少将滋幹の母 谷崎潤一郎 Guide 扉 本文 目 次 少将滋幹の母 その一 その二 その三 その四 その五 その六 その七 その八 その九 その十 その十一 その一 此の物語はあの名高い色好みの平中のことから始まる。 源氏物語末摘花の巻の終りの方に、「いといとほしと思して、寄りて御硯の瓶の水に陸奥紙をぬらしてのごひ給へば、平中がやうに色どり添へ給ふな、赤からんはあへなんと戯れ給ふ云々」とある。これは源氏がわざと自分の鼻のあたまへ紅を塗って、いくら拭いても取れないふりをして見せるので、当時十一歳の紫の上が気を揉んで、紙を濡らして手ずから源氏の鼻のあたまを拭いてやろうとする時に、「平中のように墨を塗られたら困りますよ、赤いのはまだ我慢しますが」と、源氏が冗談を云うのである。源氏物語の古い注釈書の一つである河海抄に、昔、平中が或る女のもとへ行って泣く真似をしたが、巧い工合に涙が出ないので、あり合う硯の水指をそっとふところに入れて眼のふちを濡らしたのを、女が心づいて、水指の中へ墨を磨って入れておいた、平中はそうとは知らず、その墨の水で眼を濡らしたので、女が平中に鏡を示して、「われにこそつらさは君が見すれども人にすみつく顔のけしきよ」と詠んだ故事があって、源氏の言葉はそれにもとづく由が記してある。河海抄は此の故事を今昔物語から引用し、「大和物語にも此事あり」と云っているけれども、現存の今昔や大和物語には載っていない。が、源氏にこんな冗談を云わせているのを見ると、此の平中の墨塗りの話は好色漢の失敗談として、既に紫式部の時代に一般に流布していたのであろう。 平中は古今集その他の勅撰集に多くの和歌を遺しているし、系図も一往明かであるし、その頃のいろ〳〵の物語に現れて来るので、実在した人物であることは紛れもないが、死んだのは延長元年とも六年とも云って確かでなく、生れた年は何の書にも記してない。今昔物語には、「兵衛佐平定文と云ふ人ありけり、字をば平中とぞ云ひける、御子の孫にて賤しからぬ人なり、そのころの色好みにて人の妻、娘、宮仕人、見ぬは少くなんありける」と云い、又別の所で、「品も賤しからず、形有様も美しかりけり、けはひなんども物云ひもをかしかりければ、そのころ此の平中に勝れたる者世になかりけり、かゝる者なれば、人の妻、娘、いかに況んや宮仕人は此の平中に物云はれぬはなくぞありける」とも云ってあるが、こゝに記す通りその本名は平定文(或は貞文)で、桓武天皇の孫の茂世王の孫に当り、右近中将従四位上平好風の男である。平中と云うのは、三人兄弟の中の二番目の子息であるからとも云い、字を仲と云ったからとも云う説があって、平仲と書いてある例も多い。(弄花抄に依ればヘイチュウのチュウは濁りて読むべしとある)蓋し平中とは、なお在原業平のことを在五中将と呼んだ如きであろうか。 そう云えば業平と平中とは、共に皇族の出である点、平安朝初期の生れである点、美男子で好色家であった点、歌が上手で、前者が三十六歌仙の一人、後者が後六々選の一人である点、前者に伊勢物語があるように、後者にも平中物語とか平中日記とか云うものがある点等でよく似ている。たゞ平中は業平よりも時代がやゝ下っており、今の墨塗りの話や、本院の侍従に翻弄された話などから想像すると、業平と違っていくらか三枚目的なところがあったような気がする。平中日記を見ても、その内容は必ずしも花々しい恋愛談ではなく、相手に逃げられたり、体よく捌かれたり、とゞのつまりは「物も云はでやみにけり」とか、「煩はしとて男やみにけり」とか云う風な終りを告げている挿話が随分ある。又七条の后の宮の女房武蔵との関係のように、たま〳〵望みが叶ったかと思えば、その翌日から公用で四五日京都を離れるようなことになり、而も不覚にも女に事情を知らしてやるのを怠ったので、女はたよりのないのを歎いて尼になってしまったと云うような、そゝっかしい話などもある。 ところで、平中が数ある女たちの中で、一番うつゝを抜かして恋いこがれ、おまけに散々な目に遭わされて、最後には命までも落すようなことになった相手は、侍従の君、───世に謂う本院の侍従であった。 此の婦人は、左大臣藤原時平の邸に宮仕えしていた女房であるが、時平のことを本院の左大臣と呼ぶところから、此の女のことを本院の侍従と呼ぶ。その頃平中の官はわずかに兵衛佐であった。彼は血統や家柄はよかったけれども、官職は低かったのであった。それに何分なまけ者で、「宮仕へをば苦しき事にして、たゞ逍遥をのみして」と日記にあるから、要するに役所勤めなんか嫌いで、のらりくらりしていたのであろう。帝はそれをお憎みになって、懲らしめのために一時免官せしめられたことなどもあった。尤も一説に、彼が免官になったのは、彼よりも官職の上の或る男が彼と女を争ったところ、女がその男を嫌って平中の方へ靡いたので、恋の競争に破れた男が平中を恨み、彼のことを何や彼やと朝廷に讒言したからであるとも云う。古今集巻十八雑の下所載「憂き世にはかどさせりとも見えなくになどか我が身の出でがてにする」と云う歌は、「つかさの解けて侍りける時よめる」と云う詞書の通り、その折彼が出家遁世の念を起して詠んだのであるが、帝の御母后のもとにも馴染の女房があったので、「なり果てむ身をまつ山の時鳥いまは限りとなき隠れなむ」と云う歌をその女の所へ送って、一方では御母后に運動をし、一方では父の好風が帝に哀訴したので、間もなく再び官を賜わったのであった。 勤めぎらいの平中は、宮中への出仕は怠りがちであったらしいが、本院の左大臣のもとへは始終御機嫌伺いに行った。本院と云うのは、中御門の北、堀川の東一丁の所にあった時平の居館の名で、当時時平は故関白太政大臣基経、───昭宣公の嫡男として、時の帝醍醐帝の皇后穏子の兄として、権威並びない地位にあった。時平(これはトキヒラが本当であろうが、古くからの云い習わしに従って矢張シヘイと呼ぶことにしよう)が左大臣になったのは昌泰二年、二十九歳の時であって、初めの二三年の間は右大臣に菅原道真が控えていたゝめに多少牽制もされたけれども、昌泰四年の正月にその政敵を陥れることに成功してからは、名実共に天下の一の人であった。そして此の物語の時代にも、まだ三十を三つか四つ越したぐらいに過ぎなかった。今昔物語には、此の大臣もまた「形美麗に有様いみじきこと限りなし」「大臣のおん形音気はひ薫の香よりはじめて世に似ずいみじきを云々」と記しているので、われ〳〵は富貴と権勢と美貌と若さとに恵まれた驕慢な貴公子を、直ちに眼前に描くことが出来る。従来藤原時平と云うと、あの車曳の舞台に出る公卿悪の標本のような青隈の顔を想い浮かべがちで、何となく奸佞邪智な人物のように考えられて来たけれども、それは世人が道真に同情する餘りそうなったので、多分実際はそれ程の悪党ではなかったであろう。嘗て高山樗牛は菅公論を著わして、道真が彼を登用して藤原氏の専横を抑えようとし給うた宇多上皇の優渥な寄託に背いたのを批難し、菅公の如きは意気地なしの泣きみそ詩人で、政治家でも何でもないと云ったことがあるが、そう云う点では時平の方が却って政治的実行力に富んでいたかも知れない。大鏡は時平を悪くばかりは云わず、愛すべき点があったことをも伝えている中に、可笑しいことがあると直ぐ笑い出して笑いが止まらない癖があったと云うが如きは、無邪気で明朗濶達な一面があったことを證するに足りるのであるが、その一例として滑稽な逸話がある。まだ道真が朝にあって、時平と二人で政務を見ていた頃のこと、いつも時平がひとりで非道に事を処理して、道真に嘴を入れさせないので、某と云う記録係の属官が一計を案じ、或る日文案を文挟みに挟んで左大臣の前に捧げて行き、それを時平に渡そうとするはずみにわざと音高く放屁をした。時平は途端に噴き出してわッは〳〵腹を抱え始めたが、いつ迄たっても笑いやまず、体がふるえてその文案を受取ることが出来ないので、その間に道真が悠々と事務を執り、思いのまゝに裁断を下した、と云うのである。 時平は又なか〳〵勇気があった。道真の死後、その霊が化して雷神となって朝臣に讐をすると信ぜられていた時分、或る日清涼殿に落雷して満廷の公卿たちが顔色を失った折に、時平は凜然と太刀を引き抜いて大空を睨み、「あなたは生きておられた時にも私の次の位だったではないか、たとい神になられても、此の世へ来られたら私を尊敬なさるのが当然ですぞ」と叱咤したので、その威勢を恐れたかのように、雷鳴が一時静かになった。されば大鏡の作者も、いろ〳〵悪いことをした大臣ではあったけれども「大和魂などはいみじくおはしましたるものを」と云っている。 こう云うと、時平はたゞ向う見ずの、お坊ちゃん育ちの餓鬼大将のようにも取れるが、案外そうでない一面もあって、醍醐帝と此の大臣とが密かに謀って世間の奢りを戒めたと云う話なども伝わっている。それは或る時、時平が帝の定め給うた制を破った華美な装束をして参内したのを、帝が小蔀の隙間から御覧になって急に機嫌を損ぜられ、職事を召されて、「近頃過差の取締がきびしいのに、左大臣たる者がいかに一の人であるとは云え、殊のほかきらびやかな装いをして参るとは怪しからぬ、早々退出するように申し付けよ」と仰せられたので、職事はどうなることやらと案じながら、こわ〴〵仰せの趣を伝えると、時平は恐懼措く所を知らず、従者共に先を追わせることをも禁じ、慌てふためいて退出して、以後一箇月ばかりは堅く居館の門を閉じて引籠っていた。たま〳〵人が訪ねて来ても、「お上の御勘当が重いので」と云って面接せず、御簾の外にも出なかったので、漸く此の事が評判になり、世人が奢りを慎しむようになったが、これは豫め時平が帝としめし合わせてしたことなのであった。 平中が此の時平のところへしば〳〵伺候したのは、権門に媚びて出世の緒を掴もうと云う世間並な下心もないことはなかったであろうが、一つには此の大臣と兵衛佐とは話の馬が合うせいでもあった。二人は官職や位階から云えば大きい隔たりがあるけれども、系図や家柄を論ずれば平中も遜色はないのだし、趣味や教養も同等であるし、どちらも女好きな貴族の美男子なのである。従って、二人が常にどんなことを面白がってしゃべり合っていたか、大凡そ見当がつくのであるが、でも平中は、左大臣のお相手をするのが唯一の目的で此の邸へ来るのではなかった。いつでも彼は夜が更けるまで御前で話し込んでから、頃あいを測って暇を告げるのであるが、そのまゝ真っ直ぐ自分の館へ帰ることなどはめったになかった。大臣の前は帰った体にしておいて、実はそうっと女房たちの局の方へ忍んで行き、侍従の君のいるあたりをうろ〳〵するのが例になっていて、ほんとうは此の方が目的なのであった。 しかし甚だ笑止なことに、平中は去年以来此の忍び歩きを繰り返して、或る時はこゝぞと思う遣戸の外で息を凝らしてみたり、勾欄のほとりに彳んでみたり、根気よく機会をうかゞっているのであるが、いつもの彼にも似ず、今度ばかりは運が悪くて、未だにその人の心を動かすことが出来ないのみか、世に稀な美女であると噂の高いその容姿を、垣間見たことすらないのであった。これは一つには、運が悪いだけではなく、何故か相手の人が故意に平中に遇うことを避けているらしいからなので、そのために平中は一層懊れていた。こう云う場合、召使われている女童などを手馴ずけて文の取次をして貰うのが常套手段で、もちろんその辺にぬかりがあるのではなかったが、それも、今日までに二三度持たせて遣ったのに、全然手答えがないのであった。いつも平中は女童を掴まえて、「たしかに渡してくれたかね」と、しつッこく念を押すのであるが、「えゝ、お渡しゝたことはしたんですけれど、………」と、女童は口ごもりながら気の毒そうに平中の顔を見るのである。 「お受け取りにはなったんだね」 「えゝ、たしかにお取りになりましたわ」 「是非御返事を戴きたいと、云ってくれたゞろうね」 「それも、そう申上げたんですけれど………」 「そうしたら?」 「何とも仰っしゃらないんですの」 「でも、お読みにはなったのだろうか」 「えゝ、多分ね、………」 と、平中が問い詰めれば問い詰めるほど、女童はいよ〳〵当惑するのである。 一度などはこんなことがあった。 例に依ってこま〴〵と思いのたけを書き綴ったあとに、せめて私はあなたが此の文を御覧下すったかどうか、それだけでも知りたいのです、決してねんごろな御言葉をとは申しません、御覧になったのなら、見たと云う二文字だけの御返事でもお寄越しになって下さい、と、泣かんばかりの口調でしたゝめたのを持たせてやると、女童はついぞないことにニコ〳〵しながら戻って来て、 「今日は御返事がありましたのよ」 と、一通の文を渡した。平中が胸をときめかしつゝ押し戴いて受け取ったことは云う迄もないが、急いで封を開いて見ると、小さな紙きれが一つ這入っているだけであった。なおよく見ると、「見たと云う二文字だけの御返事でもお寄越しになって下さい」と書いてやった、さっきの彼の文の中の「見た」と云う二字のところを破いて入れてあるのであった。 これにはさしもの平中も開いた口が塞がらなかった。彼も今まで数々の女に恋をしかけたが、こんな意地の悪い、皮肉な相手に懸ったことはなかった。かりにも此方は美男の聞えの隠れもない平中である。大概な女は彼だと分れば訳もなく靡いてしまうのが常で、今度のように手きびしい扱いをした者は一人もなかった。で、いきなりピシャリと横面を張られたような気がして、さすがにそのあと暫くは寄り着こうともしなかった。 それから二三箇月の間と云うものは、女の所に用がないとなると、現金なもので、左大臣への御機嫌伺いも自然怠りがちにしていた。たまには伺候することもあったが、帰りにいつもの局へは間違っても足を向けず、そっちは鬼門だと、自分で自分に云い聞かして、すうっと出て来るようにしていた。と、その後又幾月か過ぎて、或る五月雨の降る晩であった。久振に御前で夜を更かしてから出て来ると、宵のうちは入梅らしくしょぼ〳〵降っていた雨が、俄かに大降りに降り出したので、此の雨を衝いて自分の家まで帰るのはえらく煩わしい気がしたが、その時ふっと、こう云う晩にかの人のもとを訪れてみたら、と、急に平中はそう思いついた。それと云うのが、考えれば忌ま〳〵しいけれども、いったいかの人の此の間のようなやり方は、悪ふざけにしても少しく念が入り過ぎている。凡そ相手が左様に手の込んだ懊らし方をすると云うのは、彼を嫌っているのではなくて、彼に興味を抱いている證拠ではないのか。あたしはそこらの人たちのように、あなたの名を聞いて直ぐ嬉しがるような女ではない、と云うところを見せたいのであろうが、一往その意地を通しさえすればよいのではないか。───平中の腹の底には矢張そう云う風な己惚れがあるので、あれ程にされてもなお懲りず、まだほんとうには諦めていなかったのであった。それに、こう云う真っ暗な土砂降りの晩に訪れたら、いかに鬼のような心を持った女でも、哀れを催さない筈はあるまい。そう思うと彼はひとりでにそわ〳〵して来て、ふら〳〵と鬼門の方角へ出かけて行った。 「まあ、誰方かと存じましたら、───」 呼び出された女童は、雨の降り込む簀子の板敷にしょんぼり立っている男の姿を闇に透かしながら、さも驚いたらしく云った。 「暫くでございましたわね、おあきらめになったのかと存じておりましたのよ」 「いや、あきらめてよいものかね。男はあゝ云う目に遭わされると、猶更恋しさが募るものだ。あれからお伺いしなかったのは、そう〳〵うるさく附き纏うのも失礼だと思ったからだよ」 平中は、餘り醜態にならないように冷静を装ったつもりであったが、生憎自分でも可笑しいくらい声がふるえているのであった。 「御無沙汰はしていたけれども、一日だって忘れたことなんぞありはしない。一途に思いつゞけていたのだ」 「お文をお持ちになりましたの」 女童は長たらしい泣きごとには取り合わないで、手紙があるなら取次だけはして上げようと云う調子であった。 「文なんか持って来なかったよ。どうせ御返事が戴けないのに、書いたって無駄ではないか。───ねえ、君、お願いだ、それよりほんの束の間でもよい、一と目でも、いや、物越しにでも、お逢い申してお声を聞かして戴きたいのだ。そう思い立ったら怺えきれなくなって、此の雨の中を飛んで来た私を、少しは憐れんで下さらないだろうか」 「でもまだお側の人たちが起きていらっしゃるので、今は工合が悪いんですけど、………」 「待つよ、いくらでも。お側の人が寝てしまうまで。───今夜はお逢い出来るまで此処を動かないつもりなんだ」 平中は一生懸命にそう云って、 「ねえ、君、お願いだ、ねえ」 と、だゝっ児のように繰り返しつゝ手を取って放さないので、女童は半ばゝ呆れ、半ばゝ怯えたような眼つきで、気ちがいじみた男の顔をしげ〳〵と視つめていたが、 「では、ほんとうにお待ちになるの?」 と、しょうことなしに云った。 「お待ちになるなら、お側に人がいなくなってから、申上げてだけは見ますけれど」 「有難う、是非頼むよ」 「でもまだなか〳〵ですのよ」 「そんなことは覚悟の上だよ」 「ほんとうにお取次をするだけよ。あとのことはお請け合い出来ませんわ」 それなら彼処の遣戸の前で、なるべく人目に付かないようにして待っていらっしゃい、と、そう云って女童が引込んでしまってから、平中は凡そどのくらいの間立ちつゞけていたことか。だん〳〵夜も更けて来て、人々の寝支度をする物音が聞え、やがてひっそりと局の中が寝静まった様子であったが、その時不意に、平中の凭りかゝっている戸の内側に人のけはいがして、カタリと懸金を外す音がした。 はてな、と思って試しに遣戸に手をかけて見ると、訳なくする〳〵と開いてしまった。あゝ、さては今夜はかの人も心を動かして願いを聴き届けてくれたのかと、平中は夢のような気がして、嬉しさにわなゝきながら恐る〳〵忍び入り、戸の懸金を内側から掛けた。中は真っ暗で、たった今人の足音がしたように思えたのに、その辺には誰もいるらしくもなく、たゞ夥しい空薫の香が局のうちに一杯に満ちていた。平中は闇の中を手さぐりで一歩々々進みながら、かの人の閨とおぼしいあたりへ漸く這い寄ることが出来たが、こゝらであろうと見当を付けてまさぐると、衣を引き被いで横に長く臥している姿が手に触った。ほっそりした肩つき、可愛らしい頭の恰好、まさしくかの人に相違ない。髪を撫でゝみると、しなやかな毛の房々としたのが氷のように冷めたく触る。 「とう〳〵逢うて下さいましたね。………」 こう云う場合にふさわしい台詞のいくつかは、常に用意している筈の彼であるのに、今夜はあまりに思い設けぬことだったので、咄嗟に兎角の文句も浮かばず、不覚にもわな〳〵するばかりで、辛うじてこんな風に云ったあとは、熱い溜息をつゞけざまに吹きかけたゞけであった。彼はひたすら髪の毛の上から両手で女の顔を押さえ、それを自分の顔の方へまともに向けて、美しいと云われる目鼻だちを見きわめようとしたが、顔と顔とをそんなに寄せつけても二人の間には濃い闇があって、何も見透せないのであった。でもそう云う風にして暫く一心に視つめていると、何となくぼうっと、ほのじろいものが幻のように見えて来る気がした。女はその間一と言も云わず、黙って平中のするなりにされていた。平中は女の顔じゅうを撫で廻して、その輪廓を触覚に依って想像しようとするのであったが、そうされても猶柔軟な胴をしな〳〵させつゝ、全く男のするなりにされているのは、無言のうちに何も彼も打ち任せているのだとしか思えなかった。が、女は男の身じろぎを感じると、急に何と思ったか、 「待って、………」 と云いながら体を引いた。 「………彼処の障子の懸金を掛けて来るのを忘れましたわ。ちょっと掛けて参りますわね」 「直ぐお戻りになるのでしょうね」 「えゝ直ぐ、………」 女が障子と云ったのは、今の世の襖のことで、隣の局との間仕切に締めてあるのを云うのであった。いかさまそこの懸金が外れていては、人が這入って来る懸念があるので、男が仕方なく手を放すと、女は起きて、上に纏っていた衣を脱ぎ、単衣と袴とを着たなりで出て行った。その間に平中は装束を解いて臥て待っていたが、たしかにカタリと懸金を掛ける音がしたのに、どう云う訳か女はなか〳〵戻って来ない。間仕切と云ってもついそこであるのに、一体何をしているのか。………そう云えば、今懸金の音がしたあとで、女の足音がだん〳〵奥へ遠のいて行くように聞えたが、それきりぱったりと此の室内に人のけはいがしなくなった。何だか様子がおかしいので、 「どうかなされたのですか、………もし、………」 と、小声で云ってみたけれども、答がない。 「もし、………」 と云いながら、彼も起き上って、襖の際へ行ってみると、怪しからぬことには此方側の懸金は外れていて、向う側の懸金が下りているのである。女は隣の部屋へ逃げて、向うから締まりをして、何処かへ行ってしまったのであった。 又背負い投げを食わしたのか。………平中はそのまゝ襖に寄り添うて茫然と闇の中に立ちつくした。それにしてもこれはどう云う意味であろう。こんな夜更けにわざ〳〵人を自分の閨まで誘い入れて置きながら、いざと云う時に姿を晦ましてしまうとは。今迄にしても念が入り過ぎていたけれども、今日のは餘程不思議である。折角こゝまで事が運んで、今日と云う今日は日頃の恋が成就しそうであったのに、───現に今しがた、あのひやゝかな髪を撫で、あの柔かな頬をさすった感触が、まだ手のひらに残っているのに、───今一歩のところで取り逃がすとは。───一旦はたしかに握った珠が指の間からズリ落ちたとは。───そう思うと平中は口惜し涙さえ溢れて来た。今考えれば、さっき女が立って行った時に、自分も附いて行くべきであった。もう大丈夫と気を許したのが悪かったのだ。大方女は、男にどれほどの熱意があるかを試してみようとしたのであろう。男が心から今夜の逢う瀬に感激しているなら、片時も女の側を離れまいとするのが当り前である。それだのに女をひとり行かして、自分は寝て待っているなんて、その料簡が気に入らない。此方が少し情を示すと、直ぐそんな風に附け上るのでは、まだ〳〵懲らしめてやらねばならない。憚りながらあたし程のものを恋人に持とうと云うのには、もっと〳〵忍耐が必要ですよ、と、女はそう云っているのかも知れない。……… 並々ならずひねくれている女の性質から推して、とても戻って来る筈がないことは分っていながら、なお平中は未練がましく襖の際に耳を澄まして隣室のけはいを窺ったりした。そしてとう〳〵寝床のところへ引返して来たが、脱ぎ捨てゝある自分の装束を直ぐには取って着ようともせず、愚かなことであると知りながら、女の衣と枕とが置いてあるのを抱いてみたり、撫でゝみたりして、やがてその枕に我が顔を載せ、その衣を我が身に纏うて、長い間打ち伏していた。………まゝよ、夜が明けたって構うものか、いつ迄もこうしていてやれ、人に見られたら見られた時のことだ。………こうして強情に頑張っていてやったら、かの人も我を折って戻って来ずにはいないであろう。………そんなことを思い〳〵、女の匂がまだこまやかに立ち籠めている暗がりの中に佗びしい雨の音を聞きながら、彼は夜もすがらまんじりともせずにいたが、次第に明け方が近くなって来、彼方此方でガヤ〳〵人声がし始めると、矢張きまりが悪くなってコソ〳〵逃げ出してしまったのであった。 こんなことがあってから、平中の侍従の君に寄せる思いはいよ〳〵真剣になったのであった。それ迄は幾分遊戯気分で追い廻していたものが、それからは傍目もふらずに恋いこがれて、是非とも望みを叶えずには措けないようになった。そう云う意慾に燃えることは、見す〳〵かの人のしかけた罠に陥ることであったけれども、一歩々々思う壺へ誘い込まれて行きつゝどうにも制しようのない気持であった。そして結局、又あの女童を呼び出しに行っては文をことづけるより外に、此れと云う智慧も浮かばないのであったが、でもその文の書き方には心を砕いて、此の間の夜の己れの越度を詫びる言葉を、さま〴〵な表現で繰り返し〳〵綴るようにした。───あなたが私を試そうとしていらっしゃることは感づいていたのですが、それでいながらうっかりして、あの晩のような失錯をしてしまったくやしさ。それと云うのもあなたを思う熱情が足りない證拠だと仰せになるかも知れませんが、去年以来どんなにあなたに嘲弄されてもなお懲りずまに通って来る私と云うものに、少しでも不憫をかけて下さるのであったら、せめてもう一度だけ、此の間の晩のような機会を恵んで下さらないであろうか。───と、要旨はそれに盡きるのであるが、それをいろ〳〵な殺し文句で書くのであった。 その二 そうこうするうち、その年の夏も過ぎ、秋も暮れて、平中の家の籬に咲いた菊の花も色香がうつろう季節になった。 此の古今に名を馳せた色好みの男は、人間の花を愛したばかりでなく、植物の花をもいつくしむ心を持っていて、わけても菊を栽培することが相当上手であったらしい。「又此の男の家には、前栽好みて造りければ、面白き菊などいとあまたぞ植ゑたりける」とある平中日記の一段には、或る月の美しい夜に、平中の留守をうかゞって女たちがひそかに菊の花を見物に来、丈の高い花の茎に歌を結いつけて帰ることなどが記されているが、大和物語にも、仁和寺の宇多上皇───亭子院の帝が平中をお召しになって、「御前に菊を植えたいと思うので、よい菊を献上するように」と云う仰せがあったことを記している。その時院は、平中が畏まって退出するのをお呼び止めなされて、「その献上の菊の花には歌を添えて参れ。そうでなければ受け取らないぞ」と仰せになったので、平中はひとしお畏まって退き下り、我が家の庭に咲き誇っている菊の中から優れた数株を選び取って、それに歌を添えて差上げた。古今集巻五秋歌の下に、「仁和寺に菊の花めしける時に、歌そへて奉れと仰せられければよみて奉りける」と云う詞書の附いているのが即ちそれである。─── 秋をおきて時こそありけれ菊の花 うつろふからに色のまされば さて彼が丹精して作ったそれらの菊の花どもゝすっかり色香が褪せてしまったその年の冬の、或る晩のことであった。平中はその夜も本院の大臣の許に伺候して四方山の世間話のお相手をしていたが、彼の外にも五六人の公卿たちが侍っていて、初めのうちは御前が賑かだったのが、追い〳〵一人減り二人減りして、いつの間にか大臣と彼と二人きりになった。帰り途に目あてのある平中は、自分も好い加減に退り出たいのであったが、時平は彼と差向いになると女の噂を持ち出すのがおきまりで、何か最近に収穫はなかったか、己の前で隠すには及ばぬぞ、と云うような風に切り出すので、彼も心ではそわ〳〵しながら、ちょっと座を立つしおを失って、それから又ひとしきり、親しい友達同士でなければ交せないような秘話がはずんだ。尤も平中は、近頃侍従の君の一件が大臣の耳に這入っていはしないか、今にそのことを持ち出してチクリとやられるのではあるまいか、と云う不安があるところから、その晩はどうも調子が乗らず、内々警戒していたのであったが、時平は何と思ったか、 「時に、折入ってあなたに聞きたいことがあるんだが、………」 と、俄に上座から席を移して、平中の前へ膝をすり寄せた。 来たな、と思って平中が胸をどきつかせていると、時平はニヤ〳〵薄笑いを浮かべて、 「いや、突然つかぬことをお聞きするようだけれど、あの、帥の大納言の北の方な?………」 「はあ、はあ」 平中はそう云って、まだ薄笑いの消えやらぬ時平の顔を不思議そうに視つめた。 「あの北の方を、あなたは知っておられるであろうな」 「あの北の方………でございますか」 「そんなにお恍けなさらずと、知っておられるなら知っていると、正直に云って下さるがよい」 平中がどぎまぎしている様子を見て、時平は一層膝をすゝめた。 「不意にこんなことを云い出して、変にお思いかも知れないが、あの北の方は世に稀な美人だと云う噂があるが本当かな?………なあ、これ、お恍けなさるなと云うのに。………」 「いえ、恍けてなんぞおりは致しません」 懸念していた侍従の君のことではなくて、思いも寄らぬ人のことが問題になっているのだと分ると、平中は先ずほっとした。 「これ、知っておられるのであろうな」 「いえ、………どう致しまして」 「いかん、いかん、隠してもちゃんと種が上っています」 二人の間にこんな工合な問答が交されるのはそう珍しいことではなかった。いつも時平が冷やかしにかゝると、最初のうちは存じませんの一点張りで、しらを切る平中なのであるが、だん〳〵深く問い詰めると、結局「知らないでもない」と云うような所へ落ちる。それから又問い詰めて行くと、「文の遣り取りだけはした」となり、「一度逢ったことがある」となり、「実は五六度、………」となり、しまいには何も彼も白状する。そして時平が驚くことは、当時世間に評判されている女たちの中で、平中が一往渡りをつけていない者は殆ど一人もないのであった。で、今夜も時平に詰め寄られると、次第に云うことがしどろもどろに、口の先では否定しながら顔つきでは肯定し始めたのであったが、時平が猶も追究すると、 「実は何でございます、あの北の方に仕えておりました女房に、少々ばかり昵懇の者がございましてな」 と、おもむろに口を割り出した。 「ふん、ふん」 「その者から聞いたのでございますが、あの北の方は並びない器量のお人で、年はようよう二十歳ばかりでいらっしゃる。………」 「ふん、ふん、それくらいは私も聞いていますよ」 「ところが、何分大納言殿はあの通りの老人であられますのでな。………あの方のお歳はいくつになられますか、まあお見受けしたところ、もう七十をずうっと越しておられるように存ぜられますが、………」 「左様、七十七か八、くらいになられはしないかな」 「そう致しますと、北の方とは五十以上も違っておいでになると云う訳で、それではあまりあの北の方がおいとおしい。世に珍しい美女にお生れになりながら、選りに選って祖父か曾祖父のような夫をお持ちなされたのでは、嘸御不満なことがおありであろう。御自身でもそれをお歎きになって、あたしのような不運なものがあるだろうかと、お側の者にお洩らしなされて、人知れず泣いておいでになることがある、などゝ、その女房が申したり致しましてな。………」 「ふん、ふん、それで?」 「それで、と申す訳でもございませんけれども、そんなことから、ついその、何でございます、………」 「あはゝゝゝゝ」 「どうぞ宜しく御推察を、………」 「大方そんなことだろうと睨んでいたんですが、やっぱりそうだったんですね」 「恐れ入ります」 「で、何度ぐらい逢っておられる?」 「何度と申して、そうたび〳〵はございませなんだ。ほんのちょっと、一度か二度、………」 「譃を云われな」 「いえ、ほんとうで。………その女房に媒を頼みまして、一度か二度はそう云うこともございましたか知れませんが、格別打ち解ける、と云うところまでは参りませなんだ」 「ま、そんなことはどうでもよろしい。それより私が聞きたいのは、世評通りの美人に違いないかどうか、と云うことなんです」 「左様でございます、それはまあ、………」 「それはまあ、どうだと云われる?」 「どう申したらよいのでしょうかな」 と、平中はわざと気を持たせて、ニタ〳〵笑いを噛み殺しながら、仔細らしく首を傾げた。 こゝで此の二人が噂をしている「帥の大納言」とその北の方と云うのは如何なる人であるか、と云うのに、大納言は藤原国経のことで、閑院左大臣冬嗣の孫に当り、権中納言長良の嫡男である。時平は此の国経の弟、長良の三男に当る基経の子であるから、彼と国経とはまさしく伯父甥の関係になるのであるが、地位から云えば故太政大臣関白基経の長子であり、摂家の正嫡である時平の方が遥かに上で、すでに左大臣の顕職にある年の若い甥は、老いぼれの伯父の大納言を眼下に見下していたのであった。 いったい国経はその頃としては大変長寿を保った人で、延喜八年に八十一歳を以て歿したのであるが、生来一向働きのない、好人物と云うだけの男で、兎も角も従三位大納言の地位にまで昇り得たのは、長生きをしたお蔭であろう。嘗て太宰権帥に任じていたことがあるので、帥の大納言と呼ばれていたが、その大納言になったのは実に延喜二年の正月、彼が七十五歳の時であった。彼にたゞ一つの取柄と云えば、非常に健康に恵まれていたことで、肉体的精力が倫を絶していたであろうことは、そう云う高齢で二十何歳と云う夫人を擁し、男子を生ませていた一事を以てしても想察するに足るのである。これは餘談であるけれども、昭和の現代に於いて、つい此の間、六十八九歳になる或る高名な老歌人が、四十何歳かの某夫人と「おいらくの恋」とやらをして新聞や雑誌に艶種を提供し、大いに世間を騒がしたことはなおわれ〳〵の記憶に新たなところである。当時此の老歌人の知己友人たちの間で一番問題になったのは、彼の体力がよく堪え得るであろうかと云うことであったので、或る物好きな男がそっと夫人に質して見るなどのことがあったが、その結果、夫人は少しもそう云う方面に不満を感じていない事実が明かにされ、われ〳〵は改めて老歌人の精力を羨みもすれば驚きもした次第であった。現代に於いてさえこう云う組み合わせの性生活は類稀なことゝして世の視聴を惹くのであるから、此の老歌人よりなお八九歳の高齢で、五十も歳下な婦人を妻にしていた国経のようなのは、平安朝の昔としたら餘程珍しいことではあるまいか。 次にその北の方と云うのは、筑前守在原棟梁の女であるから、在五中将業平の孫に当る訳であるが、此の夫人の正確な年齢は、ほんとうのところよく分らない。大納言と五十も歳が違うと云うのは、まさかとも思われるけれども、世継物語には「わづか二十ばかりにてぞおはしける」とあり、今昔には「二十に餘る程」とあるので、二十一二歳であったかと思える。彼女が業平を祖父に持っているからと云って、美人であったときめることは出来ないけれども、子の敦忠も美男であったと云うことであるから、矢張美人系の一族たるに耻じない容姿だったのであろう。時平は何処かゝらそう云う噂を聞き、而もその人が時々夫の眼を忍んで情人を呼び込んでいると云うこと、その情人とは別人ならぬ平中であるらしいことをチラと小耳に挟んだので、それがほんとうなら、左様な美女をよぼ〳〵の老翁や位の低い平中如きに任しておくと云う手はない、須く乃公が取って代るべしである、と、ひそかに野心を燃やしていたところへ、そんなことゝは知らぬ平中がひょっこり今夜御機嫌伺いに罷り出たのであった。 後段に述べるが如く、時平はやがて望みを達して自分よりも十ほど若い此の義理の伯母を、見事伯父から奪い取って自分のものにしたのであるが、大和物語には此の夫人がまだ国経の妻であった時代に、平中が彼女に贈ったと云う和歌を載せている。─── 春の野に緑にはえるさねかづら わが君実とたのむいかにぞ 此の「君実」と云うのは本妻の意であって、何処まで本気で云っているのか分らないとしても、斯様な文句を書き送るからには、平中も此の人に対して多少とも真剣な気持があったのであろう。彼は今、時平に突然みそかごとを発き立てられたので、うろたえた返事をしたのであるが、正直を云うと、まだ幾分か此の過去の恋人のことを忘れかねていたのであった。浮気男のことであるから、今日迄に契った女は数を知らず、大部分はその場かぎりで捨てゝしまい、今では顔も名もおぼえていないのが多いのだけれども、此の美しい夫人とは、近頃暫く遠のいているようなものゝ、一時はたしかに並々ならぬ関係にあったのである。目下のところ、已むに已まれぬ行きがゝりで侍従の君を追い廻すような羽目になり、へんに懊らされているものだから、一途に心がその方へばかり向いているのであるけれども、前者との縁も決して完全に切れてしまっている訳ではなかった。殊に思いもかけない時に、そう云う風に時平に尋ねられて見ると、又改めてその人のことが思い出されて来るのであった。 「いや、先程も申しました通り、お逢いしたのは一二度でございますので、たしかなことは申せませんけれども、すぐれてめでたい御器量であられることは、先ずほんとうでございますな」 と、まだ平中は何となく胡麻化しながら、少しずつ出し惜しみをするように云った。 「ふうん、さては世間の噂に違わず………」 「こうなりましたら隠さず申し上げますが、あれだけの顔だちのお方は、ちょっと外に見当らない、と申しても宜しゅうございましょうな。憚りながら、わたくしが今までにお逢いしました人々のうちでは、あの北の方が一番お美しゅういらっしゃいます」 「ふうん」 と、時平は呻るように云って息を詰めた。 「で、あなたの見たところ、夫婦仲はどんな工合です。矢張老人との間は巧く行っていないのでしょうね」 「さあ、身の不仕合わせを歎くようなことを申されて、涙ぐんでおられたこともございましたが、大納言殿は世にも親切なお人で、非常に大切にしてくれる、などゝも仰っしゃっておられました。さればどう云うお心持でおられますか、実際のところは分りかねます、何しろ可愛い若君もおいでになりますし、………」 「子達は何人おられるのです」 「お一人らしゅうございます。四つか五つぐらいになられる若君ですが、………」 「ほゝう、では七十を越されてからのお子なのですね」 「えらいものでございますよ」 平中は、なおいろ〳〵とその人のことを根掘り葉掘り問われるまゝに、知っている限りは知らしてやるのに吝かでなかった。いかさま、思い返して見れば、二度とあゝ云う蘭たけた人に出遇えるかどうか分らないけれども、でもゝう自分は、あの人との恋は一往叶えたのである、どう云う相手であったにしろ、その人の魅力の程は知ってしまった、その人との夢は見つくした、自分はその人にもはや全く興味がないとは云わないけれども、矢張それよりは未知の女、───次から次へ技巧を構えて自分の情熱を煽らずには措かない人の方へこそ、遥かに強く惹き着けられるのを感じる。───平中はそんな気持であった。漁色家の心理と云うものは、王朝時代の搢紳も江戸時代の通人と同じようなもので、過ぎ去った女のことに後々までこだわっているつもりはなかった。もし左大臣が執心とあるならば、どうなと好きなようにされるもよかろう、───と、彼はそれぐらいに思ったでもあろうし、それに又、あの大納言のような好人物の眼を偸んでそう〳〵不義なことをするのは、他人は知らず、彼としては何となく気が済まないところもあった。人の女を寝取ることにかけては常習犯の彼なのであるが、あの傷々しい、骸骨のように痩せた老翁が、たま〳〵若い美しい妻を贏ち得て、後生大事にその人に册き、それに満足しきっているらしい様子を見ては、柄にもなく憐愍の情に似たものを感じていた訳であった。 なおついでながら、大納言国経と平中との間には、此の北の方の関係を外にして直接深い交渉はなかったようであるが、或る年の秋、何かちょっとしたことで国経から平中の許へ使者が手紙を持って来た時に、平中が庭に咲いていた菊の一枝を取って返書に添えて渡したことが、平中日記に見えている。その時菊の花を貰った国経は、直ぐに次のような歌を詠んで贈った。 みよを経てふりたる翁杖つきて 花のありかを見るよしもがな 平中の返し、 たまぼこに君し来寄らば浅茅生に まじれる菊の香はまさりなむ これはいつ頃のことであったか明かでないが、或は平中は、自分が此の翁の秘蔵の花を手折ったことを考えて、いくらか皮肉にそんな贈物をしたのであろうか。 その三 それからと云うもの、時平は宮中で国経と顔を合わすと、急に如才なく挨拶するようになった。位は下でも、彼には正しく伯父に当る高齢の人を、敬いいたわるのに不思議はないようなものだけれども、菅公を失脚せしめて以来、ひとしお態度が驕慢になって、満廷の朝臣どもに颯爽たる威容を誇っていた彼は、ついぞ此の伯父の存在などを眼中に置いたことはなかったのに、どう云う風の吹き廻しか、伯父に出遇うと変なニコ〳〵顔をする。そして、御壮健で結構であるが、此の頃の寒さはおこたえになりはしないか、とか、お風邪を召されぬように、とか、取って附けたような愛想を云う。或る日、分けても寒さの厳しい朝のことであったが、伯父の大納言の鼻先から水洟が滴れているのを見ると、彼はそっと寄って行って、 「お洟が出ておりますぞ」 と、注意をして、 「お寒かったら綿の物をたくさんお着込みになることですね」 と、小声で云った。 長寿の人によくあるように、大納言は少し耳が遠いので、 「綿?………」 と聞き返すと、 「ふん、ふん」 と、時平はひとりうなずいて、何やら老人には聞き取れないことを云ったが、やがて老人が館に帰ると、左大臣からの使者だと云って、雪のような綿を幾屯と云うほど届けて来た。「あなたのように齢八十になん〳〵としてなお矍鑠たる元気を保ち、壮者を凌ぐ趣がおありになるのは羨しい次第である。国に斯様な朝臣があるのは寔にめでたい限りであるから、何卒此の上とも体を大切にされて、一日でも多く長生きをして下さるように」と、使者はそう云う口上と共にくだんの贈物を置いて帰ったが、その二三日後、朝から大雪が降り出して一尺近くも積った夕方に、又使者があって、此の雪の白を如何ように過しておられますか、今夜は大方なみ〳〵ならず冷えることゝ存じますが、………と云うような言葉を述べ、何やら衣筥に収めたものを恭しく捧げながら運び入れた。そして、「これは唐土から伝来の品で、昔御先代の昭宣公が、冬になると召しておられたものですが、今の左大臣はまだ年がお若く、斯様なものを着用される折もないので、父君に代って伯父君に召して戴きたいと仰っしゃいまして」と、そう云ってそれを置いて行ったが、衣筥の中から出たものは、立派な貂の裘で、昔の人の薫きしめた香の匂が、今もなつかしくかおっているのであった。 贈物はそれからも引きつゞいて数回に及んだ。或る時は錦、綾、等々の織物、或る時はこれも唐土から渡ったと云う珍奇な幾種類もの香木、或る時は葡萄染、山吹、等々の御衣幾襲ね、───折にふれて何とか彼とか口実を設けては、矢継ぎ早やに使者が来るのであった。大納言は時平に格別な考があるのだろうなどゝは疑ってもみず、たゞもう有難さと忝さで一杯であった。誰しも老年になると、若い人からちょっとしたいたわりの言葉をかけられても、つい嬉しさが身にこたえてほろりとするものであるのに、まして生れつきおめでたい、気の弱い国経なのである。殊に相手は甥と云っても、天下の一の人であり、昭宣公の跡を継いで摂政にも関白にもなるべき人であるのが、さすがに骨肉の親しみを忘れず、何の取柄もない老いたる伯父に斯くまで眼をかけてくれるとは。 「やっぱり長生きはするものですね」 と、或る晩老人は、北の方のゆたかな頬に皺だらけな顔を擦りつけて云った。 「わたしはあなたのような人を妻に持って、自分の幸福はもう十分だと思っていましたのに、そのうえ近頃は左大臣のようなお人から、斯ように優しくして戴ける。………ほんとうに、人はいつどんな時にどんな好運にありつくか分らないものです」 老人は、北の方が黙ってうなずいたのを自分の額で感じながら、一層つよく顔を擦り着け、両手で項を抱きかゝえるようにして彼女の髪を長い間愛撫した。二三年前まではそうでもなかったのであるが、最近になって老人はだん〳〵愛し方が執拗になり、冬の間は毎夜北の方を片時も離さず、一と晩じゅう少しの隙間も出来ないようにぴったり体を喰っ着けて寝る。そこへ持って来て、左大臣が好意を示すようになってからは、その感激のせいでつい酒を過し、酩酊してから床に這入るので、なおさらしつッこく手足に絡み着くようにする。それにもう一つ、此の老人の癖は、閨の中の暗いのを厭うて、なるべく燈火をあかるくしたがるのであった。と云うのは、老人は北の方を手を以て愛撫するだけでは足らず、とき〴〵一二尺の距離に我が顔を退いて、彼女の美貌を讃嘆するように眺め入ることが好きなので、そのためにはあたりを明るくしておくことが必要なのであった。 「ですが、もうわたしなどは何を着ようと差支えない。あなたこそあの綿や錦を召して下さい」 「それでも大臣は、殿がお風邪を召さぬようにと仰っしゃって、下されましたものを、………」 低い声でしかものを云わない北の方は、耳の遠い老人に分らせることが困難なので、自然夫に対しては言葉数が少く、分けても閨に這入ってからは殆ど無言で通すので、此の夫婦の間では寝物語が交されることはめったになく、大概老人の方がひとりでしゃべりつゞけるのであった。そして北の方はたゞうなずくか、たまに一と言か二た言、老人の耳の端へ口を寄せて、唇が耳朶へ触れるくらいにして云うのであった。 「いゝや、わたしは何も要りはしない。何も彼もあなたに進ぜます。………わたしには此の人さえあれば………」 そう云って老人は又自分の顔を妻の顔から遠ざけながら、妻の額の上にかゝる髪の毛を掻きのけ、その目鼻だちへ燈火のあかりがほんのり当るようにした。こう云う時、いつも北の方は老人の節くれだった歪んだ指がわなゝきながら髪をいじくったり頬をさすったりするのを感じつゝ、おとなしく老人のするまゝになって眼を閉じているのである。それは顔の上にさす明りの晴れがましさを避けるため、と云うよりは、老人の貪るような瞳の凝視を避けるため、と云った方が適当であるかも知れない。八十に近い老人に斯様な熱情があることは、不思議と云えば不思議であるが、実はさしもに頑健を誇った此の老人も、一二年此のかた漸く体力が衰え始め、何よりも性生活の上に争われない證拠が見え出して来たので、それを自覚する老人は、一つには遣る瀬なさの餘り変に懊れているのでもあった。尤も彼の場合、その遣る瀬なさは、自分の悦楽が思うように叶えられないと云うよりは、此の若い妻に申訳ないと云う気持から来る方が多いのではあったが、……… 「いゝえ、そんなお心づかいはなさらないで、───」 老人がその胸中を率直に打ち明けて、あなたに済まないと思っている、と云う風に詫び言めかして云うと、北の方はしずかに頭を振って、却って夫を気の毒がるのが常であった。お年を召せばそれが当り前なのであるから、何も気になさることはない、その当り前の生理に背いて無理なことをなさるのこそ、お体のために宜しくない、そんなことより、殿が摂生をお守りなされて一年でも多く長寿を保って下さる方が私もうれしい、と、北の方はそう云う意味に取れることを云う。 「そう云って下さるのは忝いが」 老人は、そんな工合に北の方から優しい言葉で慰められると、一層北の方の心根がいとおしくなるのであった。そして、又しても眼をつぶってしまった北の方の顔を見守りながら思うことは、いったい此の人は心の奥でどんなことを考えているのだろうか、と云うことであった。それと云うのも、此の人がこんなにもすぐれた器量を持ちながら、五十以上も歳の違う夫に添わされた我が身の悲運を、それほどにも自覚していないように見えるのが不思議で、何か自分が世間知らずの妻を欺しているような気がするばかりでなく、妻の犠牲の上に自分の幸福が築かれていると云う意識があるからなのであるが、内心にそう云う訝しみを蔵しつゝ眺めると、ひとしお此の顔が神秘に満ち、謎のように見えて来るのである。老人は、自分がこれほどの宝物を独り占めにしていること、世にこれほどの美女がいることを知っているのは自分だけで、当人さえもそれをはっきりとは知っていないらしいことを思うと、何となく得意の念の禁じ難いものがあり、どうかすると、此のような妻を持っているのを誰かに見せて、自慢してやりたい衝動をさえ感じるのであった。又翻って思うのに、もし此の人が口で云う通りのことを考えているのであったら、───みずからの性的不満などは意に介せず、ひたすらに老いたる夫の命長かれとのみ願っているのが本心であるなら、───その有難い志に対して自分は何を報いたらよいのか、自分は此の後、たゞ此の顔を眺めるだけで満足しつゝ死んで行きもしようけれども、此の若い人の肉体を、自分と共に朽ち果てさせてしまうのは餘りにも不憫であり惜しくもある。で、両手の間にその宝物をしっかりと挟んで視つめていると、いっそ自分のようなものは一日も早く消えてなくなって、此の人を自由にさせてやりたいと云う怪しい気持にもなるのであった。 「どうなさいましたの」 老人の眼に浮かんだ涙が、自分の睫毛に伝わって来たのを感じると、北の方ははっとして眼を開けたが、 「いや、何でもない、〳〵」 と、老人はひとりごとのように云って口を噤んだ。 そんなことがあってから数日後、はやその年も残り少なになった十二月の二十日頃に、又しても時平の許から数々の贈物が届けられた。「大納言殿も来年は更に齢を加えられ、いよ〳〵八十路に近くなられると承るにつけても、縁につながるわれ〳〵共は慶賀に堪えない。これは些かながら、そのおよろこびのしるしまでに差上げるのですが、何卒これらの品々を御受納なされて、よき初春をお迎えになって下さい」と、使者はそう云う口上を述べたが、なお附け足して、時平が正月の三箇日のうちに、大納言の館へ年賀に見えるであろうと云う意を伝えた。「大臣が仰せられますには、自分の伯父御にこう云う長寿の人があるのは返す〴〵も一門の栄誉である。自分はかね〴〵此の伯父御とゆっくり酒を酌み交して、共によろこびを分ち、且は養生の術をも授かり、且は健康にあやからせて戴きたいと存じながら、今日まで折がなくて過して来たので、是非近々にその念願を遂げたいのであるが、それには此の正月がよい機会である。自分は毎年伯父御の邸へ年賀に参上したことがないのを、済まなく存じていた際でもあるから、来春から改めて御挨拶に伺い、年来の無礼をも詫びたいのである。と、左様に仰っしゃっておいでになりまして、三箇日のうちには必ず参上致すからお含みおきを願うようにと、申し付かって参りました」───使者はそう云って帰ったのであったが、此の申越しはいやが上にも国経を驚喜せしめた。事実、時平が此の大納言の所へ年頭の礼を述べに来るなどゝ云うことは、嘗て前例がないばかりでなく、前代未聞の事件と云っても差支えない。此の恵み深い青年の左大臣は、一門の年長者たるの故を以て一介の老骨に結構な財宝をあまたゝび贈ってくれた上に、今度は自身その邸宅に駕を枉げると云う光栄を授けてくれるのである。───ありていに云うと国経は、先達から左大臣の測り知られぬ温情に対して何がな報いる道はないだろうかと、寝ても覚めてもそのことを気に懸けていた矢先であった。そして、大臣の邸とは比べものにならない手狭な館ではあるけれども、一夕我が方へ臨席を仰いで饗宴を催し、心の限りもてなしをして、感謝の念の萬分の一でも酌み取って貰えないであろうかと云うことも、考えないではなかったのであるが、なか〳〵大納言風情の所へなど来てくれそうな人ではないので、申し出ても無駄であろう、却って身の程を弁えぬ失礼な奴と、物笑いになるだけであろう、と、そう思って差控えていた際であったのに、図らずもその人が自ら望んで客人になろうと云い出したのであった。 その翌日から国経の邸は俄に活気づき、大勢の人夫共が出入りし始めた。もう正月に餘日もないので、大切な客人を迎えるために急いで工匠や園丁を雇い、殿舎の修繕や林泉の手入れにかゝつたのである。家の中では板の間や柱をつや〳〵と拭き込み、畳建具を新しく調え、屏風や几帳を動かして座敷の模様がえをする。家司や老女などが指図をしつゝ、あゝでもない、こうでもないと、一つ調度を何回となく彼方へ持って行かしたり、此方へ持って来させたりしている。前栽では樹木を掘り起し、池の水を堰き止め、築山の一部を崩しなどしているが、此処では国経が自ら庭に下り立って、木や石の布置をいろ〳〵に工夫して見たりしている。国経にして見ればまことに一世一代の面目で、老後に花を咲かせるのであるから、此の支度のためにどれ程の人力と財力とを傾けても惜しくはなかった。 左大臣家からは正月の二日に前触れがあって、明くる三日に、きらびやかな車や騎馬の列が大納言の邸へ乗り入れた。餘り仰々しくならないように、供の人数なども目立たぬ程にして参る、と云うことであったけれども、右大将定国、式部大輔菅根などゝ云った人々、───いつも時平の腰巾着を勤める末社どもの顔ぶれを始め、殿上人や上達部が猶相当に扈従していて、平中も亦その中に加わっていた。客人たちの座に着いたのが申の刻を少し過ぎた時分で、宴が開かれると間もなく日が暮れたが、その晩は特に酒杯の進行が激しく、主客共に酔いの循り方が速かであったのは、旨を啣んでいた定国や菅根たちの取持ちのせいもあったであろう。やがて時平が、 「酒ばかりでは面白うない、………」 と、末座の方へこなしたのを合図に、或る少納言が横笛を取り出して吹き始める。それに合わせて誰かゞ琴のことを弾く。扇で拍子を取りながら唱歌をうたう。つゞいて箏のことや、和琴や、琵琶が運び出された。 「御老体々々々、まずあなたからもっとお重ねにならなければ、………」 「御主人公がそう慎しんでおいでになる手はありませんな。それではわれ〳〵も酒がさめます」 「いや忝い〳〵、………愚老はたゞもう忝うて〳〵、………こんな嬉しいことは八十年来始めてゞ、………」 国経が酔い泣きしそうな口調で云うのを、 「あはゝゝゝゝ」 と、時平が持ち前の濶達な笑いで打ち消した。 「そんなことはお置きなされい。それよりもっと浮き〳〵と騒ごうじゃないですか」 「いかにも〳〵」 と云って、国経は突然声を張り上げて謡った。 「我に酒を勧む、我辞せず、請ふ君歌へ、歌うて遅きこと莫れ。………」 老人は白氏文集を愛読していて、興に乗ずると、こんな工合に文句を暗誦するのであるが、これが出る時はそろそろ酒が循って来た證拠であった。 「………洛陽の児女面は花に似たり、河南の大尹頭は雪の如し。………」 老来量を節してはいても、もと〳〵下地は好きな方で、過せばいくらでも過せる国経は、今宵は自分が主人役として容易ならぬ人を迎え、粗相があってはならぬと思うところから、最初のうちは努めて引き締めていたのであったが、何分胸中に抑えきれない喜びが溢れてい、而も客人たちの方から頻りに杯を強いられるので、いつか心の緊張が弛んで、上機嫌になって行った。 「いや、頭は雪の如しでも、御精力のお盛んなことはお羨しい限りですな」 そう云ったのは式部大輔の菅根であった。 「わたくしなどは、老人と申しましても明けて五十歳になったばかり、御老体から見ますれば孫のようなものですが、近頃めっきり衰えを感じておりますよ」 「そう云って下さるのは忝いが、もう此の老人もとんと駄目でして、………」 「駄目とは何が駄目なのです」 と、時平が云った。 「何も彼も駄目でございますが、二三年来特に駄目になったものがございましてな」 「あッはゝゝゝゝ」 「玲瓏々々老いたるを奈何にせん」 と、老人が又白詩を唱えた。 二三人の公卿たちが代る〴〵立って舞い出した頃から、宴はだん〳〵闌になって行った。春とは云ってもまだ冬の感じの、うすら寒い宵であるのに、此処ばかりは陽気に花やいで、笑い声と歌声と歓語の声が沸き返り、人々は皆上衣の襟を外したり、片袖を脱いで下着を出したり、行儀作法を打ち忘れて騒いでいた。 その四 主人の妻、大納言の北の方はこう云う座敷の有様を、御簾のうちにいてさっきから隙見していた。初めのうちは、客人の席のうしろを囲っていた屏風が邪魔になって見えにくかったのであるが、故意にか偶然にか、追い〳〵騒ぎがはげしくなり、人々が起ったり居たりするにつれて、その屏風の端が少しずつ畳まれて行き、斜かいに開いたので、今は左大臣の姿形がほゞ正面に見えるようになった。御簾越しにではあるけれども、左大臣はついそこに、北の方とはなゝめに畳三四畳を隔てたあたりに、此方を向いて坐っているのが、ちょうどその前に燈台が据えてあるので、残るところなく分るのであるが、色白のふっくらした顔が酔いのために紅く火照っていて、眉の附け根をとき〴〵癇癖が強そうにふるわせるくせはあるけれども、笑うとひどく愛嬌があって、眼もとや口もとに子供のような無邪気さが溢れる。 「まあ、何と云うお立派な、………」 「やっぱりあゝ云うお方は何処か違っていらっしゃいますのね」 お側の女房たちがそっと袖を引き合って溜息を洩らしたのは、北の方の同感を求めるためであったらしいが、北の方は眼顔でそれをたしなめて、ただ吸い寄せられるように御簾の方へ体を擦りつけていた。北の方が先ず驚いたのは、主人の国経が常になく酔態をさらけ出し、だらしない恰好で何か呂律の廻らない濁声を挙げていることであったが、左大臣もそれに劣らず酔っているらしい。だが此の方はさすがに夫の大納言のような見っともない態はしていない。大納言は坐っていても彼方へよろ〳〵此方へよろ〳〵し、眼がどろんとして何を見ているのやら分らないが、左大臣は居ずまいも正しく、しゃんとしていて、酔っても威容を崩さない。それでいて絶えず杯に満を引いて、いくらでも酒を呷っている。管絃の合間々々に皆が催馬楽を謡うのであるが、左大臣の声の美しさと節廻しの巧さには、誰も及ぶ者がないように感ぜられる。───但し、これは北の方や附添いの女房たちが左様に感じた迄であって、時平が果して音曲の才を備えていたかどうか、別段それを證拠立てるような記録があるのではない。が、時平の弟の兼平は琵琶の上手で、琵琶宮内卿と云われた人であったこと、忰の敦忠も管絃の名手で、博雅三位に劣らない人であったこと、などを思い合わせると、或は時平にも多少その方面の天分があったかも知れず、満更これらの婦人たちの贔屓目ではなかったでもあろうか。─── 北の方がなお気を付けて見ていると、左大臣はさっきから時々ちら〳〵と御簾の方へ流眄を使う。それも最初は遠慮がちな眼つきで、こっそり偸むように視線を投げ、すぐ又しらを切っていたが、酔いがすゝむに従ってその眼づかいが大胆になり、いかにも様子ありげな、色気たっぷりな表情をたゝえて見るのであった。 我が門を とさんかうさん練る男 よしこさるらしや よしこさるらしや これは催馬楽の「我門乎」の文句であるが、左大臣はこれを謡いながら、「よしこさるらしや」の繰り返しのところへ来ると、一段と声に力をこめて唱えた。そして訴えるような眼ざしを、臆するところなく真っ直ぐ御簾の裡へ注いだ。北の方は、自分が左大臣を隙見していることを、左大臣が知っているかどうか半ば疑問にしていたのであったが、今は疑う餘地もないと思うと、自分の顔が俄かに赧くなるのを感じた。現に左大臣の装束に薫きしめてある香の匂が、此の御簾のうちへかぐわしく匂って来るのを見れば、彼女の衣の薫物の香も左大臣の席へ匂っているに違いない。事に依るとあの屏風の畳まれたのも、誰かゞ左大臣の意を酌んで、わざとあんな風に動かしたのであるかも知れない。それかあらぬか、左大臣は御簾のうちにある北の方の顔を、何とかして見届けようとする如く、探るような瞳を挙げてしきりにキョロ〳〵するのであった。 左大臣の席からはずっと離れた遥かな末座に、別にもう一人、矢張此の御簾のあたりへ密かな視線を注いでいる男があるのを、北の方は疾うから意識していたが、それは云う迄もなく平中であった。女房たちは勿論それに気が付いていたのであるが、今の場合北の方に憚かって、此の優男の噂をするのを差控えながら、心の中では左大臣と比較して、孰方がより美男子であるかを批判していたでもあろう。北の方は、嘗て幾夜となくうす暗い閨の燈火のはためく蔭に、夫の大納言の眼をかすめて此の男の抱擁に身をゆだねたおぼえはあるが、こう云う晴れの席上で、歴々の人々の間に伍している彼を見るのは始めてゞあった。が、さしもの平中もこう云う座敷では、堂々たる時平の貫禄に押されて、別人のように貧弱に見え、蘭燈なまめかしき帳の奥で逢う時のような魅力がない。それに今宵は誰も彼もが羽目を外して燥いでいるのに、どう云うわけか平中はひとり沈んで、自分だけは酒が甘くないと云いたげな様子をしているのであった。 と、時平がそれに眼をつけて、 「佐殿」 と、遠く隔たった席から呼んだ。 「あなたは今日は妙に萎げておられるね。何か仔細があるんですか」 時平の顔にいたずら好きな子供がするような、意地悪な微笑が浮かんだのを、平中は世にも恨めしそうに横眼で見たが、 「いや、そんなことはございませんが、………」 と、強いて苦しそうな愛想笑いを洩らして云った。 「でも可笑しいですね、酒がちっとも行かんようじゃないですか、もっと飲み給え〳〵」 「十分戴いているのでございます」 「そんなら一つ、得意の猥談でも聴かせ給え」 「御、御冗談を仰っしゃっては、………」 「あッはゝゝゝゝ、どうですか方々」 と、時平は一座を見廻して、平中を指さしながら、 「此の人は猥談と惚気話が頗る得意なんですが、一席こゝでやって貰おうじゃないですか」 「ようよう!」 「謹聴々々!」 と、皆が拍手したが、平中は泣き出しそうな顔をして、 「御勘弁を〳〵」 と、頻りに首を振るのであった。時平はいよ〳〵意地悪な笑いを露骨に示して、いつも私に聴かしてくれるのに、なぜ此の席ではやれないのか、聞かれて困る人でもいるのか、どうしてもやらないなら、私が素ッ葉抜くがよいか、此の間のあの話を、代りに披露してやるぞ、などゝ云って脅迫する。平中はいよ〳〵べそを掻いて、拝まんばかりの恰好をして、 「御勘弁を〳〵」 を繰り返すのであった。 夜はすっかり更け渡ったが、宴はいつ終るとも見えず、馬鹿騒ぎは一層盛んになって行った。左大臣は又「我が駒」を謡い出して、 待乳山 待つらん人を 行きてはや あはれ 行きてはや見ん と云いながら、しまいには伸び上るような風をして御簾の方へ秋波を送った。それから誰かゞ「東屋」の文句を謡ったり「我家」の文句を謡ったりした。 「押開いて来ませ、我や人妻、………」 「鮑さだをか石陰子よけん、………」 「りらららりるろ、………」 そのあとはみんな勝手に、てん〴〵ばら〳〵に好きなことを我鳴り散らして、誰も他人の云うことなんぞに耳を傾ける者はなかった。 国経の取り乱し方は一段と甚しかった。坐っていても倒れそうになる上半身を辛うじて支えて、 「玲瓏々々老いたるを奈何にせん」 と、まだあの文句を世迷い言のように口号むかと思うと、誰彼の区別なく傍に来た者を掴まえては、 「愚老はたゞもう忝うて〳〵、………こんな嬉しいことは八十年来………」 と云いながら、ぽろ〳〵涙をこぼしつゞけた。それでも感心に、主人の為すべき勤めは忘れず、左大臣が礼を述べて帰り支度をしかけると、かねて今夜の引出物に用意しておいた箏のことを持って来させたり、白栗毛と黒鹿毛の見事な馬を曳いて来させたりして披露をした。そして、左大臣がよろめきながら座を立ちかけると、 「殿々、失礼ながら、お足元が心もとない」 と、自分も同じように危い足取りで立ち上って、 「御車を此方へ着けさせましょう」 と、時平の車を階隠の間へ寄せるように命じたりした。 「あッはゝゝゝゝ、こう見えても私は大丈夫、あなたこそえらい御酩酊ではないか」 そう云う時平は、これも正体なく酔っていて、車が勾欄の際へぴったりと引き寄せられても、そこまで歩いて行くことさえ困難に見えた。そして、二三歩足を運んだところで、どしんと臀餅をついてしまった。 「あ、これはいかん、………」 「それ、それ、そのようにふら〳〵しておいでなされて、………」 「何でもない、〳〵」 そう云って時平は立ちかけたが、立つと又すぐ臀餅をついた。 「これは〳〵、我ながら醜態極まる」 「それではとても御車にはお召しになれませんな」 定国がそう云うと、 「左様々々」 と、菅根が応じた。 「いっそのこと、今暫く酔いをお覚ましなされてからお帰りになることですな」 「いや〳〵、あまり長座をしては主殿が御迷惑だ」 「何を仰っしゃる! こんなむさくろしい所ですが、お気に召したらいつ迄でも御ゆっくり願いたい!」 いつの間にか国経は時平に体を擦り寄せて坐って、その手を執らんばかりにして口説いていた。 「殿々、愚老はあなたを無理にでもお引き止めしますぞ、帰ろうと仰っしゃっても決してお帰し申しませんぞ」 「ほゝう、長座をしてもよいと云われるか」 「よいどころの段ではござらぬ」 「しかし私をお引き止めになるなら、もそっと何か、特別のおもてなしをなさる必要がありますな。───」 突然時平の声の調子が変ったので、国経が見ると、さっきまで赤味を帯びていた顔の色が蒼白になり、唇の端を神経質にピクピクさせているのであった。 「───今宵は至れり盡せりの御饗応に与り、結構な引出物まで頂戴したことはしましたが、まだこれだけでは、憚りながら此の左大臣を引き止めるには足りませんな」 「そう仰っしゃられると穴へでも這入りたい! 愚老としましては此れが精一杯なのですが、………」 「あなたは此れで精一杯だと仰っしゃるが、失礼ながらあの箏のことゝ馬二匹では、まだ引出物が不足ですな」 「と仰っしゃいますと、外に何ぞ御所望の品がおありでしょうか」 「それをわたくしに云わせないでも、何かそちらにお心あたりがありそうなものじゃありませんか。───ねえ、御老体、そう物惜しみをなさるなよ」 「物惜しみとは心外な! 愚老は何とかして日頃の御恩報じがしたい、御満足が得られますなら、どんな物でも差上げたいんです」 「どんな物でも! ですか、あッはゝゝゝゝ」 と、時平は体を仰け反らして、さすがにいくらか照れ臭いらしく、例の豪傑笑いをした。 「でははっきりと申しますぞ」 「どうぞ〳〵」 「もしほんとうに、あなたが口で仰っしゃるように、私の日頃の好意に対して、感謝しておいでになるならば、───ですな。───」 「はい、はい」 「あッはゝゝゝゝ、なんぼう酔っ払っておっても、ちと物狂おしいようで、此の先は申しにくい」 「そう仰っしゃらずに、どうぞ〳〵」 「それは私の館には勿論、やんごとない九重の奥にさえないもので、御老体のお手もとにだけあるもの。───御老体に取って命より大切な、天にも地にもかけがえのないもの。───箏のことだの、馬なんかとは比較にならない宝物。───」 「そんなものが愚老の所にございましょうか」 「あります! たった一つあります!───さ、御老体、それを引出物に下さい!」 時平はそう云って、愕然としている老人の眼の中を視据えた。 「さ、それを下さい、物惜しみをなさらない證拠に!」 「おゝ、物惜しみをしない證拠に!」 何と思ったか国経は、鸚鵡返しに云った。そして次の瞬間に、座敷のうしろを囲っていた屏風の方へ歩み寄って、それを手早く押し畳むと、御簾の隙間へ手を挿し入れて、中に隠れていた人の袂の端をぐいと捉えた。 「左大臣殿、御覧下さい。───愚老の命より大切な、天にも地にもかけがえのない物、あらゆる宝物にまさる宝物、愚老の館より外に、何処を尋ねてもない宝物は此れなのです。───」 今までぐでん〳〵に酔いしれていた国経は、急に活を入れられたようにしゃんとして立っていた。言葉も呂律が廻らなかったのが、てきぱきした物云いで、りん〳〵と響き渡るように云った。たゞその大きく見開かれた眼には、何か発狂したような怪しい輝きが満ちていた。 「殿、物惜しみをしない證拠に、これを引出物に差上げます。お受け取り下さい!」 時平を始め満座の公卿たちは一言も発せず、眼前に展開した思いがけない光景に恍惚としていた。───最初、国経が御簾の蔭へ手をさし入れると、御簾の面が中からふくらんで盛り上って来、紫や紅梅や薄紅梅やさま〴〵な色を重ねた袖口が、夜目にもしるくこぼれ出して来た。それは北の方の着ている衣裳の一部だったのであるが、そんな工合に隙間からわずかに洩れている有様は、萬華鏡のようにきら〳〵した眼まぐるしい色彩を持った波がうねり出したようでもあり、非常に嵩のある罌粟か牡丹の花が揺ぎ出たようでもあった。そして、その、人間の大きさを持った一輪の花の如きものは、漸う半身を現わしたところで、まだ国経に袂をとらえられたまゝ静止して、それ以上姿を現わすことを拒んでいるように見えた。国経はやおらその肩へ手を廻して抱きかゝえるようにしながら、もっとその人を客人たちの方へ引っ張って来ようとする風であったが、そうされるとなおその人は、御簾のかげに身を潜めようとした。顔に扇をかざしているので、目鼻だちは窺うよしもなく、扇を支えている指先さえも袖の中に隠れていて、たゞ両肩からすべっている髪の毛だけが見えるのであったが、 「おゝ!」 と叫んで、時平は恰も美しい夢魔から解き放たれたように、つと御簾の傍へ走り寄ると、大納言の手を振り払って、自分がその袂をしっかりと掴んだ。 「帥殿、此の引出物はたしかに頂戴しましたぞ。これでこそ今宵参った甲斐がありました。心からお礼を申します!」 「おゝ、世に二つとない宝物が始めて所を得たのです。愚老こそお礼を申さなければ!」 国経は時平に席を譲ると、屏風の此方へ引き下って来て、 「方々!」 と、事のなりゆきを呆然と眺めていた公卿や上達部たちに声をかけた。 「さあ、方々、───御一同はもはや御用はございますまい。そうして待っておいでになっても、恐らく大臣は急にはお出ましになるまいと存ずる。どうぞ御遠慮なく、御自由にお引き取りになって下さい」 そう云いながら、畳んだ屏風を再びひろげて、御簾の前を囲ってしまった。 意外なことがつぎ〳〵と起るのに、客人たちは度胆を抜かれて、館の主から「帰れ」と云われても直ぐには動くけしきもなく、興奮しきった主の顔の、喜んでいるのか泣いているのか判断のつかない眼つきを見ていた。 「さあ、どうぞお引き取りを」 と、重ねて主が促すと、人々の間に漸くざわめきが湧き上ったが、それでもなお、あっさりその場を出て行った者は幾人もいなかった。不承々々に立ち上ったものゝ、大部分はへんな眼をして顔を見合わせ、ちょっと出て行きそうにして又立ち止ってしまったり、柱や戸の蔭にひそんだりして、事件の落着を見届けなければ気が済まないと云う風であった。 此の人たちの好奇心に充ちた視線が、期せずして屏風に囲まれた御簾の方に注がれていた時、屏風の向う側ではどんなことが起りつゝあったか。───時平は国経が袂の端を彼に渡して彼方へ逃げて行ったのを知ると、無言でその袂を自分の方へしずかに引いた。そして、今しがた国経がしていた通りに、御簾の隙間へ半身を入れて、うしろから此の大輪の花の如きものを抱きかゝえた。と、さっき屏風の彼方で嗅いた、あの甘いほのかな薫りが今はしたゝか咽せ返るように鼻を撲つのであった。女はその時までなお扇をかざしていたが、 「憚りながら、もうわたくしのものにおなりになったのですよ。お顔をお見せになって下さい」 と、そう云って時平がそっと袂の上から手をとらえると、手はわな〳〵とふるえながら扇を膝のあたりへ置いた。御簾の間には燈火がないので、うたげの席にともっている大殿油の穂先が、屏風に遮られながら遠く此方側へまたゝきを送っているのであるが、そのうすら明りの中に匂うほのじろいものが始めて接するその人の面輪であることが分ると、時平は自分の計畫がいみじくも此処まで運んだことに云いようのない満足をおぼえた。 「さあ、御一緒に、わたくしの館へ参りましょう」 彼はいきなりその人の腕を取って肩にかけた。女は引き立てられながらさすがに躊躇するらしく見えたが、でもしなやかに少し抵抗したゞけで、やがてする〳〵と体を起して行くのであった。 屏風の外で待っていた人々は、急には出て来ないであろうと思えた左大臣が、忽ち恐ろしく嵩高な、色彩のゆたかなものを肩にかけながら物々しい衣ずれの音をひゞかして出て来たのに、又驚きを新たにした。左大臣の肩にあるものは、よく見ると一人の上﨟、───此の館の主が「宝物」だと云ったその人に違いなかった。その人は右の腕を左大臣の右の肩にかけ、面を深く左大臣の背に打つ俯せて、死んだようにぐったりとなりながら、それでもどうやら自分の力で歩みを運んでいるのであったが、さっき御簾からこぼれて見えたきらびやかな袂や裾が、丈なす髪とよじれ合いもつれ合いつゝ床を引きずって行く間、左大臣の装束とその人の五衣とが一つの大きなかたまりになって、さや〳〵と鳴りわたりながら階隠の方へうねって行くのに、人々はさっと道を開いた。 「帥殿、それでは戴いて帰ります!」 「はっ」 と云って国経は、畏まって頭を下げたが、すぐ立ち上って、 「御車、御車」 と云いながら、自分が先に階を下りると、車の簾を両手で高くかゝげ持った。時平が重くて美しい肩の荷物を持て扱いながら、喘ぎ〳〵車の際まで辿り着くと、雑色や舎人たちが手に〳〵かざす松明の火のゆらめく中で定国や菅根やその他の人々が力を添え、両側から掬い上げるようにして辛うじてその嵩張るものを車へ入れた。国経は簾をおろす時に、 「私をお忘れにならないで」 と、一と言云ったが、生憎なことに車の中は真っ暗で、もうその人の顔は見えず、せめて別れの言葉ぐらい聞かしてくれるかと思っているうちに、あとから乗り込んだ時平の姿で、眼の前が一杯に塞がれてしまった。 その時、───と云うのは、北の方のあとに続いて時平が車に乗った時、下襲の尻が簾から食み出して地に垂れたのを、誰か混雑に紛れつゝ寄って来て、手に取り上げて、簾の中へ押し入れてやった者があったが、それが平中であったのに気づいた人は殆どなかった。その夜平中は席にいたゝまれない心持で暫く席を外していたのであったが、昔の恋人が時平に拉し去られるのを見ては怺えきれなくなったのであろう。あり合う陸奥紙に、 物をこそいはねの松の岩つゝじ いはねばこそあれ恋しきものを と、走り書きをして、小さく畳んで、不意に何処からか左大臣の車の側に現れ、下襲の尻を簾の中へ押し込むのと一緒に、人知れずそれを北の方の袖の下へ挿し入れたのであった。 その五 国経は、北の方を乗せた時平の車が供の人数を従えて去って行くのを見送ったまでは、幾分か意識がはっきりしていたけれども、車の影が見えなくなると、俄かに緊張が弛んだせいか、内攻していた酔いが発して、勾欄のもとにくた〳〵とくずおれてしまった。そしてそのまゝ簀子の板敷に倒れ伏して寝入りかけたのを、女房たちが扶け起して寝所へ連れて行き、装束を脱がしたり、床に就かしたり、枕をあてがったりしたのであったが、当人は一切前後不覚で、それきりぐっすりと一と息に眠った。が、およそ何時間ぐらい過ぎた時分か、へんに襟もとがうすら寒く、何処からか蓐の中へすう〳〵風が入り込むようなので、ふと眼を覚ますと、もう閨の中がしら〴〵と暁に近いほの明るさになっていた。国経はぞっと身ぶるいをして、なぜこう今朝は寒いのか、自分は何処に寝ているのか、此処はいつもの自分の寝所と違うのか、───と思いながら、そこらあたりを見廻すと、眼に触れる帳や蓐や、それらに沁み着いている香の匂や、すべて朝ゆう馴染の深い我が家の閨であることは疑うべくもないのであったが、一ついつもと違うところは、今朝は自分がひとりぼっちで寝ているのであった。彼も世間の老人なみに早くから眼が覚める方なので、夜明け方の鶏の鳴く音を聞きながら、まだすや〳〵と眠っている妻の顔を、ちょうど今朝ぐらいのうすら明りの中で打ち眺めるのが常なのであるが、今朝はその顔のあるべきところに、主のない枕が空しく置いてあるばかり。いや、それより何より、いつもはしっかり北の方に纏わり着き、隙間もなく手足を絡み着かせて、二つの体が一つ塊のようになって寝ているのに、今朝は襟頸や腋の下や方々に隙間が出来、そこをすう〳〵した風が通り抜けるので、これではいかさま肌寒いのも道理であった。……… 今朝に限ってあの人が此処に、自分の腕の中に抱かれていないのはどう云う訳か。あの人は何処へ行ったのか。───国経はそう考えると、何か奇怪な幻影のようなものが頭の隅にこびりついていて、それが少しずつ髣髴とよみがえって来、朝の光が次第に明るさを増すのにつれて、その幻影もいよ〳〵あざやかな輪郭を取って浮かび上って来るのを覚えた。彼は何とかしてその幻影を、酔餘の揚句に見た一場の悪夢である、と云う風に思い做そうとしてみたが、昨日の夕方からの出来事の記憶を、一つ〳〵気を落ち着けてじっくりと呼び返しつゝ吟味してみると、どうやらそれは夢ではなくて事実であるらしいことが、否み難くなって来るのであった。 「讃岐、………」 と、国経は次の間に控えている筈の老女を呼んだ。これはむかし北の方の乳人をしたことのある、四十あまりになる女で、嘗て讃岐介の妻になり任国へ下って暮すうちに、夫に死なれたので北の方の縁を頼って来、こゝ数年来大納言家に奉公をしているのであるが、大納言にすれば年の若い北の方を娘のように思うところから、どうかした折には此の女房を娘の母親のように思い、夫婦間のことは勿論、家事萬端の相談をしたりするのであった。 「もうお眼ざめでいらっしゃいますか」 と、讃岐はそう云って枕許に畏まったが、国経は顔を夜着の襟に埋めたまゝ、 「うむ」 と一と言、不機嫌に答えた。 「いかゞでいらっしゃいますか、御気分は」 「頭痛がして、胸がむか〳〵する。わしは二日酔いをしたようだ。………」 「何ぞお薬を持って参りましょうか」 「昨夜は大分過したらしいが、どのくらい飲んだであろうか」 「さあ、どのくらい召上りましたやら。………あんなにお酔い遊ばしたのを、ついぞ見たことはございません」 「そうか、そんなに酔っておったか」 国経はそこで顔を出して、 「讃岐」 と、少し調子を変えて云った。 「今朝眼がさめたら、わしはひとりで寝ている。………」 「はい」 「これはどう云うことなのか。上は何処へ行かれたのか」 「はい、………」 「はいでは分らん。いったいどう云う訳なのだ。………」 「昨夜のことを、おぼえておいでにならないのでございましょうか」 「今少しずつ思い出しているのだが、………上はもう此の館におられないのだろうか。………あれは夢ではなかったのだろうか。………わしは左大臣がお帰りになろうとするのを、無理にお引き止めした。そうしたら左大臣が、箏のことゝ馬だけでは物足らぬ、もっと立派な引出物をせい、物惜しみをするなと仰せになった。そこでわしはあの命よりも大切な人を、引出物として差上げた。………あれは夢ではなかったのだろうか」 「ほんとうに、お夢であったらようございますものを。………」 不意に、何だか鼻をすゝるような音がしたので、国経が顔を上げてみると、讃岐は袖で面を隠して、じっと俯向いているのであった。 「それでは、夢ではなかったのか。………」 「憚りながら、何ぼう酔うていらっしゃったにしましても、どうしてあんな物狂おしい真似をなさいましたか。………」 「もうそんなことを云うのは止せ。今更取返しのつかないことだ」 「でも、左大臣とも云われるお方が、本気で人妻を奪い取るようなことをなさいましょうか。昨夜のことはお戯れで、今朝はきっとお返し下さるのではございますまいか」 「そうであってくれたらよいが、………」 「何なら、お迎えの人を出して御覧になりましたら、………」 「そんなことが出来るものか。………」 国経は又すっぽりと夜着を被って、 「もうよい、彼方へ行ってくれ」 と、聞き取りにくい濁声で云った。 今になって考えれば、なるほどそれは自分の胸に正しく覚えのあることである。気狂いじみた行為ではあるが、左様なことを仕出来した心理については、自分には説明が付かないでもない。自分は昨夜の饗宴を、平素の左大臣の恩に報いる絶好の機会であると思い、出来るだけのもてなしをしたには違いなかったが、一方では、自分の力に限りがあって、到底左大臣を満足させる程の款待をなし得ないのを、耻かしくも歯痒くも感ずる念が一杯であった。自分にそう云う自責の心持、───こんな貧弱な饗応をしたのでは相済まない、何がなもっと喜んで戴くことは、───と云う心持があった矢先に、左大臣からあゝ云う風に云われ、剰え「物惜しみをするな」とまで云われたのがぐっと答えて、左大臣が所望とあらば、どんな物でも差出す料簡になったのであった。それに自分は、謎をかけられるまでもなく、左大臣の所望するものが何であるかを、大凡そ察し得たのであった。昨夜の左大臣は、あの御簾の方へ始終横眼を使ってばかりいた。最初はそれも控え目であったが、だん〳〵露骨になり、しまいには夫である自分の見ている前で、伸び上って秋波を送ったりした。………自分がいかに老耄し、血のめぐりが悪くなっているからと云って、あんなにまでされて気が付かずにいられようか。……… ………国経はこゝまで記憶を辿って来て、さて、昨夜のあの時の自分の感情が妙な風に動いたことを思い出すのであった。と云うのは、時平のそう云う眼に餘る行動を見ながら、奇怪にも彼はその無礼を不愉快に感ぜず、却って幾分かうれしいような気がしていたのであった。……… ………なぜ自分は嬉しかったのか。………なぜ嫉妬を感じないで、得意に感じたのだろうか。………自分は前から、あゝ云う世にも稀な人を自分が妻にしていることを、無上の幸福としていたのであるが、正直を云うと、世間がその事実に無関心でいることが物足りなくもあったのだ。自分は誰かに、時々自分の此の幸福を見せびらかして、羨ましがらせてやりたかったのだ。だから左大臣が羨望に堪えぬ顔つきをして簾の奥へ流眄を送ったのを見ては、大いに満足したわけであった。自分は斯様に老耄し、官位は漸く正三位大納言を以て終る運命にあるけれども、而も自分は、此の年の若い美男子の左大臣にさえ缺けているものを持っている、いや、恐らくは、九重の奥にまします帝でさえも、此れほどの人を後宮に持ってはおられないであろう。自分はそう思うことで云うに云われぬ誇りを感じ、それで嬉しかったのであった。………が、それだけならば誰に話しても分って貰えることだけれども、実は自分の胸の中には、又もう一つの感情があった。つまり自分は、二三年来生理的に夫たる資格を失いかけているところから、此のまゝでは、───何とかしてやらなければ、───妻に申訳がないと云う気持が、昂じて来ていたのであった。自分は自分を幸福だと感ずる半面に、自分のような老いぼれを夫に持った人の不幸を、だん〳〵強く感じつゝあったのだ。尤も世には悲惨な運命に泣く女はいくらもあるので、そのくらいなことを一々不憫がっていては際限がないけれども、これは普通の、ありふれた女ではないのである。左大臣はおろか、帝の后と云ってもよい程の容貌と品威に恵まれた人が、相手もあろうに無能力者の老翁の伴侶となったのである。自分は最初はその人の不幸を、努めて見て見ないふりをしていたのであったが、その人のめでたさ、いみじさが、肝に銘じて分って来るに従い、自分のようなものがこれだけの人を独占している罪の深さを、反省しないではいられなくなった。自分は天下に自分ほどの仕合わせ者はないと思っているけれども、妻の方では何と思っているであろう。自分がどんなにその人を大切にし、いつくしんだにしたところで、妻は内心迷惑こそすれ、決して有難いとは感じていまい。妻は此方が何を問うてもはっきり答えない人なので、お腹の中は知るよしもないが、ひょっとすると、此の老翁が早く死んでさえくれたらと、いつまでも長寿を保っている夫を恨み、その存在を呪っているのではなかろうか。……… ………自分はそれに気が付くにつれ、もし適当な相手があって、此の気の毒な、いとしい人を、今の不幸な境涯から救い上げ、真に仕合わせにしてやることが出来るのであるなら、進んでその人に彼女を譲ってやってもよい、いや、譲るべきが至当である、と思うようになったのであった。どうせ自分の餘命はいくばくもないのであるから、晩かれ早かれ、彼女にそう云う運命が廻って来ることであろうけれども、女の若さと美しさにも自ら限りがあることを思えば、彼女のためには一日も早くそうなった方がよいのである。自分も彼女から死ぬのを待たれているくらいなら、今から死んだつもりになって、彼女の半生を明るくしてやりたい。恋しい人を此の世に遺して死んだ人間が、草葉の蔭からその人の将来を絶えず見守ってやるように、自分は生きながら死んだと同じ心持になるのだ。そうしてやったら、彼女も始めて、此の老人の愛情がいかに献身的なものであったかと云うことを、理解するであろう。その暁にこそ、彼女は此の老人に向って無限の感謝と萬斛の涙をそゝぐであろう。彼女は恰も、故人の墓に額ずくような気持で、あゝあの人は私のためにこんなに親切にしてくれた、ほんとうに可哀そうな老人であったと、泣いて礼を云ってくれるであろう。自分は何処か、彼女からは見えない所に身を隠して、餘所ながら彼女のその涙を見、その声を聞いて餘生を送る。その方が、いとしい人から恨まれたり呪われたりして暮すよりは、自分としてもどんなに幸福であるか知れない。……… 自分は昨夜、左大臣のあのしつッこい所作を見ているうちに、平素胸中にわだかまっていたそう云ういろ〳〵なもや〳〵が、酔いが発するのと共に次第に湧き上って来るのを覚えた。いったい此の人が、そんなにも自分の妻に気があるのだろうか。もしそうならば、自分が日頃夢見ていたことが、或は実現されるかも知れない。自分が本気で、その計畫を実行に移すつもりなら、今こそ無二の機会であり、此の人こそその資格のある人物である。官位、才能、容貌、年齢、あらゆる点から云って、此の人こそ、自分の妻にふさわしい相手である。此の人ならば、ほんとうにあの人を幸福にしてやることが出来るのである、と、自分はそう思ったのであった。 自分の心にそう云う考が萌していたところへ、左大臣があんな工合に積極的に出て来たので、自分は一も二もなかった。自分の念願と左大臣の念願とが図らず合致したことに、自分はひどく感激した。一つには左大臣の恩に報い、一つにはいとしい人への罪のつぐないが出来ると思うと、自分は有頂天になった。そして咄嗟にあゝ云う行動に出てしまった。………あの瞬間にも、お前はそんなことをしてよいのか、いくら恩返しをすると云っても、餘り寛大過ぎはしないか、………酔った勢で飛んだことをして、覚めてから地団太蹈むのではないか、………お前が愛する人のために献身的になるのはよいが、果してお前はその後の孤独に堪えられるのか、と云う囁きが聞えないでもなかったのであるが、なに構うものか、後のことは後のことだ、善と信じて疑わないなら、酒の勢を借りてゞも断行すべきだ、生きながら死んだ人間になる覚悟をした者が、何で孤独が恐いものか、………と、強いて自ら危惧の念を嘲って、とう〳〵あの人の袂の端を、左大臣に執らせてしまったのであった。……… 国経は、昨夜の自分の行動がどう云う動機に基づいていたかを、今は詳細に突き止めることが出来るのであったが、でもそのために少しでも心の憂鬱が軽くなるのではなかった。彼はしずかに夜着の中に顔を埋めて、ひし〳〵と迫る悔恨の情に身を委ねた。あゝ、己は何と云う軽卒なことをしたのか。………いくら恩返しのためだからと云って、恋しい妻を人に譲るなんと云う馬鹿をする者があるだろうか。………こんなことが世間に知れたら、全く物笑いの種でしかない。………左大臣だって感謝するよりは舌を出して可笑しがっておられるだろう。あの人にしたって、熱狂的な愛情から出た行動であることを理解しないで、却って己の薄情を恨んでいるだろう。………実際、左大臣のような人なら他にいくらでも美しい妻を求めることが出来るけれども、自分があの人を逸してしまったら、二度と再びこんな所へ誰が来てくれよう。それを考えたら、自分こそ最もあの人を必要としたのだ。自分は死んでもあの人を手放すべきではなかったのだ。………昨夜は一時の興奮に駆られて、孤独なんか恐くはないような気がしたけれども、今朝覚めてからの数時間でさえこんなに辛いのに、此れからずっと此の淋しさがつゞくとしたら、何として堪えて行けるであろう。………国経はそう思った途端に、涙がぽろ〳〵とこぼれて来た。老いれば小児に復ると云うが、八十翁の大納言は、子供が母を呼ぶように大きな声で泣き喚きたかった。 その六 妻を奪われた国経が、恋慕と絶望に苛まれつゝその後なお三年半の歳月を生きた間のことは、後段滋幹のくだりに於いてやゝ詳細に触れる折があろう。今は暫く筆を転じて、あの夜あの車の中へ「物をこそ」の歌を投げ入れた平中の方へ叙述を移そう。 平中も亦、国経ほどではなかったにしても、やゝそれに似た、或る後味のほろ苦いものを嘗めさせられたのであった。もと〳〵此の事の起りは、去年の冬の或る夜、彼が本院の館に伺候した折、左大臣からあの北の方のことをいろ〳〵尋ねられたので、ついうっかりと、好い気になっておしゃべりをしたのが始まりであることを思えば、彼は誰を恨むよりも、己れの浅慮を恨まねばならない。いったい彼は、「われこそは当代一の色事師である」と己惚れているところへ持って来て、おっちょこちょいの癖があるので、しば〳〵時平に巧い工合におだてられて、泥を吐かされるのであるが、それにしても、もしあの当時時平があゝ云う暴挙に出るであろうことが豫想されたら、あんなおしゃべりはしなかった筈であった。彼も、此の道にかけては油断のならない左大臣が、あの北の方のことを知ったら何かいたずらをしはしないか、と云う懸念は抱いたけれども、自分のような官位の低い軽輩と違って、まさかに朝廷の重臣である人が、そう軽々しく夜遊びに出かけ、他人の家に忍び込んで北の方の閨へ這い寄る、と云う訳にも行くまい、そこは一介の左兵衛佐の方が気楽だと、そう思って安心していたので、あんな工合に、衆人環視の中に於いて堂々と人妻を浚って行くような派手なことが可能であろうとは、全く考え及ばなかったのであった。彼に云わせれば、妻は夫の眼を掠め、夫は妻の眼を掠めて、無理な首尾をし、危い瀬戸を渡り、こっそりと切ない逢う瀬を楽しむところにこそ恋の面白味は存するのである。地位や権勢を利用して他人の所有物を強奪するのでは、身も蓋もない野暮な話で、自慢にも何もなりはしない。左大臣のやり方は、他人の面目や世間の掟を蹈み躙った傍若無人な行為であるのみか、色道の方でも仲間の仁義を無視した仕方で、あれでは色事師の資格はないと云うべきである。そう思うと平中は、何か知ら不愉快なものが胸に残るのであった。女に好かれる男の常として、なまけ者ではあるけれども、洒脱で、のんきで、人あたりがよくて、めったに物にこだわらない彼なのであるが、今度は例になく、時平のしたことが腹が立ってならなかった。 元来彼があの北の方に寄せていた感情は、前にも云うように通り一遍の色恋よりは深いものがあったので、あの当時もしあのまゝで進んだならば、まだもっと関係が続いたかも知れないのに、彼にしては柄にもなくあの好人物の老大納言に惻隠の情を催して、これ以上罪を重ねることが厭わしくなったところから、努めて彼女のことを忘れるようにして、遠のいたのであった。時平は勿論彼のそう云う胸中を知っていよう筈はないけれども、それにしても平中は、時平のためにその折角の心づかいを無駄にされてしまったのである。平中は罪を重ねると云っても、たゞ内々で大納言の妻である人と契り、とき〴〵数時間逢っていたに過ぎないのであるが、時平は大納言に僅かばかりの恩を売り、あの老人を前後不覚に酔わしておいて、彼が命よりも大切にしているものを、あっさりと自分の所有に移した。平中の場合と時平の場合と、老人に取って孰方が餘計残酷であるかは言を俟たない。平中は今、自分の過去の恋人がたま〳〵彼の手の届かない貴人の許へ拉し去られたと云うだけのことに、遣る方ない忿懣を感じているのであるが、老大納言の災厄はなか〳〵そんな生やさしいものではない。而もあの老人がそう云う災厄を蒙むるに至ったのは、平中が時平に詰まらぬおしゃべりをしたからなのである。平中は、老人を不幸に陥れた元兇は自分であり、老人は何もそのことを知らずにいるのだと思うと、何と詫び言を云ってよいか分らないのであった。 だが人間は身勝手なもので、平中にして見れば、自分よりは老人の方が比較にならぬほど気の毒なことは分っていながら、馬鹿を見たのは誰よりも自分であると云う気がして、ひどく忌ま〳〵しいのであった。それと云うのが、何分今云ったような事情もあって疎遠になったのであるから、もはやその人に興味を失ったとは云っても、実のところはまだ心底から忘れ去っていたのではなかった。もっとはっきり云うならば、一往は忘れていたのだけれども、時平がその人に好奇心を抱いていることが明かになるや否や、意地悪くも一旦失いかけていた興味が、猛然と復活して来たのであった。彼は去年のあの晩以来、時平が急に伯父の大納言に接近し始め、しきりに歓心を求めるようになり出したのを、何となく不安な気持で眺めながら、それにしてもどう云う積りであろうかと、密かに時平の意図を疑い、事件のなりゆきに注意を怠らなかったのであるが、恰もその矢先に、あの饗宴の話が持ち上り、自分もそれに随行するように命ぜられたのであった。 あの晩、平中は虫が知らすと云うのか、今に何かゞ起るのではないかと云う豫覚があって、最初から憂鬱になっていた。彼は左大臣が自分を此の席に加えたことを、必ず訳がありそうに感じていたが、宴が始まると非常な速力で酒が進行し、左大臣や取巻き連中が寄ってたかって老翁を酔わせるようにしたり、左大臣が一方ではあの御簾の方へ頻々と色目を使い、一方では平中を掴まえて変な皮肉を浴びせたりしたので、一層不安が募ったのであった。彼は時平が腕白小僧のように眼を光らして、泥酔した顔を火照らし、喚き、唄い、笑うのを見ると、いよ〳〵何か大きな危険が御簾の中の人の上に迫りつゝあるように思え、それにつれてだん〳〵昔の愛情が、昔と同じ強さを以て蘇生って来るのを覚えた。そして時平が簾中に闖入した時は、座に堪えられず慌てゝ席を外したのであったが、やがてその人が車に乗せられて連れて行かれようとするけはいに、又じっとしていられないで、車の際へ走り寄って、夢中であの歌を投げ込んだのであった。 その夜平中は、再び警固の人数に加わって車の跡に附き随い、左大臣の邸まで供をして行って、そこからひとりとぼ〳〵と深夜の街を家路に就いたが、その途々も、一歩は一歩毎に恋しさが増して行った。行列が本院の館に着いて、その人が車から下りる時に、せめて一と眼逢えもしようかと願っていたのに、とう〳〵その望みも空しく終り、もはや永久に隔絶し去ったことを思うと、更にその人を愛惜する念が燃え上って来るのであった。自分はあの人をまだこんなにも恋していたのか、あの人へ寄せる熱情が、どうしてこんなにも消えずにいたのかと、彼は自分を訝しまずにはいられなかったが、蓋し平中の思慕の情は、夫人が彼の及び難い高根の花になったと云う事実に依って、挑発されたところもあろう。つまり夫人が老大納言の北の方であるうちは、いつでも自分の欲する時に撚りを戻すことが出来たのに、今やそのことが不可能になったので、そのための口惜しさが重な原因であつたのだと、云えなくもあるまい。 因みに云うが、前掲の平中の「物をこそ」の歌は、古今集には読人しらずとして載っており、「物をこそいはねの松の」が「思ひ出づるときはの山の」となっている。又十訓抄は此の歌の作者を国経としているが、その文に曰く、 時平公はすべておごれる人にておはしけるにや、御をぢの国経大納言の室は在原棟梁の女なりけるを、たばかりとりて我が北の方にし給ひけり、敦忠卿の母なり、国経卿歎き給ひけれども、世のきこえにはゞかりてちから及ばざりけり 思ひ出づるときはの山の岩つゝじ いはねばこそあれ恋しきものを 此の歌は、国経卿その比よみ給ひけるとぞ と。なるほど、歌としては「物をこそ」より「思ひ出づる」の方が格調が高いように感じられるし、又これを国経老人が詠んだと云う風に考えて見るのも哀れが深いが、そう云う詮議立ては此の小説の埒外であるから、今は孰方でもよいとしておこう。たゞ、こゝにもある通り、時平は夫人在原氏をたばかり取る目的で連れ去ったのであるから、もちろん明くる朝になっても大納言の所へ返して寄越しはしなかった。それどころか、豫めしつらえて置いた寝殿の奥の一と間に住まわせて寵愛したので、翌年には早くも後の中納言敦忠である男子を生むに至り、遂には世人も此の夫人を貴んで「本院の北の方」と呼ぶようになった。気の弱い国経はそんな有様を見ながらどうすることも出来ず、今昔物語の叙述に従えば、「妬く悔しく悲しく恋しく、人目には我が心としたる事のやうに思はせて、心のうちにはわりなく恋しく」思いつゝ遣る瀬ない日を送ったのであるが、平中はなおあきらめ切れず、大胆にも今は左大臣の妻である人に、隙があったら密かに云い寄ろうとしたのであった。後撰集巻十一恋三の部に、「大納言国経朝臣の家に侍りける女に、いと忍びて語らひ侍りて行末まで契りける比、此の女俄かに贈太政大臣(時平)に迎へられて渡り侍りにければ、文だにも通はす方なくなりにければ、かの女の子の五つばかりなる、本院の西の対に遊び歩きけるを呼び寄せて、母に見せ奉れとて腕に書きつけ侍りける。平定文」として、 昔せしわがかねごとの悲しきは いかに契りし名残なるらん と云う歌が載っているのは、その何よりの證拠であるが、この歌のあとに又、「返し、読人しらず」として次のような歌が見えるのは注目に値いする。─── うつゝにて誰ちぎりけん定めなき 夢路にまよふ我は我かは 時平は国経や平中とのいきさつがあるので、新夫人の身辺を油断なく見張らせ、めったな人は寄せつけぬように用心したであろうことは想像に難くないのであるが、平中はいかにかして警戒の目をくゞり、幼童を手馴ずけて歌の取次をさせることには成功したのである。此の幼童と云うのは、十訓抄には「かの女の若君の、とし五つばかりなるが」とあり、世継物語にも「若君のかひなに書いて」とあって、夫人在原氏と国経との間に生れた男の子、後の少将滋幹のことなのであるが、蓋し此の児だけは、母なる人が本院の館へ連れ去られた後も、乳人などに伴われて自由に出入りすることを許されていたか、又は大目に見て貰っていたのであった。如才のない平中はかねてからそれに眼をつけ、巧く此の児に取入っていて、或る日此の児が本院の館へ来、母が住んでいる寝殿の、西の対屋で遊んでいるところへ行き通わして、すかさず取次を頼んだのであろう。それにつけても、彼が何とかしてその人に近づこうと思い、暇があれば此のあたりをうろ〳〵していた情況が察しられるが、少年の腕に歌を書いたとは、急の場合で紙などの持ち合わせがなかったのか、紙では却って落ち散る恐れがあったからであろうか。北の方は、我が子の腕に書いてある昔の男の歌を読んで、ひどく泣いたが、やがてその文字を拭い取って、「うつゝにて」の返歌を、同じように腕に書き記し、「これをその方にお見せ」と云って我が子を突き遣ると、自分は慌てゝ几帳のかげに身を隠した。 今を時めく左大臣の北の方に、こんな工合にして平中が取次を頼んだのは一度や二度ではなかったと見えて、大和物語には又別な歌が伝わっている。─── ゆくすゑの宿世も知らず我がむかし 契りしことはおもほゆや君 北の方はこれにも返歌を与えたらしいのであるが、生憎その歌は残っていない。が、文を通わすことは出来ても逢うことは許されなかったので、さしもの平中も次第に望みを失って匙をなげたらしく、やがて此の夫人との関係は果敢ない終りを告げたのであったが、そうなると自然、此の好色漢の心は、再び嘗てのもう一人の恋人、あの侍従の君の方へと傾いて行った。それと云うのが、此の人も左大臣家の女房として、同じ本院の館のうちにいるのであるから、夫人の方が脈がないと極まれば、平中としては手ぶらですご〳〵引込む気になれず、もと〳〵嫌いでも何でもなかった此の人を、せめて此の際物にしなければ自分の男が廃ってしまうように、恐らくは考えたことでもあろう。しかし意地の悪いことにかけては一と通りでない侍従の君が、今となっては尚更おいそれと平中に靡く筈はなかった。もし平中があの時翻弄されながらも一途に熱意を失わないで追い廻したら、結局試験に及第したことになって、許されたのに違いないのであるが、途中で脇道へ外れたゝめに、相手はすっかり機嫌を損じて一層旋毛を曲げてしまい、もう何を云って来ても鼻であしらって、てんで取り上げないのであった。 一人の恋人は他人に奪われ、もう一人の恋人には手きびしくはねつけられた平中が、色事師の面目にかけてもと、必死になって侍従の君に泣きを入れたいきさつは、煩わしいので茲に詳述するのを避けよう。読者は世にも自尊心の高い、男を懊らすことに特別な興味を抱く侍従の君が、再び前と同じような、或は前よりも何層倍か苛酷な試練を平中に課したであろうことを、そして平中が、今度は実に辛抱強く一つ〳〵の試練に堪えて、兎にも角にも彼女の誇りを満足させ、許しを得る迄に漕ぎ着けたやゝこしい経路を、宜しく想像すべきである。が、漸く平中も思いを遂げて、長い間のあこがれの的であった人と逢う瀬を楽しむ境涯になったものゝ、それから後も皮肉屋の女の癖は改まらず、やゝもすれば意想外な悪戯を考え出して嬲りものにし、目的を果たさずに帰って行く男のあとから舌を出したり、べかこうをしたりすることが、三度に一度ぐらいは必ずあるので、平中もしまいには業を煮やして、糞、忌ま〳〵しい、いつ迄馬鹿にされているのだ、こんな女を思い切れないなんてことがあるものかと、何度か決心をしては、何度か誘惑に負ける、と云うようなことを繰り返していたのであったが、あの今昔物語や宇治拾遺物語に出ている有名な逸話は、多分その頃の出来事だったのであろう。聞くところに依れば、此の逸話は故芥川龍之介氏の著書にも紹介されているそうであるから、読者の多くは既に知っておられるであろうが、それを読まない人々のために、今その大要を物語ることにしよう。 さて平中は、何とかして侍従の君のアラを捜し出してやりたい、いくらあの女が非の打ちどころのない美婦人であるからと云って、結局は普通の人間に過ぎないのだと云う證拠を見たら、これほどに迷い込んだ夢もさめて、愛憎を盡かすことが出来るであろう、と、そう思った末に考えついたのは、あのようなみめうるわしい女であっても、その体から排泄するものは、われ〳〵と同じ汚物であろう、ついては何とかしてあの女のお虎子を盗み出し、中にしてあるものを見届けてやりたい、そうしたら己も、あんな顔をしてこんなむさい物を出すかと思って、一遍に厭気がさすであろう、と云うことであった。 ついでながら、筆者はその時分のお虎子がどんなものであったかを知らない。今昔にはたゞ「筥」と云ってあるが、宇治拾遺には「かはご」とあるので、皮で造った筥が普通だったのであろうか。何にしてもそう云う地位の女房たちは、筥の中に用を足して、それを時々召使の女に捨てに行かしたのであった。で、平中が例の局のあたりへ行って物蔭にひそみながら、筥の始末をする召使の出て来るのを待っていると、或る日、年の頃十七八の、可愛らしい姿形をした、髪の長さは袙の丈に二三寸足りない程なのが、瞿麦重ねの薄物の袙を着、濃い袴をしどけなく引き上げて、問題の筥を香染めの布に包み、紅い色紙に絵を書いた扇でさし隠しながら出て来たので、こっそり跡をつけて行って、人目のない所へ来た時、不意に駈け寄って筥に手をかけた。 「あれ! 何なさいますの」 「ちょっと! ちょっと此れを………」 「あれ! 此れはあなた………」 「いゝんだよ、分ってるよ! ちょっと寄越し給え」 女が呆れている隙に、平中はすばやく筥を奪い取って一目散に走り去った。 後生大事にその品物を袂のかげに抱えながら、我が家へ逃げ帰った平中は、一と間のうちに閉じ籠ってあたりに誰もいないのを確かめてから、先ずそれを恭しく座敷にすえて、とみこうみした。これが自分の深くも心を打ち込んだ人の物を入れてある容器かと思うと、直ぐには蓋を開けるのが惜しい気がして、なおよく見ると、普通にあるような皮籠ではなくて、金色の漆の塗ってある立派な筥であった。彼は改めてそれを手に取り、上げて見たり、下げて見たり、廻して見たり、中の重みを測って見たりしていたが、やがて恐る〳〵蓋を除けると、丁子の香に似た馥郁たる匂が鼻を撲った。不思議に思って中を覗くと、香の色をした液体が半分ばかり澱んでいる底の方に、親指ぐらいの太さの二三寸の長さの黒っぽい黄色い固形物が、三きれほど圓くかたまっていた。が、何しろそう云うものらしくない世にもかぐわしい匂がするので、試みに木の端きれに突き刺して、鼻の先に持って来て見ると、あの黒方と云う薫物、───沈と、丁子と、甲香と、白檀と、麝香とを煉り合わせて作った香の匂にそっくりなのであった。 「中を突き刺して鼻にあてゝ嗅げば、えも云はず馥しき黒方の香にてあり、すべて心も及ばず、これは世の人にあらぬなりけりと思ひて、これを見るにつけても、いかで此の人に馴れ睦びんと思ふ心狂ふやうにつきぬ」とは今昔の描写であるが、要するに、たゞの人間に過ぎないと云う證拠を見てあきらめようとしてかゝったのが、却って反対の結果を生み、なか〳〵愛憎を盡かすどころではなかったのであった。でも平中は、あまり不思議でたまらないので、その筥を引き寄せて、中にある液体を少し啜って見た。と、やはり非常に濃い丁子の匂がした。平中は又、棒ぎれに突き刺したものをちょっぴり舌に載せて見ると、苦い甘い味がした。で、よく〳〵舌で味わいながら考えると、尿のように見えた液体は、丁子を煮出した汁であるらしく、糞のように見えた固形物は、野老や合薫物を甘葛の汁で煉り固めて、大きな筆の𣠽に入れて押し出したものらしいのであったが、しかしそうと分ってみても、いみじくも此方の心を見抜いてお虎子にこれだけの趣向を凝らし、男を悩殺するようなことを工むとは、何と云う機智に長けた女か、矢張彼女は尋常の人ではあり得ない、と云う風に思えて、いよ〳〵諦めがつきにくゝ、恋しさはまさるのみであった。 人間の運は、一遍悪い方へ曲り始めると何処まで曲るか分らないもので、さすがの平中も、侍従の君のお虎子の匂を嗅いでからと云うものは、何処へ行っても色事が成功せず、悉く失敗つゞきであった。まして侍従の君はます〳〵驕慢に、残酷になり、彼が熱を上げれば上げるほど冷かな仕打をし、もう少しと云う所へ来ては突っ放すので、可哀そうな平中は、とう〳〵それが原因で病気になり、悩み死にゝ死んでしまった。───「いかで此の人に逢はで止みなんと思ひ迷ひける程に、平中病み付きにけり、さて悩みける程に死にゝけり」と、今昔物語ではそうなっているのである。尤も、こゝに一つ書き洩らしてならないことは、十訓抄に依ると、侍従の君は本来平中の女であったのを、これも時平が邪魔をして横取りをした、と云うことになっている。そこで筆者が想像するのに、もと〳〵此の婦人は本院の館に仕えていた女房なのであるから、恐らくは早くから時平が手を着けていなかった筈はなく、平中はそれを知らずにか、或は知りつゝか、三角関係を結んだのであろう。されば、お虎子の一件を始めとして侍従の君の彼に対するさま〴〵な悪戯の数々は、ひょっとすると背後で此の女を操っていた左大臣の入れ智慧であったかも知れない。そうだとすれば、平中を殺したのは時平であると云うことにもなる。 その七 筆者は前に、平中の歿年は延長元年とも六年とも云われていて、確かでないと云うことを記した。今、侍従の君のことが原因で病死したと云う今昔の記事に従えば、何となく平中の方が時平より先に死んだような感じを受けるが、前掲の後撰集の詞書などを読むと、矢張平中は後まで生きていたのであろうか。だがまあそれも孰方でもよいとして、北の方奪取事件があってから四五年の後、延喜九年四月四日に、時平が三十九歳の若さを以て卒去したことははっきりしている。 此の左大臣が有為の材を抱いて早死をしたのは、積る悪業の報いであるように当時の人々は見たのであるが、就中その報いの最たるものは、菅公の怨霊の祟りであるとされたのであった。これより先、菅公が筑紫の配所で薨じたのは延喜三年二月二十五日であるが、同六年の七月二日には、時平と共に菅公讒奏の謀議に加わった右大将大納言定国が四十一歳を以て卒し、同八年十月七日には、これも時平の一味であった参議式部大輔菅根が五十三歳を以て卒した。而も菅根の場合は、雷神と化した菅公の霊に蹴殺されたことになっているが、菅公が雷になって生前の怨みを報じたと云う怪異談のうち、時平とその一族に関係のある部分を、以下に少しく述べて見よう。 菅公の霊が始めて姿を現わしたのは、薨去の年の夏、或る月の明かな夜、五更が過ぎて天がまだ全く明けきらない頃、延暦寺第十三世の座主法性房尊意が四明が嶽の頂に於いて三密の観想を凝らしている時であった。中門のあたりと覚しい所にほと〳〵と戸を叩く者があるので、開けて見ると、亡くなった筈の菅丞相が彳んでいた。尊意は胸騒ぎを隠しながら、恭しく持佛堂に請じ入れて、深夜の御光臨は何御用にて候哉と問うと、丞相の霊が答えて、自分は口惜しくも濁世に生れ合わせて無実の讒奏を蒙り、左遷流罪の身となったについては、その怨みを報ぜんために雷神となって都の空を翔り、鳳闕に近づき奉ろうと思っている、此の事は既に梵天、四王、閻魔、帝釈、五道冥官、司令、司録等の許しを得ているので、誰に憚るところもないのだが、たゞ貴僧は法験がめでたくおわしますので、貴僧の法力で抑えられるのが一番恐ろしい、何卒年来の師壇の契りを思って、たといその折朝廷からお召しがあっても、お請けにならないように願いたい、自分は此のことを申上げたいと存じて、只今態々筑紫から参ったのです、と云うのであった。 そこで尊意は、おん歎きの次第は御尤もであるけれども、古えより賢人が小人のために禍を蒙った例は珍しからず、貴下御一人に限った運命ではないのであるし、凡そ世の中は無道なものなのであるから、左様にお恨みなさるのは浅ましゅう存ずる、どうかそのようなお考は思い止って戴きたい、だが、そう云っても貴下と愚僧とは年来のよしみも深いことなので、折角のお頼みとあるなら、たとい眼を抜かれてもお言葉に従って、宣旨を御請けしないことに致しましょう、但し天下は皆王土であり、愚僧も王民の一人である上は、もしお召しの宣旨が数度に及んだら、二度まではお断り申上げるけれども、三度目にはお請けしなければなりますまい、と、そう答えると、丞相の霊が忽ち顔色を変じて凄じい形相になった。尊意が、咽喉が渇いておいでゞしょうと云って柘榴をすゝめたのを、丞相は取って口に啣んでひしひしと噛み砕き、妻戸のふちに吐きかけたかと思うと、見る〳〵一条の火焔となって燃え上ったが、尊意が灑水の印を結ぶと、たちどころにその火が消えた。 それから間もなく洛中の空に黒雲が蔽い廣がって大雷雨が襲来し、風を起し雹を降らして、宮中の此処彼処に落雷した。満廷の朝臣たちが戦き恐れ、或は板敷の下に這い入り、或は唐櫃の底に隠れ、或は畳を担いで泣き、或は普門品を誦しなどする中で、時平がひとり毅然として剣を抜き放ち、空に向って雷霆を叱咤したのは此の時の話であるが、その後風雨がなお止まず、遂に鴨川の洪水を見るに至った。法性房尊意も宣旨が三度に及んだので、已むを得ず参内して、法力を以て雷電を取り鎮め、帝のおん悩みを除いたのであったが、その時尊意の乗った車が鴨川の浜にさしかゝると、水が自然に退いて車を通した。又宮中に於いて尊意が加持祈祷している時、帝は夢に不動明王が火焔の中で声を厲まして呪文を唱えていると見給い、おん眼がさめて御覧になると、それは尊意の読経の声であったと云う。 しかし尊意の法力も度重なっては効を奏さなかったのか、その後五年を経、八年の十月には菅根朝臣が電撃を受けて震死した。時平は九年の三月頃から何となく所労の気味で床についたが、菅丞相の怨霊がしば〳〵枕頭に現れて呪いの言葉を洩らすので、陰陽師や医師を招いて、さま〴〵の祈祷、療治、灸治等をして見るけれども一向に利き目がなく、今はたゞ死を待つばかりの状態となった。一家一門の悲歎やる方なく、此の上は高徳の聖を聘してその法力に縋ろうと云うことになったが、それには当時天下にその名が著聞していた浄蔵法師を措いて他になかった。此の浄蔵と云う僧は、昌泰三年の昔、菅公がまだ右大臣として時平と昇進を競っていた頃、「離朱の明も睫上の塵を視る能はず、仲尼の智も篋中の物を知る能はず云々」の句のある一書を菅公に呈して、明年必ず公に禍の及ぶであろうことを告げ、早く官を退いて保身の術を講ずべきことを諷した文章博士三善清行の第八子で、母は弘仁天皇の孫女であった。幼にして聡敏比なく、四歳にして千字文を読み、七歳にして出家せんことを求めたが、十二歳の時宇多上皇に見出されて、上皇の法の弟子となった。その後上皇は勅して彼を叡山に上らせて登壇受戒せしめ給い、玄昭律師に附して密教を学ばしめ給うたが、生来多才多藝の人で、顕密の両宗は勿論のこと、十種に餘る学問技術を身につけていたと云われ、医道、天文、悉曇、相人、管絃、文章、卜筮、占相、舟師、絵師、験者、持経者等々の道に練達してい、音曲などの諸藝にかけても肩を並べる人がなかったと云われる。左大臣家では此の浄蔵を懇請したので、浄蔵が行ってみると、既に時平の面上に死相が現れているので、もはや定業は免れ難く、たといいかようの術を施しても萬死に一生を得ることはむずかしい旨を申したのであったが、病人も、附き添う家族の人々も、頻りに乞うて止まないので、辞するに由なく、兎も角も加持祈祷に努めた。折柄浄蔵の父の清行も見舞いに行って枕頭に坐していたが、浄蔵が一心に祈りつゞけると、病人の左右の耳から青龍が出て口より火焔を吐き、清行に向って云うのに、自分は生前尊閣の諷諫を用いなかったゝめに左遷の憂き目を見、筑紫の空に流寓して果敢ない最後を遂げたのであるが、今、梵天帝釈の許しを得、雷となって自分に辛かった人々に怨みを報じようとしているのに、尊閣の息浄蔵が法力を以て妨げをなし、自分を降伏させようとするのは心外である、尊閣願わくは浄蔵法師を制せられよ、と云うのであった。清行はそれを聞いて恐れ畏み、浄蔵に命じて直ちに祈祷を中止せしめたが、浄蔵が病室を退去するや、須臾にして時平は事切れてしまった。 宇多上皇は、上皇の法の弟子である浄蔵が左大臣の邸に於いて最後まで加持祈祷の勤めをせず、中途で退出したことを聞召されて大いに御気色を損ぜられたので、浄蔵は深く勅勘の身を慎み、三箇年の間横川の首楞厳院に籠居して修練苦行の日を送ったと云うが、世間一般の人々は、時平がそう云う死に方をしたことを当然のように考えて、あまり同情する者はなかった。而も報いは時平一人に止まらず、長く子孫にまで及んだのであって、彼の三人の子息のうち、長男の八条大将保忠は、承平六年七月十四日に四十七歳を以て歿し、三男の中納言敦忠、───あの新夫人在原氏が生んだ晩年の子は、天慶六年三月七日に三十八歳を以て歿した。尤も保忠の歿年は四十七歳と云うのであるから、その頃として若死とは云えないかも知れないが、事実は菅公のたゝりを気に病む餘り病気に取り憑かれ、枕許に験者を招いて薬師経を読み上げさせていたところ、経の中に宮毘羅大将と云う文句があったのを、「汝を縊る」と聞き違えて悶絶し、それきりになってしまったと云うので、矢張尋常の死に方ではなかった。そのほか、宇多天皇の女御に上って京極御息所と云われた女子があったが、これも短命を以て終り、他の一人の女子仁善子と醍醐天皇の皇太子保明親王との間に生れた康頼王は、時平の外孫に当り、保明親王の薨去後に皇太子に立ったが、これも延長三年六月十八日に、僅か五歳を以て薨じた。たゞ二男の富小路右大臣顕忠が、康保二年四月廿四日を以て六十八歳で歿したのは例外であるが、此の人は心がけのよい人で、平生菅公の霊を畏れ敬い、毎夜庭に出て天神を拝した。又身を持すること謹厳で、倹約を旨とし、大臣の位に六年の間いたけれども、家にあっても、外にあっても、大臣の作法を振舞わず、外出の時は前駆を具して行くことはめったになく、車ぞいにも四人の供は召連れず、いつも車の尻の方に乗った。食事をするにも贅沢な器を用いず、土器に盛って、台などもなしに、折敷に載せて直かに畳の上に置いた。手水を使うにも半挿盥を用うることはなく、寝殿の日隠の間に棚を作らせて、小桶に小さい柄杓をつけておき、毎朝仕丁がそれに湯を入れるだけで、手を洗う時は自ら水をかけに行くようにし、人手を煩わすことはなかった。そう云う人であったから、右大臣にまで昇進し、後に正二位を贈られたのであるが、此の大臣の孫たちのうちで、三井寺の心誉、興福寺の扶公等、佛門に入った者は恙なきことを得て、大僧都や権僧正の地位に至った。僧になった者は、此の外にも敦忠中納言の子右兵衛佐佐理、その子の岩倉の菩提房文慶等があり、これらは孰れも佛道に帰依したお蔭で禍を免れることが出来たのであるが、結局昭宣公の長男たる時平の後裔は栄えずにしまって、四男の忠平が、後に従一位摂政関白太政大臣になったのみならず、その一門は皆出世して顕要の職に就いた。それは菅公が左遷の時、右大弁であった忠平は密かに菅公に同情して兄に与せず、その後も絶えず配所へ消息を通わして、慇懃を結んでいたからであると云われる。 時平の三男の敦忠は、三十六歌仙の一人であって、本院中納言とも、枇杷中納言とも、又土御門中納言とも云われ、百人一首の、「あひ見ての後の心にくらぶれば」の作者として知られているが、「此の権中納言は本院の大臣の在原の北の方の腹に生ませ給へる子也、年は四十ばかりにて形有様美麗になんありける、人柄もよかりければ世のおぼえも花やかにて」と今昔物語も書いているように、時平とは違って、優しい、人好きのする人物であり、一面には母方の曾祖父業平の血を引いた、多感で情熱に富む詩人でもあった。但し百人一首一夕話に、夫人在原氏は国経の館から時平に拉し去られる時に、既に敦忠を懐妊していた、されば敦忠はまことは国経の胤であるが、夫人が本院へ移ってから生れたゝめに、時平の子として育てられたのであると云う記事が見える。そうだとすれば、敦忠は少将滋幹の実弟になる訳であるが、一夕話の記事は何に基づいているものか、筆者はその出所を詳かにしないけれども、或は当時世上にそう云う風説もあったのであろうか。此の敦忠が天慶六年に早世してからは、禁中で管絃の御遊がある時は博雅三位がなくてはならない人になり、三位に差支えがあるとその日の御遊を中止し給うようになったが、故老たちはそれを聞いて、今は世が末で管絃の名手もいなくなった、敦忠中納言が存生中は、博雅三位が左様に重んぜられることはなかったのに、と云って歎いたと云う。此の一事を以ても、敦忠の死が人々に惜しまれたこと、又敦忠が和歌ばかりでなく、管絃の道にも秀でゝいたことが偲ばれるのである。 参議藤原玄上の女子で、皇太子保明親王の御息所に上った人があったが、敦忠がまだ左近少将であった時分に、お二人の間の後朝の使を勤めさせられたものであった。そんな縁故から、そのゝち親王がおかくれになると、御息所は敦忠と契るようになり、敦忠は限りもなく此のお方をいとしい人に思ったのであったが、或る時、「わたくしの一族は皆短命でございますから、私もそう長いことはございますまい。わたくしが死にましたら、あなたはあの文範のものになられますでしょう」と云ったことがあった。文範と云うのは民部卿播磨守で、敦忠の家の家司をしている男だったので、御息所が、「まあ、そんなことがあるものですか」と云われると、「いゝえ、きっとそうなります、私は空から見ておりますよ」と敦忠は云ったが、果してその豫言の通りになった。時平の子たちや孫たちが天神の祟りと云うことを神経に痛んで、始終安き心地もなかったことは、保忠の例を見ても察しられるが、敦忠も亦、自分が到底長生きの出来ない運命を担っていることを知り、ひそかに諦めていたのであった。 前記の御息所の外に、敦忠にはなお数人の思い人があった。今、敦忠集を見ると、その大部分は恋歌であって、中にも斎宮雅子内親王との贈答が多く、此のおん方とは随分長く契り交していたことが想像されるが、後撰集巻十三恋五の部には、宮が斎宮にならせられて伊勢へお下りになった時の敦忠の歌が、次のような詞書と共に載っている。─── 西四条の前斎宮まだみこにものし給ひし時心ざしありて思ふこと侍りける間に、斎宮に走り給ひにければ、その明くる朝に榊の枝につけてさしおかせ侍りける 伊勢の海の千尋の浜に拾ふとも 今は何てふかひかあるべき 又、小野宮左大臣実頼の女子で、彼が「みくしげ殿の別当」と呼んでいる人を、久しく恋いわたりながらなか〳〵逢うことが出来ないので、或る年の師走の晦日に、 もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに 今年もけふに果てぬとか聞く と書いて送ったが、父の左大臣が事情を嗅ぎつけていよ〳〵逢わせないようにしたので、又次のように書いて送った。 いかにしてかく思ふてふことをだに 人づてならで君に語らん 季縄の少将の女子の右近と云う人とも、此の女がまだ宮中に奉公をしていた頃に云い交したことがあったが、後に宮仕えを止めて里へ帰ってからは、ふっつり訪ねても来ないようになったので、女の方から、 忘れじと頼めし人はありときく いひしことの葉いづちいにけん と云ってやると、矢張何とも返事はしないで、雉子を贈ってよこしたので、女が重ねて云ってやった。─── 栗駒の山に朝たつ雉子よりも かりにあはじと思ひしものを 此の外に、長男の助信の母に当る人で、参議源等の女子もいるが、なお敦忠集に、「はじめの北の方」と呼ばれている女や、「すけまさの母君」と呼ばれている女が見えるのは、前記の女たちの中の人々か別の人々かよく分らない。「すけまさ」と云うのは二男の佐理のことであるが、これはあの行成や道風と並び称せられた能書家の佐理とは違う。敦忠集に依ると、佐理の母は佐理を生んで死去したので、子は小母のところに預けられて、「あづま」と云う幼名で呼ばれていたが、あづまが二つになった時に敦忠がその子を見に行って、たいそう泣いて、下のような歌を詠んだ。─── むつごともまだいひ出でゞ別れにし 人のかたみはあづまなりけり 此のあづまの佐理が後に出家をしたことは、前に記した通りである。 その八 平中、時平、及びその子孫たちの後日譚はあらまし以上の如くであるが、あの可哀そうな老大納言と、彼が夫人在原氏の腹に儲けた子の滋幹は、その後どうなったことであろうか。 国経には滋幹の外に三人の男子があって、尊卑分脈所載の順序に従えば、長男が滋幹、次男が世光、三男が忠幹、四男が保命となっている。此のうち、忠幹の母は在原氏ではなく、伊豫守未並と云う者の女子としてあって、此の後裔は後まで長くつゞいたらしいが、世光と保命には後がなく、且その母は誰であるとも記してない。しかし滋幹は、あの事件の時に五歳ぐらいであったとすれば、老大納言が七十二三歳頃の子でなければならないが、それ以後国経は八十一歳で死ぬ迄の間に、更に三人もの子を生ませたり、他の婦人と契ったりしたのであろうか。それとも尊卑分脈所載の順序は出鱈目で、世光以下三人の男子は滋幹より前か、同時ぐらいに生れた庶子でゞもあるのだろうか。そう云えば国経は、五十歳も年の違う在原氏を妻にする前には、誰かを妻にしていたのであろうが、その人には子がなかったのであろうか。それらのいろ〳〵な不審については、今は何事をも明かにする手がゝりがない。なお、滋幹は、尊卑分脈に従五位上左近少将と肩書がしてあって、亮明、正明、忠明と云う三人の男子を儲けたことになっているが、此の子供たちの母も誰であるか分らず、且三人ながら跡が絶えていて、子孫がない。それに滋幹の名は、公卿補任等には全く見えていないので、彼がいつ従五位になり、いつ左近少将になったのかは明かでなく、生年月日や歿年等も知るよしがない。尊卑分脈以外のもので滋幹に関した記事を拾えば、大和物語に、 しげもとの少将に、女、 恋しさに死ぬる命を思ひいでゝ とふ人あらばなしとこたへよ 少将かへし 骸にだに我きたりてへ露の身の 消えばともにと契りおきてき と云うのが見え、後撰集巻十一恋三の部に、藤原滋幹として、 宵に女にあひて必ず後にあはんとちかごとをたてさせてあしたに遣しける 千早振神ひきかけて誓ひてし こともゆゝしくあらがふなゆめ と云うのが見えるのが、普通に知られているのであるが、此のほかに、餘り世間に読まれていないものに、遒古閣文庫所蔵の写本の滋幹の日記がある。これは残缺で、遒古閣本以外にも写本が二三あるようだけれども、何処にも完本は伝わっておらず、大体に於いて天慶五年の春頃から以後七八年の間に亙って、折々書き継がれたらしく思われるものが、部分的に残っているだけであるが、その内容は、殆ど全部が母を恋い慕う文字で埋まっているのである。 ところで、滋幹の生母は即ち敦忠の生母であることは読者も御承知の通りであるが、此の母はいつ頃まで生きていたのであろうか。われ〳〵は拾遺集巻五賀の部所載源公忠の、「萬代もなほこそあかね」の歌の詞書に依って、権中納言敦忠が母のために賀筵を設けたことがあるのを知り、その賀は多分五十の賀であろうことを推定するのであるが、滋幹の日記を見ると、敦忠の死んだ明くる年、天慶七年にもまだ此の母はながらえていたのであって、それは実に、彼女の第二の夫であった贈太政大臣時平の死後三十五年の星霜を経てい、彼女は当時六十歳前後、滋幹は四十四五歳に達していたであろう。滋幹がそう云う齢になってもなお、母のことが忘れられず、折にふれては面影を想い浮かべてなつかしがっていたと云うのには、尤もな理由が存するのであって、昔、あの事件のあった当座、五つ六つの幼童の頃にこそ彼も本院の館へ出入りすることを許されていたものゝ、七八歳になった頃からは早くもさま〴〵な浮世の掟に制せられてそうも行かなくなったらしく、その後ずっと、母が健在であることは聞き及びながら、親しく会う機会に恵まれずにいたのであった。いったい誰の場合でも、母の顔を全く知らないのなら格別、頑是ない時分におぼろげながら母を見た記憶があり、而も間もなくその母が餘所の男の所へ走ってしまったと云うようなことに出遭うと、その子の母を思慕する情は尋常一様でないのであるが、況んやその母が世にも稀なる美女であった場合、又況んや、よう〳〵物心のついた年頃に、今は他人の妻になっている母の許を訪れたり、その母の手で腕へ歌を書かれたりした、異常な思い出を持つ場合に於いてをや、そして又況んや、その母が現に存命中であることが分っている場合に於いてをや、である。かく考えて来れば、滋幹の日記が母恋しさの餘りに綴られた文章のような観があるのも道理であって、現存しているのは断片的な部分々々に過ぎないけれども、その他の部分も必ずや母への憧憬で埋まっていたことであろう。いや、事に依ると、滋幹は、四十二三歳に及んでから、いよ〳〵母を思う念が切になって、生れて始めてこう云うものを筆にする気になったのではなかろうか。実際それは、日記と云えば日記であるが、幼くして母に生き別れ、やがて父に死に別れた少年時代の悲しい回想から説き起して、それより四十年の後、天慶某年の春のゆうぐれに、西坂本に故敦忠の山荘の跡を訪ねて、図らずも昔の母にめぐり逢う迄のいきさつを書いた、一篇の物語であると云ってもよいのである。 日記に依って想像するのに、滋幹の母の記憶は、彼が四つぐらいの時から少しずつ残っているらしいのであるが、最初の頃のは極めておぼろげな、霞のように淡いものであるに過ぎない。彼は自分の身に取っても、父の国経に取っても、一生涯の大事件であったあの夜のこと、───母が本院の大臣に連れて行かれた夜のことについては、何もおぼえていないのであって、たゞいつからか、母がもう自分の家にいないようになったことを、誰かに聞かされて、急に大変悲しくなって泣いたのであった。彼にその話をしてくれたのは、多分老女の讃岐であったか、乳人の衛門であったか、孰方かであろう。その時分、彼は夜な〳〵乳人に抱かれて眠ったのであったが、乳人は彼がいつ迄も母の名を呼んで泣き止まないのに当惑して、 「さあ〳〵、おとなしくお眠み遊ばせ。お母さまはこゝにはいらっしゃいませんけれども、そう遠くない所にいらっしゃるのですよ。おとなしくしていらっしゃれば、きっとお母さまの所へ連れて行って上げますよ」 と、そう云ったので、幼い滋幹はたとえようもなく嬉しくて、 「ではいつ?」 と、聞くと、 「そのうちに」 と、云うのであった。 「きっとだね」 「きっとでございます」 「きっと、きっと?───うそではないね」 こんな問答を毎夜のように繰り返しつゝ寝かされながら、乳人はあゝ云っているけれども、気休めに云うのであろうと、子供心に疑いを挟んでいたのであったが、それでも乳人はそのことについて讃岐と話し合ったものらしく、或る日ほんとうに、讃岐が彼の手を引いて母の所へ連れて行ってくれたのであった。が、幼童の記憶と云うものは全くたわいのないものなので、どう云う訳か、そんな大事の日のことを、まるきり彼は思い出すことが出来ないのである。彼の記憶は古い映畫のフィルムのようにきれ〴〵で、前後につながりのない場面々々が、或るものはぼんやりと、或るものは怪しいほどくっきりと、映像をとゞめているのであるが、それらの数々の映像のうちで、今もしば〳〵浮かんで来るのは、本院の館の、とある渡殿の勾欄のもとにうずくまって、所在なさそうに前栽のけしきを眺めている自分の童姿であった。 彼はその渡殿の向うにある寝殿に、母が住んでいることを知っており、自分はその母に会うためにそこで待たされていたのであったが、いつも、やゝ久しく待っていると讃岐が出て来て、此方へ入らっしゃいと云う合図をした。母はめったに端近いあたりへ姿を現わすことはなく、母屋の奥の方の一と間に垂れ籠めていて、彼が行くと必ず膝の上に載せて頭を撫で、頬ずりをしてくれるので、 「お母さま」 と云うと、 「和子」 と云って、ぎゅっと抱きしめてくれるのであった。だが、それだけで、一と言二た言やさしい言葉はかけてくれたけれども、しみ〴〵とした話などを聞かしてくれることがなかったのは、まだ何を話しても理解の行かない年頃だったからであろうか。彼はたまにしか会えない母の顔を、そう云う折にしっかり見覚えて置きたかったので、抱かれながら仰向いて見たが、残念なことには部屋が暗いのと、額から垂れたゆたかな髪が輪郭を覆い隠しているので、厨子の中にある御佛を拝むようで、心ゆくまで見きわめたことはなかった。母のようにみめかたちのすぐれた人は稀であると云うことは、女房たちが噂するのを聞いて知っていたので、うつくしいと云うのはこう云う顔のことなのかと思ってはいたが、ほんとうにそうと得心が行っていたのではなかった。たゞ母の衣には、何と云うものか特別に甘い匂のする香が薫きしめてあったので、じっと無言で抱きしめられている間が好い気持であった。そして家に帰ってからも、なお二三日はその移り香が頬や掌や袂などに沁み着いていたので、母が自分の身に附き添うているように思えた。 幼年の彼が母をほんとうに美しいと感じたのは、あの、平中に掴まえられて腕に歌を書かれた時のことであった。あれは渡殿の軒に近く紅梅が綻びていたことを思うと、或る春の日のことであったのは間違いないが、彼が西の対屋の簀子のところで、二三人の女童を相手に遊んでいると、大人の男がニコ〳〵しながら傍へ寄って来て、 「もし、………もうお母さまにお会いになったんですか」 と、そう云って彼の肩へ手を置いたので、滋幹は、 「まだ、………」 と云おうとしたけれども、そんなことを云ってよいかどうか分らないので、黙ってその大人の顔を見上げた。彼はその大人が平中であったことを後に至って知ったのであるが、でもその時も全然見覚えのない人ではなく、前からたび〳〵見かけたことのある顔であった。 「まだなんですね」 と、男は滋幹が不安そうにもじ〳〵している様子を見て、大凡そ察したらしく云った。それから、あたりに気をかねながら、中腰をかゞめて、耳の端へ口を寄せて、 「和子は賢いお子ですね、ほんとうに賢い〳〵」 と、そう云ってから、 「お母さまにお会いになるのでしたら、憚りながら、私がお願いしたいことがあるんですよ。………ねえ、和子、聴いて下さいますでしょうね」 「どんなこと?」 と、滋幹が云うと、 「あの、ちょっと、………」 と、背中の方へ手を廻して、女童たちのいる所から二三間離れた方へ連れて行って、 「お母さまに歌を差上げたいんですが、届けて下さいますか知ら」 滋幹は、自分が母に会うことは内證なのであるから、決して人にしゃべってはいけないと、讃岐や乳人に云いつけられていたので、返事に窮してためらっていると、男はしきりに、そう云う心配には及ばないこと、自分は和子の母上をよく知っているので、和子が取次をしてくれたら母上もきっと喜ばれるであろうことを、さま〴〵に言葉をかえて繰り返して云い、和子はそう云っても聞き分けのよい賢いお子であると、二た言目にはそれを云い添えた。最初は幼い子供を不安がらすまいと、努めて愛想笑いを浮かべて、あやすように云っていたのであるが、しゃべっているうちにいつか真剣さの溢れた表情になり、どうにかして納得させようと一生懸命になっているのが、滋幹にも分った。普通そう云う時の大人の顔は、子供には恐いものなので、滋幹もいくらか脅やかされて薄気味悪く感じたのであったが、その半面に、さも思い詰めた、子供にも同情心を起させないでは措かないような哀願的な態度が見えた。 男は子供が頷いたので、又「賢い〳〵」を云いながら、注意深くあたりを見廻して、 「ちょっと、ちょっと、………」 と、滋幹の手を曳いて、とある一と間の屏風の蔭へ引っ張って行った。と、そこの机に置いてあった筆を取って硯にひたすと、 「じっとしていて下さいよ」 と云いながら、滋幹の右の袂を肩の方までまくり上げて、二の腕から手頸の方へかけて、考え〳〵歌の文句を二行に書いた。 書いてしまっても、墨の乾くのを待つ間手を握ったまゝ放さずにいるので、まだ何かされるのではないかと云う気がしたが、墨が乾くと、まくり上げた袂をていねいにおろして、 「さあ、これをお母さまにお見せして下さい、誰も外の人のいないところで。………ようございますね、お分りになりましたね」 滋幹は点頭したゞけであったが、 「お母さまにだけお見せになるんですよ、ほかの人には何卒お見せにならないで」 と、男は重ねて念を押した。 それから多分滋幹は、いつものように渡殿で讃岐が合図してくれるのを待ってから、母に会いに行ったのであろう。そこのところは記憶がうすれているのであるが、几帳のかげに這入って行って、膝の上に抱かれた時、 「お母さま」 と云って、袂をまくって見せたのであった。母は一と眼で直ぐに事情を悟ったらしかったが、部屋が暗いので、几帳を押し除けて、外の明りを入れた。そして我が子を膝からおろして、明るい方へ腕を向けさせて、何度も〳〵繰り返して読んだ。滋幹は、誰がこれを書いたかとも、誰に頼まれたのかとも、母が一切そう云うことを尋ねないで、何も彼も分っているらしいのが不思議であったが、ふと、眼の前をきらりと落ちたものがあるので、訝しみながら振り仰ぐと、母が涙を一杯ためてあらぬ方角を視詰めていた。母の容貌を心から美しいと思ったのは、その一瞬のことであったが、それはちょうどその時に、春の日ざしの照り返しが、まともに母の顔の上にたゞよっていて、いつも奥深い暗いところでばかり見ていた輪郭が、くっきり浮き出していたせいであった。母は子供に気付かれたと思うと、慌てゝ顔を子供の顔にぴったりと擦りつけたので、却って何も見えなくなってしまったが、その代り睫毛にたまっていた涙の玉が子供の頬に冷めたく触れた。滋幹は、後にも先にも母の顔をまざ〳〵と見たのはその一瞬間だけであったが、而もその時の目鼻立の印象と、その美しさの感銘とが、長く脳裡に焼きつけられて、生涯消えずにいたのであった。 母がそうして顔を押しつけていたのは、どのくらいの時間であったか、その間母は泣いていたのか、考えごとをしていたのか、等々のことも滋幹には思い出せないのであるが、やがて母は女房に半挿を持って来させて、滋幹の腕にある文字を拭った。女房が拭い取ろうとするのを制して、母が自分で拭ったのであったが、拭い取る時にいかにも惜しそうに、一字々々、頭へ刻みつけるように視すえつゝ消した。それから母は、さっき平中がしたように我が子の袂をまくり上げて、左の手で彼の手を握り、前の文字を消したあとへ、前と同じくらいの長さに文字を走らした。 初めに滋幹が腕をまくって見せた時は、母のほかには誰もいなかったのであるが、知らぬ間にそこへ女房が二三人来ていたので、滋幹は平中に云われたことが気にかゝったが、でもその人たちは母に信頼されていて、総べてのことを知らされていたらしいのであった。彼は母が自分の腕に字を書いたことはよく覚えているけれども、母にどんなことを云われたかは覚えがなく、事に依ると、母は黙ってそれらのことをしていたようにも思えるのであった。 母が文字を書いてしまうと、 「若様」 と、いつからか傍に来ていた讃岐が云った。 「あのお方にお母さまの此のお歌を見せてお上げなさいませ。いゝえ、まだきっとその辺においでになります。さっきの所へ早くいらしって御覧遊ばせ」 彼がそう云われて、西の対屋へ戻って来ると、果してあの男が簀子のところに待ち構えていて、 「おゝ、何か御返事があったでしょうか。───おゝおゝ、賢い〳〵」 と、跳び着くように寄って来て、わく〳〵した口調で云った。 滋幹は後に、その時の自分が母と平中との間に恋の取次をしたのであること、自分は平中に利用されたのであったこと、等を知ったのであるが、少くとも当時、母の側近に仕えていた女房たちと讃岐だけは、そのことを知っていたのであろうし、ひょっとしたら、讃岐こそ平中の同情者であって、母との間の連絡に滋幹を利用することを平中に教えたのも、彼女であったかも知れない。なぜなら、それもはっきりとは覚えていないのだけれども、滋幹が又あの屏風のある部屋へ連れ込まれて、母の筆の跡を平中に示した時、たしかその場に讃岐が居合わせたのみならず、これを消すのは勿体のうございますねと云いながら、文字をきれいに拭いてくれたのも、どうやら彼女であったような気がするのである。 腕へ文字を書かれたのはその時一遍だけであったか、それからも一二遍そんなことがあったか、そこのところはおぼろげであるが、その後も西の対へ行くと、平中がうろ〳〵していて、彼を呼びとめて文を托したことはあった。滋幹がそれを持って行くと、母は返事を書いたこともあり、書かなかったこともあったが、だん〳〵最初の時のような感動を示さないようになり、厭わしいと云う顔つきをすることもあったので、しまいには彼は平中に使を頼まれるのを迷惑に感じた。そして平中も、いつか姿を見せなくなったのであるが、間もなく滋幹も母に会うことが出来ないようになった。それは乳人が母の館へ連れて行くことを控えるようになったからで、母に会いたいと滋幹が云うと、お母さまはもう直き赤ちゃんがお生れになるので、今は引き籠っていらっしゃるのです、と云ったりした。その頃母はほんとうに妊娠したのであったらしいが、滋幹の出入りすることが禁ぜられたのは、外にも故障が起ったらしいのであった。 こんな風にして滋幹は、それきり母の姿を見ることがなかった。彼に取って「母」と云うものは、五つの時にちらりとみかけた涙を湛えた顔の記憶と、あのかぐわしい薫物の匂の感覚とに過ぎなかった。而もその記憶と感覚とは、四十年の間彼の頭の中で大切に育まれつゝ、次第に理想的なものに美化され、浄化されて、実物とは遥かに違ったものになって行ったのであった。 滋幹の父に関する思い出は、母のそれに比べると晩く、いつから記憶が始まっているか確かでない。が、多分その時期は彼が母に会えなくなった頃からであろう。それと云うのが、そうなる迄は父に接触する折がめったになく、それから後に父の存在が急にはっきりして来たからであった。彼のおぼえている父は、徹頭徹尾、恋しい人に捨てられた、世にも気の毒な老人と云う印象に盡きるのであるが、そう云えば一体、我が子の腕にある平中の歌に一掬の涙を惜しまなかった母は、父と云うものをどう思っていたのであろうか、滋幹はついぞ母からそれを聞かされたことはなかった。彼は几帳のかげで母の膝に抱かれた時、自分の方からも父のことを云い出したことはなかったが、母も、お父さまはどうしていらっしゃる、と云うようなことを、嘗て一度も問うたことはなかった。それに、あの讃岐にしても、外の女房たちにしても、平中には妙に同情していたらしいのに、国経のことは誰もあまり口にした者はなかったが、その中で乳人の衛門だけが例外であった。 その九 乳人は滋幹に、若様がお母さまをお慕いになるのは御尤もですが、ほんとうにおいとおしいのはお父さまでございますよ、と云い、お父さまは淋しがっておいでゞすから、大切にして、慰めてお上げにならなければいけませんよなどゝも云った。彼女は別段母を悪くは云わなかったが、平中とのことを知っていて、彼と母との媒介をする讃岐に対しては反感を持っていたようであった。そして、滋幹までがその媒介に利用されていることに気がついてからは、いよ〳〵讃岐を憎み出したようであったが、滋幹が母の館へ行けないようになったのは、或はそんな関係から乳人が左様に取計らったのでもあろうか。若様がお母さまに会いにいらっしゃるのは致し方がございませんが、人に頼まれてお取次などをなさってはいけませんよ、と、滋幹は乳人にそう云われて、恐い眼で睨まれたこともあった。 母が亡くなってからの父は、出仕を怠っている日が多く、晝間から一と間に閉じ籠って病人のようにしていることがしば〳〵であったし、餘所目にもひどく憔悴して、鬱々としているように見えたので、そう云う父が子供にはひとしお薄気味悪く、近づきにくい感じがして、なか〳〵慰めに行くどころではなかったのであるが、お父さまはお優しい人なのですよ、若様が行ってお上げになればどんなにお喜びになりますことか、と、乳人は云って、或る日滋幹の手を執って、父の部屋の前まで引っ張って行き、さあ、と、障子を開けて無理に中へ押し込んだことがあった。もとから痩せていた父は、一層痩せて眼が落ち窪み、銀色の鬚をぼう〳〵と生やして、今まで臥ていたのが起きたところらしく、狼のような恰好をして枕もとにすわっていたが、その眼でジロリと見られた途端に、滋幹は体がすくんで、口もとに出かゝっていたお父さま、と云う声が、咽喉の奥に痞えた。 親子はしばらく、互に眼で探りを入れながら見合っていたが、でもそのうちに、滋幹の心を壓していた恐怖感が次第に和らいで、或る云い知れぬ甘いなつかしい感覚に代った。それが何に原因するのか滋幹にも最初は分らなかったが、間もなく彼は、あの、母が常に薫きしめていた薫物の香が、此の部屋の中に満ち〳〵ていることに気づいた。そして、よく見ると、父がすわっているあたりに、むかし母が身に着けていた袿や、単衣や、小袖や、さま〴〵な衣裳が取りちらかしてあるのであった。と、突然父が、 「和子はこれを覚えているかね」 と云いながら、鉄の棒のようにコチ〳〵した腕を伸ばして、花やかな一枚の衣の衿をつまんだ。 滋幹が傍へ寄ると、父はその衣を両手で捧げるようにして滋幹の前へ突き出したが、次にはそれに自分の顔を押しあてゝ長い間身動きもせずにいた。それから漸く顔を上げると、 「和子もお母さんに会いたいだろうね」 と、しんみりした、同感を求めるような口調で云った。滋幹は父の容貌を、それほど仔細に見たことはなかったのであるが、眼のふちには眼やにが溜り、前歯があらかた脱け落ちていて、そのうえ声が皺嗄れているので、何を云うのか、ちょっとは聞き取りにくかった。それに、父はそんな風に云うのだけれども、その顔は笑ってもいなければ泣いてもいなかった。たゞもう一途な、執心の強い生真面目な表情で、じっと此方の眼の中を視すえているので、滋幹は又気味悪くなって来て、 「うん」 と、頷いたきり立っていた。すると父はだん〳〵深く眉根を寄せて、 「もうよい、彼方へおいで」 と、不機嫌そうに云い切った。 そんなことがあってから、又滋幹は当分父の傍へ寄り着いたことはなかった。お父さまは今日もお内にいらっしゃいますよ、と云われると、却って父の部屋の方へは行かないようにしたくらいであったが、父は一日閉じ籠って、殆ど姿を見せないのであった。たま〳〵部屋の前を通り過ぎる時、耳をすまして中の様子を窺っても、生きているのか死んでいるのか、コトリとの音も聞えなかったが、恐らく此の間のように、母の衣裳の数々を取り出して、そのなまめかしいかおりの中に埋まっているのであろうと、滋幹は推した。 そのゝち、その同じ年であったか、明くる年であったか、晴れた秋の日の爽やかな午過ぎに、父が珍しくも前栽に出て、萩がたわゝに咲いている遣り水のほとりに、ぼんやりと石に腰かけていたことがあった。滋幹はその時ほんとうに久振に父を見かけたのであったが、そうして石に憩うている父の恰好には、長い道中を歩いて来て、くたびれ切って道ばたに休んでいる旅人のようなところがあった。衣服などもひどく垢づいて、よれ〳〵になっていて、袂や裾が綻びたりちぎれたりしていたのは、もうその時分、身の周りの世話をする女房などがいなくなっていたのか、いてもそう云う女たちに手を触れさせることを厭ったのであろう。滋幹は、少しく傾きかけた日があか〳〵と父の半身を照らして、痩せ衰えた頬がつやゝかにかゞやいているのを見ながら、それでも敢て近寄ろうとはせず、五六歩離れて彳んでいると、父が小声で何かぶつ〳〵呟いているのが聞えた。 その、呟いているものが、普通の言葉ではなくて、何かの文句に節をつけて、口のうちで暗誦しているのであるらしいことは察しられたが、滋幹が傍で聞いているのには全く気が付かないかのように、何となく水の面へ眼を落して、同じ文句を二三遍も繰り返していたかと思うと、 「和子」 と云って、やっと少年の方を向いた。 「わしは和子に此の詩を教えて上げる。此れは唐土の白楽天と云う人の作ったもので、子供にはむずかし過ぎて意味が分らないであろうが、そんなことはどうでもよい。わしが云う通りに覚えさえしたらよいのだ。今に和子が大人になったら、自然に分る時が来る」 滋幹は、 「さ、こゝへおかけ」 と云われて、父と並んでその石の端へ腰をかけた。父は最初、子供に覚え易いように、一句ずつ句切ってゆっくりと云い、滋幹が一句を唱え終るのを待って次に進むようにしたが、そうしているうちにだん〳〵教えていると云う心持を忘れ、己れの感情の赴くまゝに声を張り上げ、抑揚をつけて朗吟し出した。─── 失うて庭の前の雪となり 飛んで海の上の風に因る 九霄応に侶を得たるなるべし 三夜籠に帰らず 声は碧の雲の外に断え 影は明けき月の中に沈む 郡斎これより後は 誰か白頭の翁に伴はん 滋幹は他日成長してから、此の詩が白氏文集にある「鶴を失ふ」と云う題の五言律詩であることを発見したので、当時は何のことか解し得なかったのであるが、しかし此の文句はそれから後も、父がたび〳〵酒に酔っては口号んでいたことがあるので、耳に胼胝が出来るほど聞かされたものであった。今になって考えれば、父は逃げ去った母を鶴になぞらえ、悶々の情を此の詩に托していた訳であるが、父がこれを吟ずる時の悲痛な声の調子を聞けば、子供心にも父の胸にある断腸の思いが自分に伝わりて来るのを感じた。前にも云うように、父の声は皺嗄れていて高い音が出せなかったし、息切れがするので声を長く引くことも出来なかったので、その吟じ方は技巧的には拙劣であったが、「九霄応に侶を得たるなるべし」と云う句、「声は碧の雲の外に断え、影は明けき月の中に沈む」と云う句、「誰か白頭の翁に伴はん」と云う句などを誦する時は、技巧を超絶した凄愴な実感が籠って、そゞろに人を動かさないでは措かないものがあった。 父は滋幹がその詩を暗誦し得るようになったのを見て、 「それが覚えられたら、もっと長いのを教えて上げよう」 と云って、もう一つ、ほんとうに前のよりはずっと長いのを授けてくれたが、それは「我念ふ所の人あり」と云う「夜雨」の詩であった。─── 我念ふ所の人あり 隔たりて遠き〳〵郷にあり 我感ずる所の事あり 結ぼれて深き〳〵膓にあり 郷は遠くして去くことを得ざれども 日として瞻ぎ望まざることなし 膓は深くして解くことを得ざれども 夕として思ひ量らざることなし 況んや此の残燈の夜に 独り宿りて空堂にあるをや 秋の天殊に未だ暁けず 風と雨と正に蒼々 頭陀の法を学ばざれば 前よりの心安んぞ忘る可けん 此の終りの句の、「頭陀の法を学ばざれば、前よりの心安んぞ忘る可けん」と云う言葉を、父はやゝもすれば独語のように詠じていたが、それから間もなく佛道に心を傾けるようになったのは、恐らく此の句などに影響されたせいであろう。なお滋幹は、何と云う題の詩か不明であるが、「夜深うして方に独り臥したり、誰が為めにか塵の牀を払はん」「形羸れて朝餐の減ずるを覚ゆ、睡り少うして偏へに夜漏の長きを知る」「二毛暁に落ちて頭を梳ること懶し、両眼春昏くして薬を点ずること頻りなり」「須く酒を傾けて膓に入るべし、酔うて倒るゝも亦何ぞ妨げん」等々、いろ〳〵とそれに似たような句があったことを、きれ〴〵に覚えているのである。父はそれらの句を、悄然として庭の片隅に彳みながらこっそり吟誦していることもあり、人を遠ざけて独りで酒杯を挙げながら、感極まった声を放って泣いて謡っていることもあったが、そんな折には父の両頬に涙が縷々と糸を引いていた。 その時分、讃岐はいつからか館にいないようになっていたのであるが、思うに彼女は母が逃げ去ると間もなく、自分も父を見限って母の方へ身を寄せたのではあるまいか。滋幹の記憶する限りでは、乳人の衛門が滋幹のことも父のことも、何くれとなく面倒を見てくれていた。どうかすると彼女は、頑是ない滋幹をたしなめるのと同じ口調で父をたしなめたりしたが、彼女が最もやかましく云ったのは父の飲酒のことであった。 「お年を召して、外には何もお楽しみがおありにならないのでございますから、少しはお宜しゅうございますけれども、………」 乳人がそんな風に云うと、父はしお〳〵と、子供が母に叱られたようにうなだれて、 「心配をかけて済まないな」 と云いながら、大人しく聴いているのであった。全く、老年に及んでいとしい人に背かれた父が、前から好きであった酒を一層嗜むようになり、それを唯一の伴侶とするに至ったのは是非もないことだけれども、その酔い方がだん〳〵狂暴に、常軌を逸するようになって行ったので、乳人が案じるのも無理はなかった。父は乳人に諫められると、その時は素直に詫びるのであるが、その日のうちに直ぐもう正体もなく酔いしれると云う有様で、詩を吟じたり、泣き喚いたりするくらいはまだしも、夜中にふら〳〵と何処かへ出て行って、二三日も帰って来ないことがしば〳〵だったので、 「何処へおいでになったのでしょう」 と、乳人や女房たちが額を鳩めて相談しながら溜息をついたり、それとなく人を出して捜索させたりしていることも珍しくなかった。滋幹もそんな時には、子供は子供なりに胸を痛めたものであったが、二三日すると、夕方にひとりでひょっこり帰って来たこともあり、誰も気が付かぬうちに、部屋に戻って臥ていたこともあり、人に見付けられて連れて来られたこともあった。一度などは、都を離れた遠い野末に行き倒れていたのを捜し出されたとやらで、戻った時の姿を見ると、髪は乱れ、衣は破れ、手足は泥にまみれて、乞食坊主のようになっていた。乳人は呆れて、 「まあ」 と云ったきり、涙をぽろ〳〵零しているばかりであったが、父も極まり悪そうに下を向いて何も云わず、こそ〳〵と部屋へ逃げ込んで、夜着に顔を埋めてしまった。 「あんな風にしていらっしゃったら、しまいにはほんとうに気狂いにおなり遊ばすか、体をお損じ遊ばすか、………」 と、乳人は蔭で云い暮らしていたが、そう云う父が、それほど溺愛していた酒を、或る時からふっつり止めてしまったのであった。 滋幹は、父がどう云う動機から酒を断つに至ったのか、その間の事情を詳かにしないのであるが、彼がそれに気が付いたのは、 「お父さまは近頃殊勝におなりなされて、一日しずかにお経を読んでいらっしゃいます」 と、乳人が彼に語ったことがあるからであった。思うに父は、母恋しさに堪えかねて、酒の力で紛らそうとしたのであったが、酒では到底紛らしきれないことを感じて、佛の慈悲に縋ろうとしたのであろうか。つまり、「頭陀の法を学ばざれば、前よりの心安んぞ忘るべけん」と云う白詩の示唆に従った訳なので、それは父の死ぬ一年ほど前、滋幹が七つぐらいの時のことであった。その時分になると、父はもう狂暴性がないようになり、終日佛間にいて、冥想に耽るとか、看経するとか、何処かの貴い大徳を招いて佛法の講義を聴聞するとか、云うような日が多くなったので、乳人や女房たちは愁眉を開いて、どうやら殿も落ちついておいでになった、あの御様子なら安心ですと云って喜んでいたのであったが、しかし滋幹には、そうなってからでも矢張何となく近づきにくい、薄気味の悪い父であることに変りはなかった。 乳人はよく、佛間が餘りひっそりしていることがあると、 「若様、お父さまの所へいらしって、何をなすっていらっしゃいますか、そうっと覗いて御覧遊ばせ」 と、そう云ったので、滋幹が恐る〳〵佛間の前へ行って、閾際に跪いて、音を立てぬように障子に手をかけて、一寸ばかりする〳〵と開けて見ると、正面に普賢菩薩の絵像を懸け、父はそれに向い合って寂然と端坐していた。滋幹の方には後姿しか見えないのだけれども、暫くじっと窺っていても、父は経を読むのでも、書を繙くのでも、香を薫くのでもなく、たゞ黙然と坐っているだけなので、 「お父さまはあゝして何をしていらっしゃるの?」 と、或る時乳人に尋ねると、 「あれは、不浄観と云うことをなすっていらっしゃるのです」 と、乳人が云った。 その不浄観と云うのは大変むずかしい理窟のあることなので、乳人にも委しい説明は出来ないのであったが、要するに、それをすると、人間のいろ〳〵な官能的快楽が、一時の迷いに過ぎないことを悟るようになる、そして、今まで恋しい〳〵と思っていた人も恋しくなくなり、見て美しいとか、食べておいしいとか、嗅いで芳しいとか感じた物が、実は美しくも、おいしくも、芳しくもない、汚わしい物であることが分って来る。お父さまは何とかしてお母さまのことをお諦めになろうとして、その修行をなすっていらっしゃるのですよ、と云うのであった。 そう云えば滋幹は、父について生涯忘れることの出来ない或る恐ろしい思い出を持っているのであるが、それはちょうどその前後のことであった。その頃父は幾日間も、晝夜の別なく静坐と沈思をつゞけていて、いつ食事をし、いつ眠るのであろうかと、滋幹は不審に堪えかね、夜中乳人に気付かれぬように寝間を忍び出て、佛間のところへ行って見ると、障子の中にはかすかに燈火がともってい、父は晝間と同じ姿勢で坐っていた。例の如く隙間から覗いていた滋幹は、いつ迄たっても父の姿が彫像のように動かないので、再びそうっと障子を締めて、部屋へ戻って寝てしまったが、その明くる晩も気になって覗きに行くと、依然として父は昨夜の通りにしていた。が、たしか三日目の夜中のこと、又しても好奇心に駆られて、足音をさせないように爪先立てゝ歩いて行って、障子をいつも程に細目に開け、じーっと息を凝らしていると、燈台の灯先が風のないのにゆら〳〵としたと思った途端に、父が俄かに両肩を揺がして、身じろぎをした。父の動作は甚しく緩慢なので、どう云う目的で動き出したのか最初は察しが付かなかったが、やがて、片手を床につき、非常に重い物を引き扛げるような息づかいをして、自分の身をそろ〳〵と真っすぐ起して、立ち上るのであった。老年の結果、それでなくても立ち居がのろくなっているのに、長い間端坐の形を崩さずにいたので、そう云う風にしなければ急には立てなかったのであろうが、さて立ち上ると、よろけるように歩きながら部屋の外へ出るのであった。 滋幹が訝しみながら跡をつけると、父は脇目もふらずに前方を視つめ、階を下りて、金剛草履を穿いて、地上に立った。月が皎々と冴えていたのと、そこらに虫の音が聞えていたのとで、季節が秋であったことは確かであるが、つゞいて庭に下りた滋幹は、自分もあり合う大人の草履を突っかけたけれども、足のうらが冷え〳〵として、水の中を渉っているような感じがし、月の光で地面が霜を置いたように真っ白だったので、冬ではなかったかと云う気もするのである。父が歩くにつれて、地上にくっきり映っている父の影が揺れて行ったが、滋幹はそれを蹈まないように可なり離れて附いて行った。父がうしろを振り返ったら見付けられたかも知れなかったが、父の様子は、歩きつゝなお冥想に沈んでいるような工合で、いつの間にか館の門を出て、何かはっきり目指すところがあるらしく、すうっと歩いて行くのであった。 八十歳の老翁と七八歳の幼童の足であるから、そう遠くまで行ったのではないであろうが、それでも相当の道のりを来たように滋幹は感じた。彼は父からはずっとおくれて見え隠れに跡をつけたが、深夜の路上には親子の外に全く人影が絶えていたし、父の姿が遥かに白く月光を反射していたので、見失う恐れはなかった。路は、初めはいかめしい築地の邸がつゞいていたのが、だん〳〵みすぼらしい網代の塀や、屋根に石ころを置いた佗びしい低い板葺の家などになったが、それも次第に疎らに、ところ〴〵に水たまりだの空地だのが多くなり、芒やその他の秋草が丈高く伸びていたりした。そしてそれらの叢にすだく虫の音が、二人が近づくとふっと止み、遠のくと又鳴き出しながら、町はずれへ行けば行くほど雨のようにしげく喧しくなって行った。そのうちに、家が一軒もなくなって、見渡す限りぼう〳〵と草の生えた中に、細い野道がひとすじうねっている所へ出た。一本道であるけれども彼方へ曲り此方へ曲りしている上に、草が人間の背よりも高く、父の姿がとき〴〵それに没してしまうので、今度は滋幹は一二間の距離まで近寄って行ったが、両側から路の方へ蔽いかぶさっている草を掻き分けながら行くので、袂も裾もしたゝか露に濡れて、つめたい雫が襟もとまで沁み入るのであった。 父は、小川に橋のかゝった所へ来ると、それを渡って、なお真っ直ぐにつゞいている路の方へは行かないで、川のふちへ降りて、少しばかり河原のようになっている砂地を、川下の方へ歩き出した。と、橋から一丁ばかり下のちょっと小高く盛り上った平地に、土饅頭が三つ四つ築いてあって、それらはいずれも土が柔かで新しく、頂上に立てゝある卒塔婆も真っ白な色をしており、折柄の月に文字まではっきり分るのであった。卒塔婆を立てないで、代りに小さな松杉などを植えたのもあり、土饅頭でなく、柵で囲って、石を積み上げて、五輪の塔を据えたのもあり、簡単なのは、屍体を一枚の莚で蔽うて、しるしの花を供えたゞけのものもあったが、中には又、此の間の野分で卒塔婆が倒れ、土饅頭の土が洗われて、屍体の一部が下から露出しているのもあった。 何かを捜し求めるように土饅頭の間をうろ〳〵している父の跡から、滋幹は殆ど踵を接するくらいに附いて行ったが、父は附けられていることを意識しているのかいないのか、さっきから一度も振り返ったことがなかった。屍骸の肉を貪っていたらしい犬が一匹、不意に叢の間から跳び出して慌てゝ何処かへ逃げ去ったが、父はそんなものにも眼もくれなかった。彼が何かしら異常に緊張し、それに精神を打ち込んでいるらしい様子は、後姿からでも判断が出来た。そして、程なく滋幹は、父の足が止まったので、自分もピタリと歩みをとゞめた瞬間に、体じゅうが総毛立つものを眼前に見た。 月の光と云うものは雪が積ったと同じに、いろ〳〵のものを燐のような色で一様に塗り潰してしまうので、滋幹も最初の一刹那は、そこの地上に横わっている妙な形をしたものゝ正体が掴めなかったのであるが、瞳を凝らしているうちに、それが若い女の屍骸の腐りたゞれたものであることが頷けて来た。若い女のものであることは、部分的に面影を残している四肢の肉づきや肌の色合で分ったが、長い髪の毛は皮膚ぐるみ鬘のように頭蓋から脱落し、顔は押し潰されたとも膨れ上ったとも見える一塊の肉のかたまりになり、腹部からは内臓が流れ出して、一面に蛆がうごめいていた。晝を欺く光の下でそう云うものを見た凄じさは、凡そ想像に難くないが、滋幹は恐さに顔を背けることも、身動きすることも、まして声を発することも出来ず、その光景に縛りつけられたようになって立っていた。が、父はと見ると、しずかにその屍骸に近寄って、まず恭しく礼拝してから、傍に置いてある莚の上にすわるのであった。そして、さっき佛間でしていたように凝然と端坐して、とき〴〵屍骸の方を見ては又半眼に眼を閉じて沈思し出したのであった。 その時月はひとしお研ぎすまされたように冴え、四辺の寂寞は前より一層深まっていた。風がおり〳〵かすかに渡って、すゝきがざわ〳〵する外には、虫の音が際立ってひゞくばかりであった。そう云う中でひとり影の如く孤坐している父を見ることは、何か奇怪な夢の世界に引き入れられた感じであったが、でもあたりには鼻を衝く屍臭が瀰漫していたので、そのために滋幹は否応なしに現実の世界へ呼び戻された。 此の、滋幹の父が女の屍骸を見た場所と云うのは、何処のことか明かでないが、蓋しその頃の京都の街には、こう云う風な屍骸の捨て場が方々にあったのであろう。当時は痘瘡とか麻疹とか云う疫癘が流行って死人が多く出たりすると、一つには伝染を恐れるのと、一つには処置に困るのとで、何処と云うことなく、空地があれば病人の屍骸を運んで行って、しるしばかりに土をかけたり、莚で蔽うたりして葬ったものらしいので、これもそう云う場所であったかと察しられる。 その十 父がその屍体と相対して冥想に耽っていた間、滋幹はとある塚のうしろに蹲踞って息を詰めていたのであったが、中天にあった月がやゝ西に傾き、彼が身を隠していた一と束の卒塔婆の影が地上に長く横わるようになった頃に、父は漸く立ち上って帰路に着いた。滋幹は又、来た時と同じ路を、跡を追って行ったのであるが、彼が思いがけなく父から声をかけられたのは、さっきの小川の橋を渡って、すゝき原へさしかゝった時であった。 「和子、………和子は今夜、わしが彼処で何をしていたと思う?」 父はひとすじ路の中途で、今歩いて来た方へ向き直って立ち止まり、滋幹が後から来るのを待ち構えていたのであった。 「わしは和子が跡を附けていたのを知っていたのだよ。わしは少し考があって、わざと和子のするようにさせていたのだ。………」 そう云っても滋幹が黙っているので、父は一段と声を和げ、優しみのある調子でつゞけた。 「ねえ、和子、わしは和子を叱る訳ではないのだから、正直に云って御覧。和子は今夜のわしのした事を初めから見ていたのだろうね」 滋幹は、 「うん」 と頷いて見せてから、 「お父さまのなさることが心配だったものですから、………」 と、言訳のつもりで附け加えた。 「和子はわしが気が狂ったとでも思ったのだね」 父は可笑しがるような口元をして、はっ、はっ、と力なく笑ったようではあったが、その声はあまり微かなので聞き取れなかった。 「和子ばかりではない、皆がそう云う風に思っているようだね。………しかしわしは気狂いではないのだよ。わしのしていることには訳があるのだ。和子が安心するように、その訳を聞かして上げてもよいのだが、………どうだな、聞いてくれるかな。………」 そう云って、父はそれから館へ帰る途々、滋幹と並んで歩きながら次のようなことを語って聞かしたのであった。当時の滋幹には勿論それの大要だけでも会得出来よう筈はなかったので、彼が日記に書き留めているのは、父の語った言葉そのまゝではなくて、後年、大人になってからの彼の解釈が加わっているものなのであって、それは要するに、佛家が云うところの不浄観のことであるが、筆者も佛教の教理には暗いので、誤りを冒すことなく伝え得るかどうか覚束ない。筆者は此のことで、日頃眷顧を蒙っている天台宗の某碩学などにも尋ね、参考書なども貸して戴いたのであるが、調べ出すといよ〳〵深奥で分りにくゝなるばかりである。尤もこゝではそんなに深く説き及ぶ迄もないのであるから、たゞ順序として、物語の進行に必要な面にだけ触れて置こう。 不浄観のことが分り易い仮名交り文で書いてある書物は、他にもあるかも知れないが、筆者が知っているのでは、世に慈鎮和尚の著とも云い、又勝月房慶政上人の著とも云う「閑居の友」がある。此の書は往生伝や発心集に洩れている往生発心者の伝記、名僧智識の逸話等を集録したもので、その巻の上の、「あやしの僧の宮づかひのひまに不浄観をこらす事」、「あやしのをとこ野はらにてかばねを見て心をおこす事」、「からはしかはらの女のかばねの事」、その巻の下の、「宮ばらの女房の不浄のすがたを見する事」等を読めば、不浄観と云うのがどう云うことか大凡その見当はつくのである。 今、同書に拠って一例を挙げると、こゝにこんな話がある。─── 昔、比叡山の或る上人のもとに召使われている中間僧があった。僧とは云うが寺男のような者で、上人に仕えていろ〳〵な雑用を勤めるのであったが、平素主人を大切にして、云いつけたことは一事をも違えず、まことに忠実な性質だったので、上人も少からず信頼していた。かくて月日を送るうちに、此の男が毎日夕刻になると何処かへ行って見えなくなり、明くる朝早く帰って来るようになった。それを知った上人は、多分夜な〳〵坂本へでも通うのであろうと思って、内心その男を甚しく憎んだ。彼が朝帰って来る時の様子を見ると、何となく打ち沈んでいて、人と顔を合わすのを厭う風があり、いつも涙ぐんでいるので、大方通う所の女が心のまゝにならないのであろう、きっとそうに違いないと、上人を始め皆がそれにきめていた。然るに、或る時上人が使を遣ってその男の跡をつけさせると、男は西坂本(江州の坂本ではなく、比叡山の西側の山麓、即ち現在の京都市左京区一乗寺辺)を下って蓮台野へ行くのであった。使は合点が行かないで、何をするかと窺っていると、彼方此方を蹈み分けて行って、云いようもなく腐りたゞれた死人の傍に寄って、或は眼を閉じ、或は眼を開いて祈念を凝らし、たび〳〵それを繰り返しつゝ声も惜しまず泣くのであったが、夜もすがらそう云う風にして、暁の鐘の声が聞える頃に、漸く涙を押し拭うて帰るのであった。使者は自分も感激して涙を流しながら戻って来たので、どうであったと上人が尋ねると、さあ、その事でございます、あの男がいつも打ち沈んでしお〳〵としていましたのも道理でございます、実はこれ〳〵しか〳〵の次第で、夕暮になると見えなくなりますのも、そのためだったのでございます、あゝ云う貴い聖の行いをしていた人を、妄りに疑った罪の程も恐ろしゅう存ぜられまして、と云うので、主の上人も驚いて、その後はその中間僧を敬うて、常人のようには扱わなかった。すると或る朝、食事に粥をこしらえて持って来たので、あたりに人がいないのを見すまして、お前は不浄観を凝らすことがあると云う噂だが、ほんとうかね、と尋ねると、どう致しまして、左様なことは学問のある偉いお方がなさることです、私がそのようなことの出来る人間かどうか、様子でもお分りでございましょう、と云うのであった。 上人が重ねて、いや、お前のことは今では皆が知っている、愚僧もかね〴〵心のうちではお前を貴くも有難くも思っていたのであるから、隠さずに云ってくれるがよい、と云うと、左様ならば申しますが、と云って、実は何事も深くは存じませぬけれども、少しばかり心得ていることがございます、と云う。定めし験があるであろうな、試しに此の粥を観じて見せよ、と云うと、男は折敷を取って粥の上に蓋をして、暫時眼を閉じて観念を凝らしていたが、やがて蓋を開けると、粥が悉く白い虫に化していた。それを見た上人はさめ〴〵と泣いて、必ず我を導き給えと、男に向って掌を合わせた。 ───以上が、「あやしの僧の宮づかひのひまに不浄観をこらす事」の説話であって、「閑居の友」の著者は此のあとに、「いとありがたく侍りける事にこそ」と云って、説明を加えて云うのに、愚かな者でも、塚のほとりに行って乱れ腐った死人のむくろを見れば観念が成就し易いと云うことは、天台大師も次第禅門と云う文に説いておられるくらいであるから、此の中間僧もそれを学んだのであろう。摩訶止観の中には、観のことを説いて、「山河も皆不浄也、くひものきもの又不浄也、飯は白き虫の如し、衣は臭き物の皮の如し」と云ってあるが、かの中間僧の観念のいみじさは、自然と聖教の文に合致しているのである。又天竺の佛教比丘も、器物は髑髏の如し、飯は虫の如し、衣は蛇の皮の如しと説き、唐土の道宣律師も、器はこれ人の骨也、飯はこれ人の肉也と説いておられるのであるが、かような人々の説き給うことなどを知る筈のない無学の僧が、その教を実行していたと云うのは、何とも頼もしい限りである。人はたとい此の中間僧のような境地には至り得ない迄も、そう云う道理が分り出して来たら、五慾の思いがだん〳〵に薄らいで、心の持ち方が改まるであろう。───「此のことわりを知らぬもの、こまやかなる味はひには貪慾の心も深く起り、おろそかなる味はひ落ちぶれたる衣には瞋恚の思ひ浅からず、よしあしは変れども、輪廻の種となることはこれ同じかるべし。(中略)それにつけてもあはれ無益に侍るべきかな、夢のうちのかりそめのこと故に、永き世に眠らんこと、辛くぞ侍るべきなど思ふべきにや」と云っている。 「あやしの男野原にてかばねを見て心をおこす事」と云うのも、大体同じ趣意の教訓を含んだ説話であって、或る男が野原で浅ましい女の屍骸を見て帰ってから、その形相が頭にこびりついて離れず、妻と相抱いて寝ながら、妻の顔をさぐり合わすと、額のありどころ、鼻のありどころ、唇のありどころ等々が、悉くその死人の相にそっくりであるように思われて、結局無常を悟るに至ると云う筋で、「止観のなかに、人の死にて身のみだるゝより、遂にその骨を拾ひて煙となす迄の事を説きて侍るは、見る眼も悲しう侍るぞかし、斯やうの文も暗き男のおのづからその心おこりけん事」は、猶々有難い事であると云っている。 そこで、その修行とはどう云うことをするかと云うのに、かの禅僧が坐禅する時のように独りしずかに座を組んで瞑目沈思し、一事に向って想念を集注するのである。その一事とは、たとえば自分の身は父母の婬楽の結果の産物であって、本来は不浄不潔な液体から生れたものであると云うこと、大智度論の言葉を引用すれば、「身内の欲虫、人の和合する時男虫は白精、涙の如くにして出で、女虫は赤精、吐の如くにして出づ、骨髄の膏流れて此の二虫をして吐涙の如くに出でしむ」るのであって、此の赤白の二渧の〓(「さんずい+(融-虫)」)合したものが自分の肉体であると云うことを考える。次にいよ〳〵生れ出る時は、むさく臭い通路から出るのであること、生れてから後も大小便をたれ流し、鼻の孔から洟汁をたらし、口から臭い息を吐き、腋の下からぬる〳〵した汗を出すこと、体内には糞や尿や膿や血や膏が溜ってい、臓腑の中には汚物が充満し、いろ〳〵の虫が集っていること、死んでからはその屍骸を獣が噉い、鳥が啄み、四肢が分離して流れ出し、腥い悪臭が三里五里の先まで匂って人の鼻を衝き、皮膚は赤黒となって犬の屍骸よりも醜くなること、要するに此の身は生れ出る前から死んだ後までも不浄であると云うことを考える。 摩訶止観と云う書には、これらの思索の順序が述べられていて、人体の不浄なる所以が種子不浄とか五種不浄とか云う風に、細かく分けて説明されているのであるが、同書は又、人が死んでからその屍骸の変化して行く過程を描くのに委曲を盡し、第一の過程を壊相とか、第二の過程を血塗相とか、第三を膿爛相、第四を青瘀相、第五を噉相とか云う風に説いていて、まだこれらの相を諦観しないうちは、妄りに人に恋慕したり、愛着したりするけれども、もしこれらを諦観し終れば、慾心がすべて止んで、たった今まで美しいと感じたものが、とても鼻持ちならないように思えて来る。それは恰も、糞を見ないうちは飯が喰えるけれども、一旦あの臭気を嗅いたら、胸がムカ〳〵して食えなくなるのと同様である、と云っている。 しかし、ひとり静坐してこう云う道理を考えたり変化の過程を想像したりするだけでは、なお十分に体得出来ない場合もあるので、時には人の屍骸の放置してある所へ出かけて行き、止観に書いてあるような現象の起るのを眼のあたりに見たりすることも、矢張一方法とされているのであって、前掲の中間僧はそれを実践していたのである。かの僧が夜なく山を抜け出して蓮台野へ行ったように、一度や二度でなく、何度も繰り返して屍骸の変貌するさまを観察し、壊相や、血塗相や、膿爛相を眼に馴染ませると、しまいには一室のうちにあって端坐瞑目したゞけで、それがまざ〳〵と見えるようになる。いや、それどころでなく、たとい衆人の眼には絶世の美人と映ずる婦人を拉し来っても、行者の眼には一箇の忌まわしい腐肉や血膿のかたまりとして映ずるようにさえなるので、修行の功を試すためには左様な美人を実際に連れて来て眼の前に据えつゝ観念を凝らすことなどもあると云う。で、そう云う功を積んだ行者がひとたび不浄観を行ずると、生きた美人がひとり行者自身の主観に醜悪に映ずるばかりでなく、第三者の眼にまでそう見えるようになる。かの中間僧が、主の上人に粥を観じて見せよと云われて観念を凝らした時、粥が化して白い虫の集団になったと云うのはその意味であって、真に不浄観を成就すればそう云う奇蹟を行うことさえ出来るのである。 さて、少将滋幹の日記に依れば、彼の父翁の老大納言も亦、不浄観を行じようとしたのであって、而も老大納言の場合は、かの失われた鶴、───声を碧雲の外に断ち、影を明月の中に沈めた佳人の艶姿が、いつ迄も眼底を去りやらず、断腸の思いに堪えられないまゝに、その幻に打ち克とうとして一念発起するに至ったことは明かであって、その夜の父は滋幹を相手に、まず不浄観の説明から始めて、自分は何とかして自分に背いた人への恨みと、恋慕の情とを忘れてしまいたい、心の奥に映っているかの人の美貌を払拭して、煩悩を断ち切ってしまいたい、自分の行為は狂的に見えるかも知れないけれども、自分は今、その修行をしているのである、と、そう語ったのであった。 「そんならお父さまは、あゝ云うものを見にいらっしゃるのは今夜が始めてゞはないんですね」 父の長話が一段落へ来た時に滋幹が尋ねると、父はいかにもそうだと云うように頷いて見せた。父はもう数箇月も前から、折々月の明かな夜を選んで、家の者たちの寝静まった時刻をうかゞい、何処と限ったことはなく、野末の墓場などへ忍んで行ってひとしきり観念を凝らしてから、明け方にこっそり戻っていたのであった。 「そうしてお父さまは、もう迷いがお晴れになったんでしょうか」 滋幹がそう云うと、 「いゝや」 と云って、父は立ち止まって、遠い山の端の月の方へ眼をやりながらほっと息をした。 「なか〳〵晴れるどころではない。不浄観を成就すると云うことは、口で云うような容易いものではないんだよ」 それきり父は、滋幹の方から話しかけても相手にならず、何かしら考に囚われている様子で、家に着くまで殆ど一語を発しなかった。 父のあとについて滋幹がそう云う夜歩きの供をしたのは、その一と夜だけであった。父は前から人目を忍んで時々そんなことをしていたと云うのであるから、恐らくその以後に於いても、なお幾度かさまよい出たことがあるに違いなく、たとえばその翌日なども、夜更けて父がしめやかに戸を開けて出るけはいを、滋幹はそれと気づいていたけれども、父も滋幹を連れて行こうとはしなかったし、滋幹も、再び父の跡を附けようとは思わなかった。 それにしても、父があの時まだ頑是ない幼童を捉えてあんな風に自分の心境を語ったのは、どう云うつもりだったのか、滋幹は後になってもいぶかしく思う折があったが、彼は実に生涯にたゞ一度、父と二人きりでそんなにも長い時間を話し合った訳であった。尤も「話し合う」と云っても大部分は父がしゃべり、滋幹は聞かされていたのであって、父の言葉の調子は、最初は何となく重々しく、少年の心を壓するような沈鬱味を帯びていたけれども、語り進むに従って、訴えてゞもいるような云い方になり、しまいには滋幹の思いなしか、泣きごえを出しているようにも聞えた。そして滋幹は子供心に、相手が幼童であることをも忘れて取り乱しているような父が、とても観念を成就することなどは出来ないであろう、恐らくいくら修行をしても徒労に終るのではあるまいか、と云うような危惧を抱いたのであった。彼は、恋しい人の面影を追うて日夜懊悩している父が、苦しさの餘り救いを佛の道に求めた経路には同情が出来たし、そう云う父を傷ましいとも気の毒とも思わないではいられなかったが、でも、ありていに云うと、父が折角美しい母の印象をそのまゝ大切に保存しようと努めないで、それをことさら忌まわしい路上の屍骸に擬したりして、腐りたゞれた醜悪なものと思い込もうとするのには、何か、憤りに似た反抗心の湧き上るのを禁じ得なかったのであった。実際、彼はもう少しで、 「お父さま、お願いです、私の大好きなお母さまを汚さないで下さい」 と、話の途中で幾度か叫びたくなったのを、辛うじて怺えたのであった。 そう云うことがあってから十箇月ばかりを経、明くる年の夏の終りに父は此の世を去ったのであるが、最期の折には果して色慾の世界から解脱しきれていたであろうか。嘗てあんなにも恋い焦れていたその人を、一顧の価値もない腐肉の塊であると観じて、清く、貴く、豁然と死んで行ったであろうか。それとも少年の滋幹が豫想したように、結局佛にも救われないで、再びいとしい人の幻に苛まれながら、八十翁の胸の中になお情熱の火を燃やしつゝ息を引き取ったのであろうか。───滋幹は、父の内部の闘争がどう云う結末を告げたかについて確證は挙げ得ないのであるが、しかし父の死に方が決して人の羨むような安らかな往生ではなかったことから推量して、多分あの時の自分の豫想が誤まってはいなかったように思うのであった。 いったい、普通の人情からすれば、逃げ去った妻を諦めきれない夫として、その妻が彼に生んでくれた一人の男の子を、今少し可愛がってもよい筈であり、妻への愛情をその子に移すことに依って、いくらかでも切ない思いを和げようとすべきであるが、滋幹の父はそうでなかった。彼の場合は、彼を捨てゝ行った妻そのものを取り戻すのでなければ、他の何者を、たといその人の血を分けた現在の我が子を持って来ようとも、決してそんなものに胡麻化されたり紛らされたりするのではなかった。それほど父の母を恋うる心は純粋で、生一本であった。滋幹は、父が彼にやさしく話しかけてくれた記憶を一度も持たない訳ではないが、それは必ず母のことが話題になっていた時に限り、そうでない時の父と云うものは、凡そ子に対して冷淡な人でしかなかった。だが又滋幹は、子を顧みる暇のないほど、母のことで頭が一杯になっていた父であると思うと、その冷淡を少しも恨む気になれず、寧ろそうであってくれたことを嬉しくさえ感じるのであるが、何にしても、あの夜のことがあってからの父は、いよ〳〵子に対して冷淡になり、滋幹のことなど全く念頭にないように見えた。云って見れば、いつでもじっと眼の前にある虚空の一点を視詰めたきりの人のようであった。そんな訳なので滋幹は、最後の一年間ばかりの父の精神生活について、父自身からは何も聞き得なかったのであるが、でも、父が一時止めていた酒を再び嗜むようになったこと、依然として佛間に閉じ籠ってはいたけれども、もうその壁には普賢菩薩の像が見えなくなっていたこと、そして経文を読む代りに、いつか又白詩を吟ずるようになっていたこと、等々には心づいていたのであった。 その十一 筆者は、老大納言がどう云う精神状態に於いて死んだかについて、せめてもう少し委しい資料を得たいのであるが、何分にも滋幹の記録にはこれ以上のことを見出だせないので、たゞ、前後の事情から判断を下し、最後には遂に救われなかった人として、───いとしい人の美しい幻影に打ち敗かされ、永劫の迷いを抱きつゝ死んで行ったのであろうと、考えるより外はない。蓋し此のことは、老大納言その人に取っては傷ましい結末であったけれども、滋幹に取っては、父が母の美しさを冒涜せずに死んでくれたことになるので、何物にもまさる喜びであったかと推量される。 かくて、老大納言卒去の翌年に左大臣時平が死に、それから約四十年の間に時平の一族が次々に滅んだことは既に記した通りであるが、天子は醍醐、朱雀を経て村上となり、世の中は藤原氏や菅原氏の栄枯盛衰の外にも、いろ〳〵な有為転変があった。その間滋幹は、何処でどう云う風にして人となり、少将の位にまで昇進したのであるか、日記は母のことを語るに忙しくて、自分のことは閑却されているのであるが、記事の様子から想像すると、父の死の直後何年間かは、乳人の許に引き取られて養育されていたのであろう。かの讃岐と云う老女は、後に北の方の許へ走って本院の女房になったことまでは分っているが、それきり日記に現れて来ない。又滋幹の腹ちがいの兄弟たちや、彼等の母に当る人々のことは、何の交渉もなかったのであろうか、此の日記の全篇を通じて何処にも消息は伝えられていない。しかし滋幹は、自分の胤ちがいの弟に当る中納言敦忠に対しては、餘所ながら深い親愛の情を寄せていた。彼と敦忠とは門地や官位が違う上に、父同士の間に夫人のことでいきさつがあったことが妨げになって、何となく双方に遠慮があり、互に餘り接近することを避けていたらしいのであるが、にも拘らず滋幹は、ひそかに敦忠の人柄に好感を抱き、蔭ながらその人の幸福を祈りつゝ、常にその行動を見守っていたのであった。それと云うのも、畢竟敦忠が母親似であったからで、中納言を見ると、遠い昔に会った母の風貌を想い起してなつかしさに堪えないと、滋幹は幾度か記しているのである。そして、自分の容貌が不幸にして母に似ず、父に似ていることを歎き、母が逃げ去ってからの父が、母を恋しがるばかりで自分を可愛がってくれなかったのは、自分の顔が母親似でなかったからであろう、と云い、敦忠が時平の死後も母と一緒に暮らしているのを羨み、母はあのめでたい男ぶりの敦忠をさぞいつくしんでいるであろうが、自分のような醜い顔をした子息は、たとい一緒に暮らすことが出来たところで可愛がっては貰えないであろう、母は父を嫌ったように、必ず自分をも嫌ったであろう、などゝも云っているのである。 ところで一方、滋幹の激しい思慕の対象であった母なる人、その後の夫人在原氏は、どんな風にして餘生を送っていたことであろうか。───彼女は時平に先立たれた時が二十五六歳だったであろうが、それからは若く美しい未亡人として静かな生涯を生きたのであったか、或は又も第三第四の男を作ったのであったか。嘗て老大納言の妻として、平中と云う情人を持っていた女性であってみれば、少くとも人目を忍んで誰かと甘いさゝやきを交すぐらいなことがあっても不思議はないが、そう云うことも今はすべて知られていない。父よりも母を偏愛した滋幹は、たとい母のことについて悪い風聞があったとしても、そんなことを記す訳はないが、こゝでは暫く彼の日記を信用して、母は左大臣の遺れ形見の敦忠の成長を楽しみに、佗びしくつゝましく後家を通して行ったのであるとしておこう。それにしても、前の夫の老大納言が彼女に焦れつゝ苦しみ悶えて死んだことや、平中が彼女に背かれた悔し紛れに侍従の君を追い廻して、とう〳〵そのために命を落す羽目になったことなどを聞いては、どんな感想を持ったことであろうか。左大臣が権勢を恣にしていた間こそ、彼女も本院の北の方として多くの人の崇敬を集め、羨望の的となっていたであろうが、左大臣の死後は、恐らく昔日の栄華も一朝の夢と化して、萬事に不如意を喞つ身の上となったであろう。彼女に凄じい熱情を注いだ男たちが次々に死に、左大臣の一家一門が菅丞相の祟りに依って一人々々斃れ、最後にいとし子の敦忠までが取られて行ったのを見ては、彼女もそゞろに無常の風が身に沁みたであろう。 だが、滋幹は、そんなに母と云うものに憧れつゞけながら、どうして彼女に近寄ろうとしなかったのであろうか。左大臣の存生中は兎も角も、大臣が卒去してからは、逢うのに格別の支障もないように思えるけれども、敦忠をさえ避けるようにしていたとすれば、まして母を訪うことなどは、彼の地位として差控えなければならなかったのであろうか。それについて滋幹の日記は云う、───自分は十一二歳の頃、幾度か母に逢いたいと云う望みを洩らしたことがあったが、世間のことはそう簡単に行くものではありませぬ、お母さまはもう餘所のお家の人なのですと、そのつど乳人に戒められた。お母さまはもうあなた様のお母さまではなくて、われ〳〵よりは身分の高いお方のお母さまなのですと、乳人はそうも云って聞かした。───と。滋幹は又云う、───やがて自分は成人し、乳人の膝下を離れて一人立ちするようになり、何事も自分で判断して処理する年齢に達したが、そうなってからはいよ〳〵乳人の云った言葉が本当であったことが分って、なか〳〵母に逢う機会などは得られなかった。自分は年が行けば行くほど、母と自分との距離が遠くなるのを感じた。たとい夫の左大臣は亡くなられても、矢張母は自分などの手の届かない雲の上の人、高貴の家の後室として多くの人に册かれつゝ、立派な居館の玉簾の奥に朝夕を過しているものと想像された。そう考えると、まことに乳人の云った通り、もうその人は自分などが「母」と呼ぶべき人ではなかった。悲しいことだが、自分の「母」は既に此の世にいないものと思わなければいけないのであった。───と。蓋し、それでなくても、自分は父の老大納言と共に母に見限られたのであると思っていた滋幹は、母に対して一種の僻みを抱いていたらしいので、そんなことが一層母との間を心理的に遠ざける因となったのでもあろう。 そうこうするうち、天慶六年三月に敦忠が死に、それから程なく母は出家したのであったが、その噂は滋幹の耳にも這入らない筈はなかった。今迄滋幹と母との仲を隔てゝいた障壁の一つは、敦忠と云うものゝ存在であったと察しられるが、今やその人が逝去したとすれば、図らずもこゝに機会は廻って来た訳で、もし滋幹が欲するならば、母に逢う道は容易に見出されたであろう。嘗てその道を阻んでいた浮世の義理や掟などは、今となっては全く除かれていたであろうし、まして尼となった母は、西坂本の敦忠の山荘のほとりに庵を結んで暮らしていたので、そう云う消息も滋幹は、風のたよりに聞いていたに違いなかった。もはや母の身の周りには監視の眼もなく、草の庵の柴の戸ぼそは近づく者を拒まないで、誰に向っても開放されている筈であった。とすれば、定めて滋幹も心が動いたことであろうが、それでも猶しばらくは決心しかねて、ためらっていたらしい様子が見える。それは前に云ったような僻みだの含羞みだのゝせいもあろうが、その外にも、滋幹には別に何か、現実の母に会うことを恐れる気持があったのではなかろうか。 思うに、昔父の老大納言が不浄観を行じた時に、母の幻影の冒涜されることを歎いて父を恨んだ滋幹、───四十年来その人と隔絶しながら、おぼろげな記憶の中にある面影を理想的なものに作り上げて、それを胸奥に秘めて来た滋幹は、いつ迄も母を幼い折に見た姿のまゝで、思慕していたかったであろう。然るに、それから四十年の星霜を経、さま〴〵な移り変りの末に世捨て人となって佛に仕えている現在の母は、どんな風になっているであろうか。滋幹の記憶する母は、二十一二歳の髪の長い頬の豊かな貴婦人であるのに、西坂本の庵室に隠栖する尼僧の母は、すでに六十歳を越した老媼であることを思う時、滋幹の心は自然冷めたい現実の前に出ることを尻込みしなかったであろうか。彼にして見れば、永久に昔の面影を抱きしめて、あの時に聞いたやさしい声音や、甘い薫物の香や、腕の上を撫でゝ行った筆の穂先の感触や、そう云うさま〴〵な回想をなつかしみつゝ生きて行く方が、なまじ幻滅の苦杯を嘗めさせられるより、遥かに望ましいことのように思えたでもあろうか。滋幹自身は格別そう云う告白をしている訳ではないが、母が尼となってから後、なお数年の歳月が空しく過ぎたのには、多分以上のような事情があったのではなかろうかと、筆者は推測するのである。 出家した滋幹の母が住んでいた西坂本、即ち今の京都市左京区一乗寺のあたりに敦忠の山荘があったことは、拾遺集巻八雑上の部伊勢の歌に、「権中納言敦忠が西坂本の山庄の滝の岩にかきつけ侍りける」として、 音羽川せき入れて落す滝つせに 人のこゝろの見えもするかな とあるのに徴して明かで、その頃の京都の市中から馬を走らせて行く分には、左程の道のりではなかったであろう。恰も当時滋幹は、しば〳〵叡山の横川に定心房良源を訪ねて佛の教を聴いていたので、彼がもしその帰るさに道を雲母坂に取って下山したならば、つい母の住む麓の里へ出られたのであった。そして実際、彼は折々山の上から西坂本の空を眺めて恋々としたこともあり、足が知らず識らずその方へ向きかけたこともあったが、いつも自分で自分を制して、ことさら外の道を選ぶようにしていたのであった。 が、それから又何年かを経た年の春であった。横川の良源の房に一宿した滋幹は、翌日、日もたけなわの頃に房を出て、峰道から西塔、講堂を過ぎて根本中堂の四つ辻へ来た時、ふと、急に心が惹かれるようになって、雲母坂の方へ道を取った。「急に」と云うのは、その時ゆくりなくそんな気を起したと云うのではなくて、前から一度その道を行こう〳〵と思いつゝ、何となくそれを引き止めるものがあって、果たさずにいたのに、その日は春も弥生半ばで、霞の罩めた遠山のけしき、ところ〴〵の谷あいの花の雲などに誘われて、ついうか〳〵と逍遥してみたくなったのであった。そして、それには外に此れと云う目的があったのではなかったけれども、そっちの道を下って行けば西坂本へ出るのであるから、母の住む里はどんな所か、それとなく様子を探っておきたい、ぐらいなことは念頭にない訳でもなかった。 滋幹が坂路へかゝったのは、日がよう〳〵西に傾きかけた頃で、水呑峠の地蔵堂のあたりを過ぎ、音羽の滝のひゝきを耳にしながら麓に着いた時分には、いつしか空になまめかしいおぼろ月が輝き初めていた。かの壬生忠岑の歌に、 おちたぎつ滝の水上年つもり 老いにけらしな黒きすぢなし とあるのは、此の滝を詠んだのであると云うが、滝の末が音羽川と云うひとすじの流れになっており、道はその川の岸に沿うて下っているので、何心なく辿って行くと、低い籬を結いめぐらした構えの向うに、前栽の木立ちを透かして別荘風の家の見える所へ出た。滋幹は、垣根が朽ちて倒れているのを跨ぎ越え、構えの内へ二た足三足這入って行って、暫くあたりを窺っていたが、森閑として人の住んでいそうなけはいもない。東の方には比叡の峰つゞきの丘が聳え、西の方がだら〳〵と緩やかな斜面になっている地勢を占めて、池を掘り、石を据え、築山を作り、遣り水を引きなどした庭の趣は、むかしはどんなにか結構を極めていたのであろうが、今は凄じく荒れ果てゝ、地面には雑草が生いしげり、木々の幹には蔦葛の蔓が網のように絡み着いているのであった。 此のあたりは山に近い上に木立が深いので日が遠く、まして黄昏時なので、冷え〳〵とした空気が身に沁むのであったが、去年の落葉の積っているのを掻き分けながら、母屋と覚しい建物の所まで行って見ると、そこも今は廃屋になっているらしく、格子が固く鎖してあって、夕ぐれであるのに一点の灯も洩れてはいない。階に腰をおろして疲れを休めていた滋幹は、妻戸の蝶番が損じて扉が一枚外れかゝっているのに気がつき、床に上って中を覗いて見たけれども、内部は真っ暗で、黴臭い湿気の匂がするばかりである。滋幹は、以前は誰の住まいであったのかしらんと思い、或はこゝが亡き中納言の山荘ではなかったろうか、と云うことに心づいた。いかさま、中納言が逝去してからは誰も住む人がなくて、朽ちるにまかせてあるのであろうか。そうだとすれば、嘗て中納言と共に此の山荘に起き臥しゝ、中納言の死後も何処か此の近くに庵を結んでいたと云う母も、今は恐らく此の地に住んでいないのではあるまいか。いかに世を捨てたからと云って、女の身で此のような淋しい所に暮らしていられはしないであろう。………滋幹はそんなことを考えながら、耳の奥がじーんとするような静かさの中になお暫く憩うていた。その間にも四辺の暗さと寂寥さとはひし〳〵と加わって来るのであったが、一度は母が住んでいた跡かと思えば、矢張直ぐには立ち去りかねるのであった。 と、その時、梟の啼く声に交って、微かにせゝらぎの音が聞えるようなので、その音をたよりに、彼は漸く身を起して遣り水の流れに沿いながら、池を廻り、築山を越え、植込みの間をくゞって行くと、果して崖に一条の滝が懸っていた。崖の高さは七八尺もあるであろうか、急な断崖ではなくて、なだらかな勾配のところ〴〵に形の面白い石を配置し、落ちて来る水がそれらの間を屈曲しつゝ白泡立って流れるように作られてい、崖の上からは楓と松が参差と枝をさしかわしながら滝の面へ蔽いかぶさっているのであるが、蓋し此の滝は、さっきの音羽川の水を導いて来て、こゝへ堰き入れたのであろう。滋幹はそう心づくと、あの、「音羽川せき入れておとす」と云う伊勢の歌が胸に浮かんだ。なるほど、此の歌にある「滝つせ」は、此の流れを詠んだものであることは明かで、此の山荘が亡き中納言の別業の跡であることは、今は疑いを入れないのであった。 滋幹は、黄昏の色が又一段と濃さを増して、水の面さえ見分けにくゝなって来たので、こゝらあたりで引き返そうかと思いながら、なお何となく心残りが感じられるまゝに、川瀬の石を跳び越え〳〵、いつか滝の落ち口より上の方へ登って行った。もうその辺は構えの外であるらしく、泉石のたゞずまいも人為的な庭園の風情はなくて、次第に殺風景な山路になっているのであったが、ふと向うを見ると、渓川の岸の崖の上に、一本の大きな桜が、周囲にたゞよう夕闇を弾き返すようにして、爛漫と咲いているのであった。「見る人もなくてちりぬる奥山の」と云う貫之の歌は紅葉を詠じたものだけれども、かゝる時、かゝる谷あいに、人知れず春を誇っている花も亦、「夜の錦」であることに変りはない。恰もそれは、路より少し高い所に生えているので、その一本だけが、ひとり離れて聳えつゝ傘のように枝をひろげ、その立っている周辺を艶麗なほの明るさで照らしているのであった。誰でも経験することであるが、人通りのない暗い夜路などを行く時、たま〳〵美しい妙齢の女の一人歩きをしているのに出遇うと、男の人に出遇ったよりも却って無気味な恐怖に襲われる。それと同じに、こう云う無人の境にあって静かに咲き満ちている此の夕桜には、何か魔物めいた妖麗さが附き纏っているように思えて、彼は我が眼を疑いながら、左右なく近寄ろうともせず、遠くから眺め渡していた。桜のある崖は、それが殆どひとかたまりの大きな岩の苔蒸したもので、川のおもてから一丈程抽んでいるのであるが、ひとすじの細い〳〵清水が、何処からか出て来て、その崖の下をめぐって、下の渓川へ流れ落ちてい、崖の中途から一と叢の山吹の花が、清水の方へしなだれかゝっているのである。でも、そう云えばさっきから餘程の時が過ぎているのに、滋幹の彳んでいる所から、向うのこま〴〵とした景色がこんなに鮮かに見えるのは、───花が雪あかりのような作用をして、あたりの物象を暗まぎれから浮き上らせているのであろうか、───と、ちょっと滋幹はそんな気がしたが、それは花のあかりではなくて、花の上の空にかゝった月が、今しも光を増して来たのであった。土の上はしっとりと湿っていて、空気の肌ざわりはつめたいのだけれども、空は弥生のものらしくうっすらと曇って、朧々と霞んだ月が花の雲を透して照っているので、その夕桜のほの匂う谷あいの一郭が、幻じみた光線の中にあるのであった。 嘗て滋幹は幼少の折に、父の跡をつけて野路を行き、青白い月光の下で凄惨な場面を目撃したことがあったが、あれは秋の真夜中の鋭く冴えた月であって、今日のようなどんよりした、綿のように柔かく生暖かい月ではなかった。あの時の月は地上にある微細な極小物までも照らし出して、屍骸の膓にうごめいている蛆の一匹々々をも分明に識別させたのであったが、今宵の月はそこらにあるものを、たとえば糸のような清水の流れ、風もないのに散りかゝる桜の一片二片、山吹の花の黄色などを、あるがまゝに見せていながら、それらのすべてを幻燈の絵のようにぼうっとした線で縁取っていて、何か現実ばなれのした、蜃気楼のようにほんの一時空中に描き出された、眼をしばだゝくと消え失せてしまう世界のように感じさせる。……… そんな不思議な、特殊な明るさの中のことであるから、いつからそこにそう云うものがあったのか判然しないのであるが、やがて滋幹は全く思いがけない或るもの、───何か白いふわ〳〵したものが、その桜の木の下でゆらめいているのに眼が留まった。一杯に花をつけた枝の一つが、ついその上あたりまで垂れ下っているので、最初はそれに見紛うて分りにくかったのであるが、花にしては餘りに大きく白いふわ〳〵したものは、或は彼が心つく前からそこにひらめいていたのかも知れなかった。実を云うと滋幹は、それに眼を留めてから間もなく、それが非常に小柄な僧侶、───その背の低さと肩の細さから判断して恐らくは尼僧、───と推定される人物の、桜の幹に寄り添うて彳んでいるのであること、そしてその尼───かも知れない人は、年老いた僧がしば〳〵防寒用に用いるあの白い絹の帽子を、頭からすっぽり被っているので、それがあゝ云う風にゆらめいているのであることに、大体気がついていたのであったが、それでもそうと気づいた途端に、いや〳〵、これは夢なのだ、こんな所にどうして尼などがいるものか、自分は夢を見ているのか、そうでなければあの魔物じみた夕桜の妖精が現れたのだ、………と、そんな風に、内心自分の視覚の世界を否定しようとするものがあって、確かに我が眼で見つゝあるものを故意に信じまいとしていたのであった。 でも、彼がしきりに否定しようとするにも拘らず、月の面を蔽うていた雲の羅が少しずつ剥がれて行くに従い、だん〳〵とその人影は刻明になって来て、半信半疑であったものが、今は尼であることに紛れもなかった。彼女が被っている帽子は、ちょうど後世のお高祖頭巾のように首の全部を覆い隠して、肩の上まで垂れているので、顔はこゝからは分らないけれども、しょんぼり彳んで空の方を仰いでいるのは、花に見惚れているのであろうか、花の上にある月にあこがれているのであろうか。………と、尼はしずかに花の下を去って、その崖を下り始めた。そして清水のほとりに来て身をかゞめながら、手をさしのべて山吹の枝を折ろうとするのであった。 尼がそうしている間に、滋幹も亦我知らず歩みを運んでいた。彼が出来るだけ足音を忍ばせながら、そうっとうしろに近寄って行くと、尼は手折った山吹を持って立ち上り、又崖の方へ引き返そうとするところであった。いかさま、こゝへ来て見ると、その崖の上の苔の間に微かなひとすじの坂路があって、そこを登り詰めたあたりに傾きかゝった小さな門が建っているのは、多分その奥が庵室になっているのであろう。 「もし、………」 身近に人のけはいがするのに驚いた尼の、はっと此方を振り返った時に、滋幹は何かの力で背後から突かれたように尼の方へのめり出ていた。 「もし、………ひょっとしたらあなた様は、故中納言殿の母君ではいらっしゃいませんか」 と、滋幹は吃りながら云った。 「世にある時は仰っしゃる通りの者でございましたが、………あなた様は」 「わたくしは、………わたくしは、………故大納言の遺れ形身、滋幹でございます」 そして彼は、一度に堰が切れたように、 「お母さま!」 と、突然云った。尼は大きな体の男がいきなり馳せ寄ってしがみ着いたのに、よろ〳〵としながら辛うじて路ばたの岩に腰をおろした。 「お母さま」 と、滋幹はもう一度云った。彼は地上に跪いて、下から母を見上げ、彼女の膝に靠れかゝるような姿勢を取った。白い帽子の奥にある母の顔は、花を透かして来る月あかりに暈されて、可愛く、小さく、圓光を背負っているように見えた。四十年前の春の日に、几帳のかげで抱かれた時の記憶が、今歴々と蘇生って来、一瞬にして彼は自分が六七歳の幼童になった気がした。彼は夢中で母の手にある山吹の枝を払い除けながら、もっと〳〵自分の顔を母の顔に近寄せた。そして、その墨染の袖に沁みている香の匂に、遠い昔の移り香を再び想い起しながら、まるで甘えているように、母の袂で涙をあまたゝび押し拭った。 底本:「少将滋幹の母」中公文庫、中央公論新社    2006(平成18)年3月25日初版発行 底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十六巻」中央公論社    1982(昭和57)年8月25日 初出:「毎日新聞」毎日新聞社    1949(昭和24)年11月16日~1950(昭和25)年2月 ※表題は底本では、「少将滋幹の母」となっています。 入力:kompass 校正:酒井裕二 2016年2月28日作成 2017年4月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。