ヨブ記講演 内村鑑三 Guide 扉 本文 目 次 ヨブ記講演 第一講 ヨブ記はいかなる書であるか 第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難 第一章、二章の研究 第三講 ヨブの哀哭 第三章の研究 第四講 老友エリパズまず語る 第四章、五章の研究 第五講 ヨブ再び口を啓く 第六章、七章の研究 第六講 神学者ビルダデ語る 第八章の研究 第七講 ヨブ仲保者を要求す 第九章の研究 第八講 ヨブ愛の神に訴う 第十章の研究 第九講 神智の探索 第十一章、十二章の研究 第十講 再生の欲求 第十四章の研究 第十一講 エリパズ再び語る 第十五章の研究 第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上) 第十六章の研究 第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下) 第十七章の研究 第十四講 ビルダデ再び語る 第十八章の研究 第十五講 ヨブ終に贖主を認む 第十九章の研究 第十六講 ゾパル再び語る 第二十章の研究 第十七講 ヨブの見神(一) 第三十八章の研究 第十八講 ヨブの見神(二) 第三十八章の研究 第十九講 ヨブの見神(三) 第三十八章の研究 第二十講 ヨブの見神(四) ヨブ記第三十八章三十九節より四十二章六節に至るまでの研究 第二十一講 ヨブの終末 第四十二章七節以下の研究 第一講 ヨブ記はいかなる書であるか ◯ヨブ記の発端は一章、二章にして、十九章がその絶頂たり、それより下りて四十二章を以て終尾となす。しかしこの四つの章を読みしのみにては足らず、その間に挟まる各章を読むは、あたかも昇路及び降路において金銀宝玉を拾うが如くである。故に四十二章全部を心に留めねばならぬのである。 ◯注意すべきはヨブ記の聖書における位置である。すべて聖書中に収めらるる各書の位置を知るは、その書の研究上大切なる事である。まず新約聖書を見るに、マタイ伝より使徒行伝までは「歴史」、最後の黙示録は「預言」にして、その間に挿まる使徒らの書翰は「霊的実験の提唱」ともいうべく、「教理の解明」とも称すべく、または簡単に「教訓」とも名くべきである。歴史と預言は教会及び人類の外部の状態に関し、教訓は個人の内界に関するもの、外より教えまた内より教うるのである。そしてこの事は旧約聖書においても同様である。その三十九書中、初の十七書は歴史、終の十七書は預言、そしてその間の五書すなわちヨブ記、詩篇、箴言、伝道之書、雅歌は心霊的教訓である。そしてヨブ記がこの教訓部の劈頭第一に位するに注意せよ。そもそも創世記を以て始まりし歴史は、イスラエルを通して伝えられし神の啓示を載するものである。しかしてそれが最後のエステル書を以て終るや、ここにヨブ記を以て一個人の心霊を以てする啓示が伝えられたのである。ここに新なる黙示が伝えられたのである。神の教示が全く別の道を取るに至ったのである。すなわち個人の実験を通して聖意がこの世に臨んだのである。「歴史」と「預言」とは過去と未来における国民または人類の外的表現に依りて伝うるもの、これに対して「教訓」は神と霊魂との直接関係そのままの提示である。 ◯神は外より探り得べし、また内より悟り得べし。神を歴史において見、従って神の教を国民的、社会的、政治的に見るも一の見方である。されどこれのみに止まる時は浅薄に陥りやすい。これを個人心霊の堅き実験上に据えて、初てその真相を穿ち得るのである。かかる実験の人が集まる処、おのずから外部的に神の国は成立するのである、そして史的勢力となるのである。我らはわが内界に不抜の確信を豊強なる実験の上に築き、そしてまた同時にその外的表現に留意すべきである。外にのみ走りて浅薄になる虞あると共に、内にのみ潜みて狭隘となる嫌がある。いずれにせよ、旧約聖書においてこの個人的沈潜の深みを伝えし第一がヨブ記であることは、忘るべからざる点である。 ◯ヨブ記を心霊の実験記と見る上において注意すべきは巻頭第一の語である。「ウズの地にヨブと名くる人あり」と記さる。ウズとは異邦の地である。実に旧約聖書はその歴史部を終えて教訓部に入るや、劈頭第一に異邦の地名を掲げ、異邦人ヨブの実験を語らんとするのである。これ真に今人の驚異に値することである。ウズの地とはいずこなるかについて諸説あるも、そのパレスチナの中になきことは明かである。そしてこれをアラビヤ沙漠の北部地方(全沙漠の三分の一または四分の一)の総称と見るを正しと思う。しかる時は、ヨブの住みし村または町はいずこぞという問題が次に起る。沙漠の最北部すなわちパレスチナに接近せる辺という学者もある。しかし沙漠の中央に近きデュマまたはショフ(Duma; Dschof)であるとの説を余は採るのである。羊七千駱駝三千という如き大群の家畜を養い得んには広き緑野を要するのである。そしてヨブの外にも彼に匹敵する、または彼に近き豪農が住んでいたことも当然推定せらるるが故に、かかる緑野の充分ある地はデュマの外にはないのである。さればヨブの住みし地は、パレスチナより見て純然たる異邦であったのである。 ◯この事は何を我らに示すのであるか。イスラエルは神の選民たりといえども、神を求むるの心はイスラエルの独占物ではない。人は各個人直接に神を求むるを得、神は各個人の心霊にその姿を顕し給う。この点においては国籍民族の区別は全く無いのである。そは実に個人的なるが故にまた普遍的である。故に神を求むる者をユダヤ人に限る要はない、異邦人にても宜いのである。否異邦人の方がかえって宜いのである。ヨブ記が異邦人ヨブの心霊史を掲ぐるは神を求むる心の普遍的なるを示すと共に、神の真理の包世界的なるを示すのである。実に各個人の──従って全人類の──実験を描かんとせば、その主人公をユダヤ人以外に求むるを得策とする。しかして旧約聖書はその教訓部の劈頭に異邦人の心的経験を記載して、以てその人類的経典たることを自証しているのである。げに聖書ほど人類的の書はない。聖書を以てユダヤ思想の廃址と見るは大なる誤謬である。そのしからざるを証するものは少なくないが、ヨブ記の如きはその最たるものである。さればヨブ記は特に普遍的の書物である。特に国家なきアラビヤ人中よりその主人公を選びて、誰人といえども、いやしくも人である以上は、神を知り神の真理を探り得ることを示したのである。ヨブ記が特殊の力を以て吾人を惹くゆえんの一はここにあるのである。 ◯神の選民たる誇りの中に住みいたるユダヤ人中、異邦人を主人公としてかかる大信仰を開説したるヨブ記作者があったのである。そのいかなる人なりしかは今これを明にしがたいが、その大胆なる態度とその自由なる魂とは羨むべきである。同時にまた人生最高の実験として描きたるこの書の如きを尊重し、これを聖書中に正経として加えたるユダヤ人の心の広さを我らは見落してはならない。げにこの民ありてこの著者ありというべきである。 ◯人は何故に艱難に会するか、殊に義者が何故艱難に会するか、これヨブ記の提出する問題である。これ実に人生最大問題の一である。そしてこの問題の提出方法が普通のそれと全く異りおるがこの書の特徴である。まず一章全部と二章前半を見よ、ヨブに大災禍臨みて産は悉く奪われ、子女は悉く殺され、身は悪疾に襲われ、最愛の妻さえ彼を罵るに至ったのである。かくて彼はただ独り苦難の曠野に坐して、この問題の解決を強いられたのである。実に彼は生涯の実験──殊に悲痛なる実験──を以て問題を提出せられたのである。教場における口または筆に依る問題の提出及び解答ではない。哲学上の問題や文学上の問題の如く、思想を以て提出され思想を以て答うるものとは全然性質を異にする。ヨブは患難の連続を以て患難の意味という問題を提出せられ、そして事実的の痛苦煩悶苦闘を以てこれに答えざるを得なかったのである。彼の如き敬虔なる信者が、かの如き大苦難に会したのである。これ果して愛なる父の所為として合理なるか、神に対するわが信仰は誤謬ならざりしか、むしろ世に神なきに非ざるか、もし神在りとせば義者に患難を下し給うは何故か──およそこれらの疑問が彼の心霊を圧倒すべく臨んだのである。実に彼は実験を以て大問題を提出せられ、実験を以てこれに答えしめられたのである。故にヨブ記全体に活ける血が通っている。火と燃ゆる人生の鎔炉に、鉄は鍛えられんとするのである。文学上の遊戯ではない。生ける人間生活の血と火である。これヨブ記の特徴である。この事を心に収め置かずしてはこの書を解することは出来ない。ヨブ記は美文でない、霊魂の実験録である。 ◯ヨブ記が世界第一の文学なることは古来よりの定説である。これを単なる文学書として、審美心あるいは思想愛好心より研究するも全く無効には終るまい。しかしながらこれは信仰的立場に立て初て充分に了解せらるる書である。我らはこの書を研究する時、まず著者に対して深き同情と尊敬とを抱かねばならぬ。由来この書は文学書または思想書として著されたものではない。著者自から書中に記す如き大苦難に会わずとするも、少くもこれに似たる苦難に逢いてその実験の上にこの書を著したものと見ねばならぬ。故にこれを文学としまた思想として研究する時は、一の謎として終るのみである。身自ら人生の苦難に会し、悲痛頻りに心に往来するを味い、しかも神を信ずる信仰とわが苦難との矛盾に血涙止めあえざりし人──この種の人が深き同感と少からぬ敬意とを以てこの書に対する時は、この書を理解し得るのみならず、この書より得る処少なくないのである。 ◯今日までにヨブ記の註解は少からず現れた。しかもその多くはこれを以て不可解の書となすのである。この書を美わしき仏文に移したるルナンの如きは、聖書学者としてまたヨブ記研究者として有名なる人なるにもかかわらず、ヨブ記の真意を捕捉することを得なかったのである。その他この書の研究者は概ね古代の習慣、思想等の考古学的研究に心を奪われて、この書の神髄を捉え得ないのである。これ研究の態度が正しからぬためである。これを実験的に解せんとせずして思索的に解せんとする時はいかなる学者にもこの書は不可解の謎として残るのである。自分をヨブの位置に置き苦闘努力以て光明を得んとせし者には、この書は決して不可解の書ではない。無学者といえども老人小児といえども、この心を以てせばヨブ記を解し得るのである。聖書はそのいずれの書といえども読者にかかる態度を要求するものであるが、ヨブ記の如きは格別にもしかるのである。 ◯実験を以て与えられし問題を実験を以て解かんとしてヨブの苦める時、エリパズ、ビルダデ、ゾパルの三友人現れ、各々独特の思想と論法とを以てヨブを慰めんとする。かくて世に普通の解釈は皆与えられしも、そはかえって彼を苦むるのみであった。その時青年エリフ仲裁者として現る。エリフは学識経験においては三人に劣れども、同情において優れるためややヨブの心を柔ぐるにおいて成功する。最後にエホバ御自身現われて親しく教示する。しかもこの教示中、直接ヨブの疑問を解くべき答は一も与えられておらぬのである。義者に臨む苦難の意味については一言も答うる所ないのである(三十八章以下を見よ)。これ不思議というほかはない。しかるになお不思議なるはヨブがそれに全く満足し、わが罪を認めて全き平安に入りしことである。問題の説明供せられざるに彼の苦みが悉く取去られしとは、まことに不思議なる事である。初から問題を提出しないならばそれで宜しい。しかるにこれを明かに提出しながらその解答を載せざるは、実に怪しむべきことである。 ◯しかし解答は与えられずして与えられたのである。実に神を信ずる者の実験はこれに外ならぬのである。苦難の臨みし説明は与えられざれど、大痛苦の中にありて遂に神御自身に接することが出来、そして神に接すると共にすべての懊悩痛恨を脱して大歓喜の状態に入るのである。ただ神がその姿を現わしさえすれば宜いのである。ただ直接に神の声を聴きさえすれば宜いのである。それで疑問は悉く融け去りて歓喜の中に心を浸すに至るのである。その時苦難の臨みし理由を尋ねる要はない。否苦難そのものすら忘れ去らるるのである。そしてただ不思議なる歓喜の中に、すべてが光を以て輝くを見るのみである。 ◯今日キリスト信者の実験もまたこれである。彼に取ってはこれが患難苦痛の唯一の解釈法である。友人らの提供する種々の説明も彼に何ら満足なる解答を与えない。あるいは人生の長き実験より、あるいは深き学識より、あるいは温き同情より彼を慰むれどもいずれも問題の中心に触れない。かくて彼の煩悶いよいよ加わる時、遂に父はキリストにおいてその姿を現わしその光彼を環照し、その光の中にすべての懐疑や懊悩がおのずと姿を収めるのである。そしてすべてを失いてもこれを糞土の如く思い得るに至るのである。 ◯因に記す、ヨブ記は文学書にあらずしてしかも世界最大の文学書である。世界の大文学中ヨブ記を手本として作られしものは少なくない。ゲーテのファウスト、ダンテの神曲、シェークスピヤのハムレット、カアライルのサアター・レサアタス(Sartor Resartus)、ブラウニングのイースタアデー(Easter Day)とラビ・ベン・エズラ(Rabbi Ben Ezra)等はそれである。また現代英の文豪たるH・G・ウェルズの『不死の火』(Undying Fire)の如きもヨブ記を手本とせる作物である。以てヨブ記の大を知るべきである。 第二講 ヨブの平生と彼に臨みし患難 第一章、二章の研究 ◯ヨブ記は今日の語を以てせば劇詩(Dramatic Poetry)と名づくべく、また叙事詩(Epic)と称すべきものである。劇詩と見るも舞台に上すべき性質のものではない。ギリシャ人の如くに風景的観念に豊かならぬユダヤ人の作なれば、これを舞台に演ずる時は簡単にして無味なるを免かれぬ。ヨブの平生、天国における神とサタンとの問答、ヨブに臨みし災禍、三友人の来訪、ヨブ対三友人の長い論争、エリフの仲裁、最後にエホバ御自身の垂訓とヨブの慚改感謝──これにて大団円となるのである。これでは劇として余りに無意味である。故にこれは舞台に上すために書いたものでないことは明かである。しかし劇作に甚だ乏しきユダヤ文学のことなれば、ヨブ記、雅歌等をその中に加うるも可なりと思う。 ◯ヨブは実在の人物か想像の人物かは一の問題である。そして余はヨブを実在の人物と信ずる者である。その本名がヨブなりしかどうかは不明なるも、少くともこの人の味いし経験は事実的に起りしものと余は認めるのである。たしかにヨブ記はある確実なる事実を根拠とせるものである。もとよりかかる作品の常としてその光景、その対話等に著者独特の修飾あるは当然ながら、この作がある事実の詩的表現であることは疑うべくもない。しかしてこの作の主人公と著者とは別人なるべきも、著者はいわゆる文学者の列に加えらるべき人に非ずして、主人公ヨブと似たる経験を持ちし所の敬虔摯実なる人なりしは明かである。しからずしてはかかる大作を生み出し得べきはずがない。神を畏れ悪に遠ざかりしヨブの実伝を、ヨブと等しき実験を持てるある人が自己の実験に照しまた詩的外衣に包みて提示せしもの、これすなわちヨブ記である。故に吾人はヨブに対して敬意を表すると同時に、著者に対してもまた同一の敬意を払わねばならぬのである。 ◯これより本文に移ろう。一章一節に「ウズの地にヨブと名くる人あり、その為人完くかつ正しくして神を畏れ悪に遠ざかる」とある。「為人全く」とあるも、これもとより人より見ての完全であって、神より見ての完全ではない。完全の程度は見る人の目に依て異なる。日本にて品行方正位の程度を以て比較的完全と見るは低き見方である。古昔のユダヤ人のいわゆる完全ならずとするも、今日のわが国の如きよりは遥かに高き道徳的標準に照らしての完全であるに注意すべきである。第一章に表れたるヨブ、殊に三十一章に表れたる彼を見れば彼がいかなる程度において完全なりしかを知り得る。かかる人が今日我らの間にあらば社会はこれを完き人と見教会はこれを完全なる信者と見るであろう。しかしながら聖書の立場より見れば、ヨブの完全は絶対の完全にあらず、更に完全なるを要する完全であったのである。これヨブ記に現われたる悲劇の生ずるゆえんである。 ◯この完全なるヨブの生涯もまた完全であった。「その生める者は男の子七人、女の子三人」という完全なる家庭であった。「その所有物は羊七千、駱駝三千、牛五百耦、牝驢馬五百、僕も夥しくあり」というほどの富の程度であった。そしてその家庭は夫婦兄弟姉妹相和して平和漲るの状態にあり、殊にヨブがその子の教育において誤らず、祭壇を設け自ら祭司の職を取りて子女の赦罪のため燔祭を献ぐる如き、すべてが完全の状態であった。すなわち富足り、家栄え、家訓行われ、敬神の念盛なりというべき有様であったのである。 ◯試みにヨブを今日の社会に立たせてみよ。その富は何百万、外に出でては多くの有力なる会社の社長あるいは重役たり、内に在りては子女の教育において全く、牧師の任に当りて過たざる人たるであろう。不幸にしてわが国にこの種の人は殆んどない。富者は多けれども神を畏るるの信仰なきは勿論、わが生みし子をすら治め得ざるもの比々皆しかりである。まして家に在て牧師の職を取り得る者の如きは、到底見出し得ぬ処である。しかしこれ世に皆無の事象ではない。欧米諸国においては少数ながらこの種の人が実存するのである。ヨブの如き人を今日わが国において見ざる事は必しもヨブが架空の人たる証左とはならない。しかしながらヨブの完全は神より見ての完全ではない。更に大なる完全に彼を導くべく、大災禍は続々として彼を襲ったのである。かくてヨブの悲歎起る。しかしこれ同時に神の恩恵の現れである。 ◯次に問題となるのはエホバ対サタンの問答である。ある時サタン、エホバの前に現われ、エホバまずサタンに向って語りサタンこれに答え、かくてヨブに災禍は臨むに至ったのである。一章及び二章のこの対話はその表面の意味においては甚だ明瞭であって、何らの註解をも要しないのである。しかし今日の人にはかかる事果して在り得るやとの疑問が起こる。人類に下る災禍は果してサタンが神の許可を得て起こす所のものなるか──これ今日の人の疑問とする処である。彼らは言うすべての疾病は神より刑罰として降りしものにあらず。その他の禍にもそれぞれ天然的または人間的原因あり、これを天において神の定め給いし所と見るは誤れりと。 ◯しかしながら天上におけるエホバ対サタンの対話の実否如何はしばらく別として、吾人キリスト者の実験に訴うる時は、この記事がその究竟的意味において至当たるを知るのである。この記事を見るにエホバ対サタンの対話は偶然に発せしものではない。エホバよりまずサタンに向って、「汝心を用いてわが僕ヨブを見しや、彼の如く完くかつ正しくて神を畏れ悪に遠ざかる人世に非ざるなり」と言いかけたのである。ヨブの清浄はエホバの充分認めかつ喜べるところ、故にエホバよりまず問題を提出したのである。これヨブに起りし災禍がその究竟の原因をエホバに置くことを示したのである。キリスト者は自己に臨みし一切の事件が聖意に基づくことを、その実験の上に認むるものである。「すべての事は神の旨に依りて招かれたる神を愛する者のために悉く働きて益をなすを我らは知れり」(ロマ書八の二十八)とのパウロの言は、すなわちキリスト者の実験である。余自身について言えば、病に罹りし時の如きこれを神より直接に来りしものとは思わず他の原因が明かに認めらるれど、後に回顧すればその中に深き聖意を認めざるを得ないのである。 ◯しかり神を信ずる者においては、自己の生涯に臨みしすべての出来事に必ず道徳的価値があるのである。そして宇宙人生のすべての出来事はその究竟的原因を聖旨に置くと見るを正しとするものである。しかり万事万物の本源を握る者は神の御手である。これ近代人といえども必しも否認せんと欲する所ではあるまい。直接の原因と見ると間接の原因と見るとの差別こそあれ、原因の原因に溯れば、すべての災禍の源はヨブ記のここに記す所に外ならない。すなわち地に起るすべての出来事は源を天に置くのである。近時の心理学が漸くこの辺に着目して、有形世界と神秘世界の関係に想到せし如きは一段の進歩と称すべきではあるが、しかしこれ古より神を信ずる者の実験し来った所に過ぎぬのである。この古き実験を今に至って心理学者が初て研究の主題としたのである。 ◯かくてエホバとサタンとの対話の結果、サタンは神の許可を得ていよいよヨブに災を下すのである。その災は前後二回に分たる。前の災は彼の所有物に関するもの後の災は彼の生命の脅威である。そして前の災は四回に彼に臨んだ。その第一回にはシバ人のために牛と牝驢馬が奪われ、少者が殺された。第二回には「神の火天より降りて羊及び少者を焚きて滅ぼ」した。第三回にはカルデヤ人が駱駝を奪い少者を殺した。第四回には大風のために子女十人悉く死した。かく彼の所有物悉く失せしも、彼は「我れ裸にて母の胎を出でたりまた裸にてかしこに帰らん、エホバ与えエホバ取り給う、エホバの御名は讃むべきかな」と言いて「この事においてヨブは全く罪を犯さず神に向いて愚なる事を言わ」なかった。忍耐深きヨブよ。 ◯第二章に進みては、エホバとサタンとは第二回目の対話に入るのである。エホバはヨブを称揚し、サタンはこれに対して言う「皮をもて皮に換うるなれば人はその一切の所有物をもて己の生命に換うべし、されど今汝の手を伸べて彼の骨と肉とを撃ち給え、さらば必ず汝の顔に向いて汝を詛わん」と。皮をもて皮に換うとは古い諺であってその意味は不明である。しかし多分A・B・デーヴィッドソン氏の言う如く、肉を以て肉に換うというと等しく、人は己が生命を全うせんためには骨肉の生命を犠牲に供するを厭わぬとの意であろう。故にサタンのこの語は「人は己が生命を全うせんためには何物をも犠牲にせんとする者にして、生命は彼の最貴重物なればもし神ヨブの生命を脅すあらば彼必ず神を詛わん」という意味に解すべきものであろう。かくてサタンはエホバの許しを得てヨブを撃ち、ヨブは癩病の襲うところとなった。ここにおいてヨブは自己生命の脅威を感ずるに至ったのである。これ後なる災いである。 ◯サタンのこの申出は人間を譏りまた神を譏りしものである。先にはいう「ヨブあに求むる所なくして神を畏れんや……されど汝の手を伸べて彼の一切の所有物を撃ち給え、さらば必ず汝の顔に向いて汝を詛わん」(一の九─十一)と。後には言う「彼の骨と肉とを撃ち給え、さらば汝の顔に向いて汝を詛わん」と。けだし神を畏るる如きは要するに物質的恩恵を希求する人間の賤しき動機より発せしもの、故に物を失い生命を脅さるるや人は必ず不信に墜つと、これサタンの人間観である。しかして人に対するサタンのこの譏りは、神に対する譏りをも含むのである。すなわち人類なるものは利慾中心の生物にして、決して善そのもののために善を求むる如きことなしと主張して、この人間を造りし神自身をも利慾的存在者と貶したのである。サタンはかく信じ、サタンの子らまたかく信ず。かかる場合において神はサタンに対しまたこの世に群棲する彼の子供らに対して「否! 世には利慾を離れての信仰あり、善のために善を追及する信仰あり、神は物質的恩恵の故に崇むべき者にあらず、神は神御自身の故に崇むべきものなり」との事を示す要がある。これを立証せんためにヨブは用いられたのである。我ら今日のキリスト者もまたこの真理を証明せんために奉仕すべきである。自己の生涯を以て、自己の信仰の物質を超越せる至醇なるものなることを立証すべきである。前後数回の大災禍に会して静かにこれに堪えて、なお信仰の上に立ちしヨブは我らの最上の模範である。 ◯しかも遂に最大の災がヨブに臨むに至った。そは彼の妻の離反である。「時にその妻彼に言いけるは、汝はなおも己を完うして自ら堅くするや神を詛いて死ぬるに如かず」と二章九節は語る。人生に禍多し、しかもヨブの如き清き家庭を営める人においては、妻の離反は最大の禍であるというべきである。産を悉く失うも宜い。子を悉く失うもあるいは堪え得よう。悪疾に襲わるるもまた忍び得よう。しかし寂しき人生の旅路における唯一の伴侶たる妻が自ら信仰を棄てしのみならず、進んで信仰放棄を勧むるに会して、彼の苦痛は絶頂に達したのである。我らは深き同情を彼に表さねばならぬ。しかし一方またヨブの妻を以て悪き女となすべきではない。彼女は普通の婦人の堪えがたきを堪え来ったのである。財産を失い地位を失い子女を悉く奪われて、彼女はなお夫と信仰を共にして来た。最後に夫に不治の悪疾が臨むに至って、遂に信仰を棄つるに至ったのである。されば彼女に対してもまた深き同情を表さねばならぬ。財産の一部を失いてすら夫に信仰の放棄を勧むる、いわゆるキリスト教婦人がこの世には少なくない。彼らに比してヨブの妻の優れること幾許ぞ。さりながら彼女も遂にサタンの罟に陥り、ヨブは全く孤独の人となった。茫々たる大宇宙にただ一人の孤独! その寂寥、その苦痛果していかがであったろうか。察するに余りありというべきである。 ◯この事次第に世に知れわたりて、遂に遠隔の地にあるヨブの三友人の耳に達するに至った。通信機関不充分なりし当時のこととて、その間早くも一年は経過したと見ねばならぬ。その間にここに記されざる多くの苦痛がヨブに在りしことは、後章に至って知れるのである。産を失い悪疾を得て今はヨブを信ずる者世になく、今までの敬慕者も嘲笑者と変り、友として頼るべき者もなき悲境に彼は陥ったのである。しかるにここに三人の良き友があった。テマン人エリパズ、シュヒ人ビルダデ、ナアマ人ゾパルがそれである。彼らは互に離れおりしも、ヨブの災禍を伝え聞きてある時某所に会して相談の結果、共にヨブを訪うこととなった。ヨブとこの三人はその社会的地位、その学識、その信仰(霊的経験)を等しくしていた。彼らは沙漠の海数百哩を遠しとせずして来たのである。各々従者を随え、また友情に厚き人々のこととて多くの見舞品などを携え、沙漠の舟と称ばるる駱駝に乗りて急ぎ来ったのであろう。沙漠の旅は夜において為すものなれば、あるいは明月煌々たるの夕、あるいは星斗闌干たるの夜、一隊の隊旅が香物の薫りを風に漂わせながら、悩める友を見舞わんと鈴打ち鳴らして進む光景は実に絶好の画題である。そして今日までたびたび画題として用いられたのである。いずれにせよヨブに三人の真の友ありて、世が彼を棄つるも彼を棄てなかったのである。誠に欲しきは真の友である。かくてヨブは全く不幸ではなかったのである。 ◯やがてエリパズ、ビルダデ、ゾパルの三人はウズの地に来た。そしてヨブの所に来り見れば往日の繁栄、往日の家庭、往日の貴き風采悉く失せて今は見る蔭もなく、身は足の跖より頂まで悪しき腫物に悩み、土瓦の破片を以て身を掻きつつ灰の中に坐する有様であった。三友人の驚き果していかん。「目を挙げて遥かに見しにそのヨブなるを見識りがたきほどなりければ、斉しく声をあげて泣き、各々おのれの外衣を裂き、天に向いて塵を撒きて己の頭の上に散らし、すなわち七日七夜彼れと共に地に坐しいて、一言も彼に言いかくる者なかりき」と第二章の末段は語るのである。 ◯かくて友人の来訪に会してヨブの心にもまた一変動が起ったのである。患難はその当時においては堪え得る。また敵や無情の人に対しては忍耐を持続し得る。しかしながらわが心を知る友人と相会する時、涙は初てその堰を破って出で来るのである。患難におけるこの心理を知りて初てヨブ記の構想を知り得るのである。三友人はヨブのこの心理を察し得ざりし故に、真正面より彼の論理に向って突撃したのである。かくて三章以下に記さるるヨブ対三友人の議論は始まるのである。 第三講 ヨブの哀哭 第三章の研究 ◯ヨブの哀哭はヨブ記の到る処にあるが、第三章はその哀哭の最初でありかつその最も代表的のものなるが故に、この章の研究は甚だ有意味なのである。 ◯さてこの章の研究に当り注意すべきは、五章十五節の「彼は六つの艱難の中にて救い給う、七の中にても災禍汝に臨まじ」の語である。ユダヤにありては七は完全を意味する語であれば、六は未完を示す辞である。故に七の艱難とは艱難がその極に至ったことを意味するのである。今ヨブの場合を見るに、事実上六の艱難は既に臨んだのである。牛と牝驢馬全部及び僕若干、羊全部と僕若干、駱駝全部と僕若干、子女全部、健康、妻と六回に分ってこれらを失ったのである、第四以下の艱難の如きはかなり手痛きものであり、第六の如きはその最たるものであった。けれども禍はなお六に止まっていた。もし更にこれに加えて第七の災来る時、ヨブの艱難はその極に至るのである。そしてもしなお来るべき艱難があるとすれば、それは友の離反である。ある場合において妻よりもなおよく人の心を知るものは真の友である。妻が彼を解し得ざるも友が彼を解し得ば、宇宙間なお一点の光が残るのである。もしこの最後の光まで失せ去った時はすなわち第七の艱難が臨んだのであって、ここに艱難はその完全に達し、宇宙は暗黒となるのである。 ◯ヨブの曩の地位を以てしては、彼はむしろ友の多きに苦しんだであろう。しかしこれらの友は皆彼の零落と共に彼を離れたであろう。けれども彼は、少くともエリパズら三人は彼の心を解し得ると思っていたに相違ない。案の如く三人は遠きを厭わずして彼を見舞うべく来た。すべての人に棄てられたるヨブは、いかに三人の来訪を歓んだであろうか。遥かに三友を望みし時、彼の心は天にも昇るべく躍ったであろう。しかしヨブにまた危惧がないではなかった。そは彼ら三人もまたあるいは彼の真の心を解し得ないではあるまいかとの疑であった。それは青空に一抹の黒雲を望み見て、雨の襲来を虞るる旅人の心と同じ虞れであって、心より払わんとするも払い得ない一種の雲影であった。 ◯一方エリパズら三友は、来り観て想像以上の悲惨なる光景にまず吃驚し、同情と共に一種の疑の起るを防ぎ得なかったのである。多分彼らは途中ヨブについて種々の悪評を耳にしこれを打消しつつ来りしも、疑もなくそれはある暗示を彼らに与えたに相違ない。そして彼らいよいよ来り見ればあまりに陰惨なる有様よ! あまりに大なる変化よ! 町の外に逐われて乞食の如く坐し悪腫全身を犯すその惨状よ! 疑うヨブあるいは隠れたる大罪を犯してこの禍を受けしにあらざるか。彼れ信仰に堅く立ち行う所正しからんにはかくまで大なる禍に会する道理なきにあらずやと。同情のみが彼らの心を占領したらんには、彼らはただちにヨブに近いて篤き握手をなし以て慰藉の言を発したであろう。しかるにいかにその驚き大なりしとはいえ、七日七夜地に坐して一語をも発しなかったというのは、彼らの心に同情のほかに右の疑が擡頭していた事を示すものであると思う。 ◯そしてヨブは三友の態度表情に依て彼らの心に潜むこの疑い──すなわち彼に対する批難──を直覚したのである。彼らは遂に彼の頼むべき友ではなかった。彼の虞れつつあった事が事実となって今目前に現れた。かくて最後の頼みの綱もいよいよ切れたのである。禍は六を以て終らずいよいよ七にまで至ったのである。すなわち彼の艱難はその極に達したのである。ために洪水の如き悲痛が彼の心を満たすに至り、それが自ら発して第三章の哀語となったのである。これ決して余一人の憶測にあらず、深きヨブ記研究家の幾人も認むる所である。かかる推測を二章と三章の間に加えずば、三章におけるヨブの信仰の急変を説明する道がない。産を失い子女悉く死せし時も彼は「われ裸にて母の胎を出でたりまた裸にてかしこに帰らん、エホバ与えエホバ取り給う、エホバの御名は讃むべきかな」(一の二一)といい、また妻が信仰放棄を勧むるに会しても「汝の言う所は愚なる女の言う所に似たり、我ら神より福祉を受くるなれば災禍をも受けざるを得んや」(二の十)と述べて静に信仰の上に堅立している。そのヨブが友人の来訪に会して突然三章の痛歎を発してわが運命を詛うに至るは、必ずそこに彼の心理状態の急変を促すある誘因があったに相違ないのである。そしてその誘因を友の離反の直覚と見るは、唯一正当の見方であると思う。 ◯第三章は三段に分ちて見るべき者である。第一段は一節─十節であって呪詛の語である。悲歎の極ヨブは何物かを詛わざるを得なかった。そして他に詛うべき何者をも有せざる彼は、遂にわが生れし日を詛ったのである。これ注意すべき点である。普通の信者はかかる際は神を詛いて信仰を棄てる。信者ならぬ者はあるいは社会を詛い先祖を詛い、父母兄弟を詛い、友を詛う。しかしヨブはかかる心理状態に入らなかった。彼は到底わが神を詛うことは出来なかった。また他の者を詛うことを得なかった。故にその生れし日を詛ったのである。極端なる患難に会しても神を詛わず神を棄てず、また神の存在を疑わぬ。ここに彼の信仰の性質の優秀なることを知るのである。 ◯一節─十節のこの呪詛の語のいかに深刻痛烈なるよ。その中二、三の難解の語を解せんに、八節に「日を詛う者、レビヤタンを激発すに巧なる者、これを詛え」の語がある。「日を詛う者」とは日を詛う術者のことである。「レビヤタン」は日月蝕を起す怪獣であって「レビヤタンを激発すに巧なる者」はこの怪獣をして日月蝕を起さしむる魔術者のことである。故に八節の語は術者をして良き日を詛いて悪日となさしめ、魔術者をして普通の日を日蝕の日となし普通の夜を月蝕の夜となさしめんと願ったものである。古代においては日月蝕を不吉と見たのである。次に九節の「東雲の眼蓋」は東雲の美婦人の起床に譬えての語である。曙の美はこの世における最上の美ともいうべきもの、殊に古代文学にはこれを讃美した麗わしき文字が多いのである。 ◯十節までにおいて激越の詞を以て生れし日を呪いしヨブは、十一節─十九節において死と墓とを慕う心を述べたのである。実に人は苦痛の極に至るや、死して一切を忘るる休安を懐うに至るのである。しかしながら死せんとするも死し得ざる彼、墳墓を尋ね獲んとするも獲ざる彼は、二十節以下において依然たる悲調を以て神に迫るのである。その辞切々人の心を動かさずば止まない。しかし彼の友はこの哀哭に接して、ヨブを以て信仰的堕落者と定め彼を責めるのである。(因に記す、ヨブのこの死を慕う語と似たるものを聖書中に求むれば、エレミヤ記二十章十四節以下の如きはそれである)。 ◯ヨブ己が生れし日を呪い、また死と墓とを慕いてやまぬ。しからば彼は何故に自殺を決行せざりしかとの疑問起る。一度わが生命を絶たば絶対の休安に入り得るのである。彼の如き死を慕える者においてはこれ最上の、かつ最捷径の問題解決法ではないか。マシュウ・アーノルドの作なる「エトナにおけるエムペドクレス」(Empedocles at Etna)はこの意味を表したる劇詩である。エムペドクレスが人生を不可解となして、遂にエトナの噴火口に身を投げ、以て最後の解決を計ったことを述べたものである。これ世に数多き事である。何故ヨブはこの道を採らなかったのであるか。実に死が最上の道なりと思わるる場合はたしかに在る。トマス・フードの詩「悲歎の橋」(Bridge of Sighs)の如きは一貧婦の自殺を描けるものであって、これを読んで誰人もその自殺の同情すべき者なるを思うのである。またわが『平家物語』における三位通盛の妻小宰相の自殺の如きもこの類である。実にある場合には自殺が最上のそして最美の道と見ゆるのである。 ◯しかしヨブは自殺しようとは思わなかったのである。聖書は徹頭徹尾自殺を否認している。旧新両約聖書を通じて自殺を記述せるはただ四つのみである。その一はギルボア山におけるサウルの自殺、その二はイスカリオテのユダの死、その三はアヒトペルの場合(サムエル後書十七章一以下)、その四はジムリのそれである(列王紀略上十六章十八)。いずれも信仰を失いし者の自殺である。人生の禍悉く臨みて死を懐う切なりしヨブすら、自ら生命を絶たぬのである。十一節─十九節を熟読せよ、そこに彼の死を慕う心は痛切に表われているが、自殺せんとの心は微塵も出ていないのである。「何とて胎より出でし時に気息絶えざりしや……しからば今は我れ偃して安んじかつ眠らん」とありて、彼は生れてただちに死せしならば今墳墓にありていかに安けきかなと歎いたのである。彼は今ここに墓に行きたしと望んだのではない。また「かかる者は死を望むなれども来らず」とあるは彼が自然死を求むれど得ざるを悲みし語であって、自殺という観念が彼の心に全然なかったことを示すのである。彼は自殺の罪なることをよく知っていたのである。彼れもしこの時自殺せしならば自身が後の大歓喜に入る能わざりしのみならず、ヨブ記の現わるるはずもなく、従って永久にこれを以て人を慰むることも出来なかったのである。実に至大なる不利益であったといわねばならぬ、わが生命を愛擁し、これを善用して自他を益すべしとは、聖書の明白なる教訓である。問題が行きつまりしとて自殺を選ぶが如きは聖書の精神に反し、また父の聖旨に背く行為である。 ◯しかしながらなおいう人があるであろう、ヨブ記、エレミヤ記の如きに死を慕う言辞ある以上は、そして聖書がかかる言辞を平然としてそのまま載せおる以上は、自殺を奨励せざるとするも少くとも自殺を是認するものにあらざるかと。しかしこれ一部を以て全部を蔽うものである。一度旧約聖書を去て新約に入らんか、この種の陰影は毫も認めがたいのである。例えばコリント後書四章八節以下のパウロの言の如きを見よ、これを幾度繰返して読むも、その偉大なる言辞たるを感じない事はないのである。日々死に面する如き迫害にありて生命と勇気に充溢しているその心理状態は、実に驚異に値するものではないか。これをヨブの哀哭と比して霄壌の差ありというべきである。しかしこの理由を以てヨブを貶することは出来ない。この大なる差異は、キリストを知ると知らぬに基因するのである。キリスト降世以後に生れしパウロはキリストを知れる故にかの大安心あり、キリスト降世以前に生れしヨブはいまだキリストを知らざる故にかの大哀哭があったのである。そしてこのキリストを暗中に捜索せんとするがすなわちヨブの苦闘史である。ヨブ記一巻四十二章要するにこれキリスト降世以前のキリスト探究史である。実に悲痛なる探究である。故に悲痛なる文字を衣とするのである。またキリスト出現前のキリスト探究史なる故にある意味において救主出現の予表であり、福音以前の福音であるのである。 ◯まことに人の苦痛は人の慰藉を以て慰めることは出来ない。人の千言万語もこの点においては何らの益ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に堪え得るのである。ヨブの苦闘が進んでパウロの救主発見に至て、苦痛は苦痛でなくなるのである。キリストが心に宿るに至って、人の慰藉を待たずして苦痛に堪え得るに至るのである。故に一度パウロの如き心を我に実得し得ば、すべての難問題が難問題でなくなるのである。最も不幸なる人さえ最も幸なる人となり得るのである。しかるに世には不幸に会せしため信仰的自殺を遂げし人が少なくない。これ肉体的自殺と相選ばざる忌むべき事である。我らはキリストに縋りて、すべての悲痛艱難に勝つべく努めねばならない。 ◯ヨブのこの哀哭の真因いかん。第六の禍までは彼を歎かしめず第七の禍来って彼の哀哭生じたと前に説明した。しかし第七の禍すなわち友の誤解は、この哀哭を爆発せしめし誘因たるに過ぎない。他に彼の悲痛の深き原因があったのである。それは神に棄てられしとの実感であった。彼はこの種の災禍続々として降るに会してエホバの真意を測り得なかったのである。これらの禍を受くべきだけの罪科彼にあらざるに神は何故に彼をのみかくも苦しむるか、多分神は彼を棄て彼を離れ去りしなるべしと、これ彼の心の底に潜みし懐疑であった。そして三友の彼を正解せざるに会して、この懐疑は奔流の如く心の表に現われて、彼の口より大哀哭を発せしめたのである。病の真因に穿ち得ざる庸医の見舞に接して患者の病苦は倍加し、独り自ら解決を得べく突き進んだのである。 第四講 老友エリパズまず語る 第四章、五章の研究 ◯ヨブ記四章五章の記す所は、第三章のヨブの哀哭に対するエリパズの答である。エリパズら三友人はヨブの不信的哀哭に接して、彼らの推測の過たざりしを知り、半ば彼を憐むの同情心より、半ば彼を責むるの公義心──神に対する義務の感──よりして彼に向って語らんとするのである。そしてエリパズは最年長者の故を以てまず口を開き、その長き人生の経験に照らしてヨブを諭さんとするのである。 ◯彼れまず口を開いていう「人もし汝に向いて言詞を出さば汝これを厭うや、さりながら誰か言わで忍ぶことを得んや」と。以て神の道のためには弁ぜざるを得ずとの、彼の意気込を知るべきである。しかして三節より五節までにおいて彼はまずヨブを責めていうのである、汝かつては人を誨え人を慰めたるもの今禍に会すれば悶え苦しむは何の態ぞと。いかにも傍観者の言いそうな冷かな言葉である。苦艱にある友に向て発する第一語において、かく訶詰の態度を取るは冷刻といわねばならぬ。しかしこれ彼の罪というよりも、むしろ当時の神学思想の罪である。この事は六節以後においてますます明白となるのである。 ◯六節にいう「汝は神を畏こめり、これ汝の依頼む所ならずや、汝はその道を全うせり、これ汝の望ならずや」と。これ特に注意すべき語である。ここに当時の神学思想が遺憾なく表われておるのである。エリパズはヨブの信仰の性質を語りて誤らざりしのみならず、エリパズ自身もまた(他の二友も勿論)この信仰の上に立っていたのである。我れ神を畏るる事に依頼み、我れ神の道を守る事に望を置く、わが敬虔わが徳行これわが依頼む処わが望のかかる所なりと。すなわち我の無価値を認めて専ら神に依頼むにあらず、我の信仰と行為に恃みてそこに小なる安心と誇りの泉を穿つのである。わが信仰の純正とわが行為の無疵とに恃む、これ何の時にもあるオルソドクシー(いわゆる正統教)である。ヨブはこの心理状態にありし故に災禍来るや忽ち懐疑の襲う所となり、エリパズらはこの状態を出でざりし故にヨブを慰め得なかったのである。ヨブの苦闘は、要するにこの誤想より出でて新光明に触れんがための苦闘である、すなわちすべての真人の経過する苦闘である。 ◯七節─十一節もまた右と関聯せる思想として、ヨブ記解釈上注意すべきものである。「請う想い見よ、誰か罪なくして亡びし者あらん、義き者の絶たれし事いずくに在りや、我の観る所によれば不義を耕えし悪を播く者は……みな神の気吹によりて滅びその鼻の息によりて消え失す」というはこれまた実に当時の神学思想である。罪を犯し不義を計る者は皆亡び失せ、義しき者は禍その身に及ばずして益す繁栄致富するに至るというのである。すなわち人の成敗栄辱を以て、人の信仰及び行為の善悪に帰するのである。エリパズはかくの如き既成観念に照してヨブの場合を見たのである。故に見るに忍びざるヨブの惨落を以て、何か隠れたる大罪の結果ならんと思うより外なかったのである。故にかく語りて明かにヨブを罪に定むると共に、彼をしてその罪を懺悔せしめて禍より救わんと計ったのである。深切なる、しかし冷刻なる友よ!(十節、十一節は獅子の猛きも亡ぶることあれば、不義者の亡ぶる如き当然のみとの意を表わしたのである。ここに獅子、猛き獅子、少き獅子、大獅子、小獅子と五種の獅子を記しているが、原語においてはいずれも別々な語を用いてあって、老少種別等に応じて種々の名の付けられてあった事が分る。これ獅子が比較的人家に近く棲息していた時代において、人々がこの動物の習性を熟知していたことを示すものである)。 ◯十二節─二十一節は有名なる幽霊物語にして、文学的立場より見てシェークスピヤの悲劇マクベス中のそれと比肩すべき者といわれておる。これエリパズが天地闃として死せるが如き深夜において、ある霊に接し、その語りし語を取次いだのである。これ彼の実験談か、あるいはヨブを諭さんための技巧なるか、いずれにせよかかる演劇的態度を以て悩める友を諭さんとするは、真率において欠くる所ありといわねばならぬ。しかしながらかく描き出す時は、聴者の心に深き印刻を与うる事はいうまでもない。 ◯しかして彼が霊より聞きし言の主意は「人いかで神より正義からんや、人いかでその造主より潔からんや、……これは(人は)朝より夕までの間に亡び、顧る者もなくして永く失逝る」というにある。人の神より潔からざること、人命のまことにはかなき事──これをエリパズはヨブに告げんとしたのである。すなわち彼は人の罪と弱きとをヨブに想起せしめて自ら正しとする彼の反省を促し、以て彼を懺悔の座に坐らしめんとしたのである。これ普通の道徳家の為す所である。 ◯エリパズの語はなおつづいて五章に記されている。二節─七節は愚者の必滅を説く。けだし災禍は悪の結果なりとの思想の一発表である。「災禍は塵より起らず艱難は土より出でず」と六節にあるは、災禍艱難は理由なく起るものにあらずして、必ず相当の原因ありて神より下し給うものであるとの意である。そして七節の「人の生れて艱難を受くるは火の子の上に飛ぶが如し」とは、火の子が上に飛ぶを本性とするが如く、人の艱難を受くるはその本質上免かれがたきことであるとの意である。いずれもこれエリパズの抱ける既成観念の発表である。 ◯進んで八節において「もし我ならんには我は必ず神に告求め、わが事を神に任せん」という、これヨブの信仰の不足を責めた語である。そして九節─十六節においては美しき言辞を以て神の異能を描いている。天然と人事に対する神の支配は実に鮮かに書き記されている。(十節に雨を地に降らし水を野に送りとありて、これを以て神の不思議なる業の一としたる如きは、沙漠の住民の立場としての見方であってヨブ記の舞台を知るに足る語である)。 ◯十七節以下はエリパズの艱難観として注意すべき所である。十七節にいう「神の懲し給う人は幸福なり、されば汝全能者の儆責を軽んずるなかれ」と。彼は人に臨む艱難を以て罪の結果と見、従ってこれを神よりの懲治と做したのである。既にこれ懲治である。すなわち同一の罪を重ねざらしめんがための警めである。さればこれ愛の鞭である。故にもし彼にして一度悔改めんか、その禍は取除かれ、その上なお神の保護と愛抱は豊かに下るのである。「神は傷けまた裹み、撃ちて痛め、またその手をもて善く医し給う」のである。故に懲治を受けたる者は饑饉においても救われ、戦に出でても死せず、他の獣にも襲わるる事なく、天地万有と相和ぐに至り、衣食住において欠くる所なく、子孫相つづいてこの世に栄え、長寿の幸福を享受するに至ると、これエリパズの語る所である。この観念もとより完きものではない。しかしながら慰藉の語としてたしかに貴きものである。富貴、繁栄、長寿等のこの世の幸福を以て神の恩恵の印と做す見方は依然として存しておるけれども、患難を以て懲治と見、この懲治に堪えし者の上に各種の恩恵相重なりて下ると説く辺は、文も想も相伴って美わしというべきである。しかりこれ慰藉の言としてたしかに貴きものである。 ◯以上を以てエリパズの第一回演説は終ったのである。その内容について考察を下す前に、この場合の事を今日の事に喩えて考うるは甚だ便利である。まずヨブを以て今の教会の信者とせんに、彼れ信仰及び行為において欠くる所なく、模範的信者として教会員の間に大に推称せられ、その家また富みかつ栄えていた。依て教会員らは彼の栄達を以てその良信仰の賜物なりと見做していた。しかるに何事ぞ一朝変事起りてヨブの繁栄忽ち消え失せ、身は零落して乞食の如く、体は人の厭う病毒の犯す所となった。教会員ら呆然として為す所を知らず、一人としてその所由を解し得る者がない。すべての会合は彼に関する噂、または批評を以て充たさるるに至った。彼の如き篤信家にもかかる大災禍の臨むは神の存在せざる証拠にあらざるかと疑う者さえ現われた。あるいは神は存在すれど必しも愛の父にあらざるならんなどという者もあった。しかし大多数の賛成を以て全会の輿論となったのは、彼が何か隠れたる罪を犯したためにこの大災禍が神より下ったのではあるまいかという老牧師の推測であった。ここにおいてか代表者数名を選びてヨブを見舞わしめ、その痛苦を慰むると共にその罪を懺悔せしめて、再び神の恩恵に浴せしめんとの議が全会の賛同を得た。かくて三人の委員が挙げられた。甲は老牧師エリパズ、乙は壮年有能の神学者ビルダデ、丙は少壮有為の実務家ゾパルであった。三人到り見れば、ヨブの実状は思いの外に惨憺たる有様であった。彼らは彼らの推測の誤らざりしを今更の如く感じた。一方ヨブはまた彼らの沈黙の中に彼らの心中の批難を知りて悲歎一時に激発した。しかるに彼らはヨブの哀哭の語に接してその言辞に因えられてその心裡を解する能わず、ますます彼らの推測の正当なりしを悟り、ここにヨブを責めてその私かなる罪を懺悔せしめ、以て彼を旧の恩恵の中に引き戻さんと計ったのである。そして年長と経験との故を以て老牧師エリパズまず口を開き、全教会の輿論を提唱して第一回の訶詰を与えたのである。──かく考えてこの場合を今日に活かすことが出来るのである。 ◯しかしてエリパズの語りし処は如何。その中に美わしくかつ正しき思想を含まざるにあらず、されど要するにこれ当時の神学思想の発表たるに過ぎない。すなわち災禍は罪のために起りしもの、すなわち上よりの懲罰であるというのである。しかして事実かかる場合少からざるは、エリパズならぬ我らもまた人生において数多たび観取する処である。しからば何故ヨブは「しかり!」とこれに応じてその罪を告白しなかったか。何故六章においてその友の推定に対して激しき憤懣を放ったのか。彼のこの憤懣こそまことに愚なるものではあるまいか? ◯否しからず。罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない。もししかりとせばキリストは如何、パウロは如何、その他多難の一生を送りし多くの優秀なるキリスト者は如何。苦難迫害を以てその一生涯を囲まれたるキリストは、己の犯せる罪の結果を受けたのであるか。罪とはキリストと全くかけ離れた者ではないか。パウロ以下多くの信者は、勿論イエスの如き聖浄完全の人ではない。しかしながら彼らの受けた苦難災禍がその罪の結果でないことは明々白々の事実ではないか。しからば人の受くるすべての災禍苦難をその犯せる罪の結果と見ることは出来ない。 ◯苦難に三種あるを我らは知る。第一は罪の結果として起るものである。これ神の義において当然しかるべきものである。第二は神より人に下る懲治としての苦難である。これ愛の笞である。恵の鞭である。これまではエリパズも知りヨブもまた認めている。しかるにここにヨブもエリパズも他の二友も知らぬ苦難がある。これ第三のそれであって、すなわち信仰を試むるために下る苦難である。故にこの苦難に会するは特に神に愛せらるる証左である。浅き人は第一のみを知り、これより進める人も第二を併せ知るに止まる。しかし最も注意すべきは第三である。この三を併せ知らずしては苦難は解らない。ヨブは第三を知らぬために苦むのである。故に彼の苦闘はこの新原理を発見せんがための苦闘である。そしてエリパズら三友の言辞の肯綮に当らずかつその同情の不足せるは、これまた第三種の災禍を知らぬからである。そしてヨブの場合がこの第三種のものであることは、第一章の天国の場がこれを暗示しているのである。ここに信仰を試むるための苦難の襲来は予示されているのである。されども誰人か天国の光景を知らん。ここにヨブの苦みあり、三友の迷が在るのである。 ◯ブレンチウス(Brentius)いう、人が患難に会したる時はその患難を以てその人を審判くべからずその人格を以てその患難を審判くべしと。けだし患難の意味は人の人格に依て異なるのである。十字架に釘けられし二盗賊の死は罪の当然の報としての死である。しかし同じく十字架に釘けられしイエスはその正反対である。故に我らが人の受けし災禍苦難を以てただちにその人を判定するは大なる誤である。その人の人格に依てその苦難の意味を判定すべきである。苦難にも幾つも意味がある。人により場合によりて異っている。一様の既成観念を以てすべての場合を蔽うことは出来ない。故に艱難を以て人を審判かずその人格を以てその艱難を審判くべきである。 第五講 ヨブ再び口を啓く 第六章、七章の研究 ◯前にも説きし如く、エリパズらは禍は罪の結果なりとの既成観念を抱き、この観念を以てヨブの場合を判定し、以てヨブをしてその罪を認めしめんとしたのである。彼らはかくしてヨブをその災禍より救い得ると信じた。そして年長のエリパズまずこの意味を以て五章、六章の語を発し、ヨブをしてその隠れたる罪を告白せしめんと計った。ヨブもとより己を以て完全無疵とはしない。しかしながらこのたびの災禍がある隠れたる罪の結果なりとは、彼において全然覚えなき事であった。故に彼はエリパズの訶詰に接して、憤然として弁明せざるを得なかった。これ第六章に載する所である。 ◯一節─四節は友に対する不満の発表と、己の立場の弁明とである。「願くはわが憤恨の善く権られ、わが懊悩のこれと向いて天秤にかけられんことを」というは、友の観察の浅きを責めし語である。「さすればこれは海の沙よりも重からん、かかればわが言躁妄なりけれ」とあるは、苦悩大なるため前の哀哭も我れ知らず躁妄に陥ったのであるとの意である。ヨブは自己の哀語の乱調を明に認めていたのである。これ苦悩に重く圧せられし心の琴の、おのずからなる乱奏であった。しかるに友はこれを悟らずして、ヨブの哀々たる心の呻を言句の末において判定する。これヨブの大なる不満であった。故にこの語を発したのである。「それ全能者の箭わが身に入りわが魂その毒を飲めり、神の畏怖われを襲い攻む」と四節はいう。これヨブがその苦悶の理由を示して、わが立場を弁明したのである。神は今やわが敵となりて我を撃ちたるかと、これ彼の暗き疑であり、またの懊悩の原因であったのである。 ◯五節─七節は友の言の無価値なるを冷笑した語である。「淡き物あに塩なくして食われんや、卵の蛋白あに味あらんや」というは、いわゆる乾燥無味砂を噛むが如しという類の語であって、エリパズの言に対する思いきった嘲罵である。 ◯友今や頼むに足らず、友の言はいたずらに我を怒らすも、一毫の慰藉をも我に与えない。しからばわが願う所は依然として死の一のみと、かくて八節─十三節の語となったのである。「願くはわが求むる所を得んことを……願くは神われを滅すを善しとし御手を伸べて我を絶ち給わんことを」と彼はひたすらに死を希う。前説せし如く彼は死を願えども、それは神が己を取り去り給わんことを願ったのである。決して不自然なる自殺を望んだのではない。自殺などということは彼の思うだにしない所であった。これ大に注意すべき点である。 ◯十四節─三十節は、友の頼みがたきをを述べし言として頗る有名である。文学的意味においても価値と名と共に高く、西洋の文学書にしばしば引用せらるるものである。まず十四節において友の同情心の不足を責めて軽き脅迫を与え、十五節─二十節においては友を沙漠の渓川に譬えて、生命を潤おす水を得んとてそこに到る隊客旅(Caravan)を失望慚愧せしむるものであるとなしておる。げに当時のヨブの心を語るべくこの比喩は適切である。人生の沙漠に生命の水を求めつつあったヨブは、たまたま三友の来訪に接して、あたかも隊客旅が遥かに渓川を望見せし如くに感じた。そこには必ず彼の求むる水があると思った。しかるにいよいよ近づきて彼らの態度を見、またその語に接するや期待は全然裏切られて、わが渇を医すべき水は一滴も見当らないのである。ヨブの失望察すべきである。故に二十一節において「汝らも今は虚しき者なり」と彼は友人らに対しまず総括的断定を下して後ち、激語を重ねて彼らを責むるのやむなきに至ったのである。 ◯二十四節の「我を教えよさらば我れ黙せん。請う我の過てる所を知らせよ」とは彼の心の切なる願そのままの発表である。同時にまたこれを為し得ぬ友の無能を責めた語である。二十六節には「汝らは言を規正めんと思うや、望の絶えたる者の語る所は風の如きなり」とある。ヨブは自己の語る所が風の如く秩序も聯絡もなくして、取るに足らぬものなることを自認していたのである。これ望の絶えたる彼としては自然のことである。しかるにかかる者の語の言葉尻を捉えて是非の批判を下すは何の陋ぞと責めたのである。友人らはヨブの言語の表面の意味のみを見てその誤謬をたださんとする。かくては「言を規正」むるに止まって、ヨブ自身を規正むる事は少しも出来ないのである。これいわゆるオルソドクシー(正統派)の取る態度である。いたずらに死文死語に執して相争い、自己を正しとし、自己の定規を他に加えるのである。 ◯二十七節の「汝らは孤子のために籤をひき、汝らの友をも商貨にするならん」は人身売買の罪をも犯すに至らんとの意である。ヨブがかく友を責めし余りに峻烈なりと評さるるであろう。しかしこれ感情激発の語であれば、普通の批判の標準を以てこれに対すべきではない。しかしながらヨブの言必しも全然誤謬ということは出来ない。前にもいうた通り、エリパズら三友人はいわゆるオルソドクシーの徒である。しかしてオルソドクシーはその信条、その神学の擁護のためには、ある時はいかなる罪をも犯して憚らないのである。そもそもオルソドクシーなるものは、ある真理の一群を信仰箇条と定めて動かざるものである。もしこれらの真理を真正の意味において受得信奉すればこれ理想的の状態であって、かかるオルソドクシーは貴むべきものである。しかるにこの一群の真理を固定の教条として相伝的、非実験的に丸呑にし自ら信条の純正を以て誇り、人に強ゆるにこれを以てし、もし人の信仰または行為にして自分らの信条と相反する時は、ただちに彼を不信非行の罪人として排斥せんとする。これいわゆるオルソドクシーである。彼らはその教条、その神学をあらゆる他のものの上に置くのである。故にその教条、その神学のためには、あらゆる他のものを犠牲に供して厭わない。その結果は知らず識らず恐ろしき罪をも犯すに至るのである。ヨブは二十七節において、三友のオルソドクシーの恐ろしさを説いたのである。ヨブ記の著者はこの言をヨブに発せしめて、あるいは当時のオルソドクシーを責めしものではなかろうか。 ◯かくてヨブは二十八節以下において、強き語を以て自己の無罪を主張している。「この事においては我れ正し、わが舌に不義あらんや、わが口悪しき物を弁えざらんや」とは彼の友に答えし最後の語である。実にヨブは罪の故ならずして禍に逢ったのである。しかるに友は罪の故なりと固く信じて彼を責むる。故にヨブは怒って己の無罪を高唱せざるを得なかったのである。 ◯友は人にして神ではない。友に満全を望むことは出来ない。友より得る所には限がある。故に友に過大の要求をなすべきではない。この事をヨブは今学んだのである。彼は余りに友を信じ過ぎていた。友を以て全く己と等しきものと思い、友はわが衷心を悉く了解しくれるならんと予期していた。しかるにこの予期は裏切られて彼は大なる失望を味った。そして初めて友の頼みがたきを悟ったのである。初め彼は妻に背かれ、ここにまた友に誤解せられた。夫婦の関係といい友の関係といい、いずれもこれ人と人との関係であって、神と人との関係ではない。もし完全の妻を得また完全の夫を得て人生の幸福を計らんとならば、ただちに失望の襲来となる外はない。人は完全なるものでない、故に全然依り頼むべきではない。人には先天的の制限がある。よくこの事を知って人がその妻、その夫、その友に対して過大の要求をなさざる時、そこに寛容と理解と平和と愛とが自由の流れ口を得て、ここに幸福なる夫婦、幸福なる友人関係が生れるのである。しかしてこの事がヨブに解り、最後に至って彼が遂に神のみを唯一の真の友として持つに至って、彼は幸福と安心の絶頂に達し、我に同情足らざりし三友のためにも祈るほどになり得たのである。(第四十二章を見よ)。 ◯人に満全を望みて後ち失望ししかして人を怨む、これわが国人の通弊である。この時失望のあまり信仰より堕つる者さえある。これ出発点において全く誤っていたためである。人は頼むべからず、頼むべきは父なる神と子なるキリストのみである。人に頼らず神を友とし、キリストを友として初めて全いのである。かかる状態に入りし人のみ他に対し、夫に対し、妻に対し、子に対し、友に対して正しき関係を保ち得るのである。まず神に頼みてしかる後に人に頼む、その時に人は信頼するに足る者となる。 ◯ヨブは七章においては神に対して訴うる処あった。これ第三章の反覆であって、依然死を希う語である。しかしその間にヨブの思想に進歩がある。三章と七章を仔細に比較して見ればこの事が解る。けれども容易くは解らない。これがヨブ記の実験記たる証拠である。実験そのものの提示なるが故に、すなわち人生の事実そのままの記載なるが故に、それに徐々たる思想の進歩が隠れて存しているのである。勿論著者の筆の巧妙をも認めないわけには行かない。しかし実験の上に立ちての文藻なる故の巧妙である。空虚の上にいかに巧なる想像の橋を架するも、かくの如くなることは出来ないのである。 ◯一節─十一節は逃れがたき人生の苦悩を深刻なる語を以て述べたものである。十二節以下は神の手の彼の上に加わりて離れざるを厭い、死の早く来らん事を望みしものである。「人をいかなる者として汝これを大にし、これを心に留め、朝ごとにこれを看そなわし、時わかずこれを試み給うや、いつまで汝われに眼を離さず我が津を咽む間も我を捨て置き給わざるや」とは彼の神に対する切々たる哀訴である。故に彼は「我を捨ておき給え」と願い、また「われ命を厭う、我は永く生くることを願わず」と歎くのである。実にこれ神を篤く信ずる者の叫である。彼は大災禍に会するも毫も神の存在を疑わない。ただ神が我を撃ち、我を苦め、我を試み、我の上に監視の眼を弛めざるを呟きて神が我より離れんことを願い、死の早く来らんことを望むのである。これ実に信仰家の苦悩である。その哀々として吾人の心に迫り来る理由はここにあるのである。 ◯ある人言わん、かく苦悩を重ぬるよりは神を棄つるの勝れるに如かずと。まことにしかり、神を離れ、神を忘れ、神の存在を否定する時は、ヨブのこの苦悩は薄らぎ問題の解決は容易となるのである。まことにそうである。しかしながら神を棄て神を否定する時人生は全然無意味となるを如何。神を棄てて問題の解決を計るは最捷径である。けれどもこれ人生を無意味とするの結果に帰着するのである。故に人生を重んずる者は、かかる解決法を計り得ない。是非とも神を保持してその上に立ちて問題の解決を計らねばならない。神を棄てざる時、この苦難の降れる意味は如何。神の存在と罪なくして降る災禍とは、両立しがたき二現象である。この二つを何とかして両立せしめずしては、問題の解決には達しない。ここにヨブの特殊の苦悩が存するのである。しかしてまたそこに特殊の貴さも存するのである。 ◯神を父としキリストを主とする信仰の上に立ちて人生の矛盾を解かんとす、ここに我らの特別の苦心困難が存するのである。信仰を棄つれば問題は忽ち解ける。しかしかくては人生は無意味となり、我は貴き生の消費者となり、人生の失敗者と堕するに至る。故に人として活きんためには、是非とも信仰を保持せるままにて難問題の解決に当らなければならない。ここに困難があり、ここに苦悶懊悩が生れる。しかし人生を愛重するものは、いかなる代価を払っても信仰の上に立ちての解決を計り、神の為し給う所の正しきを証さなくてはならぬ。若きミルトンは Justify the ways of God to men と言いて、神の為し給う所を人の前に正しと証するを以てその一生の標語となした。我らもまた苦悶を以て信仰の上に立ちて解決を計り、新しき光明に触れ、我のため、人のため、人類のために計らねばならない。これは唯一真正なる人生苦難の解決法である。しかして神はかくの如き解決法を我らに命じ、かくの如き解決を我らより求め給うのである。故に苦難と痛苦は、我らに満全の光と幸福とを与えんとする天使である。我らはこの事を忘れてはならない。 第六講 神学者ビルダデ語る 第八章の研究 ◯第八章を研究する前に、少し前講を補う必要がある。七章十七、十八節の「人をいかなる者として汝これを大にしこれを心に留め、朝ごとにこれを看そなわし時わかずこれを試み給うや」なるヨブの言は詩篇八篇より引用せるものと思わる。しかし彼においては神の愛を嘆美せし語であるのに、ここにおいては神の眼の己より離れぬを呟きしものである。ヨブは何故かかる悲声を発したのであるか。これ神に対する呟きであるのみならず、その内容たる頗る不道理であるといわざるを得ない。故にある人はいう、ヨブの病気は癩病の一種なる象皮病にして、この病は精神の異常を起しやすきもの故、彼はかかる故なき迷想を抱くに至ったのであると。しかしながら健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味いし人が少なくない。アウガスチンの如き、バンヤンの如きはその最たるものである。事は前者の『懺悔録』及び後者の『恩寵溢るるの記』において明かである。彼らは罪の苦悶の故に心の平安を失いて、悲痛懊悩の極、神に向って何故かくも我を苦むるかと呟いたのである。さればヨブの呟きは決して彼の病の徴候ではない。多くの真面目なる人の霊的実感として起りし事である。 ◯そして誰人といえども、神に対してこの呟きを抱ける間は神を離れないのである。神を棄ててしまえばこの呟きも失せる。さわれかくては人生の失敗者たるの否運に会するを如何。人生を愛する以上、神を保ちおりて難問題の解決に当らなくてはならない。故に苦難懐疑の中にありて神を保たんとの努力に歩む時、その努力の一変態として神に対する呟きの起る事がある。これは善き事でない。しかし全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れりとする。しかしてこの呟きのある間は神との関係が絶えぬのである。故に再び呟きなくして神を信じ得るに至る見込があるのである。 ◯ヨブは右の如き呟きを以てその哀語を終えた。これに対してこんどはシュヒ人ビルダデが語るのである。三友順次に語りこれに対してヨブは一々返答する。(ヨブの語には三種ある。甲は友に直接答うる語、乙は神に訴うる語、丙は己に語る語すなわち独語である)。そしてヨブは友の攻撃に逢うごとに進歩する。さればその語る内容は一段一段光明に向って進むのである。友に責めらるるごとに彼の苦痛は増す、しかしそのたびごとに少しずつ新光明に触れる。かくして一階また一階と進展の梯子を踏みて遂に最後の大安心境に到るのである。しからば最初エリパズの責むる所となった時ヨブはいかなる新光明に触れたか。それは六章七章の彼の答において明なるが如く(一)友の頼むに足らぬことを悟り(二)神に対する誤想より離れ始めたのである。彼がかく神に対して呟くのは、その抱ける神観の誤謬に基するのである。神は信仰に立ち、義を行う者に物質的恩恵を下し、しからざる者に災禍を下すと做せし如きは、明かに彼の神観の誤謬を示すものである。かく神を正解しおらざりし故、呟く必要も起ったのである。神その真正において信受せる者、いかで呟くの必要があろうか。故に彼は神に向って呟きつつその神が真の神にあらざるを学びて、次第に真ならぬ神より離れて、真の神に近づくに至るのである。そしてその第一歩がこの時すでに彼に始まったのである。 ◯第八章のビルダデの言を調べてみよう。まず一節─七節を見よ、ここにビルダデの神学思想は遺憾なく表われている。四節において彼は「汝の子供かれ(神)に罪を獲たるにやこれをその愆の手に付し給えり」というた。彼はヨブの子らの死はその罪の当然の報いなりと断定したのである。彼もとよりヨブの子らの罪を見たのではない。ただ罪を犯したに相違なしと断定したのである。(罪を獲たるにやと想像的の言語を用いたのは単に用語上の礼儀たるに過ぎない)。彼は災禍は必ず罪の結果であるとの神学思想を以て、すべての場合を照らす神学者である。故にヨブの子らは当然ある重き罪を犯して、その罰を受けたものに相違ないと断定したのである。そして彼は進んで「汝もし神に求め全能者に祈り、清くかつ正しうしてあらば、必ず今汝を顧み汝の義き家を栄えしめ給わん……」という。すなわち彼はヨブもまた罪の結果なる災禍に苦めるものとなし、死せる子は逐うべからず、少くとも生ける汝は正に帰り義を行い以て物質的恩恵の回復を計れと勧めるのである。無情なる浅薄なる神学者よ! ◯十人の子を悉く失い身はこの上なき困苦の中にある友に向って、この言をなすのいかに無情なるよ! 汝の子の死は罪の故なりと告ぐ。かかる言を以てして争でヨブを首肯せしむるを得よう。もし罪の故を以てせば我こそわが子らより先に死すべきものであると、親の心はただちに反駁するではないか。この人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ、正にその神学の純正を誇る若き神学者そのままというべきである。彼の言は、あたかも学舎にて学びし既成の教理をその筆記帳を見て繰返すが如くである。これ余が彼を「神学者」と名づくるゆえんである。 ◯八節─十節において、彼は己の断定の支持者として古人を引くのである。これまたいかにも学者らしき態度である。今日においていえば「何某曰く……、何某曰く……」と頻りに大家の権威を以て自説を維持する類である。 ◯十一節─十九節は、自然界の事象を三度引例して神に悖る者の必滅を主張したのである。十一節に「蘆あに泥なくて長びんや、葦あに水なくして育たんや」とありて、この二つの植物が水辺に生ずるものなることを示している。「蘆」と訳せるはパピラス(Papyrus)であった。これエジプトにありてはナイル河の水辺、パレスチンにありてはメロム湖の周辺に生ずる草である。これを以て古代人は紙を製したのである。英語にて紙をペエパー(Paper)と呼ぶは、パピラスより出でたのである。また日本訳聖書に「荻」と訳せしはむしろ「葦」と訳すべきもので、これまた水辺に育つ草である。十二節に「これその青くしていまだ苅らざる時にも他の一切の草よりは早く枯る」とあるは、旱魃来りて水退くやこの二つの草が忽ち枯るることをいうたのである。この両節の如きは、古代博物学の資料として値あるものである。しかして十三節に「神を忘るる者の道はすべてかくの如く、悖る者の望は空しくなる」とありて、神を忘れ道に悖る者は旱魃時のこの二つの草の如く、その繁栄一朝にして消え失すとの意を述べている。これ第一の引例である。 ◯次の十四節には「その恃む所は絶たれ、その倚る所は蜘蛛網の如し」とありて神を忘れて他の物に頼ることの空しきを述べている。彼が営々として名誉、財産地位等を積み重ねてこれに依頼むは、あたかも蜘蛛がその網を金城鉄壁として頼めるの類であるというのである。これ第二の引例である。 ◯十六節─十九節は神を忘るる者を再びある草に例えたのである。「彼れ目の前に青緑を呈わし、その枝を園に蔓延らせ、その根を石堆にからみて石の家を眺むれども、もしその処より取除かれなばその処これを認めずして、我は汝を見たる事なしと言わん……」とある。これ多分一夜に育ちて忽ち頭上を蔽えりというヨナの瓢の類であると思う。忽ちに成長して全園を蔽うに至り、その勢威人を驚かせど一度根を絶たば枯死して跡を止めない。すべて神を忘るる者の運命はかくの如く、その繁栄は一夜の夢の如きものであるというのである。これ第三の引例である。 ◯ビルダデは右の如くに説きて、ヨブが神を忘れ道に悖りしためその繁栄一朝にして失せたのであると主張したのである。故に二十節以下においては、ヨブが罪を悔い正に帰りて再び神の恩恵に浴さんことを勧めているのである。「それ神は完き人を棄て給わず……(汝もし神に帰らば)遂に哂笑をもて汝の口を充たし歓喜を汝の唇に置き給わん」というておる。 ◯ビルダデの説く所に多少の真理がないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である。彼の苦言もただヨブより哀哭の反覆を引き出したのみに終った。神の言であるという聖書に、かく友に対する無情なる語あるを怪む人があるであろう。しかしこれはこの種の場合にこの種の言を友に向って発することの無効なるを記して、読者に言外の警めを与えたのである。すなわち艱難にある友に向ってはかくの如く語るべからずと教えたのである。同様に一夫一妻を明白に主張する聖書がアブラハムの一夫多妻を記したのは、彼の一夫多妻が彼のすべての苦痛災禍の種となったことを記述して、一夫多妻の害を事実的に示し、一夫一妻の利を間接に教えたのである。聖書は文字の表面のみを読むべきものでない。その裏面にその真意の蔵せられある場合が少くないのである。 ◯ビルダデはオルソドクス(正統教会)の若き神学者である。彼はその真理と信ずる所を、場合も考えず相手の感情をも顧慮せずして、頭から平気で述べ立てたのである。あたかも一の学説を主張するが如くにその論理を運ばするのみであって、実際問題に携わるに当って必要なる気転や分別はその影すら無い。最初にヨブの子らの死を以て罪の結果のみと一挙に論断し去る如きは、相手の心を少しも察せざる無分別の言といわねばならない。その神学思想の幼稚なるは時代の罪としてやむを得ずとするも、その信条を確定不変の金科玉条となし、これを以てあらゆる場合を説明し去り、これがためには相手の感情の如きは勿論、何を犠牲に供するも厭わぬというその心持、その態度そのものが全く神学者のそれである。 ◯右の如きビルダデの態度、及びそれと大同小異なるエリパズ、ゾパルらの態度はいずれも排すべきである。ヨブ記はこの事をその教訓の一として教えるのである。彼ら三友が教義を知るも愛を知らざるは、かかる態度を生みし原因である。愛ありてこそ教義も知識も生きるのである。愛ありてこそ人を救い得るのである。愛なき知識は無効である。この事をヨブ記は文字の裡に暗示しておるのである。これヨブ記の大文学たる微証の一である。 ◯諸君もしヨブ記八章に併せて、コリント前書十三章を読まば思い半に過ぐるものがあるであろう。殊にその初めの三節においていかに広き知識も、いかに強き信仰も、いかに盛なる行為も愛を含まざる時は全く空であると説けるは、あたかもビルダデを責むるが如くではないか。彼に種々の長処があったかも知らぬ。しかしその説く所が明かに示す如く彼は神の愛をよく知らず、また事実が示す如く友に対して真の愛を抱き得なかった。これ彼のすべての長処も、ヨブを慰むるにおいて全く無効であった理由である。 ◯まことに愛なくばすべてが空である。愛はキリストの福音の真髄である。再臨の信仰といえどもこれを既定教理の一となし、これに照して人を審判くが如きは、いわゆるオルソドクシーにて余の採らざる所である。これ真理の濫用または誤用であって、ビルダデの流を汲める者である。再臨は神の愛を最もよく示すものである故にこれを信ずというが健全なる信じ方である。聖潔の真理といえどもまた同様である。神の愛を第一前提としてその上に立ちし教理にして初めて値あるのである。また伝道も人を愛するがための伝道たるに至って、初めて真の伝道となるのである。この愛を根柢とせざる時、いたずらに純福音と誇称するも無効である。無効であるのみならず、大なる害を伴うのである。しかるに愛を心に置かずして、ただ教理のために教理を説く者が世に甚だ多い。これ教理のためには何者を犠牲とするも厭わぬ心を生みやすきものであって、愛の反対なる憎を喚び起し、無数の害悪を生むに至るのである。いかなる教理を説きいかなる伝道に従うも、それが愛の動機より出でしものでなくてはならぬ。余のこの小なる伝道の如きもまた父の愛を示さんため、また人の魂を愛するがためでなくてはならぬ。諸君のここに参集し来るもまた父の愛をなお深く知らんため、そして人に対するわが愛を増さんがためでなくてはならぬ。しからずしてこの集りを幾度なすも無効である。げに愛の不足を描くヨブ記八章は、愛の必要を我らに教えてやまぬのである。 ◯愛である、しかり愛である。愛ありての神学である。愛ありての教会である。愛ありての伝道である。愛なくしてはいかなる知識も、いかなる熱心も害ありて益なき者である。しかるに嗚呼、ビルダデ流の神学者何ぞ多き。まことに痛歎に堪えない。 第七講 ヨブ仲保者を要求す 第九章の研究 ◯ヨブの友三人は、ヨブに望みし災禍を彼の隠れたる罪の結果と誤断した。そして年長のエリパズまずこれをヨブに覚らしめんとて、第一回の勧告を試みしも徒労に終った。これを見たる若きビルダデはあからさまにヨブの罪過を断定して、彼に肉迫した。ヨブは益々心を痛めるのみであった。その様あたかも庸医が病を誤診して、初め普通薬を用いて無効なりしや更に劇薬を病者に服せしめし如く、病は平癒せざるのみか益々重る一方であった。しかしながら友人の誤解と難詰はヨブの思想を刺戟し、神を知らんとする熱情を益々高めし故、かえって彼を光明に向って導く原動力となるのである。この事を知るはヨブ記の主部(発端と結末を除きし部)を解する上において最も大切である。 ◯前講において述べし如く、ヨブの語は友に対する語と、己に対する語と、神に対する語の三種に分たれる。九章十章のヨブの語の中、九章一節─二十四節は友に対する返答、九章二十五節─三十五節は己に対する語(すなわち独語)、十章全部は神に向っての愁訴である。そして九章前半の友に対する答は、友の神観の批評とでも称すべきものである。神は善人を栄えしめ悪人を衰えしむるとは、ビルダデらの神観であった。これに対してヨブは答えるのである「神が果してかくの如きものならば世のこの状態は何の故ぞ、善人かえって衰え悪人かえって栄えつつあるにあらずや」と。二十四節には「世は悪しき者の手に渡されてあり、彼れまたその裁判人の顔を蔽い給う、もし彼ならずばこれ誰の行為なるや」とある。これ世に悪人の跋扈するを神の業なりと認めて、神を嘲りし語である。しかし真の神を嘲ったのではない、友人の称する所の神を嘲ったのである。すなわち友人の提唱する神観の誤謬を指摘したのである。この世のあらゆる不公平、義人に臨む災禍──これ必賞必罰の神の為す所としては全く不可解である。友人らの抱く神観を以てしては到底この世の実相を解し得ない。故に彼らの信ずる如き神を彼は信じ得ないというのである。九章前半は文字直接の意味においては、神を責むるが如くにして褻涜の極というべきも、実は友の提唱する神観の誤りを指摘したものであって、畢竟するに友を責めた語である。 ◯ヨブ対三友人の対話を読むに、すべての点においてヨブの彼らに勝っていることは明かである。信仰は勿論知識においても彼ら以上である。三友の信仰と知識を合するもなおヨブ一人に匹敵し得ないのである。故に三友の語にも見るべきものが少なくないが、ヨブ記の中枢はいうまでもなくヨブ自身の言である。三友の難詰の語はヨブより大真理を喚び出したという点において有意味ではあるが、その価値においては到底ヨブ自身の語とは比較し得べくもないのである。 ◯九章のヨブの語の中には、彼の広き知識が表われている。五節、六節には彼の地文学の知識が窺われる、「彼れ(神)山を移し給うに山知らず、彼れ震怒をもてこれを覆し給う」は火山の爆声を形容せし語、「彼れ地を震いてその所を離れしめ給えばその柱ゆるぐ」は大地震を描きし語である。次の七節─九節は彼の天文学の知識を示す語である。九節は「また北斗、参宿、昴宿及び南方の密室を造り給う」という。北斗は大熊星座(北斗七星)、参宿はオリオン星座、昴宿はプライアデス星座である。いずれも七つの重なる星を有する星座である。南方の密室は赤道以北の住民には見る能わざる星を総称したものであろう。(これと三十八章三十一、二節とを併せて当時の天文知識を知る良資料となる)。 ◯また十章に依れば、ヨブは生理学にも通じていたのである。まことに彼はその時代の最も深く、かつ広き知識を有していたのである。ヨブ記作者は学識と信仰とにおける当代の最優者を主人公として、その煩悶と最後の勝利とを描かんと努めたのである。ヨブ記の大作たる理由の一はたしかにここに在る。試に今日世界のあらゆる知識に達しおる人が宗教的大煩悶を味い、遂に翻然一切を棄てて父なる神に帰服せしという心的経過を描きし小説または脚本あらば、これほど現代の人に強く訴うるものはあるまい。げに広博深遠なる知識の所有者なりしヨブは、最後にその知識を悉くエホバの前に投げ出して、「我は罪人なり」との痛切なる叫びを発したのである。無学者の軽き煩悶と浅き解決ではない、大学者の重き煩悶と深き解決である。その煩悶の深刻なりしと共に、勝利は絶大であったのである。 ◯九節において星辰界の神秘を述べたるヨブは、十節においては更に進みて「大なることを行い給うこと測られず、奇しき業を為し給うこと数知れず」という。その当時の幼稚なる天文知識を以てすら、神の聖業の驚異すべきを知る。まして今日の進歩せる天文知識を以て宇宙の精妙荘美を知る我らは、益々造化の神を讃美すべきではないか。しかるに事実はこれに反して科学の進歩はかえって神を駆逐する傾きを生じ、今日の科学は人を神に導くものでなくして神を否定せしむるものとなった。これ実に痛歎すべき事であって、理想の状態の正反対である。近世の科学者中にてもニュートンの如き敬虔なる信仰家ありといえども、その多くは仏の天文学者ラランドの類である。彼れラランドは一生涯を天体観察に献げた人であるが、彼は言うた「余の望遠鏡に神の映りし事なし、故に神は在る者に非ず」と。現今いわゆるキリスト教国の科学は大抵は無神論の味方である。 ◯九章前半は神に対する強き疑いの語である。これ無神論者の言に似たものである。しかし懐疑は決して信仰を否定するものではない。大なる懐疑のある所ならずしては大なる信仰の光は現れない。黒煙の濛々として立ち昇る所に一度火が移れば、焔々天を焦す猛火を見るに至る。ヨブは九章の如き深き懐疑の黒煙に閉じ込められたるが故に、遂に信仰の火これに移りて霊界の煌火焔々として昇り、大光明は彼に臨みまた彼を通して世に臨んだのである。故に懐疑は貴いものである。知識のない所に懐疑はない。知識の少ない所に懐疑は少ない。ヨブの如き深き性質の人に広き知識備わりて、天の城を攻略せんとする如き激烈雄大なる懐疑が起ったのである。しかもこの懐疑の黒煙に天の霊火移りし故、遂に最終章に示すが如き光耀赫々たる大信仰に入ったのである。 ◯次に九章の二十五節─三十五節はヨブの己に対する独語である。己の憐れさを愍む語である。邦訳聖書において見るもその悲哀美に富める哀哭(Lamentation)たるを知り得るのである。二十四節までの友に対する語は、天地に挑むが如き元気充盈せるものにて、あたかもバイロンやニエチェの一篇を読むようであるが、これに反して二十五節以下は沈痛悲寥なる哀語である。その対照著しというべきである。しかし実は二十四節以前においても我を愍む語が見えるのである。すなわち二十、二十一節にいう「たとい我れ正しかるともわが口われを悪しとなさん、たとい我れ全かるともなおわれを罪ありとせん、我は全し、されども我はわが心を知らず、わが生命を賤む」と。しかしてこれバイロン、ニエチェらの近代文士のいい得ざる所である。大宇宙を前にしてのこの謙卑は彼らになきものである。ヨブのこの言たるパウロの「我れみずから省るに過あるを覚えず、されどもこれによりて義とせられず、我を審判く者は主なり」(コリント前四の四)とその精神を一にするものであって、神を畏るる者の魂より流れいずる語である。ヨブにこの心あり、また二十五節以下の如き己に対する失望ありし故に、遂に最後の救に浴し得たのである。これややもすれば自己を神となさんとする近代文人とヨブとの著しき相違点である。 ◯わが日は駅使(早馬使、駅丁)よりも迅く、いたずらに過ぎ去りて福祉を見ず、その走ること葦船の如く、物を攫まんとて飛びかける鷲の如し」との悲歎の語が二十五、六節にある、わが日の過ぎ去る事の早きを陸上、水上、空中の最も早き物に比したのである。今日において自動車、汽船、飛行機を挙ぐるが如きものである。(葦船は速力早き軽舸にして、今日も南米ペルーにおいて用いられている)。 ◯二十七節─三十一節はわが病の苦痛を訴えし語なると共に、またわが心霊の苦悶をありありと述べしものである。かく見てその生々した発表たるを知るのである。「われ雪水をもて身を洗い、灰汁をもて手を潔むるとも、汝われを汚らわしき穴の中に陥いれ給わん、しかしてわが衣も我を厭うに至らん」の如きを見よ。肉体の汚れと共に心霊の汚れを歎きしものたること明かである。「雪水」は砂漠地のこととて雪のある時にのみ水を充分有ち得るからの語である。「灰汁」は天然曹達(natron)すなわち天然に存する結晶せる曹達である。これを石鹸の如く使用するのである。 ◯三十二節以下はヨブ記中においても最も注意すべき語の一である。「神は我の如き人にあらざれば我かれに答うべからず、我ら二個して共に審判に臨むべからず」と三十二節に言う。ヨブは神と己との間に充分なる交通の道なきを歎じたのである。そして三十三節にては「また我らの間には我ら二個の上に手を置くべき仲保あらず」といいて、彼は神と己の間に仲保者のなきを遺憾としたのである。「仲保あらず」というは仲保を欲する心を示した語である。欲しきものが無き故に、その無きを歎いたのである。ヨブのこの叫びは、神の探究におのずと伴う仲保要求の最初の声である。旧新約全体においてこれより以前にこの声はないのである。その声は短くかつ微かである。しかし人の本性より出ずる重大なる叫びである。人の心の深みより生るる人類本具の叫びである。そしてこの要求は世界大となりて遂に満たさるべきものである。高等動物の眼の如きは頗る精妙なるものであるが、生物進化の流を溯ってみればその初現は一黒点、一核子たるに過ぎない。しかもこの微なる原始ありてこそ後の完き発達あるのである。そして十九章二十五節に至れば「われ知る我を贖う者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん」といいて、仲保者出現の確固たる希望を歌っているのである。 ◯しかしてヨブの仲保要求の完全に充たされたるは、勿論イエスの降世に依てである。かの微かなる叫び、遂にこの大なる実現にまで進化したのである。新約聖書はいう「それ神は一位なり、また神と人との間には一位の仲保あり、すなわち人なるキリストイエスなり」と(テモテ前書二の五)。またいう「もし人罪を犯せば我らのために父の前に保恵師あり、すなわち義なるイエスキリスト」と(ヨハネ一書二の一)。またいう「新約の仲保なるイエス」と(ヘブル十二の二十四)。この新約的大事実は、その初現をヨブのかの語において発したのである。ヨブ記にはかくの如き語が処々に在る。そはあたかも砂中に真珠を拾うが如くである。 ◯同じ意味において、我らはまた九章二節に注意すべきである。そこに「人いかでか神の前に義しかるべけん」とある。義人なし一人も有るなしとのことである。ヨブはこれをその最も深き意味においていうたのではないとするも、ここに新約の中心問題が存しているのである。彼は単なる失望の声としてこれを発せしも、実はこれ神と人とに提出せられし最重要の問題なのである。宇宙の中心問題ともいうべき重大問題が、その発芽をヨブの語において有したのである。見よ「人いかでか神の前に義しかるべけん」と、げにこれこの世における最も難き問題の提出ではないか。人は罪に生れ罪に育ち罪に歩みて、いかに奮闘努力するも神の前に己を義しくすることは出来ない。しかしながら人義たらずして永生を獲得することは出来ない。神いたずらに人を義とする時はみずから義たり得ぬを如何。ここに問題は至難中の至難として現れたのである。しかしながら人より見ての至難は神より見ての至難ではない。彼は遂にその独子を世に降し給うて、罪人を義とすると共にまた自ら義たるの道を拓き、遂に千古の難問を解決したのである。しかしてこの難問題は実にヨブ記の九章二節にその源を発したのである。 ◯ヨブ記は種々の大問題を暗示的に提出し、これに対して多少の解決を試みている。しかしその全き解決は勿論新約において在るのである。かの有名なる法王グレゴリー七世(ヒルデブランド)は特にヨブ記を愛読せしという。その理由はこの書の中に聖書中の真理が悉く含まれおるというにあった。すべてキリスト教の大真理はヨブ記の中に発芽している。しかもそれが暗示の形において問題として提出されている。すべて大著述の特徴は論証的なるよりも暗示的(Suggestive)なるにある。以てヨブ記の大を知るべきである。 第八講 ヨブ愛の神に訴う 第十章の研究 ◯九章前半は友に対する語、後半は自己に対する語である。そして沈黙暫時の後ヨブは第十章の語を発して神に訴うる処あったのである。前述せし如く、九章前半の彼の語は友の神観の不備を指摘したものである。彼は友の提唱する所の神学の神、教会の神に反抗したのである。そして別に真の神を発見せんとする努力に入ったのである。第十章はすなわちこの努力の発端を示したものというべきである。そもそも時代の神学思想に反抗して、別にわが魂の飢渇を医やすに足るべき神を見出さんとする苦闘は必しもヨブに限らない、他にも類例が多いのである。およそ深刻摯実なる魂の所有者は皆そうであった。故に十章におけるヨブと九章前半における彼とは、全然その心の姿を異にしている。十章に入りても彼の説く所は依然として旧き神ながら、その中に新しき神観が発芽しているのである。 ◯ヨブはまず「わが心生命を厭う、されば我れわが憂を包まず言い表わし、わが魂の苦きによりて語わん」との発語を述べて後ち、痛刻なる語を以て神と争わんとするのである。二節─七節は何故われを苦むるかと、神に向って不平を並べし箇処である。「われ神に申さん、我を罪ありとし給うなかれ、何故に我と争うかを我に示し給え」といい、「何とて汝わが愆を尋ねわが罪を調べ給うや」という(二節及び六節)。彼は神に苦めらるるが如く感じつつあったのである。実に彼は神が己を拷問にかけていると思ったのである。すなわち神はあらかじめ彼を罪ありと定め、そして拷問を以て彼を苦めて、彼に罪を自白せしめんとしていると思ったのである。 ◯およそ拷問なるものの起る理由が二つある。罪ありと推定せらるるも、罪の自白に接せずしては不正確なる故、罪人を糾弾し以てその罪を自白せしめんとするが第一の理由である。人命は明日を期しがたきもの故、早く罪を定めんとするが第二の理由である。これ人が人を審判くに当って拷問の起る理由である。甲の理由は人間知力の有限であって、乙の理由は人間生命の有限である。故に拷問は、有限という壁に取囲まるる不完全なる人の間の関係の上に生起する事象である。されば無限を以て特徴とする神──無限の知力と生命を有する神──においては何ら人を拷問にかける必要がないのである。しかるに今神が我を拷問にかけて苦めつつあるは何故であるかと、ヨブは神に向って迫るのである。四節に「汝は肉眼をもち給うや、汝の観給う所は人の観るが如くなるや」というは、神の知力は人のそれの如く有限なるかとの問であって、「否しからず神の知力は無限なり、故に拷問を用いずして人に罪あるかなきかを知る、しかるに我れにのみ拷問を用うるは何ぞ」と詰ったのである。五節の「汝の日は人間の日の如く、汝の年は日の如くなるや」は神の生命が人のそれの如く有限なりやとの問であって「否しからず無限なり、さらば何ぞ人を拷問にかける要あらんや」との詰問を含む語である。すなわち人と人との間に拷問の起り得る二つの理由は、神と人との間においては全然消滅するとヨブは主張するのである。しかるにこの理由なき拷問を神が我に向って加うるは全く不可解である。「汝は既に我の罪なきを知り給う」しかるに何の故のこの拷問ぞと、ヨブは神を責めかつ怨んだのである。 ◯次には八節─十二節を一段として読むべきである。「汝の手我を営み我を悉く作れり、しかるに汝今われを滅し給う也」と八節はいい、九節は八節の反覆というべく、また十節─十二節は「汝は我を乳の如く斟ぎ牛酪の如くに固め給いしに非ずや、汝は皮と肉とを我に着せ骨と筋とをもて我を編み、生命と恩恵とを我に授け我を顧みてわが息を守り給えり」という。乳の如く斟ぎ牛酪の如くに固め云々とあるは「乳産製造業」の盛なる地方にて初めていわるる形容語である。アラビヤ、韃靼等牧畜業の盛なる地方においては、獣乳が主要なる食物であるため、これを種々の物に製するのである。神が人を造るに乳の如く斟ぎ牛酪の如く固め皮と肉とを着せ骨と筋とをもて編むというは、胎内における発生を語ったもので、当時の発生学(Embryology)の知識を示すものである。勿論幼稚不充分ながら、九章の天文学と相対してここに古代生理学の一端が見ゆるのである。実に神はかく人を母の胎内に造りしのみならず、これに生命と恩恵とを授け、これを顧みて、あたかも母がその子の寝息を守るが如くに人の息を守るのである。かほどまでに神は努力と苦心と愛とを以て人を造り、育て、養い、守るのである。ヨブ自身はかくの如くに造られ、また育てられたのである。しかるに神の所作にして愛養物なる我を何故に彼はかくまで苦めかつ滅さんとするのであるかと、ヨブは依然として神に向って肉迫するのである。 ◯九章において神の宇宙創造及び支配を述べて高遠なる想像を筆に上せたる彼は、ここに繊細微妙なる造化の一面にその豊かなる描写力を向けたのである。心憎きまでに美わしき筆なる哉! 想像の翼を張って天の高きに達しまた地の深きを穿つ、高速と細微と伴い荘大と優美と並立す、まことに得がたき筆、古今独歩の大文学というべきである。 ◯人間発生の叙述としては十、十一節の不正確なるはいうまでもない。文字直接の意味においては、勿論近世科学の承認を得ることは出来ない。しかしながら言う所の精神に至っては、近世科学といえども敢て抗議を提出し得ないのである。宇宙万物を神の所作と見る時一個の人を獲るまでのその準備、その努力果して如何。神なる思想を外より入るるは科学の拒む所なる故、しばらく科学者の筆方を用いて「天然」なる文字を用うるも事は同一である。すなわち今日の科学に基き宇宙万物の進化生成を認めその上に立ちて進化の永き歴史を想え。漠々たる大虚の中に散乱せる物質は一団また一団相集合して、遂に無数の天体を形造るに至り、我が太陽生れそれに附随する数百の遊星現われ、初め火と熱せる地球も漸次冷却して漸く生物の育ち得るに至った。それまでには無限に等しき永き年を経過したであろう。地球生成以後人類がこれに住み得るに至りしまでには、三億五千万年乃至七億年を経過せしと科学者は算す。その間の変遷はどうであったか、人間の想像にもあまる事である。そして単細胞物の発生より進化また進化の幾億万年を経て、一重また一階の過程に整然たる秩序の道を一歩ずつ踏み上りて、遂に人類の発生となったのである。それまでの「天然」の努力奮闘は実に想像に余る絶大なるものがあった。そして神を信ずる者においては神のこのすべての努力、このすべての準備、このすべての時が人類生成のために費されたるを知る時は、勿論その人類という観念の中に己をも加えざるを得ないのである。すなわち父が我一人のために、これだけの準備と労苦とを為し給いしことを認めざるを得ないのである。 ◯しかるに世人の人を見るはこれと異っている。政治家はただ民を民衆という一団として見、経済学者は数を以てのみ人を見、軍人はあたかも将棋の駒を動かすが如き考を以て部下の兵に臨むのである。かく個人の認められざる社会にありては、我らもまた人を軽んじまた自ら軽んぜんとする。しかるに一度ヨブの見る処を以てせんか、人一人が神の絶大なる努力の結果として現われたるものにして、一人は大宇宙全体と匹敵するのである。しかしてこれ単にヨブ一人の思想に止まらず、またヨブ記一書の主張に止まらずして、実に聖書全体の教うる処である。 ◯神の心をこめての所作なる人を何故神は苦むるかと、ヨブは神に迫ったのである。そして我らキリストの救に浴して永遠の生命を信ずる者は、ヨブのこの詰問に対しては永生の真理を以てこれに答うるを最上の途とする。すなわち「神はその所作にかかる忠誠なる魂を決して棄てず、たとい一時彼を苦しむることあるも、しかして彼の生命断たるることあるも、神は復活の恵を以て彼を起し永遠の生命を彼に与えて彼をして最後のかつ永久の勝利を獲しむ」と答えるのである。そしてこれに関してはキリストの復活、その永生賦与の約束等確実なる証拠を提供し得るのである。これキリスト以後に生れし我らの幸福である。げに人生の苦痛惨禍は、幕一重のかなたなる永生を以てせずしては根本的に慰められ得ない。たとえば多年苦心撫育せし子女を失いたる母親の心の如き、復活再会の希望に依らずして何に依りてか慰め得よう。そして単に婦人のみに限らず男子もまた同様である。今日まで多くの知力優秀なる男子がこの事を信じて大に慰められたのである。近時の欧州においてサー・オリヴァー・ロッジやロムブロゾーの如き大科学者が競って心霊現象を以てする来世問題の研究に没頭する如きは、見逃すべからざる事柄である。さりながら来世問題についての最大権威者はキリストである。彼の復活ありて来世問題は完全に解かれたのである。 ◯しかしながらこの時のヨブは、その詰問に対していまだ明確なる解答を得なかったのである。故に彼は十三節以下においてまた呟きと哭きとに入るのである。「もし頭をあげなば獅子の如くに汝われを追打ち……汝はしばしば証する者を入れかえて我を攻め、我に向いて汝の怒を増し新手に新手を加えて我を攻め給う」とヨブは神の迫撃盛なるを怨じ、そして十八節以下においてまた死を慕う心を哀々たる文字を以て発表するのである。十八、十九節においてヨブはこの世に生れ来りしを悲み、次に二十節において言う「わが日は幾何もなきにあらずや、願くは彼れ(神)しばらく息めて我を離れ我をして少しく安んぜしめんことを」と。ヨブはわが生命の終近きを感じその前の少時の間神の迫撃の手が己の上に来らざらんことを願ったのである。憐むべきかなヨブ! 彼は神に攻められつつありと感じて、死ぬる前数日間なりと神がその手を緩め給わんことを乞うたのである。その心情まことに同情すべきでないか。そして彼は最後に言う「我は暗き地、死の蔭の地に往かん、この地は暗くして晦冥に等しく死の蔭にして区別なし、かしこにては光明も黒暗の如し」と。これ世を去って陰府に往かんとの心を言い表わしたものである。けだし旧約時代においては、死者は陰府(Sheol)という暗黒世界に住むと信ぜられていたのである。 ◯今第十章全部を心に置きて考うるにヨブは義の神に対して愛の神を求めているのである。八節─十二節において彼が神の愛護を述べたとき、彼の心に愛の神は曙の光を発し初めたのである。神は義たるに止まらずまた愛なりとの観念が、この時彼の悩める心に光明として臨み初めたのである。この曙光が発展して真昼の輝きとならば、神の愛は悉く解り、来世の希望は手に取る如く鮮かとなるのである。しかしながらこれは急速に発展すべきものではない。ちらと輝いた曙光は一まず消えてヨブはまた元の哭きに入ったのである。さわれ曙光はたしかに現われたのである。これ見逃すべからざる点である。 ◯神を義と見るは不充分である。ためにヨブは解決点を得ないのである。故に彼の神観は是非とも一転化を経ねばならぬ。第一の神のほかに第二の神を認めねばならぬ。義なる神のほかに愛なる神を認めねばならぬ。そしてヨブは十章において愛なる神を認め始めたのである。神を義とのみ見る時人の心は平安を得ない。罪を罰し悪をただし規律を維持するをのみ神の属性と見做す時、人はわが罪の報を怖れて平安を得ない。この時キリストを通して愛の神を知るに至れば、神観一転化を経て赦免の恩恵を実感し以て光明に入るのである。しかしキリストを知らぬヨブは、独りみずから愛の神の捜索に従わざるを得なかった。義の神と愛の神とが人の魂の中において平均を取るに至って、初めて人の心は安定するのである。それに至るまでは苦闘である。ヨブは今この苦闘の道程において在る。それはあたかも車を峻坂に押し進めるが如くである。二歩進みしかと思えば一歩退く。ヨブは十章の八節─十二節において愛の神の一端に触れしも、十三節以下また後退するのである。しかしおよそ光明授受に向って進む道程は常にこれである。この微細なる点を過たず描きしヨブ記は、偉大なる書といわざるを得ない。同時にこの書が人生の確実なる実験を背景とせる劇詩なることを知るのである。 ◯因に記す。十章八節─十二節に似たる箇処を旧約聖書中に求むれば、左記の如き代表的のものがある。いずれも新約的曙光というべきものである。 エホバ己を畏るる者を憐み給うことは父がその子を憐むが如し(詩百三編十三)。 女その乳児を忘れて己が腹の子を憐まざる事あらんや。たとい彼ら忘るる事ありとも我は汝を忘るることなし(イザヤ四九の十五)。 我らのなお亡びざるはエホバの仁慈によりその憐みの尽きざるに因る……(雅歌三の二二以下)。 ◯ヨブ記十章と併せて読むべき者は詩四十二、三篇である。「わが魂は渇ける如くに神を慕う、活ける神をぞ慕う」。しかし神は容易に見えない。「いずれの時にか我れ行きて神のみまえに出でん」と歎く。されどもかみの見えざる時は静かに神の見ゆる時を待ち、その希望の中に活くべきである。「ああわが魂よ、汝何ぞうなだるるや、なんぞわが衷に思い乱るるや、汝神を待ち望め、われに聖顔の助けありて我れなおわが神を讃め称うべければなり」と三度繰返さるるに注意せよ(四十二篇五節と十一節と四十三篇五節とにおいて)。望は達せられずしては満足しない。しかし望の達せられぬ間は、望のある事その事が慰めである。「汝神を待ち望め」とわが魂に告げつつ、静に待つ者は幸なるかな。ヨブは愛の神を探りていまだ得ず、僅にその一端を捉えてまたこれを放す。暗黒はなお霽れやらず光明はいまだ照り亘らない。しかし願は必ず充たさるる時が来るのである。 ◯疑問あり煩悶ある時、ただちに解決し得べきものではない。ただ必ず神より解答を賜わる時あるべしと信じて、希望を以て今の痛苦を慰むべきである。急ぐなかれ、慌てるなかれ、神を待ち望め、静に待望せよ、これ暗中に処する唯一の健全なる道である。 第九講 神智の探索 第十一章、十二章の研究 ◯我らの研究は次第に進みて、今やヨブの獲たる最大真理に近よらんとしておるのである。この際特にヨブ記研究全体について一言の注意をしたい。そもそもヨブ記了解の困難なる理由の一は、それが余りに多くの真理を含んでいるに在る。一見平凡なるが如き辞句がある重き真理を暗示しおる場合が甚だ多い故、それを見落さぬためには細心の注意を要する。ヨブ記に限らず聖書全体に亘りて、その記者たちの語法が我らのそれと根本的に相違せるは忘るべからざる事である。我らは順序を整え論理を辿りて組織的に結論に導き、彼らは前後の関係を顧慮せずして続々として真理を提示する。あたかも宝の匡を開きて手当り次第に宝石を取り出すが如くである。これ余りに多くの真理に充てるがためである。さりながら本講演はむしろ大体の経過を本流において探るを目的とし、支流または分流に探究の舟を乗り入るる場合は甚だ少ないのである。 ◯エリパズは初め実験に微して「神は善なり」と説き、次にビルダデは所伝によりて「神は義なり」と主張す。そしていずれもヨブの撃退する所となった。ここにおいてか最年少のゾパル現われ、天然学上より「神智測りがたきこと」を述べる。これ第十一章である。しかるに前述せし通りヨブは信仰において知識において遥かに三友を凌駕せる故、ゾパルの振廻す天然知識位にて怯むべきはずがない。ただちにその豊富なる知識の庫を開いて逆襲的にゾパルに答えるのである。これを載するは十二章である。そして彼の語はなお続いて十三、十四章となり、かくてヨブ対三友人の第一回答は決了するのである。 ◯まず十一章においてゾパルの語を見よ。一節─三節は彼の言わざるを得ざる理由を述べたものであって、ヨブの言説に対して起したる青年ゾパルの憤りはさながら見るが如くである。しかして四節より本論に入りていう「汝は言う、わが教は正し、我は汝の目の前に潔しと。願くは神言を出し、汝に向いて口を開き、智慧の秘密を汝に示してその知識の相倍するを顕わし給わんことを、しからば汝知らん神は汝の罪よりも軽く汝を処置し給うことを」と。しかりヨブが自ら正を以ておりて罪なしとせるは過っている。しかしゾパルは言うのである「神もしその智慧の大なるを示し給えばヨブは己の智慧の足らざるを知り、かつ己に降りし禍はその犯せし罪の報以下なることを知るに至るであろう」と。すなわちゾパルはヨブを以て大罪を犯せるものと見做し、受けし災禍の如きは罰として頗る寛大なものであると主張したのである。友を責める言として峻烈を超えてむしろ残酷と言うべきである。ヨブを大罪人と見做し、彼の災禍を以て罪の当然の報と見る点において、ゾパルは他の二人と全く同一の誤想に陥っていたのである。 ◯七節─十二節においてゾパルは全能者の測りがたき深智を歌っている。「その高きことは天の如し、汝なにを為し得んや、その深きことは陰府の如し、汝なにを知り得んや、その量は地よりも長く海よりも闊し」と。彼は神の大智を讃えつつヨブの誇を責めているのである。また「彼れもし行きめぐりて人を執えて召集め(すなわち裁判官が巡回して犯罪人を捕え集めて裁判する如くし)給う時は誰かよくこれを阻まんや、彼は偽る人を善く知り給う、また悪事は顧ることなくして見知り給うなり」と言う。これまた神を讃美しつつ、ヨブを罪人とし偽る人とし悪事を犯せる者として批難した語である。「虚しき人は悟性なし、その生るるよりして野驢馬の駒の如し」というが如き、余りに不当なる悪口というべきである。 ◯かくヨブの禍を罪の報と定む。故に当然十三節以下の忠言となるのである。「手に罪のあらんにはこれを遠く去れ、悪を汝の幕屋に留むるなかれ、さすれば汝顔をあげて玷なかるべく、堅く立ちて懼るる事なかるべし、すなわち汝憂愁を忘れん……汝の生き存うる日は真昼よりも輝かん……汝は何にも恐れさせらるる事なくして伏し休まん……」と。すなわち罪を去れしかせば幸福臨まんというのである。最年少なるゾパルもまた依然として時代の思想に囚われていたのである。 ◯二十節は改訳して「されど悪しき者は目くらみ遁れ処を失わん、その望は死なり」とすべきである。悪しき者は来世の生活を厭う、これ罪の罰を懼るるからである、故に悪しき者の望は死(絶滅)であるというのである。この語はヨブが頻りに死を希う心を表わしいたるに因して発したものである。ゾパルはヨブは罪人となし、愚者となし、また悪しき者となすのである。 ◯このゾパルの語に対するヨブの答は、十二章に載せられている。彼は若き友がその抱ける知識と思想とに照らして無遠慮に彼を批難するに会して、憤激の情は一転化して冷き笑となり、皮肉の言葉を並べて相手を翻弄せんとするのである。彼は未熟なる知識を糧とせる乳臭児の襲撃を受けて、知識の事ならば我れいかで汝に譲らんやとて、暫し病苦と悲境とを忘れて嘲弄的逆襲に出たのである。劈頭の「汝らのみまことに人なり、智慧は汝らと共に死なん」とある語を初とし、以下すべてにこの冷笑的気分が漲っている。 ◯「誰か汝らの言いし如き事を知らざらんや」とヨブは言う。ゾパルは新知識の所有者を以て自ら任じ、新説の提唱をなすが如く思いて意気揚々として舌を揮う、これに対してヨブは右の如く答えるのである。今日新説と称し革命的思想と唱えて得々としてあるいはこれを口にし、あるいはこれを筆にする者が多い。しかしヨブのこの答を借りて我らは「誰か汝らの言いし如き事を知らざらんや」と言わんとする。畢竟かの新説と称するもの、概ね旧説の焼き直したるに過ぎない。その内容とその精神において何らの相違あるに非ず、ただ外衣と装飾とを異にせるのみである。 ◯六節はこれを改めて「掠奪う者の天幕は栄え、神を怒する者は安泰なり、彼らは己の手に神を携う」とすべきである。これすなわち悪人の繁栄と安泰を世に通有のこととして述べたのである。げに「彼らは己の手に神を携う」る。彼らは自己の抱く思想、自己の信ずる教義、自己の選ぶ行動、悉く真正妥当にして最もよく真理に適えるものと做す。彼らは自己中心の徒である。自己のすべてが神に適い、神はいたくこれを賞でてすべてにおいて己の味方であるとなす。すなわち彼らは己を悉く棄てて神に随わんとするに非ず、己を悉く立てて神をしてそれに随わしめんとする、否神がそれに随いおるとなすのである。これ最大の自己中心である。実は最も「神を怒ら」するものである。彼らの類は世に甚だ多く、しかして富み栄えかつ安らかである。それに比して義しき者の悲境に沈淪せるは何の故ぞと、ヨブは疑うのである。 ◯七節─十節は言う「今請う獣に問え、されば汝に教えん、天空の鳥に問え、さらば汝に語らん、地に言え、さらば汝に教えん、海の魚もまた汝に述ぶべし。誰かこの一切のものに依りてエホバの手のこれを作りしなるを知らざらんや。一切の生物の生気及び一切の人の霊魂共に彼の手の中にあり」と。天地万有を通して造化の神を認むる心を言い表わしたものである。ヨブは精密周到なる天然観察によりて、天然を通じて神の心を学んだのである。野の獣、空の鳥、海の魚、地上のもろもろの植物、いずれも彼に神を示した。彼が各地に旅行して自然科学上の豊富なる知識を貯えたる人なることは、三十章以後において明かである。実に彼は健全なる路を経て大なる神を学びつつあった人である。 ◯今日キリスト信徒が自然研究を遺却していたずらに新著新説に走り、変りやすき理論を以て自己を養わんとするは愚の骨頂である。雀の雌雄を知らず不如帰の無慈悲を悟らずして、新しき神学説を蝶々するも何ぞ。魚類の如き一として面白からぬはなく、鰻の如き最も不可解なる生物である。心を潜めて一小天然物を観よ、そこに神を知ること深きを加うるではないか。すべての天然物は我らに神の測りがたき穎智を教う。故に天然研究は神を信ずる者の娯楽であり、また責務である。ヨブの如きは熱心なる天然研究に依りて、信仰の養成をなしつつあったのである。勿論この研究のみにて人は救われるのではない。しかしこれ救の基礎とし準備として役立つことは疑ない。神の著わせし書物に二つある、甲は聖書、乙は自然界(全宇宙)である。両者を知りて初て神を知るにおいて全い。自然研究の効大なりといわねばならない。これを軽んずる時は造化の神をよく知ることは出来ない。神の探究と称していたずらに悩中に思索を繰返すは、労して効なき業である。むしろ神の作物について直接に神を学ぶべきである。神の作物たる聖書と天然、この二を学びて初めて神を知り得、また益々深く彼を知り得るのである。 ◯十一節─二十五節は七節─十節とその精神を等しくする。彼は天然物を通して神の全智全能を学び、これはこの世に臨む神の支配を通してその測りがたき智と抗しがたき能力とを知る事を述べている。「智慧と権能とは神にあり、智謀と穎悟も彼に属す」る事を、この世の各方面にわたりて実証している。辞句の意味は説明せずして明かである。 ◯十一章と十二章を通ずる問題は神智の探索である。それについて記さるるすべてが、貴き真理の提示たるは明瞭である。天然を通じ人事に徴して神智神能の絶大を知るほか、なお一事を知らずしては、我らの神に関する知識、また救に関する知識は不充分である。なお一事とはすなわち罪の自覚である。ヨブが己を以て正しとなすは大なる過誤である。この誇り彼にありて彼はいまだ救われず、彼の知識は不具である。彼れわが罪の自覚に達し(勿論友の想像せる如き有形的罪悪の意にあらず)神の前に己を卑うするに至って彼の救は成立し、彼の知識は全きに至るのである。それまでは暗中の彷徨である、しかし光明に向っての暗中の彷徨である。 ◯天然を以て神の権力を知る事が出来る。歴史を以て彼の智慧を量る事が出来る。ある程度までは人智を以て「神の深き事を窮め、全能者を全く窮むる事が」出来る(十二章七節)。しかしながら神の心に至ては、天然も歴史も我らに教うる所がない。神の心に関する知識に至ては、我らは全然神の啓示に待たなければならない。神はその独子を賜うほどに世の人を愛し給えりという事は、人間の智慧を以てしては到底解らない。天然研究貴しといえども、神のいかなる者なるかはこれに由ては解らない。しかして神の智慧を知悉しても神の心が解らずしては、神に関する最も大切なる事は解らない。ヨブと彼の友人とは今日まで神の智慧について大に学び、かつ知る所があった。しかして今や神よりただちに神の何たるか、その聖心の何たるかを教えられつつあるのである。最も貴きはこの知識である。 第十講 再生の欲求 第十四章の研究 ◯十二章より第十四章にわたるヨブの言の中、第十二章は前回に学びたれば、今回は第十三章について一言せしのち、第十四章について専ら学びたいのである。 ◯十三章においては、ヨブはゾパルらに対して逆襲的態度に出ずるのである。「汝らが知る所は我もこれを知る、我は汝らに劣らず、しかりといえども我は全能者に物言わん、我は神と論ぜんことを望む。汝らはただ虚言を造り設くる者、汝らは皆無用の医師なり。願くは汝ら全く黙せよ、しかするは汝らの智慧なるべし」という如きは、明かにヨブのこの態度を示すものである。なお十三章の中にて大切なる句は十五節である。邦訳聖書には「彼れ我を殺すとも我は彼に依頼まん、ただ我はわが道を彼の前に明かにせんとす」とある。この語の前半はまことに美わしき心情を示した語として有名であるが、実はそれは誤訳である。「彼れ我を殺すとも我は彼を待ち望まず」と改訳すべきである。かくて十五節の意味は「我は飽くまでわが無罪を神に訴えん、そのため彼に殺さるるに至るも敢て厭わず」というに在る。彼は勇気を揮い起してこの強き語を発してみた。しかし神よりは何らの反響がなく、友は皆かれを誤解している。そして己の中にはこの勇気を持続せしむるだけの力がない。一度起せし勇気は忽ち消滅せざるを得ない。あたかも重病人が卒然として仇敵のその前に立つに会し、憤然として一旦起ち上りしも、自己自身に力なきためただちに倒るるが如くである。第十四章以後のヨブの語には、たしかにこの心持が見えているのである。 ◯十四章はヨブ記中最も重要なる章の一である。神と争わんとして己の無力を悟りしヨブの悲歎は、壮大なる悲哀美となってこの章に表われている。彼は自然界の諸々の物象に比して、人間のはかなさを描き出ずるのである。ここにおいてもまたヨブ記作者の優秀精到なる天然観察者なることを知るのである。 ◯「女の産む人はその日少なくして艱難多し」と一節はいう。人は誰人といえども女より生れしものであれば、女の産む人と殊更に言う必要はないともいえる。しかしこの語には深き意味がある。女は体も心も弱きものである。故に「女の産む人」と記して、万人の弱き事が暗示せられたのである。実に女の産む人はその日少なくして艱難多しである。クロムウェルの如き、ナポレオンの如き人類中の最強者といえども、実は弱き女の産みし弱き人の子たるに過ぎない。彼らの生涯は明かにこの事を示している。げに人は皆弱き者である。この事を知らずしては、我らは真の同情を人に向って起すことは出来ない。 ◯二節には「その来ること花の如くにして散り、その馳すること影の如くにして止まらず」とある。この節は後半は、人の生涯を風強き日に砂原を走る雲の影にたとえたものである。これまたヨブ記の舞台を示す語である。四節の「誰か清き物を汚れたる物の中より出し得る者あらん」は、女より生れし人の到底清くあり得ぬを説いたのである。かくヨブは人間の弱く、はかなく、汚れおる事を説きし後「その日既に定まり、その月の数汝により、汝これが区域を立てて越えざらしめ給うなれば、これに目を離して安息を得させ、これをして傭人のその日を楽しむが如くならしめ給え」と訴えている。彼は絶望中の僅の安息を希ったのである。その心情やまことに同情すべきである。 ◯次に見るべきは七節─十二節である。「それ木には望あり、たとい砍らるるともまた芽を出してその枝絶えず、たといその根地の中に老い幹土に枯るるとも、水の香にあえばすなわち芽をふき枝を出して若樹に異ならず」と羨み、それに比して「されど人は死ぬれば消え失す、人気絶えなば安に在らんや」と歎くのである。げに木には望あり。そは復活しまた復活す、砍らるるともまた芽を出し枝をひろげる。桑の如き櫟の如き、わざと砍りてその生命を永久に新鮮ならしむる者さえある。パレスチナにおいても、橄欖の如きはかくしてこれを老衰より少壮によび戻し得るのである。樹には復活あり人には復活なし、これヨブの悲歎であった。 ◯植物に再生あるに比して人にこれなきを歎き、あるいはこれあるを望む。これインド、スカンデナビヤ等の各国の古文学に共通せる思想である。ヨブまた植物に再生ありて人にこれなきを歎く。しかもこの悲歎たる、実はこれ復活再生の希望の初現ともいうべきものである。この悲歎の裏面に、この希望が起りつつあったのである。そもそも植物は人間以下のものである。しかるに神はこれをしも再生せしむ、まして神の心を籠めての所作なる人においてをや──とは当然この悲歎と形影相伴いて起るべき推定である。根地の中に老い、幹土に枯るる樹木も水の香にあえば、忽ち若樹として再生するが如く、人はその体地の中に枯れその魂土に帰するも、一度神の霊の香に会わんか忽ち復生し、再び若くして地の上に立つに至るであろう──と黒雲の中に光明は隠見するのである。 ◯第十一、第十二節も同じく悲歎である。「水は海に竭き、河は涸れて乾く」とは砂漠地にて常に目撃する現象である(海とは真の海ではない、池の如くすべて水の溜れる処をいうのである)。「かくの如く人も寝ね臥してまた起きず、天の尽くるまで目覚めず睡眠を醒まさざるなり」とは、死後陰府における生活を描いたもので、陰府の生活は忘却睡眠を特徴とすとユダヤ人は考えていたのである。「天の尽くるまで」は永久にの意である。天は永久に尽きずとの思想より出でた句である。 ◯次は十三節─十七節である。「願くは汝我を陰府に蔵し、汝の震怒の息むまで我を掩い、わがために期を定めしかして我を念い給え」(十三)とは再生の欲求の発表である。ヨブは今神の怒に会えりと信じている。故に世を去りて陰府に降らば神が彼をそこに保護して、その怒息みし後において彼を再生せしむるであろうと思いかつ望んだのである。次の十四節の前半は挿入句である。「人もし死なばまた生きんや」は、人死ぬも再生すべきかとの問題の提出である。この時ヨブはただちに「しかり再生す」とは答え得なかった。彼はこの大問題を提出したままに放置して、十四節後半よりただちにまた前節の欲求に帰ってしまった。あたかも天よりの閃光のごとくこの問題は突如として彼に起りまた突如として彼を去った。それはあたかも雲の切れ目より、一瞬間日光が照りしが如くであった。そしてこれに対しての「しかり」という答は、ヨブ記の最後に至って現われるのである。まことに文学として絶妙である。そしてこれまた実験の上の作たるを証するものである。 ◯十四節後半─十七節は少しく改訳せねばならぬ。すなわち「我はわが征戦の諸日の間望みおりてわが変更の来るを待たん、汝我を呼び給わんしかして我れ答えん、汝必ず汝の手の業を顧み給わん、その時汝は我の歩みを数え給わん、わが罪を汝うかがい給わざるべし、わが愆はすべて嚢の中に封ぜられ汝わが罪を縫いこめ給わん」と訳すべきである。言う所もとより漠然たるを免れない。さりながら復活の欲求において甚だ大なるものがある、かつ何らかの形において再生のあるべき事の予感が見える。未来のある時に彼の上にある変動来り、神と彼と相呼ぶに至り、神彼の業を顧み歩みを数えて彼を愛護し、神彼の罪を窺わず、愆と罪を抑えて外に出でざらしむというのである。想の大、言の美まことに三歎すべきである。これキリスト以前に生まれし摯実なる心霊の来世探究史として、見逃すべからざる箇所である。 ◯ヨブは再生の欲求において盛なれど、それはいまだ再生の希望となったとはいえない。欲求と希望とは大に異なる。甲はただの願い、乙はある確実なる未来の事の望である。欲求には正しきあり悪しきあり、来世の欲求の如きは正かつ善なる者である。必しも自己のためにのみ来世を望むにあらず、神の義の完全なる顕照を熱望する時、自己を離れて人に深刻痛切なる来世希求が起るのである。しかしてこの欲求の充たさるる事が確実となるとき、その欲求は進んで希望となったのである。来世の欲求の上に神の約束加わり、キリスト復活の信仰重なりて、ここに来世の希望となるのである。欲求は漠然にして不正確、希望は確乎として正確である。あたかも男女間の思慕が初め欲求たる間は不慥なれど、後ち進みて婚約成立となりて初めて希望と化して、確実になるが如くである。 ◯ヨブのこの欲求は人類全体の欲求である。人には誰人にも来世の欲求がある。神はキリストを通じて永世の下賜を約束し給いしのみならず、そのキリストを復活せしめ給うて、以て彼に従う者に確実なる永世の希望を与え給うたのである。かくて来世の欲求は希望と化したのである。そしてキリストの十字架あるが故に我らの愆はすべて嚢の中に封ぜられ、罪は縫い込めらるるのである。かくの如くにしてここにヨブの願いし処は遂にある時実現せらるるのである。実に感謝すべき事ではないか。 ◯しかるに十八節以後においては、ヨブに起りし光明の一閃は消えて再び哀哭に入るのである。「それ山も倒れて終に崩れ巌も移りてそこを離る、水は石を穿ち浪は地の塵を押流す、汝は人の望を絶ち給う」と、ヨブは依然として豊富なる自然観察の知識を借りて、人の運命を歎くのである。自然界の変動が目に見えざる如くにしてしかも徐々として行わるるが如く、人の生命もまた徐々として絶たるるというのである。「汝は彼を永く攻めなやまして去り往かしめ、彼の面容を変らせて逐いやり給う、その子貴くなるも彼はこれを知らず、卑賤くなるもまたこれを暁らざるなり、ただ己みずからその心に痛苦を覚え己みずからその心に哀くのみ」という。これ死者は陰府にありてこの世の成行を感知し得ず、半醒半眠の中にただ自己の痛苦否運を感ずるのみとの、時代信念を背景として読むべき箇処である。げに痛切悲愁なる魂の呻きである。 ◯今十四章を全体として視るに、光明既に臨めりということは出来ない。全体を蔽うものは依然たる暗雲である。しかし黒雲を透して電光が閃くが如くに、光明は一度また二度隠見する。かくて最後に黒雲悉く晴れて、全天全地光明を以て輝く時が予想せらるるのである。すべて信仰進歩の順序はこれである。初より全光明を一時に望むべきものではない。まず懐疑の暗雲に閉じこめられて天地晦冥の間に時々光明の閃光に接し、その光明次第に増すと反比例して暗雲徐々として去り、遂に全光明に接するに至るのである。この順序を逐うて過たざるはヨブ記の実験記たる証拠である。そしてわが信仰の性質の漸次的進歩にある事を知るは、自己のために必要であり、また人に向って福音を説くに当って必要である。かの一夜にして人を光明に入れんとする如き伝道法は、この心理的事実を無視するものであると言わざるを得ない。 ◯来世的光明の徐々として彼に臨みしは何に因るか。これ彼に降りたる禍、禍のための痛苦、痛苦の極の絶望に因るのである。「来世の希望は奈落の縁に咲く花なり」との語がある。大苦難、大絶望、あたかも死に瀕する如きを心に味う時、そこに咲く花は来世の希望である。わが愛する者の死に会してこれを独り彼世に送る。そして自身の心また死の如き寂寥悲愁に会して、奈落の淵に臨めるが如くである。しかるに見よその時脚下に咲ける美花は来世の欲求であり、進んではまた来世の希望である。これを摘み来ってわが心に植え、我に永遠の希望の抜きがたきもの生れて、再会の望を以てわが残生を霑すに至るのである。患難は人生最上の恵みである。 第十一講 エリパズ再び語る 第十五章の研究 ◯これよりヨブ記の十五章の研究に入らんとするに当って、ヨブ記全体の綱目を掲げて研究の便に供する。すなわち左の如くである。 ヨブ記綱目 発端…………………………………………………一、二章 ヨブ対友人……………………………………三─三十七章 ヨブの独語………………………………………………三章 論戦第一回  エリパズ語る……………………………………四、五章   ヨブこれに答う………………………………六、七章  ビルダデ語る…………………………………………八章   ヨブこれに答う………………………………九、十章  ゾパル語る…………………………………………十一章   ヨブこれに答う…………………十二、十三、十四章 論戦第二回  エリパズ語る………………………………………十五章   ヨブこれに答う…………………………十六、十七章  ビルダデ語る………………………………………十八章   ヨブこれに答う…………………………………十九章  ゾパル語る…………………………………………二十章   ヨブこれに答う………………………………二十一章 論戦第三回  エリパズ語る……………………………………二十二章   ヨブこれに答う……………………二十三、二十四章  ビルダデ語る……………………………………二十五章   ヨブこれに答う……………………二十六─三十一章 エリフの仲裁……………………………三十二─三十七章 エホバ対ヨブ……………………………三十八─四十一章 結末…………………………………………………四十二章 ◯ヨブ記は右の如き結構の上に成立つものである。二回の論戦の経過を見るに、ヨブは次第にその論陣を進め、三友は次第に萎縮退嬰するの形がある。論戦すすむに従って、ヨブの語が次第に長くなる傾きあるに反して、三友の語は次第に短くなり、第三回の最後に現わるべきゾパルは遂に姿を見せないのである。この時青年エリフ両者の態度に憤りを起して現われて仲裁を試み、最後にエホバ御自身ヨブを諭してヨブに平安臨み、そして結末となるのである。 ◯今全巻四十二章を左表の如く分類することが出来る。これに依て見るにヨブの語りし所は合せて二十章に亘るも、三友の語は全部にて九章に過ぎず、これにエリフの語を加うもなお十五章を出でないのである。もし我ら節の数による分類表を作らばさらに興味あることであろう。 ┌────┬───┬────┬───┐ │ 項目 │章の数│ 項目 │章の数│ ├────┼───┼────┼───┤ │発端  │ 2 │エリフ │ 6 │ │エリパズ│ 4 │エホバ │ 4 │ │ビルダデ│ 3 │結末  │ 1 │ │ゾパル │ 2 ├────┼───┤ │ヨブ  │ 20 │総計  │ 42 │ └────┴───┴────┴───┘ ◯ヨブ記の主部はヨブ対三友の論戦である。この論戦は十四章までにおいて第一回をおえ、十五章より第二回に入るのである。論戦の主題は簡単なれども人生の深き疑問に関す。すなわち患難はすべて罪悪の結果なるか如何、義しき者に患難の下る理由如何の問題である。三友は患難災禍を以て罪悪の結果とのみ見る時代思想の中に呼吸せる人、故にヨブに続々として臨みし禍は彼の罪悪を証明するものと堅く思いて動かなかった。されば彼らはまず間接にこの事を暗示して、ヨブをしてその理由を認めて悔改めしめんとしたのである。ヨブ一度その罪を自認して告白せば、災禍は忽ち彼を去って、倍旧の物的恩恵かれを見舞うならんと彼らは考えたのである。誠に彼らは時代思想の子であったのである。故に第一回戦においては、彼らはなるべく穏かなる語を以てヨブを責め、彼らに責めらるるヨブはかえって真理の閃光を発しつつ、徐々として光明の域に向って進むのである。さりながら一方彼はまた友らに対しては頗る頑強の態度を持し、自己の無罪を主張して敢て降らず、かえって無罪なる彼を虐ぐる神を惨酷無慈悲なりと呼号するのである。ここにおいて三友は彼を頑冥不霊となして憤りを発し、こんどは陣容を改めて間接射撃を罷めて直接射撃に入ったのである。これすなわち第二回戦である。 ◯そして第二回戦の火蓋を真先に切ったものは、例に依って長老のエリパズである。この第十五章を前の彼の語すなわち第四、五章と比較するときその語勢、その態度に大なる相違あることが認められる。間接より直接に、静穏より峻酷へと彼は変ったのである。 ◯一節─十一節は、ヨブを驕慢者となして直接に向けたる批難の矢である。けだし第一回論戦におけるヨブの最後の答には、彼が己を以て三友に優れりとなす自信が漲っている。「我は汝らの下に立たず、誰か汝らの言いし如き事を知らざらんや」といい、また「汝らが知るところは我もこれを知る、我は汝らに劣らず」と主張し、そして「汝らは皆無用の医師なり、願くは汝ら全く黙せよ、しかするは汝らの智慧なるべし」と嘲る。ヨブのこれらの言に彼らはその誇を傷けられ、そしてエリパズはその返報としてヨブを責めるのである。まずヨブを以て智者にあらずと断じたるのち、「まことに汝は神を畏るる事を棄てその前に祈ることを止む」とて彼を不信者となして責め、次に「汝の罪汝の口を教う……汝の口みずから汝の罪を定む、我にはあらず汝の唇汝の悪きを証す」といいてヨブの罪を肯定している。 ◯七節─十一節は、自らを智しと做すヨブの誇を砕かんための語である。「汝あに最初に生れたる人ならんや、山よりも前に出来しならんや云々」とあるは、神の世界創造に当ってその相談相手たりし天使ならんやとの意を伝うる語である。エホバ神まず天使を造り彼を相談相手として天地万有を造れりとは、いつとはなしに古代人間に起りし伝説であったのである。「我らの中には白髪の人及び老いたる人ありて、汝の父よりも年高し」とあるは、老齢の権威を以て年少者に臨むものである。これ年長者の智慧は年少者に優るとの先有観念の生みし語である。しかしながらエリパズのこの態度は、心霊問題に関しては全然不合理なる態度である。心霊のことにおいては人は一人一人独立である。神と彼と二者相対の上に心霊問題は生起する。年齢の権威も地位の権威も、この間に圧迫の力を揮うことは許されない。老人なるが故にその智壮者に勝つといい、監督なるが故にその信仰平信徒に優るというが如きは、しかしてかく言うて己を立て他を倒さんとするが如きは過れるの甚しきものである。許しがたき背理である。 ◯次の十二節─十六節は「人はいかなる者ぞ、いかにして潔からん、女の産みし者はいかなる者ぞ、いかにして義しからん」との意味を述べて、みずからを義しとするヨブの反省を促した語である。十六節は「罪を取ること水を飲むが如くする憎むべき穢れたる人」なる語を以て、人間その者の性質を説明している。渇く者はおのずから水を取る、これその本然の必要に促されてである、その如く人が罪を取るはその本性上しかる所であって、人は到底罪人たる境涯より脱し得ぬと、これこの語の暗示する所である。 ◯十七節よりエリパズの論歩は一転する。まず言う「我れ汝に語る所あらん、聴けよ我れ見たる所を述べん、これすなわち智者たちが父祖より受けて隠す所なく伝え来りしものなり、彼らにのみこの地は授けられて外国人は彼らの中に往来せしことなかりき」と。これ祖先伝来のままにて何ら外国の影響を受けざる、雑りなき、純の純なる教を説かんとの意である。あたかもわが日本において、日本古来の道にして何ら外来思想を混えざるものと称せらるるものが、一部の人々にこの上なく(何ら格別の理由なくして)尊信せられおる如く、エリパズは祖先の教のそのままに伝え来りしものを、ただ雑りなき祖先の教であるというだけの理由の下に神聖視して、ここに説き出さんとするのである。 ◯しかるにかくの如き前振を以て勿体らしく説き出されし真理なるものは、何ら貴きものでないのである。説く所は二十節より三十五節に亘るけれども、要するにこれ悪人必衰必滅という陳腐なる教義の主張に過ぎぬのである。「悪き人はその生ける日の間つねに悶え苦しむ……その耳には常に怖ろしき音きこえ、平安の時にも滅ぼす者これに臨む……彼は富まず、その貨物は永く保たず、その所有物は地に蔓延らず……邪曲なる者の宗族は零落れ、賄賂の家は火に焚けん」という。すなわち悪人は苦悶を以て一生を終え、困窮失敗の中に世を去り、その家族もまた零落すというのである。同時にこの語は苦悶、困窮、失敗、零落はすべて罪悪の結果であるとの意味を含んでおるのである。 ◯エリパズのこの所説は、果して人生の事実に合っておるであろうか。否! と我らは叫ばねばならない。罪悪の巷に物慾の毒酒を汲む人、決して悉く苦悶、失敗の果を苅り取らない。悪は必しも困窮零落の母ではない。神を嘲る悪人にして成功また成功の一路を昇る者は決して少なくない。神を畏れず人を敬わざる不逞の徒にして、何らの恐怖煩悶なくして一生を終る者はむしろ甚だ多い。罪を犯し悪の莚に坐して平然たるがすなわち悪人の悪人たるゆえんである。悪人の特徴は煩悶恐怖を感ぜざる所に在る。ジョン・バンヤンの作たる The Life and Death of Mr. Badman(悪人氏の生死)は、ある意味において『天路歴程』以上の傑作であると思われるが、英人自身は余りこの書を貴まないのである。これこの書の価値が彼らに解らぬからである。この書の主人公たる悪人は、神を信ぜず道に背く悪人にして、しかも事業は成功し、身は栄達し、子女悉く良縁を得、艱難痛苦等に少しも襲われず、何らの痛苦なく恐怖なくして大満悦を以て世を送る。しかるに読者は、彼れ恐らくは死に臨んで大煩悶に陥るであろうと予期しつつ読み進むに、その死また甚だ平安にして彼は安らかなる大往生を遂げるのである。彼の生に死に、苦悶または恐怖または患難または失敗の陰影すらない。そしてこれ実に本当の悪人の特徴である。真の悪人の生死は実にかくの如くである。バンヤンは人生の事実に深く徹せし人なる故、かくの如き真正なる観察をなし得たのである。 ◯これに反して十八世紀の大文豪にて、信仰の人たりしドクトル・ジョンソンは、死の床に大なる苦悶を味いしという。これあるいは地獄に落ちざるかとの憂慮に悶えたのであって、この種の苦悶はかえってその人の心の醇真と信仰の霊活を語るのである。恐怖苦悶はその人の心霊的に目ざめたるを示すものである。神を知らざる時我らに真の恐怖なく、痛烈なる煩悶はない。怖るる事、悶ゆる事、それは神に捉えられた証拠である。そして救拯と光明へ向ての中道の峠である。悪人はかえって恐怖を味わず、善人はかえってこれを味う。虚人はかえって苦悶を知らず、真人はかえってこれを味う。しかるに浅薄なるエリパズは伝統的教義の純正を誇りてこれを盲目的に抱くのみにて、活ける人生を視る深みと真心とを欠いている。これ我らの大に考うべき事である。また人を慰めんとするに当って、充分に注意せねばならぬ事である、我らはくれぐれもエリパズら三人の心を学んではならない。 第十二講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(上) 第十六章の研究 ◯ヨブ記第十六章の大意を語ろう。第十五章の二回戦開始において、エリパズはまずヨブを罪人として責め、次に罪悪の結果として必ず恐怖、煩悶、零落の臨むべきを説いた。これに対してヨブはまず十六章の一節─五節において、友の忠言の無価値なることを主張する。「かかる事は我れ多く聞けり」は、汝らの反覆語に倦きたとの意である。「汝らは皆人を慰めんとてかえって人を煩わすものなり」は原語を直訳すれば「汝らは人を苦しむる慰者なり」となる。慰者とは名のみで実は人を苦め煩わす者であるとの意、強き嘲りの語である。次に「もし汝らの身わが身と処を換えなば……口をもて汝らを強くし、唇の慰藉をもて汝らの憂愁を解くことを得るなり」とあるは、我と汝らと位置を代えなば我は立派に汝らを慰め得んというのである。その半面に、三友の慰藉がいたずらに安価なる口と唇との慰めに過ぎぬことを暗に嘲ったのである。 ◯そもそも「慰め」とは何を指すか。『言海』を見るに邦語の「なぐさめ」はなぐより出た語であって(風がなぐ(凪)の類)、「物思いを晴らして暫し楽む」を意味するという。他の事に紛らして暫し鬱を忘れるというのが、東洋思想の「慰め」である。されば東洋人はあるいは風月に親み、あるいは詩歌管絃の楽みに従いて、人生の憂苦をその時だけ忘れるを以て「慰め」と思っている。従てなお低級なる「慰め」の道も起り得るのである。正面より人生の痛苦と相対して堂々の戦をなさんとせず、これを逃避して他の娯楽を以てわが鬱を慰めると言うのはまことに浅い、弱い、退嬰的な態度である。聖書的の「慰め」は決してこの種のものではないのである。 ◯英語において「慰め」を cmfort という、勿論慰めと訳しては甚だ不充分である。 fort は「力」の意である故、 comfort は「力を共にする、力を分つ」を意味するのである。そもそも人が苦悩するのは、患難災禍に当りて力が足らざるためである。その時他より力を供することがすなわち comfort である。故に真の力を供するのが真の comfort である。しからざるものは comfort ではない。殊に天父より、主イエスよりこの力を供せられるのが、キリスト教的の「慰め」である。かくの如き力を供給する慰めが真の慰めである。ヨブの三友の慰めの如きは、むしろ力を奪うところの慰めであったのである。 ◯六節─十七節において、ヨブはまた神に対して恨みの語を述べている。あるいは神を「彼」と呼びて「彼れ怒りて我を掻裂きかつ窘しめ、我に向いて歯を噛鳴らしわが敵となり目を鋭くして我を看る……彼は我を打敗りて破壊に破壊を加え、勇士のごとく我に奔せかかり給う」と恨み、あるいは神を「汝」と呼びて「汝わが宗族をことごとく荒せり、汝我れを皺らしめたり」と怨じている。その論法の不統一はかえって情感の熾烈を語るものである。実に六節─十七節の全体にわたる神に対する怨恨は、その語調とその感情と共に激越痛烈を極めている。しかしてヨブはその最後において「しかれどもわが手には不義あるなくわが祈祷は清し」と主張して、いぜんとして己の無罪を高調し、この罪なき彼を打つ神の杖の無情を怨んでいる。 ◯この怨語を聴きたる三友は、ヨブを以て神を謗る不信の徒となしたのである。そしてすべてかかる語を傍より冷かに批評する者は、彼らと思を同じうする外はない。しかしながら事実は彼らの思いと異なる。神に対して怨の語を放つは、勿論その人の魂の健全を語ることではない。しかしこれ冷かなる批評家よりもかえって神に近きを示すものである。かく神を怨みてやまざるは、神を忘れ得ずまた神に背き得ざる魂の呻きであって、やがて光明境に到るべき産みの苦みである。神を離れし者または神に背ける者は神を忘れ去る者であって、神を怨み得ないのである。神に対する怨言は、懊悩絶望の極にある心霊の乱奏曲である。かくの如き悲痛を経過して、魂は熱火に鍛われて、次第に神とその真理とに近づくのである。これ心霊実験上の事実である。この実験なき浅薄者流はこれを解し得ずして、エリパズらの過誤を繰返すのである。 ◯十七節までにおいて、ヨブは三友を嘲り神を怨んだ。今や三友人は彼の友でなく神もまた彼の友ではない。ここにおいて彼は訴うるに処なくして、遂に大地に向って訴うるに至った。これ十八節である。「地よわが血を掩うなかれ、わが号叫は休む処を得ざれ」という。彼今や無実の罪を着せられ、不当の死に会わんとしている。彼の無辜なる血は地に流れんとしている。彼の死後において、彼の血は彼の不当の死を証明するであろう。故に地に向って、血を蔽うことなくいつまでもこれを地に止めてその血の号叫をして永久に終熄すること無からしめんことを求めたのである。「汝の弟の血の声地より我に叫べり」と、兄を殺したるカインにエホバは言うた(創世記四の十)。ヨブは死の近きを知り、かつその不当の死なることを一人も知るものなきを悲みて、わが血をしてわが無罪を証明せしめんとて地に後事を託して、綿々たる怨を抱いて世を去らんとするのである。これ絶望の悲声であって理性の叫ではない。しかしながら人の心は何か訴うる所を要求するのである。人は何かに我の証人となってもらいたいのである。溺るる者は藁にも縋るという。人は神にも友にも棄てられしと感ぜし時は、大地に向って訴え、わが血に向って我の証人たれと願うほどに至るのである。 ◯しかるに十九節に至っては、ヨブは一転してわが証人の天に在ることを認めている。「視よ今にてもわが証となる者天にあり、わが真実を表明す者高き処にあり」という。今まで神を怨みながら、ここにはわが証人すなわち我の無罪を知るもの天にありという。そこに明かなる矛盾がある。しかし心霊の実験としてはかえってこの事は真である。あたかも航海者が海上暴風雨に会して船は難破し、身はまさに溺れんとして、「海よ我を記せよ」と叫びて絶望の悲声を発するかと思えば、忽ち暗雲風に開けて雲間に星辰の燦くを見て、そこに微かなる希望を起すが如き状態である。悲壮の叫びである。痛烈なる要求である。微かなる、しかし打ち消しがたき希望である。 ◯二十節に言う「わが友は我を嘲る、されどもわが目は神に向いて涙を注ぐ」と。友には理不尽なる嘲笑を浴びせられてその誤解を解くの道なし、ここにおいて神に向いてただ涙の目を注ぐのみと、哀切の極である。無限の感情がこの一語の中に籠っている。言い知れぬ深刻、たといがたき崇高がこの一節において感ぜられる。他の文籍に類例なき偉大なる語である。 ◯彼を誤解し、彼を難詰し、彼を侮辱する友を全く忘れ得ぬは何故であるか。「わが友は我を嘲る」といいて、友の嘲笑をいつまでも気に掛けおるは如何。そは友の誤解嘲笑は、彼にとりて浅からぬ手傷であるからである。あたかも針を以て心臓を刺されし如く、彼の心はこれがために激痛を起したのである。故に忘れんとして忘れ得ないのである。しかしながら友に棄てられて全く己一人となりし時、茫々たる宇宙ただ神と我のみあるの実感に入りて、初て神と真の関係に入り得るのである。しかして後また友誼を恢復して、これを潔め得るのである。 ◯二十一節は「願くは彼れ人のために神と論弁し、人の子のためにこれが友と論弁せんことを」と言う(人の子とあるも人と同じである)。神には撃たれ友には誤解せらる、自ら自己のために弁明するも些の効なく、神の我を苦むる手は弛まず友の矢はますます頻く来り注ぐ。ここにおいてかヨブは己のために神と論弁しまた友と論弁して、彼の無罪の証を立つる、一種の証人を要求するのである。「彼れ」とはすなわちこの者を指したのである。実に人は自信神に訴え自ら友と争うも力足らず、我に代りてこの事を為す証人を切に求めるのである。これ難局に処しての人間自然の要求である。人は己の無力を覚るとき、強くして力ある我の代弁者を求めざるを得ないのである。この証者は弱き人類の一員であってはならぬ。同じく弱き人にてはこの事に当ることは出来ない。故に人以上の者でなくてはならない。故に神の如き者でなくてはならない。しかし神自身であってはならぬ。人の如き者にして我らの弱きを思いやり得る者でなくてはならぬ。神にして神ならざる者、人にして人ならざる者、これすなわち神の子たるものである。他の者ではない。 ◯ヨブの証者要求はすなわちキリスト出現の予表である。魂の深底においてヨブは神の独子を暗中に求めて、人心本来の切願を発表したのである。げに独子を求むるは人心おのずからの叫である。しかしてこの要求はナザレのイエスを独子として信受して初て満たさるるものである。 第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下) 第十七章の研究 ◯ヨブ記十七章を見るに、それが十六章の継続なることは明かである。殊に十六章の十八節より十七章九節までは、一の思想を伝えているのである。十六章二十二節は「数年過ぎ去らば我は還らぬ旅路に往くべし」と言うた。そして十七章一節は言う「わが息は已に腐り、わが日すでに尽きなんとし、墓われを待つ」と。彼はかかる悲境にありて、十六章末尾の如く地に向って訴え、また天の証者に向って訴えた。そしてここに十七章三節において「願くは質を賜うて汝みずから我の保証となり給え、誰か他にわが手を拍つ者あらんや」と呼ぶのである。これ深く注意すべき一節である。 ◯コリント後書五章はまず終の日における信徒の栄化(永世賦与)を述べ、次に五節において「それこの事に応う者と我らを為し給う者は神なり、彼れ聖霊をその質として我らに賜えり」という。質とは手附金、見本の意である。後に賜う栄化の契約の印として、今聖霊を賜わるのである。我らはこれを賜わりて契約の確立を信じ得、また後に賜わる者の見本を接受するのである。されば「質」とは後に実行さるべき事を今確く約する所の確証である。十七章三節のヨブの願は、彼の死後において神が彼の無罪を証明する約束の確証を今賜わらんことを願うのである。彼は今や罪の故ならずして死せんとしている。友はそれを罪の故と断定して彼を責めている。しかし神は彼の無罪を知り給う。しかり神のみが彼の無罪を知り給う。我亡きのち我の無罪を証し給うものは神である。これヨブの暗中に望み見た灯火である。故に彼に神がこの証の確証を今与え給わんことを願うのである。神が彼の死後必ず彼の無罪を証明するとの約束の印(商業上の契約ならば手附金)を今神より得たしと望んだのである。 ◯ヨブは神が罪なき彼を苦めつつある事を認めてこれを怨じながら、今また同一の神に無罪の証明を求めている。そこに明かに思想の矛盾がある。由来仲保という観念は、思想上の矛盾の上に成立する観念である。神は罪を悪む神なるが故に、人が罪を犯した場合には人を責めなければならぬ。彼は人を罰して霊界の秩序を維持せねばならない。彼はやむを得ずして──実にやむを得ずして人の敵となるのである。この時人の側よりして、仲保者を要求する心は当然起らざるを得ない。「人のために神と論弁」する者、すなわち弁護者を要求せざるを得ない。しかしてかかる仲保者はただの人にては力足らず、神自身でなくてはならぬのである。同一の神が我を責めかつわがために弁護す、同一の神が我を苦めそして我のために証すると、その明白なる矛盾あるにもかかわらず、人は神に向ってわがための証明、論弁、仲保を望むのである。神以外の者に向っては到底起らない二つの相反せる望を、神に向っては起すのである。ここに明なる矛盾があると共に、またここに霊界の秘儀がある。また人心の機微がある。そしてこの矛盾せる、しかれども牢乎として抜きがたき要求は、キリストの出現に依て完全に充たさるるに至ったのである。それまでは暗中の光明探索である。 ◯回教の経典たる『コーラン』にいう「神と争う時の最後の逃げ場所は神御自身なり」と。まことに人は神と争いて苦むとき、我を苦しむる神の所に往くほかに逃げ場所はないのである。イエスを称して最大の無神論者という人がある。そは彼がこの世において遺したる最後の語が、感謝をも平安をも伝えずして「わが神わが神何ぞ我を棄て給うや」と彼の大失望を語っているからである。しかしこの哀切なる悲声が彼の魂の咽喉を絞りて出でたるがために、多くの患難悲痛にある人々が彼によって救わるるのである。失望、痛苦、懊悩にありて神を疑いて離れんとする人がイエスのこの大悲声に接して、この深刻なる内的経験において彼と己と霊犀相通ずるを知り、彼に頼りて神を見出し神に還るに至るのである。かくして「最大の無神論者」が我らを真実の──空理に依らぬ実験上の──有神論者とするのである。そは「最大の無神論者」は実は最大の有神論者であるからである。 ◯五節は言う「友を交付して掠奪に遭わしむる者はその子等の目潰るべし」と。ヨブが三友人に向って、余を苦むる汝らはその子等の眼潰るるの報に会うべしと告げたというのである。しかしこの節については説が多い。ヨブは今までかなり激しく友に責められ、自分も相当に逆襲する所あったが、いまだかつてかかる呪詛に類するような語を発しなかった。彼が今に至ってこの種の語を発するは、彼のために惜むべき至りである。否彼がかかる語を発したというのは甚だ疑わしきことである。故にこれを改めて「汝らは友を敵に交付して掠奪に逢わしむ、しかして彼ら(友)の子等は目潰るべし」と訳する学者がある。しかる時は、汝らは友を苦めその子供をして目潰れるほどの災に陥らしむとの意となるのである。六章二十七節の筆法と照り合せるとき、この見方の方が正しいように思われる。我らはヨブが悪を以て悪に酬いたと見たくはない。万一にもしかりとせば、我らはそれを学ばぬように力めねばならぬ。 ◯次に注意すべきは第九節である。「さりながら義しき者はその道を堅く保ち、手の潔浄きものはますます力を得るなり」とある。これを英語改訂聖書において Yet shall the righteous hold on his way And he that hath clean hands shall wax stronger and stronger. と読む時その偉大なる言たるを知るのである。この一節が失望の語と失望の語の間に挿まれあるため、これをヨブの言と見ずして、次章のビルダデの語の誤入と見る学者がある。しかし前後関係なくして突如として現われ、また突如として隠れたる事が、かえってこの語の純正を証するものである。ヨブは大苦難の真只中にありて前後左右を暗黒に囲まれつつ、一縷この光明を抱いたのである。以てこの語の偉大さを知るのである。これ人生の根柢における彼の確信の発表である。罪のためならずして大災禍に逢える彼が、その大災禍の中にありて正と義の勝利を確信したのである。ヨブの偉大よ! またヨブ記著者の偉大よ! ◯我らはいかなる場合に処しても、この信念を失ってはならない。すべてを失ってもこの信念を失ってはならぬ。「義しき事のために責めらるる者は幸なり」と主は教え給うた。迫害屈辱に逢うも、正義公道に立てりとの確信あらば我の勝利は確実である。今や北米合衆国は有色人種を窘めて、明に国祖清教徒の自由平等の大信条に背いている。彼らはその優秀なる軍備を以て他国を屈服せしめ得るかも知れぬ。しかしながら彼らは明白に神の真理に背いて、果して安きを得るであろうか。彼らに向ってヨブ記のこの語を提示するとき、恐らく彼らは羞恥に顔を蔽うであろう。明白なる非理を立て通して勝つも、実はこれ敗るる事である。また彼らに窘めらるる者といえども、自信正に立ち義に歩めるの信念だにあらば、負けるはすなわち勝つであって、少しも恐るる処ないのである、神は最後まで義の味方であって悪の敵である。われらの求むべきは義に歩むの生涯である。自身神の道に立ち正義公道の命ずる処に歩むの覚悟あらば、我らはすなわち大磐石の上に立って安らかなのである。 ◯碩学老デリッジはこの一節を評して「暗黒中に打ちあげられし狼煙の如し」というた。光明は暗黒を破って一度輝きしも、また忽ち消えて再び暗黒となった。十節以後の痛切深刻なる悲哀の発表を見よ。その辞惻々読む者の心をうたねばやまぬ。人の弱さとしてこれ実にやむを得ないのである。さわれ失望中に一閃の希望ありて、ヨブ記が失望の書にあらず希望の書たることを知るのである。一閃また一閃、遂に暗黒悉く去って光明全視界を蔽う処まで至るがヨブ記の経過である。 ◯暗黒中に一閃の狼煙ひらめき、また忽ちもとの暗黒となる、これ人の魂の真の実験である。人間心霊の歴史としてヨブ記の優秀はここに在る。人の霊魂の産の劬労は実にこれである。かかる道程を経て進歩するのである。さればヨブ記の実験記たるはますます明かである。第二回論戦に入りては、ヨブの失望は第一回論戦の時よりも一層深くなったように思える。しかしその間に光明の閃耀次第に著しくして、徐々として進展の階段を攀ずるのである。独りヨブに限らずすべて心霊の悩みはこれであって、同一の経過を経て遂に救に入るのである。 第十四講 ビルダデ再び語る 第十八章の研究 ◯第二回論戦はエリパズに依て開始せられ、それに対してヨブは十六章と十七章を以て報いた。さればこのたびはビルダデの語るべき場合となったのである。彼はなかなかの学者である。頭脳明晰にして、組織だった宇宙観、人生観を有せる人である。故に彼の言う所は常に理性的にして、その論理は整然としておる。彼の如き明晰にして鋭敏なる頭脳の所有者には、ヨブの返答中に前後矛盾の点甚だ多きことがすぐ分るのである。故に彼はヨブの返答中、その所言を打ち破らんと頻りに頭脳を働かせおりて、いよいよヨブ口を閉ずるや、猛然としてヨブの弱点を衝いて肉迫したのである。その論法の整然たる、その用語の簡潔にして有力なる、さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大にたじろいたのである。 ◯そしてビルダデの如き論理の一面を以てのみ物を見る人に、ヨブの前章の言が愚劣と見えたのも誠にやむを得ないのである。実際ヨブの返答は、理論の上においては不可解の極である。神に訴うるための弁護者として神を見、神を怨みつつその神に対する仲保者を神において求めんとするのである。神を敵としまた味方とし、神を罵りまた神に憐みを乞う。これ理性と論理においては迷妄の極みである。しかしながらその迷妄の中に、心霊の切なる要求が潜んでいる。その愚劣の中に、魂の哀切なる呻きが聞こえる。その矛盾の中に、霊的光明は見えつ隠れつするのである。しかしながら心浅き三友にはこの事は解らない。殊にビルダデには、ヨブの論理的欠陥のみ見えるのである。 ◯二節より四節までは、ヨブに対するビルダデの正面攻撃である。ヨブの嘲りの言が彼を怒らしたのである。四節にいう「汝怒りて身を裂く者よ、汝のためとて地あに棄てられんや、磐あにその処より移されんや」と。いかに激語を放つとも、そのために地は棄てられず磐は移らない、神を挑むが如き大なる言を発するも、汝の言を以て地を破壊し磐を移らしむる事は出来ないというのである。すなわち無益なる空言を慎めとの意である。ビルダデのこのヨブ攻撃は、殊に第四節の如きは、罵詈の語としては簡潔雄勁にして、正に独創的の警句というべきである。けれども余はヨブに代って答えよう、一の信仰がよく世界を動かすことあり、神よりの力われに臨めば我に為し得ざること一もなし、ビルダデよ汝の言は過れりと。 ◯五節以下「悪人」を主題として整然たる理論の下に簡潔明快なる語を行る、まさにビルダデが得意の壇場である。五節より十二節までは、悪人滅亡の次第を順序正しく描きたるものである。まず「悪き者の光は消され、その火の焔は照らじ、その天幕の内なる光は暗くなり、そが上の灯火は消さるべし」という。悪人が零落の第一歩を踏む時は、その家の中より何となく光が消えて、家が暗くなるように感ぜられるものである。次には「またその強き歩履は狭まり、その計るところは自分を陥しいる、すなわちその足に逐われて網に到り、また陥阱の上を歩むに索その踵に纏り罠これを執う」とある。今まで胸を張って堂々と歩みし者が、胸を狭くし下を俯して悄然として歩むようになる。そして自己の計画が自己を滅ぼす結果となりて、自分の張った網に自分が捕えらるるようになる。悪人の失敗は人の計画に破らるるに非ず、自己の計画を以て自分を滅すのである。次には「怖ろしき事四方において彼を懼れしめ、その足に従いて彼を追う」、そして「その力は饑え、その傍には災禍そなわり……」と以下二十一節までつづく。かくして悪人衰退滅亡の状態は簡勁に、順序正しく描き出されたのである。誠にビルダデ独特の筆法である。 ◯十三節に「その膚の肢は蝕壊らる、すなわち死の初子これが肢を蝕壊るなり」とあるを見れば、この悪人必滅の主張が明かにヨブを指したものであること確実である。「死の初子」とは死の生みし者の中最も力あるものの意にて、癩病を指したものであろう。十四節には「やがて彼はその恃める天幕より曳離されて懼怖の王のもとに逐いやられん」とある。家を失いて流浪し遂には死するならんとの意である。「懼怖の王」は死を指したのである。その上「彼に属せざる者かれの天幕に住み……彼の跡は地に絶え彼の名は街衢に伝わらじ……彼はその民の中に子もなく孫もあらじ……これが日(審判を受けし日)を見るにおいて後に来る者は駭き先に出でし者は怖じ恐れん」、これ実に悪しき者の最後である。かくてビルダデは悪人の運命を断定的に描述して、最後に確信の一語を加えて言うた「必ず悪き人の住所はかくの如く神を知らざる者の所はかくの如くなるべし」と。 ◯以上ビルダデの悪人必滅論はヨブの場合を指した者であるこというまでもない。ヨブが今難病に悩み、子女悉く失せ、死目前に迫り、その跡地より絶たれんとするの悲境にある時、悪しき者の受くる運命はその如しと説くは、明かにヨブを「悪しき者」となしたのである。これ汝は正にこの悪人なりと暗示したのであるが、その暗示は殆ど明示というべきほどのものである。ビルダデは実に残酷にも、剣を以て悩めるヨブの心臓を突き指したのである。 ◯人はよく「ヨブの苦み」という。そして産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のことを意味する。しかしこれ果して「ヨブの苦み」であろうか。彼はすべての災禍には堪えたのである。産を失い、子女を失い、身は癩病の撃つところとなりても彼はこれに堪えたのである。彼の苦みは他に在ったのである。神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている。彼の信ずる神は彼の敵として彼を攻めている。ために彼の信仰は今や失せんとしている。彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を、思いきって棄ててしまうに堪えない。離れんとしている神を、一思いに離れてしまう事は出来ない。失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦みがある。すなわち暗中にありて強いて信仰を維持せんとする苦みである。この事を知らずしてヨブ記を解することは出来ない。 ◯かくヨブは苦んでいる。その孤独の苦みを察し得ずして、友は頻りに彼を責めることに没頭している。そして十八章のビルダデの言は、ヨブに対するかなり激しき攻撃である。あるいは病毒のために身体の腐蝕するをいい、あるいは死が近く臨むといい、あるいはその跡悉く絶たるるという、まことに毒を含める強き皮肉である。この語を聴きおる間のヨブの心中いかん。友は敵と化して、その鋭峻なる論理を武器として彼を責めたてる。友の放つ矢は彼の心臓に当って、彼の苦悩は弥増るのみである。この時ヨブの苦悩悲愁は絶頂に達したのである。 ◯故にビルダデに答えしヨブの十九章の言は、ヨブのこの心理を知りて後ち読むべきものである。この章においてヨブは初めて、友に向って「我を憐め」との哀音を発するに至ったのである。今まで一歩も友に譲らざりしヨブも、遂に我を悩ます内外の敵の鋭さに圧迫されて、友に憐みを乞うに至ったのである。彼の心事また実に同情すべきではないか。 第十五講 ヨブ終に贖主を認む 第十九章の研究 ◯論理整然たるビルダデの攻撃に会してヨブ答うるに語なく、その悲寥は絶頂に達して、遂に友の憐みを乞うに至る。これ十九章一節─二十二節である。一節─六節においては友に対する不満を述べ、七節よりは悲痛極まる哀哭の語を発する。まず神かれを撃ちしことを述べ、次ぎには「我を知る人々は全く我に疎くなり」し有様を精細に描きて、知人、兄弟、親戚、友人、僕婢、妻さえも我を離れし現在の寂寥孤独を、呻くが如く訴うるが如く述べている。彼はビルダデの辛辣なる攻撃に会して、茫々たる天地の間にただ一人なる我の孤独を痛切に感じたのであろう。されば彼は二十一、二節において言う「わが友よ汝らわれを恤れめ、我を恤れめ、神の手われを撃てり、汝ら何とて神の如くして我を責めわが肉に飽くことなきや」と。友の無情を怨じ、またその憐みを乞うのである。今までは友の攻撃を悉く撃退したる剛毅のヨブも遂に彼らの同情、憐愍、推察を乞うに至る。その心情まことに同情に値するではないか。 ◯十九章を見るに、二十二節と二十三節の間に何らの間隔もないが、実はこの間に一の休止(pause)を置いて読むべきものであろう。ヨブは二十二節までの語を発して友の同情を乞い、ここに暫く発語を止めて三友人の顔を見まもっていたことであろう。そして彼らがいかなる態度を以て彼の言に対するかを見ていたのであろう。彼は心中ひそかに彼らの変化を予期していたのである。しかるに三友の容貌は少しも和がないのみか、かえって傲然として彼を見下すその態度に、ヨブは彼らの心をかく読んだであろう「汝遂に憐愍を乞うに至ったか、さらば何故早くその謙遜を示さなかったのか、汝早く謙遜を示せば我ら他に言うべき事があったのである」と。実に三友はヨブの哀切なる懇求に接しても、依然としてヨブを圧する態度を取りて、庇護同情を少しも現わそうとはしなかった。ヨブは三友のこの心を知りて、悲憤が胸中に渦まき立つを感じた。彼はこの時この世にありて絶対の孤独境に入ったのである。しかしながら物窮れば道おのずから通ずる。この時今まで友の顔を見つめつつあったヨブは、急遽として眼を他に転ずることが出来た、そして遥かかなたを望み見るを得た。かくて二十三節以下の語が発せられたのである。 ◯二十三、四節には三つの願が記されている。第一は「望むらくはわが言の書き留められんことを」である。第二は「望むらくはわが言書に記されんことを」である。第三は「望むらくは鉄の筆と鉛とをもてこれを永く磐石に鐫りつけ置かんことを」である。これは友の無情に失望して、今の人の誰人にも訴うるの無益を悟りて後世に知己を求めんとの心より出でし言である。まずわが言の書き留められんことを望み、次には書物に記されて遺らんことを望み、最後にはその言が鑿を以て磐に刻まれてその中に鉛を流しこんで永久に遺らんことを望む。思想は順を逐うて強まるのである。かくして彼が己の言を後世に遺すときは、必ず彼の罪なきに受けし災禍を認めて彼の同情者、弁護者、証人となるものが出ずるであろうとの期待を抱いたのである。(王の功績などを石に刻みてその永久に伝わらんことを期する風は古代東方諸国においては盛であったと見え、今日時々この種の石が発見せられて、歴史学及び考古学上の有益なる資料となる事がある)。 ◯しかしこの願を発しつつある時、ヨブにまた一の思想が起った。よし磐にわが言を刻して後世に遺すも後世の人もまた人である。現代の人と同様に、また彼の三友と同様に人である。しからば友を後世に求めんとするは、焦土に樹木を求めんとする類であって全く無効であると。かくヨブは心に思った。ために失望が再び彼を襲わんとした。その時忽焉として、二十五─二十七節の大思想が彼に光の如く臨んだ。後世に訴うる要なし、我の弁護者、我の証者、我の友は今天に在りとの新光明が、今やこの世においてまた人の中において道窮まりたる彼に臨んだのである。 ◯二十五─二十七節は左の如くである。 25 われ知る我を贖う者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん、26 わがこの皮この身の朽ちはてん後われ肉を離れて神を見ん、27 我れみずから彼を見奉らん、わが目かれを見んに識らぬ者の如くならじ、わが心これを望みて焦る。 「我を贖う者」は我の弁護者(我を義なりと証して我の汚名を濺いでくれる者)の意である。この者が今活きている事を我は知る──我は確信する──というのである。彼は存在しおるのみならず今活きて活動しおり、我の味方たりわが正義の保護者であるというのである。これ実に暗中より探り出したる、光まばゆき信仰の珠玉である。そして「後の日に彼れ必ず地の上に立たん」とは、この弁護者が他日地上に出現するとの予感である。そして二十六節においては「わがこの皮この身の朽ちはてん後われ肉を離れて神を見ん」とて死後に神を見んとの確信を発表し、二十七節には「我れみずから彼を見奉らん」とこれを反覆強調し、次に「わが目かれを見んに識らぬ者の如くならじ」と三度繰返してその確信を発表している。最後の語は神をわが友として認識せん(今日の如く敵として相対する如きことあらじ)との意味を言い表したのである。 ◯この偉大なる語の最後に「わが心これを望みて焦る」とあるに注意すべきである。我を贖う者は後日地上に現われんといい、死後われを見んという、実にこれ偉大なる希望である。彼はこの聖望心に起りて心の琴の高く鳴るを感じた。この語を発しつつある時、彼の心は九天の上にまで挙げらるるを感じた。この大希望を以て熱火の如く彼の心は燃えた。彼の心は湧きたった。大歓喜は彼の全心に漲った。故に彼はこの心に燃ゆる熱き望を言い表わして「わが心これを望みて焦る」というたのである。 ◯この語の中に注意すべき二、三の思想がある。第一は贖う者は神であるという思想である。二十五節と二十六節を併せ見れば、この事は明瞭である。第二はこの贖う者が地上に現わるという思想、第三はある時において人が神を見る眼を与えられて明かに神を直視し得るに至るとの思想である。第一はキリストの神性を示すもの、第二はキリストの再臨、第三は信者の復活及び復活後に神を見奉ることを示すのである。絶望の極この三思想心に起る時──否この三啓示心に臨むとき──絶望の人は一変して希望の人、歓喜の人となるのである。 ◯近世の神学はその本文批評を武器として、右の如き見方を破壊せんと頻りに努力する。本文を改訂して右の如き意味を除き去らんとするのである。しかし福音的信者はこれを承認しないのである。救主の神性、その再臨、信者の復活をヨブの右の語に読みて過らないと思う。そしてこれを以て必しも新約的意味を強いて旧約聖書の解釈に用いたと難ずべきではない。ヨブは己の義を証するもの地上に一人もなきを悟りて、遂に神においてこれを求むるに至ったのである。すなわち彼は心の自然の動きに追われて、贖い主の信念にまで到達したのである。彼に限らず何人にても彼の場合に立ちて、光明探究の心を棄てずば終にここに至るのである。これを特殊の天啓と見ずとも人間自然の要求と見れば少しも怪むを要さない。今日キリスト者の中に再臨復活等の信仰を喜び受くる者多きは、それがわが本来の要求に合致するからのことである。信者は神学を求めず信条を要せず、ただ魂の中におのずと湧き出ずるものにして同時に天父より啓示さるるものを求むる。すなわち己の要求と上よりの啓示と相合致せし所の真理を要するのである。 ◯次に見るべきは二十八、二十九節である、ヨブが上述の如き心理的過程を経て遂に贖い主を発見するに至るや、友に対する彼の態度は一変したのである。前には「我を恤れめ我を恤れめ」と友に哀願せしに、今は友を審判くに至った。「汝らもし我らいかに彼を攻めんかと言い、また事の根われにありと言わば剣を懼れよ、忿怒は剣の罰を来らす、かく汝ら遂に審判のあるを知らん」とはすなわちその語である。もし三友らあくまでヨブを罪ありとして、ヨブをいかにして攻めんかと腐心するならば、心せよ神の恐るべき審判臨むに至るであろう。神は遂にある時ヨブの無罪を証明すると共に、ヨブを苦しめし三友を罰し給うであろう、怒の剣を以て攻め給うであろうと。かくヨブは三友に威圧的警告を与えたのである。ヨブは新光明に接せしため屈辱の極より一躍して勝利の舞台に登り、友らを眼下に見るに至ったのである。屈辱より栄誉に、敗北より勝利にとヨブは一瞬の間に大変化を経たのである。それは光明に接せしためである。僅か一章の間にこの大変化が潜んでいるのである。 ◯第十九章は実にヨブ記の分水嶺である。依て我らはここに今までの経過を回顧して四、五の真理を学びたいのである。第一、ヨブは議論においてたびたび負けた形でここまで至ったのであり、殊に十八章においてはビルダデのために手痛く撃たれたのである。しかるにその間彼は常に実験を積みつつありて、遂に十九章に至りてその霊的実験の高調に達するや、見事なる勝利を占めたのである。ビルダデのために最後の大敗衄をなした如く見えしその瞬間、実に新光明は彼に臨みて主客顛倒の態を表わし、三友は勿論彼自身すら予期せざりし真理の把握に依りて彼らを見事に撃退したのである。負くるは必ずしも負くるにあらず、勝つは必ずしも勝つにあらず、これ注意すべき第一点である。 ◯第二に見るべきはヨブの信仰が徐々として進歩せし事である。まず「贖い主」の事を見るに、九章三十三節には「また我ら(神と人と)の間には我らの二個の上に手を置くべき仲保あらず」とありて、ただ仲保者のあらんことを切望している。しかるに十六章十九節に至れば「視よ今にてもわが証となる者天にあり、わが真実を表明す者高き処にあり」といいて、証者の天にあることを暗中に悟り始めしを示す。そして十九章に至ては遂に贖い主の実在を確信するに至り、それが神にして他日地の上に立つことを予知するに至る。「われ知る」といいてその確信の言たるを言い表わしたのである。しかしてこの信仰の進歩は「来世存在」のことにおいてもまた同様である。十四章十四節においては「人もし死なばまた生きんや」との来世問題を一の疑問として提出せし有様であったが、再生の要求彼に根深くして、遂に十九章に至っては二十六節の如き明白なる来世信仰を抱くに至ったのである。かくヨブは友の攻撃に会えば会うほどますます明かに、ますます高く、ますます深く信仰の境地に入るのである。 ◯第三にはヨブの苦痛に会いし意味が解るのである。神が彼に堪えがたきほどの災禍痛苦を下せし目的が解るのである。それは贖い主をを示すにあったのである。ヨブは苦難を経て贖い主を知るに至り、その苦難の意味がよく解ったのである。キリスト出現前のヨブにありて、この贖い主のことは暗中に模索せし宝であった。今日の我らにおいては、この贖い主をイエスにおいて認めて全光の中の珠玉である。人生の目的如何、何故の苦悩、何故の煩悶懊悩ぞ、それはキリストを知らんためである。しかしてキリストを知り、その贖罪を信じ、その再臨を望み、そして自身の復活永世を信じ得るに至るときは、我らもまたヨブと共に叫んで言う「わが心これを望みて焦る」と。人生のすべての苦難はこの希望とこの信仰とを以て償い得て余りあるのである。 ◯第四に信仰は由来個人的のものである。社交的または国家的または人類的のものではない。ヨブは独り苦みて独り贖い主を発見し「我れ知る……」というに至った。誰人もヨブの如くあらねばならぬ。我らは人類と共にキリストを知るのではない、一人にてキリストを知るのである。今の人はとかく一人にて神を知らんとせず、社会と共に国家と共に世界万国と共に神を知らんとする。これ大なる過誤である。かかる謬見より出発するがために、今日の信者には信仰の浅い者が多いのである。我らはヨブの如く独りみずから苦みて、遂に「我れ知る我を贖う者は活く」といい得るに至らねばならぬ。 ◯第五にこの救主再臨の希望は己に対し、他人に対し、万物に対する態度を一変せしめるものであることを語る。この光に触れしため今まで失望の極にありしヨブに根本的の変化が臨んだのである。絶望の底より希望の絶頂に上り、悲愁の極より歓喜の満溢に至った。そして友に対するその態度の変化の著しきは実に驚くべきほどである。我を罵る友──罪なき我を罪ありとして責める友──親友なる我に無情の矢を放つ友に向ってさえ「我を恤れめ、我を恤れめ」と屈辱的な憐愍を乞うに至ったほどのヨブが、この光に接して後は友の上に優越なる地歩を維持して、正は我にあり曲は彼らにありとなして、彼らに向って堂々たる威圧的警告を与うるに至ったのである。実に一瞬の前と一瞬の後とのこの大変化は驚くべき者である。そしてヨブの場合においてしかるが如く、我らの場合においてもしかるのである。この新光明、新黙示に接して我らは全く別人となるのである。     *   *   *   * ◯我らは以上の如くヨブ記を発端より十九章まで学び来った。そして今日はヨブ記の絶頂たる十九章を研究し、かつまた全体にわたりて四、五の注意を述べ終えた。かくて我らは既にヨブ記という高山の絶頂を極めたわけである。ヨブは既に苦痛の果を受けて人生の秘義を悟り、その目的は達せられたわけである。ヨブ記著者が普通の文士ならばここでヨブ記を終局とすべきであった。しかしながら著者は十九章を以て擱筆しなかった。この信仰の絶頂に達しても、なおその後に学ぶべき多くの事があるのである。あたかも山の頂きを極むるも、なおこれを越えて向側を下りつつ種々の新しき風光に接するが如くである。かくてヨブ記は十九章を以て終らずして、なおその後に今までよりも多くの二十三章を附加して、遂に全巻四十二章を以て完了するのである。ヨブは信仰の絶頂に達して已むべきでなかった。信仰に依て友に勝つは決して最善の道ではない。ヨブはなお学ばねばならぬ。ヨブ記はなお続かねばならぬ。これを十九章を以て終えずして、四十二章まで続けたる著者の天才と思慮は大なるかな。 附言 二十三節以下の言を発するに方りてヨブの態度に左の如き変化ありし者と見て、その意味を解する事が容易になると思う。 ヨブ暫らく三友人の面を眺めつつありしが、少しも同情推察の色の現われざるを視て取りければ、彼の面を友人らの面より反け、遥かに遠方を望み、独り声を揚げていいけるは 嗚呼わが言の書き留められんことを。 嗚呼わが言の書籍に記されんことを。 嗚呼鉄の筆と鉛とをもて永く磐石に鐫つけおかんことを。 かく言いて少時く黙し、眼を転じ天を仰いで言いけるは 我は、しかり我は知る我を贖う者は活く、 後の日に彼れ必ず地の上に立たん。 わがこの皮この身(自己を指して言う)の朽果てん後、 我れ肉を離れて神を見ん、 我れ自から彼を見たてまつらん、 わが眼彼を見奉らん、識らぬ者の如くならじ。 嗚呼これを望みてわが心衷に焦る。 かく言いて後、ヨブ再びその面を三友に向けて儼然として言う 汝ら「もし我らいかに彼を攻めんか」と言い、 また「事の根源我に在り」と言わば、 剣を懼れよ、忿怒は剣の罰を来らす、 かくて汝ら遂に審判のあるを知らん。 第十六講 ゾパル再び語る 第二十章の研究 ◯ヨブは十九章において大なる啓示に接して光明全心に漲るに至り、今は友の上に優逸なる信仰の地歩を占むることとなりて、今までは友に撃たれつつありしに今は威迫を以て友に臨み得るに至った。一瞬にして局面は一変し、彼は勝利者として鮮かに現れた。故にヨブ記は十九章を以て終尾とすべきではないかと思われる。しかるに著者は以後に二十三箇章を加えて、なお大に読者を教えんとするのである。まことに不思議な事である。 ◯そしてヨブ記のみに限らない、聖書においては他にもこの種の事がある。イザヤ書の如きは、その第五十三章の救主予言を以て光明の絶頂に達したのである。しかるにこれを以てイザヤ書は終らずして、六十六章まで続いている。また新約聖書はヨハネ伝の十三章─十七章を以て絶頂に達せりと見らるるにもかかわらず、これを以て終らないのである。その理如何? ◯けだし吾人は信仰の絶頂に攀じ登り、希望の全光明にその身をひたすといえども、これだけで充分ではない。なお吾人に学ぶべきものが残っておるのである。「それ信仰と望と愛とこの三つの者は常に在るなり、この中最も大なるものは愛なり」という。我らはなお愛について学ばねばならぬのである。さればヨブ記は十九章を以て終ってはならぬのである。 ◯十九章の最後を見よ、そこにヨブは明かに友に勝っている。しかしそれは信仰による勝利ではあるが、愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない。ヨブは信仰に由て友を蹴破して終るべきではなかった。愛を以て友を赦して終るべきであった。彼はなおこの上学ぶ所があって、遂に愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ。すなわち愛による勝利の域に達せねばならぬ。そして彼は四十二章に至って、真に友を愛し得るに至った。それまでの道程を我らは二十章以下において学ぶのである。ヨブ記が十九章を以て終るべくして終らなかった理由はここに在る。故に二十章のゾパルのヨブ攻撃は実に辛辣非礼を極めたもので、十八章のビルダデの攻撃に勝るも劣らぬものであるが、これに対してヨブは甚だ平静であって決して激語を以て酬いず、遂には進で自己を罪人となし神を赦し得るに至るのである。 ◯これよりヨブの学ぶべき事はその終局において愛であるが、その中道に学ぶべき二、三の重要なる事柄があったのである。まず知るべきは「摂理」のことである。神はいかように人間を──また人間社会を導きつつあるか、義人と悪人とに対する神の態度如何、義人に患難を下す神の摂理の意味如何、これをヨブは学ばねばならぬ。一言にしていえば神を認めて上の人生問題の解決を得ねばならぬ。次ぎには自然界の事、世界、宇宙の秘義を学ばねばならぬ。すなわち宇宙問題を研究せねばならぬ。ヨブは十九章において自己心霊一個の問題をその根源において解きし故、これからは眼を広く世界に放って人生問題、宇宙問題の研究に従わねばならぬ。かくして自己心霊の問題、自己以外の世界宇宙の問題など、およそ世にある大問題を解き終えて、遂に己を苦めし友を赦し得る愛にまで到達するのである。われらは二十章以後の研究に当りては、上述の事を深く心に留めて置かねばならない。 ◯二十章のゾパルの語は十八章のビルダデの語と同じく、悪しき人の滅亡を描いたものである。すなわちヨブの目下の惨苦及び来らんとする滅亡を以て悪の結果と断定したのであって、時代思想の罪とはいえ、いかにも峻酷であるといわねばならぬ。その中十九節に「こは彼れ(悪しき人をいう、暗にヨブを指す)貧しき者を虐げてこれを棄てたればなり、たとい家を奪いとるともこれを改め作る事を得ざらん」とあるが如き、貧者を虐げその家を奪う罪悪をヨブに帰したのであって、理不尽なる批難というべきである。 ◯また二十四、二十五節の如きは文章美の点より注意すべき語である。「かれ鉄の器を避くれば銅の弓これを射透す、ここにおいてこれをその身より抜けば閃く簇その胆より出で来りて畏怖これに臨む」とある。これ神が悪人を撃ち給う事を比喩的に述べたのであって、その描くが如き書振の鮮かなること比類少きを思わしむる。 ◯また二十七節には「天かれ(悪人)の罪を顕わし地興りて彼を攻めん」とある。これ十九章二十五節にあるヨブの言たる「われ知る我を贖う者は活く、後の日に彼必ず地の上に立たん」に対する嘲笑的皮肉である。我れを贖う者が後必ず地の上に立たんとのヨブの大信仰の披瀝に対して、天はヨブの罪を顕わし地は興りてヨブを攻めんという(明かにヨブとはいわず、しかし勿論ヨブを意味するのである)。まことに毒を含める嘲笑の語である。ヨブが霊界神秘の域に独り神と交わりて得たる黙示は、心なき友のためにかくも汚されんとするのである。 ◯実に二十章のゾパルは、ヨブに対して毒ある矢を放ったのである。しかし今日のヨブはもはや昨日のヨブではない。彼は今や黙示の深きに接し、信仰の絶巓に登りて、遥か下に友の陋態を眺むるの余裕を抱いている。故に友の毒矢は彼を怒らせない。故に彼は二十一章において、決して激語を以てゾパルに酬いない、ただ静かに彼らを諭さんとするのである。そして遂にはかかる嘲笑を以てヨブの信仰に対せしほどのゾパルをも容易く赦し得て、みずから手を伸ばして彼らと握手するに至ったのである。 ◯さらば我らの学ぶべきは愛である。我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って──すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である。 第十七講 ヨブの見神(一) 第三十八章の研究 ◯余はヨブ記の絶頂たる十九章を講じて後ち病を得、数回この講壇を休むのやむなきに至った。詩人バイロンは大なる天才であったが、三十八歳を以てこの世を去った。ある人この事を評して、彼はその発見せる真理のあまりに大なるため殪れたのであるというた。余は自ら真理を発見したためではないが、ヨブ記十九章までに含まるる真理の余りに大なるに接して病を得たのである。依て余は最初の計画に変更を加え、二十章以後を逐章研究することを罷めて、最後の数章のみを講ぜんと欲する。すなわち「第三回論戦」と「エリフ対ヨブ」の条を歇めて、最後の「エホバ対ヨブ」を講演の題目とするのである。 ◯ヨブは十九章において希望の絶頂に達した。そして二十章以後においても、種々の貴き事を示されるのである。三友人は依然として彼の攻撃に全力を尽せどもヨブは従来の如く激せず、受けた攻撃の主意を自分一己の事とせず、これを人類全体の大問題として考察する。例えば「神の支配するこの世において善人にして衰うる者あり、悪人にして栄ゆる者あるは何故ぞ」等の疑問に対して、これを人類共通の問題として答うるのである。 ◯三友のヨブ攻撃は依然として続けどもヨブに何ら教うる所なく、次に青年エリフ堪りかねて仲裁の語を発し(三十二─三十七章)、それは多少ヨブを慰むる所あったが、勿論ヨブに充分の満足を与えずして、ヨブはただ沈黙を以てこれに応じたのみであった。けだし最後の問題はヨブが直接神の声を聴くことである。彼はみずから父の御声に接せずしては、満足しないのである。彼はこの神秘境を味わずしてはその霊魂に真の平安を得ることは出来ぬのである。人の声は人を救うことは出来ぬ、神の声のみ人を救い得るのである。 ◯ヨブのこの願は十三章に示されている。「視よわが目これを尽く観、わが耳これを聞きて通達れり、汝らが知る所は我もこれを知る、我は汝らに劣らず、しかりといえども我は全能者に物言わん、われは神と論ぜんことを望む」(一─三節)とある。また三十一章三十五節には「ああ我の言う所を聴き分るものあらまほし(わが花押ここにあり、願は全能者われに答え給え)」とある。ヨブは神の声を聴かんことを熟知したのである。そしてこの熱望は次に希望となり、確信となっている。「わがこの皮この身の朽ちはてん後ちわれ肉を離れて神を見ん、我れ彼を見奉らん、わが目彼を見んに、識らぬ者の如くならじ、わが心これを望みて焦る」(十九の二六、二七)とある。ヨブは他日神と相対して語るべき時ある事を確信するに至ったのである。既にこの熱望を達すべき時来るとの確信に達した以上は、あるいは既に充分であるという人があるかも知れぬ。しかしヨブ記著者は詩人である。詩人であると共にまた信仰問題の精髄に達した人である。故に最後に至ってヨブに神を示すのである。ここにヨブの切なる望は鮮かに遂げられて、彼に大なる満足が臨むのである。 ◯見神の実験と叫ぶ人がある。また見神の実験記の記されしものがある。しかしいかなる見神であるかが問題である。ヨブの見神の実験如何、彼はいかように神に接しいかようにその声を聞きしか──それが問題である。そしてこれを記すものは三十八章─四十一章である。これがヨブの見神の実験記である。あるいはこれを読みてその無価値を称する人もあろう。しかしこれ真の見神実験記である。人もし信仰と祈祷の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは、敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である。 ◯三十八章一節にいう「ここにエホバ大風の中よりヨブに答えて宣わく」と。「大風の中より」というはいかなる状態を指したのであるか知る由もないが、エホバの声はとかく人の道が窮った時に聞ゆるものである。この世の人々が全く窮するに至って、茫然自失為す所を知らざる時、エホバの声は預言者の口を通して聞こゆるものである。三友人の批難の語もエリフの慰めの語も共に問題を解くに足らず、ヨブは光明に触れしもいまだ直接父に接するを得ずして、深き遺憾を心に抱ける時、ここにエホバは人間の造る大風の混乱の中より声を発し給うのである。 ◯その声にいう「無知の言詞をもて道を暗からしむるこの者は誰ぞや」と。「道」とは神の御計画、世界を造り給いし時の御精神という意である。神は光明の道を以て世界を造りかつ導き給う、しかるに強いて心中の懐疑を以てその道を暗くするものは誰ぞというのである。 ◯次に「汝腰ひきからげて丈夫の如くせよ、我れ汝に問わん、汝われに答えよ」とありて次に左の如く言う。 地の基を我が置えたりし時なんじいずこにありしや、汝もし穎悟あらば言え、汝もし知らんには誰が度量を定めたりしや、誰が準縄を地の上に張りたりしや、その基は何の上に置かれしや、その隅石は誰が置えたりしや(四─六節) これ神が世界を造りし時汝はその計画に参与せしかとの問であって、造化の秘義に関する人間の無知を諷せし語である。「地」というも勿論当時の地文学に循っての語であって、地球を意味せず、地を扁平なものと見ての言である。故に「地の基を我が置えたりし時」というのである。「誰が度量を定めたりしや、誰が準縄を地の上に張りしや」は地の目方、長さ、幅等を汝が与り知るや、人知の微弱なる到底これを知る能わず、ただ地を造りし神のみ知るとの意である。六節も同様の主趣の語であって、「基」といい「隅石」というは、いずれも地を扁平体の大建築物と見ての言い方である。 ◯人は地──己が脚を立てつつある所の地についてもかく無知である。これを知るは神のみ。造化の秘義、摂理の妙趣は人知の把握の外に在る。いたずらに小なる知力を以て神の宇宙について、是非得失の論議をなすは空しき極であるとの主意である。今日の科学においては地球の長さ、幅、目方を正確に知られている(太陽や月のそれさえ知られている)。故にヨブ記のこの言は何ら肯綮に当らないという人があるかも知れぬ。しかしこれ愚かなる批評である。数千年前のヨブ記なるが故に、かく論じて人間の無知を充分明示し得たのである。もし今日ヨブ記が作らるるならば、他の難問を提起して人間の無知を証し得るのである。人知の進歩と人は叫べども、いまだ人に知られぬ事は宇宙に夥しく存するのである。そして昨の知識は今すでに非なるが常である。人は地に関してすらいまだ甚しく無知である。ヨブ記のこの言は、その精神において今なお有効である。 ◯次の第七節に言う「かの時には晨星あいともに歌い、神の子たち皆歓びて呼わりぬ」と。地の造られし時天の星と天使との合唱歓呼せしことをいう。まことに荘大なる言である。ああいかなる合唱なりしぞ。ああいかなる歓呼なりしぞ。人の合唱、人の歓呼すら荘大高妙を極むることあるに、これはまた類なき合唱歓呼──晨星声を揃えて歌い、神の子たち皆歓び呼わるの合唱歓呼である。人は宇宙の創造に参与せずして少しもこの事を知らない。そして今いたずらにその貧弱なる智嚢を絞りつくして宇宙と造化の秘義について知らんとし、少ばかりの推測の上に蝶々し喃々する。実に憐むべきは人の無知である。知らずや地は人の思うが如くにして現われ出でたのではない。思うだに心躍る所の、荘大といい厳粛といい優美というも到底いい尽し得ぬ所の、光景の中に造られたのである。 ◯しかり、地はかかる大讃美の中に勇しく生れ出でたものである。既にかかる地である。神が造りかつ治め給うかかる地である。かかる讃美の中に生れて神に治めらるるこの地である。そしてかくの如き地に生を享けたる人である。さらば人よ無益なる不平や疑惑を去れ。諸星と天使との大讃美大歓呼の中に生れし地に住みて、心に讃美の歌なく歓呼の声なくして生くるは酔生夢死である。小さき理知の生む悶えと疑いを去りて、星と共に、天使と共に、神とその造化とを讃美しつつ、意義あり希望ある生を送るべきである。 ◯ああ人は無知にして造化の秘義を知らぬ。そして独り悶えている。しかるに人の立つ所の地の造られし時において、全宇宙の讃美歓呼があったのである。神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである。 第十八講 ヨブの見神(二) 第三十八章の研究 ◯第三十八章の一─七節は前講の主題であった。造化の妙趣の中に神を悟るべしというがその根本精神である。七節には「かの時には晨星相共に歌い、神の子ども皆歓びて呼わりぬ」とある。八─十一節はこれを受けて言う。 8 海の水流れ出で、胎内より湧き出でし時誰が戸を以てこれを閉じこめたりしや、9 かの時我れ雲をもてこれを衣服となし、黒暗をもてこれが襁褓となし、10 これにわが法度を定め関及び門を設けて、11 曰くここまでは来るべし、ここを越ゆべからず、汝の高浪ここに止まるべしと。 海は動揺常なきものにして到底人に御し得ぬものとは、古人の思想であった。黙示録第二十一章は新天新地の成立を描きし者であるが、その第一節には「われ新しき天と新しき地を見たり、先の天と先の地は既に過ぎ去り、海もまた有ることなし」とある。海既に無しは、旧世界の混乱不安動揺既に去れりとの意であろう。またヨブ記七章十二節に「我あに海ならんや、鰐ならんや」と海を鰐に比較せる如きも、古代人のこの思想を知るものである。かくの如く海は人力の到底御し得ぬものである。しかるに神はこの海を造り給い、そしてやすやすとこれを制御しつつある。以て我らは神の力の偉大なるを知るべきであると。これ八節─十節の大意である。 ◯そして八節─十一節は海を以て嬰児に譬え、海の創造を嬰児の出産に譬えて美妙なる筆を揮ったのである。海なる嬰児が母の胎内より湧き出でて、浩々蕩々まさに全地を蔽わんとした時、戸を以てこれを閉じて汎濫を防ぎしは誰であるかと八節は問う。けだしこの御しがたき力を制御せしは神に外ならずとの意である。次に九節はこの海という嬰児に対して「雲を以てこれが衣服となし、黒暗を以てこれが襁褓となし」たのは神であるというのである。雲は海を蔽う衣であり黒暗はこれを包む襁褓であるとは、まことに絶妙なる形容であると思う。そして単に形容たるのみならず、恐くは渺茫たる大洋の中に幾日かを送る航海者に取りては、ヨブ記のこの語が宛然に事実なるが如く感ぜらるるであろう。昼は満天の漠々たる雲が海を蔽い夜は底しれぬ暗黒が海を包む光景を親しく観て、この形容の荘大、優美にしてかつ如実なるを悟り得るのである。 ◯そしてこの御しがたき奔放自在の海に対して「法度を定め関及び門を設けて」、これに向いて「ここまでは来るべし、ここを越ゆべからず、汝の高浪ここに止まるべし」と命じ給いしは実に造物者なる神である。海がその蔵する無限のエネルギーに押し立てられて、沖天の勢を以て陸に向って押しよせる時は、あたかも陸を一呑みにするかと思わるるほどである。しかるに見よ「わが法度」は儼としてそこに立つ。神は「関及び門」をそこに設け給うて過らない。我らは海岸に立ちて、脚下に襲い来る丈余の浪が忽ち力尽きたるが如くに引退くを見て、ヨブ記のこの語の妙味を悟り得るのである。我らは九十九里ヶ浜の渚に立ちて、寄せ来る太平洋の高浪を見てその強烈なる力に驚く。このエネルギーを利用して電力を起さしめんと計画しつつある人がある。しかるにそれほどの力を以て寄せ来る浩波も、打ち破りがたきある力に制せらるる如くにそのまま後退するのである。神は実にある制限を設けて、人の御し得ぬ海を御し給うのである。 ◯ヨブ記のこの見方に対しては、今日の科学者に種々の批評があるであろう。しかし今日の進歩せる自然科学といえども、その幾多複雑なる研究を以てして、つまりはヨブ記と同一の言を発する外はないと思う。有名なるドイツの科学者フムボルトは科学者は自然現象を説明し得るもその意味を解く能わずというた。巨大なる太平洋をして全地を蔽わしめざるよう、これを囲みて陸地の大堤防が儼として存するを見る。わが日本島の如きはその堤防の一部であると見られる。南氷洋を囲みて同様なる陸の堤ありと探検家はいう。まことに神は海の大動揺をある範囲に止めて、人畜をして安じて地の上に住ましむるのである。 ◯人の御しがたき海に堤を設けてこれを制するは神である。海は動揺それ自身である。人は各人難問題を抱いて苦む。その時人の心は一の海である。動揺混乱底止する所を知らない。しかし人の御しがたき海を神は御し給う。我らより熱誠なる祈の出ずる時、神はその大なる御手を伸ばして海を制し給う。かくて我らの衷の海は止まるのである。 ◯また今の世界はまことに混乱擾雑の海である。社会の腐敗は底なきが如く、世界の表は紛乱を以て充たされている。世界大乱一度収まりし如くにして実は収まらず、戦の噂は噂を生みて、今や全地大洪水に溺れんとするが如く見ゆる。我らの憂慮も何らの効果なし。我らの努力を以て全地の大海を抑うることは出来ない。我らはただ熱心に祈るのみである。しかし神はこの祈を記憶し給う。混乱の海を制する力は彼にのみ在る。神は全地を呑まんとする海に対して「ここまでは来るべし、ここを超ゆべからず、汝の高浪ここに止まるべし」と言い給う。実に彼は人の御しがたき海を御し給う。彼は地の上にその支配権を持ち給う。この事を知りて、自身としては力なき我らにも大なる安心がある。 ◯一世紀前、かの大ナポレオンは、世界をその飽くなき欲望の餌食たらしめんとした。しかしウォルターローの一戦は遂に彼のこの暴威を制した。人は皆これを評して英普聯合軍、殊に英軍司令官ウェリントンと普軍司令官プルーヘルの力に基くという。独り仏の文豪ヴィクトル・ユーゴーはいうた、神はこの朝二、三十分間の小雨を降らしてナポレオンの勢威を挫いたのであると。けだしこの朝の小雨が仏軍大砲の轍を汚し、そのために進軍の予定が数十分後れた。ために仏軍は普軍到着前に英軍を破るべくして破り得なかったのである。朝の小雨さえなくば、常勝将軍ナポレオンはその異常なる軍事的天才を以て、見事に敵を破り得たであろう。かくて欧州全土は彼の暴威の下に慴伏したであろう。しかしながら神は地を治め給う。時あってかその大なる御手を揮って、人力の制し得ぬ海を制し給う。彼の力は永遠に絶大である。 ◯次に見るべきは十二─十五節である。まず言う「汝生まれし日より以来朝に向いて命を下せし事ありや、また黎明にその所を知らしめこれをして地の縁を取えて悪き者を地の上より振落さしめたりしや」と。これエホバがその能力をヨブに示すのであって、すなわち人力の到底及ばぬ所に彼の力の存することを示すのである。黎明来ると共に暗黒の悪者どもは忽ち姿を消す、そのさまあたかも絨毯の四隅を取らえてこれより塵を払い退けるが如くであるというのである。神は朝に命を下し黎明にその所を知らしめて、その造り給える宇宙に妙なる活動を与えつつあるのである。 ◯続いて十四節はいう「地は変りて土に印したる如くになり、諸々の物は美わしき衣服の如くに顕わる」と。これ黎明の光景を描きたるものである。この形容の真なるを知るためには、アラビヤの砂漠に到らねばならぬ。あるいは太洋の真中における黎明を見ねばならぬ。あるいはわが国にありても、真夏に富士山の絶頂において雲なき空に日の出を見る時は、この語の真なるを知り得るであろう。すなわち日が東の地平線を破りて出ずると共に、今まで暗黒なりし全地は急遽として光明の野となり、山川風物さながら土に印を以て押したるが如く姿を現わし、地上の万物は美わしき衣服の如くに出現するというのである。これ実に美尽くし真極まれる朝の光景の絵画である。ヨブはたびたびアラビヤ砂漠におけるこの種の朝の光景に接して、その絶妙なる詩趣に酔うたことであろう。今や彼はこれが神の為し給う所なる事に初めて気がついたのである。この事汝に可能なるかと詰問されて、彼は神の霊能の前に首を垂れざるを得なかったのである。 ◯次の十五節は言う「また悪人はその光明を奪われ、高く挙げたる手は折らる」と。これまた朝の形容の一部である。暗黒の間悪人はその悪を壇にしてその手を高く挙げて悪に従う。しかし東天を破りて日出ずるや、彼らはその武器とする暗黒を奪われてその悪を断たるるのである。神は日を以て悪を逐い給う。神は朝を世に現わして悪人を撃ち給う。神の力は絶大である。 ◯八節より十五節までを通読せよ、そこにヨブの見神が現われている。彼は海を見、また海を制する陸を見、また黎明の荘大なる光景に接せしこと一再に止まらなかった。しかしこの時まではそこに神を見なかったのである。そしてこの時になって初めてそこに神を見得たのである。神の造りし荘大なる宇宙とその深妙なる運動、神の所作と支配、そこに神は見ゆる。海を制する力に、また黎明の絶美の中に彼は明かに見ゆる。人はこれを無意味に看過する。しかし信仰の眼を以てすればそこに神は見ゆるのである。しかり、そこに神は見ゆるのである。 ◯一人の人を真に知らんためには、その人の作物を見るを最上の道とする。もし文士ならば彼の著作を見ればそこにその人の真の姿が見える。肉眼を以て彼を見る事は、かえって彼を誤解する道となる。少くとも彼を正解する道ではない。神を見ることは決して肉眼を以て彼を見ることではない。真に彼を見んには、彼の所有物たる宇宙とその中の万物を見るべきである。その中に彼の真の姿が潜んでいる。 第十九講 ヨブの見神(三) 第三十八章の研究 ◯地の事、海を制する事、黎明の事を述べてそこに神の力を見るは三十八章一節─十五節の骨子であって、前回の講演の主題であった。今日は十六節以下について語らんとする。十六節より三十八節までは自然界の現象を幾つも掲げて、これを起す神智の不可測を示し、これが根源を知らざる人智の狭小を示すのである。各語について精細に説明すべき時を有たぬ故、その中の二、三について語ろう。 ◯十六節には「汝海の泉源に至りしことありや、淵の底を歩みしことありや」とある。海水の湧起する源と、深き水底は人の達し得ざる所である。そこにおいて永遠に隠されたる秘密を探り得ざる人智の弱さを見よとの意である。十八節には「汝地の広さを看究めしや、もしこれを尽く知らば言え」とある。これまた地の広さの知られざりし時においては、人智の極限を有力に示す語である。二十四節には「光明の発散る道、東風の地に吹きわたる所の路はいずこぞや」とある。光は東より忽ち全視界に広がり、東風は忽ち吹き来って地を払う。光と風の通り来る東の路はいずこぞ、誰人もこれを知らずというのである。その他の各節いずれも同一意味を伝うるものであって、自然界の諸現象を起し得ずまた究め得ざる人間の無力を指摘して神の智慧と力とを高調したのである。 ◯次に注意すべきは三十一、二節の有名なる語である。 汝昴宿の鏈索を結ぶや、参宿の繋縄を解くや、汝十二宮をその時に従いて引き出だすや、また北斗とその子星を導くや。(改訳) 邦訳聖書には各成句の結尾を「得るや」と訳してあるが、むしろ右に掲げし如く訳すべきものである。空気清澄にして夜ごとに煌々たる満天の星辰を仰ぎ得たるアラビヤ地方に住みて、ヨブはいかに天を仰いで星を歎美しつつあったことであろう。隊商に加わりて砂漠の夜の旅を続けし時の如き、彼の心は天に燦く星の神秘に強く打たれたことであろう。そしてかく星天の美妙を歎称しつつありし彼の心に、あたかもアブラハムに向いて「天を望みて星を数え得るかを見よ」と告げ給いし如く、神はこの時この言を下し給うたのである。彼は神の諭告として、この時特に強くこの言を聴いたのである。 ◯この語はヨブ記が各国の語に訳せらるると共に人々の注意を惹きて、崇高麗美の語として名高きものとなった。各国の人々に天文思想を喚起せし点においてこの語に及ぶものはあるまいと思う。まことにヨブ記においてこの美わしき文字に接して、天を窺わんとする心を起すは当然である。 ◯九章九節にも既に北斗、参宿、昴宿の語があったが今またこの三つが出で、なおその他に十二宮が出でたのである。ヨブ記の読者は、天文について少くともこれ位は知っておらねばならぬ。これだけの星を知るも大なる夜の慰めとなるのみならず神の御心を知るにおいても益せらるる処少なくない。実に天然は聖書以前の聖書である。その中に神の御心が籠っている。ただ人の心浅くしてこれを悟り得ざるを遺憾とするのである。 ◯まず参宿とはオリオン星座(Orion)のことである。支那にては二十八宿の一として参宿という。日本にて「三つ星」と称し来りしものである。中央に三星の一列に並ぶあり、これを遠く囲む四の星あり、いずれも強き光を放つ星にして、巨星の一群として他に類例なく、古来各国の人の注意を惹きしも当然である。ヨブは幾千年前アラビヤの曠野にこの星を仰ぎ見て、神の能と愛とを懐ったのである。我ら今日この星を仰ぎ見て同じく神を懐い、古人と心相通ずるの感を抱かざるを得ない。次に昴宿はプライアデス(Pleiades)のことで、オリオンの西北方に見ゆる小星の一群をいうのである。日本にてはこれを「スバル星」といい来った。これ縛る星の意であって、幾つもの小星が連なりて一団をなしおるを以て名けたのであろう。また六連星ともいう。これ普通の視力ある人に六つだけ星が見ゆるからである。しかし実は沢山の星の集団なのである。参宿と昴宿は甚だ解りやすくして特色があるため、古代より人の注意を惹いたのである。 ◯「汝昴宿の鏈索を結ぶや、参宿の繋縄を解くや」とは何を意味するか。古代人はすべて天象を動物に擬えたもの故、「結ぶ」「解く」等の語を用いたのであるというのが普通の見方である。しかしそれだけでは文意は充分明かとならず、従って註解者は大に苦心し来ったのである。しかして最近の天文学上の新原理が極めて鮮かにこの語を解し去るのは、誠に面白き一事実である。「昴宿の鏈索を結ぶや」というは昴宿の各星を繋ぐ無形の連鎖ありと考え、それを結びつつあるは造物者にして、到底人に不可能なりとの意味を言い表わしたのである。また「参宿の繋縄を解くや」は参宿の各星の繋ぎを解きつつあるは神にして、人間の為し得る処にあらずとの意である。故にもし昴宿の各星は永久に結ばれ、参宿の各星は次第に分離しつつありとすれば、この言の意味は頗る的確になるのである。 ◯そして不思議な事には、最近の天文学上の新学説がこの事を語りつつあるのである。宇宙には二大星流ありて、すべての星は二大星流のいずれか一に属して流動しつつありとは最近の学説である。すなわち宇宙のすべての星は、二大系統に別れて全虚空を運動しつつあるのである。かくの如き星の運動の結果、昴宿の各星はいずれも同一方向に動きつつあるため、全団が一となりて流動しつつあるわけにて、その繋ぎ永久に不変であるが、参宿の各星は別々の方向に動きつつあるため五万年の後には遂に分散し去るべしとのことである。(フラムメリオンの如き天文学者は明かにこの事を断定している)。ヨブ記著作の時代において、昴宿の永久的不変と、参宿の漸々的分散とが、天文学上に解っていたとは断じがたい。しかし最近に発見せられたるこの科学上の新事実を以て、ヨブ記のこの語を鮮かに解き得るというは面白き事である。 ◯「汝十二宮をその時に従いて引出し得るや」とは何を意味するか。「十二宮」とはいわゆる黄道十二宮にして、地球より見て太陽の通る道に当る十二の星座を指すのである。そしてその現わるる期節は各々異なるのであるから「その時に従いて引出し得るや」というたのである。また「北斗とその子星を導き得るや」とは北斗七星が北極星の周囲を廻りつつあるを捉えて、汝この事を為し得るやと問うたのである。すなわち十二宮の各星をその時に適うよう誤りなく東方に上らしめ、かつ北斗七星を北極星の周囲に動かす事の如き、到底人力の為し得ざる処にして、そこに全能者の力と智慧を認めざるを得ずとの意味である。(今日の人にして十二宮の名を知れる人またこれを天において認め得る人が幾人あるか。数千年前の天文学の侮るべからざると共に、ヨブが信仰家なる外にまた天然学者なりし事を知るのである)。 ◯ヨブは右の如く天の星を見た。彼は人力の及ばざるそこに神の無限の力と智慧とを見た。人の小と神の大とを知った。彼は星夜に独り天を仰いでそこに神を見た。神と彼とただ二人相対して前者の声は燦く神秘の星を通じて後者に臨んだのである。これ彼の実験的に味いし聖境にての聖感であった。星を見るも何ら感ずる所なしという人もある。しかしそはその人の低劣を自白するだけのことである。星を見て神を見るの実感が起らざる人にはヨブの心は解らない。神の所作を見て神を知り得ぬはずがない。我らは彼の作物たる万象に上下左右を囲まれて呼吸している。さればそれに依て益々神を知らんと努むべきである。 ◯三十八節を以て無生物の列挙は終り、三十九節より動物のことに移りてそのまま次の三十九章に及ぶのである。既に神の第一の所作なる無生物を見終えたれば、これよりはその第二の所作たる生物に及ぶのである。その委しきはこれを次回に譲ろう。 ◯神の造り給いし万物に囲繞されて我らは今既に神の懐にある。我らは今神に護られ、養われ、育てられつつある。神を見んと欲するか、さらば彼の天然を見よ、海を見よ、地を見よ、曙を見よ、天の諸星を見よ、空の鳥、野の獣を見よ、森羅万象一として神を吾人に示さぬものはない。我らは今神を見つつある。ただ神を見ておりながら、自らその事を知らぬのである。しかしながら少しく心を開き、眼を深くすれば、我らが今神を見つつあることを悟るのである。万象の中に神を見る、これヨブの見神の実験にして、また我らの最も確実健全なる見神の実験である。 第二十講 ヨブの見神(四) ヨブ記第三十八章三十九節より四十二章六節に至るまでの研究 ◯次回を以てヨブ記研究を終えんため、今日は三十八章三十九節より四十二章六節までの大意を語ろう。三十八章の一節より三十八節までは宇宙の諸現象の中に神の穎智と力を認めたものであったが、三十九節以下四十一章までは生物界において神の穎智と愛を──殊に愛を強く──認めたものである。各動物の特徴をまことによく捉えし文字である。今日の動物学者は多分これに何の価値をも見出さぬであろう。しかしもしわが国の動物画家たる応挙にこの文字を示したならば、彼は大に喜んでこれ真の動物描写であるというであろう。あたかも日本画が僅少の線を以て描きて自然物を躍如たらしむるが如く、数語を以て各動物を読者の前に躍らせるのである。 ◯まず第一に獅子を挙げてあるが、これこの動物が当時の人の生活に甚だ近かった事を示すのである。次には鴉を挙げ、三十九章に入りては山羊、牝鹿、野驢馬、兕(野牛すなわち野生の牛)、駝鳥、鷹、鷲を挙げておのおの特徴を述べ、神の与えし智慧による各動物の活動を記して、人智のこれに関与し得ぬ弱さを示しておる。その一々の叙述について述べる時なきを遺憾とするが、十九─二十五節の馬(軍馬)の描写の如きは最も美わしきものである。カアライルはその『英雄崇拝論』中に、この馬の描写に対して大なる讃辞を呈している。アラビヤの勇壮なる軍馬の姿は、活けるが如くに描かれておるのである。聖書註解者よりもむしろ騎兵として実戦に臨みし人は、この描写の真に迫れるを知るであろう。(読者はヨブ記を開いて自らここを読まれたし)。 ◯なお一例として三十八章末尾の鴉の記事を見るに「また鴉の子神に向いて呼わり食物なくして徘徊る時鴉に餌を与うる者は誰ぞや」とある。まことに簡単なる数語である。しかし意味は浅くない。神は鴉を養い給うとは詩篇にたびたび出ずる思想であり、また主イエスは「鴉を思い見よ稼かず穡らず倉をも納屋をも有たず、されども神はなおこれらを養い給う」というた(ルカ伝十二の二四)。鴉は人に嫌わるる鳥である。この鴉を神が養い給うという処に意味がある。「鴉に餌を与うる者は誰ぞや」と神はヨブに問を発して、鴉をさえ養い給う神の人に対する愛と護りとを彼に悟り知らしめたのである。 ◯以上の如くエホバは諸現象を引きまた動物を引きて、神智神力の無限と、人智人力の有限とを教えた。そして次の四十章を見るに「エホバまたヨブに対えて言い給わく、非難する者よエホバと争わんとするや、神と論ずる者よこれに答うべし」とある。しかし既に人の無智、無力を充分に悟りたるヨブは「ああ我は賤しき者なり、何と汝に答えまつらんや、ただ手をわが口に当てんのみ」という外はなきに至った。毅然として友に降らざりしヨブも、今は神御自身の直示に接して、この謙遜の心態に入るに至ったのである。しかも彼の悟りし所はなお足らざりしと見え、エホバはなお教え給うたのである。 ◯エホバはまた大風の中より左の如くヨブに言い給うた。 汝わが審判を棄てんとするや、我を非として己を是とせんとするや、汝神の如き腕ありや、神の如き声にて轟きわたらんや、さらば汝威光と尊重とをもて自ら飾り、栄光と華美とをもて身に纏え、……高ぶる者を見てこれを悉く鞠ませ、また悪人を立所に践みつけ、これを塵の中に埋めこれが面を隠れたる処に閉じこめよ、さらば我も汝を讃めて汝の右の手汝を救い得るとせん。 もしヨブに神の如き力あらんか、もし倨傲者と悪人とを即坐に打砕く腕あらんか、神もまたヨブが自ら己を救い得ることを認むるであろう。しかしながら事実はその正反対である。神は絶対の力であるに、ヨブは絶対の無力である。かくてもなおヨブは自己を是とし神を非と做し得るであろうか。神の審判に対して呟き得るであろうか。──かく神はヨブに告げ、ヨブは自己の心に問うた。ここに彼の魂はますます砕くるのみであった。彼は謙るより外に行き道がなきに至った。 ◯次にまたエホバは二の動物を挙げてヨブに教うる所があった(十五節以下)。まず出ずるは河馬である(十五節より二十四節まで)。次に出ずるは鰐である(四十一章全部)。これ熱帯地方にありては最も恐ろしき二の動物である。エホバはヨブに向って、汝かかる怖ろしき生物を御し得るやというのであって、神の力と人の無力がますます強く示されるのである。 ◯一度謙遜に達せしヨブは、右の如く再び大風の中より出ずる神の声に教えられたのである。ここにおいて彼は遂に四十二章二節─六節の語を発せざるを得ざるに至った。 我れ知る汝は一切の事を為すを得給う、またいかなる意志にても成す能わざるなし、無知をもて道を蔽う者は誰ぞや、かく我は自ら了解らざる事を言い、自ら知らざる測りがたき事を述べたり、請う聴き給え、我れ言う所あらん、我れ汝に問いまつらん、我に答え給え、われ汝の事を耳にて聞きいたりしが今は目をもて汝を見奉る、これをもて我れ自ら恨み、塵と灰との中にて悔ゆ。 まずヨブは神の全能を讃美し、次に己れ無知にして神の摂理に暗き陰影を自ら投じたる不明を恥じ、これよりは全然神に服従せんとの意を表わし、以後神と彼との間に直接なる思想の伝達あらんことを希い、最後に五節、六節の著しき語を発したのである。 ◯「われ汝の事を耳にて聞きいたりしが今は目をもて汝を見奉る」という。ヨブは今まで神を知っておると思っていた。けれどもそれは真に神を知っていたのではない。神について聞いていたに過ぎなかった。神に関する知識を所有していたに過ぎなかった。しかるに今は万象を通じて、神を直観直視するの域に至ったのである。彼の歓び知るべきである。かく神を事実上に見てその全能を悟るや、自己の無力汚穢は何よりも痛切に感ぜらるるに至り、驕慢にして自己に頼りし既往の浅墓さは懺悔の種とのみなった。されば最後に彼は「これをもて我れ自ら恨み(自己を諱み嫌い)、塵と灰との中にて悔ゆ」と悔改の涙を出すに至ったのである。     *   *   *   * ◯以上ヨブ記三十八章以下の「エホバ対ヨブの問答」についてここに二、三の注意を述べたいと思う。(第一)ここに各種の現象と動物について記されて、植物に関して一言も云わざるは何故であるかと批評家は問題を起すであろう。思うにこれヨブ記が砂漠を舞台とせるためであろう。ヨブは植物に乏しき砂漠の住人として、神の力を植物において充分に窺うことは出来なかったのである。ヨブ記はたしかにこれ「砂漠文学」である。 ◯(第二)ある人は抗議を提出していうであろう。ヨブは天然物を見て神に悟り得しならんも、今の時代において煩悶苦悩せる人に向って「鴉を見よ、馬を見よ」というも何らの効果あるべからずと。そして今や悩める人に向っては教会に行けとか宗教書類を読めとかいうのが普通である。さりながらヨブの三友人は当時の神学を以て彼に迫って失敗に終わった。もしこの上ギリシャ・ローマの哲学を以てするも、到底彼に満足を与え得なかった事は明かである。人の言を以てしては、到底ヨブを安心せしむるを得なかったのである。この時彼は神の所造物において神を拝するを得て、自己の罪を懺悔するに至り、ために事は喜ばしき解決を告ぐるに至ったのである。そしてこの事は今日といえども変わるべきはずがない。苦悶者の真の行き場所は教会にあらず、教師にあらず、宗教書類にあらず、神の所作物たる自然の万物万象である。それに親みて神を見、かつ己の真相を知り、以てヨブの如き平安と歓喜を味うに至るのである。ヨブ記はこの事を教うる書物である。 ◯英の天然詩人ウォルズオス、彼は少時より天然を熱愛せしといえども、しかも初より天然を以て悉く足れりとした人ではなかった。少壮にして彼は社会の改善に心を労し、一度は仏国革命に投じて理想の実現を計りし英気勃々たる青年であった。しかし彼は遂に文化世界の中に真理と生命を求むるの無効なるを悟りて、カムバランドの片田舎に退きて、天然世界の中に神の御手を拝し、人生の本趣を見たのである。彼が天然を讃美したのはただ天然を讃美したのではない、彼は天然において神を讃美したのである。我らまた彼に倣うべきである。 ◯(第三)ヨブの最初よりの言に依て見るに、彼はもとから天然に親める人である。しかるに今に至って天然を示されて神の前に平伏するに至りしは何故か。これ明かに一の難問題である。殊に今日の聖書註解者にとってはそうである。彼らは思う人生問題は天然物などを以てして解き得るものにあらず、故にヨブにこの事ありしは不可解であると。余は思う、これヨブの味いたる患難痛苦が彼の天然を見る眼を変えたのであると。彼れ異常の災禍に逢いかつ友の理不尽なる攻撃に会し、幾多の悲痛なる経験を嘗めて自己が砕かれて自己が新しくなり、かくして天地万有を見る眼が全く一変したのである。余はかく説明するより外に道なしと思う。年少にしていわゆる青雲の志を以て燃ゆる時、眼中天然物なきを常とする。しかしながら人生の実相に触れ、幾多の経験を味いて、疑義重く心を圧するに至る時、その時ヨブの如く天然の中に神と福音とを認むるに至り、以て大なる慰藉を得るのである。 ◯しからば右の如くヨブの眼を変えしものは何なるかとの問題が起る。その問題を解くものは、十九章において彼の達せし希望の高頂である。かの時ヨブは既に心において、信と望とにおいて神を見たのである。しかるが故に天地の万象に対して新しき眼を張るを得るに至ったのである。彼の受けし苦難、彼の抱きし希望、これが彼の天然観を変えたのである。かくて遂に神を事実において見るに至ったのである。 ◯(第四)ヨブは最後に至って神の何たるかを知った。彼は神を宇宙の主人公と知った。従って自己は神の僕であると知った。それで問題は解けたのである。人はよくいう「我は宇宙の主宰者たる神を信じ自己がその僕たるを知る」と。しかし口でかくいえばとて、真に心から信じおるかどうかは問題である。その証拠には少しく苦難にでも逢えば、愛の神に似合わしからずと称えて忽ち神を疑わんとする。これ神の主宰者たるを真に知らざると共に、自己のその僕たるをも真に知らぬのである。僕は絶対に主に従うべきもの、主人には主人の心がある。主人の為す所が今不可解なりとてただちに抗議を心に抱くが如きは、自己の僕たるを知らぬものである。神の摂理を認め己を神の僕と信ずる上は、苦難災禍我を襲い来るとも「御心をして成らしめ給え」といいて静に忍耐すべきである。これ僕たる者の執るべき唯一の道である。ヨブはこの信仰に達して真の安心に入ったのである。人もし神の絶対智と絶対力を悟り、己を力なき神の僕と認むるに至る時は、人生のあらゆる境遇に処してそれを御心となして安んじ得るのである。「御心をして成らしめよ」との黙従に入り得るのである。 第二十一講 ヨブの終末 第四十二章七節以下の研究 ◯ヤコブ書第五章十一節に曰く「汝らかつてヨブの忍びを聞けり、主いかに彼に行し給いしかその終末を見よ、すなわち主は慈悲深くかつ矜恤ある者なり」と、まことにその通りである。 ◯ヨブの「終末」を記すヨブ記の結末を語る前に既往を回顧するに、ヨブの異常の災禍に逢えるを三友は罪悪の結果と見、この罪を告白し懺悔せば禍は自ら去るべしと做して、経験と神学と常識とを以てヨブを責める。しかもヨブは罪を犯せし覚なしと称して、強硬に友の言を斥ける。青年エリフまたヨブに説く所ありしも効果少く、ここに己の力も他人の力もヨブを救う能わざるに至って、エホバの声遂に大風の中に聞える。エホバは彼にその所造にかかる万有を指示し、ヨブはここに心に平安を得るに至る。彼がかく天然を見て平安を得しは単に天然に教えられたるに非ず、種々の苦悩の経験を味いて、遂に十九章二十五─二十七節の大希望を抱くに至りしため、神に対する見方が変りて天然に対する見方も変ったのである。かくしてヨブは神に四十二章の劈頭に記さるる大告白を発するに至ったのである。「我れ知る汝は一切の事をなすを得給う」といい、また「われ汝の事を耳にて聞きいたりしが今は目をもて汝を見奉る、これをもて我れ自ら恨み、塵灰の中にて悔ゆ」という。さればヨブ記はここを以て終結とすべきではないかと思われる。 ◯しかるにヨブ記はここを以て終らずして、七節以下ヨブに物的幸福の臨みしことを記している。最後に物的幸福を描かずして、ただヨブが「塵灰の中にて悔い」しままにて、すなわち孤独と病苦のままに放置して、ヨブ記全体を悲劇となした方遥かに大文学らしくあるという人があるであろう。近頃の文学者の如きは、人生の悲痛を描きて悲痛を以て終るを以て人生に徹底したのであると考えている。しかしながら大文学の多くは決して悲劇を以て終らないのである。ダンテの神曲の如きはその著しき一例である。原名 Divina Comedia は「聖なる喜劇」の意である。悲痛を以て終るは不健全の印である。喜びを以て終って、真に人生に徹せる健全なる文学というべきである。勿論ヨブは霊魂の聖境に入ったのであって、その上に何らこの世の幸福を望まなかったのであるが、ヨブ記をここまで読み来りし人は、いずれもここを以て終っては満足できぬのである。 ◯まず七節、八節をを見よ。 エホバこれらの言葉をヨブに語り給いて後、テマン人エリパズに言い給いけるは我れ汝と汝の二人の友を怒る、そは汝らが我につきて言述べたる所はわが僕ヨブの言いたる事の如く正しからざればなり、されば汝ら牡牛七頭、牡羊七頭を取りてわが僕ヨブに至り汝らの身のために燔祭を献げよ、わが僕ヨブ汝らのために祈らん、われ彼を嘉納べければこれによりて汝らの愚を罰せざらん……。 かくエホバの審判三友人の上に下って、その愚は明示せられたのである。彼らは論理において精確なりしも、その根本思想において全然愚妄であったのである。これに反してヨブは所論支離滅裂なりしもその精神において正しく、その心は三友よりもかえって神と真理とに近かったのである。理論の精確にして徹底せるもの必しも真理を体得せるに非ず、理論の不精確にして乱れがちなる者必しも真理より遠きにあらず、理論周到にして知識精確なる神学者の言説かえって福音の真髄を外れ、無学にして発表に拙なる一平信徒の信仰かえって福音の中心的生命に触る。これ往々にして我らの見る所である。今や神の判定エリパズらの上に臨みて、その愚妄は明瞭となったのである。 ◯さてエリパズらは命ぜられし如く燔祭を献げ、エホバはヨブを嘉納るるに至った。その時ヨブは三友人のために祈った(九、十節)。見よ彼は三友のすべての悪罵と無情とを赦して、彼らのために祈るに至った。この大なる愛はいかにして生れしぞ。いうまでもなく「これをもて我れ自ら恨み塵灰の中にて悔ゆ」との彼の大なる謙遜の結果である。愛は謙遜に伴う、大なる謙遜に入りし彼は大なる愛を現わし得たのである。己に矜誇ある時は愛において充分なるを得ない。わが心神の前に深く謙だるに至って無情なる友をも、またいかなる敵をも愛し得るのである。 ◯ヨブこの高き境地に入るに至って、エホバが彼に災禍を下せし理由は全く消失した。されば「エホバ、ヨブの艱難を解きて旧に復ししかしてエホバ遂にヨブの所有物を二倍に増し給」うた。エホバはかくして彼を恵み給うた。「ここにおいて彼のすべての兄弟、すべての姉妹、及びそのもと相知れる者ども悉く来りて彼と共にその家にて飲食を為し、かつエホバの彼に降し給いし一切の災禍につきては彼をいたわり慰め、また各々金一ケセタと金の環一箇をこれに贈れり」と十一節に在る。ヨブの病中は傍に寄りつく事だにしなかった兄弟姉妹知友たち、今ヨブが病癒えて昔日以上の繁栄に入るや、俄に彼の家を訪うて飲食し、既に慰めいたわる必要なきヨブを慰め労り、また銀一ケセタと金の環一箇を彼に贈ったとある。人情の浮薄さ東西古今別なきを思って、微笑まるるのである。(金一ケセタとあるは銀一ケセタの誤訳である。ケセタは多分銀貨の名であったと思う。一ケセタはむしろ少額の貨幣であったと思われるが、かかる際に習慣として贈られた額であったのであろう)。 ◯十二節は彼の財産の二倍となりし事を記し(第一章と比較せよ)、次に十三─十五節に言う。 また男子七人、女子三人ありき、彼れその第一の女をエミマと名け第二をケジアと名け第三をケレンハップクと名けたり、全国の中にてヨブの女子らほど美しき婦人は見えざりき、その父これにその兄弟たちと同じく産業を与えたり。 女子の名のみ挙げ、そしてその女子が全国に比なく美しくかつ男の子同様産業を分与せられたと特記したのは、女子をば特別に貴ぶ当時の風習の表われとして注意すべきである。エミマは「鳩」を意味し、ケジアは「肉桂(香料として)」を意味しケレンハップクは「眼に塗る化粧薬の角」を意味す。原名においてはいずれも優雅な名であったことと思う。「この後ヨブは百四十年生きながらえてその子その孫と四代までを見たり、かくヨブは年老い日満ちて死にたりき」と十六、十七節は語りてヨブ記は大尾となる。実に悔改後のヨブは、この世の幸福という幸福を以て見舞われたのである。 ◯人は苦難に会いし後謙遜と悔改に達すれば、必ずヨブの如くこの世の幸福を以て恵まるるであろうか。ある人はヨブ記の始と終のみを読みて物的恩恵は必ず悔改に伴うべきものとなし、前者において足らざるは後者において足らざるによると考う。従って災禍の下るはその人の信仰足らざるためであると見做す。かくなっては三友人と全く等しき愚妄に陥ったのである。見よヨブは決して物的幸福を願ったのではない。彼はこの世の事は全く忘れて、ただ霊において生きんと努めたのである。そして今苦難の中にあるそのままにて、歓喜の人となったのである。故にヨブは最後の物的幸福に入ることなくして、充分幸福であったのである。従ってこれはなくも宜かったのである。故にヨブ記は物的恩恵が悔改に伴うことを教えた書であると做す人あらば、これ大なる誤りである。 ◯ヨブは所有物において前の二倍となり、家富み子女栄えて、長寿と健康とを恵まれて、その境遇において完全なる幸福を享受するに至った。故にある人は言う、ヨブは前の苦難を悉く忘るるほどの幸福に入ったのであると。果してしかるか。ヨブは後の繁栄幸福の故を以て、悲痛極まりし過去を全く忘れ得たであろうか。否! と我らは叫ばねばならぬ。誰か子を失いし親にして、新たに子を賜わるも前の悲痛を忘れ得ようか。一人の子を失いて十人の子を新たに賜わるも、その損失と悲哀を忘るることは出来ぬのである。これ誰人においてもしかる所である。ヨブは後の繁栄にありても、必ず過去の災禍苦難を想起したことであろう。去りし妻のこと、失いし子のこと、雇人のこと、その他身の病苦と人の無情、いずれも彼の心に深く食いこんだものであって、到底忘るるを得ない事である。故に彼は新しき幸福に浴せしために、旧き禍を忘れて満足歓喜に入ったのではない。十九章に記さるる「我れ知る我を贖う者は活く、後の日に彼れ必ず地の上に立たん、我この皮この身の朽果てん後われ肉を離れて神を見ん、我れ自ら彼を見奉らん、わが目彼を見んに識らぬ者の如くならじ、わが心これを望みて焦る」との大希望に入りし故、ヨブに満足と歓喜が臨んだのである。これに比すれば物の恵の如きは数うるに足らぬのである。 ◯初めのヨブの繁栄と後の繁栄との間に、ある大なる相違があることを我らは認める。初は己に信仰がありて神に事えて正しき故、この幸福を以て恵まれていると彼は考えた。すなわち自己の善き信仰と善き行為の結果としての物的繁栄を認めた。これ権利または報賞として、幸福を見たのである。しかるに今や何ら値なき自分に、全く恩恵として幸福の与えられし事を認むるに至ったのである。実にこの差別は天地霄壌もただならざる差別であって、ヨブは大苦難の杯を飲みしために、遂にかくの如き霊的進歩を遂ぐるに至ったのである。今日を以ていえば、前の状態は不信者のそれであって後は信者のそれである。不信者は物の所有を以て正当の権利と考う。故にそれにおいて薄き時は不平が堪えない。しかし信者は僅少の所有物を以て満足する。これ一切自己の功によらず、全く神の恩恵によると思うからである。 底本:「ヨブ記講演」岩波文庫、岩波書店    2014(平成26)年5月16日第1刷発行 底本の親本:「ヨブ記講演」向山堂書房    1925(大正14)年 初出:丸の内の大日本私立衛生会館における内村聖書研究会においてのヨブ記講義    1920(大正9)年4月25日~6月27日、9月12日~10月10日、10月24日、11月21日、12月19日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「沙漠」と「砂漠」、「越ゆべからず」と「超ゆべからず」の混在は、底本通りです。 ※初出を畔上賢造が筆記して「聖書之研究」に発表時の表題は「約百記の研究」です。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:浅野幸三19481201 校正:酒井和郎 2018年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。