蒼海を望みて思ふ 柳田國男 Guide 扉 本文 目 次 蒼海を望みて思ふ 一 二 三 一  私はいつかこんな折が有つたら、御話をして見たいと思つて居たことがあります。日本が四箇の大なる島から成立つて居るやうに考へることは誤つて居る。此誤は何時の時代からか知らぬが、兎に角全國圖と云ふものゝ出來てから後の事と思ひます。恐くは又例の通り、我邦の事を外國人の本から、教へてもらつて知つた位のことでありませう。少し考へて見たら分る如く、我々の住む島は、臺灣から千島に亙つて、稍〻大きなものが五百近くあり、其過半は現に住んで居るのです。此誤は國家の成長するにつれて、自然に放任して置いても斯うなつて行くべきものだつたかも知れませぬが、今になつて囘顧して見ますと、是が現在我々の一大問題、即ち日本の世界的孤立と云ふ形勢を生じた、一原因では無かつたかと思ふのであります。  斯邦の人は、大昔土工の技術を韓人から學んだとあります。而も多くの職業は世襲祕傳でありましたので、其術が汎く一般の利益に行渡らなかつたのです。全體に雨の多い國なので、飮水に困ると云ふことは無かつたが、其代り大部分の農民は、水の害を防いで平地に安住するの方法を知らぬ前、又遠國に美田となるべき土地の在ることを、知る手段の具はらぬ時代には、川の流に沿ひ海岸から離れて、上の方へ上の方へ入らうと力めたやうであります。又地形も之を促したやうに思ひます。大阪を始めとし、今日の稍〻廣い一帶の耕作地は、歴史時代の海又は遠干潟でありました。ほんの近世に堤が出來て、稻を作り得るやうになつたのであります。  大昔の田代は必ず山々の谷に在りました。川岸を溯つて谷に入ればもう海は見えなくなる。二三代もすると海を忘れ、自ら稱して山國の者などゝ謂ひます。尤も山で取圍んだ甲斐信濃などに入りますと、實際そんな感じがします。美濃とか上州とかの人たちでも、どうも感冒がよくなほらぬ。少し海岸の空氣を吸はなければ、などゝ言つて濱邊へ出て來ます。いづくんぞ知らんやあの邊で村里にも、ちやんと海の風が吹いて居るのであります。でも海のはたへ來ると、目に見えてよくなるぢや無いかと謂ふ。それは空氣が町中のやうに濁つて居らず、魚を食つて呑氣にして居る爲で、あちらが海國で無い證據にはなりませぬ。  日本の武家は狩獵がすきであつた。是れ我々が本來の山人であつた一の證據なりと申します。然るに猪猿鹿が山の奧へ逃げ込んだのはほんの近年のことで、以前は彼等も亦海岸の住民でありました。土佐にも阿波にも備前にも、今尚鹿の住む鹿島があります。陸前の金華山や安藝の宮島は皆樣も御承知、鹿島と云ふ郡は二つ以上あつて、共に皆海岸であります。對馬には以前野猪が多くて其害に堪へなかつた。島の端から端へ木柵を作り、之を一隅に追詰めてやつと全滅させたのは江戸期の中頃の事です。三河の伊良湖岬では明治になつて、辛うじて野猪退治に成功しました。青森縣の外南部では、今でも年に幾つかの大熊を捕りますが、いづれも冬分に北海道から泳いで來るのだと申しました。是はまちがひとしても、兎も角海岸にも山あり野獸住み、狩で生活するから海の人で無いとは言はれぬのです。 二  こんな簡單なこと迄忘れてしまふ程の人々と、日本人の起原を説くのは張合ひの無い話ですが、私の言ひたいのは、少くとも船は最初の我々の友人でなければならぬと云ふことです。即ち此頃折々聞く「日本は海國」と云ふ語は、偶然かも知れぬが當つて居ます。かの神孫が御降りなされたと云ふ高千穗の二上峰、あれは日向の霧島山のことだ、或は同國西臼杵郡の高原、今謂ふ高千穗村の邊にちがひ無いと論じます。はてどちらであらうかななどゝ、首を傾けて案じて見る人はもう有りますまい。何となれば人が空から降りて來たと云ふことは、神話に過ぎぬからであります。然るに自分は先頃中の旅行に於て、古事記日本書紀には何とあらうとも、日本人の祖先が海外から移つて來たなどゝ云ふことは信ぜられぬと、きつぱり斷言した學者に出逢つたのであります。決して是は笑ひ事ではありませぬ。我々は是ほどに迄この小さい島を、更に小さく狹くして今日までは居たのであります。  所謂倭寇の時代が今すこし永く續き、我々の海の勇者が、支那の海賊船や歐羅巴の冒險船などゝ、今少し永く相撲をとつて居たならば、其結果はどうであつたらうか、興味有る問題に相違ない。が併し此調子では、大して望を囑し得られたらうとも思はれませぬ。元來人を久しく海岸の地に引留め得るものは、やはり漁業生活でありませう。ところが日本人の、少くとも中堅とも目すべき部分は、漁業者で無かつたと見えまして、今以て我國には別に漁業專門の部落が到る處に居ります。運送の如きも主として此連中が、片手わざに引受けて居たかと思はれます。是も人に由つては、舟があつて漁業が無いことがあるかと、有り得べからざるやうに思ふ人があるかも知れぬが、實際の例はいくらでも擧げ得られるのであります。  さうすると我々は、曾て久米博士などの考へられた、陸つゞきで亞細亞大陸の奧の方から、支那海岸に出て朝鮮半島の端まで大𢌞りを爲し、あの渡し場を九州北岸へ渡つたらうと云ふ説が、有力になるやうでありますが、私だけはさうは思つて居りませぬ。何となれば我々の祖先の移住土着は、山越しで無く海からでありました。幾つもの小舟でやつて來て、一度に一箇所に上陸したのでは無く、必しも皆北の海岸からで無く、寧ろ多くの場合には南に面した濱から、入つて來たらしい跡が有るからであります。即ち漁業はねつから遣らなくとも、やはり海の人であつたと考へて居るのであります。 三  さてそんならば最初どうして來たらうかに就て、三十年ほども前から、沿海の潮流などの方向に由つて、我々の出發地を考へて見ようとした人がある。紀州土佐又は日向の海岸などに、折々熱帶の植物の枝、椰子の實の生なのなどが流れ寄ることがある。自然の運搬に任せても南方の島から出た物が、終には此土へ到着する。人も斯うして此島を見出したらうかと、考へた者も多かつた。併しながら移住は到底漂着と見ることが六つかしい。九州から南の島々では、前からこんな風に信じ又は傳へて居る人もありましたが、妻子眷屬をつれて漂着して來ると云ふことは、少し想像しにくいことで、もし又計畫の下に行はれた引越しであつたとしたら、神託や夢の告に導かれたと信ずべき場合の外、通例は行く先に關する前以ての智識、即ち近ければ遙かに山の影を望み得たとか、若し又水と空との相接する外ならば、何かの機會に豫備交通をして居た處でなければならぬやうであります。  近世の長崎貿易の時代ですらも、船が大海を航走するのは年に一度の定期風の力でありました。此風を頼りにして島も見えぬ洋上に浮ぶことは、小舟の力の難しとする所であります。そこで若し計畫ある移民ならば、必や島から島へ、岬から次の岬へ、時日などには構はず、氣永に進んで行つたものと見るのが當然であります。さうなれば此國へ渡つて來る海路は一筋か二筋、北を𢌞つたとしても精々三筋しかありませぬ。即ち我々は以前此附近の、今少し小さく或は不便なる島の島人であつたと云ふことが、追々立證せられる時代が來はすまいかと思ふのであります。  英國でも此節の人類學者の中に、エリオット・スミス博士の一派などは、一寸木村鷹太郎氏と近いやうな説を立てて居ます。但し決して語音の類似、風習の一二の共通だけを、唯一の根據として居るのでは無い。先づ第一には舟と云ふ物が、よほど古い時代から、使用せられて居たことを論證し、次には移動にはたしかな目的のあつたこと、即ち或宗教上の必要から眞珠や香料を遠く求めなければならなかつたことを言ひ、更に又多くの文明の特長、例へば大巖石の工作物、太陽の崇拜、黥の風習、人を木乃伊にする技術、其他數箇條の現象が、常に組合せを以て多くの異民族の間に分布せられて居ることを説いて、此だけ込入つた文明の特色が、幾つも組合つて存在するのを、偶然の一致とは見られぬ。多分進んだ文明を持つた或民族が、舟に乘つて弘く移りあるき、此技術や考へ方を教へて去つたので、それは古代の埃及人か、さうで無ければ埃及に永く住み、十分彼の文化の影響を受けた他民族であらうと主張して居る。如何にも奇拔な説のやうでありますが、進んだ土俗學の研究の結果に基いて、段々に其證據になりさうな材料を出して來る人が多くなりました。 底本:「定本柳田國男集 第二十九巻」筑摩書房    1964(昭和39)年5月25日発行 ※底本のテキストは、著者自筆稿によります。 入力:しだひろし 校正:高江啓祐 2014年12月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。