雨 林芙美子 Guide 扉 本文 目 次 雨  大寒の盛りだといふのに、一向雪の降る氣配もなく、この二三日はびしやびしやと霙のやうな雨ばかり降つてゐた。晝間から町中を歩き𢌞つたので孝次郎はすつかりくたびれ果ててゐた。何處でもいゝから今夜ひと晩眠らせてくれる家はないかと思つた。出鱈目に、眼の前に來た市電へ乘つて、三つばかり暗い停留所をやりすごして、家のありさうな町へ降りてみた。息のつまりさうな、混みあつてゐる電車から、自分の躯を引きちぎるやうにして、雨の降つてゐる、泥濘のひどい道へ降りた。降りるなり、そばへ立つてゐる男に、孝次郎はこゝは何處ですかと聞いてみた。「こゝは瀬戸電の出るところですよ」さう云つて、その男は古ぼけた番傘をぱちんと開いて行つてしまつた。あまり降りる人も乘る人もないと見えて、電車が行つてしまふと、廣くて暗い街路には誰一人通つてゐる者もない。孝次郎は外套を頭から引つかぶつて、燈火の光つてゐる方へ濡れ鼠になつて後戻りして行つた。戸を閉した暗い家の檐下をひらつて歩きながら、孝次郎は測り知れないほどの空虚さが、淋しさの塊になつて、冷えた腹の芯に重くたまつてくるやうであつた。再び日本へかへれようなぞとは夢にも思はなかつただけに、佐世保へ上陸してからのこの一週間あまりは、孝次郎にとつて一年の歳月がたつたやうにも考へられた。  燈火の前まで來ると、やつぱりそこは飮み屋だつたが、此邉からまた燒野原になつてゐると見えて、その家はバラックだつたし、家の周圍は廣々とした蓮沼のやうに、燒跡の果しない擴がりが茫つと雨夜のなかに光つて見えた。孝次郎はがたぴしした硝子戸を開けて飮み屋へはいつた。 「あゝ、もう、おしまひですよ」  子供のやうに背の小さい親爺が、あわてて店の電氣を消した。孝次郎は暗い土間につつたつたまゝで、「すこしやすませて下さい」と足もとの板の椅子に腰をおろした。臺所の薄暗い燈火の光りで、土間の卓子や椅子が濡れてゐるやうに見えた。 「もう、何もないンでね」 「さうですか、旅から來たもので、この雨で弱つてしまつてねえ……いくら高くてもいゝんだが酒があつたら一杯飮ましてくれませんか、もうへとへとなんですがなア」  親爺は一寸の間沈默つてゐた。風が出たとみえて、ざあつと板屋根に吹きつけてゐる雨の音がはつきりしてきた。 「ねえ、をぢさん、一杯飮ましてくれませんか……」  孝次郎は冷い靴のさきを土間に何度か磨りつけながら、濡れた外套を椅子の背にかけた。 「熱くするかね?」 「えゝ、そりやア熱くして貰へればなほいゝです」  孝次郎は吻つとして濡れた首卷きをはづし、風呂敷包みと一緒にそばの椅子の上に置いた。十五六の男の子が水洟をすゝりながら臺所から出て來て店の硝子戸のねぢをかけてゐる。 「しまふところで氣の毒ですな」  孝次郎にはみむきもしないで、男の子は默つて臺所へ消えてしまつた。軈て親爺が熱く燗をしたコップと、何か煮びたしたやうなものを皿へ入れて暗い土間へ運んできた。 「どうも濟みませんねえ」 「大根といかの煮つけで、もうこれだけでね」 「いゝえ、何でもいゝんです」  孝次郎はすぐ財布を出して、折り疊んだ百圓札を親爺に渡した。 「それぢやア、二十五圓貰ひます」 「えゝ、どうぞ取つて下さい」  唇がつけられないほど熱い酒だつたが、冷い舌に沁みて、しびれるやうに甘美かつた。親爺は臺所の電氣を店の間のさかひの障子ぎはへ引つぱつて來た。 「見えるから大丈夫ですよ」 「それでも、あまり暗くちやアね」 「をぢさん、甘美い酒ですねえ」 「えゝ、以前は酒屋をしてゐたンで、少しはいゝ酒を使つてゐるンで……」 「やつぱり燒けたンですか」 「さうでがす」 「大變でしたね」  親爺は返事もしないで釣錢を持つて來た。孝次郎は急いで片手を上げると、「もう一杯、あと一杯貰へませんか──甘美い酒で、もう一杯飮みたいです」親爺は幾枚かの札をつかんだまゝ孝次郎を見てゐたが、「それぢや、これからもう二十五圓貰ひます」と云つて、指をなめながら三枚の札をとると、あとを臺の上へ置いて奧へ引つこんで行つた。  孝次郎はポケットをさぐつて、煙草を出すと、それに火をつけて甘美さうに吸つた。疲れてゐるせゐか眼が乾いてしまつてまばたきをするのが痛い。湯氣の出てゐるコップの上に顏をつけると、柔いぬくもりがぷうんとくる酒の匂ひといつしよに、人の世の愉しみを誘ひに來る。孝次郎は乾いた眼の奧に沁み出るやうな一滴の涙を感じた。始めて孤獨な涙が瞼を靜かに突きあげてきた。親爺が二杯目の熱いコップを皿の上に乘せて持つて來た時には、孝次郎はいい氣持ちに醉ひがまはりかけてゐた。 「をぢさん、何處かこのへんに宿屋はないでせうかね? 明日の朝の汽車で東京へ行くのですが、寢るだけ寢さしてくれる家はないでせうかね」 「さうさ……宿も大半燒けてしまつたンでなア」 「さうでせうね……」  親爺はぼそぼそとさつきの子供と話をしてゐる樣子だつたが、「一軒心あたりがあるから聞きにやりませう」と云つてくれた。孝次郎は地獄で佛とはこのことだと思つた。 「濟みませんなア」 「さア、泊めるかどうか知らンが、聞いてみンことにはねえ」 「どんなところでもいゝンですよ。何しろこの雨ぢやア……」 「名古屋も大半燒けちまつたでねえ……」 「さうですねえ、自分はこのあひだ張家口から戻つて來たばかりで、吃驚しました」 「兵隊で行つてなすつたのかね?」 「さうですよ」 「そりや、御苦勞さんでしたなア。──私の息子もビルマへ行つて戰死しました」 「さうですか、大變でしたねえ」  トラックでも走つてゐるのか、水飛沫が硝子戸へぶつつかつてゐる。二杯目のコップを引き寄せて、孝次郎は消えた吸ひさしの煙草に火をつけてまた吸つた。 「貴方がた、こゝで寢泊りをしてゐるンですか」 「さうでがす。末の息子と二人でこゝへ寢てゐます」 「お神さんは?」 「こゝから二時間ばかり行つた半田と云ふところにゐます」 「男ばかりでよく出來ますね」 「大したものをつくるわけでもないから……」  息子が戻つて來た。息子はぼそぼそと父親と話してゐる。親爺のうなづきかたが、あまり香ばしくもなささうであつた。 「駄目ですか?」 「もう止めて、宿屋はしてゐないさうでね」 「困つたなア」 「此邉はまるきり旅館がないンで……」 「さうですかねえ」  これ以上孤獨ではゐられないやうなあせりかたで、孝次郎は二杯目の酒はゆつくり飮んだ。 「明日の朝、汽車へ乘るのかね?」 「えゝさうです」 「さうさ、二疊の狹い處だが、よかつたらこゝで夜明しするつもりで泊つてゆくかね?」 「そりやア結構ですなア──お氣の毒ですが、さうさして貰へば有難いですよ」  泊つてもいゝとなると、氣が拔けたやうに孝次郎はじわじわと躯が疲れてきてゐるのを感じた。 「そこは寒いからこつちへ來て行火にでもあたんなすつたら……」  孝次郎は店の間に自分の荷物をひとまとめにして、コップとおでんの皿を持つて燈火の方へ行つた。 「蒲團もこれきりで、何もないンでね」  燈火の下でみる親爺の顏は、案外、年齡よりも老けてはゐたが、如何にも好人物さうである。息子は父親と共に苦勞してゐるとみえて、しなびた顏立ちで、いつも癖のやうに水洟をすゝつてゐる。二疊の奧は物置と臺所と一緒になつてゐる樣子で、そこから雨風がしぶくやうに時々さつと冷く吹き込んできた。  板壁と障子だけの簡單な造作で寒々としてゐたが、戸外にゐるよりはましである。汚れて模樣もわからないやうな蒲團の中に、猫がまるまつてゐる位の小さい電氣炬燵がしつらへてあつた。孝次郎は濡れて固くなつた靴をぬぐとその小さい行火に足をさし込んだ。親爺も寢酒を一杯やるとみえて、孝次郎と同じやうにコップ酒を疊の上に置いて、息子にうるめ鰮の小さいのを七輪で燒かせた。  さうして、親爺も熱いコップを吹き乍ら飮んでゐる。裄の長いジャンパアを着てゐるので、如何にも實直さうな男だつた。孝次郎はアルマイトの煙草のケースを出して親爺に進めた。 「お世話になりますねえ、全く、この雨には閉口しました。──信州から出て來て人を尋ねたンですが、その家もなくてね……」 「信州は何處です」 「松代の在です」 「兵隊はどうでしたね?」 「えゝ、自分は幸福な方でせうなア……何しろ、生きてかへりたいと一生懸命でしたからね。──自分は、生きてゐたいと思つて、そればかり工夫をこらしてゐましたよ。もう、自分はこれで死ぬンだ、駄目だと思つたらいけないです。どんなことをしても生きてやると云ふ氣持ちさへあれば生きることが出來ます」 「そりやアさうだらうねえ」 「自分は二度兵隊にとられたンですが、二度とも病院行きを考へて助かりました。正直、死にたくはないですからねえ」 「ほう、そんなことが出來るンですか?」 「軍隊位いんちきな處はありませんよ。自分は二度目に召集が來た時は、もう、これでは生きることはむづかしいと思ひました。何しろ、毎日毎日、筏を組んで漂流する練習ばかりしたンですから、そんな事をしてゐるうちに段々自分は怖くなつてきて逃げ出したくなりました……」 「さうさ、どうも、此の戰爭はたゞでは濟まんと考へてゐたが、えらい不始末をしでかしたものさねえ、何しろ向うみずで、勘のやうなもので戰爭を始めたンだから。──可哀想に、私の女房も、息子は死ぬし、家は燒かれるし、娘の亭主も中國へ行つて、いまは子供ごと背負ひ込みで、それに、この子も岡崎の工場で怪我をして腕一本なくしてしまつて……それでもう女房の奴、氣が變になつてしまつてね、氣病みとでも云ふのか、半年ばかりぶらぶらして一向に埓のあかん女子になりましてねえ」  孝次郎は鰮を燒いてゐる息子の方を見た。左手で器用に魚を燒いてゐる。洋服姿なので、云はれるまで氣がつかなかつたけれども、息子が何をするにも無口でひつそりしてゐるのはそのせゐなのかと孝次郎は痛ましく思つた。酒の醉ひも手傳つてか、この親爺の坦々とした話を聞いてゐると、昨日や今日の知りあひでないやうな、何となく長い間の昵懇な間柄でもあるやうな親しさが湧いてきた。  終戰と同時に、北京へ近い、小さい藁生鎭と云ふ部落に集結して、孝次郎の部隊はそこで三ヶ月ばかり暮した。大量に支給された靴下や煙草なぞを部落民に賣つては食物を買つてゐた。部落民はすこしも日本兵をきずつけないで親切でさへあつたのだ。三ヶ月の間、山の中にゐた或る部隊なぞはそつくり八路軍に降伏して行つたと云ふことも孝次郎は風評に聞いた。──孝次郎は始めから此の部隊の兵隊ではなかつた。途中からまぎれこんだと云つてもいゝ程で、孝次郎の原隊はもうとつくに船に乘つて南の何處かの島へ行つてゐなければならない筈だつた。  原隊といつしよに山海關にゐる時、毎日筏を組む練習で段々怖くなりかけてゐた孝次郎は病氣になることを考へついて、或日軍醫の診斷を受けてみた。假病と云ふことが判ればひどい事になると考へ出すと、胸の動悸は早くなり、軍醫の前で顏をあげてゐることが出來なかつた。若い軍醫は孝次郎の脈を計つてお前の心臓は馬鹿に不整脈だな、何時もかうなのかと云つて、一週間も寢ればいゝだらうと診斷してくれたのである。孝次郎の職業は繪描きだつたので、若い軍醫は孝次郎に花の繪を描いてくれと頼みに來たりした。──孝次郎は軍人のなかで、軍醫だけには好意を持つことが出來た。優しくて繪が好きなものが多いと思つた。  病院へはいつて早々、川魚の刺身を食べて孝次郎はひどい下痢をしてしまつた。間もなく北京の病院にうつされたのだけれど、そこの軍醫も亦孝次郎に繪を求めて來た。孝次郎は本當の繪描きではなかつたけれど、繪を描くことは好きであつた。百姓の生れで中學を出ると、須坂の材木會社に勤めてゐたが、繪が好きで、たまに東京へ出ると展覽會をみたり、繪具を買ひあつめるのが愉しみであつた。最初に軍隊から戻つて來た時、田舍で妻を貰ひ、二年目にまた今度の召集だつたのだ。  北京の病院を出ると、今度は混成部隊にはいつて、張家口に行き、そこで一ヶ月ばかり何をするともなく日が過ぎていつた。──終戰となつて、藁生鎭にうつつてからは、もう軍隊のあの怖ろしい規律なぞなくなり、兵隊は只の人間の集團にすぎなくなつてゐた。長い忍耐が兵隊の心を荒ませてゐたのだ。勳章を貰ひそこねたが命は助かるぞと云つてみんなを笑はせた男もゐたけれど、孝次郎は終戰となつたことに救はれるやうな吻つとした氣持ちを感じた。秋が深まるといつしよに、このあたりも蟲の音がしげくなり、兵隊の望郷は一日一日つのつていつた。兵隊の各自は遠い以前の、自分の職業がなつかしくてたまらなかつた。朝になると夢占の話がはずむ。たつた此間まで砲車彈藥車とともに轣轆として續いた規律ある軍隊の流れは、終戰と同時に落ちぶれた集團となつてしまつた。──孝次郎は誰にも目立たないやうに、いつも話の仲間からはづれて孤獨を守つてゐた。自分の生命をこれほどいとしいと思つた時はなかつた。おちぶれた集團のなかの馬鹿な爭論に卷きこまれて、かすり傷一つこしらへるのも怖ろしくてたまらないのだ。兵隊の或る仲間では賭博が流行しはじめた。孝次郎はその仲間にトランプを描いてくれとせがまれて仕樣ことなしにトランプを描いてやつたが、間もなくそのトランプで二人の兵隊が歩哨の銃を向けあふ結果になつたりして、孝次郎はますます小さくなつて暮した。毎日が無爲な退屈で淋しい日常だつた。早く故郷へ歸つて、あの材木會社の拭きこんだ事務机で熱い茶を飮む幸福にめぐりあひたいと、孝次郎は空想した。昔の同輩がみななつかしかつた。厭な奴だと思つてゐた人間までが戀しくてたまらなかつた。とりわけ家に殘して來た初代のおもかげは瞼に描くたびに皮膚がしびれてくるやうななつかしさで、逢ふ日の樂しい場面がはつきりと心に浮んで來る。何處の港へ着くのかはわからないけれども、着いたら電報を打つて驚かしてやりたい。平凡な田舍女だが、別れるときのあの取り亂した姿は孝次郎の胸をかきむしつた。背の低いぼつてりした肉づきが夢のなかで時々孝次郎の首を抱きにきた。待つて待ちくたびれてゐるに違ひない。母は初代は三人前も働く女だと自慢してゐたが、その力は、自分をしつかり愛してくれてゐる力なのだと孝次郎は初代が不憫であつた。疲勞で斃れる馬なぞを見ても、三人力で働いてゐる百姓姿の初代を思ひ出して、孝次郎はものがなしくなるのだつた。孝次郎は兵隊になつても前線と云ふものを知らなかつたけれど、そんな處へ行けば、自分のやうな小心なものは發狂してしまふに違ひないと思つた。病院生活をしてゐる間に、孝次郎は前線から送られてきた數百人の負傷兵を見た。どの兵も苦痛に呻吟してゐた。なかには汚れた血色のない頬に涙を流してゐる者もゐた。だが、あの負傷兵の鼻を突きあげるやうな臭氣を生涯忘れる事は出來ない。これは正常な人間の營みではない。これは異常な事なのだと孝次郎は心のなかで、まるで地獄の世界だと思つた。──板の間にぴつしりと毛布一枚で寢かされてゐる負傷兵は悲慘な姿のまゝで軍醫を呼んでゐる。擔架に寢てゐるものは連れてこられたまゝそのまゝ息を引きとるものさへあつた。あまりの苦痛のために狂人になつてしまふ負傷兵もゐた。孝次郎はこの慘めな兵達をみて、人間生活の貧弱な才分と云ふものを、動物よりも劣つてゐるとしか考へやうがなかつた。この兵隊達が故郷を出る時は、故郷の人達は旗を振つて送つてゐるのだ。自分も亦數人の肉親や知人に送られたのだけれども、その時、どの人も、行つて來いよ、御奉公頼むぞと云つた言葉が孝次郎には忘れられない。御奉公すると云ふのは、武器を持たないでライオンの柵のなかを掃除に行くやうなものだつた。皆、大なり小なり傷ついて送られてかへつて來る……殺菌劑と排泄物のあのすさまじい匂ひだけでも人の心を焦々させるやうだつた。そのうへ兵隊はみんな虱だらけだ。  孝次郎は何とかして此の異常な渦の中に卷き込まれまいと念じた。逃げられるものなら逃げ出したいのだ。生きてかへると云ふ事に孝次郎は希望を捨てなかつた。心の中では大膽に自分の生命を守る事に工夫を練つてゐた。  いよいよ夢に考へてゐた終戰となつた。何時の日にかは祖國へ送られる日が來る……。だが、まだ、故國へ着くまでには遠い山河があるのだ。孝次郎は自分の兩手を眺めて、よし、もう一息だと云ひきかせた。いまは廢墟と化してゐるといふ祖國へ、泳いでもかへりつかなければならないのだ。行つて來いよ。御奉公頼むと云つた人達に、孝次郎は腹を立ててゐた。みんな虚榮心ばかりで生きてゐるやうな人達に對して、孝次郎は哀しいものを感じた。──早くかへつて何よりも花のやうな美しい繪を描きたい。美しいものを見ないではゐられない、甘美いものを食べないでは生きられない、女を愛さずにはゐられない、これが人間の生き方なのだ。孝次郎は、動物達が山谷の自然にたはむれて無心に生きてゆく生活を羨ましく空想してゐた。どんなにもがいたつて、人間はたつた五十年しか生存出來ないとすれば、人間のいままでの發明は、あまりに人間を慘めに落しすぎるものばかりではないだらうかと、孝次郎は、かうした異常な生活をくりかへしてゐる人間の淺墓な生活ををかしく思はないではゐられない。短い壽命を、いゝ生き方で埋めきれない人間生活の運命を不思議に考へるのである。呟くやうに、孝次郎は自分が何時の間にか二十九歳になつた事を何度も心に反芻してゐた。戰場に放浪してゐたこの月日が惜しまれてならない。原隊にゐる時、毎日筏を組んで死ぬ訓練をさせられてゐた或日、一人の上官は、なまけてゐる兵隊を叱つて、「死ぬことを思へば何だつて出來る筈だツ」と云つてゐたのを孝次郎は何時までもおぼえてゐた。生きようと思ふからこそ何でも出來るのであつて、死ぬと思へば、いまそこで舌を噛んで死んだはうが至極簡單だよと、叱られてゐた兵隊が蔭で云つてゐたけれども、孝次郎も同感だつた。死ぬる苦しみと人々は云ふけれど、死ぬる苦しみと云ふ事は孝次郎には漠としてとらへどころがない。生きる苦しみと考へた方が孝次郎のやうな男には實感があつた。  一月×日朝、まだ夜のしらじら明けに佐世保へ上陸して、孝次郎は土に落ちてゐる煙草の空箱をひらつた。パラピン紙に包まれた箱には駱駝の繪が描いてあつた。黄いろい沙漠と、黄いろいピラミッドと、三本の椰子の木の模樣は如何にもアメリカの煙草の箱らしく垢拔けのしたものだつた。CAMEL と云ふ白い文字もすつきりしてゐる。祖國へ着いてこれが最初の色彩だつた。  殘務整理で、どうしても佐世保へ一泊しなければならなかつたので、孝次郎は、變り果てた祖國の姿を見て沁みるやうな淋しさを感じた。子供のやうに涙があふれてくるのをせきとめる事が出來なかつた。一緒にかへつて來た兵隊もみな泣き出したいやうな表情をしてゐた。こんな不運にはいつたい誰がしたのだ。……こんなになるまで、どうしてみんな默つて我慢をしてゐたのか孝次郎には不思議でならない。白々とした廢墟の姿は日本人の本當の告白を表現してゐるやうでもある。この景色は嚴肅でさへあつた。港に兵隊が上陸したせゐか、いろいろな姿をした人達が彷徨うてゐた。小雨が降つてゐた。孝次郎達は寒いも暑いも感じないほど季節には鈍感になつてゐた。──兵隊は、何となく、何も彼もに少しづつ嫌惡の心を深めていつてゐる。人生に對するさまざまな哀しみがこれほど一度に兵隊達の心におそひかゝつて來た事はあるまい。家がないだらうと案じてゐる者、肉親が生存してゐるだらうかと案じてゐる者、これから職業がみつかるだらうかと不安になつてゐる者、戰場での空想は、祖國へ上陸してみれば、いまはみんな儚ないうたかたのやうなものであつた。  三日目の夜、孝次郎は松代に着いて驛に出迎へてゐる父親に逢つた。逢ふなり、孝次郎は父親にひつぱられるやうにして暗い畑道の方へ出て行つた。孝次郎は雪道を歩きながら泣いてゐた。何かものを云へばすぐ涙になるのだ。 「お前が生きとつたンで吃驚した」 「一生懸命、自分は、生きてかへりたいと思つたンです」 「お前は死んだ事になつとつたンだぞ。お前の隊の者は、おほかた南の海で戰死したと云ふ事だし、役場の知らせもあつてな」 「何時の事です?」 「去年の春だよ」 「戰死した事になつてゐるンですか?」  昏い山々はひしめきあつて風を呼びあふかのやうに、何處からともなくごおうとすさまじい音をたててゐる。頬を凍らすやうな霙混りの寒い風が吹いた。今夜は吹雪になるのかも知れない。父親は町の方へ歩いて行つた。孝次郎は不思議だと思ひながら、父親の後から荷物を背負つてついて行つた。 「家へは行かないンですか?」 「あゝまア、支度がしてあるので、一杯飮まう」  小さい旅館のやうな家へ父親は這入つて行つた。割合廣い梯子段を上つて、奧まつた部屋へ這入つて行くと、炬燵の上に廣蓋が乘つてゐて、その上には徳利や盃が置いてあつた。薄暗い燈火の下で 父親はインバネスをぬいだ。 「それでも、よく生きてゐたぞ。夢のやうださ。痩せもせずにようかへつてくれた……」 「自分はねえ、どんな事があつても生きてゐたいと思ひましたよ。生きて、お父さんやお母さんに逢ひたいと思ひました」  父の作太郎は一寸眼をしばたゝいた。二年逢はないうちに、父もだいぶ年をとつてゐた。 「辛かつたらうなア……」  父がふつとさう云つた。孝次郎は急にハンカチを出して顏に當てるとくつくつと聲を出して泣いた。生きてかへつた事が嬉しくてたまらなかつた。不安な臆測が何となく影のやうに心の中を去來してゐたが、そんな事も父の言葉ですつと消えてしまつた。たゞ嬉しくて嬉し涙がふつふつとたぎつて來る。 「お母さん丈夫ですか?」 「あゝ丈夫だとも、皆、うちのものは元氣だ……」 「さうですか……そればかり案じてゐました」 「さア、寒かつたらう、一杯どうだ」  ぬるくなつた徳利を持ちあげて作太郎が盃を差した。大きい盃に酒はなみなみとつがれた。父は息子につがして、自分も盃を二三杯いそいであけた。暫く妙な沈默がつゞいた。孝次郎は少しばかりまた不安になつてきてゐる。 「實は、あの電報をおふくろさんが受取つてわしに見せたンだが……わしはあの電報を見てな、毎日考へあぐねてゐたのさ……戰爭が濟んですぐな、初代は總三郎の嫁にしてしまつたンだよ、──お前にどうして申譯したらよいかと心配してなア……」  孝次郎はあゝさうだつたのかと、暫く默つて膳の上をみつめてゐた。小女が鰊と昆布の煮た皿を運んで來た。障子がひとところびりびりと風に鳴つてゐる。  總三郎は孝次郎の次の弟で、日華事變で二年ばかり兵隊に行つてかへると、家にゐて百姓を手傳つてゐた。實直者で、孝次郎は一番好きな弟だつた。自分が戰死したとなれば、どうしても總三郎が家を繼がなければならなかつた。 「初代は元氣ですか?」 「あゝよく働く女で、總三郎と二人で馬車馬みたいに働いとるでなア……」  作太郎はかうした因縁になつた事を正直に委しく話してくれた。──孝次郎は二人が不憫であつた。初代は總三郎よりたしか二つ年が上の筈だつたが、兄の女房を押しつけられて馬車馬のやうに働いてゐると云ふことを聞くと、孝次郎は誰も憎めなかつたのだ。戰地で、毎日空想してゐた子供のやうな數々の思ひからすつと虚脱したやうな空白な心になつてゐた。作太郎が便所へ立つて行つた。障子を二三寸開けたまゝで出て行つたので、そこから肩をさすやうな寒氣がすうつと吹き込んで來る。孝次郎は疊の上にごろりと寢轉んで眼を閉ぢた。瞼の中に大きい駱駝の繪が浮んだ。白々と酒の醉ひも醒めたやうだつた。父から委しいことを聞いて、かへつていまでは清々した氣持ちでさへある。初代のおもかげも何となく霧の中に消えてとらへどころがない。躯が疲れてゐるせゐか、肉體的な苦しみもなく、すべては何も彼もいまは藻拔けの殼になつてゐる感じだつた。 「たうとう吹雪になつた。ひどい降りだぞ」  作太郎が躯をかゞめるやうにして戻つて來た。 「自分は考へたンですがねえ。やつぱり家へ行かない方がいゝんですね。──自然なかたちで、解決するには、もうすこし日をかけた方がいゝから、自分は明日にでも名古屋の友達のところへ行つてみようと思ふンですが、お父さんはどう考へますか。正直云つて、自分は、家へかへりたくないンですよ……」 「さうさなア……わしもいろいろ方策をたててゐるンだが……」 「どうしたら一番いゝことになるンですかね?」 「兎に角、お前がさつぱりしてくれて嬉しいよ。怒りはしないかと心配してね、おふくろも毎日そればかりぐちを云つて、お前を可哀想だと言ふのさ……」 「怒つたつて仕樣がないでせう。初代もあれと一緒になつて、幸福にいつてゐると云ふのですから、それはもう一番いゝ事です。──只、自分の問題ですが……當分、名古屋か東京に出て、將來の事を考へてみようと思ひます……」  正直な人たちには刄向へないやうな哀れなものを感じると同時に、また孝次郎は生命を大切にこゝまで運んで來た自分の努力をも哀れになつてきてゐる。自分が生きたいから生きてきたといふ心の片隅に、肉親への強い愛情もあつたのだぞと、恩をきせるやうな思ひもなかつたとは云へない。  膳の上には何本か徳利が並び、夜は更けていつた。次の部屋ではさつきの小女が蒲團を出してゐる氣配がしてゐたが、それもすぐ靜かになつた。作太郎は炬燵をはぐつて炭をついでゐる。 「今夜、こゝへ泊つていゝのですか?」 「あゝ俺も泊るのさ……」 「久しぶりにお父さんと寢ますかね」  作太郎はまぶしさうに笑ひながら蒲團から顏を出した。二人ともいける方なので、仲々寢ようとはしなかつた。しまひには酒の肴に野澤菜のお葉漬けを肴にして酒を飮んだ。とりとめもないいろいろな話が諄々と繰り返された。作太郎は、原隊から離れて混成部隊について生命を助かつた息子の話を一番面白さうに聞いてゐた。十二時近くになつた、酒がもうなくなつたと小女が知らせて來た。酒は作太郎が米や炭と一緒にたづさへて來たものである。やつと寢る氣になつたのは一時頃であつたらうか。孝次郎は隣室から蒲團を引つぱつて來て炬燵を眞中にして敷いた。父親には壁の方に寢て貰つた。孝次郎は服をぬいで襯衣のまゝ障子ぎはの蒲團へもぐり込んだ。幾人かの人が此の蒲團に寢たのであらう。人間的なかびくさい臭ひがした。孝次郎は仲々眠れなかつた。明日の朝早く母が來ると云ふことを聞いて、孝次郎は切ない氣持ちだつた。作太郎は床に就くとすぐ老人らしいいびきをかいて眠つた。ゆるく涙が耳へ流れこんでくるまゝにまかせて孝次郎は蒲團の中で暫く行く末の事を考へてゐた。右の唇尻に黒子のある總三郎の笑つた顏が浮んで來た。四キロも行けば肉親のものが眠つてゐる家があるのだ。初代も總三郎のそばで泥のやうに眠つてゐるのだらう。平和に暮してゐる者を驚かせたくはなかつたが、それでもこのまゝでは物足りない氣持ちもしてくる。とりとめもなく妙な女の顏も浮んで來る。九州から只一筋に汽車でこゝまで來ただけでは、この世の中がどんなになつてゐるのか見當もつかなかつた。障子の外の硝子戸に時々雪が吹きつけてゐた。この凍るやうな故郷の空氣をもう一度吸ひたいと願つたけれども、現實となつたいまではたゞあまりに寒いと感じるだけである。明日からは何の目的もなく、希望もなく、只無爲に心の苦しみだけで生きてゆくのだと思へば、これが生命の助かつた自分への報償だつたのかと、孝次郎は、うん、さうかさうかと自分にうなづくより仕方がない。一番辛かつた筈の配所の藁生鎭の生活がいまではなつかしくさへなつてゐた。  孝次郎は、ふつと母親のうめの聲で眼が覺めた。首をあげると、うめは泣き腫れたやうな眼をして笑つて枕元に坐つてゐた。入齒がなくなつてゐるので、血色の惡い唇の中が暗くみえた。 「お前、よう戻つて來たなア……」 「何時來たンです?」 「早う來たンだけど、お前を起しては惡いと思つて、お父さんと話してゐたのさ……」 「何時かな、隨分よく眠つたものだなア」  孝次郎が襯衣のまゝで起きると、うめは立つて、炬燵であたゝめた宿のどてらを孝次郎に着せかけてくれた。 「味噌汁もさつきから煮えとる」  道理でいゝ匂ひがした。四圍はまぶしい位明るくて、入口の縁側には陽が射してゐた。顏を洗ひに階下へ降りて行くと、手水鉢の水が木の葉を浮べたまゝ凍りついてゐた。昨夜だいぶ寒かつたと見えて、庇から牛の角のやうな汚れたつらゝが何本もぶらさがつてゐた。手水鉢の置いてある狹い庭にはさらさらした新しい雪の山が陽に光つてゐる。孝次郎は久しぶりでしみじみとよく眠れた。部屋へ戻ると、うめは始終おづおづしてゐた。佐世保からほとんど飮まず食はずだつたと云ふと、うめはもう兩眼から涙を溢れさせて、「むごらしい、むごらしい」と袖を鼻にあててゐる。孝次郎は白米の飯を四杯も食べた。甘美いと云ふよりも、むさぼるやうな食慾だつた。  ──材木會社もいまは勤めてゐる人達がほとんど變つてゐる樣子で、うめは女らしく細かいことを一つ一つ報告した。去年の秋は一ヶ月も雨にたゝられて、家の田も不作で、はんれんにかけた稻がそのまゝ芽を吹きかけたのもあると話した。うめは餅を風呂敷いつぱい持つて來てゐた。醤油につけながら食べる餅は孝次郎に子供らしい郷愁をそゝるに充分であつた。このまゝ家へかへつて皆に逢ひたいと云ふ念がしきりである。  一ヶ月ほどこの近くの温泉にでも行つて躯をやすめてはどうだと作太郎がすゝめてくれたけれども、孝次郎は二日ばかりその宿で昏々と眠つて暮した。夜になるとうめの運んで來た酒を飮んで夜は晩くまで獨りで呆んやりと炬燵で起きてゐた。あんなに戀しかつた人達にも段々逢ひたくなくなつて來た。繪を描きたいと云ふ希望も薄れて只、このまゝの姿で呆然としてゐたかつた。何も彼もさつぱりしてゐる筈だのに、このものうい憂愁の本體が自分でも突きとめられなかつた。この生活から明日にでも飛び立たうとすると、その怖ろしい冒險がいらいらして迫つて來ることに耐へられなかつた。兵隊に行つた爲に、すつかり人間が駄目になつてしまつたのかも知れないと孝次郎はさういふふうに考へた。何をするのも厭で堪らないのだ。何かじつくりと考へようとすると、すぐ反射的にこみいつたつまらないことがごたごたと浮んで來る。首を振つたり手で拂ひのけてもどうにもならない。執拗なほどになにかにとりつかれてゐる。自分さへこのまゝ消えてしまへば、どの人にも好都合が與へられるのだが……だがこの自分はこのまゝ素直には消え失せてはゆけない。初代はあの時の別れの辛い氣持ちを引きずつたまゝではもうゐなくなつてゐるのだらうか……。色あせた思ひ出をいまではまるきり忘れてしまつたかのやうにして、總三郎へ女の心を一心にそゝいでゐるのだらうか……。不思議であつた。女のその素直な心が怖ろしくてたまらなかつた。三人前も働く便利な道具として兩親は、總三郎の嫁に初代を押しつけたのだとしても…。初代のその頃の心のありかたが孝次郎は知りたかつた。なりふりを構はない、如何にも根つからの田舍の女で、玉葱のやうに新鮮な躯つきだつた。孝次郎と一緒になつて病氣一つした事もなく、朝はいつも四時頃から起きて爐の火を焚きつけてゐたし、夜も晩くまでこまごまと働く……。孝次郎が須坂に勤め、下宿をするやうになつてからも、初代は家にゐて、月に一二度位しか孝次郎のそばへやつて來なかつた。お前は誰の處へ嫁に來たのか判らないねと冷かした事があつたけれども、それほど初代は孝次郎の家から離れる事が出來なかつたのだ。  孝次郎は二日も昏々と眠つて暮したせゐか、寢飽きてしまつて、いまも所在なく思ひ出す事は初代のその頃の面影である。──この旅館は官吏とか商人が泊るとみえて、割合ひつそりしてゐた。夜が更けると、汽車の汽笛が四圍に響くのと、時々手水場の板戸の音がする外は、部屋の火鉢にかけた鐵瓶がちんちんとたぎつてゐるだけ、かうした靜かな部屋で、孝次郎はふつと名古屋にゐる中學時代からの仲のよかつた友人を思ひ出した。陶器を販賣してゐると云ふ風評を聞いてゐるだけで、此頃の樣子は判然とは知らなかつたけれども、尋ねて行けば、何とか片肌ぬいでくれるやうな氣がしないでもない。津田と云ふその男は、小さい時からひどい近眼だつたので、兵隊にとられる氣づかひはないのだ。そこへ頼つて行くことに何となく考へはきまつた。今朝、うめが昔の外套や襟卷きと一緒に背廣までとゞけてくれたので、退屈なまゝにいまもその品を引き寄せて、孝次郎はなつかしさうに眺めてゐる。鼠色の襟卷きはたしか五圓足らずでずつと以前に長野の洋品店で買つたものだつたが、あの頃は何でも安かつた……。第一、黒いウールの外套だつて五拾圓とは出してゐない筈だ。女衆がナフタリンを入れといたとみえて、ナフタリンの香りがぷんぷん匂つてゐる。背廣には知らない人の昔の名刺までがくしやくしやになつてはいつてゐた。  ──孝次郎は少しばかり殘つてゐる一升壜を引きよせて徳利にあけると、自分で燗をして手酌で飮んだ。行く末の肝腎なことが少しもきまらない侘しさやもどかしさを、孝次郎は辛うじてこの酒でまぎらしてゐるかたちだつた。  自然な折が來るまで、名古屋のその知人の處で働いて、その上で皆に逢ひにかへりませうと云ふ約束で、孝次郎は名古屋へ發つて行つたけれども、尋ねる住所は燒けてゐて、津田の行つたさきは雲をつかむやうでわからなかつた。孝次郎は雨の中を一日名古屋の街をあるいた。歩き疲れて名古屋驛の廣い構内へ這入つて、何と云ふこともなく改札の長い行列にもついてみたが落ちつかなかつた。無切符では行く當てもない。廣い三等待合室は放浪者の集合所のやうになつてゐて、男も女も子供も老人もひしめきあつて寢場所をつくつてゐる。何といふ激しい變化なのかと、孝次郎は滿州や中國の驛々で見た、かつての景色を思ひ出してゐた。澤山の巨きな圓柱に支へられた美しい名古屋の驛も、建物が大きいだけに、その中に宿もなくひしめきあつてゐる人々の群がみじめに見えて仕方がない。雨は少しも止まなかつた。一日中歩いたせゐか、寒さが骨身に沁みてくる。驛の外側へ出てみた孝次郎は旅館でもあれば足をのばしたかつた。驛の燈火が明るいので、雨は風の吹く方へきらきら光つて降つてゐる。空中に滴る雨の音や、雨の光りの向うは、もう燒野原なのか街は暗くて遠くまで海のやうに不氣味だつた。その海のやうな闇のなかをジープのライトが雨の中に煙つた光りの縞を描いては走り拔けてゆく。何處からともなく旅行者が思ひ思ひに荷物を背負つて、躯から雨雫を滴らせながら驛へ這入つて來た。孝次郎は呆然として柱に凭れてゐた。躯の髓の髓まで雨水が浸みこんできさうだつた。戰場の記憶が落葉のやうにあわたゞしく降りかかつて來る。そのあわたゞしく移りゆく記憶の波が、現在の孝次郎にはたまらなく淋しく辛かつた。無茶苦茶に人に話しかけてみたい欲望が湧いてくる。自分と同じやうな年配の男を見ると、孝次郎はかつての戰友を見るやうな哀しい氣持ちだつた。人と話がしてみたくて仕方がない。いつたいこんな燒野原になるまで、どうして人々は我慢をしてゐたのかと尋ねたかつた。驛の三等待合室にひしめきあつてゐる家なしの人達の不運さを誰がつぐなつてやるのだらうか……。還つて來たばかりの孝次郎は腑に落ちないことだらけだつた。民衆のあらゆる能力や勞力をこき使つた揚句の果てが、こんな落ちぶれかたになるのかと腹が立つて來る。その腹立ちが苛々と色濃く迫つて來た。忠義に死んだものが馬鹿をみたではないか、死んだものを呼びかへして來いツ。自分だつてこゝに立つてゐるのはまだ幽靈なのだぞ。孝次郎は勇ましい戰死者になつて、かうした孤獨さに置かれてゐることが口惜しかつた。穢いものに首を突つこんだやうに息苦しかつた。人生に對して、段々と堪らない嫌惡感が胸につかへてくる。自分もこのまゝで、運命の繩をつかみそこねたら、襤褸を接ぎあはせて着なければならぬのだ。雪の夜、作太郎にあつて激しく咽び泣いた時のやうな清らかな慟哭が孝次郎の兩の耳を痛くした。 「何しろ歩いて歩き疲れて、旅館でもあるかと驛から市電へ乘つて、偶然こゝへ降りたンですよ。──嬉しかつたなア、こゝの燈火が眼についた時は……」  親爺は炬燵の夜具の上へ汚れた毛布をかけた。息子はもう安らかな鼾をかいて眠つてゐる。敷布もない薄い敷蒲團に海老のやうに縮まつてゐる姿が可愛らしかつた。夜が更けるにつれて、雨の音は激しくなつた。西風が強いので燒野原を吹きつける雨脚は猛烈ないきほひでバラックの板屋根を叩いた。 「これで、外地から戻りなすつた人も、いろいろと變つた事情になる人が多いでせうなア、うちのも、ひよいとしたら、ビルマでぴんぴん生きてゐてくれるといゝンですがなア、はつはつはつは……」 「何時來たンですか? 戰死の知らせは……」 「十九年の夏でしたよ。去年、遺骨も貰ひましたが、あの遺骨も開けてみたら土だけでね……」 「生きて戻る兵隊も隨分多いことでせう……」  障子ぎはの柱へ背を凭れさして孝次郎は煙草を咥へた。臺所の暗がりには雨漏りの音。親爺が何時頃でせうかと聞いたけれど、孝次郎の古い腕時計はとまつてゐる。大分更けたらしいけれども、騷々しい雨の音でそんなに晩くもないやうな氣がする。 「冷えて來たから、をぢさん、どうです? もう一杯やりませんか……」  二杯の酒をもうずつと前に飮みつくして、いまはもう醉ひも醒め果ててゐた。何にしても隙間漏る雨風は身にこたへて深々と寒い。親爺は土間へ降りると新聞紙をまるめて、木片を七輪に入れて燃やした。その上に煤けたやかんをかけると、暗い臺所へ行つて片口に酒をついで來た。 「をぢさんも一杯やつて下さいよ。自分に、一つ御馳走さしてもらひます。この雨を見ただけでも命びろひですからねえ……」 「酒は好きでならないンだが、かう高くちや冥利に盡きると思つてね。何でも馬鹿高いンで眼をまるくしちまふのさ……働くのも樂ぢやないでね。──それでもまア、燒け死ななくてよかつたと思つてるのさ。お客さんも言ふとほり、死んぢまつちやア何にもならン」 「本當ですよ。長生きをして、もう一度、どうにか落ちついた世の中をみとゞけなくちやアいけませんよ。生命は大切ですからねえ」  聞いてみれば、自分だけが不幸なのぢやないのだ。息子を戰地へおくつたり、工場へ出したりして、祖國を想へばこそ、無理な長い戰爭にも此の人達は耐へ忍んできた。どの人も泣くだけ泣いたあとのやうに何も彼もあきらめかけてゐる……。だが、そのあきらめは空なあきらめではない。いままで只の一度も自分達の國家だの、政治だのを考へてみた事もないつまらない女達までが、この敗戰で、しみじみと國の姿を手にとつて眺める氣持ちになつてゐるのだ。誰に氣兼ねもなく手離しで泣き合へた人々の心の中には、少しづつでも小さい希望が與へられてきた。戰爭最中の、あの暗い不安な氣持ちを續けるよりも、戰ひに敗けてよかつたと思ひ、誰もが、現在に吻つと息をついてゐるかたちだつた。 「一時位ですかな……」 「さア、もつと晩いでせう。一時頃まで自動車も通つてゐますが、もう、さつきから往來も杜絶えましたからね」 「をぢさん眠いでせう? 濟みませんねえ」 「いやア、年寄のくせに、私も夜はいつまでも起きてゐる方で、──東京行きといふと朝は何時ですかね?」 「さア、切符を買つて、間にあつた汽車に乘るつもりです」 「切符は買へますか?」 「えゝ、還つたばかりですから、何とか……」  酒をついだやかんがしゆんしゆんと沸いてきた。親爺はよつぽど熱燗が好きとみえる。コップがピンときさうな熱くした酒をついだ。孝次郎はその熱いコップの縁を五本の指で摘みあげるやうにして口もとへ持つて行つた。熱いのを二口三口飮むと、冷えた躯には、煙のやうな微醺がたゞようてくる。 「お神さんもお氣の毒ですねえ……」  さつきから初代を思ひ出してゐたので、つい氣病みだといふお神さんのことへ話が飛んだ。 「何ね、いまにはつきりしますさ。──肴がなくて、とろろ昆布でも食べますか?」  親爺は棚から紙袋を降ろして、手づかみでとろゝ昆布を新聞紙の上にあけた。車軸を流すとまではいかないけれども、風まじりの雨は相當吹き荒れて、板屋根に掃きつけるやうな音をたててゐる。 「珍しく長雨で、どうも閉口ですよ、この雨には……」  親爺は酒を飮まなかつた。息子の寢姿に凭れるやうにして横になつた。電氣が一二度明滅したが、もち堪へる力もないやうな、儚ない消えかたで停電してしまつた。暗いなかに血の管のやうな最後の電氣の光りが何時までも闇のなかに浮いて見えた。七輪の殘り火が急に華やかに燃えてゐる。最後の酒を飮み干すと、コップを土間へ置いて孝次郎は横になつた。疲れた頭の中には斷々な事しか浮んで來ない。  崖の上からコオルタールを流すやうに、兵隊の大群が流れ落ちて來る氣持ちの惡い夢を見て、孝次郎はあゝ厭な夢だと、黒板の繪を消すやうなかつかうで、片手で顏を拭いた。薄眼をあけると、店の硝子戸は灰色に明けかけてゐる。雨も小降りになつたと見えて、ごぼごぼと靜かに水の流れる音が近くでしてゐた。親爺は寢た時のまゝで、寒さうに毛布に顏を埋めてゐる。息子もまだ鼾だ。電氣の切れた炬燵には、薄々と冷い風がこもつてゐるやうだつた。あんまり寒いので、孝次郎はそつと起きて店の椅子にかけておいた外套を取りに行つた。地の薄い外套は雨に濡れてじつとりしてゐた。何氣なく外套のポケットへ手をつつこんでみると、佐世保でひらつたカメルの空箱がくしやくしやになつて這入つてゐた。捨てがたいので持つて來たのだらう。カメルの駱駝がふくふくに暖かい色彩だつた。四ツばかり並べた椅子を寄せて、孝次郎は濡れてゐる外套をまたその上に擴げた。何處へ行くと云ふ當てもないけれども、まだ二三時間はこゝにゐられるのだ……。孝次郎は厠を探しに店の戸を開けて戸外へ出て行つた。表は案外廣い電車通りで、細葱をいつぱい積んだ荷車が一臺店の前に停つてゐた。 底本:「林芙美子全集 第五巻」文泉堂出版    1977(昭和52)年4月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:しんじ 校正:阿部哲也 2018年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。