昼の花火 山川方夫 Guide 扉 本文 目 次 昼の花火  野球場の暗い階段を上りきると、別世界のような明るい大きなグラウンドが、目の前にひらけた。  氾濫する白いシャツの群が、目に痛い。すでに観客は、内野スタンドの八分を埋めてしまっている。  グラウンドには、真新らしいユニホームの大学の選手たちが、快音を谺するシート・ノックの白球を追って、きびきびと走り廻っている。日焼けした顔に、真上からの初夏の光が当って、青年たちは、野獣のように健康な感じだ。捕球する革具の、鈍い響き。固く鋭いバットの音。掛声。それが若々しい声援や拍手に入り乱れて、通路を歩きながら、彼も軽い昂奮に引き入れられた。 「うん。上手い」 「チェッ、まずいな」  そんなことを、席をさがしながら、無意識に口にしていた。  並んで坐ると、すぐに女は訊いた。 「これ、まだ練習なの?」 「うん。まだ練習なの」  場内の昂奮に感染したみたいに、女が拍手をする。弾ぜるような音だ。それが続く。  肉の豊かな、やわらかな女の掌を感じさせて、瞳の隅で、その白い灯がちらちらする。避けるように、彼はグラウンドをみつめた。  フィールドの土は、湿っていて、その焦茶いろが新鮮だった。  昨夜の小雨のせいだろうか。  いま歩いてきた外苑の鋪道に、紙屑がべったりと貼りついたまま乾いて、枯れた花の色をしていたのを、彼は思い出した。  道の両側につづく木々は、皆、染まるような青葉だった。それが、次つぎとよく繁った枝を繋げていて、いくつもの幹をもつ緑の暗い雲のように、若い芝に影を落していた。その外苑の木立がいま、外野席の向うに、濃緑の帯のように見える。 「ねえ。練習に手をたたいちゃ、へん?」  女は、野球を知らないのだ。  大きく、彼は空気を吸った。日に焙られて、頬が熱い。 「ううん。たたいたって、いいの」  だが、女は拍手を止めた。  汗ばんだ掌の音が急に止んだのに、ふっとひっかかって、彼は、 「手、たたいたって、いいんだよ」  そううながすようにいった。そのとき、女は、なにも見ない目をしていた。 「……きっと、まっ黒けになっちゃう」  やがて、女は独りごとのようにいうと、敏捷な手つきで、白い手巾を前髪の上にひろげた。その日、女は濃紺の細いタフタで、髪を束ねていた。  十九歳の彼に逢うとき、四つ年上の彼女は、いつも若く粧っている。態度にも、その努力が出ていた。ようやく此頃、彼はそれに無関心になった。  手巾の笹縁が、額に淡い三角の影をつくり、女は、豊かな髪を持ち上げるように、両手を首のうしろに廻した。すこし上目づかいに彼をながめ、その唇が笑った。  女の顔の上に、斜めに人びとの肩がそびえ、どの顔も申し合わせたような明るい表情で、グラウンドの球の行方を追い、眸が動いている。さらにその上、人びとの顔で埋った観客席の斜面を照りつけて、青空があった。  太陽は、その中央近くにある。  誘われたように、女も空を見上げる。口紅が、青空に映えて、印刷したような鮮やかな色になった。  見ながら、突然彼はその女の頤から喉につづく線を、美しい、とつよく感じた。稲妻のように、その光が、記憶のなかの女の像にふれた。  ともすればそれを肉感的な衝撃と思いやすいのを、記憶に翻刻して現実を味わう、いつもの性癖のためと思った。  去年の夏、二人は両国の川開きに行った。  はじめて二人きりで約束をした日だった。女は、まだ女子大の四年にいた。  数十万の人出だといわれたその日、二人が雑沓を抜け、浅草橋のあるビルの屋上に出たとき、ちょうど、それを合図のように乱菊が打ち揚った。  空はまだ暮れきってはいず、昼の色を拭いのこした静かな夕空は、目にみえぬ無数の漣の動くひろい川面のように見えた。  でも、そこには、思いがけぬほどの風が吹いているのか、花の凋むように乱菊の消えた平凡な黄昏の空のなかに、煙は、流れに落ちた一滴の淡墨のように、見えぬ手に急速に掃かれ、滲まされて、たちまち跡形なく溶けていった。 「花火って無意味ね」女は声をたてて笑った。「……まるで、人間の夢だとか野心だとか、希望とかお祈りとかの構造を、そのまま描いて見せてくれているような気がする」  そのビルの下からは、夏の夕暮れの生温い風が、洗濯物の酸い臭気を、絶えず吹き上げてきていた。 「……でも綺麗だ」  と、彼はいった。地方出の彼には、東京の花火を見るのは、それが最初だった。 「結局、濫費の美しさね」  答えながら、女は仰向けた顔を動かさなかった。手巾で気忙しく頬を煽いでいた。 「花火って、なんだか、ほんとに花火みたいなものね。……そうは思わなくて?」  女は、赤いベレをかぶっていた。白い手巾の動きは、どこか蛾の羽搏きに似ていた。そして、そのかげにちらちらとのぞく女のあらわな喉の線は、仰向けた首を支え、何故かいつまでも可笑しそうにひくひくと動いていた。  その線の、やさしい起伏を、彼は美しいと感じた。健康な、のびやかな線だと思った。良い母になれる人だ、そう思った。  小暗くなって行く屋上で、彼は、そのやわらかな線の動きを、何べんも盗み見ていた。それは、肉慾とは無縁な誘惑とおもえた。むしろ、見ることのためにつねに彼女との距離を忘れてはいけないという、心のなかの制動のようなものだけが、彼の意識にあった。 「でも、川開きのなかった夏は、いま思うと、やっぱりとても淋しかったっていう気がするのよ。……あ、あれ、芽出柳っていうの。ご存知?」  丁字菊。銀爛。花苑。……花火は次つぎと夜を彩り、女は、まるで姉のように、彼に花火の種類や名や、それぞれの特徴やを教えた。それに女の成長した環境を感じとりながら、だが、その区別を覚えるのに、彼はあまり身を入れてはいなかった。  彼はただ、花樹の苗に挿された副木のような、女のやさしい線の美しさに結びつけられている、そんな棒立ちの気持だけを反芻していた。どこか頑なに背を反らした姿勢の、甘く、快い満足があった。  緑いろの華が、色とりどりの無数の光の造花が、そんな彼の目に咲き、夜空を賑わせては滑り落ちた。  もう、いくつか瞬く星も明るく、数えきれなかった。花車が、次つぎと競いあうように夜の深みへと馳せ上って、人びとの歓声がひときわ高くなった。  ふと彼が、聞きなれぬ発音の歓声に振り返ると、ビルの屋上の出入口の近くで、大柄な外国婦人に手を引かれた金髪のまだ幼い少女が、絶え間なく夜空に咲くさまざまな色の花車に、手を振って、なにか大声に叫んでいた。幼ない真白い腕と脚が、ひどく長い。白い服の、眼の碧い、まるでお人形のような少女だった。  銀髪に紅い頬の、年老いた伴れの婦人が、気難かしげにそれを押し止めている。だが、桃いろのリボンを結んだその少女は、花火の打ち揚げられるごとに、頬を輝かせ、繋がれた仔犬のように跳ねまわって、手を振り、狂人のようにたかく歓呼するのだ。  彼は、そのとき、こんなことを想った。  幾年か後、アメリカかどこか、異国の都市に住まいながら、成人したこの少女は、問われるままに、きっとこう答えるだろう。──え? ハナビ? 日本のハナビなら、私、六つのときトウキョウで見ましたわ。ええ、よく憶えています。それは、とても素晴らしかったわ。……  突然、拍手が湧き起って、群衆の歓声が、巨大な濤の音のように耳に鳴った。観客たちのどよめきが、スタンド中に波紋のようにひろがり、大きくなる。フィールドには誰もいない。シート・ノックは終ったのだ。 「はじまったの?」 「いや。練習が終ったの」 「まだはじまらないの?」 「うん。サイレンが鳴らなきゃ、はじまらない」  興をそがれたように、女は黙った。二人は沈黙して、グラウンドの焦茶を甦らせて引かれて行く、灰白のラインに見入っていた。  奇妙にしずかな緊張が感じられた。そのせいか、女は小さな声でいった。 「あなたの学校の試合、この次ですって?」 「そう。今日は二試合だから」  納得したふうにうなずき、一言、女はいった。 「待つのって、くたびれるわ」  彼は笑った。 「もうすぐだよ」  女は繰り返した。呟く、というのでもなかった。 「……つらいわ。待つのって」 「なにがさ」 「私、この秋に結婚するの。……試合がすんでから、いうつもりだったけれど」 「……でも、それがどうしたっての?」  彼は笑っていた。  女は、ふたたび黙った。  二人は、グラウンド中にどよもす、他校の校歌の斉唱のうちに、二箇の人形のようにじっとしていた。  彼には意外だった。──女の結婚の話も。それを告げられた瞬間、急激にいきいきとしてきた、この女といることの幸福感も。  この一年間、彼は花火の夕にとった姿勢のまま、女とつきあってきていた。強いて自分を抑えたのでも、その逆でもなかったのだが、何故か手ひとつ握ろうという気にならなかった。二人の距離は、いつも同じだった。だが、彼は、ようやくその満足に倦いてきていた。  しかし、いま女の示したその期限は、急に、彼を得体の知れぬ幸福に火照るような気持ちにした。女といっしょにいることの幸福を、彼は、かつてこんなに深く、たしかなものとして感じたことはなかった。  奇妙な安らぎと、充実とが、彼に来ていた。期限の意識が、慣れて見失いかけていた女の存在を、よみがえらせたのだろうか。それとも、これは狡猾な解放のよろこびなのだろうか。 「お祝い、あげてもいいの」  女の耳のうしろを括っている、木目の浮いた紺のタフタを、目でたどりながら彼はいった。  答えはない。  微笑をつくりつけたまま凝固したような女の頬は、白粉が浮いて、一瞬、ひどく醜かった。  醜い。──しかし、かつてこれほど親身に女の肌を感じた記憶はない。彼女への愛を、素直に信じられた記憶もない。  だが、彼には、このまま深入りも仲違いもせず、秋の別離を迎えるだろう、そういう自分たちがわかっていた。そのようにして、僕はこの女への愛を、この女との季節を、完成させることしかできぬだろう。  女は、きっと良い妻になるだろう。良い母になるだろう。──でも、それは僕の幸福と同じではないか。手ひとつ握らず、唇ひとつ重ねず、身をはなしたまま彼女といっしょに時をすごしている幸福。僕は、彼女の中でそんな一つの季節を生き、そして僕の愛は、二人の距離を蹂躪し破壊するそれとは性質が異るのだから。  彼はそう思った。これは遁辞だろうか。彼は女の横顔を強くみつめた。 「……おめでとう」  低く、彼はいった。  グラウンドに止っていた女の眸が動いた。それが彼に帰ったとき、女はもう、ふだんの表情で笑っていた。 「今度、いつ帰省なさるの」 「夏休みになったら、すぐ」 「そう。……じゃ、川開きには、もう行けないわね」  女は、前髪にのせた手巾を下ろし、二つに折る。白い指先きが、丹念に、いくども折り直しながら手巾を小さく畳んでゆく。彼は、ふと仔細に、それを眺めていた。 「……今年もあるでしょうね。花火大会」  ぼんやりと、彼は女の声を聞いた。金髪の少女のことを想った。  たしかに、花火はあの金髪の少女の記憶にのこったろう。だが、あの大正時代にできたという、老朽のビルの屋上、そこに行く道と雑沓、貧しげな匂いを吹き上げてきた風、緋毛氈の敷かれていた俄か造りの涼み台は、そして浴衣がけの手に団扇をもった日本人の男女たちは、はたして少女の記憶にのこったことだろうか。  いや、のこることはあるまい。ましてその夜、少女の周囲に犇めいていた日本人たちの視線を、憶えているはずはあるまい。もとより、その群衆に混って、勝手な想像をめぐらせた一人の青年の存在など、それと知ろうはずもないのだ。  そして、もしかしたら、少女にとり東京とは、いや、日本とは、一夜の花火の記憶だけかもしれない。花火だけが、そこで過した一つの季節の記憶であり、ただ一つのそのイメージであるのかもしれない。成人した少女は、いうだろう。──え? ハナビ? 日本のハナビなら、私、六つのときトウキョウで見ましたわ。ええ、よく憶えています。それは、とても素晴らしかったわ。……でも、そのときのことは、もう憶えてはいません。ほかのことは、もうぜんぶ忘れました。トウキョウについても、日本についても。……憶えているのは、ハナビだけです。夜の空に、いつまでもいつまでも咲きつづけた、綺麗だったハナビのことだけ。それは、とても素晴らしかったわ。……とても、とても素晴らしかったわ。……  彼は思った。しかし僕自身、後日、この女と過した季節を振り返って、そこに花火の夜をしか思い出せないのではないだろうか。いや、僕の、彼女への愛、僕が彼女に見ていたもの、それこそが一つの花火ではないのか。……年上のこの女との一年、僕は、じつは空中楼閣のような、美しい数多の、しかしただ一つの花火だけを、眺めつづけてきたのではなかったのか。いまさき信じた一つの愛、それも、地上をはなれた虚空の中でのみ花をひらく、美化された一つの空費、ただ初夏の夜空にのみ存在する、はかない架空の仇花にすぎないのではないのか。  場内のざわめきが、そのときいちだんと高くなった。拍手。口笛。叫喚。湧き起るさかんな声援のうちに、選手たちが颯爽とダッグ・アウトから飛び出す。向いあって整列して、礼を終える。  プレイ・ボール。いろめきたつ観客の、海のような底深い喧騒にかぶさり、またしても校歌の合唱がはじまる。  試合開始のサイレンといっしょに、 「さあ、試合がはじまったよ。おまちかねの」  わざと威勢のいい口調で、彼はいった。 「みんな、元気ね」  間の抜けたことをいう。彼は思った。  グラウンドに、白い線が飛び交っている。その速い白球の線で結びあって、声をかけ激励しあう若々しいナインを、だが、彼は強烈な光のように感じていた。目を細め、眉をしかめるようにして、それを見ていた。  青年の、その健やかな若さが、急に眩しかった。全身での運動に、彼は渇いていた。 「絶好の野球日和、か」  ごまかすようにいって、みんな、元気ねと女の言葉を口の中で真似した。 「ねえ」  そのとき、女が囁くようにいった。 「……あなた、何故もっと私に甘えてみなかったの」  肩がさわっていた。円いその肩に吊られたスリップの細い紐が、白い絹ブラウスに透けて見える。──盛夏だ。感じて、彼は目をそらした。  香水と汗の匂いとが混りあって、女の体臭がなまなましく彼を包んでくる。が、反射的にそれから身をはなそうとする自分が、いまはひどく憤ろしいのだ。  背を反らした姿勢の、あの子供っぽい快さを、僕は、いつまでも後生大切にかかえこんで行くつもりだろう。  カーン。  そのとき、白球が三遊間を抜いた。ヒットだ。  打者は一塁を廻り、帽子を飛ばして二塁へと突進する。レフトが塀際から返球する。観客は総立ちの熱狂ぶりだ。その底に石のように取り残され、彼は疼くように、固い一個の自分だけを感じていた。彼は、泳ぐような気持ちになった。  ひしめきあう人ごみの混雑のあいだを、がむしゃらに、盲めっぽうにかきわけ、突き進んでいるみたいな、行先も不明な、ただ人知れず自分を主張したい、そんな孤独な感情の動きだった。  打者は二塁にいる。女が拍手している。 「ねえ、よせよ。ヒット打ったのは、一塁側の選手なんだよ」 「……いけないの? ちがうの?」 「いけなかないけど、見てごらん、こっちは三塁側だろ? 誰も手をたたいてないだろ?」 「あら。ほんと」  笑いあって、だが、たぶん今日が、この女とみる花火の最後かもしれない、と彼は思った。いまに、目前の、この現実の細かな部分や出来事などはすっかり忘れ果てて、僕はきっと、すべてのこの季節の記憶を、一つの花火のそれとして眺めるのだ。  でも、僕の花火には、漆黒の夜の花床は無い。青春のその花床は、昼の光に充ちた青空が、それのはずではないか。  固い板の座席に、腰が痛んでいた。  坐り直しながら、彼は、頭上のひろびろとした青空を仰いだ。光をたたえた巨大な泉に似た青空。鋭い雷声を合図に、白い雲ひとつないその天空に打ち揚げられ、細かな白金の矢をきらめかせ茶褐色の煙をただよわせて、透明な、はてしない大空の滴るような紺青のなかに溶け、音もなく消えて行く花火。昼の花火。いま、現に見ているのも野球ではない。女との、そして自分だけの、真昼のその花火なのにすぎない。  女が、また拍手をはじめた。野球に、慣れてきたのだろうか。  放心したようなその目が、じっと前をみつめている。 「……どこ見てるの」  軽くいった。 「森。森を見てるの」  すぐ答えた。  はっと、彼はわかるような気がした。女の瞳には、それまでは焦点がなかったのだ。いま、もしかすると二人は、同じものを見ていたのかもしれない。  女は拍手を止めなかった。それは、いやに間のびした拍手だった。  女にならって、はるかな森の青葉に、彼も拍手をはじめていた。  遠く、森のやわらかく膨らんだ葉末が、波を打つように動いている。風が渡るようだ。緑の枝を繋げていた外苑の木立の、ざわめいて嫩葉がきらきらと氾れるように一面に光るさまを、彼は目に浮かべた。若い夏の、みずみずしい新緑の光だけを、彼はみつめていた。  競いあうように、二人はいつまでもゆっくりと拍手をつづけていた。女が止めるまでつづけるのだ、そう彼は思っていた。 (一九五三年三月「三田文学」) 底本:「戦後短篇小説再発見 3 さまざまな恋愛」講談社文芸文庫、講談社    2001(平成13)年8月10日第1刷発行 底本の親本:「山川方夫全集 1 安南の王子」筑摩書房    2000(平成12)年9月20日初版第1刷発行 初出:「三田文学 第四七三巻第一号」三田文学会    1953(昭和28)年3月1日発行 入力:toko 校正:noriko saito 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。