悪霊 江戸川乱歩 Guide 扉 本文 目 次 悪霊 発表者の附記 第一信 第二信 発表者の附記  二月ばかり前の事であるが、N某という中年の失業者が、手紙と電話と来訪との、執念深い攻撃の結果、とうとう私の書斎に上り込んで、二冊の部厚な記録を、私に売りつけてしまった。人嫌いな私が、未知の、しかも余り風体のよくない、こういう訪問者に会う気になったのはよくよくのことである。彼の用件は無論、その記録を金に換えることの外にはなかった。彼はその犯罪記録が私の小説の材料として多額の金銭価値を持つものだと主張し、前持って分前に預り度いというのであった。  結局私は、そんなに苦痛でない程度の金額で、その記録を殆ど内容も調べず買取った。小説の材料に使えるなどとは無論思わなかったが、ただこの気兼ねな訪問者から、少しでも早くのがれたかったからである。  それから数日後のある夜、私は寝床の中で、不眠症をまぎらす為に、何気なくその記録を読み初めたが、読むに従って、非常な掘出しものをしたことが分って来た。私はその晩、とうとう徹夜をした上、翌日の昼頃までかかって、大部の記録をすっかり読み終った。半分も読まない内に、これは是非発表しなければならないと心を極めた程であった。そこで、当然私は、先日のN某君にもう一度改めて会いたいと思った。会って、この不思議な犯罪事件について、同君の口から何事かを聞出したいと思った。記録を所持していた同君は、この事件に全く無縁の者ではないと思ったからだ。併し、残念な事には、記録を買取った時の事情があんな風であった為に、私は、某君の身の上について何事も知らなかった。彼の面会強要の手紙は三通残っていた。けれど所書きは皆違っていて、二つは浅草の旅人宿、一つのは浅草郵便局留置きで返事を呉れとあって所書きがない。その旅人宿二軒へは、人をやったり電話をかけたりして問合せたけれど、N某君の現在の居所は全く不明であった。  記録というのは、真赤な革表紙で綴じ合せた、二冊の部厚な手紙の束であった。全体が同じ筆蹟、同じ署名で、名宛人も初めから終りまで例外なく同一人物であった。つまり、この夥しい手紙を受取った人物が、それを丹念に保存して、日附の順序に従って綴じ合せて置いたものに相違ない。若しかしたら、あのN某こそ、この手紙の受取人で、それが何かの事情で偽名していたのではなかったか。こんな重要な記録が、故なく他人の手に渡ろうとは考えられないからだ。  手紙の内容は、先にも云った通り、ある一聯の残酷な、血腥い、異様に不可解な犯罪事件の、首尾一貫した記録であって、そこに記された有名な心理学者達の名前は、明かに実在のものであって、我々はそれらの名前によって、今から数年以前、この学者連の身辺に起った奇怪な殺人事件の新聞記事を、容易に思い出すことが出来るであろう。おぼろげな記憶によって、その記事とこれと比べて見ても、私の手に入れた書翰集が全く架空の物語でないことは分るのだが、併し、それにも拘らず、ここに記された事件全体の感じが(簡単な新聞記事では想像も出来なかったその秘密の詳細が)何となく異様であって、信じ難いものに思われるのは何故であるか。現実は往々にして如何なる空想よりも奇怪なるが為めであろうか。それとも又、この書翰集は無名の小説家が現実の事件に基いて、彼の空想を縦にした、廻りくどい欺瞞なのであろうか。歴史家でない私は、その何れであるかを確める義務を感じるよりも先に、これを一篇の探偵小説として、世に発表したい誘惑に打ち勝ち兼ねたのである。  一応は、この書翰集全体を、私の手で普通の物語体に書き改めることを考えて見たけれど、それは、事件の真実性を薄めるばかりでなく、却って物語の興味をそぐ虞れがあった。それ程、この書翰集は巧みに書かれていたと云えるのだ。そこで私は、私の買取った二冊の記録を、殆ど加筆しないでそのまま発表する決心をした。書翰集のところどころに、手紙の受取人の筆蹟と覚しく、赤インキで簡単な感想或は説明が書き入れてあるが、これも事件を理解する上に無用ではないと思うので、殆ど全部(註)として印刷することにした。  事件は数年以前のものであるし、若しこの記録が事の真相であったとしても、迷惑を感じる関係者は多く故人となっているので、発表を憚る所は殆どないのであるが、念の為に書翰中の人名、地名は凡て私の随意に書き改めた。併し、この事件の新聞記事を記憶する読者にとって、それらを真実の人名、地名に置き替えることは、さして困難ではないと信じる。  今私はこの著述がどうかしてN某君の眼に触れ、同君の来訪を受けることを切に望んでいる。私は同君が譲ってくれたこの興味ある記録を、そのまま私の名で活字にすることを敢てしたからである。この一篇の物語について、私は全く労力を費していない、随ってこの著述から生じる作者の収入は、全部、N某君に贈呈すべきだと思っている。この附記を記した一半の理由は、材料入手の顛末を明かにして、所在不明のN某君に、私に他意なき次第を告げ、謝意を表したい為であった。 第一信  長い間全く手紙を書かなかったことを許して下さい。それには理由があったのだ。数年来まるで恋人の様に三日にあげず手紙を書いていた君のことを、この一月程の間と云うもの、僕は殆ど忘れていた。僕に新らしい話相手が出来たからだなどと思ってはいけない。そんな風の並々の理由ではないのだ。君は僕の「色眼鏡の魔法」というものを多分記憶しているだろう。僕が手製で拵えたマラカイト緑とメチール菫の二枚の色ガラスを重ねた魔法眼鏡の不気味な効果を。あの二重眼鏡で世界を窺くと、山も森も林も草も、凡ての緑色のものが、血の様に真赤に見えるね。いつか箱根の山の中で、君にそいつを覗かせたら、君は「怖い」と云って大切なロイド眼鏡を地べたへ抛り出してしまったことがある。あれだよ。僕がこの一月ばかりの間に見たり聞いたりしたことは、まったくあの魔法眼鏡の世界なのだよ。眼界は濃霧の様にドス黒くて奥底が見えないのだ。しかしその暗い世界をじっと見つめていると、眼が慣れるにつれて、滲み出す様に真赤な物の姿が、真赤な森林や、血の様な叢が、目を圧して迫って来るのだ。  君の少し機嫌を悪くした手紙は今朝受取った。恋人でなくても、相手の冷淡は嫉ましいものだ。僕は心にもない音信の途絶えを済まない事に思った。と云って、何もそれだからこの手紙を書き出したのではない。もっと積極的な意味があってなのだ。君の手紙の中に黒川先生の近況を尋ねる言葉があったね。君は大阪にいて何も知らないけれど、君のあの御見舞の言葉は、偶然とは思われぬ程、恐ろしく適切であったのだ。僕は先生の身辺に継起した出来事について君の御尋ねに答えるべきなのであろうが、それは、いくら僕の手紙が饒舌だからと云って、一度や二度の通信では迚も書き切れるものでない。それ程その出来事というのが重大で複雑を極めているのだ。しかも事件はまだ終ったのではない。僕の予感ではこの殺人劇のクライマックスは、つまり犯人の最後の切札は、どっかしら見えない所に、楽しそうに、大切にしまってあるのだ。  実を云うと、僕自身もこの血腥い事件の渦中の一人に違いない。なぜと云って、黒川博士の身辺の出来事というのは、君も知っている例の心霊学会のグループの中に起ったことであって、僕もその会員の末席をけがしているからだ。僕がどういう気持で、この事件に対しているか、事件そのものは知らなくても、君には大方想像出来るであろう。黒川先生や気の毒な被害者の人達には、誠に済まぬことだけれど、気の毒がったり、途方にくれたり、胸騒ぎしたりする前に、先ず探偵的興味がムクムクと頭をもたげて来るのを、僕はどうすることも出来なかった。事件が実に不愉快で、不気味で、惨虐で、八幡の籔知らずみたいに不可解なものである丈け、被害者にとっては何とも云えぬ程恐ろしい出来事であるのに反比例して、探偵的興味からは実に申分のない題材なのだ。僕はつい強いても事件の渦中に踏み込まないではいられなかった。  君が僕に劣らぬ探偵好きであることは分っている。僕は君が東京にいてまだ学生だった時分、二人で机上の探偵ごっこをして楽しんだのを忘れることが出来ない。で、僕はこういう事を思い立った。まだ謎は殆ど解けていないまま、この事件の経過を詳しく君に報告して、それを後日の為の記録ともし、又、遠く隔てて眺めている君の直覚なり推理なりをも聞かせて貰うという目論見なのだ。つまり、僕達は今度は、現実の、しかも僕に取っては恩師に当る黒川博士の身辺をめぐる犯罪事件を材料にして、例の探偵ごっこをやろうという訳なのだ。これは一寸考えると不謹慎な企てと見えるかも知れない。だが、そうして、若し少しでも事件の真相に近づくことが出来たならば、恩師に対しても、その周囲の人達に対しても、利益にこそなれ決して迷惑な事柄ではないと思う。  今から約一ヶ月前、九月二十三日の夕方、姉崎曽恵子未亡人惨殺事件が発見された。そして、何の因縁であるか、その第一の発見者はかく云う僕であった。姉崎曽恵子さんというのは僕達の心霊学会の風変りな会員の一人で(風変りなのは決してこの夫人ばかりではないことが、やがて君に分るだろう)一年程前夫に死に別れた、まだ三十を少し越したばかりの美しい未亡人だ。故姉崎氏は実業界で相当の仕事をしていた人だが、その人と黒川博士とが中学時代の同窓であった関係から、夫人も博士邸を訪問する様になり、いつの間にか心霊学に興味を持って、心霊現象の実験の集りには欠かさず出席していた。その美しい我々の仲間が突然奇怪な変死をとげたのだ。  その夕方、午後五時頃であったが、僕は勤め先のA新聞社からの帰りがけに、兼ねて黒川先生から依頼されていた心霊学会例会の打合せの用件で、牛込区河田町の姉崎夫人邸に立寄った。多分君も知っている通り、あの辺は、道の両側に毀れかかった高い石垣が聳え、その上に森の様な樹木が空を覆っていたり、飛んでもない所に草の生えた空地があったり、狭い道に苔の生えた板塀が続いていて、その根元には蓋のない泥溝が横わっていたりする、市内の住宅街では最も陰気な場所の一つだが、姉崎未亡人の邸は、その板塀の並んだ中にあって、塀越しに古風な土蔵の屋根が見えているのが目印だ。  姉崎家の門よりは電車道よりに、つまり姉崎家の少し手前の筋向うに当る所に、今云った草の生えた空地があって、その隅に下水用の大きなコンクリートの管が幾つもころがっているのだが、多分その管の中を住いにしているのだろう、一人の年とった男の片輪乞食が、管の前に躄車を据えて、折れた様に座っていた。僕はそいつを注意しない訳には行かなかった。それ程汚くて気味の悪い乞食だったからだ。そいつは簡単に云えば毛髪と右の目と上下の歯と左の手と両足とを持たない極端な不具者であった。身体の半分がなくなってしまっているといってもよかった。その上痩せさらぼうて、恐らく目方も普通の人間の半分しかないのだろうと思われた程だ。僕は道端に立止まって二三分も乞食を眺め続けたが、その間彼は僕を黙殺して、片方しかない手で折れ曲った背中をボリボリ掻いていた。  僕がこの躄乞食をそんなに長く見つめていたのは、人間の普通でない姿態に惹きつけられる例の僕の子供らしい好奇心に過ぎなかったが、併しそうしてこの乞食を心にとめて置いたことが、あとになってなかなか役に立った。いやそればかりではなく、僕とそいつとは、別にはっきりした理由がある訳ではないけれど、何だか目に見えない糸で繋ぎ合されている様な気がして仕方がないのだ。殊に近頃になってこの二三日などは毎晩の様に、あのお化けの夢にうなされている。昼間でもあいつの顔を思出すとゾーッと寒気がして何とも云えぬ厭な気持に襲われるのだ。姉崎家のことを書く前に、僕はなんだかあの片輪者について、もう少し詳しく君に知らせて置き度くなった。そいつの不具の度合は、身体のどの部分よりも顔面に最も著しかった。頭部の肉は顱頂骨が透いて見える程ひからびていて、ビカビカ光る引釣があって、その上全面に一本の毛髪も残っていなかった。木乃伊には毛髪の着いているのもあるが、この乞食の頭は、木乃伊とそっくりな上に髪の毛さえも見当らぬのだ。広く見える額には眉毛がなくて、突然目の窪が薄黒い洞穴になっていた。尤もそれは右の眼の話で、左の眼球丈けは残っていたけれど、細く開いた瞼の中は、黒くはなくて薄白く見えた。僕は左の目も盲目なのかと考えたが、あとになってそれは充分使用に耐えることが分った。目から下の部分は全く不思議なものであった。頬も鼻も口も顎も、どれがどれだかまるで区別がなくて、無数の深い横皺が刻まれているに過ぎなかった。鼻は低くて短かくて幾段にも横皺で畳まれていて、普通の人間の鼻の三分の一の長さもない様に見えたし、鼻の下には幾本かの襞になった横皺があるばかりで、すぐに羽をむしった鶏の様な喉になっていた。無論その横皺の一つが口なのだけれど、どれが口に当るのか見分けがつかない程であった。つまりこの乞食の顔は、我々とはまるで逆であって、目から下の全体の面積が、額の三分の一にも足りないのだ。これは肉が痩せて皮膚がたるんだのと、上下の歯が全くない為に、顔の下半面が、提灯を押しつぶした様に縮んでしまったものに違いなかった。君が若しアルコール漬けになった月足らずの胎児を見た経験があるなら、それを今思い出してくれればいいのだ。髪の毛の全く生えていない、白っぽくて皺くちゃのあの胎児の顔をそのまま大きくすれば、丁度この乞食の顔になる。皮膚の色は、君は恐らく渋紙色を想像するであろうが、案外そうではなくて、若し皺を引き伸ばしたら、僕なんかの顔色よりも白くて美しいのではないかと思われる程であった。それからこいつの身体だが、それは顔程ではなかったけれど、やっぱり木乃伊を思出す痩せ方であった。着ていたのは、盲目縞の木綿の単衣のぼろぼろに破れたもので、殊に左の袖は跡方もなくちぎれてしまって、ちぎれた袖の間から、黒く汚れたメリヤスのシャツに包まれた腕のつけ根が、肩から生えた瘤みたいに窺いていた。その瘤の先が風呂敷の結び目の様にキュッとしぼんでいるのは、一見外科手術の痕で、この乞食が癩病患者ではないことを語るものだ。胴体は非常な老人の様に全く二つに折れて、ちょっと見ると座っているのだか寝ているのだか分らない程であったが、その胴体に覆い隠された隙間から、膝から上丈けの二本の細い腿が窺いて見えて、それが泥まみれの躄車の中にきっちりと嵌まり込んでいた。年齢はどう見ても六十才以上の老人であった。  例の癖で、僕は饒舌になりすぎた様だ。道草はよして姉崎家を訪ねることにしよう。そしてなるべく手取早く犯罪事件に入ることにしよう。で、夫人の家を訪ねると、顔見知りの女中が、広い家の中にたった一人でいた。何かしらただならぬ様子が見えたので、僕はその訳を尋ねて見たが、女中の答えた所は次の通りであった。姉崎未亡人は、夫の病死以来召使の人数も減らして、広い邸に中学二年生の一人息子と書生と女中の四人切りで住んでいた。丁度その日は子供の中学生は二日続きの休日を利用して学友と旅行に出ていたし、書生は田舎に不幸があって帰郷していたし、その上女中は夫人の云いつけで、昼すぎから午後四時半頃まで遠方の化粧品店と呉服屋とへ使に出ていたので、その留守の間夫人は全く一人ぼっちであった。いつもはそういう場合には市ヶ谷加賀町にある夫人の実家から人を寄こして貰う様にしていたのに、今日はそれにも及ばないということだったので、女中はそのまま使いに出て、つい半時間程前に帰宅して見ると、家の中は空っぽで、表の戸締りもなく、家中を隈なく探したけれど夫人の姿はどこにも見えなかった。おかしいのは、夫人の履物が一足もなくなっていないことだ。若し夫人がはだしで飛び出す様なことが起ったのだとすれば、それ丈けでもただ事ではない。さしずめ加賀町さんへこの事を知らせなければならぬが、それには留守番がないしと処置に困じていた所へ、丁度僕が来合せたというのであった。  会話を省略したので、少し不自然に見えるかも知れないけれど、その問答の間に、僕は邸内に女中がまだ探していない部分があることを気附いた。それは先にちょっと書いた往来の塀の外から屋根が見えているというこの家の土蔵なのだ。土蔵が女中の盲点に入っていたのは併し無理はなかった。少くとも女中の知っている限りでは、土蔵の扉は時候の変り目の外は殆ど開かれたことがなく、戸前にはいつも開かずの部屋の様に重々しい錠前が掛っていたのだから。僕は念の為にと女中を説いて、二人で土蔵の前へ行って見たが、その扉には、女中の言葉の通り昔風の大きな鉄の錠前が、まるで造りつけの装飾物でもある様に、ひっそりと掛っているばかりであった。だが僕は錠前の鉄板の表面の埃が、一部分乱れているのを見逃がさなかった。それは極く最近、誰かが扉を開けて又閉めたことを示すものではないだろうか。僕はふと夫人が第三者の為に土蔵の中へとじこめられているという想像に脅されて、錠前の鍵を持って来る様に頼んだが、女中はそのありかを知らなかった。それでも、僕はどうも断念出来ないものだから、窓から窺いて見ることを考えて、庭に降りて見廻すと、幸、蔵の二階の窓が一つ開いたままになっているのを見つけた。僕は梯子を掛けてその窓へ昇って行った。窓の鉄棒につかまって、もう殆ど暗くなっているその土蔵の二階を、僕はじっと窺き込んでいた。猫の様に僕の瞳孔が開いて暗がりに慣れるのに数十秒かかったが、併しやがて、ぼんやりとそこに在る物が浮上って来た。壁に接して塗箪笥だとか長持だとか大小様々の道具を容れた木箱だとかが、ゴチャゴチャと積み並べてあるらしく、漆や金具があちこちに薄ぼんやりと光って見えた。それらの品物は皆部屋の隅へ隅へと積み上げてあるので、板敷の中央はガランとした空地になっているのだが、そこに大きなほの白い物体が、曲りくねって横わっていた。僕の目はいち早くその物体を認めたのだけれど、何だか正体を見極めることを遅らそうとするものの様であった。無論怖がっていたのに違いない。併し、いくら外らそう外らそうとしても、結局僕の視線はそこへ戻って行く外はなかった。見ていると、薄闇の中から、その曲線に富んだ大きな白い物体丈けがクッキリと浮上って、僕の目に飛びついて来る様に感じられた。僕は視力以上のもので、それを白昼の如く見極めることが出来た。  姉崎未亡人は、全裸体で、水に溺れた人が死にもの狂いに藻掻いている格好で、そこに息絶えていた。僕は血の美しさというものを、あの時に初めて経験した。脂づいた白くて滑かな皮膚を、大胆極まる染模様のように、或は緋の絹絲の乱れる様に、太く細く伝い流れる血潮の縞は、白と赤との悪夢の中の放胆な曲線の交錯は、ゾッと総毛の立つ程美しいものだ。僕は夫人とさ程親しい訳ではなかったから、この惨死体を見て悲しむよりは怖れ、怖れるよりは寧しろ夢の様な美しさに打たれたことを告白しなければならない。  君はこの僕の形容をいぶかしく思うに違いない。そんな縞の様な血の跡がついているなんて、殺人者は一体どういう殺し方をしたのかと。だがそれに答えるのには、窓の外からの朧気な隙見丈けでは不充分だ。僕は薄闇の悪夢から醒めて、現実の社会人の立場から、殺人事件発見者として適当の処置をとらなければならない。僕は女中とも相談の上先ず第一に自動電話によって加賀町の夫人の実家へこの不祥事を報告し、実家の依頼を受けて、所轄警察署その他必要な先々へ通知した。  地方裁判所検事の一行が到着して、警視庁や所轄警察署の人々と一緒に現場検証を開始したのは、それから一時間程後であった。君も知っている通り僕のA新聞社での地位はこういう事柄には縁遠い学芸部の記者だから、裁判所の人などに知合は少いのだけれど、幸にもこの事件を担当した検事綿貫正太郎氏は学芸欄の用件で数度訪問したことがあって、知らぬ仲ではなかったものだから、証人としての供述以上に色々質問もすれば、綿貫氏から話しかけられもした。だがその夜の検証の模様を順序を追ってここに記す必要はない。ただ結果丈けを正確に書きとめて置けばよいと思う。  先ず最初に土蔵の錠前の鍵に関する不可解な事実について一言しなければならぬ。先にも記した通り、土蔵の扉には錠がおりていたし、仮令窓は開いていても厳重な鉄棒に妨げられてそこから出入することは出来ないので、現場を調べる為には是非錠前の鍵が必要であった。検証の時分には加賀町の実家から姉崎未亡人の兄さんに当る人が来ていて、女中と一緒になって鍵のありかを探したのだけれど、どうしても見つからぬので、人々は止むを得ず錠前を毀して土蔵の中へ這入ることにしたが、僕が注意するまでもなく、彼等は錠前の指紋のことを気附いていて、錠前そのものには触れず、扉にとりつけた金具を撃ち毀すことによって目的を達した。だが、やがてその紛失した鍵が実に奇妙なことには、未亡人の死体の下から発見された。これは一体何を意味するのであろうか。検査の結果、その土蔵の錠前は開閉ともに鍵がなくては動かぬことが分っているのだ。とすると、蔵の外の錠前を、蔵の中にある鍵でどうして閉めることが出来たのであろう。それともこの殺人犯人は用意周到にも、予め土蔵の合鍵を用意していたのであろうか。  さて、そういう風にして土蔵の二階へ昇った人々は、先ず曽恵子さんの死体を囲んで、裁判医の鑑定を聞くことになった。綿貫氏の許しを得て僕もそこに居合せたが、こんなことには慣切ったその筋の人達をさえひどく驚かせた程、この殺人方法は奇怪を極めていた。鑑定によると、兇器は剃刀様の薄刄のもので、右頸動脉の切断が致命傷だと云うことであったが、素人にも一見してそれが分る程、頸部からの出血は夥しいものであった。未亡人の俯伏せになった顔は不気味な絵の具で染めた様に見え、解けた黒髪は絞る程もしっとりと液体を含んでいた。併しこの殺人が奇怪だという意味は、そういうむごたらしい点にあるのではなくて、被害者の生命を断つ事に直接の関係はないけれど、併し何かしら意味ありげな、常識では判断の出来ない、非常に不気味な別の事実についてであった。その一つは、姉崎未亡人が丸裸にされて殺されていたことだ。同じ蔵の二階の片隅に彼女の不断着が脱ぎ捨ててあった所を見ると、被害者は蔵の中へ這入るまではちゃんと着物を着ていたことは確かで、その二階へ来てから自から脱いだか、犯人に脱がされたかしたものに相違ないのだが、それがこの殺人事件にどんな意味を持っていたのかちょっと想像がつかないのだ。それからもう一つの点は、(この方が一層奇怪であって、姉崎夫人殺害事件中での最も著しい事実なのだが)夫人の死体には先に記した致命傷の外に、全身に亙って六ヶ所に、小さい斬り傷があったことだ。鑑定書の口調をまねて詳しく云うと、右三角筋部、左前上膊部、左右臀部、右前大腿部、左後膝部の六ヶ所に、長さ三センチから一センチ位までの、剃刀様の兇器によるものと覚しき軽微な斬り傷があって、そこから六本の血の河が全身に異様な縞を描いていたのだ。誰も皆これらの傷が余り小さ過ぎることを不審に思った。殺人者が六度斬りつけて六度失敗し、七度目にやっと目的を達したと考える為には、傷が不自然に小さ過ぎた。いくらしくじったからと云って、六度が六度ともこんなかすり傷の様なものしかつけ得なかったとは想像出来ない事だ。又斬り傷の箇所が前後左右に飛び離れているのも不自然であって、被害者が逃げ廻ったり抵抗した為だと解釈するにしても、何となく首肯し難い所がある。しかも不思議はそればかりではなかった。これらの傷口から、流れ出している血潮の河の方向が、傷口の小さ過ぎる事などよりは更らに一層奇怪な感じを与えるのだ。と云う意味は、それらの血の流れの方向が全く滅茶苦茶であって、例えば右肩の傷口からのものは、左肩に向って横流し、左腕の傷口からのものは手首に向って下流し、左足からのものは反対に身体の上部に向って逆流し、又ある傷口からのものは斜めに流れていると云う調子で、中にも異様に感じられたのは、右臀部からの(これが一番大きい傷口なのだが)血の流れは横に流れ、腰を通って下腹部の左の端近くまで、つまり腰の部分を殆ど一周しているという有様であった。如何に被害者が抵抗し、もがき廻ったにもせよ、こんな滅茶苦茶な血の流れ方があるものでなく、裁判医なども全く初めての経験だと驚いていた。死体の所見は大体以上に尽きている。夫人の絶命した(或は兇行の行われた)時間は、医師の鑑定ではその日の午後という程度の漠然とした事しか分らなかった。又後に取調べられた所によると、近所の人達が夫人の悲鳴を聞いていたという様な事実もなく、結局この殺人事件は、女中が使を云いつけられて家を出た零時半頃から彼女が帰宅した四時半頃までの間に行われたものだという以上に正確な時間を決定する材料は、今の所発見されていないのだ。なお未亡人の屍体は後に帝大解剖室に運ばれることになったが、その結果についてはいずれ書く機会があると思う。  次に検証の人々は、その土蔵の二階を主として、姉崎邸の室内、庭園を問わず、殺人兇器その他犯人の遺留品、指紋、足跡、犯人の侵入逃走の経路などを発見する為の綿密な捜索を行ったが、その結果は殆ど徒労であったと云ってもよかった。検事や警察官達の心の中まで見抜くことは出来ないけれど、少くとも彼等が取交していた会話や、僕が綿貫検事から聞出した所によって想像すれば、捜索の結果彼等の蒐集し得た事実は左の諸点に尽きていた。  剃刀と想像される殺人兇器は土蔵の中は勿論、邸内のどこにも見出すことは出来なかった。尤も姉崎夫人の化粧台と書生の机の抽斗とから剃刀が発見されはしたけれど、それは両方とも殺人の兇器としては使用出来相もない安全剃刀であって、替刃にも別段の異状を認めることは出来なかった。つまり兇器は犯人自身のものであって、彼はそれを現場に遺棄して立去る程愚かでなかったのに違いない。犯人の足跡と指紋も全く見出すことが出来なかった。庭園の土は軟かだったけれど、そこには庭下駄以外の跡はなく、玄関前には敷石が敷きつめてあった。土蔵の板の間には薄く埃が積っていて、それがひどく掻き乱された跡は見えたが、明瞭な足跡は無かった。指紋の方は、犯行現場の道具類の滑かな面には家内の人々の指紋が僅かに残っているばかりだったし、又、僕が最初異状を発見した蔵の錠前の鉄板の表面にも、これこそはと意気込んで鑑識課へ廻されたが、何の跡も残っていないことが分った。それでは犯人は用心深く手袋をはめていたのであろうか。だが、若しそうだとすると、その手袋は動脈から吹き出した血潮の為にべトべトに濡れていた筈ではないか。それについて僕はふとこんなことを空想した。犯人は兇行に取りかかる前に手袋を脱ぎ、兇行を終って血のりを拭きとったあとで又それをはめたのだと。更らに進んで、彼が脱いだものはただ手袋丈けではなかったのではないかと。これは非常に奇怪な空想かも知れない。そして君は多分、僕の例の癖が始まったと云うかも知れない。だが、被害者の夫人が全裸体であったこと、致命傷以外の傷と血の流れ方が実に異様であったことなどから、僕には何となくそんな風に思われたのだ。実を云うと、今の所僕のこの空想には殆ど賛成者がないのだが、僕自身はまだそれを捨て兼ねている。無駄事の様だけれど、この妙な考えを記して君に覚えて置いて貰いたいと思うのだ。僕は今犯人が兇行の時の返り血を拭き取ったと書いたが、これ丈けは空想ではなかった。と云うのは、先にもちょっと記した通り兇行現場の土蔵の二階には、死体から遠く離れた隅の方に、姉崎未亡人の不断着が脱ぎ捨ててあったが、それは袖畳みにしたのではなく、ごく乱暴に丸めたもので、僕が一目見てこいつは曽恵子さん自身が丸めたものではないなと考えた通り、検べて見ると、その縞銘仙の単衣ものの中には、クシャクシャになった夫人常用の絞羽二重の長襦袢が包みこんであって、それに血を拭き取った跡が夥しく附着していたからだ。若しやそこに指紋が残されているのではないかと思われたが、注意深い犯人にそんな手抜かりはなかった。で、長襦袢の血痕は、人々を一瞬間ハッとさせたばかりで、別に犯人捜索の直接の手掛りとはならなかったが、併しそうして丸めた着物をとりのけた事が、実に奇妙な証拠品らしいものを発見する機縁となった。  同じ板の間の隅っこの、今までは着物の為に隠れていた部分に、小さく丸めた紙切れが落ちていたのだ。その紙切れはこの殺人事件での証拠らしい証拠品の唯一のものであって、その筋の人達もこれには非常に興味を持った様に思われるし、僕自身にも、何となくこれが後に重大な意味を持ってくるのではないかという予感があるので、その紙切れについてなるべく詳しく書いて置こうと思う。最初それを発見した所轄警察の司法主任が、小さく丸められたままの紙切れを注意深く観察して、これは以前からそこに在ったのではなくて、犯罪の際に落されたものに違いないと注意した。なぜかと云うと、その部屋は床の上にも、並んでいる道具類の上にも、目に見える程埃が積もっていたのに、丸められた紙切れの皺の中にはどこにも全く埃がなかったからだ。更らにそれを拡げて見ると、感心な司法主任の観察が間違っていなかったことが一層はっきりした。というのは、紙切には妙な符号みたいなものが記してあったのだが、それが非常に不可解な秘密めいた性質を持っていて、殺人事件に何かの関係があるらしく思われたからだ。序にあとになって分ったことをつけ加えて置くならば、姉崎家の女中を始め書生や子供の中学生などに糺した結果を綜合するのに、その紙切れは未亡人が持っていたのではなくて、どうかして犯人が落して行ったものとしか考えられなかった。つまり、これこそ、甚しく難解な材料ではあったけれど、殺人者の素情を探り出す唯一の手掛りに違いなかった。その紙切れは長さも幅も厚味も丁度官製ハガキ程の正確な長方形で、紙質は上質紙と呼ばれているものであって、その中央に、二本の角の生えたいびつな方形の枠の上に斜に一本の棒を横たえた図形が、濃い墨汁で肉太に描いてあるのだ。僕はその形をよく覚え込んでいるので、参考までに次に小さく模写して置く。君はこの異様な符号を見て何を聯想するであろうか。僕は暗号でも解く気になって、色々に考えて見たが、何だか、アアあれだったのかと直ぐ分り相でいて、その秘密が今にも意識の表面に浮かび上り相でいて、だがどうしても分らない。綿貫氏に聞くと、警察の方でもまだこの謎が解けないでいるということだ。若し君がこんな図形をどこかで見たことがあるか、或は図形の意味を解くことが出来たら是非知らせてほしいと思う。  殺人の方法が余り異様なので、これを単なる盗賊の仕業だとは誰も考えなかった様だが、順序として、一応盗難品の有無が調べられた。その結果は、君も想像する通り、邸内には何一品紛失したものもないことが確められたに過ぎない。それは被害者の左の薬指にはめられた高価な宝石入りの白金の指環がそのまま残っていた事によっても明かであった。  それから、被害者の実兄と女中と僕とは、型通りの訊問を受けたが、僕の判断する限りでは、検事はこれという捜査上の材料を掴むことは出来なかった。被害者の姉崎曽恵子さんは、一種の社交家ではあったけれど、非常にしとやかな寧ろ内気な、そして古風な道徳家で、若い未亡人に立ち易い噂なども全く聞かなかったし、まして人に恨みを受ける様な人柄では決してなかった。検事の疑深い訊問に対して、彼女の兄さんと女中とは、繰返しこの事を確言した。結局、姉崎家屋内での捜査は、右に図解した奇妙な一枚の紙切れの外には、全く得る所がなかったのだ。そこで、問題は女中が使に出てから帰宅したまでの、つまり被害者が一人ぼっちで家にいた時間、午後一時頃から四時半頃までに、姉崎家に出入りした人物を、外部から探し出すことが出来るかどうかの一点に押し縮められた。これが検事達の最後の頼みの綱であった。  局面がそこまで来た時、僕は当然ある人物を思出さなければならなかった。云うまでもなく、この手紙の初めに書いた躄乞食のことだ。あいつに若し多少でも視力があったならば、そして、今日の午後ずっと同じ空地にいたのだとすれば、あの空地は丁度姉崎家の門の斜向に当るのだから、そこを出入りした人物を目撃しているに違いない。あの片輪者こそ、唯一の証人に違いない(註)。僕は思出すとすぐ、その事を綿貫検事に告げた。 「これから直ぐ行って見ましょう。まだ元の所にいて呉れればいいが」綿貫氏というのは、そういう気軽な、併し犯罪研究には異常に熱心な、少し風変りな検事なのだ。そこで人々は姉崎家の手提電燈を借りて、ゾロゾロと門外の空地へと出て行った。  手提電燈の丸い光の中に、海坊主みたいな格好をして、躄乞食は元の場所にいた。蚊を防ぐ為に頭から汚い風呂敷の様なものを被って、やっぱり躄車の中にじっとしていたのだ。一人の刑事が、いきなりその風呂敷を取りのけると、片輪者は雛鶏の様に歯のない口を黒く大きく開いて、「イヤー」と、怪鳥の悲鳴を上げ、逃げ出す力はないので、片っ方丈けの細い腕を、顔の前で左右に振り動かして、敵を防ぐ仕草をした。  決してお前を叱るのではないと得心させて、ボツボツ訊ねて行くと、乞食は少女の様な可愛らしい声で、存外ハッキリ答弁することが出来た。先ず彼の白っぽく見える左眼は幸にも普通の視力を持っていることが確められた。今日はおひる頃からずっとその空地にいて、前の往来を(随って姉崎家の門をも)眺めていたことも分った。「では、おひる過ぎから夕方までの間に、あの門を出入りした人を見なかったか。ここにいる女中さんと、この男の人の外にだよ」と、検事は、その筋の人々に混って立っていた姉崎家の女中と僕とを指さして、物柔に訊ねた。すると乞食は、刑事の手提電燈に射られた僕と女中とを白い眼で見上げながら、外に二人あの門を入った人があると、ペタペタと歯のない唇で答えた。  その内の一人は黒い洋服に黒いソフト帽を冠った中年の紳士で、顔はよく見えなかったが、眼鏡や髭はなかった様に思う。その人が女中が出て行って間もなく門内に姿を消した。それから長い時間の後、(乞食の記憶は曖昧であったが、その間は一時間程と推定された)一人の若くて美しい女が門を入って行った。その髪形と着衣とは、非常にハッキリ乞食の印象に残っていたらしく、髪の方は「今時見かけねえ二百三高地でさあ。わしらが若い時分流行ったハイカラさんでさあ」と云った。君は多分知らないだろうが、二百三高地と云うのは、日露戦争の旅順攻撃の記念の様にして起った名称で、前髪に芯を入れて、額の上に大きくふくらました形の、俗に庇髪と云った古風な洋髪のことだ。それから着衣の方は、無論単衣物に違いないのだが、「紫色の矢絣」の絹物で、帯は黒っぽいものであったと答えた。矢絣というのも現代には縁遠い柄で、歌舞伎芝居の腰元の衣裳などを思出させる古風な代物だが、老年の片輪乞食は、この我々には寧ろ難解な語彙をちゃんと心得ていて、さも昔懐しげな様子で、歯のない唇を三日月型にニヤニヤさせながら、少女の様にあどけない声で答弁した。彼はその女が眼鏡をかけていた事も記憶していた。  この二人の人物が姉崎家の門を入った時間は、黒服の中年の男の方は午後一時から一時半頃までの間、矢絣の若い女の方は午後二時から二時半頃までの間と判断すれば大過ない様に考えられた。だが、彼等が門を出て行った時間は、つまり彼等が夫々どれ程の間姉崎家に留まっていたかという事は、残念ながら全く知る由がなかった。乞食はそれを見なかったのだ。二人ともいつ門を出て行ったか少しも気附かなかったというのだ。居眠りをしていたか、躄車を動かしてコンクリート管の蔭へ入っていたか、それとも他のものに気を奪われていた隙に、両人とも門を出て行ったものであろう。  来た人が帰って行くのを見逃がしていた程だから、この両人の外に、乞食の目に触れなかった訪問者がなかったとは云えないし、姉崎家への入口は正門ばかりには限らないことを考えると、殺人犯人がその黒服の男と矢絣の女のどちらかであったと極めてしまうのは無論早計だけれど、姉崎家は主人の死亡以来訪問者も余り多くなかったという事だから、その乏しい訪問者の内の二人が分ったのは、可成の収穫であったと云っていい。  それから捜査の人達は手分けをして、姉崎家の表門裏門への通路に当る小売商店などを、一軒一軒尋ね廻って、胡散な通行者がなかったかを調べたが、別段の手掛りも得られなかった。ただその内の刑事の一人が、電車の停留所から姉崎家の表門への通路に当る一軒の煙草屋で、さい前の躄乞食の証言を裏書きする聞込みを掴んで来た外には。  その煙草屋のおかみさんが云うのには、黒い洋服を着た人は幾人も通ったので、どれがそうであったかは分らぬけれど、矢絣の女の方は、髪の形が余り突飛だったので、よく記憶しているが、二十二三に見える縁なし眼鏡をかけた濃化粧の異様な娘さんで、通りかかったのは二時少し過ぎであった。「新派劇の舞台から飛び出して来たんじゃないかと思いましたよ。妙な娘さんでございますね」と、刑事はおかみさんの声色を混ぜて報告した。そして不思議な一致は、おかみさんも、乞食と同じ様に、その女の帰る所を見ていないことだ。女は来た時とは反対の道を通って帰ったのかも知れない。或は、煙草店の主婦が用事に立っている隙に通り過ぎたのかも知れない。  躄乞食の証言が決して出鱈目でなかったことが分った。庇髪に矢絣の、明治時代の小説本の木版の口絵にでもあり相な娘さんが、昭和の街頭に現われたのだ。それ丈けでも何となく気違いじみた、お化けめいた感じなのに、その不気味な令嬢が美しい未亡人の裸体殺人事件の現場に出入りしたというのだから、これが人々の好奇心を唆らない訳がなかった。仮令直接の犯人ではないとしても、この娘こそ怪しいのだと考えないではいられなかった。  綿貫検事は、未亡人の実兄や女中を捉えて、二人の人物に心当りはないかと尋ねたが、洋服の紳士の方は余り漠然としていて見当がつかぬし、矢絣の娘の方は、そんな突拍子もない風体の女は全く知らない、噂を聞いたことすらないとの答えであった。  以上が当夜捜査の人達が掴み得た手掛りらしいものの凡てであった。僕が現場で見聞し、後日綿貫検事から聞込んだ事柄の凡てであった。この事件の最も奇怪な点丈けを要約すると、被害者が全裸体であった事、致命傷の外に全身に六ヶ所の斬り傷があって、その血がてんでんに出鱈目の方向へ流れていたこと、現場に奇妙な図形を記した紙片が落ちていて、それが唯一の証拠品であったこと、時代離れのした庇髪に矢絣の若い女が現場に出入した形跡のあったことなどであるが、しかも更らに奇怪な事は、事件後約一ヶ月の今日まで、これ以上の新しい手掛りは殆ど発見されていないのだ。第一の事件を迷宮に残したまま、第二の事件が起ってしまったのだ。という意味は、姉崎未亡人惨殺事件は、殺人鬼の演じ出した謂わば前芸であって、本舞台はまだあとに残されていた。彼の本舞台は、降霊術の暗闇の世界に在ったのだ。悪魔の触手は、遠くから近くへと、徐々に我が黒川博士の身辺に迫って来たのだ。  では第一信はここまでにして、まだ云い残している多くの事柄は次便に譲ることにしよう。夜が更けてしまったのだ。この報告丈けでは君は、若しかしたら事件に興味を起し得ないかも知れぬ。探偵ごっこを始めるには余りに乏しい材料だからね。だが第二信では、幾人かの心理的被疑者を君にお目にかけることが出来るだろうと思う。 十月二十日 祖父江進一 岩井坦君 (註。──本文中「註」と小記した箇所の上欄に、左の如き朱筆の書入れがある。受信者岩井君の筆蹟であろう)  この躄乞食を証人としてでなく犯人として考えることは出来ないのか。祖父江はその点に少しも触れていないが、この醜怪な老不具者が真犯人だったとすれば、少くも小説としては、甚だ面白いと思う。なぜ一応はそれを疑って見なかったのであろう。 第二信  早速返事をくれて有難う。君の提出した疑問には、今日の手紙の適当な箇所でお答えする積りだ。この手紙は前便とは少し書き方を変えて、小説家の手法を真似て、ある一夜の出来事を、そのまま君の前に再現して見ようと思う。そういう手法を採る理由は、その夜の登場人物が色々な意味で君に興味があると思うし、そこで取交わされた会話は、殆ど全く姉崎未亡人殺害事件に終始し、随って君に報告すべきあらゆる材料が、それらの会話の内に含まれていたので、その一夜の会合の写実によって、僕の説明的な報告を省くことが出来るからだ。それともう一つは、説明的文章では伝えることの出来ない、諸人物の表情や言葉のあやを、そのまま再現して、君の判断の材料に供し度い意味もあるのだ。  九月二十五日に姉崎曽恵子さんの仮葬儀が行われたが、その翌々日二十七日の夜、黒川博士邸に心霊学会の例会が開かれた。この例会は別に申合せをした訳ではなかったけれど、期せずして姉崎夫人追悼の集まりの様になってしまった。  僕は幹事という名で色々雑用を仰せつかっているものだから、(二十三日に姉崎家を訪ねたのもその役目柄であった)定刻の午後六時よりは三十分程早く中野の博士邸を訪れた。君も記憶しているだろう。古風な黒板塀に冠木門、玄関まで五六間もある両側の植込み、格子戸、和風の玄関、廊下を通って別棟の洋館、そこに博士の書斎と応接室とがある。僕は女中の案内でその応接室に通った。いつの例会にもここが会員達の待合所に使われていたのだ。  応接室には黒川博士の姿は見えず、一方の隅のソファに奥さんがたった一人、青い顔をして腰かけていらしった。君は奥さんには会ったことがないだろうが、博士には二度目の奥さんで、十幾つも年下の三十を越したばかりの若い方なのだ。美人という程ではないけれど、痩型の顔に二重瞼の大きい目が目立って、どこか不健康らしく青黒い皮膚がネットリと人を惹きつける感じだ。挨拶をして、「先生は」と尋ねると、夫人は浮かぬ顔で、 「少し怪我をしましたの、皆さんがお揃いになるまでと云って、あちらで寝んでいますのよ」  と云って、母屋の方を指さされた。 「怪我ですって? どうなすったのです」  僕は何となく普通の怪我ではない様な予感がして、お世辞でなく聞返した。 「昨夜遅くお風呂に入っていて、ガラスで足の裏を切りましたの。ほんのちょっとした怪我ですけれど、でも……」  僕はじっと奥さんの異様に光る大きい目を見つめた。 「あたし何だか気味が悪くって、ほんとうのことを云うと、こんな心霊学の会なんか始めたのがいけないと思いますわ。えたいの知れない魂達が、この家の暗い所にウジャウジャしている様な気がして。あたし、主人に御願いして、もう本当に止して頂こうかと思うんですの」 「今夜はどうしてそんな事おっしゃるのです。何かあったのですか」 「何かって、あたし姉崎さんがおなくなりなすってから、怖くなってしまいましたの。あんまりよく当ったのですもの」  迂濶にも僕はそのことを全く知らなかったので、びっくりした様な顔をしたに違いない。 「アラ、御存知ありませんの。家の龍ちゃんがピッタリ予言しましたのよ。事件の二日前の晩でした。突然トランスになって、誰か女の人がむごたらしい死に方をするって。日も時間もピッタリ合っていますのよ。主人お話ししませんでして」 「驚いたなあ、そんな事があったんですか。僕ちっとも聞いてません。姉崎さんということも分っていたのですか」 「それが分れば何とか予防出来たんでしょうけれど、主人がどんなに責めても、龍ちゃんには名前が云えなかったのです。ただ繰返して美しい女の人がって云うばかりなんです」  龍ちゃんというのは、黒川博士が養っている不思議な盲目の娘で、恐らく日本でたった一人の霊界通信のミディアムなのだ。その娘は今に君の前に登場するであろうが、彼女が冥界の声によって、予め姉崎未亡人の死の時間を告げ知らせたという事実は、僕をギョットさせた。あのめくらが、いつかの日真犯人を云い当るのじゃないかな、という恐ろしい考えがチラッと僕の心を遏ぎった。 「それに、昨夜の事でしょう。祖父江さん、主人はただ怪我をしただけではありませんのよ」夫人は僕の方へ顔を近づけて、ギラギラ光る目で僕の額を見すえて、ひそひそと云われるのだ。「何か魂の様なものを見たのですわ、きっと。湯殿の脱衣室の鏡ね、あの大きな厚い鏡を、主人は椅子で以ってメチャメチャに叩き割ってしまいましたのよ。きっと何かの影がそこに写ったからですわ。尋ねても苦笑いをしていてなんにも云いませんけれど。そのガラスのかけらを踏んだものですから、足の裏に少しばかり怪我をしたんですの」 「では、今夜の会はお休みにした方がよくはないのですか」 「イイエ、主人は是非いつもの様に実験をやって見たいと申していますの。もう部屋の用意もちゃんと出来てますのよ」  そこへ咳ばらいの声がして、ドアが開いて、黒川先生が入って来られた。君も知っている様に、先生の風采は少しも学者らしくない。髭がなくて色が白く、年よりはずっと若々しくて、声や物腰が女の様で、先生の生徒達が渾名をつける時女形の役者を聯想したのも無理ではないと思われる。  先生は「ヤア」と云って、そこの肘掛椅子に腰をかけられたが、僕達の取交していた話題を鋭敏に察しられた様子で、 「大した怪我じゃないんだ。こうして歩けるんだからね。馬鹿な真似をしてしまって」  左足に繃帯が厚ぼったく足袋の様にまきつけてある。 「犯人はまだ分らない様だね。君はあれから検事を訪問しなかったの」  先生は、風呂場の鏡のことを僕が云い出すのを恐れる様に、すぐ様話題を捉えられた。あれからというは僕達が姉崎さんの葬式でお会いしてからという意味なのだ。 「エエ、一度訪ねました。併し、新しい発見は何もないと云っていました。その筋でも、やっぱり例の矢絣の女を問題にしている様ですね」  僕が矢絣の女というと、先生は何ぜか一寸赤面された様に見えた。先生が顔を赤らめられるなんて非常に珍らしい事なので、僕は異様の印象を受けたが、その意味は少しも分らなかった。 「お前、今家に紫の矢絣を着ているものはいないだろうね。女中なんかにも」  先生は突然妙なことを奥さんに尋ねられた。 「単物の紫矢絣なんて、今時誰も着ませんわ。あたしなんかの娘の時分には、流行っていた様ですけれど」 「君、非常に極端な霊魂のマティリアリゼーションという事を考えることが出来るかね」先生は僕を見て、何かためす様な調子で云われた。「例えばクルックスの本にある霊媒のクック嬢は暗闇の中でケーティ・キングという霊魂の肉身を出現させることが出来たが、ああいうマティリアリゼーションをもっと極度に考えると、霊魂は昼日中、賑かな町の中を歩くことだって出来るんじゃないか」  僕には先生の声が少し震えている様に感じられた。 「それはどういう意味なんですか。先生はあの紫矢絣の女が生きた人間ではなかったとでもおっしゃるのですか」 「イヤ、そうじゃない。そういう意味じゃないんだけれど」  先生は何かギョッとした様に、急いで僕の言葉を打消された。僕は先生の目の中をじっと見つめていた。 「君は探偵好きだったね。コナン・ドイルの影響を受けて心霊学に入って来た程だからね。何か考えているの」 「あの現場に落ちていた紙切れの符号の意味を解こうとして考えて見たことは見たんですけれど、分りません。その外には今の所全く手掛りがないのですから」 「符号って、どんな符号だったの。その紙切れのことは僕も聞いているが」 「全く無意味ないたずら書きの様でもあり、何かしら象徴している様にも見える、変な悪魔の符号みたいなものです」  僕が手帳を出して前便に記した図形を書いてお見せした。  黒川先生はその手帳を受取って一目見られたかと思うと、怖いものの様に僕の手に突返して、椅子の肘掛に頬杖をつかれた。それは何となく不自然な姿勢であった。先生は僕の視線から顔を隠す為にそんな姿勢を取られたのではないかとさえ思われた。そして、 「君、それは、あの」  と喉につまった様な声で切れ切れにおっしゃった。確かに狼狽を取繕おうとしていらっしゃるのだ。 「ご存知なのですか、この符号を」 「イヤ、無論知らない。いつか気違いの書いた模様を見た中に、こんなのがあったのを思出したのさ」  だが先生の口調にはどことなく真実らしくない響が感じられた。 「ちょっと拝見」と云って奥さんも僕の手帳を暫らく見ていらしったが、 「躄の乞食が証人に立ったのでしたわね」  と突然妙なことをおっしゃるのだ。 「躄車に乗っていたのでしょう。躄車……ねえ、これ躄車の形じゃないこと。この四角なのが箱で、両方の角が車で、斜の線は車を漕ぐ棒じゃないこと」 「ハハ……、子供の絵探しじゃあるまいし」  先生は一笑に附してしまいなすったが、この奥さんの着想は、僕をびっくりさせた。子供だましと云えば子供だましの様だけれど、女らしく敏感な面白い考え方だ。 「そういえば、乞食だとか山窩などがお互に通信する符号には、こんな子供のいたずら書きみたいなのが色々あった様ですね」  僕も一説を持出した。 「それは僕も考えていた。どうして警察ではその変な乞食を疑って見なかったのだろう。そいつこそ現場附近にいた一番怪しい奴じゃないのかい」  この先生の疑いに僕が答えた言葉は、同時に君の手紙にあった疑問への答にもなるのだ。 「あの乞食を一目でも見たものには、そんなことは考えられないのです。あいつは血腥い人殺しなどをやるには年を取り過ぎています。力のない老いぼれなんです。それに手は片方しかないし、足は両方とも膝っ切りの躄ですから、あいつが土蔵の二階へ上って行くなんて全く不可能なんです。僕は外に達者な相棒がいて、躄は見張り役を勤めたのではないかと空想したのですが、それも非常に不自然です。そんな乞食などがどうして蔵の合鍵を拵えることが出来たかということ、犯人が乞食とすれば、何か盗んで行かなかった筈はないということ、躄が何の必要があって危険な現場附近にいつまでもぐずぐずしていたかと云う事などを考えると、この空想は全く成立たないのです」 「それじゃ、この符号は躄車やなんかじゃないのですわね」  奥さんはあきらめ切れない様な顔であった。実を云うと僕自身も、これという理由がある訳ではなかったけれど、躄車説には妙に心を惹かれていた。  三人の犯罪談はそれ以上発展しなかった。先生は煙草をふかしながら何か考え込んでいられるし、奥さんはポツリポツリ姉崎さんの思出話の様なことをお話なすったが、それも途切れ勝ちで、何となく座が白けている所へ、もう時間と見えて次々と会員がやって来た。  一番早く来たのは園田文学士で、この人は僕よりは一年先輩なのだが、卒業以来ずっと黒川先生の研究室にいて、先生の助手の様にして実験心理学に没頭している、度の強い近眼鏡をかけて、いつでもネクタイが曲っている様な、如何にも学者くさい男だ。(黒川博士の専攻は心霊学などには全く縁遠い実験心理学であって、こういう妙な会を主宰していられるのは、先生の道楽に過ぎないことを、君も多分知っていると思う)  その次には槌野君が入って来た。槌野君は大学とは関係のない素人の熱心家で、俗に一寸法師という不具者なのだ。三十五歳だというのに背は十一二の子供位で、それに普通の大人よりは大きな頭が乗っかっている。非常に貧乏な独り者で、二階借りをして筆稿かなんかで生活して、霊界のことばかり考えている変り者だ。いつも地味な木綿縞の着物に茶色の小倉の袴を穿いて、坊主頭にチョビ髭を生やした、しかつめらしい顔で黙りこくっている。  その二人が加わって暫く雑談を交している所へ、熊浦氏がやって来た。有名な妖怪学者だから君も名は聞いているだろう。昔妖怪博士と渾名された名物学者があった。あらゆる不可思議現象に現実的な心理学的解釈を加えて尨大な著述を残したので知られている。熊浦氏はその人の後継者の様に云われ、同じ「妖怪」という渾名をつけられているが、昔の妖怪博士とは違って、博士の肩書など持たない私学出の民間学者で、妖怪と心理学とを結びつけるのではなくて、妖怪そのものに心酔している中世的神秘家なのだ。  熊浦氏は黒川博士とは同郷の幼馴染だと聞いているが、現在では地位も、境遇も、性格もひどく違っている。黒川先生は前途の明るい官学の教授で、親から譲られた資産があって生活も豊かだし、人柄は女性的で如才のない社交家であるのに反して、熊浦氏はただジアナリスティックな虚名を持っている外には、地位もなく資産もなく、妻子さえない全くの孤独者で、僅かに著作の収入で生活しているのだ。性格も陰欝で厭人的で、広い荒屋に召使の老婆とたった二人で住んでいて、人を訪ねたり訪ねられたりすることも殆どない様な生活をしている。この心霊学会に出席するのが同氏の唯一の社交生活ではないかと思われる。  心霊学会の創立者は実を云うと黒川博士ではなくて熊浦氏であったのだ。熊浦氏の熱心と、同氏が発見した珍らしい霊媒とが、つい黒川博士を動かして、こういう会が出来上った。その珍らしい霊媒というのは、先にちょっと触れた龍ちゃんという盲目の娘のことで、三月程前までは熊浦氏の手元で養われていたのを、黒川先生が引取って世話をしているのだ。  熊浦氏の容貌風采は、変り者の多い会員の中でも殊更に異様だ。氏はいつも色のさめた、併し手入れの行届いた折目正しいモーニングを着用して、夏でも白い手袋をはめて、よく光った靴を穿いて、骸骨の握りのついたステッキをついて、少しびっこを引きながらやって来る。カラーは古風な折目のない固いのを使用しているが、そのカラーの上に一団の毛髪の塊りが乗っかっている様に見える。熊浦氏はそれ程毛深いのだ。頭は三寸程も伸びた毛をモジャモジャと縮らせ、ピンとはねた口髭、三角型に刈込んだ顎髯、それがずっと目の下まで密生して、顔の肌を埋め尽している。その毛塊の真中に鼈甲縁の近眼鏡がある。それが園田学士以上に強度のものだ。  熊浦氏は会合に出ると、光線が怖いという様に、いつも電燈から最も遠い椅子を選ぶ癖がある。今日もその為に態と残してあった隅っこの椅子に一人離れて腰かけて、暫く黙って一同の会話を聞いていたが、突然太い嗄声で喋り出した。 「どうも、今度の、犯罪は、この心霊研究会に、深い因縁があり相だわい。臭い。わしにはその匂が、プンと来る様な気がする。霊魂不滅を、信仰して、あの世の魂と、遊んでいると、生命なんて、三文の、値打もなくなるんだ。ウフフフフフ……、どうだい、槌野君、そうじゃ、ないか」  熊浦氏は、ゆっくりゆっくり地の底からでも響いて来る様なザラザラした声で云うのだ。彼の積りではこれが一種の諧謔らしいのだが、迚も常談などとは思えない重々しい喋り方だ。  呼びかけられた一寸法師の槌野君は、彼の癖でパッと赤面して、広いおでこの下から、上眼使いに一座をキョロキョロ見廻して、居たたまらない、様子をした。彼は常談に応酬するすべを知らないのだ。 「実に、絶好の、実験だからね。心霊信者が、死ねば、すぐ様、霊界通信の、実験が、始められるのだからね。みんな、姉崎夫人のスピリットを、呼び出したくて、ウズウズして、いるんじゃ、ないかい」  いつも実験の時の外は全く沈黙を守っている熊浦氏が、どうしてこんなにお喋りになったのかと不思議であった。何かよほど昂奮しているのに違いない。 「止し給え。つまらないことを」  黒川先生が、不愉快で耐らないのをじっと我慢している様子で、作った笑顔でおっしゃった。 「これは、常談だ。だが、黒川君、今度は、真面目な、話だが、僕は、昨夜、非常に遅く、十二時頃だった。この裏の、八幡さまの、森の中を、歩いていて、あいつに出くわしたのだよ。二百三高地に、矢絣のお化けにさ」  それを聞くと会員達は皆ハッとして話手の鬚面を見たが、殊に黒川先生は顔色を変えてビクッと身動きされた。僕も真青になる程驚いていたに違いない。  熊浦氏の荒屋は同じ中野の、黒川邸から七八丁隔った淋しい場所にあって、丁度その中間に森の深い八幡神社がある。僕もその八幡神社へは行ったことがあって、よく知っていた。この妖怪学者は、天日を嫌って昼間は余り外出しない癖に、深夜人の寝静まった時などを歩き廻る趣味を持っていると聞いていたが、昨夜もその夜の散歩をしたのであろう。 「それは本当ですか」  僕が聞返すと、熊浦氏は鬚の奥で幽かに笑った様に見えたが、 「本当だよ。僕が歩いていると、ヒョッコリ、社殿の、横の、暗闇から、飛び出して、来たんだ。常夜燈の電気で、ボンヤリ、庇髪と、矢絣が見えた。だが、僕が、オヤッと、気がついた時には、そいつは、もう、非常な勢で駈け出していたんだよ。わしは、足が、悪いもんだから、到底、かなわん。追っかけたけれど、じきに、見失った。恐ろしく、早い奴だったよ。女の癖に、まるで、風の様に走りよった。あとで、境内を、念入りに、歩き廻って見たが、もうどこにも、いなかったがね」 「ですが、その変な女は、案外犯罪には何の関係もない、気違いかなんかじゃないでしょうか。気違いなら知合でなくったって、どこの家へでも入って行くでしょうし、夜中に森の中をさまよう事もあるでしょうからね。僕達は少し矢絣に拘泥し過ぎてるんじゃないかしら。犯罪者が態々、そんな人目に立ち易い風俗をする謂れがないじゃありませんか」  僕がそういうと、熊浦氏は僕の方へ、近眼鏡をキラリと光らせた。 「それは君、ひどく、常識的な、考え方だよ。そりゃ、気違い女かも、知れない。だが、気違い女なら、二三日もすれば、捕まって、しまうだろう。若し、幾日たっても、捕まらなんだら、そいつは、気違い女やなんかじゃないのだ。それから、黒川君、」と顔の向きを変えて、「僕は、一つ、不思議に、思っている、ことが、あるんだが、あの日に、姉崎の後家さんは、誰か、秘密な客を、待ち受けて、いたんじゃあるまいか。書生も、子供も、留守の時に、どんな急ぎの、用事だったか、知らんが、女中を、使に出して、一人ぼっちに、なるなんて、偶然の様では、ないじゃないかね」 「ウン、そういう事も考えられるね。併し、そんなことを、ここで論じ合って見たって、始まらんじゃないか。餅は餅屋に任せて置くさ」  黒川先生はさも冷淡に云いはなたれたが、僕の見る所では、先生は決して、言葉通りこの事件に冷淡ではなかった。 「餅は、餅屋か。それも、そうだな。ところで、祖父江君、君は、死体解剖の、結果を、聞かなかったかね」 「綿貫検事から聞きました。内臓には別状なかった相です。姉崎さんはあの日十時頃に、遅い朝食を採られた切りだそうですが、胃袋は空っぽで、腸内の消化の程度では、絶命されたのは、一時から二時半頃までの間ではないか、という程度の、やっぱり漠然としたことしか分らなかった相です」 「精虫は?」 「それは、全く発見出来なかったというのです」 「ホホウ、それは、どうも」  この対話によって、熊浦氏が何を考えていたかが、君にも想像出来るだろう。同氏は僕の明確な否定に、ある失望を感じたに違いないのだ。ここに至って、僕はこの変物の妖怪学者に一種の好意を感じないではいられなかった。彼も亦僕等と同じミステリィ・ハンタァズの一人であったのだ。日頃陰鬱で黙り屋の同氏が、この夜に限って、かくも雄弁であったのは、全く犯罪への好奇心に由来していたのだ。僕はここに一人のよき話し相手を得たことを、私かに喜ばしく感じた。 「ホホ……、まるで刑事部屋みたいね。それともファイロ・ヴァンスの事務所ですか」  突然美しい声が聞えたので、振向くと、ドアの前に二人の少女が手をつないで立っていた。一人は黒川博士のお嬢さん鞠子さん、もう一人は先っきから話題に上っていたミディアムの龍ちゃんだ。鞠子さんが現在の夫人の娘ではなくて、十年程前になくなられたという先夫人のお子さんであることは云うまでもない。この二人の少女は同年の十八歳で、殆どお揃いと云ってもいい不断着のワンピースに包まれていたが、その容貌の相違は、実に際立った対照を為していた。  鞠子さんは髪を幼女の様なおかっぱにして、切下げた前髪が眉を隠さんばかりの下から、絶えず物を云っている大きな目が、パッチリ覗いて、すべっこい果物みたいな唇が、いつでも笑う用意をして、美しい歯並を隠している様な、非常に美しい人であるのに比べて、手を引かれている龍ちゃんの方は、両眼とも綴じつけられた様な盲目だし、その上ひどく縹緻が悪いのだ。色が黒くて、おでこで、鼻が平べったくて、頬が骨ばっていて、唇は蒲団を重ねた様に厚ぼったくて、それが異様に赤いのだ。彼女が笑うと印度人の様だ。若し目が開いていたら、その目も印度人の様に敏感で奥底が知れなかったことだろう。  これで心霊研究会の会員がすっかり揃った。時によって飛入りの来会者はあるけれど、常連は今この部屋に集った五人の男と二人の女と一人の霊媒、合せて八人のささやかな会合なのだ。前月までの例会には、それに姉崎未亡人が加わって、女性会員は三人であったのだが。 「龍ちゃん、今夜気分はどう?」  黒川夫人が、いたわる様に盲目の少女に呼びかけなすった。 「分らないわ」  龍ちゃんは十歳の少女の様にあどけなく、ニヤニヤと笑って、空中に答えた。 「いいらしいのよ。さっきから御機嫌なんですもの」  鞠子さんが側からつけ加えた。この娘さんはお父さんには勿論、継しいお母さんにでも、まるでお友達の様な口を利くのだ。 「では、あちらの部屋へ行きましょう」  黒川先生は立上って、先に立って書斎のドアをお開きなすった。一同は、そのあとから足音を盗む様にして、もう緊張した気持になりながら、実験場の設備をした先生の書斎へ入って行った。だが、それから間もなく、霊媒の口からあんな恐ろしい言葉を聞こうとは、そして、会員の一人残らずが、まるで金縛りの様な身動きもならぬ窮地に陥ろうとは、誰が想像し得ただろう。  君は恐らく降霊会というものに出席した経験がないであろうが、それは一般に軽蔑されている程つまらないものではない。暗闇の中で、幾人かの人間が死の様に静まり返って、どこからともなく聞えて来る幽冥界の声を聞く時、或は朦朧と現われ来るエクト・プラスムのこの世のものならぬ放射光を目にする時、人は名状し難き歓喜を味うのだ。如何なる科学者も、唯物論者も、一度この不可思議な声を聞き、光を見たならば、彼等の科学を裏切って、冥界の信者とならないではいられぬのだ。  アルフレッド・ラッセル・オレース、ウィリアム・ジェームス、ウィリアム・クルックスの様な純正科学者をさえ冥界の信者たらしめた力が何であったかを考えて見なければならない。奇術師的な降霊トリックの如きものと混同してはいけない。あれは霊界交通の外道に過ぎないのだ。そんな子供だましのトリックが、トリックの専門家である探偵小説家を──コナン・ドイルを欺き得たとは考えられないではないか。  先生の書斎は、四方の書棚も窓も壁も黒布で覆い隠して、一つの大きな暗箱の様にしつらえられていた。一方の壁に近く小円卓と一脚の長椅子が置いてあって、それを中心にして、七脚の椅子がグルッと円陣を張っている。机などはすっかり取りかたづけられ、室内にはその外に何もない。小円卓の上に小さい卓上電燈がついていて、それがボンヤリと異様な舞台を照らしている。  一同は全く無言で、夫々の位置に着席した。正面のソファには霊媒の龍ちゃんが長々と横たわり、その右隣の椅子には黒川博士、左隣には妖怪学者の熊浦氏が腰かけ、外の一同も思い思いの椅子を選んで腰をおろした。  閉め切った部屋は、空気のそよぎさえなく、少しむし暑い感じであったが、じっと気を澄ましていると、温度に無感覚になって行く様に思われた。  余りに静かなので、一人一人の呼吸や心臓の音までも聞取れる程であった。  黒川先生はやや十分ほども、姿勢を正して瞑目していらしったが、霊媒の呼吸が寝入った様に整って来た時、ソッと手を伸ばして卓上燈のスイッチをお廻しなすった。部屋は冥界の闇にとじこめられた。  それから又五分程の間、実験室には死の様な沈黙が続いた。じっと目を凝らしていると、全く光のない密閉された室内ではあったが、何かしらモヤモヤと、物の形が見分けられる様に思われた。中にも、長椅子に横わっている龍ちゃんと、丁度僕の向側に腰かけている鞠子さんの服装が、闇をぼかして、薄白く浮上って来た。 「織江さん、織江さん」  突然、闇の中に人の声がして、その部屋にはいない人物の名を呼ぶのが聞えた。黒川博士が霊媒の龍ちゃんのコントロールを呼び出していらっしゃるのだ。コントロールというのは、謂わば龍ちゃんの第二人格であって、盲目の少女の声を借りて、幽冥界からこの世に話しかける霊魂のことだ。龍ちゃんの場合は、その霊魂は織江さんという女性に極まっている。いつの世いかなる生活を営んでいた女性なのか、誰も知らない。ただ織江さんという名を持つ、一つの魂なのだ。  黒川先生の陰気な声が、二三度その名を繰返すと、やがて、いつもの様に、闇の中に苦しげな呼吸が聞えて来た。殆どうめき声に近い荒々しい呼吸。龍ちゃんの肉体の中に、全く別の魂が入り込んで、それが龍ちゃんの声帯を借りて物を云おうとする。痛ましい苦悶なのだ。僕はこれを聞く度に、降霊実験は外科手術と同じ様に、或はそれ以上に残酷なものだと感じないではいられぬ。  併しこの苦悶は長く続く訳ではなかった。今にも死に相な息遣いが、突然静かになると、喰いしばった歯と歯の間から漏れる様な、シューシューという異様な音が聞え始める。まだ言葉になり切らない魂の声だ。  彼女は何か云おうとあせっている。時々人の言葉の様な調子にはなるけれど、熱病患者の譫言の様に、舌がもつれて意味がとれぬ。真暗な部屋で、全く理解の出来ない、しかも意味ありげな声を聞くのは、決して気味のよいものではない。聞いている方で、ふと俺は気が違ったんじゃないかしらという、変てこな錯覚を起すことさえある。  だが、それを我慢している内に、声が段々意味を持ち始める。異様に低い嗄声ではあるけれど、充分聞分けられる程度になる。 「わたし、いそいで、お知らせしなければならないのです」  暗闇の中に、ゆっくりゆっくりと、全く聞覚えのない、低い無表情な声が、まるで井戸の底からででもある様に、不思議な反響を伴って響いて来る。 「織江さんですか」  黒川先生の落ちついたお声が聞える。 「そうです。わたし、執念深い魂の悪だくみをお知らせしたいのです。……その魂が、一所懸命にわたしの口を押えようとして、もがいているのですけれど、わたしはそれを押しのけて、お知らせするのです」  言葉がとぎれると、暗闇と静寂とが、一層圧迫的に感じられる。誰も物を云わなかった。何かしら恐ろしい予感に脅かされて、手を握りしめる様にして、おし黙っていた。 「一人美しい人が死にました。そして、又一人美しい人が死ぬのです」  ギョッとする様なことを、少しも抑揚のない無表情な声が云った。 「あなたは、姉崎曽恵子さんのことを云っているのですか。そして、もう一人の美しい人というのは誰です」  黒川先生が、惶しく聞返された。先生のお声はひどく震えていた。 「わたしの前に腰かけている、美しい人です」  余りに意外な言葉であったものだから、咄嗟にはその意味を掴むことが出来なかった。だが、考えて見ると「織江さん」が、私の前というのは現実のこの部屋のことに違いない。霊媒の龍ちゃんの正面に腰かけている人という意味に違いない。 「止して下さい。もうこんな薄気味の悪い実験なんぞ。どなたか、電気をつけて下さいまし」  突然、耐りかねた黒川夫人が、上ずった声で叫びなすった。無理ではない。今霊魂が喋ったのは、黙って聞いているのには、余りに恐ろし過ぎる事柄であったのだから。この席で「美しい人」と云えばさしずめ鞠子さんだ。でないとしたら、黒川夫人の外には、そんな風に呼ばれる人物はない。いずれにしても、夫人の身としては、黙って聞いてはいられなかったに違いない。 「イヤ、お待ちなさい。奥さん。これは、非常に、重大な予言らしい。我慢して、も少し聞いて、見ましょう」  熊浦氏の特徴のある吃り声が制した。 「むごたらしい殺し方も、そっくりです。二人とも、同じ人の手にかかって死ぬのです」  無表情な声が、又聞え始めた。滑稽な程ぶッきらぼうで、冷酷な調子だ。 「同じ人? 同じ人とは、一体、誰のことだ。あんたは、それを、知っているのか」  熊浦氏がいつの間にか、黒川先生に代って、聞き役になっていた。彼のは魂の声を導き出すというよりは、まるで裁判官の訊問みたいな口調であった。 「知っています。その人も、今私の前にいるのです」 「この部屋にいると、云うのですか。我々の中に、その、下手人が、いるとでも、云うのですか」 「ハイ、そうです。殺す人も、殺される人も」 「誰です、誰です、それは」  そこでパッタリと問答が途絶えた。「織江さん」はこの大切な質問には、急に答えることが出来なかった。問う方でも、それ以上せき立てるのが躊躇された。魂は七人の会員の内の誰かが殺されると云うのだ。しかも、その下手人も会員の一人だと明言しているのだ。  それから、あの恐ろしい出来事が起るまで、ほんの数十秒の間が、どんなに長く感じられたことだろう。じっと息を殺していると、余りの静けさに、僕はその広い闇の中に、たった一人取残されている様な、妙な気持になって行った。目の前に赤や青や紫の、非常に鮮かな煙の輪の様なものが、モヤモヤと浮上って、それが、見る見る、血の縞に、あの姉崎夫人の白い肉塊を縦横に彩っていた、むごたらしい血の縞に変って行った。  ふと気がつくと、闇の中に何かしら動いているものがあった。ぼんやりと白い人の姿だ。龍ちゃんがソファから立上ってソロソロと歩き出している様に思われた。 「龍ちゃん、どうしたんだ。どこへ行くのだ」  黒川先生のびっくりした様な声が聞えた。  白いものは、併し、少しも躊躇せず、黙ったまま、宙を浮く様に進んで行く。そして、おぼろに見える二つの白い塊りが、龍ちゃんと、鞠子さんとの白っぽい洋服が、段々接近して行って、やがて、ピッタリ一つになったかと思うと、 「この人です。執念深い魂が、この人を狙っているのです」  という、声が聞えた。と同時に、ワワ……と、笑い声とも泣き声ともつかぬ高い音が、暗闇の部屋中に拡がった。鞠子さんが死もの狂いの悲鳴を上げたのだ。  僕はもう我慢が出来なくなって、椅子を離れると、声のした方へ駈け寄った。あちらからも、こちらからも、黒い影が、口々に何か云いながら、近づいて来た。 「早く、電気を、電気を」  誰かが叫んだ。黒い影がスイッチの方へ走って行った。そして、パッと室内が明るくなった。  五人の男に取り囲まれた中に、鞠子さんは黒川夫人の胸に顔を埋める様にして、取縋っている。その足下に、霊媒の龍ちゃんが長々と横わっていた。彼女は気力を使い果して、気を失ってしまったのだ。  今はもう降霊術どころではなかった。黒川先生と奥さんとは、真青になって震え戦く鞠子さんを慰めるのにかかり切りであったし、外の会員達は、黒川家の書生や女中と一緒になって、失神した龍ちゃんの介抱に努めなければならなかった。  斯様にして、九月二十七日の例会は、実にみじめな終りを告げたのだが、騒ぎが静まって、龍ちゃんは失神から恢復するし、鞠子さんも笑顔を見せる様になっても、会員達は一人も帰らなかった。帰ろうにも帰られぬ羽目になってしまったのだ。というのは「織江さん」の魂が、姉崎夫人の下手人は、そして又、鞠子さんを同じ様に殺害するという犯人は、心霊研究会の会員の中にいると明言したからだ。  黒川先生御夫婦と鞠子さんを除いた四人の会員、熊浦氏と、園田文学士と、一寸法師の槌野君と、僕とが、応接室に集って、気拙い顔を見合せていた。 「わしは、あの娘の、予言は、十中八九、適中すると、思う。あいつは、わしの家に、居る時分から、一度も出鱈目を、云ったことは、ないのだ」  熊浦氏が沈黙を破って、例のザラザラした吃声で始めた。彼はそんな際にも、日頃の癖を忘れないで、他の三人からはずっと遠い、隅っこの椅子に腰かけて、電燈がまぶしいという様に、額に手をかざしていた。 「僕はどうも信じられませんね。それに下手人がこの会員の内にいるなんて、実に馬鹿馬鹿しいと思う。今夜は龍ちゃん、どうかしてたんじゃありませんか。姉崎さんの事件が、あの子の鋭敏な心に、何か暗示的に働きかけて、さっきの様な幻影を描かせたんじゃありませんか」  僕が反駁した。僕は君も知っている様に常識的な男だ。霊界通信についても、他の会員達の様な盲目的な信仰は持っていない。無論会に加わっている位だから、一応の理解はあるのだけれど、信仰というよりは、寧ろ好奇心の方が勝を占めている程度だ。自然、こういう異常な場合になると、つい常識が頭を擡げて来る。 「イヤ、それは霊媒自身については云えるか知れませんが、コントロールは無関係です。『織江さん』の魂が、あの事件に影響されて、嘘を云うなんてことは、考えられません」  槌野君が思切った様に、顔を赤くして主張した。この一寸法師は、前にも記した通り、会員中でも第一の霊界信者なのだ。彼は社交的な会話では、はにかみ屋で、黙り勝ちだけれど、霊界のこととなると、人が違った様に勇敢になる。 「ウン、そうだ。わしも、槌野説に、賛成だね。現に、我々の『織江さん』は、姉崎未亡人の、惨死を、ちゃんと、云い当てて、いるじゃないか。あれは、嘘を、云わなかった。だから、今度の、予言も、嘘でないと、考えるのが、至当だ」  熊浦氏は、人一人の命にかかわる事を、不遠慮に断言する。 「併し、少くとも、我々の中に犯人がいるという点丈けは、どうも合点が出来ませんよ。第一、我々会員には、姉崎さんを殺す様な動機が皆無じゃありませんか。姉崎さんが生前例会に顔出しをしていたということ丈けで、あの殺人事件と、この会とを結びつけて考えるのは、少し変だと思いますね」  僕が云うと、熊浦氏は皮肉な笑声を立てて、ギラギラ光る眼鏡で僕を睨みつけながら、 「動機がないって? そんな、ことが、分るもんか。なる程、あの人は、表面上は、ただの、会員に、過ぎなかった。だが、物の裏を、考えて、見なくちゃ、いかんよ。裏の方では、会員の内の、誰かと、あの未亡人と、どんな深い、かかり合いが、あったかも知れん。あの人は、若くて、美しい、未亡人だったからね」  と意味ありげに云った。  誰も反対説を唱えるものはなかった。僕も未亡人が美しかったという論拠には全く同感であった。僕は曽恵子さんの顔ばかりでなく、身体の美しさまで、まざまざと見せつけられていたのだから。それにしても、若し「織江さん」の魂が云った様に、会員の中に下手人がいるのだとしたら、あの美しい身体にむごたらしい血の縞を描いた奴は、あのか細い喉を無残に刳った奴は、一体この内の誰だろうと、三人の顔を見比べないではいられなかった。 「すると、僕達の内の誰かが、殺人者だということになる訳ですね」  無闇にスパスパと両切煙草をふかし続けていた園田文学士が、青い顔をして、少し声を震わせて、口をはさんだ。 「そうです、龍ちゃんが、気絶さえ、しなければ、犯人の、名前も、分ったかも知れん。併し、肝腎のミディアムが、病人に、なってしまっては、当分、『織江さん』の魂を、呼出す、見込がない。実に、迷惑な話だ。僕等は、お互に、疑い合わねば、ならん様なことに、なってしまった。どうだ、諸君、ここで、銘々の、身の明りを、立てて、サッパリした、気持で、別れる、ことにしては」  熊浦氏が提案した。 「身の明りを立てるというのは?」  園田文学士が聞き返す。 「訳のない、ことです。アリバイを、証明すれば、いいのだ。あの、殺人事件の、起った時間に、諸君がどこに、いたかということを、ハッキリ、させれば、いいのです」 「それはうまい思いつきですね。じゃ、ここで順番にアリバイを申立てようじゃありませんか」  僕は早速、熊浦氏の提案に賛成して、先ず僕自身のアリバイを説明した。それに続いて、槌野君、園田氏、熊浦氏の順序で、九月二十三日の午後零時半から四時半頃までの行動を打開け合った。  先ず、僕自身は、先便にも書いた通り、姉崎家を訪問するまでは、午後からずっと、勤先の新聞社にいたのだし、槌野君は、朝から、二階借りをしている部屋に座りつづけて、一度も外出しなかったと云うし、園田文学士は大学の心理学実験室で、ある実験に没頭していたと云うし、熊浦氏もあの日は昼間一度も外出しなかった、それは婆やがよく知っている筈だとのことで、一応は皆アリバイが成立した。その席に証人がいた訳ではないのだから、疑えばどの様にも疑えたけれど、兎も角も一同の気やすめにはなった。 「だが、ちょっと待って下さい」  僕はふと、あることを気づいて、びっくりして云った。 「僕たちは、飛んでもない思い違いをしているんじゃないでしょうか。姉崎さんの事件で一番疑わしいのは、紫矢絣の妙な女でしたね。仮令あれが真犯人でないとしても、先ず僕たちは、犯人が男性か女性かという点を、先に考えて見なければならないのじゃありませんか」  それを云うと、園田氏と槌野君とは、何とも云えぬ妙な顔をして、僕を見返した。云ってはいけない事を云ってしまったのかしらと、ハッとする様な表情であった。  熊浦氏の大きな鼈甲縁の眼鏡も、詰る様に僕の方を睨みつけた。 「女性といって、君、会員の内には、鞠子さんと、霊媒を、除けば、たった、一人しか、いないじゃないか」  如何にも、そのたった一人の女性は黒川夫人であった。僕はうっかり恐ろしいことを云ってしまったのだ。 「イヤ、決してそういう意味じゃないのですけれど、矢絣の女があんなに問題になっていたものだから。つい女性を聯想したのです」 「ウン、矢絣の、女怪か。少くとも、今の場合、あいつは、濃厚な嫌疑者だね」  熊浦氏は思い返した様に相槌を打って、 「矢絣の女と、今夜の、『織江さん』の、言葉とを、両立させようと、すれば、犯人が、女性では、ないかという、疑いが、起るのは、無理もない。女性なれば、矢絣の着物を、着ることも、廂髪に、結うことも、自由だからね」  彼はそこまで云うと、プッツリ言葉を切って、異様に黙り込んでしまった。疑ってはならない人を疑ったのだという意識が、一同を気拙く沈黙させた。 「それはそうと、姉崎さんの死骸のそばに落ちていたという、証拠の紙切れには、一体何が書いてあったのですか。祖父江さんは御承知でしょうが」  園田文学士が、白けた一座をとりなす様に、全く別の話題を持出した。  僕は、まだこの人達には、それを見せていないことに気附いたので、さい前黒川先生に描いて見せた手帳の頁を開いて、先ず園田氏に渡した。 「これですよ。奥さんは、躄車を象徴した記号じゃないかとおっしゃったんですが、女って妙なことを考えるものですね」  近眼の文学士は、僕の手帳を、近々と目によせて、一目見たかと思うと、実に不思議なことには、黒川先生と同じ様に、何かギョッとした様子で、急いでそれを閉じてしまった。 「祖父江さん、本当にこんな記号を書いた紙が落ちていたのですか。全くこの通りの記号でしたか、思い違いではないでしょうね」  園田氏は驚きを隠すことが出来なかった。  彼はこの記号について、何事かを知っているのだ。 「エエ、間違いはない積りです。ですが、あなたは、それに見覚えでもあるのですか」 「待って下さい。そして、その紙切れはどんなものでした。紙質や大きさは」 「丁度端書位の長方形で、厚い洋紙でした。警察の人は上質紙だと云っていました」  園田氏の眼鏡の中のふくれた眼球が、一層ふくれ上って来る様に見えた。青い顔が一層青ざめて行く様に見えた。 「どうしたんです。この記号の意味がお分りなんですか」  僕は詰めよらないではいられなかった。 「実は知っているんです。一目見て分る程、よく知っているんです」  彼は正直に打開けてしまった。 「フン、そいつは、耳よりな、話ですね。ドレ、僕にも、見せてくれ給え」  熊浦氏も自席から立って来て、手帳を受取ると、記号の頁を眺めていたが、 「こりゃ、わしには、サッパリ、分らん。だが、園田君、この記号を、知って、いるからには、君は、犯人が、誰だと、いうことも、見当が、つくのだろうね」  と、まるで裁判官の様な調子で尋ねる。 「イヤ、それは、そういう訳じゃないのです」  園田氏は、非常にドギマギして、救いを求める様に、キョロキョロと三人の顔を見比べながら、 「仮令、僕に犯人の見当がつくとしても、それは云えません。……少し考えさせて下さい。僕の思い違いかも知れません。多分思い違いでしょう。……そうでないとすると、実に恐ろしい事なんだから。……」  彼は青ざめた顔に、ブツブツと汗の玉を浮べて、乾いた脣を舐めながら、途切れ途切れに云うのだ。 「ここでは、云えないのですか」 「エエ、ここでは、どうしても、云えないのです」 「さしさわりが、あるのですか」 「エエ、イヤ、そういう訳でもないのですが、兎も角、もう少し考えさせて下さい。いくらお尋ねになっても、今夜は云えません」  園田氏は、三人の顔を、盗み見る様にしながら、頑強に云い張った。  結局僕達は、記号の秘密を聞出すことが出来ないまま、黒川邸を辞することになった。先生は会員を見送る為に玄関まで出ていらしったが、その心配にやつれたお顔を見ると、誰も殺人事件のことなど話し出す気になれなかった。奥さんは、気分が悪いといって寝んでいるから、失礼するとのことであった。  その帰り途、熊浦氏は程遠からぬ自宅へ、僕は省線の停車場へと別れる時、この奇妙な妖怪学者が、ソッと僕に囁いた一言は、俄かにその意味を捉えることは出来なかったけれど、実に異様な印象を与えた。 「ね、祖父江君、君に、いい事を、教えてやろうか。黒川君の、奥さんはね、娘の時分に、着たのだと、云って、箪笥の、底にね、紫矢絣の着物を、持って、いるのだよ。僕は、ずっと前に、それを、見たことが、あるんだよ」  熊浦氏はそう云ったかと思うと、僕が何を尋ねるひまもない内に、サッサと、向うの闇の中へ消えて行ってしまったのだ。  以上が九月二十七日の夜の出来事のあらましだ。僕はこういう小説体の文章には不慣れだし、今日は何となく疲れているので、粗雑な点が多かったと思う。判読して下さい。  第三信は引続いて、明日にも書きつぐつもりだ。 十月二十二日 祖父江生 岩井大兄 底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「新青年」博文館    1933(昭和8)年11月~1934(昭和9)年1月 初出:「新青年」博文館    1933(昭和8)年11月~1934(昭和9)年1月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「唇」と「脣」の混在は、底本通りです。 ※「博士」に対するルビの「はかせ」と「せんせい」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:まつもこ 2019年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。