鼠小僧次郎吉
芥川龍之介
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一
或初秋の日暮であつた。
汐留の船宿、伊豆屋の表二階には、遊び人らしい二人の男が、さつきから差し向ひで、頻に献酬を重ねてゐた。
一人は色の浅黒い、小肥りに肥つた男で、形の如く結城の単衣物に、八反の平ぐけを締めたのが、上に羽織つた古渡り唐桟の半天と一しよに、その苦みばしつた男ぶりを、一層いなせに見せてゐる趣があつた。もう一人は色の白い、どちらかと云へば小柄な男だが、手首まで彫つてある剳青が目立つせゐか、糊の落ちた小弁慶の単衣物に算盤珠の三尺をぐるぐる巻きつけたのも、意気と云ふよりは寧ろ凄味のある、自堕落な心もちしか起させなかつた。のみならずこの男は、役者が二三枚落ちると見えて、相手の男を呼びかける時にも、始終親分と云ふ名を用ひてゐた。が、年輩は彼是同じ位らしく、それだけ又世間の親分子分よりも、打ち融けた交情が通つてゐる事は、互に差しつ抑へつする盃の間にも明らかだつた。
初秋の日暮とは云ひながら、向うに見える唐津様の海鼠壁には、まだ赤々と入日がさして、その日を浴びた一株の柳が、こんもりと葉かげを蒸してゐるのも、去つて間がない残暑の思ひ出を新しくするのに十分だつた。だからこの船宿の表二階にも、葭戸こそもう唐紙に変つてゐたが、江戸に未練の残つてゐる夏は、手すりに下つてゐる伊予簾や、何時からか床に掛け残された墨絵の滝の掛物や、或は又二人の間に並べてある膳の水貝や洗ひなどに、まざまざと尽きない名残りを示してゐた。実際往来を一つ隔ててゐる掘割の明るい水の上から、時たま此処に流れて来るそよ風も、微醺を帯びた二人の男には、刷毛先を少し左へ曲げた水髪の鬢を吹かれる度に、涼しいとは感じられるにした所が、毛頭秋らしいうそ寒さを覚えさせるやうな事はないのである。殊に色の白い男の方になると、こればかりは冷たさうな掛守りの銀鎖もちらつく程、思入れ小弁慶の胸をひろげてゐた。
二人は女中まで遠ざけて、暫くは何やら密談に耽つてゐたが、やがてそれも一段落ついたと見えて、色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、無造作に猪口を相手に返すと、膝の下の煙草入をとり上げながら、
「と云ふ訳での、おれもやつと三年ぶりに、又江戸へ帰つて来たのよ。」
「道理でちつと御帰りが、遅すぎると思つてゐやしたよ。だがまあ、かうして帰つて来ておくんなさりや、子分子方のものばかりぢや無え、江戸つ子一統が喜びやすぜ。」
「さう云つてくれるのは、手前だけよ。」
「へへ、仰有つたものだぜ。」
色の白い、小柄な男は、わざと相手を睨めると、人が悪るさうににやりと笑つて、
「小花姐さんにも聞いて御覧なせえまし。」
「そりや無え。」
親分と呼ばれた男は、如心形の煙管を啣へた儘、僅に苦笑の色を漂はせたが、すぐに又真面目な調子になつて、
「だがの、おれが三年見無え間に、江戸もめつきり変つたやうだ。」
「いや、変つたの、変ら無えの。岡場所なんぞの寂れ方と来ちや、まるで嘘のやうでごぜえますぜ。」
「かうなると、年よりの云ひぐさぢや無えが、やつぱり昔が恋しいの。」
「変ら無えのは私ばかりさ。へへ、何時になつてもひつてんだ。」
小弁慶の浴衣を着た男は、受けた盃をぐいとやると、その手ですぐに口の端の滴を払つて、自ら嘲るやうに眉を動かしたが、
「今から見りや、三年前は、まるでこの世の極楽さね。ねえ、親分、お前さんが江戸を御売んなすつた時分にや、盗つ人にせえあの鼠小僧のやうな、石川五右衛門とは行かねえまでも、ちつとは睨みの利いた野郎があつたものぢやごぜえませんか。」
「飛んだ事を云ふぜ。何処の国におれと盗つ人とを一つ扱ひにする奴があるものだ。」
唐桟の半天をひつかけた男は、煙草の煙にむせながら、思はず又苦笑を洩らしたが、鉄火な相手はそんな事に頓着する気色もなく、手酌でもう一杯ひつかけると、
「そいつがこの頃は御覧なせえ。けちな稼ぎをする奴は、箒で掃く程ゐやすけれど、あの位な大泥坊は、つひぞ聞か無えぢやごぜえませんか。」
「聞か無えだつて、好いぢや無えか。国に盗賊、家に鼠だ。大泥坊なんぞはゐ無え方が好い。」
「そりや居無え方が好い。居無え方が好いにや違えごぜえませんがね。」
色の白い、小柄な男は、剳青のある臂を延べて、親分へ猪口を差しながら、
「あの時分の事を考へると、へへ、妙なもので盗つ人せえ、懐しくなつて来やすのさ。先刻御承知にや違え無えが、あの鼠小僧と云ふ野郎は、心意気が第一嬉しいや。ねえ、親分。」
「嘘は無え。盗つ人の尻押しにや、こりや博奕打が持つて来いだ。」
「へへ、こいつは一番おそれべか。」
と云つて、ちよいと小弁慶の肩を落したが、こちらは忽ち又元気な声になつて、
「私だつて何も盗つ人の肩を持つにや当ら無えけれど、あいつは懐の暖え大名屋敷へ忍びこんぢや、御手許金と云ふやつを掻攫つて、その日に追はれる貧乏人へ恵んでやるのだと云ひやすぜ。成程善悪にや二つは無えが、どうせ盗みをするからにや、悪党冥利にこの位な陰徳は積んで置き度えとね、まあ、私なんぞは思つてゐやすのさ。」
「さうか。さう聞きや無理は無えの。いや、鼠小僧と云ふ野郎も、改代町の裸松が贔屓になつてくれようとは、夢にも思つちや居無えだらう。思へば冥加な盗つ人だ。」
色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、相手に猪口を返しながら、思ひの外しんみりとかう云つたが、やがて何か思ひついたらしく、大様に膝を進めると、急に晴々した微笑を浮べて、
「ぢや聞きねえ。おれもその鼠小僧ぢや、とんだ御茶番を見た事があつての、今でも思ひ出すたんびに、腹の皮がよれてなら無えのよ。」
親分と呼ばれた男は、かう云ふ前置きを聞かせてから、又悠々と煙管を啣へて、夕日の中に消えて行く煙草の煙の輪と一しよに、次のやうな話をし始めた。
二
丁度今から三年前、おれが盆茣蓙の上の達て引きから、江戸を売つた時の事だ。
東海道にやちつと差しがあつて、路は悪いが甲州街道を身延まで出にやなら無えから、忘れもし無え、極月の十一日、四谷の荒木町を振り出しに、とうとう旅鴉に身をやつしたが、なりは手前も知つてた通り、結城紬の二枚重ねに一本独銛の博多の帯、道中差をぶつこんでの、革色の半合羽に菅笠をかぶつてゐたと思ひねえ。元より振分けの行李の外にや、道づれも無え独り旅だ。脚絆草鞋の足拵へは、見てくればかり軽さうだが、当分は御膝許の日の目せえ、拝まれ無え事を考へりや、実は気も滅入つての、古風ぢやあるが一足毎に、後髪を引かれるやうな心もちよ。
その日が又意地悪く、底冷えのする雪曇りでの、まして甲州街道は、何処の山だか知ら無えが、一面の雲のかかつたやつが、枯つ葉一つがさつか無え桑畑の上に屏風を立てよ、その桑の枝を掴んだ鶸も、寒さに咽喉を痛めたのか、声も立て無えやうな凍て方だ。おまけに時々身を切るやうな、小仏颪のからつ風がやけにざつと吹きまくつて、横なぐれに合羽を煽りやがる。かうなつちやいくら威張つても、旅慣れ無え江戸つ子は形無しよ。おれは菅笠の縁に手をかけちや、今朝四谷から新宿と踏み出して来た江戸の方を、何度振り返つて見たか知れやし無え。
するとおれの旅慣れ無えのが、通りがかりの人目にも、気の毒たらしかつたのに違え無え。府中の宿をはづれると、堅気らしい若え男が、後からおれに追ひついて、口まめに話しかけやがる。見りや紺の合羽に菅笠は、こりや御定りの旅仕度だが、色の褪めた唐桟の風呂敷包を頸へかけの、洗ひざらした木綿縞に剥げつちよろけの小倉の帯、右の小鬢に禿があつて、顋の悪くしやくれたのせえ、よしんば風にや吹かれ無えでも、懐の寒むさうな御人体だ。だがの、見かけよりや人は好いと見えて、親切さうに道中の名所古蹟なんぞを教へてくれる。こつちは元より相手欲しやだ。
「御前さんは何処まで行きなさる。」
「私は甲府まで参りやす。旦那は又どちらへ。」
「私は何、身延詣りさ。」
「時に旦那は江戸でござりやせう。江戸はどの辺へ御住ひなせえます。」
「茅場町の植木店さ。お前さんも江戸かい。」
「へえ、私は深川の六間堀で、これでも越後屋重吉と云ふ小間物渡世でござりやす。」
とまあ、云つた調子での。同じ江戸懐しい話をしながら、互に好い道づれを見つけた気でよ、一しよに路を急いで行くと、追つけ日野宿へかからうと云ふ時分に、ちらちら白い物が降り出しやがつた。独り旅であつて見ねえ。時刻も彼是七つ下りぢやあるし、この雪空を見上げちや、川千鳥の声も身に滲みるやうで、今夜はどうでも日野泊りと、出かけ無けりやなら無え所だが、いくら懐は寒むさうでも、其処は越後屋重吉と云ふ道づれのある御かげ様だ。
「旦那え、この雪ぢや明日の路は、とても捗が参りやせんから、今日の中に八王子までのして置かうぢやござりやせんか。」
と云はれて見りや、その気になつての、雪の中を八王子まで、辿りついたと思ひねえ。もう空はまつ暗で、とうに白くなつた両側の屋根が、夜目にも跡の見える街道へ、押つかぶさるやうに重なり合つた、──その下に所々、掛行燈が赤く火を入れて、帰り遅れた馬の鈴が、だんだん近くなつて来るなんぞは、手もなく浮世画の雪景色よ。するとその越後屋重吉と云ふ野郎が、先に立つて雪を踏みながら、
「旦那え、今夜はどうか御一しよに願ひたうござりやす。」
と何度もうるさく頼みやがるから、おれも異存がある訳ぢやなし、
「そりやさう願へれば、私も寂しくなくつて好い。だが私は生憎と、始めて来た八王子だ。何処も旅籠を知ら無えが。」
「何に、あすこの山甚と云ふのが、私の定宿でござりやす。」
と云つておれをつれこんだのは、やつぱり掛行燈のともつてゐる、新見世だとか云ふ旅籠屋だがの、入口の土間を広くとつて、その奥はすぐに台所へ続くやうな構へだつたらしい。おれたち二人が中へ這入ると、帳場の前の獅噛火鉢へ噛りついてゐた番頭が、まだ「御濯ぎを」とも云は無え内に、意地のきたねえやうだけれど、飯の匂と汁の匂とが、湯気や火つ気と一つになつて、むんと鼻へ来やがつた。それから早速草鞋を脱ぎの、行燈を下げた婢と一しよに、二階座敷へせり上つたが、まづ一風呂暖まつて、何はともあれ寒さ凌ぎと、熱燗で二三杯きめ出すと、その越後屋重吉と云ふ野郎が、始末に了へ無え機嫌上戸での、唯でせえ口のまめなやつが、大方饒舌る事ぢや無え。
「旦那え、この酒なら御口に合ひやせう。これから甲州路へかかつて御覧なさいやし。とてもかう云ふ酒は飲めませんや。へへ、古い洒落だが与右衛門の女房で、私ばかりかさねがさね──」
などと云つてゐる内は、まだ好かつたが、銚子が二三本も並ぶやうになると、目尻を下げて、鼻の脂を光らせて、しやくんだ顋を乙に振つて、
「酒に恨が数々ござるつてね、私なんぞも旦那の前だが、茶屋酒のちいつとまはり過ぎたのが、飛んだ身の仇になりやした。あ、あだな潮来で迷はせるつ。」
とふるへ声で唄ひ始めやがる。おれは実に持て余しての、何でもこいつは寝かすより外に仕方が無えと思つたから、潮さきを見て飯にすると、
「さあ、明日が早えから、寝なせえ。寝なせえ。」
とせき立てての、まだ徳利に未練のあるやつを、やつと横にならせたが、御方便なものぢや無えか、あれ程はしやいでゐた野郎が、枕へ頭をつけたとなると、酒臭え欠伸を一つして、
「あああつ、あだな潮来で迷はせるつ。」
ともう一度、気味の悪い声を出しやがつたが、それつきり後は鼾になつて、いくら鼠が騒がうが、寝返り一つ打ちやがら無え。
が、こつちや災難だ。何を云ふにも江戸を立つて、今夜が始めての泊りぢやあるし、その鼾が耳へついて、あたりが静になりやなる程、反つて妙に寝つかれ無え。外はまだ雪が止ま無えと見えて、時々雨戸へさらさらと吹つかける音もするやうだ。隣に寝てゐる極道人は、夢の中でも鼻唄を唄つてゐるかも知ら無えが、江戸にやおれがゐ無えばかりに、一人や二人は夜の目も寝無えで、案じてゐてくれるものがあるだらうと、──これさ、のろけぢや無えと云ふ事に、──つまら無え事を考へると、猶の事おれは眼が冴えての、早く夜明けになりや好いと、そればつかり思つてゐた。
そんなこんなで九つも聞きの、八つを打つたのも知つてゐたが、その内に眠む気がさしたと見えて、何時かうとうとしたやうだつた。が、やがてふと眼がさめると、鼠が燈心でも引きやがつたか、枕もとの行燈が消えてゐる。その上隣に寝てゐる野郎が、さつきまでは鼾をかいてゐた癖に、今はまるで死んだやうに寝息一つさせやがら無え。はてな、何だか可笑しな容子だぞと、かう思ふか思は無え内に、今度はおれの夜具の中へ、人間の手が這入つて来やがつた。それもがたがたふるへながら、胴巻の結び目を探しやがるのよ。成程。人は見かけにやよら無えものだ。あのでれ助が胡麻の蠅とは、こいつはちいつと出来すぎたわい。──と思つたら、すんでの事に、おれは吹き出す所だつたが、その胡麻の蠅と今が今まで、一しよに酒を飲んでゐたと思や、忌々しくもなつて来ての、あの野郎の手が胴巻の結び目をほどきにかかりやがると、いきなり逆にひつ掴めえて、捻り上げたと思ひねえ。胡麻の蠅の奴め、驚きやがるめえ事か、慌てて振り放さうとする所を、夜具を頭から押つかぶせての、まんまとおれがその上へ馬乗りになつてしまつたのよ。するとあの意気地なしめ、無理無体に夜具の下から、面だけ外へ出したと思ふと、「ひ、ひ、人殺し」と、烏骨鶏が時でもつくりやしめえし、奇体な声を立てやがつた。手前が盗みをして置きながら、手前で人を呼びや世話は無え、唐変木とは始めから知つちやゐるが、さりとは男らしくも無え野郎だと、おれは急に腹が立つたから、其処にあつた枕をひつ掴んで、ぽかぽかその面をぶちのめしたぢや無えか。
さあ、その騒ぎが聞えての、隣近所の客も眼をさましや、宿の亭主や奉公人も、何事が起つたと云ふ顔色で、手燭の火を先立ちに、どかどか二階へ上つて来やがつた。来て見りやおれの股ぐらから、あの野郎がもう片息になつて、面妖な面を出してゐやがる始末よ。こりや誰が見ても大笑ひだ。
「おい、御亭主、飛んだ蚤にたかられての、人騒がせをして済まなかつた。外の客人にやお前から、よく詑びを云つておくんなせえ。」
それつきりよ。もう後は訳を話すも話さ無えも無え。奉公人がすぐにあの野郎を、ぐるぐる巻にふん縛つて、まるで生捕りました河童のやうに、寄つてたかつて二階から、引きずり下してしまやがつた。
さてその後で山甚の亭主が、おれの前へ手をついての、
「いや、どうも以ての外の御災難で、さぞまあ、御驚きでございましたらう。が、御路用その外別に御紛失物もなかつたのは、せめてもの御仕合せでございます。追つてはあの野郎も夜の明け次第、早速役所へ引渡す事に致しますから、どうか手前どもの届きません所は、幾重にも御勘弁下さいますやうに。」
と何度も頭を下げるから、
「何、胡麻の蠅とも知ら無えで、道づれになつたのが私の落度だ。それを何も御前さんが、あやまんなさる事は無えのさ。こりやほんの僅ばかりだが、世話になつた若え衆たちに、暖え蕎麦の一杯も振舞つてやつておくんなせえ。」
と祝儀をやつて返したが、つくづく一人になつて考へりや、宿場女郎にでも振られやしめえし、何時までも床に倚つかかつて、腕組みをしてゐるのも智慧が無え。と云つてこれから寝られやせず、何かと云ふ中にや六つだらうから、こりや一そ今の内に、ちつとは路が暗くつても、早立ちをするのが上分別だと、かう思案がきまつたから、早速身仕度にとりかかりの、勘定は帳場で払つて行かうと、外の客の邪魔になら無えやうに、そつと梯子口まで来て見ると、下ぢやまだ奉公人たちが、皆起きてゐると見えて、何やら話し声も聞えてゐる。するとその中にどう云ふ訳か、度々さつき手前の話した、鼠小僧と云ふ名が出るぢや無えか。おれは妙だと思つての、両掛の行李を下げた儘、梯子口から下を覗いて見ると、広い土間のまん中にや、あの越後屋重吉と云ふ木念人が、繩尻は柱に括られながら、大あぐらをかいてゐやがる。そのまはりにや又若え者が、番頭も一しよに三人ばかり、八間の明りに照らされながら、腕まくりをしてゐるぢや無えか。中でもその番頭が、片手に算盤をひつ掴みの、薬罐頭から湯気を立てて、忌々しさうに何か云ふのを聞きや、
「ほんによ、こんな胡麻の蠅も、今に劫羅を経て見さつし、鼠小僧なんぞはそこのけの大泥坊になるかも知れ無え。ほんによ、さうなつた日にやこいつの御蔭で、街道筋の旅籠屋が、みんな暖簾に瑕がつくわな。その事を思や今の内に、ぶつ殺した方が人助けよ。」
と云ふ側から、ぢぢむさく髭の伸びた馬子半天が、じろじろ胡麻の蠅の面を覗きこんで、
「番頭どんともあらうものが、いやはや又当て事も無え事を云つたものだ。何でこんな間抜野郎に、鼠小僧の役が勤るべい。大方胡麻の蠅も気が強えと云つたら、面を見たばかりでも知れべいわさ。」
「違え無え。高々鼬小僧位な所だらう。」
こりや火吹竹を得物にした、宿の若え者が云つた事だ。
「ほんによ。さう云やこの野猿坊は、人の胴巻もまだ盗ま無え内に、うぬが褌を先へ盗まれさうな面だ。」
「下手な道中稼ぎなんぞするよりや、棒つ切の先へ黏をつけの、子供と一しよに賽銭箱のびた銭でもくすねてゐりや好い。」
「何、それよりや案山子代りに、おらが後の粟畑へ、突つ立つてゐるが好かんべい。」
かう皆がなぶり物にすると、あの越後屋重吉め、ちつとの間は口惜しさうに眼ばかりぱちつかせてゐやがつたが、やがて宿の若え者が、火吹竹を顋の下へやつて、ぐいと面を擡げさせると、急に巻き舌になりやがつて、
「やい、やい、やい、こいつらは飛んだ奴ぢやねえかえ。誰だと思つて囈言をつきやがる。かう見えても、この御兄さんはな、日本中を股にかけた、ちつとは面の売れてゐる胡麻の蠅だ。不面目にも程があらあ。うぬが土百姓の分在で、利いた風な御託を並べやがる。」
これにや皆驚いたのに違え無え。実は梯子を下りかけたおれも、あんまりあの野郎の権幕が御大さうなものだから、又中段に足を止めて、もう少し下の成行きを眺めてゐる気になつたのよ。まして人の好ささうな番頭なんぞは、算盤まで持ち出したのも忘れたやうに、呆れてあの野郎を見つめやがつた。が、気の強えのは馬子半天での、こいつだけはまだ髭を撫でながら、何処を風が吹くと云ふ面で、
「何が胡麻の蠅がえらかんべい。三年前の大夕立に雷獣様を手捕りにした、横山宿の勘太とはおらが事だ。おらが身もんでえを一つすりや、うぬがやうな胡麻の蠅は、踏み殺されると云ふ事を知ん無えか。」
と嵩にかかつて嚇したが、胡麻の蠅の奴はせせら笑つて、
「へん、こけが六十六部に立山の話でも聞きやしめえし、頭からおどかしを食つてたまるものかえ。これやい、眠む気ざましにや勿体無えが、おれの素性を洗つてやるから、耳の穴を掻つぽじつて聞きやがれ。」
と声色にしちや語呂の悪い、啖呵を切り出した所は豪勢だがの、面を見りや寒いと見えて、水つ洟が鼻の下に光つてゐる。おまけにおれのなぐつた所が、小鬢の禿から顋へかけて、まるで面が歪んだやうに、脹れ上つてゐようと云ふものだ。が、それでも田舎者にや、あの野郎のぽんぽん云ふ事が、ちつとは効き目があつたのだらう。あいつが乙に反り身になつて、餓鬼の時から悪事を覚えた行き立てを饒舌つてゐる内にや、雷獣を手捕りにしたとか云ふ、髭のぢぢむせえ馬子半天も、追々あの胡麻の蠅を胴突かなくなつて来たぢや無えか。それを見るとあの野郎め、愈しやくんだ顋を振りの、三人の奴らをねめまはして、
「へん、このごつぽう人めら、手前たちを怖はがるやうな、よいよいだとでも思やがつたか。いんにやさ。唯の胡麻の蠅だと思ふと、相手が違ふぞ。手前たちも覚えてゐるだらうが、去年の秋の嵐の晩に、この宿の庄屋へ忍びこみの、有り金を残らず掻つ攫つたのは、誰でも無えこのおれだ。」
「うぬが、あの庄屋様へ、──」
かう云つたのは、番頭ばかりぢや無え。火吹竹を持つた若え者も、さすがに肝をつぶしたと見えて、思はず大きな声を出しながら、二足三足後へ下りやがつた。
「さうよ。そんな仕事に驚くやうぢや、手前たちはまだ甘えものだ。かう、よく聞けよ。ついこの中も小仏峠で、金飛脚が二人殺されたのは、誰の仕業だと思やがる。」
あの野郎は水つ洟をすすりこんぢや、やれ府中で土蔵を破つたの、やれ日野宿でつけ火をしたの、やれ厚木街道の山の中で巡礼の女をなぐさんだの、だんだん途方も無え悪事を饒舌り立てたが、妙な事にやそれにつれて、番頭始め二人の野郎が、何時の間にかあの木念人へ慇懃になつて来やがつた。中でも図体の大きな馬子半天が、莫迦力のありさうな腕を組んで、まじまじあの野郎の面を眺めながら、
「お前さんと云ふ人は、何たる又悪党だんべい。」
と唸るやうな声を出した時にや、おれは可笑しさがこみ上げての、あぶなく吹き出す所だつた。ましてあの胡麻の蠅が、もう酔もさめたのだらう、如何にも寒さうな顔色で、歯の根も合は無え程ふるへながら、口先ばかりや勢よく、
「何と、ちつとは性根がついたか。だがおれの官禄は、まだまだそんな事ぢや無え。今度江戸をずらかつたのは、臍繰金が欲しいばかりに二人と無え御袋を、おれの手にかけて絞め殺した、その化の皮が剥げたからよ。」
と大きな見得を切つた時にや、三人ともあつと息を引いての、千両役者でも出て来はしめえし、小鬢から脹れ上つたあいつの面を、難有さうに見つめやがつた。おれはあんまり莫迦らしいから、もう見てゐるがものは無えと思つて、二三段梯子を下りかけたが、その途端に番頭の薬罐頭め、何と思やがつたか横手を打つて、
「や、読めたぞ。読めたぞ。あの鼠小僧と云ふのは、さてはおぬしの渾名だな。」
と頓狂な声を出しやがつたから、おれはふと又気が変つて、あいつが何とぬかしやがるか、それが聞きたさにもう一度、うすつ暗え梯子の中段へ足を止めたと思ひねえ。するとあの胡麻の蠅め、じろりと番頭を睨みながら、
「図星を指されちや仕方が無え。如何にも江戸で噂の高え、鼠小僧とはおれの事だ。」
と横柄にせせら笑やがつた。が、さう云ふか云は無え内に、胴震ひを一つしたと思ふと、二つ三つ続けさまに色気の無え嚏をしやがつたから、折角の睨みも台無しよ。それでも三人の野郎たちは、勝角力の名乗りでも聞きやしめえし、あの重吉の間抜野郎を煽ぎ立て無えばかりにして、
「おらもさうだらうと思つてゐた。三年前の大夕立に雷獣様を手捕りにした、横山宿の勘太と云つちや、泣く児も黙るおらだんべい。それをおらの前へ出て、びくともする容子が見え無えだ。」
「違え無え。さう云やどこか眼の中に、すすどい所があるやうだ。」
「ほんによ、だからおれは始めから、何でもこの人は一つぱしの大泥坊になると云つてゐたわな。ほんによ。今夜は弘法にも筆の誤り、上手の手からも水が漏るす。漏つたが、これが漏ら無えで見ねえ。二階中の客は裸にされるぜ。」
と繩こそ解かうとはし無えけれど、口々にちやほやしやがるのよ。すると又あの胡麻の蠅め、大方威張る事ぢや無え。
「かう、番頭さん、鼠小僧の御宿をしたのは、御前の家の旦那が運が好いのだ。さう云ふおれの口を干しちや、旅籠屋冥利が尽きるだらうぜ。桝で好いから五合ばかり、酒をつけてくんねえな。」
かう云ふ野郎も図々しいが、それを又正直に聞いてやる番頭も間抜けぢや無えか。おれは八間の明りの下で、薬罐頭の番頭が、あの飲んだくれの胡麻の蠅に、桝の酒を飲ませてゐるのを見たら、何もこの山甚の奉公人ばかりとは限ら無え、世間の奴等の莫迦莫迦しさが、可笑しくつて、可笑しくつて、こてえられ無かつた。何故と云ひねえ。同じ悪党とは云ひながら、押込みよりや掻払ひ、火つけよりや巾着切が、まだしも罪は軽いぢや無えか。それなら世間もそのやうに、大盗つ人よりや、小盗つ人に憐みをかけてくれさうなものだ。所が人はさうぢや無え。三下野郎にやむごくつても、金箔つきの悪党にや向うから頭を下げやがる。鼠小僧と云や酒も飲ますが、唯の胡麻の蠅と云や張り倒すのだ。思やおれも盗つ人だつたら、小盗つ人にやなりたく無え。──とまあ、おれは考へたが、さて何時までも便々と、こんな茶番も見ちやゐられ無えから、わざと音をさせて梯子を下りの、上り口へ荷物を抛り出して、
「おい、番頭さん、私は早立ちと出かけるから、ちよいと勘定をしておくんなせえ。」
と声をかけると、いや、番頭の薬罐頭め、てれまい事か、慌てて桝を馬子半天に渡しながら、何度も小鬢へ手をやつて、
「これは又御早い御立ちで──ええ、何とぞ御腹立ちになりやせんやうに──又先程は、ええ、手前どもにもわざわざ御心づけを頂きまして──尤も好い塩梅に雪も晴れたやうでげすが──」
などと訳のわからねえ事を並べやがるから、おれは可笑しさも可笑しくなつて、
「今下りしなに小耳に挾んだが、この胡麻の蠅は、評判の鼠小僧とか云ふ野郎ださうだの。」
「へい、さやうださうで、──おい、早く御草鞋を持つて来さつし。御笠に御合羽は此処にありと──どうも大した盗つ人ださうでげすな。──へい、唯今御勘定を致しやす。」
番頭のやつはてれ隠しに、若え者を叱りながら、そこそこ帳場の格子の中へ這入ると、仔細らしく啣へ筆で算盤をぱちぱちやり出しやがつた。おれはその間に草鞋をはいて、さて一服吸ひつけたが、見りやあの胡麻の蠅は、もう御神酒がまはつたと見えて、小鬢の禿まで赤くしながら、さすがにちつとは恥しいのか、なるべくおれの方を見無えやうに、側眼ばかり使つてゐやがる。その見すぼらしい容子を見ると、おれは今更のやうにあの野郎が可哀さうにもなつて来たから、
「おい、越後屋さん。いやさ、重吉さん。つまら無え冗談は云は無えものだ。御前が鼠小僧だなどと云ふと、人の好い田舎者は本当にするぜ。それぢや割が悪からうが。」
と親切づくに云つてやりや、あの阿呆の合天井め、まだ芝居がし足り無えのか、
「何だと。おれが鼠小僧ぢや無え? 飛んだ御前は物知りだの。かう、旦那旦那と立ててゐりや──」
「これさ。そんな啖呵が切りたけりや、此処にゐる馬子や若え衆が、丁度御前にや好い相手だ。だがそれもさつきからぢや、もう大抵切り飽きたらう。第一御前が紛れも無え日本一の大泥坊なら、何もすき好んでべらべらと、為にもなら無え旧悪を並べ立てる筈が無えわな。これさ、まあ黙つて聞きねえと云ふ事に。そりや御前が何でも彼でも、鼠小僧だと剛情を張りや、役人始め真実御前が鼠小僧だと思ふかも知れ無え。が、その時にや軽くて獄門、重くて磔は逃れ無えぜ。それでも御前は鼠小僧か、──と云はれたら、どうする気だ。」
とかう一本突つこむと、あの意気地なしめ、見る見る内に唇の色まで変へやがつて、
「へい、何とも申し訳はござりやせん。実は鼠小僧でも何でも無え、唯の胡麻の蠅でござりやす。」
「さうだらう。さうなくつちや、なら無え筈だ。だが火つけや押込みまでさんざんしたと云ふからにや、御前も好い悪党だ。どうせ笠の台は飛ぶだらうぜ。」
と框で煙管をはたきながら、大真面目におれがひやかすと、あいつは酔もさめたと見えて、又水つ洟をすすりこみの、泣かねえばかりの声を出して、
「何、あれもみんな嘘でござりやす。私は旦那に申し上げた通り、越後屋重吉と云ふ小間物渡世で、年にきつと一二度はこの街道を上下しやすから、善かれ悪しかれいろいろな噂を知つて居りやすので、つい口から出まかせに、何でも彼でもぼんぽんと──」
「おい、おい、御前は今胡麻の蠅だと云つたぢや無えか。胡麻の蠅が小間物を売るとは、御入国以来聞か無え事だの。」
「いえ、人様の物に手をかけたのは、今夜がまだ始めてでござりやす。この秋女房に逃げられやして、それから引き続き不手まはりな事ばかり多うござりやしたから、貧すりや鈍すると申す通り、ふとした一時の出来心から、飛んだ失礼な真似を致しやした。」
おれはいくらとんちきでも、兎に角胡麻の蠅だとは思つてゐたから、かう云ふ話を聞かされた時にや、煙管へ煙草をつめかけた儘、呆れて物も云へなかつた。が、おれは呆れただけだつたが、馬子半天と若え者とは、腹を立てたの立て無えのぢやねえ。おれが止めようと思ふ内に、いきなりあの野郎を引きずり倒しの、
「うぬ、よくも人を莫迦にしやがつたな。」
「その頬桁を張りのめしてくれべい。」
と喚き立てる声の下から、火吹竹が飛ぶ、桝が降るよ。可哀さうに越後屋重吉は、あんなに横つ面を脹らした上へ、頭まで瘤だらけになりやがつた。……
三
「話と云ふのはこれつきりよ。」
色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、かう一部始終を語り終ると、今まで閑却されてゐた、膳の上の猪口を取り上げた。
向うに見える唐津様の海鼠壁には、何時か入日の光がささなくなつて、掘割に臨んだ一株の葉柳にも、そろそろ暮色が濃くなつて来た。と思ふと三縁山増上寺の鐘の音が、静に潮の匂のする欄外の空気を揺りながら、今更のやうに暦の秋を二人の客の胸にしみ渡らせた。風に動いてゐる伊予簾、御浜御殿の森の鴉の声、それから二人の間にある盃洗の水の冷たい光──女中の運ぶ燭台の火が、赤く火先を靡かせながら、梯子段の下から現はれるのも、もう程がないのに相違あるまい。
小弁慶の単衣を着た男は、相手が猪口をとり上げたのを見ると、早速徳利の尻をおさへながら、
「いや、はや、飛んでも無えたはけがあるものだ。日本の盗人の守り本尊、私の贔屓の鼠小僧を何だと思つてゐやがる。親分なら知ら無え事、私だつたらその野郎をきつと張り倒してゐやしたぜ。」
「何もそれ程に業を煮やす事は無え。あんな間抜な野郎でも、鼠小僧と名乗つたばかりに、大きな面が出来たことを思や、鼠小僧もさぞ本望だらう。」
「だつとつて御前さん、そんな駈け出しの胡麻の蠅に鼠小僧の名をかたられちや──」
剳青のある、小柄な男は、まだ云ひ争ひたい気色を見せたが、色の浅黒い、唐桟の半天を羽織つた男は、悠々と微笑を含みながら、
「はて、このおれが云ふのだから、本望に違え無えぢや無えか。手前にやまだ明さなかつたが、三年前に鼠小僧と江戸で噂が高かつたのは──」
と云ふと、猪口を控へた儘、鋭くあたりへ眼をくばつて、
「この和泉屋の次郎吉の事だ。」
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年3月14日修正
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