半七捕物帳
お照の父
岡本綺堂



     一


「いつか向島でお約束をしたことがありましたっけね」

「お約束……。なんでしたっけ」と、半七老人は笑いながら首をかしげていた。

「そら、向島で河童かっぱと蛇の捕物の話。あれをきょう是非うかがいたいんです」

「河童……。ああ、なるほど。あなたはどうも覚えがいい。あれはもう去年のことでしたろう。しかも去年の桜どき──とんだ保名やすなの物狂いですね。なにしろ、そう強情ごうじょうにおぼえていられちゃあ、とてもかなわない。こうなれば、はい、はい、申し上げます、申し上げます。これじゃあどうも、あなたの方が十手を持っているようですね。はははははは。いや、冗談はおいて話しましょう。御承知の通り、両国の川開きは毎年五月の二十八日ときまっていたんですが、慶応の元年の五月には花火の催しがありませんでした。つまり世の中がそうぞうしくなったせいで、もうその頃から江戸も末になりましたよ」

 老人は昔をしのび顔に話し出した。

「その二十八日のひる過ぎでした。いつもの年ならわたくしも子分どもを連れて、両国界隈を見廻らなければならないんですが、今年は川開きも見あわせになったというので、まあ楽ができると思って神田の家に寝ころんでいますと、一人の若い女が駈け込んで来たんです」


 女は女房のお仙をつかまえて何か泣きながら話しているらしかったが、やがてお仙に連れられて半七の枕もとへいざり込んで来た。起き直って見ると、それは柳橋のお照という芸妓の妹分で、お浪という今年十八の小綺麗な女であった。

「やあ、浦島が昼寝をしているところへ、乙姫さんが舞い込んで来たね」と、半七は薄ら眠いような眼をこすりながら笑った。「ことしは花火もお廃止だというじゃあねえか。どうも不景気だね。だんだんに世の中が悪くなるんだから仕方がねえ。それでもいつもの日と違うから、茶屋や船宿ふなやどはちっとは忙がしかろう」

 云いながらよく視ると、柳橋の若い芸妓は島田をかたのごとく美しく結いあげていたが、顔には白粉のあともなかった。自体がすこし腫れ眼縁まぶちのまぶたをいよいよ泣き腫らしていた。花火はなくともきょうは川開きという書入れの物日ものびに、彼女はふだん着の浴衣のままで家を飛び出して来たらしかった。

「どうしたんだ。姉さんと何か喧嘩でもしたのか。この頃はもう何か出来たという評判だから、それで姉さんといがみ合ったんじゃあねえか。そんな尻をおれの方へ持って来たって、辻番が違うぜ」と、半七はからかうように相手の顔をのぞくと、お浪は嫣然にこりともしなかった。

「いいえ、お前さん。そんなどころじゃないんですとさ」と、お仙も顔をしかめながら云った。「姉さんが今、番屋に止められたと云って、なあちゃんが泣き込んで来たんです。どうしたんでしょうねえ」

「ねえさんが番屋へあげられた」と、半七も団扇うちわの手をやすめた。「なにかお客の引き合いじゃあねえか」

「じゃあ、親分さんはまだ御存じないんですか」と、お浪は眼を拭きながら云った。

「なんにも知らねえ。おめえのうちに何かあったのかえ」

「お父っさんがけさ殺されたんですよ」

 お浪の話によると、けさの六ツ(午前六時)前にお照の家の戸を軽くたたく者があった。朝寝坊の芸妓げいしゃ家では、台所に近い三畳で女中のお滝がようよう蚊帳かやをはずしているところであった。戸をたたく音を聞きつけて、お滝はすぐに入口へ出て行こうとすると、茶の間の六畳に寝ていたお照の父の新兵衛が蚊帳の中からあわてて呼び止めて、出てはいけない、明けてはいけないと、小声で叱るように云った。叱られてお滝も少しためらっていると、やがて表を叩く音は止んだ。と思うと、今度は裏口の方から跳り込んで来たものがあった。お滝が起きると、すぐに水口みずくちの戸を一枚あけて置いたので、得体えたいのわからない闖入者は薄暗がりの家の奥へまっしぐらに飛び込んで、新兵衛の蚊帳のなかへ鼠のようにくぐって這入った。年のわかいお滝は呆気あっけに取られて眺めていると、かれは忽ち蚊帳から這い出して来て、もとの水口から駈け出してしまった。まだ起きたばかりで半分寝ぼけているお滝には、何がどうしたのか判らなかった。彼女はしばらく夢のように突っ立っていたが、なんだか少し不安にも思われるので、そっと茶の間へはいって蚊帳の中をのぞいて見ると、新兵衛の寝衣ねまきには紅い血が一面に泌み出していた。

 腰をぬかさないばかりにびっくりして、お滝は二階へかけ上がった。二階には娘のお照と妹芸妓のお浪とが一つ蚊帳のなかに寝ているので、彼女は忙がわしく二人の女をよび起した。二人もおどろいて降りてみると、新兵衛は刃物で喉笛を切られてもう死んでいた。三人は一度に声をあげて泣き出した。朝寝の町もこの騒ぎにおどろかされて、近所の人達もだんだんに駈けあつまって来た。ちょう役人からかたの通りに変死の届けを出して、与力同心も検視に出張した。

 新兵衛は誰にどうして殺されたか、唯一ゆいいつの証人は女中のお滝であるが、彼女は十七の若い女で、寝惚けていたのと狼狽うろたえていたのとで、もちろん詳しいことはなんにも判らなかった。彼女が番屋で申し立てたところによると、曲者は背の低い小児こどものような怪物で、顔もからだも一面に黒かったのを見ると、おそらく裸体であったらしい。って歩くかと思うと、這ってあるいた。その以上にはお滝はなんにも記憶に残っていないとのことであった。併しこんな奇怪なあいまいな申し立てを、係りの役人は容易にほんとうとは受け取らなかった。お滝はそのままに番屋に止められてしまった。

 お照もお浪も無論に調べられた。お浪は仔細ないと認められて一と先ずゆるされたが、お照は申し口に少し胡乱うろんかどがあるというので、これも番屋に止められた。これだけのことが決まったのは、その日もやがて午に近い頃で、月番の行事ぎょうじや近所の人達がお照の家に寄り集まっていろいろに評定をらしたが、差し当りはどうするという分別も付かなかった。この上は然るべき親分の力をりるよりほかはあるまいというので、お照もお浪もかねて半七を識っているのを幸いに、お浪は着のみ着のままで神田まで駈け付けたのであった。

「そりゃあちっとも知らなかった。十手に対しても申し訳がねえ」と、半七はすこし驚かされた。「なにしろ変なものが飛び込んだものだね。子供のような真っ黒なものかえ」

「お滝はそう云っているんです」と、お浪も腑に落ちないような顔をしていた。

「猿じゃありませんかね」と、お仙がそばから口を出した。

「やかましい。御用のことに口を出すな」

 叱り付けて、半七はしばらく考えた。猿芝居の猿が火の見の半鐘をいて世間をさわがした実例は、彼の記憶にまだ新しく残っている。しかし猿が刃物を持って人を殺しに来るとは、作り話なら知らぬこと、実際には滅多めったにありそうにもないように思われた。

「それにしても、姉さんはなぜ止められたんだ。云い取り方がまずかったんだね」

「そうでしょう。止められると聞いたら、姉さんは蒼い顔をして黙っていました」

「姉さんは一体どんなことを調べられた。おめえも一緒に行ったんだから、知っているだろう」

 この問いに対して、お浪は捗々はかばかしい返事をしなかった。彼女はお仙が出してくれた団扇をいじくりながら、黙って俯向いていた。

「おい、何もかも正直に云ってくれねえじゃあいけねえ。姉さんが助かるのも助からねえのも、おめえの口一つにあることだ、なんでもみんな隠さずに云って貰いてえ。姉さんはこの頃なにか親父ちゃんと折り合いの悪いことでもあったんじゃあねえか」

「ええ。この頃は時々に喧嘩をすることがあるんです」と、お浪はよんどころなしに白状した。

情夫れこの一件かえ」

「いいえ、そうじゃないんです」

「だって、姉さんには米沢町よねざわちょうの古着屋の二番息子が付いているんだろう」

「それはそうですけれど、喧嘩のもとはそれじゃないんです。うちのお父っさんが柳橋を引き払って、沼津とか駿府とか遠いところへ引っ越してしまおうというのを、姉さんがいやだと云って……」

「そりゃあ忌だろう」と、半七はうなずいた。「なぜ又、おめえのところの親父ちゃんはそんなおかしなことを出しぬけに云い出したんだ。なにか訳があるだろう」

「それは判らないんですが、ただ無闇にこの土地にいるのは面白くないと云って……。それで姉さんとたびたび喧嘩をしているんです。あたしも中へはいって困ったこともありますが、なぜ引っ越すんだか、その訳が判らないんですもの。良いとも悪いとも云いようがありません」

「おかしいな。すると、その矢先に親父が殺されたんで、姉さんが……。まさかに自分が手をくだしもしめえが、何かそれに係り合いがあるだろうと見込みを付けられたんだね。まあ、無理もねえところだ。おれにしても先ずそんなことを考える。そこで古着屋の二番息子はまだ呼ばれなかったかえ」

「呼びに行ったんでしょう。ですけれど、ゆうべから何処へか行って、まだ帰らないんだそうです」

「あの息子は何とか云ったっけね」

「定さんというんです」

「違げえねえ。定次郎というんだね。その定次郎はゆうべから帰らねえか」

 半七は腕をんだ。どういう仔細があるか知らないが、おやじの新兵衛は土地を売って他国へ行こうという。娘のお照は江戸を離れるのがいやなのと、もう一つには情夫おとこと別れるのが辛いのとで、どうしても行かないと駄々をこねる。親子喧嘩がたびたび続く。その挙げ句に新兵衛が何者にか寝込みを襲われて殺された。こう煎じ詰めてくると男と女とが共謀か、それとも男ひとりの料簡か、どっちにしてもその下手人げしゅにんはかの定次郎らしく思われるのが、誰の眼にも映る暗い影であった。それを正直に白状しないために、お照は番屋に止められたのであろう。半七もその以上には、差し当って目串のさしようがなかった。

 唯ここに一つの疑問として残っているのは、なぜの新兵衛が住み馴れた柳橋の土地を立ち退いて、沼津とか駿府とかの遠い国へ引っ込もうというのか。半七はその仔細を知りたかった。


     二


「おめえは一つうちにいるんだから、何もかも残らず知っている筈だが、お前のところの親父ちゃんは人から怨まれるような覚えがあるかえ」と、半七はまた訊いた。

 むかしは知らないが、今は決してそんな事はないとお浪は確かに云い切った。お父っさんが正直で、情けぶかい人であることは近所の人達がみんな能く知っている。月の四日にはきっと両国の橋番の小屋へ行って、放しうなぎをして帰るのを例としている。神まいりにも行く。寺詣りにもゆく。それで博奕は打たず、酒は飲まず、こうした稼業には似合わないくらいの堅気かたぎな結構人である。もしも家のお父っさんを怨む人があれば、それは外道げどうの逆恨みか、但しは物の間違いでなければならない。しかし今度の殺され方を見ると、どうしても物取りではない、意趣斬りであるらしい。それが自分にはわからないと彼女は云った。

「それほど結構な人間なら、土地にいられねえような不義理をした訳もあるめえに、折角売れ出した娘を無理に引き摺って、なぜ草深いところへ引っ込む気になったのか。どうしてもおめえ達には心当りがねえんだね」

「どうも判りません」と、お浪はやはりかぶりをふった。「ですけれども、たった一度こんな事があったそうです。あたしが見た訳じゃありませんけれども、お滝の話には何でも先月の初め頃に、もう日の暮れかかる時分に一人の六部が家の前に立って、なにかかねを鳴らしていると、そこへ丁度お父っさんが外から帰って来て、その六部と顔見あわせて何だか大変にびっくりしたような風だったそうで、それから二人が小さい声でしばらく立ち話をして、お父っさんはその六部に幾らかやったらしいということです。その後にも日が暮れると、その六部がときどきたずねて来て、一度は草鞋をぬいで茶の間へ上がって来たこともあるそうですが、あたし達はいつも其の時はお座敷へ出ていたのでよく知りません。なんでもその六部が来るようになってから、お父っさんは田舎へ行くと云い出したらしいんですが……」

「ふむう。そんなことがあったのか」

 半七の眼は動いた。結構人と評判の高い老人と、なんだか怪しげな六十六部と、この間にどういう糸が繋がっているかを、横から縦からいろいろに想像していたが、やがて彼はお浪に訊いた。

「おめえのところの親父ちゃん刺青ほりものをしていたっけね」

「ええ。両方の腕に少しばかり」

「なにが彫ってある」

「若い時の道楽で、こんなものは見得みえにも自慢にもならないと、なるたけ隠すようにしていましたから、あたし達は能く見たこともないんですが、なんでも左の方は紅葉、右の方には桜が彫ってあったようです」

「背中にはなんにもねえか」

「背中は真っ白でした」

「ちゃんは幾つだっけね」

「たしか五十九だと思っています」

「姉さんは貰い児の筈だが、親父は江戸者じゃあるめえね」

「なんでも信州の方だとかいうことですが、姉さんもよく知らないようです。善光寺様の話を時々にしますから、信州の方にゃあ相違ないと思いますけれど……」

 訊くだけのことは大抵訊き尽したので、半七はお浪を帰した。いずれ後から行くから、それまでおとなしく待っていろと云うと、お浪もくれぐれも頼んで帰った。

「お仙。ちょいと出るから着物を出してくれ、なんだか蒸し暑いと思ったら、少しくもって来たようだな」

 支度をしてかどを出ると、半七は子分の幸次郎に逢った。

「親分。柳橋の一件がお耳にはいっていますかえ」

「やっと今聞いたんだ。申し訳がねえ。なにしろ、いい所へつらを持って来てくれた。これから柳橋のお照の家まで行ってくれ」

「ようがす」

 二人はすぐに柳橋へゆくと、お照の家には近所の人達があつまって、何かごたごた騒いでいた。待ち兼ねたように出て来たお浪を蔭へ呼んで、半七はその後なんにも変ったことはないかと訊くと、別に変ったこともないが、もう少し前に古着屋の息子が来て、お照が番屋へ止められた話を聞いて、真っ蒼になって帰ったとお浪は話した。

「どうもその古着屋のせがれが面白くないじゃありませんか。かまわずに引き挙げてしまいましょうか」と、幸次郎はささやいた。

「まあ、待て。おれも一旦はそう思ったが、まあ、それは二の次だ。もう少しほかに穿索さぐって見る所がありそうだから、あんまりどたばたして方々へ塵埃ほこりを立てねえ方がいい」

 半七は内へはいった。女中のお滝はどうしたと訊くと、けさから番屋へ止められたままで、まだ下げられないとの事であった。お照も無論帰って来なかった。新兵衛の死体はもう検視が済んで、茶の間の六畳に横たえてあった。お照の下げられるのが遅いようならば、この時節柄いつまでも仏を打っちゃっては置かれないので、近くの者が寄りあつまって何とか葬式とむらいを済ませなければなるまいと云っていた。半七も一応死人の傷口をあらためると、それは剃刀のような刃物で喉をえぐったらしかった。

 それから水口みずぐちの方へまわって、怪しい物のはいって来たという路すじを調べてみると、台所の柱に黒い手の痕のようなものが小さく薄く残っているのを見つけた。半七は懐ろ紙をとりだして綺麗に拭き取って、そばに立っている幸次郎にその紙をそっと見せた。

「こりゃあなんだ」

「鍋墨のようですね」

「向う両国に河童かっぱは何軒ある」

「河童は……」と、幸次郎は考えた。「たしかに一軒だと思っています」

「それじゃ訳はねえ」と、半七はほほえんだ。「お前はこれからその小屋へ行って、河童を引き挙げて来い。だが、まだ少し時刻が早い。商売の邪魔をするのも可哀そうだから、もうちっと待っていると日が暮れるだろう。小屋の閉場はねるのを待っていて、すぐに河童をあげるようにしろ」

 幸次郎は心得て出て行った。半七は茶の間へ戻って、お浪にことわって仏壇から過去帳を出して繰ってみると、月の四日のところに釈寂幽信士と戒名が見えた。新兵衛が両国の川へ毎月放し鰻をするというのは四日である。この四日の仏が新兵衛になにか特別の関係をもっていなければならないと考えたので、半七はお浪に向って、この仏はここの家の何者だと詮議したが、お浪はそれを知らないと云った。しかし、ここの家に取っては余ほど大切の仏であるらしく、その日には新兵衛が手ずから仏壇に燈明を供えて、なにか念仏を唱えていたとのことであった。

「ちゃんはこの頃どっかへ行ったことがあるかえ」

「いいえ。もとから出嫌いの人でしたが、この頃はちっとも外へ出ないで、内にばかり坐っていました。そうして、なんだか人に逢うのを忌がっているようでした」と、お浪は云った。

 自分の鑑定がだんだんにあたってくると半七は思った。彼はもう一度新兵衛の死骸をあらためると、その左の二の腕には紅葉を一面に彫ってあって、その蒼黒い葉のかげに入墨いれずみの痕がかくされているのが確かに判った。新兵衛はその過去の犯罪の暗い履歴をもっていて、その腕の刺青ほりものは入墨を隠すためであることもすぐに覚られた。彼はその罪を悔いて情けぶかい結構人になった。その罪をほろぼすために毎月の放し鰻をした。かれの犯罪は月の四日の仏に関係をもっているらしいと半七は思った。しかし、どうしてその仏を見付け出していいか。半七はさすがに見当が付かなかった。

 そのうちに浅草の七ツ(午後四時)がきこえたので、半七はともかくもここを出て、向う両国へまわって幸次郎の模様を見て来ようと、居あわせた人達に挨拶してかどを出ると、陰った空のうえから紫の光がさっとほとばしって来た。おや、光ったなと思う間もなく、大粒の雨がどっと降り出したので、半七は舌打ちをしながら再び内へ引っ返した。

「とうとう降って来た」

「夕立ですからすぐに止みましょう」と、お浪は入口の戸を一枚閉めながら云った。

 よんどころなしに半七は茶の間へ戻って又坐ると、稲妻がまた光って、雷の音がだんだん近くなって来た。ぶちまけるような夕立が飛沫しぶきを吹いて降り込んで来るので、みんなも手伝って方々の戸を閉めた。狭い家のなかには線香の煙りがうず巻いてみなぎって、息がつまるほどに蒸し暑いのを我慢して、半七も扇を使いながら其処に晴れ間を待っていると、雨はやがて小降りになったので、お浪が傘を貸そうというのを断わって出た。半七は手拭をかぶって、尻を端折はしょって、ぬかるみを飛び飛びに渡りながら両国橋を越えた。

 川向うの観世物小屋はもう大抵しまっていた。今の夕立が往来の人を追っ払ってしまったらしく、ぐしょ濡れになったこも張りの小屋の前には一人も立っている者はなかった。半七は向う側の心太屋ところてんやの婆さんに訊いて、そこだと教えられた河童の観世物小屋のまえに立って見あげると、白藤源太らしい相撲取りが柳の繁っている堤を通るところへ、川の中から河童が飛び出して、その行く先を塞ぐように両手をひろげている絵看板がけてあった。

 その頃の向う両国にはお化けや因果物のいろいろの奇怪な観世物が小屋をならべていた。河太郎もその一つで、葛西かさいの源兵衛堀で生け捕ったとか、筑後の柳川から連れて来たとか、子供だましのような口上を列べ立てているが、その種はもう大抵の人にも判っていた。十三四歳の男の児を河童頭に剃らせて、顔や手足を鍋墨で真っ黒に塗って、大きな口から紅い舌をべろりと出して、がらがらがあと不思議な鳴き声を聞かせる。ただそれだけの他愛もない芸であるが、それでも河童とか河太郎とかいう評判に釣り込まれて、八文の木戸銭を払う観客が少なくない。半七はお照の台所の柱に残っていた鍋墨の手形から、新兵衛殺しの下手人はこの河童小僧と鑑定したのであった。表はもう閉まっているので、裏木戸の方へ廻ってゆくと、楽屋の者もみんな帰ってしまって、楽屋番の爺さんが一人で後片付けをしているところであった。

「おい、六助さん。お前はこの頃ここへ来ているのか」

「おや、親分さんですか。どうも御無沙汰をいたしました」と、楽屋番の六助はあわてて挨拶した。

「お化けの方はなぜ止したんだ」

「へえ、どうもあの楽屋は風儀が悪うござんして、御法度ごはっとの慰み事が流行はやるもんですから……」

「爺さんもあんまり嫌いな方じゃあるめえ。時に、うちの幸次郎は見えなかったかね」

「幸さんはお見えになりました。いや、それで楽屋の者も心配して居りますよ」

「河童を連れて行ったのか」

「へえ、すぐに帰すと仰しゃいましたけれど……。河童がなかなか素直に行きませんのを、無理にだまして連れておいでになりました」

「河童は幾つで、なんというんだえ」

「本名は長吉と申しまして、十五でございます」

「どこから拾って来たんだ。親はねえのか」

「なんでもこの一座が四、五年前に信州の善光寺へ乗り込んだ時に連れて来ましたので、お察しの通り両親はございません。おふくろに死なれて路頭に迷っているのを、まあ拾いあげて来ましたようなわけで……。いえ、わたくしはくは存じませんが、なんでもそんな話でございます」

「親父もないんだね」

「へえ、親父は長吉が生まれると間もなく死にましたそうで」

「変死かえ」と、半七はすぐに訊いた。

「よく御存じで……。高い声では申されませんが、なんでも悪いことをしてお仕置になりましたそうで……」

「ふむう、そうか。そこで此の頃、河童のところへ誰かたずねて来た者はねえか」

 六助は少し考えていたが、やがて思い出したようにうなずいた。

「あります、あります。廻国かいこくの六部のような男が……」


     三


 半七の商売を知っている六助は、訊かれるに従ってすべてのことをしゃべった。六部は四十近い、痩せて背の高い、眼つきの少し恐ろしい男で、長吉の叔父だという話であった。顔立ちの幾らかているのを見ると、それは嘘ではないらしいと六助は云った。その六部がきのう普通の浴衣ゆかたを着て、楽屋へふらりとたずねて来て、鰻を食わしてやるからと云って長吉をどこへか連れ出した。

「その六部は何処にいるのか知らねえか」

「なんでも下谷の方にいるということですが、宿の名は存じません」

 その以上のことは六助はまったく知らないらしいので、半七はここらで打ち切って小屋を出た。それにしても幸次郎はどこへ河童を連れて行ったか。大方そこらの番屋へ引き挙げたのであろうと、半七はその足で近所の自身番へ行ってみると、そこには幸次郎の姿も見えなかった。それでも念のために店へはいって訊くと、自身番の親方は面目ないような顔をして答えた。

「実はそのことで幸次郎さんに大変怒られまして……。なんとも申し訳がございません」

「どうしたんですね」

「河童に逃げられました」と、親方はひたいの汗を拭いた。そこに居あわせた番太郎も小さくなって俯向いた。

 河童を取り逃がした事情はこうであった。さっき幸次郎が観世物小屋から河童を引っ張って来て、この自身番へあずけて行った。自身番には店の側に一種の留置場ともいうべき六畳ほどの板の間があって、その太い柱に罪人を縄でつないで置くのが例であった。河童もそこに繋がれていると、俄かに大夕立が降り出したので、番太郎はあわてて自分の家へ帰った。自身番の者共もおどろいて其処らを片付けた。店先の履き物を取り込む者もあった。裏口の戸を閉めにゆく者もあった。そのどさくさまぎれに河童は縄をぬけて逃げ出した。勿論、その逃げてゆくうしろ姿を見つけた者はあったが、人間の河童はおかでも身が軽いので、あれあれといううちに吾妻あずま橋の方へ飛んで行ってしまった。そこへ幸次郎が帰って来た。

 彼は柳橋へ半七を迎えに出たのであるが、途中で夕立にふりめられて、そこらの軒下に雨宿りをして、小降りになるのを待ってお照の家へゆくと、どこで行き違ったか半七はもう出てしまった後であったので、また引っ返して自身番へくると、この始末である。幸次郎の怒るのも無理はなかった。彼は腹立ちまぎれに居あわせた者どもを頭ごなしに叱り付けた。そうして、すぐ河童のあとを追って行った。

「そりゃあまずいことをやったもんだ。おめえ達の不行き届きで、なんと云われても仕方がねえ」と、半七はその話を聴いて眉をよせた。

「親分さん、実に申し訳がございません」

 あやまっても詫びても今更取り返しは付かない。ここでぐずぐず云っているよりも、幸次郎に加勢して河童のゆくえを早く探し出す方がましだと思ったので、半七は草履を自身番にぬいで置いて、跣足はだしになって駈け出した。どこというあてもないが、吾妻橋の方角へ逃げたというのを手がかりに、彼は岸づたいに急いで行った。

 むやみに駈け出しても仕方がないので、彼はこんな小僧を見なかったかと途中で訊きながら歩いた。すると、一軒の荒物屋へ此の夕立の最中に一人の真っ黒な小僧が飛び込んで来て、店先にかけてあった菅笠すげがさを掻っさらって逃げたということが判った。その小僧は笠をかぶって小梅の方角へ行ったというのを頼りに、半七は向島の方へまた急いだ。

 雨はもう止んだが、葉桜のどては暗かった。水戸の屋敷の門前で、幸次郎のぼんやりと引っ返して来るのに出逢った。

「どうした。いけねえか」

「自身番の疝気野郎、飛んでもねえどじみやがって、お話にもならねえ」と、幸次郎は忌々いまいましそうに云った。「なんでもこっちの方角へ来たらしいんですが、どうしても当りが付かねえには困りました。どうしましょう」

「仕方がねえ」と、半七も溜息をついた。「だが、餓鬼のこった。まさかに草鞋を穿くようなこともあるめえ。いずれ何処からか這い出して来るだろう。なにしろ、腹がって来た。そこらで蕎麦でも手繰たぐろう」

 二人は堤下へ降りて食い物屋をさがした。しじみの看板をかけた小料理屋を見つけて、奥の小座敷へ通されて夕飯を食っているうちに、萩を一ぱいに植え込んであるらしい庭先もすっかり暗くなって、庭も座敷も藪蚊の声に占領されてしまった。

「日が暮れたのに蚊いぶしを持って来やあがらねえ。この村で商売をしていながら、気のきかねえべらぼうだ。これだから流行らねえ筈だ」

 むしゃくしゃ腹の幸次郎は無暗にぽんぽんと手を鳴らして、早く蚊いぶしをしろと呶鳴った。女中は蚊いぶしの道具を運んで来て、頻りにあやまった。

「相済みません。店でお化けの話を聴いていたもんですから、ついうっかりして居りました」

「へえ、お化けの話……。そりゃあおめえの親類の話じゃあねえか」

「よせよ」と、半七は笑った。「ねえさん、堪忍してくんねえ。この野郎少し酔っているんだから。そこで、そのお化けがどうしたんだ。ここの家へ出るわけじゃあるめえ」

「あら、御冗談を……。たった今、うちの旦那が堤で見て来たんですって。嘘じゃない、ほんとうに出たんですって、河童のようなものが……」

「え、河童だ」と、幸次郎もまじめになった。

 半七はその主人をちょいと呼んでくれと云った。呼ばれて出て来たのは四十五六の男で、閾越しきいごしで縁側に手をついた。

「御用でございますか」

「いや、ほかじゃあねえが、おまえさんはたった今、堤で何か変なものを見たそうだね。なんですえ」

「なんでございましょうか。わたくしもぞっとしました。相手がお武家ですから好うござんしたが、わたくし共のような臆病な者でしたら、すぐに眼をまわしてしまったかも知れません」

「河童だというが、そうですかえ」と、半七はまた訊いた。

「お武家は河童だろうと仰しゃいました。まあ、こうでございます。わたくしが業平なりひらの方までまいりまして、その帰りに水戸様前からもう少しこっちへまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました。わたくしの少し先を一人のお武家さんが歩いておいででございまして、その又すこし先に、十四五ぐらいかと思うような小僧が菅笠をかぶって歩いて居りました」

「その小僧は着物をきていましたかえ」

「暗いのでよく判りませんでしたが、黒っぽいような単衣ひとえを着ていたようです。それが雨あがりの路悪みちわるの上に着物のすそを引き摺って、跣足はだしびちょびちょ歩いているので、あとから行くお武家さんが声をかけて……お武家さんは少し酔っていらっしゃるようでした……おい、おい、小僧。なぜそんなだらしのないなりをしているんだ。着物の裳をぐいとまくって、威勢よく歩けと、うしろから声をかけましたが、小僧には聞えなかったのか、やはり黙ってびちょびちょ歩いているので、お武家はちっとれったくなったと見えまして、三足ばかりつかつかと寄って、おい小僧、こうして歩くんだと云いながら、着物の裳をまくってやりますと……。その小僧のお尻の両方に銀のような二つの眼玉がぴかりと……。わたくしはぎょっとして立ちすくみますと、お武家はすぐにその小僧の襟首を引っ掴んで堤下どてしたへほうり出してしまいました。そうして、ははあ、河童だと笑いながらすたすたと行っておしまいなさいました。わたくしは急に怖くなって、急いで家へ逃げて帰ってまいりました」

 半七は幸次郎と眼をみあわせた。

「そうして、その化け物はどっちの堤下へ投げられたんですえ」

「川寄りの方でございます」

「なるほど不思議なことがあるもんですね」

 勘定を払って、二人は怱々にそこを出た。


     四


「親分。そのお化けというのは河童ですね」と、幸次郎はささやいた。

「ちげえねえ。たしかに河童だ」

 粗忽そそっかしい武士はほんとうの河童だと思ったかも知れないが、それは河童の長吉に相違ないと半七は思った。両国の河童は真っ黒に塗った尻の右と左に金紙や銀紙を丸く貼りつけて、大きい眼玉と見せかけ、その尻を無造作に観客の方へむけて、四つン這いに這いまわるのを一つの芸当としている。酔っている武士と、臆病な亭主とは、ゆう闇の薄暗がりでその尻の眼玉におどろかされたのであろうが、半七から観れば、その尻の光ったというのが却ってほんとうの化け物でない証拠であった。

「なにしろ、早く堤下へ行ってみようぜ」

 亭主の教えてくれたのは此処らであろうと見当をつけて、二人は隅田川に沿うた堤下に降りると、岸とくいとのあいだに挟まって何か黒いものが横たわっているらしかった。幸次郎はすぐに引き摺りあげて見ると、果たしてそれは河童の長吉であった。かれは武士に手ひどく投げつけられたはずみに、樹の根か杭かで脾腹ひばらを打たれたのであろう、片足を水にひたして息が絶えていた。杭に挟まれたのがこっちに取って勿怪もっけの幸いで、さもなければ下流しもての方へ遠く押し流されてしまったかも知れなかった。

「ほんとうに死んだのじゃあるめえ。そこらまで負って行ってやれ」と、半七は云った。

 河童を負って幸次郎は堤へあがった。半七は先へ立って元の料理屋へ引っ返すと、うちじゅうの者はおどろいて騒いだ。怖いもの見たさで女中たちもそっと覗きに来た。

「おい、御亭主。気の毒だがこの河童の始末をして貰いてえ。泥だらけのこの姿じゃあ座敷へ入れることができねえ」

 半七の指図で、店の者は手桶に水を汲んで来た。河童の正体は大抵わかったので、亭主も急に強くなった。彼は家内のものと一緒になって河童の顔や手足を洗ってやった。尻の銀紙を発見したときに亭主も思わず噴き出した。こうした手当てには馴れているので、半七は河童を奥の小座敷へかつぎ込んで介抱すると、長吉はやがて息を吹き返した。半七は更に用意の薬を飲ませた。水を飲ませた。

「やい、河童。しっかりしろ。もう人間らしくなったか。ここは料理屋の座敷だが、てめえを調べるのは御用聞きの半七という者だ。楽屋番を相手に微塵棒みじんぼうをしゃぶっている時とは訳が違うから、そのつもりで返事をしろ。てめえは今朝、柳橋の芸妓屋へ這い込んで、親父を剃刀で殺したろう。覚えがねえとは云わせねえ。台所の柱にてめえの手のあとが確かに残っていた。さあ、ありていに申し立てろ。第一、てめえにうしろ暗いことがねえならば、なぜ番屋を逃げ出した。おまけに途中で笠を盗んで逃げやがったろう。さあ、証拠はみんな揃っているんだ。これでも恐れ入らねえか」

 相手は子供である。半七に鋭く睨みつけられて、河童はもろく恐れ入った。彼は叔父の長平にそそのかされて、お照の父の新兵衛を殺したに相違ないと素直に白状した。

「それにしても、なぜその新兵衛を殺す気になったんだ。てめえの叔父さんは新兵衛に遺恨があるのか」

「新兵衛という奴はおいらのお父っさんの仇なんだ。おいらあ其の仇討を立派にしたんだ」と、河童は鍋墨のまだ消え切らない顔に大きい眼をひらかせ、俄かに肩をそびやかした。

「仇討……。ほんとうか」と、半七は少し案外に思った。しかしだんだんその話を聴いてみると、これも一種の復讐には相違なかった。

 長吉の父は長左衛門といって、信州善光寺のざいに住んでいた。お照の父の新兵衛はむかしは新吉といって、やはり同じ村に生まれた者であった。長左衛門も新兵衛も土地では札付きの悪党であったらしい。今から十三年前に二人は共謀して隣り村の或る大尽だいじんの家へ押し込みにはいって、主人夫婦と娘とをむごたらしく斬り殺した。その詮議があまり厳重になったので、新兵衛は土地の御用聞きのところへ駈け込んで、その罪人は長左衛門であると密告した。かれも共犯者であるらしいことは御用聞きも薄々察したであろうが、密告の功によって彼は自由に土地を立ち退くことが黙許された。彼はすぐに何処へか逃げてしまった。長左衛門は召捕られて磔刑はりつけになった。

 新兵衛は友を売って自分の身を全うしたのである。その事情が長左衛門の遺族の耳にも洩れたが、御用聞きも黙許で彼を逃がしたのであるから、今更どうすることも出来なかった。長左衛門の女房は非常にそれを口惜しがって、死ぬきわまでも不実の友を呪っていた。長左衛門には長平という弟があって、これも兄とおなじ血をわけた悪党で、兄が仕置になった当時は隣国の越後の方にさまよっていたが、これを聞き伝えて故郷へ帰って来た。新兵衛の裏切りを聞いて彼もひどく憤ったが、自分もうしろ暗い身のうえで、表向きには立派な口を利けないので、恨みを呑んで再びどこへか立ち去ってしまった。

 それから十年ほど経って、長平は久し振りで故郷へ又帰ってくると、あねはもう死んでいた。甥の長吉は両国の河童に売られたという噂も聞いた。かさねがさねの一家の悲運を見て、長平もさすがに心さびしくなった。ここらでもう料簡を入れ替えて、兄や自分の罪ほろぼしに六十六部となって廻国修行の旅に出ようと思い立った。彼は仏の像を入れた重いおいを背負って、錫杖しゃくじょうをついて、信州の雪を踏みわけて中仙道へ出た。それから諸国をめぐりあるいて江戸へはいって来たのは、ことしの花ももう散りかかる三月のなかばであった。彼は下谷辺のある安宿をかりの宿として、江戸市中を毎日遍歴した。

 彼がふた月あまり江戸に足をとどめている間に、殆ど同時に敵と味方とにめぐりあったのであった。かたきはのお照の父で、新吉の名を今は新兵衛と呼びかえて、柳橋に芸妓屋を開いていることが判った。甥の長吉はやはり河童になって、両国の観世物小屋にさらされていることが判った。長平は甥にも逢った。偶然の機会から新兵衛にも出逢った。

 新兵衛はもう生まれ変ったような善人になっているので、むかしの友達の弟に逢ってしきりに過去の罪を謝した。自分たちが手にかけた大尽一家の菩提ぼだいを弔うばかりでなく、長左衛門が仕置に逢ったのは二月四日で、その命日に毎月かならず放し鰻の供養を怠らないと云った。彼はある寺から長左衛門の戒名を貰って来て、仏壇にまつってあることも話した。長平もむかしとは人間が違っているので、悔い改めているこの善人を執念ぶかく責めることも出来なくなった。かれは新兵衛の罪をゆるすと云った。新兵衛はよろこんで、御報捨のしるしだと云って彼に二十両の金を贈った。

 その金が二人の禍いであった。久し振りで二十両の大金を受け取った六十六部は、その晩すぐに服装みなりをこしらえて吉原へ遊びに行った。それが口火くちびになって彼の殊勝らしい性根はだんだんに溶けてしまった。六十六部は再び昔の長平に立ちかえって、新兵衛のところへ度々無心に行った。しまいには金の無心ばかりでなく、彼は新兵衛の貰いのお照の美しいのを見て、飛んでもない無心までも云い出すようになった。相手の飽くことのない誅求ちゅうきゅうには、新兵衛もさすがにもう堪えられなくなって、終には手きびしくそれを拒絶すると、長平はいよいよ羊の皮裘かわごろもをぬいで狼の本性をあらわした。彼は甥の河童をそそのかして親のかたきを討たせたのであった。


「これは河童の長吉の白状と、長平の白状とをつきまぜたお話で、長吉は叔父の手さきに使われて、ただ一途に親父のかたき討の料簡でやった仕事なんです」と、半七老人は説明した。「つまり新兵衛の方はすっかり善人になり切っていたんですが、長平の魂はまだほんとうの善人になり切らないもんですから、すぐにあと戻りをして、とうとうこんな事件を出来しゅったいさせてしまったんですよ」

「長平は勿論つかまったんですね」と、わたしは訊いた。

「河童の白状で大抵見当が付きましたから、それからお照の家の近所に毎晩張り込んでいますと、新兵衛の初七日しょなのかが済んだ明くる晩に、案のじょうその長平が短刀を呑んで押し込んで来て、どうする積りかお浪を嚇かしているところを、すぐに踏み込んで召捕りました。長平は無論に死罪でしたが、長吉の方はまだ子供でもあり、どこまでも親のかたきを討つつもりでやった仕事ですから、かみにも御憐愍ごれんびんの沙汰があって、遠島えんとうということで落着らくちゃくしました。これが作り話だと、娘や芸妓や其の情夫の定次郎の方にもいろいろの疑いがかかって、面白い探偵小説が出来上がるんでしょうが、実録ではそう巧く行きませんよ。ははははは。ただちっとばかりわたくしの味噌をあげれば、はじめから芸妓や情夫の色っぽい方には眼もくれないで、なんでも善人の親父の方に因縁があるらしいと、その方ばかり睨み詰めていたことですよ。腕に入墨がはいっているくらいですから、新兵衛はその前にも悪いことをたくさんやっていたんでしょうが、折角善人に生まれ変ったものを可哀そうなことをしました。河童をほうり出した武士ですか、それはどこの人だか判りません。その人は向島で河童を退治したなどと一生の手柄話にしていたかも知れませんよ。まったくその頃の向島は今とはまるで違っていて、いつかもお話し申した通り、狸も出れば狐も出る、河獺かわうそも出る、河童だって出そうな所でしたからね」

「蛇も出たんでしょう」

「蛇……。いや、謎をかけないでもいい。ついでにみんな話しますよ。しかしこの蛇の方の話は少しあいまいなところがあるんですね。まあ、そのつもりで聴いてください。場所は向島の寮で、当世のことばでいえば、その秘密のとびらをわたくしが開いたというわけです」

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社

   1986(昭和61)年320日初版1刷発行

入力:tatsuki

校正:山本奈津恵

1999年817日公開

2004年229日修正

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