空とぶトランク ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen 矢崎源九郎訳 Guide 扉 本文 目 次 空とぶトランク  むかしむかし、あるところに、ひとりの商人がいました。この人は、たいへんなお金持で、町の大通りをすっかりと、そのうえ小さな横町までも、銀貨でぎっしりと、しきつめることができるくらい、お金を持っていました。けれども、そんなことはしませんでした。もっとそれとはちがった、お金の使い方を知っていたのです。つまり、一シリング出せば、一ターレルもどってくる、というようなやり方です。この人は、そういうりこうな商人でした。──そのうちに、この人は死にました。  息子は、そのお金をみんな、もらいました。そして、毎日毎日、楽しくくらしていました。毎晩、仮装舞踏会へ出かけたり、お金の札でたこをこしらえたり、海へ行けば、石のかわりに、金貨で水切りをしてあそんだりしました。こんなふうでは、お金がいくらあったところで、すぐになくなってしまいます。ほんとにそのとおりで、どんどんなくなっていきました。しまいには、とうとう、四シリングだけになってしまいました。着るものといえば、スリッパが一足と、古い寝巻が一つあるだけです。  こうなると、友だちもだれひとり、相手にしてくれるものはありません。だって、これでは、大通りをいっしょに歩いても、はずかしくてやりきれませんからね。でも、なかに、親切な友だちがひとりいて、その友だちが、古いトランクを送ってよこして、 「荷物でも入れたまえ」と、言ってくれました。ほんとうに、なんといっていいかわからないほど、ありがたいことでした。といっても、このトランクにつめるようなものは、なんにもありません。そこで、自分が、その中にすわりました。  ところで、これはまた、まことにふしぎなトランクでした。錠をおせば、このトランクは、たちまちとびだすしかけになっていたのでした。ですから、この息子が錠をおすと、トランクは息子を乗せたなり、ヒューッ、と、えんとつの中をつきぬけて、高く高く雲の上までとびあがってしまったのです。そして、なおも、さきへさきへと、とんでいきました。  ところが、そのうちに、トランクの底のほうで、ミシミシいう音がしてきました。商人の息子は、トランクがこわれてしまうのではないかと、びくびくしました。そんなことにでもなれば、きっと、みごとなトンボ返りをやってのけるでしょうからね。こりゃあたまらん!  ところが、そうこうしているうちに、トルコ人の国へやってきました。息子は、トランクを森の中の枯れ葉の下にかくしておいて、町へ出かけました。寝巻に、スリッパという姿で。なぜって、トルコ人はだれもかれも、息子と同じように、寝巻を着て、スリッパをはいて、歩いていましたから。そのうちに、赤ん坊をだいた乳母に、出会いました。 「もし、トルコの乳母さん!」と、商人の息子は言いました。「あの町のすぐそばの、ほら、あんな高いところに窓のある、大きなお城は、いったい、どういうお城ですか?」 「あそこには、王さまのお姫さまが、住んでいらっしゃるんですよ」と、乳母は言いました。「じつはね、お姫さまは、お好きな人のために、たいそうふしあわせになるという、予言があるんです、ですから、王さまとお妃さまがいらっしゃる時でなければ、だれも、お姫さまのところへ行くことができないんですよ」 「ありがとう」と、商人の息子は言いました。それから、森の中へもどって、トランクの中にはいりました。そうして、お城の屋根の上へとんでいって、窓からお姫さまの部屋の中へもぐりこみました。  お姫さまは、長椅子に横になって、眠っていました。見れば、たいへん美しい方でしたので、商人の息子は、どうしてもキスをしないではいられなくなりました。お姫さまは、目をさまして、びっくりぎょうてんしました。でも、息子が、ぼくはトルコの神さまで、いま空をとんできたところです、と、言うと、お姫さまは安心しました。  そこで、ふたりは、ならんで腰をおろしました。息子は、お姫さまの目についてお話をしました。お姫さまの目は、なによりも美しい、黒い湖で、そこには、考えが人魚のように泳いでいます、と、ほめました。つづいて、息子は、お姫さまのひたいについてお話をしました。お姫さまのひたいは、このうえもなく美しい広間や絵を持った、雪の山です、と、ほめたたえました。それから、かわいい、小さな赤ちゃんを連れてくる、コウノトリについてのお話もしました。  どれもこれも、ほんとうにすてきなお話でした。それから、息子は、お姫さまに結婚してください、と、言いました。すると、お姫さまは、すぐに、はい、と、答えました。 「では、今度の土曜日に、ここへ来てくださいませね」と、お姫さまは言いました。「そのときには、王さまとお妃さまとが、あたしのところへおいでになって、お茶を召しあがりますの。あたしがトルコの神さまと結婚するということを、おふたりがお聞きになれば、きっと、ずいぶんご自慢になさるでしょう。でもね、そのときも、ほんとにおもしろいお話をしてくださいませね。おとうさまも、おかあさまも、とってもお話がお好きなんですのよ。おかあさまは、道徳的な、じょうひんなお話がお好きですわ。だけど、おとうさまは、聞いている人が、ふきだしてしまうような、おかしいお話がお好きですの」 「ええ、それでは、結婚の贈り物には、お話だけを持ってくることにします」と、息子は言いました。  それから、ふたりは、別れました。その別れぎわに、お姫さまは息子に、金貨のちりばめてある、サーベルをおくりました。これは、息子にとって、とくべつ役に立ちました。  さて、息子はとんで帰りました。そして、新しい寝巻を買い、森の中にすわって、お話を考えました。そのお話は、土曜日までに、作りあげなければなりません。ところが、いざ考えはじめてみると、どうしてどうして、やさしいことではありませんでした。  それでも、息子はどうにか、お話をつくりあげました。こうして、土曜日になりました。  王さま、お妃さま、それに宮廷じゅうの人々が、お姫さまのところでお茶を飲みながら、息子の来るのを、今か今かと待っていました。息子は、たいそうていねいに、むかえられました。 「では、お話をしてください」と、お妃さまが言いました。「深い意味があって、ためになるようなお話をね」 「だが、笑いださずにはいられんようなのをな」と、王さまが言いました。 「よろしゅうございます」と、息子は言って、話しはじめました。ひとつ、みんなで、このお話を聞くことにしましょう。 「むかしむかし、一たばのマッチがありました。このマッチたちは、家がらがよかったものですから、それを、たいそう自慢にしていました。その、もとの木というのは、マッチの小さなじく木が生れてきた、大きなマツの木のことなのです。それは、森の中の、大きな古い木でした。このマッチたちは、いま、たなの上で、火打箱と古い鉄なべとのあいだに横になって、自分たちの若いころのことを話していました。 『そう、ぼくたちが、緑の枝の上にいたときは』と、マッチたちは言いました。『ぼくたちは、ほんとうに、緑の枝の上にいたんですよ。あのころは、毎朝毎晩、ダイヤモンドのお茶がありました。もっとも、それは、露のことですがね。お日さまが照っているときは、一日じゅう、お日さまの光をあびていましたよ。小鳥たちは、みんな、いろんな話を聞かせてくれましたっけ。それに、ぼくたちはお金持でしたよ。なにしろ、かつよう樹たちなんかは、夏のあいだしか、着物を着ていられないんですが、ぼくたちの家族ときたら、夏でも冬でも、緑の着物を、ずっと着ていることができたんですからね。  ところが、そこへ木こりがやってきたんで、大革命が起ったってわけですよ。それで、ぼくたちの家族は、ちりぢりばらばらになってしまったんです。いちばんの本家は、船のメインマストになりました。その船は、世界じゅうを航海しようと思えば、航海できるくらい、りっぱな船なんですよ。ほかの枝も、それぞれ、別の地位につきました。ところでぼくたちは、こうして、下の階級の、一般の人たちのために、火をつけてあげる役目を持っているんです。まあ、こういうようなわけで、ぼくたちみたいな上の階級の人間が、こんな台所にやってきたんですよ』 『ぼくは、そんなのとは、ずいぶんちがってるよ』と、マッチたちのそばにいた、鉄なべが言いました。『ぼくは、世の中に生れてくると、すぐっから、何度もみがかれたり、煮られたりしたんだよ。ぼくは、長持ちするようにと、そればっかり、心にかけているんだ。ほんとのことを言えば、この家では、ぼくが第一番のものさ。ぼくのたった一つの楽しみは、御飯のあとで、気持よくさっぱりとなって、たなの上にすわり、仲間の者とおもしろいおしゃべりをすることだよ。けれど、手おけくんだけは、ときどき中庭へおりていくから、別としても、ぼくたちはいつも、家の中でばかり暮している。ぼくたちにあたらしいニュースを持ってきてくれるのは、市場に行く手かごくんだけなんだ。ただ、このひとは、政治とか人民のことを話しだすと、ひどく過激になってしまうがね。まったくのところ、ついこのあいだも、年とったつぼが、その話を聞くと、びっくりして、ころがり落ちて、こなごなになってしまったしまつだよ。あのひとは、危険な考えをもった人だ!』 『おまえさんは、すこし、しゃべりすぎるよ』と、火打箱が言いました。そして、火打がねを火打石に打ちつけたので、火花がとび散りました。『ひと晩を、ゆかいにすごそうじゃありませんか?』 『それがいい。じゃ、だれが、いちばんじょうひんか、それについて話しましょうよ』と、マッチたちが言いました。 『いいえ、あたしは、自分のことを話すのなんか、いやですわ』と、土なべが言いました。『どうでしょう、それよりも今夜は、なにか、よきょうでもなさっては! あたしが、はじめに、なにかお話ししましょう。みなさん、ご経験になったことですわ。それなら、みなさん、よくご存じのことですし、たいへんおもしろいと思いますの。バルト海のほとりの、デンマークの、ブナの木の森のそばに──』 『すばらしいはじまりだなあ!』と、お皿たちが、口をそろえて言いました。『これは、きっと大好きなお話になるよ』 『で、あたしは、ある静かな家庭で、若いころをすごしました。その家では、家具はきれいにみがかれて、床はていねいに洗われておりました。そしてカーテンは、二週間めごとに、あたらしい、きれいなのに、取りかえられたものです』 『きみの話は、なんておもしろいんだろう!』と、ほうきが言いました。『話しているのが、女のひとだってことは、すぐわかるよ。話を聞いてると、どことなく、清らかなものがある』 『まったく、だれでもそう思うよ』と、手おけが言いました。そして、うれしくなって、ちょっとはねあがったものですから、床の上に、ピシャッと、水がこぼれました。  土なべは話しつづけました。そして、終りのほうも、はじまりと同じように、すてきでした。  お皿たちは、みんなよろこんで、ガチャガチャ言いました。ほうきは、砂穴から緑のパセリを持ってきて、それで花輪のように、土なべをかざりました。こんなことをすれば、ほかのものたちを怒らせることはわかりきっていたのですが、おなかの中で、『きょう、ぼくがあのひとを飾ってあげれば、あしたは、あのひとがぼくを飾ってくれるだろう』と、こんなふうに、ほうきは考えたのです。 『じゃ、あたしは踊りましょう!』と、火ばしが言って、踊りだしました。おや、おや! どうして、あんなに片足を高く上げることができるのでしょう。むこうのすみにあった、古い椅子カバーが、それを見ると、思わず、ほころびてしまいました。『あたしも、花輪で飾っていただけるの?』と、火ばしは言いました。そして、そのとおりに、飾ってもらいました。 『まったく、つまらん連中ばっかりだ!』と、マッチたちは思いました。  今度は、お茶わかしが、歌をうたう番になりました。ところが、お茶わかしは、あたしは、いま、かぜをひいていますし、それに、煮たっている時でなければうたえません、と、申しました。でも、それは、ただおじょうひんぶって、そう言っているだけでした。つまり、ちゃんとご主人たちのいるテーブルの上でなければ、うたいたくなかったのです。  窓のところに、女中さんが字を書くとき、いつも使っている、古ペンがすわっていました。このペンについては、とくべつ取りたてて言うこともありませんでしたが、ただ、インキつぼの中に深くひたっていました。そして、それを、自慢に思っていました。 『お茶わかしさんが歌をうたいたくないのなら、それでもいいじゃありませんか。おもてのかごの中には、歌をうたえるナイチンゲールがおりますよ。といっても、あのひとは教育はないんですがね、でも、まあ、今夜は、わる口を言うのはよしましょうよ!』 『それは、だんぜん、いけないと思うわ』と、湯わかしが言いました。このひとは、台所の歌い手で、それに、お茶わかしとは腹ちがいの姉妹だったのです。『あたしたちの仲間でもない、あんなよその鳥の歌を聞くなんて! そんなこと、愛国的といえるでしょうか? 市場へ行く手かごさんに、きめていただきたいわ!』 『じつに、ふゆかいだ!』と、市場へ行く手かごが、言いました。『ぼくが、どんなにふゆかいか、だれにも想像できないでしょう。いったい、これが、今夜をおもしろくすごす、正しいやり方なんですかね? もっと家の中を、きれいに、きちんとしておくほうが、ほんとうじゃないですかね? みんな、それぞれ、自分の場所に帰るべきでしょう。ひとつ、ぼくが指図をすることにします。そうすれば、すこしはよくなるでしょう』 『そうだ、ひとさわぎ、やらかしましょう!』と、みんなが、口々に言いました。そのとたんに、ドアがあきました。女中さんがはいってきたので、みんなはしーんとして、だれひとり口をきくものはありませんでした。しかし、そこにいるおなべたちは、みんながみんな、心の中で、自分にできる力や、自分がどんなにじょうひんかということを、考えているのでした。 『そうだ、わたしがそのつもりになっていたら』と、みんなは思いました。『きっと、おもしろい晩になっていたろうに!』  女中さんがマッチを取って、火をつけました。──おやまあ、マッチはパッと火花を散らして、明るく燃えあがったではありませんか。 『さあ、これでわかったろう』と、マッチたちは心に思いました。『ぼくたちが、第一番のものだってことが! なんて、ぼくたちは、かがやいているんだろう! なんという明るさだろう!』──  こうして、マッチたちは燃えきってしまいました」 「すてきなお話でしたわ」と、お妃さまは言いました。「まるで、お台所のマッチたちのそばにいるような気がしましたわ。ようございます。娘は、おまえにあげましょう」 「よろしい」と、王さまが言いました。「月曜日に、娘はおまえにやることにしよう」ふたりとも、商人の息子のことを、「おまえ」と言いましたが、この息子がもう家族のひとりになったようなつもりで、そう呼んだのです。  こうして、婚礼の式がきまりました。そして、その前の晩は、町じゅうに、あかあかと、明りがともされました。みんなは、おいしいパンやビスケットを、ほしいだけもらいました。子供たちは、つまさきで立ちあがって、ばんざい、とさけんだり、指を口にあてて、口笛をふいたりしました。ふつうでは、とても見られない、それはそれはすばらしいありさまでした。 「うん、そうだ。ぼくもなにかやってみるか」と、商人の息子は考えました。そこで、打上げ花火やら、かんしゃく玉やら、そのほか、花火という花火を買いこんで、それをトランクの中に入れて、空へとびあがりました。  ポン、ポン! と、花火は空高くあがって、大きな音をたてて、爆発しました。  それを見ると、トルコ人たちは、みんなびっくりして、スリッパが耳のあたりまでとぶほど、はねあがりました。いままで、こんなにすごい空の光景を見たことがなかったのです。これで、お姫さまをもらう人が、トルコの神さまだということは、だれにもよくわかりました。  商人の息子は、トランクに乗って、また森の中へもどってきましたが、すぐに考えました。「ひとつ、町へ出かけていって、みんながどんなうわさをしているか、聞いてこよう」息子がそうしたいと思ったのも、まったくむりもない話です。  いや、ところが、人々の話というのはどうでしょう! 聞く人ごとに、めいめい、ちがったふうに見ていたのです。それでも、すばらしかったということだけは、だれの目にも、同じようにうつっていました。 「わたしはトルコの神さまを見ました」と、ひとりが言いました。「神さまの目は、キラキラ光る星のようでした。ひげは、まるで、あわだつ水のようでしたよ」 「神さまは、火のマントを着て、とんでいましたよ」と、ほかの者が言いました。「きれいなきれいな、かわいい天使さまたちが、マントのひだの間から、のぞいていましたっけ」  ほんとに、耳にはいるのは、すばらしいことばかりでした。おまけに、つぎの日は婚礼の日ときています。  商人の息子は、トランクの中へはいって、やすもうと思いながら、森へ帰ってきました。──ところが、どうしたというのでしょう! トランクは? トランクはどこでしょう? それは燃えてしまったのです。花火の火の子が、一つのこっていて、それから火がついて、トランクは灰になってしまったのです。こうなっては、もうとぶことができません。花嫁さんのところへ、ゆくこともできません。  花嫁さんは、一日じゅう、屋根の上に出て、待っていました。いまでも、まだ待っているのです。ところで、商人の息子のほうは、世界じゅうを歩きまわって、お話をしています。でも、あのマッチたちのお話をした時のように、おもしろい話はひとつもありません。 底本:「マッチ売りの少女 (アンデルセン童話集Ⅲ)」新潮文庫、新潮社    1967(昭和42)年12月10日発行    1981(昭和56)年5月30日21刷 入力:チエコ 校正:木下聡 2020年4月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。