寢たらぬ日記 湘南サナトリウムの病院にて 横光利一 Guide 扉 本文 目 次 寢たらぬ日記 湘南サナトリウムの病院にて  櫻草が雨に濡れたまま圓陣を造つてゐる。──  昨日は日光室で煙草を一本吸ふと、馳け足で引き返し、リゾオルの中へ手を突つ込んだ。  此處の病室には愛と日光とが行き渡つてゐる。角のあるものは、ドアーと三角形のレントゲン室と、病人だけだ。  昨夜はベランダで寢た。眼を開く度に、月が鼻のさきにぶら下つてゐて邪魔になつた。  朝起きたとき、 「ほう、朝だ。」と思つたら、痔になつてゐるのに氣がついた。しかも、海は山と山との間から、嚴格な朝の挨拶をし始めた。  ──今日は雨だ。バルコオンが濡れてゐる。梯子は骨のやうに立つてゐて不吉である。  花束が見知らぬ患者から贈られた。これも濡れてゐるので觸つてみた。  日光室の患者は、硝子の中で聖書を持つたまま、雨を仰いでゐた。  ──汝もし百疋の羊を得たらんに、その一疋を失はば、九十九疋を置きて迷へる一つを山に尋ぬべし。(馬太傳某章)  此處の山には蠅が多い。病人は一日、天井にとまつてゐる蠅の數を算へてゐた。  僕は病人の便器の中へ古新聞を押し込んだ。ふと見ると、 「自己を見詰めよ、」と書いてある。僕は便器の中を見詰めてゐた。 「眞に生きよ、眞に。」──馬鹿な話は、もう止さうではないか。子供がまた一人増すだけだ。  少し暇が出來ると、病室の蠅叩きと蠅追ひだ。 「さて、もうこれでゐなくなつた、」と思つてゐると、自分の身體に一番眞黒くたかつてゐた。  今日は何日か、さつぱり分らない。  ここへ來てからは腹が空いて仕方がない。殆ど朝の五時から夜の十一時まで立ちづめである。動きづめである、啖の取りづめである。  煙草を一本吸ふ暇を見つけるためには、小説の題を考へる程の才智が必要になつて來た。  此處は肺病院であるが故に、煙りと云ふ奴は敵である。少くとも、煙りは人間の道徳に從つて決して動いたためしがない。  夜の九時が來ると、ここは一齊に燈が消える。すると、われわれは平凡に寢なければならない。そこで、私だけは、その日の二本目の煙草を吸ふために、足音を忍ばせ、燈の消えた廊下を傳つて軒へ出る。  ──何處へ、と問ふものあれば、  ──待人あり。  人間はかう云ふ氣品のあることを云ひたいのだ。  今日は病人の寢てゐる暇に、送つて來た雜誌を繰つてみた。活字の大小逆倒に對する論戰一條。しかし、此の論戰は、結局、いづれにせよ、「非」概念的で問題にならない。問題になるためには、「概念」に足を踏み込んでゐなければ。  概念とは範疇である。──インマヌエル・カント。  今日の花は薔薇と菊と雛罌粟と、名も知らぬか弱き花と。  食慾のない病人は、ひたすらに花にすがつて痩せて行く。  大阪の「辻馬車」が玄關から這入つて來た。  川端康成の葉書が舞ひ込んで來ると、風がやんだ。  康成さんが來ると云ふ。來れば、第一にバルコオンへ連れて行かうと思ふ。それから、僕は煙草を吸ふ暇を見つけるだらう。 (飯田豐二よ、もう此の位で赦してくれ。眼が廻るのだ。それから豐二よ、君の此の頃書く雜文は面白い。石鹸の泡を顏に塗つて、まだ、自然主義の殼が拔けぬと憤慨してゐるあたり、油斷がならぬ。  豐二よ、僕は獨樂のやうに廻つてゐながら、後三四日の間に、戲曲を二つと、小説を一つと、雜文を四つ書かねばならぬ。僕は病院の手品師だ。痩せた花嫁は貰つてはならぬ。自然主義はどこまでも花婿を追つ馳ける。)        ×  ×  ×  今日は昨日の翌日である。雨はやんだ。昨夜は五度起こされて、頭重きままに、濡れた竹の皮の草履をはいてこの高みに立つた。雨を含んだ白い野茨を折つて下を見る。病んだ妻の着物が竿に長くかかつてゐた。 底本:「定本 横光利一全集 第十四卷」河出書房新社    1982(昭和57)年12月15日初版発行 底本の親本:「文藝時代 第三卷第七號」金星堂    1926(大正15)年7月1日発行 初出:「文藝時代 第三卷第七號」金星堂    1926(大正15)年7月1日発行 入力:橘美花 校正:惣野 2019年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。