ロバート・ボイル 石原純 Guide 扉 本文 目 次 ロバート・ボイル 物化学の起り ボイルの生涯 物化学上の仕事 そのほかの研究 物化学の起り  自然には非常にたくさんの種類の物質があって、それぞれ性質を異にしているのは、誰でも知っている事がらでありますが、それらの物質はいろいろなはたらきによって互に変ってゆくので、それで我々人間は都合のよいものをつくって、さまざまの目的に利用することができるのです。ここに実に奥深い自然の妙味があるので、それですから我々はまずそのような自然のはたらきがどう起るかを研究し、それを知らなければなりません。自然のはたらきの中で、物質の変化を研究する学問を物化学(又は化学)と名づけていますが、ごく古い時代には、それもはっきりした意味では考えられていなかったので、とかく人間は自分勝手な虫のいいことばかり望んでいたのでした。例えばいろいろな金属のうちで黄金がいちばんすぐれたものとして尊ばれていたので、そこでほかの金属、すなわち鉄や鉛や銅などに何かのはたらきを加えて、それを黄金に変えようとして、大いに苦心を重ねたのでした。これはその頃錬金術と呼ばれていたので、その起りは古く紀元前三、四世紀頃にエジプトで始まったとも云われていますが、その後アラビヤを通じてヨーロッパに入り、十七世紀頃まで千数百年も続いたのでした。それでも実際にその頃やっていたような方法で黄金のできる筈はなかったので、それには何かの魔法が必要だと云われるようになったり、また後の時代になっては黄金をつくることはあきらめて、むしろ不老長生の薬を探し出そうということにも変って来たのでした。今から考えると、いかにもそれらはばかげているように見えますけれども、しかし古い時代にはそれも止むを得なかったのでありましょう。  ところで、そういうまちがった考えかたを改めさせて、現在のような正しい意味での自然科学をおこすのには、すぐれた科学者が出なくてはならなかったので、この前にお話ししたイタリヤのガリレオ・ガリレイなどは実にその最初の人だと云ってもよいのですし、それに続いていろいろな国にたくさんの科学者が現れて来たのでした。そのうちで物質変化に関する学問、すなわち物化学の基礎を据えたと云ってよいのが、ここでお話ししようとするロバート・ボイルなのです。 ボイルの生涯  ロバート・ボイルはアイルランドのコルク伯爵家の所領リズモア城に於て領主リチャード・ボイルの第七男として一六二七年一月二十五日に生まれました。家柄がよいので、何も不自由なく育ったわけで、イートンの学校を卒業してから後にフランスや、スイスや、イタリヤに旅行して見聞を広めたのでしたが、その間に父親が亡くなって、その財産所領の一部を譲られました。一六四四年にイギリスに帰って、イングランドの所領に住み、科学の研究に従いましたが、一六五四年になってオックスフォードに移り、その後一六六八年にはロンドンに出て、その長姉のもとに寄寓しました。それというのも一生を独身で過ごしたからで、ロンドンでは当時の著名な学者ニュートンやフークなどと親しく交りました。その間非常に多忙でもあったので、一六八九年頃によほど健康をそこなうようになり、それからは静養に努めましたが、一六九一年の十二月三十日に遂にこの世を去りました。ちょうど二十余年間生活を共にしていた長姉が亡くなって数日後のことであったそうです。  ボイルの科学上の仕事については、次に述べますが、その頃の諸学者と相談して、ロンドンに始めて王立協会を組織したことは、当時の学界に対する大きな貢献の一つです。この王立協会というのは、大体は我が国に現在設けられている帝国学士院と似ているものですが、その学界に於ける活動は非常に盛んであったので、有力な会員たちが集まって科学の問題について討論をなし、また機関紙を発行して学問の進歩を大いに促進させたのでした。  ボイルはこのように科学のために非常に力を尽したほかに、神学の研究をしたり、また東洋の言語をも学んで、自ら東インド協会の会長ともなりました。これ等の事実を見ても、ボイルが単に科学者としてのみでなく、種々の方面に教養の深かったことがわかるので、その事がまた科学者としても最も正しい道を踏み歩ましめたのだとも考えられるのです。 物化学上の仕事  前に述べたように、ボイルは本当に正しい意味での物化学の基礎を据えた人であったといってよいのでした。それはつまり物質の変化について、人間が勝手にこれを考えてはいけないので、何よりもまず実際の事実をつきとめなくてはいけないということを、はっきりと自覚したところにあったのです。これは科学にとって最も根本的な大切な考えなのであります。彼の書き記したなかに、こういう言葉が述べられています。 「物化学者はこれまでは、高い見地を欠いていたところの、ごく狭い原理で、自分たちを導いていました。彼等は単に医療に役立たせるために、そしてまた金属を変質させるためにのみ、彼等の問題を眺めていたのでした。私は物化学をまるでそれとは違った見地で取扱おうと試みました。それは医者としてでもなく、錬金術者としてでもなく、むしろ純粋に自然科学者として取扱おうとするのであります。」  そして本当に謙虚な一人の自然科学者として、ボイルはまず実験や観察を試み、そこにいろいろな事実を見つけ出そうとしたのでした。 「人間には、科学の進歩は彼等の狭い興味であるよりは、寧ろ心の奥に深く横たわるものでなくてはならない。我々が実験を行い、観察を集め、予め考察に入り込む現象をよく確めないうちには理論をつくらないという心がけを以てすれば、世界に対して最大の貢献がなされるに違いない。」 とも述べています。これこそまことの自然科学者の道であるのに相違ありません。そして物化学はここに初めてその正しい道を歩み出したのでした。  ボイルの時代には、なお昔のギリシャの頃の哲学者アリストテレスの説に従って、物質の根源をなす元素は火、土、空気及び水の四つであるとする考えや、その後の錬金術者の説く処に従って、塩、硫黄、及び水銀を元素であるとする考えが一般に広がっていました。  ボイルはしかしそういう古い考え方に囚われないで、実際事実の上でいろいろな物質を分解してみて、もうこれ以上分解されないと見られるものを元素と見做そうとしたのでした。つまり元素は、人間の考えの上で定められるものではなく、自然の事実を調べて見つけ出してゆかなくてはならないということを、はっきりと言い現したのでした。もちろんボイルの時代にはたくさんの元素が知られているわけではなかったのですが、それでも錬金術者がいかに苦心して変えようとしても変えられなかったいろいろな金属、すなわち金、銀、銅、鉄、鉛などはどれもボイルの言った意味での元素であることが、だんだんにわかって来たのでした。  ボイルのもう一つの大切な仕事としては、混合物と化合物との差別を初めてはっきりさせたことです。物質がいろいろ変化してゆく際に、お互に混り合っても、もとの性質がそのまま失われずに残っている場合と、そうでなくてまるで性質の変ってしまう場合とがあります。  例えば水に砂糖や塩を溶かすと甘い水や、からい水が出来るのは誰でも知っているでしょうが、その際には砂糖の甘味や塩の辛味は水に溶けてもそのまま残っているのです。これはそれが単に混合しているだけであるからで、ところがそれとは違って、例えば酸素と水素とから水がつくられるというような場合には、水には酸素や水素の性質はまるで見られません。これは水が酸素と水素との混合物でなくて、化合物であるからです。  もちろんボイルの頃には、酸素や水素などの気体もまだ見つけ出されてはいなかったので、今では普通に知られているこれ等の事がらにしても一向にわかってはいなかったのですが、それでいてボイルが混合物と化合物との差別をはっきりさせたことは、実にその考え方のすぐれていたのを示しているのです。  このほかにボイルは、金属を空中で熱して、それに錆がつくようになると、この金属の重さがいくらか重くなることを見つけ出しました。ボイルはこれに対しては、金属を熱するときの火焔のなかから何かしらある物質が出て、それが金属にくっつくのではないかと考えたのでした。これはその頃としては無理もない考え方であるわけで、今では錆のつくのは空中の酸素が金属と化合してこれを酸化させるのだということがわかっているのですが、ともかくその際に金属の重さが増すということのわかったのは、大切な発見であったのでした。 そのほかの研究  ボイルは上にお話しした仕事のほかになおたくさんの研究を行ったのでありますが、そのうち特別に骨折ったのは真空についての実験でありました。  真空をつくることは昔は非常にむずかしかったので、ちょうどその頃にドイツのゲーリッケという人が苦心して始めて空気ポンプをつくり、真空での実験を行ったので、それが大評判となって各国に伝わったのでした。殊にその当時の人々を驚かしたのは、一六五四年にレーゲンスブルグで開かれた国民会議の席上で行ったマグデブルグ半球の実験でありました。これは大きな銅の半球を二つ合わせて、その中の空気を抜いて真空にすると、二つの半球は外部の空気に押されて離れなくなってしまうので、この半球の左右にそれぞれ八頭ずつの馬をつないで両方へ引張らせてみても、それでも引離すことができなかったというのでした。このゲーリッケの実験にボイルは非常に興味をよせて、そこで自分でもいろいろ工夫して、一層よい空気ポンプをつくり、それでさまざまな実験を行ったのでした。  これらの実験のうちでおもしろいのは、水を暖めて真空のなかに入れると、それがにわかに沸騰し始めるということです。水は普通には摂氏の百度にならなければ沸騰しないのですが、それは水の表面を押している気圧が一気圧、すなわち水銀の高さで七六〇ミリメートルになっているからです。ところが真空のなかではこの圧力が殆んど無くなってしまうのですから、それで水は低い温度で沸騰することになるのです。高い山の上に登ると、水は百度にならないうちに沸騰するというのも、そこでは気圧が低いからで、つまりボイルのこの実験は、水の沸騰する温度が空気の圧力に関係することを示した最初のものであったのでした。  ボイルはまた真空のなかでは音の伝わらないことをも実験して見ました。つまり音のする懐中時計などを空気ポンプのなかに入れて空気を抜くと、音が聞こえなくなってしまうのを確かめました。これも音が空気で伝えられることを示した大切な実験であります。  ボイルの時代には、気体といえば空気だけしか知られていなかったのですが、この空気がいろいろ大切な役目をもっていることをもボイルは明らかにしたのでした。空気が音を伝えることもその一つですが、また空気がなければ火の燃えないことをも実験で確かめました。そのほかに人間や動物などは空気を呼吸して生きていることをもはっきりと知っていたので、魚が水のなかで生きているのは、水のなかに溶けて含まれている空気を魚が呼吸しているからだということをも述べています。これも今では誰でも知っている事がらなのですが、その当時としてはやはりすぐれた考え方であったので、すべて生物には空気を呼吸することが必要であるとしたのは、生物学の上でも重要な意味をもつ事柄であったのでした。  空気の性質については、ボイルはもう一つの大切な関係を見つけ出しました。これは空気ばかりでなく、一般の気体にも当てはまるものとして、今ではボイルの法則という名称で知られて居り、普通の物理学の教科書にも載っていますから、皆さんもよく知っているでしょう。それは、つまり気体の体積と圧力とは互いに逆比例して変るということで、ですから圧力を増せば体積は小さくなり、反対に圧力が減れば、それだけ体積がひろがります。古い昔には、ある場所から空気をとり除けようとしても、直ぐによそから空気がそこへ入り込んで来て、真空にはならなかったので、その事から自然は真空を嫌うのだということが一般に信ぜられていたのでした。しかしこの事実は、空気が圧力の小さい方へひろがってゆくという関係が分れば、それで説明ができるのですから、ボイルの法則の発見で、もはやそれは不思議でも何でもなくなったわけです。科学はこのようにして自然の不思議をだんだんに解いてゆくことができるのです。  ボイルはこのほかにもなおいろいろな研究を行いました。氷に塩を交ぜると非常に冷たくなることを皆さんは知っているでしょうが、そういうものを一般に寒剤と名づけています。ボイルはこの寒剤についてもたくさんの実験を行いましたし、またいろいろの物質の比重をも測りました。そのほかの一々こまかい事がらは、ここでは省きますが、ともかくもすべて実験に重点を置いて科学を進めたというところに、ボイルのすぐれた考え方があったのでした。これが本当の科学的精神というものであって、そのおかげで科学がだんだんと進んで来たのであります。  何れにしてもボイルの時代は、それ以前のイタリヤのガリレイが科学の基礎を据えたのに続いて、まさに科学のみごとな花が咲きそめようとしている際であったといってもよいので、たとえその頃の科学的の知識は今から顧みればごく初歩のものであったにしても、当時の科学者の気概はまことにすばらしいばかりであり、専心に自然の研究に熱中していた真摯な姿はいかにも尊敬に値するものであったと思われるのです。ボイルの仕事をここでものがたるにつけても、私はそぞろにこの感に堪えないので、そういうすぐれた沢山の科学者の仕事のおかげで、今日の人々がどれほど便利を得ているかを考えるならば、誰しもその大きな恩恵を忘れてはならないのでありましょう。 底本:「偉い科學者」實業之日本社    1942(昭和17)年10月10日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 「先づ」は「まず」に、「即ち」は「すなわち」に、「併し」は「しかし」に、「その儘」は「そのまま」に、「或る」は「ある」に、置き換えました。 ※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。 ※「事がら」と「事柄」、「云う」と「言う」、「考えかた」と「考え方」の混在は、底本通りです。 ※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。 入力:高瀬竜一 校正:sogo 2018年12月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。