牛舎の日記 伊藤左千夫 Guide 扉 本文 目 次 牛舎の日記 一月十日 午前運動の為め亀井戸までゆき。やや十二時すぐる頃帰て来ると。妻はあわてて予を迎え。今少し前に巡査がきまして牛舎を見廻りました。虎毛が少し涎をたらしていました故鵞口瘡かも知れぬと申して。男共に鼻をとらして口中をよおく見ました。どうも判然はわからぬけれど念のため獣医を呼んで一応見せるがよかろうと申して。今帰ったばかりです どうしましょうと云う。予はすぐ其の足で牛舎へはいって虎毛を見た。異状は少しもない。老牛で歯が稍鈍くなっているから。はみかえしをやる度自然涎を出すのである。此牛はきょうにかぎらずいつでもはみかえしをやる度に涎を出すのはきまって居るのだ。それと角へかけて結びつけたなわの節が。ちょうど右の眼にさわるようになっていたので涙を流していた。巡査先生之を見て怪んだのである。獣医を呼ぶまでもなしと予が云うたので。家内安心した 十一日 午後二時頃深谷きたる。当区内の鵞口瘡は此六日を以て悉皆主治したとの話をした 十二日 午前警視庁の巡回獣医来る 健康診断のためである。例の如く消毒衣に服を着かえて。くつを下駄にはきかえて牛舎を見廻った。予は獣医に府下鵞口瘡の模様を問うた。本月二日以来新患の届出でがないから。もう心配なことはなかろうとの獣医の答であった 十三日 午前二時朝乳を搾るべき時間であるから。妻は男共をおこしに往った。牛舎で常と変った叫ごえがする。どれか子をうみやがったなと思うていると。果して妻は糟毛がお産をしました。親の乳も余りはりません 犢も小さい。月が少し早いようですと報告した。予も起きて往て見ると母牛のうしろ一間許はなれて。ばり板の上に犢はすわっていて耳をふっていた。背のあたりに白斑二つ三つある赤毛のめす子である。母牛はしきりにふりかえって犢の方を見ては鳴ている。八ヶ月位であろう どうか育ちそうでもあるから。急に男共に手当をさして。まず例に依って暖かい味噌湯を母牛に飲ませ。寝わらを充分に敷せ犢を母牛の前へ持来らしめた。とりあえず母牛の乳を搾りとって。フラソコ瓶で犢に乳を飲せようとしたけれど。どうしても犢は乳を飲まない。よくよく見ると余程衰弱して居る。月たらずであるのに生れて二三時間手当なしであった故。寒気のためによわったのであろうと思われた。それから一時間半ばかりたって遂に絶命した。予は猶母牛の注意を男共に示して置て寝てしまった 夜明けて後男共は今暁の死犢を食料にせんことを請求してきた。全く或る故障より起った早産で母牛も壮健であるのだから食うても少しも差支はない。空しく埋めてしまうのは惜しいと云う理由であった。女達はしきりに気もちわるがってよせよせと云う。予は勿論有毒なものではあるまいから喰いたいならそちらへ持て往て喰えと命じた。やがて男共は料理して盛にやったらしかった。なかなかうまいです少々如何ですかと云って。一椀を予の所へ持て来たけれども。予は遂に一口を試むるの勇気もなかった 十四日 暖かであるから出産牛のあと消毒を行わせた。きょうは午后から鵞口瘡疫の事に就て。組合本部の役員会がある筈なれど差支える事があって往をやめた 十五日 朝根室分娩牡犢である。例に依て母牛に視せずして犢を遠く移した 母牛は壮健である。杉山発情午後交尾さした。アンヤ陰部より出血 十三日頃発情したのであるを見損じたのである。次回のさかりの時をあやまるなと男共及び妻に注意した 十六日 前夜より寺島の犢がしきりに鳴く。午后の乳搾る頃になりてますます鳴く。どうしたのじゃ飼の足らぬのじゃないかと云えば。飼は充分やってあるのです 又よく喰うのです。なんでもあいつは。十五日朝はなれて母牛の乳を一廻残らず飲みましてそれから鳴のです。ですからあれは母牛の乳をまだ飲たがって鳴のでしょうと男等は云った。日くれになってもまだ鳴いている。気になるから徃って見たが。どうでもない 矢張男等が云う通りにちがいないようであった 明治34年2月『ほとゝぎす』 署名  本所 さちを 底本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店    1976(昭和51)年11月25日発行 底本の親本:「ほとゝぎす 第四卷第五號」ほとゝぎす発行所    1901(明治34)年2月28日発行 初出:「ほとゝぎす 第四卷第五號」ほとゝぎす発行所    1901(明治34)年2月28日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉には、振り仮名を付しました。底本は振り仮名が付されていません。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「許」と「ばかり」、「為め」と「ため」、「飲ませ」と「飲せ」、「鳴ている」と「鳴いている」、「往」と「徃」、「依って」「依て」の混在は、底本通りです。 ※初出時の署名は「本所さちを」です。 入力:高瀬竜一 校正:岡村和彦 2018年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。