チャールズ・ダーウィン 石原純 Guide 扉 本文 目 次 チャールズ・ダーウィン 生物の進化の問題 ダーウィンの研究 生物の進化の問題  科学の上の学説や理論のうちで、今日までに広く世間一般の問題にされたものはいろいろありますが、そのなかで或る方面から強い反対を受け、それを称える学者に社会的な迫害を与えるほどになったものとして、古くはコペルニクスの地動説があり、近代になってはダーウィンの生物進化論のあることは、多分皆さんも知られていることでありましょう。この反対の主要な原因は宗教的な信仰によるのでありまして、殊に西洋では古くからキリスト教の信仰が深くふだんの生活のなかにまでしみ込んでいるので、その聖書のなかに記されていることをそのまま真実として信ずることになるのでした。本当に考えるならば、聖書の字句は、まだ発達しなかったごく古い時代の人達に教えるためにできたのでありますから、科学の真理がだんだんに明らかにされて来るに従って、それを適宜に解釈しなおしてゆかなくてはならないのですが、それほどの深い考えをもたない人たちは、単にその形式に捉われてしまうことにもなるのです。それでコペルニクスの地動説などは、その頃の宗教家からはげしい反対をうけて、科学的にそれを本当であるとしたガリレイなどもひどく迫害されたことは、すでにここでもお話ししたのでしたが、ダーウィンの生物進化論もやはり同じ運命に出遇ったのでした。このダーウィンの学説の出たのは十九世紀の半ば頃のことで、この時代には古いコペルニクスやガリレイの頃とはちがって、科学が著しく進んで居り、それのあらゆる適用が世間に広まって、すべての人たちがその利便をしみじみと感じていることも確かであったのですが、それでいてダーウィンの学説が出ると、宗教的な立場からそれへの反対がおこると云うのですから、実に人間の心理というものはふしぎであると言わなければなりません。もちろん、物事を正しく考えてゆきさえすれば、そんな筈はあり得ないのですけれども、それが出来ないところに人間の弱点があるのでしょう。ごく近頃になってさえ、アメリカのある処で進化論を学校で教えることを禁止したと云うような話が伝えられましたし、またそれとはよほど立場がちがってはいるものの、我が国でも思想の上から進化論に反対する人たちがあると聞きます。しかしすべてこれらは科学の本当の意味を理解しないことから起るので、これでは一方で頻りに科学振興などを叫んでも、そこに大きな矛盾のあることをみずから暴露しているようなことになります。科学の学説や理論は、自然のいろいろな事実を理解してゆくために、ぜひとも必要なのであって、それらはもちろん現在のままで完全であるとは限りませんけれども、だんだんにそれらを完全に導いてゆくことが、科学の進歩を持ち来すものであるということを、十分によく悟らなくてはなりません。宗教や思想などは云うまでもなくそれとは無関係のものであるべき筈なのです。  さて、生物の進化論はどうして現れて来たのかと云うことについて、まずごく簡単な説明を述べておきましょう。根本的に云えば、生命をもっている生物がどうしてこの地球の上に生じて来たかと云う問題が、今日でもまだ全く解かれていない極めてふしぎな事がらなのでありますが、それは暫く措くとしても、生物に関してはふしぎな問題が非常にたくさんあるのです。第一に、生物の種類、それを学問の上では「種」と名づけていますが、この種が実に数多くあります。ダーウィンの時代にはもう数十万の種が知られていたのですが、今日では百万にも及んでいます。それほどたくさんの種がどうして生じて来たかと云うことが、ともかくふしぎな事がらに違いありません。昔の人たちは、とかく物事を大ざっぱに考えたので、我が国などでも蛆虫のようなものは汚いごみのなかから自然に湧いて生まれてくるように云いならわしたり、昆虫は草の葉の露から生まれるなどとも考えたのでした。ごく古い頃にエジプトの人々は、鼠がナイル河の泥から生まれると信じていたという話も伝わっています。学問を修めた人のなかにも、普通の物質のなかから熱などの関係で生まれてくるのではないかと、まじめに考えたこともあるのです。ましてバクテリヤのような小さな生物になると、それの自然発生ということがよほど近頃までも考えられたのでした。しかし少し理窟を追って考えてゆくならば、無生物からしてひょっくりと生物が生まれてくる筈のないことは、むしろ当然であると思われるのです。  さて、それならばたくさんの生物の種類がどうして出て来たかということが、科学の上で極めて重要な問題となるわけです。  生物の種類を分けてゆく研究を最初に行った人は、スウェーデンの名だかい学者カル・フォン・リンネで、まず植物を分類した著書を一七三五年に公刊し、その後動物の分類をも行ったのでしたが、その際に人間を動物のなかの霊長類の一つの種類となし、高等な猿類と並べたのでした。それでこの事がすでにその頃の宗教家の非難の的となり、これは人間が人間自身を侮辱し、かつ神の威光を汚すけしからぬことだとされました。  それでもリンネは生物を科学的に分類してゆけば、そうならなくてはならないと云うように信じていたのでした。尤も最初の頃には、生物の種類のたくさんに存在することに対しては、これらは神が創造したものであって、それがいつまでも不変に保たれていると考えたのでしたが、後にはそれらの種類もだんだんに進化してゆくということを許すようになったと云われています。  それにしてもまだこの頃には生物の進化に関する証拠が何もなかったのですから、これが科学的には本当の価値をもたなかったのでした。  ところで、その頃フランスにビュッフォンという学者が居ましたが、この人も動物をいろいろ研究しているうちに、食物や気候などによってやはり種類が変ってゆくのではないかという説を称えました。これにももちろんまださほど確かな証拠はなかったのですが、ともかくそういう説を出したところが、同じく宗教家の反対に出遇い、特にソルボンヌ大学の神学部ではビュッフォンを責めて、その説を取消させてしまったということです。ところが十八世紀の終りになってから、生物が変遷し、また進化するという考えがだんだん学者によって支持されるようになったのでした。特にこれを強く主張したのは、ドイツのゲーテ、イギリスのエラスマス・ダーウィン、及びフランスのラマルクの三人でありました。ゲーテというのは、詩人、小説家として誰も知らないものはないほど名だかい人でありますが、同時に自然科学者としてもいろいろな研究を行ったので、なかでも生物に対しては、その形がそれぞれちがっていても、根源は一つであるということをいろいろな事実によって証明しようとしたのでした。  例えば人間の腕や、鳥の翼や、アシカの鰭や、獣の前足などはすべて同じ骨骼をもっていることを示し、ただ空中を飛んだり、水中を泳いだり、地面を歩いたりすることにより形がちがって来るのだと説いたのでした。またエラスマス・ダーウィンは、ここでお話ししようとするチャールズ・ダーウィンの祖父に当る人ですが、動物のからだの斑紋が周囲の有様によって変ることに注目して、その種類の変ってゆくことを考えたのです。更にラマルクは上に挙げたビュッフォンの弟子でありましたが、なお一層よくたくさんの事実をしらべて、生物の器官の変ってゆくことを説きました。つまりいろいろな器官もそれをよく使うと発達し、また使わないものは退化すると云うのです。  例えばきりんの首の長いのは高い樹の実を食するために伸びたので、もぐらの眼の小さいのは地面の下の暗い処にばかり棲んでいるからだと考えました。  このようにして進化論を主張する学者がだんだん出るにつれて、それに反対する人々もあり、殊にフランスでは当時有力な学者であったキュビエーがラマルクの説を攻撃したので、世間では却ってキュビエーの言を信ずるという有様でした。そこでラマルクの説に賛成したサンチレールという学者がパリの学士院でキュビエーとはげしい論争をしたこともありましたが、それでもこれに勝つことはできませんでした。またイギリスのライエルという地質学者もキュビエーに反対しましたが、ともかく生物進化の説が一般に認められる時期にはまだ達していなかったのでした。これは一八三〇年頃のことですが、ちょうどそれと同じ時にチャールズ・ダーウィンの新しい研究が進められて行ったのでした。 ダーウィンの研究  チャールズ・ダーウィンは一八〇九年にイギリスのシュルスベリーという処で生まれました。ダーウィン家は先祖から裕福な農民であって、十八世紀時代には一層恵まれて来たのでしたが、前にも記した祖父のエラスマスは才気独創に富んだ人で、博物学者であると共に、哲学や詩をも能くし、大いに社会的にも活躍していました。その息子のロバートは医者となりましたが、同時に王立協会の会員にも選ばれて、同じく世間の信用を得ていました。チャールズはその次男に当るのです。父はチャールズにも医学を修めさせようとして、最初にはエディンバラ大学に入学させたのでしたが、人体解剖などを嫌って、それで医学をさほど好まないようになり、その後ケンブリッジ大学に転じてからは、むしろ植物学や地質学や昆虫学に興味をよせるようになったということです。  一八三一年に大学を卒業しましたが、その頃広く世界をまわって見たいと云う希望に燃えていたので、折よく軍艦ビーグル号の艦長が同行をすすめたのを非常に喜んで、それで世界を一周することができたのでした。ビーグル号は軍艦とは云っても、僅かに二百四十トンの小型の帆船で、おまけに古ぼけた老朽船であったのですから、その航海はなかなか楽ではなかったのでした。それでも一八三一年の十二月二十七日にイギリスを出帆して、南北アメリカをめぐり、更にオーストラリヤ方面に向い、その間に五年の日子を費して、一八三六年の十月二日に漸く帰って来ました。ビーグル号の目的は、イギリス海軍の命令で各地の測量を行うのにあったのですが、ダーウィンにとっては諸処でめずらしい動物や植物を見るのがこの上もない楽しみであったので、それらが後に生物進化の考えをまとめるのに大いに役立ったのでした。それでも彼はアメリカで病気に罹り、帰国後までもそれがたたってとかく不健康に過ごしたということであります。  帰国後ケンブリッジからロンドンに移りその間に旅行記を整理したり、旅行から持ち帰ったたくさんの動物や植物について研究したり、地質学上の資料を調べたりして、忙しく過ごしました。そして一八三九年には従姉エンマ・ウェジウッドと結婚し、その後一八四二年にダウンという土地に移り、ここに一八八二年四月十八日に逝去するまでの長い年月を平和に送りました。しかしこの間に多くの研究を行って、幾つもの不朽の著述を完成したのでした。  ダーウィンのこれ等の著述のうちで最も名だかいのは、一八五九年に出版された『種の起源』と題する書物であります。このなかには生物が進化することを示すいろいろな事実が示されていて、それの起るのは自然淘汰によるとしたのです。自然淘汰というのは、いろいろな生物が生存してゆくために生物はお互いに競争し、また自然にも対抗してゆかなくてはならないのですが、そのうちで生存に都合のいいものが残り、生存をつづけるだけの力のないものは滅びて無くなってしまうということを意味するのです。人間が家畜や鳥などを飼って育てるときにも、或る特別な種類をとり出してその子孫をふやしてゆくうちに、だんだん変ったものにすることのできるのと同様で、自然のなかにもそれと同じことが行われ、そして生物が進化してゆくと云うのであります。  ダーウィンのこの考えと全く同じことをやはりその頃の学者であり、また探険家でもあったアルフレッド・ウォーレスという人も考えました。ウォーレスは南アメリカのブラジルやマレイ群島などで長年の間動植物を研究してその考えに到達したのでしたが、一八五八年にその説をまとめて発表しようとし、ちょうどダーウィンと以前からの知合いでもあったので、ダーウィンのもとに論文を送ってよこしました。ダーウィンはそれを見て自分の考えと全く一致しているのに驚きましたが、ともかくそれを生物学の権威ある学会として知られていたリンネ学会に送りました。ところがこの学会の幹事たちは、ダーウィンとも能く知っていて、その研究についても以前から話し合ってダーウィンも同じ考えをもっていたことを心得ていましたから、この機会にその研究をも発表させた方がよいとして、一つの論文を書かせてウォーレスのと同時に学会の雑誌に載せることにしました。ダーウィンが『種の起原』を出版したのはその翌年のことで、そこに詳しく自分の説を述べたのです。ところがウォーレスもこの書物を読んで、ダーウィンの仕事を大いに尊敬し、自分の著書はずっと後になって、即ち一八八九年に出版したので、しかもそのなかで進化論のことをダーウィニズムと称しているのです。この二人の学者が互いに自分の功名を誇ることなく、ただ心から真理を明らかにすることを望んで、尊敬しあったことは、実に科学の歴史の上で、この上もなくうるわしい事がらであったと云わなければなりません。  ダーウィンの学説はその後だんだん学界に広まって来ましたが、生物学が進むにつれていろいろこまかい点も明らかになり、多少とも違った意見も出されています。それにしても生物が漸次変遷し進化してゆくということは、大体に於て認められているのですが、まだそのことを十分に証拠立てるのには資料が不十分であると云って疑っている学者もないわけではないのです。また一方では遺伝の研究がだんだん進んで来ましたので、それに関する事実をしっかりと突きとめなくては進化の原因もほんとうにはわからないともせられているのです。学問の上でこれらについてはなお将来の研究を待たなくてはならないのですが、それにしてもダーウィンの研究がこの上もなく重大な意味を生物学の上に持ち来したということは確かなのですから、この点で科学の歴史の上に彼の名は実に輝かしく印象されていると云わなければなりません。 底本:「偉い科學者」實業之日本社    1942(昭和17)年10月10日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 「既に」は「すでに」に、「併し」は「しかし」に、「先づ」は「まず」に、「ケンブリッヂ」は「ケンブリッジ」に、「ウェヂウッド」は「ウェジウッド」に、「噸」は「トン」に、置き換えました。 ※読みにくい言葉、読み誤りやすい言葉に振り仮名を付しました。底本には振り仮名が付されていません。 ※国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。 ※「云う」と「言う」、「種の起源」と「種の起原」の混在は、底本通りです。 入力:高瀬竜一 校正:sogo 2019年1月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。