向つて、『アナタは万人に仰がれ慕はれる貴相がある、職業で云つたら学校の先生といふやうな御身分だ。』と見事に図星を当てた。尤も残花と私とは和服の着流しであつたが、坪内君だけは洋服で、一見先生らしかつた。相者は更に一歩を進めて『アナタの前額には(何とかいふ相学のテクニツクを使用して)といふ不幸の相が現はれてをる。アナタの目上、例へばお兄いさんとか伯父さんとかいふ方の御不幸が此頃有りましたらう。』と云つた。坪内君は如何にも的中したといふやうに首肯いてゐた。(続いて二三の問答があつたが今は全く忘れて了つた。唯之だけを覚えてる。)

 私は三人の中の一番弱輩で、カスリの羽織なんぞを着てゐたからマダ学生と思つたのであらう。『アナタは哲学を勉強してゐなさるナ。』と言葉もやゝゾンザイだつた。前に話した易者も私を哲学者志望だと云つたが、復た今度も哲学書生だ。私の顔は哲学臭いと見える。『アナタは立派に哲学者となれる、勉強なさい。』と復た同じやうな訓誡を受けた。尤も今度は怠けるとイケマセンゾといふやうな月並な説諭は云はれないで、『アナタは今働いてる、ドコかへ旅行する相がある。本年は必ず洋行出来る、』と自分が留学生の辞令を呉れさうな口吻だつた。マダ勤学中の学生と見立てゝ年配から云つて留学を志ざしさうに判断するは先づ当らずと雖ども遠からずと考へたんだらう。処で私は其頃欧羅巴では無いが或る外国へ渡航する計画が有つて、誰にも云はぬが内々準備してゐた最中なので、鳥渡言ひ当てられたやうな気がした。

 残花は一番アトだつた。一番余計口を利いて相者と頻りに問答した。クリスチヤンであり、ミスチツクが好きで、心霊無限力を信じ、此の人相実験の発頭人であり案内者であるくせに残花は『お前達には騙されないぞ』といふやうな顔を粧ふて較やもすれば馬鹿にするやうな口気があつた。坪内君は例の通り恭謹で、相者の一語々々に感服したやうに首肯いて見せた。私は三人の中の弱輩だから控へ目に謹んでゐた。残花は東道の主人として多少座を取持つツモリもあつたらうが、一人で饒舌して相者を呑んで掛つておヒヤラかす気味があつた。其態度が癪に触つたのだらう。残花が相者の下した或る判断を冷かすやうに薄笑ひながら否定して掛ると、相者は忽ち威丈高に大喝して曰く、『それが証拠にはアナタの□□にホクロがある!』

 さすがの残花もアツと絶句してタヂ〳〵となつた。『そいつは気が付きませんナ。』とシドロモドロで、『帰つたら能く調べて見ませう、』と。スツカリ胆を奪はれてヘタ〳〵と参つて了ひ、見事敗北の形で三人共にソコ〳〵と暇乞ひして引下つた。

『之なり別れちやアツケナイ。』と残花は外へ出ると提議した。『ドツカで茶でも喫みませう。』と今は無くなつたが其頃は東京に一ヶ処か二ヶ処しか無かつた土橋の壺屋の二階へ上つた。

 そこで三人は今日の実験の成果を語り合つたが、三人共に事実の幻しのやうなものが当つたらしい。

『□□のホクロは驚いた。』と残花はテレ秘しにゲラ〳〵と笑ひながら、『自分のカラダだつてソンナ事まで調べちやゐないからマゴついて了う。』

『嚇かされたネ……エツヘツヘツ。』と坪内君も心から笑止しさうに笑つた。『□□のホクロは奇抜だ。あの調子で度胆を抜くのがコツだネ!』

 彼これ小一時間も□□のホクロに花を咲かして三人は別れ〳〵に帰つた。

 残花の□□に果してホクロが有つたか無かつたか、其後訊きもしなかつたし話しもしなかつたし夫ぎりイツカ忘れて了つた。

 此の愛嬌のある逸話を残した残花も今は天国だか極楽だかの人(残花は仏耶両道だつた)となつたが、此の一喝された瞬間のタヂ〳〵となつた容子やテレがくしのゲラ〳〵笑ひは今でも耳目の底に残つてゐる。此の機鋒辛辣な人相見は其後ドウしたか知らない。

底本:「日本の名随筆82 占」作品社

   1989(平成元)年825日第1刷発行

   1997(平成9)年520日第6刷発行

底本の親本:「内田魯庵全集 第八巻」ゆまに書房

   1987(昭和62)年3

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:前野さん

校正:門田裕志

2002年124日作成

2012年17日修正

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