護持院原の敵討
森鴎外



 播磨国はりまのくに飾東郡しきとうごおり姫路ひめじの城主酒井雅楽頭忠実うたのかみただみつ上邸かみやしきは、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋かねべやには、いつもさむらいが二人ずつ泊ることになっていた。しかるに天保てんぽう四年みずのととし十二月二十六日のの刻すぎの事である。当年五十五歳になる、大金奉行おおかねぶぎょう山本三右衛門さんえもんと云う老人が、ただ一人すわっている。ゆうべ一しょに泊るはず小金こがね奉行が病気びきをしたので、寂しい夜寒よさむを一人でしのいだのである。そばには骨の太い、がっしりした行燈あんどうがある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色だいだいいろの火が、黎明しののめの窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠つづらにしまってある。

 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」

「お前はたれだい」

「お表の小使でございます」

 三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見識みしった顔の小使で、二十はたちになるかならぬの若者である。

 受け取った封書を持って、行燈の前にすわった三右衛門は、ず燈心の花を落してき立てた。そしてふところから鼻紙袋を出して、その中の眼鏡めがねを取ってけた。さて上書を改めたが、せがれ宇平の手でもなければ、女房にょうぼうの手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出してひらき掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。

 はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後うしろから一刀浴せられたのである。

 夜具葛籠の前に置いてあった脇差わきざしを、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀たちを打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらにつかみ着いた。

 相手は存外卑怯ひきょうやつであった。むなぐらを振り放ししなに、持っていた白刃しらはを三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。

 三右衛門は思慮のいとまもなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方ゆくえが知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者くせものに及ばなかったのである。

 三右衛門はけるようないたみを頭と手とに覚えて、眩暈めまいきざして来た。それでも自分で自分を励まして、金部屋かねべやへ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それにり掛かった。そして深いゆるい息をいていた。


 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附かちめつけであった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締もとじめが来る。医師を呼びにる。三右衛門の妻子のいる蠣殻町かきがらちょう中邸なかやしきへ使が走って行く。

 三右衛門は精神がたしかで、役人等に問われて、はっきりした返事をした。自分には意趣遺恨を受けるおぼえは無い。白紙の手紙を持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使である。多分金銀にのぞみけたものであろう。家督相続の事をよろしく頼む。かたきを討ってくれるように、伜に言ってもらいたいと云うのである。その間三右衛門は「残念だ、残念だ」と度々たびたび繰り返して云った。

 現場げんばに落ちていた刀は、二三日前作事の方に勤めていた五瀬某が、詰所つめしょに掛けて置いたのを盗まれた品であった。門番を調べてみれば、卯刻うのこく過に表小使亀蔵かめぞうと云うものが、急用のお使だと云って通用門を出たと云うことである。亀蔵は神田久右衛門町かんだきゅうえもんちょう代地の仲間口入宿ちゅうげんくちいれやど富士屋治三郎が入れた男で、二十歳になる。下請宿したうけやど若狭屋わかさや亀吉である。表小使亀蔵が部屋を改めて見れば、山本の外四人の金部屋役人に、それぞれ宛てた封書があって、中は皆白紙である。

 察するに亀蔵は、早晩泊番の中のたれかを殺して金を盗もうと、かねはかっていたのであろう。奥羽おううその外の凶歉きょうけんのために、江戸は物価の騰貴した年なので、心得違こころえちがえのものが出来たのであろうと云うことになった。天保四年は小売米こうりまい百文に五合五勺になった。天明てんめい以後の飢饉年ききんどしである。

 医師が来て、三右衛門に手当をした。

 親族が駆け附けた。蠣殻町の中邸から来たのは、三右衛門の女房と、伜宇平とである。宇平は十九歳になっている。宇平の姉りよは細川長門守興建ながとのかみおきたけの奥に勤めていたので、豊島町としまちょうの細川邸から来た。当年二十二歳である。三右衛門の女房は後添のちぞいで、りよと宇平とのためには継母である。この外にまだ三右衛門の妹で、小倉新田こくらしんでんの城主小笠原備後守貞謙おがさわらびんごのかみさだよし家来けらい原田某の妻になって、麻布あざぶくぼの小笠原邸にいるのがあるが、それは間に合わないで、酒井邸には来なかった。

 三右衛門は医師が余り物を言わぬが好いと云うのに構わず、女房子供にも、役人に言ったと同じ事を繰り返して言って聞せた。

 蠣殻町の住いは手狭で、介抱が行き届くまいと言うので、浜町添邸そえやしき神戸かんべ某方で、三右衛門を引き取るように沙汰さたせられた。これは山本家の遠い親戚しんせきである。妻子はそこへ附き添って往った。そのうちに原田の女房も来た。


 神戸方で三右衛門は二十七日のとらの刻に絶命した。

 その日のとり下刻げこくに、上邸かみやしきから見分けんぶんに来た。徒目附、小人こびと目附等に、手附てつけが附いて来たのである。見分の役人は三右衛門の女房、伜宇平、娘りよの口書くちがきを取った。

 役人の復命にって、酒井家から沙汰があった。三右衛門が重手おもでを負いながら、癖者を中の口まで追って出たのは、「平生へいぜい心得方宜こころえかたよろしきつき、格式相当の葬儀可取行とりおこなふべし」と云うのである。三右衛門のきずを受けた現場にあった、癖者の刀は、役人の手で元の持主五瀬某に見せられた。

 二十八日に三右衛門の遺骸いがいは、山本家の菩提所ぼだいしょ浅草堂前の遍立寺へんりゅうじに葬られた。とむらいを出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、大小も当然伜宇平が持って帰る筈であったが、娘りよは切に請うて脇差を譲り受けた。そして宇平がそれを承諾すると、泣きらしていた、りよの目が、刹那せつなの間よろこびにかがやいた。


 侍が親を殺害せつがいせられた場合には、敵討かたきうちをしなくてはならない。ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議をらした末、翌天保五年甲午きのえうまの歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。

 評議の席で一番熱心に復讐ふくしゅうがしたいと言い続けて、成功を急いで気をいらったのは宇平であった。色のあおい、せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。姉のりよは始終黙って人の話を聞いていたが、願書に自分の名を書き入れて貰うことだけは、きっと居直って要求した。りよは十人並の容貌ようぼうで、筋肉の引き締まった小女こおんなである。未亡人は頭痛持でこんな席へはまれにしか出て来ぬが、出て来ると、返討かえりうちなどにいはすまいかと云う心配ばかりして、はてはどうしてこんな災難に遇ったことかと繰り返してくどくのであった。日が窪から来る原田夫婦や、未亡人の実弟桜井須磨右衛門すまえもんは、いつもそれを慰めようとして骨を折った。

 然るにここに親戚一同がひどく頼みに思っている男が一人いる。この男は本国姫路にいるので、こう云う席には列することが出来なかったが、訃音ふいんに接するや否や、弔慰くやみの状をよこして、敵討にはきっと助太刀をすると誓ったのである。姫路ではこの男は家老本多意気揚いきりに仕えている。名は山本九郎右衛門と云って当年四十五歳になる。亡くなった三右衛門がためには、九つ違の実弟である。

 九郎右衛門は兄の訃音を得た時、すぐに主人意気揚に願書を出した。おい女姪めいが敵討をするから、自分は留守を伜健蔵にまかせて置いて、助太刀に出たいと云うのである。主人本多意気揚は徳川家康が酒井家に附けた意気揚の子孫で、武士道に心入こころいれの深い人なので、すぐに九郎右衛門の願を聞き届けた。江戸ではまだ敵討の願を出したばかりで、かみからそんな沙汰もないうちに、九郎右衛門は意気揚から拵附こしらえつきの刀一腰ひとこしと、手当金二十両とを貰って、姫路を立った。それが正月二十三日の事である。

 二月五日に九郎右衛門は江戸蠣殻町の中邸にある山本宇平が宅に着いた。宇平をはじめ、細川家からいとまを取って帰っていた姉のりよがよろこびたとえようがない。沈着で口数をきかぬ、筋骨たくましい叔父おじを見たばかりで、姉も弟も安堵あんどの思をしたのである。

「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。

「はい。まだなんの御沙汰もございません。お役人方に伺いましたが、多分忌中だから御沙汰がないのだろうと申すことで」

 九郎右衛門は眉間みけんしわを寄せた。しばらくして、「大きい車は廻りが遅いのう」と云った。

 それから九郎右衛門は、旅の支度が出来たかと問うた。いずれお許が出てからと、宇平が云った。叔父の眉間には又皺が寄った。しかし今度は長い間なんとも言わなかった。外の話を色々した後で、叔父は思い出したように云った。「あの支度はのう、先へして置いても好いぞよ」

 六日には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期まつごに世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年うまどしの大火である。ひつじの刻に佐久間町さくまちょう二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下かざしたで、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人出も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った。

 山本の内では九郎右衛門が指図をして、荷物は残らず出させたが、さるの下刻には中邸一面が火になって、山本も焼けた。

 りよは火事が始まるとすぐ、旧主人の細川家の邸をさして駆けて行ったが、もう豊島町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃げちゃあいけねえ」などと云うものがある。とうとう避難者や弥次馬やじうま共の間にはさまれて、身動みうごきもならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。

 浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、さいわいに酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々かさねがさね世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠い親戚に当る、添邸の山本平作方へ、八日のたつの刻過に避難した。


 三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。ただりよ一人平作の家族に気兼きがねをしながら、甲斐々々かいがいしく立ち働いていたが、午頃ひるごろになって細川の奥方の立退所たちのきじょが知れたので、すぐに見舞に往った。

 晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはしてらんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄からかっているのである。

「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。

 九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、とりの上刻に又檜物町ひものちょうから出火した。おとつい焼け残った町家まちやが、又この火事で焼けた。

 十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路だいみょうこうじ松平伯耆守宗発まつだいらほうきのかみむねあきらの上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。

 続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々きょうきょうとしている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違てちがえが出来て、りよが幾ら気をんでも、支度がなかなかはかどらない。

 或る日九郎右衛門は烟草たばこを飲みながら、りよの裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管きせるを下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物をこしらえたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでおいでになるからなあ」

 りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛きゃはんこうがけである。

「なんだと」叔父は目を大きくみはった。「お前も武者修業に出るのかい」

「はい」と云ったが、りよは縫物の手をめない。

「ふん」と云って、叔父はややひさしく女姪めいの顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。かたきにはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるであてがないのだ。おれと宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせればいじゃないか」

おっしゃるとおり、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾こうかつらしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。

 叔父は少からず狼狽ろうばいした。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖ふしょうだと、あきらめてくれるより外ない」

「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」

「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」

 りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面ことばを尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙をいて、縫いさした脚絆をそっとそばにあった風呂敷包ふろしきづつみの中にしまった。


 酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真かがのかみただざねと三奉行とに届済とどけずみの上で、二月二十六日附をもって、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰たちかへるべしもし又敵人死候しにさふらはば、たしかなる証拠を以可申立もってまをしたつべし」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持ふちが下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所いどころさえめて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。

 りよは小笠原邸の原田夫婦が一先ひとまず引き取ることになった。病身な未亡人は願済ねがいずみの上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。

 さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出かどでをしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿うけやどの若狭屋へ往って、色々問いただしたが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、しかとしたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。

 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国おうみのくに浅井郡のうまれで、わかい時に江戸に出て、諸家に仲間ちゅうげん奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、さいわい今は酒井家からいとまを取っているから、敵の見識人みしりにんとして附いて行ってもいと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者わたりものの仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。

 九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召しかかえることにした。


 九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別のさかずきかわした。住持はその席へ蕎麦そばを出して、「これは手討のらんぎりでございます」と、茶番めいた口上を言った。親戚は笑い興じて、只一人打ちしおれているりよを促し立てて帰った。

 寺に一夜ひとよ寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国こうずけのくに高崎をさして往くのである。

 九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束おぼつかない事が、一方から見れば、是非共為遂しとげなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。

 高崎では踪跡そうせきが知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町えのきまち政淳寺せいじゅんじに山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国むさしのくにの境を越して、児玉村に三日いた。三峯山みつみねさんに登っては、三峯権現ごんげんに祈願をめた。八王子を経て、甲斐国かいのくにに入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山みのぶさん参詣さんけいした。信濃国しなののくにでは、上諏訪かみすわから和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国えちごのくにでは、高田を三日、今町を二日、柏崎かしわざき、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国えっちゅうのくにに入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響をこうむることがはなはだしくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間にむしろを敷いて寝た。飛騨国ひだのくにでは高山に二日、美濃国みののくにでは金山かなやまに一日いて、木曽路きそじを太田に出た。尾張国おわりのくにでは、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国いせのくにに入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。


 一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥休くたびれやすみをすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代もくだい岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火ともしびを認めたような気がしたのである。

 松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人おおしょうにんがある。そこへは紀伊国熊野浦きいのくにくまのうら長島外町の漁師定右衛門さだえもんと云うものが毎日うおを送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信いんしん不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸ぼろを身にまとって深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様おやじさまに知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。

 後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野仁郷村にんごうむらにいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門がもとった。知人にたよろうとし、それがかなわぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。

 二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云ううわさが、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山こうやさんに登らせることにした。二人が剃髪ていはつした亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞べんけいじまの木綿綿入を着て、木綿帯を締め、あい股引ももひき穿いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。

 亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。


 松坂の目代にこの顛末てんまつを聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑をはさむものは、主従三人のうちに一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。

 一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国せっつのくに大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便たよりがあって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気病きやみで亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮にしのみや兵庫ひょうごを経て、播磨国はりまのくにり、明石あかしから本国姫路に出て、魚町うおまちの旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国びぜんのくにに入り、岡山を経て、下山しもやまから六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼ほうしんに対して、やや不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈うきしずみのない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜のけるまで話し続けた。

 十六日の朝舟は讃岐国丸亀さぬきのくにまるがめに着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象頭山ぞうずさんへ祈願に登った。すると参籠人さんろうにんが丸亀で一癖ありげな、他所者たしょものの若い僧を見たと云う話をした。宇平はもう敵を見附けたような気になって、の刻に山を下った。丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。

 伊予国いよのくにの銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春こはる今治いまばりに二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、あつさおかして旅行をした宇平は留飲疝通りゅういんせんつうに悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲なかおおすを二日捜して、八幡浜やはたはまに出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがしてわずらった。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅はむなしく過ぎたのである。


 舟は豊後国佐賀関ぶんごのくにさがのせきに着いた。鶴崎つるさきを経て、肥後国ひごのくにに入り、阿蘇山あそさんの阿蘇神宮、熊本の清正公せいしょうこうへ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国ひぜんのくに島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代やつしろを一日、南工宿なんくじゅくを二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽おんせんだけの下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町かみちくごまち一向宗いっこうしゅうの寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。

 長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町ふなひきじまちの紙屋と云う家に泊って、町年寄まちどしより福田某に尋人たずねにんの事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州うまれのもので、何か人目をはばかるわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二にんを同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。

 九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望こんもうするものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすのの刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆忌々いまいましがる中に、宇平はことに落胆した。

 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、つえいて歩くようになった。筑後国ちくごのくにでは久留米くるめを五日尋ねた。筑前国ではず大宰府天満宮に参詣さんけいして祈願を籠め、博多はかた、福岡に二日いて、豊前国小倉こくらから舟に乗って九州を離れた。


 長門国ながとのくに下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦いったん姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津むろのつに着いた。そしてその日のうちに姫路の城下ひらまちの稲田屋に這入はいった。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。

 宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国すおうのくに宮市に二日いて、室積むろづみを経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国あきのくに宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国びんごのくにに入り、尾の道、ともに十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞かたがた姫路に立ち寄った。

 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年乙未きのとひつじの歳正月二十日であった。丁度その時広岸こうがん(広峯)ざん神主かんぬし谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産いわみうまれだと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。

 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座あわざおくひ町の摂津国屋つのくにやである。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。


 三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩あんまになり、文吉は淡島あわしまの神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それにもみで縫った括猿くくりざるなどをり下げ、手に鈴を振って歩く乞食こじきである。

 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉にいとまを遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排あんばいでは我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのままうらみんで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまでことばで述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論もちろん敵の面体めんていを見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告なのり合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取しゅうどりをしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。

 九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡もうしわたしをした。宇平はそばで腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。

 黙ってして聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭をもたげた。みはった目は異様にかがやいている。そして一声「檀那だんな、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡おおよそこんなことを言った。このたびの奉公は当前あたりまえの奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討かえりうちにでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重のあだを討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった。

 さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平はよみがえったおもいをした。

 それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿きちんやど起臥おきふしすることになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只むにまさる位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊はいかいしていた。

 そのうち大阪に咳逆がいぎゃくが流行して、木賃宿もせきをする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでもかゆすするようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳がんじょうでも、年を取っているので、容体ようだいが二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒しょうかんだと云った。それは熱が高いので、譫語うわことに「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。

 木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉がなだすかして、病人を介抱しているうちに、病附やみつきの急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数ひかずで病気に打ち勝った。


 九郎右衛門の恢復かいふくしたのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変わりやすい宇平が、病後に際立きわだって精神の変調を呈して来たことである。

 宇平は常はおとなしいたちである。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号あだなを附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風になびくように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼つねあおい顔にくれないちょうして来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱ちんうつになって頭をれ手をこまねいて黙っている。

 宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕ちょうせき平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々いらいらしたような起居振舞たちいふるまいをする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌おしゃべりをすることは絶えて無い。むしろ沈黙勝だと云っても好い。只興奮しているために、瑣細ささいな事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人をいどんで詞尻ことばじりを取って、いかりの動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言ってねている。

 こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那わかだんなの御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。

 九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、うまい物でも食わせると直るのだ」

 九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾びょうあ羇旅きりょとの三つの苦艱くげんめ尽して、どれもどれも江戸を立った日のおもかげはなくなっているのである。

 文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿あいやどのものがそれぞれかせぎに出た跡で、宇平は九郎右衛門の前にひざを進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。

「どうしたのだい」と叔父が云った。

「実は少し考えた事があるのです」

「なんでも好いから、そう云え」

「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」

「それはお前にも分かるまいが、おれにも分からんのう」

「そうでしょう。蜘蛛くもを張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹のまった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖ぎょうこうを当にしていつまでも待つのがいやになりました」

「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」

「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。

「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」

 宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前あたりまえかも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」

 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中をもって聞いていた。「そうか。そう思うのか。よくけよ。それは武運がつたなくて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰がてば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏しんぶつの加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」

 宇平の口角にはかすかな、あざけるような微笑がひらめいた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」

 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏かみほとけだ」

 宇平の態度は不思議に恬然てんぜんとしていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏かみほとけは分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事をめて、わたしの勝手にしようかと思っています」

 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血がのぼって、こぶしが固く握られた。

「ふん。そんなら敵討はやめにするのか」

 宇平は軽く微笑ほほえんだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人みしりにんもいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」

 九郎右衛門が怒は発するや否やたちまち解けて、宇平のこのことばを聞いている間に、いつものやさしいおじさんになっていた。只何事をもいて笑談じょうだんに取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目きまじめになっていただけである。

 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。


 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋しょうぎをさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。

 文吉は宇平を尋ねて歩いたついでに、ふと玉造豊空稲荷たまつくりほうくういなり霊験れいげんの話を聞いた。どこのたれの親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身をきよめて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。

 稲荷いなりやしろの前に来て見れば、大勢の人が出入でいりしている。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤いほらの中でうごめいているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃみせやらが出来ている。洞をくぐって社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。

 文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹がったとも思わずにいたのである。暮六くれむつが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝おいでなさい」と云った。

 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉がすなに額をうずめて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人たずねにんは春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。

 文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。

 九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所よそへ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」

 文吉はひどく勿体もったいながって、九郎右衛門の詞をさえぎるようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。

 九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」

 こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今家主いえぬしの所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、おなじく九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室こうしつの里からの手紙は、なんの用事かと気がいて、九郎右衛門がひらく手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。


 敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀にってから時が立ったのと、四方あたりが静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余りせわしくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際まないたばしぎわ高家衆こうけしゅう大沢右京大夫基昭うきょうたいふもとあきが奥に使われることになった。

 宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、しきみを売るうばの世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつかいみも明けた。そこで所々しょしょに一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母おおおばが勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻布あざぶの或る家に奉公した。次に本郷弓町の寄合衆よりあいしゅう本多帯刀たてわきの家来に、遠い親戚があるので、そこへ手伝に往った。こんな風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井亀之進かめのしんの奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守忠方ただみちの娘である。

 未亡人もりよも敵のありかを聞き出そうと思っていて、中にもりよは昼夜それに心を砕いていたが、どうしても手掛りがない。九郎右衛門や宇平からは便たより絶々たえだえになるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子おなご達の心細さは言おう様がなかった。

 月日が立って、天保六年の五月の初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今までんでいた雨が又一しきり降って来た。その時茶店の軒へ駆け込んで雨を避ける二人づれ遊人体あそびにんていの男がある。それが小降になるのを待ちながら、軒に立ってこんな話をした。

 一人が云った。「お前に話そうと思って忘れていたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋さかどいやの戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだやつがある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違ひとちがえをしなさんな、おいらあとらと云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」

 今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。ふてえ奴だなあ」

 須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍にただされるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間ちゅうげんの亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。

 大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせてった手紙である。

 文吉はすぐに玉造へお礼まいりに往った。九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕籠かご立場たてば、港の船問屋ふなどいやいて尋ねたのである。しかしそれは皆徒労であった。

 九郎右衛門は是非なくおいの事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金ようじんきんと衣類腰の物とには手は着けない。九郎右衛門は花色木綿の単物ひとえものに茶小倉の帯を締め、紺麻絣こんあさがすりの野羽織を着て、両刀を手挟たばさんだ。持物は鳶色とびいろごろふくの懐中物、鼠木綿ねずみもめんの鼻紙袋、十手早縄はやなわである。文吉も取って置いた花色の単物に御納戸おなんど小倉の帯を締めて、十手早縄を懐中した。

 木賃宿の主人には礼金を遣り、摂津国屋へは挨拶あいさつに立ち寄って、九郎右衛門主従は六月二十八日の夜船で、伏見から津へ渡った。三十日に大暴風おおあらしで阪の下に半日留められた外は、道中なんのさわりもなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。

 十二日とらの刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺へんりゅうじに往って、草鞋わらじのままで三右衛門の墓に参った。それから住持に面会して、一夜ひとよ旅の疲を休めた。

 翌十三日は盂蘭盆会うらぼんえで、親戚のものが墓参に来る日である。九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫裡くりに隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「はかりごとは密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、きびしい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。

 いぬの下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺粉木すりこぎにして歩くぞ」


 遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなっておらぬらしいが、どんな風体ふうていでいても見逃がすなよ。だがどうせ立派ななりはしていないのだ」

 境内けいだいを廻って、観音を拝んで、見識人みしりにんを桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前くらまえを両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁すずみかたがた見物に出た人が押し合っている。提灯ちょうちんに火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。

 川も見えず、船も見えない。玉やかぎやと叫ぶ時、群集がうなじらして、群集の上の花火を見る。

 とりの下刻と思われる頃であった。文吉が背後うしろから九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿たどって、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形ちゅうがた木綿の単物ひとえものに、古びた花色縞博多しまはかたの帯を締めている。

 二人は黙って跡を附けた。月の明るい夜である。横山町を曲る。塩町しおちょうから大伝馬町おおでんまちょうに出る。本町を横切って、石町河岸こくちょうがしから龍閑橋りゅうかんばし鎌倉河岸かまくらがしに掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被ほおかぶりをして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれをたすけるふりをして附いて行く。

 神田橋外元護寺院もとごじいん二番原に来た時は丁度の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせをした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後うしろから目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかりつかんだ。

「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。

 無言の二人は釘抜くぎぬきで釘を挟んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍みちばたの立木の蔭へ、引きって往った。

 九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮おぬしに討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国所くにところと名前を言って、覚悟をせい」

「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産せんしゅううまれで、虎蔵と云うものだ。そんな事をしたおぼえはねえ」

 文吉が顔をのぞき込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣ほくろまで知っている己がいる。そんなしらを切るな」

 男は文吉の顔を見て、草葉が霜にしおれるように、がくりと首をれた。「ああ。文公か」

 九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶ノ水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許やどもとから参りました。母親が霍乱かくらん夜明よあけまで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召おぼしめしでお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」

「は」と云って、文吉は錦町にしきちょうの方角へ駆け出した。


 酒井亀之進の邸では、今宵こよい奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。

 りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上草履うわぞうり穿いて、廊下づたいに老女の部屋へ往った。

 老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰っておいで。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」

難有ありがとうございます」と、りよはおうけをして、老女の部屋をすべり出た。

 りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻子くろじゅすの帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。

 りよと一しょに奥を下がった傍輩ほうばいが二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。

「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言ひとりごとのように云って、足を早めて部屋へ引き返した。

 部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠つづらふたを開けた。先ず取り出したのは着換の帷子かたびら一枚である。次にひじをずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗ふくさに包んで持って出た。


 文吉は敵を掴まえた顛末てんまつを、途中でりよに話しながら、護持院原ごじいんがはらへ来た。

 りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕はないので、短刀だけを包の中から出した。

 九郎右衛門は敵に言った。「そこへ来たのが三右衛門の娘りよだ。三右衛門を殺した事と、自分の国所名前をそこで言え」

 敵は顔を挙げてりよを見た。そして云った。「わたしもこれまでだ。本当の事を言います。なる程山本さんにきずを附けたのはわたしだが、殺しはしません。勝負事に負けて金に困ったものですから、どうかして金が取りたいと思って、あんなへまな事をしました。わたしは泉州生田郡いくたごおり上野原村の吉兵衛きちべえと云うものの伜で、名は虎蔵と云います。酒井様へ小使に住み込む時、勝負事で識合しりあいになっていた紀州の亀蔵と云う奴の名を、口から出任せに言ったのです。この外に言うことはありません。どうぞ御存分になすって下さい。」

「好く言った」と九郎右衛門は答えた。そしてりよと文吉とに目ぐわせして虎蔵の縄を解いた。三人が三方からじりじりと詰め寄った。

 縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前屈まえかがみにしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。

 その時りよは一歩下がって、つかを握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖かたさきから乳へ掛けて切り下げたのである。虎蔵はよろけた。りよは二太刀三太刀切った。虎蔵は倒れた。

「見事じゃ。とどめは己が刺す」九郎右衛門は乗り掛かってのどを刺した。

 九郎右衛門は刀の血を虎蔵の袖で拭いた。そしてりよにも脇差を拭かせた。二人共目は涙ぐんでいた。

「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。


 九郎右衛門等三人は河岸かしにある本多伊予守頭取いよのかみとうどり辻番所つじばんしょに届け出た。辻番組合月番西丸御小納戸鵜殿吉之丞にしまるおこなんどうどのきちのじょうの家来玉木勝三郎組合の辻番人が聞き取った。本多から大目附に届けた。辻番所組合遠藤但馬守胤統たじまのかみたねのりから酒井忠学ただのりの留守居へ知らせた。酒井家は今年四月に代替だいがわりがしているのである。

 酒井家から役人が来て、三人の口書くちがきを取って忠学に復命した。

 翌十四日の朝は護持院原一ぱいの見物人である。敵を討った三人の周囲へは、山本家の親戚が追々おいおいせ附けた。三人に鵜殿家からすし生菓子なまがしとを贈った。

 とりの下刻に西丸目附徒士頭かちがしら十五番組水野采女うねめの指図で、西丸徒士目附永井亀次郎、久保田英次郎、西丸小人目附平岡唯八郎ただはちろう、井上又八、使之者志母谷つかいのものしもや金左衛門、伊丹いたみ長次郎、黒鍬之者くろくわのもの四人が出張した。それに本多家、遠藤家、平岡家、鵜殿家の出役しゅつやくがあって、先ず三人の人体にんてい、衣類、持物、手創てきず有無ゆうむを取り調べた。創は誰も負っていない。次に永井、久保田両かち目附に当てた口書を取った。次に死骸の見分けんぶんをした。酒井家に奉公した時の亀蔵の名を以て調書に載せられた創はこうである。「背中左之方ひだりのほう一寸程突創つききず一箇所、創口腫上はれあがり深さ相知不申あひしれまをさずえり切創きりきず一箇所、長さ三寸程、深さ二寸程、同所下之方しものほうに切創一箇所、長さ一寸五分程、深さ六分程、左耳之わきに切創一箇所、長さ一寸、深さ六分程、右之肩より乳へ掛け一尺程切創一箇所、深さ四寸程、同所脇肩に切創一箇所、長さ二寸、深さ一寸程、のど突創一箇所、長さ三寸程、都合七箇所」衣類は木綿単物、博多帯、持物は浅葱あさぎ手拭一筋である。死骸しがいは玉木勝三郎に預けられた。次に呼び出されていた、亀蔵の口入人神田久右衛門町代地富士屋治三郎、同五人組、亀蔵の下請宿若狭屋亀吉が口書を取られた。次に九郎右衛門等の届を聞き取った辻番人が口書を取られた。

 見分の役人はいぬの上刻に引き上げた。見分が済んで、鵜殿吉之丞から西丸目附松本助之丞へ、酒井家留守居庄野慈父右衛門しょうのじふえもんから酒井家目附へ、酒井家から用番大久保加賀守忠真かがのかみただざねへ届けた。

 十五日の下刻に、水野采女の指図で、庄野へ九郎右衛門等三人を引き渡された。前晩ぜんばん酉の刻から、九郎右衛門とりよとを載せるために、酒井家でさし立てた二ちょうの乗物は、辻番所に来て控えていたのである。九郎右衛門、文吉は本多某に、りよは神戸にあずけられた。

 この日酉の下刻に町奉行筒井伊賀守政憲つついいがのかみまさのりが九郎右衛門等三人を呼び出した。酒井家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩かちの文吉とを警固した。三人が筒井政憲のじきの取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。

 十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与力よりき仁杉にすぎ八右衛門の取調を受けて、口書を出した。

 この日にりよは酒井亀之進から、三右衛門の未亡人は大沢家から願に依っていとまつかわされた。りよが元の主人細川家からは、敵討の祝儀を言ってよこした。

 十九日には筒井から三度目の呼出が来た。九郎右衛門等三人は口書下書を読み聞せられて、酉の下刻に引き取った。

 二十三日には筒井から四度目の呼出が来た。口書清書に実印、爪印をさせられた。

 二十八日には筒井から五度目の呼出が来た。用番老中水野越前守忠邦ただくにの沙汰で、九郎右衛門、りよは「奇特之儀きどくのぎつきかまひなし」文吉は「仔細無之しさいこれなく構なし」と申し渡された。それから筒井の褒詞ほうしを受けて酉の下刻に引き取った。

 続いて酒井家の大目附から、町奉行の糺明きゅうめいが済んだから、「平常通心得へいじょうのとほりこころうべし」と、九郎右衛門、りよ、文吉の三人に達せられた。九郎右衛門、りよは天保五年二月に貰った御判物ごはんものを大目附に納めた。

 うるう七月朔日ついたちにりよに酒井家の御用召があった。たつの下刻に親戚山本平作、桜井須磨右衛門が麻上下あさがみしもで附き添って、御用部屋に出た。家老河合小太郎に大目附が陪席して申渡もうしわたしをした。

女性にょしょうなれば別して御賞美あり、三右衛門の家名相続被仰附おほせつけらる宛行あておこなひ十四人扶持被下置ふちくだしおかる、追て相応の者婿養子可被仰附むこようしおほせつけらるべし、又近日中奥御目見可被仰附なかおくおめみえおほせつけらるべし」と云うのである。

 十一日にりよは中奥目見なかおくめみえに出て、「御紋附黒縮緬くろちりめん紅裏真綿添もみうらまわたそひ白羽二重一重しろはぶたへひとかさね」と菓子一折とをたまわった。同じ日に浜町の後室から「しま縮緬一反」、故酒井忠質室専寿院ただたかしつせんじゅいんから「高砂たかさご染縮緬ふくさ二、扇二本、包之内つつみのうち」を賜った。

 九郎右衛門が事に就いては、酒井忠学から家老本多意気揚いきりへ、「九郎右衛門は何の思召おぼしめし無之これなく以前之通可召出いぜんのとほりめしいだすべし且行届候段満足褒美可致かつゆきとどきそろだんまんぞくほうびいたすべし、別段之思召を以て御紋附麻上下被下置あさがみしもくだしおかる」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋たんものだいせんびき」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折まぜさかなひとをり」を贈った。

 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小役人格に被召抱めしかかへらる御宛行金四両おあておこなひきんよりょう二人扶持被下置ふちくだしおかる」と達せられた。それから苗字みょうじ深中ふかなか名告なのって、酒井家の下邸巣鴨すがもの山番を勤めた。

 この敵討のあった時、屋代やしろ太郎弘賢ひろかたは七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。

「又もあらじ魂祭たままつるてふ折に逢ひて父兄の仇討あたうちしたぐひは」さいわいに太田七左衛門が死んでから十二年程立っているので、もうパロヂイを作って屋代を揶揄からかうものもなかった。

底本:「山椒大夫・高瀬舟」新潮文庫、新潮社

   1968(昭和43)年530日発行

   1985(昭和60)年61041刷改版

   1990(平成2)年53053

入力:砂場清隆

校正:菅野朋子

2000年1017日公開

2006年511日修正

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