透明怪人 江戸川乱歩 Guide 扉 本文 目 次 透明怪人 ろう人形 第三の尾行者 奇々怪々 空気男 百万円の首飾り デパートの怪 つむじ風 笑う影 真珠塔 地下室 午後九時 首をひろう紳士 怪人のすみか 大友少年の冒険 怪老人 透明怪人第四号 透明少年 B・Dバッジ 暗中の妖魔 洞窟のクラゲ 古井戸の底 明智小五郎 秘密室 名探偵の危難 透明怪人第五号 赤い道化師 ふしぎな早わざ のろいの影 第二の道化師 黒い一寸法師 樋をはう人 空家の怪 少年名探偵 三人の明智小五郎 裏から見る 大奇術 真犯人 ろう人形  そのふたりの少年は、あんなこわいめにあったのは、生まれてからはじめてでした。  春のはじめの、ある日曜日、小学校六年の島田君と木下君は、学校の先生のおうちへあそびにいって、いろいろおもしろいお話を聞き、夕方になって、やっと先生のうちを出ました。そのかえり道の出来事です。 「おや、へんだね、こんな町、ぼく一度も通ったことがないよ。」  島田君がふしぎそうに、あたりを見まわして、言いました。 「ほんとだ。ぼくも通ったことがないよ。なんだか、さびしい町だね。」  木下君も、へんな顔をして、人っこひとりいない、広い大通りを見まわしました。  夕方のうすぼんやりした光の中に、一度も見たことのない町が、ふたりのまえに、ひろがっていたのです。くだもの屋だとか、菓子屋だとか、牛肉屋などが、ずっとならんでいるのですが、どの店にも、人のすがたがなく、まるで、人間という人間が、この世からすっかりいなくなって、店屋だけが、のこっているのではないかと、あやしまれるほどでした。 「へんだなあ。」と思いながら、あるいていますと、一けんのりっぱな骨董屋が目につきました。大きなショーウィンドーのなかに、古い仏像だとか、美しいもようの陶器などが、たくさんならべてあります。ふたりの少年は、思わずその前に立ちどまりました。 「ぼくのおとうさんは、こういう仏像がすきなんだよ。いっしょにあるいていて、骨董屋があると、きっとたちどまるんだよ。そして、いつまでもながめている。でも、ぼくは古い仏像なんて、きらいだな。なんだかきみが悪いんだもの。」  島田君が言いますと、木下君も、 「ウン、きみが悪いね。博物館の仏像の部屋ね、あれみんな生きてるみたいだね。ぼく、いつか博物館へいったとき、こわくなっちゃった。でも、あの仏像は、たいてい国宝なんだね。」 「ねえ、きみ、あのまんなかにある黒いかねの仏像ね、インド人みたいな顔してるね。」 「仏像って、たいていインド人の顔だよ。仏教はインドからはじまったんだもの。」  ふたりはそんなことを言いながら、だんだんショーウィンドーの横手のほうへ、まわってゆきました。横からでないと、よく見えない仏像があったからです。  ふと気がつくと、ふたりがはじめに立ちどまった、ショーウィンドーの正面に、ひとりの洋服の紳士が立っていました。ソフト帽をまぶかにかぶり、オーバーのえりを立てて、それにあごをかくすようにして、じっと一つの仏像を見つめています。それは黒っぽい金属でできた、高さ十五センチほどの小さい仏像ですが、ショーウィンドーのまんなかに、りっぱな台にのせて、さもだいじそうに、かざってあるのです。  木下少年は、その紳士の顔を、しばらく見ていたかと思うと、なぜか、びっくりしたように、いきなり、ひじで島田少年のわき腹をつきました。  島田君がおどろいて、目をあげますと、木下君の二つの目が、まんまるに見ひらかれ、いまにも、まぶたから飛びだしそうになっていました。そして、そのまんまるな目は、ガラスのむこうの紳士の顔を、穴のあくほど見つめているのです。  島田君も、紳士の顔を見ました。すると、島田君の目も、木下君とおなじように、まんまるになって、まぶたから飛びだしそうになりました。  なにが、そんなに、ふたりの少年をおどろかせたのでしょう。それは、その紳士の顔は、人間の顔ではなかったからです。  ふたりの少年は、はじめは、その紳士がお面をかぶっているのではないか、と思いました。しかし、お面ならば、ひもで両方の耳にかけてあるはずですが、よく見ると、そんなひもはどこにもないのです。お面と、ほんとうの顔とのさかいめがないのです。もしお面だとすれば、頭からスッポリかぶるような、とくべつのお面なのでしょう。  紳士の顔は、洋服屋のショーウィンドーにある、西洋人の人形とそっくりでした。あの人形はろうでできたのではありませんが、この紳士の顔はろうのようにスベスベして、すきとおるように白いのです。ろう人形です。ろう人形が町をノコノコあるいてきて、ショーウィンドーの前に立っているのです。  ほんのりと赤みのさした、まっ白な顔、高い鼻、かっこうのいい口ひげ、美しい西洋人の男の顔です。しかし、生きた顔ではありません。まゆも、目も口も、いくら見ていても、すこしも動かないのです。ろう人形のように動かないのです。そのうえ、この紳士には、目の玉というものがありません。二つの目は空洞のように、まっ黒に見えているだけです。  紳士は小さな仏像を、くいいるように、見つめていて、ショーウィンドーの横手のほうにふたりの少年がいることを、まるで気づかないようです。  島田君も木下君も、このぶきみな紳士のそばから、はやく逃げだしたいと思いました。しかし、からだがすくんだようになって、身うごきもできないのです。もし、少しでも動いたら、ろう人形がいきなり、こちらへ飛びついてくるのではないかと、それがおそろしかったのです。  そのあいだが、ひじょうに長いように思われましたが、ほんとうは、五分もたっていなかったのです。やがて、ろう人形の紳士は、ショーウィンドーの前をはなれて、あるきだしました。ふしのたくさんある竹のステッキをついて、まるで機械人形があるくような、へんなかっこうで、コットリ、コットリと、あるいてゆくのです。  二少年は目を見あわせました。このまま、はんたいのほうへ、逃げだそうか、それとも、あのふしぎな紳士のあとをつけて、その正体を見やぶってやろうか。ふたりは少しも口をきかないで、目で、そういう相談をしました。  そして、やっぱり、あとをつけてみようということに、相談がきまったのです。きみ悪さよりも、ほんとうのことが知りたいという気持ちのほうが、つよかったのです。  ふたりは、背をかがめ、のき下をつたうようにして、ふしぎな紳士のあとを、尾行しはじめました。 第三の尾行者  夕方の町には、ふしぎに人通りがありません。シーンとしずまりかえっています。そして、町ぜんたいにもやがかかったようで、うっかりしていると、ろう人形の怪紳士は、そのもやの中へ、スーッと消えてゆきそうでした。島田君は、ふと、ぼくはいま夢を見ているんじゃないかしらと、思ったほどです。  怪紳士は町かどをいくつもまがりました。そのたびに、少年たちは、ますます見おぼえのない町へ、はいってゆくのです。  いつのまにか、屋敷町になって、両がわに長いコンクリート塀が、つづいていました。少年たちは、からだをかくすものが何もありません。塀にピッタリ身をつけて、カニのように、横ばいをするほかはないのです。  怪紳士は、三十メートルばかりむこうのもやの中を、おなじ調子で、コットリ、コットリ、あるいています。あるくたびに竹のステッキが、キュッ、キュッと、しなうのです。  いまにも、こちらをふりむくのじゃないか。そして、あの空洞の目で、ぼくたちを見つけて、おっかけてくるのじゃないかと、ふたりはもうびくびくものでしたが、さいわい、怪紳士は一度も、あとを見ないで、まるで、首をまわすことのできない、機械人形のように、まっすぐに、あるいてゆきます。  コンクリート塀が、つきると、こんどはいけがきばかりの町になりました。いけがきは身をかくすのに、つごうがよいけれども、さびしさは、ますばかりです。  ところが、そのころになって、もう一つ、ふしぎなことがおこりました。尾行者がひとりふえたのです。ふたりの少年は少しも気づきませんでしたが、少年たちの二十メートルほどうしろから、ひとりの紳士が、やっぱり、あとをつけていたのです。  紳士といっても、それはろう人形ではありません。ろう人形がふたりになったのではありません。三十五─六歳の、新聞記者とでもいったような服装の、すばしっこそうな紳士です。  この人はふたりの少年のあとをつけているのか、それとも、もっと先のほうをあるいている、ろう人形を尾行しているのか、よくはわかりませんが、少年たちのようにビクビクしていないことだけは、たしかでした。その証拠に、この紳士は、さっきから、ニヤニヤ笑いながら、あるいているのです。へんな笑いかたです。なんだか、うすきみの悪い笑いかたです。  やがて、いけがきもつきて、いよいよさびしい原っぱになりました。そのへんに、いちめんに石がころがっていたり、れんがのこわれたのが、つみかさねてあったり、ごみが山のようにつんであったり、おそろしいほど、あれはてた場所です。  ろう人形の怪紳士は、その原っぱの中を、つっきって、まっすぐにあるいてゆきます。あたりは、ますます、うすぐらくなってきました。あまり用心ぶかくしていると、怪紳士を見うしないそうなので、少年たちは、思いきって、あいての十メートルほどうしろまで、ちかよりました。そして、まるで、地面をはうようにして、進んでゆきます。新聞記者ふうの紳士は、やっぱりニヤニヤ笑いながら、これも少年たちとのあいだを、グッとちぢめて、尾行をつづけています。  石やれんがのゴロゴロした原っぱを通りすぎると、そのむこうに、何かギザギザのかたちの、大きなものが、黒くそびえていました。二階か三階だてのれんがの建物が、メチャメチャにこわされて、そのかべがギザギザの、のこぎりの山のようになって、のこっているのです。  ろう人形の怪紳士は、そのこわれたれんがだてのほうへ、コットリ、コットリ、あるいてゆきます。そこが怪紳士のすみかなのかもしれません。  れんがのかべが三方だけのこって、一方が入り口のように、こわれています。もとは大きな部屋だったのでしょう。怪紳士は、そのこわれた入り口のところから、スーッと消えるように、れんがのかべの中へ、はいってゆきました。  それを見ると、少年たちは、ふるえだすほど、こわくなってきました。ふたりとも、今にも逃げだしそうなようすでしたが、木下君はグッと、ふみとどまって、島田君のうでを、つかみました。そして、かすかなささやき声で、 「行ってみよう。」 と言いました。そう言われると、島田君も逃げだすわけにはゆきません。勇気をふりしぼって、 「行ってみよう。」と答えました。 奇々怪々  二少年は、よつんばいになると、石やれんがのゴロゴロした地面を、ジリジリと用心ぶかく、はいすすんで、やっと、怪紳士の消えた入り口のようなところに、たどりつきました。  島田君は右がわ、木下君は左がわの、こわれたかべぎわに、身をふせ、からだをかくして、れんがのこわれたあいだから、目だけをだして、建物の奥をのぞきました。ろう人形は、十メートルほどむこうのれんがのかべの前に、こちらをむいて、立ちはだかっていました。そして、ふしぎなことに、オーバーをぬぎ、上着をぬぎ、今、白いシャツまでぬごうとしているところです。  シャツのボタンが、ひきちぎれるように、一つ一つはずれてゆき、いちばん下のボタンがはずれたかと思うと、白いシャツがフワッと宙に浮いて、地面におちました。  ああ、そのときの二少年のおどろきは、どんなだったでしょう。キャーッと悲鳴をあげたでしょうか。いや、悲鳴をあげることさえできなかったのです。ただもう、石になったように、からだがかたくなって、息もできないほどの、ふかいふかいおどろきでした。  怪紳士は化けものだったのです。いや、化けものよりも、もっとおそろしいやつだったのです。  ぬぎさったシャツの下に、何があったと思います? おそろしいものがあったのでしょうか。しかし、どれほどおそろしくても、何かがありさえすれば、こんなにもおどろきはしません。そこには、何もなかったのです。シャツの下は、からっぽだったのです。  怪物のろう人形のような顔は、ちゃんとあります。帽子もまだ、かぶったままです。ところが、顔の下には、首も、胸も、腹も、肩も、両手も、何もないのです。そして、腰から下は、ズボンをはいた二本の足がちゃんと、立っているのです。顔とズボンの間に、何もないことは、そこに、うしろのれんがが見えているので、わかります。からだがあれば、そのうしろのれんがのかべは、見えないはずです。  二少年は、自分たちのほうが、気がちがったのではないかと思いました。夢を見ているのではないかとうたがいました。  ところが、そのつぎには、もっとおそろしいことが、おこったのです。  まず、怪物のソフト帽が、目に見えない手で、とりさられるように、スーッと頭をはなれて地面にほうりだされました。それから、二本の足はもとのところに立ったまま、あのろう面のような顔だけが、七十センチも上のほうへ、持ちあげられたのです。そして、その高いところで、右に左にフラフラゆれていたかと思うと、その首が、ポイとほうりだされたように、地面にころがりました。つまり、怪紳士は腰から下だけが、のこって、上半身は、何もなくなってしまったのです。  そればかりではありません。こんどは目に見えぬ手が、ズボンをとりさろうとしています。バンドがはずれました。それから、ズボンのボタンが、一つずつ、はずれていって、ズボンがグーッと下のほうへ、おしさげられ、クシャクシャになったかと思うと、すっかり足からぬげてしまいました。そして、そのズボンの中も、からっぽだったのです。  あとには、二つのクツだけが、のこっていました。そのクツが動くのです。目に見えぬ人間の足が、その中にはいっているように、コットリ、コットリと動くのです。それから、二つのクツはいきなり宙にういて、きちがいおどりをはじめました。しばらくおどっていたかと思うと、二つとも、ポトリと地面におちて、死んだように動かなくなりました。そして、二つのクツ下がクシャクシャになって、そこへほうりだされました。  怪物はクツ下までぬいでしまったのです。頭のてっぺんから、足のつまさきまで、何も身につけない、まっぱだかになったのです。そして、消えてしまったのです。人間の目には少しも見えない、空気のようなものになったのです。  すると、またしても、ふしぎなことがおこりました。そのへんに、ちらばっていたろう人形の首、帽子、上着、ズボン、シャツ、クツ、クツ下、竹のステッキなどが、ひとりでに、スルスルと動いて、一ヵ所にあつまり、オーバーが、それらをグルグルとまきこんでしまいました。つまり、いっさいのものが、オーバーに包まれたのです。  その包みがスーッと、宙に浮きました。そして、うしろのれんがのかべにそって、右手のほうへ、動いてゆきます。そのかべのはずれに、人間ひとり通りぬけられるほどの大きな穴があいていました。オーバーの包みは、宙に浮いたまま、その穴の中へ消えてゆきました。  消えたかと思うと、とつぜん、穴のそとから「ギャッ。」という、ふしぎなさけび声がして、何か物のぶっつかるような、はげしい音がきこえてきました。  それから、しばらく、あたりはシーンと、しずまりかえっていましたが、見ると、そのかべの穴から、ニューッと、ズボンをはいた足が出て、やがて、ひとりの洋服を着た男があらわれました。  少年たちは、ろう人形の怪物が、また洋服を着て、もどってきたのかと、ギョッとしましたが、それは怪物ではなくて、さいぜんの第三の尾行者、あの新聞記者ふうの紳士でした。 「ウーム、うまく逃げられてしまった。あいつ、なかなかたいした力だぞ……。なあに、もう正体を見とどけたから、だいじょうぶだ。いまにきっと、ひっとらえてくれるから。」  紳士は、そんなひとりごとを、つぶやいていましたが、れんがのかげに身をふせているふたりの少年のほうにむきなおると、 「きみたち、もうだいじょうぶだよ。出てきたまえ。あいつは逃げてしまった。」 と、大きな声で、呼びかけました。  そう言われても、ふたりの少年はあまりのおそろしさに、からだが石のようになり、身うごきはもちろん、声をだすことさえできません。 「ハハハハ……、すっかり、おびえてしまったね。もうあいつは、やってきやしないよ。元気をだして、出てきたまえ。ぼくは化けものじゃない。ふつうの人間だよ。きみたちを、とって食おうとは言わないよ。ハハハ……。」  その快活な笑い声に、二少年はやっと人ごこちがつきました。そして、やっこらさとおきあがって、からだの土をはらいながら、おずおずと、紳士の前にちかづきました。 「きみたちは、あいつを尾行したんだね。感心だよ。じつはぼくも、きみたちのあとから、あいつを、つけてきたのさ。そして、この穴のそとにまちぶせして、あいつをつかまえてやろうと思ったんだが、あいては目に見えない怪物だからね、とうとう、とり逃がしちゃった。」  そう言って、また、カラカラと笑うのでした。まるでむかしの化けものたいじの勇士のように、豪胆な紳士です。 「おじさん、あれは、いったい、なんなの?」  木下君が、まっさおになって、まぶたから飛びだしそうな、まんまるな目をして、たずねました。 「おじさんにも、わからないね。化けものだよ。いま東京じゅうをさわがせている、えたいのしれない怪物だよ。」 「えッ、東京じゅうをさわがせているって?」 「きみたちは、まだ知らないだろうね。だが、あいつは、東京のほうぼうにあらわれて、いたずらをしているんだよ。いや、いたずらばかりじゃない。大どろぼうをはたらいているんだよ。」  そう言って、紳士は、くわしい話をはじめました。  それは、どんな話だったでしょう。  まったく目に見えない、空気のような、あの怪物は、どこからやってきたのでしょう。人間なのでしょうか。われわれの、いままで少しも知らなかった動物なのでしょうか。それとも、遠い星の国から、この地球へ飛びこんできた、別世界の生きものなのでしょうか。 空気男  紳士はことばをつづけました。 「あの化けもののことを、きみたちはまだ知らないだろうね。ぼくは新聞記者だから、よく知っているんだよ。ぼくは東洋新聞の記者なんだよ。このあいだから、あいつをつけているんだ。しかし、あいつは空気みたいに目に見えないやつだから、いつも、うまくにげられてしまうんだよ。」 「ふしぎだなあ、あいつ、空気みたいに、すきとおっているんだね。それで、やっぱり人間なの?」 「人間なんだよ。しかも、大どろぼうなんだよ。」  新聞記者は、そう言って、ちょっと考えていましたが、ふたりの少年の顔を見くらべながら、 「きみたち、この近くなのかい。ウン、そんなら、晩ごはんまでには、まだすこし時間があるだろうから、どこかそのへんで、お茶をのみながら、あいつのことを話してあげよう。きみたちは、あのぶきみなやつを、勇敢に尾行してきたんだからね。この話をきく資格があるよ。」  少年たちは、むろん、それにさんせいしましたので、三人は原っぱから町のほうに出て、一けんの小さい喫茶店にはいりました。新聞記者はコーヒーとケーキを命じ、それを少年たちにすすめながら、つぎのような話をはじめました。  ぼくが、あのふしぎな怪物に気づいたのは、いまから十日ほどまえのことだ。銀座をあるいているとね、いきなりドーンと、ぼくのからだに、ぶっつかったやつがある。ぼくはヨロヨロとして、「おい、気をつけたまえ。」とどなったんだが、見るとあいてがいないんだよ。たしかに人間のからだが、ぼくにぶっつかったんだ。しかし、その人間がどこにもいないんだよ。  すると、ぼくのすぐうしろから、あるいていた、ふたりづれの女の人が、「あらッ。」と言って、何かにつきとばされたように、よろめくのが見えた。しかし、べつに、つきとばした人間のすがたは、見えないのだよ。  ぼくは「へんだな。」と思って、立ちどまったまま、見ていると、女の人のうしろで、ひとりの若い男が、またヨロヨロとした。そして、「やい、気をつけろ。」とどなったが、だれもぶっつかった人間がいないので、ふしぎそうに、あたりを見まわしている。 「まあ、きみがわるい。あれ、なんだったのでしょう。」  女の人はふたりとも、まっさおな顔になっていた。 「たしかに人間がぶっつかった。だが、なんにも見えなかった。へんだなあ。」  若い男も立ちどまって、キョロキョロしている。  そのとき、目に見えないやつにつきあたられた人は、ほかにも、たくさんあった。みんなが立ちどまって、「ふしぎだ。」「ふしぎだ。」と言いあった。どうして、そんなへんなことがおこったのか、だれにもわからなかった。しばらく、ガヤガヤ言いあったあとで、そのままわかれてしまった。  ぼくはふと、「透明人間」という小説のことを思いだした。イギリスのウェルズという人が書いた有名な小説だよ。ある学者が人間のからだのすきとおる薬を発明した。それをのむと、からだが、まったく見えなくなってしまうのだよ。今、ぼくたちにぶっつかったのは、その「透明人間」みたいなやつじゃないかと思うと、ぼくはなんだかゾーッとした。  しかし、「透明人間」は小説なんだ。そんなつごうのいい薬ができるはずはない。目に見えない人間なんて、あるはずがない。ぼくは、自分のみょうな考えをうちけして、そのままうちに帰った。  ところが、ところがだよ。それから二─三日してぼくはまた、じつにふしぎな出来事にぶっつかった。そして、やっぱり、この東京に「透明人間」がいるんだと、考えないではいられなくなった。  きみたち、有楽町のガードの下に、クツみがきがならんでいるのを知ってるだろう。あのたくさんならんでいるところから、ずっとはなれて、ひとりぼっちで店を出している、十三─四歳の子どものクツみがきがあった。その夕方、ぼくは町かどに立って、友だちをまちあわせていた。そして、見るともなく、少年クツみがきのほうを、見ていたんだよ。  こわい顔の不良青年みたいなやつが、クツをみがかせていた。クツみがきのかわいい少年は、いっしょうけんめいにみがいて、青年のクツをピカピカに光らせた。すると青年はポケットに手を入れて、「こまかいのがないから、おつりをくれ。」と言っているようだった。少年は手もとにおいてあったボール箱のふたをとって、その中におしこんであるお金を、かぞえはじめた。箱の中には百円さつや十円だまが、びっくりするほど、いっぱいにつまっていた。  青年は横目でそのボール箱を見ていたが、いきなり手をのばすと、それをひったくって、中のお金をわしづかみにして、ポケットにおしこんだ。そして、からになったボール箱をポイと地面にほうりだすと、そのままたちさろうとした。少年は泣きそうな顔になって、青年にすがりついていった。だが、力の強い不良青年にかなうはずがない。つきとばされて、しりもちをつき、べそをかいていた。  そのときだよ。そのとき、じつにふしぎなことがおこった。不良青年が、何かにぶっつかったようによろめいて、「アッ。」と声をたてた。そして、顔をまっかにして、ひとりずもうをはじめた。あいてもいないのに、ひとりで大格闘をやりだしたんだよ。  ぼくは、この青年は気ちがいになったのかと思った。「うぬ。」「こんちくしょう。」などと、うなりながら、ひとりで、めちゃくちゃに、あばれているんだからね。ふたり、三人と人びとが立ちはじめた。みんなびっくりして、ながめている。だれも青年をとりしずめようとするものはない。だが、大きな人だかりができるまえに、ひとりずもうの勝負がついてしまった。青年はいやというほど、地面に投げつけられて、のびてしまったんだよ。  だれに、投げつけられたかって? 目に見えないあいてにだよ。空気のようなやつにだよ。わかったかい。不良青年は透明人間と格闘していたんだ。  青年がのびてしまうとね、ズボンのポケットのへんが、モヤモヤと動いたかと思うと、そこにおしこんであった、お金のかたまりが、ひとりで、とびだして、スーッと宙を浮いていった。そして、少年クツみがきのボール箱の中へ、もとのとおりに、はいってしまった。それから、その箱がまた、ひとりで動きだして、しりもちをついている少年のひざの上に、チョコンとのせられた。  ぼくはそのとき、たしかに見た。ボーッともやのように、人間のかたちをしたものが、動いているのを見た。そのもやのようなやつが、青年のポケットから、お金をとりもどして、少年のボール箱の中へいれてやったのだ。青年を投げたおしたのも、むろん、そのもやのようなやつだ。  空気男──ぼくはこの透明人間を空気男と呼んでいるんだがね、その空気男は、大どろぼうだけれど、いっぽうでは、こういういいこともするんだね。ふざけているんだよ。そして、世間の人をアッと言わせて、よろこんでいるんだね。 百万円の首飾り  こういうふしぎな事件が、あちらこちらでおこった。目に見えないやつが、いたずらをするという、うわさが、だんだん高くなってきた。警察の耳にもはいった。新聞社へも、さかんに投書がくる。しかし、警察でも新聞社でも、あいての正体がわからない。まるで夢のような話なので、どうにも手のつけようがないんだね。  ところが、ゆうべ、とうとう、空気男がどろぼうをはたらいた。百万円の首飾りをぬすんだんだよ。銀座の大宝堂を知ってるだろう。有名な宝石店だ。ゆうべ、お客さまがみな帰ってしまって、もう店の戸をしめようとしていたときだ。店のおくにすえてある、りっぱなガラスばりの飾りだなの戸が、ひとりでに、スーッとひらいて、その中にかざってあった、あの店じゅうで、いちばん高価な宝石の首飾りが、何かにつかみだされたように、ガラスのそとへ出てきた。そして空中をフワフワと、ただよいはじめたのだ。  支配人はおくへはいっていた。ふたりの店員は戸じまりをするために、そとへ出ていた。店には若い店員がひとりしかいなかった。その店員は、首飾りが空中をただよいだしたとき、やっとそれに気がついた。そして、アッと言って、たちすくんだまま、しばらくは、身うごきもできなかった。  店員は、さいしょ、その首飾りが、目に見えぬほそい糸で、天井からつりさげられているのかと思った。しかし、シックイでかためて、白くぬった天井には、糸をさげて、あちこちと動かすような、すきまなんか、あるはずがない。  首飾りにたましいがはいって、ひとりで、動きだしたかと思うと、ゾーッと、こわくなってきた。しかし、勇気をだして、そのほうに近よって、手をのばすと、首飾りは、まるでしつこい魚のように、スーッ、スーッと逃げてしまう。  やがて、首飾りは空中に浮いたまま、少しずつ入り口のほうに近づき、アッというまに、店のそとへ出ていってしまった。店員は大声をあげて、おっかけた。店のそとにいた店員も、いっしょになって、さわぎたてた。支配人もおくからとびだしてきた。通りがかりの人も、あつまってきた。しかし、首飾りはもうどこにもなかった。百万円の宝石が、ひとりで店を出ていってしまったのだ。  すぐ、このことが警察に知らされた。係官が現場に行ってみたが、まるで夢のような話で、つかみどころがなかった。このあいだから世間をさわがせている、空気男のしわざではないかと考えたが、手がかりというものが少しもないのだから、どうすることもできない。  この事件が新聞記者の耳にはいったのは、けさだった。だから、朝刊にはまにあわなかったが、夕刊にはデカデカとその記事が出ているよ。うちへ帰ったら見てごらん。「前代未聞の怪事件、空気男銀座にあらわる」というのだ。  東洋新聞では、ぼくがこの事件をうけもつことになった。夕刊の記事を書いたのもぼくだ。ぼくはどうかして、空気男の正体をつきとめてやろうと、けさから、めちゃくちゃに、あるきまわっていたんだよ。そして運よく、あのろう仮面のやつを見つけた。あれが空気男だとは思わなかった。しかし、ろう人形が町をあるいているんだから、新聞記者として、これを見のがすわけにはいかない。ぼくはきみたちよりもまえから、あいつを尾行していた。  ところが、あいつは骨董屋のショーウィンドーをのぞきこんだ。まんなかにある仏像をにらみつけたまま、動かない、ぼくはそのときはじめて、こいつはおかしいぞと思った。ひょっとしたら、あのろう仮面の中は、からっぽじゃないかしら。ふっとそんな気がした。もし、これが空気男だとすると、あの仏像があぶない。あとから、洋服をぬいで、透明人間となって、あれをぬすみにくるかもしれない。  そう思ったので、ぼくは、きみたちがあるきだしてから、骨董屋にはいって、主人に、あの小さな金属の仏像を、どこかへ、かくしてしまうように、注意しておいた。きみたちは知るまいが、あの仏像は推古仏といって、百万円の首飾りよりも、もっとねうちのある品物なんだよ。  だが、ぼくはとうとう、あいつを、たしかめることができた。いままでは、もやのようなものしか見えなかったが、きょうこそは、あいつが、服をぬぐところを見たんだ。ろう仮面をぬぐところを見たんだ。そして、その中がからっぽであることを、たしかめたんだ。  しかも、ぼくひとりで見たんじゃない。きみたちという証人がある。三人が六つの目で見たんだ。  これはすばらしい記事になるよ。あすの新聞は、一ページぜんたいを、この記事でうずめるんだ。こんや、社の写真班が、きみたちの写真をとりにゆくよ。そして、あすの新聞には、きみたちの勇敢な尾行の話がのるんだ。ぼくたち三人で、空気男の正体をつきとめたことが、出るんだ。  それじゃ、ひとまず、これでわかれよう。きみたちのうちで、しんぱいしているといけないからね。だが、きみたちにも、よくたのんでおくよ。もし、こんど、あのろう仮面に出あったら、また、うまく尾行してくれたまえ。そして、行く先をつきとめたら、ぼくに電話するんだよ。ぼくの名刺を、わたしておくからね。 デパートの怪  新聞記者がくれた名刺には、「東洋新聞社、社会部、黒川勝一」と印刷してありました。黒川記者は、少年たちにわかれるとき、ふたりの住所姓名を聞いて、手帳に書きとめました。  そのよく日の東洋新聞は、黒川記者がいったとおり、社会面の大部分が、きのうの記事でうずめられ、島田、木下二少年の写真が大きくのり、ろう仮面の尾行から、洋館のかべの中で、仮面をぬぎ、服をぬいで、消えてしまうまでのことが、地図までいれて、くわしく報ぜられました。  その日は、東京じゅう、どこへ行っても、人の集まるところでは、おそろしい空気男のうわさで、もちきりでした。科学では説明のできないことが、おこったのです。まったく目に見えない透明な人間が、東京のどこかに、かくれているのです。あいては空気のようなやつですから、少しもゆだんができません。そんなふうに人が集まって、うわさをしているすぐそばに、あの空気男が、ニヤニヤ笑いながら、立ち聞きしているかもしれないのです。  東京じゅうの宝石商が、ガラスだなやショーウィンドーに錠まえをとりつけました。美術店や骨董屋のショーウィンドーには、高価な品物が見えなくなりました。みんなどこかへ、かくしてしまったのです。  いちばんこまったのは、銀行でした。目に見えないやつが、いつはいってくるか、わからないからです。そして、現金出納係の机の上においてある、さつたばを、スーッと持っていかれるかもしれないからです。千円さつで百万円ぐらいは、片手で持てるほどの大きさです。空気男が両手でかかえたら、何千万円だって、持ってゆけるのです。  しかし、あの新聞記事が出てから、一週間ほどは、何ごともなく、すぎさりました。人々は「あれはうそだったのじゃないか。」と考えるようになりました。「いくらなんでも、空気のようにすきとおった人間なんて、あるはずがない。東洋新聞の記者や、あのふたりの少年は、キツネにでも、化かされたのだろう。そうでなければ、新聞の読者をふやすために、でたらめを書いたのだろう。」と考えるようになりました。  ところが、そうではなかったのです。空気男は、こんどは、だれも思いもよらないような場所へ、ヒョッコリすがたをあらわしました。  それは日曜日のことでした。木下少年は、おかあさんといっしょに、日本橋のデパートへ出かけました。おかあさんが洋服地をお買いになる、おともでした。木下君は洋服地なんかおもしろくなかったけれど、おかあさんを書籍部へひっぱっていって、本をねだる下心だったのです。  はやくうちを出たので、木下君たちがデパートについたときには、正面の大戸がひらかれて、まもなくでした。ひろい店内には、まだ人影がまばらにチラホラしているばかりです。エレベーターにも、らくらくとのれました。ふたりは三階でおりて、洋服地売場へいそぎました。  いろいろな色のラシャが、滝のように、かけならべてある陳列台のなかほどに、まるい舞台のようなものが、できていて、その上に、さまざまの洋服をきた、男や女や子どもの人形が、うつくしくならんでいました。その人形たちは、鼻が高くて、目が大きくて、まるで西洋人のようでしたが、はだの色はキツネ色で、やっぱり日本人にちがいないのです。  人形の台のまわりには、まだ五─六人の客がいるばかりでした。木下君とおかあさんとは、人形のきている服の色やかたちを見ながら、まるい台のまわりを、ゆっくりあるいてゆきました。  木下少年は、洋服を見たって、ちっともおもしろくないので、人形の顔ばかり、ながめていましたが、すると、ハッとするようなものに、気づきました。人形の中に、一つだけ顔のちがったのがあるのです。ほかのはみな、キツネ色をした日本人の顔なのに、その一つだけは、まっ白なはだに、うすく赤みのさした、西洋人の男の顔だったのです。しかも、それは、ほかの人形とはちがって、すきとおるような、ろうでできていたのです。  木下君は、思わず立ちどまって、じっとその人形をみつめました。それは形のよい燕尾服を着ていました。服装はまったくちがいます。しかし、あの顔は、おお、そっくりです。骨董屋のショーウィンドーをのぞいていた、あのろう人形と、そっくりなのです。  木下君の両方の目が、まんまるにひらいて、いまにも、まぶたからとびだしそうになりました。  背広を着たひとりの店員が、木下少年のそばを通りかかりました。少年は思わずその人のそでをつかみました。店員は立ちどまって、少年の顔を見ましたが、そのまんまるな目に気づくと、ギョッとして、キョロキョロと人形のほうをながめました。 「おじさん、あの西洋人のようなろう人形ね。どうして目がないの? 目がなくて、黒い穴があいているの?」  木下君が、ささやくように言いました。店員はその人形を見ると、アッと、小さいさけび声をたてました。こんな目のないろう人形は、きのうまで、そこにいなかったからです。このデパートには、ほんとうのろう人形は、一つもないはずだったからです。  その店員は、むこうにいたもうひとりの店員を、手まねきしました。そして、ふたりは、何か小声で話しあっていましたが、やがて、ひとりが舞台のような台の上にのぼって、人形のほうに、近づこうとしました。しかし、店員は、そのまま一歩も進むことができないで、まるで自分が人形にでもなったように、たちすくんでしまいました。燕尾服をきたろう人形が、身うごきをしたからです。  アッというさけび声、ガタンという物音、女の人形が二つ、大きな音をたてて、たおれました。ろう人形がかけだしたのです。そして、そのみちに立ちふさがっていた人形が、たおされたのです。  ろう人形は、おそろしいいきおいで、台の上から、とびおりると、燕尾服のしっぽを、ヒラヒラとひるがえして、木下君の前を、かけぬけ、むこうへ走っていきます。そこにあつまっていた客のあいだから、ワーッというような声が、おこりました。やっと気をとりなおしたふたりの店員は、何かわけのわからぬ、さけび声をたてて、人形のあとを追いました。  怪物は通路を右に左にまがりながら、ひじょうな早さで走っていきます。だれもとめるものはありません。ろう人形の顔を一目みると、あまりのおそろしさに、みな逃げだしてしまうのです。  怪物は、きちがいのように、走りに走って、店員専用の、せまい階段に、すがたを消しました。追手の店員の数は、七─八人にふえています。店員たちは、せまい階段を、おしあうようにして、口々に、何かわめきながら、かけおりていきました。  二階、一階、地階と、三つの階段を、すべるように、かけくだって、怪物は、一本みちの廊下を、倉庫のほうへ走っていきます。行くてに一つのドアがありました。それをひらくほかはありません。うしろには、おおぜいの店員がつめかけているのです。怪物は、いきなり、そのドアをひらいて、中にとびこんでいきました。 「しめたッ。袋のねずみだ。」  まっさきに走っていた、力の強そうな店員が、さけびました。そして、ドアにとびつくと、バタンとそれをしめて、むこうから、おしても、ひらかないように、もたれかかりました。 「もうだいじょうぶだ。入り口はここ一つしかないし、窓にはみんな、鉄ごうしがはまっている、あいつは袋のねずみだ。だれか、早く警察へ電話をかけてくれたまえ。」 「よし、ぼくが電話をかけてくる。逃がすんじゃないぜ。」  ひとりの店員がかけだしていきました。残った人々は、ドアの前にあつまって、げんじゅうな警戒線をしきました。  ろう仮面の怪物は、ふかくにも、出口のない、ゆきどまりの部屋へ、とびこんでしまったのです。いくら空気男でも、窓の鉄ごうしのすきまから、逃げだすことはできません。幽霊ではないからです。目には見えなくても、からだはあるからです。 つむじ風  しばらくすると、店員のひとりが、三人の背広すがたの刑事さんをつれて帰ってきました。ちょうどそのとき、デパートの見まわりに来ていた刑事さんたちです。  三人の刑事は、店員たちをかきわけるようにして、入り口のドアに近づきました。そして、げんじゅうな身がまえをして、パッとドアをひらきました。  すると、そのとき、部屋の中には、じつにおそろしいことがおこっていたのです。  倉庫といっても、品物がぜんぶ持ちだされたあとで、まるで、あき部屋のように、ガランとしていました。すみのほうに、大きな木の荷箱が二つ三つころがっているばかりで、ほかには何もありません。ネズミ色のコンクリートのかべ。ネズミ色のコンクリートのゆか。光は高い小さい鉄ごうしの窓から、さしこむだけですから、広いからっぽの部屋は、夕方のように、うすぐらいのです。  さいしょ、刑事の目にうつったものは、宙を飛ぶ人間の首でした。人間の首だけが、投げつけられたように、ヒューッとゆかにおちて、ユラユラとゆれていたのです。  ふいをうたれた刑事は、ギョッとしましたが、よく見ると、それはろう人形の首でした。そのそばには、燕尾服やシャツやズボンやクツなどが、メチャクチャに投げすててあります。そして、怪物のすがたはどこにも見えません。身につけているものを、いっさいぬいでしまって、透明になっていたからです。いちばんあとで、かぶっていたろう仮面をとって、今、投げすてたところなのです。  三人の刑事は、とっさに、それをさとると、いきなり部屋の中へ、ふみこんでゆきました。目には見えないけれども、手さぐりで怪物をとらえるつもりなのです。三人は、右、左、まん中と、三方にわかれて、大手をひろげてすすんでゆきました。そして、部屋じゅうを、のこるところなく、さぐりまわったのですが、何も手にさわるものはありません。あいてには、こちらがよく見えるのですから、この鬼ごっこは勝負になりません。怪物にうまくすりぬけられてしまったのです。  すると、そのとき、ドアのそとで「ワッ。」という、さけび声がしました。びっくりしてふりむくと、ひとりの若い店員が、廊下にしりもちをついていました。 「あいつだっ、あいつにつきとばされたんだ。」  しりもちをついたまま、まっさおな顔をして、うしろの階段のほうを指さしています。怪物が自分をつきとばして、階段のほうへ逃げたといういみです。  人々は、いきなり、そのほうへかけだそうとしましたが、すると、またしても、「ワーッ。」と言う、さけび声がして、うすぐらい階段から、ひとりの男が、ころがりおちてきました。目に見えぬ怪人と、階段ですれちがったとき、つきとばされたのです。その男は問屋から荷物を運んできた人夫でした。 「まるで、つむじ風のようなものだったよ。階段をおりていると、下のほうからヒューッと、風が舞いあがってきて、まともに、おれの胸にぶっつかった。ひどい力だった。おれは思わず足をふみはずして、下までころがりおちてしまった。」  人夫は、あとで、そんなふうに説明しました。  そして、透明怪人は、どこともしれず、逃げさってしまったのです。階段の上に出て、人ごみにまぎれこんでは、もうどうすることもできません。広いデパートの中です。すがたのある人間だって、なかなかさがしだせないのに、まして、目に見えぬ怪物を、さがすなんて、思いもよらないことです。  あとでしらべてみますと、デパートの宝石売場などでも、べつにぬすまれているものはないことがわかりました。むろん、怪物は人形に化けて、ぬすみをはたらくつもりだったのでしょうが、その目的をたっしないまえに、木下少年のために、見つけられてしまったのです。  さて、デパートのさわぎは、べつだんのこともなく、おわりましたが、透明怪人は、まだ東京のどこかにかくれているのです。そして、つぎのえものを、ねらっているのです。そのつぎのえものというのは、いったいなんだったのでしょうか。それは、ふしぎなことに、怪人のさいしょの発見者である、島田少年のおうちの中にある、ある品物だったのです。怪人はそれをねらって、島田君の身ぺんにあらわれることになります。お話はいよいよほんすじにはいるのです。 笑う影  デパート事件があってから二─三日たったある夕方のこと、島田少年はおうちの庭をブラブラあるいていました。空はドンヨリくもって、春のはじめにしては、いやにあたたかい日でした。  島田君のおとうさんは、戦争のまえまでは、たいへんなお金もちでした。今はある銀行につとめていらっしゃるのですが、おうちだけは、むかしのままのりっぱなたてもので、庭も広いのです。日本座敷の前が、いちめんのしばふになっていて、そのむこうに築山があり、森のように木がしげっています。  島田君は裏の鳥小屋の前で、ニワトリをからかったりしていましたが、それにあきると、ブラブラと庭のしばふへやってきました。座敷は、ガラス戸がしめきってあって、中はヒッソリとして人のけはいもありません。  建物のかどをまがって、ヒョイとしばふへ出ると、どうしたのか、島田君は、そこに立ちすくんでしまいました。しばふの上に、じつにふしぎなことが、おこっていたからです。  島田君はスケートがすきで、ローラー・スケートの道具を持っていました。しばらく使わないで、お座敷の縁の下においてあったのですが、いま見ると、そのローラー・スケートがしばふのまんなかに、ならんでいるのです。いや、そればかりではありません。それが、ひとりで動いているのです。ちょうど人間が足にはめているように、たがいちがいに、すすんでいくのです。  島田君は夢でも見ているのではないかと思いました。しかし、夢ではありません。学校から帰ってから、今までのことを、すっかりおぼえています。ねむったはずはありません。 「アッ、そうだ。ひょっとしたら……。」  島田君はゾーッと、せなかに水をかけられたような気がしました。透明怪人のことを思いだしたからです。あいつが、ローラー・スケートをはいてあるいていたら、ちょうどこんなふうに見えるだろうと、気づいたからです。  しばふの上ですから、スケート場のようには、すべりませんが、それでも、だんだん座敷のえんがわから遠ざかって、築山のすそにしげっている、八つ手の木のほうへ、近づいていきます。 「おかあさーん、早く、だれか、早く来て……。」  島田君はやっと声が出ました。そして、あとでかんがえると、はずかしいようなことを、さけんでいました。  しかし、そのとき、ローラー・スケートは、もう八つ手のしげみの中に、つきすすんでいたのです。そして、八つ手の葉がガサガサと音をたて、ちょうどひとりの人間が、その葉をかきわけてはいっていくような動きかたをしました。八つ手のうしろは、大小のときわ木がしげって、森のように、くらくなっているのです。  やがて、島田君のさけび声を、聞きつけて、おかあさんと女中のたけが、かけてきました。おとうさんはまだ銀行からお帰りにならないのです。  それから、大さわぎになって、おとなりのおじさんを呼んできたり、警察にも知らせて、庭じゅうを調べたのですが、何も発見することができませんでした。ただ、八つ手のしげみのおくに、ローラー・スケートがころがっていたばかりです。怪人は、そこでスケートをぬいで、築山のうしろから、塀のそとへ逃げてしまったのにちがいありません。  それにしても、怪人はなぜスケートなんか、はいてあるいたのでしょう。調べてみても、べつにぬすまれたものはないようです。空気男は、クツみがき少年を助けたのでも、わかるように、ときにはよいこともしますし、いたずらっぽいやつですが、なにも島田君のうちの庭へしのびこんで、スケート場でもないしばふで、スケートをやらなくてもよさそうなものです。これには、何か、わけがあるのではないでしょうか。もしかしたら、いつか島田君に正体を見られたのを知っていて、島田君を苦しめようとしているのではないでしょうか。  すると、そのつぎの日の夜ふけに、またしてもおそろしいことが、おこりました。  島田君は六畳の自分の部屋に、ひとりで寝るのですが、何かへんな音がしたような気がして、まよなかに、ふと目をひらきました。裏庭にめんして一間の窓があり、スリガラスの障子がしまっています。そとに木のこうしがついているので、雨戸はあけたままなのです。そのスリガラスに、庭の遠くにある電灯の光がさしているのですが、見ると、そこにボンヤリと黒い人の影が、うつっているではありませんか。  その人は、窓から少しはなれたところに立っているらしく、上半身がふつうの人間の倍ほどの大きさにうつっています。ふしぎなことに、その人は着物をきていないらしく、はだかの肉づきが、わかるのです。顔は横むきになっていて、モジャモジャのかみの毛、目のくぼみ、高い鼻、その下にひらいているくちびるなどが、実物の倍の大きさで、まざまざと、うつっています。なんだかボンヤリした、うすい影ですが、かたちだけはハッキリわかるのです。  島田君は、おそろしさに、息もとまるほどでした。心臓がドキンドキンとおどっているのが、よくわかります。声をだすことさえできません。何かの魔力にひきつけられたように、じっとその影を見つめているばかりです。 「エヘヘヘヘヘ……。」  ゾーッと身もすくむような声でした。影が笑ったのです。大きな影の口が、耳までさけるように、ひらいて、パクパクしながら、ひくい声で笑っているのです。  島田君はもうがまんができませんでした。腹のそこから、怒りがこみあげてきました。死にものぐるいの勇気がでたのです。パッと、ふとんの上におきあがって、 「だれだッ。」 と、どなりました。それから、ひととびに、窓のところへ、かけつけて、いきなり、ガラス障子をひらきました。その男と顔をあわせることを、かくごしていたのです。目と目を見あわせることを、かくごしていたのです。そして、ありったけの声をふりしぼって、しかりつけてやるつもりでした。  ところが、いったい、どうしたというのでしょう。ひらいた窓のそとには、だれもいなかったではありませんか。顔がだせるほどの、あらい木のこうしですから、そこから顔を出して、あたりを見まわしましたが、どこにも人影はありません。障子をあけるまで、影はうつっていたのです。ところが、あけてみると、影の本体である人間が、かき消すように、なくなってしまったのです。 「一郎、どうしたんだ。」  いまの物音とさけび声で、おとうさんがおきてこられました。一郎というのは島田君の名です。 「いま、ここに、へんなやつが立っていたの。でも、障子をあけると、だれもいないんです。おとうさん、また、あいつかもしれませんよ。」  あいつと言えばわかるのです。むろん透明怪人のことです。それを聞くと、おとうさんの顔にも真剣な色がうかびました。  それからまた大さわぎです。うちじゅうの人がおきて、部屋という部屋の電灯をつけ、そのうえ懐中電灯やこん棒まで持って、裏庭の捜索がはじまりました。しかし、人影などはどこにもありません。庭の土がかわいているので、足あとさえ見あたらないのです。  ここにまた、一つのふしぎがくわわりました。空気のように、すきとおった怪物に、影があるということです。もっとも、あとでかんがえてみると、その影は、ふつうの影のようにまっ黒ではなくて、なにかボーッとした、半透明のものをうつしたような影でした。怪物は人間の目には見えないけれども、影だけはかくすことができないで、あんな、もうろうとしたかたちがうつるのかもしれません。 真珠塔  そのあくる日、島田君は、学校で木下君にあうと、すぐに、ゆうべのできごとを話しました。 「いよいよ、へんだねえ。あいつは、きっと、きみのうちを、ねらっているんだよ。」 「ぼくを、ひどいめにあわせようというのかい。」 「いや、それなら、ぼくのほうを、さきにねらうよ。ぼくのおかげで、あいつ、デパートでひどいめにあったんだからね。そうじゃないよ。きみのうちには、きっと、あいつのほしいものがあるんだよ。」 「ウン、そう言えば、おとうさんも、なんだかそんなことを言ってたよ。しかし、ぼくには教えてくれないんだ。うちには、なんだか、あいつにねらわれるようなものがあるらしいんだけど。」 「それじゃ、きっと、そうなんだよ。ねえ、きみ、このことを黒川さんに知らせようじゃないか。東洋新聞の黒川さんさ。あの人なら、何かいいことを考えつくかもしれないぜ。」 「ああ、そうだ。それがいい。」  そこで、ふたりは先生にわけを話して、学校の電話で黒川記者を呼びだし、てみじかにいままでの出来事を知らせました。 「それじゃ、一度、きみのうちへおじゃますることにしよう。きょう夕方、おとうさんが帰られるころにね。そして、くわしい話を聞こう。」  黒川記者は、島田君のうちへの道順をたしかめて、電話をきりました。  その夕方、黒川記者はやくそくどおり、島田君のうちをたずねてきました。ちょうどおとうさんも帰られたところだったので、さっそく洋館の応接間にとおして、おとうさんと一郎君とで、かわるがわる、おとといからの出来事を話しました。 「フーン、やっぱり影をあらわしたのですね。影といえば、ぼくも、あいつの影には、ひどいめにあいましたよ。」  黒川記者は、いまいましそうに、つぎのような話をしました。 「二─三日まえのことです。天気のいい日でした。社の用事で、港区の屋敷町をあるいていた時です。両がわとも長いコンクリート塀のつづいた、さびしい場所でした。もう夕方のことで、赤い日ざしが、右がわのコンクリート塀を、いっぱいに照らして、あるいているぼくの影が、そこにうつっているのです。  ところが、ふと気がつくと、その影がいつのまにか、二つになっているじゃありませんか。オヤッと思って、あたりを見まわしても、だれもいないのです。人間はぼくひとり、影だけが二つあるのです。乱視というのは、物が二重になって見える病気ですが、まさか、ぼくがとつぜん乱視になるわけもありません。乱視でも、よほどひどくならなければ、影が二つに見えるなんてことはないのです。  ところが、一方の影は、よく見ると、帽子もかぶっていないし、服も着ていない。はだからしいのですね。だから、むろんぼくの影じゃありません。しかも、その影は、ぼくの影にくらべると、なんだかボーッと、かすんだように見える。スリガラスを、かべにうつしたような感じです。  ぼくはもういちど、あたりを見まわしました。やっぱり、だれもいません。そのくせ、影だけは、ぼくの影を追うように、あるいているのです。ぼくはこわくなってきて、足をはやめました。すると、あいても足をはやめる。立ちどまると、あいても、立ちどまる。  ぼくは思いきって、『だれだッ。』と、どなりつけてやりました。すると、どこからともなく、エヘヘヘヘヘヘヘヘと言う、いやーな笑い声がきこえてくるのです。ゾッとするような笑い声です。  ぼくが立ちどまっていると、そいつの影が、ぼくの正面にまわりました。つまり、影と影とが向きあったのです。そして、あいての影は、いきなり両手をひろげて、ぼくの影につかみかかってきました。いや、影ばかりではありません。ぼくのからだに、目に見えない手が、さわったのです。  じつにいやーな気持ちでした。ぼくはゾッとして、飛びのきました。そして、目に見えないやつを、力いっぱい、つきとばしておいて、死にものぐるいで、逃げだしたのです。もう、むがむちゅうでした。二百メートルもはしりつづけて、人通りの多い町までくると、やっと、ぼくの影は一つだけになりました。目に見えないやつは、どっかへ行ってしまったのです。  空気男は、ぼくをにくんでいるんですよ。しかし、いたずらをするだけです。ピストルや短刀は持っていないようです。きみが悪いけれど、どこかあいきょうのあるやつです。島田君にも、いたずらをしているだけかもしれませんよ。」 「そうだといいんですが、どうも、それだけじゃなさそうです。」  島田君のおとうさんは、心配らしく、声をひくめて言いました。 「すると、何か心あたりがあるんですか。」 「たった一つあるんです。わたしも、戦争後、いろいろなものを、なくしてしまいましたが、わたしのうちのたからと言ってもいいものが、一つだけ、たいせつに保存してあるのです。」 「フーン、あいつは、それをねらっていると、おっしゃるのですね。で、それは、いったい、どんなものです。」 「あなたは真珠塔というものを、ごぞんじですか。高さ二十センチぐらいの五重の塔で、それに真珠の玉がビッシリとはりつめてあるのです。何百ともしれぬ最上の真珠でできた、宝玉の塔なのです。この真珠塔は大正時代の大博覧会に、三重県の真珠王が出品したもので、なくなったわたしの父がそれを買いとったのです。そのころのねだんで十万円でした。今で言えば三千万円に近いものです。あの目に見えないやつは、宝石商から首飾りをぬすんだそうですが、あの首飾りの何十倍という、ねうちのあるものです。あいつは、それを知って、つけねらっているのじゃないかと思うのですよ。」 「その真珠塔はどこにおいてあるのですか。」 「だれも知らない場所にかくしてあります。わたしが真珠塔を持っていることは、世間でも知っているでしょうが、それがどこにあるかは、わたしと家内のほかは、だれも知りません。一郎も知らないのです。」 「このおうちの中ですか。」 「そうです。あなたには、いろいろ、お力をかりなければならないので、うちあけて、お話しますが、じつは、防空ごうを改造した地下室の中の金庫に入れてあるのです。」 「防空ごうですって? そんなところにおいては、あぶないじゃありませんか。」 「ところが、そうではないのです。防空ごうと言っても、厚いコンクリートでできた、がんじょうなものです。戦争中は庭からも、はいれるようになっていましたが、今では、その入り口をコンクリートでふさいで土をかぶせてしまいました。ですから、入り口はたった一つ、わたしの洋室の書斎にあるだけです。  書斎のゆかが、あげぶたになっているのです。それも、じゅうたんの下ですから、わたしでなければ、どこにあげぶたがあるかさえ、わかりません。そのあげぶたをあけて、ゆかの下にはいると、そこにもう一つ厚い鉄のとびらがあります。それはわたしの持っている特別のかぎでなければ、ひらきません。そこをはいって、だんだんをおりると、四畳ほどのコンクリートの部屋があり、そのまんなかに、金庫がすえてあるのです。金庫にも特別のかぎがいります。そのうえ、暗号錠ですから、かぎがあっても、暗号を知らなければ、ひらくことができないのです。  あれがねらわれているなと思ったとき、銀行の金庫にあずけることも考えてみました。むろん、銀行のほうが安全にはちがいないのです。しかし、銀行へ持ってゆく道がしんぱいです。あいては目に見えないやつですから、少しもゆだんがなりません。やっぱり、このまま地下室においたほうがいいように思うのです。」 「なるほど、それだけ、げんじゅうになっていれば、だいじょうぶでしょう。あなたの書斎のあげぶたを、とうぶんひらかないことですね。あいつは、目には見えないけれども、幽霊とはちがって、からだがあるのですから、入り口がしまっていれば、はいることはできません。しかし、あいつはなかなか知恵のあるやつですから、どんな計略をめぐらすかしれませんよ。うっかり、あいつの手にのらないことが、たいせつですね。」  話がここまで進んだとき、どこかでコトッと、かすかな音がしました。黒川記者は、ハッとしたようにおそろしい顔つきになって、いきなりイスから立ちあがって、ひらいたドアのほうへ、飛びついてゆきました。まるで気でもちがったようです。しかし、かれが入り口のところへかけつけたときには、ドアがひとりで動くように、大きな音をたてて、しまってしまいました。  黒川記者はそのとき、「ちくしょうッ。」とさけんで、まるで、だれかに、つきとばされたように、ヨロヨロとあとじさりましたが、なぜかまだ両手を前にだしたまま、何かをつかもうとしています。  見ると、かれの目の前の空間を、一枚の白い紙が、ヒラヒラと舞いおちていました。黒川記者はそれがゆかにおちるまでに、両手でつかみとって、じっと見ていましたが、また「ちくしょう。」とつぶやきながら、テーブルのところにたちもどり、島田君のおとうさんの前に、その紙きれをおきました。それには、鉛筆の大きな字で、こう書いてありました。 おまえたちが、いま話していたものを、あすの晩、もらいにくる。時間は九時ときめておく。 空気男 黒川君、いい名をつけてくれてありがとうよ。 地下室  島田少年と、島田君のおとうさんと、黒川記者は、その紙きれの、おそろしい文句を読んで、ただ、青ざめた顔を見あわせるばかりでした。もう日がくれて、室内はまっくらになっていました。三人は電灯をつけることさえわすれていたのです。 「アッ。」  とつぜん、島田少年がおとうさんのうでに、すがりつきました。目の玉が、まぶたから飛びださんばかりに、まんまるにひらいて、部屋の一方をみつめています。おとうさんと黒川記者は、おどろいて、そのほうをながめました。  島田君がみつめていたのは、しめきったガラス窓でした。それは西洋ふうのおしあげ窓で、スリガラスがはめてあるのですが、そのスリガラスに、ボンヤリと人の影がうつっていました。実物の二倍ほどもある大きな横顔が、口を三日月がたにひらいています。 「エヘヘヘヘ……。」  あの、しわがれた、身の毛もよだつ笑い声が、かすかにきこえてきました。笑うたびに、影のくちびるが、ヘラヘラと動くのです。ふつうの人間の影ではありません。透明怪人特有の、うすぼんやりした、幽霊のような影です。  黒川記者は、さすがに勇敢でした。それを見ると、「うぬ。」とさけびざま、飛鳥のような早さで、窓に飛びついていきました。そして、おしあげ戸に手をかけると、いきなり、ガラッとひらきました。しかし、窓のそとには何者のすがたも見えません。見えるわけがないのです。 「エヘヘ……。」  あの、いやないやな笑い声だけが、くらやみの庭のどこからかただよってきました。やがて、その笑い声がとだえ、しばらくは、シーンとしずまりかえっていましたが、とつぜん、 「あすの、晩の、九時をわすれるな。」と言う、しわがれ声が、天からふってくるように聞こえました。透明怪人がはじめてものを言ったのです。なんという、うすきみの悪い声でしょう。まるで外国人が日本語をしゃべっているような、まのびのした、たどたどしいことば、みょうにしわがれた声、それをきくと、室内のふたりのおとなと、ひとりの少年は、魔法にでもかかったようにたちすくんだまま、身うごきもできなくなってしまいました。 「おじさん、早く、早く、窓をしめなくっちゃ。」  島田少年が黒川記者にささやきました。でないと、透明怪人は窓からはいってくるかもしれないからです。はいってきても、だれにもわからないからです。黒川記者も、なるほどと思ったのか、いそいで窓のガラス戸を、バタンとしめました。すると、またしても、 「エヘヘヘ……。」と言う、あの笑い声が、窓ガラスのそとからきこえ、それが、だんだん、遠ざかっていくように、かすかになり、やがて、もう、きこえなくなりました。 「あいつは地下室の、ひみつの入り口を、知っているのでしょうか。」  島田君のおとうさんが、青ざめた顔で、しんぱいそうに言いました。 「あなたの書斎のじゅうたんの下に、かくし戸があるのでしたね。あなたは、ちかごろ、そこをひらかれたことがありますか。」  黒川記者がたずねます。 「つい四─五日まえに、真珠塔がぶじにあるかどうか、しらべるために、地下室にはいりました。月に一度ぐらいは、金庫をひらいて、たしかめてみるのです。」 「フーン、その四─五日まえのときに、あいつが、もし、あなたのあとにくっついて、地下室にはいったとすれば……。」 「エッ、なんですって?」  島田さんは、ギョッとしたように、黒川記者の顔を、見つめました。言われてみれば、あいては目に見えないやつですから、そういうことが、なかったとも、かぎりません。「あすの九時」ではなくて、そのときに、もうぬすまれてしまったのではないかと思うと、島田さんは、にわかに、しんぱいになってきました。 「しらべてみましょう。あなたも、いっしょに来てください。一郎も来なさい。三人ではいれば、たとえあいつが、しのびこもうとしても、ふせぐのは、わけありません。」 「そうですね。一度、たしかめておくほうが、いいかもしれませんね。」  そこで、三人はいそいで書斎にはいり、まず、ドアに中からかぎをかけ、窓もみな、かけがねで、しまりをしました。こうしておけば、透明怪人は、はいってくることができないからです。  三人が書斎にはいったときには、怪人はとっくに、先手をうって、書斎の中に、かくれていたかもしれません。しかし、それをふせぐ、てだてがあったのです。  島田さんは、イスをのけて、ゆかにしいてあるじゅうたんをめくり、ゆか板に手をかけて、グッと持ちあげました。ゆかが四角く切りぬかれ、あげぶたとなっているのです。島田さんは、それをごく少しひらいて、やっと人間が、はいこめるほどの、すきまをつくりました。 「さあ、ふたりは、このすきまから、はいってください。わたしは、あとから、はいって、これをしめます。そうすれば、あいつが、すぐそばにいたとしても、だいじょうぶです。とてもわたしたちに、さわらないで、はいりこむことは、できません。」  そのとおりにして、三人はゆかの下に、はいりました。あげぶたを、おろすと、まっくらになりましたが、島田さんが、床下にしかけたスイッチをおして、パッと電灯をつけました。見ると、そこは、コンクリートのかべにかこまれた、一メートル四方ほどの、箱のような場所です。足の下もコンクリートで、その一方のすみに、六十センチ四方ほどの、鉄の板があります。それが、深い地下室への入り口なのです。  箱のような場所は、三人がはいると、いっぱいになってしまって、首をちぢめないと、頭がつかえるほど、せまくて、きゅうくつでした。島田さんは天井のあげぶたに、中から、しまりをしながら、 「どうです。これなら、だいじょうぶでしょう。ここは、わたしたちで、いっぱいなのだから、いくら透明怪人でも、はいるすきがありません。こうしておいて、それから、この足の下の鉄の戸をひらくのです。」 と、とくいらしく言うのでした。そして、鉄の戸をひらき、三人がはいってしまうと、また、下からその戸にかぎをかけました。  そこは、ひとり、やっと通れるほどの、せまいコンクリートの階段になっていて、それを六段ほどおりると、金庫のまえに出ました。上下四方とも、厚いコンクリートでかこまれた、四畳じきほどの地下室です。むろん、そこの天井にも電灯がついています。 「さあ、ここです。黒川さん、これほど用心しても、あいつはわれわれといっしょに、はいってきたと、思いますか。」  島田さんが、金庫のかぎをポケットから、とりだしながら、言いました。 「いや、これなら、だいじょうぶ。透明怪人だって、からだはあるのですから、とても、はいれっこありません。もう安心ですよ。」  黒川記者も、やっと笑い顔になって、答えました。  島田さんは、金庫のダイヤルを、なんどもまわして、暗号文字をあわせてから、かぎでそのとびらをひらきました。 「アッ、あった。別状ありません。これが真珠塔です。」  島田さんの顔に、はれやかな笑いが、うかびました。見ると金庫のまんなかに、細長いガラス箱が立っていて、その中に、美しい真珠のつぶでできた、かわいらしい五重の塔が、かがやいていました。 「フーン、これはすばらしい。ぼくは、こんな美しいものを見たのは、はじめてですよ。」  黒川記者は、思わず、ためいきをついて、言うのでした。 「これでは、あいつが、ねらうのも、むりはありませんね。しかし、もうだいじょうぶです。これからすぐに警察にもとどけ、できるだけのことをして、この宝物をまもりましょう。」 「そうです。警察に知らせなければなりません……。わたしもこれで安心しましたよ。」  島田さんは、そこで金庫のふたをしめ、かぎをかけて、ダイヤルをグルグルと、まわしました。  それから三人は、もとの書斎にもどったのですが、地下室から出るときも、さっきと同じ用心ぶかさで、れいの鉄の戸に、げんじゅうにかぎをかけたことは、言うまでもありません。 午後九時  それから、つぎの日の午後九時、あの、怪人が約束した午後九時までには、いろいろのことがあったのですが、それを、くわしく書いていては、たいくつですから、ごく、あらましだけを、しるしておきます。  警察に知らせますと、その夜から、島田君のうちのまわりに警官の見はりがつき、よく日は、警視庁捜査課の係長、中村警部が、島田家を訪問して、おとうさんと話をして帰りましたが、日がくれるころには、中村係長は三人の刑事をつれて、のりこみ、ひとりの刑事には、書斎のかくし戸のところに番をさせ、あとのふたりには、家のそとの見まわりをつづけさせ、係長は地下室の金庫の前にがんばることになりました。  そのうえに、いよいよ、少年探偵団が活動をはじめることになったのです。透明怪人が島田君のうちをねらっているということは、島田君の学校友だちに知れわたっていたのですが、すると、同じ学校に、少年探偵団員がいて、これを小林団長に知らせました。小林団長というのは、名探偵明智小五郎の、有名な少年助手なのです。この小林少年を団長とする、少年探偵団のことは、『少年探偵団』や『妖怪博士』の本をお読みになった読者諸君は、よくごぞんじのはずです。  小林団長はそれを聞くと、島田君や木下君にあって、うちあわせたうえ、島田君のおうちの近くに住んでいる団員五人をえらび、小林少年がその五人をひきつれて、透明怪人の見はり役をつとめることにしました。  見はりといっても、あいては目に見えない怪物ですから、ただ見ていただけでは、なんにもなりません。そこで、小林団長は、ひとつの妙案をかんがえつきました。それは、自分も、五人の団員も、てんでに懐中電灯を持ち、日がくれたら、ふたりずつ三組にわかれて、島田君のおうちのまわりや、庭の中を、懐中電灯で照らしながら、あるきまわるということでした。  なぜそんなことをするのでしょう。透明怪人は、目には見えないけれど、影はあるからです。懐中電灯を、あちこちとふり照らしているうちに、その光の中に、みょうな影が、あらわれたら、そこに怪人がいるしょうこです。その影で、けんとうをつけておいて、いきなり飛びかかっていこうというわけです。  小林君がこのことを、中村係長に話しますと、係長も感心して、自分の部下の刑事たちにも、同じやりかたを、すすめたほどでした。  そこで、島田邸のまわりは、夜にはいると、懐中電灯の光があちこちに、チラチラして、まるで、ほたるが飛びちがうような、美しくも、ぶきみな光景となりました。  さて、こちらは地下室です。時間は九時十分まえ、金庫のまわりに四つのイスがならび、もう一時間もまえから、島田少年、島田君のおとうさん、黒川記者、中村捜査係長の四人が、わき目もふらず、金庫のとびらを、見つめているのでした。  四人がここへはいるときには、まえの晩と同じように、注意に注意をして、どうしても、怪人のはいりこむすきのないようにしました。ですから、この地下室には、怪人はぜったいにいないはずです。また、入り口の二重の戸には、中からかぎがかけてあるので、怪人は、あとから、はいってくることも、できないのです。 「わたしは、あいつに、いちどもおめにかかっていないせいか、みなさんが、そんなに、こわがっておられるのが、ちょっと、ふにおちないほどですよ。これほど用心をすれば、もう、だいじょうぶでしょう。九時にやってくるなんて、人さわがせなおどしもんくにすぎませんよ。」  背広すがたの中村係長が、たばこの箱を、ポケットからとりだしながら、言いました。すると、黒川記者が、 「いや、あいつは魔物みたいなやつです。けっして、ゆだんはできません。いまに、われわれの見ている前で、金庫の戸が、ひとりでに、スーッとひらくようなことが、おこらないともかぎりません。」 「ハハハ……、それはだいじょうぶですよ。小林君がうまいことを、かんがえた。あいつには影がある。影さえ気をつけていればいいのです。この地下室には電灯がついている。もし、あいつが、はいってくれば、どこかに影がうつるはずですからね。」 「ところが、係長さん、あいつには影のないときもあるのですよ。いつか、あいつがクツみがきの少年をたすけたときには、ぼくはその場にいて、見たのですが、不良青年と、とっくみあっている、あいつの影は少しもうつらなかった。地面には不良青年が、ひとりで、もがいている影が、うつっていたばかりですよ。あいつは、だれかを、こわがらせたいときだけ、影をうつすという、魔法をこころえているのじゃないでしょうか。」 「ハハハ……、黒川君は、どうも、あいつを尊敬しているような、あんばいだね。」  中村係長はそう言って、笑いましたが、その笑い声がまだ消えないうちに、どこかで、コトンと、みょうな音がしました。  四人はハッとなって、顔を見あわせました。そして、室内はしばらく、シーンとしずまりかえっていましたが、そのとき、島田少年が、おとうさんの腕時計をのぞきこんで、思わず口ばしるのでした。 「おとうさん、あと一分で、九時ですよ。」  係長も記者も、それぞれ、自分の時計を見ました。たしかに九時一分まえです。三人とも、まえもってラジオに時計をあわせておいたのです。  だれも口をききません。係長も、今はしんけんな顔つきです。三つの時計の秒をきざむ音が、ハッキリきこえるほどの、しずかさでした。十秒、二十秒、またたくまに、時がたってゆきます。八つの目が、金庫のとびらを、くいいるように、にらみつけていました。  島田少年は、そうして、じっとみつめていると、何かもうろうとした、人のすがたが、金庫のそばに立っているように感じました。 「オヤッ。」と思って、見なおすと、もう、何も見えません。気のせいだったのでしょうか。それとも……。  そのとき、またしても、どこかで、コトッと、かすかな音がしました。金庫をみつめている四人の顔が青ざめてきました。島田君は、「ワッ。」とさけんで、いきなり、逃げだしたいのを、やっとのことで、ふみこたえているのです。いまにも、心臓が、のどのところへ、飛びあがってくるのではないかと思うような、なんとも言えない、へんな気持ちでした。 「ワハハハ……。」  とつぜん、とほうもない笑い声が、部屋じゅうに、ひびきわたりました。中村係長がイスから立ちあがって、笑っているのです。 「諸君、九時はすぎた。もう二十秒で、一分すぎになる。そう言ってるまに、ホラ、九時一分になった。黒川君どうです。あいつはやくそくをまもらなかった。金庫には別状ない。あの紙きれは、こけおどしにすぎなかったのです。」  係長は、さもゆかいそうに、言いはなちました。 「まってください。それでは、二度もきこえた、あのへんな音は、なんだったのでしょう。島田さん、ねんのために、金庫の中をしらべてごらんなさい。」  黒川記者に言われるまでもなく、島田君のおとうさんは、立ちあがって、金庫に近づきました。そして、ダイヤルをまわし、かぎを入れて、とびらをひらいたのです。  ひらいて、一目、なかをのぞいたかと思うと、島田さんは、「アッ。」と言ったまま、ぼう立ちになってしまいました。 「どうしたんです。」  係長と記者とが、そのそばへ、かけよりました。 「アッ、真珠塔がない。」  島田少年が、おとうさんにすがりついて、さけびました。金庫の中は、からっぽのガラス箱が、のこっているばかりでした。すると、そのとき、 「エヘヘヘ……。」あのいやな、いやな笑い声が、どこからともなく、聞こえてきたではありませんか。むろん地下室の中です。どこかに、あいつがいるのです。  四人は、気でもちがったように、キョロキョロと、あたりを見まわしました。しかし、どこにも、人の影さえありません。 「わかった。あいつは、いま、島田さんが金庫をあけたとき、わきから手を入れてぬすんだのだ。ぼくには、ボーっと白い人のすがたが見えた。」  黒川記者が、ものぐるわしく、さけびました。しかし、そうだとすれば、怪人は見えなくても、ぬすんだ真珠塔は、部屋のどこかに、ただよっているはずです。ところが、いくら目をこらしても、それらしいものは、イスの下にも、金庫のかげにも空中にも、どこにも見あたらないではありませんか。  三人のおとなは、すばやく、目くばせして、両手をひろげ、部屋じゅうを、飛びまわるようにして、目に見えないやつを、さがしました。しかし、なにも手にさわるものは、ありません。  中村係長は、コンクリートの階段をかけあがって、入口の鉄の戸の下で、耳をすましました。すると、またしてもあのいやな笑い声が、かすかに聞こえてきたのです。 「オヤッ、鉄の戸のそとだ。あいつは、そとにいるぞ。」  いかにも、それは、そとからの声でした。さっきは、たしかに室内できこえた笑い声が、いつのまにか、かぎをかけた鉄の戸を、すどおりして、そとから聞こえているのです。すると、透明怪人は、けむりか幽霊のように、からだまで、自由自在に、かえることが、できるのでしょうか。 「わかったか。おれは、やくそくしたことは、きっとやってみせるのだ……。」かすかな声でした。鉄の戸のそとから、透明怪人が、あのたどたどしいことばで、そんなことを言っているのが、聞こえてきました。  それから、しばらくして、四人が地下室を出ますと、そこへ、小林少年が、いきをはずませて、かけつけてきました。そして、いきなり、こんなことを、報告したのです。 「ぼくたち、あやしいやつを、つかまえました。いけがきの塀のそとに、ルンペンみたいなやつが、うずくまって、ブルブルふるえていたのです。ぼくたちが、たずねると、おそろしいことを言いました。うそかほんとうか、わかりません。でも、そいつは、まだ、ふるえがとまらないほど、おそろしいものを見たらしいのです。ここへ、つれてきましょうか。」  係長はそれを聞くと、すぐ、つれてくるようにと、答えました。それにしても、少年探偵団は、何者をとらえたのでしょう。そして、そのルンペンが見たというのは、いったい、どんなおそろしいことだったのでしょう。 首をひろう紳士  中村係長のさしずにしたがって、小林君はすぐひきかえして、ふたりの少年団員に両手をとられた、わかいルンペンを、つれてきました。  二十四─五歳の、見るからに、きたならしいルンペンです。カーキ色のよごれた服を着て、手には、やぶれた古ソフトを持ち、足はどろまみれの、はだしのままです。モジャモジャにのびた、かみの毛、青黒いやせた顔に、目ばかりがギロギロ光っています。  中村係長は、その男をイスにかけさせ、おまえの見たことを、くわしく話してごらんと、やさしくたずねました。そこで、ルンペン青年は、おずおずと、つぎのようなおそろしい話をはじめたのです。  その夜、このルンペン青年は、ねぐらをもとめて、町から町をさまよっているうちに、島田邸のいけがきのそとを通りかかりました。それは、思いあわせてみると、透明怪人が地下室の金庫から「真珠塔」をぬすみだした、すぐあとのことだったのですが、青年は、いけがきの中の、くらい庭に、何か、モゾモゾうごいているものがあるのに、気づいたのです。  そこで、立ちどまって、いけがきのすきまから、中をのぞいて見ました。  青年の目は、くらい所ばかりあるいてきたので、やみになれていました。それに庭の遠くのほうに常夜灯の電灯がついていて、その光がかすかに、そのへんを照らしていました。  目をこらすと、一本の立ち木の下の草むらにみょうなものがちらばっています。ネズミ色のオーバー、黒っぽい洋服、白いシャツやズボン下、ネズミ色のソフト帽、クツもちゃんと一足そろっています。それだけなら、なんでもないのですが、それらの衣類にまじって、じつにおそろしいものがころがっていました。青白い色の、まるいものです。そして、それにモジャモジャと毛がはえているのです。  青年は、はじめのうちは、それがなんであるか、まるで、けんとうがつきませんでしたが、よく見ていると、そのまるいものには、目や鼻や口があることが、わかってきました。それは、人間の首だったのです。  青年は、あまりのおそろしさに、ギャッとさけんで、逃げだしそうになりました。草むらに人間の首がころがっているのですから、だれだって、びっくりしないわけにはいきません。人ごろしの現場でも見たように、せなかがゾーッとさむくなってきました。  ところが、そのとき、逃げだそうとした青年が、思わず足をとめるような、もっとふしぎなことが、おこりました。青年は魔法にでもかかったように、その動くものから、目をそらすことが、できなくなってしまったのです。  そうです。それは動いていたのです。なま首がではありません。洋服のズボンがです。黒いズボンが、何かに持ちあげられるように、地面から、スルスルとあがって、グニャグニャ動いていたかと思うと、ひとりでシャンと立ったのです。つまり、ちょうど、人間がズボンをはいたようなかたちに、二本の足で立っているのです。立っているばかりではありません。それが、あちこちと、あるきだしたのです。  青年は、またしても、ギャッとさけびそうになりました。しかし、もし声をたてたら、どんなおそろしいめにあうかもしれないと思ったので、やっとのことで、声をおさえました。  あぶらあせをながしながら、なおも見ていますと、こんどは、白いシャツが、ヒラヒラと宙にまいあがり、モゴモゴ動いているうちに、まるで、人間がシャツを着たような、かたちになりました。それから、つぎには、白いワイシャツがヒラヒラとして、また、人間が着たかたちになりました。つまり、目に見えない人間が、ズボンをはき、シャツを着、ワイシャツを着たという、感じなのです。  ルンペン青年は、キツネにでも、化かされているのではないか、それとも、おそろしい夢でも見ているのではないかと、思いました。そうでなければ、こんなへんてこなことが、おこるはずがないからです。  目に見えないやつは、それから、上着をき、クツをはき、手ぶくろをはめました。すっかり洋服紳士になりすましたのです。しかし、たったひとつ、ないものがあります。首がないのです。 「みなさん、肩から上に何もない人間、首のない人間を見たことがありますか。ぼくも生まれてから、はじめて見たのですが、そりゃあ、へんなものですよ。」  青年は中村係長たちにむかって、さもおそろしそうに、そんなことを言いました。  ところが、そのつぎには、もっともっと、へんなことが、おこったのです。  地面に人間の首だけが、ころがっていたことは、さっきも言ったとおりですが、首のない洋服男は、身をかがめて、その地面の首をひろったのです。両手が青白い首を持ちあげたのです。「アラッ、おちていたのは、この人の首だったのか。」と、青年が、へんなことを考えているうちに、首なし男は、両手に持った首を、スーッと上にあげて、じぶんの肩の上に、チョコンと、のせました。すると、ふしぎなことに、首はそこにくっついたまま、はなれなくなったではありませんか。首なし男に首がついたのです。もうりっぱな一人まえの人間です。  青年は夢に夢みるここちで、いけがきのそとに、うずくまったまま、身うごきもできないでいましたが、すると、首のついた洋服紳士は、オーバーを着、ソフト帽をかぶって、いきなり、こっちへ、ちかづいてきました。青年はもう、生きたそらもありません。小さくなって、ブルブルふるえているばかりです。  しかし、その怪物は、青年に近づいたのではありません。いけがきのうちがわに立ちどまって、あちこちと見まわしていましたが、すぐ近くに、いけがきのやぶれた個所をみつけると、バリバリと音をさせて、そこから、そとへ出てきました。そして、もういちど、ゆっくりあたりを見まわしてから、くらい町を、むこうのほうへ、立ちさってしまいました。青年は、うまく、みつからないで、すんだのです。  ルンペン青年が話しおわると、中村係長が、まず口をきりました。 「きみの見たなま首というのは、透明怪人の有名なろう仮面なんだよ。首なしで町をあるくわけにはいかないから、頭からスッポリかぶるろう仮面でごまかしているのだ。」 「それは、ここにいる子どもたちに、聞きました。ぼくは新聞を読まないので、今まで、透明怪人のことを、知らなかったのです。」  青年が、まぬけな顔で言いました。 「で、きみは、そのままじっとしていたんだね。怪物をおっかけようともしなかったんだね。」  黒川記者が、青年をしかりつけるように、たずねます。 「ハア、あいつが、そういう悪いやつだとは、知らなかったので……。たとえ、知っていても、ぼくには、あんなきみの悪いやつを、おっかける勇気はありません。さけび声をたてなかったのが、やっとですよ。」 「バカだなあ。なぜ、さけばなかったんだ。きみがおしえてさえくれれば、こちらには、いくらも人がいたんだ。いま東京じゅうを、さわがせている、大怪物を、きみは、とらえようと思えば、とらえられたんだぜ。それを、まんまと、逃がしてしまうなんて……。」 「イヤ、ぼくは、勇気がなかったけれど、ひとり、あいつを、おっかけた人がありますよ。」 「エッ、なんだって、なぜ、それを早く言わないんだ。だれだ。だれが、あいつをおっかけたんだ。」 「子どもです。ここにいる、ぼくをつかまえた子どもたちと、おんなじような子どもです。」  ルンペン青年は、小林少年とふたりの少年団員を、ジロジロ見ながら、なんだか腹だたしげなちょうしで、答えました。 「ぼくが、いけがきのところに、しゃがんでいると、ひとりの子どもが、懐中電灯を、ふり照らしながら通りかかりました。そして、ぼくを見つけると、何をしているのだと聞きました。ぼくはまだ、こわくて声もだせなかったのですが、あの首をひろった洋服紳士のすがたが、むこうのほうに見えていたので、それを指さしたのです。すると、その子どもは、なにか、ひとりで、がてんして、懐中電灯を消すと、そのまま、洋服紳士の怪物のあとを、こっそり、つけていきました。」 「うまい。小林君、それはきみたちの団員のひとりにちがいないぜ。だが、ひとりっきりでは、心ぼそいな。とっさに、れんらくをするひまがなかったので、ともかく、尾行したんだろうが、その子の身のうえがしんぱいだ。小林君、それはだれだろう。いそいで、しらべてごらん。」  黒川記者は、しんぱいでたまらないというように、イスから立ちあがりました。 怪人のすみか  透明怪人を、たったひとりで、尾行した子どもというのは、少年探偵団の副団長で、小林団長のかた腕と言われる、大友少年でした。大友久という、中学二年生なのです。  大友君は、いけがきのそとで、ルンペン青年が指さす、怪人物のすがたを見ると、とっさに、あれこそ透明怪人にちがいないと思いました。うしろすがたが、みんなに聞いていた怪人の服装と、まったく同じだったからです。  こちらは、からだの小さい少年です。それに、さびしい屋敷町で電灯もごくすくないので、尾行は、わりにらくでした。島田邸から百メートルほど行った、くらい町かどに、一台の自動車が、ヘッド・ライトを消して、とまっていました。  あやしい洋服紳士は、その自動車に近づくと、コツ、コツ、コツコツコツと、みょうなちょうしで、自動車のそとがわをたたいて、あいずをしたうえ、ドアをひらいて、うしろの席にこしかけ、運転手になにかボソボソささやいています。  大友少年は身がかるくて、木馬や鉄棒が、だいとくいでした。そのうえひじょうな冒険ずきです。この好機会をのがしてなるものかと思いました。武者ぶるいというのでしょう。なんだか、からだがふるえて心臓がドキドキしてきました。  大友君は「よしッ。」と心の中でさけぶと、足音をしのばせて、自動車のうしろに、近づき、ヒョイと後部車輪のおおいのうえに、とびのり、そこに、つまさきだちをして、スルスルと、自動車の屋根の上に、のぼりつきました。目にもとまらぬ早わざです。大友君が、そうして、屋根の上に、ひらぐものように、すがりついたときには、自動車はもうはしりだしていたのです。  自動車は、交番をさけて、くらい町から、くらい町へと、三十分あまりも、はしりました。怪人物も運転手も、自分たちのすぐ頭の上に、少年探偵団の副団長が、つきまとっていようとは、すこしも気づいていないようすです。大友君は、自動車が町かどをまがるたびに、いまにも、ふりおとされそうになりながら、やっとの思いで、屋根の上にすがりついていました。  自動車がとまったのは、東京都内にはちがいないのですが、むかしの兵営のあととでもいった、草ぼうぼうの広っぱでした。見わたすかぎり、人家はなく戦災で焼けた大きなかれ木が、まだニョキニョキと立っていて、遠くの、にぎやかな町の空あかりの前に、そのかれ木のむれが、ボーッと浮きあがっています。  怪人物が自動車をおりて、どこかへあるきだしたので、見うしなってはたいへんと、大友君も、屋根の上から、ソッと、すべりおりると、地面にひれふして、ようすをうかがいました。  ガガガガ……と、すぐ頭の上で、ひどい音がしたので、びっくりして見あげると、自動車が出発するところでした。怪人の部下の運転手は、用事をすませた車を、どこかの秘密のガレージへ、はこぶのでしょう。見るまに、自動車は、やみのかなたへ消えていきました。  さあ、いよいよ、さいごの尾行です。怪人のすみかは、この広っぱの、どこかにあるのです。それは、いったい、どんな場所でしょうか。大友少年の身辺は、ますます危険になってきました。  見ると、むこうに、高さ十メートルもあるような、いちめんに草のはえたがけが、ズーッとつづいています。怪人はそのがけにむかって、すすんでいくのです。  大友君は、草の上を、はうようにして、怪人のあとをつけました。まっくらな広っぱですから、たとえ怪人がふりむいても、めったにみつかるしんぱいはありません。音さえたてなければ、だいじょうぶです。  怪人はがけのま下に、近づきました。そこは、ひじょうに、くらくて、もう、すがたも見わけられないほどです。大友君は、目をまんまるにひらいて、じっと、そのくらやみを見つめました。  すると、カサカサと草のすれる音がして、それっきり、怪人のすがたは、まったく見えなくなってしまいました。いくら、見つめても、がけの土と草のほかには、何もないのです。  怪人は、またしても、魔法をつかったのでしょうか。いや、そうではありません。そこには、草でかくれた、大きなほら穴があったのです。トンネルのような横穴があったのです。怪人はそのトンネルの中へはいっていったのです。  大友君は、それと気づくと、そのトンネルの入り口に、はいよって、耳をすまして中のようすを、うかがいました。  ゴソゴソと音がしています。怪人はトンネルのおくふかく、はいっていくのです。あとになって、わかったのですが、それは戦争中にほられた、横穴防空ごうでした。さびしい場所なので、だれも穴をうめないので、そのままになっていたのです。  穴の入り口に、草がはえしげって、いまでは、そこに穴があるということさえ、わからなくなっていました。  大友君は、音をたてぬように、用心に用心しながら、そのまっくらな横穴の中へ、はいりこんでいきました。  ところが、十メートルも進むと、もう行きどまりになっていて、えだ道もなにもないのです。「オヤッ、へんだな、あいつは、どこかへかくれたのかしら。」しかし、どこにも、かくれるところはありません。穴はせまいのですから、怪人がいれば、大友君のからだにさわるはずです。 「またおくの手をだして、消えてしまったのかな。」と、ふしぎに思いながら、しばらく、じっとしていますと、すぐ目の前に、かすかな光が見えました。四十センチ四方ほどの、まるい穴があって、そのむこうが、ボンヤリあかるくなっているのです。 「ハハア、この小さな穴のむこうがわに、ひろい場所があるんだな。そこに、あかりがついていて、それが、ここまで反射しているんだな。すると、あいつは、この小さな穴から、中へはいりこんだのに、ちがいないぞ。」  大友君は、やっと、そこに気がつきました。たとえ、だれかが、この横穴へはいっても、そのおくに、怪人のすみかがあることを、気づかれないように、そんな小さい穴が、通り道になっているのでしょう。いつもは、その穴に、内部から、ふたがしてあるのかもしれません。 「よしッ、この中へ、はいってみよう。」  大友少年は、とっさに、決心をしました。ほんとうを言うと、大友君は、はやまりすぎたのです。怪人のすみかが、わかったのですから、ひとまず、ここで引きかえして、小林君や中村係長に、報告すればよかったのです。そうすれば、あんなおそろしいめに、あわなくてもすんだのです。  しかし、冒険児、大友少年は、えものをみつけた猟犬のように、もうむちゅうになっていました。しずかに、あとさきのことを、考えるよゆうはなかったのです。  その穴は、からだを横にして、やっと、はいこめるほどの、小さい穴でした。大友君は耳をすまして、穴のむこうがわに、だれもいないことをたしかめたうえ、ソロソロと、はいこんでいきました。そして、穴から首をだして、見まわしますと、思ったとおり、その中は、ひじょうに広い、ほら穴になっていることが、わかりました。  ずっと、むこうのほうに、なにか板のわれめのような、たてに長く光ったものがあって、その光で、穴の中がボンヤリと見えています。天井は、おとなが立ってあるけるほど高く、はばも一メートルはある、土の廊下のような場所です。  大友君は、思いきって、そこへ、はいりこみ、立ちあがって、板のわれめのような光るもののほうへ、おずおずと、あるいていきました。  そばにちかづいてみると、やっぱりそれは板でした。板でできた、そまつなドアのようなものでした。その板のわれめから、もれているのは、赤ちゃけた、チロチロと動く光です。むこうがわに、ろうそくがつけてあるのに、ちがいありません。  耳をすますと、ドアのむこうから、かすかな音が、聞こえます。人間が、あるきまわっているような音です。  大友君は、ドアの前に、ひざをついて、板のわれめから中をのぞいてみました。そして、のぞいたかと思うと、なぜかギョッとしたように、身ぶるいしました。しかし、身ぶるいしながらも、そこから目をはなすことができないのです。まるで石にでもなったように、ながいながいあいだ、そのままのしせいで、身うごきさえしませんでした。 大友少年の冒険  それはせまい部屋でした。正面のかべには、いちめんに黒いカーテンのようなものが、さがっています。その前に、病院にあるような、白くぬった鉄製のベッドがおかれ、それの白いシーツの上に、ひとりの男が、こちらをむいて、こしかけています。ふとい青と白のしまのパジャマをきた男です。  ところが、ふしぎなことに、その人間には顔がありません。首から上には、何もないのです。パジャマだけが、こしかけているのです。  やがて、パジャマが立ちあがりました。そして二─三歩あるきました。足にはスリッパをはいています。しかし、手はありません。パジャマのそでのさきには、何もないのです。それでいて、ちょうど、そこに手があるように、パジャマのそでが、動いているのです。  ベッドのそばに、白くぬった、小さなまるいテーブルがあります。首のないパジャマの男は、そのそばに近よりました。  大友君の目は、男のあとをおって、テーブルのほうにうつりました。そして、その上におかれたものを、ひとめ見ると、ゾーッと、身ぶるいしました。  テーブルの上には、西洋しょくだいに立てたローソクが、もえていました。水をいれたフラスコとコップがありました。たばこ入れと灰ざらがありました。それだけなら、なんでもないのですが、そのほかにもう一つのへんなものがあったのです。テーブルの上なんかに、あるはずのないものが、チョコンとのっかっていたのです。それは人間の首でした。きみの悪い人間の首だけが、テーブルの上から、じっと、こちらをにらんでいたのです。  大友君は思わず逃げだしそうになりましたが、とっさに、あることに気づいて、そのまま、すき見をつづけました。テーブルにのっているのは、ほんとうの首ではなくて、ろう仮面だということが、わかったからです。透明怪人は、パジャマをきて、これからねようとしているのです。ねるのには、ろう仮面なんか、じゃまですから、ぬいで、テーブルの上においたのでしょう。パジャマ男に首のないのは、そのためです。首がないのではなくて、ただ見えないだけなのです。  そのとき、首のないパジャマ男は、テーブルの上のフラスコのせんをとって、コップに水をつぎました。手ぶくろをはめていないのですから、手は見えません。パジャマのそでが、うごくにつれて、フラスコがひとりでに、持ちあがり、宙に浮いて、口がだんだん下をむき、コップに水が流れおちるのです。まるで手品でも見ているようです。  つぎには、水のはいったコップが、スーッと宙に浮き、パジャマのえりの上のへんに、とまりました。さっきのフラスコと同じように、コップは宙に浮いたまま、だんだんかたむいて、中の水が、何もない空中に、すいとられていきます。  じつは、怪人はコップを手に持って、水をのんでいるのですが、顔も手もすきとおって、見えないので、コップがひとりで、宙におどっているように感じられるのです。水がコップから流れだしても、けっして、下へこぼれません。目に見えない怪人の口の中へつぎこまれているからです。  大友君は、透明怪人の話は、たびたび聞いていましたが、見るのは今が、はじめてでした。そして、あまりのふしぎさに、すっかりおどろいてしまいました。夢でも見ているのではないかと、うたがわれるほどでした。  なおも、のぞいていますと、怪人は、こんどは、テーブルの上のたばこをとって、ローソクの火をつけて、スパスパと、すいはじめました。一本の白いまきたばこが、パジャマの上の空中に横になったまま、じっとしています。そして、一方のさきが、ときどきポーッと赤くなり、そのたびに、空中からけむりがわきだします。怪人が鼻と口から、けむりを、はいているのです。  大友君が、このふしぎな光景を、むちゅうになって、のぞいていますと、うしろのやみの中に、サーッ、サーッと、着物のすれあうような音がしました。そして、だれかが、自分のすぐうしろで、息をしているような気がしました。  この穴の中には、透明怪人がいるだけだと思っていたのに、ほかにもまだ、だれかが住んでいたのでしょうか。  大友君は、そう考えると、おそろしさに、からだがすくんで、うしろをふりむくこともできません。うしろのやみの中には、何者がいるのでしょう。人間か、それとも動物か、息づかいの音がきこえるのですから、生きものには、ちがいありません。  大友君はソーッと、うしろに手をのばして、さぐってみました。すると、何か、やわらかいものが、さわるのです。オーバーのようなものです。 「それじゃ、やっぱり、ぼくのうしろに、人間が立っているんだな。」  大友君はあまりのこわさに、息もとまるほどでしたが、もう、ぜったいぜつめいです。ふりむくほかはありません。ふりむいて、そこに立っている人間の、顔を見るほかはありません。  大友君は、やにわに、クルッと、うしろむきになって、そこのやみの中に立っている、大きな男を見あげました。 怪老人  くらやみと言っても、ドアのすきまからローソクの光がもれているので、物のかたちが見わけられないほどではありません。目をこらすと、そこにヌーッと立っていたのは、ひとりの老人でした。  白いフサフサしたかみの毛、胸までたれた白ひげ、コウモリのようなそでのある、みょうな黒い外とうをきています。ギロッと光っているのは、四角なガラスの、ふちなしメガネです。くらくて、よくはわからないけれど、そのメガネの中で、ほそい目が、ニヤニヤ笑っているようでした。  この怪老人と大友少年とは、しばらくにらみあっていましたが、いつのまにか、老人の手が大友君の片手を、グッと、にぎっていました。 「きみと、ちょっと話がある。こちらへ来たまえ。何も、こわいことはないよ。」  老人は、あんがい、やさしい声で、言いました。 「いやです。ぼく、もう帰ります。はなしてください。」  大友君は、勇気をふるって、やっと、それだけ言いました。そして、いきなり、逃げだそうとしましたが、老人に手をにぎられているので、どうすることもできません。ひどく力のつよい老人です。 「ハハハハハハ、けっして、逃がさないよ。ここのひみつを見たものは、二度としゃばへは出られないのだ。まあ、あきらめて、こちらへくるがいい、きみに見せるものがある。話すことがある。」  老人は、そう言って、大友君の手をにぎったまま、グングンおくのほうへ、あるいていきます。いくら、ふみこたえようとしても、老人のほうが力がつよいので、ズルズルと、ひっぱられるばかりです。  ギーッと音がして、板のドアがひらかれ、パッと赤い光がさしてきました。そこにもローソクが立っていたのです。テーブルとイスが二つ、そのほかには、なんのかざりもない小部屋です。かべはコンクリートで、できています。 「ここではない。まだおくに、ひみつの部屋があるのだよ。」  老人は大友君の手をにぎったまま、一方の手をのばして、かべのどこかを、おしました。すると、そこに、ひみつのおしボタンでもあったのか、一方のコンクリートのかべが、音もたてないで、スーッと動きだし、そこに、人の通れるほどの、すきまができました。かべのように見えていたのが、じつは、厚いコンクリートのドアだったのです。  老人に手をひかれて、そのすきまを、はいると、コンクリートのかべは、もとのとおりに、しまっていました。そこは、まっくらなトンネルのようなところです。そのトンネルを十メートルほど、すすむと、老人はまた、かべのボタンをおしたらしく、正面のドアがスーッとひらいて、そのむこうから、明るい光がさしてきました。 「さあ、ここがわしの研究室だ。ここでゆっくり話をしよう。」  大友君はその部屋に、はいると、びっくりして、キョロキョロと、あたりを見まわしました。防空ごうのおくに、こんなりっぱな研究室ができているなんて、夢にも考えていなかったからです。  その部屋は十五畳ぐらいの広さで、ゆかも、天井も、まわりのかべも、コンクリートで、かためられ、いろいろな、ふしぎな道具が、部屋いっぱいに、ならべてあります。まず目につくのは、一方のすみにある、外科の手術台のような、白くぬった金属の台です。そのそばに、やはり白くぬった大きなガラス戸だながあって、いくだんにもなったガラスのたなの上に、ピカピカ光ったナイフだとか、ハサミだとか、きみの悪い外科手術の道具のようなものが、かぞえきれぬほど、ならんでいます。  また、一方には、大きな台があって、その上に、化学実験につかう、きみょうな形をしたガラスビンのるいが、大きいのや小さいのが、ゴタゴタとならんでいます。台の上にはアセチレン・ガスが、青いほのおをたてて、もえている上に、大きなまるいガラスビンがのせてあり、その中に、むらさき色の液体が、ブツブツとあわをたてて、わきたっています。  化学実験台のわきには、大きな薬品戸だながたち、色さまざまの薬ビンが、ズラッと、ならんでいます。そのほか、わけのわからぬ器械が、部屋いっぱいに、おいてあって、なんだか、おそろしくなるほどでした。化学実験台の上に、三本だての西洋しょくだいがおかれ、三本の大きなローソクが、あかあかともえています。 「おどろいたかい。ハハハ……、まさか、地の底に、こんな研究室があるとは、思わなかっただろう。しかし、この地下室は、わしがつくったのではない。これは戦争のときに、陸軍がつくった防空ごうでね、こういうりっぱな秘密室が、ちゃんとできていたのだ。この部屋は、司令部になるはずだった。そういうひみつを、だれも知らないで、そのままになっていたのを、わしが、むだんで拝借しているというわけさ……。まあ、そのイスに、かけなさい。」  怪老人は、そう言って、自分も一方のイスに腰をおろしました。明るい光で見ると、老人の顔は、いよいよぶきみです。まっ白な頭、まっ白な長いひげ、ワシのような高い鼻、四角なふちなしメガネのおくに、ギロリと光る、するどい目、なんだか妖怪博士とでも言うような感じです。 「きみは、少年探偵団の副団長の大友君だね。わしはちゃんと知っているよ。自動車の屋根にのって、尾行するとは、なかなか勇敢な少年だ。その勇敢なところをみこんで、きみをわしの弟子にしてやろうと思うのだよ。ハハハ……、どうだ、うれしいかね。」 「おじさんは、だれですか。ぼくは、知らない人の弟子になることはできません。」  大友少年は、もうすっかり、どきょうを、さだめていました。 「ハハハ……、わしかね。わしは世界一の大科学者だ。わしは原子爆弾よりも、もっとどえらい発明をした。しかし、わしの発明は、まだ、だれも知らない。もし知ったら、世界じゅうが、わきかえるだろう。いや、あまりおそろしい発明なので、わしは殺されてしまうかもしれない。」  怪老人は、とほうもないことを、言いだしました。大友君は、この老人、気でもちがったのではないかと、きみが悪くなってきました。老人は、いったい、どんな大発明をしたというのでしょう。 透明怪人第四号  老人のおそろしい話が、つづきます。 「いま、せけんをさわがせている、あの透明怪人は、いったいなんだろう。あんな、ふしぎな人間が、しぜんに生まれてきたと思うかね。むろん、生まれたのではない。星の世界から飛んできたのでもない。あれは、つくられたものだ。そして、あれを、つくったのは、このわしなのだ。」  大友少年は、怪老人のキラキラ光る角メガネと、もの言うたびに、ユラユラする白ひげを、あっけにとられて、ながめていました。 「つくると言っても、人間そのものを、つくるのではない。きみたちと同じ目に見える人間のからだに、ある化学的変化をあたえると、からだぜんたいが、すきとおって、見えなくなってしまうのだ。わしは三十年のあいだ、苦心に苦心をかさねて、そういう変化をあたえる薬品を発明したのだよ。そして、さいしょの試作品として、つくったのが、今、世間をさわがせている透明怪人第一号だ。  きみがのぞいた、あのパジャマをきたやつだ。島田君のうちから真珠塔をぬすみだしたやつだ。  わしは第三号まで、つくった。つまり、三人の透明人間が、できているのだ。しかし、せけんにだしたのは第一号だけで、第二号と第三号は、まだ、わしの手もとにおいてある。もうすこし、訓練をしなければならないのでね。そのふたりの透明怪人は、今もこの部屋にいる。どこにいるか、つくったわしにも見えないが、この部屋にいることは、まちがいない。おい、二号はいるか、いたら返事をしなさい。」  すると、部屋のむこうのほうから、「ハイ。」という返事がしました。 「三号はいるか。」  それにたいして、また、べつの方角から、ちがった声が「ハイ。」とこたえました。 「どうだ、大友君、たしかにふたりいるだろう。しかし、すがたは、まったく見えない。これではまだ、信用できないかね。よし、それじゃあ、しょうこを見せよう。二号、実験台の右のはしにあるガラスビンを、薬品だなの上にのせなさい。」  老人のことばが、おわるかおわらないうちに、その実験台の上のガラスビンが、スーッと宙に浮きあがりました。そして、グングン高く、あがっていって、そのビンは、薬品だなのいちばん上に、チョコンとのって、そのまま動かなくなりました。  たしかに、この部屋には目に見えない人間がいるのです。いったい、そんなことができるのでしょうか。薬の力で人間を、自由自在に、すきとおらせ、見えなくしてしまうなんて、そんなことができるものでしょうか。しかし、目のまえに、しょうこを見せられては、信じないわけにはいきません。大友君は、夢に夢みるここちでした。 「どうだね、わしの言うことが、うそでないと、わかったかね。いままでに、つくったのは、たった三人だ。しかし、三人でおしまいではない。あいてさえしょうちすれば、百人でも千人でも、いや、何万、何十万でも、透明人間ができるのだよ。わかるかね、これが、どんなにおそろしいことだか、わかるかね。  十万人の透明人間があれば、世界じゅうを敵にまわしてでもまけやしない。こちらは目に見えない人間だから、どんなところへでも、はいれる。どんなひみつでも、さぐりだせる。ところが、あいてのほうでは、透明人間を攻めようとしたって、攻めることができない。とらえようとしても、とらえることができない。それがひとりでなくて、十万人となれば、世界の何億人にも対抗できる。人類にとって、こんなおそろしいことがあるだろうか。  原子爆弾いじょうの大発明というのは、このことだよ。わしの発明によって、世界が一変するのだ。戦争ができなくなってしまうのだ。そればかりではない。地球の上に、目に見える人間は、ひとりもいなくなるようにさえできるんだ。世界じゅうの人を、透明人間という、べつの人種にかえてしまうことができるのだ。」  怪老人の四角なメガネのおくに、二つの目がランランとかがやいていました。金色に光っているようにさえ、感じられました。老人はこの大発明に、もう、うちょうてんになっているのです。大友少年も、聞けば聞くほど、この発明の、あまりのおそろしさに、ブルブルと、からだがふるえてくるのを、どうすることもできませんでした。  老人は、しばらくだまって、大友少年の顔を見つめていましたが、やがて、ニヤニヤと、みょうな笑いを浮かべながら、こんなことを言いました。 「どうだね、大友君、わしの弟子になりたくはないかね。そして、この大発明をたすける気にはならないかね。」 「それには、どうすればいいんですか。」  大友君は、おそるおそるたずねました。 「きみが、透明人間第四号になってくれればいいんだよ。」  老人は、やっぱりニコニコしながら、ギョッとするような、おそろしいことを言うのです。 「いやです。ぼく、いやです。透明人間にされるなんて、いやです。」  大友君は、まっさおになって、さけびました。 「ハハハ……、きみはこわがっているね。なあに、ちっとも、こわいことなんか、ありゃしないよ。そこの手術台で、ひと晩ねむればいいんだよ。はじめに、ねむり薬を注射するから、何も知らないで、グッスリ、ねむってしまうよ。そうして、目がさめると、きみはもう、透明人間になっているのだ。だれにも見られないで、どんなことだって、できるのだ。きみは、童話の魔法使いになったと同じなんだ。え、どうだね。夢のような話じゃないか。こんなおもしろいことが、ほかにあると思うかね。」 「いやです。ぼくの顔やからだが、なくなってしまうなんて、いやです。おとうさんや、おかあさんは、ぼくにあえなくなるし、友だちとも、わかれなければなりません。そんなことは、いやです。ぼく、魔法使いなんかに、なりたくありません。」  大友君は、ひっしになって、ふしょうちを、となえましたが、老人が、それに耳をかたむけるはずはありません。 「そんなに、いやかね。だが、いくらいやだと言っても、きみは、わしのとりこなんだ。逃げようとしても、この部屋には出口がない。ひみつ戸をあけるやりかたさえ、きみは知らないのだ。わしの命令にしたがうほかはないのだよ。さあ、いい子だから、おじいさんの言うことをきいて、じっとしているんだよ。」  怪老人は、そう言いながら、いきなりイスから立ちあがると、パッとコウモリのはねのように、外とうのそでをひろげて、大友少年に飛びかかってきました。そして、アッというまに、こわきにかかえて、手術台のそばに行き、その上にねかせてしまいました。もう、いくらジタバタしてもだめです。怪老人の鉄のような腕にしめつけられて、身うごきさえできないのです。大友君は、とうとうかんねんの目をとじました。  左の腕が、まくりあげられたのを知っていました。しかし、もう目をひらきません。もがいてみたって、どうにもならないのです。やがて、腕にチクリと、虫のさすようないたみを感じました。注射針がささったのです。 「さあ、これでいい。きみはすぐ、ねむくなるよ。」  大友君はもう何も考えないで、じっとしていました。しばらくすると、からだじゅうが、だるくなってきました。なんだかいい気持ちです。ウツラウツラとねむくなってきました。どこからか、なつかしい子守うたが、きこえるような気がしました。そして、いつともなく、ふかいねむりにおちてゆくのでした。 透明少年  それから、どれほどの時間がたったのか、わかりませんが、大友君は夢からさめたように、しぜんに目をひらきました。やっぱり、手足が何かにしめつけられていて、すこしも身うごきができません。  しかし、それは怪老人の腕ではなくて、グルグルまきのほそびきでした。大友君はイスにかけさせられ、両手両足を、ほそびきで、しばりつけられていたのです。  そばにはだれもいません。一坪ほどの、せまい箱のような場所です。ふと気がつくと、正面のかべに、なにか光ったものがあります。鏡です。三十センチ四方ほどの鏡が、かべに、はめこみになっているのです。大友君は、それが鏡だとわかるまでに、一分もかかりました。そこには、なんとも、えたいのしれない、へんてこなものが、うつっていたからです。  鏡の中には、学生服の胸から上だけが、こちらをむいていました。しかし、その服のえりの上には、首がないのです。学生服は大友君の着ているのと、しわのよりかたから、ボタンの図案まで、まったく同じでした。その鏡にうつっているのは、自分にちがいないのです。それでいて、首だけが、まるで、ふきとったように、消えてしまっているのです。  大友君は、あまりのおそろしさに、からだがガタガタふるえてきました。顔もまっさおになったのでしょう。しかし、その顔は人の目には見えません。顔がなくなっていたのです。からだもなくなっていたのです。大友君は、いつのまにか、透明人間にされてしまったのです。鏡に学生服だけが、うつっているのは、そのためだったのです。  みなさん、自分のからだが、まったく目に見えなくなったら、どんな気持ちがすると、思いますか。自分が、この世から消えてしまうのです。しかし、ちゃんと生きているのです。むかしの忍術使いは、自分のからだを、かきけすことができたそうですが、でも、それは一時のことです。また、もとのすがたにもどれたのです。ところが、大友君は、もう二度と、もとのすがたには、なれません。一生、目に見えない人間として、くらさなければならないのです。世の中に、こんなおそろしいことが、またとあるでしょうか。  大友君はそれを思うと、なんとも言えないかなしみが、こみあげてきました。「おかあさーん。」と、さけびたくなるのを、やっと、歯をくいしばって、こらえました。しかし、なみだをとめることは、できません。あついなみだが、ほおをつたって、ながれているのが、よくわかります。でも、そのなみだは、目には見えないのです。前の鏡には、何もうつらないのです。 「おお、気がついたか、きぶんはどうだね。」  ふりむくと、横ての小さなドアがひらいて、そこから、怪老人の四角なメガネが、のぞいていました。 「きみはもう、人の目に見えない透明人間になったのだよ。きみがいまニコニコ笑っているのか、べそをかいているのか、わしにも見えない。どうだね、さびしいかね。それとも、たのしいかね。きみはきょうから猿飛佐助のように、どんなことだって、できるんだよ。すばらしい透明怪人になったのだよ。さあ、元気をだしたまえ。」  怪老人は、大友君のそばに近づくと、イスごと持ちあげて、大友君を小部屋のそとに、つれだしました。暗い土の廊下です。そこで、手足のなわをほどき、大友君をだきあげて、どこかへはこんでいくのです。 「ちょっとのまのしんぼうだ。きみが空気男のくらしになれるまで、すこし、きゅうくつな思いをしてもらわなければならん。ひょっと、逃げだされでもしたら、たいへんだからね。いま逃げだしたら、きみは透明人間というものに、なれていないから、すぐつかまってしまう。目には見えなくても、からだはあるんだから、一度つかまったら、もうおしまいだよ。だから、きみは、しばらく、ここにはいっているんだ。」  ガチャンと音がして、鉄のこうし戸がひらきました。その前のゆかに、しょくだいがおいてあって、小さなローソクの光が、ぼんやりと、あたりを照らしています。  老人は大友君を鉄ごうしの中に入れて、ピッタリ戸をしめると、そとから、かぎをかけてしまいました。  それは動物園の猛獣のオリのような鉄ごうしの牢屋でした。大友君はそこに、とじこめられてしまったのです。 「しばらくの、がまんだ。食事はちゃんと、はこんであげるからね。」  老人は長い白ひげをふるわせて、声をたてないで、笑いました。四角なメガネが、ローソクの火をうけて、きみ悪くキラキラと光りました。老人はそのローソクを手にもち、どことも知れず、たちさってしまいました。  大友少年は、ローソクのなくなった、まっくらやみの中で、つめたいコンクリートのゆかに、うずくまっていました。なんともいえない、さびしさと、かなしさに、うちひしがれて、うずくまっていました。 B・Dバッジ  お話かわって、こちらは小林団長をはじめ、少年探偵団の少年たちです。大友君が洞窟のとりことなった夜のあくる日、少年たちは、学校からかえると、すぐに、島田少年のおうちにあつまってきました。  警察の人たちは、ゆうべおそくまで、ゆくえ不明になった大友君を、さがしましたが、夜ふけのことではあり、ついにみつかりませんでした。それで、中村捜査係長たちはひとまず警視庁にひきあげ、そこの一室に透明怪人捜査本部をもうけて、東京全都にわたる、大がかりな活動をはじめたのです。黒川記者も、警視庁の記者クラブにつめきって、たえず捜査本部に顔をだしていました。  しかし、少年探偵団の少年たちには、透明怪人をとらえることよりも、さしあたって、副団長の大友君の身のうえがしんぱいです。なんとしてでも、大友君をさがしださねばなりません。そこで、少年たちは警察にまかせておかないで、自分たちの手で、副団長のゆくえを、つきとめようと決心したのです。  小林団長は、島田少年のうちで電話をかりて、電話のある、団員たちに、指令をあたえ、それぞれ近所の団員に、つたえさせるというやりかたで、たちまち六人の少年が、島田邸にかけつけることになりました。  一時間ほどで、すっかり人数がそろったので、小林君は、あわせて十人の少年を五組にわけ、島田邸を出発点として、五つのちがった道を、捜索させることにしました。 「B・Dバッジをさがすんだよ。大友君はきっと、あれを使ったにちがいない、あれさえみつければ、もう、しめたものだ。」  小林団長は出発する少年たちに、そういう注意をあたえました。B・Dバッジとは、いったいなんでしょうか。それは、やがて、わかります。一組の少年が、まもなく、そのバッジをみつけるのです。  第一班から第五班までにわけた少年捜索隊の、第二班にあたったふたりの少年が、ぐうぜんにも、ゆうべ、透明怪人の自動車が、はしりさった方角を、うけもつことになりました。  しかし、少年たちは、そんなことは、すこしも知らないのですから、ただ、あてずっぽうに、足のむくほうへと、あるいてゆきました。ひとりは町の右がわを、ひとりは左がわを、というふうに、手わけをして、キョロキョロあたりを見まわし、ことに、地面には、するどい目をそそぎながら、すすむのです。  町かどをいくつもまがって、一キロほどあるいたとき、右がわの少年が、とつぜん、ハッとしたように立ちどまりました。すぐ目の前の地面に、小さな銀色に光ったものが、落ちていたからです。  少年は、そこにしゃがんで、手ばやく銀色のものを、ひろいあげ、左がわにいたともだちを、手まねきしました。 「やっぱり、そうだったよ。これB・Dバッジだよ。」 「ウン、そうだ。これとおなじだね。」  少年のひとりは、ポケットから、銀色のバッジをとりだして、くらべて見ました。たしかに、B・Dバッジです。 「すてきだ。これで大友君のゆくえがわかるね。」  少年たちの顔に、いきいきしたよろこびの色が、浮かんできました。  ここで、ちょっと、B・Dバッジの説明をしなければなりません。『少年探偵団』という本に、このバッジのことが、くわしく書いてあるのですが、それは少年探偵団員の記章なのです。B・Dというのは、「少年」と「探偵」にあたる英語のかしら文字をとって、そのBとDとを、もようみたいに組みあわせ、記章の図案にしたことから、名づけられたのです。  このB・Dバッジには、団員のしるしというほかに、いろいろなつかいみちがありました。まず第一に、それは重い鉛でできているので、ふだん、それをたくさんポケットに入れておけば、いざというときの、石つぶてのかわりになる。第二には、敵のすみかに、とじこめられたようなとき、バッジのうらのやわらかい鉛の面に、ナイフで字を書いて、窓や塀のそとへなげて、通信をすることができる。第三には、バッジのうちの針に、糸をむすびつけて、水の深さをはかることができる。第四には、てごめになって、どこかへ、つれさられるようなばあいに、このバッジを、道におとしておけば、方向を知らせる目じるしになる。そのほか、まだ、いろいろな使いみちがあるのです。  団員たちは、このバッジを、学生服の胸のうちがわにつけて、何かのおりには、そこをひらいて見せて、団員であることを、知らせあうのですが、そのほかに、団員たちのポケットには、二十個から三十個ぐらいのバッジが、いつでも、よういしてあるのでした。  大友君は、透明怪人の自動車の屋根に、身をふせているあいだに、町かどをまがるたびに、ポケットから、B・Dバッジを一つずつ、とりだして、道におとしておいたのです。いま二人の少年が、みつけたのは、それの一つにちがいありません。  ふたりはそれから、目をさらのようにして、地面ばかり、にらみつけて、すすみました。町かどへくるたびに、ふたりが手わけをして、べつべつの方向にはしりだし、バッジをみつけると、口笛をふいて、もうひとりを呼びよせ、いっしょになって、その道をすすんでいくのです。そして、バッジからバッジへとたどっていくうちに、とうとう、あの焼けあとの原っぱに出ました。 「へんだね。こんな広い原っぱへ来てしまったぜ。」 「きっと、この原っぱに、何か、ひみつがあるんだな。ごらん、あすこにもバッジがおちている。大友君のいるところは、もう遠くはないようだね。」  そして、そのバッジの落ちている場所まですすむと、また、むこうの草の中に、銀色に光るものが、見えました。 「おお、あすこにもある。」「ここにもおちていた。」と、むちゅうになって、バッジをひろいながら、あるいているうちに、少年たちは、ついに、あの防空ごうの入り口にたっしたのです。  草におおわれた、防空ごうの入り口を発見したとき、ふたりの少年は、なんだかゾーッとして、思わず顔を見あわせました。 「ホラ、ここに、こんなにバッジがおちている、大友君はこの穴の中へ、つれこまれたのに、ちがいないよ。」  ひとりが、五つ六つ、かたまって、おちているバッジを指さしながら、ささやき声で、言いました。穴の中のくらやみには、何者がいるかわかりません。うっかり大きな声は、だせないのです。 「よしここにきまった。ぼくはそのへんにかくれて見はっているから、きみは近くの電話をかりて、小林団長に知らせてくれたまえ。ぼくたちだけで、この穴の中へはいっては、しっぱいするかもしれない。やっぱり、団長から中村捜査係長に知らせてもらうほうがいい。」  この少年は、大友君よりも、用心ぶかかったのです。かれは近くのくさむらに、身をすくめて、洞窟の入り口を見はりました。もうひとりの少年は、電話をかりるために、町のほうへ、矢のように、はしりだしました。 暗中の妖魔  それから一時間あまりのち、午後五時ごろのことです。れいの原っぱの防空ごうの前に、ものものしい警官隊がおしよせていました。  先頭には、この洞窟を発見した案内役の少年のひとりと、小林団長、つづいて、中村捜査係長と黒川記者、そのあとに六人の警官が、武装に身をかためて、したがっています。洞窟のやみの中に、ふみこむのですから、全員、懐中電灯を手にしているのです。 「きみたち三人は、この穴の入り口に、がんばって、中からにげだすやつがあったら、ひっとらえてくれたまえ。あいては目に見えないやつだから、ただ見はっていたのでは、だめだ。捕じょうをのばして、ぼくたちがはいったあとで、入り口にあみをはるんだ。ほそびきを、縦横に、はりめぐらすんだ。そうすれば、透明怪人だって、からだはあるんだから、逃げだそうとすれば、すぐわかってしまう。もし、ほそびきが、へんな動きかたをしたら、いきなりとびついて、ひっとらえるんだ。わかったね。」  中村係長は、三人の警官に、そう命じておいて、「では、ぼくが先頭をつとめるよ。」と言いながら、身をかがめて、いきなり、くらやみの洞窟の中へ、ふみこんでゆきました。鬼係長と言われているほどあって、さすがに勇敢な捜査係長です。  それにまけじと、黒川記者が、あとにつづき、それから、小林少年というじゅんで、のこる少年ふたりと警官三人も、ぜんぶ洞窟の中に、すいこまれてゆきました。  大友君のばあいとちがって、懐中電灯がありますし、それに、八人という同勢ですから、心じょうぶです。例の洞窟の行きどまりの、小さな穴を、はいくぐって、おくの広い場所に出ました。そして、そこにある板のドアを、ぜんぶ、ひらいて見ましたが、大友君のすがたは、どこにもありません。透明怪人は目に見えないやつですから、いるかいないか、わかりませんが、ふしぎなことに、すこしも人のけはいがしないのです。まるで、空家のように、シーンと、しずまりかえっているのです。  いくつかの小部屋を、のこりなく、しらべて、さいごに、たどりついたのは、れいの怪老人の研究室でした。ふしぎなことに、そこへ通じる、ひみつ戸が、みな、あけっぱなしになっていたのです。  研究室もからっぽでした。はじめて、この部屋にはいった中村係長や小林少年は、それと気づくはずもないのですが、研究室の中のようすが、大友少年が見たときとは、ひどく、かわっていました。たなの薬びんや、きみょうな器械などが、半分いじょうも、なくなって、あとには、つまらないガラクタが、のこっているばかりです。まるで、ひっこしをしたあとのような感じなのです。怪老人は、警官隊のくることを知って、はやくも、どこかへ逃げさってしまったのでしょうか。  人々は洞窟の広さと、研究室のりっぱなのに、すっかり、めんくらってしまいましたが、しかし、そこに、れいの怪老人がすんでいたことは、すこしも知らないのですから、べつに、あやしむでもなく、ただ部屋じゅうを、しらべまわるばかりでした。 「おや、こんなところに、べつの出入り口がありますよ。」  黒川記者が、小さな、ひみつ戸をみつけました。それも、あけっぱなしになっていたのです。 「まだ、おくがあるんだね。行ってみよう。」  中村係長が、先に立って、そこへ、はいってゆきました。ガランとした、くらやみの中に、しめっぽい、いやな空気が、ただよっています。まるで地獄のように、いんきな場所です。  人々の手にする懐中電灯の光が、いりみだれて、その光の中にはいった人の影が、かべや天井に、大入道のようにうつり、それが、いくつも、かさなりあい、ゆれうごくありさまは、なんとも言えないぶきみさでした。 「アッ、だれだ。いま、ぼくのそばを、通ったのは、だれだッ。」  小林君のかんだかい声が、きこえました。 「だれも通りゃしない。みんな前にすすんでいるのだ。むこうから、来るものなんか、ありゃしないよ。」  黒川記者の声です。 「でも、たしかに、だれかが、ぼくのからだにさわりました。すれちがって、うしろへ行ったような気がするんです。」  小林君は、ほんとうに、そう感じたのです。何か、やわらかいものが、肩と腕にさわって、スーッと、うしろのほうへ行ったのです。 「アッ、いま、ぼくのそばを通った。たしかに人間だ。しかし、目には見えない。」  警官のひとりが、さけびました。  すると、それにつづいて、あちらでも、こちらでも、自分のそばを、人間のようなものが、通りすぎたと言う声が、おこりました。  透明怪人が、このくらやみの中にいるのです。しかも、それはひとりだけではないように、思われます。まるで、深い海の底を、いくつものクラゲが、フワフワとただよっているような、なんとも、えたいの知れない、おそろしさでした。 「小林君、ここだよ、ここだよ。」  そのとき、どこからともなく、聞きおぼえのある声が、きこえてきました。大友君の声です。大友君が、このくらやみの、どこかにいるのです。 「きみは大友君だね。どこにいるの?」  小林少年は、懐中電灯を、大きくふりてらしながら、聞きかえしました。 「ここ、ここ。」  大友君の声が、前のほうから、ひびいてきます。小林少年は、声のするほうへ、すすんでゆきました。すると、懐中電灯の光の中に、鉄ごうしが、あらわれてきました。猛獣のオリのような、鉄棒のこうしが、あらわれてきました。大友君の声は、どうやら、そのこうしの中から、ひびいてくるようです。  小林君と、団員の少年とが、こうしの前にかけよりました。そして、二つの懐中電灯で、その鉄棒のかきの中を、すみからすみまで、照らしてみました。しかし、そのオリのような部屋の中には、だれもいないのです。 「ああ、小林君と、田村君だね。ぼくはおそろしいめにあったのだよ。四角なメガネをかけた、白ひげの老人がいただろう。あいつが、ぼくをこんなにしてしまったんだ。」  小林君と、団員の田村少年は、ギョッとして、あたりを見まわしました。たしかに、すぐ目の前で、大友君のなつかしい声がしているのです。しかし、いくら目をみはっても、大友君のすがたは、どこにも見えないのです。 「大友君、どこにいるの。」 「ここだよ、きみたちのすぐ前にいるんだよ。ほら、この鉄ごうしの中にいるんだよ。」  そして、コツコツと、つめで、鉄棒をたたく音がきこえました。それは、すぐ目の前の鉄棒にちがいないのです。それでいて、大友君は、やっぱり、どこにも、いないのです。  小林君と田村君も、大友少年が透明人間にされてしまったことを、知らないものですから、からっぽの鉄ごうしの部屋から、大友君の声だけが、聞こえてくるのを、まるで、お化けにでも、であったように、きみ悪く思いました。 洞窟のクラゲ  小林君と、少年探偵団員の少年は、その鉄ごうしにしがみつくようにして、さけびました。 「大友君、きみはそこにいるんだね。」  小林少年は、いくら懐中電灯で照らしても、鉄ごうしの中に、だれもいないので、もう一度、たしかめてみないでは、いられませんでした。 「うん、いるよ。きみたちのすぐ前に、いるんだよ。」  大友君の声が、そう答え、指のつめで、コツコツと、鉄ごうしを、たたいてみせました。 「ぼくは、ねむっているあいだに、四角なメガネをかけた老人のために、透明人間にされてしまったんだ。そして、はだかにされて、ここへ、とじこめられたんだよ。」  いまにも泣きだしそうな、かなしい声でした。捜索隊の人々は、手に手に懐中電灯を照らしていましたが、それは青白い、よわい光で、くらやみをはらいのける力はありません。そのくらやみの中から、すがたの見えぬ少年の、かなしげな声だけが、聞こえてくるのです。 「ぼくたちは、この地下道の中を、ぜんぶしらべたが、そんな老人はどこにもいなかったよ。だけど、なんだか、目に見えないやつが、いくにんもいるような気がするんだ。」  小林君が言いますと、大友君の声が、それをひきとって、 「じゃ、それは一号から三号までの透明人間だよ。一号というのは、世間をさわがせた、あの透明怪人で、二号と三号は、まだ、そとへ出ることを、ゆるされていないんだ。その三人が、目に見えないのをさいわいに、この穴の中に、のこっているのかもしれないよ。」 「フーン、すると、きみをまぜて、四人も透明人間をつくったんだね。いったい、そんなにたくさん、目に見えない人間を、つくって、どうするつもりなんだろうね。」  黒川記者が、小林君の横から口だしをしました。大友君の声が、それに答えます。 「ああ、黒川さんですね。四角なメガネの老人は、おそろしいことを、考えているんですよ。何千、何万という透明怪人をつくろうというのです。そうすれば、どんなことだってできる。警察も軍隊も、何もおそろしいものがない、だれにもまけやしないと言うのですよ。ぼくはそれをきいて、びっくりしてしまいました。」  黒川記者も、中村係長も、小林少年も、警官たちも、しばらくは口もきけませんでした。透明怪人の大集団というものが、大友少年が考えるいじょうに、おとなたちの胸にこたえたからです。もし、そういう透明軍ができたら、原子ばくげきよりも、もっとおそろしいことがおこるのではないかと考えたからです。  警察はひとりの透明怪人にさえ、なやまされていたのです。それが十人になり、百人になり、千人になり、万人になることを思うと、ゾーッと心のそこが、つめたくなるのでした。まるで、こわい夢を見ているような、いやな気持ちです。  中村係長は、そんなことになっては、たいへんだと思いました。日本だけではない、世界じゅうの人が、ふるえあがるような、おそろしいことになる。いまのうちに、はやく怪老人をとらえて、その発明をぶちこわしてしまわなければ、と考えるのでした。 「アッ、ここに、だれかいる。」  そのとき、とつぜん、黒川記者のさけび声がきこえました。大友少年のとじこめられている鉄ごうしには、出入り口のひらき戸があって、そとから大きな錠がかかっているのですが、黒川記者は、ちょうど、そのひらき戸の前に立っていたのです。 「だれかいる。」と言う声をきくと、三人の警官がそこへ、かけよりました。しかし、まにあいませんでした。こうしになった鉄の戸が、ガチャンとひらいて、また、ガチャンと、しまってしまいました。 「透明怪人だッ。いま、透明怪人が、この戸をひらいて、中へはいったのだッ。」  黒川記者がさけびました。そこには、透明怪人の第何号かがしのびよっていたのです。そして、あいかぎで錠をひらいて、鉄ごうしの戸をひらき、牢屋の中へ、はいっていったのです。  すると、そのとき、鉄ごうしの中から、 「だれだッ。アッ、何をするんだッ。」 と言う、大友少年のさけび声が、聞こえました。いま、はいった透明怪人が、大友君をどうかしているのです。 「大友君、どうしたんだ。そこに、だれがいるんだ。」  中村係長が、大声でどなりました。そして、三人の警官の懐中電灯が、鉄ごうしの中を、あちこちと、照らしました。しかし、何も見えません。そこは、まったくのからっぽなのです。そのからっぽのところから、「ハッ、ハッ。」と言う、苦しそうな人間の息づかいが聞こえてきます。ひとりではなく、ふたりのちがった、息づかいが、かさなりあって、聞こえるのです。 「大友君、へんじをしたまえ、どうしたんだ。何がおこったんだ。」  係長がもう一度、どなりました。 「大友君!」「大友君!」  小林君とふたりの少年も、声をかぎりに、さけびました。  しかし、二つの息づかいは、ますます、はげしくなるばかりです。大友少年と、もうひとりの透明人間とが息をきらして、とっくみあっているようです。二ひきの大きなクラゲが、やみのなかで、もつれあっているのです。  そのとき、大友君の苦しそうな、しわがれ声が、きこえてきました。 「アッ、ちくしょう……、こいつ、こいつは、第一号だッ……。小林君……、第一号の怪人が、ぼくを……ぼくを、つかまえて、どっかへ、つれていこうとしているんだッ。」  あいてに口をおさえられるのを、ふりはなし、ふりはなし、さけんでいるような、とぎれとぎれの声です。 「アッ、たすけて、たすけて……。」  そのまま、ムーンと口をふさがれたように、声が消えてしまいました。 「大友君、いま、たすけてやるから、しっかりしろッ。」  中村係長は、さけびながら、鉄ごうしの戸のそばへ、かけよりました。  しかし、まにあわなかったのです。アッと言うまにつむじかぜのようなものが、サーッ、とふきすぎました。鉄ごうしの戸が、中からパッとひらいたのです。そして何か大きな、やわらかいクラゲのようなものが、その前に立っていた黒川記者をつきとばして、くらやみの中へ、逃げさりました。  黒川記者は、そのいきおいに、思わずうしろによろめき、そこにいたひとりの警官に、ぶっつかりました。そして、ふたりは、かさなりあって、たおれてしまったのです。  中村係長と小林少年が、そのそばにかけよります。 「黒川君、しっかりしたまえ、どうしたんだ。」 「逃げた。あっちだ。透明怪人が、大友君をかかえて、ぼくをつきとばして、逃げたんだ。早く、おっかけてください。」  係長をさきにして、みんなが、黒川記者のゆびさす方角へ、懐中電灯をふり照らしながら、かけだしました。  しかし、あいては目に見えないやつです。それに、すみずみは、やみにとざされた洞窟の中です。警官たちが、いくらあせっても、もう、まにあいません。いくらさがしても、ついに透明怪人はみつかりませんでした。 古井戸の底  捜索隊の人々は、洞窟の中の部屋という部屋を、さがしまわって、入り口のところまでもどってきました。その入り口の穴には、ほそびきをたてよこに、はりめぐらして、透明怪人が、逃げだせないようにしてあるのです。そして、穴のそとには、三人の警官が、見はりをつづけていたのです。 「きみ、異状はなかったかね。」  中村係長が、穴のそとの警官に、声をかけました。 「はあ、異状ありません。」 「このほそびきは、すこしも動かなかったのだね。」 「はあ、動きませんでした。」  もし、透明怪人が、ここを通って、逃げたとすれば、かならず、ほそびきが動くはずです。それが動かないというのですから、怪人はここを通らなかったと考えるほかはありません。では、あいつは、大友少年をかかえたまま、まだ洞窟の中に、ひそんでいるのでしょうか。 「ふしぎだなあ。あれほど、さがしても、どこにも、人のいるけはいはなかった。いったい、どこへかくれたんだろう。」  係長は、くやしそうに、つぶやきました。すると、そばにいた黒川記者が、小首をかしげながら、言うのです。 「中村さん、ぼくは、ふっと、いま思いついたんですが、ひょっとしたら、この入り口のほかに、もう一つ、ひみつの出入り口があるんじゃないでしょうか。用心ぶかい悪人が、一方口のふくろみたいな中に、安心して住んでいるはずがありません。きっと、もう一つ、ぬけ道があるんですよ。怪老人もそこから、逃げだしたとすれば、つじつまが、あうじゃありませんか。」 「ウン、そういうことも考えられるね。しかし、あれほど、さがしたんだからなあ、ぬけ道があれば、気がつくはずだが。」 「さがしかたが悪かったのですよ。この入り口から、逃げなかったとすれば、あいつは、まだ穴の中にいるか、それとも、べつの出入り口があるか、二つに一つです。いずれにしても、もう一度、さがしましょう。」  そこで、人々は、また洞窟の中へ、ひきかえすことになりました。そして、懐中電灯をふり照らしながら、もう一度、部屋から部屋をあるきまわるのでした。 「アッ、中村さん、黒川さん、ちょっと、ここへきてください。」  小林少年が部屋のすみのほうから、おしころしたような声で呼びました。そこは、れいの化学実験室なのです。  中村係長と黒川記者が、かけつけてみると、小林君は一つのおしいれの戸をあけて、その中を懐中電灯で照らしていました。おしいれには、木箱や、あきびんなどが、ゴタゴタいれてあって、それが、だれかに、ふみあらされたように、ころがったり、われたりしているのです。 「あれを、ごらんなさい。」  小林君は、懐中電灯の光を、正面のかべにあてました。そのかべには、ふとさが一センチもあるような大きな鉄のくぎがたくさん、うちこんであるのです。 「あのくぎは天井にのぼるための、足場じゃないでしょうか。」  小林君は、そう言って、懐中電灯を、だんだん天井のほうにむけました。すると、天井板の一枚が、すこしはすになって、すきまができているではありませんか。 「ね、わかったでしょう。ぼく、のぼってみます。」  小林君は、懐中電灯をポケットにおしこみ、大くぎに手と足をかけて、天井によじのぼりました。そして、すきまのできている板を、グッとおすと、板は、わけなくひらいて、そこに四角な大きな穴ができたではありませんか。  小林君は、ポケットの懐中電灯をとりだして、その穴の上のほうをしばらく照らしていましたが、やがて、「アッ。」と、うれしそうな声をたてました。 「やっぱり、ここが出口ですよ。大きな穴が、ずっと上のほうまで、つづいています。そして、鉄ばしごが、かかっているのです。」  それは、ちょうど古井戸のような、ふかい穴で、その穴の一方に、まったての鉄ばしごが、とりつけてあるのでした。つまり、おしいれの天井が、古井戸のそこにあたるわけです。 「よし、小林君、その鉄ばしごをのぼってみよう。ぼくもきみのあとから、ついてゆくよ。中村さんも、いらっしゃい。」  黒川記者は、そう言って、おしいれの中へはいってきました。  小林君は、その声にはげまされて、鉄ばしごにつかまると、まっくらな古井戸の中を、一だんずつ、用心しながら、のぼってゆきました。黒川記者や中村係長も、そのあとにつづきます。  鉄ばしごを二十だんものぼると、あたまがつかえて、もう、すすめなくなりました。 「おや、ここで、ゆきどまりになってますよ。」  小林君がためらっていますと、黒川記者は下から懐中電灯を照らしながら、 「そんなはずはない。きっと、そこにふたがあるんだよ。グッとおしあげてごらん。」 「あ、やっぱり、そうです。ひらきますよ。」  それは鉄板でできた、重いふたでした。それを力まかせにおしあげると、上のほうから、パッと、まぶしい光がさしてきました。古井戸の口は、がけの上の草の中にひらいていたのです。鉄板のところから、地上までは、五メートルほどしかありません。小林君たちは、そのうちがわの、でこぼこの石がきに足をかけて、なんなく、そとに出ることができました。 「フーン、うまく考えたな。古井戸と見せかけたひみつの出入り口なんだよ。そとからのぞいても、いまの鉄板がしまっているから、それが井戸のそこのように見える。その下にあんな通路があるなんて、だれも気づかないからね。」  黒川記者が、感心したように、つぶやきました。  怪老人は、ここから逃げさったのに、ちがいありません。透明怪人たちも、ここから出ていったのです。大友少年をかかえて、あの鉄ばしごをのぼったとすると、怪人第一号は、よほどの力のつよいやつなのでしょう。  中村係長は、そのへんに、怪老人や透明怪人の足あとでも、のこっていないかと、さがしまわりましたが、雑草がいちめんにはえていて、何もみつかりません。かれらがどの方角に逃げたかも、まるで、けんとうが、つかないのでした。  捜索隊は、ただ怪人のすみかを、発見したというだけで、あいてをとらえることもできず、大友少年をすくいだすこともできず、手をむなしくして、引きあげるほかはなかったのです。  中村係長は、洞窟の入り口と、古井戸のそとに見はりの警官をのこして、ひとまず、警視庁の捜査本部に帰ることにしましたが、その帰りの自動車の中で、黒川記者は、係長の耳に、こんなことをささやくのでした。 「中村さん、これは警視庁はじまっていらいの、大事件ですよ。日本じゅうの警察官が、力をあわせても、たりないほどの、おそろしい大敵ですよ。それにつけても、ぼくは、ある人物を思いだしますね。もし、その人物が警察をたすけて、はたらいてくれたら、ひょっとしたら、あいつを、やっつけることが、できるかもしれません。」 「それは、だれだね。」 「明智小五郎です。いよいよ明智先生の出る幕ですよ。小林君にきいたら、明智さんは、何か、ほかの事件にひっかかっていて、手がはなせないのだそうですが、いまはもう、そんなことを言っているばあいじゃありません。ほかの事件なんか、ほうっておいて、警察のてだすけをすべきです。中村さんは、明智探偵とは親友じゃありませんか、捜査本部に帰ったら、すぐ明智さんを、呼ぶんですね。」 「ウン、それは、ぼくもまえから考えていた。よしッ、それじゃあひとつ、明智君の知恵をかりることにするか。」  中村係長は、心をきめたように、力づよく言うのでした。 明智小五郎  ここは明智探偵事務所の所長室です。かべいっぱいの本だなに、金文字の本がビッシリつまっています。その前の大きなデスクにむかって、名探偵明智小五郎がこしかけているのです。デスクの表面は、鏡のように、ツヤツヤして、明智の顔がうつっています。黒のせびろ、薄茶色のネクタイ、れいのモジャモジャの頭、西洋人のような、ひきしまった顔。  明智は、いま、デスクの上にある卓上電話の受話器を、耳にあてて、何か話しているのです。 「ウン、もうきみから話があるころだと思っていた。ぼくも透明怪人のことは、いくらか研究もしている。むろんお手だすけするよ。よろしい。それじゃあ、これからきみのほうへでかけよう。」  中村係長から捜査本部へ来てくれという電話だったのです。明智は話しおわって外出のしたくをはじめたのですが、三分もたったかと思うころ、卓上電話がまたしても、けたたましく鳴りひびきました。ふたたび受話器を耳にあてますと、それは公衆電話からの聞きおぼえのない、みょうにしわがれた声でした。 「明智事務所ですね。先生いるかね。」 「わたしが明智です。あなたは?」 「きみが、これからあいてにしようという男だよ。わかるだろうね。」 「オヤオヤ、すばやい挑戦ですね。きみは察するところ、洞窟の怪老人だね。」 「フン、さすがにわかりが早い。お察しのとおりだよ。ところで、きみは、いのちがおしくないのかね。」 「ハハハハハ、脅迫ですか。そいつは、ぼくにききめがありませんよ。」 「あくまで戦うというんだね。」 「戦うのではない。きみのひみつを、あばくのだよ。それも、あまり遠いことではない。」 「ハハハハハ、はないきがあらいね。だが、明智君、おれはおどかしで言っているんじゃない。ほんとうにやるんだぜ。きみはかたわものにされてしまうかもしれない。殺されるかもしれない。いや、もっとおそろしいめにあうかもしれない……。きみのような、すぐれた人物が、この世から消えてしまうのは、まったくおしいのでね、おれは忠告するんだよ。どうだ。明智君、しばらく手をひいて、ようすをみる気はないか。」 「ハハハハハ、そんなことを、いくら言ってみても、むだだよ。ぼくはいそがしいんだ。じゃあ、やがて、どこかでお目にかかることにしよう。」  そのまま受話器をおこうとすると、あいての、おそろしいのろいのことばが、爆発するようにひびいてきました。 「うぬ、後悔するな。地獄の責苦をみせてやるぞ。死ぬよりもおそろしいめに、あわせてやるぞ……。」  明智はそれを聞きながして、ニッコリわらいながら、受話器をかけました。 秘密室  明智は電話をきると、しばらく考えていましたが、やがて、デスクの上のベルのボタンをおして、お手伝いさんを呼びました。そして、 「文代に、ちょっとここへくるように。」 と、言いつけました。文代というのは、明智探偵のわかい美しいおくさんの名です。  文代さんは、もと名探偵の助手をつとめていたのですが、『吸血鬼』という事件で、いろいろ、てがらをたて、その事件が解決されたときに明智と結婚したのです。『虎の牙』の事件でも、怪人二十面相と知恵くらべをして、まけなかったほどの、しっかりした人です。 「ご用ですの?」  その文代さんがドアをあけてはいってきて、明智のそばに近づきました。空色の洋装がよくにあって、まゆがこく、目の大きい、美しい人です。 「いよいよ、透明怪人の事件を、てがけることにしたよ。で、これから、ぼくは警視庁の中村君のところへいくのだが、出ようとしていると、透明怪人の首領から、電話がかかってきた。小林君が言っていた、れいの四角なメガネをかけた怪老人だよ。」 「まあ、それで、なんて言いますの。」 「手をひけ。でないと、いのちがあぶないぞ……。きまり文句さ。」  文代さんは、名探偵のおくさんですから、そういう、こわい話をきいても、びっくりするようなことはありません。 「でも、あいてには、目に見えない手下が、ついているんですから、ようじんなさらないと。」 「ウン、ぼくも今それを考えていたのさ。こんどのやつは、よほど手ごわいらしいからね。げんに、こうして話しているあいだにも、透明人間が、この部屋にしのびこんで、立ち聞きをしているかもしれない。目に見えないやつだから、すこしもゆだんができないのだよ。だから、きみとの話も、ふつうの声では、いけない。耳をおかし。」  文代さんは、明智の口のそばへ、顔を近づけました。明智はその耳に、何かボソボソと、ささやきます。  文代さんは、うなずきながら、その、ないしょばなしを、聞いているうちに、だんだん、まじめな顔になってきました。何か、ひじょうに、たいせつな、そうだんらしいのです。  話しおわると、明智はさきにたって、部屋を出ました。文代さんも、そのあとにしたがいます。階段をおりて、奥まった一つの部屋に、はいりますと、明智はその一方のかべに、ピッタリとせなかをつけて、立ちました。 「いいかい、ぼくのあとから、はいってくるんだよ。そうすれば、いくら透明人間だって、ついてくることはできやしない。」  明智探偵はかべのまえに立ったまま、右手をのばして、横にある柱の、あるばしょを、グッとおしました。  すると、たちまち、ふしぎなことが、おこったのです。なにかヒラヒラとひらめくような感じがしたかと思うと、アッというまに、明智のすがたが、かきけすように、見えなくなってしまいました。  しかし、文代さんは、それを見ても、すこしもおどろきません。自分も同じように、かべにせなかをつけて、立つと、また柱のどこかを、グッとおしました。すると、ヒラヒラとして、文代さんのすがたも、見えなくなってしまったのです。  明智探偵は、怪老人にまけないで、人間のからだを、透明にすることを、発明したのでしょうか、いや、そうではありません。そこのかべが、「がんどうがえし」になっていたのです。柱のかくしボタンをおしますと、電気じかけで、クルッと、うらがえしになって、そのかべに、くっついていた人間も、いっしょに、むこうがわへ、かくれてしまうのです。そして、その中に、だれもしらない、秘密室があったのです。  明智探偵と文代さんは、その秘密室にはいって、何をしたのか、わかりません。それは、ずっとあとまで、読者諸君にもひみつにしておきます。  何をしたのかわかりませんが、二十分ほどすると、ふたりはまた、かべの中から、すがたを、あらわしました。かべが、二度、クルクルとまわって、明智と文代さんが、出てきたのです。 「では、警視庁へ行ってくるからね。」  明智探偵は、そう言って、部屋を、出てゆきます。文代さんはそれを玄関までおくりました。 名探偵の危難  明智探偵が玄関を出ると、いつも呼ぶ自動車が、おもてにまっていました。運転手も顔みしりの男です。明智が客席に腰をおろして、「警視庁。」と、命じますと、車はすぐに走りだしました。  町かどを三つほど、まがりますと、両がわに塀のつづいた、さびしい屋敷町に、さしかかります。その屋敷町を半分ほど通りすぎたとき、とつぜん、すぐ目のまえの、横町から、一台の自転車が、飛びだしてきました。ふしぎなことに、その自転車には、だれも乗っていないのです。ただ自転車だけが、ひじょうないきおいで、パッと、飛びだしてきたのです。  運転手は、あわてて、ブレーキをふみましたが、まにあいません。明智の自動車は、おそろしい音をたてて、その自転車の横っぱらに、ぶっつかりました。はねとばされた自転車は、パッと宙に飛びあがり、地面におりたときには、フレームも車輪も、グニャグニャにまがっていたのです。  自動車の前部にも、ひどい傷ができ、どこか機械がいたんだらしく、そのまま、動かなくなってしまいました。  明智は、自動車がきゅうにとまったために、前にのめって、あぶなく、顔をぶっつけそうになりました。けがはありません。  運転手は自動車をおりて、自転車の飛びだしてきた横町をのぞきました。だれも乗っていない自転車が、ひとりで、はしってきたのが、ふしぎでしようがなかったからです。  ところが、ますますふしぎなことには、その横町には、自転車のぬしらしい人は、だれもおりません。ただ、ずっとむこうのほうから、ボロボロにやぶれた服を着た、こじきのような、三十歳ぐらいの男がフラフラとあるいてくるのが、見えるばかりです。 「オイ、この自転車、きみが乗っていたのか。」  運転手は、そのこじきが、近づくのをまって、どなりつけました。 「おれじゃねえよ。」  こじきは、けげんな顔をしてこたえました。 「へんだな。きみのほかに、だれもいないじゃないか。きみは、この自転車が、走っているのを見なかったか。」 「見たよ。あっちから、見ていた。」 「じゃあ、自転車に乗っていたやつは、どこへ行ったんだ。むこうへ逃げたのか。」 「いんや。逃げないよ。はじめから、いなかったんだ。」  こじきは、みょうなことを言いました。 「いなかったって? それじゃどうして自転車が走れるんだ。」 「だれも人はのっていないけれど、自転車は、ひとりで、走っていた。へんなこともあるもんだと、おれもふしぎに思って見ていたんだ。」  それをきくと、運転手はゾーッとしました。そして、思わず、うしろをふりむくと、そこに自動車から出てきた明智探偵が立っていました。ふたりは、目を見あわせて、うなずきあいました。この運転手は、むろん透明怪人のことを知っていたのです。また、明智が警視庁へいくのも、その事件にかんけいがあることをさっしていました。 「それじゃ、いまの自転車には、透明怪人が乗っていたんですね。そして、この横町で飛びおりて、わざと先生の自動車に、ぶっつからせたのですね。」  運転手は、おびえた顔で、明智をみつめました。名探偵は、それにたいして、かるくうなずいたまま、何も言いません。内心では、さっき電話をかけてきたばかりの怪老人が、もうこんないたずらをはじめたすばやさに、おどろいていたのですが、そういう顔色は見せませんでした。  透明怪人が乗っていたのだとすると、あいては目に見えないやつですから、おっかけることも、とらえることもできません。運転手は、しかたがないので、こじきにてつだわせて、こわれた自転車を、道わきによせ、自動車の前部の機械をしらべていましたが、チェッと舌うちをしながら、 「かわりの車を呼んでまいりましょう。きゅうには、なおりそうもありません。」 とあきらめたように、言うのでした。  ちょうどそのとき、むこうから、一台の自動車が徐行してきました。どこかへ客をおくった帰りらしく、「空車」というふだが出ています。 「先生、うまいぐあいに、空車がきましたよ。あれにたのみましょう。」  運転手が、その自動車を呼びとめてくれたので、明智は、なんの気もつかわず、それに乗りこんでしまいました。さすがの名探偵も、まさかあんなことが、おころうとは、夢にも思わなかったのです。  その自動車は、タクシーにしては、すこし、りっぱすぎるようでした。そとから見たのでは、そうでもありませんが、中の腰かけなどは、あたらしいきれで、はってあって、そのかたちも、どことなく、ふつうの自動車とちがっていました。  行くさきをつげると、その自動車は、おそろしい速力で、走りだしました。いくつか町かどをまがってゆくうちに、あたりのようすが、だんだんさびしくなり、いつのまにか、広い原っぱにさしかかっていました。 「おい運転手君、道がちがやしないかい。警視庁へゆくのにこんな原っぱは通らないはずだが。」  明智が声をかけますと、運転手は、むこうをむいたまま、みょうな笑い声をたてました。 「エヘヘヘ……、今ごろ、気づいたのかね。名探偵にしちゃあ、すこしかんがにぶいですね。」  そして、自動車がとまったかと思うと、運転手はグーッとうしろをふりむき、黒いピストルのつつ口が、明智の胸にむけられました。しかし、それよりも、もっとおそろしいものが、こちらを、じっとにらみつけていたのです。さすがの明智も、それをひとめ見たときには、思わずゾッとしないではいられませんでした。  運転手の顔は、ろう人形だったのです。二つの目が黒いうつろになって、すきとおるように青白い、西洋人の顔をしたろう仮面だったのです。  タクシーと見せかけた、この自動車は、じつは怪老人の車でした。明智の自動車に自転車をぶつからせて、動けなくし、こまっているところへ、からのタクシーを通りかからせ、しぜんに、明智がこの車にのるように、しむけたのです。名探偵はまんまと、怪老人の計略にかかったのです。  しかし、明智はべつにうろたえるようすもなく、じっとクッションにもたれて、ろう仮面をみつめていました。ちょっとでも、すきがあれば、ぎゃくに、あいてを、とっておさえようという考えなのでしょう。  ところが、そのとき、またしても、ふしぎなことがおこりました。  明智がもたれているクッションのせなかが、グーッと前のほうへ動きだしたのです。びっくりして、ふりむくと、クッションが動いてできたすきまから、ビックリ箱の人形のように、一つの人間の顔がヒョイとあらわれたではありませんか。しかも、その顔が、やっぱり、あのぶきみなろう仮面だったのです。ろう仮面といっしょに、一本の手がヌーッと出て、それがピストルをにぎっていました。そして、そのピストルの先が明智のせなかに、おしつけられたのです。  敵はふたりでした。しかも、ふたりともろう仮面の透明怪人です。ひとりは前の運転席から、ひとりはクッションのうしろから、それぞれ、ピストルをつきつけているのです。このふたりのろう仮面は、たぶん怪老人がつくった透明人間第一号と第二号なのでしょう。  さすがの名探偵も、もうどうすることもできません。さけんでみても、あたりに人かげもない、広い原っぱです。手むかいすれば、前とうしろから、ピストルのたまが、飛びだします。こうなっては、ただじっとして、敵のするままに、まかせるほかはありません。 「エヘヘヘヘ……、探偵さん、おれたちの首領が、しんせつに、電話で注意してやったのに、言うことをきかなかった天ばつだよ。首領の知恵には、さすがの探偵さんも、かなわなかったねえ。かわいそうに、もう手も足も出ないねえ。エヘヘヘヘヘ……。」  運転席のろう仮面が、またしても、いやな笑い声をたてました。しかし、笑っているのは声だけで、ろうでできた顔は、キョトンとした表情で、すこしも笑わないのです。それが、いっそうぶきみな感じでした。  うしろのやつは、明智のせなかに、ピストルの先をおしつけたまま、じっとしていましたが、運転手に化けたやつは、やがて、運転席とのさかいを、またぎこえて、こちらへはいってきました。そして、青白いろう仮面が、明智の目の前に、グーッと近づいてきたのです。 「ちっとばかり、きゅうくつなめにあわせるよ。なあに、すこしのあいだの、しんぼうだ。」  そう言ったかと思うと、明智探偵の目の前が、まっくらになってしまいました。黒布で目かくしをされたのです。それから、ほそびきのようなものが、からだにグルグルまきつけられるのを感じました。そして、そのほそびきが、だんだんつよくしまってきて、手も足も、まったく動かせないようになりました。ああ、名探偵明智小五郎は、ついに、敵のとりことなってしまったのです。 透明怪人第五号  目かくしをされてしまったので、それからあとのことは、ただ、からだで感じるだけでしたが、自動車は、ふたたび動きだし、二十分も走って、どこともしれず、とまりました。そして明智探偵のからだは、ふたりの透明怪人によって、自動車から、かつぎだされ、広いたてものの中に、つれこまれ、長い廊下を通って、とある部屋の、大きな安楽イスの中へ、ほうりだされました。  ふたりの透明怪人は、そのまま、部屋を出ていったらしく、しばらくシーンと、しずまりかえっていましたが、やがて、何者かが、近づくけはいがしたかと思うと、目かくしの黒布が、パッと、とりのけられました。 「ウフフフ……、明智君、とんだめにあったねえ。わしは、一度、きみにあいたいと思っていた。だが、こんなに早く、あえるとは、ちょっと意外だったよ。」  それは、れいの怪老人でした。まっ白なあたま、胸までたれた白ひげ、ワシのように高い鼻、するどい目、その目には話にきいた四角なふちなしメガネが、キラキラと光っています。身にはころものようにダブダブした黒いガウンをまとい、両手をうしろにまわして、すこし前こごみに立っているすがたはいかにも、おくそこのしれない、老魔術師という感じでした。  部屋は広い洋室で、むかしはりっぱだったのでしょうが、いまは見るかげもなく、あれはてて、まるで空家のような、うすきみの悪い部屋です。テーブルとイスのほかには、なんの道具もなく、一方のかべに、むかしふうの大きな暖炉がついているのが、ただ一つのかざりでした。  怪老人は、明智のたおれこんでいる、安楽イスの前を、いったりきたりしながら、なおもしゃべりつづけます。 「わしはうそは言わん。電話でちゃんと警告しておいた。きみはそれをバカにして、警視庁へいこうとしたので、たちまち、こんなめにあったのだ。いまこそ、わしの力がわかったじゃろう。え、明智先生、なんとか言ったらどうだね。」  明智はだまって、老人をにらみつけていました。手も足も、グルグルまきに、しばられているので、ざんねんながら、どうすることもできないのです。なにを言われても、がまんしているほかはありません。 「明智君、きみはわしの大望を知っているじゃろう。それは人間をひとりずつ透明にしてゆくことだ。百人、千人、万人、透明人間の大集団をつくろうというのだ。まあ考えてみたまえ。まったく目に見えない人間の大集団が、日本じゅうを、いや、世界じゅうをあらしまわるのだ。天下無敵の透明軍だ。ああ、それを考えただけでも、わしはゾクゾクするほど、うれしくなる。」  怪老人は熱にうかされたように、とほうもないことを、しゃべりながら、明智の前を、あるきまわるのです。 「だが、いそがねばならぬ、うっかりしていると、きみのような、じゃまものが、あらわれるからね。まだわしは、四人の透明人間を、つくったばかりだ。第一号、第二号、第三号、第四号、この第四号は、きみも知っているとおり、子どもだ。大友という、なまいきな子どもを、透明にしてやった。  ところで、そのつぎの第五号はだれだと思うね。ウフフフ……、明智君、わかるかね、それは、ほかでもない、きみじゃよ。名探偵明智小五郎が、透明人間第五号になるのだ。すきとおった名探偵どのが、できあがるのだ。そして、きみは、このわしの手下になりさがるのだ。わかったかね。いや、きみばかりではない。透明人間第六号はだれだと思うね。第七号はだれだと思うね。中村係長も、黒川記者も、きみのかわいがっている、小林少年も、わしに手むかうやつは、かたっぱしから、透明にしてやるのだ。  ワハハハ……、ゆかい、ゆかい。わしの発明が、こんなゆかいなものだとは、今のいままで、気がつかなかったよ。オイ、明智先生、こわくはないかね。きみはもうすぐに、すがたがなくなってしまうのだよ。空気のように透明になってしまうのだよ。空気探偵、透明探偵、ワハハハ……、明智大先生も、こうなっては、かたなしだねえ、ワハハ……。」  怪老人は、おかしくて、たまらないと言うように、きちがいめいた笑いを笑いつづけるのでした。  ああ、われらの名探偵は、ほんとうに怪老人に、まけたのでしょうか。老人の魔手にかかって、透明にされてしまう運命なのでしょうか。明智は、老人にいくら笑われても、へいぜんとして沈黙をまもっています。なんだか平気すぎるようではありませんか。いざというときになって、老人をうちまかす自信があるとでも言うのでしょうか。  われらの明智小五郎は、おくそこのしれない知恵をもっているはずです。わたしたちの、まったく気づかない、どえらい計略があるのかもしれません。アッと言うような、最後の切り札を用意しているのかもしれません。 赤い道化師  お話かわって、警視庁の捜査本部では、中村係長、黒川記者、小林少年などが、明智探偵がくるのを、いまかいまかと、まっていましたが、いつまでまっても、明智のすがたが、あらわれません。  どうもおかしいというので、中村係長が、明智の事務所に電話をかけてみますと、探偵は一時間もまえに、自動車で、でかけたという答えでした。  係長がそれをつたえると、黒川記者と小林少年は、思わず、顔を見あわせました。 「探偵事務所から、ここまでなら、自動車で十五分もあれば、らくにこられる。へんだなあ、とちゅうで、何かあったんじゃないかなあ、ひょっとしたら、透明怪人が明智さんを、どうかしたんじゃあるまいか。」  黒川記者が、そう言うのをきくと、小林少年は、先生のことがしんぱいで、もうじっとしていられなくなりました。 「ぼく、事務所へいってきます。そして、先生をおくった自動車の運転手をしらべてみます。」と言って、いきなり、部屋から飛びだそうとしました。 「まちたまえ。きみひとりではしんぱいだ。ぼくもゆくよ。中村さんも、いっしょにゆかれてはどうでしょうか。」  黒川記者が係長の顔を見ますと、係長も、うなずいて、立ちあがりました。  それから、中村係長、黒川記者、小林少年の三人は、自動車に乗って、おなじ千代田区内になる明智探偵事務所へ、いそいだのですが、そのころは、もう、すっかり日がくれていました。 「よし、ここでとめて。ヘッド・ライトを消して、しばらく、まっていたまえ。」  中村係長が運転手に命じました。事務所の前までいかないで、わざと、遠くのほうで自動車をとめさせたのです。係長はいつも、そうするのがくせでした。このやりかたで、これまでも、たびたびうまい手がかりを、つかんだことがあるのです。  ところどころに、歯のぬけたように、あき地のある、まっくらな町を、三人は、くつ音をたてないようにして、しずかに、あるいてゆきました。  そのとき、へんなことが、おこったのです。  ゆくての、くらやみの中から、ポーッと、なんだか赤いものが、あらわれてきたではありませんか。  三人は思わず立ちどまって、そのほうをみつめていますと、その赤いものは、だんだん、こちらへ近づいてきます。近づくにつれて、かたちがハッキリしてくるのですが、それは、はでな道化服をきた、サンドイッチ・マンでした。  赤と白のだんだらぞめのダブダブの道化服、おなじだんだらぞめの、とんがり帽子、顔には、まっしろに、おしろいをぬって、りょうほうのほおに、赤い丸がかいてあります。胸とせなかには、どこかの商店の、大きな広告板をかけています。  この人通りのないさびしい屋敷町に、しかも、まっくらな夜、サンドイッチ・マンがあるいているのは、じつに、へんな感じです。ところが、もっとふしぎなことには、その赤い道化師が、フラフラと、中村係長の前に、近づいたかと思うと、いきなり、一枚の広告ビラを、係長の目の前に、つきだしたのです。  係長は、あっけにとられて、道化師をにらみつけていましたが、ふと考えなおして、つきつけられた広告ビラをうけとりました。すると、道化師は、そのまま、どこかへ、たちさってしまいました。赤い道化服が、やみのなかへ、とけこむように、消えていったのです。  中村係長は、そのへんの街灯の下までいって、広告ビラを読んでみました。  それは、印刷した広告ではなくて、ペンで書いた手紙のようなものでした。 明智小五郎は、いま、あるところで、透明人間にされている。名探偵のからだは、こく一こくと、ガラスのように、すきとおってゆくのだ。じゃまをするやつは、みな透明人間にされるんだぞ。きさまたちも、気をつけるがいい。 「あいつを、おっかけるんだ。いまの道化師を、とっつかまえるんだ。」  中村係長は、きちがいのようにどなって、もと来たほうへかけだしました。黒川記者と小林少年は、わけはわからぬけれども、そのあとにしたがいます。走りながら、係長はビラの文句を、ふたりにしらせました。 「それじゃ、やっぱり、先生は透明怪人に、どっかへ、つれてゆかれたのですね。」  小林君が、走りながら、さけびました。 「そうだ。それに、いまの道化師も、透明怪人だったかもしれない。中村さん、いまのやつの顔を見ましたか。目が黒い穴だったでしょう。顔がちっとも動かなかったでしょう。あれはろう仮面ですよ。ろう仮面におしろいを、ぬったのですよ。」  黒川記者も、走りながら、息をきらして、さけびました。  ヘッド・ライトをけした、自動車のそばまで、もどって、のぞいてみますと、運転手のすがたが、見えません。どこへいったのでしょう。三人は立ちどまって、あたりを見まわしました。 ふしぎな早わざ  すると、むこうの町かどに、運転手が立っているのに、気づきました。かれは、こちらにむかって、手まねきをしているのです。運転手といっても、やはり警官なのですから、ふしぎな道化師が通りすぎるのを見て、あとをつけたのかもしれません。  三人がそこへ、かけつけますと、運転手は、町かどのむこうにある公衆電話のはこを、指さしながら声をひそめていうのです。 「あの中へ、逃げこみました。ごらんなさい、ここからでも、あいつのすがたが、見えます。」  公衆電話のそばに、街灯が立っているので、ガラスばりの中が、ボンヤリと見えます。そこに、道化師らしい人間のすがたが、うごめいているのです。 「あいてに気づかれないように、四方から、とりかこむんだ。」  中村係長のさしずで、黒川記者、小林少年、運転手は、はなればなれに、物かげをつたうようにして、四方から、公衆電話に近づきました。  小林少年は、リスのように、すばしっこいので、いちばん早く、公衆電話のそばにかけより、ガラスの窓から、ソッと中をのぞいてみました。  やっぱりそうでした、はこの中にいるのは、さっきの赤い道化師です。だんだらぞめのとんがり帽子をかぶったまま、すこし腰をかがめるようにして、こちらをむいています。あのまっしろな顔を、ガラスにくっつけるようにして、じっと、こちらをにらんでいるのです。  たしかにろう仮面です。二つの目は、黒い穴です。まゆも口もすこしもうごきません。生きた人間の顔ではないのです。  ほかの三人も、そのときにはもう、公衆電話を三方から、とりかこんでいました。入り口のとびらの前に立ったのは中村係長です。  赤い道化師は、かんぜんに、ふくろのねずみとなりました。もうどんなことがあっても、逃げだすみこみはないのです。  中村係長は、ドアのとってに手をかけて、ひらこうとしましたが、どうしたわけか、びくとも動かないのです。公衆電話のドアに、かぎがかかるわけはありません。道化師が、せっぱつまって、ドアがひらかないような、さいくをしたのかもしれません。 「オイッ、ここをあけろ、きみはもう、逃げられっこないんだ。あけなければ、たたきやぶるばかりだぞ。」  係長がガラスの中へ、きこえるように、大きな声で、どなりました。  すると、道化師の顔が、フラフラッと、よろめくように、こちらへ、むきかわり、二つの黒い穴のような目が、ガラスごしに、じっと係長を見つめました。 「ウフフフ……、おれは逃げられるよ。逃げてみせるよ。たたきやぶってごらん。」  かすかな声が、ガラスの中から、聞こえてきました。道化師の口は、ろう仮面ですから、すこしも動きません。声だけが、もれてくるのです。  ふくろのねずみから、挑戦されたのでは、もうがまんができません。中村係長は、いきなり、体あたりで、ドアにぶっつかりました。ガチャンとガラスのわれるおと。あまりじょうぶでないドアはたちまち、ちょうつがいがこわれてしまいました。  それから、係長と運転手とが、こわれたドアを、そとへ引きだしたのですが、そのあいだにも、道化師はもとの場所に立ったまま、「ウフフフ……。」と、うすきみの悪い、笑い声をたてていました。  べつに、逃げだそうともしないのです。  いきなり、道化師にくみついていったのは、運転手の警官でした。かれは、おそろしい、いきおいで、とびついていったのですが、そのとたんに、「アッ。」とさけんで、公衆電話のおくへ、たおれこんでしまいました。  道化師は、着物ばかりで、からだがなかったのです。運転手は空をうって、たおれたのです。 「どうしたんだッ。」 「こ、こいつは、きものばかりです。」  運転手が、やっとおきなおって、赤い道化服を、ひっぱってみせました。  とんがり帽子の下にろう仮面、ろう仮面の下に道化服と広告板がくっついて、そのとんがり帽子は、公衆電話のはこの天井から、ひもでつるしてあったのです。今のいままで、しゃべったり、笑ったりしていたやつが、いっしゅんかんに、着物ばかりになってしまったのです。  なんという、ふしぎな早わざでしょう。こわれたドアを引きだしている、わずかのあいだに、透明怪人は、帽子と面と着物だけをのこして、逃げさってしまったのです。着物をぬいで、はだかになれば、目に見えない透明怪人ですから、もういくらさわいでも、おっつきません。たとえ、すぐそばにいたとしてもとらえることはできないのです。 「アッ、あっちだッ。あっちへ逃げたッ。」  黒川記者が、さけびながら、くらやみの中へ、走りだしていました。あとの三人も、おどろいて、そのあとにつづきます。 「エヘヘヘヘ……、はいちゃ、はいちゃ……。」  二十メートルもむこうの、やみの中から、透明怪人の声がひびいてきました。そして、その声は、ひとことずつ、かすかになり、消えるように、遠ざかっていきました。 「もう、おっかけても、むだだ。黒川君、あきらめよう。」  中村係長はそう言って、もとの公衆電話の前にもどりました。道化服などを、証拠品として、もちかえるためです。係長は、つるしてあるひもをきって、とんがり帽子と、仮面と、道化服をまるめて、こわきにかかえましたが、そのとき、ふと気がつくと、公衆電話のゆかに、一枚の紙きれがおちています。ただの紙きれではない。何か字が書いてあるようです。係長は、いそいで、それをひろいあげ、街灯にかざして、読んでみました。 明智夫人に気をつけるがいい。透明人間第六号は、あのうつくしい文代さんのばんだ。  係長のただならぬようすを、目ばやくみつけた小林少年は、そのそばによって、紙きれをのぞきました。そして、そのおそろしい文句を読みとると、しんぱいのあまり、いきなり係長のうでにすがりつきました。 「早く、はやく、おくさんがあぶない。はやく事務所へ……。」 のろいの影  それからすこしたって、明智探偵事務所の、広い応接間に、明智夫人文代さんをかこんで、中村係長、黒川記者、小林少年の三人が、思いおもいのイスにこしかけていました。その応接間は、道路に面した一階にあるので、窓のカーテンをしめ、電灯も大きな電気スタンドだけにして、わざと、部屋の中をうすぐらくしてあるのです。文代さんは、丸テーブルによりかかるようにして、なにか話しています。 「さっき、お電話があってから、わたくし、明智をおくった自動車の運転手を、ここへ呼んで、話をきいたのですが、明智がつれさられたことは、もう、うたがいありません。そのとき通りかかったタクシーというのが、悪者の自動車だったのです。」  そして、文代さんは、そのときのありさまを、くわしく話しました。 「その、あやしいタクシーの番号は?」  中村係長が口をはさみます。 「それが、ざんねんなことに、運転手は自分の自動車の修理に気をとられて、番号を見なかったと言うのです。」 「そうですか。とにかく、そのタクシーの色と型を、本庁へ知らせて、全管下に手配させます。」  係長は、すぐさま、卓上電話をとって、文代さんからタクシーの型と色を聞きながら、テキパキと手配の事務をすませました。そして、受話器をおいたときです。まちかまえていたように、電話のベルがなりだしました。  小林少年が、すばやく受話器をとって、耳にあてましたが、ちょっとあいての声をきいたかと思うと、小林君の顔色がサッとかわりました。そして、「へんな声です。聞いてください。」と、受話器を中村係長に、わたしました。 「オイオイ、何をグズグズしているんだ。文代夫人はいないのか。文代さんに話があるんだ。」  みょうな、しわがれ声が、ぶさほうにどなっているのです。 「きみはいったいだれだね。」  中村係長がしずかにたずねます。 「だれでもいい、文代さんがでれば、わかるんだ。早く文代さんをださないか。」 「きみの名を言わなければ、とりつぐわけにはいかんよ。名をなのりたまえ。」 「そう言うきみこそ、だれだ。明智事務所には、いま男はいないはずだが。」 「ぼくは警視庁の中村だ。さっき道化師のサンドイッチ・マンにもお目にかかった。おどかしの手紙もたしかに見たよ。」 「ウハハハ……、中村鬼係長か。透明怪人には、てこずっておるな。おれはその透明怪人のうみの親だよ。明智名探偵先生も、おれにかかっては、子どもみたいなもんじゃ。いま手術中だよ。あすはすっかり透明になるはずだ。ところで、おつぎのばんじゃが、わしは文代さんときめた。だんなだけ透明にしておくさんをひとりぽっちでのこしておいては、気のどくだからね。わかったかね。文代さんを、今晩のうちに、ちょうだいにゆく。鬼係長どのが、いくらがんばっても、こちらは目に見えない透明人間を使うのだからね。とても、太刀打ちはできやしないぜ。それじゃ、文代さんによろしく。あばよ。おっと、まってくれ。きみがあわててしらべないでもいいように、おしえておくが、この電話は渋谷の公衆電話だよ。おれのかくれがから、まるではんたいの方角まで、わざわざ電話をかけにやってきたのさ。それじゃ、鬼係長さん、あばよ。」  あいてはひとりで、しゃべって、そのまま電話をきってしまいました。言うまでもなく、れいの四角メガネの怪老人です。さすがの中村係長も、思うままにしゃべりまくられたかたちで、くやしそうにくちびるをかみながら、受話器をおきました。  いよいよ、文代さんがねらわれていることがわかったので、それから、文代さんをまもる方法について、相談がはじまりました。それには、小林少年がたえず文代さんのそばにつきそっていること、中村係長も黒川記者も、今夜は明智事務所にとまること、そのほか、本庁から三名のうでききの刑事を、電話で呼びよせ、家の中の見はりにつかせること、また警察に電話して、数名の巡査に、探偵事務所のまわりを、巡回させること、などをとりきめ、それぞれ電話をかけおわりました。 「おくさん、ごしんぱいなさることはありません。これだけ手配をすれば、まずだいじょうぶですよ。それにわれわれ三人はあなたのそばを、はなれないようにして、かならずおまもりします。」  係長が言いますと、きじょうな文代さんは、顔いろもかえないで、けなげにこたえました。 「ありがとうございます。これで、わたくしも、こころじょうぶですわ。でも、明智をたすけださなければなりません。自分のことより、そのほうがしんぱいなのです。」 「それもわかっています。捜査本部には、ぼくのほかにも、たくさんの係長がいます。名刑事がいます。それに東京じゅうの警察署が力をあわせているのです。きっと助けだしますよ。」  中村係長は文代さんをはげますようにつよく言いきってみせるのでした。  そのときです。  カーテンをしめきった窓が、いなずまでもさしたように、パッとあかるくなりました。その窓はおもての道路に面しているので、通りかかる自動車が、町かどをまがるときなどに、そのヘッド・ライトの光があたって、そんなふうにあかるくなることがあるのです。文代さんも小林君も、そのヘッド・ライトの光だろうと、気にもとめないでいましたが、どうしたわけか、まっ白な光は、窓を照らしたまま、じっと動かないのです。  へんだなと思っていると、やがて、その白くなったカーテンの上に、なにかもうろうとした影が、うつってきました。  おお、またしても、あのおそろしい怪物の影です。モジャモジャのかみの毛、ワシのような鼻、三日月がたにひらいた大きな口、透明怪人の横顔です。怪物のはだかの上半身が、ふつうの人間の三倍の大きさで、カーテンの上に、黒くうごめいているのです。 「エヘヘヘヘ……。」  ガラスのそとから、聞こえてくる、うすきみの悪い、あざけりの笑い。 「ちくしょうッ。」  ガタンとイスの音がして、黒川記者が立ちあがりました。そして、影のうつっているカーテンにむかって、弾丸のように飛びかかってゆきました。 第二の道化師  窓をひらいても、れいによって、影のぬしは何も見えません。黒川記者は舌うちしながら、席にもどるほかはありませんでした。  さて、その夜十時ごろになると、文代さんは寝室のベッドにはいり、小林少年はその左がわの自分の寝室へ、中村係長と黒川記者は、文代さんの部屋の右がわの客用の寝室へ、ひきとりました。三人の刑事は徹夜のかくごで、ふたりは裏庭に、ひとりは玄関に、がんばっています。  ただでさえさびしい屋敷町です。夜がふけるにつれて、遠くからの物音もとだえ、そのあたりいったいは、まるで大きな森の中へでもはいったように、しずまりかえっていました。  まよなかの十二時をすぎ、一時に近いころ、探偵事務所の裏庭のそとに、ちょっとわけのわからない、みょうな出来事がおこりました。  探偵事務所は、明智の住宅をもかねていて、一〇〇平方メートルほどの裏庭には、いろいろな木が美しくうえてあるのですが、ふたりの刑事は、よくしげったひのきのかげに、イスを持ちだして、それに腰かけ、木の枝のあいだから、四方に目をくばっていました。腰かけているばかりではありません。ときどき、そのうちのひとりが、イスから立って、塀のそとの道路まで出て見ることもあるのです。  裏庭と道路とのさかいには、ひくいコンクリート塀があり、そこに出入り口のくぐり戸がついているのです。塀のそとには街路灯が立っていて、それが庭の中までも、かすかに照らしています。  いま、ひとりの刑事が、イスをたちあがって、庭をよこぎり、そのとき、くぐり戸をひらいて、そとの道路に一歩ふみだしたのですが、出たかと思うと、ギョッとしたように、たちすくんでしまいました。  さびしい裏町のことですから、この夜ふけに、だれも通るものはないはずだと、思いこんでいたのに、見ると、すぐむこうの街路灯の柱のそばに、みょうなものが立っているではありませんか。それは、まっかな着物を着た、大きな人形のようなものでした。  刑事とその人形のようなものは、二十メートルほどへだてて、しばらくにらみあいをつづけていました。じっと見ていると、それは人形ではなくて、生きた人間、赤と白のだんだらぞめの道化服を着た人間であることが、わかってきました。 「アッ、あいつだ。きょうの夕がた、公衆電話の中で消えうせたという、あの道化師にちがいない。」  刑事は、とっさに、それをさとると、いきなり道化師にむかって、飛びかかっていきましたが、道化師のほうでも、そのときはもう、いちもくさんに、かけだしていました。ばかに足の早いやつです。  刑事は走りながら、呼びこをとりだして、ピリピリ……と吹きならしました。裏庭にいたもうひとりの刑事がそれをきいて、飛びだしてきましたが、さきの刑事とのあいだは、もう五十メートルもへだたっています。とてもおっつけるものではありません。  さきの刑事は、また逃がしてしまうのかと、ざんねんでたまりません。歯をくいしばって、死にものぐるいのスピードをだしました。しかし、あいてはそれよりも早く走るのです。そうして、町かどを三つほど通りすぎたときです。走っていた道化師が、何を思ったのか、ピッタリ立ちどまってしまいました。  見ると、むこうのくらやみの中に、怪物の目玉のような懐中電灯が光っています。それはふたりの制服巡査でした。このふきんの警戒にあたっていた巡査が、今の呼びこを聞きつけて、道化師のゆくてに立ちふさがってくれたのです。 「しめたッ!」刑事は心にさけびながら、いきなり道化師に近づくと、柔道の手で、みごとに、パッと、あいてを地面に投げたおし、その上から、馬のりになってしまいました。 「きさま、透明怪人だな、こんどこそ、もう逃がさないぞ。」  そして、道化師のろう仮面を、はがそうと、顔に手をかけたのですが、それはお面ではなくて、ほんとうの人間の顔であることがわかりました。 「おや、それじゃ、きさま、透明人間じゃなかったのか。」 「そんなもんじゃありません。チンドン屋の紅丸っていうものです。人ちがいです。わたしゃ、何も悪いことはしません。はなしてください……。」  くみしかれた道化師は、泣き声をたてて、わめきました。 「それじゃ、この夜ふけに、どうしてあんなところに立っていたんだ。」 「たのまれたんです。」 「たのまれた? だれに、何をたのまれたんだ。」 「だれかわかりません。三時間ほどまえ、道で行きあった紳士です。五千円札をくれました。そして、さっきのうちの、塀のそとに立っていろ。そこへおまわりさんが来るが、塀の中から人が出てきたら、いちもくさんに逃げだせというんです。それで五千円なら、うまい話だから、しょうちしたんです。」  懐中電灯でよく見ると、このチンドン屋は、いかにもまぬけな顔をしていました。五千円に目がくらんで、こんなつまらない役目をひきうけたというのも、まんざらうそではなさそうです。  しかし、もしこの男の言うのが、ほんとうだとすると、その紳士は、なんのために、そんなことをたのんだのでしょう。刑事は首をかしげました。 「ともかく、中村係長のところへ、ひっぱっていくことにしようじゃないか。これには、何かわけがありそうだぜ。」  あとからやってきた、もうひとりの刑事が、道化師に馬のりになっている刑事の耳に、ささやきました。  そこで、さきの刑事は、やっと立ちあがって、チンドン屋をおこしてやり、その手くびを、かたくにぎったまま、グングンと、もと来たほうへ、ひっかえしました。もうひとりの刑事とふたりの警官も、そのあとにしたがいます。  三百メートルあまり、もどって、探偵事務所の裏口に近づきますと、そこに黒川記者がまちうけていました。 「どうしたんです。なんだかさわがしいので、目をさまして、ここまで出てみたんだが。」 「ああ、黒川さんですか、こいつけしからんやつです。だれかにたのまれたと言って、そこのところに立っていたんですよ。夕がたの道化師のことを聞いているものだから、てっきり透明怪人だと思って、おっかけたんです。こいつ、ばかの足の早いやつで、大あせをかきましたよ。」  刑事は、いまの出来事を、すっかり話してから、 「やっぱり、一度、中村係長さんに、しらべていただきたいと思って、しょっぴいてきたのです。」 「ウン、中村さんは、よほどつかれていたとみえて、グッスリねこんでいる。だから、起こさないで、ぼくひとり出てきたんだが、それじゃ、中村さんを起こして、ここへ来てもらうことにしよう。」  黒川記者は、そう言って、裏庭のおくに、すがたをけしました。ところが、黒川記者が、うちの中にはいってみると、そこには、じつにおどろくべき、珍事がおこっていました。魔法使いの怪老人は、またしても、おそろしい魔法をつかったのです。 黒い一寸法師  お話かわって、こちらは明智夫人の文代さんです。みなにわかれて寝室にはいりましたが、こんやこそ、透明怪人が、自分をつれだしにくるのかと思うと、とてもねむる気にはなれません。昼間の服装のまま、ベッドによこたわって、まじまじとしていました。右がわの部屋には中村係長と黒川記者が、左がわの部屋には小林少年がいるのですから、何かあやしいことがあったとしても、声をたてれば、すぐたすけにきてくれると、安心はしていても、やはり、なんとなくしんぱいで、ねむってしまうことはできません。  そのとき、どこかの裏のほうで、ピリピリ……と笛の音がしました。警官のもっている呼びこのようでした。それは、刑事のひとりが道化服の男をみつけて、おっかけながら吹いた、あの呼びこだったのですが、文代さんはそれとは気づきません。しかし、何かおこったのではないか、透明怪人が、しのびこもうとしているのではあるまいかと、にわかに胸さわぎがしてきます。文代さんは、思わず、ベッドの上に、起きなおって、耳をすましました。  すると、呼びこの音があいずででもあったように、入り口のドアが、スーッと音もなくひらいたではありませんか。ギョッとして、見つめると、ひらいたドアのそとに、中村係長と黒川記者が、ものものしいようすで、立っていました。  文代さんが、びっくりして、何か、言おうとしますとふたりとも、指を口の前にたてて、「だまって。」という、あいずをしました。そして、一方の手で、しきりに手まねきをするのです。  文代さんは、なんだか夢を見ているような気持ちでした。いそがしく、手まねきされるものですから、ベッドをおりて、さいわい、昼間の着物をきていたので、そのまま、入り口のふたりに近づきました。 「ここにいてはあぶない。あんぜんなところへ、おつれします。おおいそぎです。あとで、わけはゆっくり話します。」  中村係長が、文代さんの耳に口をつけてあわただしく、ささやきました。そして、文代さんは、何を考えるひまもなく、ふたりに両手をひかれて、裏庭のほうへ、いそぐのでした。  ちょうどそのころ、裏のコンクリート塀のそとに、またしても、みょうなことがおこっていました。  ふたりの刑事は道化師をおっかけて、裏のくぐり戸を、あけはなしたままにしておいたのですが、そのくぐり戸を、何か小さな黒い影が、目にもとまらぬ早さで、すべりだすと、道化師が逃げたのとははんたいの方角へ、塀のかげをつたいながら、チョコチョコとすばしっこく、走っていくのです。  百メートルほど、走ると、そこの町かどに、一台の自動車がとまっていました。中には運転手がひとりいるばかりです。ヘッド・ライトは消してありますし、車内の電灯もついていないので、運転手のすがたも見わけられないほどです。  一寸法師のような黒い影は、手に四角なブリキカンのようなものを、さげていました。そして、自動車のうしろへ近づくと、黒い影は、車体の下へ、もぐりこむように見えましたが、それも、ほんのわずかのあいだで、やがて、自動車をはなれて、サッと、そばの電柱のかげに、身をかくしました。ふしぎなことに、そのときには、黒い影の手には、ブリキカンがなくなっていました。  一寸法師の影が、電柱のうしろに、かくれたかと思うと、探偵事務所の方角から、三人のおとなの影が、いそぎ足で近づいてきました。まん中にいるのは女のようです。それをふたりの男が、りょうほうからはさむようにして、あるいてくるのです。そして、自動車のそばによると、いきなりドアをひらいて、つぎつぎに、その中へはいってしまいました。  すると、自動車はエンジンの音をたてながら、スーッとすべりだして、見るみるうちに、やみの中へ、すがたを消していきました。ヘッド・ライトを消したままです。  それを見おくるようにして、電柱のかげから、さっきの一寸法師のような黒い影があらわれ、そのまま探偵事務所のほうへ、走りだしました。目にも見えない、すばやさで、チョコチョコと走って、たちまち、もとのコンクリート塀の、くぐり戸から、事務所の庭にはいっていったのですが、そのとき、ヒョイとふりむいた顔を、街路灯の光が、まざまざと、照らしだしました。それは、小林少年でした。リスのようにすばしっこい、少年探偵の小林君でした。  小林君は、あの自動車の下にもぐりこんで、何をしたのでしょう。また、小林君がさげていたブリキカンのようなものは、いったい、なんだったのでしょう。じつは、この小林君のふしぎな行動が、もとになって、少年探偵団の大活躍が、はじまるのですが、それは、もっとあとのお話です。  場面は一転して、こんどはやみの中に消えていった、怪自動車の内部です。その座席には、明智夫人の文代さんが、中村係長と黒川記者に、りょうほうから、はさまれて、腰かけていました。さっき、小林少年の目の前で、自動車に乗った三つの黒い影は、この人たちだったのです。  自動車が、走りだしたかと思うと、文代さんは、「アラッ!」と、するどいさけび声をたてました。そして、いきなり身もだえをはじめたのです。  むりもありません。自分をまもってくれるとばかり思っていた、中村係長と黒川記者が、おそろしいことをはじめたからです。  黒川は文代さんの首のうしろから、手をまわして、手ぬぐいのようなもので、文代さんの口のへんをしばろうとしているのです。声をたてさせないためです。また、中村係長は、文代さんが身うごきしないように、そのからだを、グッとだきすくめています。  ふたりの大の男が、りょうほうから、かかってくるのですから、かよわい文代さんは、どうすることもできません。たちまち、さるぐつわをはめられ、グッタリとなってしまいました。  いったい、これはどうしたことでしょう。文代さんをまもるために、探偵事務所にとまった、警視庁の捜査係長と、大新聞社の記者が、いまは、おそろしい敵になって、文代さんを、どこかへ、つれさろうとしているのです。このふたりは、怪老人の魔法に、かけられてしまったのでしょうか。そして、にわかに、怪老人の手下になってしまったのでしょうか。  黒川記者は、文代さんの口をしばってしまうと、座席から腰を浮かして、自動車のドアに手をかけました。 「じゃあ、いいね。たのんだよ。」  中村係長に、そう言いのこして、パッとドアをひらく。すると運転手は気をきかせて、自動車の速度をグッとゆるめる。それをまって、黒川記者はヒラリと、やみの中に飛びおりてしまいました。  こうして、文代さんは、どこともしれず、つれさられたのです。いったい、その行くさきは、どこだったのでしょうか。そして、中村係長と黒川記者は、どういうわけで、こんな悪事をはたらいたのでしょう。また、小林少年が、それと知りながら、文代さんを助けもせず、みょうなブリキカンのようなものを自動車の車体の下にとりつけたのは、そもそも、何を意味するのでしょう。  それらのひみつは、まだ、くらやみにとざされています。しかし、まもなく、すっかりわかるときがくる。それも、さして遠いことではありません。  さて、お話はまた一転して、その夜、べつの場所におこった、もう一つの、ふしぎな事件にうつります。 樋をはう人  ちょうど、文代さんが怪自動車にのせられ、どこともしれず、はこびさられていたころ、港区の南のほうの、焼けあとの原っぱにかこまれた、さびしい場所を、パトロールのおまわりさんが、ふたりづれで、巡回していました。 「このへんは、ちっとも家がたたないね。」 「ウン、管内でも、いちばんいやな場所だな。ことに、あすこに見える焼けビルは、なんだか、えたいのしれない建物だ。たえず住みてがかわっている。このへんでは、化けもの屋敷という、うわさがたっているほどだよ。」 「フーン、化けもの屋敷か。そういう家にかぎって、悪人に利用されるもんだ。」 「そうだよ。だからぼくは、あの建物には、いつもとくべつに注意しているんだ……。オヤッ、なんだか動いているぜ。ごらん、あの焼けビルのかどを、黒いものが、だんだん下へ、おりてくるだろう。」  ふたりはハッとして、そこに立ちどまってしまいました。  それは、焼けあとの原っぱに、黒い大入道のように、つったっている、三階建ての焼けビルでした。そとがわは、けしょうれんががはげおちたままの、きたない建物ですが、内部には手いれがしてあるらしく、なにかの会社の事務所になっていて、夜も小使いの一家が、そこにとまっているようすでした。  見ると、その建物の三階の窓がひらいて、そこから、はいだしたのでしょう。ひとりの男が、長い樋をつたって、だんだん下へおりてくるのです。この真夜中に、焼けビルの樋をはう男、じつにふしぎな光景です。ビルに住んでいる人が、樋などつたうはずはないのですから、さしずめ、この男はどろぼうとでも考えるほかはありません。  ふたりの警官は、あいてにさとられぬよう、ソッと、その建物に近づいていきました。樋をつたう男は、まるでかるわざ師のように、身がるに、スルスルとおりてきます。下に警官がまちかまえていることは、すこしも気づかないようです。  男は地面から二メートルほどのところで、パッと手をはなし、くさむらの上に、とびおりました。そして、ちょっと、よろめいたうしろから、ひとりの警官が、いきなり組みついていったのです。 「きさま、何者だ。ここのうちで、何をしたんだ。」  警官はあやしい男を、はがいじめにしてどなりつけました。 「シッ、声が高い。」  男はすこしもさわがず、まるで上役が部下をしかるようなちょうしで、警官をだまらせておいて、はがいじめにされたまま、いそいで建物のそばをはなれていくのです。  そして、百メートルも、あるいて、一軒のバラック建てのうちのかげまで、たどりつくと、あやしい男は、やあ、とふつうの声で、ものを言いました。 「や、しっけい、しっけい、おさわがせして、すまなかった。ところで、きみたちは、ぼくの顔を知らないかね。懐中電灯を持っているでしょう。それで、ぼくの顔を照らしてごらん。」  警官は、言われるままに、懐中電灯をつけて、男の顔を照らしてみました。そして、しばらく、みつめているうちに、何ごとか思いだしたようすで、一歩あとにさがり、ていねいなくちょうで言いました。 「もしや、明智先生ではありませんか。たしか本庁で、一度おあいしたことがあります。」 「そのとおりです。ぼくは明智小五郎です。」 「その明智先生が、いまごろ、どうしてこんなところに……。」 「いろいろわけがあるのです。ぼくが透明怪人の首領にさらわれたことは、もうきみの耳にもはいっているでしょう。じつはあのビルが悪人の巣窟なのです。」 「ああ、やっぱりそうでしたか。すると、あのビルの中には、透明怪人の一団がいるわけですね。」 「そうです。ぼくはやっとの思いで、窓からしのびだしたのですが、そのことがわかれば、やつらは逃げてしまいます。いそがなければなりません。しかし、あなたがたふたりだけでは、どうすることもできない。大いそぎで、警視庁の中村係長にれんらくしてくれませんか。係長にあったうえで、てはずをきめたいのです。」 「わかりました。それじゃ、ともかく、署までご同行ください。そこから、係長さんのお宅へ電話をかけましょう。わたしとしましては、署長にも報告しなければなりません。」  そこで、三人は、人通りのない深夜の町を、走るようにして、ほど遠からぬ警察署へと、いそぐのでした。 空家の怪  警察署から、警視庁に電話でといあわせますと、透明怪人事件のかかりの中村係長が、明智事務所にとまっていることが、わかりましたので、また、そこへ電話をかけ、中村係長はすぐに、かけつけてくることになりました。  まもなく、警察署長と明智探偵とが、まっているところへ、中村係長はふたりの刑事をつれて、自動車でやってきました。 「おお、明智君、ぶじだったか。よかった。よかった。で、あいつは、その焼けビルの中にいるんだね。」  中村係長は名探偵の手をにぎって、よろこびのことばをのべました。 「ぼくが逃げだしたことを、気づいたとすれば、おそらくもう手おくれだろう。しかし、すぐにあのビルを包囲してくれたまえ。むろん、ぼくが案内するよ。」  明智も係長の手をにぎりかえして、答えました。 「よし、出かけよう。だが、きみはその焼けビルの中で、おくさんにあわなかっただろうね。」 「え、おくさんって、文代のことかい。」  明智がびっくりしたように、係長を見つめます。 「うん、じつに申しわけないことをしたんだ。文代さんをさらわれてしまった。くわしいことは、あとで話すが、ぼくと黒川君と小林少年と、三人で文代さんをまもっていたんだが、何者かが、ぼくにねむりぐすりのはいったコーヒーをのませた。それでグッスリねこんでいるあいだに、文代さんのすがたが、見えなくなってしまった。そればかりじゃない。黒川君も小林少年も、すがたが見えない。ひょっとしたら、ふたりは文代さんのあとを追っているのかもしれないが、ぼくがでかけるまでにはかえってこなかった。ちょうどそのとき、見はりの刑事たちは、へんな道化師にさそいだされて、きみのうちの裏口をはなれていた。そのすきに文代さんをさらっていったのだ。」  中村係長は、にせものの中村係長と黒川記者が、文代さんを自動車でつれだしたことも、小林少年が、その自動車の下へ、ブリキカンをとりつけたことも、まだ知らないのです。 「ぼくはすこしも知らなかった。しかし、ぼくにあわせないように、あのビルのどこかへ、とじこめたのかもしれない。いそいでくれたまえ。文代をたすけださなければならない。」  明智は、さきに立って、警察署の玄関へ、かけだしていきました。  それから十分とたたないうちに、署長と中村係長にひきいられた警官隊が、焼けビルの中へ、ふみこんでいました。明智探偵は案内役として、まっさきにすすんでいます。  警官たちが、手に手にふり照らす懐中電灯の光が、小さな探照灯のように、まっくらな洋館のすみずみを、あかるくしました。しかし、人かげはもちろん、道具らしいものもない。空屋のような部屋ばかりです。  一階から二階、三階と、くまなくさがしまわりましたが、何もありません。だれもいません。三階建ての大きなビルの中は、まったくからっぽになっていました。すばやい怪老人とそのなかまは、このすみかをすてて、どこともしれず、すがたをくらましてしまったのです。  もうさがすところもないので、警官隊は一階におりてきました。明智はやはり、そのせんとうに立って、まっくらな廊下を、あるいていましたが、とつぜん、ふっと立ちどまって、まえのくらやみを、じっとみつめたかと思うと、やにわに、そのほうにむかって、かけだしました。  廊下のかどを一つまがると、そこはもう、しんのやみです。そのやみの中に、何か黒いものが、ヒラヒラと動いているのが、感じられます。明智はそれにむかって、とびついていきました。 「ワッ。」というような声がひびき、バタンとおそろしい音がしました。  明智をおって、かけつけた警官たちの懐中電灯が、いくすじも、パッと、そこを照らしました。明智が上になって、何か黒いものを、おさえつけています。黒いダブダブの外とうのようなものをきた人間です。そいつが、明智をはねかえそうとして、グッと顔をあげました。おお、四角なメガネ、白いあごひげ、怪老人です。悪魔の首領です。明智はみごとに、この大敵を、とっておさえたのです。  こちらには、おおぜいの警官がいます。もう逃げようとて、逃げられるものではありません。怪老人は、たちまち手じょうをはめられ、そのまま、ひったてられてしまいました。  怪老人はどうして、こんなへまをやったのでしょう。いくらも、逃げだすひまがあったのに、なぜビルの中にぐずぐずしていたのでしょう。そして、あいてが、いかに名探偵とはいえ、こんなに、やすやすと、つかまってしまったのは、なんだかへんではありませんか。  しかし、透明怪人の首領をとらえたうれしまぎれに、だれも、そこまでは気がつきません。すぐさま、中村係長のさしずで怪老人は自動車にのせられ、警視庁にごそうされました。さてこれから、いよいよ、なんとも形容のできない、ふしぎなことが、やつぎばやにおこるのです。 少年名探偵  そのあくる日、お昼すぎのことです。警視庁の調べ室には中村係長と、その上役の志野捜査課長と、明智小五郎とが、いっぽうの机をかこんで、イスにかけ、そのまえに、手じょうをはめられた怪老人が、やはりイスにかけて、うなだれていました。  朝からずっと、とりしらべているのですが、怪老人は何も答えないので、こんきくらべのような、かたちになって、お昼すぎまでも、にらみあいがつづいていたのです。 「きみは何かをまっていると言ったが、いったい、何をまつんだね。もういいかげんに、口をきいたらどうだ。」  捜査課長が、なんどもくりかえしたさいそくを、またくりかえしました。 「わしは明智さんに話がある。それをまっているのです。」  怪老人は目をつむったまま、ひくい声で答えました。 「明智さんは、ずっと、ここにおられるじゃないか。きみは、いったい……。」 「いや、まっているのは明智さんじゃない。もうひとりの人をまっているのです。しかし、わしは明智さんよりほかには、けっして白状しません。だから、明智さんは、席を立たないでさいごまで、ここにいてほしいのです。もし、明智さんが立ちされば、わしは何も言わないつもりです。」  捜査課長は、それをきくと、うんざりしたように、おしだまってしまいました。明智探偵も、そうまで言われては、部屋を出るわけにいきません。またしても、無言のにらみあいがつづきました。  そして、三十分もたったころ、入り口のドアがひらいて、ひとりの警官がはいってきました。警官は課長と係長に敬礼してから、明智のそばに近づき、 「明智先生、先生にあいたいと言って、小林という子どもが来ているのですが、あちらでおあいになりますか。」 と、たずねました。すると、明智が何も答えないさきに、怪老人がとつぜん口をひらいて、 「小林君を、ここへ通してください。わしがまっていたのは、あの少年です。」 と、どなるように、言いました。 「いや、それはこまる。ぼくは、小林君に、ないみつの話があるんだ。ちょっと、しつれいします。」  明智がそう言って、立ちあがろうとするのを、なぜか、中村係長が、おしとどめました。 「明智君、席を立たないでください。でないと、とりしらべが、うまくいかない。きみ、かまわないから、小林少年を、ここへつれてきたまえ。早くするんだ。」  警官が一礼して立ちさると、まもなく、ドアのそとに、おおぜいの足音がして、そこにパッと花がひらくように、思いもよらぬ人があらわれました。 「アッ、おくさんでしたか。よくごぶじで……。明智君、よろこびたまえ。小林君が、きみのおくさんをたすけだしてきたらしいよ。」  中村係長が明智の肩をたたきました。  部屋の入り口には、美しい明智文代さんが立っていたのです。小林少年と四─五人の中学生が、文代さんをまもるように、そのりょうがわにならんでいます。  明智は文代さんと顔を見あわせて、かるく、うなずいてみせました。 「小林君、ここへ来て、報告したまえ。どうして、おくさんをみつけだしたのだ。」  中村係長のことばに、小林君は「ハイ。」と答えて、二─三歩まえに出ました。そして、ゆうべからのことを、かいつまんで、ものがたるのでした。 「ゆうべ、ぼくは、おくさんの寝室のとなりにねていたのですが、真夜中に、ふと気がつくと、おくさんの部屋のまえで、ボソボソと人の声がしているので、ドアをほそめにあけて、ソッとのぞいてみますと、中村係長さんと新聞記者の黒川さんとが、おくさんを、どこかへ、つれだそうとしているところでした。  ぼくは、なんだかへんだと思ったので、べつの廊下から裏庭へおりて、門のそとをみると、むこうに一台の自動車がとまっているのです。ふたりはこの自動車におくさんをのせて、どこかへゆくつもりにちがいありません。  そこで、ぼくは、とっさに考えました。おくさんをつれだすような大事件を、中村さんや黒川さんが、ぼくにひとことも言わないのは、おかしい。ひょっとしたら、このふたりは、うまく変装した、にせものじゃないかしらと、思いました。でも、いま、さわぎたてたら、おくさんの身に、きけんなことがおこるかもしれない。それよりも、ソッとあの自動車の行くさきを、つきとめるほうがいい。ぼくはそう考えたのです。  それには、ずっとまえに、先生とぼくとで発明した、うまいやりかたがあるのです。ぼくはおおいそぎで、物おき小屋の中から、小さなブリキカンをとりだして、それを自動車の車体の下にくくりつけました。ブリキカンの中には、コールターがはいっていて、カンのそこに、キリで小さな穴があけてあるのです。穴にはめたせんをぬくと、そこからコールターが糸のように地面にたれ、自動車がすすむにつれて、どこまでも、そのコールターの糸がつづくのです。ちょっと見ては、わからないような、ほそいすじが、地面にのこるのです。  ぼくはけさになって、ちかくの少年探偵団員を五人あつめました。それから犬屋にあずけてある明智先生の『シレ』というシェパードをつれだし、コールターのにおいをかがせて、地面のあとをつけさせたのです。そして、おくさんのとじこめられている家を、みつけたのです。ここにいる団員が、その家を見はっているあいだ、ぼくは公衆電話で、中村係長さんに、このことを報告しました。」  小林君がそこまで話したとき、中村係長が口をはさみました。 「午前中にぼくが一度、部屋を出たでしょう。そのとき、小林君の電話を聞いたのです。そして、小林君たちをたすけるように、部下のものに命じたのです。それが、うまくせいこうしたのです。」 「ワハハハ……、ゆかい、ゆかい。わしもおいぼれたもんだなあ。こんなチンピラに、してやられるなんて……。」  怪老人が、とつぜん笑いだしたので、みんなビックリして、そのほうをながめました。 「小林君、さすが明智探偵のこぶんだね。うまくやった。わしからも、ほめてやるよ、だが、きみのてがらは、それだけじゃあるまい。もっとたいへんなものを、みつけてきたはずだ。かくさないで、それもここへ、つれてきたまえ。」  老人が、いやに元気づいて、みょうなことを言うので、小林君は目をパチクリさせて、明智探偵のほうを見ました。 「先生、つれてきてもいいんですか。」  ところが、明智は何も答えません。へんな顔で、小林君をにらみつけているばかりです。 「いいよ、いいよ、小林君、はやくつれてきたまえ。明智先生も、さぞビックリなさることだろう。ワハハハ……、ゆかい、ゆかい。」  怪老人は、いよいよ元気になってきます。  いったい、これはどうしたというのでしょう。怪老人のほうが明智探偵よりも、いろいろなひみつを知っているようです。なんだかおかしいではありませんか。  小林君は中村係長に、目でそうだんをしました。すると、係長がうなずいてみせたので、そのまま、部屋のそとへ出ていきました。小林少年はだれをつれてくるのでしょう。そして、こんどは、どんなふしぎがおこるのでしょう。 三人の明智小五郎  部屋じゅうの人が、「アッ。」と声をあげて、そう立ちになりました。そのとき、小林少年といっしょに、部屋へはいってきたのが、あまりに意外な人だったからです。それは名探偵明智小五郎でした。明智がふたりになったのです。けさから、しらべ室に腰かけている明智と、いまはいってきた明智と、顔も服も、まったく同じなのです。ふたごのように、そっくりなのです。 「ワハハハ……、どうです、諸君ビックリしたかね。中村君、このふたりの明智小五郎をしばってください。なわをかけてください。どっちかが、にせもののはずだ。しかし、どっちがそうか、まだよくわからない。ふたりともしばってください。にげられては、たいへんだからね。」  怪老人は手じょうをはめられたまま、イスから立ちあがって、わめきました。中村係長を、中村君などと、呼びすてにして、いばっているのです。まるで、この部屋の中で、怪老人がいちばんえらい人のように見えました。  もっとふしぎなのは、中村係長のたいどでした。怪老人をしかりつけるどころか、老人の言うままに、ベルをおして、部下の刑事を呼びよせ、にらみあっているふたりの明智小五郎を、ほじょうで、しばらせてしまいました。ふたりをべつべつのイスにかけさせ、うしろ手にしばって、そのなわを、イスのせなかにくくりつけたのです。  どちらがほんもので、どちらがにせものか、わかりませんが、ふたりの明智小五郎は、あっけにとられているうちに、手ばやくしばられたので、てむかいするひまもなかったのです。 「ワハハハ……、いよいよおもしろくなってきたね。ところで、みなさん、わしはひとつ、はくじょうしなければならんことがある、それは、このわしも、にせものだということですよ。わしは透明人間をつくる老人じゃない。そのかえだまですよ。あの老人にたのまれて、ばくだいなお礼をもらって、ちょっと、かえだまをつとめたのです、そして、わざと、つかまえられたのです。ほんものの怪老人が、あんなにやすやすと、つかまるはずはありませんからね。  透明怪人の首領は、わしをかえだまにして、つかまえさせ、みんなが、そのほうに気をとられているすきに、まったくべつのものに変装して、ゆくえをくらましたのです。いや、ゆくえをくらますといっても、遠くへ逃げたとはかぎらぬ。すぐわれわれの目の前に、かくれているかもしれません。それも、いまじきにわかることです。ワハハハ……、じつに、ゆかいですよ。  わしは、いま正体をあらわします。変装をとくのです、それには、この手じょうがじゃまじゃ。中村君、ちょっと、これをはずしてください。」  怪老人はそう言って、両手を中村係長の前にさしだしました。そんなことを言って、手じょうをはずさせ、いきなり、逃げだすつもりではないでしょうか。あぶない、あぶない。しかし、中村係長はへいきです。ポケットからかぎをだして、老人の手じょうをパチンとはずしてやったではありませんか。  老人は、逃げだしたでしょうか。  いや、逃げだしはしませんでした。ただ、部屋のすみへいって、向こうをむいたまま、しゃがんでしまったのです。  見ていますと、老人のしらがのあたまが、まるで皮をはがすように、スッポリとぬけて、その下から、黒いモジャモジャの毛が、あらわれました。カツラをかぶっていたのです。つぎには、長い白ひげと、二つの白いまゆ毛が、ヒラヒラと、ゆかにおちました。これもつけひげと、つけまゆ毛だったのです。それから、しばらくモジモジとからだを動かしていましたが、黒いダブダブのガウンを、パッとぬぎすててクルッとこちらを向いて、立ちあがったすがた……、おお、ここにもまたひとり、明智小五郎です。怪老人が名探偵に、はやがわりしてしまったのです。  どこからどこまで、すこしもちがわない、三人の明智小五郎、ふたりはうしろ手にしばられて、イスに腰かけ、ひとりは部屋のすみに立って、たがいに顔を見あわしている三人の名探偵。ああ、これは、なんとしたことでしょう。みんな夢を見ているのでしょうか。いや、夢ではありません。そこには捜査課長と係長の中村警部のほかに、さっき明智をしばったふたりの刑事、小林少年、文代さん、五人の中学生などがいるのです。こんなにおおぜいの人が、そろって、同じ夢を見るはずがありません。  怪老人の変装をといた第三の明智探偵は、いままでの老人とは、にてもにつかぬシャンとしたすがたで、ツカツカと部屋のまん中に、すすみました。 「小林君、きみはひじょうな手がらをたてた。さすがは、ぼくの助手だよ。さて、捜査課長はじめ、みなさんに、申しあげたいことがあります。  ぼくはいま、老人からのお礼をもらって、老人のかえだまになったと、言いましたが、それはむろん、明智としてではありません。老人が敵の明智探偵に、かえだまをたのむはずがないからです。ぼくは老人のかくれがへ、ひとりのコックとして、すみこんでいました。そして、頭の悪い、うすのろのコックとみせかけていたのです。  老人は、しんぺんが、あやうくなってきたので、自分をかきけしてしまって、まったくべつの人に化ける決心をしました。それにはかえだまをつかって、警察をだまさなければならない。それには、うすのろのコックが、もってこいだ。というわけで、ぼくに金をつかませて、老人に変装させ、わざと焼けビルの中へのこしておいて、明智探偵に、つかまえさせたのです。  みなさん、じつにふしぎではありませんか。明智探偵が明智探偵を、とらえたのです。とらえたほうの明智が、ほんものでしょうか。とらえられたほうの明智がほんものでしょうか。いや、それだけではありません。もうひとり明智がいるのです。小林君が悪者のすみかから、すくいだしてきた明智君が、そこにしばられています。いったい、この三人のうちで、だれが、ほんとうの明智小五郎なのでしょうか。  小林君にすくいだされたのが、ほんものとすれば、ぼくと、ぼくをとらえたふたりの明智がにせもののはずです。また、焼けビルから、樋をつたって、逃げだし、それから、中村君といっしょに、老人に化けたぼくをとらえた明智君が、ほんものだとすると、ぼくと、そちらにしばられている明智君とが、にせもののはずです。じつに、めんどうなことに、なったものですね。いったい、なんのために、明智小五郎が、三人もあらわれたのでしょう。  それは、こういうわけです。この三人のうちには、ほんとうの明智と、明智が日ごろから用意しておいた、明智のかえだまと、それから、明智に化けた透明怪人の首領とがいるからです。ひとりは明智、ひとりは明智のかえだま、ひとりは賊の首領です。三人のうちの、だれが明智でしょう。だれが賊の首領でしょう。それは、いまにわかります。ぼくがこれから、それをといてみましょう。そうすれば、透明怪人のひみつも、すっかりとけるのです。」  第三の明智は、そこまで言って、ことばをきり、グルッとあたりを見まわしました。あっけにとられた人々は、息をするのもわすれたように、じっと第三の明智のすがたを、見つめています。おおぜい、人がいるのに、部屋の中はシーンとして、ものすごいほどの、しずけさです。 裏から見る  第三の明智は、部屋のまん中に立って、課長や係長にむかって、透明怪人事件のせつめいを、はじめました。ニコニコした顔、よくとおる声、ときどき両手で身ぶりをしながら、明快に、事件のなぞをといていくのです。 「にせの中村係長と黒川記者が、ゆうべ、文代をだまして、つれだしたのですね。すると、ほんものの黒川記者は、どうしたのでしょう。中村係長が、ねむりぐすりをのまされたのだから、同じ部屋にいた黒川君も、係長といっしょに、グッスリねこんでいたと言うのなら、わかるが、ねむらされたのは係長だけで、黒川君はどこへ行ったのか、いまもって、すがたを見せない。これは、いったい、どうしたわけでしょう。黒川記者はどこへ、消えてしまったのでしょう。」  明智は、そこで、ことばをきって、グルッと部屋のなかを、見まわしました。みな、だまりこんで、明智の顔をみつめています。 「しばいのぶたいを、客席のほうから見たのと、がくや裏のほうから見たのとでは、ひじょうな、ちがいがあります。舞台の美しい背景も、裏からみれば、木のわくに、きれがはってあるだけです。それとおなじように、犯罪事件には、かならず表と裏があります。みなさんが、きょうまで見ていたのは、その表のほうなのです。つまり、客席にすわって、しばいを見ていたのです。  ところが、探偵はけっして客席から見物はしません。いつもがくやのほうから、裏がわを見ているのです。こんどの透明怪人の事件でも、ぼくは、はじめっから裏を見ていました。ですから、あなたがたとちがって、手品のたねが、だいたい、わかっていたのです。  この事件を、裏から見ていると、すぐ気がつくのは、黒川記者があやしいということでした。中村係長だけ、ねむりぐすりをのまされて、黒川記者がいなくなってしまったという事実によって、それがうらがきされました。みなさん、黒川記者こそ、悪魔の首領だったのです。文代をつれだしたとき、中村係長のほうは、にせものでしたが、黒川記者はほんものだったのです。  黒川が透明怪人の首領だという点に気がつけば、すべての事情がガラッとかわってきます。手品を裏から見るように、いろいろのひみつが、ハッキリわかってくるのです。  みなさん、おどろいてはいけませんよ。透明怪人なんて、あとかたもないうそなのです。あれほどせけんをさわがした透明怪人は、みんな黒川の手品によってつくりだされた、にせものにすぎません。」  明智はそこでまた、ちょっとことばをきりました。人々はビックリしたように、目をみはっています。透明怪人がうそだったなんて、とっても、しんじられないからです。 「黒川は、ほんとうに、透明怪人があらわれたように、みせかけるために、ながいあいだ、じゅんびをした。一年ほどまえに、東洋新聞の記者になり、とくいのうでをふるって、たちまち社会部長の信用をはくした。そして、この大新聞の社会部記者という地位を、百パーセントに利用したのです。  みなさん、よく考えてごらんなさい。透明怪人の事件は、だいぶぶん、黒川が話をしたり、新聞に書いたりしたのです。黒川のほかには、だれも見ていないことでも、新聞記事になれば、うそだとは思いません。むろん、ほんとうにおこった事件もありますが、半分いじょうは、黒川のつくり話なのです。それを、うまくまぜあわせて、せけんをあざむいていたのです。  たとえば、銀座通りで、多くの人が目に見えない人間に、ぶっつかったという話、クツみがき少年のお金をうばった不良青年が、目に見えない人間に、こらしめられた話、黒川が島田君のおとうさんのうちへくるとちゅう、だれもいないのに、コンクリート塀に、人間のかげがうつって、その影が黒川に、おそいかかってきた話などは、みな黒川のつくりごとだったのです。それが、ほんとうの出来事と、うまく、まぜあわされていたので、だれもうそだとは、思わなかったのです。  黒川は透明怪人をほんとうらしく見せかけるために、四─五人の助手をつかっています。事件のあいだに、そういう助手の口からでた話がまじっていました。たとえば、大宝堂の店から首飾りがぬすまれたときには、あらかじめ黒川の助手を、大宝堂の店員として、すみこませてあり、その店員だけが店にいるときに、あの奇怪事がおこったのです。ですから、店員は、まことしやかに、つくり話をすればよかったのです。主人も支配人も、すっかりそれにだまされてしまいました。そして、黒川は、この助手のつくり話をデカデカと新聞に書いたというわけです。  もうひとつの例は、島田君のうちから、真珠塔がぬすみだされた夜、ひとりのルンペン青年が、庭のすみで、目に見えない人間が、ろう仮面をかぶり、洋服を着るところを見たと、まことしやかに話しましたが、あのルンペン青年も、黒川の助手だったのです。」 大奇術  明智がことばをきったとき、中村係長が、まちかまえていたように、声をかけました。 「だが、明智君、つくり話だけでは、すまないような出来事が、たくさんあったね。ぼくには、それが、どうしてもわからないのだが、まずこの事件のさいしょに、島田、木下の二少年が、古道具屋の店から尾行して行ったろう仮面の男だね。あれは、ふたりの少年の目の前で、服をぬいだ。すると、まったく目に見えない人間になってしまった。あれをどうせつめいするのだね。まさか、あのふたりの少年が黒川の助手ではないだろう。」 「あれはアヤツリ人形のしかけなんだよ。ろう仮面の男は、焼けあとの、こわれたれんがの建物の中にはいった。ふたりの少年は、建物のそとで、しばらく、ためらっていた。男はそのすきに、横のほうから、建物のそとへ、逃げだし、あとは、あらかじめ用意しておいたおなじ仮面と、おなじ洋服が、たくさんの黒い絹糸で、二階のゆかのわれめからつりさげてあったのだよ。二階にはひとりの助手がいて、その絹糸をあやつり、仮面や洋服をぬがせたり、ぬいだ洋服をまるめたり、それが宙に浮いて、建物の横の出口のほうへ、動いていったりするように見せたのだ。もう、夕方の、うすぐらいときだったから、少年たちはほそい絹糸や、人間の肩のかたちにまげたハリガネなんかの、しかけが見えなかったのだよ。  黒川はふたりの少年といっしょに、ろう仮面の男を尾行して、服をぬいだやつを、おっかけ、とっくみあいをしたように、みせかけたが、むろん、あれは、おしばいにすぎない。  そのつぎは、デパートの人形のなかに、ろう仮面の怪人が立っていて木下少年に発見された事件だね。ろう仮面はデパートの地階の倉庫に逃げこんだ。あの倉庫には、大きなからの荷箱がおいてあった。くせものは、洋服をぬぎすてて、あの荷箱の中にかくれ、それからろう仮面を投げだした。ちょうど、そのとき、ドアがひらかれて、人々は宙を飛ぶろう仮面のふしぎを見たというわけだ。」  このとき、また中村係長が、しつもんする。 「だが、あのとき、透明怪人は倉庫から、逃げだして、廊下にいた店員と、階段をおりてきた人夫に、つきあたり、ふたりをたおしているじゃないか。」 「あのふたりが、やっぱり黒川の助手だったのさ。ハハハハハハ、うまく考えたもんだね。ひとりは店員に化け、ひとりは人夫に化け、さも透明怪人に、つきとばされたように見せかけたのさ。  もうひとつ、にたような例を言うと、島田少年が、自分のうちの庭で、ローラー・スケートが、ひとりで動くのを見たが、あれも、スケートにほそい絹糸をつけて、庭のしげみの中から、黒川の助手が、ひっぱっていたのだよ。」 「それから、怪人の半透明の影が、たびたび窓にうつったね。そして、ぶきみな笑い声をたてた。すると、あれも……。」 「幻灯と、腹話術さ。助手が家のそとの木のしげみなどにかくれて、窓にむかって怪人の横顔の幻灯をうつすと、部屋のなかで、黒川が腹話術をやる。怪人の影がうつるときには、その部屋に、かならず黒川がいた。腹話術というのは、口をすこしも動かさないで、ものを言う、あの術だね。腹話術だと声がどこからくるかわからない。窓のそとと思えば、窓のそとのようにも、聞こえるのだよ。  ぼくはコックになって、怪老人のすみかに、はいりこんだのだから、そのほか、いろいろのことがわかった。怪老人というのは、すなわち黒川なんだよ。黒川はなんにでも、化けられるふしぎなやつだ。あいつのつかった奇術のたねは、アヤツリと幻灯と腹話術のほかに、黒魔術と鏡トリックがある。透明怪人をつくりだすのには、あらゆる奇術がひつようだった。こんどの事件は、まるで奇術の展覧会のようなものだよ。  大友少年が、あやしい自動車の屋根に乗って、防空ごうの怪老人のすみかに、しのびこんだとき、ドアのすきまから、透明怪人の寝室をのぞいたね。すると、パジャマばかりで、顔も手もないやつが、コップを持って、水をのんでいた。あれが、黒魔術なのだよ。あの寝室のかべは、黒い幕でおおわれていた。そのまっ黒な背景の前で、黒川の助手が、顔を黒ビロードでつつみ、手にも黒い手袋をはめて、ああいうことをやってみせた。そうすると、顔も手もない人間が、水をのんでいるように見えるのだよ。  それから、大友君は怪老人のために、透明人間にされてしまった。大友君じしんも、そういうふうに感じていた。ぼくは大友君を、悪者のすみかから、ソッと逃がしてやったが、そのとき、大友君の話を、くわしくきいた。  怪老人は大友君に、ねむりぐすりを注射して、イスにしばりつけ、二畳ほどの、せまい部屋にとじこめた。その部屋には、一方のかべに三十センチ四方ほどの、小さい鏡が、はめこみになっていた。大友君が目をさますと、その鏡に自分の胸から上が、うつっていた。それはたしかに、自分の学生服だったが、ふしぎなことに、顔がない。顔のあるべき場所には、うしろのコンクリートのかべが、うつっているばかりだ。  両手をイスのうしろに、しばりつけられているので、自分の顔に、さわってみることはできない。大友君は、しかたがないので、しばられたまま、肩をうごかしてみた。すると、鏡の中の学生服も、おなじように、肩をうごかした。それで、鏡にうつっているのは、自分にちがいないことが、わかった。大友君はすっかり、きもをつぶして、とうとう、自分も透明人間にされたものと、思いこんでしまったのだ。  これは鏡にしかけがあった。かべにはめこんであるのは、透明なふつうのガラスで、そのおくに、はすに、ほんとうの鏡が、おいてあるのだ。そして、その横のほうに、大友君とおなじ学生服をきた人間が、胸から上だけうつるように、イスにかけ、顔はコンクリートのかべと同じ色の板で、かくしている。はすにおいた鏡にそれがうつると、大友君の目には、首のない自分のすがたが、うつっているように見えるのだ。大友君が肩を動かせば、むこうの人間も、おなじように、肩をうごかすわけだね。だれでも知っている鏡奇術だよ。  大友君は、透明人間にされたと、おもいこんだまま、まっくらな一室に、とじこめられてしまった。そのあとで、中村君、きみが黒川や小林君といっしょに、防空ごうにふみこんで、オリの中の大友少年の声をきいたのだが、あのオリの中は、だれもいないからっぽだった。例によって、黒川が腹話術で、大友君のこわいろをつかったのだよ。  そこへ、べつの透明怪人がやってきて、オリの中にはいり、大友君と、とっくみあいになり、さいごに、大友君をつれて、どこかへ、逃げだしてしまったように、感じられたが、あれも黒川の腹話術なのさ。ふたりの、はげしい、いきづかいを、腹話術で、うまく聞かせたのだ。そして、黒川が自分で、オリの戸をひらき、さも透明人間が、ひらいたように見せ、また、わざとたおれて、透明人間に、つきとばされたように、見せかけたのだ。みんな黒川のひとりしばいだったのさ。  中村君、これで、だいたいたねあかしを、おわったように思うが、ほかに何か、わからないことがあるだろうか。」  明智はニコニコしながら、まるで黒板の前に立った先生が、生徒に聞くようなちょうしで、たずねました。 「裏から見るということは、おそろしいもんだね。いちど黒川が犯人だと気がつけば、何もかも、わかってしまう。それにしても、きみの明察には、いつもながら、頭がさがるよ。黒川というやつも、じつにおそろしいことを、たくらんだものだね。だが、きみのせつめいに、もれたことが、ふたつばかりあるようだ。ひとつは島田家の地下室の金庫から、真珠塔をぬすみだした事件。もうひとつは、きみはまだ聞いていないだろうが、ゆうべ、ろう仮面をかぶった道化師が、公衆電話の中で、消えうせた事件だ。」  中村係長は、そこで、道化師の一件を、かんたんに、話してきかせました。すると、明智は、すぐに、そのなぞを、といてみせるのです。 「いま、きみが言ったふたつの事件は、これまで、ぼくが話したことで、きみにも、だいたい察しがつくだろうと思うが、ねんのために話してみると、真珠塔は、むろん黒川がぬすみだしたのさ。真珠塔をぬすむぞという、よこくの手紙が、空中からヒラヒラとおちてきた。あれも、黒川が自分で手紙の紙きれを投げておいて、自分でうけとめたのにすぎないが、真珠塔も、おなじ手口だよ。  よこくの手紙を見たので、島田少年のおとうさんは、黒川といっしょに、地下室の倉庫を、しらべてみた。黒川はあのとき、奇術師のはやわざで、真珠塔をガラス箱の中から、ぬきとっておいたのだよ。だから、夜中に、みんなが金庫の前に、がんばって、賊をまっていたときには、とっくに金庫はからっぽになっていたのさ。  そのとき、怪人がしのびこんだように、感じられたのは、やっぱり、黒川の腹話術だった。いつのばあいも、腹話術というべんりなものが、人間わざではできないような、ふしぎを、つくりだしたわけだね。  もうひとつの、道化師が公衆電話から消えた事件は、いま聞いたばかりで、まだたしかめてみたわけではないが、おそらく、こういうじゅんじょだろう。道化師が公衆電話にはいるのを見とどけた運転手が、きみたちに知らせるために、電話のそばをはなれた。そのすきに、道化師は、よういしていた、べつのろう仮面と道化服を、電話室の天井から、つるしておいて、そとに出ると、ドアがひらかないような、さいくをして、そのまま、やみにまぎれて、逃げさってしまった。  電話室の中にぶらさがっている、仮面と道化服を、きみたちは、さっきの道化師だと、思いこんでいたので、それに、なかみがないことがわかると、ひどくおどろいたわけだよ。あとは例によって腹話術だ。そのときも、黒川がきみたちといっしょにいたのだから、腹話術で、どんな手品だって、できたわけだからね。」  明智のせつめいがおわると、そのときまで、だまっていた捜査課長が、かんにたえて、口をひらきました。 「明智さん、じつにおどろいた明察です。あなたの知恵にかかると、どんなふしぎでも、まるで、知恵のわを、はずすように、スラスラと、とけてしまいますね。いまのお話で、もう、わからないことは、何もなくなってしまいました。  だが、明智さん、手品のたねはあきらかになりましたが、まだ、まるで、けんとうのつかないことが、ひとつのこっていますよ。それは、黒川が、なぜ、そんな大がかりな奇術をやって、透明怪人をほんとうらしく見せなければならなかったかということです。これも、あなたには、むろん、わかっているのでしょうね。」 「わかっています。そこが、この事件の、もっともおもしろいところですよ。」  明智は、やっぱりニコニコ笑いながら、そのせつめいを、はじめるのでした。 真犯人  明智の話はつづきます。 「いったい、なんのために、ありもしない透明人間を、あるようにみせかけたか。それは、ひとつには、宝石だとか、いろいろの高価なものをぬすむためです。透明怪人という、お化けのようなやつが、犯人だと思わせておけば、ほんとうの犯人は、うたがわれないで、すむからです。  しかし、それだけではありません。この犯人は、せけんの人をビックリさせたかったのです。子どもが、しょうじのかげに、かくれていて、むこうから来た人を、バアと言っておどかす、あの気持ちを大きくしたようなものです。東京じゅう、日本じゅうの人を、バアと言って、おどかしたかったのですね。透明怪人という化けものが、ほんとうに、この世にあらわれ、それが、何十人、何百人と、だんだんふえていくぞと、みんなをビクビクさせて、よろこんでいたのですね。  それから、もうひとつは、ぼくを──この明智小五郎を、アッと言わせたかったのです。ぼくと文代と小林君までも、透明人間にしてしまうぞと、おどかしたうえ、ほんとうに、ぼくたちを、さらっていって、せけんの人に、さすがの名探偵も、とうとう透明人間にされてしまったと、思わせたかったのです。  怪老人がぼくの事務所へ電話をかけてきたときに、ぼくはあいつのおそろしい決心をさとりました。そこで、ぼくの、とっておきの手をもちいたのです。それは、ぼくと文代のかえだまを、探偵事務所にすまわせ、ほんもののぼくと文代は、せけんから、すがたを、かくしてしまうという方法でした。  中村君はよく知っていますが、ぼくはずっとまえの事件で、自分のかえだまをつかったことがあります。そのころから、ぼくと顔かたちがソックリの人を、さがしだして、ひみつの場所に、すまわせてあったのです。こんども、そのおなじ人を、つかいました。  まえの事件のときには、文代のかえだまは、まだ、なかったのですが、そののち、たえず気をつけていて、とうとう、文代とソックリの人を見つけました。この女も、やはり、ひみつの場所に、やしなってあったのです。  ぼくの探偵事務所の、いちばんおくの部屋に、ひみつの通路があります。かべのいちぶぶんが、電気じかけのガンドウがえしになっているのです。ぼくと文代は、怪老人のおどかしの電話をきいたあとで、そのひみつの通路から、ぬけだし、ふたりのかえだまと、いれかわってしまいました。  ですから、自動車でさらわれた明智は、そのかえだまのほうだったのです。また、ゆうべ黒川と、にせの中村係長に、つれだされた文代も、かえだまのほうでした。小林君にたすけられて、いまここにいる文代は、ほんとうの文代ではありません。ぼくの妻の文代は、だれも知らない、安全な場所にかくれているのです。」  明智の話は、聞けばきくほど、いがいなことばかりで、部屋にいる人々は、息をつくひまもありません。あまりのことに、あきれはてて、ポカンと口をあけて、明智の顔を、みつめているばかりです。 「そうしておいて、ほんとうのぼくは、怪老人のすみかを、さがしあて、コックに化けて、すみこんでいたのです。かえだまをさらっていって、安心した犯人には、そこに大きなゆだんがありました。犯人は、人もあろうに、このぼくに、自分のかえだまになれと、命じたのです。  犯人も、さるものです。やっぱり、ぼくとおなじようなことを、考え、かえだまをつかって、警察をあざむこうとしたのです。  ぼくを怪老人に化けさせ、わざと、とらえられて警察を安心させたうえ、いよいよ、おそろしいことをたくらもうとしたのです。  では、かえだまのぼくと、いれかわった、ほんとうの怪老人はどうしたのでしょう。もとの黒川記者にもどったのでしょうか。いや、そうではありません。世界じゅうで、いちばんうたがわれない人物、すなわち、探偵に化けたのです。明智はとりこにしてしまったと、思いこんでいる犯人は、自分が明智に化けて、警察に、ひとあわ、ふかせようとしたのです。つまり、ゆうべ、焼けビルの樋をつたいおりて、わざとパトロールの警官に発見された明智こそ、犯人が化けたものです。」  それをきくと、人々の目が、いっせいに、一方のイスにしばられている明智を、にらみつけました。ほんとうの明智小五郎のために、おまえが犯人だと、きめつけられた、にせ明智は、まっさおになって、うなだれていました。かれが真犯人であることは、それを見ただけでも、あきらかです。  ほんとうの明智は、にせ明智の、しおれたようすを、こきみよげに、ながめながら、さらに、ことばをつづけました。 「黒川記者になり、怪老人に化け、いまはまた、明智に化け、しかも、このぼくと、どこから見ても、くべつができないほど、うまく化けています。この犯人は、じつに変装の大名人ではありませんか。  明智をアッと言わせ、明智をとりこにして、よろこぶ犯人、この明智に、それほど、ふかいうらみを、いだいているやつ──、いくつ顔を持っているのだろうと、あやしまれるほどの、変装の名人。みなさん、この二つのことから、何者かを、思いだされはしないでしょうか。」  明智は、グルッと、人々の顔を見まわしました。みんなの目が、飛びだしそうに、見ひらかれています。みんなが石にでもなったように、身うごきするものもありません。 「おわかりになりましたね。そうです。老怪人に化け、明智に化けた黒川記者、その黒川もほんとうのかれではなかったのです。ぼくはかれの本名を知りません。一年あまりまえ、『虎の牙』の事件で、魔法博士として、とらえられた人物、すなわち、怪人二十面相です。みなさん、そのイスにしばられているのがあのおそるべき大悪魔、怪人二十面相なのです。 『虎の牙』の事件で、とらえられた数日後、かれはもう、とくいの牢やぶりで、すがたを消していました。そして、東洋新聞の黒川記者となって、ぼくへの遠大なふくしゅうを、けいかくしていたのです。  捜査課長さん、あらためて、凶賊二十面相を、ひきわたします。こんどこそ、逃がさないように、万全のしゅだんをこうじてください。」  明智のことばが、きれるかきれないうちに、ワッと言う声が、部屋じゅうに、ひびきわたり、課長、係長、刑事、小林少年、少年探偵団員、あわせて十人の人々が、イスにしばられた、にせ明智のまわりに、殺到していました。  そのいきおいに、犯人のしばられたイスがたおれ、怪人二十面相は、ぶざまなかっこうで、ゆかにころがっていました。さすがの魔術師も、こうなっては、もう、どうすることもできません。まっさおな顔にあぶらあせをながし、くちびるを、かみしめて、死人のように、よこたわっているばかりです。  かくして、あれほど、せけんをさわがせた、透明怪人の大事件も、ついにさいごの幕をとじることになりました。これよりして、名探偵明智小五郎と名助手小林少年の評判が、いよいよ高くなったことは、言うまでもありません。しばらくは、どこへいっても、ふたりのてがらばなしばかりでした。 底本:「虎の牙/透明怪人」江戸川乱歩推理文庫、講談社    987(昭和62)年12月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1951(昭和26)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2017年3月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。