吉原新話
泉鏡花



       一


 表二階の次の六畳、階子段はしごだんあがり口、余り高くない天井で、電燈でんきひねってフッと消すと……居合わす十二三人が、皆影法師。

 なかちょう水道尻すいどうじりに近い、蔦屋つたやという引手茶屋で。間も無く大引おおびけの鉄棒かなぼうが廻ろうという時分であった。

 うるうのあった年で、旧暦の月がおくれたせいか、陽気が不順か、梅雨の上りが長引いて、七月の末だというのに、畳も壁もじめじめする。

 もっともこの日、雲はぬぐって、むらむらと切れたが、しかしほんとうにあがったのでは無いらしい。どうやら底にまだ雨気あまきがありそうで、悪く蒸す……生干なまびの足袋に火熨斗ひのしを当てて穿くようで、不気味に暑い中にひやりとする。

 気候はとにかく、八畳の表座敷へ、人数が十人の上であるから、縁の障子は通し四枚とも宵の内から明放したが、夜桜、仁和加にわかの時とは違う、分けて近頃のさびれ方。仲の町でもこの大一座は目に立つ処へ、浅間あさま端近はしぢか戸外おもてへ人立ちは、嬉しがらないのを知って、うち姉御あねごが気を着けて、すだれという処を、幕にした。

 ひさしへ張って、浅葱あさぎに紺の熨斗のし進上、朱鷺色ときいろ鹿の子のふくろ字で、うめという名が一絞ひとしぼりくれない括紐くくりひもたすきか何ぞ、間に合わせに、ト風入れに掲げたのが、横に流れて、縮緬ちりめんなまめかしく、おぼろさっと紅梅の友染をさばいたような。

 この名は数年前、まだわかくって見番の札を引いたが、うち抱妓かかえで人に知られた、梅次というのに、何かもよおしのあった節、贔屓ひいきの贈った後幕うしろまくが、染返しの掻巻かいまきにもならないで、長持の底に残ったのを、間に合わせに用いたのである。

 端唄はうたの題に出されたのも、十年近く以前であるから。見たばかりで、野路のじの樹とも垣根の枝とも、誰も気の着いたものはなかったが、初め座の定まった処へ、お才という内の姉御が、お茶きこしめせ、と持って出て、梅干も候ぞ。

「いかがですか、甘露梅かんろばい。」

 と、今めかしく註を入れたは、年紀としわかい、学生もまじったためで。

「お珍らしくもありませんが、もう古いんですよ、私のように。」

 と笑いながら、

「民さん、」

 と、当夜の幹事の附添いで居た、佐川民弥たみやという、ある雑誌の記者を、ちょいと見て、

「あのなんか、手伝ったのがまだそのままなんです。召あがれ。」と済まして言う。

 様子を知った二三人が、ふとこれで気が着いた。そして、言合わせたように民弥を見た。

 もっとも、そうした年紀としではなし、今頃はもう左衛門で、女房の実の名も忘れているほどであるから、民弥は何の気も無さそうに、

「いや、御馳走ごちそう。」

 時に敷居の外の、そのなが六畳の、成りたけ暗そうな壁の処へ、紅入友染べにいりゆうぜんの薄いお太鼓を押着おッつけて、小さくなったが、顔のあかるい、眉の判然はっきりした、ふっくり結綿ゆいわた角絞つのしぼりで、柄も中形も大きいが、お三輪といって今年がしち、年よりはまだ仇気あどけない、このお才の娘分。吉野町よしのちょう辺の裁縫おしごとの師匠へくのが、今日は特別、平時いつもと違って、途中の金貸の軒に居る、馴染なじみ鸚鵡おうむの前へも立たず……黙って奥山の活動写真へもれないで、早めに帰って来て、紫の包も解かずに、……

「道理で雨があがったよ。」

 嬉々いそいそ客設けの手伝いした、その──


       二


 お三輪がちょうど、そうやって晴がましそうに茶をいでいた処。──甘露梅の今のを聞くと、はッとしたらしく、顔を据えたが、ねたという身で土瓶をトン。

さあちゃん。」

 と背後うしろからお才を呼んで、前垂まえだれの端はきりりとしながら、つまなまめく白い素足で、畳触たたみざわりを、ちと荒く、ふいと座をったものである。

 待遇あいしらいに二つ三つ、続けて話掛けていたお才が、唐突だしぬけに腰を折られて、

「あいよ。」

 で、軽く衣紋えもんおさえ、せた膝で振り返ると、娘はもう、肩のあたりまで、階子段はしごだんに白地の中形を沈めていた。

「ちょっと、」……と手繰って言ったと思うと、結綿ゆいわたがもう階下したへ。

「何だい。」とお才は、いけぞんざい。階子段の欄干てすりから俯向うつむけにのぞいたが、そこから目薬はせなそうで、急いで降りた。

「何だねえ。」

「才ちゃんや。」

 と段の下の六畳の、長火鉢の前に立ったまま、ぱっちりとした目許めもとと、可愛らしい口許で、引着けるようにして、

「何だじゃないわ。お気を着けなさいよ。梅次ねえさんの事なんか言って、兄さんがほかの方にきまりが悪いわ。」

「ううん。」と色気の無いうなずき方。

「そうだっけ。まあ、いやね。」

かない事よ……私は困っちまう。」

「何だねえ、高慢な。」

「高慢じゃないわ。そして、先生と云うものよ。」

「誰をさ。」

「皆さんをさ、先生とか、あの、貴方あなたとか、そうじゃなくって。誰方どなたも身分のある方なのよ。」

「そうかねえ。」

「そうかじゃありませんよ。才ちゃんてば。……それをさ、民さんだの、おはんだのって……私は聞いていてはらはらするわ、お気をけなさいなね。」

「ああ、そうだね、」

 と納得はしたものの、まだなんだか、不心服らしい顔色かおつきで、

「だっていやね、皆さんが、おばけの御連中なんだから。」

 習慣ならわしで調子が高い、ごくないの話のつもりが、処々、どころでない。半ば以上は二階へ届く。

 一同くすくすと笑った。

 民弥は苦笑したのである。

 その時、梅次の名も聞えたので、いつの間にか、縁の幕の仮名の意味が、誰言うとなく自然おのずと通じて、投遣なげやりな投放むすびばなしに、中を結んだ、べに浅葱あさぎの細い色さえ、床の間のかごに投込んだ、白い常夏とこなつの花とともに、ものは言わぬが談話はなしの席へ、ほのかおもかげに立っていた。

 が、電燈でんきを消すと、たちまち鼠色の濃い雲が、ばっと落ちて、ひさしから欄干てすりを掛けて、引包ひッつつんだようになった。

 夜も更けたり、座の趣は変ったのである。

 かねて、こうした時の心を得て、壁際に一台、幾年にも、ついぞ使った事はあるまい、つやの無い、くすぶった燭台しょくだいの用意はしてあったが、わざと消したくらいで、蝋燭ろうそくにも及ぶまい、とかただけも持出さず──所帯構わぬのが、衣紋竹えもんだけの替りにして、夏羽織をふわりと掛けておいた人がある──そのままになっている。

 あかり無しで、どす暗い壁に附着くッついたくだんの形は、蝦蟆がまの口から吹出すもやが、むらむらとそこで蹲踞うずくまったようで、居合わす人数の姿より、羽織の方が人らしい。そして、……どこを漏れて来るともしびの加減やら、しまたもとを透いて、蛍を一包ひとつつみにしたほどの、薄らあおい、ぶよぶよとした取留とりとめの無い影が透く。


       三


 大方はそれが、張出し幕の縫目を漏れてぼうと座敷へ映るのであろう……と思う。欄干下らんかんしたひさしと擦れ擦れな戸外おもてに、蒼白い瓦斯がす一基ひともと大門口おおもんぐちから仲の町にずらりと並んだ中の、一番末の街燈がある。

 時々光を、幅広くほとばしらして、かッと明るくなると、燭台しょくだい引掛ひっかけた羽織の袂が、すっと映る。そのかわり、じっと沈んで暗くなると、紺の縦縞が消々きえぎえになる。

 座中は目で探って、やっと一人の膝、誰かの胸、別のまたほおのあたり、片袖かたそでなどが、風で吹溜ふきたまったように、断々きれぎれほのかに見える。間を隔てたほどそれがかえって濃い、つい隣合ったのなどは、真暗まっくらでまるで姿が無い。

 ふと鼠色の長い影が、幕を斜違はすっかいに飜々ひらひらと伝わったり……円さ六尺余りの大きな頭が、ぬいと、天井にかぶさりなどした。

「今、ちなすったのは魯智深ろちしんさんだね。」

 とぬしは分らず声を懸ける。

「いや、わし胡坐あぐらいています、どっしりとな。」

 とわざと云う。……描ける花和尚かおしょうさながらの大入道、この人ばかりは太ッ腹の、あぶらぼてりで、宵からの大肌脱おおはだぬぎ。絶えずはたはたと鳴らす団扇うちわづかい、ぐいと、抱えて抜かないばかり、柱に、えいとこさで凭懸よりかかる、と畳半畳だぶだぶと腰の周囲まわりに隠れる形体ぎょうてい。けれども有名な琴の師匠で、芸は嬉しい。紺地の素袍すおうに、烏帽子えぼしを着けて、十三げん端然ちゃんと直ると、松の姿にかすみかかって、琴爪ことづめの千鳥がく。

「天井を御覧なさい、変なものが通ります。」

いやですね。」と優しい声。

 当夜、二人ばかり婦人も見えた。

 これは、百物語をしたのである。──

 会をここで開いたのは、わざと引手茶屋を選んだ次第では無かった。

「ちっと変った処で、好事ものずきに過ぎると云う方もございましょう。何しろ片寄り過ぎますんで。しかし実は席をめるのに困りました。

 何しろこの百物語……怪談の会に限って、半夜は中途で不可いけません。夜が更けるに従って……というのですから、御一味を下さる方も、かねて徹夜というお覚悟です。処で、宵から一晩の註文で、いや、随分方々へ当って見ました。

 料理屋じゃ、のっけから対手あいてにならず、待合申すまでも無い、辞退。席貸をと思いましたが、やっぱり夜一夜よっぴてじゃ引退ひきさがるんです。第一、人数が二十人近くで、夜明しと来ては、成程、ちょっとどこといって当りが着きません。こりゃ旅籠屋はたごやだ、と考えました。

 これなら大丈夫、と極めた事にすると、どういたして、まるで帳場で寄せつけません、無理もございますまい。旅籠屋は人の寝る処を、起きていて饒舌しゃべろうというんです。はたが御迷惑をなさる、とこの方を関所破りに扱います、困りました。

 寺方はちょっと聞くといようで、億劫おっくうですし、教会へ持込めば叱られます。離れた処で寮なんぞ借りられない事もありませんが──この中にはその時も御一所で、様子を御存じの方もお見えになります、昨年の盆時分、向島のある別荘で、一会催した事があるんです。

 飛んだ騒ぎで、その筋に御心配を掛けたんです。多人数一室へ閉籠とじこもって、徹夜で、密々ひそひそと話をするのが、しんとした人通ひとどおりの無い、樹林きばやしの中じゃ、そのはずでしょう。

 お引受け申して、こりや思懸けない、と相応に苦労をしました揚句あげく、まず……昔の懺悔ざんげをしますような取詰め方で、ここを頼んだのでございます。

 言訳を申すじゃありませんが、以前だとて、さして馴染なじみも無いうちが、快く承わってくれまして、どうやらお間に合わせます事が出来ました。

 ちと唐突だしぬけに変ったあつらえだもんですから、話の会だと言いますと、

(はあ、おはなの……)なんてな、姉御あねご早合点はやがってんで……」

 と笑いながら幹事が最初挨拶あいさつした、──それは、神田辺の沢岡という、雑貨店の好事ものずきな主人であった。


       四


 連中には新聞記者もまじったり、文学者、美術家、彫刻家、音楽家、──またそうした商人あきんどもあり、久しく美学を研究して、近頃欧洲から帰朝した、子爵ししゃくが一人。女性にょしょうというのも、世に聞えて、……うちのお三輪は、婦人何々などの雑誌で、写真も見れば、名も読んで知った方。

 で、こんな場所は、何の見物にも、つい足踏あしぶみをした事の無いのが多い。が、その人たちも、誰も会場が吉原というのをいとわず、中にはかえって土地に興味おもしろみを持って、到着帳にいたのもある。

「吉野橋で電車を下りますまでは無事だったんですよ。」

 とそれについて婦人の一人、浜谷蘭子はまやらんこが言出すと、可恐おそろしく気の早いのが居て、

「ええ、何か出ましたかな。」

「まさか、」

 と手巾ハンケチをちょっと口に当てて、まぶたをほんのりと笑顔になって、

「おばけ貴下あなた、わざわざ迎いに出はしませんよ。方角が分りませんもの。……交番がござんしたから、──伺いますが、水道尻はどう参りましょうかって聞いたんです。巡査おまわりさんが真面目まじめな顔をして、

(水道はその四角よつかどの処にあります。)って丁寧に教えられて、困ったんです。」

「水を飲みたくって、それで尋ねたんだと思ったんでしょうよ。」とそのつれだったもう一人の、明座種子あかざたねこが意気な姿で、そして膝に手をきちんとして言う。

「私もはじめてです。両側はそれでもに描いたようですな。」と岩木という洋画家が応じた。

「御同然で、私はそれでも、首尾よく間違えずに来たですよ。北廓ほっかくだというから、何でも北へ北へと見当を着けるつもりで、宅から磁石を用意に及んだものです。」と云う堀子爵が、ぞんざいな浴衣がけの、ちょっきり結びの兵児帯へこおびからんだ黄金鎖きんぐさりには、磁石が着いていも何にもせぬ。

 花和尚がその諸膚脱もろはだぬぎの脇の下を、自分の手でくすぐるように、ぐいとめて腹をゆすった。

「そろそろ怪談になりますわ。」

 確か、その時分であった。壇の上口あがりくち気勢けはいがすると、つぶしの島田が糶上せりあがったように、欄干てすり隠れに、わかいのがそっ覗込のぞきこんで、

「あら、可厭いやだ。」

 と一つ婀娜あだな声を、きらりと銀の平打ひらうちに搦めて投込んだ、と思うがはやいが、ばたばたと階下したへ駆下りたが、

「嘘、居やしないわ。」と高い調子。

 二言、三言、続いて花やかに笑ったのが聞えた。駒下駄こまげたの音が三つ四つ。

「覚えていらっしゃいよ。」

「おやかましゅう……」

 魯智深は、ずかずかと座をって、のそりと欄干てすりに腹を持たせて、幕を透かしてとおり瞰下みおろし、

「やあ、鮮麗あざやかなり、おらがねえさん三人ござる。」

「君、君、その異形いぎょうなのを空中へあらわすと、可哀相かわいそうに目を廻すよ。」と言いながら、一人が、下からまた差覗さしのぞいた。

うちの娘かね。」

 と子爵がく。差向いに居た民弥が、

「いいえ。」

「何です。」

「やっぱり通り魔のたぐいでしょうな。」

「しかし、不意だからちょっと驚きましたよ。」とその洋画家が……ちょうど俯向うつむいて巻莨まきたばこをつけていた処、不意をくらった眼鏡がきらつく。

 当夜の幹事が苦笑いして、

「近所の若いどもです……御存じの立旦形たておやまが一人、今夜来ますはずでしたが、急用で伊勢へ参って欠席しました。階下したで担いだんでしょう。そっのぞきに……」

「道理こそ。」

「(あら可厭いやだ)はひどいな。」


       五


「おおおお、三人が手をひきッこで歩行あるいてきます……仲の町も人通りが少いなあ、どうじゃろう、景気の悪い。ちらりほらりで軒行燈のきあんどうに影が映る、──海老屋えびやの表は真暗まっくらだ。

 ああ、揃って大時計の前へ立佇たちどまった……いや三階でちょっとお辞儀をするわ。薄暗い処へ朦朧もうろうと胸高な扱帯しごきか何かで、さみしそうにあらわれたのが、しょんぼりと空から瞰下みおろしているらしい。」

 と円い腕を、欄干てすりひしゃげそうにのッしといて、魯智深の腹がたぶりと乗出す……

「どこだ、どれ、」

 と向返る子爵の頭へ、さそくに、ずずんと身を返したが、その割に気の軽さ。突然いきなり見越入道で、おおわれかかって、

「ももんがあ! はッはッはッ。」

「失礼、只今ただいまは、」

 と、お三輪が湯をしに来合わせて、特に婦人客おんなきゃく背後うしろへ来て、きまりの悪そうに手をいた。

さあちゃんが、わけが分らなくって不可いけません、芸者しゅなんか二階へ上げまして。」

 とことばきまって含羞はにかんだ、あか手絡てがらのしおらしさ。一人の婦人が斜めに振向き、手に持ったのをそのままに、撫子なでしこす扇の影。

「いいえ。そして……ちとお遊びなさいませ。」

「はい、あの、後にどうぞ。」

 と嬉しそうに莞爾にっこりしながら、

「あの、明る過ぎましたら電燈でんきをお消し下さいましな、燭台しょくだいをそこへ出しておきました。」

 と幹事に言う。雑貨店主が、

難有ありがとう、よくお心の着きます事で。」

「あら、可厭いやだ。」……と蓮葉はすはになる。

「二ツ、」

 と一人高らかによばわった。……芸者のと、(可厭だ)が二度目、という意味だけれども、娘には気が着かぬ。

「え?」

 民弥がしずかに振返って、

三輪みいちゃんの年紀とし二十はたちかって?」

「あら、可厭だ。」

「三つ!」

「じゃ、三十かってさ。」と雑貨店主が莞爾にっこりする。

「知らないわ。」

「まあまあ、いわ、お話しなさい。」と花和尚、この時、のさのさと座に戻る。

「お茶を入れかえて参ります。」

 と、もう階子はしごの口。ちょっと留まって、

「そして才ちゃんに、御馳走をさせましょうね。兄さん、(吃驚びっくりしたように)……あの、先生。」

「心得たもんですな。」と洋画家が、煙草たばこの濃いけむりの中で。

貴女方あなたがた御庇おかげです……敬意を表して、よく小老実こまめに働きますよ。」と民弥が婦人だちを見向いて云う。と二人が一所に、言合わせたように美しく莞爾にっこりして、

「どういたしまして。」

「いや、事実ですよ……家はこんなでも、裁縫おはり先方さきに、また、それぞれともだちがありましてな、それ引手茶屋の娘でも、大分工合ぐあいが違って来ました。どうして滅多に客の世話なぞするのじゃありませんや。貴女がたの顔まで、ちゃんと心得ていて、先刻さっきも手前ちょっと階下したへ立違いますと、あちらが、浜谷さんで、こちらが、明座さんでしょう、なんてそう言います。

 くるわがはじめてだってお言いなさったのを聞いたと見えて、御見物なさいませんか、お供をして、そこいら、御案内をしましょう、と手前にそう言っていましたっけ。」と団扇うちわを構えて雑貨店主。

「そう、まあ……見て来ましょうか。」

「ねえ。」と顔を見合わせた。

 子爵がかぶりを振りながら、

「おしなさい、お揃いじゃ、女郎じょろ口惜くやしがるでしょう、罪だ。」


       六


「なぜですか。」

「新橋、柳橋と見えるでしょう。」

「あら、可厭いやだ。」

「四つ、」

 と今度は、魯智深が、透かさず指を立てて、ずいと揚げた。

 すべてがこの調子で、間へ二ツ三ツずつ各自めいめいの怪談が挟まる中へ、木皿に割箸わりばしをざっくり揃えて、夜通しのその用意が、こうした連中に幕の内でもあるまい、と階下したで気を着けたか茶飯の結びに、はんぺんと菜のひたし。……ある大籬おおまがきの寮が根岸にある、その畠に造ったのを掘たてだというはしりの新芋。これだけはお才が自慢で、すじ、蒟蒻こんにゃくなどと煮込みのおでんをどんぶりへ。目立たないように一銚子ひとちょうし附いて出ると、見ただけでも一口めそう……梅次の幕を正面へ、仲の町が夜の舞台で、楽屋の中入なかいりといった様子で、下戸げこまでもつい一口る。

 八畳一杯かッと陽気で、ちょうどその時分に、中びけの鉄棒かなぼうが、近くから遠くへ、次第にかすかになって廻ったが、その音の身に染みたは、浦里時代の事であろう。誰の胸へも響かぬ。……もっとも話好きな人ばかりが集ったから、その方へ気が入って、酔ったものは一人も無い。が、どうしていきおいがこんなであるから、立続けに死霊しりょう怨霊おんりょう生霊いきりょうまで、まざまざとあらわれても、すご可恐こわいはまだな事──汐時しおどきさっと支度を引いて、煙草盆たばこぼん巻莨まきたばこの吸殻が一度綺麗きれいに片附く時、蚊遣香かやりこうもばったり消えて、畳の目も初夜過ぎの陰気に白く光るのさえ、──寂しいとも思われぬ。

(あら可厭だ)……のそれでは無い。百万遍の数取りのように、一同ぐるりと輪になって、じりじりと膝を寄せると、千倉ヶ沖の海坊主、花和尚の大きな影が幕をはびこるのを張合いにして、がんばり入道、ずばい坊、鬼火、怪火あやしび、陰火の数々。月夜の白張しらはり、宙釣りの丸行燈まるあんどう、九本の蝋燭ろうそく、四ツ目の提灯ちょうちん、蛇塚を走る稲妻、一軒家の棟を転がる人魂ひとだま、狼の口の弓張月、古戦場の火矢の幻。

 怨念おんねん大鰻おおうなぎ古鯰ふるなまず太岩魚ふといわな、化ける鳥はさぎ、山鳥。声はふくろ、山伏の吹く貝、磔場はりつけば夜半よわ竹法螺たけぼら、焼跡の呻唸声うめきごえ

 蛇ヶ窪の非常汽笛、箒川ほうきがわの悲鳴などは、一座にまさしく聞いた人があって、そのひびきも口から伝わる。……按摩あんま白眼しろめ癩坊かったいの鼻、婆々ばばあ逆眉毛さかまつげ。気味の悪いのは、三本指、一本脚。

 かわやのぞく尼も出れば、やぶしゃがむ癖の下女も出た。米屋の縄暖簾なわのれんを擦れ擦れに消えるあおい女房、矢絣やがすりの膝ばかりで掻巻かいまきの上からす、顔の見えない番町のお嬢さん。干すとすぼまる木場辺の渋蛇の目、死んだかしらの火事見舞は、ついおもだか屋にあった事。品川沖の姪の影、真乳まっちわたし朧蓑おぼろみの鰻掻うなぎかき蝮笊まむしざる

 犬神、蛇を飼うおんなひきがえるを抱いて寝る娘、すっぽんの首を集める坊主、狐憑きつねつき、猿小僧、骨なし、……猫屋敷。

 で、この猫について、座の一人が、かつてその家に飼った三毛で、年久しく十四五年を経ためすが、置炬燵おきごたつの上で長々と寝て、そっと薄目をみひらくと、そこにうとうとしていた老人としよりの顔を伺った、と思えば、張裂けるような大欠伸おおあくびを一つして、

(お、お、しんど)と言って、のさりと立った。

 話した発奮はずみに、あたかもこの八畳と次の長六畳との仕切が柱で、ずッと壁で、壁と壁との間が階子段はしごだん向合むかいあわせに欞子窓れんじまどのように見える、が、直ぐに隣家となりの車屋の屋根へ続いた物干。一跨ひとまたぎで出られる。……水道尻まで家続きだけれども、裏手、廂合ひあわいつらなるばかり、近間ちかまに一ツもあかりが見えぬ、陽気な座敷に、その窓ばかりが、はじめから妙に陰気で、電燈でんきの光も、いくらかずつそこへ吸取られそうな気勢けはいがしていた。

 その物干の上と思う処で……


       七


「ゴロロロロ、」

 と濁った、太い、変に地響きのする声がした、──不思議は無い。猫が鳴いた事は、誰の耳にも聞えたが、場合が場合で、一同が言合わせたごとく、その四角な、大きな、真暗まっくらな穴の、はるかな底は、上野天王寺の森の黒雲が灰色の空ににじんで湧上わきあがる、窓を見た。

 フト寂しい顔をしたのもあるし、苦笑いをしたのもあり、中にはピクリと肩を動かした人もあった。

三輪みいちゃん、内の猫かい。」

 民弥は、その途端に、ひたと身を寄せたお三輪にたずねた。……遠慮をしながら、なるたけこの男のそばに居て、先刻さっきから人々の談話はなしの、すご可恐おそろしい処というと、そっすがり縋り聞いていたのである。

「いいえ、内の猫は、この間死にました。」

「死んだ?」

「ええ、どこの猫でしょう……近所のは、みんなたま(猫の名)のお友達で、私は声を知ってるんですけれど……可厭いやな声ね。きっと野良猫よ。」

 それときまっては、内所ないしょの飼猫でも、遊女おいらんの秘蔵でも、遣手やりて懐児ふところごでも、町内の三毛、ぶちでも、何のと引手茶屋の娘のいきおい。お三輪は気軽にと立って、襟脚を白々と、結綿ゆいわたの赤い手絡てがらを障子のさんへ浮出したように窓をのぞいた。

げてよ。もう居やしませんわ。」

 一人の婦人が、はらはらと後毛おくれげのかかった顔で、

ねえさん。」

「はーい、」と、呼ばれたのを嬉しそうな返事をする。

「閉めていらっしゃいな。」

 で、蓮葉はすはにぴたり。

 後に話合うと、階下したへ用達しになど、座をって通る時、その窓の前へくと、希代きたいにヒヤリとして風が冷い。処で、何心なく障子をスーツと閉めてく、……帰りがけに見るとさらりといている。が、誰もそこへ坐るのでは無いから、そのままにして座に戻る。また別人が立つ、やっぱりぞっとするから閉めてく、帰りがけにはちゃんと開けてあった。それを見た人は色々で、細目の時もあり、七八分目の時もあり、開放しの時もあった、と言う。

 さて、そのときまでは、言ったごとく、陽気立って、何が出ても、ものが身に染むとまでには至らなかったが、物語の猫が物干の声になってから、各自おのおの言合わせたように、膝が固まった。

 時々灰吹の音も、一ツがねのようにカーンと鳴って、寂然しんと耳に着く。……

 気合があらたまると、畳もかっと広くなって、向合むかいあい、隣同士、ばらばらと開けて、あわいが隔るように思われるので、なおひしひしと額を寄せる。

「消そうか、」

「大人気ないが面白い。」

 ここで電燈でんきが消えたのである。──

「案外身に染みて参りました。人数の多過ぎなせいもありましょう。わざとあかりを消したり、行燈あんどうに変えたりしますと、どうもちと趣向めいて、バッタリ機巧からくりるようで一向潮が乗りません。

 せんの向島の大連の時で、その経験がありますから、今夜は一番ひとつあかり晃々こうこうとさして、どうせあらわれるものなら真昼間まっぴるまおいでなさい、明白でい、と皆さんとも申合せていましたっけ。

 いや、こうなると、やっぱり暗い方が配合うつりうございます、身が入りますぜ、これから。」

 と言う、幹事雑貨店主のえた声が、キヤキヤと刻込きざみこんで、響いて聞えて、声を聞く内だけ、その鼻のたかい、せて面長おもながなのが薄らあおく、頬のげっそりと影の黒いのが、ぶよぶよとした出処でどこの定かならぬ、他愛の無いあかりに映って、ちょっとでも句が切れると、はたと顔も見えぬほどになったのである。


       八


 あかりは水道尻のその瓦斯がすと、もう二ツ──一ツは、この二階から斜違はすっかいな、京町きょうまちの向う角の大きな青楼の三階の、真角まっかど一ツ目の小座敷の障子を二枚両方へ明放したうちに、青い、が、べっとりした蚊帳かやを釣って、行燈あんどうがある、それで。──夜目には縁も欄干らんかん物色うかがわれず、ただその映出うつしだした処だけは、たとえば行燈の枠のげたのが、朱塗しゅぬりであろう……と思われるほど定かに分る。……そこが仄明ほのあかるいだけ、大空の雲の黒さが、此方こなたに絞った幕の上を、底知れぬ暗夜やみにする。……が、くるわが寂れて、遠く衣紋坂えもんざかあたりを一つくるまの音の、それも次第に近くはならず、途中の電信の柱があると、母衣ほろいかのぼり引掛ひっかかりそうに便たよりなくひびきが切れて光景ありさまなれば、のべの蝴蝶ちょうちょうが飛びそうななまめかしさは無く、荒廃したる不夜城の壁の崩れから、菜畠になった部屋が露出むきだしで、怪しげな朧月おぼろづきめく。その行燈の枕許まくらもとに、有ろう? 朱羅宇しゅらお長煙管ながぎせるが、蛇になって動きそうに、蓬々おどろおどろと、曠野あれの徜徉さまよう夜の気勢けはい。地蔵堂に釣った紙帳より、かえってわびしき草のねやかな。

 風の死んだ、しんとした夜で、あたかも宙に拡げたような、蚊帳のそのすそが、そよりとそよぐともしないのに、この座の人の動くに連れて、屋の棟とともに、すっと浮いて上ったり、ずうと行燈と一所に、沈んで下ったりする。

 もう一つは同じ向側の、これは低い、幕の下にかかって、真暗まっくらかどへ、奥の方から幽かにあかりの漏れるのが、戸の格子の目もまばらに映って、灰色に軒下の土間をぼううて、白い暖簾のれんちぎれたのを泥にまみらした趣がある。それと二つである。

 その家は、表をずッと引込ひっこんだ処に、城のやぐらのような屋根が、雲の中に陰気に黒い。両隣は引手茶屋で、それは既に、先刻さっき中引けが過ぎる頃、伸上ってしとみを下ろしたり、仲の町の前後あとさきを見て戸を閉めたり、揃って、家並やなみは残らず音も無いこの夜更よふけの空を、に引く腰張の暗い板となった。

 時々、海老屋の大時計のつらが、時間ときの筋をうねらして、かすかな稲妻にひらめき出るのみ。二階で便たよる深夜の光は、瓦斯がすを合わせて、ただその三つのともしびとなる。

 中のどれかが、折々気紛きまぐれの鳥影のすように、飜然ひらりと幕へ附着くッついては、一同の姿を、種々いろいろに描き出す。……

 時しもありけれ、魯智深が、おおいなる挽臼ひきうすのごとき、五分刈頭を、天井にぐるりと廻して、

「佐川さんや、」

 と顔は見えず……その天井の影が動く。話の切目で、しわぶきの音も途絶えた時で、ひょいと見ると誰の目にも、上にぼんやりと映る、その影が口を利くかと思われる。従って、声もがッと太く渦巻く。

「変に静まりましたな、もって来いというの時じゃ、何ぞお話し下さらんか。宵からまだ、貴下あなたに限って、一ツもすごいのが出ませんでな、所望ですわ。」

 成程、民弥は聞くばかりで、まだ一題も話さなかった。

「差当り心当りが無いものですから、」

 とその声も暗さを辿たどって、

「皆さんが実によく、種々いろいろ可恐おそろしいのを御存じです。……たしかにお聞きになったり、また現にったり見たりなすっておいでになります。

 私は、又聞きに聞いたのだの、本で読んだのぐらいな処で、それもこしらえものらしいのが多いんですから、差出てお話するほどのがありません。生憎あいにく……ッても可笑おかしいんですが、ざらある人魂ひとだまだって、自分で見た事はありませんでね。あやしい光物といっては、鼠がくわえ出したたらの切身が、台所でぽたぽたと黄色く光ったのを見て吃驚びっくりしたくらいなものです。お話にはなりません。

 けれども、嬉しがって一人で聞かしてばかり頂いていたんでは、余り勝手過ぎます。申訳が無いようですから、つまらない事ですが、一つ、お話し申しましょうか。

 日の暮合いに、今日、現に、へ参ります途中でした。」


       九


可恐こわい事、ちょっと、可恐くって。」

 と例の美しい若い声が身近に聞えて、ぞっとするように袖をすぼめた気勢けはいがある。

「私に附着くッついていらっしゃい。」と蘭子がそばで、香水の優しいかおり

「いや、下らないんですよ、」

 と、慌てたように民弥は急いで断って、

「ちと薄気味でも悪いようだと、御愛嬌ごあいきょうになるんだけれど……なんにもにも、一向要領を得ないんです、……時にだね、三輪みいちゃん。」

 とちとあらたまって呼んだ時に、みんなが目をそそぐと、どのあかりか、仏壇に消忘れたようなのがかすかに入って、スーと民弥のその居直った姿を映す。……これは生帷きびらの五ツ紋に、白麻の襟をかさねて、はかまちゃくでいた。──あたかもその日、つながる縁者の葬式とむらいを見送って、その脚で廻ったそうで、時節柄の礼服で宵から同じ着附けが、この時際立って、一人、舞台へ出たように目に留まった。麻は冷たい、さっくりとしてはだにも着かず、肩肱かたひじしく武張ぶばったが、中背でせたのが、薄ら寒そうな扮装なり、襟を引合わせているので物優しいのに、細面ほそおもてで色が白い。座中では男のうち第一いっち年下の二十七で、少々わかわかしいのも気の弱そうに見えるのが、今夜の会には打ってつけたような野辺送りの帰りと云う。

 気のせいか、沈んで、しおれて見える処へ、打撞ぶつかったその冷い紋着もんつきで、水際の立ったのが、うっすりと一人浮出したのであるから、今その呼懸けたお三輪さえ、声に応じて、結綿ゆいわたの綺麗な姿が、可恐こわそうな、可憐かれんな風情で、並んでそこへ、呼出されたように、座上の胸に描かれた。

「つかん事を聞くがね、どこかこの近所で、今夜あたりお産をしそうな人はあるまいか。」

 と妙な事を沈んで聞く。

「今夜……ですか。」とお三輪はきっぱり聞返す。

「……そうだね、今夜、とまった事も無いけれど、この頃にさ、そういううちがありやしないかい。」

嬰児あかんぼが生れるとこ?」

「そうさ、」

「この近所、……そうね。」

 せっかく聞かされたものを、あればいが、と思う容子ようすで、しばらくして、

「無いわ、ちっと離れていては悪くって、江戸町辺。」

「そこらにあるかい。」

 と気を入れる。

「無い事よ、──やっぱり、」とうっかりしたように澄まして言う。

「何だい、つまらない。」

 と民弥は低声こごええみを漏らした。

「ちょいと、階下したへ行って、さあちゃんに聞いて来ましょうか。」

「…………」

「ええ、兄さん、」

 とったが、フト黙って、

「私、聞いて来ましょう、先生。」

「何、い、それには及ばんのだよ。……いいえ、少しね、心当りな事があるもんだから、そらね。」

 とななめになって、俯向うつむいて幕張まくばりすそから透かした、ト酔覚よいざめのように、顔の色が蒼白あおじろい。

「向うに、暗くあかりいたうちが一軒あるだろう……近所はみんなしまっていて。」

「はあ、お医者様のならび、あすこは寮よ……」

「そうだ、公園ぢかだね。あすこへ時々客では無い、町内の人らしいのが、引過ひけすぎになってもちょいちょい出たり入ったりするから、少しその心当りの事もあるし、……何も夜中の人出入りが、お産とはきまらないけれど、その事でね。もしかすると、そうではあるまいか、と思ったからさ。何だか余り合点のみこみ過ぎたようで妙だったね。」


       十


「それに何だか、あかりも陰気だし、人の出入りも、ばたばたして……病人でもありそうな様子だったもんだから。」

 と言って、そのあかり俯向うつむいて見透かす、民弥の顔にまた陰気な影がした。

「でもね、当りましたわ、先生、やっぱり病人があるのよ。それでもって、寝ないでいるの、お通夜つやをして……」

「お通夜?」

 と一人、縁に寄った隅の方から、声を懸けた人がある。

「あの……」

夜伽よとぎじゃないか。」と民弥が引取ひっとる。

「ああ、そうよ。私は昨夜ゆうべも、お通夜だってそう言って、さあちゃんに叱られました。……その夜伽なのよ。」

「病人は……女郎衆じょうろしゅかい。」

「そうじゃないの。」

 とついまたものいいが蓮葉はすはになって、

「照吉さんです、知ってるでしょう。」

 民弥は何か曖昧あいまいな声をして、

「私は知らないがね、」

 けれども一座の多人数は、皆耳をそばだてた。──彼は聞えたおんなである──中には民弥の知らないという、その訳をさえ、よく心得たものがある。その梅次と照吉とは、待宵まつよい後朝きぬぎぬ、とついくるわで唄われた、仲の町の芸者であった。

 お三輪はサソクに心着いたか、急に声も低くなって、

「芸者です、今じゃ、あの、一番綺麗な人なんです、芸もいの。可哀相だわ、大変に塩梅あんばいが悪くって。それだもんですから、内は角町すみちょうの水菓子屋で、出ているのは清川(引手茶屋)なんですけれど、どちらも狭いし、それに、こんな処でしょう、落着いて養生も出来ないからって……ここでも大切なねえさんだわ。ですからみんなで心配して、海老屋でもしんせつにそう云ってね、四五日前から、寮で大事にしているんですよ。」

「そうかい、ちっとも知らなかった。」と民弥はうっかりしたように言う。

夜伽よとぎをするんじゃ、大分悪いな。」と子爵が向うから声を懸けた。

「ええ、不可いけないんですって、もうむずかしいの。」

 とお三輪は口惜くやしそうに、打附ぶッつけて言ったのである。

「何の病気かね。」

 と言う、魯智深の頭は、この時も天井で大きく動いた。

「何んですか、しょうがちっとも知れないんですって。」

 民弥は待構えてでもいたように、

「お医師いしゃくるわのなんだろう、……そう言っちゃ悪いけれど。」

「いいえ、立派な国手せんせい綱曳つなびきでいらっしゃったんですの。でもね、ちっとも分りませんとさ。そしてね、照吉さんが、病気になった最初はじめっから、なぜですか、もうちゃんと覚悟をして、清川を出て寮へ引移るのにも、手廻りのものを、きちんと片附けて、この春からけるようにしたっちゃ、威張っていた、小遣帳こづかいちょうの、あの、蜜豆みつまめとした処なんか、棒を引いたんですってね。才ちゃんはそう言って、話して、笑いながら、ほろほろ涙を落すのよ。

 いつ煩っても、ごまかして薬をのんだ事のない人が、その癖、あの、……今度ばかりは、掻巻かいまき凭懸よりかかっていて、お猪口ちょこを頂いて飲むんだわ。それがなお心細いんだって、みんなそう云うの。

 私も、あの、手に持って飲まして来ます。

三輪みいちゃん、さようなら。)って俯向うつむくんです、……まくらにこぼれて束ね切れないの、私はね、くしを抜いてそっと解かしたのよ……雲脂ふけなんかちっとも無いの、するする綺麗ですわ、そして煩ってから余計にえたようよ……髪ばかり長くなって、段々命が縮むんだわねえ。──兄さん、」

 と、話に実がるとつい忘れる。

「可哀相よ。そして、いつでもそうなの、見舞にくたんびに(さようなら)……」


       十一


「それはもう、きれいに断念あきらめたものなの、……そしてね、幾日いくかの何時頃に死ぬんだって──言うんですとさ、──それが延びたから今日はきっと、あれだって、また幾日の何時頃だって、どうしてでしょう。死ぬのを待っているようなの。

 ですからね、照吉さんのは、気病きやみだって。それから大事の人の生命いのちに代って身代みがわりに死ぬんですって。」

「身代り、」と聞返した時、どのかまたあかりの加減で、民弥の帷子かたびらが薄く映った。且つそれよりも、お三輪の手絡てがらが、くっきりと燃ゆるように、声も強い色に出て、

「ええ、」

 と言う、目もみはられた気勢けはいである。

「この方が怪談じゃ、」と魯智深が寂しい声。堀子爵が居直って、

「誰の身代りだな、情人いいひとのか。」

「あら、情人いいひとなら兄さんですわ、」

 とおくせず……人見知ひとみしりをしない調子で、

「そうじゃないの、照吉さんのは弟さんの身代りになったんですって。──弟さんはね、先生、自分でも隠してだし、照吉さんも成りたけ誰にも知らさないようにしているんだけれど、こんな処の人のようじゃないの。

 学校へ通って、学問をしてね、よく出来るのよ。そして、今じゃ、あの京都の大学へ行っているんです。卒業すれば立派な先生になるんだわ、ねえ。先生。

 姉さんもそればっかりたのしみにして、地道に稼いじゃ、お金子かねを送っているんでしょう。……ええ、あの、」

 と心得たように、しかも他愛の無さそうに、

「水菓子屋の方は、あれは照吉さんのおっかさんがはじめた店を、そのおっかさんが亡くなって、姉弟きょうだい二人ぼっちになって、しようが無いもんですから、上州の方の遠い親類の人に来てもらって、それが世話をするんですけれど、どうせ、あれだわ。田舎を打棄うっちゃって、こんな処へ来て暮そうって人なんだから、人はいけれども商売は立行たちゆかないで、照吉さんには、あの、重荷に小附こづけとかですってさ。ですから、お金子でも何でも、みんな姉さんがして、それでもたのしみにしているんでしょう。

 そうした処が、この二三年、その弟さんが、大変に弱くなったの。困るわねえ。──試験が済めばもう卒業するのに、一昨年おととしも去年もそうなのよ、今年もやっぱり。続いて三年病気をしたの。それもあの、随分大煩いですわ、いつでも、どっと寝るんでしょう。

 去年の時はもう危ないって、電報が来たもんですから、姉さんが無理をして京都へ行ったわ。

 二年続けて、彼地あっちで煩らったもんですから、今年の春休みには、是非お帰んなさいって、姉さんも云ってあげるし、自分でも京都の寒さが不可いけないんだって、久しぶりで帰ったんです。

 水菓子屋の奥に居たもんですから、内へも来たわ。若旦那わかだんなって才ちゃんが言うのよ。おとっさんはね、お侍が浪人をしたのですって、──石橋際に居て、寺子屋をして、御新造ごしんさんの方は、裁縫おしごとを教えたんですっさ、才ちゃんなんかの若い時分、お弟子よ。

 あとで、私立の小学校になって、内の梅次さんも、子供の内は上ってたんですさ。おっかさんの方は、私だって知ってるわ。品のい、せいのすらりとした人よ。水菓子屋の御新造ごしんさんって、みんながそう言ったの。

 ですもの、照吉さんは芸者だけれど、弟さんは若旦那だわね。

 また煩いついたのよ、困るわねえ。

 そして長いの、どっと床に就いてさ。みんな、お気の毒だって、やっぱり今の、あの海老屋の寮で養生をして、おんなじ部屋だわ。まわり縁の突当りの、丸窓の付いた、池に向いた六畳よ。

 照吉さんも家業があるでしょう、だもんですから、ちょいとのひまも、の目も寝ないで、つきっ切りに看病して、それでもちっともくならずに、段々塩梅あんばいが悪くなって、花が散る頃だったわ、お医者様もね、もうね。」

 と言う、ちっと切なそうな息づかい。


       十二


 お三輪は疲れて、そして遣瀬やるせなさそうな声をして、

さあちゃんを呼んで来ましょうか、私は上手に話せませんもの。」と言う、覚束おぼつかない娘の口から語る、照吉の身の上は、一層夜露に身に染みたのであった。

いよ、三輪みいちゃんで沢山だ。お話し、お話し、」と雑貨店主、沢岡が激ました。

「ええ、もうちっとだわ。──あの……それでお医者様が手放したもんですから、照吉さんが一七日いちしちにち塩断しおだちして……最初はじめッからですもの、断つものも外に無いの。そして願掛けをしたんですって。どこかねえ、谷中やなかの方です。遠くまで、朝ねえ、まだ夜の明けない内に通ったのよ。そのおかげで……きっとそのお庇だわ。今日にも明日にも、といった弟さんが、すっかり治ってね。夏のはじめに、でもまだ綿入を着たなりで、京都へ立って行ったんです。

 塩断をしたりなんかして、夜も寝なかった看病疲れが出たんだって、みんなそう言ったの。すぐ後で、姉さんが病みついたんでしょう。そして、その今のような大病になったんでしょう。

 ですがね、つい二三日前、照吉さんが、誰にも言わない事だけれどって、そう云って、内の才ちゃんに話したんですって。──あの、そのね、谷中へ願掛けをした、満願、七日なぬか目よ、……一七日いちしちにちなんですもの。いつもお参りをして帰りがけに、しらしらと夜の明ける時間なのが、その朝は、まだ真暗まっくらだったんですとさ。御堂を拝んで帰ろうとすると、上の見上げるような杉の大木の茂った中から、スーと音がして、ばったり足許へ落ちて来たものがあるの。常燈明の細いあかりで、ちょいと見ると、鳥なんですって、死んだのだわねえ、もう水を浴びたように悚然ぞっとして、何の鳥だかよくも見なかったけれど、謎々よ、……解くと、弟は助からないって事になる……その時は落胆がっかりして、こけの生えた石燈籠いしどうろうにつかまって、しばらく泣きましたって、姉さんがね、……それでも、一念が届いて弟が助かったんですから……思い置く事はありません、──とさ。

 ああ、きっとそれじゃ、……その時治らない弟さんの身代りに、自分がお約束をしたんだろう。それだから、ああやって覚悟をして死んでくのを待っておいでだ。事によったら、月日なんかも、その時めて頼んだのかも分らない、可哀相だ、つて才ちゃんも泣いていました。

 そしてね、今度の世は、妹に生れて来て甘えよう、私は甘えるものが無い。弟は可羨うらやましい、あんな大きななりをして、私に甘ったれますもの。でも、それが可愛くって殺されない。さきへ死ぬ方がまだましだ、あの子は男だからこらえるでしょう、……後へ残っちゃ、私はおんなで我慢が出来ないって言ったんですとさ。……ちょいとどうしましょう。私、涙が出てよ。……

 どうかして治らないものでしょうか。誰方どなたか、この中に、お医者様のえらい方はいらっしゃらなくって、ええ、皆さん。」

 一座寂然ひっそりした。

「まあ、」

「ねえ……」

 と、蘭子と種子が言交わす。

「弱ったな、……それは、」とちょいと間を置いてから、子爵がつぶやいたばかりであった。

「時に、」

 と幹事が口を開いて、

「佐川さん、」

「は、」

 と顔を上げたが、民弥はなぜかすくむようになって、身体からだを堅く俯向うつむいてそれまで居た。

「お話しの続きです。──貴下あなたがその今日途中でその、何か、どうかなすったという……それから起ったんですな、三輪ちゃんの今の話は。」

「そうでしたね。」とぼやりと答える。

「その……近所のお産のありそうな処は無いかって、何か、そういったような事から。」

「ええ、」

 とただ、腕をこまぬく。

「どういう事で、それは、まず……」

「一向、つまらない、何、別に、」と可恐おそろしく謙遜けんそんする。

 人々は促した。──


       十三


「──気がしたから、私は話すまい、と思った。けれども、行懸ゆきがかりで、揉消もみけすわけにも行かなかったもんだから、そこで何だ。途中で見たものの事を饒舌しゃべったが、」

 と民弥は、西片町にしかたまちのその住居すまいで、安価やすかまど背負しょって立つ、所帯の相棒、すなわち梅次に仔細しさいを語る。……会のあった明晩あくるばんで、夏の日を、日が暮れてからやっと帰ったが、時候あたりで、一日寝ていたとも思われる。顔色も悪く、気も沈んで、いたく疲れているらしかった。

 寒気がするとて、茶の間の火鉢に対向さしむかいで、

「はじめはそんな席へ持出すのに、余りえな過ぎると思ったが、──先刻さっきから言った通り──三輪坊みいぼうがしたお照さんのその話を聞いてからは、自分だけかも知れないが、何とも言われないほど胸がふさいだよ。第一、三輪坊が、どんなにか、可恐こわがるだろう、と思ってね。

 場所が谷中だと言うんだろう、……私の出会ったのもやっぱりそこさ。──くらがりざかを通った時だよ。」

「はあ、」と言って、梅次は、団扇うちわを下に、胸をすっと手をいた。が、黒繻子くろじゅす引掛ひっかけ結びの帯のさがりをななめすべる、指の白さも、団扇の色の水浅葱みずあさぎも、酒気さけけの無い、寂しい茶の間に涼し過ぎた。

 民弥はくつろぎもしないで、端然ちゃんとしながら、

昨日きのうは、お葬式とむらいおくれてね、すっかり焼香の済んだのが、六時ちっと廻った時分。後で挨拶をしたり、……茶屋へ引揚げて施主たちに分れると、もう七時じゃないか。

 会は夜あかしなんだけれど、ゆっくり話そうって、幹事からの通知は七時遅からず。私にも何かの都合で、一足早く。承知した、と約束がしてある。……

 久しぶりのお天気だし、すずしいし、紋着もんつきで散歩もおかしなものだけれども、ちょうどい。なかまで歩行あるいて、とうちを出る時には思ったんだが、時間が遅れたから、茶屋の角で直ぐに腕車くるまをそう言ってね。

 乗ってさ。出る、ともう、そこらでふくろうの声がする。寂寥しんとした森の下を、墓所に附いて、薄暮合いに蹴込けこみ真赤まっかで、晃々きらきら輪が高く廻った、と思うと、早や坂だ。──切立きったてたような、あの闇がり坂、知ってたっけか。」

「根岸から天王寺へ抜ける、細い狭い、蔽被おっかぶさった処でしょう。──近所でも芋坂の方だと、ちょいちょい通って知ってますけれど、あすこは、そうね、たった一度。可厭いやな処だわね、そこでどうかなすったんですか。」

「そうさ、よく路傍みちばたの草の中に、揃えて駒下駄こまげたが脱いであったり、上の雑樹の枝に蝙蝠傘こうもりがぶら下っていたり、鉄道で死ぬものは、大概あの坂から摺込ずりこむってね。手巾ハンケチが一枚落ちていても悚然ぞっとする、とみんなが言う処だよ。

 昼でも暗いのだから、暮合くれあいおんなじさ。別に夜中では無し、私は何にも思わなかったんだが、きまって腕車くるまから下りる処さ、坂の上で。あの急勾配だから。

 下りるとね、車夫わかいしはたった今乗せたばかりの処だろう、空車からぐるまの気前を見せて、ひとけで、顱巻はちまきの上へ梶棒かじぼうを突上げるいきおいで、真暗まっくらな坂へストンと摺込すべりこんだと思うと、むっくり線路の真中まんなかを躍り上って、や、と懸声だ。そこはまだ、ほんのあかるい、白っぽい番小屋の、あおつッと切って、根岸の宵の、蛍のような水々みずみずしたあかりの中へ消込きえこんだ。

 蝙蝠こうもりのように飛ぶんだもの、離れ業と云ってい速さなんだから、一人でしばらく突立つったって見ていたがね、考えて見ると、面白くも何とも無いのさ。

 足許だけぼんやり見える、黄昏たそがれ下闇したやみを下り懸けた、暗さは暗いが、気は晴々せいせいする。

 以前と違って、それからく、……吉原には、恩愛もなし、義理もなし、借もなし、見得外聞があるじゃなし……心配も苦労も無い。叔母さんにもらった仲の町の江戸絵を、葛籠つづらから出して頬杖ほおづえいて見るようなもんだと思って。」


       十四


「坂の中途で──左側の、」

 と長火鉢の猫板をおさえて言う。

「樹の根が崩れた、じとじと湿っぽい、赤土の色が蚯蚓みみずでもかたまったように見えた、そこにね。」

「ええ」

 と梅次は眉をひそめた。

「大丈夫、蛇の話じゃ無い。」とこれは元気よく云って、湯呑ゆのみで一口。

「人が居たのさ。ぼんやりと小さくしゃがんで、ト目に着くと可厭いや臭気においがする、……つち打坐ぶっすわってでもいるかぐらい、ぐしゃぐしゃとひしゃげたように揉潰もみつぶした形で、暗いから判然はっきりせん。

 が、別に気にも留めないで、ずっとそのわきを通抜けようとして、ものの三足みあしばかり下りた処だった。

(な、な、)と言う。

 雪駄直せったなおしだか、おうしだか、何だか分らない。……聞えたばかり。無論、私を呼んだと思わないから、構わずこうとすると、

(なあ、)と、今度はちっとぼやけたが、大きな声で、そして、

はかま着た殿い、な、)と呼懸ける、確かに私を呼んだんだ。どこの山家やまがのものか知らんが、変な声で、妙なものいいさ。「袴着た、」と言うのか、「墓場来た、」と言うのか、どっちにしても「殿」は気障きざだ。

 が、たしかに呼留めたに相違無いから、

おれか。)

(それよ、)……と、気になる横柄な返事をして、もやもやと背伸びをして立った……らしい、つむりもたげたのか、腰をてたのか、上下うえしたおんなじほどに胴中どうなかの見えたのは、いずれ大分の年紀としらしい。

 じじいか、ばばあか、ちょっと見には分らなかったが、手拭てぬぐいだろう、頭にこう仇白あだじろいやつを畳んで載せた。それが顔に見えて、つら俯向うつむけにしながら、つえいた影は映らぬ。

(殿、な、何処いずくへな。)

 と、こうなんだ。

 私は黙ってながめたっけ。

 じっと身動きもしないで、返事を待っているようだからね、

(吉原へ。)

 と綺麗に言ったが、さあ、以前なら、きっとそうは言わなかったろう。その空がさっぱりと晴々した心持だから、誰にはばかる処も無い。おつけ晴れたのが、不思議に嬉しくもあり、また……幼い了簡りょうけんだけれども、何か、自分でも立派に思った。

(真北じゃな、ああ、)

 とびくりとうなずいて、

(火の車でかさるか。)

 馬鹿にしている、……此奴こいつは高利貸か、烏金からすがねを貸す爺婆じじばばだろうと思ったよ。」

 と民弥はさみしそうなが莞爾にっこりした。

 梅次がちっと仰向あおむくまで、真顔で聞いて、

「まったくだわねえ。」

「いや、」

 民弥は、思出したように、へやなかみまわしながら、

「烏金……と言えば、その爺婆は、荒縄で引括ひっくくって、烏の死んだのをぶら下げていたのよ。」

 梅次は胸を突かれたように、

「へい、」と云って、また、浅葱あさぎのその団扇うちわの上へ、白い指。

たまらない。幾日いくかったんだか、べろべろに毛がげて、羽がぶらぶらとやっとつながって、れて下ってさ、頭なんざただれたようにべとべとしている、その臭気においだよ。何とも言えず変に悪臭いのは、──やつ身体からだでは無い。服装みなりも汚くはないんだね、折目の附いたと言いたいが、それよりか、しわの無いと言った方がい、坊さんか、尼のような、無地の、ぬべりとしたのでいた。

 まあ、それは後での事。

(何の車?……)と聞返した。

(森の暗さを、真赤まっかなものが、めいらめいらからんで、車が飛んだでやいの。恐ろしやな、きながら鬼がくさを見るかいや。のう殿。わしは、これい、地板じびたへ倒りょうとしたがいの。……うふッ、)とあごの震えたように、せせら笑ったようだっけ、──ははあ……」


       十五


「今の腕車くるまに、私が乗っていたのを知って、車夫わかいしからで駆下りた時、足の爪をかれたとか何とか、因縁を着けて、端銭はした強請ゆするんであろうと思った。

 しかし言種いいぐさが変だから、

(何の車?)ともう一度……わざと聞返しながら振返ると、

(火の車、)

 と頭から、押冠おっかぶせるように、いやに横柄に言って、もさりと歩行あるいて寄る。

 なぜか、その人をのろったような挙動しぐさが、無体にしゃくに障ったろう。

(何の車?)と苛々いらいらとしてこちらも引返した。

(火の車。)

 じりじりとまた寄った。

(何の車?)

(火の車、)

(火の車がどうした。)

 とちょうど寄合わせた時、少し口惜くやしいようにも思って、突懸つっかかって言った、が、胸をおさえた。可厭いやなその臭気においったら無いもの。

わしに貸さい、の、あのや、燃えからまった車で、逢魔おうまヶ時に、真北へさして、くるくる舞いしてかさるは、わかい身にうないがいや、の、殿、……わしに貸さい。車借りて飛ばしたい、えらく今日は足がなえたや、やれ、の、草臥くたびれたいの、やれやれ、)

 と言って、握拳にぎりこぶしで腰をたたくのが、突着けて、ちょうど私の胸の処……というものは、あの、急な狭い坂を、やつは上の方に居るんだろう。その上、よく見ると、尻をこっちへ、向うむきにかがんで、何か言っている。

 かったい棒打ぼううち喧嘩けんかにもならんではないか。

(どこへくんだい、そして、)ッて聞いて見た。

(同じ処への、)

(吉原か。)

(さればい、それへ。)

 とこう言う。

(何しにくんだね。)

(取揚げにく事よ。)

 ああ、産婆か。道理で、と私は思った。今時そんなのは無いかも知れんが、昔の産婆ばあさんにはこんな風なのが、よくあった。何だか、薄気味の悪いような、横柄で、傲慢ごうまんで、人をめて、一切心得た様子をする、檀那寺だんなでらの坊主、巫女いちこなどと同じ様子で、頼む人から一目置かれた、また本人二目も三目も置かせる気。昨日きのうのその時なんか、九目せいもくという応接あしらいです。

 なぜか、根性曲りの、邪慳じゃけんな残酷なもののように、……絵を見てもそうだろう。産婦が屏風びょうぶうちで、生死いきしにの境、恍惚うっとりと弱果てたわきに、たすきがけの裾端折すそはしょりか何かで、ぐなりとした嬰児あかんぼ引掴ひッつかんで、たらいの上へぶら下げた処などは、腹を断割たちわったと言わないばかり、意地くねの悪いしゅうとめの人相を、一人で引受けた、という風なものだっけ。

 吉原へくと云う、彼処等あすこいらじゃ、成程頼みそうな昔の産婆だ、とその時、そう思ったから、……後で蔦屋つたやの二階で、みんなに話をする時も、フッとお三輪に、(どこかお産はあるか)って聞いたんだ。

 もうそう信じていた。

 でも、何だか、かんって、じりじりしてね、おかしく自分でも自棄やけになって、

(貸してやろう、乗っといで。)

柔順すなおなものじゃ、や、ようかしゃれたの……おおおお。)と云ってしりを動かす。

 変なものをね、その腰へ当てた手にぶら下げているじゃないか。──烏の死骸しがいだ。

(何にする、そんなもの。)

禁厭まじないにする大事なものいの、これが荷物じゃ、火の車に乗せますが、やあ、殿。)

たまらない! 臭くって、)

 と手巾ハンケチへ唾を吐いて、

(車賃は払っておくよ。)

 で、フイと分れたが、さあ、踏切を越すと、今の車はどこへ行ったか、そこに待っているはずのが、まるで分らない。似たやつどころか、また近所に、一台も腕車くるまが無かった。……

 変じゃないか。」


       十六


 しばらくして、

「お三輪が話した、照吉が、京都の大学へ行ってる弟の願懸けに行って、堂の前で気落きおちした、……どこだか知らないが、谷中の辺で、杉の樹の高い処から鳥が落ちて死んだ、というのを聞いた時、……何の鳥とも、照吉は、それまでは見なかったんだそうだけれども、私は何だよ……

 思わず、心が、先刻さっきの暗がり坂の中途へ行って、そのおかしな婆々ばばあが、荒縄でぶら提げていた、腐った烏の事を思ったんだ。照吉のも、同じ烏じゃ無かろうかと……それに、可なり大きな鳥だというし……いいや!」

 梅次のその顔色かおつきを見て、民弥はおさえるように、

「まさか、そんな事はあるまいが、ただそこへ考えが打撞ぶつかっただけなんだよ。……

 だから、さあ、可厭いやな気持だから、もう話さないでおきたかったんだけれども、話しかけた事じゃあるし、どうして、中途から弁舌で筋を引替えようという、器用なんじゃ無い。まじまじった……もっとも荒ッぽく……それでも、烏の死骸を持っていたッて、そう云うと、みんなが妙に気にしたよ。

 お三輪は、何も照吉のが烏だとも何とも、自分で言ったのじゃ無いから、別にそこまでは気を廻さなかったと見えて、暗号あいずに袖を引張らなかった。もうね、可愛いんだ、──ああ、可恐こわい、と思うと、きまったように、私のたもと引張ひっぱったっけ、しっかりと持って──左の、ここん処にすわっていて、」

 と猫板の下になる、膝のあたりをじった。……

煙管きせる?」

「ああ、」

「上げましょう。……」

 と、トンとはたいて、

「あい。……どうしたんです、それから、可厭いやね、何だか私は、」と袖を合わせる。

「するとだ……まだその踏切を越えて腕車くるまを捜したッてまでにもかず……其奴そいつ風采ふうつきなんぞくわしく乗出して聞くのがあるから、私は薄暗がりの中だ。判然とはしないけれど、朧気おぼろげに、まあ、見ただけをね、喋舌しゃべってるうちに、その……何だ。

 向う角の女郎屋じょろやの三階の隅に、真暗まっくらな空へ、切ってめて、すそをぼかしたように部屋へ蚊帳かやを釣って、寂然しんと寝ているのが、野原の辻堂に紙帳しちょうでも掛けた風で、恐しくさびれたものだ、と言ったっけ。

 その何だよ。……

 蚊帳の前へ。」

「ちょいと、」と梅次は、痙攣ひッつるばかり目をみはって膝をずらした。

「大丈夫、大丈夫、」

 と民弥はまたわずかにえみを含みつつ、

「仲の町越しに、こちらの二階から見えるんだから、丈が……そうさ、人にして二尺ばかり、一寸法師ッか無いけれど、何、普通で、離れているから小さいんだろう。……婆さんが一人。

 大きな蜘蛛くもが下りたように、行燈あんどうの前へ、もそりと出て、蚊帳の前をスーと通る。……擦れ擦れに見えたけれども、縁側を歩行あるいたろう。が、宙をくようだ。それも、黒雲の中にある、青田のへりでも伝うッて形でね。

 京町の角の方から、水道尻の方へ、やがて、暗い処へ入って隠れたのは、障子の陰か、戸袋の背後うしろになったらしい。

 遣手やりてです、風が、大引前おおびけまえを見廻ったろう。

 それが見えると、鉄棒かなぼうが遠くを廻った。……カラカラ、……カンカン、何だか妙だね、あの、どうか言うんだっけ。」

「チャン、カン、チャンカン……ですか。」と民弥の顔をみつめながら、軽く火箸ひばしを動かしたが、鉄瓶にカタンと当った。

「あ、」

 と言って、はっと息して、

「ああ、吃驚びっくりした。」

「ト今度は、その音に、ずッと引着けられて、廓中くるわじゅうの暗い処、暗い処へ、連れて歩行あるくか、と思うばかり。」


       十七


「話してる私も黙れば、聞いている人たちも、ぴったり静まる……

 と遣手やりてらしい三階の婆々ばばあの影が、蚊帳の前を真暗まっくらな空の高い処で見えなくなる、──とやがてだ。

 二三度続け様に、水道尻居まわりの屋根近やねぢかな、低い処で、からすいた。夜烏も大引けの暗夜やみだろう、可厭いやな声といったら。

 すたすたとけたたましい出入りの跫音あしおと、四ツ五ツ入乱れて、駆出す……馳込はしりこむといったように、しかも、なすりつけたように、滅入めいって、寮のかどあわただしい。

 私のたもとを、じっと引張って、

(あれ、照吉ねえさんが亡くなるんじゃなくッて)ッて、少し震えながらお三輪が言うと、

(引潮時だねちょうど……)と溜息ためいきをしたは、油絵の額縁をこしらえる職人風の鉄拐てっかな人で、中での年寄だった。

 婦人おんなの一人が、

(姉さん、姉さん、)

 と、お三輪を、ちょうどその時だった、呼んだのが、なぜか、気が移って、今息を引取ろうという……照吉の枕許に着いていて言うような、こう堅くなった沈んだ声だった。

(ははい、)

 とこれもかすかにね。

 浜谷ッて人だ、その婦人は、お蘭さんというのが、

(内にお婆さんはおいでですか。)

 と聞くじゃないか。」

「まあ、」と梅次は呼吸いきを引く。

 民弥はしずか煙管きせるを置いて、

「お才さんだって、年じゃあるが、まだどうして、あねえで通る、……婆さんという見当では無い。みんな、それに、それだと顔は知っている。

 女中がわりに送迎おくりむかえをしている、ぜんに、それ、柳橋の芸者だったという、……耳の遠い、ぼんやりした、何とか云う。」

「お組さん、」

いき年増としまだ、可哀相に。もう病気であんなになってはいるが……だって白髪しらがの役じゃ無い。

(いいえ、お婆さんは居ませんの。)

(そう……)

 と婦人が言ったっけ。附着くッつくようにして、床の間の傍正面わきしょうめんにね、丸窓を背負しょって坐っていた、二人、背後うしろが突抜けに階子段はしごだんの大きな穴だ。

 その二人、もう一人のが明座ッてやっぱり婦人で、今のを聞くと、二言ばかり、二人で密々ひそひそと言ったが否や、手を引張合ひっぱりあった様子で、……もっとも暗くってよくは分らないが。そしてスーと立って、私の背後うしろへ、足袋の白いのがさっと通って、香水のかおりが消えるように、次の四畳を早足でもって、トントンと階下したへ下りた。

 また、みんな、黙ったっけ。もっとも誰が何をして、どこに居るんだか、暗いから分らない。

 しばらく、たもとの重かったのは、お三輪がしっかり持ってるらしい。

 急にあがって来ないだろう。

階下したじゃ起きているかい。)

(起きてるわ、あの、だけど、さあちゃんは照吉さんのとこへちょっと行ってるかも知れなくってよ。)

(何は、何だっけ。)

(お組さん、……ええ、火鉢のとこに居てよ。でも、もうあの通りでしょう、坐眠いねむりをしているかも分らないわ。)

(三輪ちゃんか、ちょっと見てあげてくれないか、はばかりが分らないのかも知れないぜ。)と一人気を着けた。

(ええ、)

 てッたが、もう可恐こわくッて一人では立てません。

 もう一ツ、袂が重くなって、

(一所に……兄さん、)

 と耳のとこへ口をつける……頬辺ほっぺたひやりとするわね、びんの毛で。それだけ内証ないしょのつもりだろうが、あのだもの、みんな、聞えるよ。

(ちょいと、失礼。)

(奥方に言いつけますぜ。)と誰か笑った、が、それも陰気さ。」


       十八


「暗い階子はしごをすっと抜ける、と階下した電燈でんきだ、お三輪はさっと美しい。

 見ると、どうです……二階から下して来て、足の踏場も無かった、食物、道具なんか、掃いたように綺麗に片附いて、かどを閉めた。節穴へあかりが漏れて、古いから森のよう、下したしとみ背後うしろにして、上框あがりがまちの、あの……客受けの六畳の真中処まんなかどころへ、二人、お太鼓の帯で行儀よく、まるで色紙へ乗ったようでね、ける、かな、と端然きちんと坐ってると、お組が、精々気を利かしたつもりか何かで、お茶台に載っかって、ちゃんとお茶がその前へ二つ並んでいます……

 お才さんは見えなかった。

 ところが、お組があれだろう。男なら、こつでなり、勘でなり、そこはばつも合わせようが、何の事は無い、松葉ヶやつの尼寺へ、振袖の若衆わかしゅが二人、という、てんで見当の着かないお客に、不意に二階から下りて坐られたんだから、ヤ、妙な顔で、きょとんとして。……

 次の茶のから、敷居際まで、擦出ずりだして、煙草盆たばこぼんにね、一つ火を入れたのを前に置いて、御丁寧に、もう一つ火入ひいれに火を入れている処じゃ無いか。

 座蒲団ざぶとんは夏冬とも残らず二階、長火鉢の前の、そいつは出せず失礼と、……煙草盆を揃えて出した上へ、団扇うちわを二本の、もうちっとそのままにしておいたら、お年玉の手拭てぬぐいの残ったのを、上包みのまま持って出て、別々に差出そうという様子でいる。

 さあ、お三輪の顔を見ると、嬉しそうに双方を見較べて、ほっ一呼吸ひといきいた様子。

(才ちゃんは、)

 とお三輪が、調子高に、直ぐに聞くと、さきへ二つばかりゆっくりと、うなずき頷き、

(姉さんは、ちょいと照吉さんの様子を見に……あの、三輪ちゃん。)

 と戸棚へ目をって、手で円いものをちらりとこしらえたのは、菓子鉢へ何か? 暗号あいず。」

 ああ、病気に、あわれ、耳も、声も、江戸のはりさえ抜けたさまは、のりを売るよりいじらしい。

「お三輪が、笑止そうに、

(はばかりへおいでなすったのよ。)

 お組は黙ってかぶりを振るのさ。いいえ、と言うんだ。そうすると、成程二人は、最初はじめッからそこへ坐り込んだものらしい。

(こちらへいらっしゃいな。)とその一人が、お三輪を見て可懐なつかしそうに声を懸ける。

(佐川さん、)

 とひどく疲れたらしく、弱々とその一人が、もっとも夜更しのせいもあろう、髪もぱらつく、顔色も沈んでいる。

(どうしたんです。)と、ちょうどい、その煙草盆を一つ引攫ひっさらって、二人の前へ行って、中腰に、敷島を一本。さあ、こうなると、多勢の中から抜出ぬけだしたので、常よりは気が置けない。

(頭痛でもなさるんですか、お心持が悪かったら、蔭へ枕を出させましょうか。)

(いいえ、別に……)

(御無理をなすっちゃ不可いけません。何だかお顔の色が悪い。)

(そうですかね。)とお蘭さんが、片頬かたほぐように手を当てる。

(ねえ、貴方あなた、お話しましょう。)

(でも……)

(ですがね、)

 とちらちらと目くばせがひらめく、──言おうか、言うまいかッて素振そぶりだろう。

 聞かずにはおかれない。

(何です、何です、)

 と肩を真中まんなかへ挟むようにして、私が寄る、と何か内証ないしょの事とでも思ったろう、ぼけていても、そこは育ちだ。お組が、あのに目で知らせて、二人とも半分閉めた障子の蔭へ。ト長火鉢のさしの向いに、結綿ゆいわた円髷まげが、ぽっと映って、火箸が、よろよろとして、鉄瓶がぽっかり大きい。

 お種さんが小さな声で、

(今、二階からいらっしゃりがけに、物干の処で、)

 とすこし身をすくめて、一層低く、

(何か御覧なさりはしませんか。)

 私は悚然ぞっとした。」


       十九


「が、わざと自若じじゃくとして、

(何を、どんなものです。)って聞返したけれど、……今の一言で大抵分った、婆々ばばあが居た、と言うんだろう。」

可厭いや、」と梅次は色を変えた。

「大丈夫、まあ、お聞き、……というものは──内にお婆さんは居ませんか──ッて先刻さっきお三輪に聞いたから。……

 はたして、そうだ。

(何ですか、お婆さんらしい年寄が、貴下あなた、物干からのぞいていますよ。)

 とまた一倍滅入った声して、お蘭さんが言うのを、お種さんが取繕うように、

(気のせいかも知れません、多分そうでしょうよ……)

(いいえ、たしかなの、佐川さん、それでね、ただ顔を出して覗くんじゃありません。ふくろう見たように、膝を立てて、しゃがんでいて、窓の敷居の上まで、物干の板からそっと出たり、入ったり、)

(ああ、可厭いやだ。)

 と言って、揃って二人、ぶるぶると掃消はらいけすように袖を振るんだ。

 その人たちより、私の方がたまりません。で無くってさえ、蚊帳かやの前を伝わった形が、昼間のくらがり坂のにていてたまらない処だもの、……烏はく……とすぐにあの、寮のかどで騒いだろう。

 気にしたら、どうして、突然いきなりポンプでも打撒ぶちまけたいくらいな処だ。

(いつから?……)

(つい今しがたから。)

(全体ぜんにから、あの物干の窓が気になってしようがなかったんですよ。……時々、電車のですかね、いなびかりですか、薄いあおいのが、真暗まっくらな空へ、ぼっとしますとね、黄色くなって、大きな森が出て、そして、五重の塔の突尖とっさきが見えるんですよ……上野でしょうか、天竺てんじくでしょうか、何にしても余程遠くで、方角が分りませんほど、私たちが見てすごかったんです。

 その窓に居るんですもの。)

(もっとお言いなさいよ。)

(何です。)

可厭いやだ、私は、)

(もっととは?)

貴女あなたおっしゃいよ、)

 と譲合った。トお種さんが、となりのお三輪にもかくしたそうに、

(頭にね、何ですか、手拭てぬぐいのようなものを、ひらったく畳んで載せているものなんです。貴下あなたがお話しの通りなの、……佐川さん。)

 私は口が利けなかった。──無暗むやみとね、火入ひいれ巻莨まきたばこをこすり着けた。

 お三輪の影が、火鉢を越して、震えながら、結綿ゆいわた円髷まげ附着くッついて、耳のはたで、

(お組さん、どこのか、お婆さんは、内へ入って来なくッて?)

(お婆さん……)

 とぼやけた声。

(大きな声をおしでないよ。)

 とじれったそうにたしなめると、大きく合点がってん々々しながら、

(来ましたよ。)

 ときょとんとして、仰向いて、鉄瓶をでて澄まして言うんだ。」

「来たの、」

 と梅次が蘇生よみがえった顔になる。

「三人が入乱れて、その方へ膝を向けた。

 御注進の意気込みで、お三輪も、はらりとこっちへ立って、とんと坐って、せいせい言って、

(来たんですって。ちょいと、どこの人。)

 と、でも、やっぱり、内証で言った。

 胸から半分、障子の外へ、お組が、みんなが、油へ水をさすような澄ました細面ほそおもての顔を出して、

(ええ、一人お見えになりましてすよ。)

(いつさ?)

(今しがた、可厭いやからすが泣きましたろう……)

 いや、もうそれには及ばぬものはまた意地悪く聞える、と見える。

(照吉さんの様子を見に、お才はんが駆出してきなすった、かど開放あけはなしたまんまでさ。)

 みんなが振向いて門を見たんだ。」──


       二十


「その癖かどの戸はしまっている。土間が狭いから、下駄が一杯、ステッキ洋傘こうもりも一束。大勢あんまひまだから、歩行出あるきだしたように、もぞりもぞりと籐表とうおもての目や鼻緒なんぞ、むくむく動く。

 この人数が、二階に立籠たてこもる、と思うのに、そのまたしずかさといったら無い。

 お組がその儀は心得た、という顔で、

(後で閉めたんでございますがね、三輪みいちゃん、お才はんがかしく、はあ、)

 と私達を見て莞爾にっこりしながら、

(駆出してきなすった、直き後でございますよ。入違いぐらいに、お年寄が一人、そのすみッこから、扁平ひらべったいような顔を出してのぞいたんでございますよ。

 何でも、そこで、おかみさんに聞いて来た、とそう言いなすったようでしたっけ……すたすた二階へおあがりでございました。)

 さ、耳のうといというものは。

(どこの人よ、)

 とお三輪が擦寄って、急込せきこんで聞く。

(どこのお婆さんですか。)

(お婆さんなの、ちょいと……)

 私たちがたずねたいこころは、お三輪もよく知っている。くらがり坂以来、気になるそれが、じじともばばとも判別みわけが着かんじゃないか。

(でしょうよ、はあ、……余程よっぽど年紀としですから。)

(いいえさ、年寄だってね、お爺さんもお婆さんもありますッさ。)

(それがね、それですがね三輪ちゃん。)

 とかぶりって、

(どっちだかよく分りません。せいの低い、色の黄色あおい、突張つっぱった、硝子ビイドロで張ったように照々てらてらした、つやい、その癖、随分よぼよぼして……はあ、手拭てぬぐいを畳んで、べったりかぶって。)

 女たちは、お三輪と顔を見合わせた。

(それですが、どうかしましたか。)

(どうもこうもなくってよ……)とお三輪はなさけない声を出す。

不可いけませんでしたかねえ。私はやっぱり会にいらしった方か、と思って。)

 ……成程な、」

 と民弥は言い掛けて苦笑した。

「会へいらしったには相違は無い。

(今時分来る人があって、お組さん。もう二時半だわ。)

(ですがね、この土地ですし……ちょいと、御散歩にでもお出掛けなすったのが、帰って見えたかとも思いましたしさ……おばけの話をする、老人としよりは居ないかッて、誰方どなたかお才はんに話しをしておいでだったし、どこか呼ばれて来たのかとも、後でね、考えた事ですよ。いえね、そんな汚い服装なりじゃありません。茶がかった鼠色の、何ですか無地もので、しわのないのを着てでした。

 けれども、顔で覗いてその土間へお入んさすった時は、背後うしろ向きでね、草履でしょう、穿物はきものを脱いだのを、突然いきなり懐中ふところへお入れなさるから、もし、ッて留めたんですが、聞かぬふりで、そして何です、そのまんま後びっしゃりに、ずるッかずるッかそこを通って、)

 と言われた時は、揃って畳の膝をらした。

(この階子段はしごだんの下から、向直ってのっそりのっそり、何だか不躾ぶしつけらしい、きっと田舎のお婆さんだろうと思いました。いけ強情な、意地の悪い、高慢なねえ、その癖しょなしょなして、どうでしょう、可恐おそろし裾長すそながで、……へ引摺るんでございましょうよ。

 裾端折すそはしょりを、ぐるりと揚げて、ちょいと帯の処へ挟んだんですがねえ、何ですか、大きな尻尾をいたような、変な、それは様子なんです。……

 おや、無面目むめんもくだよ、人の内へ、穿物はきものを懐へ入れて、裾端折のまんま、まあ、随分なのが御連中の中に、とそう思っていたんですがね、へい、まぐれものなんでございますかい。)

 わなわな震えて聞いていたっけ、たまらなくなった、と見えてお三輪は私にすがり着いた。

 いや、お前も、可恐おっかながる事は無い。……

 もう、そこまでになると、さすがにものの分った姉さんたちだ、お蘭さんもお種さんも、言合わせたように。私にも分った。言出して見ると皆同一おんなじ。」……


       二十一


「茶番さ。」

「まあ!」

「誰か趣向をしたんだね、……もっとも、昨夜ゆうべの会は、最初から百物語に、白装束や打散ぶっちらしがみで人をおどかすのは大人気無い、にしよう。──それで、電燈でんきだって消さないつもりでいたんだから。

 けれども、その、しないという約束の裏をくのも趣向だろう。集った中にや、随分娑婆気しゃばっけなのも少くない。きっと誰かが言合わせて、人を頼んだか、それとも自から化けたか、暗い中からそっ摺抜すりぬける事は出来たんだ。……夜は更けたし、潮時を見計らって、……たしかにそれに相違無い。

 トそういう自分が、事に因ると、茶番の合棒あいぼう発頭人ほっとうにんと思われているかも知れん。先刻さっき入ったという怪しい婆々ばばあが、今現に二階に居て、はたでもその姿を見たものがあるとすれば……似たようなものの事を私が話したんだから。

(誰かの悪戯いたずらです。)

(きっとそう、)

 と婦人おんなだちも納得した。たちまち雲霧が晴れたように、心持もさっぱりしたろう、急に眠気ねむけれたような気がした、勇気は一倍。

 しからん。鳥の羽におびやかされた、と一の谷に遁込にげこんだが、はかままじりに鵯越ひよどりごえを逆寄さかよせに盛返す……となると、お才さんはまだ帰らなかった。お三輪も、こわいには二階が恐い、が、そのまま耳のうといのと差対さしむかいじゃなお遣切やりきれなかったか、またたもとが重くなって、附着くッついてあがります。

 それでも、やっぱり、物干の窓の前は、私はじめ悚然ぞっとしたっけ。

 ばたばたとせわしそうにみんな坐った、もとの処へ。

 で、思い思いではあるけれども、各自めいめい暗がりの中を、こう、……不気味も、好事ものずきも、負けない気もまじって、その婆々ばばあだか、爺々じじいだか、稀有けぶやつは、と透かした。が居ない……」

 梅次が、確めるように調子をおさえて、

「居ないの、」

「まあ、お待ち、」

 と腕を組んで、胡坐あぐらを直して、伸上って一呼吸ひといきした。

「そこで、連中は、と見ると、いやもう散々の為体ていたらく。時間が時間だから、ぐったり疲切って、向うの縁側へ摺出ずりだして、欄干てすりひじを懸けて、夜風に当っているのなどは、まだたしかな分で。突臥つっぷしたんだの、俯向うつむいたんだの、壁で頭を冷してるのもあれば、煙管きせるで額へ突支棒つっかいぼうをして、畳へめったようなのもある。……夜汽車が更けて美濃みの近江おうみ国境くにざかい寝覚ねざめの里とでもいう処を、ぐらぐらゆすってくようで、例の、大きな腹だの、せた肩だの、帯だの、胸だの、ばらばらになったのが遠灯とおあかりで、むらむらと一面に浮いてただよう。

(佐川さん、)

 とささやくように、……幹事だけに、まだしっかりしていた沢岡でね。やっぱり私の隣りに坐ったのが、

(妙なものをお目に懸けます。)

(え、)

 それ、婆々か、と思うとそうじゃ無い。

(縁側の真中まんなかの──あの柱に、凭懸よりかかったのは太田(西洋画家)さんですがね、横顔を御覧なさい、頬がげっそりして面長おもながで、心持、目許めもと、ね、第一、髪が房々と真黒まっくろに、生際はえぎわが濃く……あかりの映る加減でしょう……どう見ても婦人おんなでしょう。婦人おんなも、産後か、病上やみあがりてった、あの、すご蒼白あおじろさは、どうです。

 もう一人、)

 と私の脇の下へ、頭を突込つっこむようにして、附着くッついて、低く透かして、

(あれ、ね、床の間の柱に、仰向けにもたれた方は水島(劇評家)さんです。フト口をきか何か、寝顔はというたしなみで、額から顔へ、ぺらりと真白まっしろ手巾ハンケチを懸けなすった……目鼻も口も何にも無い、のっぺらぽう……え、百物語に魔がすって聞いたが、こんな事を言うんですぜ。)

 ところが、そんなので無いのが、いつかし掛けているので気になる……」


       二十二


「そうすると、趣向をしたのはこの人では無いらしい、企謀もくろんだものなら一番懸けに、婆々ばばあを見着けそうなものだから。

(ねえ、こっちにもう一つ異体いていなのは、注連しめでも張りそうな裸のお腹、……)

(何じゃね、)と直きにそばだったので、琴の師匠は聞着けたが、

(いいえ、こちらの事で。)幹事が笑うと、欠伸あくびまじりで、それなり、うとうと。

(まあ、これは一番正体が知れていますが、それでも唐突だしぬけに見ると吃驚びっくりしますぜ。で、やっぱりそれ、燭台しょくだいわきの柱に附着くッついて胡坐あぐらでさ。妙に人相形体ぎょうていの変ったのが、三つとも、柱の処ですからね。私も今しがた敷居際の、仕切の壁の角を、摺出ずりだした処ですよ。

 どうです、心得ているからいようなものの、それでいながら変にすごい。気の弱い方が、転寝うたたねからふっと覚際さめぎわに、ひょっと一目見たら、吃驚びっくりしますぜ。

 魔物もやっぱり、蛇や蜘蛛くもなんぞのように、鴨居かもいから柱を伝って入って来ると見えますな。)

可厭いやですね。)

 婦人は二人、さっ衣紋えもんさばいて、欞子窓れんじまどの前を離れた、そこにも柱があったから。

 そして、お蘭さんが、

(ああ、また……いていますね。)

 と言うんだ。……階下したから二階へ帰掛けに、何の茶番が! で、私がぴったり閉めたはず。その時は勿論、婆々も爺々も見えなかった、──その物干の窓が、今の間に、すかり、とこう、切放したように、黒雲立っていている。

 お種さんが、

はばかり様、どうかそこをお閉め下さいまし。)

 こう言って声を懸けた。──誰か次のの、その窓際に坐っているのが見えたんだろう。

 お聞き……そうすると……壁腰、──幹事の沢岡が気にして摺退すりのいたという、敷居外の柱の根の処で、

(な、)

 と云う声だ! 私は氷を浴びたように悚然ぞっとした。

しめい言うて、云わしゃれても、な、らちかん。閉めれば、その跡から開けるで、やいの。)

 聞くと、筋も身を引釣ひッつった、私は。日暮に谷中の坂で聞いた、と同じじゃないか。もっとも、年寄りは誰某だれそれと人をめないと、どの声も似てはいるが。

 それに、言い方が、いかにも邪慳じゃけんに、意地悪く聞えたせいか、幹事が、対手あいては知らず、ちょっとなじるように、

(誰が明けます。)

(誰や知らん。)

(はあ、閉める障子を明ける人がありますか。)

(棺のふたは一度じゃが、な、障子は幾度いくたびでも開けられる、てられるがいの。)

いから、閉めて下さい、夜が更けて冷えるんですから、)と幹事も不機嫌な調子で言う。

きましょ。透通いて見えん事は無けれどもよ……障子越は目に雲霧じゃ、のぞくにはっきりとよう見えんがいの。)

(誰か、物干から覗くんですかね。)

かれにもたれにも、大勢、な、)

(大勢、……誰です、誰です。)

 と、幹事もはじめて、こう逆に捻向ねじむいて背後うしろを見た。

(誰や言うてもな、殿、殿たちには分らぬ、やいの、形も影も、暗い、暗い、暗い、見えぬぞ、殿。)

(明るくしよう、)

 と幹事も何か急込せきこんで、

三輪みいちゃん、電燈でんきを、電燈でんきを、)

 と云ったが、どうして、あのが動き得ますか。私の膝に、可哀相に、襟を冷たくして突臥つっぷしたッきり。

きませ、措きませい。無駄な事よ、殿、地獄の火でも呼ばぬ事には、明るくしてかて、殿たちの目に、何が見えよう。……見えたら異事ことじゃぞよ、異事じゃぞよ、の。見えぬで僥倖しあわせいの、……一目見たら、やあ、殿、殿たちどうなろうと思わさる。やあ、)

 と口を、ふわふわと開けるかして、声がぼうとする。」


       二十三


「幹事がきっとして、

(誰です、お前さんは、)

 と聞いた。この時、ねむっていない人が一人でもあるとすれば、これは、私はじめ待構えたといだった。

わしか、私か、……殿、)

 と聞返して、

(同じ仲間のものじゃが、やいの。)

夥間なかま? 私たちの?)

(誰がや、……誰がや、)

 とあざけるように二度言って、

(殿たちの。わしが言うは近間に居る、大勢の、の、その夥間じゃ、という事いの。)

(何かね、くるわの人かね。)

(されば、松の森、杉の林、山懐やまふところの廓のものじゃ。)

(どこから来ました。)

(今日は谷中の下闇したやみから、)

(佐川さん、)

 と少し声高に、幹事が私を呼ぶじゃないか。

 私は黙っていたんだ。

 しばらくして、

(何をしに……)

(「とりあげ」をしょうために、な、殿、「とりあげ」に来たぞ、やいの。)

嬰児あかんぼを産ませるのか。)

(今、無い、ちょうど間に合うて「とりあげ」る小児こどもは無い。)

(そんな、あつらえたようなお産があるものか、お前さん、頼まれて来たんじゃ無いのかね。)

(さればのう、頼まれても来たれど、な、催促にももう来たがいの。来たれどもの、仔細しさいあってまだ「とりあげ」られぬ。)

(むむ、まだ産れないのか。)

(何がいの、まだ、死にさらさぬ。)

(死……死なぬとは?)

(京への、京へ、遠くへ行ている、弟和郎わろに、一目ひとめ未練が残るげな。)

 幹事はハタと口をつぐんだ。

(そこでじゃがや、あねめが乳の下の鳩落みずおちな、蝮指まむしゆびあおい爪で、ぎりぎりときりんで、白い手足をもがもがと、黒髪をあおってもだえるのを見て、鳥ならばきながら、羽毛けばむしった処よの。さて、それだけで帰りがけじゃい、の、殿、その帰るさに、これへ寄った。)

(そこに居るのは誰だ。)

 と向うの縁側の処から、子爵が声を懸けた。……私たちは、フト千騎の味方を得たように思う。

 ト此方こなたで澄まして、

(誰でも無いがの。)

(いや、誰でも構わん。が、洒落しゃれ串戯じょうだん可加減いいかげんにした方がいと思う。こう言うと大人気ないが、婦人も居てだ。土地っの娘も聞いてる……一座をすれば我々の連中だ。悪戯いたずらいが、余り言う事が残酷過ぎる。……外の事じゃない。

 弟を愛して、──それが出来得る事でも出来ない事でも、その身代りに死ぬと云って覚悟をしている大病人。現に、夜伽よとぎをして、あの通り、あかりがそこに見えるじゃないか。

 それこそ、何にも知らぬ事だ。ちっとも差支えは無いようなものの、あわれなそのおんなを、直ぐ向うに苦しませておいて、呑気のんきそうに、夜通しのこの会さえ、何だか心ないような気がして、私なんぞはふさいでいるんだ。

 仕様もあろうのに、その病人を材料たねにして、約束の生命いのちを「とりあげ」に来たが、一目弟を見たがるから猶予をした、胸に爪を立てて苦しませたとはどうだ。

 聞いちゃおられん、あんまり残酷で。可加減いいかげんにしておきなさい。誰だか。)

 と凜々りんりんと云う。

 聞きも果てずに、

むごいとは、酷いとは何じゃ、の、何がや、向うの縁側のその殿、酷いとはいの、やいの、酷いとはいの。)

 と畳掛けるように、しかも平気な様子。──向うの縁側のその殿──とは言種いいぐさがどうだい。」


       二十四


「子爵がきっとなって、坐り直ったようだっけ。

(知らんか、残酷という事を、知らなけりゃ聞かせようじゃないか、前へ出ないか、おい、こっちへ入らんか。)

こうのう、殿、そのそばへ参ろうじゃがの、そこに汚穢むさいものがあろうがや。早やそれが、汚穢うて汚穢うてならぬ。……退けてくされませ、殿、)と言うんだ。

むさいもの、何がある。)

(小丼に入れた、青梅の紫蘇巻しそまきじゃ。や、香もならぬ、ふっふっ。ええ、胸悪やの、先刻さっきにから。……早く退けしゃらぬと、わし嘔吐もどそう、嘔吐そう、殿。)

 茶うけに出ていた甘露梅の事だ。何か、女児おんなごも十二三でなければ手に掛けないという、その清浄しょうじょうな梅漬を、汚穢くてならぬ、嘔吐すと云う。

(吐きたければ吐け、何だ。)

(二寸の蚯蚓みみず、三寸の蛇、ぞろぞろと嘔吐すがしゅうないか。)

 余り言種いいぐさ自棄やけだから、

(蛇や蚯蚓は構わんが、そこらで食って来た饂飩うどんなんか吐かれては恐縮だ。悪い酒をあおったろう。佐川さん、そこらにあったら片附けておやんなさい。)

 私はそっ押遣おしやって、お三輪と一所に婦人だちを背後うしろかばって、座を開く、と幹事も退いて、私に並んでたてになる。

 次の間かけて、敷居の片隅、大きな畳の穴が開いた。そこを……もくもく、鼠に茶色がかった朦朧もうろうとした形が、フッ、と出て、浮いて、通った。──

 どうやら、しりからさきへ、背後うしろ向きに入るらしい。

 ト前へかぶさったはずだけれども、琴の師匠の裸の腹はやっぱり見えた。縁側の柱の元へ、音もなく、子爵に並んだ、と見ると、……気のせいだろう、物干の窓は、ワヤワヤと気勢けはい立って、やつが今居るあたりまで、ものの推込おしこんだ様子がある。なぜか、向うの、その三階の蚊帳が、空へずッと高くなったように思う。

 ちょうど、子爵とそのばばあとの間に挟まる、柱にもたれた横顔が婦人おんなに見える西洋画家は、フイと立って、真暗まっくらな座敷の隅へ姿を消した。真個しんに寐入っていたのでは無かったらしい。

(残酷というのはね、仮にもしろ、そんな、優しい、可憐いじらしい、──弟のために身代りになるというような、若い人の生命いのちを「とりあげ」に来たなどという事なんだ。世の中には、随分、娑婆塞しゃばふさげな、死損しにぞこないな、)

 と子爵も間近に、よくその婆々ばばあを認めたろう、……当てるように、そう言って、

(邪魔な生命いのちもあるもんだ。そんなやつの胸に爪を立てる方がまだしもだな。)

(その様な生命いのちはの、殿、殿たちの方で言うげな、……やみほうけた牛、せさらぼえた馬で、私等わしらがにも役にも立たぬ。……あわれな、というはの、あぶらの乗った肉じゃ、いとしいというはの、かおりい血じゃぞや。な、殿。──此方衆こなたしゅ、鳥を殺さしゃるに、親子の恩愛を思わっしゃるか。獣を殺しますに、兄弟の、身代りの見境みさかいがあるかいの。うおも虫も同様おなじでの。親があるやら、一粒種やら、可愛いの、いとしいの、分隔てをめされますかの。

 弱いものいうたら、しみしんしゃくもさしゃらず……毛をむしる、腹を抜く、背をひらく……串刺くしざしじゃ、ししびしおじゃ。油で煮る、火炎ほのおで焼く、きながらなますにも刻むげなの、やあ、殿。……ひもじくばまだしもよ、栄耀えようぐいの味醂蒸みりんむしじゃ。

 れれば、ものよ、何がそれを、ひどいとも、いとしいとも、不便ふびんなとも思わず。──一ツでもつなげる生命いのちを、二羽も三頭みッつも、飽くまでめさる。また食おうとさしゃる。

 誰もそれをとがめはせまい。咎めたとて聞えまい、わしも言わぬ、私もそれをむごいと言わぬぞ。知らぬからじゃ、不便ふびんもいとしいも知らねばこそいの。──何と、殿、むごい事を知らぬものは、何と殿、殿たちにも結構に、重宝にあろうが、やいの、のう、殿。)

(何とでも言え、対手あいてにもならん。それでも何か、そういうものは人間か。)

 と吐出すように子爵が言った。」


       二十五


「ト其奴そいつが薄笑いをしたようで、

(何じゃ、や、人間らしく無いと言うか。誰が人間になろうと云うた。殿たち、人間がさほどえらいか、へ、へ、へ、)

 とさげすんで、

(この世のなかはの、人間ばかりのもので無い。私等わしらが国はの、──殿、殿たちが、目の及ばぬ処、耳に聞えぬ処、心の通わぬ処、──広大な国じゃぞの。

 殿たちの空を飛ぶ鳥は、私等わしらが足の下を這廻はいまわる、水底みなそこうお天翔あまかける。……烏帽子えぼしかぶった鼠、素袍すおうを着た猿、帳面つける狐も居る、かまどを炊く犬もる、いたちこめく、蚯蚓みみずが歌う、蛇が踊る、……や、面白い世界じゃというて、殿たちがものとは較べられぬ。

 何──不自由とは思わねども、ただのう、殿たち、人間が無いに因って、時々来てはさらえてく……老若男女ろうにゃくなんにょの区別は無い。釣針にかかった勝負じゃ、緑の髪も、白髪しらがも、顔はいろいろの木偶でくの坊。孫等まごどもに人形の土産じゃがの、や、殿。殿たち人間の人形は、私等が国の玩弄物おもちゃじゃがの。

 身代りになるおんななぞは、白衣びゃくえを着せてひなにしょう。芋殻いもがらの柱で突立つったたせて、やの、数珠じゅずの玉を胸に掛けさせ、)

 いや、もう聞くに堪えん。

(まあ、面を取れ、真面目まじめに話す。)と子爵が憤ったように言う。

(面、)

(面だ。)

 面だ、面だ、とささやく声が、そこここに、ひそひそ聞えた。眠らずにいた連中には、残らず面に見えたらしい。

 成程、そう言えば、端近へ出てから、例のあかりの映る、その扁平ひらったい、むくんだ、が瓜核うりざねといった顔は、蒼黄色あおきいろに、すべすべと、しわが無く、つやがあって、皮一重ひとえ曇った硝子ビイドロのように透通って、目が穴に、窪んで、掘って、眉が無い。そして、唇の色が黒い。気が着くと、ものを云う時も、やつ薄笑うすわらいをする時も、さながら彫刻ほりつけたもののようでじっとしたッきり、口も頬もビクとも動かぬ。眉……眉はぬっぺりとして跡も無い、そして、手拭てぬぐいを畳んだらしいものを、額下りに、べたん、と頭へ載せているんだ。

(いや、いや、)

 と目鼻の動かぬ首を振って、

るまい、除らぬは慈悲じゃ。この中には、な、彫刻ほりものをする人もある、その美しいものは、私等わしらが国から、遠くゆびさ花盛はなざかりじゃ、散らすは惜しいに因って、わざと除らぬぞ!……何が、気の弱い此方こなたたちが、こうして人間の面をかぶっておればこそ、の、わしが顔を暴露むきだいたら、さて、一堪ひとたまりものう、ひげが生えた玩弄物おもちゃろうが。)

あかりけよう、何しろ。)

 と、幹事が今は蹌踉よろけながら手探りで立とうとする。子爵が留めて、

(お待ちなさい。串戯じょうだんこうじると、抜差しが出来なくなる。誰か知らんが、悪戯いたずらがちと過ぎます。面は内証で取るがい、今の内ならちっとも分らん、電燈でんきけてからは消えにくくなるだろう。)

 子爵はどこまでも茶番だ、と信ずるらしい。

 ……後で聞くと、中には、対方あいてこしらえて応答うけこたえをする、子爵その人が、悪戯をしているんだ、と思ったのもあったんだ。

(明るさ、暗さの差別は無いが、の、の、殿、わしがしょう事、それをせねば、日が出ましても消えはせぬが。)

よし、何をしに来たんだ、ここへ。……まあ、仮にそっちが言う通りのものだとすると。)

(されば、さればの、殿。……)

 とまた落着いたように、ぐたりと胸を折った、うずくまった形がひしゃげて見えて、

(身代りが、──そのことで、やいの、の、殿、まだ「とりあげ」が出来ぬに因って、一つな、このあたりで、間に合わせに、ろう!……さて、どれにしょうぞ、と思うて見入って、ながまわいていたがやいの、のう、殿。)

 みんな、──黙った。

(殿、ふと気紛きまぐれて出て、思懸おもいがけのうねんごろ申したしるしじゃ、の、殿、望ましいは婦人おなごどもじゃ、何と上﨟じょうろうを奪ろうかの。)

 婦人おんなたちのその時の様子は、察してかろう。」


       二十六


やつは勝ほこったていで、毛筋も動かぬその硝子面ビイドロめんを、穴蔵の底に光る朽木のように、仇艶あだつやを放ってみまわしながら、

(な、けれども、殿、殿たちは上﨟じょうろうかばわしゃろうで、ねんごろ申したかいに、たってとはよう言わぬ。選まっしゃれ、選んで指さっしゃれ、それをろう。……奪ろう。……それを奪ろう! やいの、殿。)

 とまくし掛けて、

(ここには見えぬ、なれども、殿たちの妻、子、親、縁者、奴婢しもべはした、指さっしゃれば、たちどころに奪って見しょう。)

 と言語道断な事を。

 とはたはたとひさしの幕が揺動いて、そのなぐれが、向う三階の蚊帳かやあおった、その時、雨を持った風がさっと吹いた。

(また……我を、と名告なのらっしゃれ……殿、殿ならば殿をろう。)

(勝手にしろ、馬鹿な。)

 と唾吐くように、忌々いまいましそうに打棄うっちゃって、子爵は、くるりと戸外おもてを向いた。

にしょうでは気迷うぞいの、はて?……)

 とその面はつけたりで、畳込んだ腹の底で声が出る。

(さて……どれもどれも好ましい。やあ、天井、屋の棟にのさばる和郎等わろら どれが望みじゃ。やいの、)

 と心持仰向くと、不意に何と……がらがら、どど、がッと鼠かいたちだろう、蛇もまじるか、すさまじく次のを駆けて荒廻ると、ばらばらばらばらと合せ目を透いてほこりが落ちる。

(うむ、や、和郎等わろども。埃を浴びせた、その埃のかかったものがほしいと言うかの──望みかいの。)

 ばたばた、はらはらと、さあ、なさけない、口惜くやしいが、袖やたもとはたいた音。

(やれ打つ、へへへ、小鳥のように羽掻はがいあおつ、雑魚ざこのようにねる、へへ。……さて、騒ぐまい、今がはそで無い。そうでは無いげじゃ。どの玩弄物おもちゃ欲しい、とわしが問うたでの、さきへ悦喜の雀躍こおどりじゃ、……這奴等しゃつら、騒ぐまい、まだ早い。殿たち名告なのらずば、やがて、ろう、選取よりどりに私がってろう!)

(勝手にして、早く退座をなさい、余りといえばしからん。無礼だ、引取れ。)

 と子爵が喝した、叱ったんだ。

(催促をせずとうござる。)

 と澄まし返って、いかにも年寄くさく口のうちで言った、と思うと、

(やあ、)

 と不意に調子を上げた。ものを呼びつけたようだっけ。かすかに一つ、カアと聞えて、またたく間に、水道尻から三ツのそのあかりの上へかけて、棟近い処で、二三羽、四五羽、烏がいた、可厭いやな声だ。

(カアカアカア──)

 と婆々ばばあったが、くちばしとがったか、と思う、その黒い唇から、正真しょうじんの烏の声を出して、

(カアカア来しゃれえ! 火の車で。)

 とわめく、トタンに、吉原八町、しんとして、くるわの、の、真中まんなかの底から、ただ一ツ、カラカラと湧上わきあがったような車の音。陰々と響いて、──あけ方早帰りの客かも知れぬ──空へ舞上ったように思うと、すごい音がして、ばッさりと何か物干の上へ落ちた。

(何だ!)

 と言うと、猛然として、ずんと立って、堪えられぬ……で、地響じひびきで、琴の師匠がずかずかと行って、物干をのぞいたっけ。

 裸脱はだぬぎの背に汗を垂々たらたらと流したのが、ともしかすかに、首を暗夜やみ突込つっこむようにして、

(おお、稲妻が天王寺の森を走る、……何じゃ、これは、烏の死骸をどうするんじゃい。)と引掴ひッつかんで来て、しかもしゃくに障った様子で、婆々ばばあの前へたたきつけた。

 あ、弱った。……

 その臭気といったらない。

 みんな、ただ呼吸いきを詰めた。

 婆々が、ずらずらとそのうじの出そうな烏の死骸を、膝の前へ、あおおとがいの下へ引附けた。」


       二十七


「で、を下げて、じっと見ながら、

はえよ、蠅よ、蒼蠅あおばえよ。一つはらわたの中をされ、ボーンと。──やあ、殿、上﨟じょうろうたち、わしがの、今ここを引取るついでに、蒼蠅を一ツ申そう。ボーンと飛んで、額、頸首えりくびせなか、手足、殿たちの身体からだにボーンと留まる、それを所望じゃ。物干へ抜いて、大空へって帰ろう。名告なのらしゃれ。蠅がたからば名告らしゃれ。名告らぬと卑怯ひきょうなぞ。人間は卑怯なものと思うぞよ。笑うぞよ……いか、蒼蠅を忘れまい。

 蠅よ、蠅よ、蒼蠅よ、ボーンと出され、おじゃった! おお!)

 一座残らず、残念ながら動揺どよめいた。

 トふわりとったが、その烏の死骸をぶら下げ、言おうようの無い悪臭を放って、一寸、二寸、一尺ずつ、ずるずると引いたすそが、長く畳をったと思うと、はらりと触ったかして、燭台しょくだいが、ばったり倒れた。

 その時、捻向ねじむいて、くなくなと首を垂れると、った後褄うしろづまを、あの真黒まっくろくちばしで、ぐい、とくわえて上げた、と思え。……鳥のような、獣のような異体いていな黄色い脚を、ぬい、と端折はしょった、傍若無人で。

(ボーン、ボーン、ボーン、)と云うのが、ねばねばと、重っくるしく、納豆の糸を引くように、そして、点々ぽちぽちと切れて、蒼蠅の羽音やら、やつの声やら分らぬ。

 そのまま、ふわりとして、飜然ひらりあがった。物干の暗黒やみへ影も隠れる。

(あれ。)

 と真前まっさきに言ったはお三輪で。

(わ、)とまた言った人がある。

 さあ、膝でる、足で退く、ばたばたと二階の口まで駆出したが、

(ええ)と引返ひっかえしたは誰だっけ。……蠅が背後うしろからすがったらしい。

 物干から、

(やあ、小鳥のように羽打つ、雑魚ざこのようにねる。はて、笑止じゃの。名告なのれ、名告らぬか、さても卑怯な。やいの、殿たち。上﨟たち。へへへ、人間ども。ボーン、ボーン、ボーン、あれ、それそれ転ぶわ、めるわ、うわ。とまったか、たかったか。誰じゃ、名告れ、名告らぬか、名告れ。……ボーン、)

 と云う時、稲妻がひらめいて、遠い山を見るように天王寺の森が映った。

 皆ただ、蠅の音がただ、はたたがみのように人々の耳に響いた。

 ただ一縮みになった時、

(ほう、)

 と心着いたように、物干のその声が、

(京から人が帰ったような。早や夜もしらむ。さらば、身代りのおんなを奪ろう!……も一つほかにもある。両のたもと持重もちおもろう。あとは背負うても、抱いても荷じゃ。やあ、殿、上﨟たち、此方衆こなたしゅにはただ遊うだじゃいの。道すがらねんごろ申したたわむれじゃ。安堵あんどさっしゃれ、蠅はたなそこへ、ハタとつかんだ。

 さるにても卑怯なの、は、は、は、梅干で朝の茶まいれ、さらばじゃ。)

 ばっと屋上やのうえを飛ぶ音がした。

 フッと見ると、夜がしらんで、浅葱あさぎになった向うの蚊帳かやへ、大きな影がさしたっけ。けたたましい悲鳴が聞えて、白地の浴衣を、扱帯しごき蹴出けだしも、だらだらと血だらけのおんなの姿が、蚊帳の目が裂けて出る、と行燈あんどう真赤まっかになって、蒼い細い顔が、黒髪かみかぶりながら黒雲の中へ、ばったり倒れた。

 ト車軸を流す雨になる。

 電燈がいたが、もうその色は白かった。

 婆々ばばあの言った、両の袂の一つであろう、無理心中で女郎が一人。──

 戸を開ける音、閉める音。人影が燈籠とうろうのように、三階で立騒いだ。

 照吉は……」

 と民弥は言って、愁然しゅうぜんとすると、梅次も察して、ほろりと泣く。

「ああ、その弟ばかりじゃない、みんなの身代りになってくれたように思う。」

明治四十四(一九一一)年三月

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房

   1995(平成7)年1024日第1刷発行

   2004(平成16)年320日第2刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店

   1941(昭和16)年630日発行

※誤植の確認には底本の親本を参照しました。

入力:土屋隆

校正:門田裕志

2006年626日作成

青空文庫作成ファイル:

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