名字の話 柳田國男 Guide 扉 本文 目 次 名字の話 日本はきわめて名字の数の多い国 なぜ多くの名字ができたか 地名と名字との関係 二重に家の名を表わす例 名を諱んだ昔の慣習 昔の仮名文を読む一種の困難事 南海諸島の命名慣習 権兵衛作や勘太作 露西亜の名を呼ぶ慣習 欧洲における同一慣習 支那と日本と共通の慣習 日本における昔の命名慣習 今日の多くの人の命名の由来 通称のたびたび変更する京都の貴族 地方の豪族武士の称呼 何左衛門・何兵衛なる通称の多い理由 同じ通称の区別法 いつの間にか家号を名字と言うようになった 名字が違うから同家でないとはいえぬ 昔は一戸の人口が百にも達した 公卿華族の家名はことごとく京都の地名 殿館様の起原 家号製造の由来 開墾奨励法 荘園の増加 地方豪族と荘園の下受開墾 名主の名の起原 名という語の意味 女が名主になった証拠 七党と称する大地主の団体 俵藤太秀郷の一族 近世代官制度の起原 関東武士の一部移住は自然の成行き 国内植民史の上で看過すべからざる大転変 毛利・武田・小笠原の諸家 熊谷・吉川及び九州の諸家 家号を新領に持ち行くに至りし一原因 東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間 家紋の数はあまりたくさんはない 一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす 紋の由来及びその変遷 新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士 諸侯の対地侍策 名字と地名との関係断絶の理由 二字免許の制度の由来 一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村 家号の由来を調査するの必要 床次という名字の由来 石黒という名字の意味 十時という名字の由来 木越家の名字の由来 日本はきわめて名字の数の多い国  多くの日本人が想像するように、昔というものが現代と無関係のものでないということを証明するがために、名字の話をしようと思う。  我々が十人寄れば多くの場合には十の名字があって、鈴木とか渡辺とかありふれた名は別として、その他の人にあっては、旅行先または交際場裡において同じ名字の人に出合えば、お互いに珍しがるのが普通でありましょう。すなわち日本人の名字の数はそれほど変化が多くて、少なくとも家の数の百分の一ないし八十分の一、すなわち八万ないし十万はあろうと思われる、日本はきわめて名字の数の多い国であります。 なぜ多くの名字ができたか  さて何ゆえにかくのごとく多くの名字がわが邦にできたか、高きも低きもいっせいに、日の神の御裔であるところの大和民族が、いかなる必要があってかくのごとく分れて行ったか。今までこれを考えた人は少ないけれども、実はよほど面白い問題であります。もちろん太郎という名の人が数人あり、清という名の人が数人あるのを区別する目的といえばそれまでであるけれども、それだけのためならばことさらに珍しい面倒な名字を作る必要はないので、一号の清とか二号の太郎とかいうような、下足札のような分類でないことはいうまでもないことであります。  しからばいかなる生活上の必要があってかくのごとき名字を伝えるようになったか、これはやや古い時代の社会を研究してみなければ、明白なる解答を与うることができないのです。 地名と名字との関係  これはおそらく誰も知っていることであろうと思いますが、多くの名字は地名と同じいことであります。たとえば京都から移住して来られた旧華族の家々の名と同じ地名が、京都の町にはなはだ多いのです。我々の郷里の附近には、たとい同じ所でないとしてもしばしば名字と同じ地名がある。たとえば鹿児島県に行ってみると、鹿児島藩士の一種変った名字は、十中九までが薩隅日三ヶ国の郷の名であることがわかる。そうして我々の名字はどういう訳でかくのごとく、地名と関聯して共通するものであるか。地名によって名字を付けるならば、何ゆえに自分の住んでいる村の名を名字とせずして、五里十里離れた所の地名、またははるかに遠方の地名を持っているのか。この問題を少しく説明してみようと思う。 二重に家の名を表わす例  今日の戸籍の上にはもはや現われておらぬけれども、朝廷の儀式等で昔風に人の名を言い現わす場合には、普通の名字のほかに源の朝臣とか藤原の朝臣とかいうように、二重の家の名を表わす例になっている。この源または藤原は姓といって、名字とは全然別のものであるというのが古来学者の説である。しかし突き詰めてみれば姓とても、自分の家を他人の家と区別する一種の方法で、名字はさらに同姓の家の間に甲乙を区別すべき第二の家号であるからして、二つの間に性質上の差別はないのであります。 名を諱んだ昔の慣習  名字という語の説明についても伊勢貞丈以来いろいろの説がある。これを比較して批評するのも煩わしいが、結局自分の信ずるところでは、名字とは、名と字であると思う。支那でも孔子名は丘、字は仲尼といいますが、この丘と仲尼とを併せたものが名字であります。日本でも支那でも名というものはむやみに他人から呼ぶべきものでない。人に向って自ら唱えるのは格別、他人ならば親とか主筋とかのものよりほか、わが名を呼ぶのはたとい殿君等の敬詞を付けてもやはり無礼であります。今日この思想は絶滅して、わずかに天子様の御諱だけについて残っております。西洋ではこの慣習は昔から全然なく、国王でもチャーレスとかウィルヘルムとか呼ぶことが許されたのであります。  我々が外国の新聞などに、わが邦の至尊の御名が羅馬字になっているのを見ると一種の名状すべからざる不愉快を感ずるのは、まだ感情のいずれの部分かに、名を諱んだ昔の習慣が、幾分か遺伝残留しているためであります。 昔の仮名文を読む一種の困難事  支那では歴史家の権限が非常に大であるから、一度筆を執れば貴人の名をも諱まなかったのであります。随ってこれを模倣したわが邦の漢文の歴史には名を諱んではおらぬ。しかし日本風の歴史記録類には名を諱んで書かぬのが通例であります。たとえば『大鏡』などを見ると、藤原の基経を太郎殿と書いてある。時平の事をも太郎と書いてあります。多くの人については現に官名を呼んでいる。しばしば官が転ずる人に至っては、同一人であるか否かが不明になっていて、これは昔の仮名文を読む一つの困難となされております。 南海諸島の命名慣習  古の太郎・二郎・三郎は、今日の太郎・二郎・三郎のごとく人の名ではないのであります。単に同じ人の長次男ということを意味するばかりで、普通の名詞であります。全体普通名詞と固有名詞との区別は、よく考えてみればほとんと境界がないのでありまして、同じ名で呼ぶものが幾つもあればもちろん普通名詞でありますが、その物が偶然にも一つしかなければどちらとも見られるのであります。馬琴の『弓張月』を読んだ人は、八丈島の男女が四郎五郎とか、三郎長女とかいう名をもっていた事を記憶しておられましょう。あれはもちろん南島における命名慣習を、小説の材料にしたもので、父が祖父の長男であれば太郎で、自分がその三男であれば太郎三郎と名乗り、自分の五男は三郎五郎と名づけるとか、三郎の姉娘は三郎長女と名づけるというような、簡単な名の付け方であったのであります。 権兵衛作や勘太作  八年ほど前に伊豆の大島へ行った時には、この島人が通例名のほかに、右のような旧慣によって人を呼ぶことを目撃したのであります。内地でも百姓の仲間では、同じ村の若い者に作造という者が二人あれば、これを区別する方法として父の名を頭に付けて、権兵衛作、勘太作というように呼ぶのもない例ではありませぬ。露西亜ではこれが紳士間の普通の作法になっております。 露西亜の名を呼ぶ慣習  英仏などで家名ばかりを単称するのを尊敬の意とするに反して、露国では親しいものの間には「イヴァン」とか「ピヨトル」とか名だけを呼ぶけれども、敬意を表する場合には別に「ムッシュ」も「ヘル」も付けずに、親の名を続けて呼ぶ。たとえば親の名が「ピヨトル」ならば、「イヴァンペトロヴィッチ」と呼び、女ならば「アンナペトロブナ」というように呼ぶのであります。 欧洲における同一慣習  スカンジナビアではこれとよく似ておって、あの国人の名字というのは多くは皆親の名から作った名字であります。たとえば「アンデルセン」の「セン」は英語の「Son」という字で、「アンデル」の子という意味であります。今では代々この家号を伝えているけれども、いずれの時代にか露西亜と同じく、本人の名の後に何某の子ということを添えて、呼んだ習慣が残っているのであります。「ソン」または「セン」という語尾のある名字は、北欧系統の諸民種、英人にも独逸人にも折々これを見かけるのです。また英国人の中に家名の頭に「マック」というのは、これまた子という意味であるから、やはり同一慣習であります。「フィッツゼームス」とか、あるいは「フィッツゼラルド」とかいう名字の「フィッツ」も同じく子供という意味であって、いずれも前述の三郎五郎、四郎太郎、権兵衛作の類によって、ただちにその由来を知ることができるのであります。 支那と日本と共通の慣習  出産の順位で人の字を呼ぶことは、西洋と共通でない慣習でありますが、支那には古くから存在しておったのです。支那では同じ家族に属する従兄弟の列まで合せて、長幼の別をもって数字の番号を付ける、その例は『唐詩選』などを見ても人の名を呼ばずに、「王十一の某処に往くを送る」という題があります。この十一は同族間の長幼の順序が、十一番目ということであります。かくのごとく通例数字ばかりで呼ぶけれども、また時としては郎の字を付けることもありました。郎は「むすこさん」という意味であります。則天武后の臣下に張某という非常に美わしい男がありました。そこである人はこの人に媚びて「三郎は蓮花に似たり」というたところが、またある者が「蓮花が三郎に似たるなり」といったという話もあります。この三郎はすなわちその例であります。 日本における昔の命名慣習  日本の太郎・次郎も、あたかも唐朝文明の輸入の際でありましたからして、支那風を真似たのであります。それ以前はどんな風に呼んでおったか、明白ではありませぬが、皇族の字として稚郎子、仲大兄などと称えたのを見ると、ほぼ想像することができるのであります。太郎・次郎等の漢音の行われた後も、女子については久しい間この風がありました。たとえば長女は大子、次女は中子、三女は三子、四女は四子と呼んだようであります。女についてはことに名を呼ぶのを避けたらしく思われます。十女・十一女に至っては何と呼んだか。今日の文書には残っていないけれども、なんらかの方法によって名以外のものを呼んだに違いがない。男はもし腹異いなどが多くして、十郎以上になれば、十一郎・十次郎とも呼べば、または余一・余二とも呼んだのであります。那須与一、真田与一は、与の字を書いたけれども実は余一で、十一男の事であります。戸隠山で鬼女を退治した平惟茂を余吾将軍と呼ぶのは、祖父貞盛の養子となって、長幼の順序が十五番目であったからであります。 今日の多くの人の命名の由来  右の慣習は曾我五郎・十郎の頃になると、そろそろ壊れはじめてほぼ今日の通称に類似して来ましたけれども、それでも原則としてはまず前述の方法を採って、近世に及んだことは人の知る通りであります。しかし人がようやく殖えて来て、一つの邑落に八十戸百戸の人家が集り、または三里五里の隣村と交際するようになっては、そもそもかくのごとき単純な方法では、同年輩の若者を弁別することができなくなりました。それでも京都に住んでいる官吏はもちろん、一廉の家柄のものならば、一代に二度三度京都に勤番をして、名誉官を拝命して帰って来るから、当然これをもって他人と区別することができたけれども、微々たる平民に至っては、やはり八丈島ないしは露西亜・諾威の旧慣のように、父の名でも頭に付けなければまずはわからぬ。そこでわが邦にも次郎三郎、四郎五郎等の名前がだんだんできて来たのであります。また父が達者でいる間に悴の太郎が成人して、世間の交際を初めるようになると、仕方がないから家柄の家でも、区別するために太郎太郎ともいえぬから小太郎、新太郎などといっております。そのまた悴が世に出れば孫太郎、そのまた子が世に出れば、まさか曾祖父と混同されることもないけれども、死んだ太郎や父の孫太郎、祖父の小太郎に対して区別をするために、彦太郎と名を付ける。これが今日の多くの人の名というものの由来であります。 通称のたびたび変更する京都の貴族  ついでに今少し名の話をすれば、京都の貴族は名字になると、一代に十度も十五度も昇進して、いずれの官が終極という事がないからして、通称がたびたび変更するのです。昨日まで四位少将であった人が今日は三位中将殿になっている。翌年は文官に転じて中納言殿と称えられなければならぬようになるからして、それが果して字であるやら、はたまた我々官吏が長官に向って、長官といい局長というと同じ意味の通称やら、区別することができぬ。 地方の豪族武士の称呼  これに反して地方の豪族武士なるものは、その実力においては優に京官を驚かすに足るものがあったけれども、その官階は気の毒なほど低い。これが中央政府の地方を制馭した政策であって、非常に功労がない限りは関東八州などに住んでおった大地主は、何遍京都へ参勤しても父または祖父の任ぜられたより以上の官に、任ぜられる見込みはほとんとなかった。すなわち家々には栄誉の極点、昔の語で言えば前途というものがあって、通例尉という武官に任ぜられる事であります。右衛門尉・左衛門尉、右兵衛尉・左兵衛尉というものがその実空官であったけれども、地方の武士を奨励する唯一の栄典であったのです。それでも地方人は質朴なもので、これを貰うためにいかなる労をも辞せぬという傾きがあったので、頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、地方人の任官を非常に制限して、必ず将軍を経由して上奏をしなければ任命せられてはならぬことに定めました。ゆえに本家の家督相続人一人を除くほかは、相応な家柄の息子でも、やはりただの次郎三郎で一生を終ることになったのであります。そうなって来ると、有名無実の一微官たる左衛門尉・右衛門尉もいよいよもって涙のこぼれるほどありがたいものとなり、従って国に帰ってもしすでに左衛門尉となっている太郎殿を、太郎左衛門尉と呼ばずに間違えて、ただ、太郎殿と呼ぼうものなら、もちろん決闘くらいは申し込んだのであります。 何左衛門・何兵衛なる通称の多い理由  以上の説明で今日地方人に、何左衛門・何兵衛の通称の多い理由は、ほぼ想像ができるであろうと思う。ただ尉という文字はいつとなく取り落してしまったけれども、つい近来まで表立った場合には尉の字をくっつけたのです。四五百年来の太郎左衛門・三郎兵衛は、言うまでもなく朝廷から授けられたものではありませぬ。親がその名であったから悴も差支えないことと思い、隣村の地主がそれであったから自分もそれにしようくらいに、だんだん自分で勝手につける事になってしまって、三万の太郎左衛門、五万の三郎兵衛を生ずるに至ったのであります。  明治維新の行政庁は、名義を正すの目的をもって、かくのごとき官名の僭称の嫌ある字は一時禁ぜられたことがあります。その後いつとなくその禁は解けたけれども、今日源在文・文恵茂・何平などいう通称を持った四十五十の年輩の人があるのは、まったくその禁令の結果文字だけを取り換えたものである。 同じ通称の区別法  一地方で三人か五人かの衛門尉・兵衛尉のある間は、その頭に太郎・次郎を付けさえすれば、字すなわち個人を差別する方法としては、目的を達したようであるけれども、年代を経、人数の多くなるとともに、故人までも合せれば漸々とその数が多くなって来て、ついには同じ通称のものがそちらこちらにできて来る、いわんや官名を持たぬただの太郎次郎に至っては、初めから親の名前くらいでは充分な区別をすることができなかったから、さらにその上に何かの差別法を設けなければならぬ。そこで立ち戻って自分の家の姓によって、源氏の家の太郎ならば源太といい、平家の三郎ならば平三というのも一つの方法であったのであります。今日行われている名頭というもの、すなわち人の通称の吉というのは橘氏であります。勘というのは菅原氏、弥というのは小野氏、清というのは清原氏、忠というのは中原氏、藤はもちろん藤原氏であります。  これらは皆多数の次郎・三郎を区別するために菅太・野三・橘六・中七等と称えた遺風であります。しかし一地方に植民をして来るものは多く同一家であって、その姓を同じくしているのが普通であるから、一族蔓延の場合にはこれもまた区別になりにくい。ここにおいてか第四の方法として、居住地をもって称呼とするのはきわめて自然の順序でありました。今日でも庄兵衛というものが二人あれば、川端の庄兵衛とか上屋敷の庄兵衛とかいうのが普通の例であります。これは決して近代に始まったことではなく、おおよそ日本人が村をなしてともに住み、郷党が交を結ぶ場合には、もし互いの実名を呼ぶのを避くるとすれば、かくのごとくするのほかはなかったのであります。  山城の京遷都の始め頃にできた『日本霊異記』という書には、紀州の百姓で字を上田の三郎といったものがあります。今日の語で言えば上田は氏名であるけれどもこの男にも別に親の付けてくれた尊い名告はあったので、その名告と上田の三郎とを合せたものを名字と言うのもすでに誤りであるが、家の号ばかりを名字というようになったのは、いよいよもって誤用転訛と見なければならぬ。しかしながらかくのごとき時勢の変遷は、必ずしも昔に引き戻すことを必要とせぬ。ことに今日では通称と名告とを二つ持つことは法律の許さざるところでもあるし、いったん戸籍に登録されたる自分の名前は三郎兵衛・太郎左衛門と言うごとき昔の意味でいう字に当るものも、または堅苦しい漢字の二つ繋がった名の訓に相応するものでも、皆字ではなくして真実の「名」であって、しかも西洋風にこれを呼びかけることを諱まない時節となったのであるからして、新しい風俗に従って字というものを捨ててしまわなければならぬ。そうなって来れば今日の会話語で、家号のことを名字といっても、どこにも差支えることがないのであります。  さて前段がはなはだ長くなったけれども、昔の人の字の中でも一人一人について変って行く部分、すなわち通称についてはだいたい説明を終りましたから、この次には一人一人について変らぬ部分、すなわち家号、今日の語で言えば名字の話を、今少ししてみようと思う。 いつの間にか家号を名字と言うようになった  名字と言う語の本来の意味が今日の用い方とは違っておって、家号と通称との二つを包含するものであることは前回にお話した通りであります。この意味における名字を最も豊富にかつ趣味多く見出す事のできるのは『吾妻鑑』であります。平安朝の始め頃にもすでに上田の三郎などと言う名字のあることは『霊異記』にも見えているが、鎌倉時代にはこの意味における名字がいくらでもある。この時代にはいまだみだりに左衛門尉とか右衛門尉とかいう武家の官名を、与えもしなければ貰うことも幕府がやかましかったから、立派な侍が皆次郎・三郎で、家号としてはことごとく居住地の地名を帯びている。  言を換えて言えば、居住地+出生の順序=名字であったのであります。しかるにその中からいつの世にか、家号の部分ばかりを名字と言うようになったために、ついに明治の今日のように、姓氏ということも名字ということも、同一のものになるようになってしまったのであります。 名字が違うから同家でないとはいえぬ  大昔にも姓氏というものは歴然と存している、すなわち源・藤原というのが氏であって、朝臣とか宿禰とかいうのが姓である。これはいずれの家にとってもきわめて重大なもので、平生は名字で呼んでいる人でも、表向きの文書では非礼にならぬ限りこれを倶記したものであります。この姓氏というものがまさしく支那の王とか劉とか、陳とか張とかいうものに当るのであります。ただかの邦では褻にも晴にもその姓を使い、日本では国柄が単純で姓氏の数が少ないので、弁別のために起ったのであろうが、平素には家号のみを用いて姓氏を称えなかったのであります。しかもこの家号なるものがきわめて頻々に取り換えられ、ほとんと屋棟の数や竈の数ほど多くあるのです。したがって今日の名字すなわち家号が違っているから、同家でないという思想は、日本の昔の社会状態とは合せぬ思想であります。  しかるに御承知の通り、近代ではなるべく家号を変えない傾きになったがために、ことに民法ではやたらにこれを変更することを許さぬことになった結果、一族一家の家号は、ただ一個に限るかのごとき思想を生じたのであります。 昔は一戸の人口が百にも達した  元来日本の家の制度は今日稀に飛騨の白川などに遺っているごとく、一戸の人口が非常に多いものであったのであります。これは古代戸籍の制度の影響もあって、複雑な問題でこの際述べることもできないが、奈良の正倉院に残っている大宝時代の諸国の戸籍などを見ると、普通の百姓でもって一戸の人口が奴婢までも併算すれば、八九十から百に達するものも少なくないのであります。そしてこれらの一族が一つの大屋の下に、枕を並べて眠っていたかというに、これはとうてい想像し得べき事でないので、一人一人がそれぞれ労働をするのに、西に東に南に北に、二十町三十町と出て行って耕作をしなければならぬ。随って広く山野の間に住宅が散在しておって、たとい他人は正当の氏を呼ぶとしても、家族相互の間では今日村々で中屋敷とか新屋敷とか呼ぶごとく、または日本橋辺で室町の御宅、小網町の旦那というように親類を呼ぶごとく、個々の別宅に何か名をつけておかなくてはならぬようになったのであります。 公卿華族の家名はことごとく京都の地名  これが武家発生時代、すなわち地方豪族が開墾の利益を壟断した八幡太郎の頃になると、遺産相続の問題もこれに加わって、いよいよもって一家に属する個々の住宅が殖え、随って名字に居住地を呼ぶ必要がにわかに増して来たものと察せられる。『尊卑分脈』などを見てもきわめて明白であるが、京都でも田舎でも一時に家号の増加したのはこの時である。たとえば藤原家でも基経・時平の頃までは、たとい分れ分れに住しておっても皆同じ藤原家の人々であることが明白に現われているが、それから次になるとだんだんと屋敷所在地の地名を家号に用いて、二条殿といい九条殿といい、それぞれ家が分れて来ることになる。それ以前においてはこれだけ身分の高い貴族になると、他人からは決して藤原殿とも基経殿とも断じていわない。その当時の官名とか屋敷の場所とか何か通称をもって呼んでいる。畏れ多い話であるが、わが邦の皇族の今日の状態は、すなわちこの風習の永遠に継続せるものであって、それがわが邦の貴いところであります。しかるに藤原家のごとく皇室に次いで顕栄を極めた家でも、財産を分ち兄弟牆に鬩ぐようになっては、たちまちにして家号というものが明白に樹立して、二条殿と九条殿と一条殿と近衛殿とは、別の家のような気がしてしまったのであります。今日のいわゆる公卿華族の家の名を見渡せば、すぐに気のつくことであるが、そのほとんと全部は京の町あるいはその附近の地名である。氏としては源平藤橘の数姓を出でず、ことに藤原氏はその八割を占めているけれども、それが今日のごとく多く別れて来たのであります。 殿館様の起原  このついでに殿という字の意味を申せば、殿は文字の示すごとく長者の建築物に対する敬号である。家号の属する土地である。建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚かった意味である。すなわち御屋敷ということであります。これがついに移り変って、直接に人の名を郡長殿、局長殿というように、人の名を意味するようになったのははなはだしい変転であります。南北朝頃の文書、ことに諸国の侍に大将から出した感状などを見ると、人の通称に殿の字を付けたものが表われかかっている。  一例をいえば河野武蔵守殿というようになっている。これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある。武士の住宅を館というのは東北地方の方言で、西国に行けば京都に私淑して武家も皆殿と呼んだのである。  それに比べればはるかに後代の発生でありますが、様というのは方向を示す言葉がもとでありました。西様、東様というごときはその例であります。人を呼ぶに様を使うのは、直接にその人を呼ぶのが失礼であるから、わざと漠然とその方向を指したのである。今日我々が彼方其方というのはまったくこれと同じ用い方であります。したがって殿や様は君という詞とは非常に意味が違うのであります。ことに人を呼んで何の何兵衛氏と呼ぶのは、誰が始めたことかは知らないが、歴史的根拠も何もない無趣味の慣例といわなければならぬ。 家号製造の由来  そこでいよいよ本論に入りますが、地方の武家がわずか百年か百五十年の間に、数万の名字を製造した由来は、まったく藤原家の分立したのと同じ理由であるといってよろしい。京都の貴族ならば官名で呼ぶ事もできれば、その時々の位で呼ぶ事もできたのに、なおかくのごとく分れて行ったのである。まして地方における無官の大夫連にあっては、武蔵一国の平地にも数百の源太、数千の藤次・平三がいるのであるからして、とても何か今一段の区別法を作らずには交通ができなかったのであります。それも一つの垣内、一つの屋敷内に親子兄弟が共に住んでいる時ならば仕方がないが、家族の増加するに従って附近の村々に分家をさせ、新開をさせるようになってからは、それぞれの地名を呼ぶことがいとやすくなったから、遠慮なく家というものが統一を害するといういささかの懸念もなしに、家号を製造して行ったのであります。 開墾奨励法  この話をするためには少しく王朝時代の開墾の事情を説かねばならぬ。最初は百姓が重税その他の理由から、土地を捨てて立ち退いた跡が荒れて行く恐れもあり、また政府としては収入の増加を謀る必要があったために、これらの荒地もしくは原野を開墾する者には、奨励として永くその田地を持たせるという開墾奨励法が出たのがもとであって、地方の百姓の中で下人などの多く資本の余裕のあるものは、この奨励法に基いても大分開墾したものがあったようであるが、実をいうとこれでは開墾をした楽しみが少ないので、以前通りに重く租税を取られて耕地を殖すのも張合が少ない。 荘園の増加  ところが大きな社や寺、または朝廷の大官が特別の思召しをもって拝領する場合の開墾地は、常に租税の全部を挙げて下さるのであるからして、前のものに比べれば非常に有難味の多いものであれば、これが出てからはもはや通例の荒地開墾などは捨てて顧みるものもなくなったのであります。この第二の特別開墾は、もちろん弊害も多いことであるからして、表向きの法令では力めてこれを制限するようにしてあったが、実際は年とともに面積も増加すれば特権も増加して、ついには徴税権はもちろん、いっさいの地方官の行政権の及ばぬ国の中の国のごときものができてしまったのです。  これがすなわち荘園であります。荘園の面積は少ないものも三百町五百町、多いのは数郡にわたっておったものもあります。  そうして多くは厄介な地主でありました。境木を立てれば知らぬ間にこれを滑らせるし、面積を限っても地方官と慣れ合って縄延を多くする。要するに近代の北海道開墾の類の、今少し専横な偏頗なものであったのです。 地方豪族と荘園の下受開墾  さて、特許権を受けて新たに荘園を立てたものはいかにしてこれを開発して行くかというに、貴族はもちろん社寺の管理者でも、自分どもは京都におって安楽な生活をしていながら、収益だけを取ろうとするものが多かったのです。もともと貰い物であるがために多分の割引をも意とせずに、地方に住んでいる豪族どもに下受けをさせたのであります。もっともかりに真面目な荘園の領主があって、直接自分が開墾をしようと思っても、平素からそれだけの労働者を傭っておくこともできず、今日のごとく雇えば来てくれる労働者もないから、勢い地方の大家族の戸主と相談をするほかはなかったのであります。しかのみならず武蔵国にこれだけの原野がある。上野の奥に何百町の空閑(耕さぬ地面)があるということを知らせてくれるものはやはり地方の居住者である。はなはだしきは社寺とか権門の名義だけを借りて、僅少な名義料を「本所」に納めて、実は自分が開墾を経営した場合も少なくないのであります。 名主の名の起原  かくのごときありさまであるからして、下受人の特権も時と場合によって大小不同であるけれども、要するに下受人の中心となっている地方豪族の戸主は、一方には荘園の管理者たる名義で、かなり多くの管理料を天引するほかに、下受管理者としての有利なる条件をもって、その開墾地を持つのであります。たとえば通例の百姓ならば領家で気に入らねばいつでも立ち退かせることができる場合にでも、この者ばかりは大罪を犯さなければ子孫の相続を確保してある。年貢すなわち作米のごときも、普通の作人に比べれば三分の一にも五分の一にも満たなかったのであります。しかのみならず、ごく地味の良い水がかりの良い処ばかりを選り取りしたに相違なかった。つまり京都の荘園の主人を良い旦那にしておったのです。この下受人の特権を名づけて名田職といい、その土地を名田といっている。これは今日の名主の名の起原であります。 名という語の意味  名という語はその本来は少し不明になっておりますが、自分の考うるところによれば区別開墾地という意味であろうと思う。すなわち、数百町歩の原野を開墾するに当って、あらかじめ五町とか七町とかの面積に小割して事業の進歩に便にしたのである。これは近年の新田開墾にも常にあることで、一年で開墾が終るほどの小面積であれば良いが、五年も六年もかかるとなると、一方で開墾を進めてゆくと同時に、他の一方では既墾の田地に食料を生産しなければならぬ。今日の村の字にしばしば一番割・二番割などという地名のあるのはこのためであります。ことに同じくらいな身分のものが共同開墾をする場合には、銘々の持場持場を決める必要がある。この小区割を名づけて名といったことは、今日ではもはや疑いがありませぬ。多くの場合においては開墾者は、その家族の者に一つずつの名を分けてやったらしい、すなわち下受開墾者たる特権が不可分のものでなくして、土地に伴なっていたらしいのであります。 女が名主になった証拠  名という文字はいくらも今日の地名となって残っております。九州方面では、肥前北高来郡などでは、小字にはことごとく名の字が付いた所もある。東国の地名では妙に聞える公文名などという地名は、つまり荘園の書記の持っている名田の地ということであります。同じ原野でも薪を刈りに、もしくは狩をしにしばしば人の往来する所では、従来の地名がありまして、そこに来住するものはただちに新宅の家号としてこれを採用しました。すなわち在名であります。しかし以前の人口の少なかった地方では、事によると五町七町の小区劃では地名のない所がある。かくのごとき場合には変則ではあるが、あべこべに貞季とか国知とかいうような人の実名を、地名につけたのである。しかし新名主はいずれ金持の子供であるからして、自分で犂鋤を手にする訳でないから、子供もあれば女もあるのであって、太郎丸とか次郎丸とかいう童名をただちに地名に付けたものもあるのであります。名古屋附近に一女子・二女子などという小字のあるのは、女が名主になった証拠であります。 七党と称する大地主の団体  京都附近の国々では土地に余りが少なくて、下受開墾の有難味も自然薄かったかも知れぬが、関東に来ると広漠たる原野を自由勝手に占有することができたために、京都の貴族に取り入って甘んじて家人の地位に下っても、実際の富を作り武力を養うに十分であったのであります。武蔵などは中央荒川と多摩川間の平原に、七党と称する大地主の団体が七つまであった。ほかに南には小山田とか稲毛とか、北には秩父などいう豪族が何軒もあって、いざ開墾が始まるとなると、競うて下受権を獲得し、どしどしと次男三男の輩を分家させたのであります。ゆえに今日になっても右の手に七党の系図を持って、左の手に精密な地図を持って当って行くと、開墾の順序、分家のありさまがきわめて明瞭に分るのであります。たとえば児玉家の総領は児玉の本荘、すなわち中仙道の本庄附近におり、横山の族長は今の八王子の北部に住んで、その分家は皆附近の村に住んでおった。 俵藤太秀郷の一族  関東から奥州にかけて有名であった秀郷流の藤原氏というのは(私もその子孫たるの名誉をもっているけれども)、実はこの特権開墾権の運動の都合上、藤原家の若殿を娘の聟に取った下野辺の判任官位の家柄であって、ことによると「アイヌ」であるかとも思う。この中興の祖である秀郷のごときは、三上山の百足を退治した時代には、近江に近い山城の田原に住んでいて、藤原家であるところから田原の藤太秀郷と称していたが、その生国は下野であったために、名田の大部分はむしろ関東にあって、その子孫は上州の太田に住んで太田家となり、下野の小山に住んで小山家となり、下総の結城に行って結城家となったばかりでなく、さらに相州にも立派な根拠地を持って、今煙草のできる秦野に住んで波多野家となり、さらに山一つ越えて松田に住んで松田家を作り、さらにその西の河村を開墾して河村家を作ったのであります。河村はいま山北の停車場のある処で、その屋敷のあった河村山の北であったがゆえに、山北というのであります。私の家の系図は虚か真か受け合われませぬが、この河村からまた別れたとありまして、今日大磯と二宮との中間にある「国府本郷」、すなわち旧地方庁所在地の氏神が柳田神社というのを見ると、あるいはあの辺に猫の額ほどの名田でもあったのではないかと思って、いつも汽車であの辺を通ることであります。煩わしいからたくさんの例は挙げませぬが、これらの一族が事あれば合体して進退を共にすること、たとえば鎌倉北条時代の和田の乱・三浦の乱に、数百の名字の人間が一時に腹を切ったのを見てもわかるごとく、名字の分立ということはどこまでも家の統一には害がなかったのであります。しかもいわゆる御先祖になるということは、初めて新しい家号を名字の頭にくっつけるということで、京都で出世のできない地方の荒武者どもにとってはこの数を殖やして行くということがむしろ唯一の誇りであったのであります。この状態は私の考えでは、ほぼ吉野朝廷の時代まで続いたのでありまして、その前後から大分形勢が変って、近代的の傾きがあらわれ初めたのであります。 近世代官制度の起原  平家が勢力の絶頂におった頃には、その所領は六十六ヶ国に満ち渡っておったということでありますが、この一族が朝敵となって全滅した後は、それらの荘園はことごとくいわゆる闕所となっておったので、朝廷ではそれぞれ処分せられ、これと同時に頼朝は朝廷に願って個々の荘園に地頭を選定する特権を与えられた。この地頭というのはとりもなおさず荘園の管理人で、開発の当時から特別の約束の下にその土地を管理しておった人間と、同一の地位を新たに与えられたのです。しかるに頼朝に随従して功名した武士どもは、主として東国の住人で、平家の所領は全国に行き渡っているとはいいながらも、まず中央部以西に多かったので、西国筋の新地頭は、いずれも遥かに関東の方から赴任すべき訳合である。もっともこの時代になっては管理人とはいうものの、自ら事務を取るのではなく、己れは単に管理人たる収入を取って、事務はまた別に下受けをさせるものがあったのですが、いずれ源平の戦争に関係したほどのものは、旧来の所領の一ヶ所や二ヶ所は持たぬものはないからして、たいてい故郷を捨てて新恩の地に移住することのできぬはもちろん、時々の巡視さえも常に代人で済ませたのである。これが近世の代官という制度の根源で、戸主が幼子や女子である場合には、本領についても代官を用いねばならぬ場合もあったのではあろうが、主としては右のごとく、東西掛け離れたる二ヶ所以上の知行の分立している場合に、この必要が多かったのであります。 関東武士の一部移住は自然の成行き  代官の手をもって支配していた遠方の所領は、久しからずして遺産相続によって分配せられた。元来分割相続は大宝令以来の旧慣ではあるが、本家の威力を支持すべく、できるだけこれを制限していた。ところが戦争の必要から兵力を増加するためには、どうしても家の数を増さねばならぬ必要があった。そこへ持って来て多分の新恩・加恩の地ができたのであるから、親は良い気になって総領に対する遠慮もいらず、可愛い末子に思いのままの新宅を持たせることができた。この後引き続いて北条氏の悪辣たる権略によって、鎌倉殿の功臣がおいおいと滅亡して、その所領の全部または一部が収公せられて闕所となった。承久の役に宮方に属した公卿武家の領地も同様戦勝者の間に分配せられ、これらの結果が次第次第に、関東武士の一部移住となったことは、まことに自然の成行きといわねばならぬ。 国内植民史の上で看過すべからざる大転変  右のごとき場合に、本家から離れて新たに遠方に移住したものの、家号はどうなったかというと、だいたいにおいては共通に行先の地名を名字の中に称えたのである。たとえば下野の宇都宮家が豊前の城井に新恩の地を貰って行けば城井氏となり、さらにこの家から肥後の内古閑に移住して行けば、内古閑氏となった類である。しかしながら当時の思想としては、すでに開墾せられたる土地に対しては、名田職の関係もないところから、これを家の号に名乗るのはいかにも貰い物のような感じがしたものか、あるいはまた宇都宮とか千葉とかいう関東の大名は、九州の辺土にまでその名が轟いていたがゆえに、これを名乗って本家の威光を笠に着る必要があったものか、いつとなく家号を携えて移住して行くような風が始まった。これは国内植民史の上で看過すべからざる大転変であります。 毛利・武田・小笠原の諸家  たとえば大江広元の一族は、相州愛甲郡毛利荘に本領があって、毛利を名乗っていた。その一族の中では、羽前の左沢に移住したものは左沢某と呼んでいるが、安芸国に分れて行った家はそのままに毛利家と称しておった。これおそらく出羽の方は新開で芸州の方はすでに開けておったがためであろう。甲州の武田は、釜無川の上流に名字の地があったがための武田であるけれども、そのある者は上総に移住し、またある者は若狭に移住してもやはり武田を名乗っている。その一族の南部家は、同じ河の下流の駿河に接したる南部村を領して家の名を得たのであるが、奥州の北端に移住してもなお南部を唱えている。同じ国の小笠原家は、阿波に移住しては三好氏となったけれども、信州に移ったものはいつまでも小笠原家であったのです。 熊谷・吉川及び九州の諸家  武蔵の熊谷に住んでおった蓮生入道の一族は、安芸国に引き移っても相変らず熊谷で、その子孫が非常に繁殖して今日まで残っている。足利将軍義政の時代に諫言を上って領地を失った熊谷某は近江の熊谷である。また今日は毛利家の親族となっておらるる吉川家は、元駿州の庵原郡の住人で、梶原景時が鎌倉を逃げて西に走る時に、狐ヶ崎でこれを攻め殺した吉香の小次郎はその祖先である、たしかこの時の感賞に芸州を貰ったかと記憶している。  九州には源平戦後の移住武士がほかにもたくさんあって、菊池とか原田とかはそれ以前から、九州の地名を家号としている旧家であるけれども、大友は相州の大友であるし、伊東は伊豆の伊東で、前に挙げた吉川家とともに狩野家の分れである。千葉という家も九州に多いが、これも下総からの分家である。薩摩にしかない名字の鮫島家のごときも、はるばる駿河の富士山麓から担いで行った家号であります。 家号を新領に持ち行くに至りし一原因  右のごとく家号を持って新領に引き移るの風は、漸々と増加して行ってついに名字の固着した今日の状態を養うに至ったが、一つの原因としては、吉野朝廷時代に地方地方の嫡庶の争いが、この機会を利用して宮方・武家方に立ち分れ、所領の奪い合いを始めたために、その一の要求としていったん新たなる家号を持ったものも、改めて本家の名を名乗るという政治上の必要も、よほどこの傾向を手伝っていると思われる。これから以後は名字によって、その家の郷里を推測することのできるという、一方から見れば重宝なありさまに移って行ったのである。しかしいずれの家でも最初の本領というものがあって、二心なく武家に仕えておったものは、まずは家号の地と連絡を絶つことはなかったがゆえに、足利氏の末の頃まで山田郷の山田殿というような武士は、たくさん全国にあったのであります。 東北の旧家たる佐藤・五十嵐・本間  ここにその一例をいうと、前にもお話した田原家の後である佐藤家である。現在の系図が真実なりとするならば、佐藤家は下野より北部に向って非常な勢いをもって蔓延して行ったのである。九郎判官に仕えて忠義の戦死を遂げたる嗣信・忠信の兄弟は、諸所にその遺跡というものがあって正確にはわからぬが、とにかく奥州の南方に領地を持っておった佐藤家であって、すでに源平時代においてその東北に植民を始めたのである。今日でも奥羽六県の間には佐藤という旧家が最も多く、いずれも秀郷流の藤原氏であると称している。自分は先年山形県を旅行して、面白い事実を発見した。出羽の庄内、ことに西田川郡の海岸部においては、佐藤と五十嵐という家が南北から入り交って、ここで双方の境界をなしている。この五十嵐家は系図は見たことがないけれども、何でも越後が本元で、新潟県の北部から山を越えて、出羽の方へも会津の方へも移住を試み、いずれの方面においても佐藤家の前進を喰い止めかつ喰い止められている。  酒田の本間家は現今の富豪であるが、この家号も広く出羽地方に播布しておって佐藤・五十嵐二勢力の外に屹立しているが、この家は佐渡の本間である。本間家と佐藤家の縁故はすこぶる深いもので、しかも一島の富を独占しておったがために、その余力をもって優に対岸の地に展開することができ、ここにはからずも山形県の隅に、三合の奇現象を残すことになったのであります。 家紋の数はあまりたくさんはない  話がここまで進むと、ついでに少しく家紋のことを述べる必要がある。後世の家紋は、あるいは主君から拝領したもの、あるいは物好きから新たにこれを定めたものもあるのみならず、全然異なる家筋で同じ紋をつけることもあれば、一概に紋から家の先祖を定めることもできないが、中世の家族制度の特色、すなわち移住のために家号を変えてゆくことと、比較してみるとよほど面白い趣味がある。  諸家の紋帳の中でいちばん古いのは、『群書類従』に出ている「見聞諸家紋」であるが、これはその数がはなはだわずかである。徳川時代の『武鑑』や「紋帳」に顕われている紋の数も、その数が五六百を超えないのである。今日でも稀には染物屋の難儀をするような紋もないではないが、だいたい紋書きが見たこともないという紋は、一生の中に七つか十しかないそうである。言を換えて言えば、源平時代の家号文化がほとんと極まるところを知らざるありさまであったものが、ある特種の原因から逆戻りをして、やや統一の傾向を示したのと同じように、紋もまたいったん無数に増加して行こうとしたものが、ある程度に達して後再び減少の傾向を示したのである。戦争の盛んな時代には、何でも紋はきわめて目立ち、かつ特色のある無風流なものを選んだのであるが、今日になってはあまり書きにくいとか、あまりに不細工だとか、はなはだしきは汚れやすいとか剥げやすいとかいうために、だんだんと世間にあり触れた紋の方へ移って行く傾向がある。私の家の紋は、以前は丸に行書の大の字であったものを、五六十年以来女の紋に向かぬという理由から、五つの大の字を花の形に組み合せた紋に変更したため、世間によくある松葉桔梗の紋と、ほとんと同じになってしまいました。 一つの物体は一族を統括し個々の変化が各家を表わす  右の次第であるから、今日人の背中を見て家柄を想像することなどはまず不能となったけれども、それでもなおこの間に、多少の意味と趣味とを認めることができる。幕末の学者で栗原柳庵(信充)という人は、五人も七人も初めてのお客が訪問した時に、名札と紋所とを引き比べて「あなたが何さんですな」と言い当てたということである。  なるほど高橋とか和田とかいう名字が平凡であるがごとく、酸漿や木瓜のようなありふれた紋ではいかんともすることができぬが、何か一所、形か物体かに特色のある紋なら、自然に家の由来を仮定せしむる材料となるのである。  ここに自分は形と物体ということを言ったが、かつて近年の紋帳にある四五百種の紋について分類を試みてみたのに、その種類の存外に単純であることを感じた。すなわち僅々数十種の物体を十数通りに変形させたのが今日の紋である。たとえば井筒ならば井筒を菱にもすれば丸の中にも入れ、輪違いにもすれば四つ合せもするというように、一つの紋をいかほどにも変えて行くのである。これは徳川家の葵の紋が、主たる御分家筋はもちろん、酒井にも松平にも共通であって、ただその形状及び組合せの変化によって、家々を分つのを見ても容易に想像せらるるごとく、一つの物体は一族を総括し、個々の変化が各家を代表した訳であろう。 紋の由来及びその変遷  紋の由来については別にお話をする方が良いと思うが、要するにその初まりはさほど古いものではなく、武家がこれを用いたのはせいぜい源平の頃からで、戦場において司令部のあり所を知らせるために、幕とか旗とかに付けた符牒で、その思い付は京都の大官連が車に家々の紋を付けたのが本で、紋の材料は現今の通説のごとく、礼服の衣紋から得たものであろう。言葉を換えて言えば、家号の分化が中止し始めた頃から、紋の分化が始まって、その種類の増加が止まったのは、近代再び家号が増そうとした頃であって、家の本分の関係は何かの方法で、これを表わさなければならぬ社会的の必要を、意味するものではなかろうか。  紋所の詮議の最もやかましかったのは、足利時代から徳川時代へかけて、名乗の半分を家人にやる慣習の行われた頃である。しかしその反動として紋所を大事にする結果、主君が賞与として家の紋を臣下に与えるようになって、結局紋の数がだんだん減るようになったのであります。 新領主を苦しめたる地侍・国侍・郷士  この反動的同化作用は、単に紋所に止まらず、将軍及び諸大名の臣下鎮撫策とも関聯するもので、徳川家がむやみに外様大名に松平の姓を与えたこと、ないしは押懸け婿、押懸け嫁を縁付けて、大名各藩を迷惑させたのと同じ傾向を示すものである。御承知の通り徳川初期の武家は、将軍自身を初めとして、十中の八九までは成上りの大家である。以前に十数倍する知行を持ったからには、たくさんの侍を召し抱えねばならぬ必要があった。かりにまた譜代の家来に過分の加増をするとしても、その家来もまた知行高相応の軍役を勤むるためには、新たに郎党を召し抱えねばならぬ。しかるにこの時節は戦国の後で、諸国旧家の主人の新領を失って諸方を流浪して歩くもの、すなわちいわゆる浪人の数が非常に多くして、そのある者は器量次第すこぶる高禄を得たがために、差引残りはまだなかなか多く、何ほど抱えても江戸・大阪に集って来る無足の輩がはなはだ多かったのである。彼等はあるいは大阪陣に加わり、あるいは島原の役に加担し、あるいは由比戸次の謀叛に与して、たいてい片付いてはしまったが、しかしこればかりでは決して尽きたとはいわれぬので、諸国にはまだ若干の食禄を持って、別に主取りもせず従来の本領に蟄伏している武士の数が、やはり浪人の数くらい、事によるとそれよりも多くあったのである。この輩を名づけて国侍・地侍または郷士と称えている。地侍の鎮撫策は、新たなる国持衆の最も取扱いに困難したる問題である。彼等は土民との間に数世の縁故があるのみならず、風土交通の事情に明るく、多くは山の奥、谷の陰を根拠として、公然と攻めに行けば家族を携えて山中に隠れ、敵が去ればまた出て来て住む。よくよくおとなしいものでも何のかのと故障を申し立てて、新たに年貢を払うまいとする。土佐の長曾我部とか、備前の宇喜多とかいう、徳川家に弓を引いて断絶した家々の部下で、新領主を苦しめたのはこれら地侍・郷士の輩である。 諸侯の対地侍策  諸侯の対地侍策にも剛柔の二種類があった。無二無三に攻めつぶし、あるいは攻めがたいものは欺いて連れ出して縛り首を打ったけれども、これは決して容易な事業でないからして、多くの場合には幸い新たに召抱えの必要もある場合であるから、以前の通り刀がさしておりたければ出て来て奉公をせよ、もしまた奉公が厭なら普通の長百姓の通りに年貢を納めよと、二つの方法を選択させた。この場合における地侍の態度はたいてい一様であった。祖先伝来の鎗刀が捨てたくなさに、兄弟または親子の一人は出て仕えた。また本領の土地を捨てるが悲しさに、他の一人は止まって農となり、その末裔は多く名主または庄屋となった。後年諸侯が貧乏をして、田舎の豪農から献金などをさせ、その賞与としてほかにやるものもないから、名字を名乗ることを許し、あるいは刀をさすことを許したので、人民の方で非常に嬉しがったのは深い仔細のあることで、いわゆる二字帯刀御免の制度は、地方の旧家をして久しく失っておった地侍の旧特権を、回復させたのだから嬉しかったのである。 名字と地名との関係断絶の理由  三百諸侯の中には、三百年の間同じ領地を保っておった家もないではないが、その大半は三度も五度も国替・城替があったのである。この場合には最初の領地から出でて仕えたる地侍の一族は、主人に随って東西南北に移住して歩いた。  前田家は永くその領地を替えなかったけれども、その藩士の名字を見ると、加賀・能登・越中の地名を帯びているものももちろん多いけれども、そのほかにもあるいは越前在府の時に召し抱えられて越前の村の名を名字としている者、さらに尾州荒子の時代から仕えておった奥村家のような移住者もある。いわんや奥州の棚倉などいうような所へ、懲戒的に国替させられるような中大名にあっては、その藩士の漂泊生活というものは、明治の今日の軍人や裁判官も三舎を避けるくらいであった。これに至ってか名字と土地との関係は全然断絶してしまって、ついに現代のごとく数十人の太郎次郎を区別する、符号のごとくなってしまったのである。  しかし彼等自身においては多くの場合、生国を忘れるようなことはなかった。徳川末期の『武鑑』を見ても、江戸の旗本の名の下に生国三河と書いてあると同じく、彼等は決してその本国を忘却しなかった。しかのみならず数代以前に別れて来た郷里の本家とは、きわめて血の薄くなるまで音信を絶たず、よくよく双方いずれかが零落をせぬ限りは、名字の地または奉公先を互いに記憶しておったのであります。 二字免許の制度の由来  村々の農夫の歴史は文字に伝わっておらぬけれども、存外続いて久しいものであるらしい。彼等は戦乱に追われ、または天災に遭遇しても、真っ先に居村に引き返して荒地を再墾することを勤めたらしい。今日の新村というのは、よくよく以前から人の耕さなかった土地に外部から移住したものである。これに反して武家の方は数回の大移住のためによほどの混乱を生じ、少なくとも客観的にはその家号の由来が不明になっている。しかるに旧幕時代は普通の土民は、公けに在名を称する事を禁ぜられた。二字ということは中世では名乗を意味した。武士がある大家の家人となれば、名簿に二字を書してこれを主人に呈し、実名を諱まずに呼んで下さいという儀式を行った。この制度が廃れてから、公けに家号を名乗ることを二字の免許と称した。村々には長百姓と小百姓、もしくは地主と門男との二階級があって、後者は武家の特権に対しても、または旧家門閥の威厳を維持する上からも、絶対に家号を唱うることを許されず、しかもその多くのものは疾くの昔に家号を忘却し、または最初から家号がなくして、十数代も何村何兵衛で通っておった。 一村ことごとく魚の名を家号にした伊予の漁村  明治の初年に在名の禁が解かれて、次いで戸籍にいわゆる姓氏を録せなければならぬことになった時に、村々の役場ではそれはそれは大騒動であった。数百戸の無家号の人がとにかく何か名字を持たなければならぬことになった。旧家の零落したものまたは本家の明白なるものは、もちろん私にはこれを用いていたのであるからして面倒はなかったが、親代々の小百姓は皆困った。多くは譜代の関係を辿って出入りの家から名字を貰った。または相手方の故障を言わぬ限りその近村で聞えた名字を名乗った。しかしそんな考えもないものは役場の吏員が付けてやった。あるいは家の前に松の木があるから松下と付けろとか、山の入口にあるから谷口と名乗れとか、中には頓狂な村役人などがあって、伊予の海岸の漁村などでは家々が魚の名を付けた。その隣村では野菜の名を名乗にしたとかいう例がいくらもあった。魚や野菜ならば珍しいから紛れもせぬが、松下とか谷口とかいう類に至っては、実際昔松下村の地頭であり、谷口村の名主であった家と、人から区別することが困難になった。ここにまた第三次の大混乱をしたのであります。  今日東京のごとき大都会においては、たいてい珍しいと思う名字が諸国から集ってほとんと区別もできぬから、名字は以前に比べて生活上の意味が薄くなり、これに伴なって各人の頭に、家という思想がだんだん微弱になって行くのは、実に是非もなき成行きであります。 家号の由来を調査するの必要  支那では古くから『万姓統譜』などという書物があって、これによれば家々の歴史もわかり、間接には数千年来の国内植民の趨勢も明らかになることであるが、不幸なることにはわが邦にはこの種の書籍もなく、しかもたびたびの混乱を経た今日となっては、将来これを作製すべき希望もはなはだ乏しいのである。せめてもの希望として、たとい明治になって家号を付けた家々まで、その由来を明らかにすることができぬまでも、せめては地方地方の旧族名門、及びいわゆる士族という階級だけは、多少の辛苦をすればわかるのであるからして、今の中にその家号の索引を拵えておきたいものである。  この材料としては、地方地方の風土誌の類にも旧家の記事があるし、また武家の方では徳川幕府で作った『寛政重修諸家譜』の類、各藩では家々から提出した勤め書の類を合わせれば、過半の材料は容易に得られるのである。この類の書物さえあれば、たとい士族でなく豪農でない家でも、自分の家と同じ家号の中から、自然に家の歴史を知ることができるであろうし、反対の証拠のない限りは、自分の居住地に最も近き同家号の家をもって、その本家を推定することができるし、その本家の歴史がわかれば、自分等の血統上祖先とその地方、ないし旧領主との関係もわかり、延いては一国の歴史との交渉点も見出さるる訳であるから、将来の青年に対する訓育的の効果は決して少なくはないと思う。 床次という名字の由来  簡略ながら名字の本論はこれで終った。このついでのお愛嬌に二つ三つ我々の知っている珍しい名字のお話をしてみよう。  新内務次官の名字は何だか「トコツグ」と読めそうで、人は珍しい名字と考えているが、あの地名は同君の郷里の方にあるのであろう。「トコナミ」という地名は決してそれほど珍しくない。東の方に来るに従ってあるいは「床波」と書し、または「床鍋」「床辺」「常滑」などとも書いている。古い語で『万葉』の歌などにもすでに見えているが、その意味はあるいは川の流れの事であるなどといってはなはだ不明であるけれども、自分の信ずるところでは、「トコナミ」の「ナミ」は次の字が表するごとく並列の義であって、「トコ」は祭壇すなわち岩のことである。上古岩を道路の側もしくは邑落の境に立て、あるいは天然の岩を利用して地鎮の祭をした。その祭壇を名づけて「クラ」または「トコ」というたのである。この岩石は多くの場合には二つであった。箱根その他国境に二子山という山があり、または村境に二子塚という塚のあるのも同一の理由で、最初はこれを祭壇に供し、後には岩石それ自身を神として崇拝した。石の並列は二つ以上十数箇も並んでいることもある。これすなわち「トコナミ」である。播磨の加西郡には鎮岩と書いて、「トコナベ」と呼ぶ村がある。これらをもって見れば、床次さんの祖先の住まれた土地は、ある一の平原の境に接した新開地であったろうと思う。 石黒という名字の意味  次に自分の友人の石黒君は越後の人であるが、越後の石黒はすべて越中の礪波郡の石黒の荘から出た家で、越中の石黒家は『源平盛衰記』の頃からすでに名の聞えた名族である。そうして石黒の黒は、日本語としては漢字通りにとうてい解釈することができぬ。その後注意して見れば備前・備中辺では塚の事を「クロ」といって、畔の字も使わぬこともないが、多くの場合には𡉕という字を宛ている。この土扁に丸の字は理窟から拵えた和製の字で、「クロ」というものが丸き土すなわち塚であることを示すものである。同じ例は米扁に丸の字を書いて団子と呼ばせる地名がある。岡山県には石𡉕という地名がいくらもあり、また近頃自分の旅行した備前大野郡の山中では、土塀または石垣のことを「ツカグロ」といっている。「ツカ」は築くという語から起った語である。田の周囲を田の「クロ」といい、屋敷の土居を壟と書いてグロと読む例などを思い合せると、越中の石黒もまた床次と同じで、境に石塚を築いて地鎮の祭をした遺風を示すものといって良いのである。 十時という名字の由来  また自分の友人で十時君という人がある。これは立花伯家の重臣で戦国以来武名の轟いた名家である。この家号も文字からは意味を解することはできぬが、自分の判断では十時の「トキ」は戸木すなわち門木の義で、境の入口に神を祭る神木を意味するものである。諸国に女夫石があれば女夫木があり、子持石があれば子持木があるごとく、石の代りに天然の樹木を用いることはきわめて普通の例である。しこうして「トトキ」の「ト」は「遠」の義で、「遠戸木」はまた「近戸木」に対する語である。遠戸と近戸は近世の語でいえば大手と搦手であって、関東地方では遠戸神・近戸神という神様が無数にある。奥羽の方へ行けば近戸森、遠戸森と変形する。伯爵藤堂家は近江から出た家であるが、この「トウド」もまた遠戸神の祭場のことである。これをもって見れば、わが尊敬する十時さんは、その御先祖がやはり床次さんと同じく、ある荘園の境端外来の悪神を防ぐに必要なる地点に、守備兵かたがた開墾を始められた家であろう。 木越家の名字の由来  私の親戚に金沢人の木越という家がある。これは越前の斎藤家から出た有名なる富樫家の庶族であるらしく、加賀の河北郡の木越村に住んでおったから家号となったのである。これも塚の越・境木峠・道祖神峠・榎木峠の例と同じく、越すなわち境に植えた霊木の所在を意味する地名であって、これらの四家はたとい相互に何の縁故はないとはいえ、その祖先の居住地が東西南北ほぼ事情を一様にしていたものである。かくのごとく地名の意味にまで立ち入って家号の由来を吟味すると、まだなかなか面白い話が尽きないのである。 (「斯民家庭」明治四十四年七月・九月─十一月) 底本:「柳田國男全集20」ちくま文庫、筑摩書房    1990(平成2)年7月31日第1刷発行 底本の親本:「定本柳田國男集 第二十巻」筑摩書房    1962(昭和37)年8月25日発行 初出:「斯民家庭 第二編第七号、第九号、第一〇号、第一一号」報徳会    1911(明治44)年7月1日、9月1日、10月1日、11月1日 ※「合わせ」と「合せ」の混在は、底本通りです。 入力:フクポー 校正:砂場清隆 2018年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。