好色 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 好色 平中といふ色ごのみにて、宮仕人はさらなり、人の女など忍びて見 ぬはなかりけり。 宇治拾遺物語 何でかこの人に不会では止まむと思ひ迷ける程に、平中病付にけり。 然て悩ける程に死にけり。 今昔物語 色を好むといふは、かやうのふるまひなり。 十訓抄      一 画姿  泰平の時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子の下には、下ぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌が、自然と血の色を透かせたのである。髭は品の好い鼻の下に、──と云ふよりも薄い唇の左右に、丁度薄墨を刷いたやうに、僅ばかりしか残つてゐない。しかしつややかな鬢の上には、霞も立たない空の色さへ、ほんのりと青みを映してゐる。耳はその鬢のはづれに、ちよいと上つた耳たぶだけ見える。それが蛤の貝のやうな、暖かい色をしてゐるのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い中に、絶えず微笑が漂つてゐる。殆その瞳の底には、何時でも咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐるのかと思ふ位、晴れ晴れした微笑が漂つてゐる。が、多少注意をすれば、其処には必しも幸福のみが住まつてゐない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、惝怳を持つた微笑である。同時に又手近い一切に、軽蔑を抱いた微笑である。頸は顔に比べると、寧ろ華奢すぎると評しても好い。その頸には白い汗衫の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の水干の襟と、細い一線を画いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した几帳であらうか? それとものどかな山の裾に、女松を描いた障子であらうか? 兎に角曇つた銀のやうな、薄白い明みが拡がつてゐる。……  これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天が下の色好み」平の貞文の似顔である。平の好風に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中と渾名を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。      二 桜  平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従の事を考へてゐる。 「始めて侍従を見かけたのは、──」  平中はかう思ひ続けた。 「始めて侍従を見かけたのは、──あれは何時の事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣でに出かけると云つてゐたのだから、初午の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、──と云ふのが抑々の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄を重ねた上へ、紫の袿をひつかけてゐる、──その容子が何とも云へなかつた。おまけに輫へはひる所だから、片手に袴をつかんだ儘、心もち腰をかがめ加減にした、──その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣の御屋形には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚れたと云つても、──」  平中はちよいと真顔になつた。 「だが本当に惚れてゐるかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、──一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで昏んでしまひはしない。何時かあの範実のやつと、侍従の噂をしてゐたら、憾むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実などと云ふ男は、篳篥こそちつとは吹けるだらうが、好色の話となつた日には、──まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、──所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処か古い画巻じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際立つた、震ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」  平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は簇つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。 「それにしてもこの間から、いくら文を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、──義輔が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば──尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば──ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、──ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車に化ける。高陽川の狐は女の童に化ける。桃薗の狐は大池に化け──狐の事なぞはどうでも好い。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」  平中は空を見上げた儘、そつと欠伸を噛殺した。花に埋まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。 「兎に角あの女には根負けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、──あの摂津でも小中将でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、──」 「殿様。」 「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、──」 「殿様。」  平中はやや慌てたやうに、烏帽子の頭を後へ向けた。後には何時か童が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の文をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。 「消息か?」 「はい、侍従様から、──」  童はかう云ひ終ると、匇々主人の前を下つた。 「侍従様から? 本当かしら?」  平中は殆恐る恐る、青い薄葉の文を開いた。 「範実や義輔の悪戯ぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人だから、──おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、──この文は、これは、何と云ふ文だい?」  平中は文を抛り出した。文には「唯見つとばかりの、二文字だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、──しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。 「ああ、ああ、天が下の色好みとか云はれるおれも、この位莫迦にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面の憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」  平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……      三 雨夜  それから二月程たつた後である。或長雨の続いた夜、平中は一人本院の侍従の局へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、凄まじい響を立ててゐる。路は泥濘と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、──かう考へた平中は、局の口へ窺ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。  すると十五六の女の童が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉をつけた、さすがに睡むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。  一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。 「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」  平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸の側に腰を下した。 「やつぱりおれは智慧者だな。」  女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。 「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所を知らないから、義輔や範実は何と云つても、──待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が旨すぎるやうだぞ。──」  平中はそろそろ不安になつた。 「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、──又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、──と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」  平中は衣紋を直しながら、怯づ怯づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の外に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺の屋根をどよませてゐる。 「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、──いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、──おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」  平中は耳を側立てた。成程ふと気がついて見れば、不相変小止みない雨声と一しよに、御前へ詰めてゐた女房たちが局々に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。 「此処が辛抱のし所だな。もう半時もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用も見透かしてしまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、──ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜、雨蛙、雨革、雨宿り、……」  こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然弥陀の来迎を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸の向うに、誰か懸け金を外した音が、はつきり耳に響いたのである。  平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと閾の上を辷つた。その向うには不思議な程、空焚の匂が立ち罩めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、この艶いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、衣桁や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。 「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」  かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい打衣の袖にさはる。その衣の下の乳房にさはる。円々した頬や顋にさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。──平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。  これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあつたやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油の火影に見た何かの画巻にあつたのかも知れない。 「忝ない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう向後は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」  平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に囁かうとした。が、いくら気は急いても、舌は上顋に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。──と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。  一瞬間、──その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の大臣も、女の童も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの際どい刹那に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。 「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」  平中は唯頷いた。侍従は二人の褥の上に、匂の好い暖みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。 「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」  平中はちやんと眼を開いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと懸金を下す音がした。 「雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、──どうしたのだらう? 懸け金はもう下りたと思つたが、──」  平中は頭を擡げて見た。が、あたりにはさつきの通り、空焚きの匂が漂つた、床しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行つたものか、衣ずれの音も聞えて来ない。 「まさか、──いや、事によると、──」  平中は褥を這ひ出すと、又元のやうに手探りをしながら、向うの障子へ辿りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局々が大雨の中に、いづれもひつそりと寝静まつてゐる。 「平中、平中、お前はもう天が下の色好みでも何でもない。──」  平中は障子に寄りかかつた儘、失心したやうに呟いた。 「お前の容色も劣へた。お前の才も元のやうぢやない。お前は範実や義輔よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」      四 好色問答  これは平中の二人の友達──義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節である。 義輔 「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」 範実 「さう云ふ噂だね。」 義輔 「あいつには好い見せしめだよ。あいつは女御更衣でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは懲らしてやる方が好い。」 範実 「へええ、君も孔子の御弟子か?」 義輔 「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言次手につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然鼓を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね?」 範実 「さうばかりも行かないからね。成程平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか?」 義輔 「ぢや又外に誰が負ふのだね?」 範実 「それは女に負はせるのさ。」 義輔 「女に負はせるのは可哀さうだよ。」 範実 「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか?」 義輔 「しかし平中が口説いたのだからな。」 範実 「男は戦場に太刀打ちをするが、女は寝首しか掻かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」 義輔 「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう? 我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」 範実 「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何なる因果か知らないが、互に傷け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」 義輔 「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌も竜になるだらう。」 範実 「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。」 義輔 「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか? たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経を聞けば──」 範実 「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」 義輔 「ぢや平中とは違ふぢやないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」 範実 「それは我々にはわからない筈だ。仮名も碌に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか? 信心気のちつともないものには、空海上人の誦経よりも、傀儡の歌の方が面白いかも知れない。天才の功徳がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」 義輔 「それは君の云ふ通りだがね、平中尊者の功徳なぞは、──」 範実 「平中の場合も同じぢやないか? ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、──」 義輔 「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、案山子も鎧武者になつてしまふ。」 範実 「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」 義輔 「嫉妬深い? へええ、これは意外だね。」 範実 「君は平中を責める程、淫奔な女を責めないぢやないか? たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は謀叛人よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」 義輔 「ぢや君も平中になりたいかね?」 範実 「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、何時も巫山の神女のやうな、人倫を絶した美人の姿が、髣髴と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ蜃気楼は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と憂き身をやつしに行くのだ。しかも末法の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」      五 まりも美しとなげく男  平中は独り寂しさうに、本院の侍従の局に近い、人気のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、庇の外の空には、簇々と緑を抽いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。 「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。──」  平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。 「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝らしたかわからない。が、加茂の御社へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。清水の御寺の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと焦れ死に、死んでしまふのに相違ない。──」  平中は長い息をついた。 「だがその姿を忘れるには、──たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」  平中はかう考へながら、ふと懶い視線を挙げた。 「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の女の童ではないか?」  あの利口さうな女の童は、撫子重ねの薄物の袙に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か筐を隠してゐるのは、きつと侍従のした糞を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中には、或大胆な決心が、稲妻のやうに閃き渡つた。  平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。 「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」  平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵である。 「この中に侍従の糞がある。同時におれの命もある。……」  平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥を描いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。…… 「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、──いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」  平中は窶れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時沈吟した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。 「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞を見さへすれば、必お前は勝ち誇れるのだ。……」  平中は殆気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛れもない、飛び切りの沈の匂である。 「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、──」  平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子を煮返した、上澄みの汁に相違ない。 「するとこいつも香木かな?」  平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。 「侍従! お前は平中を殺したぞ!」  平中はかう呻きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金の円光にとりまかれた儘、㜊然と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。…… (大正十年九月) 底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房    1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行 入力:j.utiyama 校正:かとうかおり 1999年1月19日公開 2004年3月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。