朱日記
泉鏡花
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一
「小使、小ウ使。」
程もあらせず、……廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、静に教員控所の板戸の前へ敷居越に髯面……というが頤頬などに貯えたわけではない。不精で剃刀を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。
「へい。」
とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。
「おお、源助か。」
その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先生は、縞の布子、小倉の袴、羽織は袖に白墨摺のあるのを背後の壁に遣放しに更紗の裏を捩ってぶらり。髪の薄い天窓を真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、解かけた風呂敷包、混雑に職員のが散ばったが、その控えた前だけ整然として、硯箱を右手へ引附け、一冊覚書らしいのを熟と視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと隆い、髯の無い、頤の細い、眉のくっきりした顔を上げた、雑所という教頭心得。何か落着かぬ色で、
「こっちへ入れ。」
と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。
意味ありげな体なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を注せ、では無さそうな処から、小使もその気構で、卓子の角へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、
「御用で?」
「何は、三右衛門は。」と聞いた。
これは背の抜群に高い、年紀は源助より大分少いが、仔細も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと剃附けた青道心の、いつも莞爾々々した滑稽けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。
「同役(といつも云う、士の果か、仲間の上りらしい。)は番でござりまして、唯今水瓶へ水を汲込んでおりまするが。」
「水を汲込んで、水瓶へ……むむ、この風で。」
と云う。閉込んだ硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ灰汁を湛えて、上から揺って沸立たせるような凄まじい風が吹く。
その窓を見向いた片頬に、颯と砂埃を捲く影がさして、雑所は眉を顰めた。
「この風が、……何か、風……が烈しいから火の用心か。」
と唐突に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。
「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」
と例の渋い顔で、横手の柱に掛ったボンボン時計を睨むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。──小使の心持では、時間がもうちっと経っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて瞻めたもので。──風に紛れて針の音が全く聞えぬ。
そう言えば、全校の二階、下階、どの教場からも、声一つ、咳半分響いて来ぬ、一日中、またこの正午になる一時間ほど、寂寞とするのは無い。──それは小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。静なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト瞻めても針はソッとも響かぬ。羅馬数字も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を揺って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ──時計は止まったのではない。
「もう、これ午餉になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は沸らせましたが──いや、どの小児衆も性急で、渇かし切ってござって、突然がぶりと喫りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに火傷を。」
「火傷を…うむ。」
と長い顔を傾ける。
二
「同役とも申合わせまする事で。」
と対向いの、可なり年配のその先生さえ少く見えるくらい、老実な語。
「加減をして、うめて進ぜまする。その貴方様、水をフト失念いたしましたから、精々と汲込んでおりまするが、何か、別して三右衛門にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね……」
と言懸けるのを、遮って、傾けたまま頭を掉った。
「いや、三右衛門でなくってちょうど可いのだ、あれは剽軽だからな。……源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」
出方が出方で、源助は一倍まじりとする。
先生も少し極って、
「もっとこれへ寄らんかい。」
と椅子をかたり。卓子の隅を座取って、身体を斜に、袴をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。
「卓子の向う前でも、砂埃に掠れるようで、話がよく分らん、喋舌るのに骨が折れる。ええん。」と咳をする下から、煙草を填めて、吸口をト頬へ当てて、
「酷い風だな。」
「はい、屋根も憂慮われまする……この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、北風のこう烈しい事は、十年以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますような事でござりまして、ちょっと戸外へ出て御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも凌ぎ切れませんではござりますまいか。
三右衛門なども、鼻の尖を真赤に致して、えらい猿田彦にござります。はは。」
と変哲もない愛想笑。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも紅が染む。
「実際、厳いな。」
と卓子の上へ、煙管を持ったまま長く露出した火鉢へ翳した、鼠色の襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、引立てるようにぐいと擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を踏張り、両腕をずいと扱いて、
「御免を被れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は不沙汰だ。源助、当れ。」
「はい、同役とも相談をいたしまして、昨日にも塞ごうと思いました、部屋(と溜の事を云う)の炉にまた噛りつきますような次第にござります。」と中腰になって、鉄火箸で炭を開けて、五徳を摺って引傾がった銅の大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと撫でる。
「一杯沸ったのを注しましょうで、──やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」
「源助、その事だ。」
「はい。」
と獅噛面を後へ引込めて目を据える。
雑所は前のめりに俯向いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、雁首を取って返して、吸殻を丁寧に灰に突込み、
「閉込んでおいても風が揺って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」
とまた一つ灰を浴せた。瞳を返して、壁の黒い、廊下を視め、
「可い塩梅に、そっちからは吹通さんな。」
「でも、貴方様まるで野原でござります。お児達の歩行いた跡は、平一面の足跡でござりまするが。」
「むむ、まるで野原……」
と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、
「源助、時に、何、今小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、小使溜へ遣ったっけが、何は、……部屋に居るか。」
「居りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、……あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」
三
「嬢ちゃん坊ちゃん。」
と先生はちょっと口の裡で繰返したが、直ぐにその意味を知って頷いた。今年九歳になる、校内第一の綺麗な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?……
「しょんぼりしている。小使溜に。」
「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように仰有ったとばかりで、悄れ返っておりまする。はてな、他のものなら珍らしゅうござりませぬ。この児に限って、悪戯をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。……寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も胡坐を掻いて、火をほじりほじり、仔細を聞きましても、何も言わずに、恍惚したように鬱込みまして、あの可愛げに掻合せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした顋を附着けて、頻りとその懐中を覗込みますのを、じろじろ見ますと、浅葱の襦袢が開けまするまで、艶々露も垂れるげな、紅を溶いて玉にしたようなものを、溢れまするほど、な、貴方様。」
「むむそう。」
と考えるようにして、雑所はまた頷く。
「手前、御存じの少々近視眼で。それへこう、霞が掛りました工合に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」
「茱萸だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた体であった。
「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、小児が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。
青梅もまだ苦い頃、やがて、李でも色づかぬ中は、実際苺と聞けば、小蕪のように干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。
「家から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。……あの児のお詫を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、……はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、今日の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、可哀や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と揉手をする。
「どうだい、吹く事は。酷いぞ。」
と窓と一所に、肩をぶるぶると揺って、卓子の上へ煙管を棄てた。
「源助。」
と再度更って、
「小児が懐中の果物なんか、袂へ入れさせれば済む事よ。
どうも変に、気に懸る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ可いが、と思うんだ。
昨日夢を見た。」
と注いで置きの茶碗に残った、冷い茶をがぶりと飲んで、
「昨日な、……昨夜とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」
「山道の夢でござりまするな。」
「否、実際山を歩行いたんだ。それ、日曜さ、昨日は──源助、お前は自から得ている。私は本と首引きだが、本草が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい浮々と谷々へ釣込まれて。
こりゃ途中で暗くならなければ可いが、と山の陰がちと憂慮われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」
四
「山時分じゃないから人ッ子に逢わず。また茸狩にだって、あんなに奥まで行くものはない。随分路でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては攀上り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。昨夜は野宿かと思ったぞ。
でもな、秋とは違って、日の入が遅いから、まあ、可かった。やっと旧道に繞って出たのよ。
今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、脚絆掛で、すたすた来ると、幽に城が見えて来た。城の方にな、可厭な色の雲が出ていたには出ていたよ──この風になったんだろう。
その内に、物見の松の梢の尖が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの見霽しの丘へ出る。……後は一雪崩にずるずると屋敷町の私の内へ、辷り込まれるんだ、と吻と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの一町場が、一方谷、一方覆被さった雑木林で、妙に真昼間も薄暗い、可厭な処じゃないか。」
「名代な魔所でござります。」
「何か知らんが。」
と両手で頤を扱くと、げっそり瘠せたような顔色で、
「一ッきり、洞穴を潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。
ざわざわざわざわと音がする。……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹ぐらいな処を、熊笹の上へむくむくと赤いものが湧いて出た。幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱つくように……皆猿だ。
丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王の社がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが──別に猿というに驚くこともなし、また猿の面の赤いのに不思議はないがな、源助。
どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤だろう。
しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと群り続いて、裏山の峰へ尾を曳いて、遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。
で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻の行列を山へ投懸けて視めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。
夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」
源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、頤の毛をすくすくと立てた。
「はあ。」
と息を内へ引きながら、
「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」
「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。
そこへな、背後の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、大跨に前へ抜越したものがある。……
山遊びの時分には、女も駕籠も通る。狭くはないから、肩摺れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停まる処を、抜けた。
下闇ながら──こっちももう、僅かの処だけれど、赤い猿が夥しいので、人恋しい。
で透かして見ると、判然とよく分った。
それも夢かな、源助、暗いのに。──
裸体に赤合羽を着た、大きな坊主だ。」
「へい。」と源助は声を詰めた。
「真黒な円い天窓を露出でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を鯱子張らせる形に、大な肱を、ト鍵形に曲げて、柄の短い赤い旗を飜々と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。……
旗は真赤に宙を煽つ。
まさかとは思う……ことにその言った通り人恋しい折からなり、対手の僧形にも何分か気が許されて、
(御坊、御坊。)
と二声ほど背後で呼んだ。」
五
「物凄さも前に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。
顔は覚えぬが、頤も額も赤いように思った。
(どちらへ?)
と直ぐに聞いた。
ト竹を破るような声で、
(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を捲いたようにな、源助。」
「…………」小使は口も利かず。
「その時、旗を衝と上げて、
(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、飜然と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の梢へ颯と飛移ったかと思う、旗の煽つような火が松明を投附けたように𤏋と燃え上る。顔も真赤に一面の火になったが、遥かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、丁子頭が揺れるように見て、気が静ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる状になくなったんだ。
小児が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも怯えた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり山路の方へ宙を飛んで遁出したと思え。
はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、傍目も触らず、坊主が立ったと思う処は爪立足をして、それから、お前、前の峰を引掻くように駆上って、……ましぐらにまた摺落ちて、見霽しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして視めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て蒼白い中に、松の樹はお前、大蟹が海松房を引被いて山へ這出た形に、しっとりと濡れて薄靄が絡っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを……場末で遅廻りの豆腐屋の声が、幽に聞えようというのじゃないか。
話にならん。いやしくも小児を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に魅まれたような気持で、……家内にさえ、話も出来ん。
帰って湯に入って、寝たが、綿のように疲れていながら、何か、それでも寝苦くって時々早鐘を撞くような音が聞えて、吃驚して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
明方からこの風さな。」
「正寅の刻からでござりました、海嘯のように、どっと一時に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の言つき、あたかも口上。何か、恐入っている体がある。
「夜があけると、この砂煙。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が読本の課目なんだ。
な、源助。
授業に掛って、読出した処が、怪訝い。消火器の説明がしてある、火事に対する種々の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も経ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの児が入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。……朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。──この硝子窓の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、……もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。……成程、その席が一ツ穴になっている。
また、箸の倒れた事でも、沸返って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも怪いよ。
ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと動揺めいたが、その音も戸外の風に吹攫われて、どっと遠くへ、山へ打つかるように持って行かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、小児等の声は幽に響いた。……」
六
「私も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な児を見たよ。
密と椅子の傍へ来て、愛嬌づいた莞爾した顔をして、
(先生、姉さんが。)
と云う。──姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、早仕舞にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから……家へ帰らして下さい、と云うんです。含羞む児だから、小さな声して。
風はこれだ。
聞えないで僥倖。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を打抜く騒動だろう。
もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。
騒がぬ顔して、皆には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り静にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。
処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」
と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻るばかり、一時、屋根を取って挫ぐがごとく吹き撲る。
「気が騒いでならんが。」
と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の凭りに、背中を摺着けるばかり、びたりと構えて、
「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。
はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この七日ばかり前だそうだ。
授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す……
すると、この頃塗直した、あの蒼い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、小児の事で形は知らん。頭髪の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、俯目ながら清しゅう瞪って、列を一人一人見遁すまいとするようだっけ。
物見の松はここからも見える……雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う……この十四五日、お天気続きだ。
私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その傍へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。
(宮浜の浪ちゃんだねえ。)
とこの国じゃない、本で読むような言で聞くとさ。頷くと、
(好いものを上げますから私と一所に、さあ、行きましょう、皆に構わないで。)
と、私等を構わぬ分に扱ったは酷い! なあ、源助。
で、手を取られるから、ついて行くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、茱萸の樹の林のような中へ連れて入った。目の眶も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。
(沢山お食んなさいよ。皆、貴下の阿母さんのような美しい血になるから。)
と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と父にそう言いましょうと、聞くと、
(貴下のお亡なんなすった阿母のお友だちです。)
と言ったってな。あの児の母親はなくなった筈だ。
が、ここまではとにかく無事だ、源助。
その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」
源助は、びくりとして退る。
「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに皆駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな……石盤へこう姉様の顔を描いていると、硝子戸越に……夢にも忘れない……その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える……一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」
七
「宮浜はな、今日は、その婦人が紅い木の実の簪を挿していた、やっぱり茱萸だろうと云うが、果物の簪は無かろう……小児の目だもの、珊瑚かも知れん。
そんな事はとにかくだ。
直ぐに、嬉々と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。
源助、それ、近々に学校で──やがて暑さにはなるし──余り青苔が生えて、石垣も崩れたというので、井戸側を取替えるに、石の大輪が門の内にあったのを、小児だちが悪戯に庭へ転がし出したのがある。──あれだ。
大人なら知らず、円くて辷るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの児を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を斜違いに転がり出した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄と吶喊を上げて、小児が皆それを追懸けて、一団に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
横手の土塀際の、あの棕櫚の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背を撫でなぞしてな。
そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早く家へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可うござんす。怪我には替えられません。けれども、後で叱られると不可ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟に捲かれませんから。)
とそう云ってな。……そこで、袂から紙包みのを出して懐中へ入れて、圧えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合せてくれたのが、その茱萸なんだ。
(私がついていられると可いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
と云う中にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……
けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎い、と宮浜が頭を振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。──)
こりゃ小児に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。
(先生のお言に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。──私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思の叶わない仇に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当てにしますんだから。
まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の身体はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。
殿方の生命は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。……と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。
まだ私たち女の心は、貴下の年では得心が行かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。
いいえ、違います……殿方の生命は知らず。)
と繰返して、
(女の操というものは。)と熟と顔を凝視めながら、
(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります……紅い木の実を沢山食べて、血の美しく綺麗な児には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の身体も大切な日ですから。)
と云う中にも、裾も袂も取って、空へ頭髪ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、窓硝子が波を打つ、あれ見い。」
八
雑所先生は一息吐いて、
「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の可い処を、母のない児だ。──優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに諳誦をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく膚に粟が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。
そりゃ分らんが、しかし詮ずるに火事がある一条だ。
(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、小使溜へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)
額を撫でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ遣ってよ。
さあ、気になるのは昨夜の山道の一件だ。……赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」
「緋、緋の法衣を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、躾めるように言う。
「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して……何と云った。
(城下を焼きに参るのじゃ。)
源助、宮浜の児を遣ったあとで、天窓を引抱えて、こう、風の音を忘れるように沈と考えると、ひょい、と火を磨るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」
と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、楷書で細字に認めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に赫ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の文字である。
「へい。」
「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。
昨日は日曜で抜けている。一週間。」
と颯と紙が刎ねて、小口をばらばらと繰返すと、戸外の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が卓子を飛ぶ気勢する。
「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(颶風)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な……
しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」
と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。
「読本が火の処……源助、どう思う。他の先生方は皆な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお少い。
こんな相談は、故老に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。……どれも大事な小児たち──その過失で、私が学校を止めるまでも、地韛を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委ねる学校の分として、婦、小児や、茱萸ぐらいの事で、臨時休業は沙汰の限りだ。
私一人の間抜で済まん。
第一そような迷信は、任として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市瓦は数えるほど、板葺屋根が半月の上も照込んで、焚附同様。──何と私等が高台の町では、時ならぬ水切がしていようという場合ではないか。土の底まで焼抜けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。
思案に余った、源助。気が気でないのは、時が後れて驚破と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い──一時半時を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると──どう思う、どう思う、源助、考慮は。」
「尋常、尋常ごとではござりません。」と、かッと卓子に拳を掴んで、
「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」
と半分目を眠って、盲目がするように、白眼で首を据えて、天井を恐ろしげに視めながら、
「ものはあるげにござりまして……旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その唐の都の大道を、一時、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を捌いて、何と、骨だらけな蒼い胸を岸破々々と開けました真中へ、人、人という字を書いたのを掻開けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、皆なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」
「源助、源助。」
と雑所大きに急いて、
「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。
「へい、まあ、ちょいとした処、早いが可うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」
風の、その慌しい中でも、対手が教頭心得の先生だけ、もの問れた心の矜に、話を咲せたい源助が、薄汚れた襯衣の鈕をはずして、ひくひくとした胸を出す。
雑所も急心に、ものをも言わず有合わせた朱筆を取って、乳を分けて朱い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて堪えたが、突込む筆の朱が刎ねて、勢で、ぱっと胸毛に懸ると、火を曳くように毛が動いた。
「あ熱々!」
と唐突に躍り上って、とんと尻餅を支くと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と喚く。
「何だ。」
と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ茱萸を投附ける。宮浜。」
と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を擲つと一目見たのは、矢を射るごとく窓硝子を映す火の粉であった。
途端に十二時、鈴を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る摺半鉦、早鐘。
早や廊下にも烟が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の蒼い門が、真紫に物凄い。
この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時が間に市の約全部を焼払った。
烟は風よりも疾く、火は鳥よりも迅く飛んだ。
人畜の死傷少からず。
火事の最中、雑所先生、袴の股立を、高く取ったは効々しいが、羽織も着ず……布子の片袖引断れたなりで、足袋跣足で、据眼の面藍のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉と歩行いていた。
屋根から屋根へ、──樹の梢から、二階三階が黒烟りに漾う上へ、飜々と千鳥に飛交う、真赤な猿の数を、行く行く幾度も見た。
足許には、人も車も倒れている。
とある十字街へ懸った時、横からひょこりと出て、斜に曲り角へ切れて行く、昨夜の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように確とした足取であった。
が、赤旗を捲いて、袖へ抱くようにして、いささか逡巡の体して、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
と口の裡で呟いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
垣も、隔ても、跡はないが、倒れた石燈籠の大なのがある。何某の邸の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の下に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。
学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。
と見ると、恍惚した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと降懸る火の粉を、霰は五合と掬うように、綺麗な袂で受けながら、
「先生、沢山に茱萸が。」
と云って、﨟長けるまで莞爾した。
雑所は諸膝を折って、倒れるように、その傍で息を吐いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ掛っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
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