奇怪な再会 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 奇怪な再会         一  お蓮が本所の横網に囲われたのは、明治二十八年の初冬だった。  妾宅は御蔵橋の川に臨んだ、極く手狭な平家だった。ただ庭先から川向うを見ると、今は両国停車場になっている御竹倉一帯の藪や林が、時雨勝な空を遮っていたから、比較的町中らしくない、閑静な眺めには乏しくなかった。が、それだけにまた旦那が来ない夜なぞは寂し過ぎる事も度々あった。 「婆や、あれは何の声だろう?」 「あれでございますか? あれは五位鷺でございますよ。」  お蓮は眼の悪い傭い婆さんとランプの火を守りながら、気味悪そうにこんな会話を交換する事もないではなかった。  旦那の牧野は三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸軍一等主計の軍服を着た、逞しい姿を運んで来た。勿論日が暮れてから、厩橋向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男女二人の子持ちでもあった。  この頃丸髷に結ったお蓮は、ほとんど宵毎に長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大抵からすみや海鼠腸が、小綺麗な皿小鉢を並べていた。  そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだった。彼女はあの賑やかな家や朋輩たちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心に沁みるような気がした。それからまた以前よりも、ますます肥って来た牧野の体が、不意に妙な憎悪の念を燃え立たせる事も時々あった。  牧野は始終愉快そうに、ちびちび杯を嘗めていた。そうして何か冗談を云っては、お蓮の顔を覗きこむと、突然大声に笑い出すのが、この男の酒癖の一つだった。 「いかがですな。お蓮の方、東京も満更じゃありますまい。」  お蓮は牧野にこう云われても、大抵は微笑を洩らしたまま、酒の燗などに気をつけていた。  役所の勤めを抱えていた牧野は、滅多に泊って行かなかった。枕もとに置いた時計の針が、十二時近くなったのを見ると、彼はすぐにメリヤスの襯衣へ、太い腕を通し始めた。お蓮は自堕落な立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、懶い流し眼を送っていた。 「おい、羽織をとってくれ。」  牧野は夜中のランプの光に、脂の浮いた顔を照させながら、もどかしそうな声を出す事もあった。  お蓮は彼を送り出すと、ほとんど毎夜の事ながら、気疲れを感ぜずにはいられなかった。と同時にまた独りになった事が、多少は寂しくも思われるのだった。  雨が降っても、風が吹いても、川一つ隔てた藪や林は、心細い響を立て易かった。お蓮は酒臭い夜着の襟に、冷たい頬を埋めながら、じっとその響に聞き入っていた。こうしている内に彼女の眼には、いつか涙が一ぱいに漂って来る事があった。しかしふだんは重苦しい眠が、──それ自身悪夢のような眠が、間もなく彼女の心の上へ、昏々と下って来るのだった。         二 「どうしたんですよ? その傷は。」  ある静かな雨降りの夜、お蓮は牧野の酌をしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃痕の中に、大きな蚯蚓脹が出来ていた。 「これか? これは嚊に引っ掻かれたのさ。」  牧野は冗談かと思うほど、顔色も声もけろりとしていた。 「まあ、嫌な御新造だ。どうしてまたそんな事をしたんです?」 「どうしてもこうしてもあるものか。御定りの角をはやしたのさ。おれでさえこのくらいだから、お前なぞが遇って見ろ。たちまち喉笛へ噛みつかれるぜ。まず早い話が満洲犬さ。」  お蓮はくすくす笑い出した。 「笑い事じゃないぜ。ここにいる事が知れた日にゃ、明日にも押しかけて来ないものじゃない。」  牧野の言葉には思いのほか、真面目そうな調子も交っていた。 「そうしたら、その時の事ですわ。」 「へええ、ひどくまた度胸が好いな。」 「度胸が好い訳じゃないんです。私の国の人間は、──」  お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭火へ眼を落した。 「私の国の人間は、みんな諦めが好いんです。」 「じゃお前は焼かないと云う訳か?」  牧野の眼にはちょいとの間、狡猾そうな表情が浮んだ。 「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中おれなんぞは、──」  そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲焼を運んで来た。  その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。  雨は彼等が床へはいってから、霙の音に変り出した。お蓮は牧野が寝入った後、何故かいつまでも眠られなかった。彼女の冴えた眼の底には、見た事のない牧野の妻が、いろいろな姿を浮べたりした。が、彼女は同情は勿論、憎悪も嫉妬も感じなかった。ただその想像に伴うのは、多少の好奇心ばかりだった。どう云う夫婦喧嘩をするのかしら。──お蓮は戸の外の藪や林が、霙にざわめくのを気にしながら、真面目にそんな事も考えて見た。  それでも二時を聞いてしまうと、ようやく眠気がきざして来た。──お蓮はいつか大勢の旅客と、薄暗い船室に乗り合っている。円い窓から外を見ると、黒い波の重なった向うに、月だか太陽だか判然しない、妙に赤光のする球があった。乗合いの連中はどうした訳か、皆影の中に坐ったまま、一人も口を開くものがない。お蓮はだんだんこの沈黙が、恐しいような気がし出した。その内に誰かが彼女の後へ、歩み寄ったらしいけはいがする。彼女は思わず振り向いた。すると後には別れた男が、悲しそうな微笑を浮べながら、じっと彼女を見下している。……… 「金さん。」  お蓮は彼女自身の声に、明け方の眠から覚まされた。牧野はやはり彼女の隣に、静かな呼吸を続けていたが、こちらへ背中を向けた彼が、実際寝入っていたのかどうか、それはお蓮にはわからなかった。         三  お蓮に男のあった事は、牧野も気がついてはいたらしかった。が、彼はそう云う事には、頓着する気色も見せなかった。また実際男の方でも、牧野が彼女にのぼせ出すと同時に、ぱったり遠のいてしまったから、彼が嫉妬を感じなかったのも、自然と云えば自然だった。  しかしお蓮の頭の中には、始終男の事があった。それは恋しいと云うよりも、もっと残酷な感情だった。何故男が彼女の所へ、突然足踏みもしなくなったか、──その訳が彼女には呑みこめなかった。勿論お蓮は何度となく、変り易い世間の男心に、一切の原因を見出そうとした。が、男の来なくなった前後の事情を考えると、あながちそうばかりも、思われなかった。と云って何か男の方に、やむを得ない事情が起ったとしても、それも知らさずに別れるには、彼等二人の間柄は、余りに深い馴染みだった。では男の身の上に、不慮の大変でも襲って来たのか、──お蓮はこう想像するのが、恐しくもあれば望ましくもあった。………  男の夢を見た二三日後、お蓮は銭湯に行った帰りに、ふと「身上判断、玄象道人」と云う旗が、ある格子戸造りの家に出してあるのが眼に止まった。その旗は算木を染め出す代りに、赤い穴銭の形を描いた、余り見慣れない代物だった。が、お蓮はそこを通りかかると、急にこの玄象道人に、男が昨今どうしているか、占って貰おうと云う気になった。  案内に応じて通されたのは、日当りの好い座敷だった。その上主人が風流なのか、支那の書棚だの蘭の鉢だの、煎茶家めいた装飾があるのも、居心の好い空気をつくっていた。  玄象道人は頭を剃った、恰幅の好い老人だった。が、金歯を嵌めていたり、巻煙草をすぱすぱやる所は、一向道人らしくもない、下品な風采を具えていた。お蓮はこの老人の前に、彼女には去年行方知れずになった親戚のものが一人ある、その行方を占って頂きたいと云った。  すると老人は座敷の隅から、早速二人のまん中へ、紫檀の小机を持ち出した。そうしてその机の上へ、恭しそうに青磁の香炉や金襴の袋を並べ立てた。 「その御親戚は御幾つですな?」  お蓮は男の年を答えた。 「ははあ、まだ御若いな、御若い内はとかく間違いが起りたがる。手前のような老爺になっては、──」  玄象道人はじろりとお蓮を見ると、二三度下びた笑い声を出した。 「御生れ年も御存知かな? いや、よろしい、卯の一白になります。」  老人は金襴の袋から、穴銭を三枚取り出した。穴銭は皆一枚ずつ、薄赤い絹に包んであった。 「私の占いは擲銭卜と云います。擲銭卜は昔漢の京房が、始めて筮に代えて行ったとある。御承知でもあろうが、筮と云う物は、一爻に三変の次第があり、一卦に十八変の法があるから、容易に吉凶を判じ難い。そこはこの擲銭卜の長所でな、……」  そう云う内に香炉からは、道人の燻べた香の煙が、明い座敷の中に上り始めた。         四  道人は薄赤い絹を解いて、香炉の煙に一枚ずつ、中の穴銭を燻じた後、今度は床に懸けた軸の前へ、丁寧に円い頭を下げた。軸は狩野派が描いたらしい、伏羲文王周公孔子の四大聖人の画像だった。 「惟皇たる上帝、宇宙の神聖、この宝香を聞いて、願くは降臨を賜え。──猶予未だ決せず、疑う所は神霊に質す。請う、皇愍を垂れて、速に吉凶を示し給え。」  そんな祭文が終ってから、道人は紫檀の小机の上へ、ぱらりと三枚の穴銭を撒いた。穴銭は一枚は文字が出たが、跡の二枚は波の方だった。道人はすぐに筆を執って、巻紙にその順序を写した。  銭を擲げては陰陽を定める、──それがちょうど六度続いた。お蓮はその穴銭の順序へ、心配そうな眼を注いでいた。 「さて──と。」  擲銭が終った時、老人は巻紙を眺めたまま、しばらくはただ考えていた。 「これは雷水解と云う卦でな、諸事思うようにはならぬとあります。──」  お蓮は怯ず怯ず三枚の銭から、老人の顔へ視線を移した。 「まずその御親戚とかの若い方にも、二度と御遇いにはなれそうもないな。」  玄象道人はこう云いながら、また穴銭を一枚ずつ、薄赤い絹に包み始めた。 「では生きては居りませんのでしょうか?」  お蓮は声が震えるのを感じた。「やはりそうか」と云う気もちが、「そんな筈はない」と云う気もちと一しょに、思わず声へ出たのだった。 「生きていられるか、死んでいられるかそれはちと判じ悪いが、──とにかく御遇いにはなれぬものと御思いなさい。」 「どうしても遇えないでございましょうか?」  お蓮に駄目を押された道人は、金襴の袋の口をしめると、脂ぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。 「滄桑の変と云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい。──とまず、卦にはな、卦にはちゃんと出ています。」  お蓮はここへ来た時よりも、一層心細い気になりながら、高い見料を払った後、匇々家へ帰って来た。  その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬杖をついたなり、鉄瓶の鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。いや、むしろ積極的に、彼女が密かに抱いていた希望、──たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町も、当時は物騒な最中だった。男はお蓮のいる家へ、不相変通って来る途中、何か間違いに遇ったのかも知れない。さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、──お蓮は白粉を刷いた片頬に、炭火の火照りを感じながら、いつか火箸を弄んでいる彼女自身を見出した。 「金、金、金、──」  灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりした。         五 「金、金、金、」  そうお蓮が書き続けていると、台所にいた雇婆さんが、突然かすかな叫び声を洩らした。この家では台所と云っても、障子一重開けさえすれば、すぐにそこが板の間だった。 「何? 婆や。」 「まあ御新さん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと思ったら、──」  お蓮は台所へ出て行って見た。  竈が幅をとった板の間には、障子に映るランプの光が、物静かな薄暗をつくっていた。婆さんはその薄暗の中に、半天の腰を屈めながら、ちょうど今何か白い獣を抱き上げている所だった。 「猫かい?」 「いえ、犬でございますよ。」  両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水々しい眼を動かしては、頻に鼻を鳴らしている。 「これは今朝ほど五味溜めの所に、啼いていた犬でございますよ。──どうしてはいって参りましたかしら。」 「お前はちっとも知らなかったの?」 「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが──やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。」  婆さんは水口の腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。 「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、──」 「御止しなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」  お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家にいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。 「可哀そうに、──飼ってやろうかしら。」  婆さんは妙な瞬きをした。 「ねえ、婆や。飼ってやろうよ。お前に面倒はかけないから、──」  お蓮は犬を板の間へ下すと、無邪気な笑顔を見せながら、もう肴でも探してやる気か、台所の戸棚に手をかけていた。  その翌日から妾宅には、赤い頸環に飾られた犬が、畳の上にいるようになった。  綺麗好きな婆さんは、勿論この変化を悦ばなかった。殊に庭へ下りた犬が、泥足のまま上って来なぞすると、一日腹を立てている事もあった。が、ほかに仕事のないお蓮は、子供のように犬を可愛がった。食事の時にも膳の側には、必ず犬が控えていた。夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。 「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造の寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、──」  婆さんがかれこれ一年の後、私の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。         六  この小犬に悩まされたものは、雇婆さん一人ではなかった。牧野も犬が畳の上に、寝そべっているのを見た時には、不快そうに太い眉をひそめた。 「何だい、こいつは?──畜生。あっちへ行け。」  陸軍主計の軍服を着た牧野は、邪慳に犬を足蹴にした。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立てながら、無性に吠え立て始めたのだった。 「お前の犬好きにも呆れるぜ。」  晩酌の膳についてからも、牧野はまだ忌々しそうに、じろじろ犬を眺めていた。 「前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃないか?」 「ええ、あれもやっぱり白犬でしたわ。」 「そう云えばお前があの犬と、何でも別れないと云い出したのにゃ、随分手こずらされたものだったけ。」  お蓮は膝の小犬を撫でながら、仕方なさそうな微笑を洩らした。汽船や汽車の旅を続けるのに、犬を連れて行く事が面倒なのは、彼女にもよくわかっていた。が、男とも別れた今、その白犬を後に残して、見ず知らずの他国へ行くのは、どう考えて見ても寂しかった。だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどない啜り泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。……… 「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦らしいな。第一人相が、──人相じゃない。犬相だが、──犬相が甚だ平凡だよ。」  もう酔のまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身なぞを犬に投げてやった。 「あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。」 「何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。」 「この犬は鼻が黒いでしょう。あの犬は鼻が赭うござんしたよ。」  お蓮は牧野の酌をしながら、前に飼っていた犬の鼻が、はっきりと眼の前に見えるような気がした。それは始終涎に濡れた、ちょうど子持ちの乳房のように、鳶色の斑がある鼻づらだった。 「へええ、して見ると鼻の赭い方が、犬では美人の相なのかも知れない。」 「美男ですよ、あの犬は。これは黒いから、醜男ですわね。」 「男かい、二匹とも。ここの家へ来る男は、おればかりかと思ったが、──こりゃちと怪しからんな。」  牧野はお蓮の手を突つきながら、彼一人上機嫌に笑い崩れた。  しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等が床へはいると、古襖一重隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはその襖へ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑を浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。 「おい、そこを開けてやれよ。」  が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た。そうして白い影のように、そこへ腹を落着けたなり、じっと彼等を眺め出した。  お蓮は何だかその眼つきが、人のような気がしてならなかった。         七  それから二三日経ったある夜、お蓮は本宅を抜けて来た牧野と、近所の寄席へ出かけて行った。  手品、剣舞、幻燈、大神楽──そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大入りだった。二人はしばらく待たされた後、やっと高座には遠い所へ、窮屈な腰を下す事が出来た。彼等がそこへ坐った時、あたりの客は云い合わせたように、丸髷に結ったお蓮の姿へ、物珍しそうな視線を送った。彼女にはそれが晴がましくもあれば、同時にまた何故か寂しくもあった。  高座には明るい吊ランプの下に、白い鉢巻をした男が、長い抜き身を振りまわしていた。そうして楽屋からは朗々と、「踏み破る千山万岳の煙」とか云う、詩をうたう声が起っていた。お蓮にはその剣舞は勿論、詩吟も退屈なばかりだった。が、牧野は巻煙草へ火をつけながら、面白そうにそれを眺めていた。  剣舞の次は幻燈だった。高座に下した幕の上には、日清戦争の光景が、いろいろ映ったり消えたりした。大きな水柱を揚げながら、「定遠」の沈没する所もあった。敵の赤児を抱いた樋口大尉が、突撃を指揮する所もあった。大勢の客はその画の中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝采を送った。中には「帝国万歳」と、頓狂な声を出すものもあった。しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。 「戦争もあの通りだと、楽なもんだが、──」  彼は牛荘の激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。が、彼女は不相変、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかに頷いたばかりだった。それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。しかしそのほかにも画面の景色は、──雪の積った城楼の屋根だの、枯柳に繋いだ兎馬だの、辮髪を垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。  寄席がはねたのは十時だった。二人は肩を並べながら、しもうた家ばかり続いている、人気のない町を歩いて来た。町の上には半輪の月が、霜の下りた家々の屋根へ、寒い光を流していた。牧野はその光の中へ、時々巻煙草の煙を吹いては、さっきの剣舞でも頭にあるのか、 「鞭声粛々夜河を渡る」なぞと、古臭い詩の句を微吟したりした。  所が横町を一つ曲ると、突然お蓮は慴えたように、牧野の外套の袖を引いた。 「びっくりさせるぜ。何だ?」  彼はまだ足を止めずに、お蓮の方を振り返った。 「誰か呼んでいるようですもの。」  お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。 「呼んでいる?」  牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。 「空耳だよ。何が呼んでなんぞいるものか。」 「気のせいですかしら。」 「あんな幻燈を見たからじゃないか?」         八  寄席へ行った翌朝だった。お蓮は房楊枝を啣えながら、顔を洗いに縁側へ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥に湯を汲んだのが、鉢前の前に置いてあった。  冬枯の庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。  それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿りながら、「とうとう私の念力が届いた。東京はもう見渡す限り、人気のない森に変っている。きっと今に金さんにも、遇う事が出来るのに違いない。」──そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」──彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負って見ても、何故か一向走れなかった。…………  お蓮は顔を洗ってしまうと、手水を使うために肌を脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中に触れた。 「しっ!」  彼女は格別驚きもせず、艶いた眼を後へ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、頻に黒い鼻を舐め廻していた。         九  牧野はその後二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮と云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格に通っている田宮は、お蓮が牧野に囲われるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。 「妙なもんじゃないか? こうやって丸髷に結っていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」  田宮は明いランプの光に、薄痘痕のある顔を火照らせながら、向い合った牧野へ盃をさした。 「ねえ、牧野さん。これが島田に結っていたとか、赤熊に結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、──」 「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」  牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。 「大丈夫。聞えた所がわかるもんか。──ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」  お蓮は眼を外らせたまま、膝の上の小犬にからかっていた。 「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事だと、無事に神戸へ上がるまでにゃ、随分これでも気を揉みましたぜ。」 「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、──」 「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」  田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面をつくって見せた。 「だがお蓮の今日あるを得たのは、実際君のおかげだよ。」  牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口をさしつけた。 「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海へかかったとなると、恐ろしいしけを食ってね。──ねえ、お蓮さん。」 「ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。」  お蓮は田宮の酌をしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりは反って益かも知れない。──そんな事もふと考えられた。 「それがまあこうしていられるんだから、御互様に仕合せでさあ。──だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?」 「返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?」 「ないがさ、──ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?」 「着物どころか櫛簪までも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向御取上げにならなかったんだから、──」  牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。 「そいつはなおさら好都合だ。──どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」 「そうして君も序ながら、昔馴染を一人思い出すか。」 「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻だと、思い出し甲斐もあると云うものだが、──」  田宮は薄痘痕のある顔に、擽ったそうな笑いを浮べながら、すり芋を箸に搦んでいた。……  その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、──何でもそう云う話だった。 「そうすりゃここにいなくとも好いから、どこか手広い家へ引っ越そうじゃないか?」  牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。 「この家だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」  お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙しかった。 「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」 「だって御新造がいるじゃありませんか?」 「嚊かい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」  牧野の口調や顔色では、この意外な消息も、満更冗談とは思われなかった。 「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」 「かまうものか。己に出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」  牧野は険しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。         十 「あの白犬が病みついたのは、──そうそう、田宮の旦那が御見えになった、ちょうどその明くる日ですよ。」  お蓮に使われていた婆さんは、私の友人のKと云う医者に、こう当時の容子を話した。 「大方食中りか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造は何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹を口へ啣ませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、嫌じゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。 「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独り語をおっしゃるんですが、夜更けにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口を利いていそうな気がして、あんまり好い気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっ風のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、──その御使いも近所の占い者の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、──御使いに行って帰って来ると、障子のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。 「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々ほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が粗匇をするたびに、掃除をしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払いをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台の前へ仆れたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」  ちょうど薬研堀の市の立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物の流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別れをしたが、今度の犬には死別れをした。所詮犬は飼えないのが、持って生まれた因縁かも知れない。──そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。  お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸を眺めた。それから懶い眼を挙げて、寒い鏡の面を眺めた。鏡には畳に仆れた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔を掩った。そうしてかすかな叫び声を洩らした。  鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、赭い色に変っていたのだった。         十一  妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱が飾られたりしても、お蓮は独り長火鉢の前に、屈托らしい頬杖をついては、障子の日影が薄くなるのに、懶い眼ばかり注いでいた。  暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的な憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、未にわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野の妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。──  ある時は床へはいった彼女が、やっと眠に就こうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。──ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐに枕から、そっと頭を浮かせて見た。が、そこには掻巻の格子模様が、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………  またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女の後を、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しい鬢を掻き上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄嗟に通り過ぎた。お蓮は櫛を持ったまま、とうとう後を振り返った。しかし明い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、──そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後白い物は、三度彼女の後を通った。……  またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来に、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音に交りながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々と、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……  またある時はふと眼がさめると、彼女と一つ床の中に、いない筈の男が眠っていた。迫った額、長い睫毛、──すべてが夜半のランプの光に、寸分も以前と変らなかった。左の眼尻に黒子があったが、──そんな事さえ検べて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心を躍らせながら、そのまま体も消え入るように、男の頸へすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何か呟いた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那に、実際酒臭い牧野の頸へ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。  しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心を擾すような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。         十二  牧野の妻が訪れたのは、生憎例の雇婆さんが、使いに行っている留守だった。案内を請う声に驚かされたお蓮は、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸が、軒さきの御飾りを透せている、──そこにひどく顔色の悪い、眼鏡をかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向き勝に佇んでいた。 「どなた様でございますか?」  お蓮はそう尋ねながら、相手の正体を直覚していた。そうしてこの根の抜けた丸髷に、小紋の羽織の袖を合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。 「私は──」  女はちょいとためらった後、やはり俯向き勝に話し続けた。 「私は牧野の家内でございます。滝と云うものでございます。」  今度はお蓮が口ごもった。 「さようでございますか。私は──」 「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」  女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほど罩っていなかった。それだけまたお蓮は何と云って好いか、挨拶のしように困るのだった。 「つきましては今日は御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、──」 「何でございますか、私に出来る事でございましたら──」  まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目勝ちな牧野の妻が、静に述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。 「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、──実は近々に東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」  相手はゆっくりこんな事を云った。その容子はまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気にとられたなり、しばらくはただ外光に背いた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。 「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」  お蓮は舌が剛ばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔を擡げた相手は、細々と冷たい眼を開きながら、眼鏡越しに彼女を見つめている、──それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢のような、気味の悪い心地を起させるのだった。 「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀そうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」  牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故か黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっと金さんにも遇える時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。──彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出したのだった。  が、何分か過ぎ去った後、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。         十三  七草の夜、牧野が妾宅へやって来ると、お蓮は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻らせていた。 「御新造はどうかしているんですよ。」  いつか興奮し出したお蓮は、苛立たしい眉をひそめながら、剛情に猶も云い続けた。 「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」 「まあ、なったらなった時の事さ。」  牧野は葉巻の煙の中から、薄眼に彼女を眺めていた。 「嚊の事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるが好い。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」 「私はどうなっても好いんですけれど、──」 「好くはないよ。」  お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口を噤んでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、 「あなた、後生ですから、御新造を捨てないで下さい。」と云った。  牧野は呆気にとられたのか、何とも答を返さなかった。 「後生ですから、ねえ、あなた──」  お蓮は涙を隠すように、黒繻子の襟へ顎を埋めた。 「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、──」 「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」  葉巻を吸うのも忘れた牧野は、子供を欺すようにこう云った。 「一体この家が陰気だからね、──そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこか好い所があったら、早速引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、──何、もう十日も経ちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、──」  お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色を改めなかった。…… 「御新造の事では旦那様も、随分御心配なすったもんですが、──」  Kにいろいろ尋かれた時、婆さんはまた当時の容子をこう話したとか云う事だった。 「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦めになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網へ御出でなすった時でも、私が御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、──それを眼鏡越しに睨みながら、あちらの御新造はまた上ろうともなさらず、悪丁寧な嫌味のありったけを並べて御出でなさる始末なんです。 「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、好い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。──と云うのは私も四五年前には、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、反って先様の御腹立ちを煽る事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態を御つきになった揚句、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関の襖の蔭から、顔を出さずにしまいました。 「ところがこちらの御新造は、私の顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。私なんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人だろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」         十四  しかしお蓮の憂鬱は、二月にはいって間もない頃、やはり本所の松井町にある、手広い二階家へ住むようになっても、不相変晴れそうな気色はなかった。彼女は婆さんとも口を利かず、大抵は茶の間にたった一人、鉄瓶のたぎりを聞き暮していた。  するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田宮が、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧野は、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口をさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯衣を覗かせた懐から、赤い缶詰を一つ出した。そうしてお蓮の酌を受けながら、 「これは御土産です。お蓮夫人。これはあなたへ御土産です。」と云った。 「何だい、これは?」  牧野はお蓮が礼を云う間に、その缶詰を取り上げて見た。 「貼紙を見給え。膃肭獣だよ。膃肭獣の缶詰さ。──あなたは気のふさぐのが病だって云うから、これを一つ献上します。産前、産後、婦人病一切によろしい。──これは僕の友だちに聞いた能書きだがね、そいつがやり始めた缶詰だよ。」  田宮は唇を嘗めまわしては、彼等二人を見比べていた。 「食えるかい、お前、膃肭獣なんぞが?」  お蓮は牧野にこう云われても、無理にちょいと口元へ、微笑を見せたばかりだった。が、田宮は手を振りながら、すぐにその答えを引き受けた。 「大丈夫。大丈夫だとも。──ねえ、お蓮さん。この膃肭獣と云うやつは、牡が一匹いる所には、牝が百匹もくっついている。まあ人間にすると、牧野さんと云う所です。そう云えば顔も似ていますな。だからです。だから一つ牧野さんだと思って、──可愛い牧野さんだと思って御上んなさい。」 「何を云っているんだ。」  牧野はやむを得ず苦笑した。 「牡が一匹いる所に、──ねえ、牧野さん、君によく似ているだろう。」  田宮は薄痘痕のある顔に、一ぱいの笑いを浮べたなり、委細かまわずしゃべり続けた。 「今日僕の友だちに、──この缶詰屋に聞いたんだが、膃肭獣と云うやつは、牡同志が牝を取り合うと、──そうそう膃肭獣の話よりゃ、今夜は一つお蓮さんに、昔のなりを見せて貰うんだった。どうです? お蓮さん。今こそお蓮さんなんぞと云っているが、お蓮さんとは世を忍ぶ仮の名さ。ここは一番音羽屋で行きたいね。お蓮さんとは──」 「おい、おい、牝を取り合うとどうするんだ? その方をまず伺いたいね。」  迷惑らしい顔をした牧野は、やっともう一度膃肭獣の話へ、危険な話題を一転させた。が、その結果は必ずしも、彼が希望していたような、都合の好いものではなさそうだった。 「牝を取り合うとか? 牝を取り合うと、大喧嘩をするんだそうだ。その代りだね、その代り正々堂々とやる。君のように暗打ちなんぞは食わせない。いや、こりゃ失礼。禁句禁句金看板の甚九郎だっけ。──お蓮さん。一つ、献じましょう。」  田宮は色を変えた牧野に、ちらりと顔を睨まれると、てれ隠しにお蓮へ盃をさした。しかしお蓮は無気味なほど、じっと彼を見つめたぎり、手も出そうとはしなかった。         十五  お蓮が床を抜け出したのは、その夜の三時過ぎだった。彼女は二階の寝間を後に、そっと暗い梯子を下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽斗から、剃刀の箱を取り出した。 「牧野め。牧野の畜生め。」  お蓮はそう呟きながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀の匀が、磨ぎ澄ました鋼の匀が、かすかに彼女の鼻を打った。  いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳な継母との争いから、荒むままに任せた野性だった。白粉が地肌を隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。……… 「牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、──」  お蓮は派手な長襦袢の袖に、一挺の剃刀を蔽ったなり、鏡台の前に立ち上った。  すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。 「御止し。御止し。」  彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思ったのは、時計の振子が暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。 「御止し。御止し。御止し。」  しかし梯子を上りかけると、声はもう一度お蓮を捉えた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間の暗闇を透かして見た。 「誰だい?」 「私。私だ。私。」  声は彼女と仲が好かった、朋輩の一人に違いなかった。 「一枝さんかい?」 「ああ、私。」 「久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?」  お蓮はいつか長火鉢の前へ、昼間のように坐っていた。 「御止し。御止しよ。」  声は彼女の問に答えず、何度も同じ事を繰返すのだった。 「何故またお前さんまでが止めるのさ? 殺したって好いじゃないか?」 「お止し。生きているもの。生きているよ。」 「生きている? 誰が?」  そこに長い沈黙があった。時計はその沈黙の中にも、休みない振子を鳴らしていた。 「誰が生きているのさ?」  しばらく無言が続いた後、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前を囁いてくれた。 「金──金さん。金さん。」 「ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、──」  お蓮は頬杖をついたまま、物思わしそうな眼つきになった。 「だって金さんが生きているんなら、私に会いに来そうなもんじゃないか?」 「来るよ。来るとさ。」 「来るって? いつ?」 「明日。弥勒寺へ会いに来るとさ。弥勒寺へ。明日の晩。」 「弥勒寺って、弥勒寺橋だろうねえ。」 「弥勒寺橋へね。夜来る。来るとさ。」  それぎり声は聞こえなくなった。が、長襦袢一つのお蓮は、夜明前の寒さも知らないように、長い間じっと坐っていた。         十六  お蓮は翌日の午過ぎまでも、二階の寝室を離れなかった。が、四時頃やっと床を出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番好い着物を着始めた。 「おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?」  その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろしていた牧野は、風俗画報を拡げながら、不審そうに彼女へ声をかけた。 「ちょいと行く所がありますから、──」  お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿の子の帯上げを結んでいた。 「どこへ?」 「弥勒寺橋まで行けば好いんです。」 「弥勒寺橋?」  牧野はそろそろ訝るよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちを唆るのだった。 「弥勒寺橋に何の用があるんだい?」 「何の用ですか、──」  彼女はちらりと牧野の顔へ、侮蔑の眼の色を送りながら、静に帯止めの金物を合せた。 「それでも安心して下さい。身なんぞ投げはしませんから、──」 「莫迦な事を云うな。」  牧野はばたりと畳の上へ、風俗画報を抛り出すと、忌々しそうに舌打ちをした。…… 「かれこれその晩の七時頃だそうだ。──」  今までの事情を話した後、私の友人のKと云う医者は、徐にこう言葉を続けた。 「お蓮は牧野が止めるのも聞かず、たった一人家を出て行った。何しろ婆さんなぞが心配して、いくら一しょに行きたいと云っても、当人がまるで子供のように、一人にしなければ死んでしまうと、駄々をこねるんだから仕方がない。が、勿論お蓮一人、出してやれたもんじゃないから、そこは牧野が見え隠れに、ついて行く事にしたんだそうだ。 「ところが外へ出て見ると、その晩はちょうど弥勒寺橋の近くに、薬師の縁日が立っている。だから二つ目の往来は、いくら寒い時分でも、押し合わないばかりの人通りだ。これはお蓮の跡をつけるには、都合が好かったのに違いない。牧野がすぐ後を歩きながら、とうとう相手に気づかれなかったのも、畢竟は縁日の御蔭なんだ。 「往来にはずっと両側に、縁日商人が並んでいる。そのカンテラやランプの明りに、飴屋の渦巻の看板だの豆屋の赤い日傘だのが、右にも左にもちらつくんだ。が、お蓮はそんな物には、全然側目もふらないらしい。ただ心もち俯向いたなり、さっさと人ごみを縫って行くんだ。何でも遅れずに歩くのは、牧野にも骨が折れたそうだから、余程先を急いでいたんだろう。 「その内に弥勒寺橋の袂へ来ると、お蓮はやっと足を止めて、茫然とあたりを見廻したそうだ。あすこには河岸へ曲った所に、植木屋ばかりが続いている。どうせ縁日物だから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とか檜とかが、ここだけは人足の疎らな通りに、水々しい枝葉を茂らしているんだ。 「こんな所へ来たは好いが、一体どうする気なんだろう?──牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、妾の容子を窺っていた。が、お蓮は不相変、ぼんやりそこに佇んだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手の後へ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独り語を呟いてたと云うじゃないか?──『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』………         十七 「それだけならばまだ好いが、──」  Kはさらに話し続けた。 「そこへ雪のような小犬が一匹、偶然人ごみを抜けて来ると、お蓮はいきなり両手を伸ばして、その白犬を抱き上げたそうだ。そうして何を云うかと思えば、『お前も来てくれたのかい? 随分ここまでは遠かったろう。何しろ途中には山もあれば、大きな海もあるんだからね。ほんとうにお前に別れてから、一日も泣かずにいた事はないよ。お前の代りに飼った犬には、この間死なれてしまうしさ。』なぞと、夢のような事をしゃべり出すんだ。が、小犬は人懐つこいのか、啼きもしなければ噛みつきもしない。ただ鼻だけ鳴らしては、お蓮の手や頬を舐め廻すんだ。 「こうなると見てはいられないから、牧野はとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、金さんがここへ来るまでは、決して家へは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には『やあ、別嬪の気違いだ』と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬を抱いたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をした後、ともかくも牧野の云う通り一応は家へ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬は容易に退くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋の方へ引っ返そうとする。それを宥めたり賺したりしながら、松井町の家へつれて来た時には、さすがに牧野も外套の下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」  お蓮は家へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台から石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。 「おや、──」  座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠璃燈が一つ、彼女の真上に吊下っていた。 「まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。」  彼女はしばらくはうっとりと、燦びやかな燈火を眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度頭を振った。 「私は昔の蕙蓮じゃない。今はお蓮と云う日本人だもの。金さんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、──」  ふと頭を擡げたお蓮は、もう一度驚きの声を洩らした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へ肘をのせながら、悠々と鴉片を燻らせている! 迫った額、長い睫毛、それから左の目尻の黒子。──すべてが金に違いなかった。のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙管を啣えたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか? 「御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。」  成程二階の亜字欄の外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍の模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうに囀っている、──そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一夜中恍惚と坐っていた。……… 「それから一日か二日すると、お蓮──本名は孟蕙蓮は、もうこのK脳病院の患者の一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛のある妓館とかに、客を取っていた女だそうだが、──何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。」  Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。 「この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけにその犬が側にいないと、金さん金さんと喚き立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。蕙蓮を妾にしたと云っても、帝国軍人の片破れたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へつれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。──え、金はどうした? そんな事は尋くだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。」 (大正九年十二月) 底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房    1987(昭和62)年1月27日第1刷発行    1993(平成5)年12月25日第6刷発行 底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房    1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月 入力:j.utiyama 校正:かとうかおり 1998年12月19日公開 2004年3月10日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。